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石橋財団コレクション選の2023年12月9日[土] - 2024年3月3日[日]開催分です。<br />石橋財団は、19世紀後半の印象派から20世紀の西洋近代絵画、明治以降の日本の近代絵画、第二次世界大戦後の抽象絵画、日本および東洋の近世・近代美術、ギリシア・ローマの美術など現在約3,000点の作品を収蔵しています。4階ではこれらコレクションの中から選りすぐりの作品をご紹介します。<br />解説はHPを参照しました。

2024.2 石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 野見山暁治

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2024/02/18 - 2024/02/18

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旅行記グループ アーティゾン美術館

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石橋財団コレクション選の2023年12月9日[土] - 2024年3月3日[日]開催分です。
石橋財団は、19世紀後半の印象派から20世紀の西洋近代絵画、明治以降の日本の近代絵画、第二次世界大戦後の抽象絵画、日本および東洋の近世・近代美術、ギリシア・ローマの美術など現在約3,000点の作品を収蔵しています。4階ではこれらコレクションの中から選りすぐりの作品をご紹介します。
解説はHPを参照しました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
新幹線

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  • 野見山暁治(1920-2023)は、長い画業のなかで具象と抽象のあいだを漂う独特の画風を確立しました。特集コーナー展示「野見山暁治」では、石橋財団が所蔵している野見山暁治の作品全7点からその魅力に迫ります。近年新たに収蔵した3点は初公開となります。

    野見山暁治(1920-2023)は、長い画業のなかで具象と抽象のあいだを漂う独特の画風を確立しました。特集コーナー展示「野見山暁治」では、石橋財団が所蔵している野見山暁治の作品全7点からその魅力に迫ります。近年新たに収蔵した3点は初公開となります。

  • 野見山暁治「タヒチ」1974年

    野見山暁治「タヒチ」1974年

  • 野見山暁治「タヒチ」

    野見山暁治「タヒチ」

  • 野見山暁治「鉱山から」1984年

    野見山暁治「鉱山から」1984年

  • 野見山暁治「風の便り」1997年

    野見山暁治「風の便り」1997年

  • 野見山暁治「あしたの場所」2008年 <br />この絵にかぎらず、一旦手を離れてしまった絵について、それらを制作したときのことはあまり覚えていないと野見山暁治は語ります。ただ、この絵は手こずることなくササッと描けたと、その印象は残っているようです。左上部、カンヴァスの地塗りの上に斜めに引かれた黒線や、中央から水平に引かれた黒線は、悠々とした伸びを見せています。本格的に絵を志して以来、油絵具での表現を基本としてきた野見山ですが、版画や絵本、本の執筆など、その活動は広範囲に及びます。そしてこの年、ステンドグラスの壁画制作に取り組み、新たな表現に挑んだのです。

    野見山暁治「あしたの場所」2008年
    この絵にかぎらず、一旦手を離れてしまった絵について、それらを制作したときのことはあまり覚えていないと野見山暁治は語ります。ただ、この絵は手こずることなくササッと描けたと、その印象は残っているようです。左上部、カンヴァスの地塗りの上に斜めに引かれた黒線や、中央から水平に引かれた黒線は、悠々とした伸びを見せています。本格的に絵を志して以来、油絵具での表現を基本としてきた野見山ですが、版画や絵本、本の執筆など、その活動は広範囲に及びます。そしてこの年、ステンドグラスの壁画制作に取り組み、新たな表現に挑んだのです。

  • 野見山暁治「予感」2006年

    野見山暁治「予感」2006年

  • 野見山暁治「かけがえのない空」2011年

    野見山暁治「かけがえのない空」2011年

  • 野見山暁治「振り返るな」2019年

    野見山暁治「振り返るな」2019年

  • 尾形光琳「孔雀立葵図屏風」江戸時代 18世紀

    尾形光琳「孔雀立葵図屏風」江戸時代 18世紀

  • 酒井抱一「芥子藪柑子図」江戸時代 19世紀

    酒井抱一「芥子藪柑子図」江戸時代 19世紀

  •  伊年印「源氏物語図 浮舟、夢浮橋」江戸時代 17世紀

    伊年印「源氏物語図 浮舟、夢浮橋」江戸時代 17世紀

  • 藤島武二「蒙古の日の出」1937年

    藤島武二「蒙古の日の出」1937年

  • 岡田三郎助「臥裸婦」1901年

    岡田三郎助「臥裸婦」1901年

  • 黒田清輝「ブレハの少女」1891年 <br />フランス留学中だった黒田清輝は、1891(明治24)年9月、友人の画家久米桂一郎、河北道介に誘われて、パリからブルターニュの海岸に浮かぶブレハ島へ写生旅行に出かけました。この島には同様の目的を持った美術家たちもいて、風光明媚な景色とともに彼らとの交流を楽しみ、「まずは西洋の極楽にござそうろう」と東京の父に書き送っています。その充実した3週間の滞在中に、少女をモデルに雇って描いたのがこの作品です。少女の鋭く強い眼差し、バラバラと乱れた髪、手に持つ黄色い布の目にしみるような鮮やかさ、左右で大きさの異なる靴、椅子に置かれた割れた碗、画面全体を覆う激しく素早い筆さばき。落ち着いた雰囲気の他の黒田作品とは異なる要素がちりばめられています。黒田の内部にうごめく情念のようなものが噴き出した表現ということができるでしょう。<br />この作品はパリで生活費に困った黒田が、画商の林忠正に譲渡します。林は黒田の前途を有望なものと確信していました。帰国した林の死後、この作品は大阪の古美術商山中商会の所有となり、その売り立てで黒田の妻照子が入手しました。照子は亡き夫の恒久的な顕彰に心を砕き、第二次大戦後になってブリヂストン美術館が開館したのち、石橋正二郎に売却します。都心の美術館で黒田作品がいつでも見られるようになることは照子の願いでした。様々な人間の思いが塗り込められた作品ということができるでしょう。

    黒田清輝「ブレハの少女」1891年
    フランス留学中だった黒田清輝は、1891(明治24)年9月、友人の画家久米桂一郎、河北道介に誘われて、パリからブルターニュの海岸に浮かぶブレハ島へ写生旅行に出かけました。この島には同様の目的を持った美術家たちもいて、風光明媚な景色とともに彼らとの交流を楽しみ、「まずは西洋の極楽にござそうろう」と東京の父に書き送っています。その充実した3週間の滞在中に、少女をモデルに雇って描いたのがこの作品です。少女の鋭く強い眼差し、バラバラと乱れた髪、手に持つ黄色い布の目にしみるような鮮やかさ、左右で大きさの異なる靴、椅子に置かれた割れた碗、画面全体を覆う激しく素早い筆さばき。落ち着いた雰囲気の他の黒田作品とは異なる要素がちりばめられています。黒田の内部にうごめく情念のようなものが噴き出した表現ということができるでしょう。
    この作品はパリで生活費に困った黒田が、画商の林忠正に譲渡します。林は黒田の前途を有望なものと確信していました。帰国した林の死後、この作品は大阪の古美術商山中商会の所有となり、その売り立てで黒田の妻照子が入手しました。照子は亡き夫の恒久的な顕彰に心を砕き、第二次大戦後になってブリヂストン美術館が開館したのち、石橋正二郎に売却します。都心の美術館で黒田作品がいつでも見られるようになることは照子の願いでした。様々な人間の思いが塗り込められた作品ということができるでしょう。

  • 青木繁「自画像」1903年 石橋財団アーティゾン美術館<br />この自画像では、暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせています。よく見ると背景には不定型な形がいくつも見えますが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられています。魔物のような暗い情念を塗り込めたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれます。

    青木繁「自画像」1903年 石橋財団アーティゾン美術館
    この自画像では、暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせています。よく見ると背景には不定型な形がいくつも見えますが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられています。魔物のような暗い情念を塗り込めたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれます。

  • 青木繁 「海の幸」1904年<br />青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。<br /> 1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

    青木繁 「海の幸」1904年
    青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。
     1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

  • 和田英作「早春(富士)」1939年

    和田英作「早春(富士)」1939年

  • ピエール・スーラージュ「作品」1947年

    ピエール・スーラージュ「作品」1947年

  • ピエール・スーラージュ「リトグラフ No.6」1957年

    ピエール・スーラージュ「リトグラフ No.6」1957年

  • アルベルト・ジャコメッティ「ディエゴの胸像」1954-55年<br />スイスの彫刻家・画家ジャコメッティは、若くしてシュルレアリスムの周辺で高い評価を受けた後、1940年代以降は主題を一変させ、人物の姿を見えるままに再現する試みに専心しました。この作品は、1951年から約4年間にわたって制作された、弟ディエゴをモデルとする肖像群の中の1点です。胸部の安定感と対照的に、首から上は頂部をなす鼻筋と唇、顎を残して肉が削ぎ落とされ、頭部の形態を把握する難しさを物語ります。結果として彫像の獲得した正面性は、見る者をおのずと正対させ、それはモデルを凝視する作家の視線をなぞることになるのです。

    アルベルト・ジャコメッティ「ディエゴの胸像」1954-55年
    スイスの彫刻家・画家ジャコメッティは、若くしてシュルレアリスムの周辺で高い評価を受けた後、1940年代以降は主題を一変させ、人物の姿を見えるままに再現する試みに専心しました。この作品は、1951年から約4年間にわたって制作された、弟ディエゴをモデルとする肖像群の中の1点です。胸部の安定感と対照的に、首から上は頂部をなす鼻筋と唇、顎を残して肉が削ぎ落とされ、頭部の形態を把握する難しさを物語ります。結果として彫像の獲得した正面性は、見る者をおのずと正対させ、それはモデルを凝視する作家の視線をなぞることになるのです。

  • アンス・アルトゥング「T1963-K7」 1963年<br />ドイツに生まれ、フランスで活動したアンス・アルトゥング(1904-1989)の名は、第二次世界大戦後まもなくパリに登場した「熱い抽象」を代表する画家のひとりとして、欧米のみならず日本でも広く知られていました。名声の頂点にあった1960年を境に、彼の制作方法は一変します。巨大なカンヴァスに生き生きとした身振りの跡を刻みつけるため、刷毛、ローラー、木の枝、ほうき、スプレーなどの多様な道具が用いられ、いっそう自由でスケールの大きな作品が生み出されました。<br /><br />

    アンス・アルトゥング「T1963-K7」 1963年
    ドイツに生まれ、フランスで活動したアンス・アルトゥング(1904-1989)の名は、第二次世界大戦後まもなくパリに登場した「熱い抽象」を代表する画家のひとりとして、欧米のみならず日本でも広く知られていました。名声の頂点にあった1960年を境に、彼の制作方法は一変します。巨大なカンヴァスに生き生きとした身振りの跡を刻みつけるため、刷毛、ローラー、木の枝、ほうき、スプレーなどの多様な道具が用いられ、いっそう自由でスケールの大きな作品が生み出されました。

  • オシップ・ザツキン「ポモナ(トルソ)」 1951年<br />オシップ・ザツキンは、ロシア出身でフランスで活躍した彫刻家。<br /><br />

    オシップ・ザツキン「ポモナ(トルソ)」 1951年
    オシップ・ザツキンは、ロシア出身でフランスで活躍した彫刻家。

  • セルジュ・ポリアコフ「コンポジション」1959年

    セルジュ・ポリアコフ「コンポジション」1959年

  • ベルナール・ビュッフェ「アナベル夫人像」1960年

    ベルナール・ビュッフェ「アナベル夫人像」1960年

  • ジョルジュ・ルオー「エルサレム」1953年

    ジョルジュ・ルオー「エルサレム」1953年

  • アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年<br />画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。

    アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年
    画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。

  • アンドレ・ドラン「女の頭部」1905年頃

    アンドレ・ドラン「女の頭部」1905年頃

  • モーリス・ド・ヴラマンク「運河船」1905-06年<br />ファン・ゴッホの作品に感化され、鮮烈な色彩と粗々しいタッチで絵を描いたヴラマンクは、マティスやドランとともにフォーヴィスム運動を牽引した画家です。ドランとはパリ郊外のシャトゥーで共同アトリエを構えるほどの仲でした。この作品はそのアトリエ周辺の景色を描いたものでしょう。前景を大胆に横切る船の水平の動きと、後景に並ぶ工場群の煙突から上る煙の垂直の動きが、生き生きとした画面を構成しています。鮮やかな原色の併置や、下地を隠さない大らかな筆づかいが特徴のこの作品は、画家のフォーヴィスム期の好例です。

    モーリス・ド・ヴラマンク「運河船」1905-06年
    ファン・ゴッホの作品に感化され、鮮烈な色彩と粗々しいタッチで絵を描いたヴラマンクは、マティスやドランとともにフォーヴィスム運動を牽引した画家です。ドランとはパリ郊外のシャトゥーで共同アトリエを構えるほどの仲でした。この作品はそのアトリエ周辺の景色を描いたものでしょう。前景を大胆に横切る船の水平の動きと、後景に並ぶ工場群の煙突から上る煙の垂直の動きが、生き生きとした画面を構成しています。鮮やかな原色の併置や、下地を隠さない大らかな筆づかいが特徴のこの作品は、画家のフォーヴィスム期の好例です。

  • 佐伯祐三「広告貼り」1927年

    佐伯祐三「広告貼り」1927年

  • シャイム・スーティン「大きな樹のある南仏風景」1924年<br />スーティンは寒村のユダヤ人家庭に生まれ、社会的差別と貧しさの中で不遇な幼少期を過ごしました。苦境から逃れるようにやって来たパリでも当初は極貧と孤独に苛まれますが、次第に画商やコレクターに才能を見出されます。彼の絵につきまとう暴力的なまでもの粗々しい色や線には、人生の苦悩や不安が滲み出ているかのようです。1923年に南仏カーニュに移り住み、その頃から構図が安定し、色彩は明るくなりました。この作品もカーニュ時代に描かれたもので、樹も道も家も激しくよじれていますが、その色調には南仏の明るい陽光が感じられます。

    シャイム・スーティン「大きな樹のある南仏風景」1924年
    スーティンは寒村のユダヤ人家庭に生まれ、社会的差別と貧しさの中で不遇な幼少期を過ごしました。苦境から逃れるようにやって来たパリでも当初は極貧と孤独に苛まれますが、次第に画商やコレクターに才能を見出されます。彼の絵につきまとう暴力的なまでもの粗々しい色や線には、人生の苦悩や不安が滲み出ているかのようです。1923年に南仏カーニュに移り住み、その頃から構図が安定し、色彩は明るくなりました。この作品もカーニュ時代に描かれたもので、樹も道も家も激しくよじれていますが、その色調には南仏の明るい陽光が感じられます。

  • 松本竣介「運河風景」1943年<br />松本竣介は1930年代から第二次大戦後にかけて、知的な操作による抒情豊かな風景画や人物画を数多く残しました。東西の古典美術を学習し、考え抜かれた静謐な画面を透明感のある描法でつくり出します。また妻禎子とともに月刊誌『雑記帳』を刊行し、様々な文章を意欲的に発表するなど、時代に翻弄されがちな画家のあるべき姿を世に問い続けました。<br />1930年代初めからジョルジュ・ルオーやアメデオ・モディリアーニ、ゲオルゲ・グロスなどの影響を受けて、青や茶色のモンタージュ風の都市風景に取り組みますが、戦火が激しくなる1940年代には、東京や?浜の気に入った風景を暗く静かな色調で繰り返し描きました。<br />この作品は、東京の新橋近くのゴミ処理場とそこを流れる汐留川にかかる蓬莱橋だと考えられています。この堀り割りは1960年代に埋め立てられてしまいましたが、「蓬莱橋」は地名として今も残っています。運河風景は、この時期の松本が最も好んで取り上げた主題のひとつでした。橋桁や建物、電柱などによる水平線、垂直線の精緻な組み合わせが画面に奥行きを与え、戦争末期の重苦しい空気と社会の置かれた状況を、私たちへ雄弁に語りかけます。人間がほとんど描かれていませんが、まさしくこの時代の人間生活や、あるいは生命を表しているともいえるでしょう。この作品は1943(昭和18)年4月に、靉光、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎らと結成した新人画会の第1回展で発表されました。

    松本竣介「運河風景」1943年
    松本竣介は1930年代から第二次大戦後にかけて、知的な操作による抒情豊かな風景画や人物画を数多く残しました。東西の古典美術を学習し、考え抜かれた静謐な画面を透明感のある描法でつくり出します。また妻禎子とともに月刊誌『雑記帳』を刊行し、様々な文章を意欲的に発表するなど、時代に翻弄されがちな画家のあるべき姿を世に問い続けました。
    1930年代初めからジョルジュ・ルオーやアメデオ・モディリアーニ、ゲオルゲ・グロスなどの影響を受けて、青や茶色のモンタージュ風の都市風景に取り組みますが、戦火が激しくなる1940年代には、東京や?浜の気に入った風景を暗く静かな色調で繰り返し描きました。
    この作品は、東京の新橋近くのゴミ処理場とそこを流れる汐留川にかかる蓬莱橋だと考えられています。この堀り割りは1960年代に埋め立てられてしまいましたが、「蓬莱橋」は地名として今も残っています。運河風景は、この時期の松本が最も好んで取り上げた主題のひとつでした。橋桁や建物、電柱などによる水平線、垂直線の精緻な組み合わせが画面に奥行きを与え、戦争末期の重苦しい空気と社会の置かれた状況を、私たちへ雄弁に語りかけます。人間がほとんど描かれていませんが、まさしくこの時代の人間生活や、あるいは生命を表しているともいえるでしょう。この作品は1943(昭和18)年4月に、靉光、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎らと結成した新人画会の第1回展で発表されました。

  • 村井正誠「子供」1952年頃

    村井正誠「子供」1952年頃

  •  山口薫「朝昼夜」1954年

    山口薫「朝昼夜」1954年

  • 児島善三郎「立つ」1928-29年

    児島善三郎「立つ」1928-29年

  • 伊原宇三郎「アルル風景」1925年

    伊原宇三郎「アルル風景」1925年

  • 駒井哲郎「版画」1958年

    駒井哲郎「版画」1958年

  • 駒井哲郎「エチュード」1959年

    駒井哲郎「エチュード」1959年

  • 山口長男「累形」1958年<br />山口長男は1938(昭和13)年、吉原治良らと二科会内部に九室会を結成し、1962年まで二科展で活躍します。日本における抽象絵画のパイオニアのひとりとして複数の国際展にも出品しました。戦前の黄、赤、青、緑などの明るい色彩表現から一転、戦後は黒い背景に朱や黄土色の丸や矩形を大きく描いた作風で知られます。東郷青児の勧めにより、支持体もカンヴァスからベニヤ板へと代わりました。この作品の表面からも、パレットナイフでぐいぐいと絵具を塗り込めた様子がうかがえます。ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館建設寄贈に対する謝意として、山口から石橋正二郎へ贈られた作品です。

    山口長男「累形」1958年
    山口長男は1938(昭和13)年、吉原治良らと二科会内部に九室会を結成し、1962年まで二科展で活躍します。日本における抽象絵画のパイオニアのひとりとして複数の国際展にも出品しました。戦前の黄、赤、青、緑などの明るい色彩表現から一転、戦後は黒い背景に朱や黄土色の丸や矩形を大きく描いた作風で知られます。東郷青児の勧めにより、支持体もカンヴァスからベニヤ板へと代わりました。この作品の表面からも、パレットナイフでぐいぐいと絵具を塗り込めた様子がうかがえます。ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館建設寄贈に対する謝意として、山口から石橋正二郎へ贈られた作品です。

  • 香月泰男「えさやり」

    香月泰男「えさやり」

  •  脇田和「古代の鳥」1974年

    脇田和「古代の鳥」1974年

  • 脇田和「鳥と彼岸花」1974年

    脇田和「鳥と彼岸花」1974年

  • 脇田和「四つの鳩舎」1974年

    脇田和「四つの鳩舎」1974年

  • 脇田和「鳥と遊ぶ子どもたち」1954年

    脇田和「鳥と遊ぶ子どもたち」1954年

  • アーティゾン美術館はゆったりと鑑賞したり、作品の写真を撮ったりできるのでいいですね。

    アーティゾン美術館はゆったりと鑑賞したり、作品の写真を撮ったりできるのでいいですね。

  •  今井俊満「キリスト」1960年

    今井俊満「キリスト」1960年

  • 菅井汲「赤い鬼」1954年<br />菅井汲は、1952(昭和27)年にフランスに渡り、当地の抽象画の影響を受けつつ、自らの日本画の技量も織り交ぜた作品を発表し、次第にパリの美術界で高い評価を与えられるようになりました。この作品では、日本古来の神話に登場する鬼や獣などのイメージを原始的で素朴な形象で、かつ詩的に表すことを試みています。地には塗壁のようなマティエールを持たせ、単純な形象が発する神話的イメージを、土俗的ながらもひょうきんに描き出しています。日本人としてのアイデンティティを作品に込め、同時代の抽象絵画の潮流と合致した、滞欧初期を代表する作品です。

    菅井汲「赤い鬼」1954年
    菅井汲は、1952(昭和27)年にフランスに渡り、当地の抽象画の影響を受けつつ、自らの日本画の技量も織り交ぜた作品を発表し、次第にパリの美術界で高い評価を与えられるようになりました。この作品では、日本古来の神話に登場する鬼や獣などのイメージを原始的で素朴な形象で、かつ詩的に表すことを試みています。地には塗壁のようなマティエールを持たせ、単純な形象が発する神話的イメージを、土俗的ながらもひょうきんに描き出しています。日本人としてのアイデンティティを作品に込め、同時代の抽象絵画の潮流と合致した、滞欧初期を代表する作品です。

  • 菅井汲「黒い雲 1962」1962年

    菅井汲「黒い雲 1962」1962年

  • 藤田嗣治「横たわる女と猫」1932年<br />新たな画業の展開を求め、藤田嗣治は1931(昭和6)年に中南米へと旅立ちました。そしてブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルーなどを周遊し、作風は、鮮やかな色彩とより写実的な描写へと大きく変化しました。この作品は、右下の署名と年記から、1932年にリオ・デ・ジャネイロで描かれたことがわかっています。しかし、この時期の特徴である鮮やかな色彩表現は見られません。むしろ乳白色の下地や繊細な線描といった、エコール・ド・パリ時代の技法を用いて、藤田の得意としたモティーフである女性と猫が描かれています。

    藤田嗣治「横たわる女と猫」1932年
    新たな画業の展開を求め、藤田嗣治は1931(昭和6)年に中南米へと旅立ちました。そしてブラジルからアルゼンチン、ボリビア、ペルーなどを周遊し、作風は、鮮やかな色彩とより写実的な描写へと大きく変化しました。この作品は、右下の署名と年記から、1932年にリオ・デ・ジャネイロで描かれたことがわかっています。しかし、この時期の特徴である鮮やかな色彩表現は見られません。むしろ乳白色の下地や繊細な線描といった、エコール・ド・パリ時代の技法を用いて、藤田の得意としたモティーフである女性と猫が描かれています。

  • 藤田嗣治「猫のいる静物」1939-40年<br />この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれました。テーブルの上に描かれた様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもあります。しかし、飛び立つ鳥や獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い背景はバロック的な明暗表現というよりも、画面の平面性を強調する役割を果たしています。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場します。

    藤田嗣治「猫のいる静物」1939-40年
    この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれました。テーブルの上に描かれた様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもあります。しかし、飛び立つ鳥や獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い背景はバロック的な明暗表現というよりも、画面の平面性を強調する役割を果たしています。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場します。

  •  長谷川潔「長谷川潔の肖像(ロベール・レイ著)のための挿絵」1963年刊

    長谷川潔「長谷川潔の肖像(ロベール・レイ著)のための挿絵」1963年刊

  • 長谷川潔「一樹(ニレの木)」1941年

    長谷川潔「一樹(ニレの木)」1941年

  • 田淵安一「孤独の山」1956年

    田淵安一「孤独の山」1956年

  • 坂本繁二郎 「放牧三馬」1932年<br />生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教え、のちに青木繁の作品収集を勧めた人物でもあります。1921(大正10)年39歳のときにパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化され、淡い色調の色面によって装飾的に表現される作風へと変わりました。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。<br /> その新しいアトリエで描かれたのがこの作品です。3頭の馬がそれぞれ正面、横、後ろに顔を向け、陽光に照らされて輝く体もそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。中央の馬の目に用いられたエメラルドグリーンが、馬の体や脚、空、地面、背景に見える木々のところどころに基調色として用いられ、画面全体を引き締めています。

    坂本繁二郎 「放牧三馬」1932年
    生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教え、のちに青木繁の作品収集を勧めた人物でもあります。1921(大正10)年39歳のときにパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化され、淡い色調の色面によって装飾的に表現される作風へと変わりました。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。
     その新しいアトリエで描かれたのがこの作品です。3頭の馬がそれぞれ正面、横、後ろに顔を向け、陽光に照らされて輝く体もそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。中央の馬の目に用いられたエメラルドグリーンが、馬の体や脚、空、地面、背景に見える木々のところどころに基調色として用いられ、画面全体を引き締めています。

  • 堂本尚郎「集中する力」1958年<br />芸術家を輩出する一族に生まれた堂本尚郎は、1952(昭和27)年、伯父の日本画家印象とともに初めてヨーロッパを旅行し、日本画から油彩画へ転向しました。1955年、27歳でパリに渡り、台頭しつつあったアンフォルメルの運動に身を投じました。第二次大戦後、力強く激しい抽象表現のうねりが世界各地に同時多発的に起きますが、アンフォルメルはその最も先鋭的な運動です。この作品は、この時期の堂本の作風を知るための典型作。内側から次々に湧き起こる動きが画面を這い回り、内と外、前と後の境をなくす渾沌とした空間が広がっています。

    堂本尚郎「集中する力」1958年
    芸術家を輩出する一族に生まれた堂本尚郎は、1952(昭和27)年、伯父の日本画家印象とともに初めてヨーロッパを旅行し、日本画から油彩画へ転向しました。1955年、27歳でパリに渡り、台頭しつつあったアンフォルメルの運動に身を投じました。第二次大戦後、力強く激しい抽象表現のうねりが世界各地に同時多発的に起きますが、アンフォルメルはその最も先鋭的な運動です。この作品は、この時期の堂本の作風を知るための典型作。内側から次々に湧き起こる動きが画面を這い回り、内と外、前と後の境をなくす渾沌とした空間が広がっています。

  • 小磯良平「二人」1954年

    小磯良平「二人」1954年

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この旅行記へのコメント (2)

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  • イメ・トラさん 2024/02/24 09:28:42
    おはようございます。
    野見山暁治さんという方は全く知りませんでした

    +mo2さんのページを開けて一目で引き付けられました。
    関西で展覧会があったときは必ず行こうと思います
    とてつもないパワーの奥に、どっしりとした安定感があるように思えるのです
    いつか見たいありがとうございました

    展覧会情報などを検索してみようと思います
    ありがとうございました

    +mo2

    +mo2さん からの返信 2024/02/25 07:48:12
    RE: おはようございます。
    イメ・トラさん、おはようございます。

    アーティゾン美術館へは、何度も行っている
    のですが、私も今回、初めて見ました(知りました)
    なんと、昨年6月までご存命(102歳)だったそうです。

    美術館で新たな作家の作品と出会えるのは楽しいですね。

    +mo2


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