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関東地方大雪の警報があった2月の3連休ですが、朝から暖かい晴天なので、1月29日から開催されているArtizon Museum 「はじまりから、いま。1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡-古代美術、印象派、そして現代へ」行ってきました。Section 3 ブリヂストン美術館のあゆみ History of the Bridgestone Museum of Art の作品紹介の続きです。<br /><br />※作品解説は、HP等より参照しています。

Artizon Museum はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡(4)ブリヂストン美術館のあゆみ②

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2022/02/11 - 2022/02/11

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旅行記グループ アーティゾン美術館

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関東地方大雪の警報があった2月の3連休ですが、朝から暖かい晴天なので、1月29日から開催されているArtizon Museum 「はじまりから、いま。1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡-古代美術、印象派、そして現代へ」行ってきました。Section 3 ブリヂストン美術館のあゆみ History of the Bridgestone Museum of Art の作品紹介の続きです。

※作品解説は、HP等より参照しています。

旅行の満足度
4.5
  • フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年<br />1886年早春、ファン・ゴッホはアントウェルペンを去り、パリに到着しました。到着後、ゴッホは弟テオとモンマルトルの丘の中腹に新たにアパルトマンを借り、同居を始めます。この作品に描かれている風車は、そのアパルトマンのすぐ近くにある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というダンス場のシンボルです。ゴッホは故郷オランダを思い起こさせるモンマルトルの風車を様々な角度から繰り返し描きました。華やかな都会の裏側のもの悲しい雰囲気がうかがえる一方で、かつてのオランダ時代のゴッホ作品には見られない明るい色彩で描かれた1点です。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年
    1886年早春、ファン・ゴッホはアントウェルペンを去り、パリに到着しました。到着後、ゴッホは弟テオとモンマルトルの丘の中腹に新たにアパルトマンを借り、同居を始めます。この作品に描かれている風車は、そのアパルトマンのすぐ近くにある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というダンス場のシンボルです。ゴッホは故郷オランダを思い起こさせるモンマルトルの風車を様々な角度から繰り返し描きました。華やかな都会の裏側のもの悲しい雰囲気がうかがえる一方で、かつてのオランダ時代のゴッホ作品には見られない明るい色彩で描かれた1点です。

  • ポール・ゴーガン 「ポン=タヴェン付近の風景」1888年<br />フランス北西部のブルターニュ地方にあるポン=タヴェンは、1860年代からフランスのみならず外国の芸術家をも惹きつけるようになりました。ゴーガンが初めてポン=タヴェンを訪れたのは1886年、38歳のときでした。この作品は、ゴーガンの2度目の滞在のときに制作されました。地面は緑で覆われて、春の訪れを感じさせるものの、ひとけのない寂しげな景色です。ポン=タヴェン郊外の「愛の森」と呼ばれる森から、アヴェン川とその対岸の柵に囲まれた牧場を望んでいます。後景にはサント=マルグリット山が見えます。

    ポール・ゴーガン 「ポン=タヴェン付近の風景」1888年
    フランス北西部のブルターニュ地方にあるポン=タヴェンは、1860年代からフランスのみならず外国の芸術家をも惹きつけるようになりました。ゴーガンが初めてポン=タヴェンを訪れたのは1886年、38歳のときでした。この作品は、ゴーガンの2度目の滞在のときに制作されました。地面は緑で覆われて、春の訪れを感じさせるものの、ひとけのない寂しげな景色です。ポン=タヴェン郊外の「愛の森」と呼ばれる森から、アヴェン川とその対岸の柵に囲まれた牧場を望んでいます。後景にはサント=マルグリット山が見えます。

  • ポール・シニャック 「コンカルノー港」1925年<br />コンカルノーは、フランス西部のブルターニュ地方の港町です。1891年の夏、シニャックは愛用のヨットに乗ってコンカルノー港からコート・ダジュールのサン=トロペへ向けて船出したことがありました。その後、シニャックはフランスの港町を訪れて水彩による旅日記を残しました。1925年に再びここを訪れた際には油彩画も制作しましたが、この作品は再訪した際に描かれたものの1点です。スーラとともに新印象主義を完成させたシニャックは、後年、点描の色点から方形のモザイク風小片の筆触へ描法を変化させ、この作品では青、ピンク、オレンジ、黄色の淡い色彩で装飾的な画面をつくり上げています。

    ポール・シニャック 「コンカルノー港」1925年
    コンカルノーは、フランス西部のブルターニュ地方の港町です。1891年の夏、シニャックは愛用のヨットに乗ってコンカルノー港からコート・ダジュールのサン=トロペへ向けて船出したことがありました。その後、シニャックはフランスの港町を訪れて水彩による旅日記を残しました。1925年に再びここを訪れた際には油彩画も制作しましたが、この作品は再訪した際に描かれたものの1点です。スーラとともに新印象主義を完成させたシニャックは、後年、点描の色点から方形のモザイク風小片の筆触へ描法を変化させ、この作品では青、ピンク、オレンジ、黄色の淡い色彩で装飾的な画面をつくり上げています。

  • ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」 1929年<br />ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。

    ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」 1929年
    ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。

  • アンリ・ルソー 「牧場」1910年<br />パリ市の税関職員だった素朴派の画家ルソーは、40歳を過ぎてから独学で絵を描き始めました。この作品はルソーの最晩年、注文によって描かれたものです。牧歌的な田園風景の中に大きな樹と2頭の牛、牧童が描かれています。木の葉一枚一枚が細密に描写される一方、遠近法やモティーフの前後関係を無視した構図は、一見稚拙でもあります。しかし雲ひとつない真っ青な空や、不自然なほど平たく広がる緑の牧草地は、平凡な風景を幻想的に見せ、独特の魅力をたたえています。この作品は、ルソーに魅せられた日本画家土田麦の旧蔵品でした。

    アンリ・ルソー 「牧場」1910年
    パリ市の税関職員だった素朴派の画家ルソーは、40歳を過ぎてから独学で絵を描き始めました。この作品はルソーの最晩年、注文によって描かれたものです。牧歌的な田園風景の中に大きな樹と2頭の牛、牧童が描かれています。木の葉一枚一枚が細密に描写される一方、遠近法やモティーフの前後関係を無視した構図は、一見稚拙でもあります。しかし雲ひとつない真っ青な空や、不自然なほど平たく広がる緑の牧草地は、平凡な風景を幻想的に見せ、独特の魅力をたたえています。この作品は、ルソーに魅せられた日本画家土田麦の旧蔵品でした。

  • アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年<br />画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。

    アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年
    画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。

  • アンリ・マティス「縞ジャケット」1914年<br />20歳を迎える画家の長女マルグリットがこの作品のモデルです。幼少時に受けた気管切開を伴う手術の傷を隠すため、ペンダントのついたリボンを首につけています。マティスは地塗りの白を残しながら、フォーヴィスムの時期を彷彿とさせる鮮やかな色彩を多様な筆致により画面に配し、軽やかにして華やかな女性像を描き出しています。帽子の格子縞、そして画題にもなっているジャケットの縦縞の描写では、色彩と線との一体化が見られ、同時期に深化していくマティスの造形的探求の成果を示しています。

    アンリ・マティス「縞ジャケット」1914年
    20歳を迎える画家の長女マルグリットがこの作品のモデルです。幼少時に受けた気管切開を伴う手術の傷を隠すため、ペンダントのついたリボンを首につけています。マティスは地塗りの白を残しながら、フォーヴィスムの時期を彷彿とさせる鮮やかな色彩を多様な筆致により画面に配し、軽やかにして華やかな女性像を描き出しています。帽子の格子縞、そして画題にもなっているジャケットの縦縞の描写では、色彩と線との一体化が見られ、同時期に深化していくマティスの造形的探求の成果を示しています。

  • ジョルジュ・ルオー「ピエロ」1925年<br />ジョルジュ・ルオーは、 ルーベンス、レンブラント以降最大の宗教画家と評され、自らも「キリスト教画家」と称していました。フォーヴィスムの画家たちと同世代で、表現主義的な作品を残しましたが、むしろ生涯独自に造形性と色彩の美しさを追求した画家でした。

    ジョルジュ・ルオー「ピエロ」1925年
    ジョルジュ・ルオーは、 ルーベンス、レンブラント以降最大の宗教画家と評され、自らも「キリスト教画家」と称していました。フォーヴィスムの画家たちと同世代で、表現主義的な作品を残しましたが、むしろ生涯独自に造形性と色彩の美しさを追求した画家でした。

  • モーリス・ド・ヴラマンク「運河船」1905-06年<br />ファン・ゴッホの作品に感化され、鮮烈な色彩と粗々しいタッチで絵を描いたヴラマンクは、マティスやドランとともにフォーヴィスム運動を牽引した画家です。ドランとはパリ郊外のシャトゥーで共同アトリエを構えるほどの仲でした。この作品はそのアトリエ周辺の景色を描いたものでしょう。前景を大胆に横切る船の水平の動きと、後景に並ぶ工場群の煙突から上る煙の垂直の動きが、生き生きとした画面を構成しています。鮮やかな原色の併置や、下地を隠さない大らかな筆づかいが特徴のこの作品は、画家のフォーヴィスム期の好例です。

    モーリス・ド・ヴラマンク「運河船」1905-06年
    ファン・ゴッホの作品に感化され、鮮烈な色彩と粗々しいタッチで絵を描いたヴラマンクは、マティスやドランとともにフォーヴィスム運動を牽引した画家です。ドランとはパリ郊外のシャトゥーで共同アトリエを構えるほどの仲でした。この作品はそのアトリエ周辺の景色を描いたものでしょう。前景を大胆に横切る船の水平の動きと、後景に並ぶ工場群の煙突から上る煙の垂直の動きが、生き生きとした画面を構成しています。鮮やかな原色の併置や、下地を隠さない大らかな筆づかいが特徴のこの作品は、画家のフォーヴィスム期の好例です。

  • ケース・ヴァン・ドンゲン「シャンゼリゼ大通り」1924-25年<br />オランダ出身のヴァン・ドンゲンはロッテルダムの美術学校で学び、20歳の頃パリへ移住しました。次第にフォーヴィスムに傾倒し、明るい色彩表現を手に入れます。第一次大戦後は肖像画家としてパリ社交界で人気を博し、この絵に見られる享楽的な都市生活や、流行のファッションに身を包んだ女性たちを優しい色彩で描きました。引き延ばされた軽やかな身体や締め付けのない新しい婦人服、自由を感じさせる赤い口紅が、開放的な雰囲気を醸し出しています。和やかな目抜き通りの情景に、両大戦間の平和な一瞬がとらえられています。

    ケース・ヴァン・ドンゲン「シャンゼリゼ大通り」1924-25年
    オランダ出身のヴァン・ドンゲンはロッテルダムの美術学校で学び、20歳の頃パリへ移住しました。次第にフォーヴィスムに傾倒し、明るい色彩表現を手に入れます。第一次大戦後は肖像画家としてパリ社交界で人気を博し、この絵に見られる享楽的な都市生活や、流行のファッションに身を包んだ女性たちを優しい色彩で描きました。引き延ばされた軽やかな身体や締め付けのない新しい婦人服、自由を感じさせる赤い口紅が、開放的な雰囲気を醸し出しています。和やかな目抜き通りの情景に、両大戦間の平和な一瞬がとらえられています。

  • モーリス・ユトリロ「サン=ドニ運河」1906-08年  <br />モーリス・ユトリロは、パリで生まれ育った、エコール・ド・パリの画家のひとりです。奔放なモデルにして画家であった母親シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれて寂しい少年時代を過ごしたことから酒にはまり、その治療のために絵を始めました。パリの街角を、独特の哀愁に満ちた情景で描き続けたことで知られています。

    モーリス・ユトリロ「サン=ドニ運河」1906-08年
    モーリス・ユトリロは、パリで生まれ育った、エコール・ド・パリの画家のひとりです。奔放なモデルにして画家であった母親シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれて寂しい少年時代を過ごしたことから酒にはまり、その治療のために絵を始めました。パリの街角を、独特の哀愁に満ちた情景で描き続けたことで知られています。

  • シャイム・スーティン「大きな樹のある南仏風景」1924年<br />スーティンは寒村のユダヤ人家庭に生まれ、社会的差別と貧しさの中で不遇な幼少期を過ごしました。苦境から逃れるようにやって来たパリでも当初は極貧と孤独に苛まれますが、次第に画商やコレクターに才能を見出されます。彼の絵につきまとう暴力的なまでもの粗々しい色や線には、人生の苦悩や不安が滲み出ているかのようです。1923年に南仏カーニュに移り住み、その頃から構図が安定し、色彩は明るくなりました。この作品もカーニュ時代に描かれたもので、樹も道も家も激しくよじれていますが、その色調には南仏の明るい陽光が感じられます。

    シャイム・スーティン「大きな樹のある南仏風景」1924年
    スーティンは寒村のユダヤ人家庭に生まれ、社会的差別と貧しさの中で不遇な幼少期を過ごしました。苦境から逃れるようにやって来たパリでも当初は極貧と孤独に苛まれますが、次第に画商やコレクターに才能を見出されます。彼の絵につきまとう暴力的なまでもの粗々しい色や線には、人生の苦悩や不安が滲み出ているかのようです。1923年に南仏カーニュに移り住み、その頃から構図が安定し、色彩は明るくなりました。この作品もカーニュ時代に描かれたもので、樹も道も家も激しくよじれていますが、その色調には南仏の明るい陽光が感じられます。

  • 藤田嗣治「猫のいる静物」1939-40年  <br />この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれました。テーブルの上に描かれた様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもあります。しかし、飛び立つ鳥や獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い背景はバロック的な明暗表現というよりも、画面の平面性を強調する役割を果たしています。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場します。

    藤田嗣治「猫のいる静物」1939-40年
    この作品は藤田嗣治が戦争の激化にともない、日本へ帰国する直前の1939(昭和14)年から40年にかけて描かれました。テーブルの上に描かれた様々な食材は、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもあります。しかし、飛び立つ鳥や獲物を狙う猫の描写は画面に動的な要素を加えており、また、黒い背景はバロック的な明暗表現というよりも、画面の平面性を強調する役割を果たしています。右隅に描かれた猫は、まるで画家の分身であるかのように頻繁に藤田の作品に登場します。

  • オシップ・ザツキン「三美神」1950年 <br />ザツキンは1909年にパリに出て、キュビスム等の前衛的な動向に接しながら、原始性や民族性の加味された独自の抽象表現を彫刻の世界で開きました。

    オシップ・ザツキン「三美神」1950年
    ザツキンは1909年にパリに出て、キュビスム等の前衛的な動向に接しながら、原始性や民族性の加味された独自の抽象表現を彫刻の世界で開きました。

  • 浅井忠「グレーの洗濯場」1901年<br />浅井忠は、江戸の木挽町にあった佐倉藩士の家の長男として生まれました。日本で初めての官立の美術教育機関となった工部美術学校で、イタリアから招聘されたフォンタネージに師事し、本格的な西洋美術の教育を受けました。バルビゾン派の系譜にあるフォンタネージの指導により、浅井は自然や田園風景を舞台に農作業などの労働にいそしむ人々への賞賛を作品に込めて描きました。<br /> 浅井は1900(明治33)年のパリ万博を機に、44歳になる年に初めてフランスに渡りました。この作品は浅井が留学中に訪れたパリ郊外の村グレー=シュル=ロワンで描いたもので、滞欧期の代表作です。グレーはフォンテーヌブローの森近くにある川沿いの村で、今も古い橋や城館、教会といった建築物が残る歴史的な土地です。浅井の他に黒田清輝や和田英作、北欧や北米からも多くの芸術家が集い、芸術家村を形成していました。浅井は2年間の留学中、4度グレーを訪れ、日本人としては最も多くこの地を描いたといわれています。この作品は1901年10月、浅井の4度目のグレー訪問の際に描かれました。洗濯婦という労働者に視線を向ける一方で、画家の関心はむしろ水の反映や光の描写に寄せられています。グレーの地で新たな境地を見出した浅井は、穏やかな光に包まれた、色彩溢れる美しい風景画を数多く制作しました。

    浅井忠「グレーの洗濯場」1901年
    浅井忠は、江戸の木挽町にあった佐倉藩士の家の長男として生まれました。日本で初めての官立の美術教育機関となった工部美術学校で、イタリアから招聘されたフォンタネージに師事し、本格的な西洋美術の教育を受けました。バルビゾン派の系譜にあるフォンタネージの指導により、浅井は自然や田園風景を舞台に農作業などの労働にいそしむ人々への賞賛を作品に込めて描きました。
     浅井は1900(明治33)年のパリ万博を機に、44歳になる年に初めてフランスに渡りました。この作品は浅井が留学中に訪れたパリ郊外の村グレー=シュル=ロワンで描いたもので、滞欧期の代表作です。グレーはフォンテーヌブローの森近くにある川沿いの村で、今も古い橋や城館、教会といった建築物が残る歴史的な土地です。浅井の他に黒田清輝や和田英作、北欧や北米からも多くの芸術家が集い、芸術家村を形成していました。浅井は2年間の留学中、4度グレーを訪れ、日本人としては最も多くこの地を描いたといわれています。この作品は1901年10月、浅井の4度目のグレー訪問の際に描かれました。洗濯婦という労働者に視線を向ける一方で、画家の関心はむしろ水の反映や光の描写に寄せられています。グレーの地で新たな境地を見出した浅井は、穏やかな光に包まれた、色彩溢れる美しい風景画を数多く制作しました。

  • 黒田清輝 「針仕事」1890年<br />法律を学ぶためにパリへ留学した黒田清輝は、画家山本芳翠らに勧められて洋画家に転向します。伝統的なアカデミズムと新しい外光表現を合わせ持つラファエル・コランに師事し、サロンに入選するまでの技量を身につけました。28歳で帰国した後は、洋画壇に新風を吹き込み、有力な旧薩摩藩士の嫡男という出自もあって、招かれて東京美術学校に新設された西洋画科を率いることとなります。西洋の絵画学習法や主題の選び方など美術にかかわる基本的枠組みを日本に移入しようと心がけ、明治期後半の美術界に大きな役割を果たしました。<br /> この作品は、留学中のフランスで描かれました。黒田はパリの南東70kmにある小村グレー=シュル= ロワンを愛してしばしば滞在し、都会から離れ自然と人間生活が調和し、多くの外国人美術家を惹きつけたこの村で、肩肘の張らないのびのびとした作品を数多く残しています。窓辺で無心に針仕事にいそしむ女性は、黒田が部屋を借りていた農家の娘、当時19歳のマリア・ビヨーです。マリアはたびたび黒田のモデルをつとめ、画家に様々なインスピレーションを与えました。窓から差し込む光がマリアの体を包み込み、画面全体をやわらかくほぐしていて、当時の黒田が光の扱い方に取り組んでいたことを教えてくれます。また、後年まで黒田が好んだ、労働する女性という主題の萌芽を見つけることもできるでしょう。

    黒田清輝 「針仕事」1890年
    法律を学ぶためにパリへ留学した黒田清輝は、画家山本芳翠らに勧められて洋画家に転向します。伝統的なアカデミズムと新しい外光表現を合わせ持つラファエル・コランに師事し、サロンに入選するまでの技量を身につけました。28歳で帰国した後は、洋画壇に新風を吹き込み、有力な旧薩摩藩士の嫡男という出自もあって、招かれて東京美術学校に新設された西洋画科を率いることとなります。西洋の絵画学習法や主題の選び方など美術にかかわる基本的枠組みを日本に移入しようと心がけ、明治期後半の美術界に大きな役割を果たしました。
     この作品は、留学中のフランスで描かれました。黒田はパリの南東70kmにある小村グレー=シュル= ロワンを愛してしばしば滞在し、都会から離れ自然と人間生活が調和し、多くの外国人美術家を惹きつけたこの村で、肩肘の張らないのびのびとした作品を数多く残しています。窓辺で無心に針仕事にいそしむ女性は、黒田が部屋を借りていた農家の娘、当時19歳のマリア・ビヨーです。マリアはたびたび黒田のモデルをつとめ、画家に様々なインスピレーションを与えました。窓から差し込む光がマリアの体を包み込み、画面全体をやわらかくほぐしていて、当時の黒田が光の扱い方に取り組んでいたことを教えてくれます。また、後年まで黒田が好んだ、労働する女性という主題の萌芽を見つけることもできるでしょう。

  • 山下新太郎「読書」1908年 <br />山下新太郎は東京美術学校を飛び級で卒業後、1905(明治38)年にフランスへ留学しました。ベラスケスに深く傾倒し、その結果、陰影が強調され色彩が暗く沈み込んでしまうことに悩みます。その影響から脱しようと色彩研究を進め、読書する女性をモデルに3つの作品を描きました。この作品はそのうちのひとつで、1908年の秋にソルボンヌ大学近くの部屋を借りて制作され、翌年5月のサロンに入選しました。開け放たれた窓辺で、穏やかな日の光に包まれ読書する女性が描かれています。明るく美しい色彩のコントラストが見事な作品です。

    山下新太郎「読書」1908年
    山下新太郎は東京美術学校を飛び級で卒業後、1905(明治38)年にフランスへ留学しました。ベラスケスに深く傾倒し、その結果、陰影が強調され色彩が暗く沈み込んでしまうことに悩みます。その影響から脱しようと色彩研究を進め、読書する女性をモデルに3つの作品を描きました。この作品はそのうちのひとつで、1908年の秋にソルボンヌ大学近くの部屋を借りて制作され、翌年5月のサロンに入選しました。開け放たれた窓辺で、穏やかな日の光に包まれ読書する女性が描かれています。明るく美しい色彩のコントラストが見事な作品です。

  • 藤島武二「天平の面影」1902年<br />藤島武二は、明治30年代から昭和10年代まで日本の洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家です。<br /> 30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。

    藤島武二「天平の面影」1902年
    藤島武二は、明治30年代から昭和10年代まで日本の洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家です。
     30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。

  • 藤島武二「黒扇」 1908-09年<br />現在、藤島武二のローマ時代の代表作として広く知られた作品ですが、発表されたのは画家の最晩年のことです。画室の奥深く、中二階へ上がる階段の裏にカンヴァスのまま長く鋲で留められていたといいます。病床にあった藤島の代わりに弟子の小堀四郎が取り出し、木枠に張ってニスを塗ったところきれいな画面が蘇って、藤島がとても喜んだという逸話が伝えられます。なぜ人に見せようとしなかったのかは、モデルと画家の特別なかかわりなど、私たちに様々な想像をかき立てさせますが、その理由はよくわかりません。<br /> まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。

    藤島武二「黒扇」 1908-09年
    現在、藤島武二のローマ時代の代表作として広く知られた作品ですが、発表されたのは画家の最晩年のことです。画室の奥深く、中二階へ上がる階段の裏にカンヴァスのまま長く鋲で留められていたといいます。病床にあった藤島の代わりに弟子の小堀四郎が取り出し、木枠に張ってニスを塗ったところきれいな画面が蘇って、藤島がとても喜んだという逸話が伝えられます。なぜ人に見せようとしなかったのかは、モデルと画家の特別なかかわりなど、私たちに様々な想像をかき立てさせますが、その理由はよくわかりません。
     まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。

  • 青木繁 「海の幸」1904年<br />青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。<br /> 1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

    青木繁 「海の幸」1904年
    青木繁は、美術と文学が交感しあいロマン主義が勃興した時代を代表する画家です。28歳で夭折する生涯は、この時代の先端を駆け抜けたものといえるでしょう。
     1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの《海の幸》です。後年、坂本は、自分が目にした大漁陸揚げの様子を宿に帰って青木に話したところ、翌日からこの作品の制作に取り掛かった、と証言しています。坂本は実際の漁港の情景とはまったく異なるものだと語っていますが、目撃談だけからこうしたイメージを思い浮かべてしまうところに、青木の想像力と創造力のきらめきがよく表れています。

  • 青木繁 「わだつみのいろこの宮」1907年<br />読書家だった青木繁は内外の神話を広く読みあさり、その中から特に日本神話に取材した作品をいくつも残しました。この作品も『古事記』から取られています。兄の海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、それを探し求めて海底に下りていきます。すると「魚鱗のごとく造れる」海神綿津見の宮殿があり、その入り口に井戸を見つけました。水を汲みに宮殿から出て来た侍女が桂樹にすわる山幸彦に気づき、海神の娘、豊玉姫を呼びます。山幸彦と視線を交わす左の赤い衣が豊玉姫、右の白い衣が侍女です。やがて山幸彦と豊玉姫は結ばれて、2人の間に生まれた男児が天皇家の祖となります。

    青木繁 「わだつみのいろこの宮」1907年
    読書家だった青木繁は内外の神話を広く読みあさり、その中から特に日本神話に取材した作品をいくつも残しました。この作品も『古事記』から取られています。兄の海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、それを探し求めて海底に下りていきます。すると「魚鱗のごとく造れる」海神綿津見の宮殿があり、その入り口に井戸を見つけました。水を汲みに宮殿から出て来た侍女が桂樹にすわる山幸彦に気づき、海神の娘、豊玉姫を呼びます。山幸彦と視線を交わす左の赤い衣が豊玉姫、右の白い衣が侍女です。やがて山幸彦と豊玉姫は結ばれて、2人の間に生まれた男児が天皇家の祖となります。

  • 坂本繁二郎 「帽子を持てる女」1923年<br />坂本繁二郎は、1921(大正10)年、39歳で渡仏しました。当初はシャルル・ゲランの画塾アカデミー・コラロッシへ通いましたが、半年ほどで辞め、1924年帰国の途につくまで制作に専念しました。牛や馬、月や静物を題材とする作品でよく知られますが、滞欧中は人物画も多く手がけました。<br /> この作品のモデルは襟元の広くあいた上衣をまとい、つばの大きな帽子を携え、安定感のある姿に仕上げられています。胸元のボタンと帽子の円形が呼応するリズムとなり、下方より上方へ、帽子、ボタン、左目、さらにはモデルの視線の行先を見る者に意識させ、空間の広がりを感じさせます。髪の毛、衣服、帽子と全体に茶色を基調とした落ち着いた装いですが、衣服に施された色面はその色調により互いにひき立てあっています。その中の一色エメラルドグリーンが背景にも用いられ、画面全体は明るい印象です。

    坂本繁二郎 「帽子を持てる女」1923年
    坂本繁二郎は、1921(大正10)年、39歳で渡仏しました。当初はシャルル・ゲランの画塾アカデミー・コラロッシへ通いましたが、半年ほどで辞め、1924年帰国の途につくまで制作に専念しました。牛や馬、月や静物を題材とする作品でよく知られますが、滞欧中は人物画も多く手がけました。
     この作品のモデルは襟元の広くあいた上衣をまとい、つばの大きな帽子を携え、安定感のある姿に仕上げられています。胸元のボタンと帽子の円形が呼応するリズムとなり、下方より上方へ、帽子、ボタン、左目、さらにはモデルの視線の行先を見る者に意識させ、空間の広がりを感じさせます。髪の毛、衣服、帽子と全体に茶色を基調とした落ち着いた装いですが、衣服に施された色面はその色調により互いにひき立てあっています。その中の一色エメラルドグリーンが背景にも用いられ、画面全体は明るい印象です。

  • 坂本繁二郎 「放牧三馬」1932年<br />生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教え、のちに青木繁の作品収集を勧めた人物でもあります。1921(大正10)年39歳のときにパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化され、淡い色調の色面によって装飾的に表現される作風へと変わりました。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。<br /> その新しいアトリエで描かれたのがこの作品です。3頭の馬がそれぞれ正面、横、後ろに顔を向け、陽光に照らされて輝く体もそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。中央の馬の目に用いられたエメラルドグリーンが、馬の体や脚、空、地面、背景に見える木々のところどころに基調色として用いられ、画面全体を引き締めています。

    坂本繁二郎 「放牧三馬」1932年
    生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教え、のちに青木繁の作品収集を勧めた人物でもあります。1921(大正10)年39歳のときにパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化され、淡い色調の色面によって装飾的に表現される作風へと変わりました。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。
     その新しいアトリエで描かれたのがこの作品です。3頭の馬がそれぞれ正面、横、後ろに顔を向け、陽光に照らされて輝く体もそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。中央の馬の目に用いられたエメラルドグリーンが、馬の体や脚、空、地面、背景に見える木々のところどころに基調色として用いられ、画面全体を引き締めています。

  • 川上涼花「麦秋」1919年  <br />川上涼花は大正期の東京で、岸田劉生らと共に若手芸術家が集うフュウザン会の中心的人物として活躍しました。しかし結核のため34歳という若さでこの世を去り、戦災でほとんどの作品が焼けてしまったため、現在その名を知る人は多くありません。《麦秋》は、涼花の友人で実業家であり、美術コレクターでもあった酒井億尋により当館に寄贈されました。酒井によれば「中野の仙人」と呼ばれた涼花の暮らしぶりは、非常に真面目で慎み深く、音もなく流れる小川のような静けさであったと言います。東中野にアトリエを構えてからは、周辺の風景を題材にたくさんの木炭画を制作しました。経済的な事情から始めたとされる木炭画ですが、色のない世界で自然描写や生命の表現を研究した涼花は、新たな作風へと展開していきます。《麦秋》はそのような時期に描かれた、数少ない貴重な油彩画のひとつです。<br /> この作品は短い筆致を重ねて描く筆触分割の手法が用いられています。同じような描き方は、ゴッホ風と評される《鉄路》にも見られますが、色彩が混ざり合うように複雑に重ねられている《鉄路》(1912年、東京国立近代美術館蔵)に対し、《麦秋》では対象をより抽象的に捉え、筆の動きも抑制されています。そのためゴッホ風というよりむしろ、鮮やかな色彩と大胆な点描表現で構成された初期のフォーヴィスム絵画や、あるいは自然を単純化して描写するセザンヌの影響が感じられます。<br /> 涼花が晩年最も傾倒したのはセザンヌであったと言われています。日本で初めてセザンヌの油彩作品が展示され一般に公開されたのは、1921年のことです。そのときすでに病床にあった涼花は、セザンヌの実作品をその眼で見ることを切望していましたが、ついに叶うことはありませんでした。当館所蔵のセザンヌ《帽子をかぶった自画像》(fig.2)は、雑誌『白樺』の同人であった武者小路実篤らの尽力により日本にもたらされ、まさにこのとき東京、京橋で開かれた白樺美術館第1回展に出品された作品です。

    川上涼花「麦秋」1919年
    川上涼花は大正期の東京で、岸田劉生らと共に若手芸術家が集うフュウザン会の中心的人物として活躍しました。しかし結核のため34歳という若さでこの世を去り、戦災でほとんどの作品が焼けてしまったため、現在その名を知る人は多くありません。《麦秋》は、涼花の友人で実業家であり、美術コレクターでもあった酒井億尋により当館に寄贈されました。酒井によれば「中野の仙人」と呼ばれた涼花の暮らしぶりは、非常に真面目で慎み深く、音もなく流れる小川のような静けさであったと言います。東中野にアトリエを構えてからは、周辺の風景を題材にたくさんの木炭画を制作しました。経済的な事情から始めたとされる木炭画ですが、色のない世界で自然描写や生命の表現を研究した涼花は、新たな作風へと展開していきます。《麦秋》はそのような時期に描かれた、数少ない貴重な油彩画のひとつです。
     この作品は短い筆致を重ねて描く筆触分割の手法が用いられています。同じような描き方は、ゴッホ風と評される《鉄路》にも見られますが、色彩が混ざり合うように複雑に重ねられている《鉄路》(1912年、東京国立近代美術館蔵)に対し、《麦秋》では対象をより抽象的に捉え、筆の動きも抑制されています。そのためゴッホ風というよりむしろ、鮮やかな色彩と大胆な点描表現で構成された初期のフォーヴィスム絵画や、あるいは自然を単純化して描写するセザンヌの影響が感じられます。
     涼花が晩年最も傾倒したのはセザンヌであったと言われています。日本で初めてセザンヌの油彩作品が展示され一般に公開されたのは、1921年のことです。そのときすでに病床にあった涼花は、セザンヌの実作品をその眼で見ることを切望していましたが、ついに叶うことはありませんでした。当館所蔵のセザンヌ《帽子をかぶった自画像》(fig.2)は、雑誌『白樺』の同人であった武者小路実篤らの尽力により日本にもたらされ、まさにこのとき東京、京橋で開かれた白樺美術館第1回展に出品された作品です。

  • 中村彝「自画像」1909-10年<br /> この作品は、彝が22歳の頃に描いた自画像です。画面に対してやや斜めに構え、画家の額を頭上からの光が強く照らし出すという構図は、レンブラントの自画像からの強い影響を示しています。この作品は描かれた表情から「にがむし」というあだ名がついたとされていますが、レンブラント初期の自画像にも故意に表情をゆがめたものがしばしば見受けられます。友人で彫刻家の中原悌二郎の回想によれば、彝は1909(明治42)年頃丸善で高<br />額のレンブラントの画集を購入し、手垢で真っ黒になる程繰り返し眺めて研究していたといいます。彝はこの時期レンブラント風の自画像を複数制作しており、この作品はそれら一連の集大成ともいえる高い完成度を示しています。彝自身にとっても、自ら書簡の中で「私の代表的のもの」と語るほどの自信作でした。この作品は1910年の第4回文展に出品され、三等賞を受賞した印象派風の《海辺の村(白壁の家)》(1910年、東京国立博物館)とともに入選を果たしました。

    中村彝「自画像」1909-10年
     この作品は、彝が22歳の頃に描いた自画像です。画面に対してやや斜めに構え、画家の額を頭上からの光が強く照らし出すという構図は、レンブラントの自画像からの強い影響を示しています。この作品は描かれた表情から「にがむし」というあだ名がついたとされていますが、レンブラント初期の自画像にも故意に表情をゆがめたものがしばしば見受けられます。友人で彫刻家の中原悌二郎の回想によれば、彝は1909(明治42)年頃丸善で高
    額のレンブラントの画集を購入し、手垢で真っ黒になる程繰り返し眺めて研究していたといいます。彝はこの時期レンブラント風の自画像を複数制作しており、この作品はそれら一連の集大成ともいえる高い完成度を示しています。彝自身にとっても、自ら書簡の中で「私の代表的のもの」と語るほどの自信作でした。この作品は1910年の第4回文展に出品され、三等賞を受賞した印象派風の《海辺の村(白壁の家)》(1910年、東京国立博物館)とともに入選を果たしました。

  • 小出楢重 「帽子をかぶった自画像」1924年<br />1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

    小出楢重 「帽子をかぶった自画像」1924年
    1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

  • 安井曾太郎「薔薇」1932年<br />フランスから帰国後、安井曾太郎は風土や光線、モデル、あるいは美術をめぐる社会制度の違いからか、思うように絵を描けなくなるスランプに陥ります。約15年間の苦闘の末にたどり着いたのが、のちに「安井様式」といわれる、明確な輪郭で形をとり、メリハリの効いた色彩で面を重ね、黒を効果的に使って色彩を引き立てていくスタイルです。1929(昭和4)年頃にまず人物画でその様式は花開きますが、まもなく静物画でも使いこなすようになります。漆黒を背景とし、伊万里の花瓶に生けられた薔薇が匂い立つようなこの絵は、その最初期の典型作です。

    安井曾太郎「薔薇」1932年
    フランスから帰国後、安井曾太郎は風土や光線、モデル、あるいは美術をめぐる社会制度の違いからか、思うように絵を描けなくなるスランプに陥ります。約15年間の苦闘の末にたどり着いたのが、のちに「安井様式」といわれる、明確な輪郭で形をとり、メリハリの効いた色彩で面を重ね、黒を効果的に使って色彩を引き立てていくスタイルです。1929(昭和4)年頃にまず人物画でその様式は花開きますが、まもなく静物画でも使いこなすようになります。漆黒を背景とし、伊万里の花瓶に生けられた薔薇が匂い立つようなこの絵は、その最初期の典型作です。

  • 岸田劉生 「麗子像」1922年<br />岸田劉生は1918年の《麗子肖像(麗子五歳之像)》(東京国立近代美術館)に始まり、娘をモデルにした作品を繰り返し描きました。この作品は、左上の署名と年記から1922年、麗子が7歳のときのものであることがわかります。モデルをつとめていたときにちょうど風邪をひいていたため、麗子の首には白い布が巻かれています。この作品はテンペラを使って描かれており、水彩とも油彩とも違った独特の風合いが感じられます。劉生自身も仕上がりに満足したようで、当時の日記にも「一寸面白く出来た」と記しています。白樺派の詩人木下利玄の旧蔵作品です。

    岸田劉生 「麗子像」1922年
    岸田劉生は1918年の《麗子肖像(麗子五歳之像)》(東京国立近代美術館)に始まり、娘をモデルにした作品を繰り返し描きました。この作品は、左上の署名と年記から1922年、麗子が7歳のときのものであることがわかります。モデルをつとめていたときにちょうど風邪をひいていたため、麗子の首には白い布が巻かれています。この作品はテンペラを使って描かれており、水彩とも油彩とも違った独特の風合いが感じられます。劉生自身も仕上がりに満足したようで、当時の日記にも「一寸面白く出来た」と記しています。白樺派の詩人木下利玄の旧蔵作品です。

  • 佐伯祐三「テラスの広告」1927年  <br />佐伯祐三のアトリエから程近い、ポール・ロワイヤル通り周辺のカフェを描いた作品です。右上の?UZO SAHEKI/ A PARIS/ NOV 27/ HOTEL DU MARCHE?という文字から、この作品は2度目のフランス滞在時期である1927(昭和2)年の11月に制作されたことがわかります。画面を踊るいくつもの黒い文字は、作品全体の中で装飾的に再構成され、画面に動きを与える要素として重要な役割を果たしています。この作品は、佐伯の没後開かれた1929年の第4回一九三〇年協会展の特別陳列に出品されま

    佐伯祐三「テラスの広告」1927年
    佐伯祐三のアトリエから程近い、ポール・ロワイヤル通り周辺のカフェを描いた作品です。右上の?UZO SAHEKI/ A PARIS/ NOV 27/ HOTEL DU MARCHE?という文字から、この作品は2度目のフランス滞在時期である1927(昭和2)年の11月に制作されたことがわかります。画面を踊るいくつもの黒い文字は、作品全体の中で装飾的に再構成され、画面に動きを与える要素として重要な役割を果たしています。この作品は、佐伯の没後開かれた1929年の第4回一九三〇年協会展の特別陳列に出品されま

  • 関根正二 「子供」1919年<br />貧しい職人の家に生まれた関根正二は、印刷会社などで働きながらほぼ独学で絵を学びました。早くも16歳で画壇にデビューしますが、20歳2カ月で病気により亡くなるまで、画家としての生活は4年間しか与えられませんでした。画材に恵まれなかった上に、震災や戦災で失われた作品も多く、現在、油彩画は約30点しか残されていません。この作品は、亡くなる数カ月前に描かれた、現存する最後のもの。描かれているのは14歳下の末弟武男だと考えられます。遠くを見つめる少年の眼差しには、死を前にした画家の生命への希求が感じられます。

    関根正二 「子供」1919年
    貧しい職人の家に生まれた関根正二は、印刷会社などで働きながらほぼ独学で絵を学びました。早くも16歳で画壇にデビューしますが、20歳2カ月で病気により亡くなるまで、画家としての生活は4年間しか与えられませんでした。画材に恵まれなかった上に、震災や戦災で失われた作品も多く、現在、油彩画は約30点しか残されていません。この作品は、亡くなる数カ月前に描かれた、現存する最後のもの。描かれているのは14歳下の末弟武男だと考えられます。遠くを見つめる少年の眼差しには、死を前にした画家の生命への希求が感じられます。

  • 古賀春江 「素朴な月夜」1929年<br />古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画会研究所で学びます。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名としました。宗教大学(現・大正大学)にも一時通いましたが、1918年に辞め、その後は画業に専念します。1922年の二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現へと転じました。<br /> 1929(昭和4)年、古賀はこの作品を含む5点を第16回二科展へ出品しました。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機。卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているかのようです。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない不思議な世界が広がります。脈絡のないモティーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術の新潮流シュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品作とともにその作風は注目を集めました。

    古賀春江 「素朴な月夜」1929年
    古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画会研究所で学びます。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名としました。宗教大学(現・大正大学)にも一時通いましたが、1918年に辞め、その後は画業に専念します。1922年の二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現へと転じました。
     1929(昭和4)年、古賀はこの作品を含む5点を第16回二科展へ出品しました。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機。卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているかのようです。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない不思議な世界が広がります。脈絡のないモティーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術の新潮流シュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品作とともにその作風は注目を集めました。

  • パブロ・ピカソ「女の顔」1923年<br />青の時代、バラ色の時代、キュビスムの時代など、ピカソは生涯を通じて次々と画風を展開していきました。そして第一次大戦開戦後、ピカソはそれまでの革新的なキュビスムとは一変して、古典的な作風に回帰します。この新古典主義の時代と呼ばれる様式への大胆な転換は、世間を驚かせました。しかし実際には、1920年代前半頃まで総合的キュビスムと呼ばれる様式が共存し、ピカソは主題やモティーフによって、異なる2つの表現様式を自在<br />に使い分けていました。<br /> この作品は、鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれ、小品ながら明朗な力強さを持ち、新古典主義時代の特徴をよく表しています。また、作品に用いられた絵具には砂が混ぜ込まれ、まるで古代の彫刻や浮彫のような質感と荘厳さを感じさせます。モデルについては諸説あり、妻のオルガであるとも、当時親しく交流していた画家ジェラルド・マーフィーの妻サラであるともいわれています。しかし、新古典主義の時代にあって、特定の人物の肖像画というよりも、むしろ普遍的な美しさを讃えた女性像としての要素が重視されていることは明らかでしょう。この作品は、美術評論家でコレクターの福島繁太郎がパリで購入し、戦前に日本にもたらされました。石橋正二郎が特に愛した作品で、1952年の開館記念展のポスターやカタログの表紙にもなった、いわば石橋コレクションの「顔」ともいえる作品です

    パブロ・ピカソ「女の顔」1923年
    青の時代、バラ色の時代、キュビスムの時代など、ピカソは生涯を通じて次々と画風を展開していきました。そして第一次大戦開戦後、ピカソはそれまでの革新的なキュビスムとは一変して、古典的な作風に回帰します。この新古典主義の時代と呼ばれる様式への大胆な転換は、世間を驚かせました。しかし実際には、1920年代前半頃まで総合的キュビスムと呼ばれる様式が共存し、ピカソは主題やモティーフによって、異なる2つの表現様式を自在
    に使い分けていました。
     この作品は、鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれ、小品ながら明朗な力強さを持ち、新古典主義時代の特徴をよく表しています。また、作品に用いられた絵具には砂が混ぜ込まれ、まるで古代の彫刻や浮彫のような質感と荘厳さを感じさせます。モデルについては諸説あり、妻のオルガであるとも、当時親しく交流していた画家ジェラルド・マーフィーの妻サラであるともいわれています。しかし、新古典主義の時代にあって、特定の人物の肖像画というよりも、むしろ普遍的な美しさを讃えた女性像としての要素が重視されていることは明らかでしょう。この作品は、美術評論家でコレクターの福島繁太郎がパリで購入し、戦前に日本にもたらされました。石橋正二郎が特に愛した作品で、1952年の開館記念展のポスターやカタログの表紙にもなった、いわば石橋コレクションの「顔」ともいえる作品です

  • 石橋正二郎氏は、1950年、1953年、1956年、1962年と4度欧米各地を訪れ、美術館・博物館を視察しているそうです。

    石橋正二郎氏は、1950年、1953年、1956年、1962年と4度欧米各地を訪れ、美術館・博物館を視察しているそうです。

  • ポール・シニャック「ラ・ロシェル」<br />石橋正二郎氏による最初期の西洋絵画コレクションです。<br />

    ポール・シニャック「ラ・ロシェル」
    石橋正二郎氏による最初期の西洋絵画コレクションです。

  • 藤島武二「浪(大洗)」1931年  <br />こちらは、石橋正二郎氏が作家に直接交渉を繰り返し、ようやく入手したもので、両者が親しくなる機縁となったとされる作品です。

    藤島武二「浪(大洗)」1931年
    こちらは、石橋正二郎氏が作家に直接交渉を繰り返し、ようやく入手したもので、両者が親しくなる機縁となったとされる作品です。

  • 清水多嘉示「石橋正二郎像」1868年

    清水多嘉示「石橋正二郎像」1868年

    アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • 宮本三郎「石橋正二郎氏像」1969-70年

    宮本三郎「石橋正二郎氏像」1969-70年

  • トマス・ゲインズバラ「婦人像」<br /><br />

    トマス・ゲインズバラ「婦人像」

  • アレクサドル・ケルティ「金鶏鳥」

    アレクサドル・ケルティ「金鶏鳥」

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