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DUMB TYPE/ダムタイプ「2022:remap」の展示帰国展が開催されているアーティゾン美術館では、「アートを楽しむ ― 見る、感じる、学ぶ」展と「石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 画家の手紙」展という2つの展覧会も同時開催されていました。<br />ダムタイプの展覧会はバリバリの現代アートの文脈での展覧会ですが、同時開催の2つの展覧会は啓蒙的な、アートに親しんでもらおう、アーティゾン美術館の所蔵する作品を観てもらおうという展覧会で、同行した妹や甥っ子のともちゃんも楽しんでいました。

アーティゾン美術館:アートを楽しむ ー見る、感じる、学ぶ

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2023/05/03 - 2023/05/03

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旅行記グループ アーティゾン美術館

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DUMB TYPE/ダムタイプ「2022:remap」の展示帰国展が開催されているアーティゾン美術館では、「アートを楽しむ ― 見る、感じる、学ぶ」展と「石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 画家の手紙」展という2つの展覧会も同時開催されていました。
ダムタイプの展覧会はバリバリの現代アートの文脈での展覧会ですが、同時開催の2つの展覧会は啓蒙的な、アートに親しんでもらおう、アーティゾン美術館の所蔵する作品を観てもらおうという展覧会で、同行した妹や甥っ子のともちゃんも楽しんでいました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
家族旅行
交通手段
新幹線

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  • 「肖像画のひとコマ ―絵や彫刻の人になってみよう」からスタート<br />レンブラント・ファン・レイン 「帽子と襟巻を着けた暗い顔のレンブラント」 1633年

    「肖像画のひとコマ ―絵や彫刻の人になってみよう」からスタート
    レンブラント・ファン・レイン 「帽子と襟巻を着けた暗い顔のレンブラント」 1633年

  • 中村彝「自画像」1909-10年  <br />この作品は、彝が22歳の頃に描いた自画像です。画面に対してやや斜めに構え、画家の額を頭上からの光が強く照らし出すという構図は、レンブラントの自画像からの強い影響を示しています。この作品は描かれた表情から「にがむし」というあだ名がついたとされていますが、レンブラント初期の自画像にも故意に表情をゆがめたものがしばしば見受けられます。友人で彫刻家の中原悌二郎の回想によれば、彝は1909(明治42)年頃丸善で高額のレンブラントの画集を購入し、手垢で真っ黒になる程繰り返し眺めて研究していたといいます。彝はこの時期レンブラント風の自画像を複数制作しており、この作品はそれら一連の集大成ともいえる高い完成度を示しています。

    中村彝「自画像」1909-10年
    この作品は、彝が22歳の頃に描いた自画像です。画面に対してやや斜めに構え、画家の額を頭上からの光が強く照らし出すという構図は、レンブラントの自画像からの強い影響を示しています。この作品は描かれた表情から「にがむし」というあだ名がついたとされていますが、レンブラント初期の自画像にも故意に表情をゆがめたものがしばしば見受けられます。友人で彫刻家の中原悌二郎の回想によれば、彝は1909(明治42)年頃丸善で高額のレンブラントの画集を購入し、手垢で真っ黒になる程繰り返し眺めて研究していたといいます。彝はこの時期レンブラント風の自画像を複数制作しており、この作品はそれら一連の集大成ともいえる高い完成度を示しています。

  • 青木繁「海の幸」1904年 <br />1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの「海の幸」です。

    青木繁「海の幸」1904年
    1904(明治37)年7月半ば、東京美術学校西洋画科を卒業したばかりの22歳の青木は、友人の画家坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと、千葉県館山の布良海岸へ写生旅行に出かけました。この太平洋の黒潮に向きあう漁村に約1カ月半滞在し、その間に制作された代表作がこの「海の幸」です。

  • 青木繁「海の幸」(部分拡大)<br />図柄は、10人の裸体の男が3尾の鮫を担いで、二列縦隊で砂浜を右から左へと行進する様子です。中ほどの人物を見ると、正面から強い光を浴びているのがわかります。青木は布良の地勢や地誌、風俗を体全体で受け留め、それを荒々しい筆づかいと、若々しさ溢れる題材で再創造しました。

    青木繁「海の幸」(部分拡大)
    図柄は、10人の裸体の男が3尾の鮫を担いで、二列縦隊で砂浜を右から左へと行進する様子です。中ほどの人物を見ると、正面から強い光を浴びているのがわかります。青木は布良の地勢や地誌、風俗を体全体で受け留め、それを荒々しい筆づかいと、若々しさ溢れる題材で再創造しました。

  • 森村泰昌 M式「海の幸」第1番:假象の創造 2021年<br />森村泰昌は、1985年、ゴッホの自画像に扮するセルフポートレイト写真を制作して以降、今日に至るまで、古今東西の絵画や写真に表された人物に変装し、独自の解釈を加えて再現する「自画像的作品」をテーマに制作し続けています。<br /><br /><br />

    森村泰昌 M式「海の幸」第1番:假象の創造 2021年
    森村泰昌は、1985年、ゴッホの自画像に扮するセルフポートレイト写真を制作して以降、今日に至るまで、古今東西の絵画や写真に表された人物に変装し、独自の解釈を加えて再現する「自画像的作品」をテーマに制作し続けています。


  • 青木繁「自画像」1903年  <br />青木繁はいくつもの印象的な自画像を描き残しています。青木は作品ごとに描く方向性をまず考え抜いてから制作に取り掛かるところがあり、油彩や鉛筆による様々な自画像はどれも表現が異なり、大きな振幅を持っています。この自画像では、暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせています。よく見ると背景には不定型な形がいくつも見えますが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられています。魔物のような暗い情念を塗り込めたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれます。

    青木繁「自画像」1903年
    青木繁はいくつもの印象的な自画像を描き残しています。青木は作品ごとに描く方向性をまず考え抜いてから制作に取り掛かるところがあり、油彩や鉛筆による様々な自画像はどれも表現が異なり、大きな振幅を持っています。この自画像では、暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせています。よく見ると背景には不定型な形がいくつも見えますが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられています。魔物のような暗い情念を塗り込めたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれます。

  • 森村泰昌 「自画像/青春(Aoki)」 2016/2021年

    森村泰昌 「自画像/青春(Aoki)」 2016/2021年

  • エドゥアール・マネ「自画像」1878-79年<br />マネは、近代都市パリの風俗を描いたことで知られますが、肖像画の名手でもありました。そのようなマネの油彩による自画像は2点しか残されていません(もう1点は個人蔵)。どちらもほぼ同じ時期、46、7歳のときの作品です。画壇での評価が確立されたことへの自負心から、これらの自画像を制作したと考えられています。

    エドゥアール・マネ「自画像」1878-79年
    マネは、近代都市パリの風俗を描いたことで知られますが、肖像画の名手でもありました。そのようなマネの油彩による自画像は2点しか残されていません(もう1点は個人蔵)。どちらもほぼ同じ時期、46、7歳のときの作品です。画壇での評価が確立されたことへの自負心から、これらの自画像を制作したと考えられています。

  • 展示は3章仕立て。写真にもあるように、説明のキャプションやバナーが多めです。まるで学芸員が展示室を案内してくれているような充実した学びがあります。

    展示は3章仕立て。写真にもあるように、説明のキャプションやバナーが多めです。まるで学芸員が展示室を案内してくれているような充実した学びがあります。

  • ナダール(フェリックス・トゥールナション) 「エドゥアール・マネ(1832-1883)」

    ナダール(フェリックス・トゥールナション) 「エドゥアール・マネ(1832-1883)」

  • ポール・セザンヌ 「帽子をかぶった自画像」 1890-94年頃<br />生涯30点を超える自画像を描いたセザンヌ後期の作品です。自画像は、モデルを使うことを不得手としたセザンヌが、唯一他者を意識せず、純粋に対象として人物を見るという造形探求の行為でもありました。不明瞭な空間を背景に肩越しに見る者を見据えるセザンヌの表情は、影に隠れる左側には画家の憂愁が垣間見える一方で、ハイライトの当たる右側の鋭い眼差しに、自己に厳格な画家の自意識がうかがえます。緑を基調とし、動的な、しかし規則正しい筆触と意図的な塗り残しで画面が構成されています。

    ポール・セザンヌ 「帽子をかぶった自画像」 1890-94年頃
    生涯30点を超える自画像を描いたセザンヌ後期の作品です。自画像は、モデルを使うことを不得手としたセザンヌが、唯一他者を意識せず、純粋に対象として人物を見るという造形探求の行為でもありました。不明瞭な空間を背景に肩越しに見る者を見据えるセザンヌの表情は、影に隠れる左側には画家の憂愁が垣間見える一方で、ハイライトの当たる右側の鋭い眼差しに、自己に厳格な画家の自意識がうかがえます。緑を基調とし、動的な、しかし規則正しい筆触と意図的な塗り残しで画面が構成されています。

  • ウジェーヌ・ピルー「ポール・セザンヌ(1839-1906)」1900年頃

    ウジェーヌ・ピルー「ポール・セザンヌ(1839-1906)」1900年頃

  • エミール・ベルナール 「ポール・セザンヌ(1839-1906)」」 1904もしくは1905年

    エミール・ベルナール 「ポール・セザンヌ(1839-1906)」」 1904もしくは1905年

  • 撮影者不詳 (19世紀に活動)「アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック」

    撮影者不詳 (19世紀に活動)「アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック」

  • 小出楢重「横たわる裸身」1930年  <br />1926(大正15)年2月、パトロンの支援によって芦屋にアトリエを構えた小出楢重は、5年前から手がけ始めた裸婦へ次第に集中するようになります。体が弱かった小出は、屋外で風景画を描くことが少なく、1931(昭和6)年2月に亡くなるまでの最後の5年間の中心的題材は裸婦でした。立像、横臥像を繰り返し描きます。この横たわる裸婦の背中やお尻には、小出が幼少時から示していたと伝えられる球体へのこだわりを感じさせます。また、小出がやはり偏愛していた絨毯と寝台によってつくられる画面は、官能性と清潔な造形感覚を合わせ持っています。

    小出楢重「横たわる裸身」1930年
    1926(大正15)年2月、パトロンの支援によって芦屋にアトリエを構えた小出楢重は、5年前から手がけ始めた裸婦へ次第に集中するようになります。体が弱かった小出は、屋外で風景画を描くことが少なく、1931(昭和6)年2月に亡くなるまでの最後の5年間の中心的題材は裸婦でした。立像、横臥像を繰り返し描きます。この横たわる裸婦の背中やお尻には、小出が幼少時から示していたと伝えられる球体へのこだわりを感じさせます。また、小出がやはり偏愛していた絨毯と寝台によってつくられる画面は、官能性と清潔な造形感覚を合わせ持っています。

  • 小出楢重「帽子をかぶった自画像」1924年 <br />1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

    小出楢重「帽子をかぶった自画像」1924年
    1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

  • アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年<br />画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。

    アンリ・マティス「画室の裸婦」1899年
    画家になる決意をしてパリに出たマティスは、エコール・デ・ボザールのモローの教室で学んだのち、様々な様式を試行錯誤しました。赤と緑の対比の鮮やかなこの作品には、点描が使われています。新印象派の画家スーラやシニャックが、科学的な考えに基づいた点描で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、当時30歳のマティスは、自由で不規則な点を使うことで、この作品の色彩を際立たせます。モデルは円形の台の上でポーズをとり、その周りに画学生がイーゼルを並べています。裸婦を描くことは画学生にとって大切な勉強のひとつでした。

  • アンリ・マティス 「青い胴着の女」1935年<br />1930年代のマティスは、平面的な色彩構成を追求し、画面の単純化を推し進めました。この作品では、黒い輪郭線で囲まれた赤、青、黄の3色が巧みに配置されています。椅子に腰掛けた女性の肩は大きく誇張され、腰は極端に細く表現されています。この作品の制作過程を撮影した写真が3枚残されており、3週間足らずの間に作品が次第に単純化されていった過程がわかります。モデルは、ロシア人のリディア・デレクトルスカヤ。彼女は1934年頃からマティスのモデルと制作助手をつとめ、病身のマティス夫人の身の周りの世話もしました。

    アンリ・マティス 「青い胴着の女」1935年
    1930年代のマティスは、平面的な色彩構成を追求し、画面の単純化を推し進めました。この作品では、黒い輪郭線で囲まれた赤、青、黄の3色が巧みに配置されています。椅子に腰掛けた女性の肩は大きく誇張され、腰は極端に細く表現されています。この作品の制作過程を撮影した写真が3枚残されており、3週間足らずの間に作品が次第に単純化されていった過程がわかります。モデルは、ロシア人のリディア・デレクトルスカヤ。彼女は1934年頃からマティスのモデルと制作助手をつとめ、病身のマティス夫人の身の周りの世話もしました。

  • アンリ・マティス 「ジャッキー」 1947年

    アンリ・マティス 「ジャッキー」 1947年

  • シャルル・デスピオ 「クラ=クラ」 1919年

    シャルル・デスピオ 「クラ=クラ」 1919年

  • パブロ・ピカソ「画家とモデル」1963年

    パブロ・ピカソ「画家とモデル」1963年

  • アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「サーカスの舞台裏」 1887年頃<br />ロートレックは、カラフルな色彩が特徴で、ポール・セザンヌ、ファン・ゴッホ、ゴーギャンとならんで後期印象派の代表的な作家の一人として知られています。この作品はモノトーンで描かれていますが光と影の濃淡が印象的です。

    アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「サーカスの舞台裏」 1887年頃
    ロートレックは、カラフルな色彩が特徴で、ポール・セザンヌ、ファン・ゴッホ、ゴーギャンとならんで後期印象派の代表的な作家の一人として知られています。この作品はモノトーンで描かれていますが光と影の濃淡が印象的です。

  • アンリ=ガブリエル・イベルス「サーカスにて (マルティ版『レスタンプ・オリジナル』第1号所収)」1893年

    アンリ=ガブリエル・イベルス「サーカスにて (マルティ版『レスタンプ・オリジナル』第1号所収)」1893年

  • ジョルジュ・ルオー「芝居の呼び込み」1906年

    ジョルジュ・ルオー「芝居の呼び込み」1906年

  • ジョルジュ・ルオー「ピエロ」1925年<br />ルオーは、アンリ・マティス、アンドレ・ドランなどのフォービスムや表現主義の作家として知られていますが、 ほかの表現主義作家よりもグロテスクな色使いで荒々しいタッチが特徴です。売春婦やピエロや道化者たちを描いた作品も多いですが、内省的な作品です。

    ジョルジュ・ルオー「ピエロ」1925年
    ルオーは、アンリ・マティス、アンドレ・ドランなどのフォービスムや表現主義の作家として知られていますが、 ほかの表現主義作家よりもグロテスクな色使いで荒々しいタッチが特徴です。売春婦やピエロや道化者たちを描いた作品も多いですが、内省的な作品です。

  • パブロ・ピカソ「道化師」1905年<br /><br />

    パブロ・ピカソ「道化師」1905年

  • パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年ピカソは、第一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けました。結果として1918年から描かれる対象が、古代彫刻のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入りました。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持っています。

    パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年ピカソは、第一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けました。結果として1918年から描かれる対象が、古代彫刻のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入りました。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持っています。

  • パブロ・ピカソ「女の顔」1923年<br />こちらも新古典主義の時代の作品。鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれています。

    パブロ・ピカソ「女の顔」1923年
    こちらも新古典主義の時代の作品。鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれています。

  • Section 2風景画への旅― 描かれた景色に浸ってみよう<br />岸田劉生「街道(銀座風景)」1911年頃<br />この作品は、岸田劉生の実家近くの銀座通りを描いたものです。街角の赤煉瓦の建物や右端に見える路面電車などは、当時の銀座通りを象徴するようなモティーフです。このころ劉生は、雑誌「白樺」を通して知ったポスト印象派に関心を寄せ、特にゴッホの強烈な色彩と光の輝きに惹かれていました。

    Section 2風景画への旅― 描かれた景色に浸ってみよう
    岸田劉生「街道(銀座風景)」1911年頃
    この作品は、岸田劉生の実家近くの銀座通りを描いたものです。街角の赤煉瓦の建物や右端に見える路面電車などは、当時の銀座通りを象徴するようなモティーフです。このころ劉生は、雑誌「白樺」を通して知ったポスト印象派に関心を寄せ、特にゴッホの強烈な色彩と光の輝きに惹かれていました。

  • ケース・ヴァン・ドンゲン「シャンゼリゼ大通り」 1924-25年<br />オランダ出身のヴァン・ドンゲンはロッテルダムの美術学校で学び、20歳の頃パリへ移住しました。次第にフォービズムに傾倒し明るい色彩表現を手に入れます。第一次大戦後は肖像画家としてパリ社交界で人気を博し、この絵に見られる享楽的な都市生活や流行のファッションに身を包んだ女性たちを優しい色彩で描きました。

    ケース・ヴァン・ドンゲン「シャンゼリゼ大通り」 1924-25年
    オランダ出身のヴァン・ドンゲンはロッテルダムの美術学校で学び、20歳の頃パリへ移住しました。次第にフォービズムに傾倒し明るい色彩表現を手に入れます。第一次大戦後は肖像画家としてパリ社交界で人気を博し、この絵に見られる享楽的な都市生活や流行のファッションに身を包んだ女性たちを優しい色彩で描きました。

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年<br />ゴッホの作品も1点展示されていました。ゴッホがアントワープを去ってパリに着いたのは1886年の春ですが、これはパリの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の裏手から見た光景です。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年
    ゴッホの作品も1点展示されていました。ゴッホがアントワープを去ってパリに着いたのは1886年の春ですが、これはパリの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の裏手から見た光景です。

  • モーリス・ユトリロ「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1933年

    モーリス・ユトリロ「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1933年

  • アンリ・ルソー「イヴリー河岸」1907年頃<br />印象派時代に活躍した素朴派を代表するフランス人画家ルソーの幻想的な作品。

    アンリ・ルソー「イヴリー河岸」1907年頃
    印象派時代に活躍した素朴派を代表するフランス人画家ルソーの幻想的な作品。

  • 岡鹿之助「セーヌ河畔」1927年  <br />岡鹿之助は東京美術学校を卒業した後、1925(大正14)年、パリに向かいます。第二次大戦勃発を機に帰国するまで14年間を過ごしました。藤田嗣治と交流し、またアンリ・ルソーやジョルジュ・スーラなどから西洋の造形精神を学び取り、考え抜かれた構図の風景を、薄塗りの細かいタッチで少しずつ描き出す方法を確立させます。この風景画は、岡のスタイルができあがった頃のもので、舞台の書き割りのような奥行きのない建物や、飄々として河畔でくつろぐ人々などに、ルソーの影響を見て取ることができます。川と橋の組み合わせは、岡がこの後終生大切にする題材となりました

    岡鹿之助「セーヌ河畔」1927年
    岡鹿之助は東京美術学校を卒業した後、1925(大正14)年、パリに向かいます。第二次大戦勃発を機に帰国するまで14年間を過ごしました。藤田嗣治と交流し、またアンリ・ルソーやジョルジュ・スーラなどから西洋の造形精神を学び取り、考え抜かれた構図の風景を、薄塗りの細かいタッチで少しずつ描き出す方法を確立させます。この風景画は、岡のスタイルができあがった頃のもので、舞台の書き割りのような奥行きのない建物や、飄々として河畔でくつろぐ人々などに、ルソーの影響を見て取ることができます。川と橋の組み合わせは、岡がこの後終生大切にする題材となりました

  • 梅原龍三郎「ノートルダム」 1965年<br />梅原 龍三郎は、ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した日本の洋画家です。

    梅原龍三郎「ノートルダム」 1965年
    梅原 龍三郎は、ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した日本の洋画家です。

  • モーリス・ユトリロ「パリのアンジュー河岸」1929年

    モーリス・ユトリロ「パリのアンジュー河岸」1929年

  • 猪熊弦一郎 「都市計画(黄色 No.1)」 1968年

    猪熊弦一郎 「都市計画(黄色 No.1)」 1968年

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「カーニュのテラス」1905年 <br />重いリューマチに悩まされた晩年のルノワールは、南フランスの街カーニュにしばしば滞在しました。1903年から1907年までの間、彼は、「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれる建物に部屋を借りて住みました。右端に見えているのがその建物です。その窓からは、カーニュの街並みと果樹園を眺めることができました。この作品では、高台に沿って階段状に延びる家々や果樹園が、柔らかな筆づかいで表されます。塀の上に腰掛ける女性は、白い帽子と赤い上着を身につけています。その横には麦わら帽子をかぶった子どもの姿が見えます。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「カーニュのテラス」1905年
    重いリューマチに悩まされた晩年のルノワールは、南フランスの街カーニュにしばしば滞在しました。1903年から1907年までの間、彼は、「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれる建物に部屋を借りて住みました。右端に見えているのがその建物です。その窓からは、カーニュの街並みと果樹園を眺めることができました。この作品では、高台に沿って階段状に延びる家々や果樹園が、柔らかな筆づかいで表されます。塀の上に腰掛ける女性は、白い帽子と赤い上着を身につけています。その横には麦わら帽子をかぶった子どもの姿が見えます。

  • ポール・ゴーガン「乾草」1889年  <br />1888年暮れ、アルルでのファン・ゴッホとの共同生活が終結したのち、40歳のゴーガンは、ポン=タヴェンからさらに南に下った海辺の村ル・プールデュに初めて赴きました。その後、1889年秋から1890年11月までの間、友人のオランダ人画家メイエル・デ・ハーンとともに、小さな宿屋に滞在し、この宿屋の食堂の4つの壁面を自分たちの作品で飾る計画に着手しました。《乾草》はそのうちの1点です。色面に区切られた地面には規則的な筆致が見られます。垂直に伸びる木々は、装飾的な効果を生み出しています。

    ポール・ゴーガン「乾草」1889年
    1888年暮れ、アルルでのファン・ゴッホとの共同生活が終結したのち、40歳のゴーガンは、ポン=タヴェンからさらに南に下った海辺の村ル・プールデュに初めて赴きました。その後、1889年秋から1890年11月までの間、友人のオランダ人画家メイエル・デ・ハーンとともに、小さな宿屋に滞在し、この宿屋の食堂の4つの壁面を自分たちの作品で飾る計画に着手しました。《乾草》はそのうちの1点です。色面に区切られた地面には規則的な筆致が見られます。垂直に伸びる木々は、装飾的な効果を生み出しています。

  • アルフレッド・シスレー「サン=マメス六月の朝」1884年  <br />印象派の風景画家シスレーは、1860年代にパリ南東約60km のところにあるフォンテーヌブローの森で写生を行いました。1870年代にはパリ西郊のルーヴシエンヌやアルジャントゥイユのセーヌ河畔で制作し、1880年以降はフォンテーヌブローの森の東側のロワン川流域に暮らしました。パリ近郊のセーヌ河畔は行楽や産業の場所として近代化されていましたが、ロワン川周辺にはまだ田園が残っていました。フォンテーヌブローの森の東のはずれに位置する小村サン= マメスは、セーヌ川とロワン川の合流点にあることから、フランス中部における河川交通や運輸の中心地として発達しました。この作品はサン= マメスの北側、セーヌ川沿いのラ・クロワ=ブランシュ通りのポプラ並木を描いたもの。左側をセーヌ川が流れており、水面には舟が浮かんでいます。川の左側に見えているのはセーヌ右岸の村ラ・セルの丘です。画面全体が穏やかな光で包まれていることの多いシスレーにしては珍しく、この作品では明暗の対比がなされ、それによって奥行きが強調されています。人々が行き交う並木道は、影で暗くなっています。青色で影が表現されていますが、これは印象派の作品の特徴のひとつです。

    アルフレッド・シスレー「サン=マメス六月の朝」1884年
    印象派の風景画家シスレーは、1860年代にパリ南東約60km のところにあるフォンテーヌブローの森で写生を行いました。1870年代にはパリ西郊のルーヴシエンヌやアルジャントゥイユのセーヌ河畔で制作し、1880年以降はフォンテーヌブローの森の東側のロワン川流域に暮らしました。パリ近郊のセーヌ河畔は行楽や産業の場所として近代化されていましたが、ロワン川周辺にはまだ田園が残っていました。フォンテーヌブローの森の東のはずれに位置する小村サン= マメスは、セーヌ川とロワン川の合流点にあることから、フランス中部における河川交通や運輸の中心地として発達しました。この作品はサン= マメスの北側、セーヌ川沿いのラ・クロワ=ブランシュ通りのポプラ並木を描いたもの。左側をセーヌ川が流れており、水面には舟が浮かんでいます。川の左側に見えているのはセーヌ右岸の村ラ・セルの丘です。画面全体が穏やかな光で包まれていることの多いシスレーにしては珍しく、この作品では明暗の対比がなされ、それによって奥行きが強調されています。人々が行き交う並木道は、影で暗くなっています。青色で影が表現されていますが、これは印象派の作品の特徴のひとつです。

  • ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」1929年  <br />ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。

    ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」1929年
    ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。

  • ポール・セザンヌ「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃  <br />セザンヌは、目に映る一瞬のきらめきをカンヴァスに写し取ろうとした印象主義の絵画を超えて、堅牢な量感を持ち、永劫に耐えられる強靭さをとどめる絵画にしようと試みました。それは相反する性格を同一画面の中に収めようとする極めて困難な課題であり、画家にとって試行錯誤の連続となりました。これを実現させるためにセザンヌは、印象派の仲間と距離を置いて孤独に制作する道を選び、いくつかのきまった主題を繰り返し描くことによってこの目的を達成することを目指しました。1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきました。この作品はその試みの集大成となるひとつです。前景は鬱蒼とした樹木など、いくつかの筆触がひとかたまりの面となり、あたかもリズムを刻むように画面を構成し、奥行き感をつくり出しています。唯一の幾何学的形態である黄土色の建造物シャトー・ノワールが中景に配されて画面を引き締めています。同じ対象を繰り返して描くことによって、情景を目がとらえる実体感を残しつつ構築性のある絵画を実現するセザンヌの革新的絵画は、間もなく、キュビスム、フォーヴィスム、そして抽象絵画へと、20世紀絵画の成立に決定的な影響を与えることになります。

    ポール・セザンヌ「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃
    セザンヌは、目に映る一瞬のきらめきをカンヴァスに写し取ろうとした印象主義の絵画を超えて、堅牢な量感を持ち、永劫に耐えられる強靭さをとどめる絵画にしようと試みました。それは相反する性格を同一画面の中に収めようとする極めて困難な課題であり、画家にとって試行錯誤の連続となりました。これを実現させるためにセザンヌは、印象派の仲間と距離を置いて孤独に制作する道を選び、いくつかのきまった主題を繰り返し描くことによってこの目的を達成することを目指しました。1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきました。この作品はその試みの集大成となるひとつです。前景は鬱蒼とした樹木など、いくつかの筆触がひとかたまりの面となり、あたかもリズムを刻むように画面を構成し、奥行き感をつくり出しています。唯一の幾何学的形態である黄土色の建造物シャトー・ノワールが中景に配されて画面を引き締めています。同じ対象を繰り返して描くことによって、情景を目がとらえる実体感を残しつつ構築性のある絵画を実現するセザンヌの革新的絵画は、間もなく、キュビスム、フォーヴィスム、そして抽象絵画へと、20世紀絵画の成立に決定的な影響を与えることになります。

  • パブロ・ピカソ「生木と枯木のある風景」1919年<br />1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことなどからピカソは、新古典主義の時代に入ります。

    パブロ・ピカソ「生木と枯木のある風景」1919年
    1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことなどからピカソは、新古典主義の時代に入ります。

  • ヴァシリー・カンディンスキー「3本の菩提樹」1908年<br />カンディンスキーは、20世紀前半の抽象絵画の創出と発展に大きな役割を果たした画家です。絵画を精神活動として見なし、色彩や線の自律的な運動によるコンポジションの探求に取り組みました。ベルリンの分離派展やパリのサロン・ドートンヌ、ドレスデンのブリュッケ展などへの出品を経て、1911年にフランツ・マルクらと「青騎士」を結成。ロシア革命後には祖国の美術行政や教育において要職を務めるも、1922年、建築家グロピウスの招聘を受けて、ヴァイマールのバウハウスに加わりました。

    ヴァシリー・カンディンスキー「3本の菩提樹」1908年
    カンディンスキーは、20世紀前半の抽象絵画の創出と発展に大きな役割を果たした画家です。絵画を精神活動として見なし、色彩や線の自律的な運動によるコンポジションの探求に取り組みました。ベルリンの分離派展やパリのサロン・ドートンヌ、ドレスデンのブリュッケ展などへの出品を経て、1911年にフランツ・マルクらと「青騎士」を結成。ロシア革命後には祖国の美術行政や教育において要職を務めるも、1922年、建築家グロピウスの招聘を受けて、ヴァイマールのバウハウスに加わりました。

  • パウル・クレー「小さな抽象的ー建築的油彩(黄色と青色の球形のある)」1915年

    パウル・クレー「小さな抽象的ー建築的油彩(黄色と青色の球形のある)」1915年

  • アンリ・マティス「コリウール」1905年  <br />1905年5月から9月まで、マティスは、友人で画家のドランとともに、南フランスの小さな漁村コリウールに滞在し、それまでの点描から色面での表現へと大きく画風を変化させました。この作品では風景が大胆に表現されています。色彩が自由に使われており、中央の緑色は教会、前景に広がる薄緑色は浜辺、右側のピンク色はヨットの浮かぶ海です。同年のサロン・ドートンヌでは、マティスら若い画家たちは、原色を多用した粗々しい筆づかいから、フォーヴ(野獣)と評されました。ここからフォーヴィスム(野獣派)という名称が誕生しました。

    アンリ・マティス「コリウール」1905年
    1905年5月から9月まで、マティスは、友人で画家のドランとともに、南フランスの小さな漁村コリウールに滞在し、それまでの点描から色面での表現へと大きく画風を変化させました。この作品では風景が大胆に表現されています。色彩が自由に使われており、中央の緑色は教会、前景に広がる薄緑色は浜辺、右側のピンク色はヨットの浮かぶ海です。同年のサロン・ドートンヌでは、マティスら若い画家たちは、原色を多用した粗々しい筆づかいから、フォーヴ(野獣)と評されました。ここからフォーヴィスム(野獣派)という名称が誕生しました。

  • パウル・クレー「島」1932年<br />音楽に関心を持っていたクレーは、画面の中に音符や楽譜を思わせる記号を好んで描き込みました。そればかりでなく、「ポリフォニー」という音楽の方法論を絵画の世界に取り入れました。ポリフォニーは、異なる旋律がそれぞれの本分を失うことなく同時に進行していく形式の音楽のことです。日本語では「多声楽」と訳されています。この作品には、褐色の地肌に薄く広がる赤や青や黄の色彩、島を形作る太い線、それに画面一面を覆いつくす「点点」。この3つの旋律を個別に鑑賞しながら、それらが競合しながら調和する画面の全体を楽しむことができます。

    パウル・クレー「島」1932年
    音楽に関心を持っていたクレーは、画面の中に音符や楽譜を思わせる記号を好んで描き込みました。そればかりでなく、「ポリフォニー」という音楽の方法論を絵画の世界に取り入れました。ポリフォニーは、異なる旋律がそれぞれの本分を失うことなく同時に進行していく形式の音楽のことです。日本語では「多声楽」と訳されています。この作品には、褐色の地肌に薄く広がる赤や青や黄の色彩、島を形作る太い線、それに画面一面を覆いつくす「点点」。この3つの旋律を個別に鑑賞しながら、それらが競合しながら調和する画面の全体を楽しむことができます。

  • ピート・モンドリアン 「砂丘」1909年<br />モンドリアンは、神智学への強い関心のもと、自然と芸術に関する自身の考えを新造形主義として提唱し、幾何学的な要素に還元された禁欲的で内省的な画面を通じて、抽象的な絵画

    ピート・モンドリアン 「砂丘」1909年
    モンドリアンは、神智学への強い関心のもと、自然と芸術に関する自身の考えを新造形主義として提唱し、幾何学的な要素に還元された禁欲的で内省的な画面を通じて、抽象的な絵画

  • 藤島武二「屋島よりの遠望」1932年  <br />藤島武二は国立公園協会の依嘱を受けて、瀬戸内海の景勝地屋島に、取材のために夏の1カ月滞在しました。屋島は、香川県高松市の北西に位置し、瀬戸内海に向かって真北へ突き出た台地状の小さな半島です。その頂上に近い宿に泊まった藤島は、夜明けには真東に向かい、古戦場の入り江を挟んでそびえ立つ五剣山の稜線から昇る朝日を描きました。朝食、昼食をとって休んだ後、午後には西側の志度湾や女木島を描きました。この作品は午後に描かれた1点で、不要な他の島影を省いて画面を整理し、次第に夕陽が空と海と女木島の色を変化させていく様子を演出しています。

    藤島武二「屋島よりの遠望」1932年
    藤島武二は国立公園協会の依嘱を受けて、瀬戸内海の景勝地屋島に、取材のために夏の1カ月滞在しました。屋島は、香川県高松市の北西に位置し、瀬戸内海に向かって真北へ突き出た台地状の小さな半島です。その頂上に近い宿に泊まった藤島は、夜明けには真東に向かい、古戦場の入り江を挟んでそびえ立つ五剣山の稜線から昇る朝日を描きました。朝食、昼食をとって休んだ後、午後には西側の志度湾や女木島を描きました。この作品は午後に描かれた1点で、不要な他の島影を省いて画面を整理し、次第に夕陽が空と海と女木島の色を変化させていく様子を演出しています。

  • ピエール・ボナール「海岸」1920年

    ピエール・ボナール「海岸」1920年

  • ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィル近郊の浜」1865年頃  <br />フランスのノルマンディー地方出身の画家ブーダンは、海景画を得意としました。彼の作品では、多くの場合、低い位置に地平線が設定されます。この作品でも上半分を空が占めます。浜辺に集うのは、流行の衣服をまとったパリの上流階級の男女。左側のグループの中で、山高帽をかぶって立つ男性は、ロトシルド(ロスチャイルド)男爵、日傘をさして椅子にすわる白い衣服の女性は、皇妃ウジェーヌです。彼女に従うように犬がすわっています。トルーヴィルはノルマンディー地方にある小さな漁村でしたが、1820年代以降、絵画や小説の題材として扱われるようになりました。

    ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィル近郊の浜」1865年頃
    フランスのノルマンディー地方出身の画家ブーダンは、海景画を得意としました。彼の作品では、多くの場合、低い位置に地平線が設定されます。この作品でも上半分を空が占めます。浜辺に集うのは、流行の衣服をまとったパリの上流階級の男女。左側のグループの中で、山高帽をかぶって立つ男性は、ロトシルド(ロスチャイルド)男爵、日傘をさして椅子にすわる白い衣服の女性は、皇妃ウジェーヌです。彼女に従うように犬がすわっています。トルーヴィルはノルマンディー地方にある小さな漁村でしたが、1820年代以降、絵画や小説の題材として扱われるようになりました。

  • 画面の上から下へ、オレンジ色を中心に青と緑で描かれた、空と海の鮮やかな色彩は、この景色に魅了された画家の想いを反映しているかのようです。モネは大胆な筆致と色彩で、黄昏の水辺の色調の変化を捉え、その瞬間の光の様相、自然の表情をあらわそうとしました。

    画面の上から下へ、オレンジ色を中心に青と緑で描かれた、空と海の鮮やかな色彩は、この景色に魅了された画家の想いを反映しているかのようです。モネは大胆な筆致と色彩で、黄昏の水辺の色調の変化を捉え、その瞬間の光の様相、自然の表情をあらわそうとしました。

  • クロード・モネ 「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃<br />フランスの画家クロード・モネ(1840-1926)が、67歳のときに、旅先のイタリアの都市、ヴェネツィアで見た風景を描いた作品です。夕日に染まる海に浮かぶのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。教会の向こう側に沈みゆく太陽の燃えるような光が、空、水面、教会を輝かせています。海の色は水平線に向かうほど赤みを増し、逆光の中の教会は、細部を省略したシルエットで表されています。揺らめく水面は横向きの筆致であらわされ、海からの湿気を帯びた大気はうねるような筆致で描き分けられています。

    クロード・モネ 「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃
    フランスの画家クロード・モネ(1840-1926)が、67歳のときに、旅先のイタリアの都市、ヴェネツィアで見た風景を描いた作品です。夕日に染まる海に浮かぶのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。教会の向こう側に沈みゆく太陽の燃えるような光が、空、水面、教会を輝かせています。海の色は水平線に向かうほど赤みを増し、逆光の中の教会は、細部を省略したシルエットで表されています。揺らめく水面は横向きの筆致であらわされ、海からの湿気を帯びた大気はうねるような筆致で描き分けられています。

  • クロード・モネ「睡蓮」 1903年<br />モネは1883年よりパリ近郊のジヴェルニーに居を構えました。1890年には土地と家を購入し、セーヌ川支流から水を引いた池に、睡蓮を浮かべて制作を続けました。この作品では、全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。

    クロード・モネ「睡蓮」 1903年
    モネは1883年よりパリ近郊のジヴェルニーに居を構えました。1890年には土地と家を購入し、セーヌ川支流から水を引いた池に、睡蓮を浮かべて制作を続けました。この作品では、全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。

  • クロード・モネ「睡?の池」1907年  <br />睡?を扱ったモネの作品は膨大な数にのぼりますが、その中には同様の構図で描かれた連作があります。この作品は、1907年に描かれたおよそ15点からなる縦長のカンヴァスによる連作の1点です。水面に浮かぶ睡?と池の周囲にある柳の木の反映が画面に幻想的な空間を生み出しています。モネはこの連作において、太陽が高い昼間から日没にかけて刻一刻と空の色が変化していく様を同じ構図の中に描きました。この作品の淡い朱を帯びた水面は、日没が近づいていることを感じさせます。

    クロード・モネ「睡?の池」1907年
    睡?を扱ったモネの作品は膨大な数にのぼりますが、その中には同様の構図で描かれた連作があります。この作品は、1907年に描かれたおよそ15点からなる縦長のカンヴァスによる連作の1点です。水面に浮かぶ睡?と池の周囲にある柳の木の反映が画面に幻想的な空間を生み出しています。モネはこの連作において、太陽が高い昼間から日没にかけて刻一刻と空の色が変化していく様を同じ構図の中に描きました。この作品の淡い朱を帯びた水面は、日没が近づいていることを感じさせます。

  • サッシャ・ギトリ 「ジヴェルニーでのクロード・モネ」 1914年

    サッシャ・ギトリ 「ジヴェルニーでのクロード・モネ」 1914年

  • Section 3印象派の世界を体感する― 近代都市パリの日常風景

    Section 3印象派の世界を体感する― 近代都市パリの日常風景

  • ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」1872年<br />モリゾは、印象派グループの数少ない女性の画家のひとりです。女性的な感受性で描かれる母子や子どもなどを主題とした作品は、男性の視点ではなかなか見ることのできない繊細さと穏健さを生み出しています。この作品は、モリゾの画歴において最も評価されたもののひとつです。<br />モリゾは、制作当時マネと非常に近い間柄にあり、この頃は双方の画家の間の影響関係が指摘されており、この作品にもモダンな主題を革新的な技法で描いているところにマネの影響が垣間見えます。描かれた風景は、第二帝政時にセーヌ県知事オスマンが主導したパリ改造の結果をよく表しており、マネやカイユボットと同様に、モリゾは新しい都市パリの風景を印象派の技法でとらえています。

    ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」1872年
    モリゾは、印象派グループの数少ない女性の画家のひとりです。女性的な感受性で描かれる母子や子どもなどを主題とした作品は、男性の視点ではなかなか見ることのできない繊細さと穏健さを生み出しています。この作品は、モリゾの画歴において最も評価されたもののひとつです。
    モリゾは、制作当時マネと非常に近い間柄にあり、この頃は双方の画家の間の影響関係が指摘されており、この作品にもモダンな主題を革新的な技法で描いているところにマネの影響が垣間見えます。描かれた風景は、第二帝政時にセーヌ県知事オスマンが主導したパリ改造の結果をよく表しており、マネやカイユボットと同様に、モリゾは新しい都市パリの風景を印象派の技法でとらえています。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「少女」1887年  <br />パステルは、18世紀のフランスで肖像画を描くために盛んに使われた画材です。ルノワールが1880年代に制作したパステルの肖像画には、ロココ芸術を意識した淡い色彩と柔らかな表現が見られます。近年の研究で、この作品のモデルはブーローニュ在住の銀行家、イッポリット・アダンの娘シュザンヌと特定されました。1877年生まれのシュザンヌは、4姉妹の末っ子でした。ほぼ同じ構図のパステル画(1887年、吉野石膏コレクション)が長らくアダン家子孫に所有されていたのに対し、この作品は画家の手元に残され、1923年に松方幸次郎に購入されました。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「少女」1887年
    パステルは、18世紀のフランスで肖像画を描くために盛んに使われた画材です。ルノワールが1880年代に制作したパステルの肖像画には、ロココ芸術を意識した淡い色彩と柔らかな表現が見られます。近年の研究で、この作品のモデルはブーローニュ在住の銀行家、イッポリット・アダンの娘シュザンヌと特定されました。1877年生まれのシュザンヌは、4姉妹の末っ子でした。ほぼ同じ構図のパステル画(1887年、吉野石膏コレクション)が長らくアダン家子孫に所有されていたのに対し、この作品は画家の手元に残され、1923年に松方幸次郎に購入されました。

  • シャルル・ロイトリンガー 「エドゥアール・マネ」

    シャルル・ロイトリンガー 「エドゥアール・マネ」

  • エドゥアール・マネ「オペラ座の仮装舞踏会」1873年 <br />フランスの画家マネは、同時代の都市市民を描くことを得意としました。この作品の舞台となっているのは、パリのル・ペルティエ通りにあったオペラ座(1873年に火災で焼失)。オペラ座の正面玄関からロビーを見ていると思われます。シルクハットに燕尾服という、黒ずくめの上流階級の男性たちと、色鮮やかな服装でアイマスクをした女性たちが描かれています。彼女らは踊り子や高級娼婦たちで、大胆に肌を見せる装いの者もいます。素早いタッチが使われることで、オペラ座に集まった人々の熱気が表現されます。

    エドゥアール・マネ「オペラ座の仮装舞踏会」1873年
    フランスの画家マネは、同時代の都市市民を描くことを得意としました。この作品の舞台となっているのは、パリのル・ペルティエ通りにあったオペラ座(1873年に火災で焼失)。オペラ座の正面玄関からロビーを見ていると思われます。シルクハットに燕尾服という、黒ずくめの上流階級の男性たちと、色鮮やかな服装でアイマスクをした女性たちが描かれています。彼女らは踊り子や高級娼婦たちで、大胆に肌を見せる装いの者もいます。素早いタッチが使われることで、オペラ座に集まった人々の熱気が表現されます。

  • エドゥアール・マネ「メリー・ローラン」1882年

    エドゥアール・マネ「メリー・ローラン」1882年

  • エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃<br />ゴンザレスはフランスの画家。父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、母親はベルギー出身の音楽家です。1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じてマネを紹介され、そのモデルとなり、次いでその弟子となりました。サロンへの出品を優先したため、第1回印象派展への出品を断り、その後も師マネと同様に印象派展に出品することはありませんでした。しかしゴンザレスの絵画様式は、マネと印象派のそれと近いものであり、それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられます。

    エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃
    ゴンザレスはフランスの画家。父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、母親はベルギー出身の音楽家です。1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じてマネを紹介され、そのモデルとなり、次いでその弟子となりました。サロンへの出品を優先したため、第1回印象派展への出品を断り、その後も師マネと同様に印象派展に出品することはありませんでした。しかしゴンザレスの絵画様式は、マネと印象派のそれと近いものであり、それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられます。

  • カミーユ・コロー「オンフルールのトゥータン農場」1845年頃<br />フランスの風景画家コローは、ノルマンディー地方の港町オンフルールを1820年代から何度も訪れています。セーヌ河口と海を見渡すことのできる高台に建つサン=シメオン農場は、宿屋を兼ねていました。やがて「トゥータン叔母さんの農場」と呼ばれるようになるこの宿屋には、コロー、ドービニー、ブーダン、モネといった画家たちが逗留しました。この作品では、複雑に枝葉を絡み合わせる木々の背後に、大きな屋根の農家が見えます。太陽の光に明るく照らされた家の前では、女性たちが糸紡ぎや針仕事をしています。落ち着いた色調を使いつつも、光と影の対比を巧みに利用した作品です。

    カミーユ・コロー「オンフルールのトゥータン農場」1845年頃
    フランスの風景画家コローは、ノルマンディー地方の港町オンフルールを1820年代から何度も訪れています。セーヌ河口と海を見渡すことのできる高台に建つサン=シメオン農場は、宿屋を兼ねていました。やがて「トゥータン叔母さんの農場」と呼ばれるようになるこの宿屋には、コロー、ドービニー、ブーダン、モネといった画家たちが逗留しました。この作品では、複雑に枝葉を絡み合わせる木々の背後に、大きな屋根の農家が見えます。太陽の光に明るく照らされた家の前では、女性たちが糸紡ぎや針仕事をしています。落ち着いた色調を使いつつも、光と影の対比を巧みに利用した作品です。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」1876年<br /> 印象派の画家ルノワールは、友人のモネとともに戸外制作に基づく風景画を描くかたわら、都市風俗や人物画にも早くから関心を示しました。30代半ばのルノワールはすぐれた肖像画を多く手がけました。<br /> この作品に描かれているのは、ジョルジュ・シャルパンティエの当時4歳の長女ジョルジェット。青色のドレスと靴下を身につけたジョルジェットは、椅子にすわって微笑んでいます。伝統的な肖像画のような堅苦しい雰囲気はなく、モデルのくつろいだ様子が生き生きと表現されています。足を組んだおしゃまなポーズと大き過ぎる大人用の椅子との対比により、少女の可愛らしさが際立ちます。近くで見ると、影の表現に青い線が使われているのがわかります。床には絨毯が敷かれ、家具の上には花瓶が飾られており、19世紀のパリの裕福な家庭の様子を伝えてくれます。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」1876年
     印象派の画家ルノワールは、友人のモネとともに戸外制作に基づく風景画を描くかたわら、都市風俗や人物画にも早くから関心を示しました。30代半ばのルノワールはすぐれた肖像画を多く手がけました。
     この作品に描かれているのは、ジョルジュ・シャルパンティエの当時4歳の長女ジョルジェット。青色のドレスと靴下を身につけたジョルジェットは、椅子にすわって微笑んでいます。伝統的な肖像画のような堅苦しい雰囲気はなく、モデルのくつろいだ様子が生き生きと表現されています。足を組んだおしゃまなポーズと大き過ぎる大人用の椅子との対比により、少女の可愛らしさが際立ちます。近くで見ると、影の表現に青い線が使われているのがわかります。床には絨毯が敷かれ、家具の上には花瓶が飾られており、19世紀のパリの裕福な家庭の様子を伝えてくれます。

  • ギュスターヴ・カイユボット「ピアノを弾く若い男」1876年  <br />カイユボットは、印象派の画家。印象派展に自らも出品する一方で、その活動を経済的に支えたことで知られます。この作品は、パリのミロメニル通りの自邸でピアノを弾く、カイユボットの弟マルシャルを描いたものです。1876年の第2回印象派展に《床削り》(オルセー美術館)とともに出品された6点の作品のうち、最も批評で取り上げられた1点です。19世紀後半のパリにおいて、ピアノは上流市民のステイタスを示すものでした。絵画の主題になることも多かったのですが、この作品のように男性がモデルとなることは稀で、多くの場合、ルノワールに見られるように女性が描かれていました。この作品は、男性であるというのみならず、真摯に鍵盤に向かう人物を描いている点で、より近代都市の室内風景の自然な雰囲気を伝えています。壁面の装飾、カーテン、絨毯、椅子などの調度品には植物文が施され、富裕な市民の瀟洒な室内が描かれています。また窓から入る光がピアノの鍵盤や脚に反射しています。さらに、ピアノの側面に鍵盤や指が反映し、ピアノの蓋には壁の柱が反映しています。奥行きを感じさせる空間に精緻な筆触で描かれた画面は、軽快な筆触を特色とする印象派の絵画の中では、かなり異質です。技法や主題は、同じ都市風景と市民たちを主題とした、ドガの室内画と似ています。これもまた、光と影の描写の探求を志す印象派の特徴のヴァリエーションであることを私たちに伝えます。

    ギュスターヴ・カイユボット「ピアノを弾く若い男」1876年
    カイユボットは、印象派の画家。印象派展に自らも出品する一方で、その活動を経済的に支えたことで知られます。この作品は、パリのミロメニル通りの自邸でピアノを弾く、カイユボットの弟マルシャルを描いたものです。1876年の第2回印象派展に《床削り》(オルセー美術館)とともに出品された6点の作品のうち、最も批評で取り上げられた1点です。19世紀後半のパリにおいて、ピアノは上流市民のステイタスを示すものでした。絵画の主題になることも多かったのですが、この作品のように男性がモデルとなることは稀で、多くの場合、ルノワールに見られるように女性が描かれていました。この作品は、男性であるというのみならず、真摯に鍵盤に向かう人物を描いている点で、より近代都市の室内風景の自然な雰囲気を伝えています。壁面の装飾、カーテン、絨毯、椅子などの調度品には植物文が施され、富裕な市民の瀟洒な室内が描かれています。また窓から入る光がピアノの鍵盤や脚に反射しています。さらに、ピアノの側面に鍵盤や指が反映し、ピアノの蓋には壁の柱が反映しています。奥行きを感じさせる空間に精緻な筆触で描かれた画面は、軽快な筆触を特色とする印象派の絵画の中では、かなり異質です。技法や主題は、同じ都市風景と市民たちを主題とした、ドガの室内画と似ています。これもまた、光と影の描写の探求を志す印象派の特徴のヴァリエーションであることを私たちに伝えます。

  • エラール社 グランドピアノ 1877年

    エラール社 グランドピアノ 1877年

    アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • エドガー・ドガ「浴後」1900年頃  <br />踊り子とともに、ドガがパステルでしばしば描いたのが、室内で湯浴みする裸婦です。その多くでドガは、あたかも鍵穴からのぞくような視点をとり、日常の営みに没頭する裸婦を自然な姿でとらえました。浴槽の縁に腰を下ろした裸婦を斜め後ろから描く構図は、1880年代後半と1900年頃に繰り返し試みられており、この作品もその1点です。このいわば連作で、ドガは同一の下絵を転用しながら、身体表現や構図に変化をつけています。この作品では、グレーと黄、緑色の穏やかな調和が、身体の重みをも表す力強い描線を引き立てている点が特徴といえます。

    エドガー・ドガ「浴後」1900年頃
    踊り子とともに、ドガがパステルでしばしば描いたのが、室内で湯浴みする裸婦です。その多くでドガは、あたかも鍵穴からのぞくような視点をとり、日常の営みに没頭する裸婦を自然な姿でとらえました。浴槽の縁に腰を下ろした裸婦を斜め後ろから描く構図は、1880年代後半と1900年頃に繰り返し試みられており、この作品もその1点です。このいわば連作で、ドガは同一の下絵を転用しながら、身体表現や構図に変化をつけています。この作品では、グレーと黄、緑色の穏やかな調和が、身体の重みをも表す力強い描線を引き立てている点が特徴といえます。

  • エドガー・ドガ「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年頃  <br />ドガは、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモートに学び、ルーヴル美術館での模写やおよそ3年に及ぶイタリア滞在を通じて、ルネサンス期の絵画研究に若き日の情熱を傾けました。1860年代以降は、近しい人々の肖像やパリの風俗を主題に描く中で、マネやのちの印象派の画家たちと交流を結ぶようになります。この作品で描かれているレオポール・ルヴェールは、軍服のデザイナーから出発した風景画家・版画家で、その転身にはドガの後押しがあったようです。この肖像が描かれた時期に始まる印象派展にも、ルヴェールは第1回展から第3回展、そして第5回展に出品しています。彼は、ドガの友人で同じく印象派展に出品を重ねた画家アンリ・ルアールと親しく、この作品が当初、ルアールの所蔵であった事実は、ドガを中心とする画家たちの繋がりを物語っています。ドガによるルヴェールの顔と頭部の描写は細やかで、アカデミックな技術の裏付けをうかがわせます。他方、胴体部を描き出す素早い筆致と簡略化された仕上げには、印象派らしい手法を見ることができます。装束の黒と背景を彩る白の組み合わせを主調としながら、おそらくパレットナイフを用いて頭部の周りに赤をあしらう筆さばきは軽やかで、親しい友人を前に気取りなく筆を振るうドガの様子がうかがえます。

    エドガー・ドガ「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年頃
    ドガは、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモートに学び、ルーヴル美術館での模写やおよそ3年に及ぶイタリア滞在を通じて、ルネサンス期の絵画研究に若き日の情熱を傾けました。1860年代以降は、近しい人々の肖像やパリの風俗を主題に描く中で、マネやのちの印象派の画家たちと交流を結ぶようになります。この作品で描かれているレオポール・ルヴェールは、軍服のデザイナーから出発した風景画家・版画家で、その転身にはドガの後押しがあったようです。この肖像が描かれた時期に始まる印象派展にも、ルヴェールは第1回展から第3回展、そして第5回展に出品しています。彼は、ドガの友人で同じく印象派展に出品を重ねた画家アンリ・ルアールと親しく、この作品が当初、ルアールの所蔵であった事実は、ドガを中心とする画家たちの繋がりを物語っています。ドガによるルヴェールの顔と頭部の描写は細やかで、アカデミックな技術の裏付けをうかがわせます。他方、胴体部を描き出す素早い筆致と簡略化された仕上げには、印象派らしい手法を見ることができます。装束の黒と背景を彩る白の組み合わせを主調としながら、おそらくパレットナイフを用いて頭部の周りに赤をあしらう筆さばきは軽やかで、親しい友人を前に気取りなく筆を振るうドガの様子がうかがえます。

  • ギュスターヴ・カイユボット「イエールの平原」1878年

    ギュスターヴ・カイユボット「イエールの平原」1878年

  • フェリックス・ブラックモン 「セーヴルのヴィラ・ブランカのテラスにて(制作中のマリー・ブラックモン)」1876年

    フェリックス・ブラックモン 「セーヴルのヴィラ・ブランカのテラスにて(制作中のマリー・ブラックモン)」1876年

  • マリー・ブラックモン「セーヴルのテラスにて」1880年<br />マリー・ブラックモンは印象派の女性の画家です。夫フェリックスを通じて印象派の画家たちを知りました。この作品は1880年の印象派展に出品した同タイトルの作品(ジュネーヴ、プティ・パレ美術館)と同時期に制作されました。モデルは、友人の画家ファンタン=ラトゥールとその妻ヴィクトリア・デュブール、そして右側の女性は画家自身であろうとの見方がある一方で、画家の息子ピエールは、妹のルイーズ・キヴォロンがそのモデルになったと語っています。右側の女性の白い衣装は、太陽の光を受けて輝く様子が、青と淡いピンクで描かれているなど、モネやルノワールの絵画に学び、光による微妙な色調の変化をとらえた、印象派らしい描法となっています。

    マリー・ブラックモン「セーヴルのテラスにて」1880年
    マリー・ブラックモンは印象派の女性の画家です。夫フェリックスを通じて印象派の画家たちを知りました。この作品は1880年の印象派展に出品した同タイトルの作品(ジュネーヴ、プティ・パレ美術館)と同時期に制作されました。モデルは、友人の画家ファンタン=ラトゥールとその妻ヴィクトリア・デュブール、そして右側の女性は画家自身であろうとの見方がある一方で、画家の息子ピエールは、妹のルイーズ・キヴォロンがそのモデルになったと語っています。右側の女性の白い衣装は、太陽の光を受けて輝く様子が、青と淡いピンクで描かれているなど、モネやルノワールの絵画に学び、光による微妙な色調の変化をとらえた、印象派らしい描法となっています。

  • カミーユ・ピサロ「菜園」1878年  <br />ピサロは、1866年、36歳のときにポントワーズを訪れて以来、1883年までたびたび同地に滞在して、300点もの油彩画とおびただしい量の素描と版画を制作しました。パリの北西約40km のところに位置するポントワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川に面した古い街です。ポントワーズでつくられた農作物はパリに出荷されましたが、とりわけキャベツがこの土地の名産として知られていました。この作品では、キャベツ畑を囲むように木々が枝を張っています。影にも青や緑などの色彩が使われた、印象派の画家らしい光に満ちた表現です。

    カミーユ・ピサロ「菜園」1878年
    ピサロは、1866年、36歳のときにポントワーズを訪れて以来、1883年までたびたび同地に滞在して、300点もの油彩画とおびただしい量の素描と版画を制作しました。パリの北西約40km のところに位置するポントワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川に面した古い街です。ポントワーズでつくられた農作物はパリに出荷されましたが、とりわけキャベツがこの土地の名産として知られていました。この作品では、キャベツ畑を囲むように木々が枝を張っています。影にも青や緑などの色彩が使われた、印象派の画家らしい光に満ちた表現です。

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