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石橋財団コレクション選の2023年12月9日[土] - 2024年3月3日[日]開催分です。<br />石橋財団は、19世紀後半の印象派から20世紀の西洋近代絵画、明治以降の日本の近代絵画、第二次世界大戦後の抽象絵画、日本および東洋の近世・近代美術、ギリシア・ローマの美術など現在約3,000点の作品を収蔵しています。5階ではこれらコレクションの中から選りすぐりの作品をご紹介します。<br />初お見えの作品も何点かありました。<br />解説はHPを参照しました。

2024.2 石橋財団コレクション選

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2024/02/18 - 2024/02/18

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旅行記グループ アーティゾン美術館

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石橋財団コレクション選の2023年12月9日[土] - 2024年3月3日[日]開催分です。
石橋財団は、19世紀後半の印象派から20世紀の西洋近代絵画、明治以降の日本の近代絵画、第二次世界大戦後の抽象絵画、日本および東洋の近世・近代美術、ギリシア・ローマの美術など現在約3,000点の作品を収蔵しています。5階ではこれらコレクションの中から選りすぐりの作品をご紹介します。
初お見えの作品も何点かありました。
解説はHPを参照しました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
新幹線
  • カミーユ・コロー「森の中の若い女」1865年<br />フランスを代表する風景画家として知られるコローですが、1830年代から肖像画や人物画を制作し、1850年代以降は、現実にとらわれない、追想による人物画を手がけました。この作品では森の中で若い娘が微笑みかけています。けれども実際はアトリエで、プロのモデルにイタリアの農婦の装いをさせて描いたものです。若い頃にイタリアで描いた習作《たたずむイタリアの若い女》(1825?26年、個人蔵)を再び取り上げて、発展させたものと考えられます。青春を過ごしたイタリアの思い出と、彼が最晩年になって踏み込んだ叙情的世界とが表されています。

    カミーユ・コロー「森の中の若い女」1865年
    フランスを代表する風景画家として知られるコローですが、1830年代から肖像画や人物画を制作し、1850年代以降は、現実にとらわれない、追想による人物画を手がけました。この作品では森の中で若い娘が微笑みかけています。けれども実際はアトリエで、プロのモデルにイタリアの農婦の装いをさせて描いたものです。若い頃にイタリアで描いた習作《たたずむイタリアの若い女》(1825?26年、個人蔵)を再び取り上げて、発展させたものと考えられます。青春を過ごしたイタリアの思い出と、彼が最晩年になって踏み込んだ叙情的世界とが表されています。

  • ギュスターヴ・クールベ「石切り場の雪景色」1870年頃<br />

    ギュスターヴ・クールベ「石切り場の雪景色」1870年頃

  • ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィル近郊の浜」1865年頃<br />フランスのノルマンディー地方出身の画家ブーダンは、海景画を得意としました。彼の作品では、多くの場合、低い位置に地平線が設定されます。この作品でも上半分を空が占めます。浜辺に集うのは、流行の衣服をまとったパリの上流階級の男女。左側のグループの中で、山高帽をかぶって立つ男性は、ロトシルド(ロスチャイルド)男爵、日傘をさして椅子にすわる白い衣服の女性は、皇妃ウジェーヌです。彼女に従うように犬がすわっています。トルーヴィルはノルマンディー地方にある小さな漁村でしたが、1820年代以降、絵画や小説の題材として扱われるようになりました。

    ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィル近郊の浜」1865年頃
    フランスのノルマンディー地方出身の画家ブーダンは、海景画を得意としました。彼の作品では、多くの場合、低い位置に地平線が設定されます。この作品でも上半分を空が占めます。浜辺に集うのは、流行の衣服をまとったパリの上流階級の男女。左側のグループの中で、山高帽をかぶって立つ男性は、ロトシルド(ロスチャイルド)男爵、日傘をさして椅子にすわる白い衣服の女性は、皇妃ウジェーヌです。彼女に従うように犬がすわっています。トルーヴィルはノルマンディー地方にある小さな漁村でしたが、1820年代以降、絵画や小説の題材として扱われるようになりました。

  • アンリ・ファンタン=ラトゥール「静物(花、果実、ワイングラスとティーカップ)」1865年<br />ファンタン=ラトゥールは、クールベ以降のレアリスムの潮流に刺激を受けながらも、ロマン主義の画家ドラクロワからの影響で幻想的な絵画を描きました。その一方、初期から晩年に至るまで、静物画も手がけています。彼が手本としたのは、17世紀オランダ絵画や18世紀フランスの画家シャルダンらの先例でした。この作品では、花瓶に飾られた色とりどりの花、ザクロ、レモン、飲物の入ったワイングラス、空のティーカップ、スプーンがテーブルの上に整然と並んでいます。白色が効果的に使われることで、花や果実の色彩が際立ちます。

    アンリ・ファンタン=ラトゥール「静物(花、果実、ワイングラスとティーカップ)」1865年
    ファンタン=ラトゥールは、クールベ以降のレアリスムの潮流に刺激を受けながらも、ロマン主義の画家ドラクロワからの影響で幻想的な絵画を描きました。その一方、初期から晩年に至るまで、静物画も手がけています。彼が手本としたのは、17世紀オランダ絵画や18世紀フランスの画家シャルダンらの先例でした。この作品では、花瓶に飾られた色とりどりの花、ザクロ、レモン、飲物の入ったワイングラス、空のティーカップ、スプーンがテーブルの上に整然と並んでいます。白色が効果的に使われることで、花や果実の色彩が際立ちます。

  • メアリー・カサット「日光浴(浴後)」 1901年<br />カサットは、アメリカ出身の印象派の女性の画家です。1872年にピサロに出会ったことが、1879年の第4回印象派展に出品するきっかけになりました。母子像は、カサットが生涯描き続けた主題で、中でも浴後の母子像を幾度も描いています。ここでは川辺の草の上にすわって寄り添う母子の姿が描かれています。前景には、優雅に横臥する母親と裸の子ども。その後ろにはラベンダー色の花が見えます。後景には、水面に映る木々の緑が揺らぐ様子がとらえられています。明るい色彩や生気溢れる筆触に、印象派的な要素を見ることができます。対角線上に人物を配置する構図や装飾的な衣装など、この頃の作品に浮世絵の影響が指摘されています

    メアリー・カサット「日光浴(浴後)」 1901年
    カサットは、アメリカ出身の印象派の女性の画家です。1872年にピサロに出会ったことが、1879年の第4回印象派展に出品するきっかけになりました。母子像は、カサットが生涯描き続けた主題で、中でも浴後の母子像を幾度も描いています。ここでは川辺の草の上にすわって寄り添う母子の姿が描かれています。前景には、優雅に横臥する母親と裸の子ども。その後ろにはラベンダー色の花が見えます。後景には、水面に映る木々の緑が揺らぐ様子がとらえられています。明るい色彩や生気溢れる筆触に、印象派的な要素を見ることができます。対角線上に人物を配置する構図や装飾的な衣装など、この頃の作品に浮世絵の影響が指摘されています

  • エドガー・ドガ「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年頃<br />ドガは、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモートに学び、ルーヴル美術館での模写やおよそ3年に及ぶイタリア滞在を通じて、ルネサンス期の絵画研究に若き日の情熱を傾けました。1860年代以降は、近しい人々の肖像やパリの風俗を主題に描く中で、マネやのちの印象派の画家たちと交流を結ぶようになります。この作品で描かれているレオポール・ルヴェールは、軍服のデザイナーから出発した風景画家・版画家で、その転身にはドガの後押しがあったようです。この肖像が描かれた時期に始まる印象派展にも、ルヴェールは第1回展から第3回展、そして第5回展に出品しています。彼は、ドガの友人で同じく印象派展に出品を重ねた画家アンリ・ルアールと親しく、この作品が当初、ルアールの所蔵であった事実は、ドガを中心とする画家たちの繋がりを物語っています。ドガによるルヴェールの顔と頭部の描写は細やかで、アカデミックな技術の裏付けをうかがわせます。他方、胴体部を描き出す素早い筆致と簡略化された仕上げには、印象派らしい手法を見ることができます。装束の黒と背景を彩る白の組み合わせを主調としながら、おそらくパレットナイフを用いて頭部の周りに赤をあしらう筆さばきは軽やかで、親しい友人を前に気取りなく筆を振るうドガの様子がうかがえます。

    エドガー・ドガ「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年頃
    ドガは、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモートに学び、ルーヴル美術館での模写やおよそ3年に及ぶイタリア滞在を通じて、ルネサンス期の絵画研究に若き日の情熱を傾けました。1860年代以降は、近しい人々の肖像やパリの風俗を主題に描く中で、マネやのちの印象派の画家たちと交流を結ぶようになります。この作品で描かれているレオポール・ルヴェールは、軍服のデザイナーから出発した風景画家・版画家で、その転身にはドガの後押しがあったようです。この肖像が描かれた時期に始まる印象派展にも、ルヴェールは第1回展から第3回展、そして第5回展に出品しています。彼は、ドガの友人で同じく印象派展に出品を重ねた画家アンリ・ルアールと親しく、この作品が当初、ルアールの所蔵であった事実は、ドガを中心とする画家たちの繋がりを物語っています。ドガによるルヴェールの顔と頭部の描写は細やかで、アカデミックな技術の裏付けをうかがわせます。他方、胴体部を描き出す素早い筆致と簡略化された仕上げには、印象派らしい手法を見ることができます。装束の黒と背景を彩る白の組み合わせを主調としながら、おそらくパレットナイフを用いて頭部の周りに赤をあしらう筆さばきは軽やかで、親しい友人を前に気取りなく筆を振るうドガの様子がうかがえます。

  • エドゥアール・マネ 「自画像」1878-79年<br />マネは、近代都市パリの風俗を描いたことで知られますが、肖像画の名手でもありました。そのようなマネの油彩による自画像は2点しか残されていません(もう1点は個人蔵)。どちらもほぼ同じ時期、46、7歳のときの作品です。画壇での評価が確立されたことへの自負心から、これらの自画像を制作したと考えられています。

    エドゥアール・マネ 「自画像」1878-79年
    マネは、近代都市パリの風俗を描いたことで知られますが、肖像画の名手でもありました。そのようなマネの油彩による自画像は2点しか残されていません(もう1点は個人蔵)。どちらもほぼ同じ時期、46、7歳のときの作品です。画壇での評価が確立されたことへの自負心から、これらの自画像を制作したと考えられています。

  • マリー・ブラックモン「セーヴルのテラスにて」1880年<br />マリー・ブラックモンは印象派の女性の画家です。夫フェリックスを通じて印象派の画家たちを知りました。この作品は1880年の印象派展に出品した同タイトルの作品(ジュネーヴ、プティ・パレ美術館)と同時期に制作されました。モデルは、友人の画家ファンタン=ラトゥールとその妻ヴィクトリア・デュブール、そして右側の女性は画家自身であろうとの見方がある一方で、画家の息子ピエールは、妹のルイーズ・キヴォロンがそのモデルになったと語っています。右側の女性の白い衣装は、太陽の光を受けて輝く様子が、青と淡いピンクで描かれているなど、モネやルノワールの絵画に学び、光による微妙な色調の変化をとらえた、印象派らしい描法となっています。

    マリー・ブラックモン「セーヴルのテラスにて」1880年
    マリー・ブラックモンは印象派の女性の画家です。夫フェリックスを通じて印象派の画家たちを知りました。この作品は1880年の印象派展に出品した同タイトルの作品(ジュネーヴ、プティ・パレ美術館)と同時期に制作されました。モデルは、友人の画家ファンタン=ラトゥールとその妻ヴィクトリア・デュブール、そして右側の女性は画家自身であろうとの見方がある一方で、画家の息子ピエールは、妹のルイーズ・キヴォロンがそのモデルになったと語っています。右側の女性の白い衣装は、太陽の光を受けて輝く様子が、青と淡いピンクで描かれているなど、モネやルノワールの絵画に学び、光による微妙な色調の変化をとらえた、印象派らしい描法となっています。

  • エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃<br />ゴンザレスはフランスの画家。父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、母親はベルギー出身の音楽家です。1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じてマネを紹介され、そのモデルとなり、次いでその弟子となりました。サロンへの出品を優先したため、第1回印象派展への出品を断り、その後も師マネと同様に印象派展に出品することはありませんでした。しかしゴンザレスの絵画様式は、マネと印象派のそれと近いものであり、それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられます。

    エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃
    ゴンザレスはフランスの画家。父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、母親はベルギー出身の音楽家です。1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じてマネを紹介され、そのモデルとなり、次いでその弟子となりました。サロンへの出品を優先したため、第1回印象派展への出品を断り、その後も師マネと同様に印象派展に出品することはありませんでした。しかしゴンザレスの絵画様式は、マネと印象派のそれと近いものであり、それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられます。

  • クロード・モネ「睡蓮」1903年<br />モネは1883年より、パリ近郊ジヴェルニーに居を構えました。1890年には家と土地を購入し、セーヌ川支流のエプト川のさらに支流のリュー川から庭の池に水を引き、そこに睡蓮を浮かべて制作を続けました。1901年から翌年にかけては土地を買い足し、池を拡張しています。その後のモネは睡蓮の絵画制作に没頭することになります。この作品では全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。画面は今にも動き出しそうな躍動感を持っています。

    クロード・モネ「睡蓮」1903年
    モネは1883年より、パリ近郊ジヴェルニーに居を構えました。1890年には家と土地を購入し、セーヌ川支流のエプト川のさらに支流のリュー川から庭の池に水を引き、そこに睡蓮を浮かべて制作を続けました。1901年から翌年にかけては土地を買い足し、池を拡張しています。その後のモネは睡蓮の絵画制作に没頭することになります。この作品では全体を水面が覆い、ところどころに花をつけた睡蓮が浮かぶ様子が描かれています。画面は今にも動き出しそうな躍動感を持っています。

  • クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃<br />1908年9月末、67歳のモネは、静養する目的で、妻アリスとともにイタリアの都市ヴェネツィアを初めて訪れました。この都市に魅了されたモネは、しばらく滞在することを決めました。そして約2カ月の滞在中に約30点の作品を制作したのです。この作品の左側に描かれているのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。逆光の中、教会はシルエットで表されています。黄昏の燃えるような光が、建物や空、水面をオレンジ色に輝かせ、水平線に向かうほど赤みが強くなっています。空にはうねるような筆致、水面には横向きのタッチを使っています。モネの巧みな筆づかいを見て取ることができます。

    クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃
    1908年9月末、67歳のモネは、静養する目的で、妻アリスとともにイタリアの都市ヴェネツィアを初めて訪れました。この都市に魅了されたモネは、しばらく滞在することを決めました。そして約2カ月の滞在中に約30点の作品を制作したのです。この作品の左側に描かれているのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。逆光の中、教会はシルエットで表されています。黄昏の燃えるような光が、建物や空、水面をオレンジ色に輝かせ、水平線に向かうほど赤みが強くなっています。空にはうねるような筆致、水面には横向きのタッチを使っています。モネの巧みな筆づかいを見て取ることができます。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」1876年<br />この作品に描かれているのは、ジョルジュ・シャルパンティエの当時4歳の長女ジョルジェット。青色のドレスと靴下を身につけたジョルジェットは、椅子にすわって微笑んでいます。伝統的な肖像画のような堅苦しい雰囲気はなく、モデルのくつろいだ様子が生き生きと表現されています。足を組んだおしゃまなポーズと大き過ぎる大人用の椅子との対比により、少女の可愛らしさが際立ちます。近くで見ると、影の表現に青い線が使われているのがわかります。床には絨毯が敷かれ、家具の上には花瓶が飾られており、19世紀のパリの裕福な家庭の様子を伝えてくれます。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」1876年
    この作品に描かれているのは、ジョルジュ・シャルパンティエの当時4歳の長女ジョルジェット。青色のドレスと靴下を身につけたジョルジェットは、椅子にすわって微笑んでいます。伝統的な肖像画のような堅苦しい雰囲気はなく、モデルのくつろいだ様子が生き生きと表現されています。足を組んだおしゃまなポーズと大き過ぎる大人用の椅子との対比により、少女の可愛らしさが際立ちます。近くで見ると、影の表現に青い線が使われているのがわかります。床には絨毯が敷かれ、家具の上には花瓶が飾られており、19世紀のパリの裕福な家庭の様子を伝えてくれます。

  • ポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃<br />1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきました。

    ポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃
    1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきました。

  • ポール・ゴーガン 「乾草」1889年<br />1888年暮れ、アルルでのファン・ゴッホとの共同生活が終結したのち、40歳のゴーガンは、ポン=タヴェンからさらに南に下った海辺の村ル・プールデュに初めて赴きました。その後、1889年秋から1890年11月までの間、友人のオランダ人画家メイエル・デ・ハーンとともに、小さな宿屋に滞在し、この宿屋の食堂の4つの壁面を自分たちの作品で飾る計画に着手しました。《乾草》はそのうちの1点です。色面に区切られた地面には規則的な筆致が見られます。垂直に伸びる木々は、装飾的な効果を生み出しています。

    ポール・ゴーガン 「乾草」1889年
    1888年暮れ、アルルでのファン・ゴッホとの共同生活が終結したのち、40歳のゴーガンは、ポン=タヴェンからさらに南に下った海辺の村ル・プールデュに初めて赴きました。その後、1889年秋から1890年11月までの間、友人のオランダ人画家メイエル・デ・ハーンとともに、小さな宿屋に滞在し、この宿屋の食堂の4つの壁面を自分たちの作品で飾る計画に着手しました。《乾草》はそのうちの1点です。色面に区切られた地面には規則的な筆致が見られます。垂直に伸びる木々は、装飾的な効果を生み出しています。

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年<br />1886年早春、ファン・ゴッホはアントウェルペンを去り、パリに到着しました。到着後、ゴッホは弟テオとモンマルトルの丘の中腹に新たにアパルトマンを借り、同居を始めます。この作品に描かれている風車は、そのアパルトマンのすぐ近くにある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というダンス場のシンボルです。ゴッホは故郷オランダを思い起こさせるモンマルトルの風車を様々な角度から繰り返し描きました。華やかな都会の裏側のもの悲しい雰囲気がうかがえる一方で、かつてのオランダ時代のゴッホ作品には見られない明るい色彩で描かれた1点です。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年
    1886年早春、ファン・ゴッホはアントウェルペンを去り、パリに到着しました。到着後、ゴッホは弟テオとモンマルトルの丘の中腹に新たにアパルトマンを借り、同居を始めます。この作品に描かれている風車は、そのアパルトマンのすぐ近くにある「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」というダンス場のシンボルです。ゴッホは故郷オランダを思い起こさせるモンマルトルの風車を様々な角度から繰り返し描きました。華やかな都会の裏側のもの悲しい雰囲気がうかがえる一方で、かつてのオランダ時代のゴッホ作品には見られない明るい色彩で描かれた1点です。

  • パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年<br />ここで描かれているのは、サルタンバンクと呼ばれる大道芸人です。イタリア語の「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)」を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉です。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていました。

    パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年
    ここで描かれているのは、サルタンバンクと呼ばれる大道芸人です。イタリア語の「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)」を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉です。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていました。

  • エドガー・ドガ「右手で右足を持つ踊り子」1896-1911年

    エドガー・ドガ「右手で右足を持つ踊り子」1896-1911年

  • アリスティド・マイヨール「女の顔」

    アリスティド・マイヨール「女の顔」

  • モーリス・ド・ヴラマンク「色彩のシンフォニー(花)」1905-06年

    モーリス・ド・ヴラマンク「色彩のシンフォニー(花)」1905-06年

  • アンリ・マティス「石膏のある静物」1927年

    アンリ・マティス「石膏のある静物」1927年

  • アンドレ・ドラン「ヴァイオリンを弾くヴラマンクの肖像」1905年

    アンドレ・ドラン「ヴァイオリンを弾くヴラマンクの肖像」1905年

  • ヴァシリー・カンディンスキー「3本の菩提樹」1908年

    ヴァシリー・カンディンスキー「3本の菩提樹」1908年

  • アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「サーカスの舞台裏」1887年頃<br />トゥールーズ=ロートレックは、大衆文化花開く「美しき時代」のパリに出て、モンマルトルに住み、ダンス・ホール、劇場や娼館などに入り浸り、歓楽の街に生きる人々の華やかな姿を描くと同時に、その悲哀を描いて数々の傑作を残しました。薄暗い光景の中央には、逞しい体軀の馬がすっくと立ち、正面を見据えています。その右前で馬の手綱に手をかけようとしているだぶだぶの衣装に滑稽な帽子をかぶっているのは道化師でしょう。その右側には舞台を仕切る馬使いの男がその様子を見守っています。彼らの左側には、華やかな衣装に身を包んだ女曲馬師が静かに歩み寄らんとしています。華やかな表舞台とは対照的な薄暗い舞台裏を描いていることを意識してか、画面はモノトーンで描かれていますが、静寂の中に本番を前にした緊張感が、ロートレック独特の線描と光と影の濃淡の配置によって伝えられています。1880年代半ば頃より、ロートレックは、モンマルトルのフェルナンド・サーカスを主題として作品を制作しました。シカゴ美術館所蔵の《サーカスの曲馬師》もそのひとつです。この作品もこれに連なるものと考えられています。シカゴ作品が動的な構図の妙を伝えるならば、この作品は対照的に静的な構図の妙を見る者に伝えます。

    アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「サーカスの舞台裏」1887年頃
    トゥールーズ=ロートレックは、大衆文化花開く「美しき時代」のパリに出て、モンマルトルに住み、ダンス・ホール、劇場や娼館などに入り浸り、歓楽の街に生きる人々の華やかな姿を描くと同時に、その悲哀を描いて数々の傑作を残しました。薄暗い光景の中央には、逞しい体軀の馬がすっくと立ち、正面を見据えています。その右前で馬の手綱に手をかけようとしているだぶだぶの衣装に滑稽な帽子をかぶっているのは道化師でしょう。その右側には舞台を仕切る馬使いの男がその様子を見守っています。彼らの左側には、華やかな衣装に身を包んだ女曲馬師が静かに歩み寄らんとしています。華やかな表舞台とは対照的な薄暗い舞台裏を描いていることを意識してか、画面はモノトーンで描かれていますが、静寂の中に本番を前にした緊張感が、ロートレック独特の線描と光と影の濃淡の配置によって伝えられています。1880年代半ば頃より、ロートレックは、モンマルトルのフェルナンド・サーカスを主題として作品を制作しました。シカゴ美術館所蔵の《サーカスの曲馬師》もそのひとつです。この作品もこれに連なるものと考えられています。シカゴ作品が動的な構図の妙を伝えるならば、この作品は対照的に静的な構図の妙を見る者に伝えます。

  • ジョルジョ・デ・キリコ 「吟遊詩人」1948年<br />デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えました。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいています。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘でした。X 線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されていますが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼びます。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ています。

    ジョルジョ・デ・キリコ 「吟遊詩人」1948年
    デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えました。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいています。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘でした。X 線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されていますが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼びます。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ています。

  • アレクサンダー・アーキペンコ「ゴンドラの船頭」1914年<br />この作品は、1914年にパリのアンデパンダン展に出品され、人々を驚愕させた等身大のサイズの縮小版です。主題はヴェネツィア名物のゴンドラの船頭。ある雑誌は、「ヴェネツィアの雑貨屋が出品した、工場の煙突用の風見鶏」と酷評しました。極度に単純化された機械的なフォルムと金属の質感が、人間の形体を幾何学的で無機質にしています。空間を斜めに裁断する櫂は、船頭のこぐ動きと、すべるようなゴンドラの動きとを暗示し、それらの動きの本質そのものを抽象的かつコンパクトに表します。1910年代、アーキペンコは、ザツキンらとともに、自然の模倣に基づく伝統的な西洋彫刻とは異なる新しい形の探求をし、キュビスムの発展に貢献しました。

    アレクサンダー・アーキペンコ「ゴンドラの船頭」1914年
    この作品は、1914年にパリのアンデパンダン展に出品され、人々を驚愕させた等身大のサイズの縮小版です。主題はヴェネツィア名物のゴンドラの船頭。ある雑誌は、「ヴェネツィアの雑貨屋が出品した、工場の煙突用の風見鶏」と酷評しました。極度に単純化された機械的なフォルムと金属の質感が、人間の形体を幾何学的で無機質にしています。空間を斜めに裁断する櫂は、船頭のこぐ動きと、すべるようなゴンドラの動きとを暗示し、それらの動きの本質そのものを抽象的かつコンパクトに表します。1910年代、アーキペンコは、ザツキンらとともに、自然の模倣に基づく伝統的な西洋彫刻とは異なる新しい形の探求をし、キュビスムの発展に貢献しました。

  • パウル・クレー「双子」1930年

    パウル・クレー「双子」1930年

  • パウル・クレー「小さな港」1937年

    パウル・クレー「小さな港」1937年

  • 荒川修作「クールベのカンヴァスNo.2」1972年

    荒川修作「クールベのカンヴァスNo.2」1972年

  • イマンツ・ティラーズ「自然は語るH」「自然は語るD」2005年

    イマンツ・ティラーズ「自然は語るH」「自然は語るD」2005年

  • ジョアン・ミロ「絵画」1927年

    ジョアン・ミロ「絵画」1927年

  •  田中信太郎「Heliotrope 2008」2008年

    田中信太郎「Heliotrope 2008」2008年

  • マーク・ロスコ「無題」1969年

    マーク・ロスコ「無題」1969年

  • ジョージア・オキーフ「オータム・リーフ II」1927年

    ジョージア・オキーフ「オータム・リーフ II」1927年

  • ジャクソン・ポロック「ナンバー2、1951」1951年<br />ポロックは、ピカソやシュルレアリスムといったヨーロッパのモダニズムを受容する一方、アメリカ先住民の砂絵やメキシコ壁画運動の影響下に、絵具の滴りを自在に操って画面を埋め尽くす独自の手法によるアクション・ペインティングを創出し、抽象表現主義の旗手となります。この作品が制作されたのは、そのスタイルを離れて、黒の線による絵画を試行していた時期で、余白との緊張のうちに多様な線が展開しています。その中で浮かび上がる複数の紡錘形は、この時期には珍しく色彩が施され、形象へのこだわりもうかがわせます。

    ジャクソン・ポロック「ナンバー2、1951」1951年
    ポロックは、ピカソやシュルレアリスムといったヨーロッパのモダニズムを受容する一方、アメリカ先住民の砂絵やメキシコ壁画運動の影響下に、絵具の滴りを自在に操って画面を埋め尽くす独自の手法によるアクション・ペインティングを創出し、抽象表現主義の旗手となります。この作品が制作されたのは、そのスタイルを離れて、黒の線による絵画を試行していた時期で、余白との緊張のうちに多様な線が展開しています。その中で浮かび上がる複数の紡錘形は、この時期には珍しく色彩が施され、形象へのこだわりもうかがわせます。

  • 元永定正「無題」1965年<br />元永定正は三重県の出身。様々な職業を経験しながら絵を学び、1955年に具体美術協会の野外展に出品したことを契機に「具体」のメンバーになりました。1958年頃からカンヴァスに絵具を直接流して描き始め、原色の対比とダイナミックな躍動感に満ちた作品で「具体」グループを代表する作家となりました。

    元永定正「無題」1965年
    元永定正は三重県の出身。様々な職業を経験しながら絵を学び、1955年に具体美術協会の野外展に出品したことを契機に「具体」のメンバーになりました。1958年頃からカンヴァスに絵具を直接流して描き始め、原色の対比とダイナミックな躍動感に満ちた作品で「具体」グループを代表する作家となりました。

  • 草間彌生 「無限の網(無題)」 1962年頃<br />草間彌生は幼い頃から幻覚や幻聴に悩まされ、それを鎮めるために紙に絵を描き留め始めたのが創作活動のきっかけとなりました。1957(昭和32)年に渡米した草間は、次第に前衛的な絵画表現を試みるようになりました。1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで個展を開催。カンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込んだ絵画を発表し、注目を浴びます。これは網目状に見えることからのちにネット・ペインティングと呼ばれるようになりました。白地に赤い網目をめぐらせたこの作品はその展開形です。緻密ながら躍動感のある緊張感溢れる画面を創造しています。<br /><br />

    草間彌生 「無限の網(無題)」 1962年頃
    草間彌生は幼い頃から幻覚や幻聴に悩まされ、それを鎮めるために紙に絵を描き留め始めたのが創作活動のきっかけとなりました。1957(昭和32)年に渡米した草間は、次第に前衛的な絵画表現を試みるようになりました。1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで個展を開催。カンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込んだ絵画を発表し、注目を浴びます。これは網目状に見えることからのちにネット・ペインティングと呼ばれるようになりました。白地に赤い網目をめぐらせたこの作品はその展開形です。緻密ながら躍動感のある緊張感溢れる画面を創造しています。

  •  猪熊弦一郎「スカイ・トライアングル」1968年

    猪熊弦一郎「スカイ・トライアングル」1968年

  • 長谷川利行「動物園風景」1937年頃

    長谷川利行「動物園風景」1937年頃

  • 小島善太郎「アンティーブ風景」1924年

    小島善太郎「アンティーブ風景」1924年

  • 安井曾太郎 「F夫人像」1939年<br />1934(昭和9)年の《玉蟲先生像》(東北大学)、《金蓉》(東京国立近代美術館)によって、肖像画の名手という評価を得た安井曾太郎には、その後、生涯にわたって肖像画の注文が途絶えることがありませんでした。この女性は、コレクターである福島繁太郎の妻で、随筆家として知られた慶子です。2人は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、パブロ・ピカソなどの同時代の画家から数多くの作品を購入して日本に持ち帰りました。<br /> パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました

    安井曾太郎 「F夫人像」1939年
    1934(昭和9)年の《玉蟲先生像》(東北大学)、《金蓉》(東京国立近代美術館)によって、肖像画の名手という評価を得た安井曾太郎には、その後、生涯にわたって肖像画の注文が途絶えることがありませんでした。この女性は、コレクターである福島繁太郎の妻で、随筆家として知られた慶子です。2人は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、パブロ・ピカソなどの同時代の画家から数多くの作品を購入して日本に持ち帰りました。
     パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました

  • 梅原龍三郎「ナポリよりソレントを望む」1921年

    梅原龍三郎「ナポリよりソレントを望む」1921年

  • 須田国太郎「檮原風景」1955年

    須田国太郎「檮原風景」1955年

  • 山下新太郎「シュザンヌ」1909年

    山下新太郎「シュザンヌ」1909年

  • 藤島武二「天平の面影」1902年<br />藤島武二は、明治30年代から昭和10年代まで日本の洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家です。日本人による油彩画のあり方を突き詰めて追求し、その技法と材料の特性を生かし切った画面をつくり出しました。<br /> 30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。白馬会展に発表されると、ただちに象徴派詩人蒲原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げました。

    藤島武二「天平の面影」1902年
    藤島武二は、明治30年代から昭和10年代まで日本の洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家です。日本人による油彩画のあり方を突き詰めて追求し、その技法と材料の特性を生かし切った画面をつくり出しました。
     30代半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした時代の典型作です。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモティーフを組み合わせました。花咲く桐の下に立つ女性は、奈良時代の衣装を身につけ、箜篌という古代楽器を手にしています。その健康的な体軀は、右脚に体重を載せ、自由の利く左膝を少し前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS 字を描いています。古代ギリシアで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズです。東洋と西洋の2つの古代への憧憬を、藤島は具体的な女性像に重ね合わせました。背景の金地は、その物語性をより強める効果を持っています。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古典古代ともいうべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っています。白馬会展に発表されると、ただちに象徴派詩人蒲原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げました。

  • 岡田三郎助「薔薇の少女」1901年

    岡田三郎助「薔薇の少女」1901年

  • 古賀春江 「素朴な月夜」1929年<br />古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画会研究所で学びます。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名としました。宗教大学(現・大正大学)にも一時通いましたが、1918年に辞め、その後は画業に専念します。1922年の二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現へと転じました。<br /> 1929(昭和4)年、古賀はこの作品と《鳥籠》(cat. no. 161)を含む5点を第16回二科展へ出品しました。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機。卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているかのようです。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない不思議な世界が広がります。脈絡のないモティーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術の新潮流シュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品作とともにその作風は注目を集めました。<br /> 1931年に刊行された『古賀春江画集』には、31点の作品図版と自作の詩が解題として付されています。この作品の詩には、唯一共通のモティーフとして「白いまん丸い月」が登場しますが、「私」が水の中の底のほうへ歩いて行き、鉄張りでできた海豚のお腹の中へ入って行くという作品とは関連のない内容が表されています。

    古賀春江 「素朴な月夜」1929年
    古賀春江は松田諦晶に絵を教わり、上京後は太平洋画会研究所と日本水彩画会研究所で学びます。浄土宗寺院の長男である古賀は、1915(大正4)年僧籍に入り良昌と改名、春江を呼び名としました。宗教大学(現・大正大学)にも一時通いましたが、1918年に辞め、その後は画業に専念します。1922年の二科賞受賞を機に前衛グループ「アクション」の結成に参加、1926年頃からはパウル・クレーの作品に依る童画風表現へと転じました。
     1929(昭和4)年、古賀はこの作品と《鳥籠》(cat. no. 161)を含む5点を第16回二科展へ出品しました。月夜に飛ぶ梟と蝶、煙を上げながら降下する飛行機。卓上には果物や卵、酒瓶、花瓶の花、さらには建物の一部が載っているかのようです。全身水玉模様の人物や、こちらを見ている犬も不気味な雰囲気を醸し、読み解こうにも読み解けない不思議な世界が広がります。脈絡のないモティーフの並置や奇妙な配置によって幻想的な世界を表す手法に、西洋美術の新潮流シュルレアリスムとの関連が当時から指摘され、東郷青児や、阿部金剛、中川紀元の二科展出品作とともにその作風は注目を集めました。
     1931年に刊行された『古賀春江画集』には、31点の作品図版と自作の詩が解題として付されています。この作品の詩には、唯一共通のモティーフとして「白いまん丸い月」が登場しますが、「私」が水の中の底のほうへ歩いて行き、鉄張りでできた海豚のお腹の中へ入って行くという作品とは関連のない内容が表されています。

  • 古賀春江「素朴な月夜」1929年

    古賀春江「素朴な月夜」1929年

  • 青木繁 「わだつみのいろこの宮」1907年<br />読書家だった青木繁は内外の神話を広く読みあさり、その中から特に日本神話に取材した作品をいくつも残しました。この作品も『古事記』から取られています。兄の海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、それを探し求めて海底に下りていきます。すると「魚鱗のごとく造れる」海神綿津見の宮殿があり、その入り口に井戸を見つけました。水を汲みに宮殿から出て来た侍女が桂樹にすわる山幸彦に気づき、海神の娘、豊玉姫を呼びます。山幸彦と視線を交わす左の赤い衣が豊玉姫、右の白い衣が侍女です。やがて山幸彦と豊玉姫は結ばれて、2人の間に生まれた男児が天皇家の祖となります。<br /> 縦に細長い画面に3人の人物を配した構図には、青木が日本に舶載された印刷物などを通じて学んだ、イギリスのラファエル前派の影響が見て取れます。また、ギュスターヴ・モローの色づかいにも感化されていることを青木は語っています。青木は、日本にいて遠く離れた西洋の世紀末美術の特質を鋭敏に感じ取っていました。この作品は1907(明治40)年春に開かれた東京勧業博覧会に出品するために制作され、未完成作品の多い青木の中では完成度の高いものです。会場でこれを見た夏目漱石は、2年後の小説『それから』の中で、「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った」と書いています。

    青木繁 「わだつみのいろこの宮」1907年
    読書家だった青木繁は内外の神話を広く読みあさり、その中から特に日本神話に取材した作品をいくつも残しました。この作品も『古事記』から取られています。兄の海幸彦から借りた釣針をなくした山幸彦は、それを探し求めて海底に下りていきます。すると「魚鱗のごとく造れる」海神綿津見の宮殿があり、その入り口に井戸を見つけました。水を汲みに宮殿から出て来た侍女が桂樹にすわる山幸彦に気づき、海神の娘、豊玉姫を呼びます。山幸彦と視線を交わす左の赤い衣が豊玉姫、右の白い衣が侍女です。やがて山幸彦と豊玉姫は結ばれて、2人の間に生まれた男児が天皇家の祖となります。
     縦に細長い画面に3人の人物を配した構図には、青木が日本に舶載された印刷物などを通じて学んだ、イギリスのラファエル前派の影響が見て取れます。また、ギュスターヴ・モローの色づかいにも感化されていることを青木は語っています。青木は、日本にいて遠く離れた西洋の世紀末美術の特質を鋭敏に感じ取っていました。この作品は1907(明治40)年春に開かれた東京勧業博覧会に出品するために制作され、未完成作品の多い青木の中では完成度の高いものです。会場でこれを見た夏目漱石は、2年後の小説『それから』の中で、「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った」と書いています。

    アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • 中村彝「自画像」1909-10年<br />この作品は、彝が22歳の頃に描いた自画像です。画面に対してやや斜めに構え、画家の額を頭上からの光が強く照らし出すという構図は、レンブラントの自画像からの強い影響を示しています。この作品は描かれた表情から「にがむし」というあだ名がついたとされていますが、レンブラント初期の自画像にも故意に表情をゆがめたものがしばしば見受けられます。友人で彫刻家の中原悌二郎の回想によれば、彝は1909(明治42)年頃丸善で高額のレンブラントの画集を購入し、手垢で真っ黒になる程繰り返し眺めて研究していたといいます。彝はこの時期レンブラント風の自画像を複数制作しており、この作品はそれら一連の集大成ともいえる高い完成度を示しています。

    中村彝「自画像」1909-10年
    この作品は、彝が22歳の頃に描いた自画像です。画面に対してやや斜めに構え、画家の額を頭上からの光が強く照らし出すという構図は、レンブラントの自画像からの強い影響を示しています。この作品は描かれた表情から「にがむし」というあだ名がついたとされていますが、レンブラント初期の自画像にも故意に表情をゆがめたものがしばしば見受けられます。友人で彫刻家の中原悌二郎の回想によれば、彝は1909(明治42)年頃丸善で高額のレンブラントの画集を購入し、手垢で真っ黒になる程繰り返し眺めて研究していたといいます。彝はこの時期レンブラント風の自画像を複数制作しており、この作品はそれら一連の集大成ともいえる高い完成度を示しています。

  • 小出楢重「帽子をかぶった自画像」1924年<br />1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

    小出楢重「帽子をかぶった自画像」1924年
    1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

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