丸の内・大手町・八重洲旅行記(ブログ) 一覧に戻る
アーティゾン美術館の2020年11月3日~2021年1月24日 石橋財団コレクション選です。<br />※作品解説は、HPより参照しています。

Artizon Museum 石橋財団コレクション選(1)

83いいね!

2020/12/12 - 2020/12/12

211位(同エリア4409件中)

旅行記グループ アーティゾン美術館

0

46

+mo2

+mo2さん

アーティゾン美術館の2020年11月3日~2021年1月24日 石橋財団コレクション選です。
※作品解説は、HPより参照しています。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5

PR

  • モーリス・ド・ヴラマンク 「運河船」1905-06年<br />ファン・ゴッホの作品に感化され、鮮烈な色彩と粗々しいタッチで絵を描いたヴラマンクは、マティスやドランとともにフォーヴィスム運動を牽引した画家です。ドランとはパリ郊外のシャトゥーで共同アトリエを構えるほどの仲でした。この作品はそのアトリエ周辺の景色を描いたものでしょう。前景を大胆に横切る船の水平の動きと、後景に並ぶ工場群の煙突から上る煙の垂直の動きが、生き生きとした画面を構成しています。鮮やかな原色の併置や、下地を隠さない大らかな筆づかいが特徴のこの作品は、画家のフォーヴィスム期の好例です。

    モーリス・ド・ヴラマンク 「運河船」1905-06年
    ファン・ゴッホの作品に感化され、鮮烈な色彩と粗々しいタッチで絵を描いたヴラマンクは、マティスやドランとともにフォーヴィスム運動を牽引した画家です。ドランとはパリ郊外のシャトゥーで共同アトリエを構えるほどの仲でした。この作品はそのアトリエ周辺の景色を描いたものでしょう。前景を大胆に横切る船の水平の動きと、後景に並ぶ工場群の煙突から上る煙の垂直の動きが、生き生きとした画面を構成しています。鮮やかな原色の併置や、下地を隠さない大らかな筆づかいが特徴のこの作品は、画家のフォーヴィスム期の好例です。

  • アンリ・ルソー 「牧場」1910年<br />パリ市の税関職員だった素朴派の画家ルソーは、40歳を過ぎてから独学で絵を描き始めました。この作品はルソーの最晩年、注文によって描かれたものです。牧歌的な田園風景の中に大きな樹と2頭の牛、牧童が描かれています。木の葉一枚一枚が細密に描写される一方、遠近法やモティーフの前後関係を無視した構図は、一見稚拙でもあります。しかし雲ひとつない真っ青な空や、不自然なほど平たく広がる緑の牧草地は、平凡な風景を幻想的に見せ、独特の魅力をたたえています。この作品は、ルソーに魅せられた日本画家土田麦の旧蔵品でした。

    アンリ・ルソー 「牧場」1910年
    パリ市の税関職員だった素朴派の画家ルソーは、40歳を過ぎてから独学で絵を描き始めました。この作品はルソーの最晩年、注文によって描かれたものです。牧歌的な田園風景の中に大きな樹と2頭の牛、牧童が描かれています。木の葉一枚一枚が細密に描写される一方、遠近法やモティーフの前後関係を無視した構図は、一見稚拙でもあります。しかし雲ひとつない真っ青な空や、不自然なほど平たく広がる緑の牧草地は、平凡な風景を幻想的に見せ、独特の魅力をたたえています。この作品は、ルソーに魅せられた日本画家土田麦の旧蔵品でした。

  • ピート・モンドリアン 「砂丘」1909年<br />モンドリアンは、神智学への強い関心のもと、自然と芸術に関する自身の考えを新造形主義として提唱し、幾何学的な要素に還元された禁欲的で内省的な画面を通じて、抽象的な絵画を追求しました。この作品は、モンドリアンがオランダ南西部の村ドムブルフに滞在中、砂丘を描いたシリーズの1点です。この時期、モンドリアンは砂丘や海景、建築物などに主題を絞り、色彩と形態の表現上の効果の検討を繰り返しています。この作品でも、画面が地面から空まで層状に区切られ、筆触の形や密度、色彩の組み合わせが多様に試行されています。

    ピート・モンドリアン 「砂丘」1909年
    モンドリアンは、神智学への強い関心のもと、自然と芸術に関する自身の考えを新造形主義として提唱し、幾何学的な要素に還元された禁欲的で内省的な画面を通じて、抽象的な絵画を追求しました。この作品は、モンドリアンがオランダ南西部の村ドムブルフに滞在中、砂丘を描いたシリーズの1点です。この時期、モンドリアンは砂丘や海景、建築物などに主題を絞り、色彩と形態の表現上の効果の検討を繰り返しています。この作品でも、画面が地面から空まで層状に区切られ、筆触の形や密度、色彩の組み合わせが多様に試行されています。

  • パブロ・ピカソ「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」 1913年<br />ピカソは、類まれなデッサン力と絶えざる自己革新を支えた圧倒的な創造力において、20世紀美術を代表する芸術家です。この作品は、1912年頃に始まる総合的キュビスムに位置付けられる作で、画面に異物を導入するコラージュの技法が特徴です。幾何学的な素描に基づきながら、新聞紙の断片を貼り付ける試みは、絵画をイリュージョンから現実に近づけようとするものです。触覚的な現実の二次元的再現という、キュビスムの当初の目的に立ち返るべく、ピカソは画面に砂を混ぜ込み、グラスや瓶に浮き出すような白色を施しています。

    パブロ・ピカソ「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」 1913年
    ピカソは、類まれなデッサン力と絶えざる自己革新を支えた圧倒的な創造力において、20世紀美術を代表する芸術家です。この作品は、1912年頃に始まる総合的キュビスムに位置付けられる作で、画面に異物を導入するコラージュの技法が特徴です。幾何学的な素描に基づきながら、新聞紙の断片を貼り付ける試みは、絵画をイリュージョンから現実に近づけようとするものです。触覚的な現実の二次元的再現という、キュビスムの当初の目的に立ち返るべく、ピカソは画面に砂を混ぜ込み、グラスや瓶に浮き出すような白色を施しています。

  • ジーノ・セヴェリーニ「金管奏者(路上演奏者)」 1916年頃<br />セヴェリーニはイタリアの画家。未来派運動の中心的メンバーのひとりです。1906年11月にパリに移住。モンマルトルに居を構え、画業に専念するようになりました。路上で楽器を演奏する辻楽士が主題となっています。彼が持つ楽器はトロンボーンと言われてきましたが、その形体はむしろユーフォニアムのように見えます。ピカソ、ブラックに通じるキュビスム的造形が顕著で、一部には点描も用いられています。未来派の仲間の中でもいち早くキュビスムの手法を取り入れたセヴェリーニは、フランスの同時代の動向をイタリアに橋渡しした重要な役割を担っています。

    ジーノ・セヴェリーニ「金管奏者(路上演奏者)」 1916年頃
    セヴェリーニはイタリアの画家。未来派運動の中心的メンバーのひとりです。1906年11月にパリに移住。モンマルトルに居を構え、画業に専念するようになりました。路上で楽器を演奏する辻楽士が主題となっています。彼が持つ楽器はトロンボーンと言われてきましたが、その形体はむしろユーフォニアムのように見えます。ピカソ、ブラックに通じるキュビスム的造形が顕著で、一部には点描も用いられています。未来派の仲間の中でもいち早くキュビスムの手法を取り入れたセヴェリーニは、フランスの同時代の動向をイタリアに橋渡しした重要な役割を担っています。

  • エミール=アントワーヌ・ブールデル 「弓をひくヘラクレス」1909年  <br />

    エミール=アントワーヌ・ブールデル 「弓をひくヘラクレス」1909年

  • ゲオルゲ・グロス 「プロムナード」1926年<br /> ベルリンの繁華街の歩道を歩く人々が描かれています。画面全体の色調や、目を伏せ気味に行き交う人々は重々しい雰囲気を醸し出していますが、その中で赤いドレスの女性が目を引きます。見せびらかすかのように派手に着飾った彼女の表情には、醜悪さが漂います。この作品が描かれた当時のベルリンでは、第一次大戦敗戦後の経済破綻によって世相は退廃的で、政治・社会情勢は不安定でした。対象を冷静に見つめる新即物主義の芸術運動に参加し、風刺画家として名を馳せたグロスは、この作品で社会への皮肉を込めて街の情景の中に世の不平等を表しています。<br />

    ゲオルゲ・グロス 「プロムナード」1926年
    ベルリンの繁華街の歩道を歩く人々が描かれています。画面全体の色調や、目を伏せ気味に行き交う人々は重々しい雰囲気を醸し出していますが、その中で赤いドレスの女性が目を引きます。見せびらかすかのように派手に着飾った彼女の表情には、醜悪さが漂います。この作品が描かれた当時のベルリンでは、第一次大戦敗戦後の経済破綻によって世相は退廃的で、政治・社会情勢は不安定でした。対象を冷静に見つめる新即物主義の芸術運動に参加し、風刺画家として名を馳せたグロスは、この作品で社会への皮肉を込めて街の情景の中に世の不平等を表しています。

  • ヴァシリー・カンディンスキー「自らが輝く」1924年<br />カンディンスキーは、20世紀前半の抽象絵画の創出と発展に大きな役割を果たした画家です。絵画を精神活動として見なし、色彩や線の自律的な運動によるコンポジションの探求に取り組みました。ベルリンの分離派展やパリのサロン・ドートンヌ、ドレスデンのブリュッケ展などへの出品を経て、1911年にフランツ・マルクらと「青騎士」を結成。ロシア革命後には祖国の美術行政や教育において要職を務めるも、1922年、建築家グロピウスの招聘を受けて、ヴァイマールのバウハウスに加わりました。<br /> この作品は、カンディンスキーがバウハウスに加わって2年後の1924年に制作されたものです。左下に画家のイニシャルと年記が確認できます。裏面には画家のモノグラムと題名、272番のハンドリストの番号、年記が確認されています。なお、画家自身によるハンドリストによると、この作品はこの年の3月から7月の間、すなわちヴァイマールのバウハウスの閉校前に制作されたようです。<br /> 大小の円形や四角形、三角形、線状的な要素など、様々な形態が重なり合いながら、この時期のカンディンスキーに特徴的な対角線を意識した構成がなされています。加えて、曲線が巧みに配され、螺旋を思わせる流動感が生み出されているところは、同時期の作品の中で、この作品をよりユニークなものにしています。画面の地をつかさどる赤をはじめ、暖色と対照的な白が基調をなしている点も特色となり、それは、「自らが輝く」というタイトルを裏付けているようです。

    ヴァシリー・カンディンスキー「自らが輝く」1924年
    カンディンスキーは、20世紀前半の抽象絵画の創出と発展に大きな役割を果たした画家です。絵画を精神活動として見なし、色彩や線の自律的な運動によるコンポジションの探求に取り組みました。ベルリンの分離派展やパリのサロン・ドートンヌ、ドレスデンのブリュッケ展などへの出品を経て、1911年にフランツ・マルクらと「青騎士」を結成。ロシア革命後には祖国の美術行政や教育において要職を務めるも、1922年、建築家グロピウスの招聘を受けて、ヴァイマールのバウハウスに加わりました。
     この作品は、カンディンスキーがバウハウスに加わって2年後の1924年に制作されたものです。左下に画家のイニシャルと年記が確認できます。裏面には画家のモノグラムと題名、272番のハンドリストの番号、年記が確認されています。なお、画家自身によるハンドリストによると、この作品はこの年の3月から7月の間、すなわちヴァイマールのバウハウスの閉校前に制作されたようです。
     大小の円形や四角形、三角形、線状的な要素など、様々な形態が重なり合いながら、この時期のカンディンスキーに特徴的な対角線を意識した構成がなされています。加えて、曲線が巧みに配され、螺旋を思わせる流動感が生み出されているところは、同時期の作品の中で、この作品をよりユニークなものにしています。画面の地をつかさどる赤をはじめ、暖色と対照的な白が基調をなしている点も特色となり、それは、「自らが輝く」というタイトルを裏付けているようです。

  • パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年ピカソは、第一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けました。結果として1918年から描かれる対象が、古代彫刻のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入りました。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持っています。<br /> ここで描かれているのは、サルタンバンクと呼ばれる大道芸人です。イタリア語の「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)」を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉です。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていました。<br /> 力強い黒い線、洗練されかつ迫力のある色彩のコントラスト、安定した構図の巧みさ、清潔感に溢れたサルタンバンクの表情などは、ギリシア・ローマ時代の古代彫刻に通じる造形美を持っています。ここでピカソは、芸人への憐憫の情を抱いて描いているようには見えません。むしろ芸人は、新しい時代を先導する英雄のごとき凜々しさを身にまとっています。そこには、伝統的な美を、自らが試行錯誤して洗練させた結果としての新しい手法で乗り越えようとする画家の意図が重ね合わされているようです。<br /> この作品は、かつて20世紀を代表するピアニストで美術品の収集家としても知られていたウラジーミル・ホロヴィッツが所蔵しており、自宅の居間を飾っていたことが知られています。<br />

    パブロ・ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」 1923年ピカソは、第一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けました。結果として1918年から描かれる対象が、古代彫刻のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入りました。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持っています。
     ここで描かれているのは、サルタンバンクと呼ばれる大道芸人です。イタリア語の「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)」を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉です。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていました。
     力強い黒い線、洗練されかつ迫力のある色彩のコントラスト、安定した構図の巧みさ、清潔感に溢れたサルタンバンクの表情などは、ギリシア・ローマ時代の古代彫刻に通じる造形美を持っています。ここでピカソは、芸人への憐憫の情を抱いて描いているようには見えません。むしろ芸人は、新しい時代を先導する英雄のごとき凜々しさを身にまとっています。そこには、伝統的な美を、自らが試行錯誤して洗練させた結果としての新しい手法で乗り越えようとする画家の意図が重ね合わされているようです。
     この作品は、かつて20世紀を代表するピアニストで美術品の収集家としても知られていたウラジーミル・ホロヴィッツが所蔵しており、自宅の居間を飾っていたことが知られています。

  • パウル・クレー 「羊飼い」1929年  <br />多様な色彩が織り重なり模糊とした背景に、人物と4本足の動物たちが幾何学的な線で描かれています。杖を手にした人物が、手前の4匹の動物から中ほどの動物を守るように立っています。そのポーズは、この作品が、新約聖書の「ヨハネによる福音書」に説かれた、狼に身をさらす「よき羊飼い」を踏まえていることを示しています。白い光をはらんだような背景は、場面の神秘的な効果を高めています。同じ年に先行して《砂漠の動物への説教》(ベルン、個人蔵)と題する素描が残されており、その後、油彩作品へと発展したことがうかがえます。 <br />

    パウル・クレー 「羊飼い」1929年
    多様な色彩が織り重なり模糊とした背景に、人物と4本足の動物たちが幾何学的な線で描かれています。杖を手にした人物が、手前の4匹の動物から中ほどの動物を守るように立っています。そのポーズは、この作品が、新約聖書の「ヨハネによる福音書」に説かれた、狼に身をさらす「よき羊飼い」を踏まえていることを示しています。白い光をはらんだような背景は、場面の神秘的な効果を高めています。同じ年に先行して《砂漠の動物への説教》(ベルン、個人蔵)と題する素描が残されており、その後、油彩作品へと発展したことがうかがえます。

  • ジョルジョ・デ・キリコ 「吟遊詩人」1948年 <br />デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えました。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいています。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘でした。X 線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されていますが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼びます。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ています。

    ジョルジョ・デ・キリコ 「吟遊詩人」1948年
    デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えました。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいています。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘でした。X 線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されていますが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼びます。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ています。

  • コンスタンティン・ブランクーシ「ポガニー嬢II」 1925年(2006年鋳造)<br />マルギット・ポガニーはハンガリー出身の画家で、パリに滞在していた1910年、自身の肖像彫刻の制作をブランクーシに依頼します。1912年から次の年にかけてまず大理石、次いでブロンズの複数のヴァージョンが制作されました。その後、1919年に再開されたシリーズに位置付けられるのがこの作品です。第1シリーズと比べ、肩の省略や2本の腕の一体化、瞼の強調など、形態の簡略化が大胆かつ入念に進められています。磨きブロンズの効果も相まって高度に洗練された造形については、同時期のアール・デコへの意識も指摘されています。

    コンスタンティン・ブランクーシ「ポガニー嬢II」 1925年(2006年鋳造)
    マルギット・ポガニーはハンガリー出身の画家で、パリに滞在していた1910年、自身の肖像彫刻の制作をブランクーシに依頼します。1912年から次の年にかけてまず大理石、次いでブロンズの複数のヴァージョンが制作されました。その後、1919年に再開されたシリーズに位置付けられるのがこの作品です。第1シリーズと比べ、肩の省略や2本の腕の一体化、瞼の強調など、形態の簡略化が大胆かつ入念に進められています。磨きブロンズの効果も相まって高度に洗練された造形については、同時期のアール・デコへの意識も指摘されています。

  • ハンス・ホフマン 「プッシュ・アンド・プル II」1950年<br />ホフマンはドイツ出身のアメリカで活動した画家。この作品の画題ともなっている「プッシュ・アンド・プル」とは、ホフマンが美術教師としてアメリカの次代を担う前衛的な芸術家たちに教えた美術理論のうちのひとつであり、自身1950年代の前後にこれと同様なタイトルをつけた連作を試みています。それはすなわち、「面」として浮かび上がる画面内の要素が、押したり、引いたりし合うように見える視覚的効果のことを指します。この作品においては、画面の左右や上下の方向への運動のみならず、三次元、すなわち奥行きまでも暗示する効果を示しています。 <br />

    ハンス・ホフマン 「プッシュ・アンド・プル II」1950年
    ホフマンはドイツ出身のアメリカで活動した画家。この作品の画題ともなっている「プッシュ・アンド・プル」とは、ホフマンが美術教師としてアメリカの次代を担う前衛的な芸術家たちに教えた美術理論のうちのひとつであり、自身1950年代の前後にこれと同様なタイトルをつけた連作を試みています。それはすなわち、「面」として浮かび上がる画面内の要素が、押したり、引いたりし合うように見える視覚的効果のことを指します。この作品においては、画面の左右や上下の方向への運動のみならず、三次元、すなわち奥行きまでも暗示する効果を示しています。

  • ジャクソン・ポロック 「ナンバー2、1951」 1951年<br />ポロックは、ピカソやシュルレアリスムといったヨーロッパのモダニズムを受容する一方、アメリカ先住民の砂絵やメキシコ壁画運動の影響下に、絵具の滴りを自在に操って画面を埋め尽くす独自の手法によるアクション・ペインティングを創出し、抽象表現主義の旗手となります。この作品が制作されたのは、そのスタイルを離れて、黒の線による絵画を試行していた時期で、余白との緊張のうちに多様な線が展開しています。その中で浮かび上がる複数の紡錘形は、この時期には珍しく色彩が施され、形象へのこだわりもうかがわせます。 <br />

    ジャクソン・ポロック 「ナンバー2、1951」 1951年
    ポロックは、ピカソやシュルレアリスムといったヨーロッパのモダニズムを受容する一方、アメリカ先住民の砂絵やメキシコ壁画運動の影響下に、絵具の滴りを自在に操って画面を埋め尽くす独自の手法によるアクション・ペインティングを創出し、抽象表現主義の旗手となります。この作品が制作されたのは、そのスタイルを離れて、黒の線による絵画を試行していた時期で、余白との緊張のうちに多様な線が展開しています。その中で浮かび上がる複数の紡錘形は、この時期には珍しく色彩が施され、形象へのこだわりもうかがわせます。

  • ウィレム・デ・クーニング 「リーグ」1964年 <br />デ・クーニングは、ポロックと並んで、第二次大戦後にアメリカで開花した抽象表現主義を先導した画家としてその名を知られています。その作品は、具象と抽象の狭間の表現と、激しい筆触を特色としています。デ・クーニングが女性像を描き始めたのは1938年のことでしたが、1963年から新たに女性を主題とした連作に取り組み始めました。この作品では、なまなましい肉塊を思わせる肌色の裸体の女性があたかも挑発するような姿態をとっているようです。形態は流動化して背景に同化しようとしています。支持体の新聞紙が透けて見えるうえに、姿態は揺れ動いて左に触れ、うねり、飛び散る筆触によって流動するような運動感を示しています。

    ウィレム・デ・クーニング 「リーグ」1964年
    デ・クーニングは、ポロックと並んで、第二次大戦後にアメリカで開花した抽象表現主義を先導した画家としてその名を知られています。その作品は、具象と抽象の狭間の表現と、激しい筆触を特色としています。デ・クーニングが女性像を描き始めたのは1938年のことでしたが、1963年から新たに女性を主題とした連作に取り組み始めました。この作品では、なまなましい肉塊を思わせる肌色の裸体の女性があたかも挑発するような姿態をとっているようです。形態は流動化して背景に同化しようとしています。支持体の新聞紙が透けて見えるうえに、姿態は揺れ動いて左に触れ、うねり、飛び散る筆触によって流動するような運動感を示しています。

  • 草間彌生 「無限の網(無題)」 1962年頃 <br />草間彌生は幼い頃から幻覚や幻聴に悩まされ、それを鎮めるために紙に絵を描き留め始めたのが創作活動のきっかけとなりました。1957(昭和32)年に渡米した草間は、次第に前衛的な絵画表現を試みるようになりました。1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで個展を開催。カンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込んだ絵画を発表し、注目を浴びます。これは網目状に見えることからのちにネット・ペインティングと呼ばれるようになりました。白地に赤い網目をめぐらせたこの作品はその展開形です。緻密ながら躍動感のある緊張感溢れる画面を創造しています。

    草間彌生 「無限の網(無題)」 1962年頃
    草間彌生は幼い頃から幻覚や幻聴に悩まされ、それを鎮めるために紙に絵を描き留め始めたのが創作活動のきっかけとなりました。1957(昭和32)年に渡米した草間は、次第に前衛的な絵画表現を試みるようになりました。1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで個展を開催。カンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込んだ絵画を発表し、注目を浴びます。これは網目状に見えることからのちにネット・ペインティングと呼ばれるようになりました。白地に赤い網目をめぐらせたこの作品はその展開形です。緻密ながら躍動感のある緊張感溢れる画面を創造しています。

  • ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」 1929年<br />ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。

    ピエール・ボナール「ヴェルノン付近の風景」 1929年
    ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開きました。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には、「マ・ルロット(私の家馬車)」と自ら名づけた、この時期のボナールの家がありました。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配される一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっています。

  • アンリ・マティス 「青い胴着の女」1935年  <br />1930年代のマティスは、平面的な色彩構成を追求し、画面の単純化を推し進めました。この作品では、黒い輪郭線で囲まれた赤、青、黄の3色が巧みに配置されています。椅子に腰掛けた女性の肩は大きく誇張され、腰は極端に細く表現されています。この作品の制作過程を撮影した写真が3枚残されており、3週間足らずの間に作品が次第に単純化されていった過程がわかります。モデルは、ロシア人のリディア・デレクトルスカヤ。彼女は1934年頃からマティスのモデルと制作助手をつとめ、病身のマティス夫人の身の周りの世話もしました。

    アンリ・マティス 「青い胴着の女」1935年
    1930年代のマティスは、平面的な色彩構成を追求し、画面の単純化を推し進めました。この作品では、黒い輪郭線で囲まれた赤、青、黄の3色が巧みに配置されています。椅子に腰掛けた女性の肩は大きく誇張され、腰は極端に細く表現されています。この作品の制作過程を撮影した写真が3枚残されており、3週間足らずの間に作品が次第に単純化されていった過程がわかります。モデルは、ロシア人のリディア・デレクトルスカヤ。彼女は1934年頃からマティスのモデルと制作助手をつとめ、病身のマティス夫人の身の周りの世話もしました。

  • アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • 「五角小瓶」ローマ帝国、3世紀後半-4世紀 シリア・パレスチナ出土<br />

    「五角小瓶」ローマ帝国、3世紀後半-4世紀 シリア・パレスチナ出土

  • (左)「球形長頸瓶」ローマ帝国、2世紀中葉-後半 シリア・パレスチナ出土<br />(中)「梨型瓶」ローマ帝国、1世紀後半 シリア・パレスチナまたはキプロス出土<br />(右)「梨型長頸瓶」ローマ帝国、1世紀中葉 シリア・パレスチナまたはキプロス出土<br />

    (左)「球形長頸瓶」ローマ帝国、2世紀中葉-後半 シリア・パレスチナ出土
    (中)「梨型瓶」ローマ帝国、1世紀後半 シリア・パレスチナまたはキプロス出土
    (右)「梨型長頸瓶」ローマ帝国、1世紀中葉 シリア・パレスチナまたはキプロス出土

  • 左から<br />「脚台把手付瓶」ローマ帝国 4世紀 シリア・パレスチナ出土<br />「貼付紐文広口瓶」ローマ帝国、4世紀前半 シリア・パレスチナ出土<br />「貼付紐文広口瓶」ローマ帝国、4世紀前半 シリア・パレスチナ出土<br />「突起文括椀」ローマ帝国、3世紀中葉後半 シリア・パレスチナ出土<br />「突起文瓶」ローマ帝国、3世紀 シリア・パレスチナ出土<br /><br />

    左から
    「脚台把手付瓶」ローマ帝国 4世紀 シリア・パレスチナ出土
    「貼付紐文広口瓶」ローマ帝国、4世紀前半 シリア・パレスチナ出土
    「貼付紐文広口瓶」ローマ帝国、4世紀前半 シリア・パレスチナ出土
    「突起文括椀」ローマ帝国、3世紀中葉後半 シリア・パレスチナ出土
    「突起文瓶」ローマ帝国、3世紀 シリア・パレスチナ出土

  • (左)「大皿」4世紀 エジプト出土<br />(右)「円筒形把手付瓶」ローマ帝国 4世紀初頭・中葉 シリア・パレスチナ出土<br />

    (左)「大皿」4世紀 エジプト出土
    (右)「円筒形把手付瓶」ローマ帝国 4世紀初頭・中葉 シリア・パレスチナ出土

  • 「円形切子椀」サーサーン朝、6世紀前半 イラク出土<br />

    「円形切子椀」サーサーン朝、6世紀前半 イラク出土

  • 「貼付線文鼓形把手付瓶」カズニ朝、10世紀末 イラン北部出土

    「貼付線文鼓形把手付瓶」カズニ朝、10世紀末 イラン北部出土

  • 「貼付幾何文長杯」パルティア朝またはサーサーン朝、2-3世紀 イラン北部出土

    「貼付幾何文長杯」パルティア朝またはサーサーン朝、2-3世紀 イラン北部出土

  • エミリー・カーメ・イングワリィ 「春の風景」1993年  <br />イングワリィは、オーストラリアを代表するアボリジナル・アーティストのひとりです。78歳頃から本格的に絵画を描き始め、亡くなるまでの8年間で、約3000点以上の作品を残しました。彼女はそれらの作品を通して、ただひとつの物語を語っています。それは、イングワリィの故郷アルハルゲラであり、その土地と深く結びついたドリーミング(アボリジニの精神世界観)です。この作品はそこでの春の風景が描かれ、画面全体を覆う点描は、力強くエネルギッシュです。紫、オレンジ、黄や緑色といった色彩が互いにぶつかり、重なり合い、渦まきながら、みずみずしい生命の息吹を感じさせます。 <br />

    エミリー・カーメ・イングワリィ 「春の風景」1993年
    イングワリィは、オーストラリアを代表するアボリジナル・アーティストのひとりです。78歳頃から本格的に絵画を描き始め、亡くなるまでの8年間で、約3000点以上の作品を残しました。彼女はそれらの作品を通して、ただひとつの物語を語っています。それは、イングワリィの故郷アルハルゲラであり、その土地と深く結びついたドリーミング(アボリジニの精神世界観)です。この作品はそこでの春の風景が描かれ、画面全体を覆う点描は、力強くエネルギッシュです。紫、オレンジ、黄や緑色といった色彩が互いにぶつかり、重なり合い、渦まきながら、みずみずしい生命の息吹を感じさせます。

  • エミリー・カーメ・イングワリィ 「無題」1996年<br />

    エミリー・カーメ・イングワリィ 「無題」1996年

  • ドロシー・ナパンガーディ 「ミナミナの塩」2007年<br />

    ドロシー・ナパンガーディ 「ミナミナの塩」2007年

  • ジョルジュ・マチュー「10番街」 1957年<br />マチューはフランスの画家。ヴォルスらによる戦後の新しい抽象絵画に触発されて、色彩豊かな動感溢れるイメージによって、人々の感情に訴えかける叙情的な抽象画を実践しました。この作品は、マチューが1957年にニューヨークで行ったパフォーマンス「ニューヨーク、10月9日の3時間」で制作した14点のうちの1点です。マディソン・アヴェニューのリッツ・ホテルとして使われていた廃墟の地下において、画家は10月9日のたった3時間で一気に描き上げたといいます。赤を地に、黒を主体とした生気に満ちた筆致で描かれ、画面いっぱいに緊張感がみなぎっています。

    ジョルジュ・マチュー「10番街」 1957年
    マチューはフランスの画家。ヴォルスらによる戦後の新しい抽象絵画に触発されて、色彩豊かな動感溢れるイメージによって、人々の感情に訴えかける叙情的な抽象画を実践しました。この作品は、マチューが1957年にニューヨークで行ったパフォーマンス「ニューヨーク、10月9日の3時間」で制作した14点のうちの1点です。マディソン・アヴェニューのリッツ・ホテルとして使われていた廃墟の地下において、画家は10月9日のたった3時間で一気に描き上げたといいます。赤を地に、黒を主体とした生気に満ちた筆致で描かれ、画面いっぱいに緊張感がみなぎっています。

  • ザオ・ウーキー「07.06.85」 1985年<br />ウーキーは、中国で東西の絵画を学んだのち、1948年にパリに渡り、同時代の叙情的抽象の動向に交わる中で、東洋的な宇宙観の息づく独自の画境を切り開きました。画題は作品が完成した日・月・年を示し、画面は言葉による規定を免れています。色彩の厚みと濃淡を伴って荒波のように立ち上がる青の色面、その下で白がつくる水平方向の流れは、緊張に満ちた力の均衡が視覚化されているかのようです。自然を形づくる力学を大胆につかみ出し、自在な筆致にその感性の働きを表出させているところに、ウーキー円熟期の魅力がうかがえます。

    ザオ・ウーキー「07.06.85」 1985年
    ウーキーは、中国で東西の絵画を学んだのち、1948年にパリに渡り、同時代の叙情的抽象の動向に交わる中で、東洋的な宇宙観の息づく独自の画境を切り開きました。画題は作品が完成した日・月・年を示し、画面は言葉による規定を免れています。色彩の厚みと濃淡を伴って荒波のように立ち上がる青の色面、その下で白がつくる水平方向の流れは、緊張に満ちた力の均衡が視覚化されているかのようです。自然を形づくる力学を大胆につかみ出し、自在な筆致にその感性の働きを表出させているところに、ウーキー円熟期の魅力がうかがえます。

  • ピエール・スーラージュ 「絵画 2007年3月26日」2007年<br />スーラージュは戦後フランスの抽象画家です。その作品は黒で統一された画面と、筆触による材質感を特色としています。この作品においては、水平方向の複数の筆触のテクスチャーにより、光の当たり具合によって画面の表情が多様に変化するイメージを見る者に提示しています。画家自身は「私は常に黒を使って、大きな絵画を描いています。反射の表面のようです。そして、反射でありながらただの反射ではないのです。というのもある色に衝突した光は変化します。(……)そういう反射を、どう組み立てていくかが私の絵画なのです」と語っています。 <br />

    ピエール・スーラージュ 「絵画 2007年3月26日」2007年
    スーラージュは戦後フランスの抽象画家です。その作品は黒で統一された画面と、筆触による材質感を特色としています。この作品においては、水平方向の複数の筆触のテクスチャーにより、光の当たり具合によって画面の表情が多様に変化するイメージを見る者に提示しています。画家自身は「私は常に黒を使って、大きな絵画を描いています。反射の表面のようです。そして、反射でありながらただの反射ではないのです。というのもある色に衝突した光は変化します。(……)そういう反射を、どう組み立てていくかが私の絵画なのです」と語っています。

  • アンス・アルトゥング「T1989-H35」 1989年アルトゥングは、ドイツ出身のフランスで活動した抽象画家。戦後にパリに居を定めてのち、その制作は油彩画のすべてが多数の中から選ばれた1枚の素描に基づき、忠実にカンヴァスに写し取られる方法がとられていました。しかし1960年代以降は素描による準備段階を経ず、直接カンヴァスに大きな刷毛、ローラー、枝、スプレーなどの多様な道具を用いて描いた大型の作品が生み出されました。特に生涯最後の3年間は、スケールの大きく劇的な画面構成を試み、最後の創造的時代をつくりました。この作品は最晩年に制作されたもののひとつです。<br />

    アンス・アルトゥング「T1989-H35」 1989年アルトゥングは、ドイツ出身のフランスで活動した抽象画家。戦後にパリに居を定めてのち、その制作は油彩画のすべてが多数の中から選ばれた1枚の素描に基づき、忠実にカンヴァスに写し取られる方法がとられていました。しかし1960年代以降は素描による準備段階を経ず、直接カンヴァスに大きな刷毛、ローラー、枝、スプレーなどの多様な道具を用いて描いた大型の作品が生み出されました。特に生涯最後の3年間は、スケールの大きく劇的な画面構成を試み、最後の創造的時代をつくりました。この作品は最晩年に制作されたもののひとつです。

  • アンス・アルトゥング 「T 1963 K7」1963年<br />

    アンス・アルトゥング 「T 1963 K7」1963年

  • 小出楢重 「帽子をかぶった自画像」1924年 <br />1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

    小出楢重 「帽子をかぶった自画像」1924年
    1919(大正8)年、32歳の小出楢重が発表し注目を浴びた《Nの家族》(大原美術館)は、粘り気の強い筆づかいと色彩で和装の自分と妻子を描いたものです。その後1921年9月から5カ月間フランスに滞在しました。こんな嫌なところはない、とパリでうそぶきながらも、帰国後は一気に服装や食事など生活を西洋風に切り替えました。1923年9月、関東大震災に遭遇します。2週間後に大阪の自宅に帰った小出は、表現を見直す作業を突き詰めていきました。ちょうど1年後に描かれたこの洋装の自画像は、溢れる自信と同時に、その暗い表情からは複雑な画家の内面をうかがわせます。

  • 藤田嗣治 「ドルドーニュの家」1940年  <br />東京美術学校で西洋画を学んだ藤田嗣治は、卒業後1913(大正2)年にパリへ渡り、モンパルナスにアトリエを構えました。そこでアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンといった、諸外国からパリに集まったエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。「素晴らしき乳白色」と呼ばれた滑らかな下地に、日本画用の筆や墨を使って女性や猫、室内などを描く独自の表現様式を確立し、一躍パリ画壇の寵児となりました。<br /> フランス南西部にあるドルドーニュ地方は、先史時代の洞窟壁画などの遺跡を有する歴史的な土地です。藤田は第一次大戦開戦直後に、戦況悪化のためパリを離れ、この地方のレゼジー村で数カ月を過ごしました。<br /> 1939(昭和14)年9月頃、第二次大戦の開戦により再び藤田は同地を訪れています。この作品は、おそらくそのとき目にしたフランスの田舎の家から着想を得たと考えられます。藤田の代名詞ともいえる乳白色の下地を生かし、ほぼモノトーンで描かれた室内画です。天井の梁やテーブル、ベンチといった直線的なモティーフによって、見る者の視線は自然と画面中央の暖炉周辺に注がれます。暖炉の上にはコーヒーミルや置き時計、ポットなどの藤田愛用の品々が飾られ、一見すると穏やかで親密な雰囲気を感じさせます。しかし壁に掛けられた銃の存在は、戦争という時代背景を表しているかのようでもあります。この作品は藤田が1940年に一時帰国した際、第27回二科展に特別陳列されました。<br />

    藤田嗣治 「ドルドーニュの家」1940年
    東京美術学校で西洋画を学んだ藤田嗣治は、卒業後1913(大正2)年にパリへ渡り、モンパルナスにアトリエを構えました。そこでアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンといった、諸外国からパリに集まったエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。「素晴らしき乳白色」と呼ばれた滑らかな下地に、日本画用の筆や墨を使って女性や猫、室内などを描く独自の表現様式を確立し、一躍パリ画壇の寵児となりました。
     フランス南西部にあるドルドーニュ地方は、先史時代の洞窟壁画などの遺跡を有する歴史的な土地です。藤田は第一次大戦開戦直後に、戦況悪化のためパリを離れ、この地方のレゼジー村で数カ月を過ごしました。
     1939(昭和14)年9月頃、第二次大戦の開戦により再び藤田は同地を訪れています。この作品は、おそらくそのとき目にしたフランスの田舎の家から着想を得たと考えられます。藤田の代名詞ともいえる乳白色の下地を生かし、ほぼモノトーンで描かれた室内画です。天井の梁やテーブル、ベンチといった直線的なモティーフによって、見る者の視線は自然と画面中央の暖炉周辺に注がれます。暖炉の上にはコーヒーミルや置き時計、ポットなどの藤田愛用の品々が飾られ、一見すると穏やかで親密な雰囲気を感じさせます。しかし壁に掛けられた銃の存在は、戦争という時代背景を表しているかのようでもあります。この作品は藤田が1940年に一時帰国した際、第27回二科展に特別陳列されました。

  • 安井曾太郎 「F夫人像」1939年 <br />1934(昭和9)年の《玉蟲先生像》(東北大学)、《金蓉》(東京国立近代美術館)によって、肖像画の名手という評価を得た安井曾太郎には、その後、生涯にわたって肖像画の注文が途絶えることがありませんでした。この女性は、コレクターである福島繁太郎の妻で、随筆家として知られた慶子です。2人は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、パブロ・ピカソなどの同時代の画家から数多くの作品を購入して日本に持ち帰りました。<br /> パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました。<br />

    安井曾太郎 「F夫人像」1939年
    1934(昭和9)年の《玉蟲先生像》(東北大学)、《金蓉》(東京国立近代美術館)によって、肖像画の名手という評価を得た安井曾太郎には、その後、生涯にわたって肖像画の注文が途絶えることがありませんでした。この女性は、コレクターである福島繁太郎の妻で、随筆家として知られた慶子です。2人は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、パブロ・ピカソなどの同時代の画家から数多くの作品を購入して日本に持ち帰りました。
     パリにいた頃にアンドレ・ドランに依頼した慶子の肖像画が、彼女の病気によって制作できなくなったことを残念に思った夫妻は、帰国後、安井に白羽の矢を立てます。慶子は東京目白にあった安井のアトリエに通い、モデルをつとめました。普段は温和な安井が、制作中モデルには恐ろしいばかりの鋭い眼差しを投げ続け、慶子はたいへん疲れたと書き残しています。また彼女は故意に、描きにくそうな細かい縞模様の「安井殺しの服」を身につけて、安井の技量を試そうとしました。安井のほうもその挑戦に、かえって大きな意欲をかき立てられたようです。画家とモデル、注文主との無言の対話は、この画面に見て取ることができます。安井は1930年代後半に入り、次第に華麗な色彩を駆使するようになりました。その安井様式の帰結点をこの肖像画は教えてくれます。この作品の出来上がりに満足した夫妻は、以後、安井と親しく交流を重ねました。

  • 安井曾太郎 「林檎」1942年頃<br />

    安井曾太郎 「林檎」1942年頃

  • 山下新太郎 「供物」1915年  <br />

    山下新太郎 「供物」1915年

  • 黒田清輝 「針仕事」1890年 <br />法律を学ぶためにパリへ留学した黒田清輝は、画家山本芳翠らに勧められて洋画家に転向します。伝統的なアカデミズムと新しい外光表現を合わせ持つラファエル・コランに師事し、サロンに入選するまでの技量を身につけました。28歳で帰国した後は、洋画壇に新風を吹き込み、有力な旧薩摩藩士の嫡男という出自もあって、招かれて東京美術学校に新設された西洋画科を率いることとなります。西洋の絵画学習法や主題の選び方など美術にかかわる基本的枠組みを日本に移入しようと心がけ、明治期後半の美術界に大きな役割を果たしました。<br />  この作品は、留学中のフランスで描かれました。黒田はパリの南東70kmにある小村グレー=シュル= ロワンを愛してしばしば滞在し、都会から離れ自然と人間生活が調和し、多くの外国人美術家を惹きつけたこの村で、肩肘の張らないのびのびとした作品を数多く残しています。窓辺で無心に針仕事にいそしむ女性は、黒田が部屋を借りていた農家の娘、当時19歳のマリア・ビヨーです。マリアはたびたび黒田のモデルをつとめ、画家に様々なインスピレーションを与えました。窓から差し込む光がマリアの体を包み込み、画面全体をやわらかくほぐしていて、当時の黒田が光の扱い方に取り組んでいたことを教えてくれます。また、後年まで黒田が好んだ、労働する女性という主題の萌芽を見つけることもできるでしょう。

    黒田清輝 「針仕事」1890年
    法律を学ぶためにパリへ留学した黒田清輝は、画家山本芳翠らに勧められて洋画家に転向します。伝統的なアカデミズムと新しい外光表現を合わせ持つラファエル・コランに師事し、サロンに入選するまでの技量を身につけました。28歳で帰国した後は、洋画壇に新風を吹き込み、有力な旧薩摩藩士の嫡男という出自もあって、招かれて東京美術学校に新設された西洋画科を率いることとなります。西洋の絵画学習法や主題の選び方など美術にかかわる基本的枠組みを日本に移入しようと心がけ、明治期後半の美術界に大きな役割を果たしました。
     この作品は、留学中のフランスで描かれました。黒田はパリの南東70kmにある小村グレー=シュル= ロワンを愛してしばしば滞在し、都会から離れ自然と人間生活が調和し、多くの外国人美術家を惹きつけたこの村で、肩肘の張らないのびのびとした作品を数多く残しています。窓辺で無心に針仕事にいそしむ女性は、黒田が部屋を借りていた農家の娘、当時19歳のマリア・ビヨーです。マリアはたびたび黒田のモデルをつとめ、画家に様々なインスピレーションを与えました。窓から差し込む光がマリアの体を包み込み、画面全体をやわらかくほぐしていて、当時の黒田が光の扱い方に取り組んでいたことを教えてくれます。また、後年まで黒田が好んだ、労働する女性という主題の萌芽を見つけることもできるでしょう。

  • 岸田劉生 「麗子像」1922年<br />岸田劉生は1918年の《麗子肖像(麗子五歳之像)》(東京国立近代美術館)に始まり、娘をモデルにした作品を繰り返し描きました。この作品は、左上の署名と年記から1922年、麗子が7歳のときのものであることがわかります。モデルをつとめていたときにちょうど風邪をひいていたため、麗子の首には白い布が巻かれています。この作品はテンペラを使って描かれており、水彩とも油彩とも違った独特の風合いが感じられます。劉生自身も仕上がりに満足したようで、当時の日記にも「一寸面白く出来た」と記しています。白樺派の詩人木下利玄の旧蔵作品です。

    岸田劉生 「麗子像」1922年
    岸田劉生は1918年の《麗子肖像(麗子五歳之像)》(東京国立近代美術館)に始まり、娘をモデルにした作品を繰り返し描きました。この作品は、左上の署名と年記から1922年、麗子が7歳のときのものであることがわかります。モデルをつとめていたときにちょうど風邪をひいていたため、麗子の首には白い布が巻かれています。この作品はテンペラを使って描かれており、水彩とも油彩とも違った独特の風合いが感じられます。劉生自身も仕上がりに満足したようで、当時の日記にも「一寸面白く出来た」と記しています。白樺派の詩人木下利玄の旧蔵作品です。

  • 関根正二 「子供」1919年<br />貧しい職人の家に生まれた関根正二は、印刷会社などで働きながらほぼ独学で絵を学びました。早くも16歳で画壇にデビューしますが、20歳2カ月で病気により亡くなるまで、画家としての生活は4年間しか与えられませんでした。画材に恵まれなかった上に、震災や戦災で失われた作品も多く、現在、油彩画は約30点しか残されていません。この作品は、亡くなる数カ月前に描かれた、現存する最後のもの。描かれているのは14歳下の末弟武男だと考えられます。遠くを見つめる少年の眼差しには、死を前にした画家の生命への希求が感じられます。

    関根正二 「子供」1919年
    貧しい職人の家に生まれた関根正二は、印刷会社などで働きながらほぼ独学で絵を学びました。早くも16歳で画壇にデビューしますが、20歳2カ月で病気により亡くなるまで、画家としての生活は4年間しか与えられませんでした。画材に恵まれなかった上に、震災や戦災で失われた作品も多く、現在、油彩画は約30点しか残されていません。この作品は、亡くなる数カ月前に描かれた、現存する最後のもの。描かれているのは14歳下の末弟武男だと考えられます。遠くを見つめる少年の眼差しには、死を前にした画家の生命への希求が感じられます。

  • 佐伯祐三 「コルドヌリ(靴屋)」1925年 <br />佐伯祐三は、東京美術学校を卒業後1924(大正13)年に家族とともにパリへ渡りました。モーリス・ド・ヴラマンクからアカデミックな作風を厳しく批評された佐伯は、新たな画風を模索し、モンパルナス駅近くのシャトー街13番地のアトリエに移り住みました。そしてパリの街並みを舞台に、建物の壁やそこに貼られた広告などを奔放な筆致で描くスタイルを確立していきます。この作品は佐伯のアトリエと同じ並びにあった靴屋の店先を描いたものです。同じ場所を描いた作品が少なくとも3点知られ、そのうちの1点はサロン・ドートンヌに入選し、ドイツの絵具会社に買い取られました。 <br />

    佐伯祐三 「コルドヌリ(靴屋)」1925年
    佐伯祐三は、東京美術学校を卒業後1924(大正13)年に家族とともにパリへ渡りました。モーリス・ド・ヴラマンクからアカデミックな作風を厳しく批評された佐伯は、新たな画風を模索し、モンパルナス駅近くのシャトー街13番地のアトリエに移り住みました。そしてパリの街並みを舞台に、建物の壁やそこに貼られた広告などを奔放な筆致で描くスタイルを確立していきます。この作品は佐伯のアトリエと同じ並びにあった靴屋の店先を描いたものです。同じ場所を描いた作品が少なくとも3点知られ、そのうちの1点はサロン・ドートンヌに入選し、ドイツの絵具会社に買い取られました。

  • 藤島武二「黒扇」 1908-09年<br />現在、藤島武二のローマ時代の代表作として広く知られた作品ですが、発表されたのは画家の最晩年のことです。画室の奥深く、中二階へ上がる階段の裏にカンヴァスのまま長く鋲で留められていたといいます。病床にあった藤島の代わりに弟子の小堀四郎が取り出し、木枠に張ってニスを塗ったところきれいな画面が蘇って、藤島がとても喜んだという逸話が伝えられます。なぜ人に見せようとしなかったのかは、モデルと画家の特別なかかわりなど、私たちに様々な想像をかき立てさせますが、その理由はよくわかりません。<br />  まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。

    藤島武二「黒扇」 1908-09年
    現在、藤島武二のローマ時代の代表作として広く知られた作品ですが、発表されたのは画家の最晩年のことです。画室の奥深く、中二階へ上がる階段の裏にカンヴァスのまま長く鋲で留められていたといいます。病床にあった藤島の代わりに弟子の小堀四郎が取り出し、木枠に張ってニスを塗ったところきれいな画面が蘇って、藤島がとても喜んだという逸話が伝えられます。なぜ人に見せようとしなかったのかは、モデルと画家の特別なかかわりなど、私たちに様々な想像をかき立てさせますが、その理由はよくわかりません。
     まっすぐにこちらに向けるもの言いたげな眼差し、鼻梁や頰のハイライトがモデルの美貌を引き立たせ、青を効果的に用いた陰翳が、画面に生き生きとした輝きと深みをもたらしています。白いベールや黒い扇は、ためらいのない力強い筆づかいで大づかみに描かれています。繊細な色彩の取り合わせと大胆な筆の動きの絶妙な組み合わせが、見る者の心をとらえます。モデルが身につけるベールや扇は、19世紀ヨーロッパで様々に浸透していたスペイン趣味を思い起こさせます。エドゥアール・マネの作品などを通じてパリで体感した時代の嗜好を、ローマでも追体験しているかのようです。終生、身近において決して手放そうとしなかったこの作品を、藤島はおそらく亡くなる前年に、信頼するコレクター石橋正二郎に託しました。

  • 岡田三郎助 「婦人像」1907年<br />岡田三郎助が、1907(明治40)年の東京勧業博覧会で、1等賞を受けた作品です。鼓を締め合わせた紫色の紐に因み、当初は「紫調べ」と題されました。元禄風の豪華な着物をまとい、髷を結う婦人は、鼓を今まさに打ち鳴らそうとしています。背景には撫子と流水の配された琳派風の?風が描かれました。三越呉服店の経営にかかわり、元禄模様のブームの火付け役となった高橋義雄に依頼されたこの作品には、高橋の妻千代子が描かれています。三越呉服店の新柄陳列会のポスターや切手の原画として使用されたため、広く知られるところとなりました。 <br />

    岡田三郎助 「婦人像」1907年
    岡田三郎助が、1907(明治40)年の東京勧業博覧会で、1等賞を受けた作品です。鼓を締め合わせた紫色の紐に因み、当初は「紫調べ」と題されました。元禄風の豪華な着物をまとい、髷を結う婦人は、鼓を今まさに打ち鳴らそうとしています。背景には撫子と流水の配された琳派風の?風が描かれました。三越呉服店の経営にかかわり、元禄模様のブームの火付け役となった高橋義雄に依頼されたこの作品には、高橋の妻千代子が描かれています。三越呉服店の新柄陳列会のポスターや切手の原画として使用されたため、広く知られるところとなりました。

  • 児島善三郎 「海芋と麒麟草」1954年<br />独立美術協会で活躍した児島善三郎は、フランス留学中に学んだ写実的な骨格と量感表現に、伝統的な日本の装飾様式の融合を図る「日本人の油絵」の創造を追求しました。この作品では、海芋(カラー)と黄色の麒麟草を主とした初夏の花が描かれています。存在感のあるカラーの花や葉が立体的に描かれ、奥行きを感じさせるのに対し、文様の施された花瓶やテーブルクロス、背景の描写では平面性が強調されています。その巧みな組み合わせによって生み出された不安定感と、画面の外にまでつづくと想像される大きな装飾文様がこの作品に広がりを与えています。 <br />

    児島善三郎 「海芋と麒麟草」1954年
    独立美術協会で活躍した児島善三郎は、フランス留学中に学んだ写実的な骨格と量感表現に、伝統的な日本の装飾様式の融合を図る「日本人の油絵」の創造を追求しました。この作品では、海芋(カラー)と黄色の麒麟草を主とした初夏の花が描かれています。存在感のあるカラーの花や葉が立体的に描かれ、奥行きを感じさせるのに対し、文様の施された花瓶やテーブルクロス、背景の描写では平面性が強調されています。その巧みな組み合わせによって生み出された不安定感と、画面の外にまでつづくと想像される大きな装飾文様がこの作品に広がりを与えています。

この旅行記のタグ

関連タグ

83いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

アーティゾン美術館

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP