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アーティゾン美術館で「琳派と印象派展」が開催されたので見てきました。<br />旅行記は(1)の続き、第3章:the印象派 からとなります。<br />以下「Artizon Museum HP」より<br />琳派は、17世紀初めの俵屋宗達、18世紀初めの尾形光琳らによって、日本の都であった京都の町人文化として生まれ、19世紀初めに酒井抱一や鈴木其一らによって、将軍お膝元の江戸(現在の東京)に引き継がれた、装飾的な美感を核として発展した都市の美術でした。<br /> 一方、印象派は、19世紀後半のフランス・パリを中心に、マネやモネ、ドガやルノワール、セザンヌらによって、日常的な経験を通して受ける印象や市民生活の喜びを率直に表現する、新しく起こったヨーロッパの近代美術でした。<br /> 本展は、日本とヨーロッパ、東西の都市文化が生んだ天才画家たちの作品を通して、大都市ならではの洗練された美意識の到達点を比較しつつ見渡そうとする、新たな試みです。当館コレクションの核となる印象派の名画と、初公開となる琳派作品を軸に、国内の寺院、美術館、博物館から代表的な作品を加えた、国宝2点、重要文化財7点を含む約100点の作品で構成されます。東西の美術を、「都市文化」というキーワードで再考する画期的な「琳派と印象派展」となります。 <br />※作品解説は、HPより参照しています。

Artizon Museum 琳派と印象派 東西都市文化が生んだ美術(2)

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2020/12/12 - 2020/12/12

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旅行記グループ アーティゾン美術館

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アーティゾン美術館で「琳派と印象派展」が開催されたので見てきました。
旅行記は(1)の続き、第3章:the印象派 からとなります。
以下「Artizon Museum HP」より
琳派は、17世紀初めの俵屋宗達、18世紀初めの尾形光琳らによって、日本の都であった京都の町人文化として生まれ、19世紀初めに酒井抱一や鈴木其一らによって、将軍お膝元の江戸(現在の東京)に引き継がれた、装飾的な美感を核として発展した都市の美術でした。
一方、印象派は、19世紀後半のフランス・パリを中心に、マネやモネ、ドガやルノワール、セザンヌらによって、日常的な経験を通して受ける印象や市民生活の喜びを率直に表現する、新しく起こったヨーロッパの近代美術でした。
本展は、日本とヨーロッパ、東西の都市文化が生んだ天才画家たちの作品を通して、大都市ならではの洗練された美意識の到達点を比較しつつ見渡そうとする、新たな試みです。当館コレクションの核となる印象派の名画と、初公開となる琳派作品を軸に、国内の寺院、美術館、博物館から代表的な作品を加えた、国宝2点、重要文化財7点を含む約100点の作品で構成されます。東西の美術を、「都市文化」というキーワードで再考する画期的な「琳派と印象派展」となります。
※作品解説は、HPより参照しています。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5

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  • モーリス・ユトリロ 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1933年 <br />第3章では“印象派”の作品を紹介。19世紀のフランスでは、貴族社会からブルジョワジーが中心となる市民社会へ移行していきます。<br />

    モーリス・ユトリロ 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1933年
    第3章では“印象派”の作品を紹介。19世紀のフランスでは、貴族社会からブルジョワジーが中心となる市民社会へ移行していきます。

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年<br />ゴッホの作品も1点展示されていました。ゴッホがアントワープを去ってパリに着いたのは1886年の春ですが、これはパリの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の裏手から見た光景です。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「モンマルトルの風車」1886年
    ゴッホの作品も1点展示されていました。ゴッホがアントワープを去ってパリに着いたのは1886年の春ですが、これはパリの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の裏手から見た光景です。

  • 1.都市市民の肖像<br />上流階級の男性の主流であったシルクハットをかぶった肖像画から、中流階級の男性が被ったソフト帽の自画像を展示。流行りの服装をした女性たちも並んでいます。<br />コンスタンタン・ギース 「酒場」<br /><br />

    1.都市市民の肖像
    上流階級の男性の主流であったシルクハットをかぶった肖像画から、中流階級の男性が被ったソフト帽の自画像を展示。流行りの服装をした女性たちも並んでいます。
    コンスタンタン・ギース 「酒場」

  • エドゥアール・マネ 「オペラ座の仮装舞踏会」1873年<br />フランスの画家マネは、同時代の都市市民を描くことを得意としました。この作品の舞台となっているのは、パリのル・ペルティエ通りにあったオペラ座(1873年に火災で焼失)。オペラ座の正面玄関からロビーを見ていると思われます。シルクハットに燕尾服という、黒ずくめの上流階級の男性たちと、色鮮やかな服装でアイマスクをした女性たちが描かれています。彼女らは踊り子や高級娼婦たちで、大胆に肌を見せる装いの者もいます。素早いタッチが使われることで、オペラ座に集まった人々の熱気が表現されます。 <br />

    エドゥアール・マネ 「オペラ座の仮装舞踏会」1873年
    フランスの画家マネは、同時代の都市市民を描くことを得意としました。この作品の舞台となっているのは、パリのル・ペルティエ通りにあったオペラ座(1873年に火災で焼失)。オペラ座の正面玄関からロビーを見ていると思われます。シルクハットに燕尾服という、黒ずくめの上流階級の男性たちと、色鮮やかな服装でアイマスクをした女性たちが描かれています。彼女らは踊り子や高級娼婦たちで、大胆に肌を見せる装いの者もいます。素早いタッチが使われることで、オペラ座に集まった人々の熱気が表現されます。

  • エドゥアール・マネ 「自画像」1878-79年  <br />マネは、近代都市パリの風俗を描いたことで知られますが、肖像画の名手でもありました。そのようなマネの油彩による自画像は2点しか残されていません(もう1点は個人蔵)。どちらもほぼ同じ時期、46、7歳のときの作品です。画壇での評価が確立されたことへの自負心から、これらの自画像を制作したと考えられています。<br /> この作品の暗い無地の背景は、当時パリで流行していたスペイン絵画からの影響を感じさせます。マネの鋭い眼差しや、赤みが差した頰や耳など、顔の部分はていねいに仕上げられています。その一方で上着やズボンには大胆な筆あとが残されています。男性の上着では襟の右側が左側の上に重なるのがふつうですが、この作品では、襟の合わせが左右逆になっています。それはマネが鏡を見て描いたために起きた現象で、鏡像では左右が反転します。この頃から不自由になり始めた左脚を支脚にすることはあり得ませんでした。そのため、この自画像でも右脚で身体を支えています。画家という職業がわかるように絵筆やパレットを持つこともなく、両手をポケットに入れて立つ自分の姿のみを描く態度には、一種の決意を感じます。この作品はとても私的なもので、マネは親しい人にしか見せなかったとも言われています。

    エドゥアール・マネ 「自画像」1878-79年
    マネは、近代都市パリの風俗を描いたことで知られますが、肖像画の名手でもありました。そのようなマネの油彩による自画像は2点しか残されていません(もう1点は個人蔵)。どちらもほぼ同じ時期、46、7歳のときの作品です。画壇での評価が確立されたことへの自負心から、これらの自画像を制作したと考えられています。
     この作品の暗い無地の背景は、当時パリで流行していたスペイン絵画からの影響を感じさせます。マネの鋭い眼差しや、赤みが差した頰や耳など、顔の部分はていねいに仕上げられています。その一方で上着やズボンには大胆な筆あとが残されています。男性の上着では襟の右側が左側の上に重なるのがふつうですが、この作品では、襟の合わせが左右逆になっています。それはマネが鏡を見て描いたために起きた現象で、鏡像では左右が反転します。この頃から不自由になり始めた左脚を支脚にすることはあり得ませんでした。そのため、この自画像でも右脚で身体を支えています。画家という職業がわかるように絵筆やパレットを持つこともなく、両手をポケットに入れて立つ自分の姿のみを描く態度には、一種の決意を感じます。この作品はとても私的なもので、マネは親しい人にしか見せなかったとも言われています。

  • エドガー・ドガ 「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年頃<br />ドガは、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモートに学び、ルーヴル美術館での模写やおよそ3年に及ぶイタリア滞在を通じて、ルネサンス期の絵画研究に若き日の情熱を傾けました。1860年代以降は、近しい人々の肖像やパリの風俗を主題に描く中で、マネやのちの印象派の画家たちと交流を結ぶようになります。<br /> この作品で描かれているレオポール・ルヴェールは、軍服のデザイナーから出発した風景画家・版画家で、その転身にはドガの後押しがあったようです。この肖像が描かれた時期に始まる印象派展にも、ルヴェールは第1回展から第3回展、そして第5回展に出品しています。彼は、ドガの友人で同じく印象派展に出品を重ねた画家アンリ・ルアールと親しく、この作品が当初、ルアールの所蔵であった事実は、ドガを中心とする画家たちの繋がりを物語っています。<br /> ドガによるルヴェールの顔と頭部の描写は細やかで、アカデミックな技術の裏付けをうかがわせます。他方、胴体部を描き出す素早い筆致と簡略化された仕上げには、印象派らしい手法を見ることができます。装束の黒と背景を彩る白の組み合わせを主調としながら、おそらくパレットナイフを用いて頭部の周りに赤をあしらう筆さばきは軽やかで、親しい友人を前に気取りなく筆を振るうドガの様子がうかがえます。

    エドガー・ドガ 「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年頃
    ドガは、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモートに学び、ルーヴル美術館での模写やおよそ3年に及ぶイタリア滞在を通じて、ルネサンス期の絵画研究に若き日の情熱を傾けました。1860年代以降は、近しい人々の肖像やパリの風俗を主題に描く中で、マネやのちの印象派の画家たちと交流を結ぶようになります。
     この作品で描かれているレオポール・ルヴェールは、軍服のデザイナーから出発した風景画家・版画家で、その転身にはドガの後押しがあったようです。この肖像が描かれた時期に始まる印象派展にも、ルヴェールは第1回展から第3回展、そして第5回展に出品しています。彼は、ドガの友人で同じく印象派展に出品を重ねた画家アンリ・ルアールと親しく、この作品が当初、ルアールの所蔵であった事実は、ドガを中心とする画家たちの繋がりを物語っています。
     ドガによるルヴェールの顔と頭部の描写は細やかで、アカデミックな技術の裏付けをうかがわせます。他方、胴体部を描き出す素早い筆致と簡略化された仕上げには、印象派らしい手法を見ることができます。装束の黒と背景を彩る白の組み合わせを主調としながら、おそらくパレットナイフを用いて頭部の周りに赤をあしらう筆さばきは軽やかで、親しい友人を前に気取りなく筆を振るうドガの様子がうかがえます。

  • ポール・セザンヌ「帽子をかぶった自画像」 1890-94年頃<br />生涯30点を超える自画像を描いたセザンヌ後期の作品です。自画像は、モデルを使うことを不得手としたセザンヌが、唯一他者を意識せず、純粋に対象として人物を見るという造形探求の行為でもありました。不明瞭な空間を背景に肩越しに見る者を見据えるセザンヌの表情は、影に隠れる左側には画家の憂愁が垣間見える一方で、ハイライトの当たる右側の鋭い眼差しに、自己に厳格な画家の自意識がうかがえます。緑を基調とし、動的な、しかし規則正しい筆触と意図的な塗り残しで画面が構成されています。

    ポール・セザンヌ「帽子をかぶった自画像」 1890-94年頃
    生涯30点を超える自画像を描いたセザンヌ後期の作品です。自画像は、モデルを使うことを不得手としたセザンヌが、唯一他者を意識せず、純粋に対象として人物を見るという造形探求の行為でもありました。不明瞭な空間を背景に肩越しに見る者を見据えるセザンヌの表情は、影に隠れる左側には画家の憂愁が垣間見える一方で、ハイライトの当たる右側の鋭い眼差しに、自己に厳格な画家の自意識がうかがえます。緑を基調とし、動的な、しかし規則正しい筆触と意図的な塗り残しで画面が構成されています。

  • ギュスターヴ・カイユボット「ピアノを弾く若い男」1876年<br />カイユボットは、印象派の画家。印象派展に自らも出品する一方で、その活動を経済的に支えたことで知られます。この作品は、パリのミロメニル通りの自邸でピアノを弾く、カイユボットの弟マルシャルを描いたものです。1876年の第2回印象派展に《床削り》(オルセー美術館)とともに出品された6点の作品のうち、最も批評で取り上げられた1点です。<br /> 19世紀後半のパリにおいて、ピアノは上流市民のステイタスを示すものでした。絵画の主題になることも多かったのですが、この作品のように男性がモデルとなることは稀で、多くの場合、ルノワールに見られるように女性が描かれていました。この作品は、男性であるというのみならず、真摯に鍵盤に向かう人物を描いている点で、より近代都市の室内風景の自然な雰囲気を伝えています。壁面の装飾、カーテン、絨毯、椅子などの調度品には植物文が施され、富裕な市民の瀟洒な室内が描かれています。また窓から入る光がピアノの鍵盤や脚に反射しています。さらに、ピアノの側面に鍵盤や指が反映し、ピアノの蓋には壁の柱が反映しています。奥行きを感じさせる空間に精緻な筆触で描かれた画面は、軽快な筆触を特色とする印象派の絵画の中では、かなり異質です。技法や主題は、同じ都市風景と市民たちを主題とした、ドガの室内画と似ています。これもまた、光と影の描写の探求を志す印象派の特徴のヴァリエーションであることを私たちに伝えます。<br />

    ギュスターヴ・カイユボット「ピアノを弾く若い男」1876年
    カイユボットは、印象派の画家。印象派展に自らも出品する一方で、その活動を経済的に支えたことで知られます。この作品は、パリのミロメニル通りの自邸でピアノを弾く、カイユボットの弟マルシャルを描いたものです。1876年の第2回印象派展に《床削り》(オルセー美術館)とともに出品された6点の作品のうち、最も批評で取り上げられた1点です。
     19世紀後半のパリにおいて、ピアノは上流市民のステイタスを示すものでした。絵画の主題になることも多かったのですが、この作品のように男性がモデルとなることは稀で、多くの場合、ルノワールに見られるように女性が描かれていました。この作品は、男性であるというのみならず、真摯に鍵盤に向かう人物を描いている点で、より近代都市の室内風景の自然な雰囲気を伝えています。壁面の装飾、カーテン、絨毯、椅子などの調度品には植物文が施され、富裕な市民の瀟洒な室内が描かれています。また窓から入る光がピアノの鍵盤や脚に反射しています。さらに、ピアノの側面に鍵盤や指が反映し、ピアノの蓋には壁の柱が反映しています。奥行きを感じさせる空間に精緻な筆触で描かれた画面は、軽快な筆触を特色とする印象派の絵画の中では、かなり異質です。技法や主題は、同じ都市風景と市民たちを主題とした、ドガの室内画と似ています。これもまた、光と影の描写の探求を志す印象派の特徴のヴァリエーションであることを私たちに伝えます。

  • ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」1872年<br />モリゾは、印象派グループの数少ない女性の画家のひとりです。女性的な感受性で描かれる母子や子どもなどを主題とした作品は、男性の視点ではなかなか見ることのできない繊細さと穏健さを生み出しています。この作品は、モリゾの画歴において最も評価されたもののひとつです。<br /> パリの西部シャイヨー宮殿にほど近いバンジャマン・フランクリン通りにあった自邸が舞台となっています。着飾った女性と子どもがバルコニーから眼下に広がるパリの景観を見渡しています。トロカデロ庭園、セーヌ川、シャン・ド・マルス公園が描かれ、地平線の右側にはアンヴァリッドの金色のドームが見えます。素早く、活気のある筆づかいながら、細部までがきめ細やかに描かれています。これら背景が比較的粗く描かれているのに対し、右上の花瓶に生けられた赤い花や女性の瀟洒な衣装、子どもの青いリボンと衣装はていねいに仕上げられています。女性のモデルは姉のエドマかイヴとされています。子どものモデルは、イヴの娘で、ビシェットと呼ばれたポール・ゴビヤールであるかもしれません。<br /> モリゾは、制作当時マネと非常に近い間柄にあり、この頃は双方の画家の間の影響関係が指摘されており、この作品にもモダンな主題を革新的な技法で描いているところにマネの影響が垣間見えます。描かれた風景は、第二帝政時にセーヌ県知事オスマンが主導したパリ改造の結果をよく表しており、マネやカイユボットと同様に、モリゾは新しい都市パリの風景を印象派の技法でとらえています。

    ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」1872年
    モリゾは、印象派グループの数少ない女性の画家のひとりです。女性的な感受性で描かれる母子や子どもなどを主題とした作品は、男性の視点ではなかなか見ることのできない繊細さと穏健さを生み出しています。この作品は、モリゾの画歴において最も評価されたもののひとつです。
     パリの西部シャイヨー宮殿にほど近いバンジャマン・フランクリン通りにあった自邸が舞台となっています。着飾った女性と子どもがバルコニーから眼下に広がるパリの景観を見渡しています。トロカデロ庭園、セーヌ川、シャン・ド・マルス公園が描かれ、地平線の右側にはアンヴァリッドの金色のドームが見えます。素早く、活気のある筆づかいながら、細部までがきめ細やかに描かれています。これら背景が比較的粗く描かれているのに対し、右上の花瓶に生けられた赤い花や女性の瀟洒な衣装、子どもの青いリボンと衣装はていねいに仕上げられています。女性のモデルは姉のエドマかイヴとされています。子どものモデルは、イヴの娘で、ビシェットと呼ばれたポール・ゴビヤールであるかもしれません。
     モリゾは、制作当時マネと非常に近い間柄にあり、この頃は双方の画家の間の影響関係が指摘されており、この作品にもモダンな主題を革新的な技法で描いているところにマネの影響が垣間見えます。描かれた風景は、第二帝政時にセーヌ県知事オスマンが主導したパリ改造の結果をよく表しており、マネやカイユボットと同様に、モリゾは新しい都市パリの風景を印象派の技法でとらえています。

  • エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃 <br />ゴンザレスはフランスの画家。父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、母親はベルギー出身の音楽家です。1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じてマネを紹介され、そのモデルとなり、次いでその弟子となりました。サロンへの出品を優先したため、第1回印象派展への出品を断り、その後も師マネと同様に印象派展に出品することはありませんでした。しかしゴンザレスの絵画様式は、マネと印象派のそれと近いものであり、それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられます。<br /> 画家の妹ジャンヌが、夜の帳が下りた寝室のベッドで目を瞑って静かに横たわっており、その前にある花柄の椅子には薄衣がかけられています。夜の情景ながら、白をアクセントとして随所に用い、マネを思わせる粗いながらも生気を感じさせる賦彩がなされています。ゴンザレスの代表作の《朝の目覚め》(ブレーメン美術館)は、これとは対照的に若い女性の朝の目覚めを、みずみずしいタッチで描いています。これら2つの作品は、ほぼ同じ大きさのカンヴァスに同様の構図で描いていることから、対画であると見なす向きが多いようです。

    エヴァ・ゴンザレス 「眠り」1877-78年頃
    ゴンザレスはフランスの画家。父親は神聖ローマ皇帝カール5世によって貴族に序されたモナコの名家の末裔であり、母親はベルギー出身の音楽家です。1869年に画家アルフレッド・ステヴァンスを通じてマネを紹介され、そのモデルとなり、次いでその弟子となりました。サロンへの出品を優先したため、第1回印象派展への出品を断り、その後も師マネと同様に印象派展に出品することはありませんでした。しかしゴンザレスの絵画様式は、マネと印象派のそれと近いものであり、それゆえに印象派の女性画家のひとりに数えられます。
     画家の妹ジャンヌが、夜の帳が下りた寝室のベッドで目を瞑って静かに横たわっており、その前にある花柄の椅子には薄衣がかけられています。夜の情景ながら、白をアクセントとして随所に用い、マネを思わせる粗いながらも生気を感じさせる賦彩がなされています。ゴンザレスの代表作の《朝の目覚め》(ブレーメン美術館)は、これとは対照的に若い女性の朝の目覚めを、みずみずしいタッチで描いています。これら2つの作品は、ほぼ同じ大きさのカンヴァスに同様の構図で描いていることから、対画であると見なす向きが多いようです。

  • メアリー・カサット「日光浴(浴後)」 1901年<br />カサットは、アメリカ出身の印象派の女性の画家です。1872年にピサロに出会ったことが、1879年の第4回印象派展に出品するきっかけになりました。母子像は、カサットが生涯描き続けた主題で、中でも浴後の母子像を幾度も描いています。ここでは川辺の草の上にすわって寄り添う母子の姿が描かれています。前景には、優雅に横臥する母親と裸の子ども。その後ろにはラベンダー色の花が見えます。後景には、水面に映る木々の緑が揺らぐ様子がとらえられています。明るい色彩や生気溢れる筆触に、印象派的な要素を見ることができます。対角線上に人物を配置する構図や装飾的な衣装など、この頃の作品に浮世絵の影響が指摘されています

    メアリー・カサット「日光浴(浴後)」 1901年
    カサットは、アメリカ出身の印象派の女性の画家です。1872年にピサロに出会ったことが、1879年の第4回印象派展に出品するきっかけになりました。母子像は、カサットが生涯描き続けた主題で、中でも浴後の母子像を幾度も描いています。ここでは川辺の草の上にすわって寄り添う母子の姿が描かれています。前景には、優雅に横臥する母親と裸の子ども。その後ろにはラベンダー色の花が見えます。後景には、水面に映る木々の緑が揺らぐ様子がとらえられています。明るい色彩や生気溢れる筆触に、印象派的な要素を見ることができます。対角線上に人物を配置する構図や装飾的な衣装など、この頃の作品に浮世絵の影響が指摘されています

  • メアリー・カサット「娘に読み聞かせるオーガスタ」1910年<br />カサットの作品は、女性や母子などの日常生活における身近な情景を、明るい印象派的手法で描き上げた様式に特徴があります。印象派展に出品した後、その様式はさらに完成されたものとなりました。この作品は、カサットが晩年を過ごしたパリ近郊、ル・メニル=テリビュにあるボーフレーヌ館の緑豊かな庭園で描かれた母子像です。この頃すでに名声を確立していたカサットは、身近な家族や友人のみを描く必要がなくなり、女性や子どもをモデルとして雇うようになっていました。 <br />

    メアリー・カサット「娘に読み聞かせるオーガスタ」1910年
    カサットの作品は、女性や母子などの日常生活における身近な情景を、明るい印象派的手法で描き上げた様式に特徴があります。印象派展に出品した後、その様式はさらに完成されたものとなりました。この作品は、カサットが晩年を過ごしたパリ近郊、ル・メニル=テリビュにあるボーフレーヌ館の緑豊かな庭園で描かれた母子像です。この頃すでに名声を確立していたカサットは、身近な家族や友人のみを描く必要がなくなり、女性や子どもをモデルとして雇うようになっていました。

  • 2.静物への関心<br />アンリ・ファンタン=ラトゥール「静物(花、果実、ワイングラスとティーカップ)」 1865年ファンタン=ラトゥールは、クールベ以降のレアリスムの潮流に刺激を受けながらも、ロマン主義の画家ドラクロワからの影響で幻想的な絵画を描きました。その一方、初期から晩年に至るまで、静物画も手がけています。彼が手本としたのは、17世紀オランダ絵画や18世紀フランスの画家シャルダンらの先例でした。この作品では、花瓶に飾られた色とりどりの花、ザクロ、レモン、飲物の入ったワイングラス、空のティーカップ、スプーンがテーブルの上に整然と並んでいます。白色が効果的に使われることで、花や果実の色彩が際立ちます。 <br />

    2.静物への関心
    アンリ・ファンタン=ラトゥール「静物(花、果実、ワイングラスとティーカップ)」 1865年ファンタン=ラトゥールは、クールベ以降のレアリスムの潮流に刺激を受けながらも、ロマン主義の画家ドラクロワからの影響で幻想的な絵画を描きました。その一方、初期から晩年に至るまで、静物画も手がけています。彼が手本としたのは、17世紀オランダ絵画や18世紀フランスの画家シャルダンらの先例でした。この作品では、花瓶に飾られた色とりどりの花、ザクロ、レモン、飲物の入ったワイングラス、空のティーカップ、スプーンがテーブルの上に整然と並んでいます。白色が効果的に使われることで、花や果実の色彩が際立ちます。

  • ポール・ゴーガン 「馬の頭部のある静物」1886年<br />三つ折れ人形を思わせる東洋的な玩具、馬の頭部の古代彫像、浮世絵を貼り合わせた団扇に書籍。なんとも奇妙な組み合わせの静物が、規則正しい斑点をもって描かれています。ゴーガンとしては珍しい新印象主義的技法、点描によって描かれた静物画です。馬の彫像は、現在では大英博物館所蔵になるギリシアのパルテノン神殿の彫刻と建築の部分をなしていたエルギン・マーブルズ《月神セレネーの馬の頭部》を模した像のようです。人形や団扇は当時の日本美術愛好の流行によりパリにもたらされたものでしょうか。ゴーガンは、やがて、日本美術の影響を受けて、本格的にその技法を学び、平面的な単純化を目指す表現によって新たな様式を確立することになりますが、この作品はゴーガンの日本美術へ関心の端緒を開いたものといえましょう。

    ポール・ゴーガン 「馬の頭部のある静物」1886年
    三つ折れ人形を思わせる東洋的な玩具、馬の頭部の古代彫像、浮世絵を貼り合わせた団扇に書籍。なんとも奇妙な組み合わせの静物が、規則正しい斑点をもって描かれています。ゴーガンとしては珍しい新印象主義的技法、点描によって描かれた静物画です。馬の彫像は、現在では大英博物館所蔵になるギリシアのパルテノン神殿の彫刻と建築の部分をなしていたエルギン・マーブルズ《月神セレネーの馬の頭部》を模した像のようです。人形や団扇は当時の日本美術愛好の流行によりパリにもたらされたものでしょうか。ゴーガンは、やがて、日本美術の影響を受けて、本格的にその技法を学び、平面的な単純化を目指す表現によって新たな様式を確立することになりますが、この作品はゴーガンの日本美術へ関心の端緒を開いたものといえましょう。

  • ポール・セザンヌ 「鉢と牛乳入れ」1873-77年頃  <br />身の周りの事物を自由に並べ替えて様々な絵画的試みを行うことができるために、セザンヌは、静物画を好んで描きました。それゆえに静物画は、セザンヌが目指すところの絵画の実験の場であり続け、その成果が人物画や風景画といった他のジャンルに応用されていることも少なくありません。セザンヌの静物画としては初期に位置付けられるこの作品は、画面の構成を安定させるために現実の空間と形態を変形させており、セザンヌの静物画の特徴が明確に出ています。<br />

    ポール・セザンヌ 「鉢と牛乳入れ」1873-77年頃
    身の周りの事物を自由に並べ替えて様々な絵画的試みを行うことができるために、セザンヌは、静物画を好んで描きました。それゆえに静物画は、セザンヌが目指すところの絵画の実験の場であり続け、その成果が人物画や風景画といった他のジャンルに応用されていることも少なくありません。セザンヌの静物画としては初期に位置付けられるこの作品は、画面の構成を安定させるために現実の空間と形態を変形させており、セザンヌの静物画の特徴が明確に出ています。

  • 3.神話的世界<br />印象派の画家たちは同時代の風景や暮らしを題材にしましたが、神話や物語の世界をまったく描かなかったわけではありません。<br />エミール=アントワーヌ・ブールデル 「レダと白鳥」<br />

    3.神話的世界
    印象派の画家たちは同時代の風景や暮らしを題材にしましたが、神話や物語の世界をまったく描かなかったわけではありません。
    エミール=アントワーヌ・ブールデル 「レダと白鳥」

  • エミール=アントワーヌ・ブールデル 「傷つける精を運ぶケンタウロス」<br /><br />

    エミール=アントワーヌ・ブールデル 「傷つける精を運ぶケンタウロス」

  • オーギュスト・ロダン「立てるフォーネス」 1884年頃<br />ロダンは、生命感豊かな量塊表現と先鋭的な造形感覚によって、世に賛否を巻き起こしつつ彫刻に新たな領野を開いた、近代彫刻の父と呼ぶべき芸術家です。この作品の主題であるフォーネスは、ローマ神話の牧神に付き従う森の精です。1880年に制作が始まる《地獄の門》には、直立するフォーネスの姿も、扉上部の右端に見られます。この大理石による単独像では、顔を伏せるポーズで恥じらいを表現しながら、岩から生まれ出たかのような、みずみずしく力強い身体表現が特徴をなしています。

    オーギュスト・ロダン「立てるフォーネス」 1884年頃
    ロダンは、生命感豊かな量塊表現と先鋭的な造形感覚によって、世に賛否を巻き起こしつつ彫刻に新たな領野を開いた、近代彫刻の父と呼ぶべき芸術家です。この作品の主題であるフォーネスは、ローマ神話の牧神に付き従う森の精です。1880年に制作が始まる《地獄の門》には、直立するフォーネスの姿も、扉上部の右端に見られます。この大理石による単独像では、顔を伏せるポーズで恥じらいを表現しながら、岩から生まれ出たかのような、みずみずしく力強い身体表現が特徴をなしています。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール 「水浴の女」1907年頃<br />

    ピエール=オーギュスト・ルノワール 「水浴の女」1907年頃

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわる水浴の女」1914年<br />

    ピエール=オーギュスト・ルノワール 「すわる水浴の女」1914年

  • エミール=アントワーヌ・ブールデル「サッフォ」1887年<br />アントワーヌ・ブールデルは、オーギュスト・ロダン、アリスティド・マイヨールらと共に近代ヨーロッパの代表的彫刻家。

    エミール=アントワーヌ・ブールデル「サッフォ」1887年
    アントワーヌ・ブールデルは、オーギュスト・ロダン、アリスティド・マイヨールらと共に近代ヨーロッパの代表的彫刻家。

    アーティゾン美術館 美術館・博物館

  • 4.郊外への憧憬<br />印象派の画家たちは、より豊かな自然の残っている郊外へ向かい、そこで制作を行いました。<br />アルフレッド・シスレー 「森へ行く女たち」1866年<br />1865年7月からパリでアトリエを共有していたシスレーとルノワールは、翌66年2月、友人で画家のジュール・ル・クールと3人でマルロット村に滞在して、制作を行いました。この作品に描かれているのは、村に暮らす人々。道の両側には石造りの家が並びます。季節は晩秋。中央の3人の女性は、冬の間に燃やす薪を拾いに森へ出かけようとしています。暗い色調の作品ですが、明暗の対比が効果的に使われており、日差しを浴びた前景は明るくなっています。この作品でシスレーは1866年のサロンに初入選を果たしました。<br />

    4.郊外への憧憬
    印象派の画家たちは、より豊かな自然の残っている郊外へ向かい、そこで制作を行いました。
    アルフレッド・シスレー 「森へ行く女たち」1866年
    1865年7月からパリでアトリエを共有していたシスレーとルノワールは、翌66年2月、友人で画家のジュール・ル・クールと3人でマルロット村に滞在して、制作を行いました。この作品に描かれているのは、村に暮らす人々。道の両側には石造りの家が並びます。季節は晩秋。中央の3人の女性は、冬の間に燃やす薪を拾いに森へ出かけようとしています。暗い色調の作品ですが、明暗の対比が効果的に使われており、日差しを浴びた前景は明るくなっています。この作品でシスレーは1866年のサロンに初入選を果たしました。

  • クロード・モネ 「アルジャントゥイユの洪水」1872-73年<br />印象派の風景画家モネは、1871年から1878年までの間、パリの北西の街アルジャントゥイユに暮らし、すぐそばを流れるセーヌ川沿いの風景を繰り返し描きました。この作品の左側にぼんやりと見えるのはマラント島。奥には城館のみならず工場の煙突が見えて、この地域が近代化されていることがわかります。1872年12月から翌年2月にかけて雪解け水でセーヌ川が増水し、アルジャントゥイユは洪水に見舞われました。木立の左側にあるはずの散歩道も水浸しになっています。川の上を鳥が舞うことで、暗い色彩で描かれたこの作品の緊迫感や動感が増幅されます。

    クロード・モネ 「アルジャントゥイユの洪水」1872-73年
    印象派の風景画家モネは、1871年から1878年までの間、パリの北西の街アルジャントゥイユに暮らし、すぐそばを流れるセーヌ川沿いの風景を繰り返し描きました。この作品の左側にぼんやりと見えるのはマラント島。奥には城館のみならず工場の煙突が見えて、この地域が近代化されていることがわかります。1872年12月から翌年2月にかけて雪解け水でセーヌ川が増水し、アルジャントゥイユは洪水に見舞われました。木立の左側にあるはずの散歩道も水浸しになっています。川の上を鳥が舞うことで、暗い色彩で描かれたこの作品の緊迫感や動感が増幅されます。

  • クロード・モネ 「アルジャントゥイユ」1874年

    クロード・モネ 「アルジャントゥイユ」1874年

  • カミーユ・ピサロ 「菜園」1878年<br />ピサロは、1866年、36歳のときにポントワーズを訪れて以来、1883年までたびたび同地に滞在して、300点もの油彩画とおびただしい量の素描と版画を制作しました。パリの北西約40km のところに位置するポントワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川に面した古い街です。ポントワーズでつくられた農作物はパリに出荷されましたが、とりわけキャベツがこの土地の名産として知られていました。この作品では、キャベツ畑を囲むように木々が枝を張っています。影にも青や緑などの色彩が使われた、印象派の画家らしい光に満ちた表現です。 <br />

    カミーユ・ピサロ 「菜園」1878年
    ピサロは、1866年、36歳のときにポントワーズを訪れて以来、1883年までたびたび同地に滞在して、300点もの油彩画とおびただしい量の素描と版画を制作しました。パリの北西約40km のところに位置するポントワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川に面した古い街です。ポントワーズでつくられた農作物はパリに出荷されましたが、とりわけキャベツがこの土地の名産として知られていました。この作品では、キャベツ畑を囲むように木々が枝を張っています。影にも青や緑などの色彩が使われた、印象派の画家らしい光に満ちた表現です。

  • ギュスターヴ・カイユボット 「イエールの平原」1878年<br />

    ギュスターヴ・カイユボット 「イエールの平原」1878年

  • ポール・ゴーガン 「乾草」1889年<br />1888年暮れ、アルルでのファン・ゴッホとの共同生活が終結したのち、40歳のゴーガンは、ポン=タヴェンからさらに南に下った海辺の村ル・プールデュに初めて赴きました。その後、1889年秋から1890年11月までの間、友人のオランダ人画家メイエル・デ・ハーンとともに、小さな宿屋に滞在し、この宿屋の食堂の4つの壁面を自分たちの作品で飾る計画に着手しました。《乾草》はそのうちの1点です。色面に区切られた地面には規則的な筆致が見られます。垂直に伸びる木々は、装飾的な効果を生み出しています。

    ポール・ゴーガン 「乾草」1889年
    1888年暮れ、アルルでのファン・ゴッホとの共同生活が終結したのち、40歳のゴーガンは、ポン=タヴェンからさらに南に下った海辺の村ル・プールデュに初めて赴きました。その後、1889年秋から1890年11月までの間、友人のオランダ人画家メイエル・デ・ハーンとともに、小さな宿屋に滞在し、この宿屋の食堂の4つの壁面を自分たちの作品で飾る計画に着手しました。《乾草》はそのうちの1点です。色面に区切られた地面には規則的な筆致が見られます。垂直に伸びる木々は、装飾的な効果を生み出しています。

  • ポール・ゴーガン 「ポン=タヴェン付近の風景」1888年 <br />フランス北西部のブルターニュ地方にあるポン=タヴェンは、1860年代からフランスのみならず外国の芸術家をも惹きつけるようになりました。ゴーガンが初めてポン=タヴェンを訪れたのは1886年、38歳のときでした。この作品は、ゴーガンの2度目の滞在のときに制作されました。地面は緑で覆われて、春の訪れを感じさせるものの、ひとけのない寂しげな景色です。ポン=タヴェン郊外の「愛の森」と呼ばれる森から、アヴェン川とその対岸の柵に囲まれた牧場を望んでいます。後景にはサント=マルグリット山が見えます。 <br />

    ポール・ゴーガン 「ポン=タヴェン付近の風景」1888年
    フランス北西部のブルターニュ地方にあるポン=タヴェンは、1860年代からフランスのみならず外国の芸術家をも惹きつけるようになりました。ゴーガンが初めてポン=タヴェンを訪れたのは1886年、38歳のときでした。この作品は、ゴーガンの2度目の滞在のときに制作されました。地面は緑で覆われて、春の訪れを感じさせるものの、ひとけのない寂しげな景色です。ポン=タヴェン郊外の「愛の森」と呼ばれる森から、アヴェン川とその対岸の柵に囲まれた牧場を望んでいます。後景にはサント=マルグリット山が見えます。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール 「カーニュのテラス」1905年 <br />重いリューマチに悩まされた晩年のルノワールは、南フランスの街カーニュにしばしば滞在しました。1903年から1907年までの間、彼は、「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれる建物に部屋を借りて住みました。右端に見えているのがその建物です。その窓からは、カーニュの街並みと果樹園を眺めることができました。この作品では、高台に沿って階段状に延びる家々や果樹園が、柔らかな筆づかいで表されます。塀の上に腰掛ける女性は、白い帽子と赤い上着を身につけています。その横には麦わら帽子をかぶった子どもの姿が見えます。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール 「カーニュのテラス」1905年
    重いリューマチに悩まされた晩年のルノワールは、南フランスの街カーニュにしばしば滞在しました。1903年から1907年までの間、彼は、「メゾン・ド・ラ・ポスト」と呼ばれる建物に部屋を借りて住みました。右端に見えているのがその建物です。その窓からは、カーニュの街並みと果樹園を眺めることができました。この作品では、高台に沿って階段状に延びる家々や果樹園が、柔らかな筆づかいで表されます。塀の上に腰掛ける女性は、白い帽子と赤い上着を身につけています。その横には麦わら帽子をかぶった子どもの姿が見えます。

  • クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃<br />1908年9月末、67歳のモネは、静養する目的で、妻アリスとともにイタリアの都市ヴェネツィアを初めて訪れました。この都市に魅了されたモネは、しばらく滞在することを決めました。そして約2カ月の滞在中に約30点の作品を制作したのです。この作品の左側に描かれているのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。逆光の中、教会はシルエットで表されています。黄昏の燃えるような光が、建物や空、水面をオレンジ色に輝かせ、水平線に向かうほど赤みが強くなっています。空にはうねるような筆致、水面には横向きのタッチを使っています。モネの巧みな筆づかいを見て取ることができます。

    クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」1908年頃
    1908年9月末、67歳のモネは、静養する目的で、妻アリスとともにイタリアの都市ヴェネツィアを初めて訪れました。この都市に魅了されたモネは、しばらく滞在することを決めました。そして約2カ月の滞在中に約30点の作品を制作したのです。この作品の左側に描かれているのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。逆光の中、教会はシルエットで表されています。黄昏の燃えるような光が、建物や空、水面をオレンジ色に輝かせ、水平線に向かうほど赤みが強くなっています。空にはうねるような筆致、水面には横向きのタッチを使っています。モネの巧みな筆づかいを見て取ることができます。

  • ポール・シニャック 「コンカルノー港」1925年 <br />コンカルノーは、フランス西部のブルターニュ地方の港町です。1891年の夏、シニャックは愛用のヨットに乗ってコンカルノー港からコート・ダジュールのサン=トロペへ向けて船出したことがありました。その後、シニャックはフランスの港町を訪れて水彩による旅日記を残しました。1925年に再びここを訪れた際には油彩画も制作しましたが、この作品は再訪した際に描かれたものの1点です。スーラとともに新印象主義を完成させたシニャックは、後年、点描の色点から方形のモザイク風小片の筆触へ描法を変化させ、この作品では青、ピンク、オレンジ、黄色の淡い色彩で装飾的な画面をつくり上げています。

    ポール・シニャック 「コンカルノー港」1925年
    コンカルノーは、フランス西部のブルターニュ地方の港町です。1891年の夏、シニャックは愛用のヨットに乗ってコンカルノー港からコート・ダジュールのサン=トロペへ向けて船出したことがありました。その後、シニャックはフランスの港町を訪れて水彩による旅日記を残しました。1925年に再びここを訪れた際には油彩画も制作しましたが、この作品は再訪した際に描かれたものの1点です。スーラとともに新印象主義を完成させたシニャックは、後年、点描の色点から方形のモザイク風小片の筆触へ描法を変化させ、この作品では青、ピンク、オレンジ、黄色の淡い色彩で装飾的な画面をつくり上げています。

  • 終章 都市を離れて<br />ポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃<br />セザンヌは、目に映る一瞬のきらめきをカンヴァスに写し取ろうとした印象主義の絵画を超えて、堅牢な量感を持ち、永劫に耐えられる強靭さをとどめる絵画にしようと試みました。それは相反する性格を同一画面の中に収めようとする極めて困難な課題であり、画家にとって試行錯誤の連続となりました。これを実現させるためにセザンヌは、印象派の仲間と距離を置いて孤独に制作する道を選び、いくつかのきまった主題を繰り返し描くことによってこの目的を達成することを目指しました。<br /> 1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきました。<br /> この作品はその試みの集大成となるひとつです。前景は鬱蒼とした樹木など、いくつかの筆触がひとかたまりの面となり、あたかもリズムを刻むように画面を構成し、奥行き感をつくり出しています。唯一の幾何学的形態である黄土色の建造物シャトー・ノワールが中景に配されて画面を引き締めています。同じ対象を繰り返して描くことによって、情景を目がとらえる実体感を残しつつ構築性のある絵画を実現するセザンヌの革新的絵画は、間もなく、キュビスム、フォーヴィスム、そして抽象絵画へと、20世紀絵画の成立に決定的な影響を与えることになります。

    終章 都市を離れて
    ポール・セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904-06年頃
    セザンヌは、目に映る一瞬のきらめきをカンヴァスに写し取ろうとした印象主義の絵画を超えて、堅牢な量感を持ち、永劫に耐えられる強靭さをとどめる絵画にしようと試みました。それは相反する性格を同一画面の中に収めようとする極めて困難な課題であり、画家にとって試行錯誤の連続となりました。これを実現させるためにセザンヌは、印象派の仲間と距離を置いて孤独に制作する道を選び、いくつかのきまった主題を繰り返し描くことによってこの目的を達成することを目指しました。
     1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=アン=プロヴァンスの東側にそびえる石灰質の山、サント=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきました。
     この作品はその試みの集大成となるひとつです。前景は鬱蒼とした樹木など、いくつかの筆触がひとかたまりの面となり、あたかもリズムを刻むように画面を構成し、奥行き感をつくり出しています。唯一の幾何学的形態である黄土色の建造物シャトー・ノワールが中景に配されて画面を引き締めています。同じ対象を繰り返して描くことによって、情景を目がとらえる実体感を残しつつ構築性のある絵画を実現するセザンヌの革新的絵画は、間もなく、キュビスム、フォーヴィスム、そして抽象絵画へと、20世紀絵画の成立に決定的な影響を与えることになります。

  • 鈴木其一 「富士筑波山図屏風」江戸時代 19世紀<br />江戸時代になると、富士山や筑波山は、東の都・大江戸のシンボルとして扱われるようになり、文学や絵画においてもよく取り上げられる題材となりました。雪をかぶり白く輝く富士山は、松林や汀に見える聖牛(現代のテトラポッドのようなもの)の存在から、富士川から望んだ姿と思われ、男体山と女体山2つの峰を持つ筑波山は、おそらく利根川や霞ヶ浦方面から眺めた姿と考えられます

    鈴木其一 「富士筑波山図屏風」江戸時代 19世紀
    江戸時代になると、富士山や筑波山は、東の都・大江戸のシンボルとして扱われるようになり、文学や絵画においてもよく取り上げられる題材となりました。雪をかぶり白く輝く富士山は、松林や汀に見える聖牛(現代のテトラポッドのようなもの)の存在から、富士川から望んだ姿と思われ、男体山と女体山2つの峰を持つ筑波山は、おそらく利根川や霞ヶ浦方面から眺めた姿と考えられます

  • 「富士筑波山図屏風」(左隻)<br />展覧会は、前後期で作品が一部入れ替わります。コロナ拡大心配ですが、後期にも訪れてみたいです。

    「富士筑波山図屏風」(左隻)
    展覧会は、前後期で作品が一部入れ替わります。コロナ拡大心配ですが、後期にも訪れてみたいです。

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