さいたまさんのクチコミ(89ページ)全2,813件
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津梁院は、天台宗の寛永寺の36御坊の一つです。山号は東叡山で、院号が津梁院です。
投稿日 2016年11月27日
総合評価:3.5
津梁院は、天台宗の寛永寺の36御坊の一つです。山号は東叡山で、院号が津梁院です。
津梁院は、津軽土佐守信義が寛永13年(1636)に創建したとのことです。
津軽土佐守は、江戸幕府4代将軍徳川家綱の霊廟がある厳有院の別当を勤めていたといわれています。
津梁院には、東京国立博物館の初代館長・町田久成の墓があるようです。
津梁院は、寛永寺の36御坊として、東都下谷絵図に記されています。
東都下谷絵図からは、現在の所在場所と変化がないものと考えられます。
現在の津梁院は、表札を見ない限り、普通の住宅と変わりは無いように見えます。
津梁院の右側に、墓地地区が連接しています。
東都下谷絵図から見ますと、寛永寺の御坊は、本坊の北側と南側に連なっていて、北側がやや多いように感じられます。
いずれにしましても、寛永寺の威光は大きなものがあり、本坊の周囲に子坊を多く配しています。
津梁院もその子坊の一つになります。
寛永寺の威光が衰えると同時に、子坊も衰退の途に向かいます。
津梁院の現在の姿は、歴史の厳しさもしくは現実の姿かもしれません。
栄枯盛衰の現実を見ているように感じています。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
浄名院は、寛永寺の36坊の一つとしてとして、圭海大僧都が開基となり、寛文6年に創建されました。
投稿日 2016年11月27日
総合評価:3.5
浄名院は、寛永寺の36坊の一つとしてとして、圭海大僧都が開基となり、寛文6年に創建されました。
浄名院は、当初は高重院、開基の際は、浄円院と称し、寺領200石を下賜されました。
その後、徳川将軍の母宝樹院菩提所となり、安楽律の新法門を唱導しました。
享保8年、御令旨に依り安楽派を興立し、浄名律院の名称も、改称され、建立に至りました。
東都下谷絵図には、従前の浄名律院との名称で記載されています。
現在の浄名院は、八万四千体地蔵の名のように、多数の地蔵菩薩像があります。
八万四千体とは、具体的な数字ではなく、多数という意味の言葉のようです。
いずれにしても、寛永寺の御坊が多数存在し、現在も脈々として続いていることに、感慨を覚えます。寛永寺自体も、往年の栄華は望むべくもありませんが、着実に生き続けています。
現在の状況と将来の予測のもと、精いっぱいの努力を傾注することが大事だと思い知った寛永寺御坊巡りでした。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
東京芸術大学美術館は、美術学部内の美術館で、収蔵美術品や卒業生の作品などを展示しています。
投稿日 2016年11月27日
総合評価:3.5
東京芸術大学美術館は、美術学部内の美術館で、収蔵美術品や卒業生の作品などを展示しています。
東京芸術大学美術学部の前身の東京美術学校では、伝統美術の復興をめざす岡倉天心の教育方針もあり、学生の参考資料として、開校以前から古美術品を収集していました。
さらに、美術学校としての特性から、歴代教官の作品、学生の卒業制作、文部省買上げ美術品など2万8千件以上の美術品・作品を収蔵しています。
東京美術学校では、収蔵品を展示するために昭和4年(1929)に、赤煉瓦造りの陳列館や、その後も、白壁、瓦葺で城郭風の正木記念館を建設しています。
芸術家にとって、芸術に恐れをなし、ひたすら実験結果等の客観的な結果を追っている無芸大食の輩への説明は、骨の折れる壁かもしれません。
芸術の聖堂に足を踏み入れた門外漢としても、居心地のあまり良くない美術館巡りなのかもしれません。美術品の真価を理解する余裕があるかが気になります。
肩身の狭い東京芸術大学美術館訪問となりました。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
-
東京藝術大学は、日本の最も歴史のある芸術分野の大学で、上野公園の北側にあります。
投稿日 2016年11月26日
総合評価:3.5
東京芸術大学は、日本の最も歴史のある芸術分野の大学で、上野公園の北側にあります。
東京芸術大学は、東京美術学校と東京音楽学校を編合括して、昭和24年に設置され、美術学部と音楽学部の2学部10学科と附属図書館等の組織が置かれました。
その後、何度かにわたって学部の拡充改組が行われ、現在は美術学部と音楽学部の2学部と附属図書館、大学美術館、演奏芸術センター等の施設で構成されています。
大学院は、3研究科が設置されています。
また、音楽学部に附属する教育・研究施設として音楽高等学校が設置されています。
上野、取手、横浜、千住の四つのキャンパスがあります。
旧東京音楽学校奏楽堂は、移設され、現在工事中です。
伝統ある大学であり、雰囲気が芸術的な感じがします。しかしながら正直言って、門外漢にとっては、その真価は良く解りません。
工学の分野からは、なんとなく芸術的な感じがするという表現で済まさざるを得ません。引き続き勉強に努力しますとの結論で終わってしまった東京芸術大学巡りでした。
- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
東京都立の美術館として、近代的な東京都美術館が、国立博物館の向かいに設立されています。
投稿日 2016年11月26日
総合評価:3.5
東京都立の美術館として、近代的な東京都美術館が、国立博物館の向かいに設立されています。
明治時代後期から大正時代にかけて日本の美術界では、美術館、特に明治以降の日本画や洋画など当時の時代の美術を展示する近代美術館の必要性が議論されていました。
内国博覧会の際に建てられた仮設の美術館などが、展覧会等に使用されていましたが、設備や展示機能は不十分なものでありました。文部省による美術館建設の構想はありましたたが、予算不足のため頓挫していたのが現実でした。
こうした中、北九州の石炭商から、東京府に対して、美術館の設立資金として建設資金の全額100万円(現在の金額では、約32億円に相当か)を寄付する旨の申し出があったため、建設計画が進捗し、東京府美術館として、大正15年(1926)年に、日本で最初の公立美術館として開館しました。
その後、改修や建て替え等を経て、現在の東京都美術館に発展しています。
美術館や博物館の設立に際しての越えねばならない壁は、いつでも多くあります。
今回、東京都美術館を訪れ、同じ思いをしました。いつも建設により得られる効果をどのように理解するかが問題になります。
いかに理解を得るかが大きな壁になります。東京都美術館の設立の際も同じ悩みに遭遇したと思います。現在の立派な東京都美術館を前にして、尽きせぬ悩みにいつも突き当たります。美術館や博物館は、壁の象徴なのでしょうか。いつも悩みの対象です。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
旧因州池田藩の屋敷表門は、黒門と呼ばれていましたが、国立博物館の門として再移設されました。
投稿日 2016年11月26日
総合評価:3.5
旧因州池田藩の屋敷表門は、黒門と呼ばれていましたが、国立博物館の門として再移設されました。
江戸時代には、大名の屋敷の門や塀は、格式に応じ構造・装飾等が規定されていました。
鳥取藩は、外様大名ながら松平の姓を名乗り、葵の紋の着用を許された32万石の大名でした。
江戸屋敷の表門も、格に応じ立派であったため、東宮御所の表門や高松宮の門として移設されましたが、現在は、国立博物館の門として再移設されました。
創建当時は、黒漆で塗られていたと伝えられ、黒門と称されています。
帝室博物館の表門として使われていた寛永寺旧本坊表門が、南側に置かれ、国立博物館の門として、旧因州池田藩屋敷表門が使われていることは、対照的に見ることができます。
それぞれ特性や歴史がありますが、いずれも重厚な趣があり、帝室博物館、国立博物館の門としてふさわしい感じがします。
今回、2回にわたり訪れましたが、ヨーロッパの外交代表が休館日の機会を利用し、貸し切りとなっており、黒門の近くを見ることができなかったのが残念でした。
次回の訪問期待します。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
ボードワン博士は、上野山の開発により上野山の自然が失われることを憂え、公園にすることを勧めました。
投稿日 2016年11月26日
総合評価:3.5
ボードワン博士は、上野山の開発により上野山の自然が失われることを憂え、公園にすることを勧めました。
江戸幕府の招きを受けて来日したボードワンは、長崎養生所の教頭となり、蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に努めました。
幕府に、医学・理学学校の建設を呼びかけ、その準備のために、フランスに留学生を伴いました。
物理学や化学の日本の教育制度の充実を図るとともに、上野山に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して、上野山一帯を公園として指定することを提言しました。
眼科に優れており、日本に初めて検眼鏡を導入しましたが、日本に持ってきた健胃剤の処方を日本に伝え、それらは日本独自の改良を経て、日本で市販され続けています。
その一つが太田胃散です。
ボードワン博士の像を見て、上野山が開発されずに、自然豊かな上野公園が生まれる大恩人であったことを、初めて知りました。
勉強になりました。
また、日常、何気なく使用している太田胃散のルーツがボートワン博士の処方であったことは、まさに驚きでした。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
寛永寺根本中堂跡の碑が、上野公園のほぼ中央の竹の台噴水の北側に立てられています。
投稿日 2016年11月25日
総合評価:3.5
寛永寺根本中堂跡の碑が、上野公園のほぼ中央の竹の台噴水の北側に立てられています。
根本中堂は、上野寛永寺の本堂として、広大な上野山のほぼ中央に立てられていましたが、上野戦争の折に、本堂、伽藍及び本坊等が焼失し、山門のみが残りました。
江戸時代の根本中堂を中心とする寛永寺の様子を、歌川広重が東叡山全図として描いています。
寛永寺根本中堂跡の碑には、東叡山全図が青銅製の絵図として掲げられています。
東叡山全図には、根本中堂、二ツ堂及び山門が描かれていて、当時の栄華の様子を偲ぶことができます。
これらの配置は、国会図書館の東都下谷絵図にも詳しく記載されています。
今回、竹の台噴水の周辺を歩いていたところ、たまたま噴水の北側の林の中にポツンと立っていた寛永寺根本中堂跡の碑が目につきました。
全くの偶然でした。解説文を読んでみると話題に頻繁上がっている根本中堂に関するもので、本当にビックリしました。感激の瞬間でした。
東叡山全図を見て、位置関係が理解できました。
特に、根本中堂と山門の位置関係が解らなかったのですが、疑問が氷解いたしました。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
寛永寺は、天海僧正の開山により、寛永年間に創設されたため寛永寺の名称となりました。
投稿日 2016年11月25日
総合評価:3.5
寛永寺は、天海僧正の開山により、寛永年間に創設されたため寛永寺の名称となりました。
寛永寺は、天台宗関東総本山の寺院で、山号は東叡山、院号が円頓院、寺号が寛永寺です。
京の都の鬼門を守る比叡山に対して、東の比叡山という意味で山号を東叡山とされました。
徳川家の本来の菩提寺は、中世から続く増上寺ですが、徳川家により新たに建立された寛永寺は、徳川家の祈祷寺で、菩提寺ではありませんでした。
3代将軍家光の遺言により、葬儀は寛永寺により行われ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となりました。
その後、皇族が歴代住職を務め、日光山や比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇りましたが、上野戦争で主要伽藍を焼失してしまいました。
明治維新により、寛永寺の敷地は、没収され、公園や博物館の敷地になり、寛永寺は東に移されました。
現在の本堂は、川越の喜多院本地堂を移築したものです。
天海僧正と将軍の結びつきで開山した寛永寺も、往年の栄華は亡くなったようです。
栄枯盛衰の象徴のような変遷です。歴史の悲哀を感じさせます。
上野公園や周辺の寺院巡りの際には、是非とも歴史の勉強をされることをお勧めします。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
竹の台噴水とは、上野公園の中央部にある噴水で、大噴水とも呼ばれているようです。
投稿日 2016年11月25日
総合評価:3.5
竹の台噴水とは、上野公園の中央部にある噴水で、大噴水とも呼ばれているようです。
平成21年から3年がかりで改修されました。
竹の台噴水のある場所には、幕末まで、東叡山寛永寺の中心で、竹の台と呼ばれ、根本中堂というお堂が建っていたそうですが、上野戦争の際に、焼失しました。
竹の台とは、慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰り、比叡山に移植したのを、更に根分けして、寛永寺の地に植えられたことから、竹の台の地名になりました。
竹の台の根本中堂の跡地に、造営されたのが噴水です。
現在の竹の台噴水は、以前の噴水の高さ等の規模はちょっと小さくなってしまったようですが、以前にも増して様々なパターンの噴水の形を楽しめるようになったそうです。
確かに、噴水の水の噴き上がる場所、高さ、間隔、組み合わせ等がいろいろなパターンがあり、順次、変わっていく様は、とても面白いです。
上野公園に訪れる人々に噴水を楽しんで見て貰おうと、噴水に、様々な工夫がされていることがわかります。
このためか、この噴水を待ち合わせ場所にしたり、憩いの場として利用する人々が多いのは、確かです。親しみの湧く竹の台噴水です。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
上野戦争の際、上野の寛永寺全体は焼失しましたが、旧本坊表門のみ戦火を免れました。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
上野戦争の際、上野の寛永寺全体は焼失しましたが、旧本坊表門のみ戦火を免れました。
上野に国立博物館の前身の帝国博物館が開館すると、旧寛永寺本坊表門は、正門として使われていましたが、関東大震災後、帝国博物館の本館を改築するのにともない、南側の現在地に移建しました。
江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていました。
現在の噴水池周辺に根本中堂、その東側に本坊があり、南側に本坊の表門がありました。門の構造は、切妻造り本瓦葺の薬医門です。
旧本坊表門の門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさがうかがわれます。
寛永寺旧本坊表門は、徳川幕府300年の長い歴史をともにした寛永寺の旧本坊の表門だけあり、重厚な感じがして、歴史を感じさせるものがあります。
表門の奥には、輪王殿があり、広大な前庭と相まって整然とした趣があります。
上野公園の東南にあって、真に格式の高い表門を思わせる風格があります。
ぜひとも、一見に値する神聖な場所としてお勧めします。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
開山堂 両大師は、天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師)の両大師を祀っていることに由来します。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
開山堂 両大師は、天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師)の両大師を祀っていることに由来します。
天台宗の輪王寺は、東叡山と号し、本尊として阿弥陀如来を祀っていて、通称、両大師の名称で知られています。
両大師堂は、上野公園内の東京国立博物館の南側に位置し、敷地は、天台宗別格大本山寛永寺の境内地となっています。
上野公園中央の大噴水の位置に、根本中堂、東京国立博物館の位置に本坊があり、輪王寺はもと寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていました。
上野の山全体が、上野寛永寺の境内でしたが、現在は、東京都の上野公園が大きな地域を管理していて、寛永寺は、不忍池の他、東北部分の一部となっています。
今回の上野公園訪問で、徳川時代初期において3代の将軍に仕えた慈眼大師と慈恵大師の果たした役割を、寺院の由来・縁起そして配置等で間接的に知ることができました。
とても良い勉強の機会を得ることができました。
次の訪問を楽しみにすることができた上野公園探訪でした。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
上野公園の科学博物館に置かれているD51型蒸気機関車は、国鉄長野工場で生まれました。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
上野公園の科学博物館に置かれているD51型蒸気機関車は、国鉄長野工場で生まれました。
上野公園の国立科学博物館前で、屋外展示されている旧国鉄のD51型蒸気機関車は、231号機になりますが、旧国鉄で最も多く活躍した蒸気機関車です。
D51の231号蒸気機関車は、昭和14年(1938)、当時の国鉄長野工場で製造されたもので、東海道線や山陽・山陰線を始めとして各線で活躍していました。
昭和50年12月、北海道での運行を最後に、追分機関区で約36年の活躍の後、廃車となり、ここ国立科学博物館前に保存・展示されています。
この間、走行した距離の合計は、218kmに及びます。
現在も、D51型蒸気機関車の雄姿を見ようと、全国のファンがやってきます。
蒸気機関車に対する根強い人気のほどが理解できます。
この他、蒸気機関車が見られる場所は、タイです。
終戦当時、タイに残っていた機関車や戦後日本から送られた機関車がまだ走っています。同じように、多く鉄道ファンが訪れています。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
国立科学博物館は、上野の本館の他、自然教育園、資源科学研究所、実験植物園等もあります。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
国立科学博物館は、国立科学博物館は、上野の本館の他、自然教育園、資源科学研究所、実験植物園等もあります。
国立科学博物館歴史は、湯島聖堂内に博物館を設立したことから始まります。
その後、教育博物館が設置され、高等師範学校の附属機関となりました。
科学博物館の設立が期待され、上野公園内に新館が建てられ、東京市の科学博物館と改称されました。
その後、国に移管され、現在の国立科学博物館となりました。
自然教育園、資源科学研究所も編入され、筑波実験植物園も附属施設となりました。
昭和記念筑波研究資料館の他、研究部門が筑波地区にあります。
今回、上野の科学博物館の本館を訪れてはじめて、国立科学博物館の構成を知り、上野公園内の展示館部門だけでなく、多様な機関があり、それぞれの特性に応じた活動を続けていたことを知りました。
この他、全く別の組織として日本科学未来館が存在することを知りました。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
野口英世像が、上野公園に建てられています。大噴水と西洋美術館の中間付近にあります。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
野口英世像が、上野公園に建てられています。大噴水と西洋美術館の中間付近にあります。
野口英世は、北里研究所から米国に留学し、国際的にも高い評価を得ていました。
その後、アフリカで、黄熱病の研究に励みましたが、アフリカの地で客死しました。
野口英世が試験管をもっている像は、「人類のために」との言葉のもとに、実験を続ける野口英世の姿を顕しています。
この銅像は、人類のために努力した野口英世の業績を後世に残すものとなっています。
この銅像を見ると、未知の米国の地において努力した野口英世の苦労をはかり知るとともに、得られた高い評価に喜びを感じます。
反面、アフリカの地で病魔に侵された不運と献身的な挑戦に敬意を表さざるを得ません。
これらの業績は、通常の努力では得られるものではなく、類稀な才能と強い使命感があったものと推測されます。
野口英世の銅像を見ることにより、彼の努力に力づけられます。
また銅像の陰に、野口英世の母親の気持ちを汲み取ることができるような気がします。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
上野大仏は、連続する悲劇に見舞われていますが、元気に頑張っています。受験生の味方です。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
上野大仏は、連続する悲劇に見舞われていますが、元気に頑張っています。受験生の味方です。
現在は、パゴダとともになっていますが、大仏の歴史は、古いものがあります。
寛永8年(1631)、越後村上藩主、堀直寄が、戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立したことから、上野大仏の歴史が始まっています。
建立後、地震により倒壊しましたが、金銅像として再建され、仏殿で覆われました。
その後、火災や安政大地震による破損そして修復を繰り返しました。
関東大震災による被害や軍需金属資源としての本体の供出等に見舞われました。
昭和47年(1972)、寛永寺に保管されていた顔面部を、レリーフとして現在の大仏山に安置し、現在に至っています。
一時、地震により頭部が落ちましたが、修復されたため、落ちないという面から、受験生の願いの拠り所になっています。
皮肉な現象ですが、多くの悲劇にもかかわらず多くの応援により生き続ける努力が共感を呼んでいるものと推察しています。
悲劇に負けない強い精神力が求められている現在、上野の大仏は、大きな力を与えてくれるものと確信しています。ぜひ上野の大仏をお訪ね下さい。お勧めします。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
お化け燈籠は、上野東照宮の造築の際、佐久間大膳亮が寄進したとても大きな燈籠です。
投稿日 2016年11月24日
総合評価:3.5
お化け燈籠は、上野東照宮の造築の際、佐久間大膳亮が寄進したとても大きな燈籠です。
お化け燈籠は、高さ6.06m、周囲3.63mもあり、通常の燈籠の約3倍も大きいものです。佐久間大膳亮は、京都南禅寺や熱田神宮にも、大燈籠を寄進しており、日本3大燈籠と呼ばれています。
その大きさが、桁外れに大きかったためか、参道の燈籠とは別の場所に置かれています。
お化け燈籠は、緑の樹々が鬱蒼と繁った森の中に置かれていて、なにか神秘的な雰囲気のもとにあります。
今回、上野東照宮のお化け燈籠を見る機会がありましたが、徳川幕府に対する各大名の積極的な燈籠寄進が目につきました。
多くの銅燈籠そして50基にも及ぶ石灯籠は、徳川家康の霊への慰霊の目的から離れ、諸大名が幕府の歓心を引き、忠誠心を具現化するものとして、競い合った結果だと推測しています。
当初の幕府の威光を示すものと勘ぐってしまいます。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
上野東照宮の大石鳥居は、5mを超える鳥居で、江戸時代の鳥居の中で最大です。
投稿日 2016年11月23日
総合評価:3.5
上野東照宮の大石鳥居は、5mを超える鳥居で、江戸時代の鳥居の中で最大です。
江戸幕府の初代将軍徳川家康の御霊を祀るため上野東照宮が造営されました。
その入口に造られたのが大石鳥居です。
大石鳥居は、当時の江戸幕府の重鎮であった上州厩橋城主、酒井忠世が奉納したものです。
大石鳥居は、高さは5.15mで、備前の御影石を使用したものです。
この大石鳥居は、関東大震災の際にも、全く傾きませんでした。
その頑丈さに当時の人々は大変驚いたと伝えられています。
上野東照宮の大石鳥居は、寛永10年(1633)、に建てられたもので、約400年経過していますが、全く年月による経年変化を感じません。
歴史の風格を感じさせます。
天和年間に、一時、地中に埋められていましたが、50年後の享保19年(1734)に、酒井忠世の孫、酒井忠知が掘り起こして、元の位置に立て直したと鳥居に追記されています。
今回、大石鳥居を見る機会を得ましたが、備前の御影石をどのようにして運んだかが気になります。鳥居の主要部分を、区分して輸送したと思いますが、大変な労力だったと推測しています。海と川を利用した海上輸送と人力による上野の山頂への搬送だったのでしょう。
その労苦に頭が下がる思いです。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
上野東照宮の透塀は、東照宮の社殿を守るように四周を囲っています。奥が見れるようになっています。
投稿日 2016年11月23日
総合評価:3.5
上野東照宮の透塀は、東照宮の社殿を守るように四周を囲っています。奥が見れるようになっています。
透塀は、日光の東照宮にもあるようです。
上野東照宮の透塀は、国の重要文化財に指定されています。
斜めの四角形の格子の向こう側が、透けて見えるので、透塀との呼ばれています。
私は、つい先ごろまで「すかしべい」と思っていましたが、「すきべい」と呼ぶようです。
透塀は、社殿と同時に修復され、創建当時の彫刻等が、華麗に復元されています。
透塀には、多くの動物や植物が彫刻されています。
それらの彫刻は、透けている格子の上部及び下部に、彫られています。
上部の彫刻は、野山の動物と植物で、下部の彫刻は、海や川に棲む動物が彫刻されています。
奥が見える透塀は、四周を守る機能と絢爛たる社殿を見せる機能を併せ持った塀だと、推測しています。
絢爛豪華な社殿を見せ、将軍家の権威を示すためと考えられます。
東照宮に灯篭を競って寄進した諸大名の動きとも符合していると考えられます。
良い勉強になりました。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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上野公園の西側に蛙の噴水があります。蛙の口から噴水として、水が噴き出されています。
投稿日 2016年11月23日
総合評価:3.5
上野公園の西側に蛙の噴水があります。蛙の口から噴水として、水が噴き出されています。
京成電鉄の上野駅の出口から上野公園に上がると、すぐ蛙の噴水が見えます。
蛙が水を噴き出している様子は、とてもユーモラスです。
多くの観光客が来ています。
待ち合わせの場所としても、最適のようです。
子供連れの外国人観光客が、蛙の噴水を見て、とても喜んでいました。
洋の東西を問わず、楽しいものは同じようです。
駅から近いこともあり、上野公園の観光巡りの第1歩の場所として、蛙の噴水を選定する観光客が多いようです。
渋谷のハチ公のように、上野公園の名物になっています。
ユーモラスな蛙の像でもあり、上野公園の端にあり、交通機関の駅に近いため、上野公園観光の出発点として、蛙の噴水をご活用ください。お勧めです。- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0


































































































































































































