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さいたまさんのクチコミ(91ページ)全2,813件

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  • 上野公園不忍池の弁天島の弁天堂の前に、緑青色の琵琶の碑が建てられています。

    投稿日 2016年11月18日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    上野公園不忍池の弁天島の弁天堂の前に、緑青色の琵琶の碑が建てられています。
    不忍池の弁天堂の御本尊の弁財天は、七福神の一人で、商売・金運にご利益があり、9月には巳成金大祭があるように、金運の神様で有名です。』
    しかしながら弁財天は、七福神の一人である関係上、音楽にもご利益があるとのことです。
    このため、弁天堂の階段の左側に、琵琶の碑が置かれているそうです。
    弁天堂の前に置かれている琵琶の碑は、緑青色が濃くなっていて、かなりの伝統があるようです。
    今回、上野公園不忍池の弁天島の琵琶の碑を訪れることにより、琵琶について勉強するきっかけとなりました。
    歴史について勉強する際には、なるべく、現地現物を見ることが非常に重要だと知りました。
    特に、金運の神様が、同時に音楽の神様でもあったとのことを、今回初めて知りました。
    勉強になりました。
    今後は広く、現地見物を見ることをお薦めしたいと思いました。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 暦塚は、上野公園不忍池の弁天島にあります。暦塚の題字は、中曽根康弘の直筆です。

    投稿日 2016年11月18日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    暦塚は、上野公園不忍池の弁天島にあります。暦塚の題字は、中曽根康弘の直筆です。
    暦塚は、第73代首相中曽根康弘氏による碑文が刻まれており、全国カレンダー出版協同組合連合会等により建立されました。
    台座の上に、日時計が置かれ、その上に地球が取り付けられています。
    弁天島の暦上のデータのみならず暦塚の緯度経度上の位置、時刻、各都市の方位角、時差表等の天文学上のデータが示されています。
    とても、興味深い暦塚です。
    基本的には、日時計の原理なので、太陽が出ていないとわからないデータもありますが、原理的なことは、一通り示されています。
    暦塚に記されている「人類が知った最初の科学は、天体の動き方であった。」との言葉が、とても印象的で、胸をうちます。
    ぜひとも、上野公園不忍池の暦塚を見られると良いと思います。必ずや、天文の世界に入り込むでしょう。お勧めします。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 上野公園不忍池の弁天島に、いと塚があります。三味線や琴のいとへの感謝の塚です。

    投稿日 2016年11月18日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    上野公園不忍池の弁天島に、いと塚があります。三味線や琴のいとへの感謝の塚です。
    上野公園不忍池の弁天島に渡ると、弁天堂が正面に見えてきます。弁天堂の南側に、いと塚があります。
    三味線や琴の糸への感謝の気持ちをもって建てらられた塚です。
    塚の形が、糸巻のような形をしています。
    弁天堂の周りには、いろいろな石碑や記念碑、塚などが置かれています。
    いと塚も、その一つで、門弟一同が師匠の恩に感謝して建てたようです。
    いずれにしましても、石碑や記念碑、塚を建てる際には、建てる目的や建立までの経緯があるはずで、それらは、一般的に碑文の中に書かれていることが多いです。
    したがって、石碑や記念碑、塚を見る際は、碑文をしっかり読むことが大切です。
    いと塚の裏面にも、門弟一同が建立したと記されています。いろいろ勉強になります。
    ぜひとも、石碑を見られることをお勧めします。

    旅行時期
    2016年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • スッポン感謝の塔が、上野公園不忍池の弁天堂の横に建てられています。

    投稿日 2016年11月18日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    スッポン感謝の塔が、上野公園不忍池の弁天堂の横に建てられています。
    美味であり、かつ滋養のために良き食材として、人々に食されているスッポンに感謝するため、スッポン料理にかかわる関係者により建立された塔です。
    上野恩賜公園内の不忍池の弁天島の弁天堂の南側に建てられています。
    塔の形自体は丸くて、スッポンの形をしていませんが、石碑の表面に、スッポンの輪郭が彫ってあります。
    スッポン感謝の塔の左隣に扇塚、右隣に糸塚があり、弁天堂の近くには、多種多様な記念碑・記念塔、塚が多くあります。
    弁天島入口の駅伝の記念碑から始まり、弁天島には多くの石碑があり、とても興味をくすぐられます。
    ぜひ、時間をかけて、弁天島の記念碑等を見て廻って下さい。面白いです。お勧めします。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 琴の曲筝曲を体系化した八橋検校顕彰碑は、上野公園不忍池の弁天島に建てられています。

    投稿日 2016年11月17日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    琴の曲筝曲を体系化した八橋検校顕彰碑は、上野公園不忍池の弁天島に建てられています。
    八橋検校は、江戸時代初期の検校で、生田流、山田流などの箏曲の祖と言われています。箏組歌13曲、段物3曲などを制定し、現在の箏曲の基礎を築いたと伝えられています。
    検校とは、中世・近世日本の盲官(盲人の役職)の最高位の名称を言います。
    江戸時代の検校は、優れた音楽家となる者が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となりました。
    磐城平藩の八橋検校は、博識の学者または専属の音楽家として、大名から高額の扶持で召し抱えられました。
    八橋検校顕彰碑は、昭和41年に建立されました。顕彰碑の下方には石造りの箏も置かれています。
    八橋検校の顕彰碑を訪れることにより、邦楽の発展の歴史を学ぶことができ、とても有意義でした。
    特に、八橋検校が従来の平曲に換え、地歌・箏曲・胡弓の三曲に体系化したことを知ることができ、新たな分野を理解することができました。やはり、歴史は生きています。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • ふぐ供養碑が、上野公園不忍池の弁天島に建てられています。弁天堂の傍にあります。

    投稿日 2016年11月17日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    ふぐ供養碑が、上野公園不忍池の弁天島に建てられています。弁天堂の傍にあります。
    ふぐ供養碑は、ふぐ料理関係者が、ふぐの霊を供養するために、昭和40年(1965)に建立した石碑です。
    幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝をささげ、今後絶對安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記會員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以でありますと刻まれています。
    石碑囲いの中に、ユーモラスなふぐの像と解説の碑があります。
    ふぐ供養碑の右側には、長唄の碑があり、さらにその右側には、八橋検校の石碑がある等、弁天島には多数の碑があり、すべてを把握するのは、困難です。
    しかしながら、各石碑には、それぞれの意義と歴史が秘められています。
    ひとつひとつその意義を理解することは、とても興味深いものです。
    例えば、ふぐは食いたし命は惜ししという言葉があります。昔は多くの中毒死者を出ましたが、ふぐの毒素を除去する調理法により、調理したふぐは安心であることが認識されました。
    今では、高級魚として、親しまれています。
    このように、ふぐの歴史を学ぶことにより、豊かな食生活が広まった現在を堪能することができるようになりました。有意義なふぐ供養碑訪問でした。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 上野公園の不忍池の岸辺に、めがねの碑があります。不忍池への橋のすぐ傍です。

    投稿日 2016年11月16日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    上野公園の不忍池の岸辺に、めがねの碑があります。不忍池への橋のすぐ傍です。
    上野公園から不忍池に向かう際には、小さな橋を渡ります。
    橋を渡ると、すぐ右側に、めがねを形どった円形部を付けた碑があります。めがねの碑です。
    徳川家康の愛用した眼鏡がかたどられていると言われていますが、真偽のほどは解りません。
    東京の眼鏡業界の組合が、昭和43年(1968)に建立したものです。
    設立に至った経緯や業界の発展に寄与した関係者等の名前が刻まれています。
    めがねが日本に伝わったのは、約400年ほど前で、宣教師ザビエルが大友宗麟に贈ったのが始まりと伝わっています。
    眼鏡をかけた日本人は、世界的に多いようですが、めがねの碑が不忍池にあったことは、今回初めて知りました。
    不忍池の弁天島には、いろいろな石碑があるようですが、めがねの碑という珍しい石碑を見ることができたのは、幸運でした。
    ぜひ時間を見つけて、不忍池の石碑巡りをされてはいかがでしょうか。
    新たな発見に、興味を覚えることでしょう。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 不忍池の弁天島への橋を渡ると右側に、不忍池由来碑の石碑があります。

    投稿日 2016年11月16日

    不忍池 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    不忍池の弁天島への橋を渡ると右側に、不忍池由来碑の石碑があります。
    橋を渡ると、すぐ右側に藤棚があり、その下に、比較的大きな不忍池由来碑の石碑があります。
    不忍池由来碑は、昭和41年(1966)に建立されました。
    不忍池の名称は、上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来しているといわれています。
    この地域は、古くは海で、平安時代に、海岸線の後退で沼のようになったといわれています。
    不忍池由来碑は、大きな沼の縁にあるため、蓮の葉に囲まれているような感じです。
    不忍池由来碑は、古い歴史を感じさせるような趣があり、心を落ち着かせてくれます。
    弁天堂等への参拝のため多くの観光客、参拝客が通りますが、不忍池由来碑の前は、静かな雰囲気に包まれています。
    喧騒を離れて、静かな気持になる不忍池由来碑を訪れては、いかがでしょうか。
    きっと満足に思われると確信しています。特に、雨の日は最高かと思います。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 誹風柳多留発祥の地記念碑は、上野公園の京成上野駅入口付近にあります。

    投稿日 2016年11月16日

    誹風柳多留発祥の地記念碑 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    誹風柳多留発祥の地記念碑は、上野公園の京成上野駅入口付近にあります。
    川柳は、江戸庶民の文芸として発展しました。
    誹風柳多留は、江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集です。
    創始者の柄井川柳と呉陵軒可有が、掲載作を選考し、発行したそうです。
    評者や序文の筆者には、柳亭種彦、十返舎一九、宿屋飯盛、葛飾北斎らが名を連ねていて、評判になったそうです。
    17文字からなる句である川柳は、柄井川柳の号である「川柳」の名が、使われていたことから「川柳」と呼ばれるようになり、誹風柳多留が刊行されていた頃も川柳と呼ばれていました。
    誹風柳多留発祥の地記念碑は、柳多留の版元が上野山下だったため、上野公園の入口に立てられました。
    鏡面加工の金属台座の上の桶に、アヒルが乗っている像が立っています。
    とてもきれいな記念碑です。
    観光客ばかりでなく、たまたま通りかかった通行人もじっくり見ていました。
    ついでの折でも良いので、ぜひとも一度見てみる価値があります。お薦めします。

    旅行時期
    2016年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 東京都の観光情報センターの支所が、京成上野駅の構内にあります。便利です。

    投稿日 2016年11月16日

    東京観光情報センター 京成上野支所 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    東京都の観光情報センターの支所が、京成上野駅の構内にあります。便利です。
    上野公園周辺の観光巡りの折、いろいろ教えて頂きました。便利です。
    東京都の観光情報センターは、上野の他、都庁、羽田、新宿の4ケ所あるようですが、上野支所は、京成電鉄の改札口の傍にあります。
    観光スポットの案内や地図の提供等が主ですが、新宿のバスタでは、外貨両替、旅行予約、宅配・荷物一時預かり等の便宜を図ってくれるとのことです。
    無料wi-fiサービスもあるようです。
    外国人観光客が多いせいか、英語等の外国語が聞こえてきました。
    置いてあるパンフレットが多く、どれを見たら良いか解らず、案内が必要なほどで、皮肉なものです。
    いろいろ、事前に、自分で調べるのもとても有意義なことですが、聞いた方が早い場合もあります。
    ただし、スタッフの人数に制限がありますので、質問事項をまとめて置いた方が、効率的かもしれません。
    いずれにしましても、便利ですので、活用されることをお勧めします。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 幡随院長兵衛の墓の碑が、東上野稲荷町の源空寺の門の傍にあります。

    投稿日 2016年11月16日

    幡随院長兵衛の墓 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    幡随院長兵衛の墓の碑が、東上野稲荷町の源空寺の門の傍にあります。
    幡随院長兵衛は、江戸時代前期の町人で、町奴の頭領として有名でした。
    日本の侠客の元祖とも言われ、歌舞伎によく登場する人物です。
    江戸の浅草界隈における就職等の口利きをする、職業紹介業を営んでいたとのことですが、諸説があります。
    もともと京都の出身で、江戸に出てきてから活躍し始めたとのことです。
    因みに、京都の知恩院の末寺の名前が、幡随院と言うようです。
    源空寺の門の傍の幡随院長兵衛の墓の碑は、東京都教育委員会が設置したようです。
    碑の裏面に、東京都教育委員会の文字が刻されていました。
    東京都の教育委員会が、職業紹介口入業の幡随院長兵衛に関連する碑を建てたのかは、良く解りませんが、碑自体は、大理石製で、高さも高く、かなり立派な碑です。
    塀の傍に立てられている関係上、裏面が良く見れませんが、再度、訪れて調べたいと思っています。
    とても興味を覚える立派な碑です。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 東上野稲荷町の源空寺は、江戸開府の以前から湯島に創設されていた伝統のあるお寺です。

    投稿日 2016年11月15日

    源空寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    東上野稲荷町の源空寺は、江戸開府の以前から湯島に創設されていた伝統のあるお寺です。
    浄土宗の寺院である源空寺は、山号が五台山、院号が文殊院と号します。
    稲荷町の寺院で、山号、院号そして寺号の三つの号を併せ持っている例は、浅草通りに面している宗源寺以外ありません。珍しい例です。
    源空寺は、天正18年(1590)に、覚蓮社円誉道阿霊門和尚が、湯島に創建しました。
    その後、明暦3年の大火で類焼し、東上野の稲荷町の地へ移転したそうです。
    広い境内の他に、道を挟んで南側に墓地地区を有しています。その墓地地区内には、高橋景保、谷文晁、高橋至時、伊能忠敬の墓があります。
    また、左衛門橋通りに面した門の傍には、幡随院長兵衛の墓の標識が立てられています。
    緑の樹々や芝生等で囲まれている境内の他、著名な人物の墓のあることから、来訪する人たちが多いお寺です。
    歴史に残る人たちのそれぞれの墓を見ますと、江戸時代以降に生きてきた生き様を感じることができます。
    稲荷町のお寺を訪れることにより、歴史を身近に感じることができました。
    源空寺を始めとして、寺院で歴史の息吹を肌で感じることは、とてもためになるものと感じた次第です。是非とも寺院巡りをお勧めします。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 日本地図を独自に作成した伊能忠敬のお墓が、東上野稲荷町の源空寺の中にあります。

    投稿日 2016年11月11日

    伊能忠敬の墓 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    日本地図を独自に作成した伊能忠敬のお墓が、東上野稲荷町の源空寺の中にあります。
    伊能忠敬は、江戸時代の商人・測量家で、寛政12年(1800)から文化13年(1816)までの17年間をかけて、全国を測量して大日本沿海輿地全図を完成させました。
    歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにし、初めて金星の子午線経過を観測した人物です。
    「東河伊能先生之墓」と記された墓は源空寺にあります。
    門前仲町の富岡八幡宮の中に、伊能忠敬の銅像があり、伊能忠敬の偉業が紹介されています。
    伊能忠敬が作成した地図は、現在でも使用できるような精緻なもので、当時の測量機材が限定されたものしかなかった時代において、このような精巧な地図を作り上げたことは驚嘆に値します。
    現在のお墓は、風雨に打たれて苔まで生えていることを考えますと、地図作成の偉業の価値に比し、残念でたまりません。
    ぜひ、時間をやりくりして、伊能忠敬のお墓を訪れ、その偉業に感謝してはいかがでしょうか。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 浄林寺は、叡龍山と号し、戦国時代末期に、三河の国に創設された伝統あるお寺です。

    投稿日 2016年11月11日

    浄林寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    浄林寺は、叡龍山と号し、戦国時代末期に、三河の国に創設された伝統あるお寺です。
    真宗大谷派寺院の浄林寺は、一色了空が開基となり、天正11年(1583)、三河国設楽郡に創建、その後神田にあった本願寺境内へ移転、明暦3年の江戸の大火後に、本願寺と共に浅草へ移転、文化7年、浅草本願寺境内を離れ、東上野稲荷町に移転したといいます。
    山号を、叡龍山と号します。
    浄土真宗東派明細簿によると、寛永9年に、寺格として、飛擔出仕の免許を許されていますが、寺格の具体的内容は解っていません。
    他の稲荷町の寺院と同様ですが、明暦等の大火により、浅草の本願寺とともに移転せざるを得なかった苦難の歴史が、重く感じられます。
    しかしながら、現在の浄林寺の敷地は、それほど狭いというわけでもなく、檀家の状況にもよりますが、まあまあ恵まれている部類ではないかと、推測されます。
    いずれにしても、今回、浄林寺を訪れ、浄林寺の歴史に触れることにより、数奇な運命の変転現在の姿を理解することができました。良い経験でした。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 浄土真宗大谷派の正行寺は、佐藤祐保が、湯島にあった本願寺の別院内に創建した寺院です。

    投稿日 2016年11月10日

    正行寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    浄土真宗大谷派の正行寺は、佐藤祐保が、湯島にあった本願寺の別院内に創建した寺院です。
    佐藤祐保は、三河国の碧海郡出身で、慶長19年、湯島、現在の神田万世橋外旅篭町にあった本願寺の別院境内に、正行寺を創設しました。
    正行寺は、明暦3年、明暦の大火で、焼失してしまいましたので、廣澤新田、今の浅草松清町に代替地を拝領し移転しました。
    その後、文化3年、淺草別院と同時に焼失し、文化7年、東上野稲荷町の板倉内膳正邸の地に再移転しました。
    浄土真宗東派明細簿による寺格は、堂班脇間となっています。
    明暦及び文化の大火により、本願寺の別院とともに被災し、移転を余儀なくされたことがわかります。
    文化の大火においては、焼失から移転まで4年を要したことから、その間の苦難は、推し量ることもできない感じです。
    火災の恐ろしさと、債権の困難さを痛感した正行寺訪問でした。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 源隆寺は、後醍醐天皇の子孫の大僧都源隆が、徳川家康公に願い出て、江戸の中橋にて創建しました。

    投稿日 2016年11月09日

    源隆寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    源隆寺は、後醍醐天皇の子孫の大僧都源隆が、徳川家康公に願い出て、江戸の中橋にて創建しました。
    浄土真宗東派明細簿によりますと、大僧都源流は、天台宗了見寺の住職でしたが、本願寺12代教如法主に帰依し、住職を法琳江に譲り、江戸に向かいました。
    江戸では、3000坪の土地を拝領し、名前を了念と改め、浄土真宗大谷派の源隆寺の創設に当たったようです。
    源隆寺の寺格は、外陣列座となっているようですが、具体的にはわかりません。
    現在の源隆寺の広さは、見たところ50坪前後100坪までない程狭く、とても3000坪には見えませんので、移転等で狭くなっているのかもしれません。
    他の寺院でもありましたが、今回の稲荷町寺院巡りで、宗派を超えての改宗が現実にあったことを、確認しました。
    現実のこととして、驚きの一つでした。従来は、万系一統との理解でしたが、認識を新たにしました。勉強になりました。


    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 長泉寺は、浄土真宗大谷派の寺院で、大乗坊善悦が三河国に創建し、その後、神田に移転したそうです。

    投稿日 2016年11月09日

    長泉寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    長泉寺は、浄土真宗大谷派の寺院で、慶長19年(1614)、大乗坊善悦が三河国宝飯郡に創建し、寛永元年に神田に移転したそうです。
    長泉寺は、三河の地で、12世光壽法主によって長泉寺と改号されました。
    長泉寺は、神田に移転後、明暦の振袖大火に被災したため浅草松清町へ移転、さらに文化3年の火災に被災した結果、東上野稲荷町の地へ移転したとのことです。
    浄土真宗東派明細簿の資料によると、移転後の寺格は、天保3年に内陣本座地に指定されたとの記述がありますが、具体的な格は、不明のままです。
    長泉寺は、三河の地からの移転を含め、2回の火災による移転を余儀なくされ、苦難の歴史を歩んできました。
    他の稲荷町の寺院もたどってきた苦難の道ですが、火災による被災や移転は、やはり大きな試練だったと思います。それら試練を乗り越えてきた努力の経過について注目する必要があります。
    ぜひとも今後の着目点として、気を付けていきたいものです。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 聞成寺は、能化坊慧秀が神田お玉ヶ池に創建した寺院で、浄土真宗大谷派の寺院となりました。

    投稿日 2016年11月09日

    聞成寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    東上野稲荷町の聞成寺は、能化坊慧秀が神田お玉ヶ池に創建した寺院で、浄土真宗大谷派の寺院となりました。
    浄土真宗大谷派の聞成寺は、世雄山と号します。
    慧秀が元和元年(1615)、神田に天台宗寺院として創建、翌年に大谷13世光従法主が江戸に下向の際に、拝謁し、浄土真宗寺院に改めたといいます。
    その際、命により豊島の花笠別院境内に移転しました。
    聞成寺は、明暦3年の振袖大火により、別院と同時に焼失し、浅草の廣澤新田に移転しました。
    また、文化3年に別院と同時に焼失し、現在の稲荷町に移転しました。
    浄土真宗に入る際と2度の火災により、3回も移転する等、苦難の歴史であったことがわかります。
    火災の恐ろしさは、寺院ばかりでなく、江戸全体にとっても大きな災難だったのでしょう。
    稲荷町の寺院を巡って、初めて火災と移転の歴史について理解することができました。
    江戸の歴史を紐解く際は、火災の影響について学ぶことが重要でしょう。
    火災の恐ろしさについて再認識した稲荷町寺院散策でした。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 東上野稲荷町の法善寺は、火災による移転の苦難を、2度乗り越えてきました。

    投稿日 2016年11月09日

    法善寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    東上野稲荷町の法善寺は、火災による移転の苦難を、2度乗り越えてきました。
    法善寺は、浄土真宗東本願寺派の寺院で、山号を龍飛山と号します。
    法善寺は、本願寺第13世宣如上人の法弟である中山浄賢が、寛永10年(1633)、神田に創建しました。
    明和9年(1772)の火災に罹災し、浅草本願寺へ移転しましたが、また、文化3年(1806)の火災により、東上野稲荷町の地へ移転したとされています。
    現在の法善寺の広い境内の中には、緑の樹々が多く、また本堂の前の池には、鯉が放たれていて、とても落ち着いたお寺です。
    本堂も、端正な造りで、心が休まる感じがします。
    東上野の稲荷町の寺院には、いろいろな特色を持つ寺院がありますが、法善寺は、典型的な寺院の雰囲気があり、和やかな感じがします。
    心の癒しを感じたい方は、ぜひ法善寺に足を運ばれると良いと思います。お勧めします。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 真覚寺は、本願寺の弟子が神田に創設したお寺で、明和の大火の後、東上野稲荷町に移転しました。

    投稿日 2016年11月09日

    真覚寺 上野・御徒町

    総合評価:3.5

    真覚寺は、本願寺の弟子が神田に創設したお寺で、明和の大火の後、東上野稲荷町に移転しました。
    真覚寺は、浄土真宗大谷派に属する寺院で、本願寺13世宣如上人の法弟玄知が、元和8年(1622)、神田に創建しました。
    明和9年の火災に被災し、浅草本願寺境内に移転、その後、本願寺第20世達如上人の命により、東上野稲荷町の地へ移転したそうです。
    現在の真覚寺は、白色と黒色のコントラストが鮮やかなコンクリート製の建物で、斬新な造りになっています。
    入口を入った後、階段で2階に昇り、真覚寺の入口に至ります。
    他の寺院と共通している部分があるように、大火の後、浅草本願寺に入り、その後、東上野稲荷町に移転するという、運命をたどっています。
    江戸の大火が、いろいろな面に影響を与えていることを物語っています。
    真覚寺の現代的な姿は、地震や火事に対する備えが大事だと教えてくれています。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

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