redchilipadiさんのクチコミ(23ページ)全923件
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月12日
総合評価:3.0
町名が銀座から京橋にかわる辺り、高速道路の高架の下に、タバコを吸う人が集う場所がある。よーく見ると、記念碑が二つ。
ひとつが、この江戸歌舞伎発祥の地の碑。
もうひとつが、京橋大根河岸青物市場跡。立派な石碑です。
この辺りに芝居小屋、櫓がたっていたのですね。粋な界隈だったのでしょう。
以下、中央区観光案内によると、
「江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)中村座の猿若勘三郎が中橋(日本橋と京橋の中間)で櫓をあげたのに始まります。まもなく、市村座がこれに続き、やがて森田座、山村座が上演を公認されました。明暦以後、人形浄瑠璃等も含めて芝居見物は堺町、葦屋町、木挽町の3町に限られたので、4座はここに集まり、この3町は魚河岸と並んで最も江戸っ子的な気風を育んだ地となりました。」とのことです。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
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投稿日 2013年01月12日
総合評価:3.5
徒歩出勤の途中、外堀通りと永代通りの交差点呉服橋から、いつもと経路を変えて常盤橋へ向かった。
その常盤橋の手前にかかる一石橋。
江戸時代、この辺りは繁華で、迷子も多かったのか、
あるいは、大規模な火災で、親からはぐれてしまった子供か、
迷子がでた場合、付近の町内会で責任をもって保護する仕組みがあったそうだ。
この町の有力人が、この碑を建てて、伝言板、告知板にした。
柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、
右側には、「志(し)らする方」、
左側には「たづぬる方」と石に刻まれている。
石には、ニッチ(小さなくぼみ)があり、そこに張り紙をして、情報交換した。- 旅行時期
- 2013年01月
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投稿日 2013年01月12日
総合評価:4.0
銀座を中央通り沿いに京橋方面へぶらぶら散歩していると、ちょうど高速道路の高架をくぐった辺りに、この石碑があります。
「京橋」を渡ったあたり。
江戸時代、京橋川河岸は大根を中心とした野菜の荷揚げ市場だったようです。- 旅行時期
- 2013年01月
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投稿日 2013年01月12日
総合評価:4.5
2013年お正月早々の出張で、博多のANAクラウンプリンスに泊まりました。
博多駅界隈には、駅を出てすぐのところにも大小さまざまなホテルがあり、このホテルはちょっと駅から離れているのですが、それでも地下街を抜けて徒歩5分。たいしたことはありません。
博多駅は、野球でいうならホームベースのようなポジションで、二塁にあたるのが天神。
天神近辺でお仕事のときは、地下鉄に乗ればたった二駅で、楽なのですが、福岡駅、薬院近辺でのお仕事の際、天神での乗り換えがよそ者(出張者)にとってはとても大変。
三塁にあたる渡辺通り交差点あたりで仕事がある場合は、このホテルは、住吉通りに面しているので、以外と便利。場所によっては徒歩でもOKです。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用目的
- ビジネス
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 10,000円未満
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 客室:
- 5.0
- 接客対応:
- 5.0
- 風呂:
- 5.0
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投稿日 2013年01月12日
総合評価:3.5
日本橋室町3丁目付近。日本橋三越から中央通りを神田方面へ進む。日本橋三井タワー(マンダリンホテルの建物)を越えたあたりに、この案内版が掲示されている。
江戸、寛永年間(1624年から1645年)十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られ、架設の「でみせ」が10軒あったそうです。
桃の節句には、内裏雛や禿(かむろ)人形を、端午の節句には、甲(かぶと)人形や鯉幟を売る店が並ぶ素敵な界隈。
その後、出店がどんどん増え、寛政年間(1789年~1801年)には40軒を越える賑わいだったそうです。
おじいちゃん、おばあちゃん、そして若い両親が、幼い娘や息子の手をひいて、お人形屋めぐりをする、いつの時代も幸せそうな風景が目に浮かびます。
人形卸問屋が並ぶ、大阪なら松屋町筋(まっちゃまち)界隈、東京なら、浅草橋・柳橋界隈のような感じだったのでしょうか。- 旅行時期
- 2013年01月
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月26日
総合評価:4.0
馬込勘解由(まごめかげゆ)とは、Wikipediaによると、日本橋大伝馬町二丁目で代々伝馬役・名主役を務めた馬込家当主が代々名乗った名前。なのだそうだ。
そもそも伝馬とは、江戸時代の交通手段。
江戸時代に五街道が整備され、地方の領主も、通信や輸送のために伝馬の制度を整備したのだそうだ。
伝馬の制度とは、お正月のマラソン、駅伝のような感じ。
いくつかの区間で、ランナーが交代しながら目的地まで到達する仕組み。その中継地になるのが「伝馬」。
日本橋の伝馬町は、大伝馬町と小伝馬町があるのだけれど、
江戸から五街道を経て、地方へ行く長距離便が大伝馬、
江戸府内の通信、輸送が小伝馬、と役割が分かれていたのだそうだ。- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
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投稿日 2013年01月26日
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投稿日 2013年01月26日
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投稿日 2013年01月26日
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投稿日 2013年01月26日
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投稿日 2013年02月02日
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月26日
総合評価:4.0
日本橋七福神巡りの途中、小網神社から茶の木神社へ移動中に、真っ赤な鳥居、シュールなキツネに誘われて迷いこんでしまった。 銀杏八幡宮の名前の通り、境内には銀杏の木がたくさん。のぼりは一杯たっているのだけれど、神社の由来を書いた看板や札はありませんでした。
- 旅行時期
- 2013年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月12日
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投稿日 2013年01月12日
総合評価:3.5
日本橋七福神巡り
人形町商店街協同組合のサイトによると
江戸末期 安政6年(1859年)、笠間藩主・牧野貞直が、日本3大稲荷のひとつ常陸笠間神社の御分霊を江戸下屋敷に奉斎。以降、五穀をはじめ水産、殖産の守護神として信仰を集めました。寿老人は長寿の神にして、お導きの神、幸運の神として、人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神とされています。- 旅行時期
- 2013年01月






















































