ドクターキムルさんのクチコミ(3ページ)全134件
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投稿日 2021年08月28日
総合評価:4.0
鶴岡八幡宮の参道であるが、若宮大路と名付けられている。これは源頼朝存命中のことである。
治承4年(1180年)に伊豆で挙兵した源頼朝は、敗れて房総に命からがら逃れ、その後、軍勢を整えて鎌倉に入った。そして鶴岡八幡宮(元八幡)を現在地の北山の麓に遷座した。この場所は筑波山と浅草観音を結んだ線上にある。
その線上に若宮大路が設けられ、寿永元年(1182年)に頼朝が京都(平安京)の朱雀大路を参考にして、鎌倉の軍都計画の第一歩として、また、段葛は御台所(晩年は平政子)の安産祈願のため造られたものである。
では何故「若宮大路」なのかと言うと、鶴岡若宮(元八幡)から遷座したからである。
鶴岡八幡宮は治承5年(1181年)に武蔵国浅草寺宮大工の手で造営され、養和元年(1181年)に竣工している。
しかし、社殿の消失に伴い、建久2年(1191年)に上宮(本宮)と下宮(若宮)とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。
鶴岡八幡宮の創建年はこの年となっており、この間の10数年は社史にはない。
この時代に造営された若宮大路や段葛は当初の名前を残している。- 旅行時期
- 2021年08月
- アクセス:
- 4.0
- 鎌倉駅脇
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2012年03月24日
総合評価:3.5
「八重一重咲き分け桜」は「地主桜」、「御車返しの桜」、あるいは、その発祥地の鎌倉市材木座の地名を取って「桐ケ谷桜」とも呼ばれている。
京都・清水寺の地主神社では、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇行幸の折、この桜のあまりの美しさに、三度、御車をお返しになった故事より、別名「御車返しの桜」とも呼ばれ、明治維新までは毎年花時にこの一枝を「白川女の花使い」が宮中に献上する慣わしになっていた。現在の地主神社の桜は、近年になって、円山公園のしだれ桜等の桜守として知られる佐野藤右衛門(考証:井上諍蔵)によって献木されたものである。
鎌倉・極楽寺には茶屋の前と宝物舘横にそれぞれ1本づつの「八重一重咲き分け桜」があり、北条時宗公手植えといわれているが、老木ではあるが、そこまでの樹齢はあるまい。
染井吉野が散る頃に咲く遅咲きの桜であるが、確かに1本の木に八重と一重の花弁が付く。しかし、1つの房から分かれて八重と一重の花弁が付く桜の花を探すと見つけることは困難であると、寺の写真撮影の記録係の人が言う。
2008年には2輪しか咲いていなくて、1つの房から分かれて八重と一重の花弁が付く桜の花であったので、咲くときはいつもこうなのかと勘違いしていた。その後、何度か訪れたが、1つの房から分かれて八重と一重の花弁が付く桜の花は中々見つからない。
1つの房から分かれて八重と一重の花弁が付く桜の花を見つけたいものだ。
なお、上野・両大師(輪王寺)にも「八重一重咲き分け桜」のかなり大きな木がある。
また、この「八重一重咲き分け桜」、「御車返しの桜」が令和の時代になって枝垂れ桜として現れた。富山市の呉羽山公園都市緑化植物園に植えられている「呉羽おとめ枝垂」である。- 旅行時期
- 2012年03月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2020年04月13日
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投稿日 2012年03月21日
総合評価:2.0
東戸塚駅の保土ヶ谷駅寄りの跨線橋の切通の線路沿いには早咲きの桜が4本程度植えられている。この跨線橋脇の肥田さんの亡くなったお祖父さんが若い頃に旧東海道品濃口に生えていた早咲きの桜を移植して植えたものである。
染井吉野より花がやや小さく、多少色が濃い。2019年からは「品濃桜」と呼ぶことにした。
東戸塚駅のトンネル側の線路法面は桜並木となっている。国鉄の敷地であったが、近所の80歳過ぎのお爺さんが若い頃に植えた桜で、駅側の4本は早咲きの桜である。
例年なら2月下旬から3月上旬に開花し、染井吉野の開花時期の目安となっている。
例年なら2週間もすると染井吉野が開花する。
今年(2012年)は例年になく春が遅く、河津桜の開花を追って3月20日に開花した。
早咲きのおかめ桜よりは早いか遅いか?
この早咲きの桜が散らないと染井吉野は満開にはならない。
これなら、染井吉野の開花は4月1日あたりか?それなら4月7、8日あたりが見頃(満開)となろうか?
東戸塚駅の横浜駅寄り、肥田牧場前。- 旅行時期
- 2012年03月
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
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投稿日 2020年02月19日
総合評価:5.0
源頼朝の墓がある源頼朝法華堂跡は大蔵山(法華堂山)と呼ばれ、古代(古墳時代末期)には多くの横穴墓が営まれた横穴墓群である。
この中で後世に再利用されずに残る横穴墓群がある。
北条義時やぐらと呼ばれる横穴墓と北条政子のやぐらとも言われる横穴墓である。
特に、北条義時やぐらは戦前の地図には北条義時墓と記載されている。
この横穴墓の玄室の屋根は船底型(屋根型)天井で、見るべき価値が高い。
場所:源頼朝墓の東にある尾根の最東部山腹。旧村上邸裏を過ぎた辺り。
土留めのコンクリート板がない石の階段がある竹藪から上る。- 旅行時期
- 2020年02月
- アクセス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2019年02月04日
総合評価:4.0
昭和初期に植林された獅子舞谷は鎌倉では黄葉・紅葉の名所として知られている。永福寺跡から獅子舞谷に向かうと、東電変電所近くの山の入口に亀ヶ淵奥の切通がある。この亀ヶ淵奥の切通はそれほど長い切通ではないが、この後に造られる朝夷奈切通に非常に似ている。土木工事ではスケールの小さな物を造った後に、巨大な物を造る。この亀ヶ淵奥の切通は朝夷奈切通のモデルとなった切通であろう。また、この亀ヶ淵奥の切通にはやぐらが一切伴わない。ではいつに造られたのか?
「武家の古都・鎌倉」を標榜して大失敗をしている。天皇が住まわれなかった鎌倉を古都と呼ぶのはおこがましいことだ。「古(いにしえ)の軍都・鎌倉」がその実態であろう。すなわち、軍都のインフラ整備には当然であるが、「軍事道路」の建設が必ずあるものだ。源頼朝が鎌倉に入ったのは治承4年(1180年)のことであるが、平家を滅ぼす以前の寿永元年(1182年)から江島神社で藤原氏調伏の祈祷を行っている。
「黄金の国ジパング」とは奥州平泉のことであり、大儀名分がないままに文治5年(1189年)に奥州平泉に遠征し、藤原氏を滅ぼした。
すなわち、大手中路とされるこの街道は鎌倉のメインストリートであるが、その建設整備は頼朝存命中である文治5年(1189年)には完了していたはずである。この大手中路を馬に乗って六国峠(現在の天園峠)を越えて奥州に向かい、凱旋したのである。
また、獅子舞谷の入口にも切通がある。
なお、永福寺の北東に昔からの「獅子舞」があり、その北北東にある「新立」が近年では「獅子舞谷(ししまいがやつ)」と呼べれるようになっている。大平山直下の谷が大平山が掘削されてなくなると、麓の地名「獅子舞」を冠するようになっているのも不思議なことだ。- 旅行時期
- 2019年02月
- アクセス:
- 2.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 1.0
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投稿日 2019年02月14日
総合評価:4.0
鎌倉・建長寺由来に「けんちん汁」がある。「建長寺汁」が訛ったとされる。「建長寺汁」は建長寺創建当時から食されていたであろう。しかし、それが訛って「けんちん汁」となったのは時代が下がって、物見遊山が流行った江戸時代のことではあるまいか?
しかし、年代を特定できる建長寺由来の言葉もある。良く知られており、日常会話でも使用されているが、それが建長寺由来の言葉であることは殆んど知られてはいない。
仏には、悟りを開いた者である如来とその下に悟りを開こうと修行している菩薩などがある。鎌倉五山第一位の建長寺の本尊は地蔵菩薩である。
建長寺は開山(第一世)を蘭渓道隆として建長5年(1253年)に創建された。本尊は地蔵菩薩である。
建長寺二世の兀庵普寧(ごったん ふねい)(慶元3年(1197年)~景炎元年11月24日(1276年12月30日))は、建長寺の本尊は地蔵菩薩であるが、地蔵菩薩は自分より下位であるとして礼拝しなかった。そうしたことでしばしば物議を醸し、もめごとが多かったために「ゴタゴタする」の語源となった。兀庵(ごったん)の名を採った「ごったんごったん」は日本語では良くある促音・撥音(はつおん)が取れ、「ごたごた(ゴタゴタ)」になり、日本語の慣用句となっている。
兀庵普寧は分応元年(1260年)に蘭渓道隆・円爾の招きにより南宋から来日し、文永2年(1265年)に帰国しているから、13世紀後半の事象で、それがこの言葉の派生時期である。
また、建長寺に入る前は浄智寺に入っていた。そうしたことから、時間が許すなら、浄智寺にも寄ってみたいところだ。
建長寺仏殿に安置されている本尊・地蔵菩薩坐像を見て如何に思うか?
場所:JR北鎌倉駅徒歩10分- 旅行時期
- 2019年02月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2020年09月06日
総合評価:3.0
鎌倉市西御門の白旗神社前の石段を上ると源頼朝の墓がある。
この多層塔(供養塔)は、安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が勝長壽院跡にあった多層塔(供養塔)を運んできて建てたものである。
この時の将軍は第10代徳川家治である。第11代将軍は徳川家斉(御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男)である。
重豪は頼朝公のお墓を建てさせていただいたお礼に娘を第11代将軍徳川家斉の御台所として差し出した。
その後、薩摩藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)は本家には良い娘がいなかったので
分家の一(かず)を本家の養女として安政3年(1856年)11月に第13代将軍徳川家定(とくがわ いえさだ)の御台所として嫁がせた。その人が篤姫、後の天璋院である。
家定の将軍在位は嘉永6年(1853年)~安政5年(1858年)であるが、この間に頼朝公墓前祭の祭祀権が徳川宗家(将軍家)から島津家に移された。
若尾登美子の小説では篤姫は一橋慶喜を次期将軍(第14代)にすることが斉彬からの命として描かれているが、密命は頼朝公墓前祭の祭祀権を手に入れることであった。
それに成功して、今では源頼朝公墓前祭から鎌倉まつりに発展している。篤姫は隠れた鎌倉への貢献者である。(https://4travel.jp/travelogue/11595621)- 旅行時期
- 2020年09月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 2.0
-
投稿日 2019年02月04日
総合評価:4.0
コンクリート舗装された道路を長寿寺横から岩船地蔵まで歩いても、鎌倉七口では唯一国指定史跡にはなっていない極楽寺坂切通との違い、何故亀ヶ谷坂切通は国指定史跡になっているのか?という疑問が湧く。
その答えは峠の左側のフェンスの中にあるのだが、亀ヶ谷に現在の道路を開設する際に史跡保護のために、道路側には石垣が積まれ、その上に亀ヶ谷坂切通の史跡の中心部分が残されている。しかし、公開されたことがあるとは聞かない。
この残された亀ヶ谷坂切通の史跡の中心部分には4m程度まで石垣が積まれており、鎌倉市内におよそ20個所程度ある他の切通とは著しく異なるものである。
近代になって崖の崩落防止のために積まれた石垣か?
ここ亀ヶ谷の舗装道路の左側が時々崩落して落石防止用の鉄ネットが全面に張られているが、それでも落石は絶えない。- 旅行時期
- 2019年02月
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2020年09月03日
総合評価:2.0
「鶴は千年、亀は万年」と言われ、能の「鶴亀」は天下泰平、国家の長久を祈念し、祝福するという、おめでたい内容である。
鎌倉にも鶴亀があり、源頼朝によって新しくなっている。
1.源頼朝が鎌倉に入る治承4年(1180年)以前の鎌倉の鶴と亀は元八幡がある由比鶴岡(鶴)と源氏(義朝)館があった亀ヶ谷(亀)である。
源頼義は、康平6年(1063年)、前九年の役の勝利を感謝するため鎌倉の由比郷鶴岡に山城国の石清水八幡宮を勧請した。現在の元八幡である。
一方、頼朝の父・義朝は、寿福寺のある亀ヶ谷に館を構えた。
2.頼朝の時代は現在の八幡宮がある鶴岡(鶴)と永福寺が建立された亀ヶ淵(亀)である。
頼朝は治承4年(1180年)10月に鎌倉に入ると、由比郷鶴岡にあった由比若宮を筑波山と浅草寺の線上に位置している小林郷北山に遷座した。これが軍都・鎌倉での最初の都市計画であるとされる。治承5年(1181年)5月には鶴岡八幡宮の造営を始め、7月には浅草寺の宮大工を招聘して八幡宮の造営に当たらせた。そして養和元年に改元された直後の7月20日には上棟式を迎えている。また、養和2年(1182年)には若宮大路を整備し、御台所(後の政子)の懐妊と安産祈願のために段葛を造営している。当然、この若宮大路は筑波山と浅草寺の線上に位置している。そのために、東西南北からは東におよそ27度傾いている。
一方、文治5年(1189年)には弟・義経を滅ぼし、さらに奥州合戦で平泉の藤原氏を滅ぼした。凱旋すると滅ぼした藤原氏や義経の怨霊を鎮めるために亀ヶ淵に永福寺を建立した。なお、頼朝が出陣したのは治承4年(1180年)の石橋山の戦い以来である。石橋山の戦いでは大敗したが、奥州合戦では完勝している。
頼朝没後には頼朝の霊を弔うために亀ヶ谷には壽福寺が建立され、室町時代には地名も亀ヶ谷から扇ヶ谷に替わってしまっている。また、永福寺の場所は二階堂に変わり、字名も亀ヶ淵から三堂などになり、頼朝生前の元の地名は忘れ去られている。
現在では鶴岡八幡宮境内の白旗神社前にある鶴亀石が知られていようか?
(https://4travel.jp/travelogue/11642065)- 旅行時期
- 2020年09月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 2.0
-
投稿日 2020年09月03日
総合評価:4.0
鎌倉は三方を山に囲まれた要害の地であるために源頼朝はこの地を拠点としたことが第二の理由としている。しかし、第一の理由(源氏所縁の地)以外にももっと根本的な理由が考えられる。
治承4年(1180年)、平家打倒のため挙兵した頼朝は、早々に石橋山の合戦で完敗し、命からがら房総に落ち延びる。頼朝は戦下手だったのだ。
その後、頼朝は兵を整えると鎌倉に入り、早速、由比若宮(元八幡)を遷座させた。
場所は浅草観音と筑波山の線上にある小林郷北山(現在地)である(。初出は「神社の系譜 なぜそこにあるのか」 宮元健次 著(光文社新書)2006年4月2日 である)。
軍事都市・鎌倉の最初の都市計画が鶴岡八幡宮の遷座であり、若宮大路に段葛を造成し、浅草寺と筑波山神社を守護と仰いだ。そのために、若宮大路の方位は南北から東に約27度ほど傾いている(https://4travel.jp/travelogue/11384324)。そのことは地図があれば誰でも確かめることができる。
軍事都市・鎌倉の内外には軍事道路を整備し、「いざ鎌倉」の言葉が生まれた。- 旅行時期
- 2020年09月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2020年09月06日
総合評価:1.0
葛原岡神社の裏山は前方後方墳型をしている。昔から古墳ではないかと言われてきており、1/10,000の地図(「街の達人」 MAPPLE社)上では標高90mのラインが160m~170mの前方後方墳型をしている。
1.墳丘の端には積石で崩落を防いでいるように見える。なお、岩に根を張る木々は岩を粉砕して、四角く割れて石垣のようになることがある。
2.葛原岡神社の本宮である鎌倉宮で聞くと、その分野の学者に調査を依頼したことがあるが断られて、これまでに一度も調査は行われてはいないという。
3.「葛原岡」の地名の由来は葛原(かずらはら)親王(延暦5年(786年)~仁寿3年(853年))が祀られているお墓があったためとされる。おそらくは葛原親王のお墓の参道は「源氏山入口」バス停までの道であろうか?
4.日野俊基卿を祀る葛原岡神社は山頂ではなく、くびれ部に鎮座している。
5.海蔵寺の開山和尚も山頂ではなく、「こもれび広場」の端にお墓がある。
6.葛原岡神社の参道は、葛原親王のお墓の参道と重ならないように、社殿横から裏手に伸びている。
もしも、葛原岡神社の裏山が150m級の前方後方墳であれば、国内では二番目の大きさになる。
果たして巨大前方後方墳なのか、単なる山の等高線が前方後方墳型をしているだけなのか?- 旅行時期
- 2020年09月
- アクセス:
- 1.0
- 閉鎖中
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
建長寺のさざれ石に看板設置-昭和60年(1985年)からある
投稿日 2019年03月22日
総合評価:3.0
さざれ石は日本国歌に唄われている。そのため、岐阜の砕石業者から奉納(お布施)されたさざれ石がどの神社(寺院など)では立派な御影石の碑や銅プレートなどが建てられ、参拝者の誰でもが、さざれ石の存在を知ることができる。
鎌倉には鶴岡八幡宮と東慶寺(縁切寺)にもあるが、鎌倉五山筆頭の建長寺にもあってしかるべきであったが、現実にはさざれ石は以前からあったのであるが、ほんの数人にしか認識されてはいなかった。
建長寺のさざれ石は
(1)カリンの木が生えている。
(2)表札や看板がなく、一般の参拝者にはその存在が知られていない。
平成30年末に建長寺のさざれ石に看板が設置された。そのために、(2)は失われた。しかし、この看板が設置されたことで、一般の参拝者もさざれ石を目にすることができる。またさざれ石にはカリンの木が生え、春にはカリンの花、秋にはカリンの実が稔っているのが見られるようになる。
建長寺に行かれたら、さざれ石とさざれ石に生えているカリンの木を見ることをお勧めする。
また、建長寺のさざれ石は岐阜の採石業者が奉納(お布施)した時期が不明であった。
ちなみに、10年前にも総長(住職)にさざれ石には立派な表札を立てて、誰でもさざれ石であることが分かるようにすべきだと助言しておいたのだが、それが何と長く掛かったことか。
また、奉納(お布施)されたのは「昭和60年(1985年)4月16日」ということだ。何と34年前のことだ。それを今頃になって看板を立てるのであるから、総長も総長だ。評判にたがわぬ。
昭和の終わり頃に奉納(お布施)され、平成も終わりになってようやく看板を設置した。
さざれ石の設置時期:昭和60年(1985年)4月16日
場所:建長寺料金所直ぐ
JR北鎌倉駅から徒歩10分- 旅行時期
- 2019年03月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2020年09月04日
総合評価:2.0
鎌倉中央公園東側の隣接地にある谷戸の池が公園として供用を開始した(4/14)。
台峯地区の一部とされ、山崎と日当(梶原3)間には
1)鎌倉中央公園の東側の尾根道、
2)谷戸の池横の谷道、
3)台峯ハイキングコース(都市計画道路の予定地)
の3本もの旧街道跡が残っており、鎌倉幕府が滅亡し、さらに鎌倉府が移ってしまってからは寒村になったと言われている鎌倉にも、こうした3本もの旧街道跡がわずか300m余りの幅の中に残されており、江戸時代の物見遊山では如何に多くの江戸町民がこの旧街道を通って、江ノ島から鎌倉(山ノ内)に入ったと考えられようか。
これら3本の旧道は峰々に従って曲がってはいるが、この3本の旧道は、鎌倉の中心地では
小町大路、若宮大路、小町通り、あるいは、小町大路、若宮大路、今小路 ほどの間隔に相当している。
頼朝以前には若宮大路はなく、小町大路、今小路だけであったとする学者もいる。
それが正しいならば、この幅の狭い山崎と日当(梶原3)間に残る旧道のその多さ(3密)には驚かざるを得ない。
なお、台峯ハイキングコースは都市計画道路の予定地でもあり、道路工事が始まれが、通行止めなどの規制が行われることが予想される。
出入り口にトイレが設置され、道標も立てられており、今は山中で道に迷うこともなくなっている。
道路工事が始まる前に一度は行ってみたい場所だ。
なお、谷戸の池周辺には休憩できるようなところはないので、そのつもりで。- 旅行時期
- 2020年09月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 2.0
-
投稿日 2020年04月13日
総合評価:3.0
南足柄市の山中にある大雄山最乗寺(曹洞宗)には多宝塔がある。
文久3年(1863年)に創建された。最乗寺では最古の建築物である。
塔内に多宝如来が安置され、塔の下には了庵慧明禅師、大綱明宗祖師、春屋宗能祖師の火定灰が納められているという。また、下層の蟇股に十二支の彫刻があるという。
横浜周辺では、多宝塔は、藤沢市片瀬の本蓮寺、川越・喜多院ぐらいかと思っていたが、ここ神奈川県内の大雄山最乗寺にも建っていた。
伽藍が山頂へと段々になって建っており、上から見下ろした姿も見られる。
場所:大雄山駅からバス終点「道了尊」バス停下車。徒歩15分。- 旅行時期
- 2020年03月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2020年04月13日
-
投稿日 2020年04月13日
総合評価:4.0
横浜市南区別所4にある東照山普門院は枝垂れ桜(1本桜)で知られているようだ。
しかし、他では見られない「さざれ石」がある。
鳥居の先にさざれ石が供えられており、太平洋戦争(大東亜戦争)での戦没者を供養するために戦没者の墓碑が並べられている。
戦死者・戦没者をこのように「さざれ石」をお供えして祀っているのは初めて目にした。
また、神奈川県内には「さざれ石」がお布施・奉納されている寺社は多くはない。
場所:京急上大岡駅からJR東戸塚駅行バス(あるいはその逆方向のバス)で普門院前バス停下車。徒歩8分。ただし、狭い曲がった昔の畑道を行く。- 旅行時期
- 2020年03月
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2020年02月20日
総合評価:4.0
京急長沢駅のホームから見える山の頂上に五重塔が見える。久里浜霊園の五重塔だ。
神奈川県には
1.龍口寺(明治43年(1910年)に建立)
2.川崎大師(昭和55年(1980年)に建立)
3.香林寺(昭和62年(1987年)に建立)
の五重塔3塔が知られているが、他にもう1塔あった。
明治期の五重塔は伝統建築の木造であるが、戦後の昭和になると鉄筋コンクリート造である。ただし、ここの五重塔と香林寺の五重塔は外観木造である。
久里浜霊園の五重塔は
1.昭和63年(1988年)に建立
2.裳階付き瓦葺き
3.屋根と屋根間隔は上層ほど逓減
4.各階の広さは同一
5.旭硝子の強化繊維を使用
五重塔では各層の逓減率が外観の美しさに影響する。また、屋根を逓減しているために各階の広さも逓減されているのが一般的である。
したがって、この五重塔は一見の価値がある(。見てそこに美があるか確認する必要がある)。
場所:京急長沢駅から(近道を通って)徒歩10分。長沢川沿いからは徒歩20分。- 旅行時期
- 2020年02月
- 施設の快適度:
- 4.0
- バリアフリー:
- 1.0
-
投稿日 2020年02月20日
総合評価:4.0
京急線の三浦海岸駅から三崎口駅方面に向かうと暫らくすると線路沿いに河津桜の桜並木が続く(https://4travel.jp/travelogue/11601238)。
その山側に小松ヶ池があり、周辺を含めて小松ヶ池公園になっている。
例年、2月初旬から3月上旬頃にはこの河津桜が開花し、満開の桜並木となる。また、その時期には「桜まつり」が開催される。
河津桜と言えば本家の河津町であり、
1.川 2.海 3.温泉 4.原木
があるが、富士山は見えない。
松田町は
1.富士山
が見えるだけである。
その点、ここ小松ヶ池公園では
1.池 2.海 3.富士山 4.横を電車が通る
の3つが楽しめる。ただし、天候によっては富士山は雲に隠れる。
どこでも菜の花は見られるが富士山(https://4travel.jp/travelogue/11601109)の方が嬉しい。
また、電車と河津桜の桜並木がインスタ映えする。
河津町と松田町に比べると、ここ小松ヶ池公園では京急線の三浦海岸駅が最寄駅であり、快速特急に乗車して横浜や都心からも時間が掛からずに来られる。
場所:三浦海岸駅下車 徒歩20分- 旅行時期
- 2020年02月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2020年02月19日
総合評価:4.0
小松ヶ池周辺の西側は富士山のビュースポット
三浦海岸では20年前に植えた河津桜の桜並木が開花する2月初旬から3月初旬までの時期には小松ヶ池がある小松ヶ池公園を中心にして三浦海岸桜まつりが開催される。
この小松ヶ池の西側は富士山のビュースポットである。
1.小松ヶ池西側の大根畑の台地
2.線路沿いの河津桜の桜並木が終わる橋の横にある農道の坂道
2.については桜見客はこの橋を渡っても富士山に気付く人は本当に少ない。この橋の上からは電柱に邪魔された富士山が見えるが、脇の大根畑の農道を5m、10mと坂道を上ると電柱に邪魔されない雄大な富士山が望める。
場所:三浦海岸駅から徒歩20分。線路沿いを三崎口方面に進んだところ。- 旅行時期
- 2020年02月
- アクセス:
- 2.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0

































































