鎌倉の鶴亀は源頼朝によって新しくなった
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- 旅行時期:2020/09(約4年前)
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by ドクターキムルさん(男性)
鎌倉 クチコミ:61件
「鶴は千年、亀は万年」と言われ、能の「鶴亀」は天下泰平、国家の長久を祈念し、祝福するという、おめでたい内容である。
鎌倉にも鶴亀があり、源頼朝によって新しくなっている。
1.源頼朝が鎌倉に入る治承4年(1180年)以前の鎌倉の鶴と亀は元八幡がある由比鶴岡(鶴)と源氏(義朝)館があった亀ヶ谷(亀)である。
源頼義は、康平6年(1063年)、前九年の役の勝利を感謝するため鎌倉の由比郷鶴岡に山城国の石清水八幡宮を勧請した。現在の元八幡である。
一方、頼朝の父・義朝は、寿福寺のある亀ヶ谷に館を構えた。
2.頼朝の時代は現在の八幡宮がある鶴岡(鶴)と永福寺が建立された亀ヶ淵(亀)である。
頼朝は治承4年(1180年)10月に鎌倉に入ると、由比郷鶴岡にあった由比若宮を筑波山と浅草寺の線上に位置している小林郷北山に遷座した。これが軍都・鎌倉での最初の都市計画であるとされる。治承5年(1181年)5月には鶴岡八幡宮の造営を始め、7月には浅草寺の宮大工を招聘して八幡宮の造営に当たらせた。そして養和元年に改元された直後の7月20日には上棟式を迎えている。また、養和2年(1182年)には若宮大路を整備し、御台所(後の政子)の懐妊と安産祈願のために段葛を造営している。当然、この若宮大路は筑波山と浅草寺の線上に位置している。そのために、東西南北からは東におよそ27度傾いている。
一方、文治5年(1189年)には弟・義経を滅ぼし、さらに奥州合戦で平泉の藤原氏を滅ぼした。凱旋すると滅ぼした藤原氏や義経の怨霊を鎮めるために亀ヶ淵に永福寺を建立した。なお、頼朝が出陣したのは治承4年(1180年)の石橋山の戦い以来である。石橋山の戦いでは大敗したが、奥州合戦では完勝している。
頼朝没後には頼朝の霊を弔うために亀ヶ谷には壽福寺が建立され、室町時代には地名も亀ヶ谷から扇ヶ谷に替わってしまっている。また、永福寺の場所は二階堂に変わり、字名も亀ヶ淵から三堂などになり、頼朝生前の元の地名は忘れ去られている。
現在では鶴岡八幡宮境内の白旗神社前にある鶴亀石が知られていようか?
(https://4travel.jp/travelogue/11642065)
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- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
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- 見ごたえ:
- 2.0
クチコミ投稿日:2020/09/03
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