bluejaysさんのクチコミ(5ページ)全1,033件
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投稿日 2021年09月23日
総合評価:4.0
東軍の前田利長は2万5000の兵を率いて、西軍の丹羽長重ら3000人が守る小松城を攻めたが、落とすことができなかった。利長は小松にわずかな押さえの兵を残して、大聖寺城に向かい、これを攻め落とした。
このとき、前田軍が越前・美濃方面に進むことを警戒した大谷吉継が「留守になった金沢城を急襲するため海路を北上している」という虚報を流した。これを警戒した利長は金沢に戻ろうとするが、途中に落とせなかった小松城があった。利長は秘密裏に撤退したかったが、2万5000もの大軍を密かに動かすのは不可能で、長重は浅井畷に伏兵を置き、前田軍を待ち伏せた。浅井畷は沼地の中の細い畦道で、前田軍は大軍の利を活かすことができない。
戦いは雨中の夜戦となり、鉄砲は使えず、白兵戦となった。丹羽軍は3000の兵力だが、前田軍しんがりの長連竜の部隊に襲いかかった。長家の小林平左衛門、隠岐覚左衛門、長中務、鹿島路六左衛門、八田三助、鈴木権兵衛、堀内景広、柳弥兵次、岩田新助の9人が討ち死にし、供養碑は各自の倒れた方向を向いて建てられているという。
関が原の戦い自体は東軍が勝利し、前田家は122万石に拡大、丹羽家は所領を没収された(後に大名に復位)。浅井畷の戦いの後、関が原で西軍主力が敗れたため、丹羽家は前田家に降伏し、戦いは前田家が勝利したかのように伝えられてきた。だが母の身分が低いとはいえ、利長の弟利常が人質として丹羽家に送られている。前田家は「しんがり」部隊に大きな被害が出たことから、実際は戦いに敗れ、かろうじて撤退したのが真相ではないだろうか。
小松駅からバス「オレンジこまち」に乗り「大領」下車。1日4本しかない。- 旅行時期
- 2020年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- バスは一日4本
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2021年09月19日
総合評価:4.0
吉岡清十郎とその弟伝七郎を続けて倒された吉岡道場は、17歳の吉岡亦七郎を当主に立て、一門の面目に賭けて武蔵に一乗寺下り松での決闘を挑んだ。
吉岡一門は小高い場所に陣取り、武蔵がどの方向から来ても対応できる体勢をとったが、武蔵はいつも通り遅刻するものと油断していた。だが武蔵は刻限より前に来て、裏の藪に隠れていた。彼は73人の吉岡一門を相手にせず、いきなり背後から現れ、最後方にいた当主の亦七郎を一刀のもとに切り捨てると、藪の中に逃げた。藪の中では敵は刀を振ることができないからである。地元に残る伝承では、武蔵は田圃の畦などに刀を何本も隠し、刀が切れなくなったときの用意をしていたという。武蔵は剣術に優れていただけでなく、人一倍狡猾で、なおかつ逃げ足も速かったのだ。
「一乗寺下り松」の名は、かつて一乗寺がこの上にあったことに由来している。街道の目印となる松があったが、当時の松は枯れ、現在のものは5代目になる。平敦盛の北の方が、一の谷の戦いで戦死した彼の遺児を松の下に捨てたところ、通りがかった法然が拾って立派な僧に育てたという逸話がある。
1336年には、足利尊氏に京都を制圧され近江に逃れた後醍醐天皇軍の楠木正成が、この地に布陣して尊氏を破り、京都を奪回している。- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2021年09月09日
総合評価:3.0
後白河院の近臣藤原成親・成経父子、西光、俊寛、平康頼、多田行綱らが1177年、俊寛の鹿ヶ谷山荘において平氏打倒の謀議をしたとされる。
謀議は行綱の密告により発覚し、西光の自白によって関係者は一網打尽にされた。西光は斬首、成親は備中に流罪(密かに殺される)、俊寛・成経・康頼は薩摩の鬼界島に流された。成経と康頼は後に赦され、一人残された俊寛は絶食して死んだ。
謀議が本当にあったかどうかは当時から今も論争があり、平清盛が後白河院の勢力を削ぐためにでっちあげたとする説もある。
地図に示されている地点は「此奧俊寛山荘地」の石碑がある場所で、「俊寛僧都忠誠之碑」はその先の山道の奥にある。謀議が行われた山荘は、「平家物語」では俊寛の、「愚管抄」では静賢のものとされていてはっきりしないが、碑を建てた西垣精之助は、この地が俊寛山荘跡だという夢を見て、土地を購入し建碑したのだという。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2021年09月02日
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投稿日 2021年08月29日
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投稿日 2021年08月15日
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投稿日 2021年08月14日
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投稿日 2021年08月14日
総合評価:2.5
妓王(祇王)は1172年、野洲郡江辺荘の役人橘次郎時長の娘として生まれたと伝わる。保元の乱で父を亡くすと、母の刀自・妹の妓女(祇女)とともに京にのぼり、白拍子となった。
妓王は平清盛の寵愛を受け、屋敷と毎月米百石・銭百貫を賜ったが、彼の寵愛が仏御前に移ると、屋敷を出て往生院で出家した。
付近には祇王井川・妓王寺など妓王にまつわる史跡があるが、妓王一家がこの地の出身だというのは伝承にすぎず、文献上は確認できない。祇王井川は12キロにも及ぶ水路で、強大な権力がなければ造れない。この地域は昭和30年まで「祇王村」と言っていたが、水争いで有利になるため、平家物語の伝承を利用したものと思われる。
近くの鏡の里には芸妓がいたので、そのうちの一人が京にのぼり妓王のモデルになったというのは、ありそうな話である。
駅から遠く、バスの本数が少ないため、野洲駅でレンタサイクルを借りるのを勧める。- 旅行時期
- 2019年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 2.0
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投稿日 2021年08月14日
総合評価:3.5
仏御前は1160年、加賀の原で白河兵太夫の娘として生まれたと伝わる。本名は千歳だが、信心深いため「仏」と呼ばれていた。
絶世の美少女で歌と舞に優れ、14歳で京に上り、評判の白拍子となり、平清盛の前で芸を披露することになった。清盛は妓王という白拍子を囲っていたが、その寵愛は仏御前へと移り、妓王は妹妓女と母刀自とともに屋敷を追われ、往生院で出家した。仏御前は、自分もいつか妓王のように棄てられるという無常を覚え、半年後に彼女のあとを追い、往生院で出家する。
清盛の子を身ごもっていると知った仏御前は、自分を模った像を妓王に残し、故郷の原へと向かった。途中木滑で男子を出産するが、すぐに亡くなった。
原に戻った彼女は、この地に草庵を結んだという。ここは彼女が暮らした最期の地で、生誕地ではない。
大通りに面した「仏御前屋敷跡」に彼女の墓があるが、集落の北の林の中にも「仏御前荼毘の地」という看板があり、彼女の墓と伝わる五輪塔がある。形式からして、彼女の時代のものとは思えない。原だけで墓が2つあることになる。
仏御前は、山奥の村人にとって誇りのようだ。「仏御前荼毘の地」がわからないので地元の人にきいたら、案内してくれた。この地の庄屋が彼女の像を守ってきたが、近代に入り林家が保管している。
平重盛の母の名すらわからないのに、仏御前・妓王・妓女・刀自いずれも作ったような名で、本名ではないだろうが、仏御前は過去帳に記録が残っているから、実在したとしか考えられない。- 旅行時期
- 2020年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 小松駅からバス
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2021年08月12日
総合評価:2.5
斎藤実盛は、初め源義賢に仕えたが、源義朝の家臣となる。義朝は義賢を滅ぼしたが、実盛は義賢の恩を忘れておらず、その子義仲を中原兼遠のもとに逃した。
実盛は源義朝が滅ぶと、今度は平氏に仕えた。倶利伽羅峠の戦いでは平氏方で戦ったが、大敗すると実盛は大将の平維盛を逃がすため、篠原に布陣した。彼は72歳で白髪になっており、これを最後の戦いと決めていたが、老武者と侮られたくなかったので髪を黒く染めた。
彼は義仲配下の手塚光盛に討たれたが、首を池で洗うと髪が白くなった。義仲は命の恩人を討ち取ってしまったと知り、泣いたと記されている。
石川病院近くに「篠原古戦場」碑が建っているのは、首洗池の遺跡で、平家物語には風情のある話が描かれているが、現地は荒れ果てたただの池である。この周辺が古戦場で、周囲には斎藤実盛にまつわる「実盛塚」「鏡池」などの史跡があるが、歩くにはそれぞれ距離がある。この界隈は加賀温泉バスの本数が少なく、観光用の「キャンバス」は1日乗車券1100円しか料金設定がない。加賀温泉までバスで行き、レンタサイクルを借りるのがいいかもしれない。- 旅行時期
- 2020年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- バスの本数が少ない
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もいない
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 2.0
- 殺風景
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投稿日 2021年05月26日
総合評価:5.0
太閤口は安宿がいっぱいだが、その中でも2000円台で泊まれる。支払いは現金のみだが、この値段なら苦にならない。
設備は古いが、よく掃除されているので汚くはない。トイレは温水便座ではなく、流すのにレバーを下げるレトロなタイプ。浴槽はかなり狭い。部屋にポットはなく、フロントに給湯機があることにあとで気づいた。
この値段で駅至近なら、大満足だ。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 5,000円未満
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 客室:
- 3.0
- 接客対応:
- 3.0
- 風呂:
- 2.0
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投稿日 2021年04月25日
総合評価:4.0
古事記の神話で、イザナギは死んだイザナミに会うため黄泉に下るも、そこでイザナミの醜い姿を見てしまい、追いかけられたが、黄泉比良坂に千引の岩(動かすのに千人力を必要とする巨石)を置いて道を塞いだとある。
私はこの坂の向こうに下り坂が続いているものと思っていたが、実はこの先は崖で、進むと本当にあの世行きになってしまう。
帰りは、決して後ろを振り返ってはいけませんwwww- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 揖屋駅から徒歩25分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もいなかった
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2021年04月25日
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投稿日 2015年03月07日
総合評価:5.0
鎖国時代の蝦夷地に入国したラナルド・マクドナルドは、この地にあった大悲庵に幽閉された。ここで洋学者たちに英語を教えたのが、記録に残る日本最初の英語教育である。
交易商人の父がオレゴンに来たとき、インディアンの女性に産ませたのがラナルドである。父はラナルドだけを連れてカナダのオンタリオに帰るが、その後白人の継母が弟たちを産む。一家の中でラナルドだけ人種が異なっていた。当時のカナダは今と異なり、有色人種は珍しかった。ラナルドは父にモントリオールの銀行に就職するよう斡旋されるが、家から体よく追い出されたと信じ込んだ。
そんなときカナダ西海岸に、音吉ら日本人3人が漂着したという知らせを聞く。聞いた話では日本人の風俗は、インディアンによく似ていた。ラナルドは日本に強く興味をひかれ、ついに密入国して捕らえられる。
アメリカに送還されたラナルドは、日本に関する著書を残し、生まれ故郷のオレゴンで死去した。彼が最期に家族に語った言葉は「サイヨナラ、サイヨナラ」だった。家族ははじめその意味がわからなかったが、あとになってわかった。オレゴンにある彼の墓には「SAYONARA」と刻まれている。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2021年02月25日
総合評価:4.0
「淡海温故録」には、明智光秀の2・3代前が主君の土岐成頼に背き、美濃を出て六角高頼を頼り近江の佐目に移住したと記録されている。佐目には光秀の屋敷跡と伝わる土地があり、近江出身説がにわかに注目されるようになった。同書では謀反の理由を、武田に内通したのが発覚したからだとしている。
十二相神社前の空き地に、おもむろに看板や幟が建てられていて、休憩所もあり、遠くからでもすぐわかる。廃止されたバス路線の代行で、多賀町が予約制の「愛のりタクシー」を運行しているが、いつまであるかはわからない。かつてあったバス停で乗り降りできるが、バス停がなくなっている場所があるので注意。この場所に行くには、南彦根駅から乗り「上佐目」バス停を降りてすぐだ。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 上佐目バス停すぐ
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人はいない
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2021年02月21日
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投稿日 2021年02月21日
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投稿日 2021年02月20日
総合評価:4.0
俗に「京の七口」と言われ、大きな街道筋の町外れには決まって刑場が置かれていた。梟首は政治的勝者が、敗者を辱め、罪人として一方的に断罪することで政権の正当性をアピールする重要なセレモニーだった。
明智光秀の首も発見されたのち胴とつながれ、粟田口刑場さらされた。本当に光秀の首と胴かは極めて疑わしい。
京都の寺院が、刑死者1000人ごとに供養碑を建て、その数は幕末までに15基に及んだから、1万5000人近くが処刑されたことがわかる。これらの供養碑は、明治の廃仏毀釈の際に失われた。粟田口刑場は明治に廃され、1872年粟田口解剖場が設置された。四面がガラス張りの建物で、刑死者の解剖が行われ、医師がその様子を参観した。だが同年解剖場は移転され、以後この地は利用されることなく忌み地として残された。
その後道路や鉄道の建設により、刑場跡はいくぶん損なわれたものの、当時の状態をわずかに留めている。車の通行量は多いが、どことなく気味の悪い土地だ。現在刑場跡にある2つの石碑は、解剖場時代の刑死者の供養塔なので、2000人以上が解剖されたことになる。- 旅行時期
- 2020年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 御陵駅から徒歩
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人はいない
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2020年10月16日
総合評価:3.0
シングルルームで予約したはずだが、室内はベッドが2つあるほか、畳6畳のスペースが別にあり、日本で一人で泊まったホテルでは最も広い。Wi-fiは切れやすく、実用に耐えない。冷蔵庫はうるさいのに出力が弱く、中のものが冷えない。少し高いホテルだが、離島でこのクオリティならしょうがないという感じではある。
ホテルで夕食を注文すると、5500円もかかる。川向こうの味乃蔵に行くと、定食を1000円台で食べられる。隠岐にはコンビニはないようだが、数分歩いた先にドラッグストアウェルネスがあり、20時まで営業している。
隠岐ではガソリンスタンドは日曜休業なので注意。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 7,500円未満
- アクセス:
- 4.5
- 西郷港から徒歩5分
- コストパフォーマンス:
- 2.0
- 客室:
- 5.0
- 非常に広い
- 接客対応:
- 3.0
- 風呂:
- 4.5
-
投稿日 2020年10月16日
総合評価:4.0
駅から徒歩7分で、もっと近いホテルもあったが、朝食付で貸自転車があるのが選んだ理由だ。駅の南口は侘しいが、ローソンが1ブロック西、もう少し先にはま寿司がある。
「アロマポットサービス」とあるので凝ったホテルだと思ったが、内装が古いせいか6回の廊下が少し臭う。部屋は禁煙室のはずなのに、やはり少々臭う。アロマポットを借りて焚いたら、気にならなくなった。立地も駅から少し遠いが、貸自転車で補えているというわけだ。部屋は広いが、バスルームが狭いスペースにバスタブと洗面台と便器を並べているので、洗面台が窮屈に感じる。
ホテルの朝食は「日曜・月曜はバイキング」と表示されているが、木曜なのにバイキングだった。ランドリールームには洗剤が置かれていた。値段の割りには良かったと思う。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 5,000円未満
- アクセス:
- 4.0
- 駅徒歩5分
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- 客室:
- 4.0
- 臭う
- 接客対応:
- 1.0
- 風呂:
- 2.0
- 狭い
- 食事・ドリンク:
- 5.0
- 朝食あり、たまにバイキング






























