「北陸の関ヶ原」、本当は前田軍大敗か
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- 旅行時期:2020/04(約6年前)
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by bluejaysさん(男性)
小松 クチコミ:2件
東軍の前田利長は2万5000の兵を率いて、西軍の丹羽長重ら3000人が守る小松城を攻めたが、落とすことができなかった。利長は小松にわずかな押さえの兵を残して、大聖寺城に向かい、これを攻め落とした。
このとき、前田軍が越前・美濃方面に進むことを警戒した大谷吉継が「留守になった金沢城を急襲するため海路を北上している」という虚報を流した。これを警戒した利長は金沢に戻ろうとするが、途中に落とせなかった小松城があった。利長は秘密裏に撤退したかったが、2万5000もの大軍を密かに動かすのは不可能で、長重は浅井畷に伏兵を置き、前田軍を待ち伏せた。浅井畷は沼地の中の細い畦道で、前田軍は大軍の利を活かすことができない。
戦いは雨中の夜戦となり、鉄砲は使えず、白兵戦となった。丹羽軍は3000の兵力だが、前田軍しんがりの長連竜の部隊に襲いかかった。長家の小林平左衛門、隠岐覚左衛門、長中務、鹿島路六左衛門、八田三助、鈴木権兵衛、堀内景広、柳弥兵次、岩田新助の9人が討ち死にし、供養碑は各自の倒れた方向を向いて建てられているという。
関が原の戦い自体は東軍が勝利し、前田家は122万石に拡大、丹羽家は所領を没収された(後に大名に復位)。浅井畷の戦いの後、関が原で西軍主力が敗れたため、丹羽家は前田家に降伏し、戦いは前田家が勝利したかのように伝えられてきた。だが母の身分が低いとはいえ、利長の弟利常が人質として丹羽家に送られている。前田家は「しんがり」部隊に大きな被害が出たことから、実際は戦いに敗れ、かろうじて撤退したのが真相ではないだろうか。
小松駅からバス「オレンジこまち」に乗り「大領」下車。1日4本しかない。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- バスは一日4本
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2021/09/23
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