山道の奥
- 3.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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by bluejaysさん(男性)
東山・祇園・北白川 クチコミ:8件
後白河院の近臣藤原成親・成経父子、西光、俊寛、平康頼、多田行綱らが1177年、俊寛の鹿ヶ谷山荘において平氏打倒の謀議をしたとされる。
謀議は行綱の密告により発覚し、西光の自白によって関係者は一網打尽にされた。西光は斬首、成親は備中に流罪(密かに殺される)、俊寛・成経・康頼は薩摩の鬼界島に流された。成経と康頼は後に赦され、一人残された俊寛は絶食して死んだ。
謀議が本当にあったかどうかは当時から今も論争があり、平清盛が後白河院の勢力を削ぐためにでっちあげたとする説もある。
地図に示されている地点は「此奧俊寛山荘地」の石碑がある場所で、「俊寛僧都忠誠之碑」はその先の山道の奥にある。謀議が行われた山荘は、「平家物語」では俊寛の、「愚管抄」では静賢のものとされていてはっきりしないが、碑を建てた西垣精之助は、この地が俊寛山荘跡だという夢を見て、土地を購入し建碑したのだという。
- 施設の満足度
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2021/09/09
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