hijunoさんのクチコミ(22ページ)全1,181件
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桜の名所として、また源平合戦 一ノ谷の戦いのあったあたりの場所です。
投稿日 2024年02月21日
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投稿日 2024年02月21日
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投稿日 2024年03月01日
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平安中期に活躍した仏師 定朝らの一族や子弟らの居住地であり、仏師として彫刻を行った場所です。
投稿日 2024年03月01日
総合評価:4.0
平安中期に仏師として活躍した定朝が一族とまた子弟らと暮らした居住地でもあり、また仏師として彫刻を行った仕事場でもあった場所です。
定朝は平等院阿弥陀堂の本尊 阿弥陀如来像の製作者として有名ですが、和様の仏師として仏師の社会向上に努めるなどしています。
仏師の祖といわれる人物です。
その後、鎌倉時代になると、運慶、湛慶、快慶など有名な仏師が活躍しています。
室町時代には衰退がはじまり、建物も移転するなどしたようですが、兵乱の火災などでその遺構は焼失してしまいます。
いまは、小さな庭のような場所に駒札が建っています。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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投稿日 2024年03月01日
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投稿日 2024年03月01日
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投稿日 2024年03月01日
平清盛終焉推定地 高倉天皇誕生地 (平盛国邸跡推定地) 京都駅周辺
総合評価:4.0
小さな石碑と説明板がありました。
平清盛は1181年に亡くなりますが、この地が推定とされるようです。平盛国は清盛の側近でした。
平氏打倒の挙兵が始まったころに、平清盛は亡くなります。
と、同時に高倉天皇の誕生の地ともなっています。
高倉天皇が誕生したのも、この平盛国亭といわれます。安徳天皇は清盛の娘建礼門院徳子を高倉天皇に嫁がせ、安徳天皇が誕生していいます。
最近では平清盛の終焉については、いろんな説があるようです。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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かつては広大なお寺で、近くの蓮華王院三十三間堂もその一部でした。長谷川町子、赤穂義士ゆかりのお寺です。
投稿日 2024年02月17日
総合評価:5.0
創建は988年で、藤原為光が開基です。985年に亡くなった妻、相次いで亡くなった娘の藤原忯子の菩提を弔うためでした。藤原忯子は花山天皇の女御でした。その後後白河上皇が法住寺を中心として、この土地に法住寺殿を造り、御院所としています。
本尊は身代わり不動尊で、赤穂義士の大石内蔵助も住んでいた山科から花街までの途中にあるこのお寺に、参拝し、討ち入りの成功を祈念していたそうです。こちらには、赤穂義士47士の木像が安置されています。義士会法要も行われています。
かつては蓮華王院三十三間堂もその敷地の中にあったほど、広大な敷地を持つお寺だったようですが、その後は、木曽義仲の焼き討ちにあい焼失し、法住寺と隣接している後白河上皇法成寺陵を守るお寺として存続することになったそうです。
またサザエさんの作者の長谷川町子の菩提寺でもあります。
平家物語ゆかりの地の旅の際に、この土地を非常に気に入り、亡くなったあと、法住寺に分骨されています。
親鸞聖人の自作の座像があり、伝説のそば喰いの木像と言われ、安置されています。- 旅行時期
- 2024年02月
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投稿日 2024年02月26日
総合評価:5.0
後白河上皇は出家し、後白河法皇となり、法住寺を中心として、法住寺殿と呼ばれた広大な土地に御所を築き院政を行っています。のちに平清盛とも対立し、1192年に波乱の一生を終えますが、その陵がかつての法成寺殿内に築かれて、法住持がその陵を守ってきました。
明治以降は宮内庁の管轄になっています。法住寺横の参道を通って、拝所まで入ることができます。(土、日、祝日は入れないそうです)。法住寺のHPで紹介されていた法住寺創建当時の「桐の井」といわれる井戸が残されています。
法住寺の建物の中からも陵を臨むことができました。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2024年02月16日
総合評価:5.0
京都観光で歩き疲れ、休みました。1度目に行った時は、冷たい抹茶と素朴で、可愛い和菓子で疲れがとれました。
暖かい日だったので、外の席でゆっくり休みました。店内にも席があります。
2度目は寒い日で、温かい抹茶と和菓子を楽しみました。
創業も古く、方広寺や豊国神社にも近いです。むかしは、方広寺の大仏詣などでにぎわっていたころにすでにお茶屋さんとして営業されていたそうです。
外国人観光客のための和菓子作り教室も開催されています。
ひな祭りのお菓子や和菓子の種類も多いです。
季節の和菓子もお土産に買いましたが、春らしい可愛い和菓子で、甘さも控えめで、
素朴な味わいがありました。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- 利用形態
- その他
- サービス:
- 5.0
- 雰囲気:
- 5.0
- 料理・味:
- 5.0
- 観光客向け度:
- 5.0
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豊臣秀吉ゆかりの貴重な品々が展示されています。なかでも、豊国祭礼図屏風は当時の様子がうかがえます。
投稿日 2024年02月18日
総合評価:5.0
1925年に開館した歴史のある博物館です。豊臣秀吉に関しての資料が主に展示されています。
なかでも、1604年に行われた豊国大明神臨時祭の様子を描いた「豊国祭礼図屏風」は当時の京都の様子、人々の様子などが細かく描かかれており、当時の風俗がわかります。
朱塗りの三十三間堂も見えました。
細かくじっくり観ていると、タイムスリップしたような気持になりました。
とても盛大なお祭りであったことがわかります。
入館してすぐ目に入るのが鉄燈籠です。豊臣秀吉の三回忌に奉納されたものです。
作者は秀吉から天下一と称された鋳物師辻与次郎で、その大きさにも美しさにも圧倒されます。
秀吉が使ったといわれる、獏枕も興味深く、桐唐草文蒔絵唐櫃という入れものも美しかったです。
さらに、驚いたのは、秀吉の歯が展示されていたことです。上あごの左奥から2番目の大臼歯だそうで、最後に抜けた歯ではないかといわれています。
その歯は送り状とともに、加藤嘉明に送られたそうです。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2024年02月16日
総合評価:5.0
1598年に豊臣秀吉が亡くなり、翌年には豊国社(とよくにやしろ)といわれる壮大な社殿の、およそ30万坪の広さのもので、後陽成天皇より「豊国大明神」という神号を与えられて、神として祀られました。その後、徳川家によって建物は破却されてしまいました。現在の豊国神社は、明治13年になり、かつて方広寺にあった大仏殿の跡に再建されました。
唐門は国宝で、伏見城から移築されたものです。
桃山建築のもので、優美で豪快な雰囲気がありました。もともとは金箔もほどこされていたようです。
唐門の上にある「豊国大明神」の額は後陽成天皇の宸筆だそうです。
唐門から中には、お正月のころに入れますが、通常は中には入れません。
境内には貴重な資料の展示がある宝物館がありました。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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大阪冬の陣のきっかけとなった国家安康の鐘があります。周囲の巨大な太閤石垣が大仏殿のあった頃を偲ぶ遺構です。
投稿日 2024年02月17日
総合評価:5.0
1586年から10年もの年月をかけて創建。豊臣秀吉の発願によるものです。当時は高さ19mを超える大仏があり、当時より大仏殿として人々に親しまれていました。
1595年には巨大な大仏殿が完成しますが、翌年には地震により大仏は大破しまいます。当時は東大寺の大仏を超える大きさだったそうです。
その後、豊臣秀頼・淀殿によって再建されましたが、大仏開眼供養を待たずに豊臣秀吉は亡くなります。1612年に金銅製の大仏が完成します。
その際に刻まれた銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字が家康を切り離したと徳川家康の怒りを買い、大阪冬の陣のきっかけともなったことで有名です。
とても巨大な鐘です。「国家安康」「君臣豊楽」の文字は白く塗られ、わかりやすくなっていました。
また方広寺の周囲には大きな石垣が残っています。大仏殿は焼失し、今はもうありませんが、この石垣が太閤石垣とよばれて、当時の大仏殿のあった方広寺の賑わいが偲ばれます。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2024年02月18日
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投稿日 2024年02月17日
総合評価:5.0
栗も乗った大きなパフェ、抹茶味のアイスクリームやクリームがたっぷりで、とても美味しかったです。お店も新しくて、清潔です。お茶やお水も置いてあり、セルフで利用できます。カレーもとても美味しいと聞きました。三十三間堂の近くにあります。
- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- サービス:
- 5.0
- 雰囲気:
- 5.0
- 観光客向け度:
- 5.0
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1160年、後白河上皇により、院の御所があった法住寺殿の鎮守社として創建されています。
投稿日 2024年02月18日
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天台宗の門跡寺院です。 幕末には七卿落ちの舞台ともなっています。
投稿日 2024年02月18日
総合評価:4.0
訪れたときは修復工事中でした。
その工事の様子をパネルで紹介しており、文化財保護の補修工事の難しい工事の様子などを理解できました。
妙法院は天台宗の門跡寺院です。開山は最澄です。
門跡寺院は歴代の皇族や貴族の子弟が歴代の住持となりますが、15代の門主は後白河法皇です。蓮華院や三千院と並び、天台三門跡と言われる由緒ある門跡寺院です。一時期は近くにある方広寺や蓮華王院三十三間堂、新日吉神社をも配下に置く大寺院でした。
幕末には七卿落ちで、三条実美らの尊王攘夷派の公暁が京都を追われますが、妙法院で会議を開き、長州藩へ向かい西へ落ちのびています。境内に、大きな石碑がありました。
庫裡は桃山時代の建築で国宝です。
一説によると、豊臣秀吉が先祖の供養「千僧供養」を行い、その際に使った台所といわれています。
境内の一部であった「積翠園(平重森の別邸 小松殿の庭園だったところ)は現在はホテルの敷地になっていました。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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投稿日 2024年02月22日
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清水焼発祥の地の石碑がありました。陶器神社とも呼ばれ、美人祈願としても有名な神社です。
投稿日 2024年02月22日
総合評価:5.0
御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后です。由緒は古く、1053年に後冷泉天皇の勅願により源頼義が六条醒ヶ井に創建したのが始まりと伝わっています。源氏や武士、足利歴代将軍らの信仰を集めてきました。その後、1605年に五条坂の真ん中あたりに移り、1654年に現在の建物は再建されています。1949年には椎根津彦命が合祀され、陶器神社となり、陶器市も開かれるようになったようです。
境内には蓬莱石といわれる石があり、足利尊氏の病も癒されたと伝わり、御利益があるといわれています。説明によると本殿の片隅に埋もれていたらしいですが、650年ぶりに
掘り起こされ、お祀りされています。
また、京都の家々の屋根には鐘馗の小さな像があります。
鐘馗は、中国の民間伝承の道教系の神さまで、疫病除け、受験の神様として信仰を集めていました。境内には、鐘馗の像があります。勇ましい姿の像でした。
御祭神の神功皇后が美しかったといわれていることから、美人祈願の神社としても有名です。拝殿の横に鏡があります。「身もこころも美しく」と書かれていました。
可愛い鏡の美人御守りもあります。
小さな神社のようですが、見どころが沢山あります。- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0

























































































































































