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≪番外編:「愛妾の運命の年月」ザクセンの強王に愛妾コーゼル伯爵夫人はその死までの49年間、幽囚された。≫<br />(2020/04/21投稿)<br />https://4travel.jp/travelogue/11617400<br /><br />上記の続編ですので、一部で重複する事もあります。<br /><br />・・・・・<br /><br />登場人物:<br />*ザクセン及びポーランド・リトアニア王国のアウグスト強王<br />*アウグスト強王の正室クリスティアーネ・エーベルハルディネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト王妃<br />*唯一の嫡出子、アウグスト3世ポーランド・リトアニア王・ザクセン選帝侯<br /><br />*アウグスト強王の愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人 <br />* フランス王国の大元帥モーリス・ド・サックス(アウグスト3世の異母弟)<br /><br />*ザクセン王家の宮廷大臣 ホイム伯(コーゼル伯爵夫人の元夫)<br /><br />*アウグスト強王の愛妾コーゼル伯爵夫人<br />*アウグスタ・コンスタンシア・フリーゼン伯爵夫人(アウグスト3世の異母妹)<br />*フレデリカ・アレクサンドラ・モスジンスキー伯爵夫人(アウグスト3世の異母妹)<br />*フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵(アウグスト3世の異母弟)<br /><br />写真は男装の麗人かと思われる肖像画:コーゼル伯爵夫人の長男Graf Friedrich August von Coselフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 (1712~1770年)のものである。<br />

番外編:「愛妾の運命の年月」(続編)コーゼル伯爵夫人の結婚・離縁;愛妾の子供たちの運命

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2011/05/23 - 2011/05/23

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旅行記グループ ドイツ:番外編様々

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪番外編:「愛妾の運命の年月」ザクセンの強王に愛妾コーゼル伯爵夫人はその死までの49年間、幽囚された。≫
(2020/04/21投稿)
https://4travel.jp/travelogue/11617400

上記の続編ですので、一部で重複する事もあります。

・・・・・

登場人物:
*ザクセン及びポーランド・リトアニア王国のアウグスト強王
*アウグスト強王の正室クリスティアーネ・エーベルハルディネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト王妃
*唯一の嫡出子、アウグスト3世ポーランド・リトアニア王・ザクセン選帝侯

*アウグスト強王の愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人
* フランス王国の大元帥モーリス・ド・サックス(アウグスト3世の異母弟)

*ザクセン王家の宮廷大臣 ホイム伯(コーゼル伯爵夫人の元夫)

*アウグスト強王の愛妾コーゼル伯爵夫人
*アウグスタ・コンスタンシア・フリーゼン伯爵夫人(アウグスト3世の異母妹)
*フレデリカ・アレクサンドラ・モスジンスキー伯爵夫人(アウグスト3世の異母妹)
*フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵(アウグスト3世の異母弟)

写真は男装の麗人かと思われる肖像画:コーゼル伯爵夫人の長男Graf Friedrich August von Coselフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 (1712~1770年)のものである。

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー

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  • <ホイム伯とコーゼル伯爵夫人の結婚と離婚><br /><br />Grafen von Hoymホイム伯爵家で最も有名になったAdolph Magnus von Hoymアドルフ・マグナス・フォン・ホイム(1668~1723年)は1703年、35歳の時に、12歳も年下のAnna Constantia von Brocksdorf (Anna Konstantina von Brockdorffとも書かれる)ブロックドルフ家の娘アンナ・コンスタンティア・フォン・ブロックドルフ(1680~1765年、後のReichsgraefin Anna Constantia von Coselアンナ・コンスタンティア・フォン・コーゼル伯爵夫人)と結婚し、1706年に離婚訴訟の上、離婚している。<br /><br />写真はBurg Stolpenシュトルペン城の絵葉書:49年間幽囚されたシュトルペン城の城内、囚人・Maetresseメトレッセ(愛妾)コーゼル伯爵夫人、ザクセン選帝侯・ポーランド王であったアウグスト強王

    <ホイム伯とコーゼル伯爵夫人の結婚と離婚>

    Grafen von Hoymホイム伯爵家で最も有名になったAdolph Magnus von Hoymアドルフ・マグナス・フォン・ホイム(1668~1723年)は1703年、35歳の時に、12歳も年下のAnna Constantia von Brocksdorf (Anna Konstantina von Brockdorffとも書かれる)ブロックドルフ家の娘アンナ・コンスタンティア・フォン・ブロックドルフ(1680~1765年、後のReichsgraefin Anna Constantia von Coselアンナ・コンスタンティア・フォン・コーゼル伯爵夫人)と結婚し、1706年に離婚訴訟の上、離婚している。

    写真はBurg Stolpenシュトルペン城の絵葉書:49年間幽囚されたシュトルペン城の城内、囚人・Maetresseメトレッセ(愛妾)コーゼル伯爵夫人、ザクセン選帝侯・ポーランド王であったアウグスト強王

    シュトルペン城 城・宮殿

    アウグスト強王(兼ポーランド王)に49年もコ‐ゼル伯爵夫人が幽囚された古城 by jijidarumaさん
  • 幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城に少々違和感が残る元配偶者たちの肖像画が並んで、写真のように掲示されていた。<br /><br />二人は結婚後にコーゼル伯爵夫人が以前、非嫡出子(庶子)を産んだ事を知ったホイム伯は離婚を求め、離婚訴訟の上、1706年に離婚したのだ。<br />ホイム伯はコーゼル伯爵夫人を嫌う理由を「権勢欲の強さと陰険さ(herrschsuechtig und hinterhaeltig)」とだけ言い、性格不一致を主としたようにとどめているが、それ以上に非嫡出子を産んだ事が大きいと云う。<br /><br />コーゼル夫人が幽囚されたシュトルペン城で購入した小冊子に書かれていたのと違った。<br />1704年、アンナ・コンスタンティア伯爵夫人はアウグスト強王の目に止まり、言い寄られて、愛妾となったことから、ホイム伯がコーゼル伯爵夫人を離縁したと、小冊子に云う。<br />つまり、この章で書いている事は離縁の事由からして、上述とは違う展開である。<br />ともあれ、そうした二人が並んでいるのは、少々悪趣味かと。<br /><br />写真はコーゼル伯爵夫人、ザクセン王家の宮廷大臣 Hoymホイム伯・・・元配偶者たちの肖像画

    イチオシ

    幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城に少々違和感が残る元配偶者たちの肖像画が並んで、写真のように掲示されていた。

    二人は結婚後にコーゼル伯爵夫人が以前、非嫡出子(庶子)を産んだ事を知ったホイム伯は離婚を求め、離婚訴訟の上、1706年に離婚したのだ。
    ホイム伯はコーゼル伯爵夫人を嫌う理由を「権勢欲の強さと陰険さ(herrschsuechtig und hinterhaeltig)」とだけ言い、性格不一致を主としたようにとどめているが、それ以上に非嫡出子を産んだ事が大きいと云う。

    コーゼル夫人が幽囚されたシュトルペン城で購入した小冊子に書かれていたのと違った。
    1704年、アンナ・コンスタンティア伯爵夫人はアウグスト強王の目に止まり、言い寄られて、愛妾となったことから、ホイム伯がコーゼル伯爵夫人を離縁したと、小冊子に云う。
    つまり、この章で書いている事は離縁の事由からして、上述とは違う展開である。
    ともあれ、そうした二人が並んでいるのは、少々悪趣味かと。

    写真はコーゼル伯爵夫人、ザクセン王家の宮廷大臣 Hoymホイム伯・・・元配偶者たちの肖像画

  • ホイム家は12世紀の頃に起源をもつ、Land Anhaltアンハルト地方の古い貴族の家系である。<br /><br />この幽囚の話に登場するアドルフ・マグナス・ホイム伯爵は1707年、ドレスデンのザクセン宮廷のGeheimer Rat枢密顧問官・宮廷大臣となる。宮廷内の熾烈な権力争いもあって、結果として、自らの勢力を進展できなかった人物とされている。<br />1711年、ドレスデンで、ホイム伯は3人の兄弟と一緒に、アウグスト強王により、男爵Freiherrの位から帝国伯爵Reichsgrafの地位に叙任された。<br />(この辺りは強王の無言の謝罪なのか、気配りだったのか、面白い所だ)<br /><br />1714年、ホイム伯は自らの所領であったSchloss Burgscheidungenブルクシャイヅンゲン離縁城(この奇妙な名前については前章で述べた)をザクセン・アンハルトのビブラ騎士領の保塁であったBirkigt (Bad Bibra)ビルキグト(バート・ビブラ)と交換した。<br />1715年、ウィーンに於いて、ホイム伯は4人の兄弟と共に、Schlesienシュレージエン(現在のポーランド南西部、チェコの北東部、ドイツの東部の地方を占めた)の貴族となる。<br />その後、ホイム伯は自らの所領を売却し、シュレージエンに移り、実業家になっている。<br /><br />コーゼル伯爵夫人を離縁した後、1712年にホイム伯爵はCharlotte Johanna Maximiliana von Friesenシャルロッテ・ヨハンナ・マクシミリアナ・フォン・ フリーゼン(後述のコーゼル伯爵夫人の長女オーガスタ・コンスタンティアと結婚したHeinrich Friedrich Graf von Friesenハインリヒ・フリードリヒ・フォン・ フリーゼン伯爵の姉であったと云うのも面白い縁だ)と結婚したが、後継となる子供はできなかった。<br /><br />写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:強王の Maetresseメトレッセ(愛妾)であった美形のコーゼル伯爵夫人 (1680年~1765年)、

    ホイム家は12世紀の頃に起源をもつ、Land Anhaltアンハルト地方の古い貴族の家系である。

    この幽囚の話に登場するアドルフ・マグナス・ホイム伯爵は1707年、ドレスデンのザクセン宮廷のGeheimer Rat枢密顧問官・宮廷大臣となる。宮廷内の熾烈な権力争いもあって、結果として、自らの勢力を進展できなかった人物とされている。
    1711年、ドレスデンで、ホイム伯は3人の兄弟と一緒に、アウグスト強王により、男爵Freiherrの位から帝国伯爵Reichsgrafの地位に叙任された。
    (この辺りは強王の無言の謝罪なのか、気配りだったのか、面白い所だ)

    1714年、ホイム伯は自らの所領であったSchloss Burgscheidungenブルクシャイヅンゲン離縁城(この奇妙な名前については前章で述べた)をザクセン・アンハルトのビブラ騎士領の保塁であったBirkigt (Bad Bibra)ビルキグト(バート・ビブラ)と交換した。
    1715年、ウィーンに於いて、ホイム伯は4人の兄弟と共に、Schlesienシュレージエン(現在のポーランド南西部、チェコの北東部、ドイツの東部の地方を占めた)の貴族となる。
    その後、ホイム伯は自らの所領を売却し、シュレージエンに移り、実業家になっている。

    コーゼル伯爵夫人を離縁した後、1712年にホイム伯爵はCharlotte Johanna Maximiliana von Friesenシャルロッテ・ヨハンナ・マクシミリアナ・フォン・ フリーゼン(後述のコーゼル伯爵夫人の長女オーガスタ・コンスタンティアと結婚したHeinrich Friedrich Graf von Friesenハインリヒ・フリードリヒ・フォン・ フリーゼン伯爵の姉であったと云うのも面白い縁だ)と結婚したが、後継となる子供はできなかった。

    写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:強王の Maetresseメトレッセ(愛妾)であった美形のコーゼル伯爵夫人 (1680年~1765年)、

  • アンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人はドイツ北部・リューベックとキールの間のキール寄りに湖水地帯があり、その真中あたりにPloenプレーンと言う田舎町がある。そのプレーン近郊にある貴族von Brocksdorf ブロックドルフ家の娘(神聖ローマ帝国の伯爵の身分とか云われている)として生まれている。<br />現在のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州になりますから、いわゆる田舎貴族の係累であったと思えます。<br /><br />アンナは幼い頃から頭も良く、狩猟が好きな活発な少女であったと云う。<br />14歳の時に両親により、行儀見習いの為、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゴットルプ公爵夫人Friederike Amalieフレデリカ・アマーリエ (1649~1704年)の娘Sophie Amalie ゾフィー・アマーリエに仕えた。<br />その後、皇太子の弟であるルートヴィヒ・ルドルフ王子の子を身ごもると云うスキャンダルの当事者になったが、1702年、赤子を産み落とすとともに、宮廷を追われた。<br />そして、その赤子がどうなったのかは不明とされている。<br />アンナは追放後、ハンブルクの裕福な商人の娘であった祖母の郷里Depenauデペンナウ(ハンブルク近郊?)で過ごした。この地は祖母からアンナが相続し、その死後は長男のフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵が所有した。<br /><br />1699年頃、知り合ったとされるホイム伯から3年越しの求愛を受けた後、1702年に結婚、ホイム伯の居城・ブルクシャイヅンゲン離縁城で新婚生活を始めた。<br />結婚後にアンナが以前、非嫡出子を産んだ事を知ったホイム伯は離婚を求め、離婚訴訟の上、1706年に離婚している。<br /><br />1705年、アンナはアウグスト強王に会う機会があり、強王が彼女に一目ぼれした。<br />ドレスデンの歴史を造ったザクセン王(後にポーランド王)・ザクセン選帝侯であるアウグスト強王(1670~1733年)の愛妾になったのである。<br />彼女は美人で聡明であったことから、愛妾の中でも最も長い7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている。<br />強王は彼女のために新たにドレスデンの王宮傍にTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿を建造し、これを与え、ドレスデンからエルベ川を10km程上ったピルニッツ村の川畔に立つ優美なバロック様式のSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿を贈り、自らも避暑がてら、ドレスデンの宮殿からゴンドラを仕立てて、この宮殿に通ったと云う話に寵愛を一人占めした様子が見て取れる。<br />(以前に書いたように、1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まり、言い寄られて、愛妾となったことから、ホイム伯がコーゼル夫人を離縁したと、アンナが幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城で購入した小冊子に書かれていた。つまり、この章で書いている事は離縁の事由からして、上述とは違う展開である)<br /><br />1713年、コーゼル伯爵夫人は政治犯として、ドレスデンのピルニッツ宮殿に送られた。<br />それまで7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われているから、1706年、離婚と同時ぐらいから、愛妾であったように思える。<br /><br />写真はアンナ・コーゼル伯爵夫人が幽囚されたシュトルペン城・コーゼルの塔・・・二つの塔に見える。一つ(左)は階段の為の塔であり、もう一つの丸い方(右)が展示のある本塔であった。<br />

    アンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人はドイツ北部・リューベックとキールの間のキール寄りに湖水地帯があり、その真中あたりにPloenプレーンと言う田舎町がある。そのプレーン近郊にある貴族von Brocksdorf ブロックドルフ家の娘(神聖ローマ帝国の伯爵の身分とか云われている)として生まれている。
    現在のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州になりますから、いわゆる田舎貴族の係累であったと思えます。

    アンナは幼い頃から頭も良く、狩猟が好きな活発な少女であったと云う。
    14歳の時に両親により、行儀見習いの為、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゴットルプ公爵夫人Friederike Amalieフレデリカ・アマーリエ (1649~1704年)の娘Sophie Amalie ゾフィー・アマーリエに仕えた。
    その後、皇太子の弟であるルートヴィヒ・ルドルフ王子の子を身ごもると云うスキャンダルの当事者になったが、1702年、赤子を産み落とすとともに、宮廷を追われた。
    そして、その赤子がどうなったのかは不明とされている。
    アンナは追放後、ハンブルクの裕福な商人の娘であった祖母の郷里Depenauデペンナウ(ハンブルク近郊?)で過ごした。この地は祖母からアンナが相続し、その死後は長男のフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵が所有した。

    1699年頃、知り合ったとされるホイム伯から3年越しの求愛を受けた後、1702年に結婚、ホイム伯の居城・ブルクシャイヅンゲン離縁城で新婚生活を始めた。
    結婚後にアンナが以前、非嫡出子を産んだ事を知ったホイム伯は離婚を求め、離婚訴訟の上、1706年に離婚している。

    1705年、アンナはアウグスト強王に会う機会があり、強王が彼女に一目ぼれした。
    ドレスデンの歴史を造ったザクセン王(後にポーランド王)・ザクセン選帝侯であるアウグスト強王(1670~1733年)の愛妾になったのである。
    彼女は美人で聡明であったことから、愛妾の中でも最も長い7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている。
    強王は彼女のために新たにドレスデンの王宮傍にTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿を建造し、これを与え、ドレスデンからエルベ川を10km程上ったピルニッツ村の川畔に立つ優美なバロック様式のSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿を贈り、自らも避暑がてら、ドレスデンの宮殿からゴンドラを仕立てて、この宮殿に通ったと云う話に寵愛を一人占めした様子が見て取れる。
    (以前に書いたように、1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まり、言い寄られて、愛妾となったことから、ホイム伯がコーゼル夫人を離縁したと、アンナが幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城で購入した小冊子に書かれていた。つまり、この章で書いている事は離縁の事由からして、上述とは違う展開である)

    1713年、コーゼル伯爵夫人は政治犯として、ドレスデンのピルニッツ宮殿に送られた。
    それまで7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われているから、1706年、離婚と同時ぐらいから、愛妾であったように思える。

    写真はアンナ・コーゼル伯爵夫人が幽囚されたシュトルペン城・コーゼルの塔・・・二つの塔に見える。一つ(左)は階段の為の塔であり、もう一つの丸い方(右)が展示のある本塔であった。

  • <アウグスト強王の王妃と、公認された愛妾と子供たち><br /><br />①王妃クリスティアーネ・エーベルハルディーネ;<br /><br />1693年、ザクセン選帝侯アウグスト強王はMarkgraftum Brandenburg-Bayreuthブランデンブルク・バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの娘Christiane Eberhardine クリスティアーネ・エーベルハルディーネ(1671~1727年)と政略結婚をし、夫妻に一人息子Friedrich August (II.)フリードリヒ・アウグスト(後のアウグスト3世・1696~1763年)が生まれた。<br /><br />だが、強王には結婚当初から愛妾がいたので、結婚生活は出だしから不幸であったようだ。<br />1696年10月17日、クリスティアーネ王妃が息子(後のアウグスト3世)を出産したが、10日ほど後には愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人が、庶子Hermann Moritz von Sachsenヘルマン・モーリッツ(のちのフランスの大元帥モーリス・ド・サックス、1696~1750年)を生んでいる。<br /><br />写真はアウグスト強王の正室でザクセン選帝侯妃・ポーランド王妃クリスティアーネ・エーベルハルディネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト(1671年~1727年)。

    <アウグスト強王の王妃と、公認された愛妾と子供たち>

    ①王妃クリスティアーネ・エーベルハルディーネ;

    1693年、ザクセン選帝侯アウグスト強王はMarkgraftum Brandenburg-Bayreuthブランデンブルク・バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの娘Christiane Eberhardine クリスティアーネ・エーベルハルディーネ(1671~1727年)と政略結婚をし、夫妻に一人息子Friedrich August (II.)フリードリヒ・アウグスト(後のアウグスト3世・1696~1763年)が生まれた。

    だが、強王には結婚当初から愛妾がいたので、結婚生活は出だしから不幸であったようだ。
    1696年10月17日、クリスティアーネ王妃が息子(後のアウグスト3世)を出産したが、10日ほど後には愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人が、庶子Hermann Moritz von Sachsenヘルマン・モーリッツ(のちのフランスの大元帥モーリス・ド・サックス、1696~1750年)を生んでいる。

    写真はアウグスト強王の正室でザクセン選帝侯妃・ポーランド王妃クリスティアーネ・エーベルハルディネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト(1671年~1727年)。

  • ごたごたした各国との政権争いの結果、漸く強王がポーランド王として即位する事となったが、問題はポーランドの国教がカトリックであった事である。<br />強王は今までの新教から旧教であるカトリックに宗旨替えし、ポーランド王の地位に執着を示した。ところが新教派の王妃クリスティアーネはカトリックへの改宗を拒絶し、強王のポーランド王戴冠式にも出席しなかったと云う。<br />王妃クリスティアーネは彼女の所領Schloss Pretzschプレッチュ城(Elbeエルベ)とか、Schloss Hartenfelsハルテンフェルス城(Torgauトルガウ)で暮らし、領地の農夫たちは、彼女に敬意をもって『ザクセン人の柱』と呼んだ。<br /><br />この事から、王妃と強王・息子とは疎遠になり、1727年の王妃の葬儀にも両者は出席する事もなく、亡骸は彼女の所領Pretzschプレッチュ(Elbeエルベ)町の聖ニコラウス教会に埋葬された。<br /><br />これに対照的な話が残る。<br />Johann Sebastian Bachヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750年)は王妃の死を悼み、バッハ カンタータ第198番『侯妃よ、願わくば、なお一条の光を』(原題:Lass, Fuerstin, lass noch einen Strahl )を作曲し、1727年10月15日、Paulinerkirche (Leipzig)ライプツィヒのパウリナー教会で初演したと云う。<br /><br />写真はクリスティアーネ・エーベルハルディーネ王妃の息子(つまりアウグスト強王の唯一の嫡出子)、アウグスト3世ポーランド・リトアニア王・ザクセン選帝侯(1696年~1763年)<br /><br />②公認された愛妾とは?その子供たちは;<br /><br />Fuerstentum Bayreuthブランデンブルク・バイロイト辺境伯フリードリヒ3世の妃Friederike Sophie Wilhelmine von Preussenフレデリカ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン(1709~1758年)など同時代人達の証言によれば、アウグスト強王は365人から382人ほどの子供の父親だったと云われている。<br /><br />但し、強王は庶子の内のごく一部しか認知しなかった。<br />勿論、別の意見では話を大げさにした数であって、単に女好きであったことの表徴的なものとされ、それらの話は誤りだと云う。<br />いずれにしても、実数は分からないと云う事だ。<br /><br />強王の周辺には11人の女性たちが、つまり1人の王妃(正妻)と、10人の愛妾たちが時系列的におり、正式に認知されたのは彼女たちの9人の子供たちであったとされている。<br />強王の嫡出子として、ザクセン王、ポーランド王の後継者となりうる者・アウグスト3世であった。

    ごたごたした各国との政権争いの結果、漸く強王がポーランド王として即位する事となったが、問題はポーランドの国教がカトリックであった事である。
    強王は今までの新教から旧教であるカトリックに宗旨替えし、ポーランド王の地位に執着を示した。ところが新教派の王妃クリスティアーネはカトリックへの改宗を拒絶し、強王のポーランド王戴冠式にも出席しなかったと云う。
    王妃クリスティアーネは彼女の所領Schloss Pretzschプレッチュ城(Elbeエルベ)とか、Schloss Hartenfelsハルテンフェルス城(Torgauトルガウ)で暮らし、領地の農夫たちは、彼女に敬意をもって『ザクセン人の柱』と呼んだ。

    この事から、王妃と強王・息子とは疎遠になり、1727年の王妃の葬儀にも両者は出席する事もなく、亡骸は彼女の所領Pretzschプレッチュ(Elbeエルベ)町の聖ニコラウス教会に埋葬された。

    これに対照的な話が残る。
    Johann Sebastian Bachヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750年)は王妃の死を悼み、バッハ カンタータ第198番『侯妃よ、願わくば、なお一条の光を』(原題:Lass, Fuerstin, lass noch einen Strahl )を作曲し、1727年10月15日、Paulinerkirche (Leipzig)ライプツィヒのパウリナー教会で初演したと云う。

    写真はクリスティアーネ・エーベルハルディーネ王妃の息子(つまりアウグスト強王の唯一の嫡出子)、アウグスト3世ポーランド・リトアニア王・ザクセン選帝侯(1696年~1763年)

    ②公認された愛妾とは?その子供たちは;

    Fuerstentum Bayreuthブランデンブルク・バイロイト辺境伯フリードリヒ3世の妃Friederike Sophie Wilhelmine von Preussenフレデリカ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン(1709~1758年)など同時代人達の証言によれば、アウグスト強王は365人から382人ほどの子供の父親だったと云われている。

    但し、強王は庶子の内のごく一部しか認知しなかった。
    勿論、別の意見では話を大げさにした数であって、単に女好きであったことの表徴的なものとされ、それらの話は誤りだと云う。
    いずれにしても、実数は分からないと云う事だ。

    強王の周辺には11人の女性たちが、つまり1人の王妃(正妻)と、10人の愛妾たちが時系列的におり、正式に認知されたのは彼女たちの9人の子供たちであったとされている。
    強王の嫡出子として、ザクセン王、ポーランド王の後継者となりうる者・アウグスト3世であった。

  • 10人の愛妾のうち、5人には公的なタイトルを与え、「公認された愛妾」即ちフランス語の&quot;Maitresse en titre&quot;と呼ばれていた。<br />(&quot;Maitresse en titre&quot;の呼び名はフランス・アンリ4世の時代に始まり、ルイ15世の治世まで続いたと云う)<br /><br />勿論、幽囚されたコーゼル伯爵夫人は5人の内の一人として、公認された愛妾&quot;Maitresseメトレッセ en titre&quot;と呼ばれていた。10人の中にはフランス人ダンサー・女優、トルコ人女奴隷といった異色の愛妾もその名を歴史に残しているが、もっとも歴史に名高いのはコーゼル伯爵夫人だろう。<br /><br />③愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人;<br /><br />マリア・アウローラはドイツ内のスウェーデン領ブレーメン・Verdenフェルデン公領の副総督を務めるクルト・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵とその妻マリア・クリスティーナ・フォン・ヴランゲルの娘として生まれた。<br /><br />1694年、ザクセン選帝侯のドレスデン宮廷に赴いている。その理由としては、ハノーファー選帝侯夫人ゾフィー・ドロテアとの醜聞事件を起こしたために、同年7月1日から行方不明となっていた弟フィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯の救出(参考を参照)を要請するためだったとも、あるいは弟の死の確証を得て、弟の遺産を相続する手続きに入るためだったとも考えられる。<br /><br />ここでハノーファー選帝侯夫人ゾフィー・ドロテアとの醜聞事件の関係者が出て来るとは、全く思いもしなかった。私的には実に面白いものだ。<br /><br />参考:2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。<br /><ゾフィー・ドロテア妃が32年間、死ぬまでアールデン城に幽閉される><br />*「Koenigsmarck-Affaereケーニヒスマルク事件」:<br />https://4travel.jp/travelogue/11616535<br /><br />若き選帝侯アウグストはアウローラより8歳年下で、しかも前年の1693年に結婚したばかりだったが、アウローラの美貌に心を奪われ、彼女を最初の公認された愛妾&quot;Maitresse en titre&quot;とした。<br /><br />先に書いたように1696年Maria Aurora Graefin von Koenigsmarckマリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人 (1662~1728年)は強王の庶子となるヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセンを生んでいる。<br /><br />出産から間もなく、よくある事だが、アウグスト強王のアウローラに対する関心は急速に薄れ、1698年、アウローラはクヴェードリンブルク女子修道院の補佐修道院長に、1700年には司教座聖堂参事会会長の高位に就くが、実際には修道院での居住の実態はなく、ベルリン・ドレスデン・ハンブルクを行き来する生活を送っていた。<br /><br />大北方戦争中の1702年、アウローラはアウグスト強王の意を受け、外交特使としてスウェーデン王カール12世との外交交渉に努めた。1706年、アウグスト強王がカール12世に敗北した後、アウローラはクヴェードリンブルク修道院に完全に引退し、修道院の事実上の最高責任者として1728年に死ぬまで同地で過ごした。<br /><br />アウローラは多岐にわたる教育を受け、数多くの言語を理解し、その中の数ヶ国語を流暢に操ることもできた。リュートとヴィオラの演奏に関しては玄人はだし、オペラ台本・恋愛歌・カンタータなどの楽曲作品をも手掛けたというから、実に多才の女性であったと思われる。<br />息子のフランス王国大元帥モーリス・ド・サックス(ヘルマン・モーリッツ伯)に見られる才能は母の遺伝だろう。<br /><br />写真はアウグスト強王の愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人の肖像

    10人の愛妾のうち、5人には公的なタイトルを与え、「公認された愛妾」即ちフランス語の"Maitresse en titre"と呼ばれていた。
    ("Maitresse en titre"の呼び名はフランス・アンリ4世の時代に始まり、ルイ15世の治世まで続いたと云う)

    勿論、幽囚されたコーゼル伯爵夫人は5人の内の一人として、公認された愛妾"Maitresseメトレッセ en titre"と呼ばれていた。10人の中にはフランス人ダンサー・女優、トルコ人女奴隷といった異色の愛妾もその名を歴史に残しているが、もっとも歴史に名高いのはコーゼル伯爵夫人だろう。

    ③愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人;

    マリア・アウローラはドイツ内のスウェーデン領ブレーメン・Verdenフェルデン公領の副総督を務めるクルト・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵とその妻マリア・クリスティーナ・フォン・ヴランゲルの娘として生まれた。

    1694年、ザクセン選帝侯のドレスデン宮廷に赴いている。その理由としては、ハノーファー選帝侯夫人ゾフィー・ドロテアとの醜聞事件を起こしたために、同年7月1日から行方不明となっていた弟フィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯の救出(参考を参照)を要請するためだったとも、あるいは弟の死の確証を得て、弟の遺産を相続する手続きに入るためだったとも考えられる。

    ここでハノーファー選帝侯夫人ゾフィー・ドロテアとの醜聞事件の関係者が出て来るとは、全く思いもしなかった。私的には実に面白いものだ。

    参考:2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。
    <ゾフィー・ドロテア妃が32年間、死ぬまでアールデン城に幽閉される>
    *「Koenigsmarck-Affaereケーニヒスマルク事件」:
    https://4travel.jp/travelogue/11616535

    若き選帝侯アウグストはアウローラより8歳年下で、しかも前年の1693年に結婚したばかりだったが、アウローラの美貌に心を奪われ、彼女を最初の公認された愛妾"Maitresse en titre"とした。

    先に書いたように1696年Maria Aurora Graefin von Koenigsmarckマリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人 (1662~1728年)は強王の庶子となるヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセンを生んでいる。

    出産から間もなく、よくある事だが、アウグスト強王のアウローラに対する関心は急速に薄れ、1698年、アウローラはクヴェードリンブルク女子修道院の補佐修道院長に、1700年には司教座聖堂参事会会長の高位に就くが、実際には修道院での居住の実態はなく、ベルリン・ドレスデン・ハンブルクを行き来する生活を送っていた。

    大北方戦争中の1702年、アウローラはアウグスト強王の意を受け、外交特使としてスウェーデン王カール12世との外交交渉に努めた。1706年、アウグスト強王がカール12世に敗北した後、アウローラはクヴェードリンブルク修道院に完全に引退し、修道院の事実上の最高責任者として1728年に死ぬまで同地で過ごした。

    アウローラは多岐にわたる教育を受け、数多くの言語を理解し、その中の数ヶ国語を流暢に操ることもできた。リュートとヴィオラの演奏に関しては玄人はだし、オペラ台本・恋愛歌・カンタータなどの楽曲作品をも手掛けたというから、実に多才の女性であったと思われる。
    息子のフランス王国大元帥モーリス・ド・サックス(ヘルマン・モーリッツ伯)に見られる才能は母の遺伝だろう。

    写真はアウグスト強王の愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人の肖像

  • アウグスト強王の息子の中で最も優秀であったと云われ、最も知られているのは、Hermann Moritz Graf von Sachsenヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン伯爵(1696~1750年)であり、フランス語はHermann Maurice de Saxeエルマン・モーリス・ド・サックスと称する。<br />ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世強王の庶子(愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人との間に生まれた)で、アウグスト3世は異母兄にあたる。<br /><br />1720年に誘われてルイ15世治下の仏軍に入隊し、各地の戦役で勲功をたて、フランス軍最高司令官となる。後にフランス王国軍人の最高名誉、 フランス大元帥に上り詰めた。優秀な軍事学者で軍隊の編制、戦術、リーダーシップ、士気について著作があり、深い洞察を残している。<br /><br />ラ・ルート伯爵(comte de la Raute)およびサックス伯爵(comte de Saxe)で、ド・サックス元帥(Marechal de Saxe)の通称でも知られる。<br /><br />写真はモーリス・ド・サックスの肖像画、1748年ジャン・エティエンヌ・リオタールの作品。<br /><br />また、モーリスの曾孫にはGeorge Sandジョルジュ・サンド(1804年~1876年)がいる。彼女はフランスの女流作家としても知られる。<br />本名をAmandine-Aurore-Lucile Dupinアマンディーヌ・オーロール・リュシール・デュパン、Baronne Dudevantデュドヴァン男爵夫人という。 <br />フレデリック・ショパンとの1838年のマジョルカ島への逃避行が有名である。<br /><br />モーリスの生母マリア・アウローラ・ケーニヒスマルク伯爵夫人から遺伝した才能は此処にも見て取れる。

    アウグスト強王の息子の中で最も優秀であったと云われ、最も知られているのは、Hermann Moritz Graf von Sachsenヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン伯爵(1696~1750年)であり、フランス語はHermann Maurice de Saxeエルマン・モーリス・ド・サックスと称する。
    ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世強王の庶子(愛妾マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵夫人との間に生まれた)で、アウグスト3世は異母兄にあたる。

    1720年に誘われてルイ15世治下の仏軍に入隊し、各地の戦役で勲功をたて、フランス軍最高司令官となる。後にフランス王国軍人の最高名誉、 フランス大元帥に上り詰めた。優秀な軍事学者で軍隊の編制、戦術、リーダーシップ、士気について著作があり、深い洞察を残している。

    ラ・ルート伯爵(comte de la Raute)およびサックス伯爵(comte de Saxe)で、ド・サックス元帥(Marechal de Saxe)の通称でも知られる。

    写真はモーリス・ド・サックスの肖像画、1748年ジャン・エティエンヌ・リオタールの作品。

    また、モーリスの曾孫にはGeorge Sandジョルジュ・サンド(1804年~1876年)がいる。彼女はフランスの女流作家としても知られる。
    本名をAmandine-Aurore-Lucile Dupinアマンディーヌ・オーロール・リュシール・デュパン、Baronne Dudevantデュドヴァン男爵夫人という。
    フレデリック・ショパンとの1838年のマジョルカ島への逃避行が有名である。

    モーリスの生母マリア・アウローラ・ケーニヒスマルク伯爵夫人から遺伝した才能は此処にも見て取れる。

  • <アウグスト強王とコーゼル伯爵夫人の間に生まれた子供は?><br /><br />愛妾の内で最も長い7年(離婚後の1706~1713年・・・1704年からとする説もあるが)のもの間をアウグスト強王の寵愛を得ていたコーゼル伯爵夫人には、二人の娘(後に二人とも伯爵家に嫁ぐ)とニ人の息子(一人は早世し、もう一人は後にザクセン護衛部隊(近衛連隊)の司令官)が生まれている。<br /><br />アウグスト強王が正式に認知した9人の子供たちの内、若い頃の愛妾ケーニヒスマルク伯爵夫人の子であったヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン伯爵は独自に道を開いた感があるが、49年もの長い幽囚の憂き目を受けた愛妾コーゼル伯爵夫人が生んだ3人の子供たちには、強王は格別の処遇をしたように思われる。<br /><br />1724年8月、強王はコーゼル伯爵夫人の3人の子供たちを其々伯爵・伯爵夫人の称号を与えた。そして強王は3人の子供たちには立派な結婚式を挙げさせ、きちんと面倒をみたようである。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真はSchloss Nossenノッセン城内で見たザクセン選帝侯の領地図。<br /><br />この城における特記事項;<br />①1716年11月23日~12月24日、コーゼル伯爵夫人は病気にかかり、この城に1カ月滞在した。その後、最後の地Schloss Stolpenシュトルペン城に向けて護送された。<br /><br />②皇帝ナポレオンは1813年5月7日の夜から8日にかけて、城に宿泊した。ナポレオンはリュッツェンの戦いとバウツェンの戦いという二つの戦いの狭間で、一時の休息をこの城で取ったようだ。<br /><br />

    <アウグスト強王とコーゼル伯爵夫人の間に生まれた子供は?>

    愛妾の内で最も長い7年(離婚後の1706~1713年・・・1704年からとする説もあるが)のもの間をアウグスト強王の寵愛を得ていたコーゼル伯爵夫人には、二人の娘(後に二人とも伯爵家に嫁ぐ)とニ人の息子(一人は早世し、もう一人は後にザクセン護衛部隊(近衛連隊)の司令官)が生まれている。

    アウグスト強王が正式に認知した9人の子供たちの内、若い頃の愛妾ケーニヒスマルク伯爵夫人の子であったヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン伯爵は独自に道を開いた感があるが、49年もの長い幽囚の憂き目を受けた愛妾コーゼル伯爵夫人が生んだ3人の子供たちには、強王は格別の処遇をしたように思われる。

    1724年8月、強王はコーゼル伯爵夫人の3人の子供たちを其々伯爵・伯爵夫人の称号を与えた。そして強王は3人の子供たちには立派な結婚式を挙げさせ、きちんと面倒をみたようである。

    ・・・・・

    写真はSchloss Nossenノッセン城内で見たザクセン選帝侯の領地図。

    この城における特記事項;
    ①1716年11月23日~12月24日、コーゼル伯爵夫人は病気にかかり、この城に1カ月滞在した。その後、最後の地Schloss Stolpenシュトルペン城に向けて護送された。

    ②皇帝ナポレオンは1813年5月7日の夜から8日にかけて、城に宿泊した。ナポレオンはリュッツェンの戦いとバウツェンの戦いという二つの戦いの狭間で、一時の休息をこの城で取ったようだ。

  • ナポレオン戦争の年譜を見ると;<br />1812年のロシア戦役で大敗したナポレオンに対し、プロイセンは好機とばかりに1813年3月17日、宣戦した。ナポレオンは急ぎ軍隊を再建し、ライプツイッヒの南西、ナウムブルクの町との真中あたりで、ザーレ川を挟んでプロイセン・ロシア軍と対峙した。この日、ナポレオン軍が連合軍を打ち破った戦いをザクセン・アンハルト州・リュッツェンの戦い(Schlacht bei Luetzen 5月2日)と言う。<br /><br />更に続いて、チェコとポーランドの国境にあるザクセン州・バウツェンの戦い(Schlacht bei Bautzen 5月20日~21日)ではシュプレー川を挟んで対峙したナポレオン軍はロシア・プロイセン連合軍に対して、再度勝利した。<br />その後の10月16日~19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)はナポレオン戦争における最大の戦闘となり、これに負けたナポレオンは翌年4月皇帝を退くこととなった。<br /><br />写真はノッセン城からコルディッツ城に向かう道で、シュトルペン城傍の菜の花畑を思い出した。<br /><br />菜の花の黄色の絨毯の景色を眺めながら、45kmを走って、Schloss Colditz コルディッツ城に着いた。 コルディッツ城は≪“大脱走”は度々起こった;コルディッツ城戦争捕虜収容所からの脱走≫ に書いた城だ。<br />

    ナポレオン戦争の年譜を見ると;
    1812年のロシア戦役で大敗したナポレオンに対し、プロイセンは好機とばかりに1813年3月17日、宣戦した。ナポレオンは急ぎ軍隊を再建し、ライプツイッヒの南西、ナウムブルクの町との真中あたりで、ザーレ川を挟んでプロイセン・ロシア軍と対峙した。この日、ナポレオン軍が連合軍を打ち破った戦いをザクセン・アンハルト州・リュッツェンの戦い(Schlacht bei Luetzen 5月2日)と言う。

    更に続いて、チェコとポーランドの国境にあるザクセン州・バウツェンの戦い(Schlacht bei Bautzen 5月20日~21日)ではシュプレー川を挟んで対峙したナポレオン軍はロシア・プロイセン連合軍に対して、再度勝利した。
    その後の10月16日~19日のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)はナポレオン戦争における最大の戦闘となり、これに負けたナポレオンは翌年4月皇帝を退くこととなった。

    写真はノッセン城からコルディッツ城に向かう道で、シュトルペン城傍の菜の花畑を思い出した。

    菜の花の黄色の絨毯の景色を眺めながら、45kmを走って、Schloss Colditz コルディッツ城に着いた。 コルディッツ城は≪“大脱走”は度々起こった;コルディッツ城戦争捕虜収容所からの脱走≫ に書いた城だ。

  • その子供たちは、<br />①Augusta Constantia Graefin von Friesen, geb. von Cosel (1708~1728), seit 1725 Ehefrau von Heinrich Friedrich Graf von Friesen<br /><br />第一子はアウグスタ・コンスタンティア・フォン・フリーゼン伯爵夫人 (1708~1728年)で、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・フリーゼン伯爵(1681~1739年)と1725年に17歳で結婚する。3年の短い結婚生活を過ごしただけで、若くして亡くなっている。<br /><br />母親であるコーゼル伯爵夫人が1713年にザクセン王・ザクセン選帝侯であるアウグスト強王(1670~1733年)の寵を失った後、アウグスタ・コンスタンティアと妹のフレデリカ・アレクサンドラは共に、現在のSchleswig-Holstein シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の Gut Depenau グート・デペナウに住んでいた祖母のAnna Margarethe von Brockdorff アンナ・マルガレーテ・フォン・ブロックドルフの所で数年の間世話を受け、美しく成長した。<br /><br />17歳になった1725年、アウグスタ・コンスタンティアは27歳のHeinrich Friedrich Graf von Friesenハインリヒ・フリードリヒ・フリーゼン伯爵と結婚した。<br /><br />父であったザクセン王・ザクセン選帝侯アウグスト強王はこの娘の為にSchloss Pillnitzピルニッツ城(かつて愛妾コーゼル伯爵夫人に贈った)で3週間の結婚式を挙げたと云う。<br /><br />アウグスタ・コンスタンティア伯妃は2人の息子を産んだが、1728年の初め、彼女は20歳の誕生日の少し前にPockenポッケン(天然痘)で亡くなった。<br />彼女の墓はドレスデン近くのシェーンフェルト教会にある。<br />アウグスタ・コンスタンティア伯妃は若くして亡くなってしまったが、ハインリヒ・フリードリヒ・フリーゼン伯爵は後にザクセン王国の歩兵将軍となり、外交官でもあった。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真はコーゼル伯爵夫人の長女:アウグスタ・コンスタンティア・フリーゼン伯爵夫人<br /><br />

    その子供たちは、
    ①Augusta Constantia Graefin von Friesen, geb. von Cosel (1708~1728), seit 1725 Ehefrau von Heinrich Friedrich Graf von Friesen

    第一子はアウグスタ・コンスタンティア・フォン・フリーゼン伯爵夫人 (1708~1728年)で、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・フリーゼン伯爵(1681~1739年)と1725年に17歳で結婚する。3年の短い結婚生活を過ごしただけで、若くして亡くなっている。

    母親であるコーゼル伯爵夫人が1713年にザクセン王・ザクセン選帝侯であるアウグスト強王(1670~1733年)の寵を失った後、アウグスタ・コンスタンティアと妹のフレデリカ・アレクサンドラは共に、現在のSchleswig-Holstein シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の Gut Depenau グート・デペナウに住んでいた祖母のAnna Margarethe von Brockdorff アンナ・マルガレーテ・フォン・ブロックドルフの所で数年の間世話を受け、美しく成長した。

    17歳になった1725年、アウグスタ・コンスタンティアは27歳のHeinrich Friedrich Graf von Friesenハインリヒ・フリードリヒ・フリーゼン伯爵と結婚した。

    父であったザクセン王・ザクセン選帝侯アウグスト強王はこの娘の為にSchloss Pillnitzピルニッツ城(かつて愛妾コーゼル伯爵夫人に贈った)で3週間の結婚式を挙げたと云う。

    アウグスタ・コンスタンティア伯妃は2人の息子を産んだが、1728年の初め、彼女は20歳の誕生日の少し前にPockenポッケン(天然痘)で亡くなった。
    彼女の墓はドレスデン近くのシェーンフェルト教会にある。
    アウグスタ・コンスタンティア伯妃は若くして亡くなってしまったが、ハインリヒ・フリードリヒ・フリーゼン伯爵は後にザクセン王国の歩兵将軍となり、外交官でもあった。

    ・・・・・

    写真はコーゼル伯爵夫人の長女:アウグスタ・コンスタンティア・フリーゼン伯爵夫人

  • アウグスタ伯爵夫人は短い結婚生活で二人の息子をなした。<br />第二子は早世し、第一子のAugust Heinrich Graf von Friesenアウグスト・ハインリヒ・フォン・フリーゼン伯爵(1727~1755年)は若くして各地の戦役で武勲を立て、後にフランスの元帥になっている(後述)。<br />ザクセンとかプロイセンでなく、フランスでの事績が賞賛されたことも面白いが、アウグスト強王の孫である事が何やら後押ししたような人生にも見える。<br /><br />1742年、アウグスト・ハインリヒ・フリーゼン伯爵は15歳という若さでヘッセン・カッセルの警備連隊の中尉の地位を持つ少尉となり、Erster Schlesischer Krieg第一次シュレージエン戦争に参戦し、すぐに大尉に昇進。その後、1744年にザクセン警備隊の中佐、Zweiter Schlesischer Krieg第二次シュレージエン戦争でも戦い、1745年に大佐に昇進した。<br /><br />ザクセン王・選帝侯フリードリヒ・アウグストII世(ポーランド王アウグストⅢ世)は甥にあたるフリーゼン伯爵をウィーンに送り、オーストリア大公の誕生を祝福しました。<br />1746年、フリーゼン伯爵は叔父の Generalmarschall Moritz von Sachsen ザクセン大元帥モリッツ将軍とフランス軍に加わった。10月11日、オーストリア継承戦争のロクールの戦いでモリッツ将軍の大勝に寄与し、後にフリーゼン伯爵はフランス軍内にドイツ連隊を設立する許可を与えられた。<br />1749年7月5日、彼はドレスデンを訪問し、ザクセン少将にも任命されました。<br /><br />1750年11月30日、叔父のモリッツがSchloss Chambordシャンボール城で亡くなると、アウグスト・ハインリヒ・フリーゼン伯爵は叔父の後を継いでUlanen-Regimentウーラン連隊(槍騎兵連隊・・・ウーランは勇敢なる戦士の意味がある)の司令官となった。<br />フリーゼン伯爵は1755年にMasern麻疹にかかり、5日後の1755年3月29日に予期せぬ死を迎えた。<br /><br />アウグスト強王の孫であるフリーゼン伯爵が如何にフランスで威信を示し、賞賛されていたかは、パリ大司教がプロテスタントであるフリーゼン伯爵をカトリックの聖堂区の教会、Madeleine Ville l’Eveque マドレーヌ・ヴィル・レヴェケ(1763年に取り壊された)に埋葬することを許したという事実によって示されている。<br /><br />写真はピルニッツ宮殿にある水の宮殿の美術工芸品博物館:アウグスト強王が蒐集した家具・磁器コレクション(16~20世紀)を展示している。<br /><br />

    アウグスタ伯爵夫人は短い結婚生活で二人の息子をなした。
    第二子は早世し、第一子のAugust Heinrich Graf von Friesenアウグスト・ハインリヒ・フォン・フリーゼン伯爵(1727~1755年)は若くして各地の戦役で武勲を立て、後にフランスの元帥になっている(後述)。
    ザクセンとかプロイセンでなく、フランスでの事績が賞賛されたことも面白いが、アウグスト強王の孫である事が何やら後押ししたような人生にも見える。

    1742年、アウグスト・ハインリヒ・フリーゼン伯爵は15歳という若さでヘッセン・カッセルの警備連隊の中尉の地位を持つ少尉となり、Erster Schlesischer Krieg第一次シュレージエン戦争に参戦し、すぐに大尉に昇進。その後、1744年にザクセン警備隊の中佐、Zweiter Schlesischer Krieg第二次シュレージエン戦争でも戦い、1745年に大佐に昇進した。

    ザクセン王・選帝侯フリードリヒ・アウグストII世(ポーランド王アウグストⅢ世)は甥にあたるフリーゼン伯爵をウィーンに送り、オーストリア大公の誕生を祝福しました。
    1746年、フリーゼン伯爵は叔父の Generalmarschall Moritz von Sachsen ザクセン大元帥モリッツ将軍とフランス軍に加わった。10月11日、オーストリア継承戦争のロクールの戦いでモリッツ将軍の大勝に寄与し、後にフリーゼン伯爵はフランス軍内にドイツ連隊を設立する許可を与えられた。
    1749年7月5日、彼はドレスデンを訪問し、ザクセン少将にも任命されました。

    1750年11月30日、叔父のモリッツがSchloss Chambordシャンボール城で亡くなると、アウグスト・ハインリヒ・フリーゼン伯爵は叔父の後を継いでUlanen-Regimentウーラン連隊(槍騎兵連隊・・・ウーランは勇敢なる戦士の意味がある)の司令官となった。
    フリーゼン伯爵は1755年にMasern麻疹にかかり、5日後の1755年3月29日に予期せぬ死を迎えた。

    アウグスト強王の孫であるフリーゼン伯爵が如何にフランスで威信を示し、賞賛されていたかは、パリ大司教がプロテスタントであるフリーゼン伯爵をカトリックの聖堂区の教会、Madeleine Ville l’Eveque マドレーヌ・ヴィル・レヴェケ(1763年に取り壊された)に埋葬することを許したという事実によって示されている。

    写真はピルニッツ宮殿にある水の宮殿の美術工芸品博物館:アウグスト強王が蒐集した家具・磁器コレクション(16~20世紀)を展示している。

    ピルニッツ城 城・宮殿

    ドレスデン近郊エルベ川畔:アウグスト強王が愛妾のコーゼル伯爵夫人に贈ったピルニッツ宮殿。 by jijidarumaさん
  • ②Friederike Alexandra Graefin Moszynsky, geb. von Cosel (1709~1784), seit 1730 Ehefrau von Johann Xantius Anton Moszynski<br /><br />第二子はフレデリカ・アレクサンドラ・モスジンスキー伯爵夫人 (1709~1784年)<br />であり、21歳の1730年2月18日、にポーランド貴族でザクセン宮廷の会計責任者(ポーランドの財務長官)であったヨハン・ザンティウス・アントン・モスジンスキー伯爵(~1737年)と結婚し、二人の息子を生し、75歳の高齢まで長生きした。<br />二人の息子は、1731年に生まれた長男Friedrich August von Moszynskiフリードリヒ・アウグスト・フォン・モスジンスキー伯爵と、1738年に生まれた次男 Friedrich Joseph von Moszynskiフリードリヒ・ヨセフ・フォン・モスジンスキー伯爵である。<br />二人ともポーランドの最後の国王Stanislaus August Poniatowskiスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(1732~1798年)に仕えた。<br /><br />1737年にモスジンスキー伯爵が死去した後、フレデリカは1747年4月にドレスデンのBuergerwieseビュルガーヴィーゼにある Dohnaischen Schlag ドナイシェ・シュラグ近くの土地を手に入れ、ロココ様式の宮殿と庭園(1742~1744年にジュリアス・ハインリッヒ・シュワルツェが建てた)を手に入れた。<br />また、フレデリカは定期的にドレスデン貴族との集まりを催し、1784年に彼女が死ぬまでここに住んでいたそうです。<br /><br />ドレスデンの町の拡張の過程で、フレデリカの宮殿は1871年に取り壊されてしまったが、今日、その名を残すMosczinskystrasseモスジンスキー通りはフレデリカ・モスジンスキー宮殿とモスジンスキー伯爵夫人を思い出させるものだ。<br /> <br />写真はコーゼル伯爵夫人の次女:フレデリカ・アレクサンドラ・モスジンスキー伯爵夫人

    ②Friederike Alexandra Graefin Moszynsky, geb. von Cosel (1709~1784), seit 1730 Ehefrau von Johann Xantius Anton Moszynski

    第二子はフレデリカ・アレクサンドラ・モスジンスキー伯爵夫人 (1709~1784年)
    であり、21歳の1730年2月18日、にポーランド貴族でザクセン宮廷の会計責任者(ポーランドの財務長官)であったヨハン・ザンティウス・アントン・モスジンスキー伯爵(~1737年)と結婚し、二人の息子を生し、75歳の高齢まで長生きした。
    二人の息子は、1731年に生まれた長男Friedrich August von Moszynskiフリードリヒ・アウグスト・フォン・モスジンスキー伯爵と、1738年に生まれた次男 Friedrich Joseph von Moszynskiフリードリヒ・ヨセフ・フォン・モスジンスキー伯爵である。
    二人ともポーランドの最後の国王Stanislaus August Poniatowskiスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(1732~1798年)に仕えた。

    1737年にモスジンスキー伯爵が死去した後、フレデリカは1747年4月にドレスデンのBuergerwieseビュルガーヴィーゼにある Dohnaischen Schlag ドナイシェ・シュラグ近くの土地を手に入れ、ロココ様式の宮殿と庭園(1742~1744年にジュリアス・ハインリッヒ・シュワルツェが建てた)を手に入れた。
    また、フレデリカは定期的にドレスデン貴族との集まりを催し、1784年に彼女が死ぬまでここに住んでいたそうです。

    ドレスデンの町の拡張の過程で、フレデリカの宮殿は1871年に取り壊されてしまったが、今日、その名を残すMosczinskystrasseモスジンスキー通りはフレデリカ・モスジンスキー宮殿とモスジンスキー伯爵夫人を思い出させるものだ。

    写真はコーゼル伯爵夫人の次女:フレデリカ・アレクサンドラ・モスジンスキー伯爵夫人

  • ③Friedrich August von Cosel, geb. von Cosel (1712~1770), seit 1749 Ehemann von Friederike Christiane von Holtzendorff<br /><br />コーゼル伯爵夫人の長男についてはどちらかというと簡単な説明があった。:<br /><br />Graf Friedrich August von Coselフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 (1712~1770年)は母方の遺産Gute Depenauグート・デペナウを得た事、Schloss Sabor in Schlesienシュレージエンのサボル城を購入。<br />1749年、Schloss Baerensteinシュロス・ベーレンシュタインの相続人であるGraefin Friederike Christiane von Holtzendorffフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人(1723~1793年)と結婚した。<br />1762年からドレスデンにCoselpalaisコーゼル・パレス(宮殿)を建設。<br />1770年、夫のフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵の死去。その後、1783年にフレデリカ・クリスティアン伯爵夫人は、フランスの元帥ニコラウス・フォン・ラックナーにグート・デペナウを売却した。<br /><br />写真はコーゼル伯爵夫人の長男:フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵<br /><br />別にもう少し詳しいものを見つけた:<br /><br />フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼルは若くして異母兄弟と一緒に出陣した。オーストリア継承戦争(1740~48年)では年長の異母兄ヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン(先述した)の指揮下で戦い、また、プラハの占領(1741年にはプロイセン軍はシュレージェンの中心都市ブレスラウを占領、フランス軍もオーストリア領に侵入してプラハを占領した)の際はFriedrich August Graf von Rutowski フリードリヒ・アウグスト・フォン・ルトフスキス伯爵とJohann Georg Chevalier de Saxe ヨハン・ゲオルク・シュヴァリエ・デ・サックスの2人の異母兄弟と共に、武勲を立てた。<br />その功績により、彼はザクセン歩兵部隊の将軍に任命され、Garde du Corps護衛部隊(近衛連隊)の司令官となった。<br /><br />しかし、早くも34歳であった1746年に彼は剣を置いて、除隊した。<br /><br />1749年6月1日、11歳下のGraefin Friederike Christiane von Holtzendorffフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人(1723~1793年)と結婚した。<br /><br />二人の間に生まれた子供は5人で、長男は1750年に早逝し、<br /><br />長女 Constantia Alexandrinaコンスタンティア・アレクサンドリーナ(1752年~1802年)は1772年、デンマークのJohann Heinrich Lensgreve Knuth 、Graf von Gyldensteen ギルデンシュテーン伯爵(知事)・ヨハン・ハインリヒ・レンズグレーブ・クヌート(1746年~1802年) と結婚し、5人の子を生した。<br /><br />次男Gustav Ernst Graf  v. Cosel グスタフ・エルンスト・フォン・コーゼル伯爵(1755年~1789年)未婚、<br /><br />次女Charlotte Luise Marianne シャルロッテ・ルイーズ・マリアンヌ (1757年~1831年)はザクセン宮廷の枢密顧問官兼フランス駐在公使・伯爵(Herr auf Lauenstein ラウエンシュタイン城主)であったRudolf von Buenauルドルフ・フォン・ブエナウ(1750年~1806年)と結婚し、ルドルフがパリで死去した後、Charles de Riviere シャルル・ド・リヴィエールと再婚。<br /><br />三男Sigismund Graf  v. Cosel ジギスムント・フォン・コーゼル伯爵(1758年~1786年)未婚<br />(男系の子供たちは早逝、未婚で家系は途絶えたようだ)<br />

    ③Friedrich August von Cosel, geb. von Cosel (1712~1770), seit 1749 Ehemann von Friederike Christiane von Holtzendorff

    コーゼル伯爵夫人の長男についてはどちらかというと簡単な説明があった。:

    Graf Friedrich August von Coselフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 (1712~1770年)は母方の遺産Gute Depenauグート・デペナウを得た事、Schloss Sabor in Schlesienシュレージエンのサボル城を購入。
    1749年、Schloss Baerensteinシュロス・ベーレンシュタインの相続人であるGraefin Friederike Christiane von Holtzendorffフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人(1723~1793年)と結婚した。
    1762年からドレスデンにCoselpalaisコーゼル・パレス(宮殿)を建設。
    1770年、夫のフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵の死去。その後、1783年にフレデリカ・クリスティアン伯爵夫人は、フランスの元帥ニコラウス・フォン・ラックナーにグート・デペナウを売却した。

    写真はコーゼル伯爵夫人の長男:フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵

    別にもう少し詳しいものを見つけた:

    フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼルは若くして異母兄弟と一緒に出陣した。オーストリア継承戦争(1740~48年)では年長の異母兄ヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン(先述した)の指揮下で戦い、また、プラハの占領(1741年にはプロイセン軍はシュレージェンの中心都市ブレスラウを占領、フランス軍もオーストリア領に侵入してプラハを占領した)の際はFriedrich August Graf von Rutowski フリードリヒ・アウグスト・フォン・ルトフスキス伯爵とJohann Georg Chevalier de Saxe ヨハン・ゲオルク・シュヴァリエ・デ・サックスの2人の異母兄弟と共に、武勲を立てた。
    その功績により、彼はザクセン歩兵部隊の将軍に任命され、Garde du Corps護衛部隊(近衛連隊)の司令官となった。

    しかし、早くも34歳であった1746年に彼は剣を置いて、除隊した。

    1749年6月1日、11歳下のGraefin Friederike Christiane von Holtzendorffフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人(1723~1793年)と結婚した。

    二人の間に生まれた子供は5人で、長男は1750年に早逝し、

    長女 Constantia Alexandrinaコンスタンティア・アレクサンドリーナ(1752年~1802年)は1772年、デンマークのJohann Heinrich Lensgreve Knuth 、Graf von Gyldensteen ギルデンシュテーン伯爵(知事)・ヨハン・ハインリヒ・レンズグレーブ・クヌート(1746年~1802年) と結婚し、5人の子を生した。

    次男Gustav Ernst Graf v. Cosel グスタフ・エルンスト・フォン・コーゼル伯爵(1755年~1789年)未婚、

    次女Charlotte Luise Marianne シャルロッテ・ルイーズ・マリアンヌ (1757年~1831年)はザクセン宮廷の枢密顧問官兼フランス駐在公使・伯爵(Herr auf Lauenstein ラウエンシュタイン城主)であったRudolf von Buenauルドルフ・フォン・ブエナウ(1750年~1806年)と結婚し、ルドルフがパリで死去した後、Charles de Riviere シャルル・ド・リヴィエールと再婚。

    三男Sigismund Graf v. Cosel ジギスムント・フォン・コーゼル伯爵(1758年~1786年)未婚
    (男系の子供たちは早逝、未婚で家系は途絶えたようだ)

  • 1763年、コーゼル伯爵 はドレスデン市の旧市街で廃墟となって場所を取得し、そこにコーゼル・パレス(宮殿)を建てた。<br /><br />ドレスデンの中心・ノイマルクトにコーゼル・パレス(宮殿)はある。写真は見た目にはかつてのタッシェンベルク宮殿(現ケンピンスキーホテル)に似ている。<br />旧市街の中心にある王宮にも近く、Frauenkircheフラウエン教会(聖母教会)の傍に建てられた。<br /><br />コーゼル・パレス(宮殿)はかつて、ドレスデンの宮殿の中でも有数のものであったが、7年戦争(1754年から1763年、プロイセン・イギリスと、ザクセン・オーストリア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争)でプロイセンの軍隊に砲撃され、ドレスデン市内の建物と共に罹災している。<br />再建されたが、第二次大戦末期、1945年2月の連合軍の爆撃で旧市街は壊滅し、コーゼル・パレス(宮殿)も灰燼に帰した。<br /><br />第二次大戦後、町の復興と共に、この後期バロック様式の宮殿も再建の運びとなり、1977年、宮殿両翼など徐々に再建され、2000年には昔の姿のままのコーゼル・パレス(宮殿)が完成した。<br />5階建ての本館、その両翼にゲートハウスを持ち、ファザードには装飾が施され、かつての特徴ある姿を見せている。本館内にはロビー、階段、催し用の大広間が、昔と同じように再建され、一方では現代的な事務所用の各室も備えられている。<br />地上階には素晴しいレストラン、中庭にはカフェも用意され、宮殿は生まれ変わった。<br /><br />写真はコーゼル伯爵夫人の長男フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 が建てたコーゼル・パレス(宮殿)・正面<br /><br />

    1763年、コーゼル伯爵 はドレスデン市の旧市街で廃墟となって場所を取得し、そこにコーゼル・パレス(宮殿)を建てた。

    ドレスデンの中心・ノイマルクトにコーゼル・パレス(宮殿)はある。写真は見た目にはかつてのタッシェンベルク宮殿(現ケンピンスキーホテル)に似ている。
    旧市街の中心にある王宮にも近く、Frauenkircheフラウエン教会(聖母教会)の傍に建てられた。

    コーゼル・パレス(宮殿)はかつて、ドレスデンの宮殿の中でも有数のものであったが、7年戦争(1754年から1763年、プロイセン・イギリスと、ザクセン・オーストリア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争)でプロイセンの軍隊に砲撃され、ドレスデン市内の建物と共に罹災している。
    再建されたが、第二次大戦末期、1945年2月の連合軍の爆撃で旧市街は壊滅し、コーゼル・パレス(宮殿)も灰燼に帰した。

    第二次大戦後、町の復興と共に、この後期バロック様式の宮殿も再建の運びとなり、1977年、宮殿両翼など徐々に再建され、2000年には昔の姿のままのコーゼル・パレス(宮殿)が完成した。
    5階建ての本館、その両翼にゲートハウスを持ち、ファザードには装飾が施され、かつての特徴ある姿を見せている。本館内にはロビー、階段、催し用の大広間が、昔と同じように再建され、一方では現代的な事務所用の各室も備えられている。
    地上階には素晴しいレストラン、中庭にはカフェも用意され、宮殿は生まれ変わった。

    写真はコーゼル伯爵夫人の長男フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 が建てたコーゼル・パレス(宮殿)・正面

    コーゼルパレー カフェ

    ドレスデン:コーゼルの名前だけが残った宮殿は幽囚された母も、宮殿を建てた息子のコーゼル伯爵も住んでいない。 by jijidarumaさん
  • <Coselpalaisコーゼル・パレス(宮殿)><br />Grand Cafe &amp; Restaurant<br />D-01067 Dresden 、An der Frauenkirche 12 <br />営業時間は毎日 11:00~ 23:00時<br />ロゴによると1765年以来とある。<br /><br />コーゼル・パレス(宮殿)と言うと、人は息子のコーゼル伯爵ではなく、あの有名なアウグスト強王の愛妾コーゼル伯爵夫人を思い浮かべる。<br />が、彼女にとっては無関係の場所だ。コーゼル伯爵夫人が住んだのはかつてのタッシェンベルク宮殿(現ケンピンスキーホテル)であり、ドレスデンの東にある夏の離宮のピルニッツ宮殿でした。<br /><br />息子のコーゼル伯爵はシュトルペン城で母の墓石を立てる事は許されなかったが、Coselpalaisコーゼル・パレスと呼ばれた宮殿の建築主にはなれた。<br /><br />唯、彼も母方の遺産Gute Depenauグート・デペナウのように、実質的にコーゼル・パレス(宮殿)に住んだことが無かったと云うから、この宮殿はコーゼル伯爵夫人であれ、息子のコーゼル伯爵であれ、その名前だけが残り、実質が伴わなかったようだ。<br /><br />コーゼル・パレス(宮殿)は聖母教会の傍にあったので、今回の旅では目に入ったものの、そのまま“君主の行列の壁画”を見る為に通り過ぎてしまった。<br />コーゼル・パレス(宮殿)を詳しく知っていれば、お茶でも飲んだかもしれない。<br /><br />写真はドレスデン・アルトシュタット旧市街:エルベ川畔の景観・・・反対側の新市街からの景観が好ましい。“エルベ川のフィレンツェと呼ばれ、あるいは百塔の都と世に称されるドレスデン” はここに凝縮されている。

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    <Coselpalaisコーゼル・パレス(宮殿)>
    Grand Cafe & Restaurant
    D-01067 Dresden 、An der Frauenkirche 12
    営業時間は毎日 11:00~ 23:00時
    ロゴによると1765年以来とある。

    コーゼル・パレス(宮殿)と言うと、人は息子のコーゼル伯爵ではなく、あの有名なアウグスト強王の愛妾コーゼル伯爵夫人を思い浮かべる。
    が、彼女にとっては無関係の場所だ。コーゼル伯爵夫人が住んだのはかつてのタッシェンベルク宮殿(現ケンピンスキーホテル)であり、ドレスデンの東にある夏の離宮のピルニッツ宮殿でした。

    息子のコーゼル伯爵はシュトルペン城で母の墓石を立てる事は許されなかったが、Coselpalaisコーゼル・パレスと呼ばれた宮殿の建築主にはなれた。

    唯、彼も母方の遺産Gute Depenauグート・デペナウのように、実質的にコーゼル・パレス(宮殿)に住んだことが無かったと云うから、この宮殿はコーゼル伯爵夫人であれ、息子のコーゼル伯爵であれ、その名前だけが残り、実質が伴わなかったようだ。

    コーゼル・パレス(宮殿)は聖母教会の傍にあったので、今回の旅では目に入ったものの、そのまま“君主の行列の壁画”を見る為に通り過ぎてしまった。
    コーゼル・パレス(宮殿)を詳しく知っていれば、お茶でも飲んだかもしれない。

    写真はドレスデン・アルトシュタット旧市街:エルベ川畔の景観・・・反対側の新市街からの景観が好ましい。“エルベ川のフィレンツェと呼ばれ、あるいは百塔の都と世に称されるドレスデン” はここに凝縮されている。

    ブリュールのテラス 散歩・街歩き

    ドレスデン:ブリュールのテラスから見るエルベ川畔、新市街の景観は好ましい。 by jijidarumaさん
  • コーゼル伯爵夫人の長男フリードリヒ・アウグスト の城であるSchloss Baerensteinシュロス・ベーレンシュタインは Osterzgebirgeオスターツゲビルゲ山脈のベーレンシュタインのアルテンベルク地区に位置する。<br />城はMueglitztalミュグリッツ渓谷上の山上にある町の端に立っている。<br /><br />べーレンシュタイン城の歴史の概略:<br />べーレンシュタイン城は1165年にRitter Albrecht von Bernstein 騎士アルブレヒト・フォン・ベルンシュタインが築城した。<br />この城はザクセンとボヘミアの国境地帯を監視するために使用され、戦略的にミュグリッツ渓谷の上の丘の上に築城されていた。<br /><br />1749年、べーレンシュタイン城主のフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人と結婚したコーゼル伯爵の一家は、実質的にドレスデンのコーゼル宮殿にも、こちらのべーレンシュタイン城にも住むことが無かったようである。<br /><br />二人の息子たち、グスタフ・エルンストとジギスムントは共に未婚で亡くなってしまった後は、ベーレンシュタインの城は1795年に次女Charlotte Luise Marianne von  Buenauシャルロッテ・ルイーズ・マリアンヌ・ブエナウ伯爵夫人が受け継いだ。<br />1816年にHanns Friedrich Curt von Luettichauハンス・フリードリヒ・クルト・フォン・リュッティハウ (1783~1864年) がベーレンシュタイン城を義母のブエナウ伯爵夫人から 購入した。<br />ベーレンシュタイン城が1816年からかつての城主リュッティハウ家に再び所属し、1945年に戦後の土地改革で収用されるまで所有していた。<br />現在は個人所有となっている。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真はコーゼル伯爵夫人の長男の城:べーレンシュタイン城(1925年)<br /><br />

    コーゼル伯爵夫人の長男フリードリヒ・アウグスト の城であるSchloss Baerensteinシュロス・ベーレンシュタインは Osterzgebirgeオスターツゲビルゲ山脈のベーレンシュタインのアルテンベルク地区に位置する。
    城はMueglitztalミュグリッツ渓谷上の山上にある町の端に立っている。

    べーレンシュタイン城の歴史の概略:
    べーレンシュタイン城は1165年にRitter Albrecht von Bernstein 騎士アルブレヒト・フォン・ベルンシュタインが築城した。
    この城はザクセンとボヘミアの国境地帯を監視するために使用され、戦略的にミュグリッツ渓谷の上の丘の上に築城されていた。

    1749年、べーレンシュタイン城主のフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人と結婚したコーゼル伯爵の一家は、実質的にドレスデンのコーゼル宮殿にも、こちらのべーレンシュタイン城にも住むことが無かったようである。

    二人の息子たち、グスタフ・エルンストとジギスムントは共に未婚で亡くなってしまった後は、ベーレンシュタインの城は1795年に次女Charlotte Luise Marianne von Buenauシャルロッテ・ルイーズ・マリアンヌ・ブエナウ伯爵夫人が受け継いだ。
    1816年にHanns Friedrich Curt von Luettichauハンス・フリードリヒ・クルト・フォン・リュッティハウ (1783~1864年) がベーレンシュタイン城を義母のブエナウ伯爵夫人から 購入した。
    ベーレンシュタイン城が1816年からかつての城主リュッティハウ家に再び所属し、1945年に戦後の土地改革で収用されるまで所有していた。
    現在は個人所有となっている。

    ・・・・・

    写真はコーゼル伯爵夫人の長男の城:べーレンシュタイン城(1925年)

  • コーゼルの長男フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵が愛した居城Schloss Saborサボル城は、現在、ポーランドのNiederschlesienニーダーシュレージエン(ニーダーシレジア、旧ドイツ領、現ポーランド)地方、人口4千人の小さな田舎町にある。<br /><br />コーゼル伯爵がドレスデンのような大きな街中を嫌ったのか、はたまた父母の醜聞を嫌ったのか分かりません。<br />が、若くして戦場で武勲を立て、将来も大いに嘱望されていただろうに、すっぱりとそれらを捨てて、家族を作り、田園生活に入ってしまった。<br /><br />写真はコーゼルの長男の居城があったSabor(現Zabor)サボルの紋章

    コーゼルの長男フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵が愛した居城Schloss Saborサボル城は、現在、ポーランドのNiederschlesienニーダーシュレージエン(ニーダーシレジア、旧ドイツ領、現ポーランド)地方、人口4千人の小さな田舎町にある。

    コーゼル伯爵がドレスデンのような大きな街中を嫌ったのか、はたまた父母の醜聞を嫌ったのか分かりません。
    が、若くして戦場で武勲を立て、将来も大いに嘱望されていただろうに、すっぱりとそれらを捨てて、家族を作り、田園生活に入ってしまった。

    写真はコーゼルの長男の居城があったSabor(現Zabor)サボルの紋章

  • サボル城は元々は中世の水城であったが、1677年から1683年にかけて、Johann Heinrich Graf Duenewald ヨハン・ハインリヒ・デュネヴァルト伯爵がバロック様式の城館に改築していた。<br /><br />その史実を読むと、実際、コーゼル伯爵はサボル城の生活を楽しんだようだ。<br /><br />1767年、コーゼル伯爵は銅を採掘する企業を買収したが、結局採算に乗れなかった。「武士の商法」だったのでしょう。今も採掘跡に16mの坑道が残っているらしい。また、ケーニヒスミューレ(王の水車小屋)の傍にあった小屋をLandhaus別荘(田舎家)に改造したそうだ。それは「Cosel  Villaコーゼル・ヴィラ」と称され、Weisseritz ヴァイセリッツ川が流れ、川をまたぐ石橋上に立っている様子はとてもロマンチックな景観だったと云う。<br /><br />コーゼル伯爵一家の充足した生活が見えるようだ。<br /><br />ここでフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵は1770年10月15日に彼の58歳の誕生日の2日前に死去した。<br /><br />写真はフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵の居城サボル城<br /><br />・・・・・

    サボル城は元々は中世の水城であったが、1677年から1683年にかけて、Johann Heinrich Graf Duenewald ヨハン・ハインリヒ・デュネヴァルト伯爵がバロック様式の城館に改築していた。

    その史実を読むと、実際、コーゼル伯爵はサボル城の生活を楽しんだようだ。

    1767年、コーゼル伯爵は銅を採掘する企業を買収したが、結局採算に乗れなかった。「武士の商法」だったのでしょう。今も採掘跡に16mの坑道が残っているらしい。また、ケーニヒスミューレ(王の水車小屋)の傍にあった小屋をLandhaus別荘(田舎家)に改造したそうだ。それは「Cosel Villaコーゼル・ヴィラ」と称され、Weisseritz ヴァイセリッツ川が流れ、川をまたぐ石橋上に立っている様子はとてもロマンチックな景観だったと云う。

    コーゼル伯爵一家の充足した生活が見えるようだ。

    ここでフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵は1770年10月15日に彼の58歳の誕生日の2日前に死去した。

    写真はフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵の居城サボル城

    ・・・・・

  • サボル城の歴史から、更に展開がありました:<br /><br />コーゼル伯爵の亡き後は18~20世紀までプロイセン王国のFuersten zu Schoenaich-Carolathシェーナイチ・キャロラス侯爵家が居城とした。<br /><br />後にこの家系から、ドイツ皇帝Wilhelm IIヴィルヘルム2世(1859年~1941年)の2番目の妻となったHermine Reuss zu Greizヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ侯女(1887年~1947年)が出ている。<br />彼女は最後のサボル城主でもあった。<br /><br />写真はヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ侯女(1887年~1947年)

    サボル城の歴史から、更に展開がありました:

    コーゼル伯爵の亡き後は18~20世紀までプロイセン王国のFuersten zu Schoenaich-Carolathシェーナイチ・キャロラス侯爵家が居城とした。

    後にこの家系から、ドイツ皇帝Wilhelm IIヴィルヘルム2世(1859年~1941年)の2番目の妻となったHermine Reuss zu Greizヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ侯女(1887年~1947年)が出ている。
    彼女は最後のサボル城主でもあった。

    写真はヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ侯女(1887年~1947年)

  • 第一次大戦末期、ドイツ帝国の敗戦、「ドイツ革命」により、ヴィルヘルム2世は1918年11月10日早朝にオランダへ亡命し、11月28日には亡命先で退位宣言に正式に署名した。<br />ヴィルヘルム2世の最初の皇后アウグステ・ヴィクトリア(1858年~1921年:大叔母に英国女王ヴィクトリアがいる)は1921年4月11日に崩御し、最後のドイツ皇后・プロイセン王妃として良く知られているが、ヘルミーネの事は今までよく知らない。<br /><br />1922年11月5日ヴィルヘルム2世は兄系ロイス侯女(Fuerstentum Reusss‐Greizロイス・グライツ侯国はテューリンゲン地方に存在した領邦国家。兄系ロイス侯家により統治されたため、Fuerstentum Reusss aelterer Linie兄系ロイス侯国とも呼ばれた) ヘルミーネと再婚した。<br /><br />写真は晩年の皇帝夫妻 ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツとヴィルヘルム2世(オランダのHaus Doornハウス・ドールン城(1933年)にて

    第一次大戦末期、ドイツ帝国の敗戦、「ドイツ革命」により、ヴィルヘルム2世は1918年11月10日早朝にオランダへ亡命し、11月28日には亡命先で退位宣言に正式に署名した。
    ヴィルヘルム2世の最初の皇后アウグステ・ヴィクトリア(1858年~1921年:大叔母に英国女王ヴィクトリアがいる)は1921年4月11日に崩御し、最後のドイツ皇后・プロイセン王妃として良く知られているが、ヘルミーネの事は今までよく知らない。

    1922年11月5日ヴィルヘルム2世は兄系ロイス侯女(Fuerstentum Reusss‐Greizロイス・グライツ侯国はテューリンゲン地方に存在した領邦国家。兄系ロイス侯家により統治されたため、Fuerstentum Reusss aelterer Linie兄系ロイス侯国とも呼ばれた) ヘルミーネと再婚した。

    写真は晩年の皇帝夫妻 ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツとヴィルヘルム2世(オランダのHaus Doornハウス・ドールン城(1933年)にて

  • 二人は 27歳も年の差(ヴィルヘルム2世は63歳、ヘルミーネは35歳)があり、周囲の反対も強かったが、ヴィルヘルム2世の意志は固かったと云う。<br />二人の間には子供は生まれなかったものの、二人の結婚生活は幸福なものであったと云われている。<br />彼女は名目上のドイツ皇后およびプロイセン王妃の称号を使用した。<br /><br />写真はかつてのドイツ皇帝夫妻 ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツとヴィルヘルム2世が、退位後に住んだオランダのHaus Doornハウス・ドールン城<br /><br />・・・・・・・・・・・<br /><br />ザクセンの強王と愛妾コーゼル伯爵夫人の周辺には、その立場で活躍しながらも、様々に歴史に翻弄された人々がいたようです。<br />

    二人は 27歳も年の差(ヴィルヘルム2世は63歳、ヘルミーネは35歳)があり、周囲の反対も強かったが、ヴィルヘルム2世の意志は固かったと云う。
    二人の間には子供は生まれなかったものの、二人の結婚生活は幸福なものであったと云われている。
    彼女は名目上のドイツ皇后およびプロイセン王妃の称号を使用した。

    写真はかつてのドイツ皇帝夫妻 ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツとヴィルヘルム2世が、退位後に住んだオランダのHaus Doornハウス・ドールン城

    ・・・・・・・・・・・

    ザクセンの強王と愛妾コーゼル伯爵夫人の周辺には、その立場で活躍しながらも、様々に歴史に翻弄された人々がいたようです。

  • 以下はおまけである:<br /><br /><Thueringer Porzellanstrasseテューリンゲン陶磁器街道><br /><br />テューリンゲン陶磁器街道という観光街道がある。二百数十年前に“白い金”と称された陶磁器が1710年にマイセンでスタートしてから、それに遅れる事50年、1760年に陶磁器を生産する工場がテューリンゲン地方のRudolstadtルドルシュタット一帯に設けられた。<br /><br />ルドルシュタットにはVolkstedtフォルクスシュテッド(1760年創業)、Kaemmerケマーなど3社ほどが伝統的な作業で生産している。<br /><br />写真はハイデクスブルク宮殿:「Grossen Hofstube大宮廷レストラン」に展示しているVolkstedtフォルクスシュテッドの作品

    以下はおまけである:

    <Thueringer Porzellanstrasseテューリンゲン陶磁器街道>

    テューリンゲン陶磁器街道という観光街道がある。二百数十年前に“白い金”と称された陶磁器が1710年にマイセンでスタートしてから、それに遅れる事50年、1760年に陶磁器を生産する工場がテューリンゲン地方のRudolstadtルドルシュタット一帯に設けられた。

    ルドルシュタットにはVolkstedtフォルクスシュテッド(1760年創業)、Kaemmerケマーなど3社ほどが伝統的な作業で生産している。

    写真はハイデクスブルク宮殿:「Grossen Hofstube大宮廷レストラン」に展示しているVolkstedtフォルクスシュテッドの作品

  • <Schloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿><br />Thueringer Landesmuseum Heidecksburg<br />D- 07407 Rudolstadt 、Schlossbezirk 1<br /><br />シュバルツブルク・ルドルシュタット選帝侯のレジデンスは華麗なバロック様式の宮殿として、世評に高い。<br />1571~1918年の長きに亘って、Fuersten von Schwarzburg-Rudolstadtシュバルツブルク・ルドルシュタット伯爵の居城・宮殿だった。<br />このバロック様式の宮殿は現在も見事な姿を残し、ルドルシュタットの町を見下ろす60mの高台に立ち、辺りを睥睨している。<br /><br />2001年5月7日にテューリンゲン陶磁器街道を巡り、その中心の町ルドルシュタットを訪れた。この日、城内博物館は休みで、お目当ての珍しい「Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿」が見られませんでした。<br /><br />10年ぶりの再挑戦で城内博物館や見事なミニチュアを見てきました。<br />とりわけハイデクスブルク宮殿にある「Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿」が有名である。<br /><br />*ミニチュアですが、ザクセン王国の強王、王妃、愛妾たち、貴族たち・・・ちょっぴり王侯貴族の様子を見ることができます。<br /><br />写真はミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿

    イチオシ

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    <Schloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿>
    Thueringer Landesmuseum Heidecksburg
    D- 07407 Rudolstadt 、Schlossbezirk 1

    シュバルツブルク・ルドルシュタット選帝侯のレジデンスは華麗なバロック様式の宮殿として、世評に高い。
    1571~1918年の長きに亘って、Fuersten von Schwarzburg-Rudolstadtシュバルツブルク・ルドルシュタット伯爵の居城・宮殿だった。
    このバロック様式の宮殿は現在も見事な姿を残し、ルドルシュタットの町を見下ろす60mの高台に立ち、辺りを睥睨している。

    2001年5月7日にテューリンゲン陶磁器街道を巡り、その中心の町ルドルシュタットを訪れた。この日、城内博物館は休みで、お目当ての珍しい「Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿」が見られませんでした。

    10年ぶりの再挑戦で城内博物館や見事なミニチュアを見てきました。
    とりわけハイデクスブルク宮殿にある「Rococo en miniatureミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿」が有名である。

    *ミニチュアですが、ザクセン王国の強王、王妃、愛妾たち、貴族たち・・・ちょっぴり王侯貴族の様子を見ることができます。

    写真はミニチュアのロココ 讃美の島の宮殿

  • ミニチュアの作者達Gerhard Baetz とManfred Kiedorf の二人が50年をかけて、10の宮殿、約1,000の人形と1,000の家具調度からなるミニチュア世界を作った。<br />かつての“Hofkueche王家の台所”に展示されていたミニチュアは予想以上にすごそうだったので、切符売り場にいったん戻って、ミニチュア撮影料を払ってから入った。精緻な細工をした華麗なミニチュアには払う価値があった。<br /><br />写真は賛美の国の王家の宴席、食事シーン

    ミニチュアの作者達Gerhard Baetz とManfred Kiedorf の二人が50年をかけて、10の宮殿、約1,000の人形と1,000の家具調度からなるミニチュア世界を作った。
    かつての“Hofkueche王家の台所”に展示されていたミニチュアは予想以上にすごそうだったので、切符売り場にいったん戻って、ミニチュア撮影料を払ってから入った。精緻な細工をした華麗なミニチュアには払う価値があった。

    写真は賛美の国の王家の宴席、食事シーン

  • 写真はミニチュアのロココ 王妃様の御通り

    写真はミニチュアのロココ 王妃様の御通り

  • 写真はミニチュアのロココ ミニチュアBall im Festsaal祝典の間の舞踏会

    写真はミニチュアのロココ ミニチュアBall im Festsaal祝典の間の舞踏会

  • 写真はミニチュアのロココ 王家の台所

    写真はミニチュアのロココ 王家の台所

  • 写真はミニチュアのロココ ミニチュア Orgelwagenオルガン馬車

    写真はミニチュアのロココ ミニチュア Orgelwagenオルガン馬車

  • 写真はハイデクスブルク宮殿のDie fuerstlichen Wohnraeume選帝侯の住居(宮殿の裏の場)の廊下にあった面白い人形は仕掛けで口が空くようだった。<br /><br />・・・・・

    写真はハイデクスブルク宮殿のDie fuerstlichen Wohnraeume選帝侯の住居(宮殿の裏の場)の廊下にあった面白い人形は仕掛けで口が空くようだった。

    ・・・・・

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この旅行記へのコメント (2)

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  • M-koku1さん 2020/04/29 23:05:52
    素晴らしい陶磁器ですね
    こんばんわ

    偶然ですが昨日BSPでアウグスト二世とマイセン城とその陶磁器工に関する番組をやっていました。(再放送ですけれど)
    沢山の陶磁器が戦争で破壊されてしまったということで、根気強く時間をかけて作り直している様子も紹介されていました。頭が下がります。ミニチュア類はよく壊れずに残っていたんですね。舞踏会のシーンなんて、本当に素敵です!

    ザクセン地方を中心としたヨーロッパの貴族たちの流れが 少しだけわかった気がします。
    本当によく調べていらっしゃいますね。
    脱帽です。
    二世とか三世とか みんな名前が似ているので、なかなか頭に入りません。

    今日から G(がまん)W(ウィーク)だそうですが
    Stay Homeで乗り切ります。

    もう次のがあるようなので また明日読みたいと思ってます。

    Mより

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2020/04/29 23:42:44
    Re: 素晴らしい陶磁器ですね
    M-koku1さん 、
    今晩は。コメントありがとうございます。
    ほんと、人名は面倒です。欧州の貴族は代々同じ名を使用すること
    が普通ですから、読むのも調べるのも面倒なものです。
    それに他の国の王になると前の名と違う形をとるし、日本語になると、
    調べた原典によって異なるから、こんがらかるのですよ。
    以前に調べた資料があっても、何度も読み返し、時間がかかりました。

    さて、18世紀後半、ドイツでの磁器窯隆盛の時代、「ドイツの七名窯」に挙げられた歴史ある由緒ある名窯は、《 第一には18世紀の初め、ヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meissenマイセンであり、Hoechstヘキスト・Fuerstenbergフュルステンベルク・KPM Berlinベルリン・Nymphenburgニュンフェンブルグ・FrankenthalフランケンタールそしてLudwigsburgルードヴィクスブルグの7つです。 》  
    その後、18世紀の半ばから、ドイツ各地に磁器窯が造られ、ドイツに於いて、マイセンがキングなら、ドレスデンはクイーンと例えられているDP Dresdenドレスデンや、Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ、Rosentahlローゼンタール、Hutschenreutherフッチェンロイター、Kahlaカーラ等が創業されている。
    テューリンゲン陶磁器街道の陶磁器も18世紀半ばですから、同じ時期に
    なりますね。ひょっとしてお好きなものも有るかもしれません。
    jijidaruma

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