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≪2018年ドイツの春:フランケン地方・オーバープファルツ地方の旅≫<br />2018年5月10日(木)~5月24日(木)15日間<br /><br />目的地:バイエルン州フランケン地方・オーバープファルツ地方を中心に巡る。<br />(ニュルンベルクを中心としたFrankenフランケン地方、レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルンのOberpfalzオーバープファルツ地方)<br /><br />5月20日(日): 晴後曇り、 22℃、 83km<br /><br /><Ansbachアンスバッハ観光>  <br />“バロック都市の宝石”と謳われる町は2009年の春に続き二度目の訪問である。人口4万人の小都市はバッハ音楽祭りとロココ演劇の町としても知られている。<br />プロイセンの皇帝を出したホーエンツォレルン家の城下町で、かつてのブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯の居城がある。<br /><br />写真はカスパー・ハウザーの記念像

番外編:謎のみなし児・カスパー・ハウザーは何故暗殺されたのか?

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2018/05/10 - 2018/05/24

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旅行記グループ ドイツ:番外編様々

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪2018年ドイツの春:フランケン地方・オーバープファルツ地方の旅≫
2018年5月10日(木)~5月24日(木)15日間

目的地:バイエルン州フランケン地方・オーバープファルツ地方を中心に巡る。
(ニュルンベルクを中心としたFrankenフランケン地方、レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルンのOberpfalzオーバープファルツ地方)

5月20日(日): 晴後曇り、 22℃、 83km

<Ansbachアンスバッハ観光>  
“バロック都市の宝石”と謳われる町は2009年の春に続き二度目の訪問である。人口4万人の小都市はバッハ音楽祭りとロココ演劇の町としても知られている。
プロイセンの皇帝を出したホーエンツォレルン家の城下町で、かつてのブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯の居城がある。

写真はカスパー・ハウザーの記念像

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • <アンスバッハの歴史><br />アンスバッハは1221年に初めて文献で言及されるが、それ以前の748年に、ベネディクト会の修道院が創設されて、次第に町を形作った。<br /><br />写真はアンスバッハの位置

    <アンスバッハの歴史>
    アンスバッハは1221年に初めて文献で言及されるが、それ以前の748年に、ベネディクト会の修道院が創設されて、次第に町を形作った。

    写真はアンスバッハの位置

  • 780年から数百年間はWuerzburgヴュルツブルクの領主司教に支配され、<br />1331年にホーエンツォレルン家の統治下に入り、<br />1791年、最後のブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯が統治権をプロイセンに譲渡するまで、その支配が続いた。<br /><br />その後、1806年バイエルン王国領となる。<br /><br />写真はブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯のレジデンツ

    780年から数百年間はWuerzburgヴュルツブルクの領主司教に支配され、
    1331年にホーエンツォレルン家の統治下に入り、
    1791年、最後のブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯が統治権をプロイセンに譲渡するまで、その支配が続いた。

    その後、1806年バイエルン王国領となる。

    写真はブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯のレジデンツ

    マルクグラーフェン城 城・宮殿

    アンスバッハ:9年前に訪れたブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯の宮殿を再訪した。 by jijidarumaさん
  • 2009年の春にアンスバッハの旧市街の通りを戻りつつ、奇妙な銅像が二つ建っているのを見た。<br /><br />それは思いもかけない「謎のみなし児・カスパー・ハウザー像」だった。 <br />一つ(右)は発見当時の浮浪児然とした彼、もう一つ(左)は教育された姿だ。<br />9年後の旅でも、やはり彼は気になる存在であった。<br /><br />写真はAnsbach・Kaspar_hauser_denkmalカスパー・ハウザーの記念像

    2009年の春にアンスバッハの旧市街の通りを戻りつつ、奇妙な銅像が二つ建っているのを見た。

    それは思いもかけない「謎のみなし児・カスパー・ハウザー像」だった。 
    一つ(右)は発見当時の浮浪児然とした彼、もう一つ(左)は教育された姿だ。
    9年後の旅でも、やはり彼は気になる存在であった。

    写真はAnsbach・Kaspar_hauser_denkmalカスパー・ハウザーの記念像

    マルクグラーフェン博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 高校の友人に小学校の校長先生がいるが、「謎のみなし児・カスパー・ハウザー像」の話が残るアンスバッハも訪れるという事を旅行前に話した所、<br />曰く「学生時代に“人間を教育する事”というテーマで彼の事を勉強したことがあった」と言った。<br />つまり、素性の不明な野生児に教育が可能だろうかといった事だったようだ。<br />19世紀に起った一つの暗殺事件は後の世にも影響を残している。<br /><br />写真はブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯のレジデンツの俯瞰

    高校の友人に小学校の校長先生がいるが、「謎のみなし児・カスパー・ハウザー像」の話が残るアンスバッハも訪れるという事を旅行前に話した所、
    曰く「学生時代に“人間を教育する事”というテーマで彼の事を勉強したことがあった」と言った。
    つまり、素性の不明な野生児に教育が可能だろうかといった事だったようだ。
    19世紀に起った一つの暗殺事件は後の世にも影響を残している。

    写真はブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯のレジデンツの俯瞰

  • Kaspar Hauserカスパー・ハウザー(1812年4月30日 ~1833年12月17日)は<br />1831年~1833年の2年間、アンスバッハに滞在し、1833年12月17日王宮庭園で、謎の人物のまま殺害されている。 <br /><br />今もって素性の不明な野生児は1828年3月26日、ニュルンベルクの町で保護されるまで、長期に渡り牢獄に閉じ込められていたと推測されている。<br /><br />(殆ど口を利くこともできなかった16歳くらいの少年がある日、ニュルンベルクの町で発見される。気付いた人が彼に訊ねたが言葉が話せず、しかたなく、その人は彼を警察に連れて行った。そこで紙と鉛筆を渡された彼は「カスパー・ハウザー」 (Kaspar Hauser) という名前を書いて見せたと云う)<br /><br />写真はAnsbachアンスバッハのレジデンス:Gotische Halleゴシックホール・ファイアンス焼きの磁器

    Kaspar Hauserカスパー・ハウザー(1812年4月30日 ~1833年12月17日)は
    1831年~1833年の2年間、アンスバッハに滞在し、1833年12月17日王宮庭園で、謎の人物のまま殺害されている。

    今もって素性の不明な野生児は1828年3月26日、ニュルンベルクの町で保護されるまで、長期に渡り牢獄に閉じ込められていたと推測されている。

    (殆ど口を利くこともできなかった16歳くらいの少年がある日、ニュルンベルクの町で発見される。気付いた人が彼に訊ねたが言葉が話せず、しかたなく、その人は彼を警察に連れて行った。そこで紙と鉛筆を渡された彼は「カスパー・ハウザー」 (Kaspar Hauser) という名前を書いて見せたと云う)

    写真はAnsbachアンスバッハのレジデンス:Gotische Halleゴシックホール・ファイアンス焼きの磁器

  • 保護後にアンスバッハの法律学者フォイエルバッハが引き取って、教育を施したので、言葉を話せるようになり、その生い立ちを語り出すようになったが、その詳細が明らかになる前に何者かによって暗殺されたため、その正体と出生から保護に至るまでの正確な経緯は現在も不明なままである。<br /><br />当時、バイエルン国王が賞金を付けて、その素性を探させたが、分からなかった。<br /><br />カスパーが特異なまでの鋭敏な五感を持っていたことでも有名であり、数奇な生涯は専門の研究書から文学、楽曲など様々なジャンルで取り上げられ、殺害現場となったアンスバッハでは現在、祭礼が2年ごとに行われているそうだ。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真はAnsbachアンスバッハのレジデンス:鉄(木)馬

    保護後にアンスバッハの法律学者フォイエルバッハが引き取って、教育を施したので、言葉を話せるようになり、その生い立ちを語り出すようになったが、その詳細が明らかになる前に何者かによって暗殺されたため、その正体と出生から保護に至るまでの正確な経緯は現在も不明なままである。

    当時、バイエルン国王が賞金を付けて、その素性を探させたが、分からなかった。

    カスパーが特異なまでの鋭敏な五感を持っていたことでも有名であり、数奇な生涯は専門の研究書から文学、楽曲など様々なジャンルで取り上げられ、殺害現場となったアンスバッハでは現在、祭礼が2年ごとに行われているそうだ。

    ・・・・・

    写真はAnsbachアンスバッハのレジデンス:鉄(木)馬

  • (Wikiに依れば、カスパー発見から、その殺害までは以下のようである)<br /><br />1828年5月26日、聖霊降臨祭が終わったばかりのバイエルン王国ニュルンベルクのUnschlittplatzウンシュリット広場で16歳ほどの少年が発見される。<br />身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。<br /><br />少年はニュルンベルク駐屯第6軽騎兵隊第4中隊勤務のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉宛の手紙を携えていた。<br />手紙は誤字や文法の間違いが目立つものであり、内容は少年のファーストネームはカスパー、誕生日は1812年4月30日、この少年の父親は騎兵であったが既に死去しているとし、父と同じ騎兵に採用してほしいが、手に余れば殺してほしいと書かれていた。<br /><br />写真はAnsbachアンスバッハのレジデンス:鉄(木)馬・2009年

    (Wikiに依れば、カスパー発見から、その殺害までは以下のようである)

    1828年5月26日、聖霊降臨祭が終わったばかりのバイエルン王国ニュルンベルクのUnschlittplatzウンシュリット広場で16歳ほどの少年が発見される。
    身元などいくつか質問をされてもまともに答えられなかったため、少年は衛兵の詰所に連れていかれた。衛兵たちから筆談はどうかと紙と鉛筆を渡された少年は「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。

    少年はニュルンベルク駐屯第6軽騎兵隊第4中隊勤務のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉宛の手紙を携えていた。
    手紙は誤字や文法の間違いが目立つものであり、内容は少年のファーストネームはカスパー、誕生日は1812年4月30日、この少年の父親は騎兵であったが既に死去しているとし、父と同じ騎兵に採用してほしいが、手に余れば殺してほしいと書かれていた。

    写真はAnsbachアンスバッハのレジデンス:鉄(木)馬・2009年

  • 手紙の主についてヴェッセニヒ大尉には何ら心当たりがなく、結局カスパーは孤児として市当局の保護下に入ることになった。<br /><br />彼の噂が広まるにつれ、多くの法学者、神学者、教育学者たちが彼に関心を持ち、彼らはカスパーにさまざまな検査を施し、また教育を試みた。<br /><br />宗教哲学者ゲオルク・フリードリヒ・ダウマーはカスパーに読み書きを教え、一定の素養を身につけさせることができた。<br />しかしダウマーは彼に死ぬまで神の概念を理解させることはできなかった。<br /><br />写真はアンスバッハ:Orangerie im Hofgarten王宮庭園のオランジェリー・2009年

    手紙の主についてヴェッセニヒ大尉には何ら心当たりがなく、結局カスパーは孤児として市当局の保護下に入ることになった。

    彼の噂が広まるにつれ、多くの法学者、神学者、教育学者たちが彼に関心を持ち、彼らはカスパーにさまざまな検査を施し、また教育を試みた。

    宗教哲学者ゲオルク・フリードリヒ・ダウマーはカスパーに読み書きを教え、一定の素養を身につけさせることができた。
    しかしダウマーは彼に死ぬまで神の概念を理解させることはできなかった。

    写真はアンスバッハ:Orangerie im Hofgarten王宮庭園のオランジェリー・2009年

  • また彼の保護・養育にあたった法学者アンゼルム・フォイエルバッハによると、カスパーは当初、肉や牛乳を口にしても吐き出してしまい、パンと水だけをとることができた。<br /><br />また鏡像をつかもうとするなど、通常の生活を送っていれば身につく常識、人間らしさを失っていたという。フォイエルバッハは、カスパーがかなりの長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測している。<br /><br />このような特別な人間について記録された数多くの伝記には、そのような者は生まれながらにして暗い小部屋で外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされ、人間らしさを失っていたとある。<br /><br />写真はアンスバッハ:Orangerie im Hofgarten王宮庭園のオランジェリー・2009年

    また彼の保護・養育にあたった法学者アンゼルム・フォイエルバッハによると、カスパーは当初、肉や牛乳を口にしても吐き出してしまい、パンと水だけをとることができた。

    また鏡像をつかもうとするなど、通常の生活を送っていれば身につく常識、人間らしさを失っていたという。フォイエルバッハは、カスパーがかなりの長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測している。

    このような特別な人間について記録された数多くの伝記には、そのような者は生まれながらにして暗い小部屋で外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされ、人間らしさを失っていたとある。

    写真はアンスバッハ:Orangerie im Hofgarten王宮庭園のオランジェリー・2009年

  • カスパーの感覚機能は発見当初はほとんど麻痺状態であったが、やがて外界のものを知覚できるようになっていった。<br />そこで発揮された知覚の鋭さは異常とも言えるほどのもので、暗闇でも聖書を読めたり色彩を判別できるのみならず、金属を握っただけで鉄や真鍮などその材質を見抜いたり、遠く離れたクモの巣に獲物がかかっていることを言い当てるなど並外れていたとされる。<br /><br />本人のこの能力は、特殊な視覚など一部を除き、一般の食事や生活に順応するにつれ消失していったと記録されている。<br /><br />写真はAnsbach_Schlossgarten_Panorama王宮庭園のパノラマ

    カスパーの感覚機能は発見当初はほとんど麻痺状態であったが、やがて外界のものを知覚できるようになっていった。
    そこで発揮された知覚の鋭さは異常とも言えるほどのもので、暗闇でも聖書を読めたり色彩を判別できるのみならず、金属を握っただけで鉄や真鍮などその材質を見抜いたり、遠く離れたクモの巣に獲物がかかっていることを言い当てるなど並外れていたとされる。

    本人のこの能力は、特殊な視覚など一部を除き、一般の食事や生活に順応するにつれ消失していったと記録されている。

    写真はAnsbach_Schlossgarten_Panorama王宮庭園のパノラマ

  • 写真はAnsbachアンスバッハ:Rathaus市庁舎に見られる支配者の紋章<br /><br />アンスバッハのRathaus市庁舎で5つの紋章を見る。<br />ルター広場に面した壁には各時代の支配者の紋章があり、Ansbachアンスバッハを中心に、左にWuerzburgヴュルツブルク、Hohenzollernホーエンツォレルン、右にPreussenプロイセン、Bayernバイエルンの名だたる支配者の紋章がある。<br />

    写真はAnsbachアンスバッハ:Rathaus市庁舎に見られる支配者の紋章

    アンスバッハのRathaus市庁舎で5つの紋章を見る。
    ルター広場に面した壁には各時代の支配者の紋章があり、Ansbachアンスバッハを中心に、左にWuerzburgヴュルツブルク、Hohenzollernホーエンツォレルン、右にPreussenプロイセン、Bayernバイエルンの名だたる支配者の紋章がある。

  • その過去は完全な謎に包まれており、かつ特異な感覚能力の持ち主である彼に興味を持つ人々は増える一方であり、群衆の眼前に彼が連れてこられることもあった。その際、カスパー自身は、感覚の過敏さゆえ経験したことのない光と騒音によって痛みを受け苦しんだという。この苦痛も慣れによって徐々に軽減していき、やがてカスパーは多くの人々の前でも平静を保つことができるようになり、ニュルンベルクの人々も彼を受け入れていったが、彼の名前と容貌が知れ渡るにつれある王族に顔が似ていると噂されることになった。<br /><br />これが後の暗殺と関係が深いとされる「バーデン大公後継者説」につながる。<br /><br />写真はAnsbach・Kaspar_hauser_denkmalカスパー・ハウザーの記念像

    その過去は完全な謎に包まれており、かつ特異な感覚能力の持ち主である彼に興味を持つ人々は増える一方であり、群衆の眼前に彼が連れてこられることもあった。その際、カスパー自身は、感覚の過敏さゆえ経験したことのない光と騒音によって痛みを受け苦しんだという。この苦痛も慣れによって徐々に軽減していき、やがてカスパーは多くの人々の前でも平静を保つことができるようになり、ニュルンベルクの人々も彼を受け入れていったが、彼の名前と容貌が知れ渡るにつれある王族に顔が似ていると噂されることになった。

    これが後の暗殺と関係が深いとされる「バーデン大公後継者説」につながる。

    写真はAnsbach・Kaspar_hauser_denkmalカスパー・ハウザーの記念像

  •  1833年12月17日、カスパーは正体不明の男に襲われ、その際の刺傷が原因で突如として世を去った。<br /><br />カスパー自身が保護以来自らを語りだし出自の断片が見え隠れし出したばかりで、犯人による口封じのように二度にわたり襲われて殺された。<br />カスパーの自らについての説明は人前に姿を見せるようになる以前、何年も地下牢を思わせる暗く小さな場に閉じ込められ、おもちゃの馬を与えられてそこで育っていたことと、僅かなことしか言い残さず世を去った。<br /><br />バイエルン国王ルートヴィヒ1世が、殺害者の逮捕のための情報提供者に220,000フローリンの報奨金をつけたが、犯人につながる情報は出てこなかった。<br /><br />2年あまり後に、王宮庭園で刃渡り14cm全長30cmほどのダマスクス刃の(刃身が波刃になっている)諸刃の短剣が発見された。<br /><br />この短剣の刃とカスパーの刺し傷はぴったり一致したという。<br />この刃物はフランス製のシーフナイフだと1926年に判明された。<br /><br />写真はAnsbach・Kaspar_hauserカスパー・ハウザー

    1833年12月17日、カスパーは正体不明の男に襲われ、その際の刺傷が原因で突如として世を去った。

    カスパー自身が保護以来自らを語りだし出自の断片が見え隠れし出したばかりで、犯人による口封じのように二度にわたり襲われて殺された。
    カスパーの自らについての説明は人前に姿を見せるようになる以前、何年も地下牢を思わせる暗く小さな場に閉じ込められ、おもちゃの馬を与えられてそこで育っていたことと、僅かなことしか言い残さず世を去った。

    バイエルン国王ルートヴィヒ1世が、殺害者の逮捕のための情報提供者に220,000フローリンの報奨金をつけたが、犯人につながる情報は出てこなかった。

    2年あまり後に、王宮庭園で刃渡り14cm全長30cmほどのダマスクス刃の(刃身が波刃になっている)諸刃の短剣が発見された。

    この短剣の刃とカスパーの刺し傷はぴったり一致したという。
    この刃物はフランス製のシーフナイフだと1926年に判明された。

    写真はAnsbach・Kaspar_hauserカスパー・ハウザー

  • 彼の質素な墓はアンスバッハ市営墓地で見ることができる。<br />現在の墓石は近年になって建て直されたものであり、王宮庭園内の暗殺現場では1833年12月14日に記念碑が建立され、これはアウグスト・プラーテン通りの起点のところの小さな広場に建っているとか(実際には見ていない)。<br /><br />現在のMarkgrafenmuseum辺境伯博物館ではカスパー・ハウザーについての展示コーナーが設けられた。<br /><br />【Markgrafenmuseum (Kaspar Hauser Museum)辺境伯博物館(カスパー・ハウザー博物館)】<br />D-91522 Ansbach 、Kaspar Hauser Platz1<br />開館期間:5月~9月、月~日の10:00~17:00<br /><br />ここでは謎の人物カスパー・ハウザーとブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯との2部門の博物館が2000年より開館された。<br /><br />・・・・・<br /><br />写真はKaspar_hauser_grabカスパー・ハウザーの墓碑

    彼の質素な墓はアンスバッハ市営墓地で見ることができる。
    現在の墓石は近年になって建て直されたものであり、王宮庭園内の暗殺現場では1833年12月14日に記念碑が建立され、これはアウグスト・プラーテン通りの起点のところの小さな広場に建っているとか(実際には見ていない)。

    現在のMarkgrafenmuseum辺境伯博物館ではカスパー・ハウザーについての展示コーナーが設けられた。

    【Markgrafenmuseum (Kaspar Hauser Museum)辺境伯博物館(カスパー・ハウザー博物館)】
    D-91522 Ansbach 、Kaspar Hauser Platz1
    開館期間:5月~9月、月~日の10:00~17:00

    ここでは謎の人物カスパー・ハウザーとブランデンブルク・アンスバッハ辺境伯との2部門の博物館が2000年より開館された。

    ・・・・・

    写真はKaspar_hauser_grabカスパー・ハウザーの墓碑

  • ≪カスパーの存命中から、彼の出自について、様々な風評があった。≫<br /><br />素性不明の捨て子カスパーは*バーデン大公家の世継であり、1812年に誕生後すぐに死去したとされたバーデン大公カールの長男であったというものがある。<br />世継問題の事情により、その誕生以来、死産の子どもと取替え、隠匿されていたものと云った風評である。 <br /><br />バイエルン国王が当時、賞金を懸けて探させたと云い、1981年に銅像まで建ててしまったくらい、当時はセンセーショナルな出来事であったのでしょう。<br /><br />写真はAnsbach・Kaspar_hauser:Grossherzogtum Badenバーデン大公国の紋章

    ≪カスパーの存命中から、彼の出自について、様々な風評があった。≫

    素性不明の捨て子カスパーは*バーデン大公家の世継であり、1812年に誕生後すぐに死去したとされたバーデン大公カールの長男であったというものがある。
    世継問題の事情により、その誕生以来、死産の子どもと取替え、隠匿されていたものと云った風評である。 

    バイエルン国王が当時、賞金を懸けて探させたと云い、1981年に銅像まで建ててしまったくらい、当時はセンセーショナルな出来事であったのでしょう。

    写真はAnsbach・Kaspar_hauser:Grossherzogtum Badenバーデン大公国の紋章

  • *Grossherzogtum Badenバーデン大公国はドイツ南西部、現在のバーデン・ヴュルテンベルク州に存在したドイツの領邦である、首都はKarlsruheカールスルーエにあった。<br />先にMarkgrafschaft Baden辺境伯領、後に大公国として12世紀から20世紀初頭まで存続した。<br />1112年にツェーリンゲン家のヘルマン2世がシュヴァーベンにおいて辺境伯となり、子孫が代々所領と財産を引き継いでいったことから始まる。<br /><br />写真はAnsbach・Kaspar_hauser:Grossherzogtum Badenバーデン大公国の地図

    *Grossherzogtum Badenバーデン大公国はドイツ南西部、現在のバーデン・ヴュルテンベルク州に存在したドイツの領邦である、首都はKarlsruheカールスルーエにあった。
    先にMarkgrafschaft Baden辺境伯領、後に大公国として12世紀から20世紀初頭まで存続した。
    1112年にツェーリンゲン家のヘルマン2世がシュヴァーベンにおいて辺境伯となり、子孫が代々所領と財産を引き継いでいったことから始まる。

    写真はAnsbach・Kaspar_hauser:Grossherzogtum Badenバーデン大公国の地図

  • バーデン家内で抗争を繰り広げ、幾度かの分裂を繰り返したが、1771年にバーデン・ドゥルラハ辺境伯Karl Friedrichカール・フリードリヒが所領を統一、バーデン辺境伯となった。<br />また、ナポレオン戦争最中の1803年に選帝侯となり、1806年に帝国が解体すると初代バーデン大公(在位:1806~1811年)となった。1811年に死去すると、孫のKarl Ludwig Friedrichカール・ルートヴィヒ・フリードリヒ(1786~1818)が大公位を継いだ。(在位:1811~1818年)<br />1815年にドイツ連邦へ加盟した。<br /><br />1818年12月8日にカール大公がラシュタットで死去。息子はともに夭逝していたため、叔父のルートヴィヒ1世が大公位を継いだ。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(2018年3月18日:編集・加筆)<br /><br />写真はKarl Ludwig Friedrichカール・ルートヴィヒ・フリードリヒ・バーデン大公(July_8,_1786_in_Karlsruhe-December_8,_1818_in_Rastatt)

    バーデン家内で抗争を繰り広げ、幾度かの分裂を繰り返したが、1771年にバーデン・ドゥルラハ辺境伯Karl Friedrichカール・フリードリヒが所領を統一、バーデン辺境伯となった。
    また、ナポレオン戦争最中の1803年に選帝侯となり、1806年に帝国が解体すると初代バーデン大公(在位:1806~1811年)となった。1811年に死去すると、孫のKarl Ludwig Friedrichカール・ルートヴィヒ・フリードリヒ(1786~1818)が大公位を継いだ。(在位:1811~1818年)
    1815年にドイツ連邦へ加盟した。

    1818年12月8日にカール大公がラシュタットで死去。息子はともに夭逝していたため、叔父のルートヴィヒ1世が大公位を継いだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2018年3月18日:編集・加筆)

    写真はKarl Ludwig Friedrichカール・ルートヴィヒ・フリードリヒ・バーデン大公(July_8,_1786_in_Karlsruhe-December_8,_1818_in_Rastatt)

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  • jijidarumaさん 2019/02/16 00:37:34
    RE: カスパー・ハウザー、ワクワクしました
    himmelさん、
    こんばんは。
    いつもながら、ご投票とコメントありがとうございます。

    「謎のみなし児・カスパー・ハウザー像」の話、私は伝説好きな所為か、
    ドイツの旅でこうした謎めいた話に遭遇!すると、たまらないのです(笑)。
    himmelさんも旅を続けながら、歴史的なポイント(あるいは像)に遭遇
    すると、興奮するように・・・。

    アンスバッハのレジデンス訪問が前回できなかったこともあり、
    この日はレジデンス訪問が第一、第二はハウザーでした。

    旅に出る年の1月に高校の友人仲間が何人かで集いましたが、ハウザーの
    話を出すと、旅行記中にも書いたように、ある友人が反応し、更にもう一人も
    図書館で見つけて読むと、75歳の仲間たちはまだまだ好奇心に溢れています。

    旅行記の全てを読んで頂くには無理がありますが、こうし一文は読んで
    もらえました。若い頃に「みなし児で育ち、教育を受けていない人間を普通の
    人間にできる教育は可能か?」と真剣に学んだ時期があった友人たちはある
    意味で羨ましいものです。

    人間臭い、バーデン大公の後継がらみの闇も分からずじまいだったことで、
    ハウザーの事を思う人たちがいまだに多い事となり、(暗殺されたハウザーは
    気の毒でしたが)良かったような気も少々します。

    それにしても、みなし児を何とかしようと、当時の人達が様々に尽力した様子
    は当時のバイエルン王国の各層の健全さもうかがいしれて、ドイツすごいなと
    思ったものです。

    寒いですね。今日も雪が舞いました。年金!を頂きに銀行に行くのも、
    億劫な日でした。御風邪をひきませんように。

    jijidaruma
  • jijidarumaさん 2019/02/16 00:36:27
    カスパー・ハウザー、ワクワクしました
    jijidarumaさん、おはようございます。
    ご無沙汰しています。
    またこの度は投票をありがとうございます。

    今回の旅行記でとりあげられましたカスパー・ハウザー、私もおぼろげですが知っていました。もしかしてjjidarumaさんの以前の旅行記で拝見したのかも。

    今回の旅行記、詳しく拝見させていただくにつれてワクワクしてまいりました。
    粗野な娘を貴婦人に育て上げた「マイフェア・レディー」に似ていますが、あちらは物語で、カスパー・ハウザーは実在の人物、それも学術的に貴重な人物。
    いろんな方がいろんな方面で関わり、また研究なさっているのですね。
    バーデン大公の世継ぎだったかもしれない・・・、こちらも興味あります、ロマンです。

    旅をしていますといろんな像に出会います。
    それを写真に撮って、帰国して調べてみるとワクワクする事実が出てきたりすると、うれしくて・・・。これがこの齢になっても旅を続けたいと思う原動力なのかもしれません。

    これからもjijidarumaさんの深く掘り下げた旅行記と言うより研究論文と言った方がぴったり、を楽しみにしています。

    なぜだか旅行記からはコメントが投稿できなくて、こちらから失礼いたします。

    himmel

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