2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)?10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。
9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?
9月23日(月)⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市街
9月23日(月)⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城ホテル ブロムベルク城に2泊。
9月24日(火)⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。
9月24日(火)⑭画家たちが愛した美しい木組みの家並みと泊まりたかったシュヴァーレンベルク城
9月24日(火)⑮ブロムベルクには古城や伝説、美しい木組みの家並みがある。
9月25日(水)⑯英国王となったハノーファー王家ゆかりの町へ
9月25日(水)⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿内:華やかな絵を残したゾフィー・ドロテア妃
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ツェレに入ると、少し晴れ間が出た。
ホテルには早い事もあるが、とりあえず市内観光の第一も目的であるツェレ宮殿博物館を目指す。
デパートのKarstadtのパークハウス(14:34~16:38駐車料金はEuro4)の2階に駐車し、ツェレ城に向かった。
写真はCelleツェレ旧市街Map -
<Celleツェレ>
9月25日(水)14:30~・・・・・
ツェレはニーダーザクセン州に属する中都市、人口は約7万人である。
ヴェーザー川の支流Allerアラー川(全長263km)が町を流れる。
この町は「北ドイツの真珠」と呼ばれ、ルネサンスとバロック様式のツェレ宮殿と、絵のように美しい旧市街に400もの木組みの家並みが残り、その景観は「真珠」というだけに素晴らしい。
ニーダーザクセン州の州都ハノーファーはツェレから南西に40kmの距離、ヒルデスハイムは南に60 km、ハンブルクは北に120 kmの距離にある。
・・・・・
写真はWappen_Celleツェレの紋章:
青地に赤い屋根の3つの塔が立つ、銃眼付き胸壁のある銀色の壁、黒い門の開口部には斜めに傾いた黄金の盾があり、その中に直立した青いライオンが7つの赤いハートに囲まれている。 -
①Schoss Celleツェレ宮殿: Schlossplatz 1
15:00~16:00
アラー川とその水を引いた掘割に囲まれた旧市街の中心にツェレの大公が建てたルネサンスとバロックの二つの様式が見られるツェレ宮殿(かつては水城)がある。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:シュロスパーク(フランス風庭園)の縄張り・・・中央が宮殿、周囲を水堀が囲む。 -
1433年にFuerstentum Lueneburgリューネブルク侯領(ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国の分割により成立した侯国。1269年~1277年、1665年~1705年)の首都となり、ツェレ城を居城とした。
その後、リューネブルク侯領とカレンベルク侯領が統合、ハノーファー選帝侯領(1692年~1806年)が誕生すると首都はハノーファーに移転した。
歴史はややこしいが、相続等でツェレ城は概略15世紀から1705年までHerzoege von Braunschweig-Lueneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国(Haus Welfenヴェルフェン家)の居城だった。
その後、ハノーファー選帝侯領からハノーファー王国となって、1905年まではハノーファー王の夏の宮殿(住居)に使われた。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:裏手「北ドイツの真珠」と呼ばれるツェレには2つの宝がある。ツェレ宮殿と絵のように美しい木組み建築の旧市街だ。 by jijidarumaさんツェレ城 城・宮殿
-
駐車した時間から次は15時と、これに間に合わせて旧市街を小走りに動いた。
待っていたドイツ人たちに加わり、十数人で博物館巡りが始まる。
<ツェレ宮殿:宮殿博物館>
ガイド付き案内:火~金、日は11時、13時、15時、土は11時から15時まで1時間ごと。案内時間は約1時間、入館料はEuro9X2=18+チップ2合計Euro20でした。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:貴重な家具 -
近年(2007年から)城の様々な部屋がResidenzmuseum宮殿博物館になっている。 絵画、王家の歴史資料、宝物(金メッキの高坏など)、貴重な家具、Schlosskapelle宮殿内礼拝堂、Schlosstheater宮殿劇場、Schlossparkフランス風庭園など見るべきものは多い。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:貴重な家具 -
Welfenヴェルフェン家の絵画、貴重な家具、最後のツェレ城主(ヴェルフェン家)Herzog Georg Wilhelm von Braunschweig-Lueneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国ゲオルク・ヴィルヘルム公(1624年~1705年)のバロック様式の客室、イタリアの巨匠のスタッコ天井、宮殿内礼拝堂、城の台所設備などを見て回った。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:イタリアの巨匠のスタッコ天井 -
イチオシ
尚、Schlossparkフランス風庭園は適宜自由見学であり、「Schlosstheater宮殿劇場」と*「Celler Silberkabinett銀器の陳列室」はガイドのコースに入っていなかった。
*ツェレのBomann-Museumボーマン博物館(明日訪問)は長い間「Celler Silberツェレの銀器(銀細工)」を収集していたが、主に食器などの代表的な作品を宮殿博物館のCeller Silberkabinett銀器の陳列室、2018年6月にオープンした「Caroline-Mathilde-Raeumeキャロリーネ・マチルデの部屋」内に展示していると云う。
写真が残っていないので、今回のガイド案内の対象でなかったようだ。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ゲオルク・ヴィルヘルム公(1624年~1705年)のバロック様式の客室 -
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:誰が着たのか?
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写真はSchoss Celleツェレ宮殿:イタリアの巨匠のスタッコ天井
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<宮殿博物館の絵画>
博物館の絵画で興味を持った人物は、こちらの肖像画が最初。
1)デンマーク・ノルウェー王クリスチャン3世の男系の曾孫にあたるDorothea Sophie von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Gluecksburg(1636年~1689年)ドロテア・ゾフィー・フォン・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・グリュックスブルク妃はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの2番目の妃となった。
2)夫の Friedrich Wilhelm・Kurfuerst von Brandenburg(1620年~1688年)フリードリヒ・ヴィルヘルム ・ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公はプロイセン公国をポーランド支配から解放し、領内からスウェーデン勢力を駆逐したため、大選帝侯(der grosse Kurfuerst)と称えられた。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ドロテア・ゾフィーとヴィルヘルム ・ブランデンブルク大選帝侯夫妻 -
3)ハノーファー選帝侯兼オスナブリュック司教Ernst August Herzog zu Braunschweig und Lueneburg 、Kurfuerst von Hannoverエルンスト・アウグスト(1629年~1698年)は1658年にプファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒ5世の娘ゾフィーと結婚する。
家督相続・結婚・戦争従軍の功績等の結果、選帝侯の地位を得ている。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ハノーファー選帝侯兼オスナブリュック司教エルンスト・アウグスト、 -
④Sophie von der Pfalzゾフィー・フォン・デア・プファルツ(1630年~1714年)はプファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒ5世の娘でハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの妃である。Sophie von Hannoverゾフィー・フォン・ハノーファーとも呼ばれた。
1659年に姪のエリザベート・シャルロット(愛称Liselotteリーゼロッテ)を兄のプファルツ選帝侯から預けられると、1663年まで彼女の世話をしたと云う。
1671年にリーゼロッテが政略結婚でフランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世に嫁いだ後は亡くなるまで文通を続けた。
参考・番外編:ハイデルベルクの哲学者の道にあったプファルツでたいへん人気の高い王女Liselottensteinリーゼロッテの記念碑(2012年)
https://4travel.jp/travelogue/11520955
後に、息子のハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒが英国王ジョージ1世となった為、前述③④の夫妻が現在のイギリス王位継承者の最も近い祖先という事になる。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの美しい妻ゾフィー・フォン・デア・プファルツ・・・インド人に扮したゾフィー、姉ルイーゼ・ホランディーネによる肖像画、1644年頃 -
ヴェルフェン家のGeorg WilhelmHerzog zu Braunschweig-Lueneburg ゲオルク・ヴィルヘルムブラウンシュヴァイク・リューネブルク公( 1624年~1705年)は、カレンベルク侯ゲオルクと妃アンナ・エレオノーレ・フォン・ヘッセン・ダルムシュタット夫妻の次男。デンマーク・ノルウェー王フレデリク3世妃ゾフィー・アマーリエの兄。
そしてイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世妃ゾフィー・ドロテアの父。
1705年、ゲオルク・ヴィルヘルムが死去した後、ハノーファー選帝侯領の一部となったので、最後のツェレ城主と称された。
ツェレ城は後にハノーファー王の夏の宮殿(住居)に使われた。
彼の血統は娘ゾフィー・ドロテアが生んだ孫ゲオルク・アウグスト(後の英国王ジョージ2世)を通して英国ハノーファー朝、同様に孫Sophie Dorotheaゾフィー・ドロテアを通してプロイセン王室(ホーエンツォレルン家)に受け継がれて行った。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:最後のツェレ城主・ヴェルフェン家Georg Wilhelm Herzog ゲオルク・ヴィルヘルム公(1705年頃) -
⑤ゲオルク・ルートヴィヒは後のハノーファー選帝侯であり、更に英国王(ハノーファー王朝)を兼任(同君連合)した英名George Iジョージ・ルイス1世となる。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ハノーファー選帝侯ゲオルク1世・英国王ジョージ1世 -
⑥Sophie Dorothea・Prinzessin von Hannoverハノーファー王女ゾフィー・ドロテア (1666年~1726年)は前述の最後のツェレ城主・ヴェルフェン家ゲオルク・ヴィルヘルム公の1人娘で Sophie Dorothea von Celleゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとも呼ばれた。
彼女は1682年に従兄のGeorg Ludwigゲオルク・ルートヴィヒ公子(1660年~1727年)と結婚した。
ただし、夫が選帝侯位および王位を継承する以前に離縁され、32年間幽閉されたとされている。
二人の子を通じて、イギリス王室(ハノーファー王朝)およびプロイセン王室(ホーエンツォレルン家)にその子孫がいる。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ハノーファー選帝侯ゲオルク1世・英国王ジョージ1世の妻Sophie Dorothea ゾフィー・ドロテア(1666~1726年)と子供たち(*長男Georg Augustゲオルク・アウグストと **長女Sophie Dorotheaゾフィー・ドロテア) -
*長男のGeorg Augustゲオルク・アウグスト(1683年~1760年)は、ハノーファー選帝侯、ハノーファー朝第2代英国王George IIジョージ2世。
写真はゾフィー・ドロテアが生んだ長男Georg Augustゲオルク・アウグスト(後の英国王ジョージ2世George IIの肖像by_Thomas_Hudson) -
**長女のSophie Dorotheaゾフィー・ドロテア(1687年~1757年)は兵隊王の異名もある第2代プロイセン王Friedrich Wilhelm I.フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と結婚し、第3代プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)などを生んだ。
写真はゾフィー・ドロテアが生んだ長女のSophie Dorotheaゾフィー・ドロテア第2代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の妻(在位1713年 ~1740年) -
イチオシ
このジョージ1世とゾフィー・ドロテア夫妻にはドロドロした話が残る。
<ゾフィー・ドロテア妃が32年間、死ぬまでアールデン城に幽閉される>
1694年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世・英国王ジョージ1世とゾフィー・ドロテアの結婚が解消されたが、公式にはゾフィー・ドロテアがゲオルク1世を拒否した事にあった。
解消後、父エルンスト・アウグストの同意を得たゲオルク1世はゾフィー・ドロテアをツェレの北西50kmにある水城Schloss Ahldenアールデン城に幽閉し、1726年にゾフィーが死去するまで解放しなかった。
彼女は母を除く父や子供との面会を許されず、再婚も禁止された。しかし、彼女は年金や使用人を与えられ、監視下で馬車に乗って城の外へ出かけることは許された。
別の話は不倫で、ゲオルク1世との結婚はゾフィー・ドロテア本人にとって気の進まないものだった上に、過去に次のようないきさつがあった。
前述の④プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の娘ゾフィーが、はじめは最後のツェレ城主のゲオルク・ヴィルヘルムと婚約していたが、美しかったゾフィーが嫁ぐ前に天然痘にかかってしまい、婚約を破棄された。その後ゲオルク・ヴィルヘルムは、愛妾であったフランスの小領主の娘El?・onore d'Olbreuseエレオノール・ドルブリューズと結婚したので、ゾフィーは深くゲオルク・ヴィルヘルムを恨み、その一人娘のゾフィー・ドロテアと自らの息子ゲオルク1世の結婚に反対したのだった。この為、ゾフィー・ドロテアは姑ゾフィーとの折り合いも良くなかった。
さらに、夫ゲオルク1世も美貌で名高かった妻に関心を持たず、長男ゲオルク2世・アウグスト(後の英国王ジョージ2世)と母と同名の長女ゾフィー・ドロテア(後のプロイセン王妃)が生まれた後は、愛人を作って妻を気にかけなくなった。
そこでゾフィー・ドロテアも*愛人を作り、ゲオルク1世への従属を拒否して離婚を求めた。その結果、「離婚手続きが済むまでの間」アールデン城に幽閉された。実母エレオノーレ以外との面会は許されす、結局、ゾフィー・ドロテアは1726年に死去するまで32年もの間、アールデン城に*幽閉され続けた。
実子ハノーファー選帝侯ゲオルク2世・英国王ジョージ2世は美しい母の思い出の品を全て没収され、父ジョージ1世を激しく憎悪することとなった。
またプロイセン王妃となった同名の娘は母ゾフィー・ドロテアの侍女をプロイセンに呼び、母に対する忠誠に報いた。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:華やかな絵を残したゾフィー・ドロテア妃は死去するまで32年の間、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世・英国王ジョージ1世により幽閉された。 -
*この事から連想したのは、ザクセン王(=ポーランド国王)アウグスト強王(1670~1733年)と愛妾コーゼル伯爵夫人(1680年~1765年)の49年間の幽囚の事だった。
ドレスデンから20km東に位置するラウジッツ山地の西の端に、Burg Stolpenシュトルペン城(要塞)があり、およそ17kmでチェコの国境に至る。
ザクセン王(=ポーランド国王)アウグスト強王によりコーゼル伯爵夫人(享年85歳)は死ぬまでの間49年間、シュトルペン城に幽囚されていたのだ。
参考・口コミ:愛妾コーゼル伯爵夫人の49年の幽囚(2011年)
https://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/dresden/kankospot/10539164/tips/12640211/#contents_inner
権力者は中々すごいもので、同じ頃に同じような事をしていたわけだ。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ゾフィー・ドロテア妃の説明版には妙な?題名がある。
”Eine der besten Partien in deutschlands・・・”「ドイツで最高の御相手(配偶者・良縁)の一つ」・・・そのように当時、いえ現代は見ているのだろうか? -
*「Koenigsmarck-Affaereケーニヒスマルク事件」:
ゾフィー・ドロテア妃の最高の御相手?Philipp Christoph Graf von Koenigsmarckフィリップ・クリストフ・ケーニヒスマルク伯爵(1665-1694)は、スウェーデンの貴族。スウェーデン総督ハンス・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵(1600年~1663年)の孫で、
兄のカール・ヨハン・フォン・ケーニヒスマルクはイングランド女性貴族のエリザベス・パーシーを巡るトラブルで殺人事件を起こし失踪、
姉のMaria Auroraマリア・アウローラはポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト2世の最初の愛妾(啓蒙思想を代表する哲学者ヴォルテールは彼女をロシアのエカチェリーナ大帝と並んで「過去2世紀間で最も名高い女性」と評したと云う)で、
二人の間にフランスの軍人Maurice de Saxeモーリス・ド・サックス元帥(1696年~1750年:フランス史上、6人しか存在しないフランス大元帥)が生まれた。
モーリスの孫に女流作家のGeorge Sandジョルジュ・サンド(1804年~1876年)がいる。
ともかくも、私共には何というべきか?たいへんな家系としか言いようがない。
フィリップはゲオルク1世の愛人の姉(ゾフィー・ドロテアの侍女でもあった)Graefin Platenプラーテン伯爵夫人を通じてハノーファー宮廷で頭角を現し、1690年頃よりゾフィー・ドロテアに接近し、1691年1月頃、愛人関係になったとされる。
この事はハノーファー公家内で収まっていたが、1694年の夏、二人がザクセンへの駆け落ちを計画したことからドイツ諸侯が知ることとなり、そのスキャンダルに危機を感じたハノーファー宮廷ではゲオルク1世の母や弟が思い留まるよう説得した。
その効果はみられぬまま、1694年7月1日(又は2日朝)、ライネ城でのゾフィー・ドロテアとの密会後に忽然とフィリップだけが失踪してしまう。
フィリップは秘密裏に殺害されライネ川に遺棄されたとか、ハノーファーのライネ宮殿(城)の床下に埋められたとする話も流れたと云う。
ただし、事件後ハノーファー公家もゾフィー・ドロテア本人も黙して語らず、公式には失踪事件として処理されたままである。
この事件は「Koenigsmarck-Affaereケーニヒスマルク事件」と呼ばれている。
1949年、ライネ宮殿(城)の再建工事で発掘した際に骨が発見されたが、この時は50歳ぐらい男性の骨で、フィリップが失踪した時の年齢29歳と大きな差があったので、彼の骨でないと断定された。
2016年8月、ライネ宮殿(城)のエレベーターの設置のための基礎掘削工事現場からまた骨が出た。DNA鑑定等が行われたが、この骨もフィリップの骨ではないと否定された。
いまだにこの事件は未解決のまま後を引いている。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:ゾフィー・ドロテア妃の御相手Graf Philipp Christoph von Koenigsmarckフィリップ・クリストフ・ケーニヒスマルク伯 -
すごいな!妙だなと思うのは、もう歴史の彼方になった話ながら、ツェレ宮殿博物館内に堂々とゾフィーとフィリップの写真が掲示されている事だ。
また、その両者間でBriefwechsel(文通)、たいへん情熱的な手紙が600通もやり取りされ、
うち282通がゾフィー・ドロテアの手元に保管されていたといった事などを細かに説明していた事だ。
しかも手紙はドイツ語ではなくフランス語だったので、ご苦労なことにドイツ語に翻訳した手紙の内容を聴取できるとあった。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:フィリップ・クリストフ・ケーニヒスマルク伯の説明 -
幽閉となったゾフィー・ドロテア妃の事件は文学作品にもなった。
Theodor Fontaneテオドール・フォンターネ(1819年~1898年)はドイツの小説家、詩人であったが、彼の「 Wanderungen durch die Mark Brandenburgマルク・ブランデンブルク を逍遥する」・5つの城で、 Graf Koenigsmarcksche Zeitケーニヒスマルク伯の時代について書いている(4巻。ハーツ、ベルリン1862-1882年)。これがきっかけで幽閉となったゾフィー・ドロテア妃の事件や御相手の事が知られたらしい。
写真はツェレの北西50kmにある水城Schloss Ahldenアールデン城・1782年の一帯図:Allerアラー川(全長263km、ヴェーザー川の右岸支流)沿いに水城(1549年築城)がある。 -
ツェレの北西50kmにある水城Schloss Ahldenアールデン城
写真はSchloss Ahlden_Ortアールデン城と町1654年・Merianメリアン作 -
3翼を持つ城の建物は現在、個人所有となっていて、アートオークションハウスとして使用されていると云う。
D-29691 Ahlden, Schloss, Postfach 1261
写真はDBPB_1952_94_Theodor_Fontaneテオドール・フォンターネ切手 (1952) 「ベルリンの歴史の男たち」シリーズ -
この物語は1948年に英国で「Koenigsliebe王妃の愛(Saraband for Dead Lovers死せる恋人に捧ぐる悲歌(エレジイ)サラバンド(緩やかな3拍子のスペイン舞曲)」というタイトルで映画制作された。
主演のソフィー・ドロテア役のJoan Greenwood ジョーン・グリーンウッド(英国人女優1921~1987年)とGraf Koenigsmarckケーニヒスマルク伯爵役のStewart Granger スチュワート・グレンジャー(英国人男優1913~1993年)で撮影された。
Stewart Granger in 'Koenigsliebe' | 1948 | DVD | mit Joan Greenwood
https://www.youtube.com/watch?v=00rgjAmledI
写真はSchloss Ahlden_Ortアールデン城の入口 -
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:右手が宮殿博物館入口、左が城内台所、城内礼拝堂入口
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写真はSchoss Celleツェレ宮殿:城内台所
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写真はSchoss Celleツェレ宮殿:城内台所
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イチオシ
<Schlosskapelle宮殿内礼拝堂>
ツェレ宮殿内で最も見事なSchlosskapelle宮殿内礼拝堂が見られる。
ドロドロした話を別にして、この礼拝堂は実に素晴らしい。
ただ、ガラスの壁でさえぎられて、よく見えないし、写真も今ひとつの映りだ。
まだ宗教改革(16世紀初め)の前、1485年にゴシック様式の礼拝堂はツェレ城内に建てられました。これはブラウンシュヴァイク・リューネブルク公爵の居城として城の拡張の過程で行われました。
Herzog Wilhelm der Juengereヴィルヘルム・ユンゲ公(ルターの宗教改革に大いに尽くしたエルンスト1世・告白公の息子)は1565年から1576年の間に礼拝堂の全てを再設計し、プロテスタントの礼拝堂に改装した。
写真はツェレ宮殿内で最も見事なSchlosskapelle宮殿内礼拝堂:正面・・・中央に貴族たちの席があり、聖壇に向き合っている。
尚、ガラスの壁があり中には入れない。 -
イチオシ
中央に貴族たちの席を設け、外側にAltar祭壇、Kanzel説教壇、Orgelオルガンを設置した。
78の絵画もこの時代からのもので、主な作品は礼拝堂の内部を任されたフランダースの画家Marten de Vosマルテン・デ・ヴォスと彼の工房によって作成された。
礼拝堂には50のSandsteinrelief砂岩のレリーフ(浮彫)、聖書の引用と多くの彫刻をされた120以上のTafel石板があります
写真はSchlosskapelle宮殿内礼拝堂:Kanzel説教壇、78の絵画 -
宗教改革時代の完全な芸術作品ともいえる作品群は当時のままでほとんど変わっていないと云う。
これは北ドイツにおける最高の価値のある芸術の一つであり、ルネサンス時代に作られた作品として芸術史的意義を大いに持つものとされ、ツェレ城内の礼拝堂はヨーロッパで最も重要なルター派の宮廷教会の一つとされている。
写真はSchlosskapelle宮殿内礼拝堂:Altar祭壇 -
見事な芸術作品を保護するため、礼拝堂は1995年以来、ガラスの壁の後ろからのみ見物する事になった。
写真はSchlosskapelle宮殿内礼拝堂:左側面の祭壇、78の絵画 -
今日もガラス越しにしているが、やはり遠くなり詳細を見るのにWeb検索に頼った。
写真はSchlosskapelle宮殿内礼拝堂:右側面、 -
近年では2014年に絵画などの保全・修復を行っている。
写真はSchlosskapelle宮殿内礼拝堂:船底型の天井 -
16:00に宮殿を出て、周囲を一回りしてみた。
写真はSchoss Celleツェレ宮殿:裏手から撮った宮殿 -
駐車場に戻りながら、旧市庁舎や旧市街の木組みの家並みを見る。
マー明日もこの旧市街を見る予定だから、ざっと見た感じだ。
写真はツェレ旧市街:旧市庁舎一帯も美しい。市庁舎 (ツェレ) 建造物
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市教会、ボーマン博物館前のStechbahnシュテッヒバーン(通り)の家並み
・・・かつては馬上槍試合をした場所であったとある。それだけに幅広い通りだ。
写真はツェレ旧市街:シュテッヒバーン(通り)にある木組みの家並みシュテッヒバーン 散歩・街歩き
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写真はツェレ旧市街:木組みの家
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イチオシ
今日はまずSuedwall南の壁通りに入り、Bergstrasse ベルク通り1番地のパークハウス・カールシュタットに駐車(14:34~16:38、料金はEuro4)し、直ぐPostポスト通りとRundeルンデ通りの角にあるHoppener Hausホッペナーハウス(後述)を見にいった。
<Hoppener Hausホッペナーハウス>
Postポスト通りとRundeルンデ通りの角にある。
色とりどりの華やかな木組みの家々が残るツェレの旧市街のなかでも、切妻壁をもつ威風堂々とした最も美しいといわれる家、町一番の木組みの家、Hoppener Hausホッペナー・ハウス(1532年)は深い緑色の木枠とレンガ色の色調が実に素晴らしい。その木枠部分には神話上の生き物や人物をモチーフにした色鮮やかで細やかな彫刻が施されている。
美しい木組みの家は年月と共に色合いのも変わってしまうが、何度見ても印象的だ。旧市街で最も有名であるから、今回も到着早々に見ている。
写真はツェレ旧市街:木組みの家Hoppener Hausホッペナーハウス -
上部の壁にホッペナーハウスでの告白公エルンスト1世の画像と建築年が表示されている。
写真はツェレ旧市街:木組みの家Hoppener Hausホッペナーハウス拡大 -
写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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Celler Glockenspielツェラー・グロッケンシュピール(仕掛け時計)の人形は旧市街の目抜き通り、Poststrasseポスト通り(Ecke Zoellnerstrツェルナー通りの角)の建物の壁から出現する。明日、人形たちを見る。
写真はツェレ旧市街:木組みの家並みCeller Glockenspielツェラー・グロッケンシュピール(仕掛け時計) -
写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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写真はツェレ旧市街:木組みの家は宿泊先のHotel Borchersホテル ボルシャース
ツェレ:美しい木組建築のホテル ボルシャースは観光に便利な場所にある。 by jijidarumaさんホテル ボルシャース ホテル
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並み
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並みSchuhstrasseシュー通り
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写真はツェレ旧市街:木組みの家並み・聖十字架通り
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イチオシ
最も古い木組みの家(中央)は聖十字架26番地にある。
「1526年建築のDas aelteste datierte Haus Cellesツェレの町で最も古い木組みの家」なのだそうだ。
この家はGotische Ornamente! ゴシックの装飾品!と呼ばれる。
1526年以来、何度も居住者、店舗も変わり、2013年に靴屋となっていたが、現在は借主の募集中だった。
写真はツェレ旧市街:木組みの家並み・Am Heiligen Kreuz 26 ・・・最も古い家 -
<(夕食):San. Marinoサン・マリノ>
18:20~19:35
Am heiligen Kreuz、 夕食代はチップ込みでEuro35=4,406円。
https://sanmarino-celle.de/
本日もイタリア料理。この町には確か中華料理店があったはずだが、見つからず。中国人が排斥されたのか?
結局ホテル近いこの店に入った。右の大きいレストランに入ったら、左の小さいレストランに案内された。どちらもサン・マリノだったのだ。
人気の店のようで、地元の御客は多い。
写真はツェレ旧市街:木組みの家・イタリアレストランSan. Marinoサン・マリノ -
注文したのは以下の通り:
Wahrsteiner Fassヴァールシュタイナー ファスビール(生ビール) 0.4L 2XEuro3.2=6.4 、
Tortellini Contadinaトルテッリーニ・コンタディナ田舎風(農民風)Euro8.5、
Spaghetti frutti mareシュパゲッティ・フルッティ・マーレ(魚介類のパスタ) Euro10、
Gemischtes Eisミックスアイス2XEuro3.8=7.6、
そして食後酒をサービスで頂いた。
写真はイタリアレストランSan. Marinoサン・マリノ:ヴァールシュタイナー ファスビール(生ビール) は珍しく0.4L。 -
美味かったシュパゲッティ・フルッティ・マーレ(魚介類のパスタ)、
写真はイタリアレストランSan. Marinoサン・マリノ:果物付きの魚介類のパスタ -
こちらも味良しで家内とどちらの皿も食べあったトルテッリーニ・コンタディナ田舎風(農民風)、
写真はイタリアレストランSan. Marinoサン・マリノ:トルテッリーニ -
デザーとはGemischtes Eisミックスアイスです。お子様風ですが。
写真はイタリアレストランSan. Marinoサン・マリノ:ミックスアイス -
最後に食後酒をサービスで頂いた。
お婆さんが男装風に短いパンツ姿、少々あざとい化粧で店内を動き回る。
妙に気になって見ていると、レストランの女主人らしい。
これだけの店を預かる彼女、侮れないかも・・。
最後に私共の席まで来てお愛想を言い、食後酒をサービスしたが、妙な気分が残ってしまった。
写真はイタリアレストランSan. Marinoサン・マリノ:果実酒だった食後酒 -
サン・マリノからは近いので、19:40には部屋に戻った。
部屋でTVを見て、10:10に就寝。
2泊のホテル滞在は2日目が気楽で、明日はゆっくりできそうだ。
写真はツェレ旧市街:朝食用レストランでちょっと休憩、食後酒で気分良かったのか、何故かVサインだ。
・・・・・
明日もツェレ市内観光で市教会、Bomann-Museumボーマン博物館、木組みの家並みを見る。
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この旅行記へのコメント (4)
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- M-koku1さん 2020/04/20 07:54:36
- ツェレの宮殿内礼拝堂
- jijidarumaさん
はじめての書き込みかと思います。
ツェレの名前に惹かれて 訪問させていただきました。
そんなどろどろした歴史を持っているお城とも知らず 単に きれいだから見てくるようにと 薦めてくれたご近所のチェコ出身の 老婦人の言葉に従い 見に行きました。1980年代のことで 内部見学は ドイツ語ツアーに加わるしか方法がなく ドイツ語を知らない私も夫もしぶしぶついていきました。でも英語に似ている部分もあるのでしょうか ところどころ ふいに意味のわかるところがあり 不思議な経験でした。
宮殿内礼拝堂も 確か劇場も 全て中には入れました。1995年からはガラスができてしまっているんですか? それは残念ですね。cozyでとても温かい雰囲気だったことだけ覚えています。
感染症でなんだか不自由な時代が やってきそうですが 思い出だけは消えないと思います。とても美しい街ツェレ いつの日か また行ってみたいです。
では感染症にお気をつけて
M より
- jijidarumaさん からの返信 2020/04/20 18:08:19
- Re: ツェレの宮殿内礼拝堂
- M-koku1さん、
今晩は。そして初めまして。
早々のフォローありがとうございます。後でフォローさせて頂きます。
ツェレは木組みの家並みがドイツ一という評判もあり、観光客はどちらかというと街巡りが主ですね。私も何度か訪れていますが、街巡りが主で、宮殿はこれで二度目です。もう昔の事ゆえ、中の記憶は全くなくて、私も歳を取ったという事でしょう(苦笑)。
礼拝堂の素晴らしさはガラス越しながら味わえましたが、満足できずにネット検索で画像の蒐集をして、保存もしておきました。素晴らしい色合いで、まじかに見られたM-koku1さんは良かったですね。
劇場は別途見学だったのかもしれませんが、少々悔いが残ります。折角2泊した町でしたから。是非またお出かけください。
私、ドイツ大好き人間です。とりわけ城巡り・古城ホテル滞在・伝説好きなので、掲載のものはそれが主です(入会当初は伝説!からスタートしました)
ですから、こうした歴史のある町ではどうしても「ドロドロした話」に魅力を感じてしまいますし、結構時間をかけて旅行記も書いています。
武漢ウイルスには困りました。5月の旅、シュパーゲル(白アスパラ)料理を楽しみにしていたのに、残念ですよ。当分無理だろうなと思い、あと何回、ドイツの旅に行けるか?急に心配になっています。
活動的なM-koku1さんには武漢ウイルスの方が避けて行きそうですが、それでもご注意の上、ご健康にお過ごしください。
それでは、宜しくお願いします。
jijidaruma
- M-koku1さん からの返信 2020/04/21 00:12:44
- Re: ツェレの宮殿内礼拝堂
- フォローありがとうございました。
ざっとタイトルを見ただけでも jijidarumaさんの旅行記は とても面白く まるで読み物ですね!
順々に 拝読させていただきたいと 思ってます。
ロンドンに住んでいた頃から ドイツ訪問が大好きでした。 その後仕事などで ドイツに行くチャンスが何回かあって ますます好きになっていましたが 昨今は出張先がアメリカばかりです。 それもこのコロナで ダメになり 多分このまま引退かと思います。
4月になってから 週いちでスーパーに行く以外 全く外に出ていません。BSの昔の映画と 4トラの旅行記だけが楽しみです。まだテレワークが少し残っているので 忙しいのですが それが終わったら たまりに溜まった旅行記をアップしていくつもりです。
今後じっくり訪問させていただきたいので どうぞよろしくお願いいたします。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/04/21 01:43:18
- Re: ツェレの宮殿内礼拝堂
- M-koku1さん、
今晩は。再度のコメント、恐縮です。
ロンドンにお住まい、最近はアメリカご出張、なにやら旅行記を拝見するのが楽しみです。沢山の旅行記や口コミを書かれておられるので、私の方もゆっくり拝見させて頂こうと思います。
ヨーロッパ編を題名をざっくり見ていましたら、ナミュールの古城ホテルがありました。シャトー・ド・ナミュール城です。私共は2013年の秋に宿泊しました。
2階、バラの公園を見下ろす眺望の良い部屋だったのですが、M-koku1さんの写真を拝見すると、何やら全然違って、ホテルの中身もレストランのお食事もとても優雅です(笑)。
こんな遅くでスミマセン。宵っ張りです。
jijidaruma
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