2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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2019年9月27日(金) 240km、晴れ、13℃
起床6:30、朝食は7:30~8:00、Celleツェレ・ホテル ボルシャースを8:30チェックアウト=>B3・A37・A7・B243・ B64 113 km Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム10:40~11:35 =>K? 3km Kloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院11:45~13:00
*今日の走行は100kmを超す道だから、アウトバーンA37・A7を利用し、ハノーファー、ヒルデスハイムの横を順調に南下する。Seesenゼーゼン(ハルツ)のインターで降りて、B243・64でBad Gandersheimバート・ガンデルスハイムに向かった。
写真はBad Gandersheim:Heinkel-Werkeハインケル工場・・強制収容所(外部収容所)
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
<Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム>
10:40~11:35
https://www.bad-gandersheim.de/
木組みの家街道にあるバート・ガンデルスハイムはニーダーザクセン州ノルトハイム郡に属す10千人の町である。町の約 10 km 東からハルツ山地が始まる。
ハルツ山地は古くから神秘的な山として知られ、特に中世では魔女の住む山と云われてきた。そこから近いのだ。
この町は中世のドイツ初の女流詩人Roswitha von Gandersheimロスヴィータ・フォン・ガンデルスハイム(935年頃~973年以後)に因んで、Roswithastadtロスヴィータシュタットとも称される。
写真はWappen_Bad_Gandersheimバート・ガンデルスハイムの紋章
下部の百合はStiftkircheガンデルスハイム修道院教会のシンボルをあらわす。
兜とその上の飾りは14世紀初めにこの町を支配したBraunschweig-Lueneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公爵のものである。 -
Historisches Rathaus歴史的な庁舎、マルクト広場には歴史的な木組みの家並み、Stiftkircheガンデルスハイム修道院教会などが観光名所だが、この町の3km近郊に、Kloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院がある。
写真はバート・ガンデルスハイム:Stiftkircheガンデルスハイム修道院教会 -
<Kloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院>
D-37581 Bad Gandersheim 、Brunshausen7、
https://www.klosterhof-brunshausen.de/
かつてのブルンズハウゼン修道院はバート・ガンデルスハイムの町の地区、ブランスハウゼンに、Liudolfingerリウドルフィング家の家祖ザクセン公Liudolfリウドルフによって、ベネディクト会修道院として852年に創設された。
(リウドルフィング家は中世ドイツにおいて国王や皇帝を務めたザクセン出身の諸侯の家系である。「オットー家」あるいは国王を世襲した家系として「ザクセン朝」と呼ばれる)
リウドルフィング家の治下で10世紀に隆盛を迎えた。この頃、中世のドイツ初の女流詩人Roswitha von Gandersheimロスヴィータ・フォン・ガンデルスハイム(935年頃~973年以後)もガンデルスハイムに住んでいた。彼女に因み、今日Roswithastadtロスヴィータシュタットと称するという事は先に書いた。
その町から3kmの距離にこの修道院はある。
写真はBad Gandersheimバート・ガンデルスハイム:Kloster Brunshausen_(Merian)ブルンズハウゼン修道院のメリアン図 -
Nonnenkloster女子修道院、Moenchskloster修道院あるいはevangelischer Konventプロテスタント修道院として、時代時代の波乱に満ちた歴史を紡いできた後、ブランシュハウゼン修道院にはドイツの負の歴史といえる*Konzentrationslager Bad Gandersheimバート・ガンデルスハイム強制収容所が置かれた。
正確にはKZ Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所のAussenlager外部収容所と呼ぶ。
写真はBad Gandelsheimバート・ガンデルスハイム:Kloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院の入口(現在) -
バート・ガンデルスハイム強制収容所(1944年10月~1945年4月)として、*KZ Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所のAussenlager外部収容所となったのです。
*Konzentrationslager Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所は1944年にテューリンゲン地方Ettersbergエッテルベルクの森ぎわの麓に設置した「ブナの木」の名を持つ強制収容所でした。
ヴァイマル市のやや北西7kmほどの位置にあった。
写真はBad Gandersheimバート・ガンデルスハイム:右下、バート・ガンデルスハイム強制収容所(外部収容所)・・・工場と修道院の間に4つの小屋)、左上がブルンズハウゼン修道院の建物、手前はHeinkel-Werkeハインケルの工場(1951年の写真) -
(外部収容所の一覧を見ると、≪“大脱走”は度々起こった;コルディッツ城戦争捕虜収容所からの脱走≫・・・ザクセンのMuldeムルデ川沿いの古城Schloss Colditzコルディッツ城について書いたことがあるが、そこも外部収容所の一つだ)
バート・ガンデルスハイム強制収容所の収容者は非人道的環境下での生活を余儀なくされ、彼らはHeinkel Flugzeugwerkeハインケル航空機製造会社(同社はドイツのジェット機やロケット機の開発のパイオニアだった)の工場や、近郊の採石場で強制労働に就かされた。
写真はバート・ガンデルスハイム強制収容所:かつてのHeinkel-Werkeハインケルの工場跡は、今はAuerアウアー という会社がある。 -
この収容所で、強制労働者数が最も多かったのは1944年11月で、その人数は584人だった。平均すると、14カ国から520人から550人の人達が工場で働き、夜間戦闘機He 219の航空機体を生産したと云う。
写真はBad Gandersheimバート・ガンデルスハイム:KZ-Baracke-Brunshausenブルンズハウゼンのバラック(仮小屋) -
写真はBad Gandersheimバート・ガンデルスハイム:ブルンズハウゼン収容所の囚人の埋葬(いつの時のものか、詳細は不明)・・・次項に絡んだ時のものだろうか。
-
<Evakuierung und Erschliessung der Kranken撤退と病者の射殺>
米軍を主力とする連合軍の予想以上の攻勢と進出に、1945年4月2日、強制収容所を解散するよう各収容所長に命令が出た。
3週間にわたるバート・ガンデルスハイムからの撤退行進で、収容者たちはKonzentrationslager Dachauダッハウ強制収容所(ミュンヘン北西15kmにあった)に連れて行かれた。
米軍によるダッハウ収容所解放(1945年4月29日)の2日前、収容者たちはダッハウに到着した。正確な数字は不明だが、バート・ガンデルスハイム強制収容所の200人以上の受刑者がダッハウでの解放を経験していることは殆どないと云う。
ドイツ降伏(1945年5月8日)後の米軍の報告書(1945年11月26日付)によると、180人の生存者のみが記録されているそうだ。
バート・ガンデルスハイム収容所の閉鎖・撤退の前に、他の収容所に輸送不能な収容者を処分する必要から、40人の収容者はすでに近くの森で射殺された。
写真はKloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院内にあったバート・ガンデルスハイム強制収容所の説明 -
ブルンズハウゼン修道院の掲示<撤退と病者の射殺>を見ると、
「動けないよ、走るから(残していかないで)、仲間に泣きわめく・・・がKaposカポス(強制収容所の略)の連中は連行していった」・・と言葉を読む。
「4月4日、近くにある後方の収容所に纏める為、(撤退時の)凡そ460名の収容者を監守付きで退却する事になった。逃げられない収容者の40名は、近くのCluswaldクルスの森に追い立て、行進させ、殺し、そして埋めた。
戦争が終わると、ガンデルスハイムの女性たちは素手で虐殺された人たちを掘り起こした」とあった。
・・・・・
写真はKloster Brunshausenブルンズハウゼン修道院内にあったバート・ガンデルスハイム強制収容所の説明 -
≪Die KZ(Konzentrationslager)-Systeme im Deutschen Reich und in den besetzten Gebietenドイツ帝国と占領地域の強制収容所システム≫
24の強制収容所のStammlager中核となる強制収容所があり、その中には1,000以上のAussenlager外部収容所があり、
そのいくつかは「Aussenkommando外部司令部、‐lager収容所、Nebenlager副収容所」という名前で、組織的に従属していた。
写真は強制収容所のマップ(WW2_Holocaust_Europe_map-de) -
各国に置かれたナチスドイツの強制収容所一覧から、代表的な3つをここに掲載した。一覧表にある数値を以下に記した。
・ブーヘンヴァルト強制収容所:*労働収容所(1937年7月~1945年4月)
収容者数250,000人 内死者56,000人。136の外部収容所が指揮下にあった。
・アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所:収容者数400,000人 内死者少なくみても1,100,000人~。47の外部収容所が指揮下にあった。
・ダッハウ強制収容所:*労働収容所(1933年3月~1945年4月)
収容者数200,000人 内死者41,500人。169の外部収容所が指揮下にあった。
写真はKz-Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所の門と監視塔(再現されたものが記念碑となっている) -
尚、Vernichtungslager絶滅収容所あるいはTodeslager死の収容所というむごい目的の強制収容所(代表的なアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所等6ヶ所)の類と、一覧で区別されていた*労働収容所は様々な「国家の敵」(ナチスが好ましくないとレッテルを貼った者)を投獄して強制労働を行わせる場所であったが、死者数の多さに驚く。
写真はKz-Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所の俯瞰 -
強制労働者の一人にRobert Antelmeロベール・アンテルム(1917年~1990年)がいた。彼はフランスの詩人、作家、そしてレジスタンスの活動家である。第二次世界大戦中にブーヘンヴァルト強制収容所などに収容された体験から強制収容所での出来事を綴った『人類』(1947年)をはじめとする著作を残した。
写真はKz-Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所1945年の様子図 -
<ブルンズハウゼン修道院の今>
現在、修道院教会と修道院の建物の一部にブルンズハウゼンの歴史とガンデルスハイム修道院の博物館が出来ている。
(開館:3月から10月は火~日の11時~17時)
ブルンズハウゼン修道院は1987年からバート・ガンデルスハイムの町有となり、1989年に「文化の中心地」に改装され、2007年5月以来、博物館は修道院の歴史において強い影響を与えた女性の伝記をベースに展示されている。
丘の下の駐車場から細道を上がると、Klosterhof僧院広場にでた。目の前に教会があり、左手に行って、建物の2階から見学する。
此処には強制収容所であったと云う事を伝えるものは、わずかに先の2枚の写真だけだ。あまり表に出したくない事なのだろうが、宗教に携わる人としては、一寸でも歴史の事実を書いておきたかったのだろう。
こうした地方の町に木組みの家並みを見にやって来て、ドイツの負の歴史を知る事になるとは思いもしなかった。
写真はKz-Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所:当時の模型
・・・・・・・・・・・・・・・
(2019年12月8日意訳・編集・加筆)
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この旅行記へのコメント (4)
-
- なぽさん 2020/02/01 12:30:12
- アウシュヴィッツだけでは終わらないのですね・・・
- jijidarumaさん、
こんにちは。
早速読ませていただきました。
収容所の地図を見るとアウシュヴィッツが
真ん中に位置していますね、
そして強制収容所や外部収容所が、
第2、第3、第4・・のアウシュヴィッツが、
こんなにたくさんあったのですね・・・
このバート・ガンデルスハイム強制収容所は
修道院に置かれたとのこと、
本来なら神を信じる人々が祈り慎ましやかに暮らす場に・・・
ブーヘンヴァルト強制収容所についても
検索して読んでみました。
また言葉を失いました・・・
まだまだ勉強しないといけないです。
どうもありがとうございました。
そしてまた宜しくお願い致します。
なぽ
- jijidarumaさん からの返信 2020/02/01 14:59:34
- Re: アウシュヴィッツだけでは終わらないのですね・・・
- なぽさん、
今日は。フォローありがとうございました。
また、さっそく本章にコメントの書き込みまでして頂き
ありがとうございました。今後とも宜しくお願いします。
ナチス政権下におけるドイツの強制収容所の地図を見ると、ナチスの
ポーランドを狙い撃ちしたような徹底した政策が見えますね。
ドイツ本国は別格で、強制収容所の数が次に多いのはポーランドです。
特に地図上に赤い髑髏印で表現されているVernichtungslager絶滅収容所
あるいはTodeslager死の収容所というむごい目的の強制収容所
(代表的なアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所)は全8ヶ所あり、
ベラルーシに1ヶ所、クロアチアに1ヶ所という以外は全てポーランド
に6ヶ所もあるのが特筆されます。
それ以外にもゲットー(Ghetto)のある町の表示もポーランドが殆どです。
ゲットーはユダヤ人の隔離居住区とされていましたが、さらにここから
強制収容所や絶滅収容所へ移送されるケースが非常に多ったようです。
多分、ユダヤ人の多いポーランドは対ソ連作戦上、ドイツにとっても蜂起
(反乱)のリスクもあり、この国のユダヤ人絶滅作戦の執行のために
ラインハルト作戦(独:Aktion Reinhardt)が1942年3月に起案され、
三大絶滅収容所つまりBelzecベウジェツ・Sobiborソビボル・Treblinka
トレブリンカの建設が行われた。その結果、Chełmnoヘウムノでは最低
でも15万人だったが、三大絶滅収容所のベウジェツでは55万人、
ソビボルでは25万人、トレブリンカでは最低73万人が虐殺されたと
されている(資料で差があるのは不明者が多い所為)。
ポーランドのユダヤ人社会がほぼ壊滅すると、三大絶滅収容所は1943年代
(11月)に早々に閉鎖され、植林などで証拠隠滅作業が行われたそうです。
絶滅作戦に従事した者たちも『罪の意識はあった』ように思われます。
ちょっと長くなりましたが、ドイツの強制収容所の地図をあらためて見ると、
その凄さ(ドイツ的徹底さ)を感じてしまいます。
jijidaruma
-
- frau.himmelさん 2019/12/16 14:43:05
- 昨年ブーヘンヴァルトを訪れました
- jijidarumaさん、こんにちは。
いよいよ押し迫ってまいりましたね。
バート・ガンデルスハイム強制収容所の母体であるブーヘンヴァルト強制収容所には昨年行ってまいりました。いずこも悲惨な状況だったのですね。
終戦直前にバート・ガンゲルスハイムから多くの人がダッハウへ強制移動させられた・・。「死の行進」ですね。
身体が弱った収容者は連行の邪魔になるので森の中で射殺させられた。むごいですね。
それにしても主なる強制収容所の他に1000以上もの外部収容所があったとは驚きました。
私のブーヘンヴァルト旅行記は何時になるかわかりませんが、その際にはjijidarumaさんの旅行記参考にさせていただきたいと思います。
お互いに風邪などひかないで静かに齢をとりましょう。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2019/12/16 16:58:40
- Re: 昨年ブーヘンヴァルトを訪れました
- himmelさん、
今日は。いつもありがとうございます。
寒くなりましたが、御元気の様子何よりです。
さて、ブーヘンヴァルトにはもう行かれていましたか!
私は強制収容所を目的地に選ぶことはないので、私の旅行記では
初めての掲載でしょう。偶々、外部収容所なるものがたくさんあった
ことを知りましたが、思っても見ませんでしたね。
たしかに外部収容所が無ければ、このシステムはうまく機能(変な
言い方ですが)しなかったでしょう。
ドイツの負の歴史は表にしにくいものですが、ここではすこし
救われた気もします。「ガンデルスハイムの女性たちは素手で
虐殺された人たちを掘り起こした」の文章に。
ドイツの初秋の旅も目下14日目の半ばまで、ゲルンハウゼンの
Kaiserpfalzカイザープファルツ(神聖ローマ皇帝の宮殿)・・・
himmelさんも確か訪れていた・・・の項が終わりました。
あと少し、何とか今年中に私の旅行記は出来上がりそうです。
これが終わらないと、年末年始も落ち着きません(苦笑)。
それではまた。お元気に年末年始をお過ごしください。
jijidaruma
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