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2020年の6月も終わろうとしているのに、武漢ウイルスというまがまがしい禍に日本列島全体が、意気消沈してしまった。<br /><br />舞台は変わりますが、第二次大戦後の混乱した時期にドイツ・ヴリーツェンで肥沼博士は医療活動を続け、遂には自身もチフスに罹患し斃れた。<br /><br />2017年(平成29年)、八王子市の市民により建てられた肥沼博士の顕彰碑、そして東京都八王子市は2017年(平成29年)7月10日、ヴリーツェン市と友好交流協定を締結した。その調印式の写真・・・それらの2枚を追加した。<br />こうした出来事はそれはそれとして、郷土の偉人が敬意を持たれ始めたのは素晴らしいことだ。<br /><br />さて、武漢ウイルスという、かつてのスペイン風邪やペスト禍にも匹敵するような時代に居合わせてしまった私共ですが、改めてチフスの病と闘い、ドイツ人の尊敬を得た「肥沼信次博士の生き方」を御紹介したい。<br /><br />XXXXX<br /><br />≪献身:ドイツ人に愛された肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)医学博士≫<br /><br />ドイツ大好きの私でも全く知らない町がある。そして、この偉大な日本人の事も。<br />その町、Wriezenヴリーツェンはベルリンから北東へ約70km、空港から60km、ベルリン中央駅から凡そ1時間半、古オーデル川沿いOderbruchオーデル湿地の西の端にあります。<br /><br />オーデル川とシュチェチン(ポーランド北西部にあり、ドイツとの国境沿いに位置する:ドイツ語はStettin、ポーランド語はSzczecin)への道に位置し、中世の12 世紀のころ、この地に商人たちの居住地(現在のWriezen ヴリーツェン)が創られた。<br /><br />Wriezen ヴリーツェンは 1247 年に“oppidum wrecene”として初めて言及され、wreceneは“流れ”を意味する。<br />スラブ語“reka”も川を意味すると言う。つまりWriezenヴリーツェンの町は大河オーデル川に面した地に形成されたのである。<br /><br />写真は肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ:医学博士)

ベルリンの壁の崩壊とともに蘇った日本人医師の献身

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2017/02/05 - 2017/02/08

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旅行記グループ ドイツ:番外編様々

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jijidaruma

jijidarumaさん

2020年の6月も終わろうとしているのに、武漢ウイルスというまがまがしい禍に日本列島全体が、意気消沈してしまった。

舞台は変わりますが、第二次大戦後の混乱した時期にドイツ・ヴリーツェンで肥沼博士は医療活動を続け、遂には自身もチフスに罹患し斃れた。

2017年(平成29年)、八王子市の市民により建てられた肥沼博士の顕彰碑、そして東京都八王子市は2017年(平成29年)7月10日、ヴリーツェン市と友好交流協定を締結した。その調印式の写真・・・それらの2枚を追加した。
こうした出来事はそれはそれとして、郷土の偉人が敬意を持たれ始めたのは素晴らしいことだ。

さて、武漢ウイルスという、かつてのスペイン風邪やペスト禍にも匹敵するような時代に居合わせてしまった私共ですが、改めてチフスの病と闘い、ドイツ人の尊敬を得た「肥沼信次博士の生き方」を御紹介したい。

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≪献身:ドイツ人に愛された肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)医学博士≫

ドイツ大好きの私でも全く知らない町がある。そして、この偉大な日本人の事も。
その町、Wriezenヴリーツェンはベルリンから北東へ約70km、空港から60km、ベルリン中央駅から凡そ1時間半、古オーデル川沿いOderbruchオーデル湿地の西の端にあります。

オーデル川とシュチェチン(ポーランド北西部にあり、ドイツとの国境沿いに位置する:ドイツ語はStettin、ポーランド語はSzczecin)への道に位置し、中世の12 世紀のころ、この地に商人たちの居住地(現在のWriezen ヴリーツェン)が創られた。

Wriezen ヴリーツェンは 1247 年に“oppidum wrecene”として初めて言及され、wreceneは“流れ”を意味する。
スラブ語“reka”も川を意味すると言う。つまりWriezenヴリーツェンの町は大河オーデル川に面した地に形成されたのである。

写真は肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ:医学博士)

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  • 写真は肥沼博士の顕彰碑・・・西放射線中町公園(八王子市中町9)<br /><br />平成29年(2017年)には、肥沼博士の功績を後世に伝えるため、市民団体が中心となり、肥沼博士の実家跡の近くである西放射線中町公園(八王子市中町9)内に顕彰碑が設置され、市に寄贈されました。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・<br />

    写真は肥沼博士の顕彰碑・・・西放射線中町公園(八王子市中町9)

    平成29年(2017年)には、肥沼博士の功績を後世に伝えるため、市民団体が中心となり、肥沼博士の実家跡の近くである西放射線中町公園(八王子市中町9)内に顕彰碑が設置され、市に寄贈されました。

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  • 写真は東京都八王子市が2017年(平成29年)7月10日、ヴリーツェン市と友好交流協定を締結した調印式<br /><br />平成29年7月9日から11日にかけて、石森孝志市長ならびに伊藤裕司議長をはじめとする公式訪問団7名と、「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」の塚本回子代表をはじめとする市民訪問団7名がヴリーツェン市を訪問しました。<br /><br />東京都八王子市は2017年(平成29年)7月10日、ヴリーツェン市と友好交流協定を締結のため公式訪問団及び市民訪問団が現地を訪問。<br />7月10日、ヴリーツェン市庁舎にて、肥沼博士と共に患者の治療にあたっていたフィートラー氏をはじめとする多くのヴリーツェン市民に見守られながら調印式が行われました。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・<br />

    写真は東京都八王子市が2017年(平成29年)7月10日、ヴリーツェン市と友好交流協定を締結した調印式

    平成29年7月9日から11日にかけて、石森孝志市長ならびに伊藤裕司議長をはじめとする公式訪問団7名と、「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」の塚本回子代表をはじめとする市民訪問団7名がヴリーツェン市を訪問しました。

    東京都八王子市は2017年(平成29年)7月10日、ヴリーツェン市と友好交流協定を締結のため公式訪問団及び市民訪問団が現地を訪問。
    7月10日、ヴリーツェン市庁舎にて、肥沼博士と共に患者の治療にあたっていたフィートラー氏をはじめとする多くのヴリーツェン市民に見守られながら調印式が行われました。

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  • ドイツの小さな田舎町 Wriezenヴリーツェン(2015年末の人口7355人)が、Ehrenbuerger der Stadt Wriezenヴリーツェン市の名誉市民として選んだ二人のうちの一人が日本人 肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ:医学博士)と言います。<br /><br />平成14年(2002年)の高校の同窓会誌で、あるいは前年の創立100周年記念誌にも先輩方が書かれた紹介の記事が出ていたから、その名を知っていた。<br /><br />第二次大戦後の混乱した時期にヴリーツェンで肥沼博士は医療活動を続け、遂には自身もチフスに罹患し斃れた。<br /><br />写真はOderbruchオーデル湿地:中央左にWriezen ヴリーツェン

    ドイツの小さな田舎町 Wriezenヴリーツェン(2015年末の人口7355人)が、Ehrenbuerger der Stadt Wriezenヴリーツェン市の名誉市民として選んだ二人のうちの一人が日本人 肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ:医学博士)と言います。

    平成14年(2002年)の高校の同窓会誌で、あるいは前年の創立100周年記念誌にも先輩方が書かれた紹介の記事が出ていたから、その名を知っていた。

    第二次大戦後の混乱した時期にヴリーツェンで肥沼博士は医療活動を続け、遂には自身もチフスに罹患し斃れた。

    写真はOderbruchオーデル湿地:中央左にWriezen ヴリーツェン

  • 長い間、肥沼博士は消息が不明であった。<br /><br />旧制府立二中(現都立立川高校)の同窓会は「紫芳会」と称するが、その古い会員名簿の昭和40年(1965年)版には、肥沼 信次氏の名は不明者の欄に入っている。肥沼 信次氏は旧制府立二中第22回の卒業です。<br /><br />因みに名簿によれば、大正14年(1925年)3月、第22回の卒業生は総数74名とあり、内21名が死亡、8名が不明者になっている。それ以外の名簿上に残る45名の職業欄を見てみると、その内の6名が肥沼博士と同じ医者である。<br /><br />写真はWriezen ヴリーツェンの紋章

    長い間、肥沼博士は消息が不明であった。

    旧制府立二中(現都立立川高校)の同窓会は「紫芳会」と称するが、その古い会員名簿の昭和40年(1965年)版には、肥沼 信次氏の名は不明者の欄に入っている。肥沼 信次氏は旧制府立二中第22回の卒業です。

    因みに名簿によれば、大正14年(1925年)3月、第22回の卒業生は総数74名とあり、内21名が死亡、8名が不明者になっている。それ以外の名簿上に残る45名の職業欄を見てみると、その内の6名が肥沼博士と同じ医者である。

    写真はWriezen ヴリーツェンの紋章

  • また、私が生まれた昭和18年(1943年)3月の第39回卒業生には先ごろ亡くなられた作家の三浦朱門氏がおられた。三浦氏は東大文学部卒だが、当時卒業生249名中、戦時中にしては陸士海兵が珍しく3人と少ない。<br /><br />亡くなった方の中に入っているのか、戦地から帰還後、大学に入り直した所為なのかもしれない。その分、東大に進んだ者が三十名を越している。<br />この期の卒業生249名は肥沼 信次氏の頃の3.4倍になった。内19名が死亡、14名が不明者になっている。残る216名中の18名が医者になっていた。<br /><br />尚、後にヴリーツェンと親交が出来た弟の肥沼 栄治氏は旧制府立二中第25回(昭和4年3月)の卒業生である。<br /><br />写真はドイツ・ポーランド国境地域の図:中央左上にOstseeバルト海に面したSzczecinシュチェチン

    また、私が生まれた昭和18年(1943年)3月の第39回卒業生には先ごろ亡くなられた作家の三浦朱門氏がおられた。三浦氏は東大文学部卒だが、当時卒業生249名中、戦時中にしては陸士海兵が珍しく3人と少ない。

    亡くなった方の中に入っているのか、戦地から帰還後、大学に入り直した所為なのかもしれない。その分、東大に進んだ者が三十名を越している。
    この期の卒業生249名は肥沼 信次氏の頃の3.4倍になった。内19名が死亡、14名が不明者になっている。残る216名中の18名が医者になっていた。

    尚、後にヴリーツェンと親交が出来た弟の肥沼 栄治氏は旧制府立二中第25回(昭和4年3月)の卒業生である。

    写真はドイツ・ポーランド国境地域の図:中央左上にOstseeバルト海に面したSzczecinシュチェチン

  • さて、最近、生誕地の八王子市が、平成29年に市制100周年を迎えるにあたり、肥沼信次医学博士ゆかりのヴリーツェンと海外友好交流協定(友好都市)の締結に向けて、準備中だと言う。<br /><br />大変結構なことに、既に平成28年11月4日、市の関係者の現地訪問も行われ、<br />平成29年7月頃、協定締結のため、ヴリーツェンを訪問、<br />平成29年10月に市制100 周年記念式典へヴリーツェン市長を招聘の予定だ。<br /><br />これには長年肥沼博士を調べてきたという川西重忠(カワニシシゲタダ:早大 法卒、桜美林大学の教授、 北東アジア総合研究所長)教授が協力されている様子だ。<br /><br />川西教授は毎年、肥沼博士の命日(3月8日)に行われる慰霊祭(Kranzniederlegung花輪献花式)に出席されてきたと云う。<br /><br />そろそろ、その命日も近い。<br /><br />・・・・・・・・・・<br /><br />写真はWriezen ヴリーツェンの図

    さて、最近、生誕地の八王子市が、平成29年に市制100周年を迎えるにあたり、肥沼信次医学博士ゆかりのヴリーツェンと海外友好交流協定(友好都市)の締結に向けて、準備中だと言う。

    大変結構なことに、既に平成28年11月4日、市の関係者の現地訪問も行われ、
    平成29年7月頃、協定締結のため、ヴリーツェンを訪問、
    平成29年10月に市制100 周年記念式典へヴリーツェン市長を招聘の予定だ。

    これには長年肥沼博士を調べてきたという川西重忠(カワニシシゲタダ:早大 法卒、桜美林大学の教授、 北東アジア総合研究所長)教授が協力されている様子だ。

    川西教授は毎年、肥沼博士の命日(3月8日)に行われる慰霊祭(Kranzniederlegung花輪献花式)に出席されてきたと云う。

    そろそろ、その命日も近い。

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    写真はWriezen ヴリーツェンの図

  • 肥沼博士の簡単な履歴は以下の通りである。<br /><br />肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、明治41年(1908年)10月9日~昭和21年(1946年)3月8日)は日本の医学者。第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力した。<br /><br />明治41年(1908年)、東京の八王子に外科医・肥沼梅三郎の次男として生まれる。東京府立二中(現都立立川高校)を卒業後、医学を志し、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進む。<br /><br />昭和12年(1937年)、ドイツに渡り、ベルリン・フンボルト大学医学部放射線研究室で学ぶ。<br />実験と研究に打ち込み、ベルリン・フンボルト大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得。<br /><br />写真は肥沼 信次博士の学生時代

    肥沼博士の簡単な履歴は以下の通りである。

    肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、明治41年(1908年)10月9日~昭和21年(1946年)3月8日)は日本の医学者。第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力した。

    明治41年(1908年)、東京の八王子に外科医・肥沼梅三郎の次男として生まれる。東京府立二中(現都立立川高校)を卒業後、医学を志し、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進む。

    昭和12年(1937年)、ドイツに渡り、ベルリン・フンボルト大学医学部放射線研究室で学ぶ。
    実験と研究に打ち込み、ベルリン・フンボルト大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得。

    写真は肥沼 信次博士の学生時代

  • (フンボルト大学には日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森鴎外・北里柴三郎・高橋順太郎・寺田寅彦・肥沼信次・宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。Wiki)<br /><br />第二次世界大戦後、ドイツを占領したソ連軍が創設したドイツのStadt Wriezenヴリーツェン(2015年末の人口7355人)の伝染病医療センター初代所長となり、チフス・コレラなどの疾病対策に力を尽くす。<br /><br />だが自身もチフスに罹患し、昭和21年(1946年)3月8日、37歳で死去。<br />死の直前、看護婦に「桜が見たい」と言い残した。<br /><br />後にヴリーツェンには日本から桜の木が贈られた。<br /><br />平成4年(1992年)、ヴリーツェン市は肥沼博士に名誉市民の称号を与えた。<br /><br />・・・・・・・・・・<br /><br />写真は肥沼博士

    (フンボルト大学には日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森鴎外・北里柴三郎・高橋順太郎・寺田寅彦・肥沼信次・宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。Wiki)

    第二次世界大戦後、ドイツを占領したソ連軍が創設したドイツのStadt Wriezenヴリーツェン(2015年末の人口7355人)の伝染病医療センター初代所長となり、チフス・コレラなどの疾病対策に力を尽くす。

    だが自身もチフスに罹患し、昭和21年(1946年)3月8日、37歳で死去。
    死の直前、看護婦に「桜が見たい」と言い残した。

    後にヴリーツェンには日本から桜の木が贈られた。

    平成4年(1992年)、ヴリーツェン市は肥沼博士に名誉市民の称号を与えた。

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    写真は肥沼博士

  • 八王子市のHPには以下のようなことが載っている。<br /><br />1)ヴリーツェンの聖ヨハニッターギムナジウムと私立八王子高校とは平成21年に姉妹校提携しています。<br />東日本大震災の際には、同校が集めた義援金6,900ユーロ(約76万円)が八王子高校を通して被災地である岩手県釜石市や陸前高田市、大船渡市に送られました。<br /><br />2)肥沼博士の墓所は町の中心にある墓地の一番奥の小高い丘にあり、博士の命日である3月8日には毎年、町民の皆さんによって慰霊祭が行われています。<br /><br />3)現庁舎は第二次世界大戦後に伝染病医療センターとして利用されていた施設で、肥沼博士もここで患者の治療に尽力していました。<br /><br />4)庁舎の入口には、博士の功績を讃える銘板が掲げられています。その銘板に記されている内容は、以下のとおりです。<br />「終戦より翌1946年にかけて、この建物において日本人医師・研究者である肥沼信次博士が、チフス患者のための病院を開いた。博士は、ヴリーツェン市の職員をはじめとする多くの支援者とともに、あまたの住民や戦争難民の命を救った。その最中、みずからもこの疫病に罹患し、命を落とした。この建物正面にある記念碑は、肥沼博士の祖国から寄せられた多くのご喜捨にもとづき、同郷人の横尾龍彦氏が2000年に制作したものである。」<br /><br />5)庁舎前の公園には、平成12年(2000年)に、寄付金によって肥沼博士の記念碑及び顕彰碑が設置されました。<br /><br />6)庁舎内には、「コエヌマルーム」が設置され、博士の顔像や八王子市市民有志によって贈られた千羽鶴が飾られています。その他にも、博士の功績を紹介するパネル、実際に博士が使用していた医療器具が展示されています。<br /><br />7)ビーチバレーボール場として整備された公園は、肥沼博士の偉業を讃えて「コエヌマ・ビーチボール・マスターズ」という大会が、毎年7月に開催されています。<br /><br />XXXXX<br /><br />写真は肥沼博士の墓:没後70周年となった平成28年3月8日の命日には墓がきれいに

    八王子市のHPには以下のようなことが載っている。

    1)ヴリーツェンの聖ヨハニッターギムナジウムと私立八王子高校とは平成21年に姉妹校提携しています。
    東日本大震災の際には、同校が集めた義援金6,900ユーロ(約76万円)が八王子高校を通して被災地である岩手県釜石市や陸前高田市、大船渡市に送られました。

    2)肥沼博士の墓所は町の中心にある墓地の一番奥の小高い丘にあり、博士の命日である3月8日には毎年、町民の皆さんによって慰霊祭が行われています。

    3)現庁舎は第二次世界大戦後に伝染病医療センターとして利用されていた施設で、肥沼博士もここで患者の治療に尽力していました。

    4)庁舎の入口には、博士の功績を讃える銘板が掲げられています。その銘板に記されている内容は、以下のとおりです。
    「終戦より翌1946年にかけて、この建物において日本人医師・研究者である肥沼信次博士が、チフス患者のための病院を開いた。博士は、ヴリーツェン市の職員をはじめとする多くの支援者とともに、あまたの住民や戦争難民の命を救った。その最中、みずからもこの疫病に罹患し、命を落とした。この建物正面にある記念碑は、肥沼博士の祖国から寄せられた多くのご喜捨にもとづき、同郷人の横尾龍彦氏が2000年に制作したものである。」

    5)庁舎前の公園には、平成12年(2000年)に、寄付金によって肥沼博士の記念碑及び顕彰碑が設置されました。

    6)庁舎内には、「コエヌマルーム」が設置され、博士の顔像や八王子市市民有志によって贈られた千羽鶴が飾られています。その他にも、博士の功績を紹介するパネル、実際に博士が使用していた医療器具が展示されています。

    7)ビーチバレーボール場として整備された公園は、肥沼博士の偉業を讃えて「コエヌマ・ビーチボール・マスターズ」という大会が、毎年7月に開催されています。

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    写真は肥沼博士の墓:没後70周年となった平成28年3月8日の命日には墓がきれいに

  • もし、この方面に行くことがあれば、肥沼博士の墓に詣でたいと思う。<br /><br />そして、是非桜の咲く時期に行ってみたいものだ。<br /><br />写真は肥沼博士の墓所:

    もし、この方面に行くことがあれば、肥沼博士の墓に詣でたいと思う。

    そして、是非桜の咲く時期に行ってみたいものだ。

    写真は肥沼博士の墓所:

  • <br />以下は物語風に書かれたものを引用した。年次などは前述したものとは異なるものもあるが、そのままにしている。<br /><br />リーチェンの桜の木 肥沼信次医師の物語<br />http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1332.html<br />Rietschenリーチェンとあるが、Wriezenヴリーツェンが正しいので以下は訂正してある。<br /><br />ドイツの東側、ポーランドとの国境近くに、Wriezenヴリーツェンという街があります。<br />ヴリーツェン市には、市内各所に桜の木が植えられ、毎年春には、きれいな桜が咲きます。また、毎年3月には、ドイツ、ポーランドの少年少女たちの柔道大会が行われています。なぜこのようなことになったのか。<br /><br />第二次世界大戦のあと、ドイツは東西に分断されました。ヴリーツェン市のある東ドイツは、ソ連の支配下に置かれ、共産主義の厚い鉄のカーテンに阻まれて、ある出来事が隠されてしまったのです。<br /><br />その出来事に、日本人が関与している。<br />その日本人というのが、医師の肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)氏です。彼は、明治41(1908)年に、東京の八王子で外科医肥沼梅三郎氏の次男として生まれました。<br />幼いころから優秀で、東京府立二中(現都立立川高校)を卒業後、日本医科大学に進学、そこから東京帝国大学(現東大)放射線研究室へと進みます。<br />昭和12(1937)年、29歳になった肥沼信次は、ドイツに渡ってベルリン大学医学部放射線研究室で学び、同大学で東洋人として初の教授資格を取得します。<br /><br />写真はHumboldt_Universitaet_Berlinベルリン・フンボルト大学


    以下は物語風に書かれたものを引用した。年次などは前述したものとは異なるものもあるが、そのままにしている。

    リーチェンの桜の木 肥沼信次医師の物語
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1332.html
    Rietschenリーチェンとあるが、Wriezenヴリーツェンが正しいので以下は訂正してある。

    ドイツの東側、ポーランドとの国境近くに、Wriezenヴリーツェンという街があります。
    ヴリーツェン市には、市内各所に桜の木が植えられ、毎年春には、きれいな桜が咲きます。また、毎年3月には、ドイツ、ポーランドの少年少女たちの柔道大会が行われています。なぜこのようなことになったのか。

    第二次世界大戦のあと、ドイツは東西に分断されました。ヴリーツェン市のある東ドイツは、ソ連の支配下に置かれ、共産主義の厚い鉄のカーテンに阻まれて、ある出来事が隠されてしまったのです。

    その出来事に、日本人が関与している。
    その日本人というのが、医師の肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)氏です。彼は、明治41(1908)年に、東京の八王子で外科医肥沼梅三郎氏の次男として生まれました。
    幼いころから優秀で、東京府立二中(現都立立川高校)を卒業後、日本医科大学に進学、そこから東京帝国大学(現東大)放射線研究室へと進みます。
    昭和12(1937)年、29歳になった肥沼信次は、ドイツに渡ってベルリン大学医学部放射線研究室で学び、同大学で東洋人として初の教授資格を取得します。

    写真はHumboldt_Universitaet_Berlinベルリン・フンボルト大学

  • 昭和14(1939)年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻します。<br />第二次世界大戦の始まりです。9月3日には英国とフランスがドイツに宣戦布告、9月17日にはソ連が東からポーランドに侵攻。<br />翌昭和15年には、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を締結し、昭和16年には大東亜戦争が開戦となりました。<br /><br />そんな激動の時代の中、ドイツは国内の全職業集団のナチ化をすすめます。<br />ナチス思想に忠誠を誓わない学者や官僚、教師らは、次々と公職追放となります。<br />このとき、ベルリン大学だけで数百人の学者が職を奪われ追放されている。<br />昭和19年2月15日には、ついにナチスが肥沼博士にも、ナチスへの宣誓を強要してきた。もう待ったなしです。<br />やむなく肥沼博士がナチスに提出した宣誓書が残っている。<br /><br />そこには次のようにあります。<br />~~~~~~~~<br />私はドイツ職業組合に所属せず、純潔な日本人であり、日本国籍を有する。<br />~~~~~~~~<br />肥沼博士は、ヒットラーへの忠誠を示す宣誓をあくまで拒んだ。<br />宣誓書で、自分は日本人であると堂々と宣言した。<br /><br />当時、日本とドイツは同盟関係にあったとはいえ、これはものすごいことです。<br />命さえも危険にさらす。肥沼博士がいかに意思の強さと勇気を持つ人であったかがわかるエピソードです。<br /><br />写真はヴリーツェン市庁舎:第二次世界大戦後に伝染病医療センターになり、ここで肥沼博士が治療に献身した。

    昭和14(1939)年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻します。
    第二次世界大戦の始まりです。9月3日には英国とフランスがドイツに宣戦布告、9月17日にはソ連が東からポーランドに侵攻。
    翌昭和15年には、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を締結し、昭和16年には大東亜戦争が開戦となりました。

    そんな激動の時代の中、ドイツは国内の全職業集団のナチ化をすすめます。
    ナチス思想に忠誠を誓わない学者や官僚、教師らは、次々と公職追放となります。
    このとき、ベルリン大学だけで数百人の学者が職を奪われ追放されている。
    昭和19年2月15日には、ついにナチスが肥沼博士にも、ナチスへの宣誓を強要してきた。もう待ったなしです。
    やむなく肥沼博士がナチスに提出した宣誓書が残っている。

    そこには次のようにあります。
    ~~~~~~~~
    私はドイツ職業組合に所属せず、純潔な日本人であり、日本国籍を有する。
    ~~~~~~~~
    肥沼博士は、ヒットラーへの忠誠を示す宣誓をあくまで拒んだ。
    宣誓書で、自分は日本人であると堂々と宣言した。

    当時、日本とドイツは同盟関係にあったとはいえ、これはものすごいことです。
    命さえも危険にさらす。肥沼博士がいかに意思の強さと勇気を持つ人であったかがわかるエピソードです。

    写真はヴリーツェン市庁舎:第二次世界大戦後に伝染病医療センターになり、ここで肥沼博士が治療に献身した。

  • 翌昭和20年1月、ベルリンは連合軍の大空襲を受けます。<br />街は焼け野原となった。ベルリン大学も粉塵に帰してしまいます。<br />同年3月、ドイツにあった日本大使館は、ナチスの敗北必至とみて、日本人在独者に帰国命令を出します。このとき約300人の日本人が、ドイツ南部からチェコスロバキアを経由して日本に向かう。<br /><br />ところが肥沼博士は、日本大使館の避難勧告と帰国命令を無視し、誰にも告げずに、反対方向の、まさにソ連が攻めてくるポーランドの国境の街、Eberswaldeエバースバルデに向かったのです。<br />当時、肥沼博士を助けていた人に、シュナイダー夫人という人がいました。<br />肥沼博士35歳、シュナイダー夫人32歳です。<br />婦人は軍人だった夫を亡くし、5歳になる一人娘のクリステルを育てていた。<br />幼い子供を抱えたシュナイダー夫人に同情を寄せた肥沼博士は、シュナイダー夫人が妹の住むエバースバルデに疎開すると聞いて、医師である自分がそこに行けば、何かの役にたてるかもしれないと考えたのです。<br />エバースバルデでの疎開生活がどのようなものだったのかは、いまとなっては知るすべもありません。<br /><br />写真は市庁舎の入口には、肥沼 信次博士の功績を讃える銘板がある。<br /><br />「終戦より翌1946年にかけて、この建物において日本人医師・研究者である肥沼信次博士が、チフス患者のための病院を開いた。博士は、ヴリーツェン市の職員をはじめとする多くの支援者とともに、あまたの住民や戦争難民の命を救った。その最中、みずからもこの疫病に罹患し、命を落とした。この建物正面にある記念碑は、肥沼博士の祖国から寄せられた多くのご喜捨にもとづき、同郷人の横尾龍彦氏が2000年に制作したものである。」

    翌昭和20年1月、ベルリンは連合軍の大空襲を受けます。
    街は焼け野原となった。ベルリン大学も粉塵に帰してしまいます。
    同年3月、ドイツにあった日本大使館は、ナチスの敗北必至とみて、日本人在独者に帰国命令を出します。このとき約300人の日本人が、ドイツ南部からチェコスロバキアを経由して日本に向かう。

    ところが肥沼博士は、日本大使館の避難勧告と帰国命令を無視し、誰にも告げずに、反対方向の、まさにソ連が攻めてくるポーランドの国境の街、Eberswaldeエバースバルデに向かったのです。
    当時、肥沼博士を助けていた人に、シュナイダー夫人という人がいました。
    肥沼博士35歳、シュナイダー夫人32歳です。
    婦人は軍人だった夫を亡くし、5歳になる一人娘のクリステルを育てていた。
    幼い子供を抱えたシュナイダー夫人に同情を寄せた肥沼博士は、シュナイダー夫人が妹の住むエバースバルデに疎開すると聞いて、医師である自分がそこに行けば、何かの役にたてるかもしれないと考えたのです。
    エバースバルデでの疎開生活がどのようなものだったのかは、いまとなっては知るすべもありません。

    写真は市庁舎の入口には、肥沼 信次博士の功績を讃える銘板がある。

    「終戦より翌1946年にかけて、この建物において日本人医師・研究者である肥沼信次博士が、チフス患者のための病院を開いた。博士は、ヴリーツェン市の職員をはじめとする多くの支援者とともに、あまたの住民や戦争難民の命を救った。その最中、みずからもこの疫病に罹患し、命を落とした。この建物正面にある記念碑は、肥沼博士の祖国から寄せられた多くのご喜捨にもとづき、同郷人の横尾龍彦氏が2000年に制作したものである。」

  • ただ、肥沼博士ら一行がエバースバルデに疎開していたとき、そこか25kmほど南に下ったところにあるヴリーツェンという街で、発疹チフスが蔓延します。<br />発疹チフスというのは、高熱を発し、全身に発疹ができて、脳症状まで起こる伝染病で、いまでも国際監視伝染病のひとつに数えられている病気です。<br />シラミによって媒介される病気で、戦争、貧困、飢餓など社会的悪条件下で流行し、第一次世界大戦では、対戦中にヨーロッパで数百万の死者を出しています。<br /><br />ヴリーツェンという街は、中世から栄えていた歴史のある、人口5000人ほどの古都なのだけれど、戦争によって市街地の9割の建物が灰燼に帰し、そこにポーランドから追放されたドイツ兵やドイツ難民、被災民が押し寄せ、人口が数倍に膨れ上がっていた。<br />下水も壊れ、衛生環境も極度に悪化した中で、敗戦後であり極度の飢餓がそこを襲った。人々の生活環境が最悪の状態となったところへ、法定伝染病の発疹チフスが大流行したのです。<br /><br />ヴリーツェンを制圧していたソ連軍は、市内にあったナチスの戦車隊訓練学校の跡地を利用して、そこに「伝染病医療センター」を作ります。要するに、伝染病に罹った人を、そこに隔離したわけです。ところが、医療センターとは名ばかりで、医師がいない。そこで白羽の矢が立ったのが、25km北にいる日本人の肥沼博士だったわけです。<br /><br />法定伝染病の蔓延する街の、しかも衛生環境も最悪の医療センターに行く。<br />医者なら誰でも嫌がります。現に、ソ連軍が依頼した医師たちは、だれひとりその要求をのむものはいなかった。ヴリーツェンの街の医師たちも、全員戦争に駆り出され、誰一人のこっていなかったのです。<br />そんな中、肥沼博士は、たったひとり、ヴリーツェンの医療センターに向かいます。<br /><br />写真は市庁舎前の公園には肥沼博士の記念碑及び顕彰碑も見られる。

    ただ、肥沼博士ら一行がエバースバルデに疎開していたとき、そこか25kmほど南に下ったところにあるヴリーツェンという街で、発疹チフスが蔓延します。
    発疹チフスというのは、高熱を発し、全身に発疹ができて、脳症状まで起こる伝染病で、いまでも国際監視伝染病のひとつに数えられている病気です。
    シラミによって媒介される病気で、戦争、貧困、飢餓など社会的悪条件下で流行し、第一次世界大戦では、対戦中にヨーロッパで数百万の死者を出しています。

    ヴリーツェンという街は、中世から栄えていた歴史のある、人口5000人ほどの古都なのだけれど、戦争によって市街地の9割の建物が灰燼に帰し、そこにポーランドから追放されたドイツ兵やドイツ難民、被災民が押し寄せ、人口が数倍に膨れ上がっていた。
    下水も壊れ、衛生環境も極度に悪化した中で、敗戦後であり極度の飢餓がそこを襲った。人々の生活環境が最悪の状態となったところへ、法定伝染病の発疹チフスが大流行したのです。

    ヴリーツェンを制圧していたソ連軍は、市内にあったナチスの戦車隊訓練学校の跡地を利用して、そこに「伝染病医療センター」を作ります。要するに、伝染病に罹った人を、そこに隔離したわけです。ところが、医療センターとは名ばかりで、医師がいない。そこで白羽の矢が立ったのが、25km北にいる日本人の肥沼博士だったわけです。

    法定伝染病の蔓延する街の、しかも衛生環境も最悪の医療センターに行く。
    医者なら誰でも嫌がります。現に、ソ連軍が依頼した医師たちは、だれひとりその要求をのむものはいなかった。ヴリーツェンの街の医師たちも、全員戦争に駆り出され、誰一人のこっていなかったのです。
    そんな中、肥沼博士は、たったひとり、ヴリーツェンの医療センターに向かいます。

    写真は市庁舎前の公園には肥沼博士の記念碑及び顕彰碑も見られる。

  • 肥沼博士が医療センターに着くと、そこには医師は肥沼博士ただ一人で、赤十字から派遣された助手が一人と、看護婦が7人、調理師が3人だけでした。<br />しかも看護婦のうち5人はチフスで亡くなっていた。<br /><br />患者は、病院のベッドだけでは足りず、毛布の代わりにワラを敷いて、廊下にまで患者たちが寝かされている。吐瀉物や排便による悪臭の中で、患者たちは病気だけでなく飢えにも苦しみ、そのうえ薬や消毒液、ガーゼなどの医療用品も不足、患者は次々に死んで行く。看護婦たちでさえ嫌がる汚くて臭い不衛生な所へも、彼は平気で往診に出向き懸命に治療にあたります。<br />このとき、肥沼博士に命を助けられたマルサ・クラスケさんが、平成5(1993)年に取材に答えて話してくれたときの模様が、「大戦秘史、ヴリーツェンの桜」という本に書かれています。<br /><br />~~~~~~~~<br />当時、私の70才になる舅のヴィルヴァルトが発疹チフスにかかってしまった。<br />1945年夏に、主人が戦争から帰ってきていたが、体が弱まっていてすごく衰弱しておりました。村にはシュモレーさんという頭の病気を治す医師がいただけです。そんな時、暮れに舅が発疹チフスにかかり大変困ってしまいました。<br />村人に相談したら、ヴリーツェンに日本人医師がいて、その医師に治療して貰った人がこの村にいる、その医師はドイツ語をよく話すチフス専門医なので、是非治療して貰ったらと勧められました。<br />その話しを聞いて、父もその日本人の先生に診てもらおうと思いました。<br />でも夫も衰弱しており、どうやってヴリーツェンまでいくか悩みました。<br />鉄道は爆撃でやられていて、隣の駅までしか動いていなかった。<br />家には馬を一頭飼っていましたが、非常に弱っていて、しかもこの馬は役所に内緒で飼っていたのです。当時、馬は役所に徴発されていたのですが、農家ですので一頭だけ隠していたのです。見つかると取り上げられてしまいます。<br />でも馬でいく以外にないと引っぱり出して、主人が病をおして肥沼先生を迎えに出かけて行きました。<br />弱い馬だったので途中で倒れてしまい、そのあとは歩いて、やっとのことで肥沼先生のところまでたどり着いてお願いすることが出来ました。<br />肥沼先生は主人にすぐ行きますからといってくれました。<br />本当に肥沼先生は来てくれたのです。たった一人で寒い中を。<br /><br />おじいさんは、生まれて初めてお医者さんが家まで往診に来てくれたと大変喜びました。これまで家に来てくれるお医者さんはいなかった。<br />先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれました。その後2回、治療にやってきてくれました。私の舅は比較的高齢にもかかわらず、治療を受けて治りました。その後、10年も生きられたということは、それだけでも奇跡ですね。肥沼先生のおかげです。<br />実は、肥沼先生のところに頼みに行く時、最初ためらいがあったのです。<br />というのは、この辺りにもソ連軍の兵隊がいて、日本人の医者と関わり合いをもったら、と心配したからです。でもその心配は無用でした。<br /><br />肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。うちだけでなく、他の家ででもです。人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて……。<br />すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。<br />本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょうけど、大変素晴しい尊敬できるんです。<br />~~~~~~~~<br /><br />写真は市庁舎内にある「コエヌマルーム」:博士の顔像や八王子市市民有志によって贈られた千羽鶴が飾られています。

    肥沼博士が医療センターに着くと、そこには医師は肥沼博士ただ一人で、赤十字から派遣された助手が一人と、看護婦が7人、調理師が3人だけでした。
    しかも看護婦のうち5人はチフスで亡くなっていた。

    患者は、病院のベッドだけでは足りず、毛布の代わりにワラを敷いて、廊下にまで患者たちが寝かされている。吐瀉物や排便による悪臭の中で、患者たちは病気だけでなく飢えにも苦しみ、そのうえ薬や消毒液、ガーゼなどの医療用品も不足、患者は次々に死んで行く。看護婦たちでさえ嫌がる汚くて臭い不衛生な所へも、彼は平気で往診に出向き懸命に治療にあたります。
    このとき、肥沼博士に命を助けられたマルサ・クラスケさんが、平成5(1993)年に取材に答えて話してくれたときの模様が、「大戦秘史、ヴリーツェンの桜」という本に書かれています。

    ~~~~~~~~
    当時、私の70才になる舅のヴィルヴァルトが発疹チフスにかかってしまった。
    1945年夏に、主人が戦争から帰ってきていたが、体が弱まっていてすごく衰弱しておりました。村にはシュモレーさんという頭の病気を治す医師がいただけです。そんな時、暮れに舅が発疹チフスにかかり大変困ってしまいました。
    村人に相談したら、ヴリーツェンに日本人医師がいて、その医師に治療して貰った人がこの村にいる、その医師はドイツ語をよく話すチフス専門医なので、是非治療して貰ったらと勧められました。
    その話しを聞いて、父もその日本人の先生に診てもらおうと思いました。
    でも夫も衰弱しており、どうやってヴリーツェンまでいくか悩みました。
    鉄道は爆撃でやられていて、隣の駅までしか動いていなかった。
    家には馬を一頭飼っていましたが、非常に弱っていて、しかもこの馬は役所に内緒で飼っていたのです。当時、馬は役所に徴発されていたのですが、農家ですので一頭だけ隠していたのです。見つかると取り上げられてしまいます。
    でも馬でいく以外にないと引っぱり出して、主人が病をおして肥沼先生を迎えに出かけて行きました。
    弱い馬だったので途中で倒れてしまい、そのあとは歩いて、やっとのことで肥沼先生のところまでたどり着いてお願いすることが出来ました。
    肥沼先生は主人にすぐ行きますからといってくれました。
    本当に肥沼先生は来てくれたのです。たった一人で寒い中を。

    おじいさんは、生まれて初めてお医者さんが家まで往診に来てくれたと大変喜びました。これまで家に来てくれるお医者さんはいなかった。
    先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれました。その後2回、治療にやってきてくれました。私の舅は比較的高齢にもかかわらず、治療を受けて治りました。その後、10年も生きられたということは、それだけでも奇跡ですね。肥沼先生のおかげです。
    実は、肥沼先生のところに頼みに行く時、最初ためらいがあったのです。
    というのは、この辺りにもソ連軍の兵隊がいて、日本人の医者と関わり合いをもったら、と心配したからです。でもその心配は無用でした。

    肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。うちだけでなく、他の家ででもです。人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて……。
    すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。
    本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょうけど、大変素晴しい尊敬できるんです。
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    写真は市庁舎内にある「コエヌマルーム」:博士の顔像や八王子市市民有志によって贈られた千羽鶴が飾られています。

  • 当時、マルサさんが住むこの村には、30軒の農家があったのだそうです。<br />そしてどの家にも一人以上の発疹チフス患者がいた。<br />肥沼博士は、この村にまで、荷馬車で治療に幾度も通ったのです。<br />取材のとき、クラスケ夫妻は肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくとおっしゃられたそうです。そしてその取材のとき、おさげ髪の、目の澄んだ優しい表情に満ち満ちているお孫さんが、「小学校、中学校でも先生が肥沼先生のことを話してくれます」と、話してくれたそうです。<br /><br />肥沼博士が勤務した伝染病医療センターから、5kmほど離れたところには、難民収容所がありました。そこでも発疹チフスが流行した。<br />この難民収容所は、ポーランド領地から逃げてきた多数のドイツ人の収容所です。そこでは発疹チフスだけでなく、マラリアや赤痢まで流行していた。<br />そのため難民収容所には大勢の衰弱した患者が横たわり、栄養失調で手足は枯れ枝のように痩せこけ、暗い部屋のなかで、苦しくてうめき声を上げていたそうです。さながら地獄のような惨状だった。<br /><br />最初に肥沼博士が診察のためにこの収容所を訪れたとき、同行した若い看護婦は、あまりに悲惨な状況を前に、怖くて部屋に入ることができなかったといいます。ところが肥沼博士は、何のためらいもみせずに部屋に入って行った。<br />博士は感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとって優しく声をかけ、患者を励まし、治療にあたった。<br /><br />当時、日本人はドイツでも勤勉な民族として知られていました。<br />また武士道の精神を持つ勇敢な民族としても知られていた。<br />肥沼はそのような日本人をイメージさせるかのように、不眠不休で、それでいていつも優しく患者に話しかけていたといいます。<br />そして患者や看護婦たちから見た肥沼博士は、勇敢な日本のサムライそのものに見えたといいます。<br /><br />伝染病に感染したのは大人たちだけではありません。子供たちも数多く感染した。肥沼博士は、子供達にもできる限りの治療をつくし、おかげでこのとき何人もの子供が助かった。<br /><br />治療に欠かせない医薬品は、肥沼博士自身が、あちこち走り回ってようやく調達しました。ソ連の野戦病院へは、寿司詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日の距離を進み、何度も断られながら辛抱強く頼み込んで薬を手に入れています。<br />そして抱えられるだけの医薬品を持ち帰ると、惜しみなく患者に薬を与えた。<br />また栄養失調に苦しむ患者のために、食料を求めてバルト海沿岸までも奔走しています。<br />何百人ものドイツ人が、こうして肥沼博士の献身的な治療で危機を脱します。<br />彼は不眠不休で働き、自宅に帰ると服を着たままソファーに倒れ込んだ。<br /><br />こうして献身的な治療を続けた肥沼博士なのだけれど、彼はいつも笑顔で患者たちを励ましながら、個人的なことは何も話そうとしなかったといいます。<br />なぜここにいるのか。なぜここまでして治療に打ち込むのか。<br /><br />肥沼博士が話したことといえば、「日本の自然はとてもすばらしい。富士山は美しい山で、特に桜はたいへん綺麗だ。桜の花をみんなに見せてあげたい」というようなことだけだったそうです。<br /><br />写真は市庁舎内にある「コエヌマルーム」1<br />その他にも、博士の功績を紹介するパネル、実際に博士が使用していた医療器具が展示されています。

    当時、マルサさんが住むこの村には、30軒の農家があったのだそうです。
    そしてどの家にも一人以上の発疹チフス患者がいた。
    肥沼博士は、この村にまで、荷馬車で治療に幾度も通ったのです。
    取材のとき、クラスケ夫妻は肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくとおっしゃられたそうです。そしてその取材のとき、おさげ髪の、目の澄んだ優しい表情に満ち満ちているお孫さんが、「小学校、中学校でも先生が肥沼先生のことを話してくれます」と、話してくれたそうです。

    肥沼博士が勤務した伝染病医療センターから、5kmほど離れたところには、難民収容所がありました。そこでも発疹チフスが流行した。
    この難民収容所は、ポーランド領地から逃げてきた多数のドイツ人の収容所です。そこでは発疹チフスだけでなく、マラリアや赤痢まで流行していた。
    そのため難民収容所には大勢の衰弱した患者が横たわり、栄養失調で手足は枯れ枝のように痩せこけ、暗い部屋のなかで、苦しくてうめき声を上げていたそうです。さながら地獄のような惨状だった。

    最初に肥沼博士が診察のためにこの収容所を訪れたとき、同行した若い看護婦は、あまりに悲惨な状況を前に、怖くて部屋に入ることができなかったといいます。ところが肥沼博士は、何のためらいもみせずに部屋に入って行った。
    博士は感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとって優しく声をかけ、患者を励まし、治療にあたった。

    当時、日本人はドイツでも勤勉な民族として知られていました。
    また武士道の精神を持つ勇敢な民族としても知られていた。
    肥沼はそのような日本人をイメージさせるかのように、不眠不休で、それでいていつも優しく患者に話しかけていたといいます。
    そして患者や看護婦たちから見た肥沼博士は、勇敢な日本のサムライそのものに見えたといいます。

    伝染病に感染したのは大人たちだけではありません。子供たちも数多く感染した。肥沼博士は、子供達にもできる限りの治療をつくし、おかげでこのとき何人もの子供が助かった。

    治療に欠かせない医薬品は、肥沼博士自身が、あちこち走り回ってようやく調達しました。ソ連の野戦病院へは、寿司詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日の距離を進み、何度も断られながら辛抱強く頼み込んで薬を手に入れています。
    そして抱えられるだけの医薬品を持ち帰ると、惜しみなく患者に薬を与えた。
    また栄養失調に苦しむ患者のために、食料を求めてバルト海沿岸までも奔走しています。
    何百人ものドイツ人が、こうして肥沼博士の献身的な治療で危機を脱します。
    彼は不眠不休で働き、自宅に帰ると服を着たままソファーに倒れ込んだ。

    こうして献身的な治療を続けた肥沼博士なのだけれど、彼はいつも笑顔で患者たちを励ましながら、個人的なことは何も話そうとしなかったといいます。
    なぜここにいるのか。なぜここまでして治療に打ち込むのか。

    肥沼博士が話したことといえば、「日本の自然はとてもすばらしい。富士山は美しい山で、特に桜はたいへん綺麗だ。桜の花をみんなに見せてあげたい」というようなことだけだったそうです。

    写真は市庁舎内にある「コエヌマルーム」1
    その他にも、博士の功績を紹介するパネル、実際に博士が使用していた医療器具が展示されています。

  • しかし疲労が重なった肥沼博士は、ついに難民収容所からの帰り道で発疹チフスに倒れてしまう。自宅で療養にあたったけれど、昭和21年3月2日には、悪寒と発熱の症状で起きあがることさえできなくなってしまった。<br />心配して看護婦たちがやってきたけれど、彼は、自分にチフスの治療薬や注射を使うことを拒否します。そして、看護婦たちに言った。<br />「はやく患者さんのところにもどりなさい。そして貴重なクスリは他の患者に使ってほしい。」<br /><br />昭和21年3月7日、博士の症状はますます悪化します。ちょうどその日は、家政婦のエンゲルさんの16歳の誕生日だったのだそうです。<br />肥沼博士は、額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに、「誕生日おめでとう、誕生祝いをやれずにごめんね」と弱々しい声で言ったそうです。<br />そして、ひとこと、「桜が見たい」とつぶやいた。<br /><br />翌3月8日午後1時、肥沼信次博士は、シュナイダー夫人、家政婦のエンゲル、病院の看護婦たちに看取られながらヴリーツェンの自宅で亡くなります。<br />享年38歳でした。<br />遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中を市民に囲まれて、自宅からフリート広場の墓地まで運ばれました。<br /><br />写真はDr.コエヌマ・ビーチパーク:ビーチバレーボール場として整備された公園

    しかし疲労が重なった肥沼博士は、ついに難民収容所からの帰り道で発疹チフスに倒れてしまう。自宅で療養にあたったけれど、昭和21年3月2日には、悪寒と発熱の症状で起きあがることさえできなくなってしまった。
    心配して看護婦たちがやってきたけれど、彼は、自分にチフスの治療薬や注射を使うことを拒否します。そして、看護婦たちに言った。
    「はやく患者さんのところにもどりなさい。そして貴重なクスリは他の患者に使ってほしい。」

    昭和21年3月7日、博士の症状はますます悪化します。ちょうどその日は、家政婦のエンゲルさんの16歳の誕生日だったのだそうです。
    肥沼博士は、額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに、「誕生日おめでとう、誕生祝いをやれずにごめんね」と弱々しい声で言ったそうです。
    そして、ひとこと、「桜が見たい」とつぶやいた。

    翌3月8日午後1時、肥沼信次博士は、シュナイダー夫人、家政婦のエンゲル、病院の看護婦たちに看取られながらヴリーツェンの自宅で亡くなります。
    享年38歳でした。
    遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中を市民に囲まれて、自宅からフリート広場の墓地まで運ばれました。

    写真はDr.コエヌマ・ビーチパーク:ビーチバレーボール場として整備された公園

  • 戦争が終わり、ソ連に占領された東ドイツ、ブランデンブルク州のヴリーツェン市では、伝染病医療センターの建物は、猛威を振るった発疹チフス沈静後に閉鎖され、ヴリーツェン市の市役所となります。<br />ソ連の衛星国となった東ドイツでは、市内のいたるところに秘密警察がいて、市として肥沼信次博士を公に賞賛することはできませんでした。<br />けれど、肥沼医師に助けられた多くの人々は、彼の功績を忘れず、肥沼医師の墓を建て、四季を通して花を絶やさなかった。<br />そうです。肥沼医師に助けられたヴリーツェンの市民たちは、命と引き換えに自分たちの救ってくれた肥沼医師への感謝の心を忘れなかったのです。<br /><br />それから43年後の平成元(1989)年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツの共産主義者ホーネッカー大統領が失脚します。そして東西ドイツは統一された。<br />ヴリーツェン市では、43年間封印されてきた肥沼信次医師に対する感謝の気持ちを、晴れて公にできるようになったのです。<br /><br />ヴリーツェン市では、地元の郷土史家のシュモーク博士が、肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公にします。<br />シュモーク博士の調査は、ドイツの新聞で報道される。<br />それをきっかけにドイツでは、肥沼の身寄り調査が始まります。<br />彼が日本人であることは、住民たちはみんな知っています。<br />けれど彼の経歴は、誰も知らない。どうしてヴリーツェンに来たのかもわからない。そもそも肥沼医師が、どこの誰なのかさえわからない。<br /><br />ドイツ・アカデミー会員の長老で、フンボルト研究所所長のピアマン博士は、肥沼信次という人物に強い関心を寄せます。そしてドイツ(フンボルト)大学の客員教授で、当時ドイツに駐在していた桃山学院大学の村田教授に肥沼信次の調査を依頼した。<br />村田教授は肥沼信次医師の遺族や家族を捜そうと、日本大使館や文部省などに照会するけれど、どこもまるでわからない。<br />やむなく村田教授は、朝日新聞の尋ね人欄に肥沼信次の名前をのせます。<br />そして平成元年12月14日、肥沼信次の弟さんである肥沼栄治氏が、東京で見つかります。弟の栄治氏は、兄の死を日本赤十字社から知らされていたのだけれど、どこでどのようにして亡くなったのかは、まるで知らなかった。<br /><br />肥沼信次の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からヴリーツェン市長へと伝えられます。<br />ヴリーツェンの人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知りました。<br /><br />写真は聖ヨハニッターギムナジウム:私立八王子高校とは平成21年に姉妹校提携しています。<br />

    戦争が終わり、ソ連に占領された東ドイツ、ブランデンブルク州のヴリーツェン市では、伝染病医療センターの建物は、猛威を振るった発疹チフス沈静後に閉鎖され、ヴリーツェン市の市役所となります。
    ソ連の衛星国となった東ドイツでは、市内のいたるところに秘密警察がいて、市として肥沼信次博士を公に賞賛することはできませんでした。
    けれど、肥沼医師に助けられた多くの人々は、彼の功績を忘れず、肥沼医師の墓を建て、四季を通して花を絶やさなかった。
    そうです。肥沼医師に助けられたヴリーツェンの市民たちは、命と引き換えに自分たちの救ってくれた肥沼医師への感謝の心を忘れなかったのです。

    それから43年後の平成元(1989)年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツの共産主義者ホーネッカー大統領が失脚します。そして東西ドイツは統一された。
    ヴリーツェン市では、43年間封印されてきた肥沼信次医師に対する感謝の気持ちを、晴れて公にできるようになったのです。

    ヴリーツェン市では、地元の郷土史家のシュモーク博士が、肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公にします。
    シュモーク博士の調査は、ドイツの新聞で報道される。
    それをきっかけにドイツでは、肥沼の身寄り調査が始まります。
    彼が日本人であることは、住民たちはみんな知っています。
    けれど彼の経歴は、誰も知らない。どうしてヴリーツェンに来たのかもわからない。そもそも肥沼医師が、どこの誰なのかさえわからない。

    ドイツ・アカデミー会員の長老で、フンボルト研究所所長のピアマン博士は、肥沼信次という人物に強い関心を寄せます。そしてドイツ(フンボルト)大学の客員教授で、当時ドイツに駐在していた桃山学院大学の村田教授に肥沼信次の調査を依頼した。
    村田教授は肥沼信次医師の遺族や家族を捜そうと、日本大使館や文部省などに照会するけれど、どこもまるでわからない。
    やむなく村田教授は、朝日新聞の尋ね人欄に肥沼信次の名前をのせます。
    そして平成元年12月14日、肥沼信次の弟さんである肥沼栄治氏が、東京で見つかります。弟の栄治氏は、兄の死を日本赤十字社から知らされていたのだけれど、どこでどのようにして亡くなったのかは、まるで知らなかった。

    肥沼信次の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からヴリーツェン市長へと伝えられます。
    ヴリーツェンの人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知りました。

    写真は聖ヨハニッターギムナジウム:私立八王子高校とは平成21年に姉妹校提携しています。

  • 平成5年、ヴリーツェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレートが飾られます。<br />そこには、<br />~~~~~~~~~~<br />肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った。<br />~~~~~~~~~~<br />と刻まれた。<br /><br />平成6年、ヴリーツェン市議会は、満場一致で、肥沼信次博士の功績をたたえ、彼を名誉市民とすることを決定します。肥沼信次博士は、ヴリーツェンの名誉市民となり、彼の墓は、市が永遠に責任もって管理することになったのです。<br /><br />平成6年、弟の肥沼栄治氏がヴリーツェン市を訪れます。そしてヴリーツェン市長をはじめ多くの人たちの歓迎を受けた栄治氏は、兄の墓に花を捧げます。<br />その日、ヴリーツェンの当時の生き残りの人達から、兄の信次が最後に「桜を見たい」と語ったという話を聞きます。<br /><br />日本に帰った栄治氏は、ヴリーツェンの市民から預かった寄付金で、ヴリーツェン市に100本の桜の苗木を送ります。その苗木のひとつは、肥沼信次医師の墓にも植えられた。<br />「桜を見たい」と語った兄の夢は、ようやく48年ぶりに叶えられたのです。<br />そしてヴリーツェン市は、市内の各所に桜の木を植えます。<br />その桜は、いまでは大きく育ち、ヴリーツェンの街中で桜が見られるようになった。<br /><br />平成12年(2000年)7月1日、ヴリーツェン市は、市役所前の広場に、肥沼信次の記念碑を建て、その除幕式を行います。式には多くの人々が参列した。<br />ドイツの新聞は、この除幕式を大きく報道しました。<br />そして郷土博物館には、肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられた。<br />また肥沼医師の墓も建て替えられました。<br />高さ1メートルの大理石に、ギリシア神話に登場する医術の神アスクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることが示され、墓標には「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれています。<br /><br />さらにヴリーツェン市では、毎年、肥沼信次が亡くなった3月に、ドイツ、ポーランドの少年、少女たちの柔道大会が行われることになりました。<br />この大会には「肥沼記念杯」と名付けられ、数百人の参加者が試合前に彼の墓に花をささげます。柔道着に身を包んだ少年少女たちが墓前に整列し、自分たちの祖父母を救ってくれた恩人の冥福を祈る。<br /><br />少年少女が通う学校でも、肥沼信次医師の物語は、学校の授業で取り入れられ、人としての立派な生き方として紹介されています。<br /><br />遠い異国の地で、肥沼信次博士は、自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救いました。彼は学者として優秀であっただけでなく、それ以上に人間として素晴らしい日本人でした。<br /><br />医師として、患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践した。<br />ヴリーツェン市の人々の心の中には、肥沼信次の名は永遠に生き続けることでしょう。<br /><br />・・・・・<br /><br />参考文献[編集]<br />舘澤貢次『大戦秘史 ヴリーツェンの桜』(ぱる出版)<br />たてさわこうじ 1946年9月5日生まれ。宮城県仙台市出身。明治大学法学部卒業。編集取材記者を経て、ジャーナリストに。<br />川西重忠「肥沼信次を知っていますか? ドイツ人が神と慕い続ける日本人」<br />『わしズム』vol.12<br />カワニシシゲタダ早稲田大学 法学部卒、桜美林大学 北東アジア総合研究所長<br /><br />・・・・・<br /><br />尚、2017年2月5日(日曜日)に「ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介がめぐる ある医師の真実の物語」と称した番組が日本テレビで放映された。<br />見られた方もあるかと思います。<br /><br />写真は肥沼 信次博士の本

    平成5年、ヴリーツェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレートが飾られます。
    そこには、
    ~~~~~~~~~~
    肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った。
    ~~~~~~~~~~
    と刻まれた。

    平成6年、ヴリーツェン市議会は、満場一致で、肥沼信次博士の功績をたたえ、彼を名誉市民とすることを決定します。肥沼信次博士は、ヴリーツェンの名誉市民となり、彼の墓は、市が永遠に責任もって管理することになったのです。

    平成6年、弟の肥沼栄治氏がヴリーツェン市を訪れます。そしてヴリーツェン市長をはじめ多くの人たちの歓迎を受けた栄治氏は、兄の墓に花を捧げます。
    その日、ヴリーツェンの当時の生き残りの人達から、兄の信次が最後に「桜を見たい」と語ったという話を聞きます。

    日本に帰った栄治氏は、ヴリーツェンの市民から預かった寄付金で、ヴリーツェン市に100本の桜の苗木を送ります。その苗木のひとつは、肥沼信次医師の墓にも植えられた。
    「桜を見たい」と語った兄の夢は、ようやく48年ぶりに叶えられたのです。
    そしてヴリーツェン市は、市内の各所に桜の木を植えます。
    その桜は、いまでは大きく育ち、ヴリーツェンの街中で桜が見られるようになった。

    平成12年(2000年)7月1日、ヴリーツェン市は、市役所前の広場に、肥沼信次の記念碑を建て、その除幕式を行います。式には多くの人々が参列した。
    ドイツの新聞は、この除幕式を大きく報道しました。
    そして郷土博物館には、肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられた。
    また肥沼医師の墓も建て替えられました。
    高さ1メートルの大理石に、ギリシア神話に登場する医術の神アスクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることが示され、墓標には「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれています。

    さらにヴリーツェン市では、毎年、肥沼信次が亡くなった3月に、ドイツ、ポーランドの少年、少女たちの柔道大会が行われることになりました。
    この大会には「肥沼記念杯」と名付けられ、数百人の参加者が試合前に彼の墓に花をささげます。柔道着に身を包んだ少年少女たちが墓前に整列し、自分たちの祖父母を救ってくれた恩人の冥福を祈る。

    少年少女が通う学校でも、肥沼信次医師の物語は、学校の授業で取り入れられ、人としての立派な生き方として紹介されています。

    遠い異国の地で、肥沼信次博士は、自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救いました。彼は学者として優秀であっただけでなく、それ以上に人間として素晴らしい日本人でした。

    医師として、患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践した。
    ヴリーツェン市の人々の心の中には、肥沼信次の名は永遠に生き続けることでしょう。

    ・・・・・

    参考文献[編集]
    舘澤貢次『大戦秘史 ヴリーツェンの桜』(ぱる出版)
    たてさわこうじ 1946年9月5日生まれ。宮城県仙台市出身。明治大学法学部卒業。編集取材記者を経て、ジャーナリストに。
    川西重忠「肥沼信次を知っていますか? ドイツ人が神と慕い続ける日本人」
    『わしズム』vol.12
    カワニシシゲタダ早稲田大学 法学部卒、桜美林大学 北東アジア総合研究所長

    ・・・・・

    尚、2017年2月5日(日曜日)に「ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介がめぐる ある医師の真実の物語」と称した番組が日本テレビで放映された。
    見られた方もあるかと思います。

    写真は肥沼 信次博士の本

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ドイツ:番外編様々

この旅行記へのコメント (14)

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  • シジュウカラさん 2020/06/29 17:35:29
    再度 お邪魔します。
    jijidarumaさん、
    再度、お邪魔いたします。いいね。どうもありがとうございました。jijidarumaさんが前書きでお書きのように肥沼博士の記事は今この時期だから余計に私たちの心に響き、以前よりもさらに博士の生き方に心動かされるのかもしれません。私一人ではもったいないと思いましたのであの後、大分の温泉先生にもこちらの記事を紹介いたしました。メルヘンの古城ホテルも一度は泊まってみたいと思いながら重ーい体が動かずここまで来てしまいました。jijidaruma先生の最近の口コミでは今年、来年あたりに営業終了になってしまう古城ホテルもあるようなので、コロナのワクチンが出回ったら泊まりたいなあと思っています。(ーそれまでどうか営業していてください!)ドイツのプリンセス物語ープリンセス達も色々あって大変だったんですね。世界史で習った人物も出て来てワクワクしながら拝見しています。今、50肩で右の腕の付け根部分が痛くて、痛くてパソコン利用を控えています。しばらくは読者側になりそうです。先生もお元気で。いつもまとまらないコメントですみません、、、。

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2020/06/29 18:04:13
    Re: 再度 お邪魔します。
    シジュウカラさん、
    今日は。再びのコメントに深謝です。

    大分の先生もしっかり読んで頂いたようす、貴ご高配に有りがたく思います。
    私の読者、フォロー関係者も新しい方はわざわざ遡ってまでお読み頂く方は少ないので、貴兄のお立ち寄り・コメントを機にそうした方々に御紹介すべく写真追加・更新したのです。機会を頂いてほんとにありがとうございます。

    ドイツも田舎周りをすれば、興味深い話に出くわします。これが楽しく、ツイツイ調べてしまいます。自分の旅行記がベースになっていますが、ここに掲載すると、更に書き込みが増えてしまいますから妙なものです。
    歴史もさることながら、古城ホテルの滞在も良いです。都市の画一的なホテルに泊まるより、ずっと面白みがありますから、是非機会があれば、体験してみてください。周遊地域が決まれば、適当な古城ホテルをお教えできますよ。

    50肩は私も既に体験済みです。退職後にパソコン使用も頻度が増えて、確かに私も時に痛みますね。それで夜寝る際に、寝ながら腕の屈伸、腕回しをやると、翌日の痛みが薄らぎます。素人療法ですが!

    お暇な節は又お立ち寄りください。
    ではまた。ありがとうございます。
    jijidaruma
  • シジュウカラさん 2020/06/21 17:22:30
    はじめまして
    実はこちらの記事を数年前に初めて拝見した時に感想をお送りしたかったのですが、当時4トラ会員ではなかったので登録からしなければならず断念。jijidarumaさんの最近のドイツ旅行の記事を拝見して、もしかしから以前読んだ日本人医師の話はこの方が書いたのかもしれないと思い立ち、jijidarumaさんのこちらのホームページで旅行記を追ってみました。BINNGO!!!でした。そして今再度読み返し、メールをいたします。

    肥沼信次博士の生き方にただただ心打たれました。読んでいるうちに涙が溢れてきました。人間として尊敬します。誰かのためにここまで(=自分を犠牲にして尽くすこと)することの尊さやその姿に強く心動かされました。今日、こうして再びjijidarumaさんの記事を拝見することができてよかったです。
    jijidarumaさんの他の旅行記も既に何冊か拝見いたしました。どれもが内容のとても濃い充実したもので読み応えがあります。読んでいてとても楽しかったです!そしてそのどれにもjijidarumaさんのドイツへの限りない愛情が感じられました。リタイア後大好きな国とjijidarumaさんのように接していけたら最高ですね。
    今後もjijidarumaさんの記事を楽しみにいたしております。

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2020/06/21 19:54:54
    Re: はじめまして
    シジュウカラさん 、
    初めまして、今晩は。
    もう掲載から日が経ってしまった、この旅行記にご興味を持っていただきありがとうございました。
    通常の旅行記と少々趣が違いますが、いまだにお立ち寄り頂く方も多いのは、ありがたいことです。

    再読もされた由、私も久しぶりに読み返し、感じる事がありました。
    本来ならば、この続編でその後の事を書いていくべきなのでしょうが、それに至らず残念です。
    それもドイツの旅で当該地方の旅をしていない所為もありますけど。
    目下、武漢ウイルスという、かつてのスペイン風邪やペスト禍にも匹敵するような時代に居合わせてしまった私共ですが、チフスの病と闘い、ドイツ人の尊敬を得た「肥沼信次博士の生き方」に、改めて襟を正しております。

    小生の旅行記は殆どがドイツ中心ですが、又お立ち寄り頂ければ幸いです。
    尚、フォローして頂きありがとうございました。
    後ほど私もフォローさせて頂きます。
    どうぞよろしくお願いいたします。
    jijidaruma
  • yoshiboさん 2018/02/18 17:53:14
    日本人医師の記録
    初めまして。

    肥沼信次さんのお話を読ませていただきました。
    涙無くして読むことが出来ませんでした。
    機会があればヴリーツェン市にいきたいと思います。

    今後ともよろしくお願いいたします。

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2018/02/18 18:58:24
    Re: 日本人医師の記録
    yoshiboさん 、
    こんばんは。初めまして。
    旅行記にお立ち寄りいただき、更にコメントまで頂いてありがとうございます。

    他の方の返信に書きましたが、「ドイツでの日本企業駐在者たち(私も該当者です)も、日本の外務省、新聞社の特派員、留学生も今も知らない方が多いでしょう」と思われ、大変残念なことです。
    ヴリーツェンは地図で見るとドイツの片田舎ですが、ベルリンからは比較的近く、ベルリン訪問時にチャンスがあるかと思います。

    こちらこそよろしくお願いいたします。
    jijidaruma
  • cheriko330さん 2017/08/07 16:46:47
    テレビで2度拝見しました。
    jijidarumaさん、こんにちは♪

    今日、おじゃましましたら 見覚えのあるお名前。
    肥沼 信次医学博士、すぐにピ〜ンときました。
    jijidarumaさんは、後輩なのですね。

    テレビを見て、とても感動したのをはっきりと
    覚えています。
    もっと広く皆さんに知っていただきたいと思って
    いました。

    丁寧に詳しく書かれているjijidarumaさんの
    旅行記も素晴らしいと思いました。

    桜の木のこともテレビで言っていました。
    命日には、町民の方々によって慰霊祭が行われて
    いるとのことで嬉しいですね。
    ずっと語り継がれていって欲しいものです。

    ヴリーツェンと八王子市が、友好都市の締結を
    目指しているとのことで、こちらも是非に実現して
    欲しいものです。

    なかなかできることでは、ありませんよね。
    こちらでご紹介くださり私も嬉しいです。

    またおじゃまいたします。ありがとうございました。
    夏バテしないように、お気を付けてお過ごし下さいませ。

    cheriko330

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2017/08/07 23:20:55
    献身:ドイツ人に愛された肥沼 信次医学博士: テレビで2度拝見しました。
    cheriko330さん、
    こんばんは。
    ご丁寧なコメントとご投票ありがとうございました。

    さて、本編については投稿してから既に8ヶ月弱が経ちますが、
    こうしてご丁寧な感想が寄せられるのは嬉しいもので、御紹介した
    甲斐があったと思います。

    本編に月々お立ち寄りされる方は凡そ40人ぐらいで、毎月のランク
    も私の30位中の15位ぐらいになりますから、ご興味を持ってお読み
    いただく人がいるなと、投稿者としては嬉しく思っているのです。

    ヴリーツェンの桜の木の話、慰霊祭のこと、博士が名誉市民であること、
    そして様々なエピソードが今も語られ続けていることに、大いなる感謝と、
    感激がありました。

    とはいえ、ドイツでの企業駐在者たちも、日本の外務省、新聞社の
    特派員、留学生も今も知らない方が多いでしょうね。
    やはりヴリーツェンは地図で見るとドイツの片田舎の町です。
    そんな田舎町だけに逆に博士が名誉市民であることの重さを思います。

    戦後、七十年を過ぎても、こうした人物の事が世に知られることが
    少ないのは残念というべきなのでしょう。
    ?命のビザ”の杉原 千畝(すぎはら ちうね)氏もそうでしたが。

    私も15年前に知ったぐらいですから、徐々に三多摩地域に知れ、
    今は八王子市が姉妹都市にと全市を挙げて推進している由、
    意義もある事と言えましょう。
    ヴリーツェンの聖ヨハニッターギムナジウムと私立八王子高校
    とは平成21年に姉妹校提携していますと書いていますが、
    実は平成14年(2002年)の母校の同窓会誌で、肥沼博士の事績に
    ついて紹介された高校3期の先輩が、母校と現地校との姉妹校
    の提携を同窓会経由母校に具申していました。
    生誕地八王子の学校も良いのですが、本来肥沼博士の母校が
    そうであるべきだったと思うのです。

    平成元年(1989年)、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは
    統一され、漸く何事もオープンになった様子をこの田舎町の
    歴史を見ても感じます。
    日独の絆もまだまだこれから強くなっていくことでしょう。

    ・・・

    台風、豪雨、酷暑のとんだ8月ですが、どうぞご健康に
    ご留意の上お過ごしください。
    それではまた。ありがとうございました。

    jijidaruma
  • pedaruさん 2017/07/29 06:23:02
    肥沼信次氏
    jijidarumaさん 初めまして

    Tom Sawyerさんの掲示板で偶然にもjijidarumaさんを知り、日本人医師のことを知りました。読み進めていくうちに感動で涙が止まらなくなりました。

    同じ日本人として彼の生き方に深い感銘を受けました。偶然目にしたjijidarumaさんの旅行記に出会えたことを感謝したいと思います。

    自分を犠牲にしてまで異国の人々のために全力で取り組んだ姿勢は失われかけた日本人の誇りを取り戻させる出来事ですね。肥沼信次博士はそこがドイツでなくてもソ連であっても同じことをしたと思います。このヒューマニズムは多くの人に感銘を与えると思います。

    歴史の中に埋もれることなくこの偉業が日の目を見ることになったのは素晴らしいことです。この旅行記が多くの人に読まれることを願っています。

    今日は大変すばらしい旅行記に出会えて清々しい気持ちで過ごせそうです。ありがとうございました。

    pedaru

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2017/07/29 23:50:00
    RE:故 肥沼信次氏
    pedaruさん、こんばんは。
    初めまして、お立ち寄りとご丁寧なコメントありがとうございました。

    大先輩故肥沼信次氏については、以前より知っていたこともあって、
    何時か纏めてみたいと思っておりました。

    丁度、東京・八王子市が平成29年に市制100周年を迎えるにあたり、肥沼信次医学博士ゆかりのヴリーツェンと海外友好交流協定(友好都市)の締結に向けて、準備中だと
    聞き及びまして、是非この機会に4Traに掲載したと思ったのです。
    ドイツ大好きの私でも全く知らない町(東独の小さな町Wriezenヴリーツェン
    だけに)があり、しかも偉大な日本人、大先輩を知らずにいた事はたいへん
    残念な事でした。

    幸い、この本稿を多くの方がお読みいただいた様子で、私自身も大いに
    喜んで居ります。
    さらに、こうしてpedaruさんから、私が表現したい事を全てここにお書き頂き、
    大変ありがたく拝読いたしました。

    長い間、故肥沼博士は消息が不明でしたが、様々な方の協力で、その
    ≪献身:ドイツ人に愛された肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)医学博士≫
    が表に出たことは、やはり時の大きな変化があったからですね。

    平成元(1989)年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツの共産主義者ホーネッカー大統領が失脚します。そして1990年に東西ドイツは統一されました。
    ヴリーツェン市では、43年間封印されてきた肥沼信次医師に対する感謝の気持ちを、晴れて公にできるようになったのです。

    その意味で、2017年6月16日に亡くなったドイツのヘルムート・コール元首相(享年87歳)には多いに感謝の意を表しないといけませんね。
    彼は東西冷戦で41年にわたり分断された旧東西ドイツを統一させた立役者でしたから。

    それではまた。ありがとうございました。

    jijidaruma


  • わきさん 2017/03/23 10:37:54
    旧制府立二中(現都立立川高校)
    おはようございます。
    正に、真に読ませる旅行記。

    肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)氏は、
    darumaさんの先輩でしたか。

    旧府立2中は、三多摩じゅうの俊秀が
    集まっていたところと聞いています。

    Wriezen市の市民の皆さん方とともに、
    改めまして、真のもののふ肥沼博士の
    ご冥福を祈ります。

    合掌

    わき

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2017/03/23 12:41:58
    RE: 旧制府立二中(現都立立川高校)
    わきさん
    おはようございます。コメントありがたく拝読しました。

    2009年10月にバルト三国の旅に参りました。
    リトアニアのカウナスで6千人ものユダヤ人の命を救い、日本のシンドラーと
    称される杉原千畝氏ゆかりの旧日本領事館に行ったことがあります。

    肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ)氏は違った形で立派な献身をしたわけですが、
    東ドイツのくびきがとれ、氏の事績が表に出たことはたいへん嬉しいことです。

    立派な先輩に比して、出来の悪い私は、学校では野球三昧でした。
    20人に満たない部は夏が終わると、新人戦に参加出来るか心配の9人にまで
    なってしまい、大いに悩んだ高校時代でした。
    学校群のお蔭?で、都立の地盤は落ち込みましたが、逆に昨今、野球部は数十人の
    部員数にまで増えたのは皮肉なものです。
    その母校野球部は明治37年(1904年)に創部され、2004年に創部100年を祝ったから、
    もう110年も過ぎました。その110年をこす長い歴史(私の時期は丁度半分のあたり)
    の中で、甲子園出場という千載一遇のチャンスを2度逃しています。
    昭和24年の春季東京都大会で優勝、昭和21、22年のベストフォーが3回、その後、
    ベストエイト(準々決勝)9回、ベスト16は春・夏・秋の3シーズンで20回を達成するも、
    平成11年のベスト16を最後に低迷し、昭和49年(1974)、東西に分離した東京都
    西大会優勝の壁を越えられずにいます。
    今もOB会のスローガンは”甲子園に出場しよう!”ですから、泣かせますね(苦笑)。

    甲子園・春の選抜大会をTV観戦しながら、野球小僧だった頃を思い出しております。
    以上、蛇足の方が長くなりました。恐縮です。

    jijidaruma

    わき

    わきさん からの返信 2017/03/23 13:25:31
    RE: RE: 旧制府立二中(現都立立川高校)
    >学校群のお蔭?で、都立の地盤は

    当方、その第1期の都立学校群制度の申し子?です。
    (武蔵野市在住半世紀となりました)

    旧府立1中が、日比谷、旧府立2中が立(たち)校。
    3中は、確か芥川が出た現両国高校だったと記憶します。

    darumaさんの本件旅行記で鴎外等チラと出てまいりますが
    鴎外・ナウマン論争や
    鴎外・高木兼寛論争など、
    思い起こされ、
    記憶の底にあったものが、喚起された旅行記でも
    ありました。
    そういう意味からも本件旅行記を読んでいるとき、
    楽しいひと時をあじあわせて頂きました。

    誠にありがとうございました。

    わき


    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2017/03/23 17:01:24
    RE: 旧制府立二中(現都立立川高校)
    わきさん
    再度のコメントありがとうございました。

    第1期の学校群、何かと不満の残る出発であったとか、
    もうこの頃は就職していましたが、弟が同窓で大学浪人中
    の彼から学校群の事を聞かされたと、記憶しています。

    日比谷が山手地区、両国が下町、立川は三多摩の田舎となかなかうまく
    配置した感があります。
    野球部の同期に武蔵野4中出身がいました。私は青梅二中出身で、洒落た
    雰囲気の武蔵野、三鷹出身者が羨ましい存在でしたよ(笑)。

    jijidaruma

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