
2014/05/09 - 2014/05/23
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jijidarumaさん
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ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅
期間:2014年05月09日~23日 15日間)
05月17日(土) 170km、晴れ、16.5℃、今日も天候に恵まれた。
ギュストローの町はメクレンブルク・フォアポンメルン州の第二の都市。州都シュヴェリーンから北東に64kmの距離にある。
今日の目的はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館でじっくりその作品を見たい。それからギュストロー城博物館・庭園、シュヴェリーン城の伝説の小人に会いたい・・・といったところである。
エルンスト・バルラハ博物館はGuestrowギュストローの市内に入る6km手前にあった。急に博物館の案内板が出てきて、左の道に入ると、Inselseeインゼル湖畔の静かな緑濃い森の中にバルラハ博物館があった。
私共はすでにキールの聖ニコライ教会前でバルラハの有名な「Der Geistkaempfer闘う天使」(1928年作品)には出会っている。
参考:
≪ドイツの春:北方二州を巡る旅に出る≫
http://4travel.jp/travelogue/10883955
写真はギュストロー城
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
≪Guestrowギュストロー≫
10:43〜14:00
http://www.guestrow.de/
人口28千人の町の創設者はメクレンブルク侯爵(治世1219~26年)Fuerst. Heinrich Borwin IIハインリヒ・ボルヴィン二世(ロストック侯爵・領主)である。
現在、ギュストローはBarlachstadt Guestrowバルラハの町ギュストローと称しているが、個人名を町の名前に冠しているのも珍しい。
(尚、Lutherstadtルーターの町と称する3つの町があるのも良く知られている。Wittenberg、Eisleben、Mansfeldである。)
写真はギュストロー城の庭園 -
バルラハは1870年、ハンブルク近くのWedelヴェーデルに生まれ、1877年にはRatzeburgラッツェブルクに家族と引越し、若い時期をここで10年ほど過ごした。
68歳の10月、ロストックで脳溢血のため死去し、ラッツェブルクの墓地に家族と共に葬られている。
ギュストローに住んだのは1910年から彼の死の1938年まで、晩年期にあたります。
写真はギュストロー城の庭園(トイレの窓から撮った一枚) -
バルラハの博物館はギュストロー以外に生誕地ヴェーデルと、墓のあるラッツェブルクにもある。
生まれた家、父の家がそれぞれ博物館になっているのだが、ラッツェブルクは “Inselstadt---島の町”の異名を持つように、ラウエンブルグ湖沼自然公園の中の湖に浮かんでいる島にできた町、大聖堂を中心に出来た町である。今は湖沼自然公園を背景にした保養地になっている。
ここにはかつて景観を好んで3度訪れているが、バルラハの博物館(父の家)を見たことがなかった。当時あったのか、不確かだが。
写真はBARLACHラッツェブルクの父の家(バルラハの博物館) -
≪表現主義の彫刻家、画家、劇作家・Ernst Barlachエルンスト・バルラハについて≫
エルンスト・バルラハ又はバルラッハ(1870年〜1938年)は20世紀ドイツの、表現主義の彫刻家、画家、劇作家である。
第一次世界大戦に始めのうちは賛同していたが、自身が戦争を体験することにより転換。反戦的、厭戦的な作品を多く残すようになった。
しかし、そのためにナチスによって退廃芸術の烙印を押され、多くの作品が没収、いくつかは破壊された。彼は彫刻家として最もよく知られているが、絵画、陶芸、版画、戯曲、小説といった幅広い分野で作品を残している。
初期のアール・ヌーヴォースタイルの絵画は日本の浮世絵の影響を受けているという。
写真はハンブルクのイェーニシュ公園内にはErnst-Barlach-Hausエルンスト・バルラハ・ハウスがあり、多くの作品を収蔵・展示している。 -
生涯:
1870年1月2日、エルンスト・バルラハはドイツのヴェーデル(Wedel,シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州のピンネベルク地区、ハンブルクの西方に当たる)で生まれた。
父は医師のゲオルク・バルラハ(Georg Barlach)、母はヨハンナ・ルイーズ・バルラハ(Johanna Luise Barlach)。四人兄弟の長男であった。
ヴェーデルが美術史にその名を記載されるとすれば、エルンスト・バルラハ(Ernst Barlach; 1870-1938)の生まれ故郷であるという一点だけでしょう。
彼の生家は、現在、美術館として一般公開されています。
一家は1872年にシェーンベルクに、1877年にはラッツェブルクに引っ越す。
1884年、父はラッツェブルクで死去。
写真はバルラハの故郷、Wedelヴェーデル:生誕地ヴェーデルのバルラハの博物館 -
修行時代:
1888年から1891年までハンブルクの職業学校に通う。才能を認められ、1891年から1895年までドレスデン王立美術学校で彫刻の勉強をする。この頃、初期の代表作「ハーブを摘む女(Die Krautpflueckerin)」を制作。
一年間、フランスに渡り、パリのジュリアン学院で学ぶが、ドイツの芸術家がフランスのスタイルを模倣しがちなことに対する批判精神は忘れなかった。1897年には再びパリでニ、三ヶ月ほど勉学を続けた。
卒業後、バルラハは生まれ故郷のヴェーデルに戻り、戯曲の執筆を試みるが、ハンブルクのリヒャルト・ムッツ製陶工房で、主にアール・ヌーヴォースタイルの彫刻家として働く。
アール・ヌーヴォーの雑誌「ユーゲント(Jugend、若者)」にイラストを提供もした。また、ヘール・グレンツハウゼン製陶専門学校で素描教師としても働いた。
1904年には最初の個展をベルリンで開く。
写真はバルラハの生誕100年の記念切手(東独1970年) -
表現主義:
1906年、商業的になかなか成功しないことに悩んだバルラハは、弟ニコラスと共に、ロシアで技師として働いている弟のハンスを訪ねる二ヶ月の旅行に出る。これが彼の作風に大きな影響をあたえた。さらに、この旅行中に息子ニコラスが生まれていた。男女関係にあった母親のローザ・シュヴァープ(Rosa Schwab)との二年にわたる裁判の結果、息子の監護権を勝ち取る。
ロシア旅行後、画商のパウル・カッシーラー(Paul Cassirer)などがパトロンになり経済的に余裕が生まれたことから、顔と手に注目しその他の部分は抑えるという表現主義のスタイルを発展させた。
また、初期ゴシック・アート形式の、深い襞のついた木像や銅像も制作しはじめた。風刺雑誌「ジンプリツィシムス(Simplicissimus)」にイラストを提供。さらに、文学作品も執筆している。作品は様々な展覧会に出展された。
1909年、イタリアのフィレンツェで十ヶ月ほど研修した後、1910年にギュストローに移住、生涯をここで過ごした。
第一次世界大戦の始まる以前、バルラハは熱烈な戦争支持者であり、戦争による新しい芸術の時代を待ち焦がれていた。これは例えば、1914年の銅像「復讐者(Der Raecher)」に見ることができる。
彼の待っていた「新しい芸術の時代」は1915年から1916年に歩兵として兵役志願することによってやって来た。しかしバルラハは反戦主義者として帰還した。戦場での恐怖が以降の作品に大きな影響をもたらした。
写真はバルラハの記念切手・Mutter‐Erde母なる大地(1981年) -
芸術家としての成功:
戦争終結後、彼の名声は高まり、多くの賞を受賞。1919年にはプロイセン芸術アカデミー、1925にはミュンヘン芸術アカデミーの一員に選ばれるが、学位や教授の職は辞退した。
戯曲「死の日(Der tote Tag)」、「哀れないとこ(Der arme Vatter)」などが初演される。
この頃、彫刻家のベルンハルト・ベーマーとその妻で同じく彫刻家のマルガ・ベーマー(Marga Boehmer)と知り合う。ベルンハルトは後にバルラハの秘書や画商となった。
迫害の時代には、ナチ党員という身分を利用してバルラハ作品の保護を行った。
マルガ夫人は後のバルラハの生涯の伴侶となる。
写真はバルラハの記念切手・笑う老人(1999年) -
退廃芸術:
1928年以降もバルラハは自身の戦争体験に基づいた反戦的な作品を作り続けていたが、ナチズムの台頭により作品は様々な批判の対象となった。
例えば、「マクデブルク戦没者記念碑(Magdeburger Ehrenmal)」は、英雄的なドイツ兵が国家の栄光のために戦った場面を期待されてマクデブルク市から制作を依頼されたが、バルラハはフランス兵、ドイツ兵、ロシア兵が戦争による恐怖と痛みに絶望の表情を見せる作品を作った。
当然のことながら、この作品は戦争支持者による激しい議論を巻き起こし、結局、1934年に撤去された。他国に売却されるところを、ベーマーが買い取って保護していたため、戦後マクデブルク大聖堂に設置された。しかし、このような攻撃はバルラハが死去するまで続いた。
1931年、友人のベーマー夫妻が別居。バルラハはマルガ夫人と同居生活に入る。
1936年、ケーテ・コルヴィッツ、ヴィルヘルム・レームブルックとの展覧会を開くが、多くの作品が没収される。バルラハは作品の制作を禁じられ、芸術アカデミーの会員資格も取り消される。
1937年には全ての美術館から作品の撤去。さらにはミュンヘンの「退廃芸術展」で銅像「再会」が晒しものにされた(展示時のタイトルは「キリストとヨハネ」。実際はキリストとトマスの再会がモチーフである)。
8月、ギュストロー戦没者記念碑の撤去。銅像は軍事目的のために熔解された。現在ケルンとギュストローにある像は復元されたものである。
1938年3月、ハンブルク戦没者記念碑除去。10月24日、ロストックで脳溢血のため死去。ラッツェブルクの墓地に葬られた。68歳。死後、ニューヨークで記念展覧会が開かれた。ロンドンでの「20世紀ドイツ芸術展」ではバルラハの9作品が展示された。
戦後、名誉回復の行われたバルラハ作品は、1950年には「ハンブルク戦没者記念碑」が、1953年には「ギュストロー戦没者記念」が復元され、元の場所に設置された。しかし、このときも一部の市民から反対の声が上がったという。
写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハの自画像 -
①Kielキールの13世紀のSt.Nikolai-Kirche聖ニコライ教会(*バルラハの「闘う天使Der Geistkaempfer」1928年作品が教会前にある。
②Guestrow ギュストロー:
Schloss Guestrowギュストロー城
エルンスト・バルラハ劇場
ギュストロー大聖堂の天使像”Der Schwebende (Engel)")は「空飛ぶ天使」と訳されることが多い。
Gertrudenkapelle:Wanderer im Wind. Eichenholz; H. 120 cm (1934: E. Barlach).
Guestrow,_Ernst-Barlach-Gedenkstaette
Guestrow_Barlachs-Mutter-Erde im Park der Gertrudenkapelle
写真はラッツェブルクのバルラハの墓地 -
【ERNST BARLACH STIFTUNG GUESTROWエルンスト・バルラハ財団(ギュストロー)】
Gertrudenkapelle、Atelierhaus 、 Graphikkabinettの3つが博物館を構成している。
≪Atelierhausアテリールハウス(アトリエ) 、
Graphikkabinettグラフィックカビネット(博物館の展示場)≫
10:43〜11:35
D-18273 Barlachstadt Guestrow 、Heidberg 15
開館:火〜日 10:00〜17:00
共通入場券(Euro20.5)を購入し、グラフィックカビネットに入った。1998年に開館し、都度、展示品も変えるである。
320体の彫刻、1400の素描・スケッチ、300の版画、110の文学草稿、130の下書き・草案、手帳など相当の数のコレクションが蒐集されているとのことだ。
闘う天使、読書する人、眠れる小作農、笑う老人、耳を澄ます人たちのフリーズ、自画像、数々の素描・スケッチ、版画を見る。
写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・工房 -
<Gertrudenkapelleゲルツルーデン教会(バルラハ作品)>
11:50〜12:15
D-18273 Barlachstadt Guestrow 、Gertrudenplatz 1
主要な教会はマルクト広場を中心とする旧市街にあるが、こちらは旧市街からほんの少し外に立っている教会である。駐車場を見つけて車でうろうろしていたら、これを見た近所の親切なドイツ人が、“ここにあるよ!”と3台ほどの駐車場を示した。
そこから教会の塀に沿って100mぐらい歩くと、入口になった。14世紀末から15世紀初めに作られた教会の重い扉を押して中に入ると、数人の観光客が熱心に見ている。
ここにも読書する人が見られ、杖をついた物乞い、母親を彫ったというMutter‐Erde母なる大地、再会、漂う天使(ドーム天使)の顔などの彫刻が見られた。
教会周辺の庭園には西洋サンザシの赤い花や白い小手毬が咲き誇って、やはり春なのだ。
ここにも数体のブロンズ像が芝生の上に置かれていたが、あのMutter‐Erde母なる大地に似た石像もあった。
写真はバルラハ作品の展示があるGertrudenkapelleゲルツルーデン教会 -
ギュストロー城から出ると、右手にある。学生たちが集まっていたが、観劇でもするのか?ここは時間もなく、遠くから眺めて写真を撮っただけに終わった。
<Ernst-Barlach-Theaters Guestrowエルンスト・バルラハ劇場(ギュストロー)>
D-18273 Guestrow 、Franz-Parr-Platz 8 (Buehneneingang)
http://www.ernst-barlach-theater.de/
開館:水〜金 12:00〜18:00
写真はErnst-Barlach-Theaters Guestrowエルンスト・バルラハ劇場(ギュストロー) -
主な作品:
「ハーブを摘む女」(Die Krautpflueckerin)、1894年
「座った女」(Sitzendes Weib) 、ニュルンベルク、1908年
「忘我」 1911-12 愛知県美術館蔵
「復讐者」 (Der Raecher)、1914年
「再会」(Das Wiedersehen)、1926年
「ギュストロー戦没者記念碑」(Guestrower Ehrenmal)、ギュストロー 、1927年
写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハと作品 -
「漂う天使(ドーム天使)」(Der schwebende Engel)、1927年
「歌う男」(Der singende Mann)、ニュルンベルク、1928年
「闘う天使」( Der Geistkaempfer)、キール、1928年
「マクデブルク戦没者記念碑」(Magdeburger Ehrenmal)、マクデブルク大聖堂、 マクデブルク 、1929年
「杖をついた物乞い」(Bettler auf Kruecken)、1930年
「ハンブルク戦没者記念碑(母と子)」(Hamburger Ehrenmahl)、ハンブルク、1931年
「読書する人」(Der Buchleser)、シュヴェリーン、1936年
Gethsemanekirche ゲッセマネ教会in Berlin・Prenzlauer Berg. Der Geistkaempfer闘う天使像
(Wik抜粋:2014.10.07.編集・加筆)
写真はバルラハ作品・「マクデブルク戦没者記念碑」(Magdeburger Ehrenmal)、マクデブルク大聖堂、 マクデブルク 、1929年 -
写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品
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写真はギュストロー大聖堂:バルラハ作品・漂う天使(空飛ぶ天使・ドーム天使)
1927年、エルンスト・バルラハは第一次大戦の犠牲者を悼んだ漂う天使(ドーム天使)を創った。教会内の内陣にこの天使は漂っていた。 -
写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・眠れる小作農
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写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・読書する人
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写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・笑う老人
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写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・素描・スケッチ
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写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・素描・スケッチ
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写真は ギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・素描・スケッチ
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写真はギュストローのエルンスト・バルラハ博物館・バルラハ作品・ 耳を澄ます人たちのフリーズ
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写真はバルラハ作品の展示があるGertrudenkapelleゲルツルーデン教会:Mutter‐Erde母なる大地
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写真はバルラハ作品の展示があるGertrudenkapelleゲルツルーデン教会:
風の中の旅人 -
写真はバルラハ作品の展示があるGertrudenkapelleゲルツルーデン教会:再会
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写真はバルラハ作品の展示があるGertrudenkapelleゲルツルーデン教会:本を読む人
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写真は踊る老人
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写真は「ハンブルク戦没者記念碑(母と子)」(Hamburger Ehrenmahl)、1931年
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写真はキールの聖ニコライ教会:「闘う天使像」( Der Geistkaempfer)、1928年
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写真のラッツェブルクは “Inselstadt---島の町”の異名を持つように、ラウエンブルグ湖沼自然公園の中の湖に浮かんでいる島にできた町:ここにバルラハの墓がある。
-
≪Guestrower Domギュストロー大聖堂≫
12:30〜12:55 入場券・カメラEuro3
http://www.dom-guestrow.de/index.php/de/
聖マリア、聖ヨハネ、聖セシリアの大聖堂は1226年6月3日、メクレンブルク公Fuerst. Heinrich Borwin IIハインリヒ・ボルヴィン2世侯爵が建てたもので、北ドイツ独特の煉瓦造りゴシック様式の建物である。西塔は44mの高さである。
歴史を感じさせる内部には15、6世紀のClaus Bergクラウス・ベルクのイエスの像、及びHinrik Bornemann(1495年)ヒンリック・ボルネマンのBornemann Altar祭壇がある。オランダの建築家Philipp Brandinフィリップ・ブランディンが作成したメクレンブルク家のStammbaum家系図も一見の価値がある。
写真はGuestrower Domギュストロー大聖堂 -
また、大聖堂の背面の壁にHerzog Ulrich von Mecklenburg-Monument&Epitaphメクレンブルク公爵ウルリッヒ(右)の記念碑および墓碑銘が見事な形で作られている。
そこには最初の公妃Elisabeth von Daenemarkデンマークのエリザベート(中央)と2番目の公妃Anna von Pommernポメラニアのアンナ(左;バルト海南岸のポメラニアにあった西スラヴ系の公国、現ポーランドのStettinシュテティーンに首都があった。)の墓がある。
更に1927年、エルンスト・バルラハは第一次大戦の犠牲者を悼んだ漂う天使(ドーム天使)を創った。教会内の内陣にこの天使は漂っていた。
開館時間:月〜土 10:00~17:00
写真はGuestrower Domギュストロー大聖堂:Herzog Ulrich von Mecklenburg-Monument&Epitaphメクレンブルク公爵ウルリッヒの記念碑および墓碑銘 -
写真はGuestrower Domギュストロー大聖堂:Herzog Ulrich von Mecklenburg-Monument&Epitaphメクレンブルク公爵ウルリッヒ(右)、最初の公妃Elisabeth von Daenemarkデンマークのエリザベート(中央)と2番目の公妃Anna von Pommernポメラニアのアンナ(左;バルト海南岸のポメラニアにあった西スラヴ系の公国、現ポーランドのStettinシュテティーンに首都があった。)の墓がある。
-
大聖堂からフィリップ・ブランディン通りを右手に歩くと、裁判所、インフォーメーション、エルンスト・バルラハ劇場、そしてギュストロー城・庭園が集まった広場に出た。
写真は広場中央にDenkmal Freiwillige Jaeger志願した猟師兵(義勇兵)の記念碑のあるFranz-Parr-Platzフランツ・パル(城の建築家の名前を取った)広場・・・1813年志願兵がここに参集し、訓練をしたという広場だ。 -
≪Schloss Guestrowギュストロー城≫
13*00〜13:50 入場料Euro10
D-18273 Guestrow 、Franz-Parr-Platz 1
http://www.museum-schwerin.de/orte/schloss-gustrow/
ギュストロー城もシュヴェリーン城もそうだが、当時、力のあったスラヴ人がそれぞれの地にスラヴ風の砦を築いていた。ギュストローには1219年、西スラヴ人の砦が最初に築城された。その後、1229年から1436年までFurrsten von Werleヴェルレ侯爵(西スラヴ系)の代々の居城となっていた。
ヴェルレ侯の死後、1436年、Herzogtum Mecklenburg Schwerinメクレンブルク・シュヴェリーン公爵(元々に遡るとスラヴ系の出身)がギュストロー城を第二の居城とした。
ギュストロー城は1972年以来、中世、狩猟と武器や現代美術の北ドイツ芸術のための博物館として使用されている。庭園は珍しい事にルネサンス風だと云う。
*1986年以来、シュヴェリーン州立博物館及びルートヴィヒルスト城博物館、ギュストロー城博物館の三州立博物館は一体の組織になっている。
開館:火〜日、10:00〜17:00
写真はSchloss Guestrowギュストロー城:正面入り口 -
Franz-Parr-Platzフランツ・パル(城の建築家の名前を取った)広場を横切り、Torhaus城門 を抜け、Eingangsportal 玄関から城内に入っていく。
城内博物館は1階、2階、そして地下に展示がある。
Tordurchlass通り抜けの間の天井模様は漆喰芸術が見られ、コロッセウムの剣闘士、猛獣の争闘、狩猟の場面などが描かれていた。
トイレを借りに行ったら、“庭園を写すなら、ここ(3階)のトイレから撮ると良い写真が撮れる。”と、博物館の男性スタッフが教えてくれた。確かに、俯瞰した庭園全体が写真に納まった。
その他の城内展示にはメクレンブルク・シュヴェリーン公爵夫妻の人物画、陶磁器、キリストの聖壇、木彫りと思しき女性の胸像など。
ギュストロー城の庭園に出てみると、庭園中央にビオラと桜草の花で美しく彩ったハート、その周囲を幾何学模様の庭が8つ、広々とした庭を形作っていた。
この庭園から見るギュストロー城は最も好まれるビューポイントだそうだとか・・納得。
写真はSchloss Guestrowギュストロー城:Festsaal祝典の広間の天井 -
写真はギュストロー城:メクレンブルク・シュヴェリーン公爵夫妻(メクレンブルク公爵ウルリッヒと2番目の公妃Anna von Pommernポメラニアのアンナ)
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写真はギュストロー城:聖壇
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写真はギュストロー城:?夫人の木彫りの胸像
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写真はSchloss Guestrowギュストロー城:Festsaal祝典の広間
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写真はSchloss Guestrowギュストロー城: Parrsaal結婚の広間
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写真はSchloss Guestrowギュストロー城と庭園・2006年春
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写真はSchloss Guestrowギュストロー城の遠景
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写真はゲルツルーデン教会の西洋サンザシの赤い花
XXX
本日の最後は64km先のSchwerinシュヴェリーンの観光です。
参考:
≪伝説:シュヴェリーン城の守護精霊・小人のペーター≫
http://4travel.jp/travelogue/10896308
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