2019/09/23 - 2019/09/23
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jijidarumaさん
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≪2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅≫
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
9月23日(月) 162km、 小雨(シャワー)後曇り、16℃
美しい木組みの家並みが見られるリンテルン旧市街の見学。
リンテルンやハーメルン・ピルモント郡にあるオルデンドルフの町とシャウムブルク郡もかつてのシャウムブルク伯爵家の領地であった。
写真は15世紀、ドイツ・フランクフルト(Heimatmuseum Bergen-Enkheimベルゲン・エンクハイム郷土資料館蔵)で使用されていた処刑人の剣。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
Rintelnリンテルンはニーダーザクセン州シャウムブルク郡の市でヴェーザー渓谷に位置する。
写真はかつてのDie Grafschaften Schaumburg1866年、シャウムブルク伯家の領地図 -
人口25.5千人のリンテルンは南をリッペ山地、北をヴェーザー山地、東をジュンテル山およびフィッシュベック山に囲まれている。地形上はヴェーザーベルクラント・シャウムブル・ハーメルン自然公園に属す。
写真はRinteln_(Merian)1647年頃のリンテルン -
イチオシ
ヴェーザー川右岸、北側に渡った高台に小さな村が創られた(後のアルト・リンテルン)。
1230年頃、Adolf IV.Graf von Schauenburg und Holsteinホルシュタインとシャウムブルク伯アドルフ4世(在位:1225年~1239年)が、対岸のヴェーザー川南岸にノイ・リンテルンを建設した。
リンテルン市は城塞都市で、13世紀頃から19世紀初頭まで外部からの攻撃から守った。
写真はRintelnリンテルン:旧市庁舎とラーツケラー -
旧市街には見応えのある木組み建築の家並みを見ることができたが、残念にも天気が悪い。
写真はRintelnリンテルンのマルクト広場:特徴的な木組みの家並み -
イチオシ
1980年代に整備されたマルクト広場を中心に、Buergerhaus市民の館(Hauptwache旧衛兵本部)、ルター派の市教会であるSt.-Nikolai-Kirche聖ニコライ教会やヴェーザールネサンス時代の建物であるAlte Rathaus&Ratskeller旧市庁舎とラーツケラー(市参事宴会場)、Haus Markt 8・Marktwirtschaftマルクト8番地の館「マルクトヴィルトシャフト」など、広場周辺の整然とした木組みの家並みを見ると、その美しさに感心し、すごいなーと思う。
写真はRintelnリンテルンのマルクト広場:(左)市民の館(旧衛兵本部)、(右)聖ニコライ教会の塔 -
<ヘッシシュ・オルデンドルフ:シャウムブルクの死刑執行人>
Hessisch Oldendorfヘッシシュ・オルデンドルフの町は2019年ドイツ初秋の旅で訪れる町に入っていたが、主たる行程のミンデンとリンテルンから少し外れていた位置にあった為、訪れる事は無かった。
だが、事前に調べたところ、この町は幾つかの話に興味があった。
その一つはSchaumburgシャウムブルクの「Scharfrichter und Gerber死刑執行人と皮なめし工」の事でした。
死刑執行人(英語でExecutioner)は裁判によって死刑が確定した犯罪者に対して死刑を執行する者のことで、通称「処刑人」とも呼ばれている。
ヨーロッパにおける死刑執行人は世襲制で、大半の国で国家の設立から近年の死刑制度の廃止まで、政治体制に関係なく世襲が数百年に亘って続いていた。
これはヨーロッパにおける死刑執行人が一種の被差別民として扱われ、就業や婚姻において強い差別を受け、特定の一族以外が死刑執行人に就くのを妨げていたことによる。
(日本の江戸時代にも「山田 浅右衛門」という世襲した死刑執行人一族がいた。江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称が浅右衛門、死刑執行人を兼ねていたため、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた)
写真は現在のハーメルン・ピルモント郡:中央にハーメルン、左上にあるオルデンドルフと、その上のシャウムブルク地方の位置関係、中央を斜めに走る青い線はヴェーザー川。 -
死刑執行人の記録が残るヘッシシュ・オルデンドルフの町はニーダーザクセン州ハーメルン・ピルモント郡に属する町(人口18,130人)である。
オルデンドルフの町はヴェーザー川の近くに位置し、メルヘン街道の都市ハーメルンの北西 13 km にある。
(尚、1905年、他の町との区別のために、市名に「Hessischヘッシシュ」が冠せられた。かつて、この町はプロイセン王国のヘッセン・ナッサウ州に属していたためである)
写真はHessisch_Oldendorf_Stadtansicht1633年オルデンドルフの様子・・・要塞都市の感じだ。 -
オルデンドルフが都市として建設されたのは、13世紀の第2四半期とする説が有力である。おそらくAdolf IV. Graf von Schaumburg (Schauenburg und Holstein)シャウムブルク伯アドルフ4世が、約25のSchaumburgシャウムブルク地方の集落の中心に城壁に囲まれたオルデンドルフの建設を計画し、この領地を支配したと考えられている。
写真はヘッシッシュ・オルデンドルフ市の紋章
<Hessisch Oldendorfヘッシッシュ・オルデンドルフ市の紋章>
この市の紋章は特徴的で、上部は黄色の地に8の光線を伸ばす赤い星が3つあり、下部は楯形の大部を赤い地に白い*Nesselblattネトル(Nettle ネトル=Nesselネッセル)=イラクサの葉を示している。 -
写真はネトル(イラクサ)
*ネトルとは英語でNeedleニードル(針)と同じ意味の言葉でNettleと書き、セイヨウイラクサと呼ばれ、葉から根まで全てが薬草として使える。
その主な使い方はハーブティー。特徴的な葉にある針のようなトゲは刺激のある毒性を含む。
ネトルの花言葉は「残酷さ」、そのトゲの毒で邪魔者の侵入を許さないという意味もある。シャウムブルク伯家はこの特殊性を好んだのだろう?
・・・・・ -
<Burg Schaumburgシャウムブルク城>
Burgstrasse 1
この郡の象徴的建造物であり、中世にはシャウムブルク伯領の主城であったSchaumburgシャウムブルク城はRinteln リンテルン市シャウムブルク区のNesselbergネッセルベルク(イラクサ山、丘) に建っている。
リンテルンの町から東に12kmヴェーザー山地Nesselbergネッセルベルク山(225m)に立つ円錐形のシャウムブルク伯の城。
元は狩猟の館であったが、13世紀にシャウムブルク伯が居城とした。Georgsturmゲオルクの塔は30mの高さ。眺望が良い事で知られている。
伝説:Schaumburgシャウムブルク城のDie Blutlinde血の菩提樹 尚、番外編参照。
https://4travel.jp/travelogue/11542287
写真はシャウムブルク城 -
写真はWappen von Schauenburgシャウムブルク伯の紋章はネトル=イラクサの葉模様
尚、ネトル=イラクサの葉を紋章に使用しているのは、シャウムブルク伯(シャウエンブルク・ホルシュタイン伯爵家)、ホルシュタイン伯爵家、Landkreis Ploenプレーン郡、Landkreis Schaumburgシャウムブルク郡、シャウムブルク郡内のHasteハステ、 Auetalアウエタール、Samtgemeinde Niedernwoehren ザムトゲマインデ・ニーデルンヴェーレン、Rinteln リンテルン(2019年の旅で訪れた)の市町村など、シャウムブルク伯家につながるものだ。 -
<Schaumburger Scharfrichterシャウムブルクの死刑執行人>
シャウムブルクの死刑執行人の職(場)は町の創立時からあったと云われる。
死刑執行人がやはり監視人も務めていた市牢獄(Buergerzwangturmビュルガーツヴァングトゥルム)近く、Mittelstrasse 9/Ecke Paulstrasseミッテル通り9番とパウル通りとの角に、彼らの職(場)があった。
そこはまた16世紀にKaiser Karl V.皇帝カール5世により制定された重罪刑事法廷「Carolinaカロリーナ」の刑場として用いられていた。
死刑執行人の職業は「名誉あるもの」ではなく、どのギルド(各種の職業別組合)にも属せず、私生活においても特別な規則が課されていた。
ラーツケラー(市庁舎地下のレストラン)や教会では、この恐ろしい仕事をなす人物に、市議会から決まった場所(席)が与えられていた。結婚は死刑執行人の一族の範囲内だけで、他の職業グループの者との結婚はできなかった。
1755年、ベルセデとグローセンヴィーデンの境界にある草地の処刑台で3回の拷問の後に、刑事裁判所での最後の処刑が行われた。
死刑執行人のFarneckファーネックは子供殺しの女の頭を*Richtschwert処刑人の剣で胴体から切断した(斬首した)。
写真はWesertalヴェーザー川流域にあるヘッシシュ・オルデンドルフ -
シャウムブルク伯領のような小さな所領では死刑執行人の「能力いっぱいの仕事」はわずかであった。その為、死刑執行人の収入の多くを皮剥(かわはぎ)の仕事で得ていた。
シャウムブルク伯領全土の傷ついた家畜はもっぱらオルデンドルフの死刑執行人によって皮剥処理されることと決められていた。死んだ家畜を市民が自分で勝手に埋葬することは禁じられていた。
皮剥業者の徒弟が家畜を受け取り、「Fillereiフィレライ=Abdeckerei皮剥場」で処理された。この処理場に起因する、狭い都市での悪臭公害や堀の水質汚染は「皮剥場」を市城壁外のBarksener Wegバルクゼーナー・ヴェク(現在の Stadthalle市立ホール)への移転を促した。
処理場では、死んだ動物の蹄や角が利用されたが、主たるものは獣皮であった。
獣皮の利用は別の職業グループに属した「革なめし工」に引き継がれた。
市の周りの小川沿いには多くの革なめし場があったと記録されており、中でもSegelhorsterstrasseゼーゲルホルスト通りのWehrhahnsche Gerbereiヴェールハーンシェ革なめし場が最大のものであった。
獣皮の他に、樫の樹皮からなめし皮用の樹皮をひく臼(Lohmuehle水車小屋)によって採られる十分な量の粉末(なめし皮用)も皮革製造の前提条件であった。
何世紀もの間主要な産業であった「Schuhmacher靴職人」の(手工業者)ギルドはシャウムブルク死刑執行人兼皮剥職人のお蔭で利益を上げていた。
「オルデンドルフは1つの町に99人の靴屋がいる」と、かつての様子をわらべ歌に残されているそうだ。だが、20世紀後期になると、2つの「Schuhfabrik製靴工場」の工業生産が零細な職人仕事に取って代わった。(Wiki)
写真は15世紀の死刑執行人は典型的な赤の衣服を着て処刑に臨んだ。 -
<*Richtschwert処刑人の剣>
処刑人の剣は両手での使用を意図されていたが、その全長は一般的に片手剣(約80-90cm)と同程度であった。鍔はきわめて短く、大抵はまっすぐで、柄頭は洋ナシ状もしくは切子状をしている。戦闘用の刀剣と異なり刀身に切っ先がないのは、突くための機能が不要であるためである。
中世ヨーロッパでは、斬首刑は普通の剣で執行されていた。処刑専用の剣として知られる最古の例が登場するのは1540年頃である。この専用の剣種は17世紀に至るまで使用されたが、18世紀前半にギロチンによる斬首刑が行われ始めると、急速に使用されなくなった。
写真は処刑人の剣(17世紀、ドイツ) -
15世紀、ドイツ・フランクフルトで使用されていた剣(写真参照)には「Wan Ich Das Schwert thue Auffheben / So Wuensche Ich Dem Suender Das Ewige Leben.この剣を振り上げし時、我は科人に永久の生を祈らん」と刻まれている。
写真は15世紀、ドイツ・フランクフルト(Heimatmuseum Bergen-Enkheimベルゲン・エンクハイム郷土資料館蔵)で使用されていた処刑人の剣。 -
写真はScharfrichterschwert15世紀、ドイツ・フランクフルト(Heimatmuseum Bergen-Enkheimベルゲン・エンクハイム郷土資料館蔵)で使用されていた処刑人の剣(拡大・・・刻まれた文字が見える)。
・・・・・・・・・・・・・・
様々な国の死刑執行人の記録が残るが、「ドイツ最後の死刑執行人Johann Reichhartヨハン・ライヒハート」については参考に下記した。
<ドイツ最後の死刑執行人Johann Reichhartヨハン・ライヒハート>
ヨハン・ライヒハート(1893年~1972年)は20世紀半ば過ぎまで生きていた死刑執行人である。
ライヒハートは生涯で3,165人の処刑に携わり、詳細な記録を残した。
その処刑者数ではフランス革命でルイ16世、アントワネット王妃など約2,700人をギロチンで処刑したCharles Henri Sansonシャルル・アンリ・サンソン(1739年~1806年)、パリの死刑執行人(Monsieur de Parisムッシュ・ド・パリ・・・執行人の頭領を表す称号)を勤めたサンソン家の4代目当主をも上回り、公式の死刑執行人としては史上最多であるとされている。
1893年、ヨハン・ライヒハートはバイエルン王国、Woerth an der Donauヴェルト・アン・デア・ドナウのWichenbachヴィヒェンバッハで生まれた。
ライヒハート家は8世代にわたる死刑執行人の家系であり、叔父のFranz Xaver Reichhartフランツ・クサーヴァー・ライヒハートなどを始め、多くが同様に死刑執行人であった。
ライヒハートの経歴は1924年から始まり、ヴァイマル共和国からナチスの時代にわたって3,000人(その内2,948件のギロチン処刑)以上を処刑した。
ドイツの死刑執行件数が歴史上最多を極めたのはナチス政権時代で、第二次世界大戦が始まると死刑執行人が足りなくなり大幅増員されている。
ナチス政権時代には、裁判の判決記録が公式に残っている死刑執行だけでも1万人を超えている。
ナチス・ドイツに併合された国での死刑執行まで含めると、6万人が死刑になったと云われている。この反省により、ドイツでは比較的早い時期に死刑制度が廃止されている。
ライヒハートは死刑執行の依頼を受けた人数が莫大であったにも関わらず、執行手順を非常に厳しく守った。黒い上着に白いシャツ、白い手袋それに黒い蝶ネクタイという、ドイツの伝統的な死刑執行人の服装を着る。そして、助手と共に罪人の体を固定すると、苦痛を与えないよう速やかに首を切断した。
彼の仕事はポーランドとオーストリアを含む占領されたヨーロッパの多くの地域で行われた。
ヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)の後で、ナチスメンバーであったライヒハートは逮捕され、非ナチ化の目的のためにLandsbergランツベルク刑務所に収監された。裁判の結果「死刑執行人としての義務を遂行したものである」とされ、無罪となった。1946年5月末にランツベルク刑務所で156人のナチス戦犯を処刑するために、彼は占領当局によって再雇用された。
ニュルンベルク裁判で死刑を宣告された人々の処刑を連合国の死刑執行人であるジョン・クリス・ウッズ二等軍曹と協力して行った。
ライヒハートはナチスと連合軍の両方で、歴代のどの死刑執行人よりも多くの処刑を行ってきた。
1949年、西ドイツにおいて死刑廃止のため、最後の死刑囚である強盗殺人犯に対するギロチン刑を行った。死刑廃止後も彼は嫌われ、孤独な人生を歩んだ。また、息子のハンスは父の職業との関係から結婚に失敗して、1950年に自殺した。
1963年、タクシー運転手連続殺人事件で死刑再開の議論がされた。ライヒハートは死刑再開法案支持の政治活動に呼び出され、処刑を最も早く残酷でない方法で行うにはギロチンが良いと主張した。
1972年、バイエルン州ミュンヘン北東近郊のLandkreis Erdingエルディング郡にあるDorfenドルフェンにて死去。
・・・・・・・・・・ -
クラウス・シュテルテベッカーはハンザ都市の市民なら誰でもその名を知っていた伝説の海賊である。
Vitalienbruederヴィタリエンブリューダーという海賊団の頭であり,14世紀末に北海・バルト海を荒らしまわってハンザの船乗りを恐怖に陥れた。
1399 年のハンザ会議で諸都市共同による海賊掃討が決定され、メンバーのハンブルクも「Bunte Kuhまだら牛号」を主にしたハンブルク船隊を派遣し、ヘルゴラント島でシュテルテベッカーを捕縛した。彼は1401年10月20日にハンブルクのグラスブローク通りで斬首された。
写真は1401年10月20日にSeeraeuber Klaus Stoertebeker海賊クラウス・シュテルテベッカーはハンブルクのグラスブローク通りで斬首された。 -
このバルト海の海賊王は伝説となって,今日でも数多くの書物に姿をあらわしている。
写真はSchlosshotel Ralswiek auf Ruegen:リューゲン島南部にある古城ホテル ラルスヴィーク城:毎年6月中頃から9月初めにかけてStoertebeker Festspiel海賊シュテルテベッカーの時代野外劇が催される。 -
写真は1573年、ハンブルクにて捕えたSeeraeubern海賊たちを処刑する場面
-
(ドイツの死刑執行人のカテゴリーで検索すると、出てくる)
1573年 Franz Schmidtフランツ・シュミット:ニュルンベルクの死刑執行人。克明な日記を残した。
1870-1889 Julius Krautzユリウス・クラウツ:プロイセンの死刑執行人
1800年代後半 Franz Xaver Reichhartフランツ・クサーヴァー・ライヒハート
1924年 Johann Reichhartヨハン・ライヒハート:歴史上最多の死刑を執行している。
1943年 Alois Weissアロイス・ヴァイス:ゲシュタポの死刑執行人。
1968-1981 Hermann Lorenzヘルマン・ローレンツ:東ドイツの死刑執行人
ナチス政権下で増員された死刑執行人
1940-1945 Gottlob Bordtゴットロープ・ボルト
1943-1945 Karl Henschkeカール・ヘンシュケ
1943-1945 August Koesterアウグスト・ケスター
1943-1945 Alois Weissアロイス・ヴァイス
1943-1945 Willi Roettgerヴィリー・レトガー
1943-1945 Johann Muehlヨハン・ミュール
1943-1945 Fritz Witzkaフリッツ・ヴィッツカ
1944-1945 Alfred Roseliebアルフレート・ローゼリープ
・・・・・・・
尚、ドイツとフランス、イギリスは記録が残っているようだ。
写真は1617年フランスでの斬首刑を行う死刑執行人の絵
(2020年10月8日訳・編集加筆)
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この旅行記へのコメント (2)
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- M-koku1さん 2020/11/20 20:38:56
- 知らなかった~
- jijidarumaさん
死刑執行人が世襲制だったなんて 驚きました!
でも差別を受けて 生きていたんですね。
何だか 辛い人生のような気がします。
それに ギロチンの前には 絞首刑が主なのかと思っていたのですが、
首はねが 主な方法だったんですね。
何故絞首刑だと思ったかというと アウシュビッツの強制収容所を訪問した時に
元の収容所長を死刑にするために使われた 絞首刑代が残っているのを目にしているからです。
あんな剣で きれいに切れたのでしょうか?
失敗したら 痛かったでしょうね・・・
こういう暗黒史も 紐解いてみると なかなか興味深いものですね。
いつも とても勉強になります。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/11/21 01:44:53
- Re: 知らなかった~
- M-koku1さん、
今晩は。いつもありがとうございます。
文字通りの番外編らしいものになりました。
私自身もこんな町があるのかと、町の概要を調べていて、
死刑執行人が世襲制(いわゆる日本でもある差別、人外の者)
に驚きながら、興味を持ったのでした。
結局、訪問してどうかというものでもなく、他に見る町があったので
ここは省略してしまいました。
番外編も旅が終わり、旅行記を完成させると、何やらシャウムブルク
の事が気がかりになり、このようなものに仕上がりました。
しかし、斬首とは難しい方法だと思いますね。それも公開処刑が普通だから
仕損じは大変だったでしょう。死刑執行人がギロチン刑を推奨したのが
なんとなく理解できますね。
死刑執行人のカテゴリーで検索すると、情報が出てくるのが
またすごいことです。
フォロー仲間との間に、今度は盗賊騎士(強盗騎士)の話が出て、
番外編が出来そうです(笑)。
jijidaruma
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