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Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅<br /><br />期間 :2012年05月15日(火)〜05月29日(火)15日間の旅<br /><br /><br />≪Fuersten von Thurn und Taxisトゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)の夏の離宮≫<br /><br />ドイツ第11回目の旅で、古城巡りの25番目に訪れたのはSchloss Taxisタクシス城である。<br /><br />トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は“皇帝の外交郵便屋”とか、“郵便侯爵”と呼ばれた侯爵家である。<br /><br />写真はタクシス城の俯瞰

≪“皇帝の外交郵便屋”とか、“郵便侯爵”と呼ばれた侯爵家≫

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2012/05/15 - 2012/05/29

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旅行記グループ ドイツ:番外編様々

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jijidaruma

jijidarumaさん

Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

期間 :2012年05月15日(火)〜05月29日(火)15日間の旅


≪Fuersten von Thurn und Taxisトゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)の夏の離宮≫

ドイツ第11回目の旅で、古城巡りの25番目に訪れたのはSchloss Taxisタクシス城である。

トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は“皇帝の外交郵便屋”とか、“郵便侯爵”と呼ばれた侯爵家である。

写真はタクシス城の俯瞰

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
レンタカー
航空会社
ルフトハンザドイツ航空 ANA
旅行の手配内容
個別手配

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  • ≪Schloss Taxisタクシス城≫<br />D-89561 Dischingen ‐Taxis  、Schloss Taxis 4<br />http://www.dischingen.de/ <br />http://www.youtube.com/watch?v=VyN0HGWo480<br /><br />ハイデンハイムの東18km のTrugenhofenトルーゲンホーフェンにある。<br />昨日宿泊したBurg Katzenstein 古城ホテル カッツェンシュタイン城(猫城)からは3kmと、近い距離にある。<br />かつてはSchloss Trugenhofenトルーゲンホーフェン城(14世紀の築城)と呼ばれていた。<br />1365年、カッツェンシュタインの騎士が城主になった事もある。<br /><br />ご参考に;≪猫の塔の宝物伝説:Die Sage・Katzensteiner Schatz≫<br />http://4travel.jp/travelogue/10920705<br /><br />1734年に“郵便侯爵”として知られるFuersten von Thurn und Taxis トゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)の居城になり、1817年、夏の離宮に建て替えられて、現在の名前になった。<br /><br />写真はSchloss Taxisタクシス城の外観

    ≪Schloss Taxisタクシス城≫
    D-89561 Dischingen ‐Taxis  、Schloss Taxis 4
    http://www.dischingen.de/ 
    http://www.youtube.com/watch?v=VyN0HGWo480

    ハイデンハイムの東18km のTrugenhofenトルーゲンホーフェンにある。
    昨日宿泊したBurg Katzenstein 古城ホテル カッツェンシュタイン城(猫城)からは3kmと、近い距離にある。
    かつてはSchloss Trugenhofenトルーゲンホーフェン城(14世紀の築城)と呼ばれていた。
    1365年、カッツェンシュタインの騎士が城主になった事もある。

    ご参考に;≪猫の塔の宝物伝説:Die Sage・Katzensteiner Schatz≫
    http://4travel.jp/travelogue/10920705

    1734年に“郵便侯爵”として知られるFuersten von Thurn und Taxis トゥルン・ウント・タクシス侯爵家(レーゲンスブルク)の居城になり、1817年、夏の離宮に建て替えられて、現在の名前になった。

    写真はSchloss Taxisタクシス城の外観

  • 現在も侯爵家の後裔が居住している。英国風庭園は事前の依頼で見学可能だと云う。しかし、城の周辺を見ただけに終わった。<br /><br />この侯爵家が郵便事業をヨーロッパで独占的に行っていた事は知らなかった。<br />また、皇妃エリザベートの姉ヘレーネとの結婚で、オーストリア皇帝の縁戚になっていたことにも気がつかなかった。<br /><br />XXX<br /><br />写真はSchloss Taxisタクシス城の外観

    現在も侯爵家の後裔が居住している。英国風庭園は事前の依頼で見学可能だと云う。しかし、城の周辺を見ただけに終わった。

    この侯爵家が郵便事業をヨーロッパで独占的に行っていた事は知らなかった。
    また、皇妃エリザベートの姉ヘレーネとの結婚で、オーストリア皇帝の縁戚になっていたことにも気がつかなかった。

    XXX

    写真はSchloss Taxisタクシス城の外観

  • 写真はSchloss Taxisタクシス城の並木道

    写真はSchloss Taxisタクシス城の並木道

  • 写真はSchloss Taxisタクシス城の遠望

    写真はSchloss Taxisタクシス城の遠望

  • 写真はSchloss Taxisタクシス城・1867年

    写真はSchloss Taxisタクシス城・1867年

  • 写真はSchloss Taxisタクシス城の説明版

    写真はSchloss Taxisタクシス城の説明版

  • 1748年にフランクフルトからレーゲンスブルクに移ってきたトゥルン・ウント・タクシス侯爵家が、Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿を200年の間、居城とした。 <br /><br />1812年に侯爵家は、バイエルンにおける郵便事業独占権を失った代償として、かつて聖エメラム帝国宗教財団の修道院だった建物を手に入れ、1816年から壮麗なレジデンツに改築し、聖エメラム宮殿とした。<br /><br />写真はトゥルン・ウント・タクシス侯爵家のレーゲンスブルクの宮殿・Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿

    1748年にフランクフルトからレーゲンスブルクに移ってきたトゥルン・ウント・タクシス侯爵家が、Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿を200年の間、居城とした。

    1812年に侯爵家は、バイエルンにおける郵便事業独占権を失った代償として、かつて聖エメラム帝国宗教財団の修道院だった建物を手に入れ、1816年から壮麗なレジデンツに改築し、聖エメラム宮殿とした。

    写真はトゥルン・ウント・タクシス侯爵家のレーゲンスブルクの宮殿・Schloss St. Emmeram聖エメラム宮殿

  • 写真はトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の紋章(Posthorn郵便馬車のラッパが象徴的に上部に取り入れている)

    写真はトゥルン・ウント・タクシス侯爵家の紋章(Posthorn郵便馬車のラッパが象徴的に上部に取り入れている)

  • 尚、Maximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxis(1831〜1867年)マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの皇妃エリザベートの姉であるHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834〜1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルンと結婚し、皇帝の親戚にもなっている。<br /><br />写真はHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834〜1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルン

    尚、Maximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxis(1831〜1867年)マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの皇妃エリザベートの姉であるHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834〜1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルンと結婚し、皇帝の親戚にもなっている。

    写真はHelene Caroline Therese・Herzogin in Bayern(1834〜1890年)ヘレーネ・フォン・バイエルン

  • この結婚に際しては、ヴィッテルスバッハ家家長であるバイエルン王ルートヴィヒ2世は、マクシミリアン・アントンの一族は1806年のドイツ諸侯の陪臣化に伴って領邦君主の身分を失っているため、王族として認められないとして、この結婚を許そうとしなかった。<br /><br />しかし、ヘレーネの妹のオーストリア皇妃エリザベートとその夫のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のとりなしにより、この結婚は1858年、実現に至った。<br /><br />そのヘレーネはかつてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にと、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大后妃(ヘレーネの伯母になる)に望まれていて、有力な花嫁候補であった。<br />しかし、フランツ・ヨーゼフはヘレーネの妹エリザベートに心を奪われており、いくら母がヘレーネを推しても聞かず、エリザベートとの結婚を果たした。<br /><br />写真はMaximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxis(1831〜1867年)マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子

    この結婚に際しては、ヴィッテルスバッハ家家長であるバイエルン王ルートヴィヒ2世は、マクシミリアン・アントンの一族は1806年のドイツ諸侯の陪臣化に伴って領邦君主の身分を失っているため、王族として認められないとして、この結婚を許そうとしなかった。

    しかし、ヘレーネの妹のオーストリア皇妃エリザベートとその夫のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のとりなしにより、この結婚は1858年、実現に至った。

    そのヘレーネはかつてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にと、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィー大后妃(ヘレーネの伯母になる)に望まれていて、有力な花嫁候補であった。
    しかし、フランツ・ヨーゼフはヘレーネの妹エリザベートに心を奪われており、いくら母がヘレーネを推しても聞かず、エリザベートとの結婚を果たした。

    写真はMaximilian Anton Lamoral von Thurn und Taxis(1831〜1867年)マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯世子

  • マクシミリアン・アントンは妻ヘレーネとの間に二男二女をもうけた。<br /><br />長女Luisaルイーザはドイツ皇帝を出した一族・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン侯国家の長・プロイセン王国宰相の息子であったFriedrich Eugen Johann Prinz von Hohenzollern‐Sigmaringenフリードリヒ・オイゲン・ヨハン・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン(後にプロイセン王国の騎兵大将)と結婚。<br /><br />次女Elisabethエリザベートはポルトガルの廃王ミゲル1世の長男のブラガンサ公ミゲル(2世)と結婚。但し、20歳の若さで死去した。<br />母親のヘレーネは娘の早世に気落ちし、一切の公的生活から引退した。<br /><br />XXX<br /><br />写真は長女Luisaルイーザ

    マクシミリアン・アントンは妻ヘレーネとの間に二男二女をもうけた。

    長女Luisaルイーザはドイツ皇帝を出した一族・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン侯国家の長・プロイセン王国宰相の息子であったFriedrich Eugen Johann Prinz von Hohenzollern‐Sigmaringenフリードリヒ・オイゲン・ヨハン・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン(後にプロイセン王国の騎兵大将)と結婚。

    次女Elisabethエリザベートはポルトガルの廃王ミゲル1世の長男のブラガンサ公ミゲル(2世)と結婚。但し、20歳の若さで死去した。
    母親のヘレーネは娘の早世に気落ちし、一切の公的生活から引退した。

    XXX

    写真は長女Luisaルイーザ

  • 写真は次女Elisabethエリザベート

    写真は次女Elisabethエリザベート

  • ≪トゥルン・ウント・タクシス侯爵家と郵便事業≫<br /><br />JSP(財団法人日本郵趣協会)ドイツ切手部会のHPより;<br />http://www.doitsukitte.com/index.html<br /><br />ドイツ切手を集め始めた人はやがてクラシック切手の一群にトゥルン・ウント・タクシスと言う不思議な切手があることに気がつくでしょう。<br /><br />写真の切手は1990年発行のヨーロッパ郵便事業500年を記念し、図案をタクシス郵便の始祖のフランツ・フォン・タッソーの騎馬使者がマクシミリアン皇帝の郵便を運ぶ様を描いたA・デューラーの銅版画から採っている。<br /><br />押されている小型印はマクシミリアン一世である。

    ≪トゥルン・ウント・タクシス侯爵家と郵便事業≫

    JSP(財団法人日本郵趣協会)ドイツ切手部会のHPより;
    http://www.doitsukitte.com/index.html

    ドイツ切手を集め始めた人はやがてクラシック切手の一群にトゥルン・ウント・タクシスと言う不思議な切手があることに気がつくでしょう。

    写真の切手は1990年発行のヨーロッパ郵便事業500年を記念し、図案をタクシス郵便の始祖のフランツ・フォン・タッソーの騎馬使者がマクシミリアン皇帝の郵便を運ぶ様を描いたA・デューラーの銅版画から採っている。

    押されている小型印はマクシミリアン一世である。

  • 中世、教皇庁、教会間の連絡通達のため、文書を運ぶ飛脚などが存在していました。商業においても商取引で通信が欠かせないことは同様です。<br /><br />腐敗しやすい肉類を運ぶ肉屋は、早い馬車や馬を使用していたので、「肉屋郵便」とよばれる信書の運搬も受け持っていました。<br /><br />こうした各地の飛脚や色々な郵便を統合し、16世紀初めに一般に利用される郵便事業を起こしたのはタクシス家で、神聖ローマ皇帝から、郵便事業の独占と、これを世襲する権利を与えられ、ベルギー、フランス、ドイツ全域、からイタリアの南端までヨーロッパの各地を結んで、郵便事業を発達させていました。<br /><br />写真は騎馬使者

    中世、教皇庁、教会間の連絡通達のため、文書を運ぶ飛脚などが存在していました。商業においても商取引で通信が欠かせないことは同様です。

    腐敗しやすい肉類を運ぶ肉屋は、早い馬車や馬を使用していたので、「肉屋郵便」とよばれる信書の運搬も受け持っていました。

    こうした各地の飛脚や色々な郵便を統合し、16世紀初めに一般に利用される郵便事業を起こしたのはタクシス家で、神聖ローマ皇帝から、郵便事業の独占と、これを世襲する権利を与えられ、ベルギー、フランス、ドイツ全域、からイタリアの南端までヨーロッパの各地を結んで、郵便事業を発達させていました。

    写真は騎馬使者

  • 郵便事業を請け負っていた トゥルン・ウント・タクシスが1852年発行した郵便切手です。この時代になると、ドイツ領域でもプロイセン、オーストリアなど国力の大きい国は自国で自前の郵便を始めていますが、まだ小さい国ではトゥルン・ウント・タクシス郵便に頼っていました。<br /><br />写真は郵便馬車の記念切手

    郵便事業を請け負っていた トゥルン・ウント・タクシスが1852年発行した郵便切手です。この時代になると、ドイツ領域でもプロイセン、オーストリアなど国力の大きい国は自国で自前の郵便を始めていますが、まだ小さい国ではトゥルン・ウント・タクシス郵便に頼っていました。

    写真は郵便馬車の記念切手

  • イタリアの出身のトゥルン・ウント・タクシス家に富をもたらしたものは1489年からで、そのきっかけは郵便でした。初めはハプスブルク家のマクシミリアン一世の郵便物を無料で届けることでした。しかし、やがてハプスブルク家に取り入ったタクシス家は皇帝の信任を得て、ハプスブルク家が統治している地域に郵便馬車を走らせます。<br /><br />写真は切手の日・記念切手

    イタリアの出身のトゥルン・ウント・タクシス家に富をもたらしたものは1489年からで、そのきっかけは郵便でした。初めはハプスブルク家のマクシミリアン一世の郵便物を無料で届けることでした。しかし、やがてハプスブルク家に取り入ったタクシス家は皇帝の信任を得て、ハプスブルク家が統治している地域に郵便馬車を走らせます。

    写真は切手の日・記念切手

  • その郵便システムは駅や厩舎を作り、代え馬を用意し馬車と馬車で手紙をリレーするという当時としては大がかりなもので、スピードもさることながら、郵便物を運ぶ距離も従来の飛脚便よりはるかに大きいものでした。<br /><br />郵便制度はうまく機能していましたが料金は非常に高いものでした。ハプスブルク家の下で貴族や聖職諸侯、外交官、商人の通信も扱う特権を得、郵便の隆盛と共に、タクシス家はますます財を成していき、貴族の位まで手に入れました。<br /><br />写真は記念切手

    その郵便システムは駅や厩舎を作り、代え馬を用意し馬車と馬車で手紙をリレーするという当時としては大がかりなもので、スピードもさることながら、郵便物を運ぶ距離も従来の飛脚便よりはるかに大きいものでした。

    郵便制度はうまく機能していましたが料金は非常に高いものでした。ハプスブルク家の下で貴族や聖職諸侯、外交官、商人の通信も扱う特権を得、郵便の隆盛と共に、タクシス家はますます財を成していき、貴族の位まで手に入れました。

    写真は記念切手

  • 1800年ごろから、通信を特定の一族に委ねる事業ではないと郵便事業を国営化する動きが出てきました。ナポレオン、バイエルン政府、メッテルニヒそしてビスマルクも国営化して行きました。<br /><br />トゥルン・ウント・タクシス家は郵便事業を次々と売却、1867年に350年の間順調に活動し大いなる利益を生んだこのビジネスから手を引くこととなりました。 <br /><br />写真は1563年郵便網

    1800年ごろから、通信を特定の一族に委ねる事業ではないと郵便事業を国営化する動きが出てきました。ナポレオン、バイエルン政府、メッテルニヒそしてビスマルクも国営化して行きました。

    トゥルン・ウント・タクシス家は郵便事業を次々と売却、1867年に350年の間順調に活動し大いなる利益を生んだこのビジネスから手を引くこととなりました。

    写真は1563年郵便網

  • 郵便侯爵 トゥルン・ウント・タクシス家はオーストリアにて名門一族として語られています。<br /><br />一族は昔も今もヨーロッパの王家に結びついていますが、1854年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベート(愛称シシー)の結婚によって、この一家はハプスブルク家とも縁続きとなります。<br />トゥルン・ウント・タクシスの侯世子がシシーの姉ヘレーネと結婚し、皇帝と義兄弟となったのです。<br /><br />(ヘレーネこそがフランツ・ヨーゼフ妃となるはずでした。ヘレーネとヨーゼフのお見合いの席にシシーを連れて来なければ、皇帝ヨーゼフが母のゾフィー大后妃に妃選びで逆らわなければ。)<br /><br />写真は1648年郵便網、三十年戦争の最終年当時

    郵便侯爵 トゥルン・ウント・タクシス家はオーストリアにて名門一族として語られています。

    一族は昔も今もヨーロッパの王家に結びついていますが、1854年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベート(愛称シシー)の結婚によって、この一家はハプスブルク家とも縁続きとなります。
    トゥルン・ウント・タクシスの侯世子がシシーの姉ヘレーネと結婚し、皇帝と義兄弟となったのです。

    (ヘレーネこそがフランツ・ヨーゼフ妃となるはずでした。ヘレーネとヨーゼフのお見合いの席にシシーを連れて来なければ、皇帝ヨーゼフが母のゾフィー大后妃に妃選びで逆らわなければ。)

    写真は1648年郵便網、三十年戦争の最終年当時

  • 写真は郵便馬車<br /><br />(2012.12.15.編集)

    写真は郵便馬車

    (2012.12.15.編集)

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