2011/05/13 - 2011/05/27
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jijidarumaさん
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かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅
期間:2011年05月13日(金)〜05月27日(金)15日間の旅・5月20日(金)
≪Schloss Colditz コルディッツ城は脱走で知られる戦争捕虜収容所≫
Schloss Nossenノッセン城から、B175・A14・B175とDoebelnデーベルンを経由し、菜の花の黄色の絨毯の景色を眺めながら、45kmを走って、今は青年の家になっているSchloss Colditz コルディッツ城に15:40到着した。 殆んど人が見当たらないので、城の関係者らしい小父さんに中に入っていいかと聞くと、ご自由にと言われた。
【Schloss Colditzコルディッツ城見学】15:40〜16:00
D-04680 Colditz 、Schlossgasse 1
http://www.schloss-colditz.com/
Sachsenザクセンの千年の歴史は、その歴史をElbeエルベ川沿いの華麗な宮殿や、Muldeムルデ川沿いの古城群と共に刻んできた。この辺り一帯に個性ある、魅力的な古城や宮殿・館、教会等を140も見る事が出来る。
コルディッツ城はライプツィヒ、ドレスデン、ケムニッツの三大ザクセンの都市を三角形に見立てると、その中心あたりに位置している。 この城は美しい渓谷Zwickauer Muldeツヴィッカウアー・ムルデ川沿いにあるコルディッツの町を見下ろすように立っている。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
コルディッツ城は近くで見てもなかなかの威容を見せている。
城門を入ると、中庭にはかつての捕虜たちが談笑している等身大の写真が置かれ、城内の部屋には捕虜収容所の脱走の出来事などが展示されていた。
写真はコルディッツ城の案内。 -
写真は1945年のコルディッツ城。
-
かつてコルディッツ城は第二次大戦での戦争捕虜収容所(1939年より)として世界的に知られた。捕虜の英軍上級将校の中で、英首相のウィストン・チャーチルの甥、ジョージ4世の甥が収容されていた。
特に、城門内の壁に表示された版に、1939〜45年の捕虜収容所からの脱走について書かれていたのが印象に残った。その事については後述した。
写真はムルデ川から見上げたコルディッツ城。 -
写真は脱走用トンネル跡。
-
写真は手製のグライダー。
-
<コルディッツ城の歴史>
1046年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は妻アグネスに Colditz、Rochlitz、Leisnigの諸城を与えた。
1404年、ヴィルヘルム1世 (マイセン辺境伯)の居城になる。
1430年、フス派に城と町を破壊された。
1464年、後期ゴシック様式で宮殿が再建された。
1486年、ザクセン選帝侯エルンストは落馬事故で、コルディッツ城で亡くなった。
17世紀、コルディッツの最も良き時代はザクセン選帝侯Christian?クリスティアン1世と、その妻ゾフィー(ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘)のいた時期だと云われている。
1787年、ドレスデンに売却された。
18〜20世紀には時代を映して、精神病院、仮収容所、労働キャンプ、捕虜収容所になる。
1946〜96年、病院、老人ホーム。
2003年、ザクセン自由州の所有になる。
2007年〜現在、Jugendherbergeユースホステル。
写真はコルディッツ城の城内中庭と城主の館。 -
≪“大脱走”は度々起こった;脱走不可能と云われたコルディッツ城戦争捕虜収容所からの300以上!を数える脱走≫
コルディッツ城の事はこの旅に出る前に調べてみた。第二次大戦中のKriegsgefangenenlager戦争捕虜収容所として使用された事、チャーチルの甥たちがその中にいた事を城の歴史で知った。
写真はコルディッツ城を見上げる。 -
戦争捕虜収容所で起こった出来事は戦後、様々な人々が語り伝え、中にはそれを題材に小説・映画となったものもある。
中でも、スティーブ・マックイーン主演の「大脱走」がよく知られている。(原題はThe Great Escape、1963年に公開されたアメリカ映画。)
大戦中の1944年3月、ベルリン南東160km の*Saganザーガンにドイツ空軍が設けた連合軍の航空兵捕虜収容所・「第三空軍捕虜収容所」から、捕虜が集団脱走をした事があり、その時の史実を映画化したものだそうだ。この映画は大変興行的に成功し、TVでもよく再放送されている。
*尚、「第三空軍捕虜収容所」があったSaganザーガンは現在、ポーランド領になっています。ポーランド語は Żagańジャガン、ポーランド・ルブシュ県の最南部に位置する都市です。人口 26千人。
当時はドイツの支配下にあり、 Schlesienシュレジエン地方に入り、かつて3次にわたるプロイセンとオーストリアのシュレジエン戦争でも知られている。
写真は城門への道。 -
ザーガンの所謂「大脱走」のようなケースは当時のドイツやドイツ占領下での捕虜収容所ではよく起こったようで、このSchloss Colditzコルディッツ城でも起こっていた。
ドイツ軍はこの城を脱走不可能と思われる将校用特別収容所Oflag IV Cに作り変えて、それまでドイツ国内の捕虜収容所から脱走を試み、失敗して捕えられた英仏蘭などの捕虜たちをここに移送した。それでも集められた捕虜たちはまた、ここでも300以上!の脱走の企てを行い、様々に脱走を実行したそうである。
写真はザクセン選帝侯?の紋章を掲げた城門。 -
城の中庭にはドイツ軍の管理棟があり、鉄条網で囲まれ、監視兵の巡回も厳しかったものの、捕虜たちはかつて領主の居住地域に暮らし、捕虜収容所の士官たちの日常は比較的恵まれていたそうだ。
連合国支配地やスイスに脱出し、Home Runsホームラン(ドイツ語ではErfolgreiche Fluchten単に“成功した脱走”)と称した脱走の成功者は31名、その内訳は英11名、仏12名、オランダ7名、ポーランド1名であった。
これに比べて失敗したものの数は多く、155名を数える。その内訳も英109名、仏12名、オランダ17名、ポーランド17名になっている。
失敗した者の方が多かったのが事実だが、その場で射殺されたのか、処刑の対象になったのか?そこまでは分からない。
写真は捕虜の写真と。 -
戦後、出版された幾つかの本(実際にコルディッツ城から脱出した英軍人Pat Reidパット・ リードの回想録・"The Colditz Storyコルディッツ城物語"など)によって、捕虜たちによる脱走の一連の試みは明らかになった。
脱走にあたっては手製のミシンでドイツ軍の軍服を作り、ドイツ兵士に成りすますとか、捕虜の定時点呼の際には人形を使って人数をごまかすなどをしている。
城内の鐘楼の地下室、かつてのワインセラーから、9ヶ月をかけて、東側の城郭までトンネルを掘った。出口の完成まであと3週間かかる所で、ドイツ軍に発見されてしまったが。
1945年にはグライダーを造り、これに乗って脱走すると云う計画もした。礼拝堂の屋根裏を偽装し、そこで秘密裏に作り上げ、礼拝堂の屋根から滑空すると云うものでした。
1945年4月15日、ドイツに勝利した米軍がコルディッツ城の捕虜を解放した。その頃には城と町の施設に収容された捕虜はゆうに2000人を越えていたと思われる。
占領・解放した米軍の後には1945年6月、ソヴィエト軍(赤軍)が来城し、その後、21世紀になってザクセン州が大改修を行い、1996年以降は城の一部に博物館も設け、観光客を迎えた。
2007年4月以降、コルディッツ城は ユースホステルとなっている。
写真はコルディッツ城内で。 -
<追記として、捕虜収容所の捕虜たちの動きを記した>
1940年10月第一陣のポーランド兵140名が到着。
ポーランド兵はもっとも脱走のリスクが高い兵たちと思われていた。
2週間後の11月7日には英軍(カナダ兵を含む)などが送られてきた。
クリスマスの時期にはポーランド60名、ベルギー12名、フランス50、イギリス30名など、およそ200名近くの捕虜の数に至った。
1941年2月にはフランス兵200名到着、7月にドイツ軍に参加することを拒否したオランダ領東インド陸軍68名のオランダ兵が収容され、500名をこす収容人員になった。
因みに内訳は仏250、ポーランド150、英国50、ユーゴスラビア2、オランダ68である。
1943年5月、上部司令部は収容所の捕虜は米軍と英軍のみにすることにした。
6月、順次他国の兵は移送されて、7月の終わり頃には228名の英軍と何人かの他国兵だけになった。
1944年8月23日、最初の米軍捕虜が収容された。1944年初冬には254名の収容者を数える事となった。
1945年1月19日、ザクセンのスイスにあるFestung Koenigsteinケーニヒシュタイン要塞から、仏の将軍達数人が移送された。
これは英米軍のみと言う方針から外れたものであったが、ある仏軍少将が脱走時に射殺された事を隠ぺいするためであったとされる。
3月、1200名の仏軍兵士が収容された。更に600名がコルディッツの町に抑留された。
1945年4月15日、米軍がコルディッツ城の捕虜を解放した。
その頃には城と町の施設に収容された捕虜はゆうに2000人を越えていたと思われる。
写真はコルディッツ城内の博物館の展示。 -
尚、英の職業軍人・日曜画家William Faithful Andersonウイリアム・フェースフル・アンダーソンが描いた収容所の様子が、現在の城内博物館で見る事が出来る。
また、当時の捕虜たちがトンネル掘りなどに使用した道具、使用禁止されていたラジオ、手製のミシンなどが展示されている。
"The Colditz Storyコルディッツ城物語"がベストセラーになった英国からの観光客は年間の観光客15千人のうち、凡そ半分以上を占めると云う。
英国人にとってはナチスに対する抵抗のシンボルになっているが、ドイツでは殆んど知られていないらしい。
映画:大脱走 コルディッツ収容所・2005年 イギリス(原題:Escape from Colditz)
http://www.interfilm.co.jp/Detail/05/IA05-0321/IA05_0321.htm
TV番組ガイド:「コルディッツ大脱走」・1972年BBC
http://teleplay.seesaa.net/article/1288268.html
写真はコルディッツ城の城門内に掲示された版に、1939〜45年の捕虜収容所からの脱走について書かれていた。
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2014/03/03 22:21:20
- つい先日見た映画「大脱走」
- jijidarumaさん こんばんは。
つい先日、この大脱走をテレビでやっていましたね。
ずいぶん前にも見たのですが、すっかり内容を忘れてしまって、改めてドキドキしながら見ました。
あの映画は事実を元にして作成されたとありましたので、あの収容所はどこにあるんだろうなんて、いろいろ手がかりを探しながら見ましたがわかりませんでした。
何だか南ドイツか、スイスのバーゼルの方かしらなんて思ったり・・。
そうですか、ザクセンにあったのですか?
トンネルのあと、手製グライダー、ミシンでドイツ軍服を作ったりと、本当にほんとうにあった話なのですね。
面白かった〜、jijidarumaさん、どうもありがとうございます。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2014/03/04 10:58:13
- つい先日見た映画「大脱走」
- himmelさん
投票にコメントと、ご興味を持ってお読み頂きありがとうございます。
”大脱走”は何時見ても面白く、映画を見ていると確かに南ドイツの雰囲気がいっぱいで、収容所が南ドイツにあったかのように思いますね。
スティーブ・マックイーンの映画の一場面の写真を借用したので、日記の印象がザクセンのコルディッツ城よりも、ザーゲンの捕虜収容所のように思われたかもしれません。
さて、この日記はザクセンのコルディッツ城戦争捕虜収容所の話ですが、映画大脱走の舞台であった町はドイツ語Saganザーガン=>ポーランド語Żagańジャガンと言います。ちょっと面倒ですが、正しくはザクセン王国にもブランデンブルク辺境伯領にも入っていない地域で、Schlesienシュレジエン地方に属しているようです。ドイツのCottbusコットブスの町からも国境越えて、南東に結構ポーランド内に入った所にあります。
トンネルの跡、手製グライダー、ミシンでドイツ軍服を作ったりと、本当にほんとうにあった話もいろいろな捕虜収容所で実際に行われた事なのでしょう。
以下を日記中に追記しておきました。
*尚、「第三空軍捕虜収容所」があったSaganザーガンは現在、ポーランド領になっています。ポーランド語は Żagańジャガン、ポーランド・ルブシュ県の最南部に位置する都市です。人口 26千人。
当時はドイツの支配下にあり、 Schlesienシュレジエン地方に入り、かつて3次にわたるプロイセンとオーストリアのシュレジエン戦争でも知られている。
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