2011/05/23 - 2011/05/23
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jijidarumaさん
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【ザクセン選帝侯(兼ポーランド王)アウグスト1世(強王)によって49年間幽囚された愛妾コーゼル伯爵夫人に何があったのか?】
登場人物:
Kurfuerst und Herzog von Sachsenザクセン選帝侯(兼Koenig von Polen ポーランド王)Friedrich August I.フリードリヒ・アウグスト1世(August der Starke 強王)(1670~1733年)、
強王の Maetresseメトレッセ(愛妾)であったGraefin Anna Constantia von Coselアンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人 (1680年~1765年)、
幽囚時期:1716年から1765年の49年間
幽囚場所:Burg Stolpenシュトルペン城
写真は美形であるアンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
-
2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅で、木組みの家並みで知られたツェレを訪れたが、この章では更に「英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る」と書いた。
このジョージ1世とゾフィー・ドロテア夫妻のドロドロした話は、結末はゾフィー・ドロテア妃が死ぬまでの32年間、アールデン城に幽閉されてしまった。
この事から連想したのは、「Schiksalsjahre einer Maetresse愛妾の運命の年月」のことである。
ザクセン王(=ポーランド国王)アウグスト強王(1670~1733年)と愛妾コーゼル伯爵夫人(1680~1765年)の49年間の幽囚の事た。
口コミでは「愛妾コーゼル伯爵夫人が49年間幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城の紹介をしたのだが、幽囚の顛末については細かに書いていない。
(2011年)
それではイカンと、2011年の旅行記から、ここで番外編を書くことにした。
番外編は2部編成の前編・後編とした。
かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡った旅は2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間で、旧東ドイツの地域である、ザクセン・アンハルト州、ブランデンブルク州、ベルリン州(特別市)、ザクセン自由州、テューリンゲン自由州の各州を順次、巡り、とりわけ、今まで訪れる事のなかったザクセン・アンハルトの古城群、ザクセンの古城群を見て回り、しかも、エルベ川沿いのザクセンワイン街道、二つの川ザーレ・ウンシュトルートの川沿いの急斜面に広がる、ドイツ13番目、最北のワイン産地である、ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道を走った。
ドレスデンのHotel Schloss Eckberg古城ホテル シュロス エックベルクで2泊した後、この日は東に向かい、愛妾コーゼル伯爵夫人が49年間幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城を訪問したのだ。
写真はSaechsische Schweiz:ザクセン・スイス地方の地図・・左上にドレスデン、に中央上にStolpenシュトルペンの町がある。Hotel Schloss Eckberg ホテル
-
ドレスデンから20km東に、Lausitzer Berglandラウジッツ山地の西の端に、シュトルペン城(要塞)があり、およそ17kmでチェコの国境に至る。・・が、国境を越えるには徒歩で行く道しかないと云う。
写真はWappen_Stolpenシュトルペンの紋章・・・シュトルペンの紋章は黄金の背景に、城門と2つの塔を持つ青い城を示す。
城門上には司教が赤い服を着て立つ。司教はマイセンの司教でシュトルペン城
を居城としていた。司教による都市の支配を示唆する。 -
Burg Stolpenシュトルペン城はシュトルペンの町の高台にあり、車をそのまま乗って登り、小学生が自転車競技を楽しんでいる駐車場(Euro1.5)の一角に車を停め、更に徒歩で坂道を上った。
写真はBurg Stolpenシュトルペン城:小学生が自転車競技を楽しんでいる駐車場 -
<Burg Stolpenシュトルペン城>
D-01833 Stolpen 、Schlossstrasse 10
http://www.burg-stolpen.de/
その先に黒々とした城門が出てきた。
説明ではKasematteカゼマッテというらしい。かつては要塞の砲郭だった。
城門を過ぎて、40mの長方形の建物Kornhausコルンハウス(かつての穀倉・1527年)があり、城内博物館の切符売り場がある。
嬉しい事に日本人が来る事があるのか?ここにも日本語の簡単な説明文があった。
ここまでが日本流でいえば、二の丸にあたる。
写真はBurg Stolpenシュトルペン城:黒々とした城門はKasematteカゼマッテと称する。シュトルペン城 城・宮殿
-
昔はここに主たる衛兵所が置かれ、馬屋、牢獄・拷問室などがあった。
左手にはその拷問室を再現し、様々な責め道具を展示していた。
写真はBurg Stolpenシュトルペン城:衛兵所が置かれ、馬屋、牢獄・拷問室 -
牢獄の壁は青黒い玄武岩の肌をそのまま見せて、牢獄らしい陰鬱な感じだ。
写真はBurg Stolpenシュトルペン城:牢獄の壁は青黒い玄武岩の肌 -
イチオシ
ここを出ると、本丸にあたる城郭になる。
目の前、右手にドーム型の屋根をした塔、左に二つの塔がくっついて立っている。右が面白い名のSchoesserturm税金の塔、左がJohannisturmヨハネの塔(1509年)、後に幽囚されたコーゼル伯爵夫人に因んでCoselturmコーゼルの塔と呼ばれた。
税金の塔は目立った展示は無かったが、この名前は中世に使用されたSchossショス税金・租税(その他にも、ヒザ、小枝、若芽の意味もあるが)という言葉から来たと云う。かつては税徴収官や書記官等がここで働いていた。
1階が異端者(異教徒)の穴(間)、2階が修道士の穴(間)と妙な名がつき、3階が管理事務所だそうだ。
写真はBurg Stolpenシュトルペン城:ヨハネの塔(コーゼルの塔)(左)と税金の塔(右) -
一番興味のある写真右上のヨハネの塔(コーゼルの塔)は元来、聖ヨハネはマイセン辺境伯・司教の守護神だったことから、この名が付けられたと云う。
尚、これ以降<コーゼルの塔>に統一して書く。
写真はシュトルペン城(要塞):入口側の税金の塔、コーゼルの塔、時計塔から7つの尖塔塔への一帯の俯瞰 -
<コーゼルの塔>の1階がヨハネの牢獄と言い、深く口をあけて人を飲み込むような穴があった。
2階のゴシックの間はシュトルペンの司教時代、3~5階が囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示していた。
そして6階は塔の見張りで、シュトルペン要塞の展示がある。
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:ヨハネの牢獄 -
興味は3~5階の囚人コーゼル伯爵夫人の展示だ。
寝台、トイレ、夫であったザクセン王家の宮廷大臣アドルフ・マグヌス・フォン・ホイム伯とコーゼル伯爵夫人の肖像画、見事な筆跡のフランス語で書かれた伯爵夫人の手紙(フランス語が如何にドイツの王侯貴族という上流社会で当たり前のように使用されていたかを知る事が出来る)、立派な暖炉、日常に使用した品々、台所、とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:質素な寝台と暖炉・・・コーゼル伯爵夫人がこの寝台で寝たとされているが! -
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:古城には必須のトイレだが・・・コーゼル伯爵夫人が使用したのだと思うと、なんと気の毒な境遇であろう。
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少々違和感が残る元配偶者たちの肖像画が並んで掲示されていた。
二人は結婚後にコーゼル夫人が以前、非嫡出子を産んだ事を知ったホイム伯は離婚を求め、離婚訴訟の上、1706年に離婚している。
ホイム伯はコーゼル夫人を嫌う理由を「権勢欲の強さと陰険さ(?herrschsuechtig und hinterhaeltig“)」とだけ言い、性格不一致を主としたようにとどめているが、それ以上に非嫡出子を産んだ事が大きいと云う。
コーゼル夫人が幽囚されたシュトルペン城で購入した小冊子に書かれていたのと違った。
1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まり、言い寄られて、愛妾となったことから、ホイム伯がコーゼル夫人を離縁したと、小冊子に云う。
つまり、この章で書いている事は離縁の事由からして、上述とは違う展開である。
ともあれ、そうした二人が並んでいるのは、少々悪趣味かと。
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:Graefin Constantia von Coselコーゼル伯爵夫人、夫であったザクセン王家の宮廷大臣Graf Adolf Magnus von Hoym
アドルフ・マグヌス・フォン・ホイム伯(1668~1723年)と並んだ肖像画。 -
イチオシ
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:強王の Maetresseメトレッセ(愛妾)であった美形のコーゼル伯爵夫人 (1680年~1765年)、
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写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示、右手に立派な暖炉も見える。
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イチオシ
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔:とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。
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外に出てからもう一度コーゼルの塔を見上げたら、二つの塔に見える。
一つは階段の為の塔であり、もう一つの丸い方が展示のある本塔であった。
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔 -
イチオシ
次は右手に立つSeigerturm時計塔と言う。天辺に小さな時計があるらしいが良く見えない。
16世紀の頃は鐘を打ち鳴らして、時を知らせた。今は機械仕掛けだが。
写真はシュトルペン城:コーゼルの塔から見る、右のSeigerturm時計塔からSiebenspitzenturm7つの尖塔塔の眺め -
左にカフェテリアがあり、84.39mもの深い井戸、礼拝堂とコーゼル伯爵夫人の墓碑、突き当りにBurggeistお城の幽霊と称する穴倉がある。
写真はシュトルペン城:コーゼルの塔から時計塔を背に -
写真はシュトルペン城・Burggeistお城の幽霊の穴倉:穴倉には幽霊を呼びだして!と書いてある。幽霊がコーゼル伯爵夫人なのかは不明だが・・・。
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その84.39mの井戸だが、玄武岩上に造った城なので、大変水に困ったと云う。
最初は桶を担いで水を運んだ。労力の割に獲る水は少なく、この為、16世紀の頃は水車を利用し水を汲み上げ、720mの水路を作り、ポンプで城内に水を上げる装置を作った。
戦略上、城外にある装置は敵に破壊されてしまうので、1607/8~1632年の24年の長い間をかけて岩盤を掘り進んだと云う。一日1~1.5cm、年に3~4mと掘り、気が遠くなるような時間をかけて、世界でも稀な84.39mもの深い井戸を作り上げたそうだ。
この大がかりな装置は1813年、ナポレオン軍により破壊されてしまったので今は無い。
写真はシュトルペン城:84.39mの井戸、下が暗くて見えず。 -
写真はシュトルペン城:時計塔を振り返ると、結構高い塔だ。
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最後の塔は15世紀後半のものでSiebenspitzenturm7つの尖塔塔といい、円錐屋根の角に6つの小さな塔が付き、真中に尖塔があったことに名前の由縁がある。
1632年の町の大火で、円錐屋根は焼失した。
塔内には司教の執務室が長い間あった。
地上階には大きな竈が設けられていたが、1559年、選帝侯妃アンナが香草に詳しく、ここに彼女の台所を備えた。それを“香草の竈”を称していた。
天辺は展望台になっている。登らなくても、ここからの周辺の眺望は実に美しい。
写真はシュトルペン城:Siebenspitzenturm7つの尖塔塔には登れるらしいが。 -
7つの尖塔塔傍に、1903年頃撮影とあるコーゼル伯爵夫人の墓碑の写真が残る。
観光資源としての価値はまだなく、コーゼル伯爵夫人の墓石も貧弱であり、単に十字の印の墓石がその存在を示すだけだった。
写真はシュトルペン城内:尖塔塔とコーゼル伯爵夫人の墓石(中央下の地面にある十字の印がある墓石)。 -
写真はシュトルペン城内:尖塔塔傍、19世紀から20世紀のCoselGrabコーゼル伯爵夫人の墓碑(真ん中の十字の墓碑は上の写真の中央の地面にあった)が観光用の説明版と共に掲示されるようになった。
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菜の花の黄色が緑の中を彩り、赤茶色の屋根の家並みも、教会も絵になる風景だ。
古城にはつきものの暗い地下牢、丸天井の穴蔵、深く口をあけて人を飲み込むような穴、この城には全てがあった。
又、そこかしこに玄武岩の岩肌を見る事が出来た。
写真はシュトルペン城から周辺の景観を見る。 -
<シュトルペン城の歴史>
シュトルペンはスラブ語の“柱”とか、“柱のある場所”という意味だそうです。
ドレスデンから二十数km東に位置する。
その時々の周辺の事情で、この城はBurg城からSchloss宮殿、そして改築後はFestung要塞としても使用された。
1100年頃から歴史に名前が記され、1218年、ソルブ人封建領主シュツルペンがこの城と周辺の村々をマイセン伯に売却したと云う。
以来、この城はマイセン辺境伯(領主司教)の支配地として、エルベ川の東のスラブ人に対する防御線となった。
同時にまた交易路の交差点として、重要な位置にあった。
特徴的なのはザクセン=北部ボヘミア地方の火山岩鉱脈であるDer Basaltberg玄武岩(天然記念物)上に造った城なので、大変水に困ったと云う。
この為、長い年月をかけて、世界でも稀な84.39mもの深い井戸を作り上げたそうだ。この硬い、青黒い玄武岩を利用して、城郭内の建物も建設されている。
1320年、マイセン辺境伯(領主司教)はシュトルペン城にシュトルペン聖区を置き、司教区の行政の中心にした。
1559年、ザクセン選帝侯アウグスト王が、この城の重要性から、支配下に置き、ルネサンス様式の建築物や、動・植物園を設けた。
1675年、要塞に拡大され、軍事的な役割も増大した。
写真はシュトルペン城から周辺の景観を見る。 -
1716年、コーゼル伯爵夫人がシュトルペン城に追放、幽囚される。
1733年、アウグスト強王(兼ポーランド王)はポーランドのワルシャワで死す。
1763年、アウグスト3世の死と共にアウグスト時代も終わり、城の守備軍も役を解かれた。
1765年、49年間、幽囚されていたコーゼル伯爵夫人が85歳の高齢で亡くなった。
18世紀後半はこの城は徐々に廃墟になり、1813年にはナポレオン軍がロシア遠征から退去中にここに立ち寄り、多くを破壊して去ったと云う。
1992年、ザクセン自由州の所有となる。
毎年、ここを訪れる観光客は凡そ14万人を数える。
写真はシュトルペン城から周辺の景観を見る。 -
イチオシ
ちょっと思い入れもあったシュトルペン城を菜の花畑の先に遠望してから、L?を下り、ザクセンワイン街道というか、“ザクセンのスイス”に向かう。
写真はシュトルペン城:菜の花畑から城を遠望する。 -
さて、ザクセンの古城群を紹介する小冊子に、この城の題名を“Schiksalsjahre einer Maetresse愛妾の運命の年月“と書いてあった。
この城の800年を越える歴史で、もっとも知られた人物は85歳で死ぬまで幽閉されたコーゼル伯爵夫人である。
【Graefin Constantia von Coselコーゼル伯爵夫人の幽囚】
アンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人(1680年生まれ)はドレスデンの歴史を造ったザクセン王・ザクセン選帝侯であるアウグスト強王(1670~1733年)の愛妾(Maetresseメトレッセ)であった。
コーゼル伯爵夫人はドイツ北部・リューベックとキールの間のキール寄りに湖水地帯があり、その真中あたりにPloenプレーン(2014年に一度訪ねたことがある)と言う町の近郊にある貴族von Brocksdorf ブロックドルフ家の娘(神聖ローマ帝国の伯爵の身分とか云われていますが)として生まれている。
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州になりますから、いわゆる田舎貴族の係累であったと思えます。
その彼女は最初にザクセン王家の宮廷大臣Graf Adolf Magnus von Hoymアドルフ・マグヌス・フォン・ホイム伯(1668~1723年)と結婚している。その後、強王に見染められたことなどで、ホイム伯は離縁した。
(様々な離縁事由については先に述べた)
写真はコーゼル伯爵夫人を幽閉したザクセン王(ポーランド国王)フリードリヒ・アウグスト1世(強王のあだ名がある) -
アンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人は美人で聡明であったことから、7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている。
強王は彼女のために新たにTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿を建造し、これを与えた。現在、ドレスデンのツヴィンガー宮殿前にある5星のホテルで知られるKempinski Hotel Taschenbergpalaisケンピンスキーホテルである。王の宮殿と新宮殿は2階のつけられた空中回廊(現在もある)によって結ばれていたと云う。
アウグスト強王は政治的に、外交的にも、また、軍事的にも名前の強王にそぐわないような点があったようです。力もないのにとりわけポーランド王に固執した様子は問題もあったようで、コーゼル伯爵夫人は当時の女性としては聡明で、識見も高かったようですから、王国の政治に関与し、強王の政治外交策に異を唱えた事も分かるような気がするのです。その強い立場から、しばしば王の傍で政治的な意見を述べる事があったとある。
強王との間で二人の娘(後に二人とも伯爵家に嫁ぐ)と一人の息子(後に陸軍大将)を生んでいる。
(*事実はどうなのか分からないが、次のような話がある。
1704年、コーゼル伯爵夫人はアウグスト強王の目に止まり、言い寄られたものの賢い彼女はそう簡単にアウグスト強王の意に添わなかった。この為、強王は彼女に誓約書を手渡す。
誓約書には強王の王妃が亡くなった際はアンナを王妃にすると云うものでした。こうして強王は漸くコーゼル伯爵夫人を手に入れる事ができた。
その後、新しい寵妃ができ、二人の間が冷えると、政治的な口出しが王には目障りになり、強王は以前に手渡した誓約書を取り戻す算段をした。
当然、アンナはそれを拒否したので、強硬手段をとることになった。それが以下につながる話である。
写真はコーゼル伯爵夫人(1705年)の肖像画・・たいへん魅力的な雰囲気がある。 -
コーゼル伯爵夫人は大北方戦争(1700~1721年、スウェーデンと反スウェーデン同盟;北方同盟を結成した諸国とが、北欧、中欧、そして東欧におけるスウェーデンの覇権と争った戦争)や、ポーランドに対するアウグスト強王の政治・外交に意見や干渉をしすぎた為、王や側近たちの政治的思惑から、又、同時に王に新しい寵妃ができた事もあり、その地位を追われた。
1713年、ドレスデンのSchloss Pillnitzピルニッツ城に送られた。
ドレスデンからエルベ川を10km程上ったかつてのピルニッツ村の川畔に立つ優美なバロック宮殿Schloss Pillnitzはアウグスト強王が当時、愛妾であったコーゼル伯爵夫人に、この宮殿を贈り、自らも避暑がてらドレスデンの宮殿からゴンドラ船を仕立てて、この宮殿に通ったそうです。
1715年、コーゼル伯爵夫人は突然、プロイセンか、ロシアに逃げようとした。
(シュトルペン城の展示で見たマイセン磁器“伯爵夫人の脱走”の作品)
当時、ザクセン兵がプロイセンに脱走すると、送り返された後処刑されていた。彼女の脱走はそれと等しく、国家反逆罪で逮捕された。アウグスト強王にとっては痛手であったが、決断した。
1716年、クリスマス後の26日、病気で1カ月滞在していたSchloss Nossenノッセン城から、コーゼル伯爵夫人はBurg Stolpenシュトルペン城に護送され、その後の人生をこの城内で過ごした。
彼女が国家機密を知っていた事もあって、最初の内は厳しい監視下に置かれていたが、時が経つうちに城内を歩きまわる自由が持てた。
ついで城内の城主の部屋で生活もしていたが、城の補修費用が不十分になった理由で、居住地域で生活することを禁じられた。
最後の2年間はヨハネの塔に移った。人々はこの為、ヨハネの塔をコーゼルの塔と呼んだ。
36歳の時から、49年を幽囚され、1765年3月31日に死去。享年85歳であった。
写真はシュトルペン城内:ホイム伯と並んだコーゼル伯爵夫人の肖像画。 -
そうした彼女が失脚した後の人生をどう思っていたのか?他人にはうかがい知れないのですが、王の寵を受け、華やかな宮廷生活にあり、しかもその言が重く用いられたといった過去と現在の幽囚生活との大きな落差を思えば、相当な精神的苦痛があったことでしょう。
それを乗り越えた49年の幽囚生活に、しかも当時としては(今もそうですが)85歳という高齢まで生きぬいた事に、コーゼル伯爵夫人のすごさを感じるのです。
コーゼル伯爵夫人の幽囚前半の日常生活は人間的な楽しみからは隔絶したものであり、最初の頃は誰とも口をきくことを禁じられたそうですから、良く耐えたと言えましょう。
当時の伯爵夫人にとり、食料、身の回り品などは自弁であったと書いてあり、彼女は財産家であったとかで、資金的には不自由はしていなかったようだ。
幽囚が長くなるとともに成長した子供たちに会う事や手紙のやり取りも許されています。
アウグスト強王が亡くなった7年後、コーゼル夫人が60歳になった頃には城内を散歩する事も許され、小さな庭を自ら耕作するもできた。更には、知人、子供たち、主治医、財産管理人の訪問を受ける事も許されたとあります。
彼女の蔵書はおよそ3000冊もあったとか。コーゼル伯爵夫人は当時の女性としては聡明で、識見も高かったようで、幽囚中は聖書を読み、新旧のキリスト教にも詳しかったと云われている。
・・・が、死ぬ直前にキリスト教徒をひどく非難し、宗教儀式をののしったとも、書かれていて、その死に際し、彼女はどのような宗教観、信仰を持っていたのか?と、読んだ小冊子中で指摘されている。
そうしてみると老齢になっても達観していなかったかもしれません。むしろ人間として当然の気持ちとして、自らの境遇を歎き、恨んでいたかもしれません。
その気持ちが逆に長生き出来た理由かもしれない。
写真はコーゼル伯爵夫人18世紀中頃(Erste Haelfte des 18. Jhd.とあるから幽囚後のものと思われる)の肖像画 -
コーゼル伯爵夫人の最後の年も塔内の部屋に住み、その小さな部屋には絨毯もなく、2つの古い、汚れた椅子、ちいさな、ひどい木の机、大きな木の寝台、夫人用の椅子、2つの古い羽毛入りクッション、暖炉、中央の天井から吊り下げたランプ、壁には古びた時計が掛っていたと小冊子に書かれています。
その侘しい、寒々とした様子が窺われる。
アウグスト強王が1733年に死去したにも拘らず、王の後継者・唯一の嫡出子アウグスト3世(王妃クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイトの子)はこの幽囚を解いていない。
何故、強王の死後も幽閉が続いたのか、彼女のような、一種の政治犯は強王の死去の時点で通常は自由になりそうですから、とても不思議に思える。
真実かどうかは分かりませんが、そのあたりの事情を書かれているのを見つけた。
XXX
1733年の強王の死後、いわゆる某から、”幽囚から自由の身”にとの申し出があったと云う。しかし、彼女はシュトルペン城に留まる事を選んだそうだ。
歴史の証言は何も残っていないが・・・。
また、歴史上、Friedrich der Grosseフリードリヒ大王と称されるプロイセンの王・フリードリヒ2世( 1712年~1786年)は7年戦争(1756‐1763年;Siebenjaehriger Krieg、はプロイセンとイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である)の最中の1760年、ドレスデンを攻撃し、破壊している。この時、人口の3分の1が失われたそうだ。
その大王がザクセンを占領していた時期、コーゼル伯爵夫人に対し恩給(あるいは賄い料・食費)を支給したとある。
写真はシュトルペン城:幽閉後のコーゼル伯爵夫人、城内での幽囚生活の中で描かれたもので晩年のものと思われる。
・・・・・
前半部分ではコーゼル伯爵夫人の毅然とした精神、または達観した所も見て取れる。
後半部分は政治的思惑があって支給したのか?分からないが、強王に対峙したプロイセンからコーゼル伯爵夫人が支援されたのも、歴史は面白いものだ。
幽囚の起因になったのもポーランド王問題が背景にあったわけで、コーゼル伯爵夫人がプロイセンの支援を受けた事はザクセン人にとってみれば、度重なる裏切り行為に思えたことでしょう。
今は観光客が年間凡そ14万人を数えるそうで、そのザクセン人も観光、お土産の「種」にしているのも皮肉ですね。 -
≪コーゼル伯爵夫人が登場する城や宮殿≫
ドイツ観光局で以前にもらっていた、ザクセン地方の古城群を案内した8ページのパンフレットに、地域の主だった古城・宮殿が掲載されていて、古城好きには嬉しい資料だった。
その中でもBurg Stolpenシュトルペン城で49年も幽囚されたコーゼル伯爵夫人の話があり、伯爵夫人にからむ5つの宮殿・城Schloss Nossenノッセン城・ かつてのタッシェンベルク宮殿(現ケンピンスキーホテル)・Schloss Pillnitzピルニッツ宮殿・Burg Stolpenシュトルペン城・Schloss Burgscheidungenブルクシャイヅンゲン離縁城?!を知り、是非、訪ねたいと思った。
とりわけ、その生涯の大部分を過ごしたBurg Stolpenシュトルペン城には大いに興味をそそられた。
途中、すでに二つの城・宮殿Schloss Nossenノッセン城、Schloss Pillnitzピルニッツ宮殿を見ており、上述したBurg Stolpenシュトルペン城がこの旅では最後の訪問地になる。
(以下に前述のシュトルペン城を除く4つの城・宮殿を纏めた)
写真はSchloss Nossenノッセン城:1840年の絵・・・フライベルガー・ムルデ川沿いに立つ -
①Schloss Nossenノッセン城
D-01683 Nossen 、Am Schloss 3
http://www.schloss-nossen.de/
マイセン行政区に属するノッセンの町のFreiberger Muldeフライベルガー・ムルデ川沿いにこの城は立っている。ノッセン城からのムルデ渓谷の眺めは美しい。
かつての掘割をまたぐ石橋の先に入口があり、中に入ると中庭が広がる。
入って右手の南塔やSaalbau、Kuechenbau、Torbauなどのメインになる建物があり、左手にはかつての牢獄があったFrohnveste、行政・管理棟が置かれている。
Saalbauは博物館の展示があり、中世の頃の展示、ザクセンや城の歴史が展示されていたが、クリープシュタイン城の展示に比較すると、残念ながら殆んど無いに等しいものだ。
写真はSchloss Nossenノッセン城:外観 -
ノッセン城の歴史;
この城は1150~1224年の間に築城されたと推測されている。
かつて騎士のNuzzinヌッジンの居城であった。
1315年、Withego II. von ColditzやBischoefen von Meissen、1403年にはBischof Thimo von Colditz等が居城とした。
17世紀、各種の建設が行われた。1682年、門塔を完成。1714年、木製の跳ね橋を石橋に造り変え、広間には狩猟の獲物である、鹿の角等を飾った。
7年戦争(1756~1763年、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の率いるプロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国及びザクセン選帝侯を中心としたドイツ諸侯との間で行われた戦争。)では、ノッセン城はこの間、プロイセンからたいへんな被害を受けた。
1808年は東と北翼の部分は刑務所として使用された。
1857年以降は裁判所、刑務所などに使われた。
1980年、城は改装された。
この城における特記事項;
①1716年11月23日~12月24日、コーゼル伯爵夫人は病気にかかり、この城に1カ月滞在した。その後、最後の地Schloss Stolpenシュトルペン城に向けて護送された。
②皇帝ナポレオンは1813年5月7日の夜から8日にかけて、城に宿泊した。
写真はSchloss Nossenノッセン城:中庭 -
②Taschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿
D- 01067 Dresden 、Taschenberg 3
http://www.kempinski.com/de/dresden/Seiten/Welcome.aspx
7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている、コーゼル伯爵夫人の宮殿である。
写真はドレスデン・Taschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿:正面ホテル タッシェンベルクパレス ケンピンスキー ホテル
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1705 ~1708年にかけて、アウグスト強王は彼女の為に新たにTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿を建造し、これを与えた。
王のレジデンツ・シュロス王宮と新宮殿は2階につけられた空中回廊によって結ばれていたと云う。
ドレスデン・バロック様式の宮殿であったが、1945年、大空襲を受けて罹災している。
1995年3月、新たにバロック様式のホテルとして再建された。
現在、ツヴィンガー宮殿前にある、ドレスデンの最高級ホテルであり、総数215室(内32のスイート)の5星のホテルで知られるKempinski Hotel Taschenbergpalaisケンピンスキーホテルである。
写真はドレスデン・Taschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿:現在は5星のKempinski Hotelケンピンスキーホテルである。 -
写真はドレスデン・Taschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿:王のレジデンツ・シュロス王宮とタッシェンベルク宮殿は2階につけられた空中回廊によって結ばれていたと云う。
-
③Schloss Pillnitzピルニッツ宮殿
D-01326 Dresden 、Schloss Pillnitz 、August-Boeckstiegel-Strasse 2
http://www.schloesser-dresden.de/
1721年にザクセンのアウグスト強王の夏の宮殿として建てられた。ドレスデンからエルベ川を10km程上った、かつてのピルニッツ村の川畔に立つ、優美なバロックの宮殿である。
写真はSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿:俯瞰(右上のレンガ色の建物は古城ホテルSchlosshotel Dresden ?Pillnitz) -
門を入って上手にBergpalais山の宮殿、下手にWasserpalais水の宮殿があり、どちらも中国風に建てられたのだと云う。そう見えぬでもないが・・・。真中には噴水のある池とLustgarten遊園で彩られている。
アウグスト強王と愛妾コーゼル伯爵夫人が歩いただろう美しい、広大なSchlosspark庭園も宮殿横に見られる。庭園には250年の樹齢と云う日本種のKamellie椿もあるそうだ。
写真はSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿:山の宮殿ピルニッツ城 城・宮殿
-
アウグスト強王は当時の愛人であったコーゼル伯爵夫人にピルニッツ宮殿を贈り、自らも避暑がてら、ドレスデンの宮殿からゴンドラを仕立てて、この宮殿に通ったと云う。
水の宮殿の裏手にエルベ川から上陸する階段が残っており、ここから強王は船を下り、宮殿に上がった。今もドレスデンから外輪蒸気船の便が出ているそうである。
写真はSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿:水の宮殿とエルベ川から上陸する階段 -
④Schloss Burgscheidungenブルクシャイヅンゲン離縁城?!
D- 06636 Burgscheidungen 、Schlossbergstr. 56
http://www.schloss-burgscheidungen.de/
ザクセン・アンハルト州の古城群を調べていたら、ザクセンのBurg Stolpenで書いた“49年間も幽囚されたコーゼル夫人”が最初の夫と結婚生活をおくった城が出てきた。
ブルクシャイヅンゲン城は1628年にGrafen von Hoymホイム伯爵家の居城になり、1699年Graefin-Coselコーゼル伯爵夫人は夫の居城に結婚と共にやって来た。従って、コーゼル伯爵夫人に関連する城は5つの城と宮殿になる。
写真はSchloss Burgscheidungenブルクシャイヅンゲン離縁城?!:コ‐ゼル伯爵夫人の城(1883年) -
実はこの城の近くを走っているのですが、この城の存在を知ったのはNaumburgナウムブルクの大聖堂を見ての帰りに陶磁器屋さんで、偶々もらったパンフレットに載っていた。
この城にはコーゼル伯爵夫人の名を付けたカフェ・レストランがあると云う事が書いてあるだけで、由来が分からなかったのです。コーゼル伯爵夫人の名にちょっぴり興味を持ったのですが、訪ねることなく、先に進んだのでした。
写真はブルクシャイヅンゲン城:俯瞰 -
Schloss Burgscheidungenですが、Scheidungは離縁・離婚という意味ですから、離縁城?!とでも訳すのでしょうか?
アウグスト強王の愛妾になった為に、ホイム伯夫妻は離婚したわけで、これは文字通りの離縁城なのかと思った次第です。
もっとも城の名前はコーゼル伯爵夫人の問題以前から、この名を使用していたようですから、それが原因で城名が付いたのではないのでしょうが、奇妙な一致と言えます。
調べてみると、874年、Kloster Fludaフルダ僧院の文書に“Scidingeburg”の名が出てきたとされている。(私の使っている昭和47年の辞書にはこの言葉は載っていないので分からない)1310年頃から北25kmにあるQuerfurtクエルフルトの騎士領主の居城になり、この頃からBurgscheidungenの名前が使われたようだ。
それにしてもNaumburgナウムブルクの町で、偶々買物に入ったお店で、コーゼル伯爵夫人の城に出会うとは考えもしなかったこと・・・。
この城はNaumburg ナウムブルクから20km、 Freyburgフライブルクから 14kmの距離にある。
写真はSchloss Burgscheidungenブルクシャイヅンゲン離縁城?!:コ‐ゼル伯爵夫人の城・庭園と俯瞰
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この旅行記へのコメント (4)
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- frau.himmelさん 2020/04/25 13:34:21
- コーゼル伯爵夫人の登場ですね
- jijidarumaさん、こんにちは。
新型コロナウイルス、ますます凶暴になってまいりましたね。これからどうなるのか、罹りたくない・・・、恐れながら生活します。
さて、出ましたね、コーゼル伯爵夫人。
私がjjidarumaさんとお知り合いにならせていただいたのもコーゼル夫人でした。
私は、コーゼルの足跡を訪ねて2013年にドレスデンをおとずれました。最近齢のせいか忘れっぽくなり、このシュトルペン城のことも記憶の彼方に飛んでいました。
今回ご旅行記を拝見して、あ~そうだった~~、と懐かしく思い出しました。
49年の長きにわたって幽閉され続けても毅然として美しさを失わなかったコーゼル夫人。
しばらくドレスデンは遠ざかっていますが、もう一度、旅行ができるようになったら訪れたくなりました。
そのためにはこのコロナ禍、早く終息しないとその機会がなくなってしまいます。
お身体ご自愛のほどを。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2020/04/25 17:37:43
- Re: コーゼル伯爵夫人の登場ですね
- himmelさん、
今日は。
世情、相変わらず武漢ウイルスが終息せず、落ち着きませんね。
孫娘も折角希望高に合格したのに、入学式も無い休校で、宙ぶらりんです。
少しずつ休校の延長が繰り返され気の毒なことです。
でも恐れても、毅然としたコーゼル夫人の如く、気張りましょう。
さて、コーゼル伯爵夫人のこと、口コミだけで漸く旅行記に掲載できました。
今続編をやっていますが、himmelさんのコーゼル伯爵夫人にはとても刺激されたのですよ。2011年の旅の事ですが、2019年のツェレのドロドロした話からここにきてしまいました。ツェレではまだ別の幽閉事件もありますから、この時代には驚きます。
先ほども続編を校正していると、ドロドロ相手の姉の事に気付きました。いろいろ話はつながるものです。それはまた、続編にて(笑)。
ドレスデンは良いですね。エルベ川と旧市街の景観が目に浮かびます。私ももう10年近く再訪していないので、ザクセンの古城群共々行ってみたいものです。
ありがとうございました。
それではhimmelさんの旅行記の続編を楽しみに・・・。
jijidaruma
-
- M-koku1さん 2020/04/22 07:59:59
- 高齢と幽閉
- おはようございます
中身がとても濃いので 一回では読み終えることができませんでした。本格的歴史書の風情ですね。
この辺りはスーッと通り過ぎていて、そんなに沢山 古城があったなんて 気づきませんでした。ライン川流域といい 各地に古城が残っているのは 凄いですね!
世界史で習った頃 この辺りのことは ほとんど出てこなかった気がしますが 歴史は面白いです。
最後の二年を過ごした部屋が 恐ろしく簡素な上 塔の中ということを考えると もしかしたら 認知症になっていたかもしれませんね。お世話する人達が 手に余るようになっていたかも。全くの想像です!(^^)
ドレスデンのケンピンスキーに泊まられたんですね。羨ましいです。仕事で行ったので、お客様が用意してくださったホテルは駅の近くでした。でもとても良くできていて、不満はありませんでしたが、いかにもロシアに占領されていたんだなと言う感じでした。
またお邪魔します。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/04/22 13:59:50
- Re: 高齢と幽閉
- M-koku1さん、
今日は。早々のコメントありがとうございました。
旅する人に情報をと、自らには歴史好き、人間好きの思いを満足させるために、何やら長くなってしまいました。読みにくいだろうなといつも思います。
スミマセン!!
世界史を習った由、私もそうでした。高校の日本史の先生(担任)が好きになれずに、何となく世界史の方を好みました。お蔭でヨーロッパが楽しいですよ。
ドイツは現存する古城・城址が3万とかいう数字がありますから、意外な地域にまとまっていて、見る価値があります。勿論古城好きとしてですが。
古城があれば、歴史があり、伝説もありで堪えられない場所なのです。
そういえば、Festung Koenigsteinケーニッヒシュタイン要塞を見ておられましたね。後でそちらを拝見に。
「コーゼル伯爵夫人、もしかしたら 認知症になっていたかもしれませんの説」、なるほど長い幽囚生活でツイに精神に変調をきたしたか?あの時代でも認知症はあったでしょうし、調べてみる要があるかもしれませんね。
白髪も増えたものの、美形のまゝの老齢の様子、あの目力のある夫人でしょうから、そのような説をさてどう思われることでしょう^^。
ドレスデンではHotel Schloss Eckberg古城ホテル シュロス エックベルクで2泊した(口コミご参照)ので、恥ずかしながらケンピンスキーは正面で写真を撮っただけでした。コーゼル夫人にかかわりのあるホテルですから、無理をしてでも泊まるべきだったかも(苦笑)。
ありがとうございました。それではまた。
jijidaruma
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