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ブレーメンから凡そ60 kmの距離にRastedeラシュテーデという町がある。ここにSchloss Rastedeラシュテーデ城:ロッテの館があるので訪問地に選んだ。<br /><br /><貴賤結婚を選んだ、孤独なSophie Charlotte von Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク><br /><br />ゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク(1879年~1964年)は、ドイツのGrossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公Friedrich August II.フリードリヒ・アウグスト(2世)(1852年~1931年)の娘で、プロイセン王子Eitel Friedrichアイテル・フリードリヒ(1883年~1942年)の妻。 <br />愛称はLotteロッテと言った 。 <br /><br /><br />写真は Lotteロッテ:ゾフィー・シャルロッテ(1913年)<br />

番外編:孤独なゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク

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2019/09/18 - 2019/10/03

11位(同エリア217件中)

旅行記グループ ドイツ:番外編様々

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17

jijidaruma

jijidarumaさん

ブレーメンから凡そ60 kmの距離にRastedeラシュテーデという町がある。ここにSchloss Rastedeラシュテーデ城:ロッテの館があるので訪問地に選んだ。

<貴賤結婚を選んだ、孤独なSophie Charlotte von Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク>

ゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク(1879年~1964年)は、ドイツのGrossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公Friedrich August II.フリードリヒ・アウグスト(2世)(1852年~1931年)の娘で、プロイセン王子Eitel Friedrichアイテル・フリードリヒ(1883年~1942年)の妻。 
愛称はLotteロッテと言った 。


写真は Lotteロッテ:ゾフィー・シャルロッテ(1913年)

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • <Lotteロッテの生涯><br />ゾフィー・シャルロッテはオルデンブルク大公家の世継ぎ公子だったフリードリヒ・アウグストと、その最初の妻でプロイセン王子フリードリヒ・カールの娘であるElisabeth Annaエリザベート・アンナ(1857年~1895年)の間の長女として、オルデンブルクのオルデンブルク城で生まれた。<br /><br />写真はロッテが生まれたOldenburger_Schlossオルデンブルク城

    <Lotteロッテの生涯>
    ゾフィー・シャルロッテはオルデンブルク大公家の世継ぎ公子だったフリードリヒ・アウグストと、その最初の妻でプロイセン王子フリードリヒ・カールの娘であるElisabeth Annaエリザベート・アンナ(1857年~1895年)の間の長女として、オルデンブルクのオルデンブルク城で生まれた。

    写真はロッテが生まれたOldenburger_Schlossオルデンブルク城

  • 名前は母方の先祖である初代プロイセン王フリードリヒ1世の王妃ゾフィー・シャルロッテにあやかって付けられた。妹のマルガレーテが幼くして死んだため、実質的には両親の一人娘だった。<br /><br />写真はオルデンブルク大公妃エリザベート・アンナ、プロイセン王子フリードリヒ・カールの娘で、ロッテの母である。

    名前は母方の先祖である初代プロイセン王フリードリヒ1世の王妃ゾフィー・シャルロッテにあやかって付けられた。妹のマルガレーテが幼くして死んだため、実質的には両親の一人娘だった。

    写真はオルデンブルク大公妃エリザベート・アンナ、プロイセン王子フリードリヒ・カールの娘で、ロッテの母である。

  • 1895年に母が死ぬと、父はその翌年にメクレンブルク・シュヴェリーン大公女Elisabeth Alexandrineエリザベート・アレクサンドリーネ(1869年~1955年)と再婚し、4人の子供をもうけた。<br /><br />ゾフィー・シャルロッテは亡き母にその名を因んだエリザベート・アンナ宮殿で、父と継母、腹違いの弟妹たちと一緒に暮らしたが、新しい家族との生活は不幸であり、早くに結婚して家を出ることを望んでいた。<br /><br />写真は Lotteロッテ

    1895年に母が死ぬと、父はその翌年にメクレンブルク・シュヴェリーン大公女Elisabeth Alexandrineエリザベート・アレクサンドリーネ(1869年~1955年)と再婚し、4人の子供をもうけた。

    ゾフィー・シャルロッテは亡き母にその名を因んだエリザベート・アンナ宮殿で、父と継母、腹違いの弟妹たちと一緒に暮らしたが、新しい家族との生活は不幸であり、早くに結婚して家を出ることを望んでいた。

    写真は Lotteロッテ

  • 父フリードリヒ・アウグストは1900年にオルデンブルク大公位を継いだ。<br /><br />写真はGrossherzogtum Oldenburgドイツ帝国期のオルデンブルク大公国本土<br /><br /><Grossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公国について><br />Oldenburgオルデンブルクは、中世から近代にかけてのドイツに存在した領邦国家である。首都であるオルデンブルク(現在はニーダーザクセン州の都市)、およびそれに由来する領主・君主の爵位によりこの名称で呼ばれる。 <br /><br /><br />

    父フリードリヒ・アウグストは1900年にオルデンブルク大公位を継いだ。

    写真はGrossherzogtum Oldenburgドイツ帝国期のオルデンブルク大公国本土

    <Grossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公国について>
    Oldenburgオルデンブルクは、中世から近代にかけてのドイツに存在した領邦国家である。首都であるオルデンブルク(現在はニーダーザクセン州の都市)、およびそれに由来する領主・君主の爵位によりこの名称で呼ばれる。


  • 中世にGrafschaft Oldenburgオルデンブルク伯領の領主(オルデンブルク伯)であったオルデンブルク家からは、後にデンマーク王家(オルデンブルク朝:1448年から1863年)が出た。またオルデンブルク家の分家にあたるHaus Holstein-Gottorpホルシュタイン・ゴットルプ家(2014年5月の旅で、居城のゴットルプ城を訪ねている)はロシアのロマノフ家(ピョートル3世以後)にもつながっている。<br />それ故にオルデンブルクは、神聖ローマ帝国に属する領邦でありながらデンマーク王が領主となっていた時代(1667年~1773年)があり、また短期間ながらロシア皇帝が領主になっていた(1773年)。<br /><br />1777年にはホルシュタイン・ゴットルプ家のもとでHerzogtum Oldenburgオルデンブルク公国となるが、ナポレオン戦争中にはフランス帝国による支配を受けている(1810年~1813年)。<br />ウィーン会議の結果オルデンブルク大公国となり、1871年にドイツ帝国の構成国の一つとなった。<br /><br />・・・・・・・<br />写真はOldenburgオルデンブルク:Schloss_Oldenburgオルデンブルク城_um_1840年頃

    中世にGrafschaft Oldenburgオルデンブルク伯領の領主(オルデンブルク伯)であったオルデンブルク家からは、後にデンマーク王家(オルデンブルク朝:1448年から1863年)が出た。またオルデンブルク家の分家にあたるHaus Holstein-Gottorpホルシュタイン・ゴットルプ家(2014年5月の旅で、居城のゴットルプ城を訪ねている)はロシアのロマノフ家(ピョートル3世以後)にもつながっている。
    それ故にオルデンブルクは、神聖ローマ帝国に属する領邦でありながらデンマーク王が領主となっていた時代(1667年~1773年)があり、また短期間ながらロシア皇帝が領主になっていた(1773年)。

    1777年にはホルシュタイン・ゴットルプ家のもとでHerzogtum Oldenburgオルデンブルク公国となるが、ナポレオン戦争中にはフランス帝国による支配を受けている(1810年~1813年)。
    ウィーン会議の結果オルデンブルク大公国となり、1871年にドイツ帝国の構成国の一つとなった。

    ・・・・・・・
    写真はOldenburgオルデンブルク:Schloss_Oldenburgオルデンブルク城_um_1840年頃

  • ゾフィー・シャルロッテは母親の体質を受け継いで体が弱く、幼い頃からたびたび湯治場に長期滞在し、健康増進に努めていたと云う。 <br /><br />写真はRastedeラシュテーデ:俯瞰

    ゾフィー・シャルロッテは母親の体質を受け継いで体が弱く、幼い頃からたびたび湯治場に長期滞在し、健康増進に努めていたと云う。

    写真はRastedeラシュテーデ:俯瞰

  • 1905年、ゾフィー・シャルロッテにドイツ皇帝Wilhelm II.ヴィルヘルム2世(1859年~1941年)の次男アイテル・フリードリヒ王子との縁談が舞い込んだ。<br /><br />写真はラシュテーデ城:Hirschtor鹿の門<br /><br /><Rastedeラシュテーデ:Schloss Rastedeラシュテーデ城><br />D-26180 Residenzort Rastede 、Feldbreite 23<br />Palais &amp; Palaisgarten 開館:水~金・日 11時~17時、入館料Euro4x2=8<br /><br />

    1905年、ゾフィー・シャルロッテにドイツ皇帝Wilhelm II.ヴィルヘルム2世(1859年~1941年)の次男アイテル・フリードリヒ王子との縁談が舞い込んだ。

    写真はラシュテーデ城:Hirschtor鹿の門

    <Rastedeラシュテーデ:Schloss Rastedeラシュテーデ城>
    D-26180 Residenzort Rastede 、Feldbreite 23
    Palais & Palaisgarten 開館:水~金・日 11時~17時、入館料Euro4x2=8

  • この縁組には、アイテル王子の母親Auguste Viktoriaアウグステ・ヴィクトリア皇后(1858年~1921年:最後のドイツ皇后・プロイセン王妃)が特に乗り気だった。オルデンブルク大公家は身持ちが固いうえに家柄も申し分なく、プロイセン王家とも親しい間柄だったのである。<br /><br />写真はラシュテーデ城:庭園側から

    この縁組には、アイテル王子の母親Auguste Viktoriaアウグステ・ヴィクトリア皇后(1858年~1921年:最後のドイツ皇后・プロイセン王妃)が特に乗り気だった。オルデンブルク大公家は身持ちが固いうえに家柄も申し分なく、プロイセン王家とも親しい間柄だったのである。

    写真はラシュテーデ城:庭園側から

  • ゾフィー・シャルロッテの母親がプロイセン王家出身で、またヴィルヘルム2世の妹のザクセン・マイニンゲン公爵夫人シャルロッテがゾフィー・シャルロッテの洗礼の代母という関係だった。 <br /><br />写真はラシュテーデ城:Prinzenpalaisプリンツェンパレス

    ゾフィー・シャルロッテの母親がプロイセン王家出身で、またヴィルヘルム2世の妹のザクセン・マイニンゲン公爵夫人シャルロッテがゾフィー・シャルロッテの洗礼の代母という関係だった。

    写真はラシュテーデ城:Prinzenpalaisプリンツェンパレス

  • ゾフィー・シャルロッテは1906年2月27日にベルリンにおいて、アイテル・フリードリヒ王子と結婚した。Prinzess Eitel Friedrichプリンツェス・アイテル・フリードリヒとして、一般に呼ばれることになる。<br /><br />写真はプロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテの挙式の頃

    ゾフィー・シャルロッテは1906年2月27日にベルリンにおいて、アイテル・フリードリヒ王子と結婚した。Prinzess Eitel Friedrichプリンツェス・アイテル・フリードリヒとして、一般に呼ばれることになる。

    写真はプロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテの挙式の頃

  • 盛大な結婚式でベルリンの人々から歓迎されたにもかかわらず、ゾフィー・シャルロッテはベルリンの宮廷や社交界で友人を作ることは出来なかった。<br /><br />写真はプロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテ

    盛大な結婚式でベルリンの人々から歓迎されたにもかかわらず、ゾフィー・シャルロッテはベルリンの宮廷や社交界で友人を作ることは出来なかった。

    写真はプロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテ

  • 夫婦生活も不幸で、荒っぽい性格のアイテル・フリードリヒは妻に親切な態度で接することはなかった(彼はそもそも結婚に乗り気でなかった)。<br /><br />写真はプロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテ

    夫婦生活も不幸で、荒っぽい性格のアイテル・フリードリヒは妻に親切な態度で接することはなかった(彼はそもそも結婚に乗り気でなかった)。

    写真はプロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテ

  • 第1次世界大戦中、夫妻はほとんど顔を合わせることはなく、ゾフィー・シャルロッテは住まいのSchloss Bellevueベルヴュー宮殿で、読書や絵画制作、数少ない友人との社交などをしながら、孤独な生活を送った。<br /><br />写真はベルリンのSchloss Bellevueベルヴュー宮殿

    第1次世界大戦中、夫妻はほとんど顔を合わせることはなく、ゾフィー・シャルロッテは住まいのSchloss Bellevueベルヴュー宮殿で、読書や絵画制作、数少ない友人との社交などをしながら、孤独な生活を送った。

    写真はベルリンのSchloss Bellevueベルヴュー宮殿

  • ドイツ革命後の1922年、ゾフィー・シャルロッテはある離婚裁判で証人として法廷に立った際、その裁判の被告男性と不倫をしていたことを認める証言をし、この話題はドイツのみならず諸外国の新聞が報道する事態となった。アイテル・フリードリヒはこれに対し、ドイツの新聞4紙を名誉棄損で提訴した。<br /><br />ゾフィー・シャルロッテとアイテル・フリードリヒは1926年10月26日に離婚した。夫妻には子供はいなかった。夫妻は第1次大戦前から離婚を望んでいて、アイテル・フリードリヒはすでに1919年から、離婚に向けた手続きを始めていたと云う。たが、皇帝ヴィルヘルム2世がこれを許さなかったと云われている。<br /><br />写真はPostcard Sophie Charlotteロッテの絵葉書

    ドイツ革命後の1922年、ゾフィー・シャルロッテはある離婚裁判で証人として法廷に立った際、その裁判の被告男性と不倫をしていたことを認める証言をし、この話題はドイツのみならず諸外国の新聞が報道する事態となった。アイテル・フリードリヒはこれに対し、ドイツの新聞4紙を名誉棄損で提訴した。

    ゾフィー・シャルロッテとアイテル・フリードリヒは1926年10月26日に離婚した。夫妻には子供はいなかった。夫妻は第1次大戦前から離婚を望んでいて、アイテル・フリードリヒはすでに1919年から、離婚に向けた手続きを始めていたと云う。たが、皇帝ヴィルヘルム2世がこれを許さなかったと云われている。

    写真はPostcard Sophie Charlotteロッテの絵葉書

  • ゾフィー・シャルロッテは離婚した翌年の1927年、ポツダムの元警察官(騎兵)Harald von Hedemannハーラルト・フォン・ヘーデマンと再婚した。<br />彼女はすでに48歳になっており、新しい夫は8歳年下の40歳だった。<br /><br />ヘーデマンとの結婚は「貴賤結婚」に該当するにもかかわらず、結婚式はオルデンブルク大公家の持ち城の一つラシュテーデ城で行われ、式にはゾフィー・シャルロッテの父の元大公も出席した。<br /><br />写真はラシュテーデ城

    ゾフィー・シャルロッテは離婚した翌年の1927年、ポツダムの元警察官(騎兵)Harald von Hedemannハーラルト・フォン・ヘーデマンと再婚した。
    彼女はすでに48歳になっており、新しい夫は8歳年下の40歳だった。

    ヘーデマンとの結婚は「貴賤結婚」に該当するにもかかわらず、結婚式はオルデンブルク大公家の持ち城の一つラシュテーデ城で行われ、式にはゾフィー・シャルロッテの父の元大公も出席した。

    写真はラシュテーデ城

  • ゾフィー・シャルロッテはドイツでも資産家の女性として知られており、ヘーデマン夫妻は、結婚後はラシュテーデ城で暮らした。<br /><br />1951年に64歳でヘーデマンが死去すると、オルデンブルクとWesterstedeヴェスターシュテーデの中間に位置するツウィシェナーン湖畔の保養地であるBad Zwischenahnバート・ツウィシェナーンの小さな家に引っ越し、死ぬまでの13年間をそこで過ごした。<br />1964年3月29日、ゾフィー・シャルロッテはオルデンブルクから北西20kmにあるヴェスターシュテーデにおいて死去した。<br /><br />ヘーデマン夫妻の写真も見つけられず、どのような生活をおくったのかも知りようがないが、ロッテにとって貴賤結婚は幸せであったと思われる。<br /><br />幼い頃から体が弱かったゾフィー・シャルロッテだったが、当時としては85歳という長寿を全うしている。<br /><br />・・・・・<br /><br />尚、1918年にドイツ革命が勃発するとフリードリヒ・アウグストは同年11月11日にオルデンブルク大公を退位し、以後はラシュテーデ城で隠棲した。<br />その後、1931年にラシュテーデ城で死去した。<br />継母のエリザベート・アレクサンドリーネ元オルデンブルク大公妃は、同様にラシュテーデ城で私人として暮らし、1955年に死去した。<br /><br />また、アイテル・フリードリヒ王子(第一次大戦時、第一近衛歩兵連隊の司令、陸軍少将)は1941年、父であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命先のオランダのドールン城で死去すると、翌年、59歳でポツダムにて死去している。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />写真は Lotteロッテ:Sophie_Charlotte_von_Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク(1913年)

    ゾフィー・シャルロッテはドイツでも資産家の女性として知られており、ヘーデマン夫妻は、結婚後はラシュテーデ城で暮らした。

    1951年に64歳でヘーデマンが死去すると、オルデンブルクとWesterstedeヴェスターシュテーデの中間に位置するツウィシェナーン湖畔の保養地であるBad Zwischenahnバート・ツウィシェナーンの小さな家に引っ越し、死ぬまでの13年間をそこで過ごした。
    1964年3月29日、ゾフィー・シャルロッテはオルデンブルクから北西20kmにあるヴェスターシュテーデにおいて死去した。

    ヘーデマン夫妻の写真も見つけられず、どのような生活をおくったのかも知りようがないが、ロッテにとって貴賤結婚は幸せであったと思われる。

    幼い頃から体が弱かったゾフィー・シャルロッテだったが、当時としては85歳という長寿を全うしている。

    ・・・・・

    尚、1918年にドイツ革命が勃発するとフリードリヒ・アウグストは同年11月11日にオルデンブルク大公を退位し、以後はラシュテーデ城で隠棲した。
    その後、1931年にラシュテーデ城で死去した。
    継母のエリザベート・アレクサンドリーネ元オルデンブルク大公妃は、同様にラシュテーデ城で私人として暮らし、1955年に死去した。

    また、アイテル・フリードリヒ王子(第一次大戦時、第一近衛歩兵連隊の司令、陸軍少将)は1941年、父であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命先のオランダのドールン城で死去すると、翌年、59歳でポツダムにて死去している。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    写真は Lotteロッテ:Sophie_Charlotte_von_Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク(1913年)

  • 【貴賤結婚(きせんけっこん)について】<br /><br />貴賤結婚は配偶者同士の間で、所属する社会的・経済的階層ないし法的身分という観点から見た場合、大きく上下の隔たりが存在する婚姻の形態。<br />特に彼らが属する社会において、一般に対等だと認められない為、夫婦の両方又は一方ないし夫婦の間に出生する子供には法的・社会的ペナルティが科せられる。 <br /><br />貴賤結婚が大きな問題となるのは、君主国において王位継承権者の配偶者の身分を厳しく制限する法律が存在する場合である。<br />特に、キリスト教文明圏であるヨーロッパの君主国での結婚形態は一夫一婦制であるため、君主やその親族の身分の釣り合いのとれた対等結婚が重視されていた。<br />しかし19、20世紀になると、ヨーロッパでは王族や貴族階級の間に恋愛結婚の概念が浸透するようになり、君主や王族が身分の低い相手を配偶者に選ぶ例が続出した。20世紀後半までに、君主国の多くで身分制度が弛緩するとともに、王族の配偶者の身分上の資格が問題になることは少なくなった。<br /><br />フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアなどでは時代にもよるが、皇族・王族と臣下との間の結婚が禁じられていたため、貴賤結婚をした皇族・王族は一般に皇位・王位継承権を失った。<br /><br />日本では古来より一夫多妻制であったため、正妻以外の妻は必ずしも家柄を重視されるとは限らなかった。そのため、貴賤結婚の例は多い。<br />むしろ「貴賎結婚」という概念自体がなかったと言えよう。正妻の身分は重視されたが、跡継ぎを正妻が産む必要はなかったため、跡継ぎの生母が身分の低い側室・女官・女中などであった例も多い。<br /><br />日本において明確に貴賤結婚を禁じた例としては、明治時代から第二次世界大戦終戦直後まで施行された旧皇室典範が代表的である。<br />旧皇室典範では、天皇及び皇族と婚姻できるのは、皇族または勅旨により特に認許された華族に限られた(旧典範39条、皇室親族令7条)。<br />後に、皇族女子の婚姻相手の範囲は王族または公族まで広げられた。<br />         (参考:Wiki・抜粋)<br />・・・・・<br /><br />写真はゾフィー・シャルロッテとアイテル・フリードリヒ(離婚直前の1925年)<br /><br />(2019年8月12日Wiki編集・加筆)<br />

    【貴賤結婚(きせんけっこん)について】

    貴賤結婚は配偶者同士の間で、所属する社会的・経済的階層ないし法的身分という観点から見た場合、大きく上下の隔たりが存在する婚姻の形態。
    特に彼らが属する社会において、一般に対等だと認められない為、夫婦の両方又は一方ないし夫婦の間に出生する子供には法的・社会的ペナルティが科せられる。

    貴賤結婚が大きな問題となるのは、君主国において王位継承権者の配偶者の身分を厳しく制限する法律が存在する場合である。
    特に、キリスト教文明圏であるヨーロッパの君主国での結婚形態は一夫一婦制であるため、君主やその親族の身分の釣り合いのとれた対等結婚が重視されていた。
    しかし19、20世紀になると、ヨーロッパでは王族や貴族階級の間に恋愛結婚の概念が浸透するようになり、君主や王族が身分の低い相手を配偶者に選ぶ例が続出した。20世紀後半までに、君主国の多くで身分制度が弛緩するとともに、王族の配偶者の身分上の資格が問題になることは少なくなった。

    フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアなどでは時代にもよるが、皇族・王族と臣下との間の結婚が禁じられていたため、貴賤結婚をした皇族・王族は一般に皇位・王位継承権を失った。

    日本では古来より一夫多妻制であったため、正妻以外の妻は必ずしも家柄を重視されるとは限らなかった。そのため、貴賤結婚の例は多い。
    むしろ「貴賎結婚」という概念自体がなかったと言えよう。正妻の身分は重視されたが、跡継ぎを正妻が産む必要はなかったため、跡継ぎの生母が身分の低い側室・女官・女中などであった例も多い。

    日本において明確に貴賤結婚を禁じた例としては、明治時代から第二次世界大戦終戦直後まで施行された旧皇室典範が代表的である。
    旧皇室典範では、天皇及び皇族と婚姻できるのは、皇族または勅旨により特に認許された華族に限られた(旧典範39条、皇室親族令7条)。
    後に、皇族女子の婚姻相手の範囲は王族または公族まで広げられた。
             (参考:Wiki・抜粋)
    ・・・・・

    写真はゾフィー・シャルロッテとアイテル・フリードリヒ(離婚直前の1925年)

    (2019年8月12日Wiki編集・加筆)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • Rolleiguyさん 2019/09/12 16:38:25
    貴賤結婚
    jijidarumaさん
    大変興味深い内容ですね。欧州の王室では今や話題にもならないほど一般的になりましたが、日本では? 
    欧州は王室と言っても、出自を数百年も遡れば殆ど庶民と変わらないとも言え、王室に対する国民の意識が違うのかもしれませんね。
    Rolleiguy

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2019/09/13 00:18:27
    Re: 貴賤結婚
    Rolleiguyさん、
    今晩は、いつもありがとうございます。

    貴賤結婚という言葉は日本ではすでに死語になるかなと思い、
    題名に付けるのを止めて、本文に入れました。
    やはり解説を付けねばと、Wikiから抜粋してみました。
    ゾフィー・シャルロッテの頃はドイツ革命が勃発するといった、
    社会の混乱期でしたが、それでも離婚し、貴賤結婚をしたわけで、
    彼女の心の持ちようをもっと知ってみたい気がしたものです。

    おっしゃるように欧州の王室、英国の王室を筆頭に貴賤当たり前です。
    その分、何かと醜聞も聞かれます。日本も民間の血を入れたから云々の
    批判も出やすいですね。
    ドイツも王室は消えましたが、むしろ今でも貴族層は残り、麗々しく
    肩書に貴族を名乗っていますね。

    意外と国民から仰ぎ見る、憧憬を感じる王室は社会の安定上必要で、
    生き残るのでしょう。
    jijidaruma

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