2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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ブレーメンから凡そ60 kmの距離にRastedeラシュテーデという町がある。ここにSchloss Rastedeラシュテーデ城:ロッテの館があるので訪問地に選んだ。
<貴賤結婚を選んだ、孤独なSophie Charlotte von Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルクの人生の明暗>
ゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク(1879年~1964年)は、ドイツのGrossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公Friedrich August II.フリードリヒ・アウグスト(2世)(1852年~1931年)の娘で、プロイセン王子Eitel Friedrichアイテル・フリードリヒ(1883年~1942年)の妻。
愛称はLotteロッテと言った 。
参考写真:このカラー化した写真も偶々見つけた。離婚前のゾフィーとは違って、若々しく、見栄えする写真だ。カラー化された方も満足したものだろう。Sophia_Charlotte_Herzogin von Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク公爵夫人(1905年:カラー化したもの)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
5枚の写真はこのほど、新たに見つけたものだ。
いわば僥倖(ぎょうこう・・思いがけない幸い)と言って良いかも知れない。
とりわけ貴賤結婚をした二人の墓、夫ハラルド・フォン・ヘーデマン氏の写真は、2019年にラシュテーデ城を訪問した際(城内の郷土博物館)も、その後も長く見つけられなかったものだ。
参考写真:Bad Zwischenahn・St.-Johannes-Kircheバート・ツウィシェナーンにあるヨハネ教会 -
ソフィー・シャルロッテとハラルド・フォン・ヘーデマンは、ヘーデマンが1951年に亡くなるまで、今日のEmsold-Geländeエムゾルト地区にあるラシュテーデのHankhausenハンクハウゼンの公園沿いのヴィラに住んでいた。
夫の死後、ソフィー・シャルロッテはBad_Zwischenahnバート・ツウィシェナーンに引っ越し、1964年3月29日にヴェスターシュテーデで亡くなった。
参考写真:Bad_Zwischenahn_St._Johannes_Ost-_und_Seeseiteバート・ツウィシェナーンにあるヨハネ教会・・・東、湖畔向きの墓地 -
参考写真:Harald von Hedemann&Sophie Charlotte ハラルド・フォン・ヘーデマンとゾフィー・シャルロッテの左右夫妻の簡素な墓
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参考写真:Sophie_Charlotte_von_Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルクの墓・・・簡素な墓ながら Herzogin von Oldenburgオルデンブルク公爵夫人の爵位が刻まれている。
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<Harald von Hedemannハラルド・フォン・ヘーデマン>
生誕:1887年9月22日、ケルン生まれ
死没:1951年6月12日、Hankhausen, Landkreis Ammerland (年齢 63歳)
埋葬地:Alter Friedhof Bad Zwischenahn (St.-Johannes-Kirche)
*Hedemann (Adelsgeschlecht) ヘーデマン(貴族の家系)
ヘーデマンはホルシュタイン地方の貴族の名前で、ハノーファー、プロイセンの系統と、デンマークの3つの系統、そしてニーエンホーファーの系統がある。
その一族はディーフォルツ郡から、北方やバルト海沿岸地域に広がった。
リューネブルク公の顧問官であるErich Hedemannエーリッヒ・ヘーデマンは、1615年3月18日に皇帝からHofpfalzgraf宮廷伯爵職を与えられた。
参考写真:Sophie Charlotte の夫 Harald von Hedemannハラルド・フォン・ヘーデマン -
<Grossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公国について>
Oldenburgオルデンブルクは、中世から近代にかけてのドイツに存在した領邦国家である。
首都であるオルデンブルク(現在はニーダーザクセン州の都市)、およびそれに由来する領主・君主の爵位によりこの名称で呼ばれる。
中世にGrafschaft Oldenburgオルデンブルク伯領の領主(オルデンブルク伯)であったオルデンブルク家からは、後にデンマーク王家(オルデンブルク朝:1448年から1863年)が出た名家である。
またオルデンブルク家の分家にあたるHaus Holstein-Gottorpホルシュタイン・ゴットルプ家(2014年5月の旅で、居城のゴットルプ城を訪ねている)はロシアのロマノフ家(ピョートル3世以後)にもつながっている。
参考写真:オルデンブルク大公妃エリザベート・アンナ、プロイセン王子フリードリヒ・カールの娘で、ロッテの母である。 -
それ故にオルデンブルクは、神聖ローマ帝国に属する領邦でありながらデンマーク王が領主となっていた時代(1667年~1773年)があり、また短期間ながらロシア皇帝が領主になっていた(1773年)。
1777年にはホルシュタイン・ゴットルプ家のもとでHerzogtum Oldenburgオルデンブルク公国となるが、ナポレオン戦争中にはフランス帝国による支配を受けている(1810年~1813年)。
ウィーン会議(ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を再建するための国際会議)の結果オルデンブルク大公国となり、1871年にドイツ帝国の構成国の一つとなった。
参考写真:Grossherzogtum Oldenburgドイツ帝国期のオルデンブルク大公国本土 -
参考写真:Oldenburgオルデンブルク:Schloss_Oldenburgオルデンブルク城_um_1840年頃
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<Leben・Sophie Charlotte von Oldenburg :Lotteロッテの生涯>
ゾフィー・シャルロッテはオルデンブルク大公家の世継ぎ公子だったフリードリヒ・アウグストと、その最初の妻でプロイセン王子フリードリヒ・カールの娘であるElisabeth Annaエリザベート・アンナ(1857年~1895年)の間の長女として、オルデンブルクのオルデンブルク城で生まれた。
名前は母方の先祖である初代プロイセン王フリードリヒ1世の王妃ゾフィー・シャルロッテにあやかって付けられた。妹のマルガレーテが幼くして死んだため、実質的には両親の一人娘だった。
1895年に母が死ぬと、父はその翌年にHerzogin zu Mecklenburg -Schwerinメクレンブルク・シュヴェリーン大公女Elisabeth Alexandrineエリザベート・アレクサンドリーネ(1869年~1955年)と再婚し、長男ニコラウス(後のオルデンブルク大公家家長)、及び、インゲボルク、アルトブルクの二人の娘、さらに早世した双子の5人の子供を設けた。
1900年に、父フリードリヒ・アウグストはGrossherzogtum Oldenburgオルデンブルク大公位を継いだ。
参考写真:愛称Lotteロッテ(1900年) -
ロッテは母親の体質を受け継いで体が弱く、幼い頃からたびたび湯治場に長期滞在し、健康増進に努めていたと云う。
亡き母にその名を因んだエリザベート・アンナ宮殿で、ロッテは父と継母、腹違いの弟妹たちと一緒に暮らしたが、新しい母たちの家族との生活は不幸であり、ロッテは早くに結婚して家を出ることを望んでいた。
参考写真:ロッテが生まれたOldenburger_Schlossオルデンブルク城 -
参考写真:Rastedeラシュテーデの町・・・俯瞰
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参考写真:ラシュテーデ城・・・Hirschtor鹿の門
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<Rastedeラシュテーデ:Schloss Rastedeラシュテーデ城>
D-26180 Residenzort Rastede 、Feldbreite 23
Palais & Palaisgarten 開館:水~金・日 11時~17時、入館料Euro4x2=8
参考写真:写真はラシュテーデ城・・・庭園側から -
1905年、ロッテにドイツ皇帝Wilhelm II.ヴィルヘルム2世(1859年~1941年)の次男アイテル・フリードリヒ王子との縁談が舞い込んだ。
参考写真:ロッテとプロイセンのアイテル・フリードリヒ王子(縁談前の1903年) -
この縁組には、アイテル王子の母親Auguste Viktoriaアウグステ・ヴィクトリア皇后(1858年~1921年:最後のドイツ皇后・プロイセン王妃)が特に乗り気だった。オルデンブルク大公家は身持ちが固いうえに家柄も申し分なく、プロイセン王家とも親しい間柄だったのである。
ロッテの母親がプロイセン王家出身で、またヴィルヘルム2世の妹のザクセン・マイニンゲン公爵夫人シャルロッテが、ロッテの洗礼の代母という関係だった。
ゾフィー・シャルロッテは1906年2月27日にベルリンにおいて、アイテル・フリードリヒ王子(後の聖ヨハネ騎士団の騎士団長、陸軍少将)と結婚した。
参考写真:Princess_Sophia_Charlotte_of_Oldenburg 1905年(カラー化したもの)
<European Royal History ~ Exploring the Monarchs of Europe>
【ゾフィーの個人的な特徴と容姿】
ゾフィー・シャルロッテはよく教育され、控えめで世俗にとらわれない環境で育った。彼女は優れた言語学者であり、音楽家でもありました。また、水彩画の才能もありました。ゾフィー・シャルロッテの若い頃には母親が病気がちだったため、彼女の健康について心配されていました。しかし、温泉地に出かけ、暖かい気候の場所に住むことで、病気の兆候を克服することができた。
結婚直前のある情報によれば、ゾフィー・シャルロッテは「完全に健康で幸せな女性に成長し、その金髪と青い目はドイツ風ながら、顔立ちはラテン系を思わせるところがあり、一層魅力的に見える」と述べられている。 -
1906年2月27日にベルリン:プロイセンのエーテル・フリードリヒ王子とオルデンブルク公爵女ソフィー・シャルロッテの結婚式
(皇帝ヴィルヘルム2世が公爵夫人の花嫁ゾフィーと名誉隊列の前を歩く)
Eitel Friedrich Hochzeit:Hochzeit des Prinzen Eitel Friedrich von Preußen mit Herzogin Sophie Charlotte von Oldenburg (Der Kaiser schreitet mit der Herzoginnenbraut die Front der Ehrenkompagnie ab)
ロッテは結婚後、Prinzessin Eitel Friedrich.プリンセス・アイテル・フリードリヒとして、一般に呼ばれることになる。
参考写真:プロイセンのエーテル・フリードリヒ王子とオルデンブルク公爵女ソフィー・シャルロッテの結婚式 -
参考写真:プロイセンPrinz_Eitel_Friedrich_von_Preussenアイテル・フリードリヒ王子とロッテの挙式の頃
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参考写真:ゾフィー・シャルロッテとアイテル・フリードリヒ(新婚時1906年)
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参考写真:プロイセン・アイテル・フリードリヒ王子とロッテ(1908年)
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盛大な結婚式でベルリンの人々から歓迎されたにもかかわらず、ゾフィー・シャルロッテはベルリンの宮廷や社交界で友人を作ることは出来なかった。
夫婦生活も不幸で、荒っぽい性格のアイテル・フリードリヒは妻に親切な態度で接することはなかった(彼はそもそも結婚に乗り気でなかった)。
写真はベルリンのSchloss Bellevueベルヴュー宮殿 -
第1次世界大戦中、王子は第1近衞歩兵連隊を率いて奮闘し、鉄十字章を授与される勲功をあげている。この間、従軍中であったこともあり、夫妻はほとんど顔を合わせることはなく、ゾフィー・シャルロッテは住まいのSchloss Bellevueベルヴュー宮殿で、読書や絵画制作、数少ない友人との社交などをしながら、孤独な生活を送った。
ドイツ革命後の1922年、ゾフィー・シャルロッテはある離婚裁判で証人として法廷に立った際、その裁判の被告男性と不倫をしていたことを認める証言をし、この話題はドイツのみならず諸外国の新聞が報道する事態となった。
アイテル・フリードリヒ王子はこれに対し、ドイツの新聞4紙を名誉棄損で提訴した。
アイテル・フリードリヒは、1926年10月26日に戦前のゾフィー・シャルロッテの姦通を理由に離婚した。王子夫妻には子供はいなかった。
参考写真:故郷ラシュテーデ城・・・Prinzenpalaisプリンツェンパレスラ -
夫妻は第1次大戦前から離婚を望んでいて、アイテル・フリードリヒはすでに1919年から、離婚に向けた手続きを始めていたと云う。
たが、皇帝Wilhelm IIヴィルヘルム2世がこれを許さなかったと云われている。
写真は Lotteロッテ:Sophie_Charlotte_von_Oldenburgゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルク(1913年) -
参考写真:Das_deutsche_Kaiserhaus,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(中央)一家(1915年)・・・左手にロッテ夫妻が見える。
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ゾフィー・シャルロッテは離婚した翌年の1927年、ポツダムの元警察官(騎兵)Harald von Hedemannハーラルト・フォン・ヘーデマンと再婚した。
その馴れ初めなどは書かれていないので、分からないのだが・・・。
彼女はすでに48歳になっており、新しい夫は8歳年下の40歳だった。
ヘーデマンとの結婚は「貴賤結婚」に該当するにもかかわらず、結婚式はオルデンブルク大公家の持ち城の一つラシュテーデ城で行われ、式にはゾフィー・シャルロッテの父、元大公も出席した。
ゾフィー・シャルロッテはドイツでも資産家の女性として知られており、ヘーデマン夫妻は、結婚後はラシュテーデ城で暮らした。
1951年に63歳で夫ヘーデマンが死去すると、オルデンブルクとWesterstedeヴェスターシュテーデの中間に位置するツウィシェナーン湖畔の保養地であるBad Zwischenahnバート・ツウィシェナーンの小さな家に引っ越し、死ぬまでの13年間をそこで過ごした。
1964年3月29日、ゾフィー・シャルロッテはオルデンブルクから北西20kmにあるヴェスターシュテーデにおいて死去した。
死ぬまで過ごしたバート・ツウィシェナーンの2番目の夫ヘーデマンが眠る古い墓地の隣に埋葬された。
写真は現在のラシュテーデ城 -
【貴賤結婚(きせんけっこん)について】
貴賤結婚は配偶者同士の間で、所属する社会的・経済的階層ないし法的身分という観点から見た場合、大きく上下の隔たりが存在する婚姻の形態。
特に彼らが属する社会において、一般に対等だと認められない為、夫婦の両方又は一方ないし夫婦の間に出生する子供には法的・社会的ペナルティが科せられる。
貴賤結婚が大きな問題となるのは、君主国において王位継承権者の配偶者の身分を厳しく制限する法律が存在する場合である。
特に、キリスト教文明圏であるヨーロッパの君主国での結婚形態は一夫一婦制であるため、君主やその親族の身分の釣り合いのとれた対等結婚が重視されていた。
しかし19、20世紀になると、ヨーロッパでは王族や貴族階級の間に恋愛結婚の概念が浸透するようになり、君主や王族が身分の低い相手を配偶者に選ぶ例が続出した。20世紀後半までに、君主国の多くで身分制度が弛緩するとともに、王族の配偶者の身分上の資格が問題になることは少なくなった。
フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアなどでは時代にもよるが、皇族・王族と臣下との間の結婚が禁じられていたため、貴賤結婚をした皇族・王族は一般に皇位・王位継承権を失った。
日本では古来より一夫多妻制であったため、正妻以外の妻は必ずしも家柄を重視されるとは限らなかった。そのため、貴賤結婚の例は多い。
むしろ「貴賎結婚」という概念自体がなかったと言えよう。正妻の身分は重視されたが、跡継ぎを正妻が産む必要はなかったため、跡継ぎの生母が身分の低い側室・女官・女中などであった例も多い。
日本において明確に貴賤結婚を禁じた例としては、明治時代から第二次世界大戦終戦直後まで施行された旧皇室典範が代表的である。
旧皇室典範では、天皇及び皇族と婚姻できるのは、皇族または勅旨により特に認許された華族に限られた(旧典範39条、皇室親族令7条)。
後に、皇族女子の婚姻相手の範囲は王族または公族まで広げられた。
(参考:Wiki・抜粋)
・・・・・
写真はゾフィー・シャルロッテとアイテル・フリードリヒ(離婚直前の1925年) -
人口3万人の町Bad ZwischenahnのWikiを読むと、Nach 1945 1945年以降の項に
Von 1951 bis 1964 lebte die bekennende Nationalsozialistin und Schwiegertochter Kaiser Wilhelms II. Sophie Charlotte von Oldenburg im Ort.
(1951年から1964年まで、自称ナチス支持者で皇帝ヴィルヘルム2世の嫁ソフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルクがこの町に住んでいた。)
Mit Bad Zwischenahn verbundenこの町の関係者の欄に
Sophie Charlotte von Oldenburg lebte von 1951 bis zu ihrem Tod in einem kleinen Haus in Bad Zwischenahn.
(ゾフィー・シャルロッテ・フォン・オルデンブルクは、1951年から亡くなるまでバート・ツヴィシェナーンの小さな家で暮らしていた。)と短く書かれていた。「自称ナチス支持者」の意味がどういったものかは不詳だ。
幼い頃から体が弱かったゾフィー・シャルロッテだったが、当時としては85歳という長寿を全うしている。
ヘーデマン夫妻の写真も見つけられず(前述したように今回見つけた)、どのような結婚生活をおくったのかも知りようがないが、ロッテにとって貴賤結婚は幸せであったと思われる。
尚、1918年にドイツ革命が勃発するとフリードリヒ・アウグストは同年11月11日にオルデンブルク大公を退位し、以後はラシュテーデ城で隠棲した。
その後、1931年にラシュテーデ城で死去した。
継母のエリザベート・アレクサンドリーネ元オルデンブルク大公妃は、同様にラシュテーデ城で私人として暮らし、1955年に死去した。
また、アイテル・フリードリヒ王子は1941年、父であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命先のオランダのドールン城で死去すると、翌年、ポツダムで死去した(享年59歳)。
墓所はサンスーシ宮殿内のAntikentempelアンティーク・テンプルにある。
(2019年8月12日Wiki編集・加筆、2026年10月25日全改訂)
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 偏西風さん 2026/10/30 00:53:40
- 印象に残るのは
- jijidarumaさん、こんばんは。
ちょっと旅行に出ていたので、と言いたいところですけれど、残念ですがそんなことはありませんでした。
貴賤結婚という用語自体をしらなかったのですが、拝読して印象に残ったのはやはりアグネス・ベルナウアーの悲劇です。夫が留守の間に拉致されたようですが、夫は実は拉致の策略を承知していて、意図して留守にしていたのではないかと、勘繰りたくなります。
フェルディナント皇太子夫妻の死も悲劇ですね。肖像画でみるゾフィーさん、とてもりりしく、美しい女性ですね。二人とは直接の関係はないのに、ハンガリー・オーストリア帝国のシンボルとみなされたための悲劇ですね。
もう一つ印象に残るのは、ヨハン大公と郵便局長の娘アンナとの結婚でした。祝福したくなりましたよ。「ヨハン大公のヨーデル」のヨハン大公がこういう人だったのかと知ることができました。歌に歌われるような人物だったわけですね。
いろいろ知ることができました。ありがとうございます。
偏西風
- jijidarumaさん からの返信 2026/10/31 17:26:56
- Re: 印象に残るのは
- 偏西風さん、
今晩は。返信が遅れ恐縮です。
昨日はインプラント手術の二次をうけ、同時に逆側の上の金歯がもう古く、ガクガクシテしまっていたので、先生の勧めで一気に抜歯しました。
そんなことで、疲れるは、鈍痛があるやら、PCに向かう気力がありませんでした。幸い、今は鈍痛もなく、気力が出てきましたので、返信を・・・。
1429年、6編の中でも一番古いもので、それだけに貴賤結婚のハードルは高かったようですね。思えば気の毒な例で、亡くなった後、アルブレヒトは翌年には再婚、この場合は正式には初婚でしょうけど。
大兄の勘繰りも正しいかもしれません。それだけに、後の人の思いは情にあふれてているに思います。
何やら、貴賤結婚が次から次と目に留まり、久しぶりに満足した思いです。
もうやめるとお思いでしょうが、これがまた、ある言葉が気になって、「孤独なゾフィー」の続編を書く事になりました(苦笑)。
お暇と、ご興味があれば、歯っ欠け爺の続編にお立ち寄り頂けると幸いです。
コメントありがとうございました。
jijidaruma
-
- Rolleiguyさん 2019/09/12 16:38:25
- 貴賤結婚
- jijidarumaさん
大変興味深い内容ですね。欧州の王室では今や話題にもならないほど一般的になりましたが、日本では?
欧州は王室と言っても、出自を数百年も遡れば殆ど庶民と変わらないとも言え、王室に対する国民の意識が違うのかもしれませんね。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2019/09/13 00:18:27
- Re: 貴賤結婚
- Rolleiguyさん、
今晩は、いつもありがとうございます。
貴賤結婚という言葉は日本ではすでに死語になるかなと思い、
題名に付けるのを止めて、本文に入れました。
やはり解説を付けねばと、Wikiから抜粋してみました。
ゾフィー・シャルロッテの頃はドイツ革命が勃発するといった、
社会の混乱期でしたが、それでも離婚し、貴賤結婚をしたわけで、
彼女の心の持ちようをもっと知ってみたい気がしたものです。
おっしゃるように欧州の王室、英国の王室を筆頭に貴賤当たり前です。
その分、何かと醜聞も聞かれます。日本も民間の血を入れたから云々の
批判も出やすいですね。
ドイツも王室は消えましたが、むしろ今でも貴族層は残り、麗々しく
肩書に貴族を名乗っていますね。
意外と国民から仰ぎ見る、憧憬を感じる王室は社会の安定上必要で、
生き残るのでしょう。
jijidaruma
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