2019/09/27 - 2019/09/27
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jijidarumaさん
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【ブーヘンヴァルト強制収容所の枯れ死した『ゲーテの樫の木Goethe Eiche』】
ブーヘンヴァルト収容所でアンリ・ピエックが作画したと云われる「ぶら下がった木」と題する絵は強烈である。
しかもこの木は『ゲーテの樫の木』だというではないか。
それで囚人たちの『ゲーテの樫の木』の様々を見出す事となった。
Zeichner:Henri Pieck (?) 画家*アンリ・ピエック(?)
Buchenwald, 1945ブーヘンヴァルト(1945年)
Karton段 ボール 、12,9 x 8,9 cm
©ドイツ歴史博物館、ベルリンInv.-Nr.: Kh 62/104
写真はKZ- Buchenwald1945アンリ・ピエックが作画したと云われる「ぶら下がった木」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
画家*アンリ・ピエック(?)の上の絵の脚注に:
軽犯罪であっても厳しい処罰は、すべての強制収容所で一般的でした。
「ぶら下がった木」のような処刑・拷問の処罰やその他の深刻な身体的虐待は収容者への抑止力となり、しばしば有罪判決を受けた男性の死で終わった。
収容者たちの解放後、多くの元強制収容所の受刑者は、少なくともある程度、絵画や文学の面で彼ら自身のトラウマ的な経験を処理しようとした。
写真はHenri Pieck・Buchenwald:Zeichnungen aus dem KZアンリ・ピエックの本:ブーヘンヴァルト強制収容所の絵ブーヘンヴァルト収容所跡 博物館・美術館・ギャラリー
-
*アンリ・ピエック(1895年~1972年)はHenri Christiaan Pieck,( auch Den Helder)アンリ・クリスティアン・ピエック・・デン・ヘルダーとも呼ばれる。
オランダの画家、建築家、グラフィックアーティスト、ナチス対する抵抗運動の闘士、オランダ人のメンバーでした。
写真はHenri_Pieckアンリ・ピエック_(1946年) -
1941年にゲシュタポに捕えられ、最終的にブーヘンヴァルト強制収容所に移送された。そこで死を待つ囚人であったが、1945年4月11日のアメリカ軍による解放で救出された。
写真はHenri Pieck Buchenwaldアンリ・ピエックの本:ブーヘンヴァルト強制収容所の絵 -
*ブーヘンヴァルト収容所には他の収容所にはないものがひとつあった。
それは『ゲーテの樫の木』である。今は収容所に残るのは樫の木の切り株だけで、ゲーテがこの木の下で瞑想したと云われている。
写真はKZ- Buchenwald1945アンリ・ピエックが作画したと云われる「ぶら下がった木」 -
あのSS(Schutzstaffelシュッツシュタッフェルの略)ナチス親衛隊もブーヘンヴァルト収容所の建設にあたり、ゲーテの謂れのある、この樫の木だけは切らずに保護していたそうだ。
ゲーテの思いは別にして、親衛隊といえども、ドイツ人としては樫の木に一種神聖なものを感じていたという事だろうか・・・。
写真はアンリ・ピエックの本:ブーヘンヴァルト強制収容所の絵 -
同時に、当時の囚人たちにも、『Goethe Eicheゲーテの樫の木』という事に救いがあったのかもしれない。
写真はアンリ・ピエックの本:ブーヘンヴァルト強制収容所の絵 -
この絵にあるような囚人への刑、絞首刑や拷問を意味する「ぶら下がった木」が、『ゲーテの樫の木』であれば、ドイツやドイツ人とは何者と思わざるを得ない。
写真はアンリ・ピエック:ブーヘンヴァルト強制収容所内を描いた絵 -
ゲーテの樫の木は1944年8月24日、連合軍の空爆によって枯死した。
・・・・・
写真はアンリ・ピエック:ブーヘンヴァルト強制収容所内を描いた絵 -
《『Goethe Eicheゲーテの樫の木』はドイツ各地にある》
Thueringenチューリンゲン州の北西、Eichsfeldアイヒフェルト地方の 北部にSilkerodeジルケローデ村(現人口423人)がある。
写真はチューリンゲンのSilkerodeジルケローデ村の地図 -
ゲーテが初めてハルツ(1777年12月13日)を訪れた際に、ジルケローデ村にある「ゲーテの樫の木」と呼ばれている、樫の並木の道を歩いたと云われている。
写真はGoethe_(Stieler_1828)ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ -
樫の木は樹齢500年以上と云われ、写真左の一本は胸の高さの円周が7.1mという巨木となったものだ。
写真はGoetheeichen_Silkerode、ハルツ・ジルケローデ:ゲーテの樫の木の並木道
「ゲーテの樫の木」と称される樫の木はドイツに多く存在すると云う。
それらの樫の木は文豪・詩人Johann Wolfgang von Goetheヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテとは何らかのエピソードが残っていると云う。 -
多分、最も有名なものはWeimarワイマールの近郊北西7kmにあった樫の木であろう。ドイツのザクセン・ワイマール・アイゼナハ公国の*Schloss Ettersburgエッタースブルク城の麓、Ettersbergエッタースベルク(海抜474 m)にあった樫の木〈ブナ森林の中央のあった〉は「ゲーテの樫の木」と名付けられた。
それは多分、ゲーテが「Wandrers Nachtliedさすらい人の夜の歌(1776年2月12日、エタースベルクの斜面での署名が残る)」を樫の木の下で書いたと推測された事や、あるいはゲーテが「Faustファウスト第一部のWalpurgisnachtヴァルプルギスの夜」を創作した場所であるとされたからだろう。
(ブナの木の名を持つナチスのKonzentrationslager Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所はエッタースベルクの森の丘の麓に1937年7月に作られたから、丁度、エッタースブルク城の南に位置した)
写真はKZ-Buchenwaldブーヘンヴァルト収容所の模型
補足すれば、*Buchenwald und Mittelbau-Doraブーヘンヴァルトとミッテルバウ・ドーラ記念物財団によると、
『Goethe Eicheゲーテの樫の木』という名前は、単にブーヘンヴァルト強制収容所の囚人(多分、ここに収容された文化人、教養人たちはゲーテの作品群の愛読者だったろう)により作られた「あだ名」であったと云う。
ゲーテがこのエリアを歩いていた事は良く知られていたからだ。
ここにあった大きく、古い樫の木は以前にDicke Eiche(太っちょの樫)というラベルを貼られていたそうであるが。
・・・・・ -
*チューリンゲン州のNordhausenノルトハウゼン近くのKohnsteinコーンシュタイン(海抜334.9 m)の丘にKonzentrationslager Mittelbau-Doraミッテルバウ・ドーラ強制収容所が創設された。
最初の頃はブーヘンヴァルト強制収容所の外部収容所であったが、1944年10月28日に独立した収容所として認められた。
写真はKohnsteinコーンシュタイン(海抜334.9 m)の丘:ミッテルバウ・ドーラ強制収容所 -
1943年8月、バルト海沿岸のPeenemuendeペーネミュンデの陸軍兵器実験場がイギリス軍に空爆された。ここにはドイツ軍の秘密兵器V1飛行爆弾とV2ロケットの試験場が設けられていた。この空爆後、厚さ100mの結晶片岩層という天然の防御壁で空からの攻撃に守られたV1とV2の坑道がすでに完成していたミッテルバウ・ドーラへ即時に移せとの命令が出た。
写真はドイツ軍の秘密兵器Dora‐V1飛行爆弾 -
その後はミッテルバウ・ドーラ強制収容所でドイツ軍の秘密兵器V1飛行爆弾とV2ロケットの開発が続けられた。
尚、6万人以上の囚人がミッテルバウ・ドーラ強制収容所とその付属強制収容所で働かされ、うち2万人以上が死亡したと云う。
写真はドイツ軍の秘密兵器Dora_V2ロケット 1945年7月 -
強制収容所はドイツ語でKonzentrationslager、英語でconcentration campという。上の配置図の中央、上下に並んで、ミッテルバウ・ドーラ強制収容所、ブーヘンヴァルト強制収容所が見える。ナチス占領下のヨーロッパ各地に強制収容所を次々と建設していった様子がよく分かる。
尚、1941年、ヒトラーは全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させる事を決意した。1942年1月20日にWannseekonferenzヴァンゼー会議において「ユダヤ人問題の最終的解決」が正式に宣言された。これを組織的に対処したのが、地図上に髑髏(どくろ)印があるVernichtungslager絶滅収容所で、Auschwitz-Birkenauアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、Belzecベウジェツ強制収容所、Lublinルブリン強制収容所、Sobiborソビボル強制収容所、Treblinkaトレブリンカ強制収容所と、ドイツ占領下のポーランド国内に置かれた6つの強制収容所である。
写真はWW2_Holocaust_Europe_map-de第二次世界大戦時のナチス強制収容所配置図
世界史の中で見てみると、様々な国が収容所を設けたが、最も組織的に強制収容所を建設・運営した国はソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)である。
ソ連国内にはラーゲリと呼ばれる強制収容所が、ロシア革命直後からソ連崩壊直前まで多数存在した(1986年、ゴルバチョフの指令によって廃止)。
第二次世界大戦後は日ソ平和条約を一方的に破ったソ連が、日本人捕虜をソ連各地に収容し、強制労働をさせた。いわゆる「シベリア抑留」である。
アメリカ合衆国では、先住民のインディアンたちが政府によって強制収容所に送り込まれた。強制移住も行われ、インディアンが送られた先は「インディアン保護区」と呼ばれ、映画の西部劇ではおなじみの光景があった。
第二次世界大戦中のアメリカ合衆国、アメリカ合衆国の影響下にあった国々やカナダ、オーストラリアなどのイギリス連邦の国々でも日系人の強制収容が行われ多数の日本人・日系人が、強制収容所に収容された。戦後アメリカ政府など、収容を行った政府が謝罪し補償の対象になっているのはよく知られている。
現在あるもので有名なものとしてはグァンタナモ基地(キューバ)内刑務所、中華人民共和国の新疆ウイグル再教育キャンプ、北朝鮮の強制収容所などがある。 -
*Schloss Ettersburgエッタースブルク城は、ザクセン・ワイマールのHerzog Wilhelm Ernstヴィルヘルム・エルンスト公爵が1706年から1712年の間に、エッタースブルク村の真西の丘に城(3翼を持つ建物で多分狩猟の館のような)を建てた。元来、エルンスト公爵ははエッタースベルクの森で狩りをするのが好きだったことによる。
Herzog Carl Augustカール・アウグスト公爵の治世に、その母のAnna Amaliaアンナ・アマリア公爵夫人は1776年から1780年まで、この城を夏の別荘として使用した。この地に当時の文化人たちが参集し、文化的サロンとなった。
参集した人々には作家のWielandウィーランド、Goetheゲーテ、Herderヘルダー、メルヘン作家Johann Karl August Musaeusヨハン・カール・アウグスト・ムセウス、歌手・女優Corona Schroeterコロナ・シュレーダーなどがいた。
写真はSchloss Ettersburgエッタースブルク城 -
*Charlotte von Steinシャルロッテ・フォン・シュタイン(1742~1827年)はアマリア公爵夫人の侍女で、ワイマール公国の主馬頭Freiherr Gottlob Ernst Josias Friedrich von Stein、ゴットロープ・エルンスト・ヨジーアス・フリードリヒ・フォン・シュタイン男爵と結婚した。
彼女は「男爵夫人」として知られ、ワイマール時代のゲーテとたいへん親しかった人物である。ゲーテのほかシラー、ヘルダーなど同時代のワイマールの文化人たちに大きな影響を与えた。
写真はCharlotte_von_Steinの画像1882年シャルロッテ・フォン・シュタイン男爵夫人 -
《ブーヘンヴァルト強制収容所にあった『Goethe Eicheゲーテの樫の木』の終焉》
現在、「ゲーテの樫の木」はGedenkstaette Buchenwaldブーヘンヴァルト(強制収容所)の記念碑となっている。その項を読むとこうあった。
ブーヘンヴァルト強制収容所の地図には、一本の古い樫の木が「Dicke Eiche太っちょの樫」と記されていたとか。
強制収容所を作り、管理したSS (Schutzstaffelシュッツシュタッフェル)ナチス親衛隊(ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれた)はその木を収容所内に残していた。
収容所の囚人たちはかつてゲーテがエッタースベルクの森をしばしば訪れたことを知っていて、その追憶(記念)のため、古い樫の木を「ゲーテの樫の木」と呼んだと云う。
写真はゲーテの樫の木の残滓はGedenkstaette Buchenwaldブーヘンヴァルトの記念碑 -
<かつてのブーヘンヴァルト強制収容所のゲーテの樫の木の残滓>
:参考・Goethe Eiche・Goethe Oak Wikiなど
ブーヘンヴァルト(ブナの森)に道を開き、ブナの木の名を持つナチスのブーヘンヴァルト強制収容所はエッタースベルクの森の丘の麓に1937年7月に作られた。通常であれば、他の収容所と同様に、強制収容所の名をKZ Ettersbergエッタースベルク強制収容所と名付けても不思議ではなかったけれども、この案は捨てられた。なぜなら、Ettersbergエッタースベルクの名はゲーテの生涯に密接に関係していたからである。
「ゲーテの樫の木」と呼ばれた樫の木は収容所の中心に残されて立ち、このことはまた、囚人たちには先の作画のように「ぶら下がった木」つまり囚人の絞首刑であり、囚人の拷問に利用したことで、無言の威圧を示していたことになる。
「ゲーテの樫の木」は、1944年8月24日、連合軍が飛行機から投下した焼夷弾が命中し、一晩中燃えていた。
戦後、DDR(東独)政府の保護の下でナチスのブーヘンヴァルト強制収容所の一つの記念として、「ゲーテの樫の木」はコンクリートで守られていた。
写真はAmos Ozアモス・オズは1939年生まれ, Jewish writer
<「ゲーテの樫の木」の存在については、様々な人が語っている。>
1)Amos Ozアモス・オズの「ゲーテの樫の木」の意味のコメント
SSにとっての「ゲーテの樫の木」の意味は、SSが思うドイツにつながる事で、囚人にとっての「ゲーテの樫の木」の意味は、彼らが収容所で体験したドイツの事であり、二つは完全に異なっていた。
収容所にあった「ゲーテの樫の木」との精神的な一体と、その後の破壊を思うと、Amos Ozアモス・オズ(1939~2018年、イスラエルの作家・ジャーナリスト、大学教授)の言によれば、ナチスが自身の遺産を破壊したという証しだと。 -
2)Ernst Wiechertエルンスト・ヴィーヒェルトの作品「死者の森」
Ernst Wiechertエルンスト・ヴィーヒェルト(1887~1950年)はドイツ人教師であり、詩人、作家でした。彼は東プロシアのクライノート(現ポーランド)に生まれる。1930年代に最も広く読まれ、そのヒューマニズムを『単純なる生活』などに表した。ナチスには最初から強く抵抗し、ミュンヘンの大学生に反ナチを説き、その演説はソ連で印刷された。1938年オーストリア併合の後に逮捕され獄中にあった。戦後はスイスに在住した。
写真はErnst Wiechertエルンスト・ヴィーヒェルト -
エルンスト・ヴィーヒェルトは多くの作品を世に出しているが、ブーヘンヴァルト強制収容所に関係したものでは、「Der Totenwaldトーテンヴァルト死者の森(加藤一郎訳)」ナチスのブーヘンヴァルト強制収容所の報告(1946年:1937年に書かれる)の作品が知られている。
写真はエルンスト・ヴィーヒェルトの作品「Der Totenwald死者の森」
生き残ったエルンスト・ヴィーヒェルトは「死者の森」(ブーヘンヴァルト強制収容所)の中で、「ゲーテの樫の木」の下に立っていることを思い出す。
そこでは2つのドイツやドイツ人の面を伝えている(描いて)。
それは後に学者が*「Januskopf Deutschlandsドイツのヤヌスコフ即ちジキル博士とハイド氏(1920年公開のドイツの映画)」と呼ぶもので、さらに「ワイマール・ブーヘンヴァルトの分裂あるいは二分」と表現されたものだ。
(前者はドイツやドイツ人には二重人格、表と裏の顔、姿があるという意味だろうか、後者でいうワイマールはゲーテが代表する文化、教養的世界であり、それに対して全く反対側にあると思われるブーヘンヴァルト(収容所)の世界を指すと思われるのだが・・・これはこの本を読んでいない私の私感なのだが) -
*『ジキル博士とハイド氏』(原題:『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde)はRobert Louis Stevensonロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850~ 1894年)の代表的な小説の1つ。
1885年に執筆され、翌1886年1月出版。通称は「ジキルとハイド」。
彼はイギリスのエディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイストである。弁護士の資格も持っていた。
写真は作家Robert Louis Stevensonロバート・ルイス・スティーヴンソン -
二重人格を題材にした代表的な作品。そのため、解離性同一性障害の代名詞として「ジキルとハイド」が使われることも多い。この作品は怪奇小説的で、裏の顔を持つジキルが薬を飲むことによって性格、および容貌までも変化していることが特徴である。なお、ハイド(hyde)という名前は、隠れる(hide)に掛けたものである。
写真はDr_Jekyll_and_Mr_Hyde_poster_edit2
ジキル博士とハイド氏の場面1880年のポスター。ラニョンの前でハイドからジキルへ変身する場面 -
3)Pierre Julitteピエール・ジュリットの作品「ゲーテの樫の木」
Pierre Julitteピエール・ジュリット(1910~1991年)はフランス人エンジニア、作家、第二次世界大戦中、レジスタンスのメンバーでした。
ブーヘンヴァルト強制収容所の囚人の一人として、収容所生活の体験を回顧し、いわゆる「L'Arbre de Goetheゲーテの樫の木」(1965年)の題で本を書いた。
写真はPierre Julitte L' ARBRE DE GOETHE ( Buchenwald) ピエール・ジュリット「ゲーテの樫の木」(1965年) -
写真はピエール・ジュリット:Block26 サボタージュSabotage at Buchenwald
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4)Leon Delarbreレオン・デラルブレのスケッチ画「ゲーテの樫の木」
Leon Delarbreレオン・デラルブレ(1889~1974年)はフランスの画家、美術館管理者で、第二次世界大戦中、レジスタンスのメンバーでした。
写真はLeon_Delarbreレオン・デラルブレの肖像画 -
彼はブーヘンヴァルト強制収容所の囚人の一人として、1944年、収容所の「ゲーテの樫の木」をスケッチした。レオンは「炭にされた手足」に座り、絵を描き、詩を創作した。
1944年に逮捕されたレオンは幾つかの収容所(Auschwitzアウシュヴィッツ、Buchenwaldブーヘンヴァルト、Bergenベルゲン、Doraドーラ)で過ごし、それらの収容所生活の場面をスケッチした。
これらのスケッチ画は戦後、収容所生活の恐怖を説明するために広く用いられた。
写真はレオン・デラルブレのスケッチ集:Auschwitz, buchenwald, bergen, dora -
写真はレオン・デラルブレのスケッチ集:ブーヘンヴァルト強制収容所の「ゲーテの樫の木」1944年
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写真はレオン・デラルブレのスケッチ集:ブーヘンヴァルト強制収容所の「ゲーテの樫の木」1944年
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写真はレオン・デラルブレのスケッチ集:ブーヘンヴァルト強制収容所・絞首刑にされた囚人たち
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<その他の「ゲーテの樫の木」について>
A)ボヘミア(現チェコ)の美しいドヴール城(ドイツ語はSchloss Schoenhofシェーンホフ城)の池の傍に推定1000年の樹齢の「ゲーテの樫の木」がある事をヨーロッパ中に良く知られている。
写真はチェコ:美しいドヴール城内の庭園にある「ゲーテの樫の木」 -
B)ドイツのヴェストファーレン地方SauerlandザウアーラントにあるNaturpark Arnsberger Waldアルンスベルク森林自然公園(面積599 km?)にも「ゲーテの樫の木」がある。
この森の中にある「Wanderweg Kurfuerstlichen Thiergarten Arnsbergハイキングの道・選帝侯の動物たちの猟場アルンスベルク 」では、「ゲーテの樫の木」は直立し、ゲーテと並ぶ文豪のFriedrich von Schillerフリードリヒ・フォン・シラーの名がつけられたSchiller-Buche「シラーのブナの木」は道に横たわっている。2人の文豪自身がこの道を見いだしたわけではないが、2つの特に印象的な木々が選ばれ、彼らに因んで命名されたのだ。
100年以上前に天然記念物として登録されたが、今では異なる運命を与えられてしまった。「ゲーテの樫の木」は約350年前から依然として成長を続けており、「シラーのブナの木」は2007年に台風の強風によって倒されてしまったのだ。
写真はGoethe Eiche und Schiller Buche im Naturpark Arnsberger Wald
アルンスベルク森林自然公園内の「ゲーテの樫の木」と「シラーのブナの大木」
・・・位置図だけが見つかったが。
・・・・・
「ゲーテの樫の木」に関して、「ぶら下がった木」と題する絵をみて、様々に調べることとなった。「ゲーテの樫の木」と「ぶら下がった木」では、あまりに大きな乖離(かいり)があり、深い溝がある。
そして「ゲーテの樫の木」はドイツとドイツ人だけなく、様々な国の人にもゲーテが影響を及ぼしていることを、今まで以上に知る事となった。
・・・・・・・
(2020年3月19日訳・編集加筆)
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この旅行記へのコメント (6)
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- rinnmamaさん 2020/06/18 21:02:44
- ゲーテの樫の木
- jijidarumaさん、こんばんは
ゆっくりと旅行記を拝見させていただいております。
本当は今秋に一人旅でフランクフルトからベルギー・オランダ・ドイツのどこかへ行く予定でしたが、当分、海外も怖くて行けませんね。
さて、この旅行記は論文で私には難解すぎて、どうにも太刀打ちできません。
jijidarumaさんの真骨頂とも言える旅行記です。
ですので、このような事があったんだという、私なりの知識にさせて頂きます。
ただ、ハルツの樫の木の並木道は散策してみたくなりました。
少し横道にそれますが、樫の木はOAK・オークで良いのでしょうか?
イギリスではオークは最初に神が創造したと信じられているとか・・
私は以前、ピカソのゲルニカを見て衝撃を受けて、バスク地方のゲルニカに行ってみました。
その時に見たものは、バスクのビスカヤ各地の人々はオークの木の下で誓い・樫の木が紋章になっていたのです。
また「ゲルニカの木」という民族歌もあります。
オークがバスク自治のシンボルなのです。
そこで、ゲーテの樫の木を拝読させて頂いて、同じ樫の木なのかと疑問に思えてしまったのです。
表紙の絵は衝撃的ですね・・ゲルニカも衝撃的な街でしたが・・
まだまだ、ドイツ記を楽しませて頂きます。
rinnmama
- jijidarumaさん からの返信 2020/06/18 23:58:02
- Re: ゲーテの樫の木、=>「Eiche樫の木はOAK・オークで良いのでしょうか?」、
- rinnmamaさん、
今晩は。ご一読頂き、ありがとうございました。
一寸長めで、読みにくく、多岐に飛びますので、旅行記に相応しいのかと思い、番外編として掲載したものです。
「ぶら下がった木」と題する絵が刺激的なため、比較的皆様に読んで頂いたようです。ご理解いただけたかは別にして、この時代「樫の木」、それもゲーテの名が付く樫をテーマにしたとはいえ、主たるはドイツの強制収容所のことでした。
森の民ドイツ人が樫とブナの木に対し、ゲーテとシラーというドイツの二大文豪の名を付けて敬意を表す所が、私には興味深いものでした。
私もハルツの樫の木の並木道を見てみたいと思いますよ。
さて、「Eiche樫の木はOAK・オークで良いのでしょうか?」、疑問を思たれるのも当然で、木の植物学的な種別では違う(かつての和訳が厳密ではなかった)と云うのが定説になっているようですね。
検索すれば、様々に出てきますが、以下のもの「樫と楢と巨木と神木」が目に留まりました。
イギリスがらみの話ですので、ご興味もあるかと思いました。
*ダービー(derby)という競走名は、英国ダービーの創設者であるダービー卿の名前から来ていることは、少し興味がある人なら知っているであろう。
(中略)
辞書的にいうと以下のようにまとめられる。
oak(オーク) : ブナ科コナラ属(Quercus)の総称
樫(カシ) : ブナ科コナラ属(Quercus)の常緑樹
楢(ナラ) : ブナ科コナラ属(Quercus)の落葉樹
(後略)
http://suwatdee.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_4c59.html
私のイメージではドヴール城内の庭園にある「ゲーテの樫の木」のように生命力を感じさせる常緑樹ですが、何故かレオン・デラルブレのスケッチ集:ブーヘンヴァルト強制収容所の「ゲーテの樫の木」1944年は落葉しているように見えます。収容所という生命を否定した場、焼夷弾が命中し、一晩中燃えていたと云う樫の木ですから、こうしたイメージで描かれたのかもしれないけど・・・。
またまた刺激されて、勉強させて頂きました。
ありがとうございます。
jijidaruma
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- M-koku1さん 2020/05/12 22:02:10
- 怖いですね
- ドイツ人が本当にどう思っているかはわかりませんが
ドイツを旅行していたころ 特に2000年以前ですが
よく言われたのは 第二次世界大戦中同盟を結んでいた仲間という認識。
当時はアメリカでも 人種差別対象は まだ第二次世界大戦の敵国で、
ユダヤ人に対する差別も残っていたのに イタリア人 ドイツ人 そして日本人は
黒人に対する場合のあからさまな差別とは違うのだけれど
なんとなくだったり はっきりだったりした差別を受けていましたから、逆にドイツ人からは 親しみを込めて近づいてこられるようなことが 何回もありました。
ということは 私たちもナチスのユダヤ人の強制収容所に 加担していたんじゃないかと 真剣に考えさせられました。
収容所から生還した人々からの発信が だんだん世に現れ この「ゲーテの樫の木」もその一つなんでしょうが 内部の実態が明らかになったのは 良かったと思います。
二度とあってはならない貴重な記録ですから。
それにしても 残酷な図ですね。
ジキルとハイド それは ドイツ人だけの特性ではなく、おそらく「人間」という生命体が持つ 本質なんじゃないんでしょうか。
考えさせられる テーマですね。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/05/13 01:27:16
- Re: 怖いですね
- M-koku1さん、
今晩は。いつもありがとうございます。
ドイツ人はやはり元来、「森の民」でしたから、菩提樹とか、ブナの木、樫の木などを好んで大事にしています。
アルンスベルク森林自然公園内の「ゲーテの樫の木」と「シラーのブナの大木」といって、ドイツの二大文豪の名前を付けて呼ぶなど、代表的なものでしょう。
それにしても、KZ- Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所は「ブナの森」の意味であり、確かにブナの木の森が一帯にあったからとはいえ、日頃のドイツ人らしくない名前の付け方です。
だからナチスは別種の人格を持っていたという事になるのでしょう。
ドイツの戦後では、出来るだけ自分たちはナチス側にいたのではなく、反ヒトラー・ナチスといった種々の抵抗運動をしてきたのだとする様子を感じます。
<ジキルとハイド それは ドイツ人だけの特性ではなく、おそらく「人間」という生命体が持つ 本質なんじゃないんでしょうか。>
のコメントはよくわかります。
第二次世界大戦の日独伊三国同盟、ナチスドイツと何故協調したのかというのが、現代日本の考えになるのでしょうか?
当時の日本人も追い込まれた末に同盟に至ったのでしょう。結果を見れば、日英同盟を大事にしていたらと思います。
(日英同盟に基づき、第一次大戦では日本はドイツと「青島の戦い」でドイツ軍の捕虜を日本各地の収容所に入れていますが、この時の対応は良く、後後には影響しなかった)
1970年代はドイツ人の年配者は勿論、同盟者だった日本人にはとても好意的で、親切でした。多分私共も依然としてドイツに学ぶ気持ちがあったからでしょう。
私は体験が無いですが、「次回の戦いではイタリアを外そう!」といった伝説的小話が残っていますし・・。
今は旅で出会うドイツの若い人は日本人をあまり身近に感じていないような気がします。それはそれで止むを得ないのでしょうが、ドイツ大好き人間には少々寂しいことです。
話は変わりますが、ドイツ人に限らず、欧米人のユダヤ人蔑視は変わりませんね。この事は彼らが日本人蔑視をする気持ちに似ていると思います。
日本人にはユダヤ人蔑視の感情は昔から無かったようです。
「命のビザ」で知られた杉原 千畝(すぎはら ちうね)外交官や、樋口 季一郎陸軍中将(ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出のこと)といった方たちの事を知ると、思いますね。
さて、どうコメントしようかと考えましたが、上記のように纏まらないものになってしまいました。悪しからず。
jijidaruma
-
- pedaruさん 2020/03/21 06:29:36
- 読ミ物として
- jijidarumaさん おはようございます。
いつも感心して旅行記を拝見しています。
たんなる旅行記ではなく、興味尽きない読み物としていつも楽しみにしています。
表紙の木につるされた人の絵、想像しただけで恐ろしいです。
自分の腕を後ろで組んでみました、腕は水平にも上がりません、この腕を真上まで引き上げつるしたのですね。激痛に耐えられません、恐ろしい拷問です。
人は環境によってなんでもやってしまえるのでしょうか?怖いですねぇ。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2020/03/21 14:05:00
- Re: 読ミ物として
- pedaruさん、
いつもありがとうございます。
内容も硬く、文章も今一つで、つまり完全に理解して書けたのかと
思いつつ掲載したので、興味深くお読み頂いた由、まことにありがたく
思います。
4Traでは旅行記が主なのは分かっているものの、ツイ、疑問に思って
しまう事があり、それを知ることで更に好奇心を満足するように前に
横にと進んでしまいます。この為、本来の旅行記が一時停止になるような
・・・まー、こんな道草が又楽しいと言えますが。
先に番外編:ドイツの負の歴史といえるバート・ガンデルスハイム
強制収容所(外部収容所)を書く際に見つけた当該表紙の絵ですが、
その後、調べてみれば、際限なく広がるようなものでした。
>人は環境によってなんでもやってしまえるのでしょうか?怖いですねぇ。<
「死者の森」にいう、ジキルとハイドの世界を感じさせますね。
jijidaruma
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