2014/05/09 - 2014/05/23
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jijidarumaさん
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ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅
期間:2014年05月09日〜23日 15日間)
05月12日(月) 244km、朝から大雨(午後時々晴れ間)10〜14℃
参考:
≪ドイツの春:北方二州を巡る旅に出る≫
http://4travel.jp/travelogue/10883955
≪グリュックスブルク城とグリュックスブルク公爵家の家系≫
Schloss Gluecksburgグリュックスブルク城
D-24960 Gluecksburg 、Am Schlosssee 1
http://www.schloss-gluecksburg.de/
フレンスブルクはドイツ最北の町である。デンマークとの国境に10kmと近いため,随所にその影響がみられる。町並みはバルト海に通じるフレンスブルク・フィヨルドの湾の奥から西の丘に続いている。
フレンスブルクの町から18kmにあるグリュックスブルク城は北ドイツの名城のひとつに数えられている。
三方を水に囲まれた北欧ルネサンスの水城・グリュックスブルク城はヨハン公爵(1545 -1622年)が1583〜1587年にかけて築城した。
“Gott gebe Glueck mit Frieden ? GgGmF神は平和と共に幸運を与える。”との城の名前の所以ともなった言葉が今も入口ポータルの紋章上に見ることができる。
写真はグリュックスブルク城
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
写真はAngelnアンゲルン半島
フレンスブルクは左上方。地図を見るとフレンスブルクからシュレースヴィヒの地方はAngelnアンゲルン半島と呼ぶようだ。
この地名は古語で釣り針(Angelアンゲル)形の地形から来ているらしい。
ゲルマン民族の1種族にアングル人がいるが、この半島に居住していた事からそう呼ばれている。そのアングル人は5世紀にザクセン人とともにブリテン島(英国)に上陸、先住民であったブリトン人を征服し、アングル人の王国を作っている。
以前、2012年の旅で英国のヴィクトリア女王に関して書いた時、英国・ハノーファー朝、ヴィクトリア朝もドイツの王朝であったとしました。
ゲルマン民族のアングロサクソン人(アングル人・ザクセン人)はイングランド(英国)全域を支配したから、その事を思うと、確かに英国人はドイツ人である。 -
デンマーク王クリスチャン9世はグリュックスブルク公爵家のクリスチャン王子であったが、Haus Oldenburgオルデンブルク朝(デンマーク王家)の直系支族(傍流であった)であった為、後継の子がなかったデンマーク王Friedrich VIIフリードリヒ7世の後継者になったという、運の良い王である。
彼の息子たちは国王になり、娘たちはヨーロッパの諸王家に嫁いだため、「ヨーロッパの義父」と呼ばれた。
しばしば、Wiege der europaeischen Koenigshaeuser ヨーロッパ王家の基礎(発祥の基)を築いたとも云われる。
写真はデンマーク王クリスチャン9世 -
1988年8月2日、英国のチャールズ王子がグリュックスブルク城の親族を訪れた。
写真は左から:Prinz Friedrich Ferdinandフリードリヒ・フェルディナンド王子、Prinzessin Ingeborgインゲボルク王女、Herzogin Marie-Alixマリー・アリックス公爵妃(シャウムブルク・リッペ侯爵子シュテファンの娘)、Prinz Charlesチャールズ王子、Prinzessin Elisabethエリザベート王女(リッペ・ヴァイセンフェルト侯爵子アルフレートの娘)とPrinz Christophクリストフ王子と彼ら子どもたち。
・・・いまだにこのような王、公、爵といった爵位で呼ばれる。
グリュックスブルク城内の展示にも見受けられたが、欧州の王家との縁も深く、グリュックスブルク公爵家の家系のすごさに驚かされた。
XXX -
≪Europas Schwiegervater:Christian IXヨーロッパの義父デンマーク王クリスチャン9世≫
1838年、グリュックスブルク公爵家のクリスチャン王子(1818〜1906年:後のデンマーク王クリスチャン9世)はウェストミンスター寺院で執り行われたヴィクトリア女王の戴冠式にデンマーク王家を代表して出席している。
1842年、クリスチャン王子は又従妹のLouise von Hessen-Kasselルィーズ・ヘッセン・カッセル(ヘッセン・カッセル・ルンペンハイム方伯の令嬢)と結婚。
1853年には、クリスチャン王子はHaus Oldenburgオルデンブルク朝(デンマーク王家)の直系支族(傍流であった)であった為、後継の子がなかったデンマーク王Friedrich VIIフリードリヒ7世の後継者になった。
1863年11月15日にフリードリヒ7世が死去すると、デンマーク王に即位し、クリスチャン9世(在位:1863〜1906年)を名乗った。
写真はデンマーク王妃ルィーズ -
ルイーゼ妃との間に3男3女を儲けた。
①クリスチャン・フレゼリク・ヴィルヘルム・カール(デンマーク国王フレゼリク8世)
②アレクサンドラ・カロリーネ・マリー・シャーロッテ・ルイーセ・ユリア(イギリス国王エドワード7世王妃)
③クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナンド・アドルフ・ゲオルク(ギリシャ国王ゲオルギオス1世)
④マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(ロシア皇帝アレクサンドル3世皇后)
⑤テューラ・アマーリア・カロリーネ・シャーロッテ・アンネ(元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト2世妃)
⑥ヴァルデマー(デンマーク王子)
写真はクリスチャン9世の家族 -
息子たちは国王になり、娘たちはヨーロッパの諸王家に嫁いだため、「ヨーロッパの義父」と呼ばれた。
ロシア皇帝ニコライ2世やイギリス国王ジョージ5世 、ノルウェー国王ホーコン7世、ギリシャ国王コンスタンティノス1世はいずれもクリスチャン9世の孫である。
写真はグリュックスブルク城の切手 -
更に、配偶者たち、子孫の縁でノルウェー、フランス、スウェーデン、スペイン、ドイツ、ベルギー、ユーゴスラビア、ルクセンブルグ、モナコ、ノルーマニア、およびオーストリアの王家、諸侯に家系図は広がっていった。
写真はグリュックスブルク城 -
≪デンマーク国王クリスチャン9世の王妃ルイーゼ・ヘッセン・カッセル≫
Luise Wilhelmine Friederike Caroline Auguste Julie von Hessen-Kasselルイーゼ・ヘッセン・カッセル(1817〜1898年)はデンマーク国王クリスチャン9世の王妃。
ヘッセン・カッセル家出身で、父はLandgrafen Hessen-Kassel-Rumpenheimヘッセン・カッセル・ルンペンハイム方伯ヴィルヘルム、母Louise Charlotte von Daenemarkルイーゼ・シャルロッテはデンマーク王Christian VIIIクリスチャン8世の妹であった。
弟フリードリヒ・ヴィルヘルムはヘッセン・カッセル家の家長となった。
1842年にデンマーク王家であるオルデンブルク家の分家に属するグリュックスブルク公子クリスチャンと結婚した。
クリスチャンの母ルイーゼ・カロリーネは父がヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世の三男カール、母がデンマーク王フリードリヒ5世の娘ルイーゼであり、ルイーゼの父母のどちらにとっても従姉妹であった。つまり、ルイーゼにとってクリスチャンは父方でも母方でも又従弟に当たった。
写真はルイーゼ王妃 -
ルイーゼの母方の従兄であるフリードリヒ7世が後継ぎを儲けることなく崩御すると、夫が自身と妻ルイーゼの血筋によって王位継承者に選ばれ、デンマーク国王クリスチャン9世として即位した。
グリュックスブルク家(デンマーク語:Huset Gluecksburg, ドイツ語:Haus Gluecksburg)流れには現在のデンマーク王家とノルウェー王家がある。
写真はグリュックスブルク城 -
≪ドイツ最後の皇妃アウグステ・ヴィクトリア≫
Auguste Viktoria von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Augustenburgアウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・アウグステンブルク(1858〜 1921年)はグリュックスブルク公爵家の王女アウグステ・ヴィクトリアであり、1881年、ドイツ最後の皇帝Wilhelm IIヴィルヘルム2世(1859〜1941年)と結婚している。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイ・ゾンダーブルク・アウグステンブルク公爵家の家長フリードリヒ(8世)とその妻アーデルハイトの間の長女として生まれた。
母方の祖父母はホーエンローエ・ランゲンブルク侯エルンスト1世とイギリスのヴィクトリア女王の異父姉フェオドラ・ツー・ライニンゲンである。アウグステ・ヴィクトリアは公爵家の居館のある小村ドルツィヒ・イン・デア・ラウジッツ(現在のポーランド領ルブスコ市域内、ドゥウジェク)で弟妹たちと一緒に育ち、平穏な少女時代を過ごした。
写真は皇妃アウグステ・ヴィクトリアの若い頃 -
1868年、テューリンゲンのSchloss Reinhardsbrunnラインハルトブルン城で皇帝ヴィルヘルム2世となるプロイセン王子ヴィルヘルムは又従妹にあたるアウグステ・ヴィクトリアを見知っていた。互いの両親が友人同士だったため、2人は1878年の夏にポツダムで再会し、交際をするようになった。
アウグステの父フリードリヒが亡くなった直後の1880年2月14日、アウグステ・ヴィクトリアとヴィルヘルム王子の婚約披露宴がゴータで執り行われた。
この婚約はヴィルヘルム王子の両親であるドイツ皇太子フリードリヒ夫妻が皇帝ヴィルヘルム1世とその宮廷を攻撃するために政略的に成立させたものだったと云う。
ところが、アウグステ・ヴィクトリアの家柄がプロイセン王家に嫁ぐ者として相応しくないことを問題視する声が挙がった。
具体的には、アウグステ・ヴィクトリアの父方の祖母、曾祖母がいずれも単なる伯爵家の出身だったことが、対等結婚でないとされた。
さらに、彼女の父フリードリヒ8世は1866年に統治していたシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をプロイセン王国に併合されており、プロイセン国家の政治的指針が疑われかねないという意見も出た。
1880年6月2日、ようやく正式な婚約発表が行われた。
ドイツ皇太子フリードリヒ夫妻(後のドイツ皇帝フリードリヒ3世と皇妃Victoria Adelaide Mary Louiseヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(英国Koenigin Victoriaヴィクトリア女王の長女)は息子であるドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世の花嫁にフリードリヒ8世シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・アウグステンブルク公爵家の王女アウグステ・ヴィクトリアを選んだのである。
2人は1881年2月27日にベルリンで結婚式を挙げた。
写真はアウグステ・ヴィクトリア皇妃:55歳・・・この顔はなんとなく英国のエリザベス女王に似ている。 -
第一次世界大戦(1914〜1918年)末期の1918年11月3日、キール軍港の水兵の反乱に端を発し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が廃位された。これにより第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。
1918年11月10日、アウグステ・ヴィクトリアは退位を余儀なくされた夫ヴィルヘルム2世とともにオランダに亡命し、最後のドイツ皇妃・プロイセン王妃となった。
ヴィルヘルム2世は1922年に以下のように書いている、「皇妃は革命のた
めに心が壊れてしまった。1918年11月以後は目に見えて老けこみ、もはや体に巣食った病気に立ち向かう抵抗力も無くしていた。
このため衰弱は早かった。祖国ドイツへの郷愁が日に日に強くなっていった。それなのに彼女は私を元気づけることに心を砕いていた…
最後のドイツ皇妃アウグステ・ヴィクトリアは1921年4月11日に亡くなった。亡命後わずか3年目の死であり、元皇妃を国母として慕う支持者たちの悲しみは深かった。
亡骸はサンスーシ宮殿の庭園内にあるプロイセン王家の者の眠るアンティークテンプルに安置された。
埋葬には亡命者の身の上であるヴィルヘルム2世と皇太子ヴィルヘルムは参列できなかったが、皇妃の棺には数千人が付き従ったと云う。
ヴィルヘルム2世はアウグステ・ヴィクトリアの死の翌年、1922年11月5日にロイス・グライツ侯爵家(Fuerstentum Reuss-Greizはテューリンゲン地方に存在した領邦国家)の侯女Hermine Reuss zu Greizヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ(1887〜1947年)と再婚した。
XXX
写真はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とアウグステ・ヴィクトリア皇妃 -
夏の避暑を兼ねて、皇妃アウグステ・ヴィクトリアは夫である皇帝ヴィルヘルム2世と共にしばしば妹Caroline Mathildeカロリーネ・マチルダ、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・グリュックスブルク公爵妃(1885年、Herzog Friedrich Ferdinand von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Gluecksburgシュレースヴィヒ・ホルシュタイン・グリュックスブルク公爵と結婚。)を訪ね、一族そろってグリュックスブルク城で過ごした事が知られている。
写真はグリュックスブルク城:赤のサロン -
≪ホーエンローエ・ランゲンブルク侯爵妃フェオドラ≫
Anna Feodora Auguste zu Leiningenアンナ・フェオドラ・アウグステ・ツー・ライニンゲン(1807〜 1872年)は、ホーエンローエ・ランゲンブルク侯爵エルンスト1世の妻で、英国のヴィクトリア女王の異父姉。
結婚後はフェオドラ・フォン・ホーエンローエ・ランゲンブルクと名乗った。
ライニンゲン侯エミッヒ・カールと、2度目の妃ヴィクトリアの長女として、Amorbachアモールバッハ(現バイエルン州ミルテンベルク郡)で誕生。同母兄にカール・フリードリヒがいる。
父の死別後、母がイギリス王子ケント公エドワード・オーガスタスと再婚したため、妊娠した母に伴われて、兄とともに1819年にイギリスへ渡った。生まれた異父妹アレクサンドリナ・ヴィクトリア(後のヴィクトリア女王)とは仲の良い姉妹だったという。
2人はフェオドラの死まで文通をしていた。
イギリスで教育を受け、1828年にドイツへ戻ってエルンストと結婚し、6子を生んだ。
写真は大変な美形であったフェオドラ侯爵妃 -
≪シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵妃アーデルハイト≫
Adelheid Victoria Amalie Louise Maria Konstanze zu Hohenlohe-Langenburgアーデルハイト・ヴィクトリア・アマーリエ・ルイーゼ・マリア・コンスタンツェ・ツー・ホーエンローエ・ランゲンブルク(1835〜1900年)はシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵フリードリヒ8世の妃。
のちのドイツ皇妃アウグステ・ヴィクトリアの母となった。
フェオドラ・ホーエンローエ・ランゲンブルク侯爵妃の次女である。
写真は母フェオドラと少女時代のアーデルハイトを描いたリトグラフ(1841年) -
写真はアーデルハイト妃(1860年)
-
≪シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵妃カロリーネ≫
Herzog Friedrich Ferdinand von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Gluecksburgフリードリヒ・フェルディナント公爵は1885年3月19日に、アウグステンブルク家家長で名目上のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公であるフリードリヒ8世の娘、Caroline Mathildeカロリーネ・マティルデと結婚し、5人の子女をもうけた。
カロリーネ・マティルデはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇后アウグステ・ヴィクトリアの妹であった。
写真は公爵妃カロリーネ
以上はグリュックスブルク公爵家の居城グリュックスブルク城でみた同家の家系図に触発されて調べた人たちです。
ここで英国ヴィクトリア女王やその長女ドイツ皇帝妃ヴィクトリアなどが出て来るとは思いもしなかったし、何故、英国のチャールズ王子がグリュックスブルク城を訪れていたのかも理解できた。
(Wik参照;2014年10月8日編集・加筆)
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この旅行記へのコメント (3)
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- まむーとさん 2015/02/14 08:48:49
- その節は
- jijidarumaさん
おはようございます。
その節はハイデルベルクについての回答をいただきありがとうございました。
たくさん紹介していただき、とても勉強になりました。
息子も短いドイツ旅行から帰って来たので、ちょっとした記録として、旅行記に挙げようと思います。
その中で教えて頂いた事をjijidaruma さんに教えて頂いたと記入してもよろしいでしょうか?
ドイツは素敵な国ですね。
私はまだ行った事はありませんが、旅行記を拝見させていただき学びたいと思います。
まむーと
- jijidarumaさん からの返信 2015/02/14 14:54:02
- その節は
- まむーとさん
こんにちは。
息子さん、無事に楽しいドイツの旅を体験して、
お帰りになったご様子、何よりです。
自らの記録として、この旅の写真や感想を掲載するのは
良いことですね。
勿論、jijidarumaさんに教えて頂いたと記入しても
かまいません。
旅行記楽しみに見させて頂きます。
この旅がきっかけでご家族旅行が出来たら良いですね。
jijidaruma
- まむーとさん からの返信 2015/02/14 19:58:41
- RE: その節は
- jijidarumaさん
こんばんは!
返信ありがとうございました!
快諾ありがとうございます。
では書かせて頂きます。
またよろしかったら見て下さい。
まむーと
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