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hiroさんのクチコミ(2ページ)全474件

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  • 自由奔放なマスコットキャラクターの展示施設です!

    投稿日 2023年03月11日

    つば九郎ハウ巣 信濃町・千駄ヶ谷

    総合評価:4.0

    『つば九郎ハウ巣』は、「日本野球機構(略称:NPB)」が統括する日本プロ野球組織「セントラル・リーグ」に所属するプロ野球球団「東京ヤクルトスワローズ」の燕をモチーフとした公式マスコットキャラクター『つば九郎』のお家という設定の基、「東京ヤクルトスワローズ」の本拠地となる「明治神宮野球場」がある「明治神宮外苑」敷地内の「東京ヤクルトスワローズ Official Goods Shop つば九郎店」に隣接してオープンした『つば九郎』に関する展示施設です。
    ちなみに『つば九郎』は、燕の別称である”つばくろ”とあわせて”野球は9人で9回戦うゲーム”であるとともに”苦労(九郎)して接戦をものにして欲しい”という意味が込められて一般公募により命名された名前であり、1994年(平成6年)に当時の「ヤクルトスワローズ」の新しい公式マスコットキャラクターとしてデビューしています。
    また非常に自由奔放な性格のパフォーマンスで球場内を盛り上げる『つば九郎』は、シーズンオフにおいてもマスコットキャラクターでありながら球団との契約交渉を更改したり、FA宣言をするなど話題性も豊富なプロ・マスコットキャラクターとして定着しファンから愛される人気者となっています。
    『つば九郎ハウ巣』の建設に至るまでの経緯については、2021年(令和3年)の春季キャンプにおいて『つば九郎』が”とりごやたてて。”というメッセージを発信したことがきっかけとなり、「オープンハウスグループ」が「東京ヤクルトスワローズ」のスポンサー企業として「東京ヤクルトスワローズ」が主催する試合に『つば九郎』の”前人(鳥)未到”の大記録となる2000試合出場を盛り上げるために”好立地のお家”をプレゼントする「つば九郎のお家プロジェクト」を発足しています。
    この「つば九郎のお家プロジェクト」は、「東京ヤクルトスワローズ」および「明治神宮外苑」の協力により「明治神宮外苑」敷地内の自動販売機などが設置されていた約40平方メートルの平屋建ての建物を『つば九郎ハウ巣』としてリノベーションするものであり、「オープンハウスグループ」および「東京ヤクルトスワローズ」が主催者となり外観デザインのイラストを一般公募する「つば九郎のお家 外観デザインコンテスト」が2022年(令和4年)5月17日~6月12日にかけて実施され、応募のあった全209作品の中から『つば九郎』が選出した最優秀賞3作品のデザインにおけるコンセプトを設計に取り入れることにより『つば九郎ハウ巣』が2022年(令和4年)10月10日にお披露目式典が実施され翌日の10月11日から一般公開となっています。
    そのほか『つば九郎』の「東京ヤクルトスワローズ」が主催する2000試合出場の偉業については、2022年(令和4年)8月5日に「明治神宮野球場」で開催された「読売ジャイアンツ」戦で達成されています。
    今回は「千駄ヶ谷」周辺エリアを訪れる機会があったので久しぶりに「明治神宮外苑」を散策しながら完成したばかりの『つば九郎ハウ巣』が気になり平日の午後2時半過ぎに立ち寄りましたが、スタッフの方が午後3時まで休憩中とのことでシャッターが閉まっており午後3時に再度立ち寄りました。
    スタッフは、2名で建物外部と内部を1名づつで対応しており、建物内もコンパクトのため数名ずつ人数を区切っての入場となるので自分が立ち寄った際は10数名程度の行列でしたが、自分が立ち去る際には行列も2倍くらいになっていました。
    『つば九郎ハウ巣』内部は、「網走ビール」とコラボしたトリックアートなどがあり写真撮影などをしながら楽しむことができ、スタッフの方も交代要員なしの2名で対応するのも大変そうでしたが、写真撮影をしてくれたりとても感じがよく「東京ヤクルトスワローズ」ファンの方に限らなくてもお薦めできるスポットです。
    また『つば九郎ハウ巣』の脇では、「網走ビール」とコラボした『つば九郎』ラベルの3種類の「つばくろうのる~び~」(情熱の赤・応燕の緑・快勝の青)が販売されており、今回は購入していませんが、こちらの赤色・緑色・青色のビールも気になりました。
    「明治神宮外苑」周辺エリアを訪れる機会があれば、また『つば九郎ハウ巣』を立ち寄ったり、「つばくろうのる~び~」を購入してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    最寄り駅はJR・信濃町駅、都営地下鉄・国立競技場駅、東京メトロ・外苑前駅となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたがスタッフの休憩直後で10数名程度の行列ができていました。
    バリアフリー:
    3.5
    段差などは気になりませんが内部はコンパクトです。
    見ごたえ:
    3.0
    コンパクトな内部ですがトリックアートなどの撮影スポット、選手・つば九郎のサインボールなどの展示物があります。

  • 大殿(本堂)など東京タワーを背景に入れながら写真撮影で楽しめます!

    投稿日 2023年03月05日

    増上寺 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    『増上寺』は、平安時代末期の1175年(承安5年)に「法然(ほうねん)」上人によって開宗された浄土宗の総本山である「知恩院」(京都市東山区)に続く七大本山(増上寺・光明寺・善光寺大本願・金戒光明寺・知恩寺・浄苑華院・善導寺)のひとつに数えられ、本尊に「木造阿弥陀如来坐像」を祀る山号を「三縁山」・院号を「広度院」と称する格式の高い寺院です。
    この『増上寺』の創建については、室町幕府・第3代将軍「足利義満」の時代であり57年間にわたり続いた南北朝時代が集結し南北朝合一となった翌年の1393年(明徳4年)に浄土宗第8祖「聖聰(しょうそう)」上人によって武蔵国豊嶋郡貝塚(現:千代田区平河町・麹町付近)にあった真言宗「光明寺」を復興して浄土宗に改宗し、関東における浄土宗の道場となる『増上寺』を開山したことがはじまりとされています。
    さらに1590年(天正18年)になると「徳川家康」が領地替えにより江戸に入府した当時の『増上寺』法主12世「存応(ぞんのう)」上人であった時代に『増上寺』が「徳川家」の菩提寺となり、「徳川家康」により『増上寺』が貝塚の地から日比谷に移転したのちに「江戸城」の拡張にともない1598年(慶長3年)に現在の芝(現:港区芝公園4丁目)に移転しています。
    ちなみに『増上寺』が「徳川家」の菩提寺となったきっかけは、「徳川家康」が居城としていた駿河国「駿府城」(現:静岡市葵区)から新たな居城となる「江戸城」に向かう「徳川家康」一行を見物するため大勢の江戸庶民が群がる中で「徳川家康」の乗った馬が『増上寺』門前で足を止めて動かなくなったことがはじまりとされています。
    その門前に立っていた「存応」上人と「徳川家康」が初めて出会い『増上寺』で休憩を取ることとなり、再び「江戸城」に向かう際に「徳川家康」が「存応」上人に”明朝にひとりで参詣し斎をともにしたい”と告げ、翌朝になると約束通りに『増上寺』を訪れた「徳川家康」が”先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸の地に移った自分が大将の身分で菩提所がないのは死を忘れるのと同じであるので増上寺を菩提所としたい”と「存応」上人に頼み、意気投合した「存応」上人が「徳川家康」と「阿彌陀仏」との縁を結ばせる十念を授けたと伝えられています。
    その後の1603年(慶長8年)に「徳川家康」が徳川幕府・初代将軍に任命されてから1867年(慶応3年)に徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」が政権を返上するまでの264年間にわたり『増上寺』は、「徳川将軍家」の菩提寺として歴代6人の将軍(第2代・秀忠、第6代・家宣、第7代・家継、第9代・家重、第12代・家慶、第14代・家茂)が葬られるなど「徳川将軍家」の手厚い保護により最盛期には3千人もの修行僧がいる大寺院となっています。
    明治維新後には『増上寺』の広大な境内が国有地として国内初の公園となり、太平洋戦争終戦後の1947年(昭和22年)になると政教分離の観点から『増上寺』の所有地に戻されていますが、時代の流れの中で境内敷地の一部が民有地に移り変わり境内も縮小されて現在に至っています。
    現在の『増上寺』境内は江戸時代の最盛期に120以上の堂宇が存在したもののそのほとんどが災害により焼失などしていますが、1915年(大正4年)に国の「重要文化財」に指定されている江戸時代初期の1622年(元和8年)に再建された東日本最大級を誇る「三解脱門」が現存するほか、「徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)」(拝観有料)などの見所も多く東京23区内を代表する観光スポットであり、史跡めぐりなど歴史に興味のある方および「芝公園」エリアの象徴である「東京タワー」のフォトスポットのひとつとしてお勧めできます。
    今回は平日の午後に「芝公園」エリアを訪れる機会があったので久しぶりに『増上寺』に立ち寄り参拝し境内を散策しながら「大殿(本堂)」などとともに「東京タワー」を背景に入れて写真撮影をして廻り楽しめました。
    また「芝公園」エリアを訪れる機会があれば『増上寺』にも立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄三田線・御成門駅A1出入口から約250メートル(徒歩3分程度)または芝公園駅A3出入口から約300メートル(徒歩4分程度)です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが参拝者もまばらであるものの絶えることはなく、史跡めぐりのグループと思われる方々もいました。
    バリアフリー:
    2.5
    境内各所に石段(段差)があります。
    見ごたえ:
    4.0
    東京タワーを背景に入れながらの写真撮影で楽しめます。

  • 講談の演目”寛永三馬術 出世の春駒”に登場する急傾斜な石段(出世の石段)です!

    投稿日 2023年02月25日

    愛宕神社参道 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    東京23区内における自然に形成された丘陵の最高峰とされる「愛宕山」(標高25.7メートル)の頂上部分に鎮座する『愛宕神社』(港区愛宕1丁目)の参道となる参拝ルートは、「都道301号」に面した「男坂」と称される傾斜角およそ37度の急傾斜な86段からなる石段の「表参道」および「表参道」の北側(右脇)に「男坂」より傾斜が緩やかな109段の石段「女坂」があり、さらに「都道301号」に面して”愛宕神社車”と記載された鳥居が設置されている自動車が通行可能な「愛宕新坂」があります。
    また「愛宕山」を東西方向に貫通する車道の「愛宕トンネル」東側に「愛宕山」の山頂に通じる専用エレベーターとあわせて歩行者専用階段が設置されているほかに「愛宕トンネル」西側にも歩行者専用階段が設置されています。
    この『愛宕神社参道』の中で「表参道(男坂)」は「出世の石段」とも呼ばれ、伝統話芸「講談」の演目「寛永三馬術 出世の春駒」に登場する江戸時代初期である1634年(寛永11年)の出来事が語り継がれています。
    「寛永三馬術 出世の春駒」のあらすじについては、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」が第2代将軍であった「徳川秀忠」の三回忌にあたる命日に徳川将軍家の菩提寺である「増上寺」を参詣した帰り道に『愛宕神社』下から「愛宕山」に咲く梅花を見た将軍が”馬に乗ってあの梅の花を取って参れ!”と命じると、その場にいた家臣たちが急傾斜の石段にひるむ中で四国丸亀藩士「曲垣平九郎」が落馬することなく山頂で咲く梅花の枝を折って「徳川家光」に献上したことで、「徳川家光」が泰平の世にあっても馬術の稽古を怠らない「曲垣平九郎」の姿勢を”日本一の馬術の名人”と称賛し、「曲垣平九郎」の名が全国に知れわたったとされる武芸伝です。
    また武芸伝の生まれた『愛宕神社』につては、1603年(慶長8年)に徳川幕府・初代将軍に任命された「徳川家康」が当時の「桜田山」(現:愛宕山)に「勝軍地蔵菩薩像」を祀ったことがはじまりとされている徳川将軍家ゆかりの神社となっています。
    この「徳川家康」が祀ったとされる「勝軍地蔵菩薩像」は、738年(天平10年)に「東大寺(奈良)」の”四聖”のひとりに数えられている「行基」上人が近江国甲賀郡信楽(現:滋賀県甲賀市信楽町)の地を訪れた際に造像したものと伝えられており、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の際に和泉堺(現:大阪府堺市)に滞在していた「徳川家康」が小姓衆などわずかな手勢で本拠地の三河国「岡崎城」まで決死の覚悟で帰還する途中で甲賀郡信楽の豪族「多羅尾光俊」の協力を得て伊賀(現:三重県伊賀市)越えの道のりを通過するおりに「行基」上人が造像したとされる「勝軍地蔵菩薩像」を伊賀越えのおとりとするため「徳川家康」に献上されたと伝えられていますが、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」が原因で焼失しています。
    『愛宕神社参道』の「出世の石段」については以前より知っていましたが、今回は久しぶりに「虎ノ門」エリアを訪れる機会があり初めて『愛宕神社参道』を代表する「表参道」の「出世の石段」を通り『愛宕神社』を参拝しました。
    「出世の石段」の前に立って昇降する際の補助となる鎖が設置されている急傾斜の石段を目の当たりにすると想像以上に急傾斜であると感じて改めて「曲垣平九郎」が”日本一の馬術の名人”であったことを実感することができました。
    また「虎ノ門」周辺エリアを訪れる機会があれば「出世の石段」を上り『愛宕神社』を参拝してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ日比谷線・虎ノ門ヒルズ駅から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが参拝者もまばらですが絶えることがありませんでした。
    バリアフリー:
    2.5
    表参道(男坂)の”出世の石段”は想像以上に急傾斜であると感じました。(愛宕神社の参拝ルートは愛宕山・専用エレベーターなどもあります)
    見ごたえ:
    4.0
    講談の演目”寛永三馬術 出世の春駒”に登場する急傾斜な石段(出世の石段)です。

  • 昭和レトロな街並みのジオラマ模型は見応えがあります!

    投稿日 2023年02月23日

    豊島区立郷土資料館 池袋

    総合評価:4.0

    『豊島区立郷土資料館』は、東京23区内有数のターミナル駅のひとつ「池袋駅」西口エリアのシンボル的な建築物である東京都の施設「東京芸術劇場」西側敷地に面して南北に通る「劇場通り(都市計画道路補助73号線)」沿いの「池袋消防署・池袋都民防災教育センター(池袋防災館)」に隣接する豊島区西池袋2丁目に位置する愛称が”IKE・Biz(イケビズ)”と称する「としま産業振興プラザ」7階フロアにある豊島区の歴史・文化・民俗などの郷土資料を展示する豊島区の施設です。
    ちなみに「としま産業振興プラザ」は、1984年(昭和59年)に豊島区の公共施設「勤労福祉会館」として竣工しており、『豊島区立郷土資料館』についても「勤労福祉会館」館内にある施設の一部として建物が竣工した当初から現在と同様の7階フロアにオープンしています。
    この「勤労福祉会館」建物全体は”きんぷく”の愛称で親しまれていましたが、建物の老朽化に伴い2016年(平成28年)から館内全体が一時的に休館となり大規模な改修工事が実施され2017年(平成29年)に新たな「としま産業振興プラザ」としてリニューアルオープンしています。
    『豊島区立郷土資料館』の存在については、リニューアルオープンとなった以前より気になっており機会があれば一度は立ち寄ってみたいと思っていた施設のひとつです。
    昨年も池袋エリアを訪れた際に「としま産業振興プラザ」に立ち寄ったもののコロナ禍のため『豊島区立郷土資料館』が長期休館中となっていたため入館できなかった経緯がありましたが、今回はやっと念願が叶い初めて平日の午後に『豊島区立郷土資料館』に入館することができました。
    『豊島区立郷土資料館』に入館した際は、1932年(昭和7年)に当時の巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町の4町が合併して豊島区が誕生してから90年にあたる節目の年であることから「豊島大博覧会~過去から学び、今日を生き、未来に希望~」と題した区制90周年特別展が開催されており、「池袋駅」周辺を中心に豊島区内の明治期から現在に至るまでの時代の流れと共に変貌を遂げてきた街の様子がジオラマ模型および映像などを用いて展示されているので分かり易く楽しむことができました。
    特に昭和初期である太平洋戦争突入以前の1930年代に「池袋モンパルナス」と称されたアトリエ村のジオラマ模型、太平洋戦争終戦直後の焼け野原となった「池袋の闇市」から1960年代(昭和30年代後半から昭和40年代前半)の「池袋駅東口および西口周辺」さらに現在の「Hareza(ハレザ)池袋」となる以前の3棟並んでいた「旧豊島区役所・豊島公会堂・旧豊島区民センター」などのジオラマ模型の展示は見応えがあり、昭和生まれの方には懐かしさも加わりタイムスリップしたような気分も味わえるのでお薦めできます。
    また豊島区制100年に向けた「池袋駅」周辺の再開発事業計画などに関する情報も紹介されており、2014年(平成26年)に「日本創成会議」によって少子化および人口流出をきっかけとして2040年までに自治体として存続できない可能性のある地域とされる消滅可能性都市」(全国896自治体)が発表された中で東京23区で唯一ランキングに入ってしまった豊島区の今後における魅力ある街づくりに関する区政の取り組みについて本気度も伝わり「池袋駅」周辺の街並みがどのように変化していくのか今後も注目していきたいと感じました。
    機会があれば、再度『豊島区立郷土資料館』に立ち寄りじっくりと時間をかけて豊島区の歴史などを学んでみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅西口エリアの劇場通り沿いとなる池袋消防署の隣りのビルです。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館は無料です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に入館しましたが、見学者はまばらにいる程度でした。
    展示内容:
    4.0
    豊島区の歴史・文化・民俗などの郷土資料を展示しており、昭和レトロな池袋駅周辺のジオラマ模型は見応えがあります。
    バリアフリー:
    4.0
    気になる段差はなく、7階までエレベーターを利用します。

  • 源氏ゆかりの稲荷神社であり・徳川将軍家も崇敬していた江戸府内の稲荷神社の総本宮です!

    投稿日 2023年02月18日

    王子稲荷神社 王子・十条

    総合評価:4.0

    『王子稲荷神社』は、JR京浜東北線「王子駅」北口改札から「東十条駅」方面に向かって線路沿いに約450メートル(徒歩6分程度)のJR京浜東北線・西側エリアとなる北区岸町1丁目に鎮座する稲荷神社です。
    この『王子稲荷神社』の創建については不詳とされていますが、その歴史は古く現在の荒川が暴れ川として河川流域が広かった時代の河川岸に位置していたことから岸村の地名で知られ社号も『岸稲荷』と呼ばれており、社伝によると平安時代末期に河内国(現:大阪府の一部)を拠点としていた武家の棟梁・河内源氏の2代目「源 頼義」が陸奥国(現:福島県、宮城県、岩手県、青森県)の豪族「安倍頼時」一族が起こした反乱を朝廷の命により陸奥守(国司)として陸奥国を平定するまでの1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の12年間におよぶ戦乱「前九年の役」の折に『岸稲荷』を信仰し「関東稲荷総司」と崇めたと伝えられています。
    また1180年(治承4年)には、のちの鎌倉幕府・初代将軍となる「源 頼朝」の祖先にあたる「源 頼義」の子供であり「八幡太郎」の愛称でも知られる「源 義家」の鎧(腹巻)および薙刀などを奉納したとも伝えられており源氏ゆかりの稲荷神社ともなっています。
    さらに平安時代から室町時代にわたり岸村を拠点としていた豪族「豊島氏」一族により、鎌倉時代末期の1322年(元亨2年)に紀伊国(現:和歌山県)の熊野三社から「王子大神」を勧請して「若一王子宮」として現在の「王子神社」に祀ったことから、地名が岸村から王子村に改められ『岸稲荷』についても『王子稲荷』と呼ばれるようになっています。
    江戸時代になると徳川将軍家からも代々にわたり『王子稲荷』が厚く崇敬されており、江戸府内の稲荷神社の総本宮として徳川将軍家の祈願所に定められたほか第3代将軍「徳川家光」が1634年(寛永11年)に社殿を造営したほか、第5代将軍「徳川綱吉」も1703年(元禄16年)に社殿を造営、さらに第10代将軍「徳川家治」が1782年(天明2年)に社殿の修繕を実施しており、現在の社殿については1820年(文政3年)に第11代将軍「徳川家斉」が造営しています。
    そのほか民話「王子の狐火」および落語の演目「王子の狐」にも登場する稲荷神社であり、浮世絵師「歌川広重」による「名所江戸百景」の中で「王子稲荷乃社」および民話「王子の狐火」を題材とした「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」を描いているほかにも『王子稲荷』にまつわる浮世絵が複数あり、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」などの地誌においても『王子稲荷』が記載されるなど江戸庶民からも厚い信仰を集めていたことが伺えます。
    ちなみに江戸時代中期までは、「関東稲荷総司」における関東を現在とは異なり陸奥国までを含む東日本全体の稲荷総本社とする解釈のもと「東国三十三国稲荷総司」と伝承されており『王子稲荷』境内に「東国三十三国」と記した扁額および幟などが掲げられていたとされていますが、第11代将軍「徳川家斉」の時代に幕政改革(寛政の改革)により「東国三十三国稲荷総司」から「関東八州稲荷総司」に改められています。
    今回は、「王子」エリアを訪れる機会があり少し時間に余裕があったので「王子」周辺を散策しながら平日の午後に初めて『王子稲荷神社』に立ち寄りましたが、『王子稲荷神社』に近づくにつれて境内から子供たちの元気のよい声が響きわたり表参道の出入口となる「神門(薬医門形式)」前には沢山の自転車が止まっていました。
    よく見ると『王子稲荷神社』境内に附属幼稚園が併設されていて「神門」のある道路沿いの境内一画が幼稚園の園庭として利用されており、『王子稲荷神社』に立ち寄った時間帯がちょうど子供たちのお迎え時間になっていたことを知りました。
    「神門」は幼稚園の出入口を兼ねており、幼稚園が開園している平日の参拝者は「社殿」脇の参道からの参拝となります。
    『王子稲荷神社』境内は、武蔵野台地の崖線部分に位置するため高低差があり、表参道「神門」のある境内東側道路から境内南側沿いの道路(王子稲荷の坂)を上り脇参道からコンパクトな境内に入ると直ぐに鮮やかな彩色を用いて建物各所にさまざまな彫刻が施された権現造りの社殿が目を引く稲荷神社です。
    機会があれば、休日に「神門」から表参道を通り参拝したり、1993年(平成5年)から開催されている民話「王子の狐火」を再現したイベント「王子狐の行列」が開催される大晦日に『王子稲荷神社』を参拝しに立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR京浜東北線・王子駅の北口改札から徒歩6分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが、境内に数名の方がいる程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    武蔵野台地の崖線部分に位置するため境内に高低差があります。

  • 明治神宮外苑の象徴的な重要文化財に指定されている美術館建築です!

    投稿日 2023年02月05日

    聖徳記念絵画館 信濃町・千駄ヶ谷

    総合評価:4.0

    『聖徳記念絵画館』は、新宿区霞ヶ丘町および港区北青山のエリアに位置する「明治神宮外苑」敷地内の象徴的な建築物として1919年(大正8年)に建設工事着工後の建設途中において1923年(大正12年)に「関東大震災」が発生したものの大きな損傷を受けることなく1926年(大正15年)に竣工した東西軸の長辺方向が約112メートル、南北軸の短辺方向が約34メートル、建物中央部分(中央大広間)ドーム屋根最高部までの高さが約32メートルからなる建設当時最大規模の鉄筋コンクリート造り平屋建て(地下1階)となる国内最初期の美術館建築として「明治神宮」が維持管理をしている施設であり、2003年(平成15年)に東京都景観条例による「東京都選定歴史的建造物」に選定されたのちの2011年(平成23年)になると国の「重要文化財」に指定されています。
    ちなみに「明治神宮外苑」は、「明治天皇」および「明治天皇」の妃である「昭憲皇太后」の事績を永く後世に伝えることを目的に民間有志で結成された「明治神宮奉賛会」が国民から寄付金などを募り、「青山通り(国道246号)」から「青山練兵場跡地」であるとともにその敷地内で「明治天皇」の”大喪の礼”が執り行われた「葬場殿跡地」までの南北軸が中心となるように敷地内の北側中央に「明治天皇」と「昭憲皇太后」の事績を描いた絵画を展示する美術館として計画された『聖徳記念絵画館』を配置する西洋風緑地公園などとして造営され、完成した年の1926年(大正15年)に「明治神宮」に奉献されています。
    また「青山通り」から「明治神宮外苑」の『聖徳記念絵画館』に向って真っすぐ伸びる約300メートルにおよぶ現在の「都道414号・四谷角筈線」の区間には、『聖徳記念絵画館』の竣工に先立ち1923年(大正12年)に街路樹としてイチョウ並木が整備されています。
    このイチョウ並木は、『聖徳記念絵画館』の荘厳的な外観が強調されるように「青山通り」側から徐々に樹木の高さを低くする遠近法の手法を採用して整備されており、現在では映画およびテレビドラマのロケ地さらに報道番組などの中継地としてよく利用されており、イチョウ並木の黄葉が見ごろとなる11月中旬から12月上旬ごろには多くの人が訪れる人気の観光スポットとなっています。
    「明治神宮外苑」には、学生時代に「明治神宮野球場」および「旧国立競技場(国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)」で開催のスポーツ観戦をする際にJR中央・総武線「信濃町駅」を利用して『聖徳記念絵画館』前を幾度も素通りしており『聖徳記念絵画館』の館内が気にはなっていましたが入館することがなく、今回は「千駄ヶ谷」周辺エリアを訪れる機会があったので久しぶりに「明治神宮外苑」を散策しながら初めて『聖徳記念絵画館』に入館してみようと思い立ち寄りました。
    『聖徳記念絵画館』の館内は撮影禁止ですが「明治天皇」が誕生した徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1852年(嘉永5年)から崩御され大喪がおこなわれた1912年(明治45年・大正元年)までの約60年弱におよぶ「明治天皇」の生涯を中心に描いた80枚の絵画(日本画40枚・洋画40枚)を見て廻りながら改めて激動の時代であった歴史を学び楽しむことができました。
    また『聖徳記念絵画館』に立ち寄ったのが平日の午後でしたが、入館者も絶えることなく海外からの観光客と思われる方も多く驚きとともに海外でも知名度のある美術館となっていることを実感しました。
    そのほかに建物外壁仕上げ材に国内産(岡山県)の花崗岩(万成石)が使用されているほかに館内中央に位置する中央大広間などの床および柱・壁仕上げ材にもそれぞれ異なる貴重な国内産(岐阜県を中心に山口県・愛媛県・群馬県・福島県・岡山県)の大理石が使用され、その床には大理石のほかにモザイクタイルを組み合わせたデザインが施されています。
    さらに天井高の高いドーム天井までの壁面および天井面の各所に石膏彫刻の装飾が加わった壮麗な仕上げも目を見張るものがある美術館建築となっており建築に興味のある方にもお勧めできます。

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR中央・総武線の信濃町駅が最寄り駅となる明治神宮外苑の北側中央に位置します。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    入館料(建物維持協力金)は、500円です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    平日の午後でしたが入館者が絶えることはありませんでした。(海外からの観光客と思われる方が多かったです)
    展示内容:
    4.0
    明治天皇の誕生から大喪までの絵画80枚(日本画40枚・洋画40枚)が展示されています。
    バリアフリー:
    2.5
    建物アプローチ部分は階段です。

  • 芝生広場に設置されている巨大オブジェが目を引きます!

    投稿日 2023年01月28日

    虎ノ門ヒルズ オーバル広場 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    『虎ノ門ヒルズ オーバル広場』は、港区虎ノ門1丁目の一画に土地利用の合理化を図るため民間の超高層ビル建築計画とあわせて東京都の道路整備計画を一体化する「立体道路制度」を活用した市街地再開発事業の中核施設として、2014年(平成26年)に竣工した「虎ノ門ヒルズ 森タワー」(高さ247メートル・地上52階・地下5階)の2階西側部分に位置する屋外オープンスペース(およそ6,000平方メートル)です。
    ちなみに「虎ノ門ヒルズ 森タワー」は、地下部分の一部に「環状第2号線・築地虎ノ門トンネル(新虎通り)」が通る複合ビルとして商業施設・オフィス施設・ホテル施設・集合住宅で構成されており、2020年(令和2年)に竣工した北側道路を挟んだエリアの「虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー」(高さ183.415メートル・地上36階・地下3階)および2022年(令和4年)に竣工した南側道路を挟んだエリアの「虎ノ門ヒルズ レジデンシャルタワー」(高さ221.55メートル・地上54階・地下4階)がそれぞれ2階部分で道路を跨ぐ連絡デッキで結ばれています。
    また「虎ノ門ヒルズ 森タワー」の西側道路を挟んだエリアには建設中の「虎ノ門ヒルズ ステーションタワー」(高さ264メートル・地上49階・地下5階)があり、この段階的にオープンしている4棟の超高層ビルが2023年(令和5年)に全て竣工することで都内有数の複合都市「虎ノ門ヒルズ」の市街地再開発事業が完了する予定です。
    以前に「虎ノ門」エリアを訪れた際は、この「立体道路制度」を活用した市街地再開発事業構想が発表されたころの時期であり、機会があれば「虎ノ門ヒルズ」など周辺エリアがどのように変貌していくのかを散策して廻りたいと思っていました。
    今回は久しぶりに「虎ノ門」エリアを平日の午後に訪れる機会があり、短時間でしたが「虎ノ門ヒルズ 森タワー」に立ち寄って少し遅めのランチ休憩をしようと思い桜田通り(国道1号)の虎ノ門2丁目交差点側から建物内に立ち入り低層フロアエリアにある商業施設ゾーンの飲食店などを見て廻りました。
    ランチタイムを過ぎていたので休憩中の飲食店がほとんどで残念でしたが、建物2階部分の屋外に緑化整備などが施され各所にベンチが設置されている開放的なオープンスペースを見て廻り楽しむことができました。
    このオープンスペースの中心的な空間が建物西側に丘陵地のような傾斜のある芝生広場に巨大なオブジェが目を引く各種イベントなどが実施可能でカフェ施設も設置されている『虎ノ門ヒルズ オーバル広場』であり、都心の真中でくつろげる休憩スペースとしてお勧めできます。
    ちなみに『虎ノ門ヒルズ オーバル広場』に設置されている巨大なオブジェ”Roots”(高さ:10メートル・幅:5.5メートル・奥行:6.5メートル)は、スペイン(バルセロナ出身)を代表する世界的アーティストである「ジャウメ・プレンサ」氏の作品であり、8つの言語(日本語・中国語・アラビア語・ヘブライ語・ラテン語・ギリシャ語・ヒンディー語・ロシア語)の文字を模ったステンレス製プレートを組み合わせて人間が膝を抱えて座っているような造形となっており、オブジェの中に入ってみたり、さまざまな角度から作品を見て廻り楽しむことができます。
    夜間にはオブジェがライトアップもされるようなので、「虎ノ門」エリアを訪れる機会があれば『虎ノ門ヒルズ オーバル広場』に立ち寄りライトアップされたオブジェを見て廻ったり、芝生に座ってみたり休憩場所として利用してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    最寄り駅は、2020年(令和2年)に開業の虎ノ門ヒルズ駅(東京メトロ・日比谷線)です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが数名の方がくるろいでいる程度でした。
    バリアフリー:
    4.0
    芝生広場は傾斜があります。
    見ごたえ:
    3.5
    傾斜のある芝生広場に設置されている巨大オブジェが目を引きます。

  • フォトスポットとしてお勧めできます!

    投稿日 2023年01月21日

    月の沙漠記念像 御宿

    総合評価:4.0

    『月の沙漠記念像』は、房総半島の太平洋に面した外房の南東部に位置する雄大な「御宿海岸」の白くきめの細かい砂浜が魅力的な「中央海水浴場」の一画にビーチバレーボールコートを常設した「月の沙漠記念公園」に設置されている童謡『月の沙漠』(作詞:加藤まさを、作曲:佐々木すぐる)に登場するアラビア(西アジア)の王子様とお姫様をモチーフに西アジアに生息するヒトコブラクダに乗ったブロンズ像です。
    童謡『月の沙漠』については、大正時代中期から昭和時代初期に活躍した詩人であり抒情画家の「加藤まさを」が1923年(大正12年)に雑誌「少女倶楽部」(大日本雄辯會・現:講談社発行)の中で中央アジアに生息するフタコブラクダの抒情画を挿絵に添えた抒情詩『月の沙漠』として発表されています。
    抒情詩『月の沙漠』を発表するにあたり海外を訪れた経験のない「加藤まさを」は、青年期に結核をわずらい御宿の地で療養していた際に御宿の砂丘風景などから異国情緒漂うアラビアの情景をイメージしたと伝えられており、挿絵としたラクダをアラビア(西アジア)に生息するヒトコブラクダと中央アジアに生息するフタコブラクダを間違えて描いて発表したエピソードも残されていますが、作曲家「佐々木すぐる」が曲付けしたことで童謡として長く歌い継がれるようになっています。
    『月の沙漠記念像』の制作については、昭和40年代前半に当時の「御宿町商工会」の会長が青少年の情操教育を目的とする記念像として制作することを「加藤まさを」本人と交渉し、当初は制作を拒んでいた「加藤まさを」を説き伏せて1969年(昭和44年)に「加藤まさを」と同じく静岡県藤枝市出身の彫刻家「竹田京一」による合成樹脂製の初代となる『月の沙漠記念像』が完成しています。
    また1976年(昭和51年)になると「加藤まさを」が晩年の永住地として御宿町に移住して翌年に御宿町にて終焉を迎えていますが、その後の1990年(平成2年)になると故人である「加藤まさを」が「御宿町名誉町民」となっています。
    同じく1990年(平成2年)には、「御宿海岸」に流れ込む「清水川」沿いに新たな海岸道路の「月の砂漠通り」が開通したほかにその通り沿いに”ふるさと創生事業”による「月の沙漠記念館」のオープンとあわせて合成樹脂製であった初代の『月の沙漠記念像』が改修され新たな2代目となる現在のブロンズ像が設置されています。
    ちなみに初代の合成樹脂製『月の沙漠記念像』は、「加藤まさを」生誕100年となる1997年(平成9年)に御宿町と長野県野沢温泉村が姉妹都市提携を結んだことが縁で、2001年(平成13年)に野沢温泉村に寄贈され野沢温泉村役場前に設置されています。
    今回は房総半島の南房総市から御宿町までの外房・海岸沿いの「国道128号」を家族3世代でドライブして廻り自分と子どもは初めて「御宿海岸」に立ち寄りましたが、『月の沙漠記念像』などを写真撮影したりしながら雄大な砂浜でくつろぎ楽しむことができました。
    正月のシーズンオフの時期でしたが、サーフィンおよび凧あげをする人ならびに海岸を散策す人なども多く、JR外房線「御宿駅」から「御宿海岸」まで徒歩圏内でもあるので夏のシーズン最盛期は海水浴客でにぎわうエリアであることを実感できました。
    雄大な砂浜に設置されている『月の沙漠記念像』については、さまざまな角度および朝方・日中・夕方・夜間などさまざまな時間帯の写真撮影で楽しめるフォトスポットとしてお勧めできます。
    機会があれば、また御宿町に立ち寄り今回は正月で休館日であった「月の沙漠記念館」に入館して廻ったり、さまざまな時間帯の『月の沙漠記念像』を写真撮影してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年01月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    JR外房線・御宿駅から徒歩7分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    正月のシーズンオフの時期でしたが、多くの人が雄大な海岸を散策していました。
    バリアフリー:
    3.0
    御宿海岸の雄大な砂浜の一画にあります。
    見ごたえ:
    4.0
    さまざまな角度および朝方・日中・夕方・夜間などさまざまな時間帯の写真撮影で楽しめるフォトスポットです。

  • 明治座のビルの脇に鎮座する小規模な祠に祭神を祀る稲荷神社です!

    投稿日 2023年01月14日

    明治座稲荷神社 日本橋

    総合評価:3.0

    『明治座稲荷神社』は、中央区日本橋浜町2丁目の「清澄橋通り」沿いに位置する「明治座」および店舗・オフィスの用途からなる複合ビル「浜町センタービル」敷地の「明治座通り」に面した南東側の一画に鎮座する小規模な祠に祭神(宇迦之御魂神)を祀る稲荷神社です。
    『明治座稲荷神社』の創建については不詳とされていますが、1873年(明治6年)に「明治座」のはじまりとされる東京十座のひとつであった「喜昇座」が現在の「久松警察署」の南側に開場した頃に「喜昇座」と同じく「久松警察署」の南側に鎮座する「笠間稲荷神社 東京別社」から勧請(分霊を迎え祀ること)したと伝えられています。
    ちなみに「笠間稲荷神社 東京別社」は、日本三大稲荷のひとつと称され飛鳥時代である第36代「孝徳天皇」の時代とされる651年(白雉2年)に創建したと伝わる茨城県笠間市笠間に鎮座する「笠間稲荷神社」を本社としており、徳川幕府・第14代将軍「徳川家茂」の時代である1859年(安政6年)に笠間藩主「牧野貞直」が江戸下屋敷内の現在地に本社の分霊を勧請して崇敬したのがはじまりとされ、稲荷神社の祭日とされる初午の日に限り日本橋界隈の江戸庶民を屋敷内に入れて参拝することが許されています。
    その後の明治維新を迎えると政府が進める行政改革による廃藩にともない牧野家の屋敷は、1873年(明治6年)に本庄緑町に移転していますが、祭神を祀る祠は独立して現在地に残り1878年(明治11年)になると正式に神社として認可されたのちの1888年(明治21年)になると牧野家の願いにより「笠間稲荷神社」の本社が奉祀する「笠間稲荷神社 東京別社」として現在に至っています。
    また「喜昇座」については、焼失などによる改築ならびに建て替えなどを繰り返しながら座主の交代などもあり、座名も1879年(明治12年)に「久松座」に改称となり、1885年(明治18年)には「千歳座」に改称したのちの1893年(明治26年)になると明治期を代表する歌舞伎役者の初代「市川左團次」が座元となり「明治座」に改称されています。
    さらに1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」で「明治座」が焼失すると現在の港区麻布十番に焼け残っていた「末広座」が「明治座」となり1926年(大正15年)まで興行がおこなわれ、その後の1928年(昭和3年)に日本橋浜町の現在地に新たな「明治座」が竣工ししたものの太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の「東京大空襲」で一部分を残して焼失しています。
    太平洋戦争終戦後の1950年(昭和25年)に再建されますが、1957年(昭和32年)に漏電が原因で再び焼失ており、その翌年に焼失前の建物基礎部分などそのまま活かして再建されたのちに建て替えのため1990年(平成2年)に閉場し、1993年(平成5年)に複合ビル「浜町センタービル」として竣工しています。
    過去に観劇目的で「明治座」を訪れた際に最寄り駅の都営地下鉄・新宿線「浜町駅」A2出入口を利用して『明治座稲荷神社』の前を素通りしていましたが、今回は「明治座」公演の開演時間まで少し時間に余裕があり、待ち合わせ前に『明治座稲荷神社』の前で足を止めて写真撮影などをしてみました。
    鳥居をくぐると銅板葺き切妻屋根のガラス張りの小規模な社の中に祠が納められているだけのコンパクトなスペースですが、日々の清掃などの管理がよくおこなわれている神社であるとと感じました。
    また神社の由来などに関する掲示物および公式ホームページも存在しない稲荷神社であり、『明治座稲荷神社』に関する情報を調べていくと神社名称も『笠間出世稲荷大明神』さらに『笠間稲荷神社 明治座分社』などと複数あるので正式な神社名称もよく分かりませんでしたが、「喜昇座」が誕生してから現在の「明治座」に至るまでを「明治座」とともに歴史を刻んできたと思われます。
    見どころも特にありませんが、「明治座」の歴史とあわせて色々と調べることで楽しむことができました・・・

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    都営地下鉄新宿線・浜町駅A2出入口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    明治座での観劇目的で立ち寄りましたが、素通りする方がほとんどです。
    バリアフリー:
    4.5
    段差はありません。
    見ごたえ:
    2.5
    小規模な祠に祭神を祀るだけのコンパクトな稲荷神社です。

  • 重要文化財を保存しながら活用する一般に公開された多目的施設です!

    投稿日 2023年01月08日

    自由学園明日館 池袋

    総合評価:4.5

    『自由学園明日館(じゆうがくえんみょうにちかん)』は、ジャーナリストであった「羽仁 吉一・もと子」夫妻がキリスト教の精神に基づき”思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ”また”よく教育するとはよく生活させること”を理念に掲げるとともに新約聖書の一節”真理はあなたたちを自由にする”から学校名称を『自由学園』として、1921年(大正10年)に26名の女子入学生を受け入れて開校した女学校の木造校舎であり、1922年(大正11年)に現在の豊島区西池袋2丁目の地に落成した建築物です。
    現在では生活学習・展示会・講演会・コンサート・結婚式および懇親会などの各種パーティー会場など広範囲で利用可能な多目的施設となっており、現在も『学校法人 自由学園』(所在地:東久留米市学園町1丁目)が所有しています。
    この『自由学園明日館』の建設にあたっては、『自由学園』の創設者夫妻と友人関係であった建築家「遠藤 新」が1917年(大正6年)から「帝国ホテル(旧館)」の設計を引き受けた建築家「フランク・ロイド・ライト」の建築設計事務所に勤務していたほか、「帝国ホテル(旧館)」の設計・監理のために来日中の「フランク・ロイド・ライト」の助手をしていた1921年(大正10年)に「羽仁 吉一・もと子」夫妻を「フランク・ロイド・ライト」に紹介したことがきっかけとなり、夫妻が目指す教育理念に共鳴した「フランク・ロイド・ライト」が『自由学園』校舎の基本設計をしています。
    『自由学園』開校翌年の1922年(大正11年)になると校舎の中央棟および西教室棟が完成、また1923年(大正12年)から翌年にかけて中央棟・食堂部分に「遠藤 新」が設計を手掛けた附属施設を増築、その後の1925年(大正14年)には西教室棟が完成、さらに1927年(昭和2年)になると校舎敷地の道路を挟んだ南側に「遠藤 新」の設計による講堂が完成しています。
    ちなみに「フランク・ロイド・ライト」は、20世紀を代表する”近代建築の三大巨匠”と称されるアメリカ合衆国(ウィスコンシン州)出身の世界的に著名な建築家のひとりであり、「フランク・ロイド・ライト」が設計した日本国内に現存する建築物は、『自由学園明日館』および「帝国ホテル(旧館)」(正面玄関部分のみ愛知県犬山市の明治村に移築)のほかに「山邑邸(現:ヨドコウ迎賓館)」(兵庫県芦屋市山手町)さらに非公開の「林愛作邸(現:電通八星苑)」(東京都世田谷区駒沢)が存在します。
    『自由学園』の開校後については、1925年(大正14年)ごろになると生徒数増加による移転計画が持ち上がり、現在の東久留米市学園町1丁目に広大な新たな学校用地を購入し、1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)にかけて移転が完了し、移転前の校舎は卒業生が在学中に学んだことを活かして社会に働きかける場所として活用される『明日館』と名付けられています。
    その後の太平洋戦争において戦災を免れた『自由学園明日館』は、終戦後の1948年(昭和23年)から1973年(昭和48年)までの25年間を高等学校卒業後の女子を対象とした『自由学園生活学校』の学び舎として使用されたのちにバブル期を迎えると老朽化した建物の保存あるいは解体するかの議論を経て、1997年(平成9年)に国の重要文化財に指定されています。
    その後は校舎部分の3棟を1999年(平成11年)から2001年(平成13年)の3年間、さらに講堂部分を2015年(平成17年)から2017年(平成19年)の2年間にかけて保存しながら活用する「動態保存」の施設として大規模な保存修理工事および耐震工事が実施され一般に公開された多目的施設として現在に至っています。
    以前に『自由学園明日館』の講堂が会場となった催しを観るために講堂内部に立ち入った経験があり校舎部分も見学してみたいと思っていましたが、今回は池袋エリアを訪れる機会があったので『自由学園明日館』を改めて見学してみようと思い立ち寄りました。
    コンパクトな敷地ではありますが、喫茶付見学料800円で大正時代の学校建築である校舎および講堂の外観・内観を写真撮影して廻り、かつての中央棟・食堂で当時のテーブルと椅子をそのまま使用している現在の喫茶室でコーヒーと焼菓子を頂くなどして、くつろぎながら楽しむことができました。
    平日の午後に立ち寄りましたが池袋駅・メトロポリタン口から徒歩5分程度の住宅街に位置し、見学者も絶えることなく人気の観光スポットであることが伺えました。特に建築に興味のある方にお勧めできるスポットです。
    機会があれば、現在は開催が見合せとなっている”ホリデーコンサート”などの催しが再開された際などにまた立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    池袋駅・メトロポリタン口から徒歩5分程度の住宅街に位置します。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、見学者も絶えることなく人気の観光スポットであることが伺えました。
    バリアフリー:
    3.0
    中央棟ホール部分、食堂(現:喫茶室)、F.L.ライト ミニミュージアム、講堂に段差・階段があります。
    見ごたえ:
    4.5
    近代建築の巨匠と称される世界的に著名な建築家(F.L.ライト)が基本設計した国の重要文化財に指定されている大正時代の学校建築です。

  • 東京タワーなどの撮影スポットとしてお勧めできます!

    投稿日 2022年12月30日

    プリンス芝公園 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    『プリンス芝公園』は、1873年(明治6年)に”公園制定に関する太政官布達”によって徳川将軍家の菩提寺である当時の「増上寺」境内が国内初の公園として開園した『芝公園』の広大な1号地から25号地からなる25区画の敷地において1号地の一画(現居住表示:港区芝公園4丁目)に位置するエリアに建設された当時の「東京プリンスホテル パークタワー(現:ザ・プリンス パークタワー東京)」(地上33階・地下3階建て・高さ104.4メートル)施設の一部となります。
    ちなみに国内初の公園となった『芝公園』から『プリンス芝公園』が開園するまでの経緯については、太平洋戦争終戦後の1947年(昭和22年)に”社寺等に無償貸付してある国有財産の処分に関する法律”によって政教分離の観点から宗教色のない寺社敷地以外が公園エリアとなり、かつての公園中心部分となる「増上寺」境内などの外周部分を取り囲むようにリング型の敷地となる『都立芝公園』として形成されています。
    その後に『芝公園』の国有地から「増上寺」の所有地に戻された境内敷地も時代の流れの中で一部敷地が民有地に移り変わり、かつての『芝公園』内にさまざまな施設が建設されるようになり、その中で「芝ゴルフ練習場」ならびに「芝ボウリングセンター」が建設されていたエリアにホテル建設事業計画が浮上するとともに1999年(平成11年)になると民間活力による都市計画公園等整備事業とする”都市計画法59条第4項”に基づく特許事業として東京都の許可が取得されたことにより、ホテル地下フロア部分に広がるの会議・宴会場施設などの上部空間となる建物2階レベルに人工地盤からなる芝生広場を中心とした設計のもと緑地整備が施され、ホテル敷地に隣接する東京都が管理する『都立芝公園』および港区が管理する『港区立芝公園』と一体化するように2005年(平成17年)のホテル開業とともにホテルが管理・運営する『プリンス芝公園』が誕生しています。
    今回は「芝公園」エリアを訪れる機会があったので周辺を散策して廻りながら、15年ほど以前のホテル名称が「東京プリンスホテル パークタワー」のころに家族で宿泊したことさらにその際に『プリンス芝公園』に立ち寄ることがなかったことを思い出して、『都立芝公園』などを散策しながら初めて『プリンス芝公園』に立ち寄り、雨上がりの曇りの日でしたが公園中央に広がる芝生広場から望むことのできる「東京タワー」を写真撮影などをして楽しむことができました。
    『プリンス芝公園』はホテル敷地内でホテルが管理・運営する公園ですが、ホテル建物(2階部分)からの出入り意外に『都立芝公園』および「日比谷通り(都道409号)」沿いに建つ徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の霊廟建築のひとつであり1632年(寛永9年)に建立された「台徳院霊廟惣門」(国指定:重要文化財)からも自由に出入りできる一般公開されている公園のため気軽に立ち寄ることができます。
    平日の午後に立ち寄りましたが『プリンス芝公園』内は、ホテル建物から出入りするホテル宿泊者と思われる外国人の方が数名いる程度で落ち着いた雰囲気のある空間となっており、「東京タワー」の全景が望めるなど撮影スポットとしてもお薦めできます。
    機会があれば、ライトアップされた「東京タワー」など夜景の写真撮影に立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄大江戸線・赤羽橋駅または都営地下鉄三田線・芝公園駅が最寄り駅となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後ですがホテル宿泊者と思われる外国人の方が数名いる程度でした。
    バリアフリー:
    3.0
    台徳院霊廟惣門および都立芝公園からのアクセスは高低差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    東京タワーの全景が望めるなど撮影スポットとしてもお薦めできます。

  • 石神井川・旧流路エリアを渓谷風に整備した公園です!

    投稿日 2022年12月18日

    音無親水公園 王子・十条

    総合評価:4.0

    『音無親水公園』は、北区王子本町1丁目に位置するJR・京浜東北線「王子駅」北口改札の西側駅前から「本郷赤羽線(都道455号)」が「明治通り(国道122号)」と合流する部分の谷間に架かる「音無橋」下部を通り抜け現在の「石神井川」護岸までの敷地面積が5,461平方メートルにおよぶ「石神井川」の旧流路エリアを1988年(昭和63年)に水遊びができる区立公園として北区が整備し開園しており、その翌年の1989年(平成元年)になると「日本公園緑地協会」が企画した「日本の都市公園100選」に選定されています。
    この『音無親水公園』のある王子周辺エリアの歴史については、平安時代から室町時代にこの地を拠点としていた豪族の「豊島氏」が紀伊国牟婁郡熊野の「若一王子神社」を勧請したことから、当時の地名であった岸村から王子村と呼ばれるようになっています。
    その後の江戸時代になると鷹狩でこの地を幾度も訪れていた徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」が施策として取り組んだ「享保の改革」のひとつとして、1720年(享保5年)に「飛鳥山」一帯に桜の苗木を植樹し整備して江戸庶民に開放したことにより春先の花見の行楽の場となり、また夏場には武蔵野台地の突端となる地形から豊富な地下水による湧き水が涼をもとめる「王子七滝」となり滝浴みなどができる避暑地として賑わうようになっています。
    江戸庶民が滝浴みをする様子については、浮世絵師「歌川広重」が江戸時代末期の1856年(安政3年)から約2年半の歳月をかけて制作した全119枚の錦絵「名所江戸百景」の中で「王子不動之滝」として描かれています。
    また王子周辺エリアを流れる「石神井川」も江戸時代には「音無川」と呼ばれており、江戸時代後期の1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・5巻(15冊)」の中でも「音無川」として景観図が紹介されているほか、「名所江戸百景」でも「王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」として錦絵が描かれているなど人気の行楽地となっていたことが伺えます。
    そのほか『音無親水公園』の名称となっている「音無川」は、紀州熊野権現本宮付近を流れる「音無川」に由来するものとされ現在も「音無川」の愛称で呼ばれることもありますが、一説によると「徳川吉宗」が故郷である紀州「音無川」の渓谷にちなんで命名したと伝えられています。
    さらに昭和30年代の高度成長期を迎えると洪水などの災害防止のための治水工事によるコンクリート護岸で囲まれた典型的な都市型河川となり、生活用水が河川に流れ込むことで水質の悪化も進行し、かつて清流が流れていたころの情緒ある渓谷の面影をとり戻したいといった要望が高まり現在の『音無親水公園』の整備計画が浮上し現在に至っています。
    現在の『音無親水公園』付近の「石神井川」については、「音無橋・交差点」から暗渠となり「飛鳥山公園」の地下を流れており、旧流路エリアに整備された『音無親水公園』の夏場の期間限定で流れる水は、ろ過装置による循環水が使用されています。
    今回は平日の午後に「王子」エリアを訪れる機会があり、周辺を散策して廻りながら『音無親水公園』にも立ち寄り園内をさまざまな角度から写真撮影をしてみましたが、樹木に囲まれ渓谷の雰囲気が漂う園内には1958年(昭和33年)に神奈川県に上陸した狩野川台風の影響で流され廃橋となっていた木製の「舟串橋」が復元されていたり、木製水車などが設置されるなどフォトスポットも多く点在しており楽しむことができました。
    園内遊歩道にはサクラ・モミジなどの樹木も整備されているので、機会があればサクラの咲く春先、水の流れる夏場、紅葉の秋口などの四季折々の園内を写真撮影をしてみたいと思います。

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR王子駅・北口改札の西側駅前です。
    景観:
    4.5
    樹木に囲まれた渓谷の雰囲気が 漂う高低差のある園内に木製の橋・水車などが設置されています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、遊歩道を通り抜けする人がほとんどでした。
    バリアフリー:
    2.5
    遊歩道部分以外は高低差があります。

  • 東京23区内で最高峰の愛宕山に鎮座する徳川将軍家ゆかりの神社です!

    投稿日 2022年12月04日

    愛宕神社 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    『愛宕神社』は、東京23区内における自然に形成された丘陵の中で最高峰の「愛宕山」(標高25.7メートル)の頂上部分となる港区愛宕1丁目に鎮座する神社であり、主祭神として火伏せの神とされる「火産霊命(ほむすびのみこと)」を祀っています。
    この『愛宕神社』の創建については、1603年(慶長8年)に第107代「後陽成天皇」の宣下によって征夷大将軍に任命された「徳川家康」の命により、徳川幕府が誕生した年に当時の「桜田山」(のちの「愛宕山」)に多くの戦国武将が崇拝していた神仏習合の軍神とされる甲冑をまとった騎乗姿の「勝軍地蔵」を祀ったことがはじまりとされている徳川将軍家ゆかりの神社でもあります。
    ちなみに『愛宕神社』に祀られた「勝軍地蔵」は、奈良時代・中期に「東大寺(奈良)」の本尊である「盧舎那仏像(通称:大仏)」の造立に携わり「東大寺」の”四聖”のひとりに数えられている「行基」上人が738年(天平10年)に近江国甲賀郡信楽(現:滋賀県甲賀市信楽町)の地を訪れた際に造像した「勝軍地蔵菩薩像」とされており、その後の1582年(天正10年)に「明智光秀」が起こした「本能寺の変」により「本能寺(京都)」において「織田信長」が討たれたことを和泉堺(現:大阪府堺市)に滞在していた「徳川家康」に知らされると難を逃れるため小姓衆などわずかな手勢で当時の居城であった三河国「岡崎城」まで決死の覚悟で帰還する途中の伊賀(現:三重県伊賀市)越えの道のりを通過するにあたり、甲賀郡信楽の豪族「多羅尾光俊」の協力を得て「多羅尾光俊」の屋敷に安置されていた「行基」上人が造像したとされる「勝軍地蔵菩薩像」を伊賀越えのおとりとするため「徳川家康」に献上されたと伝えられています。
    この「勝軍地蔵菩薩像」は、『愛宕神社』の別当寺である「円福寺」に「愛宕権現」と称され安置されていましたが、明治時代になると神仏分離政策のもと廃仏毀釈の運動が広まる中で「円福寺」が廃寺となるものの破壊などされることなく『愛宕神社』にほど近い真言宗智山派総本山智積院(京都)の別院「真福寺」に移されいます。
    しかしながら1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」による火災が原因で焼失していますが、その後の1934年(昭和9年)になると「弘法大師1100年御遠忌記念」として銅製の「勝軍地蔵菩薩像」が造像され現在の「真福寺」のある「愛宕東洋ビル」敷地内に安置されています。
    そのほか『愛宕神社』の表参道となる男坂と称されている急傾斜の石段(傾斜角:およそ37度・石段数:86段)については、1634年(寛永11年)に徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」が徳川将軍家の菩提樹である「増上寺」を参詣した帰り道に『愛宕神社』下から「愛宕山」に咲く梅花を見た将軍が”馬に乗ってあの梅を取って参れ!”と命じると、その場にいた家臣たちが急傾斜の石段にひるむ中で四国丸亀藩士の「曲垣平九郎」が落馬することなく山頂で咲く梅花の枝を折って「徳川家光」に献上したことで、「徳川家光」が泰平の世にあって馬術の稽古を怠らない「曲垣平九郎」の姿勢を”日本一の馬術の名人”と称賛し、「曲垣平九郎」の名が全国に知れわたったことから『愛宕神社』の表参道・石段は「出世の石段」と呼ばれるようになり、この出来事が伝統話芸の「講談」において武芸伝の演目「寛永三馬術」として語り続けられています。
    今回は「虎ノ門」エリアを訪れる機会があり周辺エリアを散策して廻りながら初めて『愛宕神社』に立ち寄りましたが、「出世の石段」と呼ばれるの表参道の男坂を実際に上り下りして傾斜角:37度がものすごく急勾配であることを体感して改めて「曲垣平九郎」が”日本一の馬術の名人”であることを実感しました。
    「愛宕山」頂上の樹木の囲まれたコンパクトに纏まった境内の「社殿」など建造物のほとんどが1945年(昭和20年)に太平洋戦争による「東京大空襲」で焼失しており、現在の社殿は1958年(昭和33年)に再建されたもので、平日の午後に参拝しましたが参拝者もまばらですが絶えることなく人気のある神社であることが伺えました。
    「愛宕山」頂上へのルートは、『愛宕神社』表参道・男坂の「出世の石段」のほか傾斜が緩やかな階段の女坂および自動車が通行可能な愛宕新坂(愛宕神社車道)さらに愛宕トンネル付近に愛宕山エレベーターなども整備されているので「出世の石段」の上り下りが難しいと感じる方でも『愛宕神社』参拝は可能です。
    また「虎ノ門」周辺エリアを訪れる機会があれば『愛宕神社』を参拝してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ日比谷線・虎ノ門ヒルズ駅から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが参拝者もまばらですが絶えることがありませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    愛宕山頂上へのルートは、いくつかありますが頂上に通じるエレベーターも設置されています。
    見ごたえ:
    4.0
    表参道である急傾斜の男坂は、”出世の石段”として江戸時代の逸話が語り継がれている石段です。

  • 大正時代に整備された”いちょう並木”の黄葉が見ごろとなる時期に開催されるイベントです!

    投稿日 2022年11月26日

    明治神宮外苑いちょう祭り 信濃町・千駄ヶ谷

    総合評価:4.5

    『明治神宮外苑いちょう祭り』は、『明治神宮外苑』の象徴的な建物として1926年(大正15年)に竣工し、”直線的意匠と先駆的技術を採用した、わが国初期の美術館建築”として評価され、2011年(平成23年)に国の重要文化財に指定された「聖徳記念絵画館」の正面に向かうように「青山通り(国道246号)」の青山2丁目交差点から北側方向に通る「都道414号・四谷角筈線」のおよそ300メートルにおよぶ区間の街路樹として植樹されている『明治神宮外苑いちょう並木』の黄葉が見ごろとなる時期(11月中旬から12月上旬)において1997年(平成9年)から開催されているイベントです。
    『明治神宮外苑いちょう祭り』の開催期間中は、『明治神宮外苑』敷地内の「いちょう並木噴水池」周辺に複数の飲食店が出店し賑わうとのことですが、ここ数年は新型コロナウイルス感染防止対策の一環としてイベント開催が中止となっています。
    ちなみに『明治神宮外苑』については、「明治天皇」および「昭憲皇太后」の事績を永く後世に伝えることを目的に国費で造営された「明治神宮(内苑)」とは別に民間有志で結成された「明治神宮奉賛会」が国民からの寄付金などを募り、「明治天皇」の”大喪の礼”が執り行われた場所であるとともに「青山練兵場」の跡地に「聖徳記念絵画館」を中心とする西洋風緑地公園などが『明治神宮外苑』として1926年(大正15年)に造営され「明治神宮」に奉献されています。
    また『明治神宮外苑いちょう並木』については、「聖徳記念絵画館」の竣工に先立ち1923年(大正12年)に街路樹として植樹されていますが、「青山通り」側から『明治神宮外苑』側に向かうにつれて徐々に樹木の高さを低くする遠近法の手法を採用して「聖徳記念絵画館」の荘厳な雰囲気が強調されるように計画的に整備されており、映画およびテレビドラマのロケ地さらに報道番組などの中継スポットとしてよく利用されているほか、1994年(平成6年)になると”街路樹の景観に優れた場所”として読売新聞社が創刊120年を記念して厳選した「新・日本街路樹100景」に選定されるなど人気の観光スポットとなっています。
    『明治神宮外苑いちょう並木』へのアクセスは、「外苑前駅」4a出入口(東京メトロ:銀座線)または「青山一丁目駅」1出入口(東京メトロ:銀座線・半蔵門線、都営地下鉄:大江戸線)が便利ですが、今回は「千駄ヶ谷」周辺エリアを訪れる機会があり、『明治神宮外苑』敷地内および『明治神宮外苑いちょう並木』などを散策しながら「青山一丁目駅」に向かいました。
    『明治神宮外苑』に立ち寄った時期は、例年の『明治神宮外苑いちょう並木』が見ごろになるといわれているの黄葉時期よりも少し早い11月初旬の平日でしたが、すでに黄葉も始まっており、天候にも恵まれ秋晴れの青空に映える黄葉が進行中の『明治神宮外苑いちょう並木』を写真撮影する方々で賑わっていました。
    『明治神宮外苑いちょう並木』正面の「いちょう並木噴水池」が配置されている『明治神宮外苑』敷地内への出入口部分は、「TOKYO LIGHTS 2022」(世界最大級のプロジェクションマッピング国際大会)のイベント開催準備中のようで閉鎖されていましたが、今回はじめて黄葉している『明治神宮外苑いちょう並木』をさまざまな位置から写真撮影をして楽しむことができました。
    また『明治神宮外苑いちょう祭り』は今年も中止となったようですが、機会があれば『明治神宮外苑いちょう祭り』が開催されている時期および期間限定で夜間ライトアップされている時期に改めて『明治神宮外苑いちょう並木』に立ち寄って写真撮影などをして楽しみたいと思います。

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    外苑前駅・4a出口から”明治神宮外苑いちょう並木”の入口となる青山2丁目交差点まで180メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    2.5
    平日の午後でしたが写真撮影をする方々で賑わっていました。
    催し物の規模:
    2.5
    ここ数年は新型コロナウイルス感染防止対策の一環としてイベント開催が中止となっています。
    雰囲気:
    4.5
    黄葉が見ごろとなる時期(11月中旬から12月上旬)より少し早かったですが楽しむことができました。

  • 日本国の中枢機能が集中するエリアの高台に鎮座する神社です!

    投稿日 2022年11月20日

    日枝神社 霞ヶ関・永田町

    総合評価:4.0

    『日枝神社(ひえじんじゃ)』は、年中行事のひとつである祭礼「山王祭」が江戸時代から伝わる「江戸三大祭り」の筆頭に数えられており、現在では「内閣総理大臣官邸」など日本国の中枢機能が集中するエリアである千代田区永田町2丁目の高台に鎮座する神社です。
    ちなみに「江戸三大祭り」については、『日枝神社』で執り行われている例祭「山王祭」のほか「神田神社(神田明神)」(千代田区外神田2丁目)で執り行われている例祭「神田祭」さらに「富岡八幡宮」(江東区富岡1丁目)で執り行われている例祭「深川八幡祭」が該当します。
    『日枝神社』の創建については不詳とされていますが、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で武蔵国江戸郷における武蔵江戸氏の初代当主である「秩父重継(江戸重継)」が鎌倉時代初期に自身の屋敷内に近江国日枝山(のちの比叡山)の神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」であり、神仏習合期には天台宗の鎮守として「山王権現(さんのうごんげん)」と称されていた「山王宮」を奉祀したことが江戸における山王信仰のはじまりとされています。
    その後の室町時代後期となる室町幕府・第9代将軍「足利義尚」の時代である1478年(文明10年)になると関東の武将であり江戸城を築城した「太田道灌」が江戸城内に”鎮護の神”として「川越山王社」の「山王権現」を勧請して江戸の礎を築いており、さらに1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸に入府し江戸城を居城とすると”江戸城内鎮守の社”・”徳川歴朝の産神”として徳川将軍家において山王信仰が崇敬されるようになっています。
    また徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代になると江戸城大改造にともない江戸場内に鎮座していた「山王権現」が江戸城外となる麹町隼町の地に遷座したことにより、江戸庶民からも”江戸郷の総氏神”・”江戸の産神”として山王信仰が崇敬され「山王権現」として親しまれるようになっていますが、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1657年(明暦3年)に発生した「江戸三大大火」かつ「世界三大大火」のひとつに数えられる「明暦の大火(振袖火事)」により社殿を焼失しており、火災発生から2年後となる1659年(万治2年)に江戸城の裏鬼門にあたる現在地に遷座しています。
    そのほか「山王祭」については、第2代将軍「徳川秀忠」の時代となる1616年(元和2年)からはじまったと伝えられており、1635年(寛永12年)になると第3代将軍「徳川家光」が将軍として初めて江戸城内の楼上から「山王祭」で巡行する山車および神輿を上覧したとされ、その後に「山王祭」の山車および神輿の巡行が徳川幕府より江戸城内への入場が許され、「山王祭」は将軍が上覧する「天下祭」とも呼ばれるようになっています。
    明治時代になると神仏習合の神とされていた「山王権現」が神仏分離政策のもと主祭神を「大山咋神」として祀る『日枝神社』として現在に至っています。
    今回は「赤坂」周辺エリアを訪れる機会があり、「外堀通り(都道405号)」と「赤坂通り(都道413号)」が交差する「山王下(日枝神社入口)」交差点のエスカレーターが整備されている参道「山王橋」より、短時間でしたが『日枝神社』に初めて立ち寄り「南神門」を通り参拝しました。
    『日枝神社』の参拝は、「社殿」正面の「神門」に通じる東側の表参道「山王男坂」の石段および「西参道」(境内一部工事中により閉鎖中でした)さらに「山王稲荷神社」に通じる千本鳥居のある「稲荷参道」などを利用した参拝ルートが存在しますが、何れも石段となっており階段などを苦手に感じる方は「山王橋」からエスカレーターを利用しての参拝をお勧めします。
    『日枝神社』境内には、狛犬の代わりに主祭神「大山咋神」の使いとされる猿が置かれており「神猿(まさる)」・「勝る(まさる)」・「魔が去る(まがさる)」から勝運・魔除けとして、「猿(えん)」・「縁(えん)」から商売繁盛や縁結び、さらに猿は群れを大切にして子宝に恵まれ安産であることから家内安全・子授け・安産として人気があるとのことで、参拝したのが平日の午後でしたが参拝者も絶えることなく人気のある神社であることが実感できました。
    参拝後は、表参道「山王男坂」を通り『日枝神社』をあとにしましたが、機会があれば今回利用していない参道を通り参拝したり、「山王祭」の時期にあわせて参拝してみたいと思います。

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ各路線の赤坂駅・溜池山王駅・国会議事堂前駅・赤坂見附駅から徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、参拝者はまばらですが絶えることがありませんでした。
    バリアフリー:
    2.5
    複数ある石段の参道の中で山王橋にのみエスカレーターが設置されています。
    見ごたえ:
    4.0
    主祭神の大山咋神の使いとされる猿が狛犬の代わりに置かれています。

  • 鳥のさえずりが響きわたる山林の中に瞬間移動したかのような雰囲気が漂う癒しの空間です!

    投稿日 2022年11月06日

    名主の滝公園 王子・十条

    総合評価:4.5

    『名主の滝公園』は、北区岸町1丁目に位置する北区が管理する敷地面積が約20,790平方メートルの公園施設であり、JR京浜東北線「王子駅」から「東十条駅」区間の沿線に沿って西側エリアに広がる武蔵野台地の崖線の一画にその高低差のある地形を活かした滝のある樹木に覆われひっそりとした回遊式の庭園となっています。
    『名主の滝公園』の歴史は、江戸時代・末期の徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」の時代から第14代将軍「徳川家茂」の時代となる「安政年間」(1854年から1860年)に当時の王子村の名主であった「畑野孫八」が屋敷内の湧き水を利用した滝を築き栽培したお茶を提供し避暑地として一般に公開したのが始まりとされています。
    その後の明治時代・中期に敷地の所有者となっていた貿易商の「垣内徳三郎」により栃木県塩原の風景を模した渓流を再現するなど庭園としての要素を加えたの整備がおこなわれ一般公開されています。
    また1938年(昭和13年)になると所有者が1872年(明治5年)に創業した老舗西洋料理店「精養軒」に移り、レジャー施設となる食堂施設を兼ね備えた当時の「大日本水上競技連盟(現:日本水泳連盟)」公認の25メートル・屋外プール施設となる「名主水泳場」などが建設されましたが、太平洋戦争・末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失しています。
    さらに1959年(昭和34年)になると所有者が東京都に移り、翌年の1960年(昭和35年)に新たな都立公園として開園し、1975年(昭和50年)になると現在の北区に移管されて区立公園となっています。
    『名主の滝公園』については、自分が子供時代の真夏の季節に水遊び場所として親が連れてきてくれたことがあり当時の詳細などの記憶はほとんどありませんが、今回「王子」エリアを訪れた際にかすかな記憶がよみがえり『名主の滝公園』が気になり立ち寄ってみました。
    『名主の滝公園』へのアクセスは、JR「王子駅」北口改札から寺院の山門のような雰囲気のある「薬医門」まで約600メートル(徒歩7分程度)または管理事務所のある「正門」まで約800メートル(徒歩10分程度)となります。
    公園敷地内は、都内有数の落差が約8メートルとなるメインの「男滝(おだき)」のほか「女滝(めだき)」・「独鈷の滝(どっこのたき)」・「湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)」の4つの滝があり、滝から流れでた水が木製の橋などが架かる樹木の中を流れる渓流となり池に注がれ、その池の水を再びポンプで汲みあげて循環させる回遊式の庭園ですが、現在は「男滝」のみが稼働しています。
    ちなみに「王子」周辺エリアは、武蔵野台地の突端であり豊富な地下水が江戸時代・末期には湧き水となって「王子七滝」と呼ばれる「不動の滝」・「弁天の滝」・「権現の滝」・「稲荷の滝」・「大工の滝」・「見晴らしの滝」・『名主の滝』が存在し寺社参拝とともに滝浴みをする江戸庶民の行楽の場として人気を集めていましたが、『名主の滝』のみが唯一現存する滝となり、そのほかの滝は時代の流れとともに消滅しています。
    今回は、「薬医門」から『名主の滝公園』敷地内に入り池の廻りをぐるりと廻ってから崖線の高低差のある遊歩道ならびに渓流に架かる木製の橋を渡りながら「男滝」に向かいましたが、うっそうとした樹木に覆われた公園敷地内は突然にして都会の雑音が消えて鳥のさえずりが響きわたる山林の中に瞬間移動したかのような雰囲気が漂う癒しの空間となっており、「男滝」周辺も幻想的でフォトスポットとしてお薦めできる公園です。
    また「王子」周辺エリアを訪れる機会があれば、『名主の滝公園』に立ち寄り紅葉など四季折々の景観を写真撮影しながら癒されたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR王子駅・北口改札から薬医門まで徒歩7分程度または正門まで徒歩10分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、男滝周辺で写真撮影する方以外の園内では数名の方とすれ違う程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    遊歩道の幅は、狭く高低差があります。
    見ごたえ:
    4.5
    うっそうとした樹木に覆われた園内は、都会の雑音が消えて鳥のさえずりが響きわたる山林の中にいる雰囲気が漂っています。

  • 過去のラジオ・テレビ放送を振り返りながら近現代史と放送技術の進歩を学べます!

    投稿日 2022年11月05日

    NHK放送博物館 三田・田町・芝浦

    総合評価:3.5

    『NHK放送博物館』は、自然の丘陵として東京23区内で最高峰とされる標高が25.7メートルの「愛宕山」頂上部分となる港区愛宕2丁目に位置し、「日本放送協会(略称:NHK)」が運営する世界初となる放送に関する専門博物館として1956年(昭和31年)に建設された「NHK」の施設である4階建て建物内の一部を展示スペースとしてオープンしています。
    ちなみに『NHK放送博物館』の敷地は、「NHK」の前身のひとつに数えられる「東京放送局(略称:JOAK)」が1925年(大正14年)に国内初となるラジオ本放送を開始してから1939年(昭和14年)までの14年間にわたりラジオ本放送の送信所としての役割を果たした”放送のふるさと”と称される場所であり、太平洋戦争終戦後の一時期において2階建ての「旧・JOAK局舎」が「連合国軍最高司令官総司令部(略称:GHQ)」に接収されていますが、1953年(昭和28年)に国内初のテレビ本放送開始にあわせて1950年(昭和25年)の放送法により発足した「NHK」に変換されています。
    『NHK放送博物館』の展示スペースについては、国内におけるテレビ本放送開始50周年となる2003年(平成15年)を機に事務所スペースとして利用していた建物内部を新たに展示スペースに増設するリニューアル、さらに国内のラジオ本放送開始90周年の記念事業として2016年(平成28年)になると各フロア展示スペースをテーマごとにゾーニングを一新したリニューアルが実施されています。
    そのほか『NHK放送博物館』および「愛宕神社」が鎮座する「愛宕山」頂上へのルートは、「愛宕神社」参道の急勾配の石段が有名ですが、「都道301号・白山祝田田町線」に面して自動車での通行可能な”愛宕神社車道”と記載された鳥居が設置されている「愛宕新坂」があり、さらに「愛宕新坂」の途中には「虎ノ門ヒルズ」2階部分に広がる緑化整備がされている開放的なオープンスペースおよび連絡デッキを利用して「愛宕新坂」に通じる歩行者専用の通路も整備されています。
    また「愛宕山」を東西方向に貫通する「愛宕トンネル」西側に歩行者専用階段が設置されており、さらに「愛宕トンネル」東側にも歩行者専用階段とともにエレベーターもあわせて設置されているので、急坂や階段がきついと感じる方でも自動車またはエレベーターを利用して頂上まで上ることができます。
    『NHK放送博物館』へのアクセスは、東京メトロ・日比谷線「神谷町駅」または「虎ノ門ヒルズ駅」が最寄り駅で徒歩7分程度となりますが、今回は「虎ノ門」を訪れる機会があり周辺エリアを平日の午後に散策して廻りながら初めて『NHK放送博物館』に立ち寄り、短時間でしたが館内を見学して廻りました。
    館内に入ると1階受付脇には、幅広い年齢層から親しまれている好奇心旺盛で何でも知っている”5歳の女の子”と歌が上手でおしゃべりする”江戸川の黒い鳥”が並んでお出迎え(展示)してくれる中、エレベーターを利用して3階にあるヒストリーゾーンから3階・2階の展示スペースを見て廻り、ラジオ放送開始から現在ののテレビ放送までの近現代史を過去に放送されたNHK番組を振り返りながら放送技術の進歩とともに学ぶことができて楽しむことができました。
    館内には展示スペースのほかに中2階部分に200インチの大型スクリーンによる8Kスーパーハイビジョンの魅力を体感できる”愛宕山8Kシアター”もありますが、今回はシアター内に入場することができなかったので、「愛宕山」周辺エリアを訪れる機会があれば、また『NHK放送博物館』を見学してみたいと思います。
    『NHK放送博物館』の見学は、無料で気軽に立ち寄れるので過去のNHK放送番組などに興味のある方にお薦めできるスポットです。

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ日比谷線・神谷町駅または虎ノ門ヒルズ駅から徒歩7分程度です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館無料で気軽に見学できます。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の15時過ぎに入館いましたが、館内では数名の方とすれ違う程度ですた。
    展示内容:
    3.5
    過去に放送されたNHK番組などを振り返りながら
    バリアフリー:
    3.0
    ”愛宕山8Kシアター”のある中2階は、階段を利用します。

  • 日本仏教の神聖な霊域とされる”弘法大師御廟”に通じる石橋です!

    投稿日 2022年10月23日

    御廟橋 高野山周辺

    総合評価:4.0

    『御廟橋』は、真言宗の開祖である平安時代・初期の僧「空海(諡号:弘法大師)」上人が中国王朝「唐」の都「長安(現:陝西省西安市)」の「青龍寺」において学んだ「密教」の教えを基盤に大成した「真言密教」における修禅の根本道場として開創した「高野山」の地で、「真言密教」の悟りを得るための修行の場として「高野山・奥之院」の巌窟に入定し、現在も禅定(永遠の瞑想)し続けていると伝わる日本仏教の神聖な霊域とされる「弘法大師御廟」に通じる石橋として霊域との境界を流れる清流「玉川」に架けられており、『御廟橋』から先の霊域エリアとなる「弘法大師御廟」は撮影禁止となっています。
    「高野山」の開創については、「空海」上人が修禅の根本道場にふさわしい場所として第52代「嵯峨天皇」に上奏し816年(弘仁7年)に賜わった標高1000メートル前後の”外八葉・内八葉”と呼ばれる蓮の花が開いたような形状とされる峰々が連なる山林エリアに広がる標高800メートル程度の山上盆地となる土地であり、平安時代・中期に編纂の「金剛峯寺建立修行縁起」によると804年(延暦23年)に第18次「遣唐使」留学僧の一員であった「空海」上人が約2年間の留学を終えて帰国の途につく折に「唐・明州」の浜から”伽藍建立の地を示し給え”と念じて持っていた三鈷(仏具)を投げたところ現在の「高野山・壇上伽藍」の壇上となっている地に落ちたとされ、帰国後に「空海」上人が修禅の根本道場にふさわしい場所を求めて和歌山県と奈良県の県境となる当時の大和国・宇智郡を訪ねたところ黒と白の二匹の犬を連れていた猟師姿の「狩場明神」と出会いその犬たちに導かれ険しい山中に入り奥に進むと次に古くからその山の主とされる「丹生都比売大神」と出会い「空海」上人に協力する旨が伝えられ、さらに奥に進むと忽然と幽邃な大地が出現し「唐・明州」から投げた三鈷が木に架かっているのを発見したことでこの地に修禅の根本道場を開創することを決意したと伝えられています。
    「高野山」開創から30年以上となる835年(承和2年)に「空海」上人は、「真言密教」の悟りを得るための修行とされる禅定(永遠の瞑想)の地として「高野山・奥之院」の巌窟に入定しています。
    さらに「空海」上人が入定してから86年後の921年(延喜21年)になると「東寺真言宗」の総本山「東寺(教王護国寺)」(京都市南区)の長者である「観賢」上人の上奏により第60代「醍醐天皇」から「空海」上人に「弘法大師」の諡号が贈られ、その報告を「空海」上人に伝えるため「観賢」上人が「高野山・奥之院」の巌窟(廟窟)内に入ると「空海」上人が髪を伸ばして生存しているような禅定姿であったことが伝えられたことで「空海」上人が”生き続け世の中の平和と人々の幸福を願っている”とされる「入定信仰」が生まれています。
    現在においても朝6時と昼10時30分の2回にわたり食事とされる”生身供”が「空海」上人に捧げられており、「奥之院」にある「弘法大師御廟」ならびに「高野山」開創時に「空海」上人が一番最初に着手した修禅の根本道場「壇上伽藍」のある地が「高野山」における2代聖地として和歌山県の代表的な観光スポットとなっています。
    今回は、和歌山市在住の方に自動車で観光案内をしてもらい初めて「高野山」に立ち寄り、時間の都合上「中の橋 駐車場」から有名企業の供養塔などがあるエリアを通り途中から「奥之院」参道に合流するルートで「弘法大師御廟」を参拝しました。
    「中の橋 駐車場」は無料で収容台数も多く道路をわたった向かい側に参道出入口があるので自動車を利用して「弘法大師御廟」を参拝する際にとても便利です。
    有名企業の供養塔などがあるエリアから奥に進み「奥之院」参道に合流すると樹齢数百年の杉木立が連なる中に歴史上の戦国武将や大名などの慰霊碑・供養塔が建立されているエリアに代わり徐々に現代社会から離れて時空を遡っているような不思議な感覚となり、霊域となる「弘法大師御廟」に通じる『御廟橋』をわたる際は身が引き締まる思いで「弘法大師御廟」を参拝しましたが、参拝後は心が洗われたような清々しい気分となりました。
    機会があれば、「奥之院」の正式な参拝ルートから時間を気にせずに参道の慰霊碑・供養塔をゆっくり見て廻りながら参拝をしてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    2.5
    ”一の橋”からの参拝ルートの場合:最寄りバス停は奥の院口または一の橋口です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    平日の午後に立ち寄りましたが、参拝者が絶えることがありませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    ”一の橋”の参道入口から”御廟橋”をわたり”弘法大師御廟”までの距離が約2キロメートルです。
    見ごたえ:
    4.0
    御廟橋までの参道は、樹齢数百年の杉木立に囲まれ歴史上の戦国武将や大名などの慰霊碑・供養塔が複数あります。

  • 著名な芸能人が座長を務める公演を中心に興行しています!

    投稿日 2022年10月22日

    明治座 日本橋

    総合評価:4.0

    『明治座』は、最寄り駅が都営地下鉄・新宿線「浜町駅」(A2出入口から徒歩1分以内)となる中央区日本橋浜町2丁目の「清澄橋通り」沿いに位置し、「歌舞伎座」(中央区銀座4丁目)・「新橋演舞場」(中央区銀座6丁目)・「帝国劇場」(千代田区丸の内三丁目)などとともに東京都内を代表する劇場として、現在では主に演歌歌手およびドラマなどで活躍する俳優など著名な芸能人が座長を務めて芝居とあわせて歌謡ショーなどの二部構成からなる公演を中心に興行しています。
    『明治座』の歴史については、江戸時代末期に現在の『明治座』から北側方向にあたる中央区東日本橋2丁目に位置する両国橋・西詰の火除地となる広場に簡易的な”こも”で囲った仮設の芝居小屋および見世物小屋さらに茶屋などが寄せ集まり「江戸三大広小路」のひとつに数えられる「両国広小路」として賑わいのあるエリアの一画で興行されていた「富田角蔵・福之助・金太郎」の三兄弟による芝居が『明治座』の前身とされています。
    明治維新後の1872年(明治5年)には、それまでの江戸三座(中村座・市村座・守田座:旧森田座)以外での興行が許可されたことで「富田三兄弟」による芝居の金主(出資者)である「鈴木吉兵衛」が劇場建設を出願することにより、1873年(明治6年)に東京十座のひとつに数えられる『喜昇座』を現在の久松警察署の南側に開場したのが『明治座』の始まりとされています。
    その後に焼失などによる改築および建て替えなどを繰り返しながら座主の交代などにより、1879年(明治12年)に座名を『久松座』に改称、さらに1885年(明治18年)に『千歳座』に改称、1893年(明治26年)になると明治期を代表する歌舞伎役者の初代「市川左團次」が座元となり『明治座』に改称されています。
    そのほか1896年(明治29年)に『明治座』に出演した劇聖と称せられる九代目「市川團十郎」の興行が25日間大入り満員となり、”そば札”を「大入り袋」に入れて配ったのが今日の「大入り袋」の始まりと伝えられています。
    また1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により、『明治座』が焼失すると現在の港区麻布十番に焼け残っていた「末広座」を『明治座』と改称して、1926年(大正15年)までの約2年半にわたり興行がおこなわれ、1928年(昭和3年)になると現在地の日本橋浜町に新たな『明治座』が竣工し開場したものの1945年(昭和20年)に太平洋戦争による「東京大空襲」で外壁などを残し焼失しています。
    太平洋戦争終戦後の1950年(昭和25年)に再建されたものの1957年(昭和32年)に漏電が原因とされる火災により再び焼失、その翌年には以前の建物基礎部分などそのまま残し再建されています。
    その後の1990年(平成2年)に建て替えのため閉場し、高さ84.7メートル(地上18階・地下2階)の劇場・店舗・オフィスの用途からなる複合ビル「浜町センタービル」として1993年(平成5年)に竣工しており、建物の1階から6階部分が『明治座』の劇場施設となり、1階客席(建物3階)が最大914席(花道設置の場合834席)・2階客席(建物4階)が390席・3階客席(建物5階)が144席で構成される劇場施設となっています。
    今までにも数回にわたり観劇目的で『明治座』を利用したことがありますが、今回はコロナ禍により久しぶりとなる”明治座創業150周年記念 坂本冬美特別公演 中村雅俊特別出演”の観劇で『明治座』を利用しましたが、休憩時間中に客席で食事ができないなどコロナ禍での制限もあります。
    第一部「いくじなし」(作:平岩弓枝・演出:石井ふく子)の芝居では江戸の長屋を舞台に繰り広げられる人情物語に心を和まされたところで、雰囲気が一変した第二部「坂本冬美オンステージ2022”艶歌の花道”スペシャルゲスト中村雅俊」において第一部の芝居に関する裏話などのクスリと笑える語りを歌の合間にはさみながら素晴らしい音響・照明設備効果を取り入れた中で生バンドによる歌の熱唱に圧倒される『明治座』公演の舞台構成はコロナ禍以前と変わることなく楽しいひと時を過ごすことができました。
    機会があれば、また観劇で利用したいと思います・・・

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.5
    都営地下鉄新宿線・浜町駅A2出入口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    2.5
    明治座公演の開場および終演時間にあわせて混みあいます。
    バリアフリー:
    4.0
    特に気になるところはありません。
    見ごたえ:
    4.5
    芝居とあわせて歌謡ショーなどの二部構成で楽しめます。

  • 本堂正面に広がる力強さを感じさせるインパクトのある枯山水です!

    投稿日 2022年10月10日

    粉河寺庭園 岩出・紀の川

    総合評価:3.5

    『粉河寺庭園』は、和歌山県北部の紀の川市粉河に位置する「天台宗」系の宗派のひとつに数えられる「粉河観音宗」の総本山であり山号を「風猛山」と号する『粉河寺』境内の本堂・前庭部分とその下段に広がる広場部分の高低差およそ3メートルの地形を活かして参道となる石段の両翼に土留めの用途を兼ねて築かれた石組み庭園であり先例のない独創的な「枯山水(かれさんすい)」として1970年(昭和45年)に国の「名勝」に指定されています。
    この『粉河寺庭園』が作庭された年代については定かではありませんが、その手法からみて桃山時代の豪華な作風が如実にあらわれているとされており、一説によると安土桃山時代の武将・大名であり江戸時代になると紀伊和歌山藩主さらに安芸広島藩主を務めた「浅野家」の家老として仕えた「上田重安(宗箇)」が江戸時代初期に「浅野家」が紀伊和歌山藩主を務めていた1600年(慶長5年)から1619年(元和5年)の時代に作庭したものと伝えられています。
    ちなみに「上田重安」については、「織田信長」に仕えていた武将「丹羽長秀」の家臣であり、「丹羽長秀」亡きあとは「羽柴秀吉」の直臣として越前国内で1万石を与えられて大名となり、「豊臣秀吉」亡きあと1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では西軍として参戦し敗戦後に剃髪して「宗箇」を名乗っています。
    また「上田重安」の正室が「豊臣秀吉」の正室「高台院(ねね)」と血縁関係にあり、「豊臣五奉行(浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家)」の中で最大大名であった「浅野家」とも親戚筋であったことから紀伊和歌山藩初代藩主「浅野幸長」および2代藩主「浅野長晟」(のちに安芸広島藩初代藩主に移封)の家老を務めた人物として武士としての遍歴をもつ一方で、「千利休」さらに武家茶道の一派である「織部流」の流祖「古田重然(織部)」より茶道を学び「上田宗箇流」の流祖となり、茶人および造園家として『粉河寺庭園』の作庭のほかに「和歌山城・西の丸庭園」ならびに浅野家・別邸「縮景園」(現・広島市中区)さらに「名古屋城・二の丸庭園」などの作庭に携わっていると伝えられています。
    今回は、和歌山県で開催された「紀の国わかやま文化祭2021」(国民文化祭)の催しに参加する家族に同行して『粉河寺』門前の「丸浅旅館」に宿泊する機会があり、旅館到着後の夕方15時過ぎと翌朝の朝食後となる朝9時ごろの二日にわたり旅館周辺を散策しながら『粉河寺』を参拝しました。
    『粉河寺』は、奈良時代末期となる第49代「光仁天皇」の時代である770年(宝亀元年)に創建されたと伝わる歴史のある寺院であるとともに日本国内で最も歴史がある巡礼とされる「西国三十三所観音霊場」において第三番札所に数えられています。
    『粉河寺』境内に現存する各種建造物も朱塗りの境内最古の総欅造りの楼門となる「大門」が1706年(宝永4年)に建立されているのをはじめ、「本堂」が1720年(享保5年)に建立、「千手堂」が1760年(宝暦10年)に建立、「中門」が1832年(天保3年)に建立されており、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代から第11代将軍「徳川家斉」の時代に建立された建造物となるそれぞれ4棟が1996年(平成8年)になると国の「重要文化財」に指定されるなど境内各所に見どころが多数存在し観光スポットとしてお勧めできる寺院のひとつに数えられます。
    『粉河寺庭園』については、今まで自分自身の中でいだいていた「枯山水」が京都の寺院などでよく見られる建造物の奥まった部分の一画に作庭された石庭を書院などの建物内部から観賞するイメージでしたが、そのイメージとは異なり本堂正面に広がる力強さを感じさせるインパクトのある石組みを目の当たりにして圧倒されました・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から徒歩で15分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    土曜日の15時過ぎと日曜日の9時ごろの立ち寄りでしたが、境内を散策する人はまばらにいました。
    バリアフリー:
    3.0
    境内は、中門・本堂ほか各所に石段などの高低差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    高低差およそ3メートルの土留めの用途を兼ねて築かれた石組み庭園で国の名称に指定されています。

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