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  • 無料のこんにゃくバイキングに驚かされました!

    投稿日 2023年09月12日

    こんにゃくパーク 富岡・甘楽

    総合評価:4.0

    『こんにゃくパーク』は、2011年(平成23年)に群馬県の名産として生産量日本一である”こんにゃく”の製造から販売を手掛ける地元企業「ヨコオデイリーフーズ」が運営する”こんにゃく”のテーマパーク「こんにゃく博物館」としてオープンしたのちの2014年(平成26年)に施設の規模を拡大するとともに現在の施設名称に改めてグランドオープンしています。
    また2023年(令和5年)6月には、「こんにゃく博物館」としてオープンしてからの12年間で累計入場者数:600万人を達成するほか「旬刊旅行新聞」を発行する「旅行新聞社」が毎年主催している”プロが選ぶ観光・食事・土産物施設100選”においても上位に選出されているなど、群馬県甘楽町エリアの観光施設として”群馬の3大パーク”(群馬サファリパーク・こんにゃくパーク・めんたいパーク群馬)のひとつに数えられる群馬県を代表する人気の観光スポットとなっています。
    ちなみに『こんにゃくパーク』を運営する「ヨコオデイリーフーズ」は、製造した”こんにゃく”を引き売りする個人経営の「丸上食品」として1968年(昭和43年)に創業したのちの1989年(平成元年)に個人経営から「ヨコオ食品工業」として会社を設立、さらに2010年(平成22年)になると社名変更をして現在の「ヨコオデイリーフーズ」となり多彩な”こんにゃく”商品の製造および販売をおこなっています。
    『こんにゃくパーク』へのアクセスは、上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)であり、「甘楽町役場」の直ぐそばとなる甘楽町小幡に位置します。
    今回は土曜日に自動車を利用して上信越自動車道・富岡インターチェンジから初めて甘楽町小幡エリアを訪れて13時ごろに「こんにゃくパーク」に立ち寄りましたが、施設敷地内の駐車スペースは満車状態で多くの来場者で賑わっていました。
    『こんにゃくパーク』の駐車スペースは、施設敷地内のほかにも道路向かいに広い駐車スペース(無料)が整備されており複数の誘導員の方が手際よく誘導してくれるのでスムーズに駐車することができました。
    『こんにゃくパーク』の施設については、”こんにゃく”製造工場の見学コーナーから手づくり”こんにゃく”の体験コーナーのほかに多彩な”こんにゃく”料理の無料バイキングコーナーさらに種類豊富な”こんにゃく”商品のショッピングコーナーおよび”こんにゃく”以外にも子供の遊ぶ施設や屋外に足湯施設などが配置されています。
    『こんにゃくパーク』内の入場手続きを済ませたのちは、取り敢えずバイキングコーナーで試食体験をしてみようと思い30分程度行列に並びました。
    多彩なレシピの試食用”こんにゃく”料理は、どの料理も美味しく結果的にこの試食用のバイキングがランチの代わりとなり無料で試食できることに驚かされるとともに多彩な”こんにゃく”料理のレシピを試食することで今までの”こんにゃく”に対するイメージが一新しました。
    また試食用の多彩なレシピの”こんにゃく”料理にはデザート類なども含まれているので、この無料バイキングコーナーは子供から大人まで年齢層に関係なくお薦めできます。
    無料バイキングコーナーを体験したあとはショッピングコーナーを見て廻りましたが、無料バイキングコーナーで試食した商品をはじめ種類豊富な”こんにゃく”商品が販売されているほかに袋詰め放題コーナーなどもありショッピングを楽しんだのち『こんにゃくパーク』をあとにしましたが、機会があればまた立ち寄ってみたい観光スポットです・・・

    旅行時期
    2023年07月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    4.0
    上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    土曜日の13時ごろ立ち寄りましたが、こんにゃくバイキングは30分程度並びました。
    バリアフリー:
    4.0
    工場見学は建物2階で階段を上がりますが、そのほかは1階および屋外で特に気になる段差はありませんでした。
    見ごたえ:
    4.0
    コストパフォーマンスがよく、子供から大人まで家族で楽しめるテーマパークです。

  • 江戸時代に織田信長の直系8代が152年間にわたり統治したエリアにある道の駅です!

    投稿日 2023年09月10日

    道の駅 甘楽 富岡・甘楽

    総合評価:4.0

    『道の駅 甘楽』は、上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)となる県道46号(富岡神流線)沿いの甘楽町小幡エリアに位置する道の駅です。
    この『道の駅 甘楽』は、もともと1985年(昭和60年)に甘楽町直営の地元の特産品および農産物などの直売所となる「甘楽町物産センター」としてオープンした施設であり、2011年(平成23年)になると改めて道の駅として開駅し、さらに3年後の2014年(平成26年)に改装工事などを経てリニューアルオープンをして現在に至っています。
    『道の駅 甘楽』の建物施設はコンパクトな平屋建てとなりますが、メイン施設となる地元の特産品および農産物などのお土産品を取り扱う”販売コーナー”とあわせて地元の食材などを使用して提供する食事処のレストラン”せせらぎ亭”とともに本格的なピザ窯を設置して焼き上げるこだわり地粉ピザおよびソフトドリンク類などを提供する”フードコート”、さらに甘楽町の”観光案内所”が併設されています。
    『道の駅 甘楽』の屋外駐車場施設については、電気自動車(EV)用充電スタンドが完備されているほか車中泊が可能な駐車スペースとなっており、敷地外の南側に位置する「小幡公園」敷地内の駐車場も『道の駅 甘楽』の臨時駐車場として利用できます。
    今回は自動車を利用して上信越自動車道・富岡インターチェンジから初めて甘楽町小幡エリアを訪れて観光スポットのひとつである「こんにゃくパーク」に立ち寄ってから『道の駅 甘楽』に向かい施設内の”販売コーナー”などを見て廻りました。
    ”販売コーナー”には、地元の特産品などのほかに日本国内での販売がこの道の駅のみとされるイタリア共和国の中西部(フィレンツェとシエナの中間)に位置するトスカーナ州の小都市・チェルタルドから直輸入している種類豊富なチェルタルド特産のワインおよびオリーブオイルのコーナーが気になりました。
    ちなみにチェルタルドの街並みは、丘の上に中世の古い建物が連なる旧城郭エリアの旧市街地と丘下の平坦地に広がる新市街地からなる小都市で、その街並みを取り囲むように起伏のある丘陵地帯のワイン用ぶどう畑・オリーブ畑・麦畑の農村エリアで構成されています。
    チェルタルドと甘楽町の関係については、1983年(昭和58年)に甘楽町で開催された群馬県が主催するイベントのイタリア共和国ゲストが甘楽町の城下町の面影が残る街並みに感動し、甘楽町と同じように古い中世の街並みを残すチェルタルドとの姉妹都市の提携を提案したことで友好親善姉妹都市協定が締結され、チェルタルドから特産のワインおよびオリーブオイルの直輸入がはじまっています。
    また”フードコート”で提供される地粉ピザは、2014年(平成26年)の『道の駅 甘楽』ニューアルオープンにあわせてチェルタルドで製作されたタイルを使用したピザ窯が設置されたほかチェルタルドにあるピザ店でピザ作りの修業をしたこだわりピザとして提供を開始した逸品となっているので、機会があればこだわりの地粉ピザも食べてみたいと思います。
    そのほか甘楽町小幡エリアは、”大坂夏の陣”で豊臣家が滅亡し元号が改められた1615年(元和元年)に戦国武将「織田信長」の次男「織田信雄」に与えられた領地であり、さらに「織田信雄」の四男「織田信良」が上野国・小幡藩主を務めてから「織田信邦」が小幡藩主を退いた1767年(明和4年)までの152年間にわたり織田家8代がこの地を統治してた城下町であったことから城下町の面影が残る街並みとなっています。
    その史跡・遺構のひとつとされる江戸時代中期に建てられたとされる当時名主を務めていた「松井家住宅」が、『道の駅 甘楽』敷地内に移築・復元されており、現在では『道の駅 甘楽』を起点・終点として「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」約7.7キロメートルの道のりが2015年(平成27年)に”文化のみち”をテーマにした「ウォーキング 新日本歩く道紀行1000の道」に認定されています。
    機会があれば、また『道の駅 甘楽』に立ち寄り「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」など散策して廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年07月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    4.0
    上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)です。
    お買い得度:
    4.0
    姉妹都市のチェルタルド(イタリア)で修業し本格的なピザ窯で焼くこだわりの地粉ピザが気になりました。
    サービス:
    4.0
    車中泊が可能な駐車スペースとあわせて電気自動車(EV)用充電スタンドが完備されています。
    品揃え:
    4.0
    姉妹都市のチェルタルド(イタリア)から直輸入の特産ワインなどが充実し気になりました。
    バリアフリー:
    5.0
    特に気になる段差などはありませんでした。

  • 建設にあたり渋沢栄一も支援していた橋梁です!

    投稿日 2023年08月06日

    音無橋 王子・十条

    総合評価:4.0

    『音無橋』は、明治期から昭和初期にかけて日本の近代化を支える重要な施設となる製紙工場(現:王子ホールディング)および印刷工場(現:国立印刷局)などが設置された王子エリアからさらに赤羽エリアに設置された火薬庫などをはじめとする旧日本陸軍の軍需施設など工業および軍事の拠点として交通網の整備が重視されていた中で、王子エリアを蛇行しながら流れていた「石神井川・旧流路」により武蔵野台地の突端(崖線)高台に位置する北西側の王子村(現:北区王子本町1丁目)および南東側の滝野川村(現:北区滝野川2丁目)において南西方向から北東方向に向かって渓谷のように分断されいた部分を1930年(昭和5年)に自動車で横断できるように現在の「本郷赤羽線・旧岩月街道(都道455号)」から「明治通り(国道122号)」に合流する「音無橋交差点」部分に架けられた橋長:約50メートル・幅員:約18メートルの橋梁(3径間連続鉄筋コンクリート固定アーチ橋)です。
    また「石神井川」については、王子エリアにおいて江戸時代に「音無川」と呼ばれており、江戸時代後期の1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・5巻(15冊)」の中でも「音無川」として景観図が紹介されているほか、「名所江戸百景」でも「王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」として錦絵が描かれているなど風光明媚な江戸庶民の行楽地として人気を集めていたことが伺えます。
    ちなみに王子エリアの「石神井川」が江戸時代に「音無川」と呼ばれていた由来は、この地に鎮座する江戸府内の北方守護を担う徳川将軍家の祈願所であった「王子権現社(現:王子神社)」が「熊野信仰」のもと紀伊国(現:和歌山県)の紀伊半島南部に鎮座する「熊野三山」(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に祀られる祭神「熊野権現」を鎌倉時代末期となる1322年(元亨2年)に勧請したこととあわせて「熊野本宮大社(旧社地)」(現:田辺市本宮町)付近で「熊野川」に注ぐ「音無川」を模したものとされています。
    一説によるとこの王子エリアが紀伊国とゆかりのある地であることから紀州徳川家から第8代将軍となった「徳川吉宗」が故郷である紀州「音無川」の渓谷にちなんで命名したと伝えられており、現在でも通称として「音無川」と呼ばれて『音無橋』の名称としても用いられています。
    その後に『音無橋』の下部を流れていた「石神井川」は、1958年(昭和33年)に神奈川県に上陸して伊豆・関東地方に甚大な被害をもたらした「狩野川台風」において大きな被害がが発生するなどしており、水害などを解消するため蛇行していた流路を直線となるように西方向から東方向に「飛鳥山」の下部を2本のトンネルで流す延長:約380メートルの分水路が1968年(昭和43年)および1983年(昭和58年)の2期工事に分けて整備されています。
    さらに『音無橋』については、老朽化にともない1988年(昭和63年)に大改修工事(鋼繊維コンクリー卜・補強鉄筋による床版増し厚など)が実施されており、あわせて『音無橋』の下部からJR王子駅方面に向かう「石神井川・旧流路」エリアについても『音無橋』の大改修工事と同時期に樹木に覆われた渓谷風の期間限定で水遊びができる「音無親水公園」として整備されることで「音無親水公園」との調和を図りながら、橋梁の歩行者スペース(橋梁中間部分)に新たな展望用バルコニーが新設されるなどさまざまな角度から見られる橋梁となることなどを意識した大改修工事となっています。
    今回は王子エリアを訪れる際の平日の午後にJR王子駅周辺を散策して廻りながら橋上から「音無親水公園」などを写真撮影するために『音無橋』に立ち寄りました。
    『音無橋』の建設には、”近代日本経済の父”または”日本資本主義の父”などと称される大実業家「渋沢栄一」も支援していたとされることからも日本の近代化を進める上で重要性の高い橋梁であったことが伺えるほか、現在も自動車の交通量が多く生活を支えている橋梁であることが実感できます。
    意匠的にも魅力を感じる橋梁であり機会があれば時間をかけて細部までじっくりと見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    JR王子駅・北口改札の西側駅前から音無親水公園の遊歩道を通って直ぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    駅からも近いので自動車の交通量も多く、歩行者はそれ歩でではないですが途絶えることはありませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    特に気になる段差はありませんが、橋下の音無親水公園に降りる階段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    老朽化に伴いさまざまな角度から見られることなどを意識した大改修工事が実施されており、意匠的にも魅力を感じる橋梁です。

  • 熱海湾の”ビーチエリア”および”マリーナエリア”を区分けする人工岬のテラスです!

    投稿日 2023年07月09日

    渚親水公園 ムーンテラス 熱海

    総合評価:3.5

    『渚親水公園 ムーンテラス』は、熱海観光の代表的な熱海港の海岸施設として1990年(平成2年)に整備されたヤシ並木が続く延長400メートル・幅60メートルの人工海浜ビーチ「熱海サンビーチ」および1998年(平成10年)に発足したビーチ施設の南西側エリアに整備されたマリーナ(ヨットハーバー)施設「スパ・マリーナ熱海」のそれぞれ海上エリアを区分けするように海上に突き出した人工岬のテラスであり、テラスの先端部分に縁結びのモニュメントおよびテラスの各所にベンチ・花壇などが設置されています。
    この『渚親水公園 ムーンテラス』を含む南西側の海岸エリアは、熱海市の姉妹都市である北イタリアの美しいリゾート地「サンレモ市」のほか地中海などのリゾート各地をイメージした景観美と親水性に富んだ海岸施設整備事業としてデザインコンセプトを”地中海風が香る賑わいのあるウォーターフロント”とする「熱海港コースタルリゾート構想」により1991年(平成3年)から傾斜式テラス型の堤防機能を備えた遊歩道および緑地広場などからなる「熱海親水公園」の整備が段階的に進められており、第1工区として南欧のコートダジュールをイメージしたレンガを基調とする「スカイデッキ」(延長170メートル・幅50メートル)が『渚親水公園 ムーンテラス』を含めて1997年(平成9年)に完成しています。
    また2004年(平成16年)から世界的な照明デザイナー(石井幹子氏)によるムーンライトをイメージした幻想的な夜間ライトアップが「熱海サンビーチ」から『渚親水公園 ムーンテラス』で実施されるようになると夜のデートスポットとして人気のエリアとなり、2006年(平成18年)にNPO法人「地域活性化支援センター」が企画したプロジェクトである観光地域のプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットとして『渚親水公園 ムーンテラス』が「恋人の聖地」に認定されています。
    そのほか『渚親水公園 ムーンテラス』の南西側に位置するマリーナ(ヨットハーバー)施設「スパ・マリーナ熱海」が、国土交通省より一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)「あたみ海の駅」として登録されています。
    以前に熱海エリアを訪れた際にこの熱海港の海岸ラインに整備され南イタリアのナポリ港をイメージした花や樹木が植樹されている「渚デッキ」にあるオープンカフェ「サンレモカフェ」および「熱海遊覧船サンレモ」を利用したり、北イタリアのサンレモ市・リヴィエラ海岸をイメージした石を基調としている「レインボーデッキ」にある「熱海市観光協会(ワカガエルステーション)」などを利用しながら、『渚親水公園 ムーンテラス』および「熱海サンビーチ」を散策して廻りましたが、このエリアは早朝から夜間ライトアップまで年間を通してリゾート気分が味わえるお薦めの散策エリアです。
    今回は、毎年6月に熱海市の「ジャカランダ遊歩道」を中心に開催されている”ATAMI ジャカランダ フェスティバル”にあわせて三世代家族4人で「世界三大花木」と称されるジャガランダの花見目的で熱海エリアを訪れ、「熱海サンビーチ」と「国道135号」に挟まれた「お宮の松」および「貫一 お宮の像」などがあるお宮緑地に整備された「ジャカランダ遊歩道」とあわせて「熱海サンビーチ」および『渚親水公園 ムーンテラス』を散策して廻りました。
    天候も良くビーチで海水浴をする方もいるなど人出も多かったですが楽しむことができました・・・

    旅行時期
    2023年06月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    熱海湾の”ビーチエリア”および”マリーナエリア”の境界に位置します。
    人混みの少なさ:
    3.5
    6月初旬でしたが、天候も良くビーチで海水浴をするか方がいるなど人出も多かったです。
    バリアフリー:
    3.5
    一部段差があります。
    見ごたえ:
    3.5
    早朝から夜間ライトアップまで年間を通してリゾート気分が味わえます。

  • プロの熱海芸妓衆による舞台を堪能できます!

    投稿日 2023年07月08日

    湯めまちをどり「華の舞」 熱海

    総合評価:4.0

    『湯めまちをどり 華の舞』は、熱海港に注ぐ初川沿いの熱海市中央町に位置する「熱海芸妓見番歌舞練場」(通称:熱海芸妓見番、略称:熱海見番)において1998年(平成10年)から毎週土曜日および日曜日(臨時休演あり)の11時に開演の公演時間が30分から40分程度の「熱海芸妓置屋連合組合」に所属するプロの熱海芸妓衆による地方の三味線などの伴奏および唄にあわせて息の合った立方の艶やかな踊りで構成される舞台です。
    通称「熱海芸妓見番」の建物は、1954年(昭和29年)に全国屈指の花街と称されている熱海芸妓衆の稽古場として「熱海芸妓置屋連合組合」により建設された地上2階・地下1階建ての木造建築であり、玄関を入ると正面に花道を備えた歌舞練場となる緞帳付き舞台が設置されている2階まで吹き抜けの天井高のある畳敷き大広間があり『湯めまちをどり 華の舞』舞台公演の会場となっています。
    この大広間は舞台を取り囲むように2階部分に桟敷席が設置され、目を見張る折り上げ格天井造りとあわせて熱海芸妓衆の名前と置屋の屋号が入った丸提灯が賑やかに飾られた昔ながらの芝居小屋を彷彿させる空間として見どころのひとつになっています。
    ちなみに”芸妓”とは関東地方における芸者さんの呼び名とされており、熱海においては昭和30年代(1955年から1964年)の最盛期には200軒以上の置屋に1000名以上の芸妓衆が活躍していたそうですが、現在では置屋も50軒程度に減少しており芸妓衆も70名程度の人数で活動しているそうです。
    粋とされる芸妓衆を交えた”お座敷遊び”の体験はありませんが、『湯めまちをどり 華の舞』と同様に「熱海芸妓見番」において1990年(平成2年)から毎年4月末のゴールデンウィーク期間に開催されている「熱海をどり」を目的に5年前に熱海エリアを訪れて「熱海芸妓見番」に立ち寄りプロの熱海芸妓衆による艶やかな舞台を堪能したことがあります。
    今回は、毎年6月に熱海市の「ジャカランダ遊歩道」を中心に開催されている”ATAMI ジャカランダ フェスティバル”にあわせて三世代家族4人で「世界三大花木」と称されるジャガランダの花見目的で熱海エリアを訪れました。
    『湯めまちをどり 華の舞』の公演を事前予約していませんでしたが5年前の「熱海をどり」のことを思い出し、「熱海サンビーチ」と「国道135号」に挟まれた「お宮の松」および「貫一 お宮の像」などがあるお宮緑地に整備された「ジャカランダ遊歩道」から徒歩で「熱海芸妓見番」に移動してプロの熱海芸妓衆による艶やかな舞台を堪能しました。
    そのほかに三味線などの生伴奏と粋な唄声にあわせた踊りの演目の合間に「熱海芸妓置屋連合組合」の公式キャラクター(芸妓の妖精)”まめっこ”ちゃんが飛び入りで登場する場面もあり楽しい舞台でもありました。(舞台公演後には出演された芸妓衆の皆さんや飛び入り参加の”まめっこ”ちゃんとの写真撮影の時間もありました。)
    『湯めまちをどり 華の舞』の公演は、1日1公演の舞台で入場人数制限があり制限人数に達すると入場できないことも想定されるので、舞台観賞を計画される方は事前予約することをお薦めします。(入場制限などについては熱海芸妓置屋連合組合のホームページを確認して下さい。)
    熱海エリアを訪れる機会があれば、また『湯めまちをどり 華の舞』および「熱海をどり」など「熱海芸妓見番」に立ち寄りプロの熱海芸妓衆の舞台を堪能したいと思うほかに2022年(令和4年)12月から試験的に数回にわたり開催された「熱海芸妓見番」における”お座敷遊び”の体験プランなどがまた企画されるようなことがあれば是非ともそちらのプランにも参加してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年06月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    熱海駅から公演会場の熱海芸妓見番まで約1.4キロメートルです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    会場内を見た感じですが畳敷きの大広間にゆったりと準備されている置きイス席の8割程度の入りでした。
    催し物の規模:
    4.0
    毎週土曜日および日曜日の11時に開演の公演時間が30分から40分程度の舞台です。
    雰囲気:
    4.5
    2階まで吹き抜けの天井高のある畳敷き大広間の空間は昔ながらの芝居小屋を彷彿させプロの熱海芸妓衆による艶やかな舞台を堪能できます。
    バリアフリー:
    3.0
    公演会場の熱海芸妓見番の玄関廻りに段差があります。畳敷きの大広間にゆったりと置きイス席が準備されています。

  • 熱海観光の拠点となる一等地に位置し、ゆったりとくつろげるホテルです!

    投稿日 2023年06月11日

    熱海パールスターホテル 熱海

    総合評価:4.5

    『熱海パールスターホテル』は、「国道135号」沿いの熱海観光の代表的な明治期の文豪「尾崎紅葉」の小説「金色夜叉」の主人公をモデルにした「貫一お宮の像」および「お宮の松」さらに人工海浜ビーチの「熱海サンビーチ」向かいとなる”熱海観光の一等地”とされる位置に10階建ての総客室数が87室からなるラグジュアリーリゾートホテル(全客室:自家源泉の浴槽付き)として2022年(令和4年)にグランドオープンしています。
    『熱海パールスターホテル』がオープンする以前は、政財界の要人も利用した熱海を代表する1934年(昭和9年)に創業の「つるや旅館(つるやホテル)」が存在した場所ですがバブル崩壊後の2001年(平成13年)に閉館、その後の2007年(平成19年)から大型商業施設「aune ATAMI」の建設予定地となり建設がスタートするも開発企業が2009年(平成21年)に会社更生法の適用を申請しオープン目前で建設工事が中断、2018年(平成30年)に中国系投資会社の出資により建設中断で放置状態の建物を商業施設から宿泊施設に用途変更する改築工事により現在の『熱海パールスターホテル』が完成しています。
    今回は「国道135号」沿いに熱海市の街路樹として植樹されている「世界三大花木」であるノウゼンカズラ科の落葉高木「ジャガランダ(原産地:南アメリカ・和名:紫雲木)」が熱海市で開花する6月に毎年開催されている”ATAMI ジャカランダ フェスティバル”にあわせて旅行を計画、イベント期間中に「ジャガランダ」のライトアップが実施される「ジャカランダ遊歩道」に近い『熱海パールスターホテル』を宿泊場所に選びました。
    ちなみに「ジャカランダ遊歩道」は、2014年(平成26年)に「貫一お宮の像」および「お宮の松」が配置されている「国道135号」沿いの「お宮緑地」に「ジャガランダ」を植樹し整備された遊歩道で、1990年(平成2年)に国際姉妹都市であった「カスカイス市」(ポルトガル)から国際姉妹都市提携記念として「ジャガランダ」が2本贈られたことがきっかけとなり、現在では熱海市で植樹されてきた「ジャカランダ」は百本以上となります。
    宿泊した客室は、「ジャカランダ遊歩道」がテラスからすぐ見える3階のスタンダードルーム「スーペリアオーシャンビュー 室礼」を大人4人による朝食付きプランでの利用、当日は交通機関の乱れもあり17時ごろに「熱海駅」に到着して駅周辺で夕食を済ませ駅前からタクシー利用でホテルにチェックインしましたがタクシー代はホテル側で負担してくれました。
    ホテル内部は、フロント・各階エレベーターホール・屋内廊下をはじめ客室内も天井が高くゆったりとした落ち着きのある空間で客室テラスの奥行きも広く景色を眺めながらくつろげました。
    客室内の備品は、コーヒーマシンも設置されておりミニ冷蔵庫・フリードリンク(地ビール・ワイン・ジュース・お茶)のほかにアメニティ類も充実しています。
    また今回の宿泊で利用していませんがホテル2階には自由に利用できるラウンジ施設があり、17時30分から20時までのカクテルアワーにおいては各種アルコール類および軽食をフリーで提供されているので、また宿泊する機会があれば利用してみたいと思います。
    浴場施設は、地下220メートルから汲み上げられた弱アルカリ性のカルシウム・ナトリウム塩化物泉の自家源泉温泉が各客室内の浴槽および最上階・大浴場のインフィニティ露天風呂「ゆのふね」(全長12メートル)に引き込まれており、夜と朝の2回にわたり大浴場を利用しましたが貸し切り状態で温泉とともに熱海湾の海岸線から正面に初島を望める眺望を楽しむことができました。
    また大浴場・内風呂は、床部分にソフトで滑りにくい畳マットが施され「高濃度炭酸泉」および「水素風呂」の2種類の浴槽とともにドライサウナおよびスチームサウナの設備も設置されています。
    食事は、朝食のみでしたが6階のレストラン施設でライブキッチンによる卵料理付きのブッフェスタイルによる食事を美味しくいただきました。
    ドリンクコーナーの丸ごとのオレンジの実を自分で卓上型”生搾りオレンジジュースマシン”に入れてジュースにするスタイルを初めて体験した以外に特別に目を見張るものはありませんでしたが、広々とした空間でゆったりとくつろいで食事をすることができました。
    全体的には、館内全体がゆったりとした空間でくつろげることとあわせてテラスなどからの眺望もよく、チェックアウトが正午までなので海岸沿いなどの散策にも便利な”熱海観光の一等地”に位置するのでリゾート気分を満喫したい方にお勧めできるホテルです。
    そのほか熱海港で開催される「熱海海上花火大会」のロケーションも抜群のようなので、機会があれば「熱海海上花火大会」にあわせて宿泊してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年06月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    1人1泊予算
    30,000円未満
    アクセス:
    3.5
    最寄りバス停は”お宮の松”(国道135号沿い)です。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    スタンダードルーム1室4人の朝食のみで1人当り25,000円(税込)以上でした。
    客室:
    5.0
    自家源泉の浴槽が全客室にあり天井も高くゆったりとした空間で、テラスの奥行きも広く熱海湾を望むロケーションも良かったです。
    接客対応:
    4.0
    とても親切で丁寧に対応してくれました。
    風呂:
    5.0
    最上階の10階に自家源泉のインフィニティ露天風呂および内風呂に高濃度炭酸泉・水素風呂さらにドライサウナ・スチームサウナが設置されています。
    食事・ドリンク:
    4.5
    朝食のみの利用ですが、広々とした空間でゆったりとくつろぎながらライブキッチンによる卵料理付のブッフェスタイルの食事を楽しめました。
    バリアフリー:
    4.0
    客室内の浴室出入口に段差があるのと6階エレベーターホールから食事施設部分に段差があるのが少し気になりました。

  • ”至誠(まごころ)は神に通じる”を信念として生涯を貫いた明治期から大正期の海軍軍人を祀る神社です!

    投稿日 2023年05月31日

    東郷神社 原宿

    総合評価:4.0

    『東郷神社』は、JR山手線「原宿駅」竹下口改札から正面(東側)に向って通る「竹下通り」の北側に位置する「明治通り(都道305号)」沿いの渋谷区神宮前1丁目に鎮座し、明治期から大正期の海軍軍人であった「東郷平八郎」元帥を祭神として祀る神社です。
    『東郷神社』の創建については、”至誠(まごころ)は神に通じる”を信念として生涯を貫いた誠実な人柄であったとされる「東郷平八郎」元帥が1934年(昭和9年)に86歳で逝去すると当時の海軍省に全国から故人の功績・功労・信念を後世に顕彰するため神社に祀ってほしいとする要望が寄せられるとともに多額の寄付金が集まり、1940年(昭和15年)5月27日に当時の海軍記念日にあわせて創建鎮座祭が執り行われています。
    創建当時の社殿は拝殿部分の両脇に翼殿を配置した檜皮葺きの木造建築でしたが、「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に首都東京を襲った「東京大空襲」により社殿は焼失しており、現在の社殿は1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリート造により再建されています。
    ちなみに祭神として祀られている「東郷平八郎」元帥については、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1847年(弘化4年)に薩摩藩士の家に生まれ、その14年後の1862年(文久2年)に発生した「生麦事件」がきっかけとなり翌年の1863年(文久3年)に鹿児島湾で勃発した「薩英戦争」において初陣を迎えています。
    さらに明治維新後の1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)に国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」においては「新政府軍」の軍艦「春日」(旧薩摩藩・春日丸)に乗船し、「阿波沖海戦」をはじめ「戊辰戦争」における最後の戦闘とされる「箱館戦争」において「宮古湾海戦」および「箱館湾海戦」に参戦しています。
    「戊辰戦争」が終結したのちには、海軍士官として1871年(明治4年)から7年間にわたるイギリス留学において海軍予備校(バーニーズ・アカデミー)および商船学校(テムズ航海訓練学校)に在籍し、遠洋航海の実践を含め船舶に関する基礎知識とともに海軍技術および国際法などを学び1878年(明治11年)に帰国すると海軍中尉となっています。
    1894年(明治27年)の「日清戦争」においては、日本海軍の最初の防護巡洋艦(鋼鉄製艦)である「浪速」艦長(大佐)として「豊島沖海戦」、「黄海海戦」、「威海衛海戦」に参戦し、「豊島沖海戦」中には清国・陸軍兵を輸送するイギリス商船「高陞号」が「東郷平八郎」大佐の指示により撃沈される「高陞号事件」が発生していますが、国際法に基づいた的確な対応での撃沈でありイギリス人船員を救助するなど冷静沈着な判断力は高く評価されています。
    その後の1903年(明治36年)に「日露戦争」開戦に備えて編成された連合艦隊の令長官に就任し、翌年の1904年(明治37年)に「日露戦争」に突入すると「連合艦隊司令長官」として「三笠」に座乗して海軍による作戦全般の指揮をとり「旅順口攻撃」および「黄海海戦」に参戦し大将に昇格しています。
    さらに1905年(明治38年)に世界屈指の艦隊であった大国ロシア海軍第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)を日本海の対馬東方沖海域で迎え撃つ「日本海海戦」においてバルチック艦隊を撃破したことで日本を勝利に導き「日露戦争」が終結、連合艦隊解散式で「東郷平八郎」大将が「連合艦隊解散の辞」として海軍および海軍軍人の心得を示した訓示を当時のアメリカ合衆国・ルーズベルト大統領が感銘を受けて英訳した文を自軍の将兵に配布など「東郷平八郎」大将の名前が一躍世界に知れわたり「世界三大提督」のひとりとして称えられ、1913年(大正2年)になると軍人として最上級の階級となる「元帥」の称号を授与しています。
    また1914年(大正3年)から1921年(大正10年)まで東宮御学問所総裁を務め当時の皇太子(昭和天皇)の教育に尽力し、1926年(大正15年)に日本人として初めて世界初のニュース雑誌誌”TIME”の表紙に選ばれています。
    「日本海海戦」および「東郷平八郎」元帥の名前は子供の頃から何となく知っており、学生時代にトルコ共和国の小学校の教科書で「日本海海戦」が紹介されたことがあり子供の名前を”トーゴー”とする親もいる話しを聞いたこともあり、「東郷平八郎」元帥は以前より気になる存在でした。
    今回は、原宿エリアを訪れる機会があったので初めて『東郷神社』に立ち寄り参拝し、「東郷平八郎」元帥について改めて学び楽しむことができました。
    機会があれば、『東郷神社』の他にも「東郷平八郎」元帥ゆかりの地を訪ねてみたいと思います。

    旅行時期
    2022年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    JR原宿駅・竹下口改札から直ぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが参拝者は自分だけでした。
    バリアフリー:
    3.0
    参拝するには石段があります。
    見ごたえ:
    4.5
    竹下通りの北側に位置しますが、ひっそりと落ち着いた雰囲気です。

  • 落ち着いた大人の雰囲気が漂う魅力的なジャズクラブです!

    投稿日 2023年05月20日

    ブルーノート東京 青山

    総合評価:4.0

    『ブルーノート東京』は、ジャズの本場・アメリカ合衆国を代表する大都市ニューヨーク市内にある名門ジャズクラブ”Blue Note”の姉妹店として1988年(昭和63年)に東京メトロ・銀座線・半蔵門線・千代田線が通る「表参道駅」を最寄り駅とする港区南青山5丁目の「骨董通り」沿いにオープンしています。
    その後の開業10周年を迎えた1998年(平成10年)になると開業当時の「骨董通り」沿いにあった店舗よりもフロア面積が広い「根津美術館」にほど近い港区南青山6丁目の現在地に移転し新たにリニューアル・オープンています。
    ニューヨーク市内の本店である”Blue Note”については、芸術や文化の中心地として発展してきたニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジ地区において、このエリアを代表する「ワシントン スクエア パーク」から西側方向に直ぐの場所となる「ウエスト 3rd ストリート」沿いに面してグランドピアノをイメージしたアプローチ庇屋根が特徴的な外観の建物内にシックな雰囲気のインテリアなどを店名でもあるブルーを基調にした空間のステージ上でトップ・アーティストが奏でるライヴステージを至近距離にセッティングされた座席シートで飲食をしながら楽しめるクラブとして1981年(昭和56年)にオープンしています。
    『ブルーノート東京』においてもこの本店の”Blue Note”をモチーフにジャズを中心に国内外のさまざまなジャンルのトップ・アーティストが繰り広げるライヴステージを取り囲むように至近距離からさまざまな座席シート(アリーナシート・ペアシート・ボックスシートなど)を配置して、軽食からディナーコースまでの多様な食事とあわせて各種アルコール類からソフトドリンクまでの種類豊富なドリンクとともに楽しめるスペースに仕上がっています。
    また店名の”Blue Note”については、西洋人が奏でる”ドレミファソラシド”の音階とは異なるアフリカ民族独特のどことなく物悲しい雰囲気を帯びた音階からアフリカ系アメリカ人により誕生した音楽ジャンルのひとつに数えられるブルースの語源となる「憂うつ」を意味する”Blue”が定着し、同じくアフリカ系アメリカ人をルーツとするジャズなどの音楽ジャンルの音階が”Blue(憂うつ) Note(音符) Scale(音階)”と呼ばれるようになっていることに由来します。
    今回は、以前より気になっていた日本の音楽バンドであり海外公演なども実施することで海外でも話題となっている「民謡クルセイダーズ」が奏でる音楽を生で聴いてみたいと思っていたところ『ブルーノート東京』でライヴが実施されることを知り、「民謡クルセイダーズ」のライヴを目的にペアシートL(アーティストが入退場する花道となる通路前)を予約して初めて『ブルーノート東京』を訪ねてみました。
    ちなみに「民謡クルセイダーズ」は2012年(平成24年)に結成された異色の音楽バンドであり、日本の民俗音楽である民謡をラテンのリズムをはじめアフリカなど世界各地のリズムを融合したオリジナルの音楽スタイルを基に国内外で演奏活動をしています。
    「民謡クルセイダーズ」のライヴ当日に『ブルーノート東京』のこぢんまりとした1階正面玄関からエントランスホールに入ると直ぐに地下に降りる階段が配置され、その壁面上部には往年のジャズ・アーティストの顔写真パネルが飾られおり、この空間にいるだけで一気にテンションが上がり今回のライヴステージに対する期待感が高まりました。
    『ブルーノート東京』の内部は、地下1階にフロントおよびクロークなどのチェックインスペースさらに地下2階にメインのクラブスペースで構成され、フロア移動は階段となるほかクラブスペースに段差もあり各種座席シートのスペースも狭いのでバリアフリーのみの観点でチェックすると気になる部分ですが、全体的には落ち着いた大人の雰囲気が漂う魅力的な空間となっています。
    当日は、夕食を済ませてからチェックインしたのでシートでの注文はドリンクのみでしたが出演アーティストにちなんだスペシャル・カクテルも用意されているなどドリンクの種類も豊富で、ドリンクとともに満席状態のクラブスペースで繰り広げられるライヴステージは盛り上がりステージとの一体感を味わいながら楽しいひと時を過ごすことができました。
    機会があれば、次回は食事とあわせてライヴステージを楽しんでみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年01月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ・表参道駅のA5出口から徒歩8分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    座席数が約280席とされるクラブスペースで満席状態でした。
    催し物の規模:
    4.5
    今回のライヴは1日(2公演)のみの開催でした。
    雰囲気:
    5.0
    ニューヨーク市内の名門ジャズクラブの姉妹店で、落ち着いた大人の雰囲気が漂う魅力的なクラブです。
    バリアフリー:
    2.0
    地下2階のクラブスペースまでのフロア移動が階段でフロアに段差もあり、各種座席シートのスペースも狭いです。

  • 神宮の杜と調和した”杜のスタジアム”をコンセプトに建設されたスタジアムです!

    投稿日 2023年05月14日

    国立競技場 信濃町・千駄ヶ谷

    総合評価:4.0

    『国立競技場』は、「第32回 オリンピック競技大会(通称:東京2020)」および「第16回 パラリンピック競技大会」のメインスタジアムとして2019年(令和元年)に竣工した「明治神宮外苑」の一画となる新宿区霞ヶ丘町に位置する3層スタンド構造で構成された収容人員:67,750席(うち車いす席:約500席)の陸上競技場兼球技場であり、「文部科学省」が所管する独立行政法人「日本スポーツ振興センター」により管理・運営が行われています。
    ちなみに『国立競技場』のある「明治神宮外苑」は、「青山練兵場」跡地であるとともに「明治天皇」の”大喪の礼”が執り行われた場所であり「明治天皇」および「昭憲皇太后」の事績を永く後世に伝えることを目的として民間有志で結成された「明治神宮奉賛会」が国民から寄付金などを募り、「聖徳記念絵画館」を中心とする西洋風緑地公園とあわせて1924年(大正13年)に『国立競技場』の前身となる当時の東洋一で国内初の本格的陸上競技場『明治神宮外苑競技場』(収容人員:35,000人)が竣工しており、国内におけるスポーツイベントの聖地として1930年(昭和5年)には当時のアジア最大スポーツイベント「第9回 極東選手権大会」のメインスタジアムとなっています。
    その後の1958年(昭和33年)に開催された「第3回 アジア競技大会」においては、メインスタジアムとして『明治神宮外苑競技場』の建て替えが実施され「国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(通称:旧・国立競技場)」(収容人員:48,000人)が竣工しています。
    さらに1964年(昭和39年)に開催された「第18回 オリンピック競技大会(通称:東京オリンピック)」および「第13回 国際ストーク・マンデビル競技大会(のちのパラリンピック)」においてもメインスタジアムとして『旧・国立競技場』のバックスタンド増設などの改修工事に伴い収容人員:71,328人となるスタジアムに生まれ変わり、「東京オリンピック」のあとも各種スポーツイベントなどが開催されています。
    この『旧・国立競技場』には、昭和50年代後半を中心にスポーツ観戦で数回にわたり訪れた経験がありますが、社会人になってからはスタジアムで直接スポーツ観戦をする機会もなくなっていました。
    そのような中で2011年(平成23年)に東京都がオリンピック開催都市に立候補し、翌年の2012年(平成24年)には『国立競技場』を再び建て替えて新たなメインスタジアムとする構想が浮上し、国際デザイン・コンクール「新国立競技場基本構想国際デザイン競技」が開催されることを知りどのようなデザインのスタジアムになるのか気になっていました。
    国際デザイン・コンクールでは、国内外から全46作品(国内12作品・海外34作品)の応募があり、1次審査で絞り込まれた11作品の中から、さらに2次審査を経て最優秀賞・優秀賞・入選の3作品が決定しています。
    最優秀賞のイラク出身「ザハ・ハディッド」氏が代表を務めるイギリスの「Zaha Hadid Architects」が提案したデザイン案を基にオリンピック東京招致活動のプレゼンテーションなどが実施され、最終的に2013年(平成24年)の「国際オリンピック委員会(通称:IOC)総会」において「東京2020」が正式決定すると新たな『国立競技場』建設に向けてスタジアムデザイン案から基本設計を進める中で建設コストおよび工事期間などの問題が物議を醸す事態となり、2015年(平成27年)に当時の内閣総理大臣「安倍晋三」氏がスタジアム建設計画を白紙撤回し、改めて設計・施工を一貫して実施する公募型プロポーザル方式(設計交渉・施工タイプ)によるコンペティションが実施され、応募のあった2案の中から神宮の杜と調和した日本らしいスタジアムとする”杜のスタジアム”をコンセプトとした「大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所共同企業体」が決定しています。
    今回は「千駄ヶ谷」周辺エリアを十数年ぶりに訪れる機会があったので気になっていた新たな『国立競技場』外周を初めて1周してスタジアム外観を見て廻りながらスタジアム東側・青山門付近に設置されている実際に使用された「東京オリンピック炬火台」および「東京2020聖火台」などを写真撮影したりして短時間でしたが楽しむことができました。
    機会があれば、『国立競技場』で開催されるスポーツイベントなどのスポーツ観戦および定期的に開催される事前予約が必要な「スタジアムツアー」(有料)に参加してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    都営地下鉄大江戸線・国立競技場駅の最寄駅のほかJR総武線・千駄ヶ谷駅・信濃町駅および東京メトロ銀座線・外苑前駅が徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でイベントも無かったので、歩行者が数名いる程度でした。
    バリアフリー:
    4.0
    スタジアム周囲に気になる段差はありませんでした。
    見ごたえ:
    4.0
    青山門付近に実際に使用された”東京オリンピック炬火台”および”東京2020聖火台”が設置されています。

  • 徳川将軍家の祈願所として江戸府内の北方守護を担った神社です!

    投稿日 2023年04月30日

    王子神社(王子権現) 王子・十条

    総合評価:4.0

    『王子神社(王子権現)』は、和歌山県を代表する紀伊半島南部に鎮座する神社「熊野本宮大社」(田辺市本宮町)、「熊野速玉大社」(新宮市新宮)、「熊野那智大社」(東牟婁郡那智勝浦町)の総称となる「熊野三山」に祀られる祭神を「熊野権現」と称する「熊野信仰」のもとこの「熊野権現」を国内各所に勧請(神仏の分霊を迎え祀ること)した神社(約3000社)のひとつに数えられるとともに江戸時代には徳川将軍家の祈願所として江戸府内の北方守護を担う『王子権現社』と称され「飛鳥山」の桜とともに江戸名所の行楽地として江戸庶民にも親しまれていた現在の北区王子本町1丁目に鎮座する神社です。
    この『王子神社』の創建については不詳とされていますが、現在の王子エリアが暴れ川として河川流域が広かった現在の荒川河川岸に位置していたことから岸村と呼ばれていた平安時代から室町時代にわたり、この地の領主であった「豊島氏」一族が鎌倉時代末期となる1322年(元亨2年)に紀伊国(現:和歌山県)の「熊野権現」を勧請し、現在地にもともと鎮座していた神社を『若一王子宮』として奉斎したことが『王子神社』のはじまりとされ、このことがきっかけとなり岸村の名称も王子村に改称されています。
    さらに戦国時代を迎えるとこの地の領主になった「小田原北条氏」からも崇敬されていますが、「豊臣秀吉」が1590年(天正18年)に「小田原北条氏」の本拠地である「小田原攻め」を実施して「小田原北条氏」が滅亡、領地替えにより「徳川家康」が江戸に入府するとその翌年の1591年(天正19年)に「徳川家康」より広大な社領となる200万石が『若一王子宮』に寄進されています。
    その後も『若一王子宮』が徳川将軍家の祈願所となり『王子権現社』と称されるとともに1609年(慶長14年)には第2代将軍「徳川秀忠」が『王子権現社』の別当時となる「金輪寺」を再興し、1634年(寛永11年)に第3代将軍「徳川家光」が『王子権現社』の社殿を造営したほか縁起絵巻「若一王子縁起」(3巻)を徳川幕府に仕えていた朱子学派の儒学者「林羅山」に命じて作成し寄進、また1703年(元禄16年)には第5代将軍「徳川綱吉」も『王子権現社』の社殿を造営しています。
    さらに1737年(元文2年)になると第8代将軍「徳川綱吉」がお花見文化が定着するきっかけとなった桜を植樹し整備した「飛鳥山」を『王子権現社』に寄進したほか1782年(天明2年)に第10代将軍「徳川家治」が『王子権現社』の社殿を修繕、その後の1820年(文政3年)に第11代将軍「徳川家斉」も『王子権現社』の社殿を修繕しており徳川将軍家からも代々にわたり篤く崇敬されています。
    明治時代になると東京遷都に伴い東京の鎮護と万民の安泰を祈るため東京近郊の主だった神社として『王子神社』を含む12社が「准勅祭社」に指定されており、この「准勅祭社」12社のうち東京23区内の神社が「昭和天皇即位50年」を奉祝して1975年(昭和50年)に企画した”東京十社巡り”が現在でも都内神社巡りの定番として「東京十社」の名称が定着しています。
    現在は樹木に覆われた緑豊かな境内ではありますが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により境内のほぼすべてが焼失しており、1939年(昭和14年)に天然記念物として「東京都指定文化財」となった「大イチョウ」のみ奇跡的に戦災を免れています。
    今回は平日の午後に「王子」エリアを訪れる機会があり周辺を散策して廻りながら『王子神社』に立ち寄り参拝しましたが、現在の社殿は1964年(昭和39年)および1982年(昭和57年)の2回の造営を経て再建されたもので、境内には七五三詣りのご家族を含む数名の参拝者のみでひっそりとした地元に根付いた神社であると感じました。
    『王子神社』へのアクセスは、JR・京浜東北線「王子駅」北口改札から西側駅前にある「音無親水公園」の遊歩道を通り徒歩3分程度(約200メートル)であり、『王子神社』および「音無親水公園」の周辺は武蔵野台地の突端となる高低差のある崖線エリアで東京23区内の駅前であることを感じさせない樹木に覆われた緑豊かな散歩コースとしてお勧めできます。
    機会があれば『王子神社』境内の「大イチョウ」が黄葉する時期に『王子神社』を参拝しながら周辺を散策して廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR王子駅・北口改札から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後に参拝しましたが、境内に七五三詣りのご家族のほか数名の方がいる程度でした。
    バリアフリー:
    3.5
    境内は社殿との段差にスロープが設置されていますが、武蔵野台地の高台に位置し王子駅から徒歩の場合は高低差があります。
    見ごたえ:
    3.5
    樹木に覆われてひっそりとした地元に根付いた神社であり神社周辺を含むエリアは散歩コースとしてお勧めできます。

  • 江戸情緒漂う風情を感じさせるお花見スポットとしてお薦めできます!

    投稿日 2023年04月22日

    お江戸深川さくらまつり 門前仲町

    総合評価:4.0

    『お江戸深川さくらまつり』は、東京メトロ・東西線および都営地下鉄・大江戸線「門前仲町駅」を最寄り駅とする「永代通り(都道10号)」および「清澄通り(都道463号)」が交差する「門前仲町」交差点を中心に100店舗以上が加盟する江東区内有数の商店街組合「深川仲町通り商店街振興組合」が中心となり、桜のお花見シーズンに深川(門前仲町)エリアを流れる「大横川」両岸の桜並木をメイン会場として2005年(平成17年)から開催されているイベントです。
    ちなみに「大横川」は、東武伊勢崎線(愛称:東武スカイツリーライン)の「浅草駅」から「とうきょうスカイツリー駅」の区間を沿うように「隅田川」を「源森川水門」から分岐して流れる「北十間川」が「とうきょうスカイツリー駅」手前でさらに分岐する墨田区吾妻3丁目の「大横川親水公園北端」を起点にして北側から南側方向に向って流れ、江東区木場5丁目の「永代通り」に架かる「沢海橋」を超えた付近で流路を西側方向に変えながら江東区永代1丁目の「大島川水門」で再び「隅田川」に合流するまでの全長6.52キロメートルとなる荒川水系の河川(運河)です。
    この「大横川」の歴史は、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1657年(明暦3年)に江戸時代最大規模の災害として江戸府内の6割以上が焼失したとされる「明暦の大火(振袖火事)」のあとに徳川幕府が防災を重視した復興事業として江戸府内の街並みを拡大し武家屋敷および寺社などを郊外へ移転するため現在の「隅田川」東側にあたる当時の湿地帯であった本所・深川エリアの干拓および造成による新たな街づくり一環として1659年(万治2年)に「大横川」のほか複数の運河および堀が開削されてから、これを機に深川エリアが「大横川」をはじめとする運河および堀の水運を利用した物資の集散地として発展しています。
    また「大横川」の名称については、江戸城の東側を北側から南側(江戸城から見ると左手側から右手側)の横向き方向に流れ当時の「大島川」に繋がっていたことに由来し、江戸時代より「大横川」として親しまれていますが、1965年(昭和40年)の河川改正法により西側方向に流れる流路の江東区木場5丁目から「隅田川」に合流する「大島川水門」部分までの「旧:大島川」が「大横川」に統合されています。
    今回は、祝日のお昼時に門前仲町エリアを訪れ周辺を散策しながら門前仲町エリアの街歩きガイドのチラシを入手してそこに記載されていた「大横川」の「東富橋」から下流の「東富橋」までの約1.3キロメートルの区間におよそ270本の桜並木が連なっていることを知り、ランチ休憩をしたのあとに桜並木が続く「巴橋」周辺から「大横川」を下流に向って「越中島橋」手前の「黒船橋乗船場」付近までとなる「大横川」左岸側の遊歩道を初めて散策してみました。
    『お江戸深川さくらまつり』開催期間の序盤であり桜は満開ではありませんでしたが、メイン会場の「大横川」に架かる「石島橋」全体が”お休み処”として地元商店街などの模擬店が出店されて賑わっておりお祭り気分も味わえて楽しめました。
    そのほか『お江戸深川さくらまつり』を盛り上げるイベントのひとつである櫓を手で漕ぐ和船(お花見周遊船)が桜並木の「大横川」を航行する光景は江戸情緒漂う風情を感じさせるお花見スポットとしてお薦めできます。
    今回はお花見周遊の乗船客を乗せた和船を川沿いおよび橋上から写真撮影をして楽しめましたが、機会があれば事前予約制となっている和船に乗船してのお花見も体験してみたいほかに今回遭遇しなかった昔ながらの”新内流し(三味線の弾き流し)”を乗船させた和船さらに桜並木の夜間ライトアップの写真撮影などで、また『お江戸深川さくらまつり』の開催時期にあわせてメイン会場となる「大横川」に立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年03月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.5
    最寄り駅の東京メトロ・東西線および都営地下鉄・大江戸線の門前仲町駅から直ぐです。
    人混みの少なさ:
    3.0
    開催時期の序盤で桜が満開になる前でしたが、模擬店などが出店している"お休み処"の石島橋は賑わっていました。
    催し物の規模:
    4.0
    江東区内有数の商店街組合が中心となり桜のお花見シーズンに開催されるイベントです。
    雰囲気:
    4.5
    江戸情緒漂う風情を感じさせる手漕ぎの和船と桜は撮影スポットとしてお勧めできます。
    バリアフリー:
    2.5
    大横川沿い遊歩道の道幅は狭いです。

  • 墳丘に立ち入ることのできる都内最大規模の前方後円墳です!

    投稿日 2023年04月15日

    芝丸山古墳 三田・田町・芝浦

    総合評価:3.5

    『芝丸山古墳』は、江戸時代に徳川将軍家の菩提寺であった現在の浄土宗「増上寺」境内などの外周部分をリング状に取り囲むように形成されている広大な「都立芝公園」敷地内南側エリアの港区芝公園4丁目に位置する都内最大規模の前方後円墳であり、1952年(昭和27年)に「東京都指定史跡」として指定されたのちの1955年(昭和30年)になると一時期「東京都指定旧跡」に指定されますが、1979年(昭和54年)の種別変更により再度「東京都指定旧跡」に指定されています。
    この『芝丸山古墳』の築造時期については、前方後円墳の築造が全国各地に広まったとされる古墳時代中期となる4世紀後半から5世紀後半と推測されており、現地に掲示されている案内板によると前方部が南南西の方角を向いた配置とされる古墳の規模は、全長:106メートル前後・後円部径:約64メートル・前方部前端幅:約40メートル・くびれ部幅:約22メートルと記載されていますが、江戸時代以降に後円部の改変が加えられ墳頂部などの一部が削られているのをはじめとして原型が部分的に失われていることから全容が不明確な部分もあり全長が125メートル前後などと推測する説も存在しています。
    『芝丸山古墳』に関する調査については、この周辺の地形が不自然であると感じていた日本における人類学および考古学の創始者とされる「坪井正五郎」氏が1898年(明治31年)に発掘調査を実施したことで埴輪片などが出土していますが、後円部中央に位置していたと考えられる古墳の主体部となる埋葬施設が失われている状態でこの地に埋葬されたと思われる人物の遺骨および副葬品などは確認できていません。
    そのほか『芝丸山古墳』前方部となる南東側裾の緩やかな傾斜地には、古墳が築造された時代よりさらに歴史の古い現在より約3500年前から4000年前の縄文時代中期末から後期のものと推測される「丸山貝塚」も確認されており、この貝塚からは海産系の貝殻が出土していることからもこの周辺エリアが当時の海岸沿いであり、『芝丸山古墳』に埋葬されたとされる人物についてはこの周辺付近の水田地帯に生産基盤を構えながら海岸周辺の海上交通および南北に通じる陸路などを支配していた南武蔵有数の豪族であると推測されています。
    今回は「芝公園」エリアを訪れる機会があり少し時間に余裕があったので1873年(明治6年)に国内初の公園として開園した「芝公園」(1号地から25号地)であり、現在では「都立芝公園」をはじめ「港区立芝公園」さらにホテル施設(ザ・プリンス パークタワー東京)となる「プリンス芝公園」として整備されているそれぞれの公園敷地内の一部(1号地)に初めて立ち寄り『芝丸山古墳』周辺を散策して廻りました。
    『芝丸山古墳』自体は、樹木に覆われているため案内板などが設置されていなければこの場所が古墳であることを実感することはできませんが、平日の午後に人とすれ違うこともなくひとりで樹木で覆われた中に整備されている遊歩道で標高約16メートルとされる墳丘を登っていると都会の雑踏が消えて都心にいることを忘れてリフレッシュすることができるとともにその後に『芝丸山古墳』についてもいろいろと調べながら学び楽しむこともできました。
    また『芝丸山古墳』南東側の「都立芝公園」敷地内には、梅林が整備されているエリアもあるので梅の花が咲く時期に花見を兼ねてゆっくりと時間をかけて『芝丸山古墳』周辺を改めて散策してみたいと思います。
    そのほか『芝丸山古墳』について調べた中で得た情報ですが、『芝丸山古墳』からの出土品が「明治大学考古博物館」(千代田区神田駿河台)に収蔵されているそうなので機会があれば「明治大学考古博物館」にも立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    都営地下鉄三田線・芝公園駅のA4出口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日の午後に立ち寄りましたが、墳丘に向かう遊歩道で人とすれ違うことはありませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    標高約16メートルとされる高低差のある墳丘の遊歩道は階段状になっています。
    見ごたえ:
    3.0
    樹木で覆われた中に整備されている遊歩道を歩いていると都心にいることを忘れてリフレッシュすることができました。

  • 南国のリゾート気分が味わえるきめの細かい白い砂浜が魅力的な海岸です!

    投稿日 2023年04月08日

    御宿海岸 御宿

    総合評価:4.0

    『御宿海岸』は、JR東日本の「千葉駅」から「茂原駅」を経由して太平洋に面する房総半島の外房沿いに「安房鴨川駅」までの区間(93.3キロメートル)を27駅で結ぶJR外房線のいずみ市と勝浦市に隣接する御宿町の「御宿駅」から徒歩10分程度のエリアとなる外房の南東部に位置する網代湾を東西方向に三日月型となるように弧を描く3つの海水浴場(岩和田海水浴場・中央海水浴場・浜海水浴場)が連なる南国のリゾート気分が味わえるきめの細かい白い砂浜が魅力的な全長およそ2キロメートルの海岸線です。
    ちなみに『御宿海岸』の地名については、鎌倉時代中期に鎌倉幕府・第5代執権「北条時頼」が執権職を退き出家した1256年(康元元年)から逝去する1263年(弘長3年)までの期間に地方の実情を見聞するため諸国巡歴をしていた折に現在の御宿町須賀地区にある創建が平安時代前期の822年(弘仁13年)とされる「最明寺」に宿泊し、寺院の山頂から夕陽に輝く穏やかな海岸とともに見事な老松の枝ぶりが織りなす風光明媚な風景に魅せられた「北条時頼」が詠んだ和歌”御宿(みやど)せし そのときよりと人とはゞ 網代の海に夕影の松”が由来とされています。
    また『御宿海岸』は、海水浴場のほかに御宿岩和田漁業協同組合の本所「岩和田漁港」および支所「御宿漁港」があり千葉県ブランド水産物認定品に登録の特産物”房総イセエビ”、さらに江戸時代より海女による鮑漁が現在も続く「日本三大海女」(三重県志摩地方・石川県能登地方・千葉県房総地方)に数えられているエリアで、こちらも千葉県ブランド水産物認定品に登録の特産物”外房あわび”が水揚げされています。
    そのほか『御宿海岸』の中央海水浴場の一画にある「月の沙漠記念公園」には、童謡「月の沙漠」(作詞:加藤まさを・作曲:佐々木すぐる)に登場するラクダに乗ったアラビア(西アジア)の王子様とお姫様をモチーフにしたブロンズ像が設置されています。
    この「月の沙漠」は、大正時代中期から昭和時代初期に活躍した詩人であり抒情画家の[加藤まさを」が青年期に結核をわずらい御宿の地で療養していた際に御宿の砂丘風景などから異国情緒漂うアラビアの情景をイメージして雑誌「少女倶楽部」(大日本雄辯會・現:講談社発行)の中でラクダの抒情画を挿絵に添えて1923年(大正12年)に発表した抒情詩であり、作曲家「佐々木すぐる」が曲付けしたことで童謡として長く歌い継がれるようになっています。
    「月の沙漠記念像」については、1969年(昭和44年)に当時の「御宿町商工会」会長が青少年の情操教育を目的とする記念像として「加藤まさを」の承諾を得て合成樹脂製の像として制作されています。
    その後に「加藤まさを」が御宿町に移住して1977年(昭和52年)に御宿町で終焉を迎え、1990年(平成2年)に故人「加藤まさを」が「御宿町名誉町民」になるとともに「月の沙漠記念像」が現在のブロンズ像に改修されています。
    今回は家族3世代で房総半島の南房総市から『御宿海岸』を目指して外房の海岸沿いを通る「国道128号」をドライブしてまわり、「月の沙漠記念像」および雄大な砂浜が広がる『御宿海岸』(中央海水浴場)を散策してくつろぎながら写真撮影などで楽しむことができました。
    写真撮影では、「月の沙漠記念像」および『御宿海岸』の砂浜と海をはじめ網代湾に流れ込む清水川などをさまざまな角度から日差しが異なるさまざまな時間帯での写真撮影が楽しめるフォトスポットとしてお勧めできます。
    また今回『御宿海岸』を訪れた際は、正月のシーズンオフの時期でしたがサーフィンをする方および凧あげをする方など人が絶えることもなく、「御宿駅」からも徒歩圏内であることとあわせて中央海水浴場に隣接して「ウォータースライダー施設」および「ビーチバレーボールコート」が整備されているなど夏場のシーズン最盛期には海水浴客などで大いににぎわうエリアであることが実感できました。
    そのほか気になる施設として清水川沿いの海岸道路(月の砂漠通り)に「月の沙漠記念館」がありましたが、今回は正月期間の休館日で入館できなかったので機会があれば『御宿海岸』をまた訪れて特産物の”房総イセエビ”および”外房あわび”を食べたりしながら御宿町をもっと散策してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年01月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    JR外房線・御宿駅から徒歩10分程度です。
    景観:
    4.0
    さまざまな角度および日差しが異なるさまざまな時間帯での写真撮影が楽しめるフォトスポットです。
    人混みの少なさ:
    3.0
    正月のシーズンオフの時期でしたが、多くの方が雄大な海岸を散策していました。
    バリアフリー:
    3.0
    網代湾を東西方向に三日月型となるように弧を描く3つの海水浴場が連なる雄大な砂浜の海岸線です。

  • ”豚を通じた食と健康のテーマパーク”です!

    投稿日 2023年04月02日

    サイボク(旧:埼玉種畜牧場) 日高・鶴ヶ島・坂戸

    総合評価:4.0

    『埼玉種畜牧場』(2023年4月から社名を『サイボク』に変更)は、川越市と狭山市を結ぶ「県道261号(笠幡狭山線)」沿いの日高市下大谷沢に位置する広大な敷地内にこだわりある良質なオリジナルブランド豚の精肉からハム・ソーセージなどの加工食品を中心とする販売施設「ミートショップ」および直営養豚牧場から産直のオリジナルブランド豚を使用した豚肉料理を提供するレストラン施設「レストラン サイボク」さらに直営養豚牧場から排出された堆肥を活用している地元農家の採れたて有機野菜の直売店「楽農ひろば」、そのほか癒しの空間として日帰り温泉施設「天然温泉 花鳥風月」やアスレチック遊具を備えた緑の空間「サイボクの森」などの施設を徐々に拡充しながら整備されている”豚を通じた食と健康のテーマパーク”です。
    この『埼玉種畜牧場』の創業は、太平洋戦争終戦間もない食糧難の時代であった1946年(昭和21年)にタンパク源となる良質な豚肉の安定的な生産を目指す養豚業として現在地に養豚牧場を開設したことがはじまりとされています。
    その後に原種豚の育種改良を重ねながら優れた血統の種豚を「日本名水100選」に選ばれる水が湧き出る豊かな自然環境に囲まれた宮城県の直営養豚牧場をはじめ埼玉県・山梨県にも拡大しながら直営の豚専用飼料工場でバランスのとれた品質にこだわる飼料の製造とあわせて湧き出る名水をあたえて管理することで『サイボク』の血統書付きオリジナルブランド豚となる”ゴールデンポーク”さらに”スーパーゴールデンポーク”が誕生しています。
    『サイボク』敷地内の各施設については、1975年(昭和50年)に国内初の養豚業が自ら豚の精肉販売をする施設として6坪の直売店「ミートショップ」がオープン後の1978年(昭和53年)には地元農家の採れたて有機野菜を直接販売する国内の農産物直売所の先駆けとなる「楽農ひろば」がオープンしています。
    また1985年(昭和60年)年に養豚牧場直営のレストラン施設「ガーデンハウス」をオープン後の1992年(平成4年)に規模を拡大した現在の「レストラン サイボク」がオープンしています。
    さらに2002年(平成14年)に地下2000メートルから塩化ナトリウム系(弱アルカリ性)の温泉を掘りあてて温泉スタンドを設置後の2004年(平成16年)に日帰り温泉施設「サイボク天然温泉 まきばの湯」がオープンしていますがレジオネラ菌が検出により2013年(平成25年)に一時閉館、2014年(平成26年)に新たな「天然温泉 花鳥風月」としてリニューアルオープンしています。
    そのほか2019年(平成31年)には広大な天然芝とアスレチック遊具および遊歩道を整備した「サイボクの森」がオープンするなどさまざまな施設が拡充されています。
    今回は家族で11月と2月の土日にランチとショッピング目的で自動車を利用して関越自動車道・川越インターチェンジから20分程度(約7.6キロメートル)で『サイボク』に立ち寄ることができました。
    JR川越線「笠幡駅」または東武東上線「鶴ヶ島駅」さらに西武新宿線「狭山市駅」からも「サイボク行」の路線バスがありますが、広大な『サイボク』敷地内に1000台以上駐車可能な7か所の無料駐車場が整備されているので路線バスよりも自動車利用が便利でお薦めします。
    『サイボク』のレストラン施設は、バーベキュー焼肉大ホールと洋食コーナーに分かれている「レストラン サイボク」のほかにも日帰り温泉施設「天然温泉 花鳥風月」内に「レストラン 花鳥風月」があり、11月に立ち寄った際は「レストラン サイボク」の洋食コーナーを利用、また2月は「レストラン 花鳥風月」を利用しましたが、どちらのレストランも待ち時間が30分程度と賑わっており人気の施設であることが伺えました。
    料理については、定番メニューの中から”ゴールデンポーク”の「ひれかつ膳」を注文しましたが、表面のサクサクな衣で包まれた中にしっとりとした柔らかい豚肉の食感を味わえ美味しくお薦めできます。
    ランチ後は『サイボク』が1997年(平成9年)からオランダ国立食肉学校が主催する「国際食肉プロフェッショナル競技会(SLAVAKTO)」をはじめドイツ農業協会(DLG)主催の「国際食品品質競技会」、ドイツ食肉連合会(DFV)主催の「国際食肉加工品コンテスト」、ドイツ南部のバーデンヴェルテンブルグ州食肉加工組合が主催する「国際ハム・ソーセージ競技会(SUFFA)」など本場ヨーロッパの国際食品コンテストにおいて受賞した金メダル総数が1000個以上におよぶ品質にこだわのあるハム・ソーセージなどの加工食品をはじめとするさまざまな食材を揃えた「ミートショップ」および新鮮な採れたて有機野菜の直売所「楽農ひろば」でのショッピングで楽しめました。
    機会があれば温泉施設「天然温泉 花鳥風月」も利用してみたいと思うのでまた『サイボク』を訪れてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2023年02月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    関越自動車道・川越インターチェンジから約7.6キロメートル(自動車で20分程度)です。
    人混みの少なさ:
    2.5
    敷地内には1000台以上駐車可能な7か所の無料駐車場があり賑わっていました。
    バリアフリー:
    3.5
    レストラン・販売施設などに気になる段差などはありません。
    見ごたえ:
    4.0
    オリジナルブランド豚の精肉・ハムソーセージなどの販売・レストラン・温泉施設などが整備されています。

  • 凹版彫刻に関する職人技の凄さを改めて実感しました!

    投稿日 2023年03月18日

    独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館 王子・十条

    総合評価:4.0

    『お札と切手の博物館』は、国内の日本銀行券(紙幣)・郵便切手・収入印紙・旅券(パスポート)・郵便貯金通帳・証券類の製造および政府刊行物(官報・法令全書・白書など)の編集と製造さらに偽造防止技術などの研究開発を行う現在の独立行政法人である「国立印刷局」が所蔵する”お札と切手”などに関するさまざまな展示資料を基に”お札と切手”の歴史および製造技術の変遷などに関する基礎知識とあわせて”お札と切手”などの社会的・文化的意義についてを気軽に学べる施設です。
    「国立印刷局」については、明治維新後の近代的な紙幣・切手などを製造する政府の機関「大蔵省 紙幣司」として1871年(明治4年)に創設されてから一貫して紙幣・切手などの製造に携わっており、創設から100年目となる1971年(昭和46年)の節目の年に当時の「大蔵省 印刷局」創立100周年記念事業として新宿区市谷本村町に建設された「印刷局記念館」館内の一部施設として『お札と切手の博物館』が開設されています。
    その後の2003年(平成15年)になると行政改革にともなう中央省庁再編などにより独立行政法人「国立印刷局」が設立されるとともに組織再編により「印刷局記念館」の名称が「印刷局市ヶ谷センター」に変更となり、『お札と切手の博物館』の役割についても文化事業とあわせて「国立印刷局」の広報的な要素を担うようになっています。
    さらに「国立印刷局」の事業に関する抜本的な検討のもと不要資産などの見直しにより「印刷局市ヶ谷センター」を国に返納することが決定し、2011年(平成23年)になると『お札と切手の博物館』が規模を縮小して「国立印刷局」で一番古い工場である現在の北区王子1丁目にある「国立印刷局 王子工場」敷地内の「国立印刷局 王子展示室」に移転し新たな『お札と切手の博物館』としてリニューアルオープンしています。
    この『お札と切手の博物館』へのアクセスは、JR・京浜東北線「王子駅」中央口改札または東京メトロ・南北線「王子駅」1番出口さらに都電・荒川線(東京さくらトラム)「王子駅前」停留場からそれぞれ徒歩3分程度であり、今回は「王子」エリアを訪れる機会があったので周辺を散策して廻りながら初めて『お札と切手の博物館』にも立ち寄ってみました。
    2階建ての『お札と切手の博物館』館内展示室はコンパクトですが、立ち寄った際に開催されていた特別展「加藤倉吉 飽くなき版画表現の追求」において大正期から昭和期に印刷局・彫刻部門の工芸官(専門職員)トップとして数多くの原版彫刻に携わっていた「加藤倉吉」氏を中心とする工芸官の緻密で繊細な画線で構成された凹版彫刻による肖像画などのほかに「加藤倉吉」氏が印刷局を退職したのちに凹版彫刻者として制作した肖像画や風景画なども含めた展示は偽造防止技術の歴史とともに細密画線を複雑な模様に彫り込む凹版彫刻に関する職人技の凄さを改めて実感し楽しむことができました。
    そのほか国内の紙幣などのほかにも諸外国の珍しい紙幣なども展示されているのとあわせて最寄り駅の「王子駅」からも近く入館無料でもあるので誰でも気軽に立ち寄れる施設としてお勧めできます。
    「王子」周辺エリアを訪れる機会があれば、また『お札と切手の博物館』に立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    最寄り駅の王子駅から徒歩数分です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館無料です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、数名の方がいる程度でした。
    展示内容:
    4.0
    お札と切手の歴史および製造技術の変遷などの基礎知識を気軽に学ぶことができます。
    バリアフリー:
    2.5
    玄関出入口に段差あり、また1階展示フロアと2階展示フロアの移動は階段です。

  • 自由奔放なマスコットキャラクターの展示施設です!

    投稿日 2023年03月11日

    つば九郎ハウ巣 信濃町・千駄ヶ谷

    総合評価:4.0

    『つば九郎ハウ巣』は、「日本野球機構(略称:NPB)」が統括する日本プロ野球組織「セントラル・リーグ」に所属するプロ野球球団「東京ヤクルトスワローズ」の燕をモチーフとした公式マスコットキャラクター『つば九郎』のお家という設定の基、「東京ヤクルトスワローズ」の本拠地となる「明治神宮野球場」がある「明治神宮外苑」敷地内の「東京ヤクルトスワローズ Official Goods Shop つば九郎店」に隣接してオープンした『つば九郎』に関する展示施設です。
    ちなみに『つば九郎』は、燕の別称である”つばくろ”とあわせて”野球は9人で9回戦うゲーム”であるとともに”苦労(九郎)して接戦をものにして欲しい”という意味が込められて一般公募により命名された名前であり、1994年(平成6年)に当時の「ヤクルトスワローズ」の新しい公式マスコットキャラクターとしてデビューしています。
    また非常に自由奔放な性格のパフォーマンスで球場内を盛り上げる『つば九郎』は、シーズンオフにおいてもマスコットキャラクターでありながら球団との契約交渉を更改したり、FA宣言をするなど話題性も豊富なプロ・マスコットキャラクターとして定着しファンから愛される人気者となっています。
    『つば九郎ハウ巣』の建設に至るまでの経緯については、2021年(令和3年)の春季キャンプにおいて『つば九郎』が”とりごやたてて。”というメッセージを発信したことがきっかけとなり、「オープンハウスグループ」が「東京ヤクルトスワローズ」のスポンサー企業として「東京ヤクルトスワローズ」が主催する試合に『つば九郎』の”前人(鳥)未到”の大記録となる2000試合出場を盛り上げるために”好立地のお家”をプレゼントする「つば九郎のお家プロジェクト」を発足しています。
    この「つば九郎のお家プロジェクト」は、「東京ヤクルトスワローズ」および「明治神宮外苑」の協力により「明治神宮外苑」敷地内の自動販売機などが設置されていた約40平方メートルの平屋建ての建物を『つば九郎ハウ巣』としてリノベーションするものであり、「オープンハウスグループ」および「東京ヤクルトスワローズ」が主催者となり外観デザインのイラストを一般公募する「つば九郎のお家 外観デザインコンテスト」が2022年(令和4年)5月17日~6月12日にかけて実施され、応募のあった全209作品の中から『つば九郎』が選出した最優秀賞3作品のデザインにおけるコンセプトを設計に取り入れることにより『つば九郎ハウ巣』が2022年(令和4年)10月10日にお披露目式典が実施され翌日の10月11日から一般公開となっています。
    そのほか『つば九郎』の「東京ヤクルトスワローズ」が主催する2000試合出場の偉業については、2022年(令和4年)8月5日に「明治神宮野球場」で開催された「読売ジャイアンツ」戦で達成されています。
    今回は「千駄ヶ谷」周辺エリアを訪れる機会があったので久しぶりに「明治神宮外苑」を散策しながら完成したばかりの『つば九郎ハウ巣』が気になり平日の午後2時半過ぎに立ち寄りましたが、スタッフの方が午後3時まで休憩中とのことでシャッターが閉まっており午後3時に再度立ち寄りました。
    スタッフは、2名で建物外部と内部を1名づつで対応しており、建物内もコンパクトのため数名ずつ人数を区切っての入場となるので自分が立ち寄った際は10数名程度の行列でしたが、自分が立ち去る際には行列も2倍くらいになっていました。
    『つば九郎ハウ巣』内部は、「網走ビール」とコラボしたトリックアートなどがあり写真撮影などをしながら楽しむことができ、スタッフの方も交代要員なしの2名で対応するのも大変そうでしたが、写真撮影をしてくれたりとても感じがよく「東京ヤクルトスワローズ」ファンの方に限らなくてもお薦めできるスポットです。
    また『つば九郎ハウ巣』の脇では、「網走ビール」とコラボした『つば九郎』ラベルの3種類の「つばくろうのる~び~」(情熱の赤・応燕の緑・快勝の青)が販売されており、今回は購入していませんが、こちらの赤色・緑色・青色のビールも気になりました。
    「明治神宮外苑」周辺エリアを訪れる機会があれば、また『つば九郎ハウ巣』を立ち寄ったり、「つばくろうのる~び~」を購入してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    最寄り駅はJR・信濃町駅、都営地下鉄・国立競技場駅、東京メトロ・外苑前駅となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたがスタッフの休憩直後で10数名程度の行列ができていました。
    バリアフリー:
    3.5
    段差などは気になりませんが内部はコンパクトです。
    見ごたえ:
    3.0
    コンパクトな内部ですがトリックアートなどの撮影スポット、選手・つば九郎のサインボールなどの展示物があります。

  • 大殿(本堂)など東京タワーを背景に入れながら写真撮影で楽しめます!

    投稿日 2023年03月05日

    増上寺 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    『増上寺』は、平安時代末期の1175年(承安5年)に「法然(ほうねん)」上人によって開宗された浄土宗の総本山である「知恩院」(京都市東山区)に続く七大本山(増上寺・光明寺・善光寺大本願・金戒光明寺・知恩寺・浄苑華院・善導寺)のひとつに数えられ、本尊に「木造阿弥陀如来坐像」を祀る山号を「三縁山」・院号を「広度院」と称する格式の高い寺院です。
    この『増上寺』の創建については、室町幕府・第3代将軍「足利義満」の時代であり57年間にわたり続いた南北朝時代が集結し南北朝合一となった翌年の1393年(明徳4年)に浄土宗第8祖「聖聰(しょうそう)」上人によって武蔵国豊嶋郡貝塚(現:千代田区平河町・麹町付近)にあった真言宗「光明寺」を復興して浄土宗に改宗し、関東における浄土宗の道場となる『増上寺』を開山したことがはじまりとされています。
    さらに1590年(天正18年)になると「徳川家康」が領地替えにより江戸に入府した当時の『増上寺』法主12世「存応(ぞんのう)」上人であった時代に『増上寺』が「徳川家」の菩提寺となり、「徳川家康」により『増上寺』が貝塚の地から日比谷に移転したのちに「江戸城」の拡張にともない1598年(慶長3年)に現在の芝(現:港区芝公園4丁目)に移転しています。
    ちなみに『増上寺』が「徳川家」の菩提寺となったきっかけは、「徳川家康」が居城としていた駿河国「駿府城」(現:静岡市葵区)から新たな居城となる「江戸城」に向かう「徳川家康」一行を見物するため大勢の江戸庶民が群がる中で「徳川家康」の乗った馬が『増上寺』門前で足を止めて動かなくなったことがはじまりとされています。
    その門前に立っていた「存応」上人と「徳川家康」が初めて出会い『増上寺』で休憩を取ることとなり、再び「江戸城」に向かう際に「徳川家康」が「存応」上人に”明朝にひとりで参詣し斎をともにしたい”と告げ、翌朝になると約束通りに『増上寺』を訪れた「徳川家康」が”先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸の地に移った自分が大将の身分で菩提所がないのは死を忘れるのと同じであるので増上寺を菩提所としたい”と「存応」上人に頼み、意気投合した「存応」上人が「徳川家康」と「阿彌陀仏」との縁を結ばせる十念を授けたと伝えられています。
    その後の1603年(慶長8年)に「徳川家康」が徳川幕府・初代将軍に任命されてから1867年(慶応3年)に徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」が政権を返上するまでの264年間にわたり『増上寺』は、「徳川将軍家」の菩提寺として歴代6人の将軍(第2代・秀忠、第6代・家宣、第7代・家継、第9代・家重、第12代・家慶、第14代・家茂)が葬られるなど「徳川将軍家」の手厚い保護により最盛期には3千人もの修行僧がいる大寺院となっています。
    明治維新後には『増上寺』の広大な境内が国有地として国内初の公園となり、太平洋戦争終戦後の1947年(昭和22年)になると政教分離の観点から『増上寺』の所有地に戻されていますが、時代の流れの中で境内敷地の一部が民有地に移り変わり境内も縮小されて現在に至っています。
    現在の『増上寺』境内は江戸時代の最盛期に120以上の堂宇が存在したもののそのほとんどが災害により焼失などしていますが、1915年(大正4年)に国の「重要文化財」に指定されている江戸時代初期の1622年(元和8年)に再建された東日本最大級を誇る「三解脱門」が現存するほか、「徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)」(拝観有料)などの見所も多く東京23区内を代表する観光スポットであり、史跡めぐりなど歴史に興味のある方および「芝公園」エリアの象徴である「東京タワー」のフォトスポットのひとつとしてお勧めできます。
    今回は平日の午後に「芝公園」エリアを訪れる機会があったので久しぶりに『増上寺』に立ち寄り参拝し境内を散策しながら「大殿(本堂)」などとともに「東京タワー」を背景に入れて写真撮影をして廻り楽しめました。
    また「芝公園」エリアを訪れる機会があれば『増上寺』にも立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営地下鉄三田線・御成門駅A1出入口から約250メートル(徒歩3分程度)または芝公園駅A3出入口から約300メートル(徒歩4分程度)です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが参拝者もまばらであるものの絶えることはなく、史跡めぐりのグループと思われる方々もいました。
    バリアフリー:
    2.5
    境内各所に石段(段差)があります。
    見ごたえ:
    4.0
    東京タワーを背景に入れながらの写真撮影で楽しめます。

  • 講談の演目”寛永三馬術 出世の春駒”に登場する急傾斜な石段(出世の石段)です!

    投稿日 2023年02月25日

    愛宕神社参道 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    東京23区内における自然に形成された丘陵の最高峰とされる「愛宕山」(標高25.7メートル)の頂上部分に鎮座する『愛宕神社』(港区愛宕1丁目)の参道となる参拝ルートは、「都道301号」に面した「男坂」と称される傾斜角およそ37度の急傾斜な86段からなる石段の「表参道」および「表参道」の北側(右脇)に「男坂」より傾斜が緩やかな109段の石段「女坂」があり、さらに「都道301号」に面して”愛宕神社車”と記載された鳥居が設置されている自動車が通行可能な「愛宕新坂」があります。
    また「愛宕山」を東西方向に貫通する車道の「愛宕トンネル」東側に「愛宕山」の山頂に通じる専用エレベーターとあわせて歩行者専用階段が設置されているほかに「愛宕トンネル」西側にも歩行者専用階段が設置されています。
    この『愛宕神社参道』の中で「表参道(男坂)」は「出世の石段」とも呼ばれ、伝統話芸「講談」の演目「寛永三馬術 出世の春駒」に登場する江戸時代初期である1634年(寛永11年)の出来事が語り継がれています。
    「寛永三馬術 出世の春駒」のあらすじについては、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」が第2代将軍であった「徳川秀忠」の三回忌にあたる命日に徳川将軍家の菩提寺である「増上寺」を参詣した帰り道に『愛宕神社』下から「愛宕山」に咲く梅花を見た将軍が”馬に乗ってあの梅の花を取って参れ!”と命じると、その場にいた家臣たちが急傾斜の石段にひるむ中で四国丸亀藩士「曲垣平九郎」が落馬することなく山頂で咲く梅花の枝を折って「徳川家光」に献上したことで、「徳川家光」が泰平の世にあっても馬術の稽古を怠らない「曲垣平九郎」の姿勢を”日本一の馬術の名人”と称賛し、「曲垣平九郎」の名が全国に知れわたったとされる武芸伝です。
    また武芸伝の生まれた『愛宕神社』につては、1603年(慶長8年)に徳川幕府・初代将軍に任命された「徳川家康」が当時の「桜田山」(現:愛宕山)に「勝軍地蔵菩薩像」を祀ったことがはじまりとされている徳川将軍家ゆかりの神社となっています。
    この「徳川家康」が祀ったとされる「勝軍地蔵菩薩像」は、738年(天平10年)に「東大寺(奈良)」の”四聖”のひとりに数えられている「行基」上人が近江国甲賀郡信楽(現:滋賀県甲賀市信楽町)の地を訪れた際に造像したものと伝えられており、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の際に和泉堺(現:大阪府堺市)に滞在していた「徳川家康」が小姓衆などわずかな手勢で本拠地の三河国「岡崎城」まで決死の覚悟で帰還する途中で甲賀郡信楽の豪族「多羅尾光俊」の協力を得て伊賀(現:三重県伊賀市)越えの道のりを通過するおりに「行基」上人が造像したとされる「勝軍地蔵菩薩像」を伊賀越えのおとりとするため「徳川家康」に献上されたと伝えられていますが、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」が原因で焼失しています。
    『愛宕神社参道』の「出世の石段」については以前より知っていましたが、今回は久しぶりに「虎ノ門」エリアを訪れる機会があり初めて『愛宕神社参道』を代表する「表参道」の「出世の石段」を通り『愛宕神社』を参拝しました。
    「出世の石段」の前に立って昇降する際の補助となる鎖が設置されている急傾斜の石段を目の当たりにすると想像以上に急傾斜であると感じて改めて「曲垣平九郎」が”日本一の馬術の名人”であったことを実感することができました。
    また「虎ノ門」周辺エリアを訪れる機会があれば「出世の石段」を上り『愛宕神社』を参拝してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ日比谷線・虎ノ門ヒルズ駅から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが参拝者もまばらですが絶えることがありませんでした。
    バリアフリー:
    2.5
    表参道(男坂)の”出世の石段”は想像以上に急傾斜であると感じました。(愛宕神社の参拝ルートは愛宕山・専用エレベーターなどもあります)
    見ごたえ:
    4.0
    講談の演目”寛永三馬術 出世の春駒”に登場する急傾斜な石段(出世の石段)です。

  • 昭和レトロな街並みのジオラマ模型は見応えがあります!

    投稿日 2023年02月23日

    豊島区立郷土資料館 池袋

    総合評価:4.0

    『豊島区立郷土資料館』は、東京23区内有数のターミナル駅のひとつ「池袋駅」西口エリアのシンボル的な建築物である東京都の施設「東京芸術劇場」西側敷地に面して南北に通る「劇場通り(都市計画道路補助73号線)」沿いの「池袋消防署・池袋都民防災教育センター(池袋防災館)」に隣接する豊島区西池袋2丁目に位置する愛称が”IKE・Biz(イケビズ)”と称する「としま産業振興プラザ」7階フロアにある豊島区の歴史・文化・民俗などの郷土資料を展示する豊島区の施設です。
    ちなみに「としま産業振興プラザ」は、1984年(昭和59年)に豊島区の公共施設「勤労福祉会館」として竣工しており、『豊島区立郷土資料館』についても「勤労福祉会館」館内にある施設の一部として建物が竣工した当初から現在と同様の7階フロアにオープンしています。
    この「勤労福祉会館」建物全体は”きんぷく”の愛称で親しまれていましたが、建物の老朽化に伴い2016年(平成28年)から館内全体が一時的に休館となり大規模な改修工事が実施され2017年(平成29年)に新たな「としま産業振興プラザ」としてリニューアルオープンしています。
    『豊島区立郷土資料館』の存在については、リニューアルオープンとなった以前より気になっており機会があれば一度は立ち寄ってみたいと思っていた施設のひとつです。
    昨年も池袋エリアを訪れた際に「としま産業振興プラザ」に立ち寄ったもののコロナ禍のため『豊島区立郷土資料館』が長期休館中となっていたため入館できなかった経緯がありましたが、今回はやっと念願が叶い初めて平日の午後に『豊島区立郷土資料館』に入館することができました。
    『豊島区立郷土資料館』に入館した際は、1932年(昭和7年)に当時の巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町の4町が合併して豊島区が誕生してから90年にあたる節目の年であることから「豊島大博覧会~過去から学び、今日を生き、未来に希望~」と題した区制90周年特別展が開催されており、「池袋駅」周辺を中心に豊島区内の明治期から現在に至るまでの時代の流れと共に変貌を遂げてきた街の様子がジオラマ模型および映像などを用いて展示されているので分かり易く楽しむことができました。
    特に昭和初期である太平洋戦争突入以前の1930年代に「池袋モンパルナス」と称されたアトリエ村のジオラマ模型、太平洋戦争終戦直後の焼け野原となった「池袋の闇市」から1960年代(昭和30年代後半から昭和40年代前半)の「池袋駅東口および西口周辺」さらに現在の「Hareza(ハレザ)池袋」となる以前の3棟並んでいた「旧豊島区役所・豊島公会堂・旧豊島区民センター」などのジオラマ模型の展示は見応えがあり、昭和生まれの方には懐かしさも加わりタイムスリップしたような気分も味わえるのでお薦めできます。
    また豊島区制100年に向けた「池袋駅」周辺の再開発事業計画などに関する情報も紹介されており、2014年(平成26年)に「日本創成会議」によって少子化および人口流出をきっかけとして2040年までに自治体として存続できない可能性のある地域とされる消滅可能性都市」(全国896自治体)が発表された中で東京23区で唯一ランキングに入ってしまった豊島区の今後における魅力ある街づくりに関する区政の取り組みについて本気度も伝わり「池袋駅」周辺の街並みがどのように変化していくのか今後も注目していきたいと感じました。
    機会があれば、再度『豊島区立郷土資料館』に立ち寄りじっくりと時間をかけて豊島区の歴史などを学んでみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅西口エリアの劇場通り沿いとなる池袋消防署の隣りのビルです。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館は無料です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に入館しましたが、見学者はまばらにいる程度でした。
    展示内容:
    4.0
    豊島区の歴史・文化・民俗などの郷土資料を展示しており、昭和レトロな池袋駅周辺のジオラマ模型は見応えがあります。
    バリアフリー:
    4.0
    気になる段差はなく、7階までエレベーターを利用します。

  • 源氏ゆかりの稲荷神社であり・徳川将軍家も崇敬していた江戸府内の稲荷神社の総本宮です!

    投稿日 2023年02月18日

    王子稲荷神社 王子・十条

    総合評価:4.0

    『王子稲荷神社』は、JR京浜東北線「王子駅」北口改札から「東十条駅」方面に向かって線路沿いに約450メートル(徒歩6分程度)のJR京浜東北線・西側エリアとなる北区岸町1丁目に鎮座する稲荷神社です。
    この『王子稲荷神社』の創建については不詳とされていますが、その歴史は古く現在の荒川が暴れ川として河川流域が広かった時代の河川岸に位置していたことから岸村の地名で知られ社号も『岸稲荷』と呼ばれており、社伝によると平安時代末期に河内国(現:大阪府の一部)を拠点としていた武家の棟梁・河内源氏の2代目「源 頼義」が陸奥国(現:福島県、宮城県、岩手県、青森県)の豪族「安倍頼時」一族が起こした反乱を朝廷の命により陸奥守(国司)として陸奥国を平定するまでの1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の12年間におよぶ戦乱「前九年の役」の折に『岸稲荷』を信仰し「関東稲荷総司」と崇めたと伝えられています。
    また1180年(治承4年)には、のちの鎌倉幕府・初代将軍となる「源 頼朝」の祖先にあたる「源 頼義」の子供であり「八幡太郎」の愛称でも知られる「源 義家」の鎧(腹巻)および薙刀などを奉納したとも伝えられており源氏ゆかりの稲荷神社ともなっています。
    さらに平安時代から室町時代にわたり岸村を拠点としていた豪族「豊島氏」一族により、鎌倉時代末期の1322年(元亨2年)に紀伊国(現:和歌山県)の熊野三社から「王子大神」を勧請して「若一王子宮」として現在の「王子神社」に祀ったことから、地名が岸村から王子村に改められ『岸稲荷』についても『王子稲荷』と呼ばれるようになっています。
    江戸時代になると徳川将軍家からも代々にわたり『王子稲荷』が厚く崇敬されており、江戸府内の稲荷神社の総本宮として徳川将軍家の祈願所に定められたほか第3代将軍「徳川家光」が1634年(寛永11年)に社殿を造営したほか、第5代将軍「徳川綱吉」も1703年(元禄16年)に社殿を造営、さらに第10代将軍「徳川家治」が1782年(天明2年)に社殿の修繕を実施しており、現在の社殿については1820年(文政3年)に第11代将軍「徳川家斉」が造営しています。
    そのほか民話「王子の狐火」および落語の演目「王子の狐」にも登場する稲荷神社であり、浮世絵師「歌川広重」による「名所江戸百景」の中で「王子稲荷乃社」および民話「王子の狐火」を題材とした「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」を描いているほかにも『王子稲荷』にまつわる浮世絵が複数あり、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」などの地誌においても『王子稲荷』が記載されるなど江戸庶民からも厚い信仰を集めていたことが伺えます。
    ちなみに江戸時代中期までは、「関東稲荷総司」における関東を現在とは異なり陸奥国までを含む東日本全体の稲荷総本社とする解釈のもと「東国三十三国稲荷総司」と伝承されており『王子稲荷』境内に「東国三十三国」と記した扁額および幟などが掲げられていたとされていますが、第11代将軍「徳川家斉」の時代に幕政改革(寛政の改革)により「東国三十三国稲荷総司」から「関東八州稲荷総司」に改められています。
    今回は、「王子」エリアを訪れる機会があり少し時間に余裕があったので「王子」周辺を散策しながら平日の午後に初めて『王子稲荷神社』に立ち寄りましたが、『王子稲荷神社』に近づくにつれて境内から子供たちの元気のよい声が響きわたり表参道の出入口となる「神門(薬医門形式)」前には沢山の自転車が止まっていました。
    よく見ると『王子稲荷神社』境内に附属幼稚園が併設されていて「神門」のある道路沿いの境内一画が幼稚園の園庭として利用されており、『王子稲荷神社』に立ち寄った時間帯がちょうど子供たちのお迎え時間になっていたことを知りました。
    「神門」は幼稚園の出入口を兼ねており、幼稚園が開園している平日の参拝者は「社殿」脇の参道からの参拝となります。
    『王子稲荷神社』境内は、武蔵野台地の崖線部分に位置するため高低差があり、表参道「神門」のある境内東側道路から境内南側沿いの道路(王子稲荷の坂)を上り脇参道からコンパクトな境内に入ると直ぐに鮮やかな彩色を用いて建物各所にさまざまな彫刻が施された権現造りの社殿が目を引く稲荷神社です。
    機会があれば、休日に「神門」から表参道を通り参拝したり、1993年(平成5年)から開催されている民話「王子の狐火」を再現したイベント「王子狐の行列」が開催される大晦日に『王子稲荷神社』を参拝しに立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2022年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR京浜東北線・王子駅の北口改札から徒歩6分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが、境内に数名の方がいる程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    武蔵野台地の崖線部分に位置するため境内に高低差があります。

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