hiroさんのクチコミ全481件
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投稿日 2024年09月15日
総合評価:4.0
『有章院霊廟二天門』は、江戸時代・中期となる1716年(正徳6年)に逝去された徳川幕府・第7代将軍「徳川家継」(諡号:有章院)を祀る霊廟として徳川家の菩提寺であり当時の徳川将軍家の手厚い保護により繁栄していた大寺院「増上寺」の広大な境内北側に位置する先代の徳川幕府・第6代将軍「徳川家宣」(諡号:文昭院)を祀る「文昭院霊廟」のさらに北側に隣接して「徳川家継」が逝去した翌年の1717年(翌享2年)に徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」によって建立された霊廟建築群の入口として惣門(正門)となる銅瓦葺き切妻造り屋根の三間一戸八脚門です。
また、第8代将軍「徳川吉宗」がその後に当時の徳川幕府・財政再建を主導した政策の「享保の改革」により霊廟建築の建立が廃止されており、『有章院霊廟』以降は既存する「徳川将軍家霊廟」に合祀する形式に代わっており、「徳川吉宗」以降の徳川将軍家の遺体については、既存の霊廟・奥院に新たに宝塔のみが造営され埋葬されるようになっています。
ちなみに第7代将軍「徳川家継」は、「徳川家宣」が第6代将軍に就任した1709年(宝永6年)に「徳川家宣」の四男として誕生してから、わずか3年後の1712年(正徳2年)に第6代将軍「徳川家宣」が逝去したことに伴い、翌年の1713年(正徳3年)に徳川幕府・歴代最年少将軍(数え5歳、満4歳)として第7代将軍に就任していますが、先代の「徳川家宣」と同様に将軍に就任してから3年後の1716年(正徳6年)に風邪による急性肺炎が原因と考えられている病でこの世を去っています。
『有章院霊廟』の建造物群については、「本殿・相之間・拝殿」が一体となった権現造りの御霊屋を中心に惣門の「二天門」から御霊屋に通じる参道廻りに「勅額門」、「鐘楼」、「水盤舎」、「井戸屋形」、「中門及び前廊」など、そのほか奥院に通じる「唐門及び前廊」、「拝殿」、「中門」、「宝塔」など複数の建造物で構成されており、かつての広大な「増上寺」境内にあった「徳川将軍家霊廟」とともに1930年(昭和5年)になると当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に指定されています。
1945年(昭和20年)の太平洋戦争末期になると「増上寺」境内も東京大空襲による戦災に見舞われており、『有章院霊廟二天門』をはじめいくつかの建造物が被災を免れていますが、江戸時代に繁栄した「増上寺」境内のほとんどの建造物が焼失しており、国宝保存法から1950年(昭和25年)に新しく制定された文化財保護法施行に伴い戦災を免れた『有章院(徳川家継)霊廟二天門』が国指定の重要文化財となっています。
さらに1958年(昭和33年)になると「増上寺」境内北側および南側に存在していた「徳川将軍家霊廟」の発掘調査が実施され遺体・遺骨を調査した上、荼毘に付されて新たに整備された現在のコンパクトな「徳川家墓所」に埋葬されています。
かつての『有章院霊廟』および「文昭院霊廟」跡地となった「増上寺」境内・北側エリアは、1964年(昭和39年)に開催の「東京オリンピック」にむけて民間の敷地に代わりオリンピック開幕直前に「東京プリンスホテル」がオープンしているほか、戦災を免れて敷地内に残る『有章院霊廟二天門』も敷地と同様に「増上寺」からホテル経営の民間所有となり現在に至っています。
今回は、「芝公園」エリアを訪れる機会があり現在の「増上寺」を中心に散策して廻り、「東京プリンスホテル」敷地内駐車場の東側となる日比谷通り(都道409号)沿いに位置する『有章院霊廟二天門』を写真撮影しましたが、2015年(平成年)から4年間の保存修理工事が実施されており、色鮮やかな朱塗りの木造部分に金色の鍍金が施された華やかな装飾金物が目を引く惣門で見ごたえがあり、太平洋戦争で焼失した御霊屋などの建造物を想像しながら楽しむことができました。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営地下鉄三田線・御成門駅A1出口から直ぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後に立ち寄りましたが、日比谷通り歩道を通る方も少なく写真撮影をする方を数名見かける程度です。
- バリアフリー:
- 4.0
- 日比谷通り歩道から数段の石段がありますが、二天門の周囲に柵があるので歩道から写真撮影する程度であれば問題ありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 徳川家継を祀る有章院霊廟の惣門であり国指定の重要文化財です。
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国内初の公園として開園し、現在は都立芝公園・港区立芝公園・プリンス芝公園で構成されています!
投稿日 2024年08月31日
総合評価:4.0
『芝公園』は、明治維新後における当時の政府が欧米諸国の公園施設を国内にも取り入れることを検討して1873年(明治6年)に制定した”公園制定に関する太政官布達”によって、東京の神社仏閣などの境内を中心に人々が集うエリアとして国内初の公園に指定した5箇所の公園のひとつとして開園しています。
ちなみに国内初の公園に指定されたエリアは、「浅草寺」(浅草)、「寛永寺」(上野)、「増上寺」(芝)、「富岡八幡宮」(深川)、「飛鳥山」(王子)の5箇所となります。
『芝公園』が開園した当時の「増上寺」は、江戸時代に徳川家の菩提寺として徳川将軍家の手厚い保護により繁栄していた大寺院であり、現在の港区芝公園1丁目から4丁目・港区芝大門1丁目・港区西新橋3丁目にわたる広大な境内を国有地として25区画(1号地~25号地)に区分けして整備が進められています。
その後の昭和初期に開戦された太平洋戦争が終結すると1947年(昭和22年)に”社寺等に無償貸付してある国有財産の処分に関する法律”により、政教分離の観点から寺社境内以外となる宗教色のない敷地部分が公園エリアとなり「増上寺」境内などの外周部分を取り囲むようにリング状の緑地帯で形成された『都立芝公園』、あわせて東京都特別区部再編により港区が制定され「増上寺」境内南側の公園1号地エリアの一部となる日比谷通り(都道409号)沿いの一画に『港区立芝公園』が誕生しています。
さらに当初の『芝公園』国有地から「増上寺」所有の境内に戻ったエリアも時代の流れの中で一部が民有地に移り変わっており、1999年(平成11年)になると「増上寺」境内南側の公園1号地エリアの一部であった環状3号線(都道319号)および白山祝田田町線(都道301号)沿いの一画を民間活力による都市計画公園等整備事業とするホテル施設開発事業が東京都より”都市計画法59条第4項”に基づく特許事業の許可が取得され、2005年(平成17年)に開業した「東京プリンスホテル パークタワー」(現:ザ・プリンス パークタワー東京)施設内の地下フロア部分(会議・宴会場施設など)に広がる上部空間(ホテル宿泊施設棟2階レベル)を人工地盤として緑地整備が施された『プリンス芝公園』が誕生しています。
現在の『芝公園』は、これらの東京都が管理する『都立芝公園』・港区が管理する『港区立芝公園』・ホテル施設が所有する『プリンス芝公園』で構成されており、今回は平日の午後に「増上寺」を参詣したのち「増上寺」南側に位置する『港区立芝公園』に立ち寄り、さらに南側に鎮座する「芝東照宮」を参詣してから『都立芝公園』1号地エリアに整備されている遊歩道を歩いて『プリンス芝公園』までを散策して廻りました。
『港区立芝公園』は、芝生広場を中心に構成された開放的な空間が広がるエリアとなっており、「東京タワー」も望むことができるので小さな子供連れ家族のピクニックなどにお薦めできます。
『都立芝公園』1号地エリアは、「梅園」(銀世界)が整備されていますが立ち寄った時期が11月だったので、機会があれば梅の咲く時期にあわせてまた立ち寄ってみたいと感じました。
この「梅園」は、もともと江戸時代より現在の新宿区西新宿3丁目に存在していた梅の名所であり、一面に咲く見事な白い梅の花の様子から銀世界と称されていましたが、明治期後期にガス供給所事業者の所有地となりガスタンク建設にともない『芝公園』17号地に移植され、さらに1966年(昭和41年)の道路拡張工事にともない現在地に再び移植されています。
そのほか『都立芝公園』1号地エリアには、「梅園」に隣接して都内最大規模の前方後円墳「芝丸山古墳」および「丸山貝塚」があり、この樹木に覆われた起伏のある傾斜地に整備された遊歩道を歩いていると都会にいることを忘れてリフレッシュできました。
『プリンス芝公園』は、芝生広場から「東京タワー」の全景を望むことができ「東京タワー」の撮影スポットとしてお薦めできます。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 散策して廻った公園1号地エリアの最寄り駅は、都営地下鉄三田線・芝公園駅(A4出口)です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後に散策して廻りましたが、都立芝公園の起伏のある地形に整備されている遊歩道ですれ違う人はいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 芝丸山古墳など起伏のあるエリアもあります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 樹木に囲まれた遊歩道を歩いてリフレッシュしたり、東京タワーを写真撮影したり楽しむことができました。
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投稿日 2024年08月18日
総合評価:4.0
『台徳院霊廟惣門』は、1632年(寛永9年)に逝去された徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」(諡号:台徳院)を祀る霊廟として当時の徳川家の菩提寺であった広大な「増上寺」境内の南側に建立された「本殿・相之間・拝殿」を中心に墓所(土葬)となる「奥院宝塔」などの壮麗な建造物群で構成された霊廟建築の正門にあたる銅瓦葺き屋根の前後裾唐破風付き入母屋造り三間一戸八脚門です。
ちなみに「徳川秀忠」は、「徳川家康」の三男であり「徳川家康」の後継ぎとして、1595年(文禄4年)に戦国大名「浅井長政」と織田信長の妹「お市」の三女である「お江」が正室(継室)として「徳川秀忠」のもとに輿入れ、1603年(慶長8年)に徳川幕府が開かれたのちの1605年(慶長10年)から徳川幕府・第2代将軍に就任、1623年(元和9年)になると将軍職を「徳川秀忠」の次男「徳川家光」に譲り、「徳川秀忠」は大御所となっています。
その3年後の1626年(寛永3年)になると「徳川秀忠」に先立ち「お江」(諡号:崇源院)が逝去し、「増上寺」境内に火葬して埋葬されており、『台徳院霊廟』の建立にあわせて『台徳院霊廟』北側に寄り添うように「崇源院霊屋」が合築されています。
1930年(昭和5年)になると『台徳院霊廟』の建造物群である「本殿・相之間・拝殿」、「渡廊」、「中門」、「透塀」、「水盤舎(2棟)」、「勅額門」、「惣門」「丁子門」、「奥院宝塔(木造)」、「奥院覆屋」、「奥院中門」、「奥院玉垣」、「奥院拝殿」、「奥院御成門」が当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財)に指定、さらに1942年(昭和17年)になると「銅燈籠(8基)」も当時の国宝に追加指定されていますが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲において「増上寺」境内の多くの建造物が焼失しており、『台徳院霊廟』についても「惣門」、「勅額門」、「丁子門」、「奥院玉垣」、「奥院御成門」が被災を免れたもののそのほかの建造物は焼失しています。
1949年(昭和24年)になると焼失した『台徳院霊廟』の建造物とあわせて「奥院玉垣」が国宝保存法による国宝から正式に指定解除され、1950年(昭和25年)に制定された文化財保護法施行に伴い戦災を免れた「惣門」、「勅額門」、「丁子門」、「奥院御成門」が国指定の重要文化財となっています。
1958年(昭和33年)になると『台徳院霊廟』をはじめとするかつての広大な「増上寺」境内の南側および北側にあった「徳川家霊廟」の発掘調査が実施され遺体・遺骨は調査の上、荼毘に付されて新たに整備された現在の「徳川家墓所」に埋葬されており、埋葬にあたっては「徳川秀忠」の木造宝塔が戦災で焼失しているため戦災を免れた「お江」の石造宝塔に「徳川秀忠」と「お江」が合祀されて埋葬しています。
かつての「徳川家霊廟」が現在の「徳川家墓所」にまとめた霊廟建築跡地は、民間の私有地となり『台徳院霊廟惣門』などの重要文化財・建造物も敷地所有者により管理されており、1959年(昭和34年)に『台徳院霊廟惣門』が曳家により東側におよそ45メートルとなる現在の日比谷通り(都道409号)沿いに移設され、現在は「ザ・プリンス パークタワー東京」のホテル敷地内の「プリンス芝公園」に通じる通用門となっています。
そのほかの「勅額門」、「丁子門」、「奥院御成門」については、1960年(昭和35年)に当時の「ユネスコ村」(埼玉県所沢市、現:狭山不動尊)に移築されています。
今回は、「芝公園」エリアを訪れる機会があり「増上寺」をはじめ「芝東照宮」、「都立芝公園(1号地)」、「港区立芝公園」、「プリンス芝公園」などを散策して廻り、『台徳院霊廟惣門』を写真撮影しました。
徳川将軍家などを中心に江戸時代に繁栄した「増上寺」など歴史を感じながら歴史的な建造物とともに「東京タワー」などを写真撮影をして廻り楽しむことができました・・・- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 最寄駅は、都営地下鉄三田線・芝公園駅(A4出口)です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 日比谷通り(都道409号)沿いですが、惣門の前で立ち止まる方は少なかったです。
- バリアフリー:
- 3.5
- 日比谷通り(都道409号)から惣門の前に数段の段差があり、惣門をくぐりプリンス芝公園に通じる部分は階段があります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 徳川秀忠を祀る台徳院霊廟の正門であり国指定の重要文化財です。(現在は、ホテル施設・プリンス芝公園に通じる通用門です。)
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投稿日 2024年08月14日
総合評価:3.5
『伊能忠敬測地遺功表』は、江戸時代中期から後期とされる徳川幕府の第11代将軍・徳川家斉の時代に「伊能忠敬」が中心となり国内各地をめぐり実測して得られた測量データをもとに作製された国内初の日本地図として知られる「大日本沿海輿地全図」(通称:伊能図)の精度の高さから近代日本地図の始祖とされる「伊能忠敬」の功績を顕彰するため、東京地学協会によって港区芝公園4丁目に位置する都立芝公園(1号地)の一画に建立された記念碑です。
1889年(明治22年)に建立された当初の『伊能忠敬測地遺功表』は、高さ約7.3メートル(2丈4尺)におよぶオベリスク(方尖柱)型の青銅製・記念碑でしたが、昭和初期に開戦された太平洋戦争が激化する中で武器製造などの資源不足を補うため制定された政府の金属類回収令によって記念碑の台座部分のみを残し青銅製の金属部分が撤去され終戦を迎えていました。
その後の1965年(昭和40年)になると再び東京地学協会により明治期に建立されていた記念碑の台座の上に新たな石造・記念碑として再建されて現在に至っています。
「伊能忠敬」については、江戸時代中期の1745年(延享2年)に現在の千葉県山武郡九十九里町小関で生まれ、17歳で現在の千葉県香取市佐原で酒造家を営んでいた伊能家の婿養子となり、江戸時代後期の1795年(寛政7年)に50歳で隠居してから江戸・深川黒江町(現:江東区門前仲町1丁目)に住居を構えて天文学者(江戸幕府天文方)の高橋至時に弟子入りして本格的に天文学および測量技術を学び、55歳となった1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)にわたり国内各地をめぐる測量事業の旅(合計10回)が実施(第9次・測量事業のみ「伊能忠敬」は不参加)され、測量データをもとに「大日本沿海輿地全図」の作製を進めているさなかの1818年(文化15年)に「伊能忠敬」は73歳で生涯を終えています。
しかしながら「大日本沿海輿地全図」が未完成のため「伊能忠敬」の死は隠され、高橋景保(高橋至時の長男)を中心に「大日本沿海輿地全図」の作製が進められ「伊能忠敬」が逝去してから3年後の1821年(文政4年)に大・中・小の縮尺が異なる3種類の「大日本沿海輿地全図」が完成し、国内各地を実測して得られた測量データとともに徳川幕府に納められています。
「大日本沿海輿地全図」が精密な地図であることから徳川幕府秘蔵の禁制品扱いとして保管されることとなりますが、長崎オランダ商館付の医師・シーボルトによって地図の写しが海外に流出したことで日本の測量技術力の高さが海外に認識されるようになっています。
ちなみに「伊能忠敬」一行の「大日本沿海輿地全図」の測量事業の旅が高輪大木戸(現:港区高輪2丁目、都営地下鉄浅草線・泉岳寺駅付近)を起点にはじまったことから、高輪大木戸にほど近い芝公園内が『伊能忠敬測地遺功表』の建立場所に選定されています。
今回は、平日の午後に芝公園エリアを訪れる機会があり時間に少し余裕があったので国内初の都市公園となった広大な芝公園内の1号地などを散策して廻り、初めて『伊能忠敬測地遺功表』に立ち寄りました。
『伊能忠敬測地遺功表』が建立されている場所は、都立芝公園(1号地)のエリアの古墳時代中期となる4世紀後半から5世紀後半に築造と推測される都内最大規模の前方後円墳「芝丸山古墳」の墳頂部分となります。
現在は、樹木に覆われているため「芝丸山古墳」に関する案内板などが設置されていなければこのエリアが古墳であることを実感することはできませんが、樹木で覆われた起伏のある地形に整備されている遊歩道で標高約16メートルとされる墳丘を登っていると都会の雑踏が消えて都心にいることを忘れてリフレッシュすることができ散策して廻るのにお薦めできるエリアです。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 最寄駅は、都営地下鉄三田線・芝公園駅(A4出口)です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後に立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 2.5
- 起伏のある地形に整備されている遊歩道を登ります。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 記念碑自体は特別なものではありませんが、遊歩道を歩いていると都心にいることを忘れてリフレッシュすることができました。
-
歴代徳川将軍をはじめ徳川将軍家の子女(計37名)が埋葬されています!
投稿日 2024年07月07日
総合評価:4.0
『徳川家墓所 (徳川家霊廟)』は、浄土宗の格式の高い寺院とされる七大本山(増上寺・光明寺・善光寺大本願・金戒光明寺・知恩寺・浄苑華院・善導寺)のひとつに数えられる「増上寺」(港区芝公園4丁目)境内の北西側の一画に位置し、江戸時代における歴代徳川将軍(6名)をはじめ徳川将軍家の子女(32名)が埋葬されているエリアです。
「増上寺」と「徳川家」の関係については、1590年(天正18年)に豊臣秀吉による小田原征伐を終えたのちの領地替えで新たな徳川家康の居城となった「江戸城」に向かう徳川家臣団の一行を見物する大勢の江戸庶民が群がる中で現在の千代田区平河町・麹町付近に位置していたとされる「増上寺」門前で徳川家康が騎乗した馬が突然足を止めて動かなくなったことで、徳川家康と「増上寺」法主:存応上人が出会ったことがはじまりと伝えられています。
その際に存応上人の計らいにより「増上寺」境内で休憩した徳川家臣団が立ち去る際に徳川家康が存応上人に”明朝にひとりで参詣し斎をともにしたい”と告げると、約束通り翌朝に「増上寺」を訪れた徳川家康が”先祖代々の菩提所は三河の「大樹寺」であるが、江戸の地に移った自分が大将の身分で菩提所がないのは死を忘れるのと同じであるので「増上寺」を菩提所にしたい”と存応上人に頼み、意気投合した存応上人が徳川家康と阿彌陀仏との縁を結ばせる十念を授けたと伝えられています。
さらに1598年(慶長3年)になると「江戸城」拡張工事など江戸府内の整備にともない「増上寺」は、「江戸城」南側の裏鬼門にあたる現在地に遷座し、徳川幕府が開かれた1603年(慶長8年)から1867年(慶応3年)に政権を返上するまでの264年間にわたり続いた江戸時代に徳川家の菩提寺として、徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄しています。
江戸時代の『徳川家霊廟』は、現在の「増上寺」大殿(本堂)南側に位置する「港区立芝公園」および「ザ・プリンス パークタワー東京」から大殿北側に位置する「東京プリンスホテル」までの敷地を含む広大な境内の中で大殿を取り囲むように壮麗な拝殿および惣門などの霊廟建造物群が建立されており、1930年(昭和5年)に当時の国宝保存法による国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されていましたが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により「増上寺」境内の建造物の大部分を焼失しています。
その後の1958年(昭和33年)から焼失した『徳川家霊廟』の発掘調査が実施されるとともに発掘調査により霊廟各所に土葬されていた遺体は荼毘にふされ、現在の境内・北西側エリアのコンパクトな一画に整備された『徳川家墓所』に再び埋葬されています。
今回は、平日の午後に国内初の公園として1873年(明治6年)に指定された広大な芝公園エリアを散策して廻り、歴史上の徳川将軍をはじめとする徳川将軍家の子女が埋葬されている『徳川家墓所』に立ち寄りました。
ちなみに『徳川家墓所』正門の鋳抜門(銅造・鋳造製)は、東京大空襲の戦災を免れた1713年(正徳3年)に建立された徳川幕府・第6代将軍:徳川家宣(諡号:文昭院)であった「文昭院霊廟」奥院の中門が移築されているなど『徳川家墓所』として威厳を感じさせる外観となっています。
『徳川家墓所』内は、塀で囲まれ樹木に覆われたコンパクトにまとめられたスペースに宝塔および燈篭が配置され都会にいながらがら雑踏を感じさせない静寂な空間となっており、空を見上げると間近に望むことができる近代的な東京タワーとは対照的に江戸時代の徳川将軍をはじめとする歴史上の人物が埋葬されている宝塔および燈篭などで囲われた静寂な空間にひとりでいると時空間をさまよっているような不思議な気分になりました。
また敷地内に設置されている案内板により、徳川家の菩提寺として徳川将軍家の手厚い保護により大寺院として繁栄してきた江戸時代から明治期の「増上寺」境内の様子をうかがい知ることができ楽しむことができました。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 最寄駅は、都営地下鉄三田線・御成門駅または芝公園駅です。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後に立ち寄りましたが、墓所内は誰もいませんでした。拝観冥加料500円(高校生以下無料)
- バリアフリー:
- 3.5
- 墓所エリアの敷地は、数段の高低差があります。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 鋳抜門は、第6代将軍・徳川家宣が埋葬されていた文昭院霊廟・奥院の中門として1713年(正徳3年)に建立されたものです。
-
投稿日 2024年05月28日
総合評価:4.0
『芝東照宮』は、徳川家康(神号:東照大権現)を祀る全国各地に鎮座する「東照宮」において、「日光東照宮」(栃木県日光市)・「久能山東照宮」(静岡県静岡市駿河区)・「上野東照宮」(東京都台東区)とともに「四大東照宮」のひとつに数えられ、徳川家康の等身大・木造坐像となる”寿像”(木造徳川家康坐像)を御神体として祀る港区芝公園4丁目に鎮座する神社です。
この御神体である”寿像”は、徳川幕府が開かれる2年前の1601年(慶長6年)に還暦を迎えた徳川家康の命で彫刻されたと伝わるもので、その4年後の1605年(慶長10年)に徳川家康が将軍職を第2代将軍:徳川秀忠に引き継いだのち大御所として居城とした駿府城(現:駿府城公園・静岡市葵区)内に祀られています。
さらに徳川家康の遺言により、徳川家康が逝去した翌年の1617年(翌元和3年)に徳川家の菩提寺である芝・「増上寺」境内に徳川家康の法名”安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士”から「安国殿」と呼ばれる社殿が建立され、”寿像”を奉遷したことが『芝東照宮』のはじまりとされています。
また、1633年(寛永10年)に徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が新たな「安国殿」を建立したのちの1641年(寛永18年)になると現在の『芝東照宮』の地に「安国殿」を移転改築したほか駿府城にあった惣門を移築、さらに拝殿をはじめ鳥居・唐門などが整備されています。
明治維新後は、神仏分離令により『芝東照宮』として「増上寺」から分離しており、参道の大鳥居に掲げられている”東照宮”と書き込まれた扁額には、徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜の跡を継いだ徳川宗家・第16代当主:徳川家達の名前が書き込まれています。
1915年(大正4年)になると1641年(寛永18年)に移転改築された社殿(安国殿)が現行法による重要文化財に相当する当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定されていますが、太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失しており、現在の社殿は1969年(昭和44年)に再建(権現造り・鉄筋コンクリート造)されたものとなります。
そのほか御神体の”寿像”が1963年(昭和38年)に東京都の有形文化財に指定されています。
今回は、平日の午後に芝公園エリアを散策して廻り『芝東照宮』を参拝しましたが、高低差のある地形の樹木に覆われたコンパクトな境内は、静寂で都会の雑踏を感じさせない穏やかな雰囲気が漂う居心地のよい空間となっており、また芝公園エリアを訪れる機会があれば参拝に立ち寄りたいと感じるエリアです・・・
ちなみに『芝東照宮』境内にある存在感のある御神木の大イチョウは、徳川幕府・第3代将軍:徳川家光が植樹したと伝えられており1956年(昭和31年)になると東京都の天然記念物に指定されています。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営地下鉄三田線・芝公園駅A4出口から直ぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後に参拝しましたが、自分以外に参拝者はいませんでした。
- バリアフリー:
- 2.5
- 境内は、高低差があり参道の大鳥居をくぐると石段を上ります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 樹木に覆われコンパクトな境内は、静寂で穏やかな雰囲気が漂う居心地のよい空間です。
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投稿日 2024年05月26日
総合評価:3.5
「御成門」は、建立時期など定かではありませんが江戸時代に徳川家の菩提寺として繁栄した当時の広大な「増上寺」境内の北方馬場に位置していた裏門の通称であり、明治維新後の近代化が進む中で関東大震災および東京大空襲など東京の都心を襲った大災害に見舞われながらも現存する数少ない江戸時代に造営された建造物のひとつになります。
この裏門が「御成門」と呼ばれるようになるまでの歴史については、豊臣秀吉の小田原征伐により戦国の時代に終止符が打たれた1590年(天正18年)に領地替えによって「江戸城」を居城とした徳川家康が江戸入府を機に「増上寺」が徳川家の菩提寺となったことがはじまりとなります。
さらに「江戸城」拡張工事にともない1598年(慶長3年)に現在の港区芝公園エリアに遷座した「増上寺」は、江戸時代を迎えると徳川将軍家の手厚い保護により徳川幕府・第2代将軍:徳川秀忠をはじめ第6代将軍:家宣、第7代将軍:家継、第9代将軍:家重、第12代将軍:家慶、第14代将軍:家茂の6名におよぶ歴代将軍のほか歴代将軍の正室(5名)・側室(5名)さらに歴代将軍の子女など(22名)の合計38名が埋葬される壮麗な「徳川家霊廟」が「増上寺」本堂(大殿)の両側に建造されるなど大寺院として繁栄し、最盛期の江戸時代における広大な境内には120以上もの堂宇が造営されています。
そのような中で歴代徳川将軍が「徳川家霊廟」を参詣する折に「江戸城」から「増上寺」までの参詣ルートとして最短となる「増上寺」境内の北側の裏門を利用していたことから「御成門」と呼ばれるようになっています。
明治時代を迎えてからは、広大な「増上寺」境内が1873年(明治6年)に国内初の公園に指定され境内を25区画(1号地から25号地)に区分けされた「芝公園」が開園、また1888年(明治21年)になると江戸時代に歴代徳川将軍の墓所があった江戸時代の「寛永寺」であり、「増上寺」と同様に国内初の公園に指定された「上野恩賜公園」に向かう南北方向を結ぶ区間が当時の一等道路(現:日比谷通り・都道409号)に指定され、この道路整備工事にともない1901年(明治34年)に「御成門」を現在の日比谷通り・御成門交差点付近から南側に位置する日比谷通り・港区芝公園三丁目交差点を西側方向の白山祝田田町線(都道301号)に通じる道路沿いとなる「芝公園」3号地エリア内に移設しています。
さらに昭和時代を迎えると太平洋戦末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲により、「芝公園」となった「増上寺」境内の建造物のほとんどが戦災で焼失した中で「御成門」はかろうじて焼失を免れています。
また「御成門」が移設された「芝公園」3号地エリアは、1964年(昭和39年)に開催された”東京オリンピック”にあわせて「東京プリンスホテル」の敷地となりホテルがオープンしています。
「東京プリンスホテル」敷地内駐車場の北側にひっそりと立入防止用の鋼製フェンスで囲われた現在の「御成門」の景観を見ていると徳川将軍が利用していたころの華やかであったと想像できる江戸時代とのギャップが大きく寂しさがこみ上げてきましたが、「御成門」にまつわる歴史を改めて学び楽しむことができました。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営地下鉄三田線・御成門駅A1出口から直ぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後に立ち寄りましたが、人通りも少なく立ち止まって見るのは自分だけでした。
- バリアフリー:
- 3.5
- 鋼製フェンス越しに見るだけなので段差など特に問題ないです。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 鋼製フェンスで囲われ、外側を歩道から、内側をホテル敷地内駐車場からフェンス越しに見るだけです。
-
投稿日 2024年01月04日
総合評価:4.0
『白浪五人男』は、”白浪”(盗賊の異名)である盗賊の首領「日本駄右衛門」・女装の怪盗「弁天小僧菊之助」・神出鬼没の盗賊「忠信利平」・元小姓の最年少盗賊「赤星十三郎」・元漁師の船強盗「南郷力丸」の5人が主役となる「石川五右衛門」および「鼠小僧」と並ぶ日本屈指の盗賊として描かれた歌舞伎の人気演目のひとつ「青砥稿花紅彩画」(全3幕9場)の通称です。
この『白浪五人男』が初公演されたのは、幕末の徳川幕府第14代将軍・徳川家茂の時代である1862年(文久2年)とされ、「浅草寺」の東門(二天門)から北東方向に徒歩8分程度(約550メートル)となる当時の浅草猿若町(現:台東区浅草6丁目)にあった江戸三座のひとつに数えられる歌舞伎興行の芝居小屋「市村座」となります。
また『白浪五人男』の作者については、歌舞伎作家として幕末から明治期に活躍した「河竹黙阿弥」であり、『白浪五人男』の初公演当時は2代目「河竹新七」として現在の「仲見世通り」および「伝法院通り」が交差する一画の裏手部分となる台東区浅草1丁目に位置する建物「仲見世会館」の脇付近で暮らしていたとされています。
その様な縁もあり浅草エリアとなる隅田川・右岸側(西側)を南北方向に通る「馬道通り」の浅草二丁目交差点から西側方向に「浅草六区通り」および「ホッピー通り」に通じる5差路交差点まで(約300メートル)の東西方向を結ぶ「伝法院通り」の内、「馬道通り」から「仲見世通り」まで(約100メートル)の区間で構成されている「伝法院通り東商店会」の各所に歌舞伎『白浪五人男』に登場する盗賊集団の人形(5体)が設置されています。
以前より「伝法院通り」を通るたびに『白浪五人男』の5体の人形を気にしながら素通りしていましたが、今回は浅草エリアを訪れた際に5体の人形すべてを写真撮影して廻り楽しむことができました。(歌舞伎に興味のある方を中心にフォトスポットとしてお薦めできます。)
ちなみに歌舞伎『白浪五人男』は、”浜松屋の場”(2幕目第1場)における「弁天小僧菊之助」の見顕し口上、さらに”稲瀬川勢揃いの場”(2幕目第3場)における盗賊集団5人が舞台の花道に揃って横1列に並び順番に口上を述べる場面が見せ場のひとつになっています。
歌舞伎『白浪五人男』に登場する5人の盗賊については以下の通りです。
「日本駄右衛門」は、江戸時代中期の延享年間(1744年から1748年)に実在した遠江を拠点に東海道沿いの諸国を荒らしまわった尾張出身の浪人で盗賊の「日本左衛門」(本名:濱島庄兵衛)がモデルとされており、演目の中では人殺しなどの非道なことはしない盗賊集団の舵取り役である首領として貫禄のあるキャラクターとして描かれています。
「弁天小僧菊之助」は、盗賊集団5人の中で唯一の架空人物で幼いころに鎌倉・江ノ島の弁天様の見習い小僧をしていた設定のキャラクターであり、演目の中では美貌を生かした女装姿で相手を油断させる盗賊集団の中心核として描かれています。
「忠信利平」は、「日本駄右衛門」と同様に江戸時代中期に実在した盗賊で「日本左衛門」の手下をしていた「忠信利兵衛」がモデルとされ、幼いころから盗みを繰り返す神出鬼没な盗賊のキャラクターとして描かれています。
「赤星十三郎」は、江戸時代前期の明暦年間(1655年から1658年)から延宝年間(1673年から1681年)のころに実在した元・鳥取藩士で父親の同僚を斬殺したのち江戸で辻斬強盗をしていた「白井権八」がモデルとされ、前髪立ちの美少年の下級武士から盗賊になったキャラクターとして描かれています。
「南郷力丸」は、南湖(現:神奈川県茅ヶ崎市)の漁師の息子として生まれたのち手に負えないほどの悪事をはたらき「忠信利兵衛」とともに「日本左衛門」の手下として盗賊になった「南宮行力丸」がモデルとされ、船盗人など数々の悪事を重ねてきたキャラクターとして描かれています。
そのほか『白浪五人男』の5体の人形が設置されている全長約300メートル「伝法院通り」は、魅力的な店舗が集結しているので浅草エリアの観光スポットとしてもお薦めできます。- 旅行時期
- 2023年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 東京メトロ・浅草駅の1番口から北側方向にとほ3分程度の”伝法院通り”(伝法院通り東商店会)各所に設置されています。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- ”仲見世通り”付近は多くの観光客で賑わっています。
- バリアフリー:
- 4.5
- ”伝法院通り”に気になる段差はありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- ”伝法院通り東商店会”の各所に設置されているので商店街を散策しながらの写真撮影で楽しめました。
-
本格的な舞台装置を完備したホールでエンターテインメントショーを楽しめました!
投稿日 2023年12月24日
総合評価:4.0
『浅草公会堂』は、隅田川に架かる吾妻橋・右岸側の吾妻橋交差点から「国際通り(都道462号)」雷門一丁目交差点までの東西方向を結ぶ「雷門通り」浅草一丁目交差点から北側方向に通る「浅草オレンジ通り」(約180メートル区間)の突き当りエリアで「浅草寺本坊(伝法院)通用門」がある「伝法院通り」と「浅草オレンジ通り」が交わるT字路交差点の一画となる台東区浅草1丁目に位置する台東区が所有する公共施設として1977年(昭和52年)に竣工しています。
ちなみに『浅草公会堂』の敷地は、1928年(昭和3年)に当時の「浅草区役所庁舎」が建設されていた場所であり、1947年(昭和22)に浅草区と下谷区の合併により台東区が誕生すると「台東区役所浅草分庁舎(第二庁舎)」として、かつての「浅草区役所庁舎」がそのまま利用されていましたが、1973年(昭和48年)に現在の新たな「台東区役所庁舎」が建設され旧・下谷区と旧・浅草区の庁舎施設が統合されたことで1974年(昭和49年)に「台東区役所浅草分庁舎」が解体され、『浅草公会堂』建設に至っています。
『浅草公会堂』の建物概要については、「浅草オレンジ通り」に面する建物西側面が正面となりエントランス玄関が整備された地上5階・地下2階建ての鉄筋コンクリート造り(一部鉄骨造り)であり、建物内部にはメインとなる「ホール」施設をはじめ「展示ホール」施設および「集会室」施設のほか地下部分に自走式の駐車場施設で構成されています。
また『浅草公会堂』建物外部の「浅草オレンジ通り」に面したエントランス玄関脇の外構スペースを利用し「スターの広場」として1979年(昭和54年)より大衆芸能の発展に貢献してきたさまざまなジャンルにおける著名人のサイン入り手形のアルミ製プレートが舗装部分に埋め込まれて展示されています。
そのほか2021年(令和3年)2月からは、『浅草公会堂』建物設備(エレベーターのほか空調設備など)の老朽化および耐震改修工事にともない建物館内施設が休館となり、2022年(令和4年)1月にリニューアルオープンしています。
『浅草公会堂』館内詳細については、建物1階部分に床面積:182.9平方メートルとなるエントランスから間仕切り壁のないスペースが広がり絵画・書道・写真・生け花など各種展示内容に応じてパーテーションを組み合わせて自由に空間構成が可能な「展示ホール」施設が整備されています。
さらに建物2階から5階部分には、客席総数:1070席の3層客席(1層部分:545席・2層部分:336席・3層部分:189席)として歌舞伎および日本舞踊などの伝統芸能をはじめ各種コンサートおよび演劇などに対応可能な本格的な舞台装置を完備した建物メイン施設となる「ホール」施設が整備されています。
さらに建物3階から5階部分の各フロアには、さまざまな利用用途に対応できるようにタイプの異なる3室の「集会室」(各床面積:105.8平方メートル)が配置され、3階の「第1集会室」が会議・ワークショップなどの利用用途をイメージしたテーブル・イス・ホワイトボード・演台を備えている洋室タイプ、4階の「第2集会室」が小規模な稽古ごとなどによる発表会での利用用途をイメージした板貼り舞台付の畳敷き(32帖)の和室タイプ(別室となる控え室付き)、5階の「第3集会室」が動きのある稽古ごとの利用用途をイメージした床全面を板貼りとして姿見カガミを備えている和室タイプとなる浅草エリアにふさわしい「集会室」が整備されています。
浅草エリアを訪れた際に「伝法院通り」および「浅草オレンジ通り」をよく通っているので『浅草公会堂』の前は何度も通り過ぎていますが、今までに『浅草公会堂』建物館内を訪ねたことがありませんでした。
今回は『浅草公会堂・ホール』で開催された民謡民舞のエンターテインメントショー”民謡民舞今フェス2023”(主催:日本民謡協会)を観覧する機会があり初めて建物館内に立ち入りました。
『浅草公会堂』建物築年数も40年以上経過しているので建物1階エントランスから建物2階「ホール」ホワイエまでの動線などバリアフリーなどの観点から施設を見て廻ると気になる部分もありますが、「ホール」内設備は充実しており民謡民舞のエンターテインメントショーを充分に楽しむことができました。
機会があれば、また『浅草公会堂』に立ち寄ってみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2023年07月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.5
- 浅草駅(東京メトロ)1番出口から徒歩5分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 雷門から仲見世通りは観光客で賑わっているので、浅草観音通りから伝法院通りを利用しました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 建物1階エントランスから建物2階ホール・ホワイエまで段差・階段など気になる部分もあります。
- 見ごたえ:
- 4.5
- 本格的な舞台装置を完備しているなどホール内設備が充実しているので充分に楽しむことができました。
-
明治天皇・昭憲皇太后の事績を永く後世に伝える目的で国民の寄付金・勤労奉仕で整備された公園施設です!
投稿日 2023年10月29日
総合評価:4.0
『明治神宮外苑』は、「明治天皇」が崩御された1912年(明治45年)に大実業家「渋沢栄一」をはじめとする民間有志が帝都・東京に「明治天皇」陵墓となる京都・「伏見桃山陵」に匹敵する「明治天皇」を奉祀する神宮の造営を働きかけ、「明治天皇」の妃「昭憲皇太后」が崩御された1914年(大正3年)に「明治天皇」と「昭憲皇太后」を祀る内苑の『明治神宮』(渋谷区代々木神園町)を政府が国費で造営する方針とともに、「明治天皇」と「昭憲皇太后」の事績を永く後世に伝えることを目的とする『明治神宮外苑』の造営を民間有志で結成された「明治神宮奉賛会」が全国の国民からの寄付金を募り造営資金を取りまとめる方針が決定し、現在の青山通り(国道246号)の青山2丁目交差点北側方向に広がる「明治天皇」の”大喪の礼”が執り行われた葬場殿跡地となる新宿区霞ヶ丘町エリアおよび港区北青山エリアに位置する広大な「旧・青山練兵場跡地」に芸術・文化施設を中心にスポーツ施設を配置した西洋風緑地公園として1926年(大正15年)に竣工しています。
この『明治神宮外苑』が造営されるまでについては、1915年(大正4年)に母体となる『明治神宮』の地鎮祭が執り行われ、国内各地から献木された約10万本の椎・樫・楠木などの照葉樹を国内各地の青年団が主体となり勤労奉仕による”永遠の杜”を目指す人工森林の造苑整備がおこなわれ1920年(大正9年)に内苑が創建されています。
さらに1918年(大正7年)に「旧赤坂仮皇居御会食所」が『明治神宮外苑』東側の外苑東通り(都道319号)を挟んだ向かいに位置する現在の「明治記念館」(港区元赤坂2丁目)敷地内に移築・改修工事が行われ「憲法記念館」(現:明治記念館本館)として竣工したほか『明治神宮外苑』の地鎮祭も執り行われています。
ちなみに「憲法記念館」は、もともと1881年(明治14年)に「旧赤坂仮皇居」(現:迎賓館赤坂離宮)敷地内に国内初の迎賓館として建設、その後「伊藤博文」に下賜され「恩賜館」として伊藤家・別邸となっていた建物ですが、『明治神宮外苑』造営に伴い伊藤家より「明治神宮奉賛会」に献納されています。
『明治神宮外苑』の造営については、中心施設「聖徳記念絵画館」(「明治天皇」の生涯を中心に描いた絵画を展示する芸術・文化施設)および「葬場殿址記念物」(花崗岩の円壇内に楠木を植樹)の設計案が1918年(大正7年)に一般募集され、翌年から工事着工となり1926年(大正15年)に完成しています。
また「聖徳記念絵画館」の完成に先立ち1923年(大正12年)に「聖徳記念絵画館」の荘厳な雰囲気が強調されるよう計画的に遠近法の手法を採用し4列に植樹された「いちょう並木」の街路樹が整備されるなど『明治神宮』と同様に国内各地の青年団が勤労奉仕として植樹など造営工事に参加しています。
そのほかスポーツ施設として国内初の本格的陸上競技場「明治神宮外苑競技場」(現:国立競技場)の建設が1921年(大正10年)に着工・1924年(大正13年)に完成、「明治神宮野球場」の建設が1925年(大正14年)に着工・1926年(大正15年)に完成、「明治神宮相撲場」(後に明治神宮第二球場を建設)が1926年(大正15年)に着工・完成しており、『明治神宮外苑』として竣工した1926年(大正15年)に『明治神宮外苑』と各施設(聖徳記念絵画館・葬場殿址記念物・明治神宮外苑競技場・明治神宮野球場・明治神宮相撲場・憲法記念館)が『明治神宮』に奉献されています。
竣工当時の『明治神宮外苑』は、”永遠の杜”を目指す人工森林からなる内苑の『明治神宮』と対照的に「いちょう並木」から「聖徳記念絵画館」前面に通じる芝生の「中央広場」(現:軟式グラウンド)を核として日差しで明るい敷地内を敷地外周に向かうにつれて濃密な樹木で包み込む手法の西洋風緑地公園として整備がおこなわれています。
なお『明治神宮』が所有していた「明治神宮外苑競技場」は、1958年(昭和33年)の「第3回・アジア競技大会」メイン会場として「国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(通称:旧国立競技場)」(現:国立競技場)の建設が決定した1956年(昭和31年)に『明治神宮』から当時の「文部省」(現:日本スポーツ振興センター)に譲渡されています。
今回は、秋晴れの平日の午後に『明治神宮外苑』のシンボルとなる「聖徳記念絵画館」と「いちょう並木」を中心に『明治神宮外苑』内に完成して間もない「つば九郎ハウ巣」を散策しました。
「聖徳記念絵画館」に初めて入館しましたが海外からの観光客と思われる方も多く海外でも知名度ある美術館であることを実感しながら明治天皇の生涯にまつわる絵画を見て廻り、幕末から明治期の歴史を改めて学ぶことができ楽しむことができました。
また国の重要文化財であり国内各地の貴重な花崗岩・大理石などを使用した大正期の美術館建築も見ごたえがありお勧めできるです。
「つば九郎ハウ巣」は、プロ野球球団「東京ヤクルトスワローズ」の公式マスコットキャラクターのお家という設定で2022年(令和4年)10月にオープンしたコンパクトな展示施設ですが、写真撮影などをしながら楽しむことができました。
最後に「いちょう並木」を通り『明治神宮外苑』を後にしましたが、秋晴れの青空に映える黄葉を写真撮影する国内外の方々で賑わっており、都内有数の人気観光スポットであることを実感しながら楽しむことができました。
現在の『明治神宮外苑』は再開発事業計画が検討されていますが、『明治神宮外苑』が今後どのように変わるのかも気になります・・・- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 最寄り駅はJR・信濃町駅、都営地下鉄・国立競技場駅、東京メトロ・外苑前駅となります。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 平日の午後でしたが”いちょう並木”は写真撮影をする国内外の方々で賑わっていました。
- バリアフリー:
- 3.5
- 聖徳記念絵画館に入場するはアプローチ部分が階段となっています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 樹木に囲われた園内は、都心の雑踏を感じさせない青空に映える心地良いエリアです。
-
建築年代が江戸時代中期と推測される名主を務めていた上級農家の住居です!
投稿日 2023年09月23日
総合評価:4.0
『松井家住宅』は、江戸時代の上野国・小幡藩(現:群馬県甘楽町エリア)において名主を務めていた上級農家とされる旧・松井家の住居であり、この地域における代表的な格式のある農家建築造りの様式から建築年代が江戸時代中期(18世紀から19世紀初頭)と推測されています。
1991年(平成3年)になると甘楽町小幡にある当時の「甘楽町物産センター」(現:「道の駅 甘楽」)敷地内に甘楽町小川から移築・復元され、現在では「道の駅 甘楽」において古建築の休憩施設『松井家住宅』として一般公開(見学無料)されています。
ちなみにこの甘楽町エリアは、「織田信長」の次男「織田信雄」が”本能寺の変”から33年後の”大坂夏の陣”で豊臣家が滅亡し元号が改められた徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代である1615年(元和元年)に徳川幕府から与えられた領地であり、「織田信雄」の四男「織田信良」の代には上野国・小幡藩主を務めさらに「織田信邦」の代になって小幡藩主を退いた徳川幕府・第10代将軍「徳川家治」の時代である1767年(明和4年)までの152年間にわたり「織田信長」の直系である織田家8代(織田信雄・信良・信昌・信久・信就・信右・信富・信邦)がこの地を統治してた城下町です。
また「織田信雄」が風光明媚なこの小幡に地に理想の庭園を築くため京都から茶人を招いて織田家が小幡藩邸となる地に7年の歳月とともに多額の資金を投じて完成させた複数の茶室を設けた池泉回遊式の大名庭園として2000年(平成12年)に国の名勝に指定された「楽山園」をはじめ現在も城下町の面影が残る街並みとなっています。(「楽山園」の名称については「織田信雄」が論語の”智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ”から命名したと伝えられています。)
そのほか甘楽町における城下町の面影が残る街並みについては、甘楽町エリアの史跡・遺構などの名所をめぐる道のり(約7.7キロメートル)が『松井家住宅』のある「道の駅 甘楽」を起点および終点となる「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」として「ウォーキング 新日本歩く道紀行1000の道」における”文化のみち”に認定されています。
『松井家住宅』のある「道の駅 甘楽」は、上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)となる県道46号(富岡神流線)沿いに位置する食事処および地元の農産物・特産品などの販売コーナーとあわせて甘楽町観光案内所があるコンパクトな施設ですが、車中泊が可能な駐車スペースおよび電気自動車(EV)用充電スタンドが完備されています。
今回は、自動車を利用して上信越自動車道・富岡インターチェンジから初めて甘楽町小幡エリアを訪れて観光スポットのひとつである「こんにゃくパーク」に立ち寄ってから県道197号を自動車で通り、「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」の見どころのひとつである「養蚕農家群の街並み」を車窓から眺め歴史を感じながら「道の駅 甘楽」に立ち寄り『松井家住宅』を見学しました。
木造平屋建ての『松井家住宅』建物外観は、屋根部分が寄棟造りの茅葺き仕上げ(現在は金属葺き仕上げに改修済です)、外壁部分が真壁造りで柱型および梁型の構造体の木材を現しとする土壁に白漆喰を施す仕上げとなっています。
『松井家住宅』建物内部については、天井板を設けずに屋根の小屋組が現しの外壁上部開口部分からの換気および採光を取り込むことができる空間で構成されており、間取りについても床面積の3分の2程度を占める床板貼りスペースの建物奥に上級農家として格式を感じさせる床の間が設けられ建物中央部分に囲炉裏が設置された間仕切りのない座敷が広がり、床の間の脇となる建物隅の一画を独立性の高い間仕切りで囲われた寝室となる部屋が設けられています。
さらに床面積の3分の1程度を占める土間スペースに作業場および台所となる水廻りのほかに馬屋を設置した構成となっています。
『松井家住宅』内には、住居として生活していたころの道具類なども残されており昔の生活の様子などを想像しながら建物を見て廻り楽しむことができました。
機会があれば、また甘楽町に立ち寄り『松井家住宅』のほか「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」などを街歩きをして廻りたいと感じる魅力的なエリアです・・・- 旅行時期
- 2023年07月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- 上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)の”道の駅 甘楽”敷地内にある休憩施設です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 建物内部を見学するのは自分のみでした。
- バリアフリー:
- 3.5
- 古建築なので入口敷居は段差になっています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 江戸時代の建物とともに住居として生活していたころの道具類なども残されています。
-
投稿日 2023年09月20日
総合評価:3.5
『佐久一萬里温泉ホテル』は、上信越自動車道・佐久インターチェンジの南側に広がる佐久盆地の中心部となる佐久市役所がある佐久市中込エリアの県道138号(香坂中込線)沿いに位置する天然温泉施設を完備した宿泊施設で、アクセスは上信越自動車道・佐久インターチェンジから自動車で10分程度(およそ4キロメートル)、電車を利用した場合は最寄り駅のJR小海線(愛称・八ヶ岳高原線)・北中込駅(無人駅)から徒歩5分程度です。
ホテルの駐車場施設については、建物地下部分および屋外敷地内さらにホテルに隣接する敷地外にもあわせて300台以上の無料駐車スペースが確保されており、宿泊時に事前予約ができませんが自動車を利用しての宿泊は安心できるので自動車利用をお薦めします。
ちなみに『佐久一萬里温泉ホテル』は、「ホテル一萬里」として1967年(昭和42年)に北佐久郡軽井沢町で創業したのちの1989年(平成元年)に現在地に移転するとともに1991年(平成3年)になると地中およそ1300メートルの温泉を掘削し「佐久一萬里温泉ホテルゴールデンセンチュリー」として営業していましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり2020年(令和2年)5月に営業停止となっていました。
しかしながら国内各地のホテル再建を手掛けてホテル経営をする横浜市中区に本社を構えるブリーズベイホテル(略称:BBH)のホテルグループとして2021年(令和2年)3月にリニューアルオープンしています。(俳優の高橋英樹さんが名誉支配人として、フリーアナウンサーの高橋真麻さんがチーフプロデューサーとして就任されているホテルグループです。)
この『佐久一萬里温泉ホテル』については、20年ほど以前に家族でよく利用していたホテルで5年前にもしばらく振りに宿泊したことがあり、今回はBBHホテルグループになってから初めて宿泊しました。
今回は家族ほかの計4名で宿泊(1泊)しましたが、以前に利用していたホテル時代と比較すると建物外観およびエントランスロビーは、以前のシャンデリアおよび石貼りの内装などがそのまま残されており2階までの吹き抜け空間さらに2階に通じる階段の豪華な雰囲気は変わりなく残されています。(BBHホテルグループの名誉支配人およびチーフプロデューサーを務める高橋さん親子が笑顔で並んでいる全身パネルがエントランスロビーに飾られお出迎えしてくれます。)
客室についても以前と変わらずシングル・ツイン・ダブルの洋室タイプのほかに大人数で利用可能な和室・和洋室の多彩なタイプの客室があり、宿泊代もリーズナブルであり子供連れの三世代家族など大人数による宿泊を計画する際にとても便利なホテルでお薦めできますが、客室内のリニューアルが実施されていないので古さを感じました。(今回の宿泊は家族3名で12帖の和室を利用しましたが客室内のテレビ放送が写らずフロントに連絡して直してもらうトラブルなどもありました。)
天然温泉施設については、1階エントランスロビーのフロント側の奥に配置されており入浴中に景色などを楽しむことができませんが、ホテル宿泊客以外にも日帰り温泉プランによる利用者も多く人気の温泉施設となっています。
また館内のリニューアルで浴槽など温泉施設も若干の改修が見られますが、以前と変わらず屋内外に多彩な浴槽(屋内部分:大浴場・源泉洞窟風呂・超音波バイブラ風呂・寝湯・信楽焼のひとり用陶器風呂、屋外部分:露天岩風呂・全長12メートルの歩行湯風呂)のほかに2種類のサウナ施設が整備され楽しむことができました。
泉質は肌がツルツルになる無色透明で無臭のナトリウム・塩化物泉で毎分360リットル湧出する湯量豊富な天然温泉は魅力的であり、日帰り温泉プランの利用者もいますがお薦めできます。
そのほか今回の宿泊プランが朝食バイキング付き(夕食なし)のみのプランで夕食をホテルの外で済ませましたが、以前にホテル最上階に浅間山および蓼科山さらに八ヶ岳などを一望できる見晴らしのよいスカイレストランがワーキング施設として”展望コワーキングフロア”にリニューアルされており、1階の温泉施設出入口の横に食事処として”ラーメン居酒屋ととろ亭”が設置されていました。
朝食は、以前と同様に1階の朝食会場で地元の食材を使用した一般的な和食および洋食の朝食バイキングメニューのほかに期間限定”とろとろ海鮮丼コーナー”が設置されおり、地元の新鮮なサラダ類などを中心に楽しく食事をすることができました。
また佐久市周辺エリアを訪れる機会があれば利用してみたいホテルです・・・- 旅行時期
- 2023年07月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- その他
- 1人1泊予算
- 7,500円未満
- アクセス:
- 4.0
- 上信越自動車道・佐久インターチェンジから10分程度です。
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- 朝食バイキング付き(夕食なし)のプランで1泊ひとり7千円台でした。
- 客室:
- 3.5
- 洗面台ほか内装などは年代を感じます。
- 接客対応:
- 3.5
- 風呂:
- 4.0
- 泉質は肌がツルツルになる無色透明で無臭のナトリウム・塩化物泉です。
- 食事・ドリンク:
- 3.5
- 朝食バイキングは地元の新鮮なサラダ類などを中心に楽しく食事をすることができました。
- バリアフリー:
- 3.5
- エントランスロビーの玄関部分に数段の段差があります。
-
投稿日 2023年09月12日
総合評価:4.0
『こんにゃくパーク』は、2011年(平成23年)に群馬県の名産として生産量日本一である”こんにゃく”の製造から販売を手掛ける地元企業「ヨコオデイリーフーズ」が運営する”こんにゃく”のテーマパーク「こんにゃく博物館」としてオープンしたのちの2014年(平成26年)に施設の規模を拡大するとともに現在の施設名称に改めてグランドオープンしています。
また2023年(令和5年)6月には、「こんにゃく博物館」としてオープンしてからの12年間で累計入場者数:600万人を達成するほか「旬刊旅行新聞」を発行する「旅行新聞社」が毎年主催している”プロが選ぶ観光・食事・土産物施設100選”においても上位に選出されているなど、群馬県甘楽町エリアの観光施設として”群馬の3大パーク”(群馬サファリパーク・こんにゃくパーク・めんたいパーク群馬)のひとつに数えられる群馬県を代表する人気の観光スポットとなっています。
ちなみに『こんにゃくパーク』を運営する「ヨコオデイリーフーズ」は、製造した”こんにゃく”を引き売りする個人経営の「丸上食品」として1968年(昭和43年)に創業したのちの1989年(平成元年)に個人経営から「ヨコオ食品工業」として会社を設立、さらに2010年(平成22年)になると社名変更をして現在の「ヨコオデイリーフーズ」となり多彩な”こんにゃく”商品の製造および販売をおこなっています。
『こんにゃくパーク』へのアクセスは、上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)であり、「甘楽町役場」の直ぐそばとなる甘楽町小幡に位置します。
今回は土曜日に自動車を利用して上信越自動車道・富岡インターチェンジから初めて甘楽町小幡エリアを訪れて13時ごろに「こんにゃくパーク」に立ち寄りましたが、施設敷地内の駐車スペースは満車状態で多くの来場者で賑わっていました。
『こんにゃくパーク』の駐車スペースは、施設敷地内のほかにも道路向かいに広い駐車スペース(無料)が整備されており複数の誘導員の方が手際よく誘導してくれるのでスムーズに駐車することができました。
『こんにゃくパーク』の施設については、”こんにゃく”製造工場の見学コーナーから手づくり”こんにゃく”の体験コーナーのほかに多彩な”こんにゃく”料理の無料バイキングコーナーさらに種類豊富な”こんにゃく”商品のショッピングコーナーおよび”こんにゃく”以外にも子供の遊ぶ施設や屋外に足湯施設などが配置されています。
『こんにゃくパーク』内の入場手続きを済ませたのちは、取り敢えずバイキングコーナーで試食体験をしてみようと思い30分程度行列に並びました。
多彩なレシピの試食用”こんにゃく”料理は、どの料理も美味しく結果的にこの試食用のバイキングがランチの代わりとなり無料で試食できることに驚かされるとともに多彩な”こんにゃく”料理のレシピを試食することで今までの”こんにゃく”に対するイメージが一新しました。
また試食用の多彩なレシピの”こんにゃく”料理にはデザート類なども含まれているので、この無料バイキングコーナーは子供から大人まで年齢層に関係なくお薦めできます。
無料バイキングコーナーを体験したあとはショッピングコーナーを見て廻りましたが、無料バイキングコーナーで試食した商品をはじめ種類豊富な”こんにゃく”商品が販売されているほかに袋詰め放題コーナーなどもありショッピングを楽しんだのち『こんにゃくパーク』をあとにしましたが、機会があればまた立ち寄ってみたい観光スポットです・・・- 旅行時期
- 2023年07月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- 上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 土曜日の13時ごろ立ち寄りましたが、こんにゃくバイキングは30分程度並びました。
- バリアフリー:
- 4.0
- 工場見学は建物2階で階段を上がりますが、そのほかは1階および屋外で特に気になる段差はありませんでした。
- 見ごたえ:
- 4.0
- コストパフォーマンスがよく、子供から大人まで家族で楽しめるテーマパークです。
-
江戸時代に織田信長の直系8代が152年間にわたり統治したエリアにある道の駅です!
投稿日 2023年09月10日
総合評価:4.0
『道の駅 甘楽』は、上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)となる県道46号(富岡神流線)沿いの甘楽町小幡エリアに位置する道の駅です。
この『道の駅 甘楽』は、もともと1985年(昭和60年)に甘楽町直営の地元の特産品および農産物などの直売所となる「甘楽町物産センター」としてオープンした施設であり、2011年(平成23年)になると改めて道の駅として開駅し、さらに3年後の2014年(平成26年)に改装工事などを経てリニューアルオープンをして現在に至っています。
『道の駅 甘楽』の建物施設はコンパクトな平屋建てとなりますが、メイン施設となる地元の特産品および農産物などのお土産品を取り扱う”販売コーナー”とあわせて地元の食材などを使用して提供する食事処のレストラン”せせらぎ亭”とともに本格的なピザ窯を設置して焼き上げるこだわり地粉ピザおよびソフトドリンク類などを提供する”フードコート”、さらに甘楽町の”観光案内所”が併設されています。
『道の駅 甘楽』の屋外駐車場施設については、電気自動車(EV)用充電スタンドが完備されているほか車中泊が可能な駐車スペースとなっており、敷地外の南側に位置する「小幡公園」敷地内の駐車場も『道の駅 甘楽』の臨時駐車場として利用できます。
今回は自動車を利用して上信越自動車道・富岡インターチェンジから初めて甘楽町小幡エリアを訪れて観光スポットのひとつである「こんにゃくパーク」に立ち寄ってから『道の駅 甘楽』に向かい施設内の”販売コーナー”などを見て廻りました。
”販売コーナー”には、地元の特産品などのほかに日本国内での販売がこの道の駅のみとされるイタリア共和国の中西部(フィレンツェとシエナの中間)に位置するトスカーナ州の小都市・チェルタルドから直輸入している種類豊富なチェルタルド特産のワインおよびオリーブオイルのコーナーが気になりました。
ちなみにチェルタルドの街並みは、丘の上に中世の古い建物が連なる旧城郭エリアの旧市街地と丘下の平坦地に広がる新市街地からなる小都市で、その街並みを取り囲むように起伏のある丘陵地帯のワイン用ぶどう畑・オリーブ畑・麦畑の農村エリアで構成されています。
チェルタルドと甘楽町の関係については、1983年(昭和58年)に甘楽町で開催された群馬県が主催するイベントのイタリア共和国ゲストが甘楽町の城下町の面影が残る街並みに感動し、甘楽町と同じように古い中世の街並みを残すチェルタルドとの姉妹都市の提携を提案したことで友好親善姉妹都市協定が締結され、チェルタルドから特産のワインおよびオリーブオイルの直輸入がはじまっています。
また”フードコート”で提供される地粉ピザは、2014年(平成26年)の『道の駅 甘楽』ニューアルオープンにあわせてチェルタルドで製作されたタイルを使用したピザ窯が設置されたほかチェルタルドにあるピザ店でピザ作りの修業をしたこだわりピザとして提供を開始した逸品となっているので、機会があればこだわりの地粉ピザも食べてみたいと思います。
そのほか甘楽町小幡エリアは、”大坂夏の陣”で豊臣家が滅亡し元号が改められた1615年(元和元年)に戦国武将「織田信長」の次男「織田信雄」に与えられた領地であり、さらに「織田信雄」の四男「織田信良」が上野国・小幡藩主を務めてから「織田信邦」が小幡藩主を退いた1767年(明和4年)までの152年間にわたり織田家8代がこの地を統治してた城下町であったことから城下町の面影が残る街並みとなっています。
その史跡・遺構のひとつとされる江戸時代中期に建てられたとされる当時名主を務めていた「松井家住宅」が、『道の駅 甘楽』敷地内に移築・復元されており、現在では『道の駅 甘楽』を起点・終点として「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」約7.7キロメートルの道のりが2015年(平成27年)に”文化のみち”をテーマにした「ウォーキング 新日本歩く道紀行1000の道」に認定されています。
機会があれば、また『道の駅 甘楽』に立ち寄り「織田宗家ゆかりの城下町小幡を訪ねる道」など散策して廻りたいと思います・・・- 旅行時期
- 2023年07月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- 上信越自動車道・富岡インターチェンジから自動車で10分程度(約3.6キロメートル)です。
- お買い得度:
- 4.0
- 姉妹都市のチェルタルド(イタリア)で修業し本格的なピザ窯で焼くこだわりの地粉ピザが気になりました。
- サービス:
- 4.0
- 車中泊が可能な駐車スペースとあわせて電気自動車(EV)用充電スタンドが完備されています。
- 品揃え:
- 4.0
- 姉妹都市のチェルタルド(イタリア)から直輸入の特産ワインなどが充実し気になりました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 特に気になる段差などはありませんでした。
-
投稿日 2023年08月06日
総合評価:4.0
『音無橋』は、明治期から昭和初期にかけて日本の近代化を支える重要な施設となる製紙工場(現:王子ホールディング)および印刷工場(現:国立印刷局)などが設置された王子エリアからさらに赤羽エリアに設置された火薬庫などをはじめとする旧日本陸軍の軍需施設など工業および軍事の拠点として交通網の整備が重視されていた中で、王子エリアを蛇行しながら流れていた「石神井川・旧流路」により武蔵野台地の突端(崖線)高台に位置する北西側の王子村(現:北区王子本町1丁目)および南東側の滝野川村(現:北区滝野川2丁目)において南西方向から北東方向に向かって渓谷のように分断されいた部分を1930年(昭和5年)に自動車で横断できるように現在の「本郷赤羽線・旧岩月街道(都道455号)」から「明治通り(国道122号)」に合流する「音無橋交差点」部分に架けられた橋長:約50メートル・幅員:約18メートルの橋梁(3径間連続鉄筋コンクリート固定アーチ橋)です。
また「石神井川」については、王子エリアにおいて江戸時代に「音無川」と呼ばれており、江戸時代後期の1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・5巻(15冊)」の中でも「音無川」として景観図が紹介されているほか、「名所江戸百景」でも「王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」として錦絵が描かれているなど風光明媚な江戸庶民の行楽地として人気を集めていたことが伺えます。
ちなみに王子エリアの「石神井川」が江戸時代に「音無川」と呼ばれていた由来は、この地に鎮座する江戸府内の北方守護を担う徳川将軍家の祈願所であった「王子権現社(現:王子神社)」が「熊野信仰」のもと紀伊国(現:和歌山県)の紀伊半島南部に鎮座する「熊野三山」(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に祀られる祭神「熊野権現」を鎌倉時代末期となる1322年(元亨2年)に勧請したこととあわせて「熊野本宮大社(旧社地)」(現:田辺市本宮町)付近で「熊野川」に注ぐ「音無川」を模したものとされています。
一説によるとこの王子エリアが紀伊国とゆかりのある地であることから紀州徳川家から第8代将軍となった「徳川吉宗」が故郷である紀州「音無川」の渓谷にちなんで命名したと伝えられており、現在でも通称として「音無川」と呼ばれて『音無橋』の名称としても用いられています。
その後に『音無橋』の下部を流れていた「石神井川」は、1958年(昭和33年)に神奈川県に上陸して伊豆・関東地方に甚大な被害をもたらした「狩野川台風」において大きな被害がが発生するなどしており、水害などを解消するため蛇行していた流路を直線となるように西方向から東方向に「飛鳥山」の下部を2本のトンネルで流す延長:約380メートルの分水路が1968年(昭和43年)および1983年(昭和58年)の2期工事に分けて整備されています。
さらに『音無橋』については、老朽化にともない1988年(昭和63年)に大改修工事(鋼繊維コンクリー卜・補強鉄筋による床版増し厚など)が実施されており、あわせて『音無橋』の下部からJR王子駅方面に向かう「石神井川・旧流路」エリアについても『音無橋』の大改修工事と同時期に樹木に覆われた渓谷風の期間限定で水遊びができる「音無親水公園」として整備されることで「音無親水公園」との調和を図りながら、橋梁の歩行者スペース(橋梁中間部分)に新たな展望用バルコニーが新設されるなどさまざまな角度から見られる橋梁となることなどを意識した大改修工事となっています。
今回は王子エリアを訪れる際の平日の午後にJR王子駅周辺を散策して廻りながら橋上から「音無親水公園」などを写真撮影するために『音無橋』に立ち寄りました。
『音無橋』の建設には、”近代日本経済の父”または”日本資本主義の父”などと称される大実業家「渋沢栄一」も支援していたとされることからも日本の近代化を進める上で重要性の高い橋梁であったことが伺えるほか、現在も自動車の交通量が多く生活を支えている橋梁であることが実感できます。
意匠的にも魅力を感じる橋梁であり機会があれば時間をかけて細部までじっくりと見て廻りたいと思います・・・- 旅行時期
- 2022年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- JR王子駅・北口改札の西側駅前から音無親水公園の遊歩道を通って直ぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 駅からも近いので自動車の交通量も多く、歩行者はそれ歩でではないですが途絶えることはありませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 特に気になる段差はありませんが、橋下の音無親水公園に降りる階段があります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 老朽化に伴いさまざまな角度から見られることなどを意識した大改修工事が実施されており、意匠的にも魅力を感じる橋梁です。
-
熱海湾の”ビーチエリア”および”マリーナエリア”を区分けする人工岬のテラスです!
投稿日 2023年07月09日
総合評価:3.5
『渚親水公園 ムーンテラス』は、熱海観光の代表的な熱海港の海岸施設として1990年(平成2年)に整備されたヤシ並木が続く延長400メートル・幅60メートルの人工海浜ビーチ「熱海サンビーチ」および1998年(平成10年)に発足したビーチ施設の南西側エリアに整備されたマリーナ(ヨットハーバー)施設「スパ・マリーナ熱海」のそれぞれ海上エリアを区分けするように海上に突き出した人工岬のテラスであり、テラスの先端部分に縁結びのモニュメントおよびテラスの各所にベンチ・花壇などが設置されています。
この『渚親水公園 ムーンテラス』を含む南西側の海岸エリアは、熱海市の姉妹都市である北イタリアの美しいリゾート地「サンレモ市」のほか地中海などのリゾート各地をイメージした景観美と親水性に富んだ海岸施設整備事業としてデザインコンセプトを”地中海風が香る賑わいのあるウォーターフロント”とする「熱海港コースタルリゾート構想」により1991年(平成3年)から傾斜式テラス型の堤防機能を備えた遊歩道および緑地広場などからなる「熱海親水公園」の整備が段階的に進められており、第1工区として南欧のコートダジュールをイメージしたレンガを基調とする「スカイデッキ」(延長170メートル・幅50メートル)が『渚親水公園 ムーンテラス』を含めて1997年(平成9年)に完成しています。
また2004年(平成16年)から世界的な照明デザイナー(石井幹子氏)によるムーンライトをイメージした幻想的な夜間ライトアップが「熱海サンビーチ」から『渚親水公園 ムーンテラス』で実施されるようになると夜のデートスポットとして人気のエリアとなり、2006年(平成18年)にNPO法人「地域活性化支援センター」が企画したプロジェクトである観光地域のプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットとして『渚親水公園 ムーンテラス』が「恋人の聖地」に認定されています。
そのほか『渚親水公園 ムーンテラス』の南西側に位置するマリーナ(ヨットハーバー)施設「スパ・マリーナ熱海」が、国土交通省より一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)「あたみ海の駅」として登録されています。
以前に熱海エリアを訪れた際にこの熱海港の海岸ラインに整備され南イタリアのナポリ港をイメージした花や樹木が植樹されている「渚デッキ」にあるオープンカフェ「サンレモカフェ」および「熱海遊覧船サンレモ」を利用したり、北イタリアのサンレモ市・リヴィエラ海岸をイメージした石を基調としている「レインボーデッキ」にある「熱海市観光協会(ワカガエルステーション)」などを利用しながら、『渚親水公園 ムーンテラス』および「熱海サンビーチ」を散策して廻りましたが、このエリアは早朝から夜間ライトアップまで年間を通してリゾート気分が味わえるお薦めの散策エリアです。
今回は、毎年6月に熱海市の「ジャカランダ遊歩道」を中心に開催されている”ATAMI ジャカランダ フェスティバル”にあわせて三世代家族4人で「世界三大花木」と称されるジャガランダの花見目的で熱海エリアを訪れ、「熱海サンビーチ」と「国道135号」に挟まれた「お宮の松」および「貫一 お宮の像」などがあるお宮緑地に整備された「ジャカランダ遊歩道」とあわせて「熱海サンビーチ」および『渚親水公園 ムーンテラス』を散策して廻りました。
天候も良くビーチで海水浴をする方もいるなど人出も多かったですが楽しむことができました・・・- 旅行時期
- 2023年06月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 3.5
- 熱海湾の”ビーチエリア”および”マリーナエリア”の境界に位置します。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 6月初旬でしたが、天候も良くビーチで海水浴をするか方がいるなど人出も多かったです。
- バリアフリー:
- 3.5
- 一部段差があります。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 早朝から夜間ライトアップまで年間を通してリゾート気分が味わえます。
-
投稿日 2023年07月08日
総合評価:4.0
『湯めまちをどり 華の舞』は、熱海港に注ぐ初川沿いの熱海市中央町に位置する「熱海芸妓見番歌舞練場」(通称:熱海芸妓見番、略称:熱海見番)において1998年(平成10年)から毎週土曜日および日曜日(臨時休演あり)の11時に開演の公演時間が30分から40分程度の「熱海芸妓置屋連合組合」に所属するプロの熱海芸妓衆による地方の三味線などの伴奏および唄にあわせて息の合った立方の艶やかな踊りで構成される舞台です。
通称「熱海芸妓見番」の建物は、1954年(昭和29年)に全国屈指の花街と称されている熱海芸妓衆の稽古場として「熱海芸妓置屋連合組合」により建設された地上2階・地下1階建ての木造建築であり、玄関を入ると正面に花道を備えた歌舞練場となる緞帳付き舞台が設置されている2階まで吹き抜けの天井高のある畳敷き大広間があり『湯めまちをどり 華の舞』舞台公演の会場となっています。
この大広間は舞台を取り囲むように2階部分に桟敷席が設置され、目を見張る折り上げ格天井造りとあわせて熱海芸妓衆の名前と置屋の屋号が入った丸提灯が賑やかに飾られた昔ながらの芝居小屋を彷彿させる空間として見どころのひとつになっています。
ちなみに”芸妓”とは関東地方における芸者さんの呼び名とされており、熱海においては昭和30年代(1955年から1964年)の最盛期には200軒以上の置屋に1000名以上の芸妓衆が活躍していたそうですが、現在では置屋も50軒程度に減少しており芸妓衆も70名程度の人数で活動しているそうです。
粋とされる芸妓衆を交えた”お座敷遊び”の体験はありませんが、『湯めまちをどり 華の舞』と同様に「熱海芸妓見番」において1990年(平成2年)から毎年4月末のゴールデンウィーク期間に開催されている「熱海をどり」を目的に5年前に熱海エリアを訪れて「熱海芸妓見番」に立ち寄りプロの熱海芸妓衆による艶やかな舞台を堪能したことがあります。
今回は、毎年6月に熱海市の「ジャカランダ遊歩道」を中心に開催されている”ATAMI ジャカランダ フェスティバル”にあわせて三世代家族4人で「世界三大花木」と称されるジャガランダの花見目的で熱海エリアを訪れました。
『湯めまちをどり 華の舞』の公演を事前予約していませんでしたが5年前の「熱海をどり」のことを思い出し、「熱海サンビーチ」と「国道135号」に挟まれた「お宮の松」および「貫一 お宮の像」などがあるお宮緑地に整備された「ジャカランダ遊歩道」から徒歩で「熱海芸妓見番」に移動してプロの熱海芸妓衆による艶やかな舞台を堪能しました。
そのほかに三味線などの生伴奏と粋な唄声にあわせた踊りの演目の合間に「熱海芸妓置屋連合組合」の公式キャラクター(芸妓の妖精)”まめっこ”ちゃんが飛び入りで登場する場面もあり楽しい舞台でもありました。(舞台公演後には出演された芸妓衆の皆さんや飛び入り参加の”まめっこ”ちゃんとの写真撮影の時間もありました。)
『湯めまちをどり 華の舞』の公演は、1日1公演の舞台で入場人数制限があり制限人数に達すると入場できないことも想定されるので、舞台観賞を計画される方は事前予約することをお薦めします。(入場制限などについては熱海芸妓置屋連合組合のホームページを確認して下さい。)
熱海エリアを訪れる機会があれば、また『湯めまちをどり 華の舞』および「熱海をどり」など「熱海芸妓見番」に立ち寄りプロの熱海芸妓衆の舞台を堪能したいと思うほかに2022年(令和4年)12月から試験的に数回にわたり開催された「熱海芸妓見番」における”お座敷遊び”の体験プランなどがまた企画されるようなことがあれば是非ともそちらのプランにも参加してみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2023年06月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 3.5
- 熱海駅から公演会場の熱海芸妓見番まで約1.4キロメートルです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 会場内を見た感じですが畳敷きの大広間にゆったりと準備されている置きイス席の8割程度の入りでした。
- 催し物の規模:
- 4.0
- 毎週土曜日および日曜日の11時に開演の公演時間が30分から40分程度の舞台です。
- 雰囲気:
- 4.5
- 2階まで吹き抜けの天井高のある畳敷き大広間の空間は昔ながらの芝居小屋を彷彿させプロの熱海芸妓衆による艶やかな舞台を堪能できます。
- バリアフリー:
- 3.0
- 公演会場の熱海芸妓見番の玄関廻りに段差があります。畳敷きの大広間にゆったりと置きイス席が準備されています。
-
熱海観光の拠点となる一等地に位置し、ゆったりとくつろげるホテルです!
投稿日 2023年06月11日
総合評価:4.5
『熱海パールスターホテル』は、「国道135号」沿いの熱海観光の代表的な明治期の文豪「尾崎紅葉」の小説「金色夜叉」の主人公をモデルにした「貫一お宮の像」および「お宮の松」さらに人工海浜ビーチの「熱海サンビーチ」向かいとなる”熱海観光の一等地”とされる位置に10階建ての総客室数が87室からなるラグジュアリーリゾートホテル(全客室:自家源泉の浴槽付き)として2022年(令和4年)にグランドオープンしています。
『熱海パールスターホテル』がオープンする以前は、政財界の要人も利用した熱海を代表する1934年(昭和9年)に創業の「つるや旅館(つるやホテル)」が存在した場所ですがバブル崩壊後の2001年(平成13年)に閉館、その後の2007年(平成19年)から大型商業施設「aune ATAMI」の建設予定地となり建設がスタートするも開発企業が2009年(平成21年)に会社更生法の適用を申請しオープン目前で建設工事が中断、2018年(平成30年)に中国系投資会社の出資により建設中断で放置状態の建物を商業施設から宿泊施設に用途変更する改築工事により現在の『熱海パールスターホテル』が完成しています。
今回は「国道135号」沿いに熱海市の街路樹として植樹されている「世界三大花木」であるノウゼンカズラ科の落葉高木「ジャガランダ(原産地:南アメリカ・和名:紫雲木)」が熱海市で開花する6月に毎年開催されている”ATAMI ジャカランダ フェスティバル”にあわせて旅行を計画、イベント期間中に「ジャガランダ」のライトアップが実施される「ジャカランダ遊歩道」に近い『熱海パールスターホテル』を宿泊場所に選びました。
ちなみに「ジャカランダ遊歩道」は、2014年(平成26年)に「貫一お宮の像」および「お宮の松」が配置されている「国道135号」沿いの「お宮緑地」に「ジャガランダ」を植樹し整備された遊歩道で、1990年(平成2年)に国際姉妹都市であった「カスカイス市」(ポルトガル)から国際姉妹都市提携記念として「ジャガランダ」が2本贈られたことがきっかけとなり、現在では熱海市で植樹されてきた「ジャカランダ」は百本以上となります。
宿泊した客室は、「ジャカランダ遊歩道」がテラスからすぐ見える3階のスタンダードルーム「スーペリアオーシャンビュー 室礼」を大人4人による朝食付きプランでの利用、当日は交通機関の乱れもあり17時ごろに「熱海駅」に到着して駅周辺で夕食を済ませ駅前からタクシー利用でホテルにチェックインしましたがタクシー代はホテル側で負担してくれました。
ホテル内部は、フロント・各階エレベーターホール・屋内廊下をはじめ客室内も天井が高くゆったりとした落ち着きのある空間で客室テラスの奥行きも広く景色を眺めながらくつろげました。
客室内の備品は、コーヒーマシンも設置されておりミニ冷蔵庫・フリードリンク(地ビール・ワイン・ジュース・お茶)のほかにアメニティ類も充実しています。
また今回の宿泊で利用していませんがホテル2階には自由に利用できるラウンジ施設があり、17時30分から20時までのカクテルアワーにおいては各種アルコール類および軽食をフリーで提供されているので、また宿泊する機会があれば利用してみたいと思います。
浴場施設は、地下220メートルから汲み上げられた弱アルカリ性のカルシウム・ナトリウム塩化物泉の自家源泉温泉が各客室内の浴槽および最上階・大浴場のインフィニティ露天風呂「ゆのふね」(全長12メートル)に引き込まれており、夜と朝の2回にわたり大浴場を利用しましたが貸し切り状態で温泉とともに熱海湾の海岸線から正面に初島を望める眺望を楽しむことができました。
また大浴場・内風呂は、床部分にソフトで滑りにくい畳マットが施され「高濃度炭酸泉」および「水素風呂」の2種類の浴槽とともにドライサウナおよびスチームサウナの設備も設置されています。
食事は、朝食のみでしたが6階のレストラン施設でライブキッチンによる卵料理付きのブッフェスタイルによる食事を美味しくいただきました。
ドリンクコーナーの丸ごとのオレンジの実を自分で卓上型”生搾りオレンジジュースマシン”に入れてジュースにするスタイルを初めて体験した以外に特別に目を見張るものはありませんでしたが、広々とした空間でゆったりとくつろいで食事をすることができました。
全体的には、館内全体がゆったりとした空間でくつろげることとあわせてテラスなどからの眺望もよく、チェックアウトが正午までなので海岸沿いなどの散策にも便利な”熱海観光の一等地”に位置するのでリゾート気分を満喫したい方にお勧めできるホテルです。
そのほか熱海港で開催される「熱海海上花火大会」のロケーションも抜群のようなので、機会があれば「熱海海上花火大会」にあわせて宿泊してみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2023年06月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 1人1泊予算
- 30,000円未満
- アクセス:
- 3.5
- 最寄りバス停は”お宮の松”(国道135号沿い)です。
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- スタンダードルーム1室4人の朝食のみで1人当り25,000円(税込)以上でした。
- 客室:
- 5.0
- 自家源泉の浴槽が全客室にあり天井も高くゆったりとした空間で、テラスの奥行きも広く熱海湾を望むロケーションも良かったです。
- 接客対応:
- 4.0
- とても親切で丁寧に対応してくれました。
- 風呂:
- 5.0
- 最上階の10階に自家源泉のインフィニティ露天風呂および内風呂に高濃度炭酸泉・水素風呂さらにドライサウナ・スチームサウナが設置されています。
- 食事・ドリンク:
- 4.5
- 朝食のみの利用ですが、広々とした空間でゆったりとくつろぎながらライブキッチンによる卵料理付のブッフェスタイルの食事を楽しめました。
- バリアフリー:
- 4.0
- 客室内の浴室出入口に段差があるのと6階エレベーターホールから食事施設部分に段差があるのが少し気になりました。
-
”至誠(まごころ)は神に通じる”を信念として生涯を貫いた明治期から大正期の海軍軍人を祀る神社です!
投稿日 2023年05月31日
総合評価:4.0
『東郷神社』は、JR山手線「原宿駅」竹下口改札から正面(東側)に向って通る「竹下通り」の北側に位置する「明治通り(都道305号)」沿いの渋谷区神宮前1丁目に鎮座し、明治期から大正期の海軍軍人であった「東郷平八郎」元帥を祭神として祀る神社です。
『東郷神社』の創建については、”至誠(まごころ)は神に通じる”を信念として生涯を貫いた誠実な人柄であったとされる「東郷平八郎」元帥が1934年(昭和9年)に86歳で逝去すると当時の海軍省に全国から故人の功績・功労・信念を後世に顕彰するため神社に祀ってほしいとする要望が寄せられるとともに多額の寄付金が集まり、1940年(昭和15年)5月27日に当時の海軍記念日にあわせて創建鎮座祭が執り行われています。
創建当時の社殿は拝殿部分の両脇に翼殿を配置した檜皮葺きの木造建築でしたが、「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に首都東京を襲った「東京大空襲」により社殿は焼失しており、現在の社殿は1964年(昭和39年)に鉄筋コンクリート造により再建されています。
ちなみに祭神として祀られている「東郷平八郎」元帥については、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1847年(弘化4年)に薩摩藩士の家に生まれ、その14年後の1862年(文久2年)に発生した「生麦事件」がきっかけとなり翌年の1863年(文久3年)に鹿児島湾で勃発した「薩英戦争」において初陣を迎えています。
さらに明治維新後の1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)に国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」においては「新政府軍」の軍艦「春日」(旧薩摩藩・春日丸)に乗船し、「阿波沖海戦」をはじめ「戊辰戦争」における最後の戦闘とされる「箱館戦争」において「宮古湾海戦」および「箱館湾海戦」に参戦しています。
「戊辰戦争」が終結したのちには、海軍士官として1871年(明治4年)から7年間にわたるイギリス留学において海軍予備校(バーニーズ・アカデミー)および商船学校(テムズ航海訓練学校)に在籍し、遠洋航海の実践を含め船舶に関する基礎知識とともに海軍技術および国際法などを学び1878年(明治11年)に帰国すると海軍中尉となっています。
1894年(明治27年)の「日清戦争」においては、日本海軍の最初の防護巡洋艦(鋼鉄製艦)である「浪速」艦長(大佐)として「豊島沖海戦」、「黄海海戦」、「威海衛海戦」に参戦し、「豊島沖海戦」中には清国・陸軍兵を輸送するイギリス商船「高陞号」が「東郷平八郎」大佐の指示により撃沈される「高陞号事件」が発生していますが、国際法に基づいた的確な対応での撃沈でありイギリス人船員を救助するなど冷静沈着な判断力は高く評価されています。
その後の1903年(明治36年)に「日露戦争」開戦に備えて編成された連合艦隊の令長官に就任し、翌年の1904年(明治37年)に「日露戦争」に突入すると「連合艦隊司令長官」として「三笠」に座乗して海軍による作戦全般の指揮をとり「旅順口攻撃」および「黄海海戦」に参戦し大将に昇格しています。
さらに1905年(明治38年)に世界屈指の艦隊であった大国ロシア海軍第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)を日本海の対馬東方沖海域で迎え撃つ「日本海海戦」においてバルチック艦隊を撃破したことで日本を勝利に導き「日露戦争」が終結、連合艦隊解散式で「東郷平八郎」大将が「連合艦隊解散の辞」として海軍および海軍軍人の心得を示した訓示を当時のアメリカ合衆国・ルーズベルト大統領が感銘を受けて英訳した文を自軍の将兵に配布など「東郷平八郎」大将の名前が一躍世界に知れわたり「世界三大提督」のひとりとして称えられ、1913年(大正2年)になると軍人として最上級の階級となる「元帥」の称号を授与しています。
また1914年(大正3年)から1921年(大正10年)まで東宮御学問所総裁を務め当時の皇太子(昭和天皇)の教育に尽力し、1926年(大正15年)に日本人として初めて世界初のニュース雑誌誌”TIME”の表紙に選ばれています。
「日本海海戦」および「東郷平八郎」元帥の名前は子供の頃から何となく知っており、学生時代にトルコ共和国の小学校の教科書で「日本海海戦」が紹介されたことがあり子供の名前を”トーゴー”とする親もいる話しを聞いたこともあり、「東郷平八郎」元帥は以前より気になる存在でした。
今回は、原宿エリアを訪れる機会があったので初めて『東郷神社』に立ち寄り参拝し、「東郷平八郎」元帥について改めて学び楽しむことができました。
機会があれば、『東郷神社』の他にも「東郷平八郎」元帥ゆかりの地を訪ねてみたいと思います。- 旅行時期
- 2022年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- JR原宿駅・竹下口改札から直ぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後でしたが参拝者は自分だけでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 参拝するには石段があります。
- 見ごたえ:
- 4.5
- 竹下通りの北側に位置しますが、ひっそりと落ち着いた雰囲気です。
-
投稿日 2023年05月20日
総合評価:4.0
『ブルーノート東京』は、ジャズの本場・アメリカ合衆国を代表する大都市ニューヨーク市内にある名門ジャズクラブ”Blue Note”の姉妹店として1988年(昭和63年)に東京メトロ・銀座線・半蔵門線・千代田線が通る「表参道駅」を最寄り駅とする港区南青山5丁目の「骨董通り」沿いにオープンしています。
その後の開業10周年を迎えた1998年(平成10年)になると開業当時の「骨董通り」沿いにあった店舗よりもフロア面積が広い「根津美術館」にほど近い港区南青山6丁目の現在地に移転し新たにリニューアル・オープンています。
ニューヨーク市内の本店である”Blue Note”については、芸術や文化の中心地として発展してきたニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジ地区において、このエリアを代表する「ワシントン スクエア パーク」から西側方向に直ぐの場所となる「ウエスト 3rd ストリート」沿いに面してグランドピアノをイメージしたアプローチ庇屋根が特徴的な外観の建物内にシックな雰囲気のインテリアなどを店名でもあるブルーを基調にした空間のステージ上でトップ・アーティストが奏でるライヴステージを至近距離にセッティングされた座席シートで飲食をしながら楽しめるクラブとして1981年(昭和56年)にオープンしています。
『ブルーノート東京』においてもこの本店の”Blue Note”をモチーフにジャズを中心に国内外のさまざまなジャンルのトップ・アーティストが繰り広げるライヴステージを取り囲むように至近距離からさまざまな座席シート(アリーナシート・ペアシート・ボックスシートなど)を配置して、軽食からディナーコースまでの多様な食事とあわせて各種アルコール類からソフトドリンクまでの種類豊富なドリンクとともに楽しめるスペースに仕上がっています。
また店名の”Blue Note”については、西洋人が奏でる”ドレミファソラシド”の音階とは異なるアフリカ民族独特のどことなく物悲しい雰囲気を帯びた音階からアフリカ系アメリカ人により誕生した音楽ジャンルのひとつに数えられるブルースの語源となる「憂うつ」を意味する”Blue”が定着し、同じくアフリカ系アメリカ人をルーツとするジャズなどの音楽ジャンルの音階が”Blue(憂うつ) Note(音符) Scale(音階)”と呼ばれるようになっていることに由来します。
今回は、以前より気になっていた日本の音楽バンドであり海外公演なども実施することで海外でも話題となっている「民謡クルセイダーズ」が奏でる音楽を生で聴いてみたいと思っていたところ『ブルーノート東京』でライヴが実施されることを知り、「民謡クルセイダーズ」のライヴを目的にペアシートL(アーティストが入退場する花道となる通路前)を予約して初めて『ブルーノート東京』を訪ねてみました。
ちなみに「民謡クルセイダーズ」は2012年(平成24年)に結成された異色の音楽バンドであり、日本の民俗音楽である民謡をラテンのリズムをはじめアフリカなど世界各地のリズムを融合したオリジナルの音楽スタイルを基に国内外で演奏活動をしています。
「民謡クルセイダーズ」のライヴ当日に『ブルーノート東京』のこぢんまりとした1階正面玄関からエントランスホールに入ると直ぐに地下に降りる階段が配置され、その壁面上部には往年のジャズ・アーティストの顔写真パネルが飾られおり、この空間にいるだけで一気にテンションが上がり今回のライヴステージに対する期待感が高まりました。
『ブルーノート東京』の内部は、地下1階にフロントおよびクロークなどのチェックインスペースさらに地下2階にメインのクラブスペースで構成され、フロア移動は階段となるほかクラブスペースに段差もあり各種座席シートのスペースも狭いのでバリアフリーのみの観点でチェックすると気になる部分ですが、全体的には落ち着いた大人の雰囲気が漂う魅力的な空間となっています。
当日は、夕食を済ませてからチェックインしたのでシートでの注文はドリンクのみでしたが出演アーティストにちなんだスペシャル・カクテルも用意されているなどドリンクの種類も豊富で、ドリンクとともに満席状態のクラブスペースで繰り広げられるライヴステージは盛り上がりステージとの一体感を味わいながら楽しいひと時を過ごすことができました。
機会があれば、次回は食事とあわせてライヴステージを楽しんでみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2023年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 東京メトロ・表参道駅のA5出口から徒歩8分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 座席数が約280席とされるクラブスペースで満席状態でした。
- 催し物の規模:
- 4.5
- 今回のライヴは1日(2公演)のみの開催でした。
- 雰囲気:
- 5.0
- ニューヨーク市内の名門ジャズクラブの姉妹店で、落ち着いた大人の雰囲気が漂う魅力的なクラブです。
- バリアフリー:
- 2.0
- 地下2階のクラブスペースまでのフロア移動が階段でフロアに段差もあり、各種座席シートのスペースも狭いです。