壁に無数の弾痕
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- 旅行時期:2013/04(約13年前)
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by bluejaysさん(男性)
鹿児島市 クチコミ:37件
官職を辞して帰郷した西郷隆盛は1874年、旧鹿児島城内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立した。幼年学校は、明治維新に功績があった者に与えられた賞典禄によって設立されたことから、「賞典学校」と呼ばれた。西郷隆盛が二千石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出し、また参議大久保利通も千八百石を拠出した。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された。また鹿児島県内各地に分校が設置された。
教務は主に漢文と軍事教練だった。設立の真の目的は、不平士族の暴発を防ぐことだったという。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られた。
1877年、大久保利通・川路利良らが陰謀を企てたとして、激高した同校生徒が鹿児島鎮台の弾薬庫を襲撃し、これが西南戦争のきっかけとなった。同校は同戦争後に廃止され、現在は門と壁のみが残っている。壁には無数の弾痕が残っている。
現在は鹿児島医療センター。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/07/31
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