2023/09/13 - 2023/09/16
1480位(同エリア6948件中)
Bachさん
9月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第6回目「六条大路」です。
現在の「六条通」は河原町通から堀川通まで1km強の短い通りで、裏路地のような狭い生活道路になっていますが、平安京の「六条大路」は、六条内裏や中院、六条殿など貴族の大邸宅が建ち並ぶ大通りで、堀川通から西本願寺以西の延長上、坊城通の「島原」辺りまでも含めて「六条通」とも言われています。そこで今回は西側の「島原」からスタートし、堀川通を超え東側の河原町通までに加え、更に鴨川沿いの「六条河原院跡」まで約5.0kmを歩きます。
ポイントは「六条の本願寺」と言われるように「東西本願寺」が中心になりますが、これは殆ど秀吉・家康時代の遺構ばかりで、平安時代の遺構は殆ど「跡地」の石碑しかありません。従って「東西本願寺」をじっくり見たいのですが、大事なところはほぼ非公開になっており、なかなか見る機会はありませんが、散歩の当日にたまたま「西本願寺」のチラシで、9月16日の親鸞聖人の月命日に限り非公開の書院や庭園を無料で公開しているということを知ったので、3日後に再び非公開部分だけ見て来ました。但し全て撮影禁止のため旅行記に載せられないのが残念です。
もう一つのポイントは、秀吉・家康の時代からの非常に人間臭い遺構で、高級花街の「島原」と庶民花街の「五条楽園」があったことで、それが昭和のつい最近まで存続しその残骸が残っているのを始めて知り、これを見ると、いつの世も人間の本性は変わらないなとつくづく思います。
今までの大路でも平安京当時から秀吉の時代に大きく変わり、明治になって又変化があったという時系列がありますが、今回は特にその流れが顕著に見れて、京都を見れば日本の歴史がよく分かるという環境にいることに感謝です。
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「五条の橋弁慶」の次は、「六条の本願寺(数珠や町)」で、五条通から六条通までは、「せったちゃらちゃら うおのたなろくじょうさんてつとおりすぎ、、、」と唄われ、雪駄屋町通(せったやまち:楊梅通)、鍵屋町通(鍵の音:的場通)、銭屋町(銭の音)、魚の棚通(六条通)、三哲通(塩小路通)を過ぎて「しちじょうこえれば はちくじょう」七、八、九条へと続く *「三哲」は江戸期に渋川三哲という人が住んでいたことからつけられた地名
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(散歩ルート)(京都駅~丹波口駅)~0.6km島原大門、角屋、輪違屋~0.5km日蓮宗題目碑~0.5km六条御境内~0.4km西本願寺~(2.0km)(堀川通)~0.4km(魚棚通カラーロード)~0.3km白山湯~六条柳町~0.3km(3.0)km(烏丸通)~0.3km東本願寺~0.2km渉成園~0.1km文子天満宮~0.5km一比賣神社~0.2km梅湯~0.2km丸福楼~五条楽園~五条会館~0.4km源融六条河原院跡~0.1km(5.0km)(京阪清水五条駅)
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「JR丹波口」から歩くと島原裏口に「島原西門碑」がある
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「島原西門」碑(しまばらにしもん)
当初は東側の大門のみであったが、途中から1732年に西門が設置され、昭和52年(1977)に全壊し碑が建てられた -
「島原住吉神社」
遊郭 島原の鎮守社で、島原が栄えていた頃は広大な境内で、例祭のときには島原太夫や芸妓らの「練りもの」が行われていた *東京・吉原にも吉原神社がある -
平安京「東鴻臚館」址
平安京の遺構で、外国使節を接待するための施設が羅城門北側の東西に建てられたが、820年頃東西市の設置に伴いこの付近に移転し920年頃衰退した、「西鴻臚館」址もこの先の中央卸売市場を挟んだ所にあり、昔からこの辺りは市場として栄えてた所で、その関係で「角屋」もここに出来たといういきさつがあるらしいが、平安京の接待場所に江戸時代になって又新たな接待遊興場所が出来たのは興味深い、与謝蕪村(1716-1783)も利用したのか、「白梅や 墨芳しき 鴻臚館」 -
「遊郭」は室町幕府が制度を定めたのが始まりで、その後秀吉の洛中改造で二条通り復興のため「二条柳町」に遊郭が開かれこれが日本初の公娼街になるが、家康の時代になって御所に近すぎるということで1602年「六条三筋町」(六条柳町)に移され、さらに1641年この地に移され、この時の急な移転騒動が九州島原の乱1637を連想させたことから「島原」と呼ばれるようになった、島原には文人墨客も集まったので和歌や俳諧など文芸も隆盛し、最高位の「太夫」は歌舞音曲の芸はもとより茶、花、和歌、俳諧などの教養を身に付け、江戸吉原に代表される「遊郭」とは異なり、歌舞音曲を伴う「花街」としての色彩が濃く、京都でも祇園より格式が高く料金も高かったという、現在も数名が現役でいるが、明治期の京都六花街(上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町、島原)から昭和52年からは花街としての営業を終了し島原を除けた5花街になっている *「花街」(かがい)と「遊郭」(ゆうかく)、「太夫」(だゆう)と「花魁」(おいらん)の違いは、「花街」は歌舞音曲を伴う遊興の町で歌舞練場もあり芸妓の最高位が「太夫」、「遊郭」は歌舞音曲を伴わず遊女を閉じ込める塀に囲まれた閉鎖的な町で歌舞練場もなく遊女の最高位が「花魁」
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「島原大門」(しまばらおおもん)
今年は新選組結成1860年から160年にあたることから、その関連旧跡として「壬生寺」(みぶでら)などと共に「角屋」と「輪違屋」を特別公開している -
「島原大門」(しまばらおおもん)
島原は1641年に幕府公認の遊郭として六条三筋町から移転し、幕末の1867年に現在の門が建てられ、八つ時(午後二時頃)に大門を開くことから「八門」(やつもん)といい、周囲を堀で囲んで外部と隔離し、見返り柳がよく似合う、門前には遊郭を訪れる客に顔を隠すための編み笠を貸す「編み笠茶屋」が、入ったところには客を待たせて揚屋まで送っていく「出口の茶屋」があり、石畳の通りの左右には50軒の置屋(太夫や芸妓の住まい)と20軒の揚屋(あげや:大規模の宴席にも対応できる料亭で置屋から呼んで客人を揚げる)が整然と並んでいたという -
「輪違屋」(わちがいや)
江戸時代初期1688年創業の「置屋」(おきや)で、現在の建物は1857年再建、伊藤博文の寵愛を受けた桜木太夫が有名で、今でも唯一現役のお茶屋として数名の太夫をかかえるが一見さんお断り(9/16から公開)*「置屋」は太夫や芸妓を抱えて、料亭・茶屋などの求めに応じて差し向けるところ -
「角屋」(すみや)
1589年柳馬場二条で営業を始め、1602年六条三筋町へ移転、さらに1641年島原のこの地に移転、明治5年(1872)まで営業した後、それ以降はお茶屋業として宴会業務をして、昭和60年(1985)に廃業した、現在の建物は1641年から維持し続け日本に残る唯一の「揚屋建築」で(吉原や大阪の新町にもあったが消滅している)、幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のための接待に使用され、新選組も頻繁に通い、特に芹沢鴨が1863年ここで暴挙をはたらいた時に出来た刀傷が今でも残っており、後に芹沢が殺害される直前にここで酒を飲ませてから壬生の「八木家」で暗殺された話は有名 *「揚屋」(あげや)は大規模の宴席にも対応できる料亭で、置屋から呼んで客人を揚げるところ -
建物は国指定重要文化財、大広間「松の間」は国登録有形文化財、庭園は京都市指定名勝、「新撰組刀傷の角屋」と「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑がある
「揚屋建築」とは、1階に台所と居住部分、2階にメインとなる座敷があり、そこで客を2階へ揚げるところから「揚屋」と呼ぶが、規模が大きい「角屋」(敷地面積750坪)では 1階にも大宴会が出来る大広間があり2階には7部屋もある、また大広間に面した庭に必ずお茶席を配し、お寺の庫裏と同規模の台所を備えているのが特徴 -
角屋の「玄関」
来客用の玄関で、斜め方向の敷石の両脇に並べた鴨川真黒の石が素晴らしい! -
玄関に立つ2本の古木は不老長生や幸福招来の銘木として尊ばれる「槐(えんじゅ)の木」で、古井戸と茶褐色の聚楽壁(じゅらくかべ)との調和が良い!
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「新撰組刀傷」
入ってすぐの所に、芹沢鴨がここで暴挙をはたらいた時に出来たと言われる刀傷がある、「角屋」は「壬生の屯所」に近く(約1km)、近藤勇 以下新選組の宴会もたびたび催され、刀を部屋に持ち込んだので数か所に刀傷をつけたという、久坂玄瑞や桂小五郎、寺島忠三郎、坂本龍馬らも角屋を利用していたというが、敵対する新選組と鉢合わせしなかったのか疑問、勤王方は段々と足が遠のいて行ったという -
「角屋の暖簾」
三ツ蔓蔦(みつつるつた)の家紋を染め抜いた暖簾は、いかにも格式高い雰囲気を出す(本来は「中戸口」に吊るすもの) -
正面の「中戸口」(台所への内用玄関)
竈(かまど)を形どった台所の神様「三宝荒神」(こうじん)を祀る *三宝荒神は不浄を嫌い、火を炊く竈に住み、災厄から守ってくれる神様 -
江戸時代の「冷蔵庫」
地下井戸があり、石組、石段が付けられて食糧を貯蔵していた、何故か、隣に駕籠(かご)があるのは駕籠で送迎していたのか -
「台所」
流し台や井戸など備え、台所畳敷下には地下の貯蔵庫もあり、上には煙を外に排出するための大きな窓が設けられている -
台所には大きな竈(かまど)が大小9つも並ぶ
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ここで全ての調理をし、配膳場で配膳してお座敷に運ぶ、
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台所前の「配膳場」は、広さ50畳ほどの大きさで、本来は3本の柱で台所を支えていたが、さすがに耐震構造上問題があり2本の柱を追加したという
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「帳場」
揚屋は全て掛け払いで、ここで代金や客の好みなどを記録する、帳場からは客が店に入ってくる様子が小さな窓から見えて、誰が来たかを把握し帳簿を見て、以前来たときの連れが誰であったか、どんな料理を出したか、芸妓は誰を呼んだか、等を確認し接客する、現金での支払いは受けないので一見さんしか入れない -
「八方(はっぽう)」と呼ばれる照明器具
バライティに富んだデザインも素晴らしいが、機能的にも、笠を大きく開いて四方八方を照らし、菜種油に浸した灯芯を天井から吊るし行燈などを倒して火災になることを避け、上の滑車の紐を引っ張って高さを調整し明るさを調整したり、大きな荷物が入っても邪魔になるないようにしているなど、江戸時代の職人は偉い! -
「神棚」が多い!
正面の「稲荷大明神」の他、猿田彦大神、大黒天、天満天神、稲荷大神、秋葉大権現(火防開運の神様)など、全部で11の神棚が祀られて、全て神頼み! -
玄関に「刀掛」(かたなかけ)
侍の太刀を一旦預り、保管する場合は「刀箪笥」を使用する -
「刀箪笥」(かたなだんす)
新選組の連中は「刀掛」に置きっ放しにしたり、部屋まで持って行くこともあったので刀傷が絶えないと想像する -
「西郷隆盛が使った盥」(たらい)
「角屋存続の盥」とも言われ、戦時中取り壊しの危機に遭った際、この盥を見せて明治維新の元勲・西郷隆盛も利用した遺構であると説明して免れたという逸話がある、西郷隆盛(1828-1877)と久坂玄瑞(1840-1864)など勤皇の志士たちは、軍用金調達のために豪商の接待に利用していたそうで、西郷は「女人より行水が よかごわす」と言って、お気に入りの盥で行水を楽しんだという貴重なタライだった -
「箱階段」
2階に上がる裏階段 -
「角屋十代目・日記」
撮影禁止だが、当時のメニューや顧客台帳など資料の展示もあり面白い!唯一壁にかかっていたのは日記で、慶応四年11月4日(1868年、9月8日から明治元年)「少雨四つ頃より追々晴 午時又小雨期なり 長州奇兵隊 御連中十四五人 勝いくさ いわいとして 大座敷にて賑わし 料理向目出たき もように作り出す」 *この年は、1月3日より鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争勃発、4月11日江戸城開城、5月18日戊辰戦争終結、9月8日明治元年、9月25日鶴ヶ岡城開城、10月7日、奇兵隊京都へ凱旋 -
「網代の間」(あじろのま)広さ28畳
天井が網代に組まれているから「網代の間」、手前の中庭を眺めながら遊宴できる造りになっている、天井を支える竿縁(さおぶち)には京都の銘木北山杉、正面の床の間は幅2間、床柱は太い皮つき丸太など、角屋の主人がいかにここで遊ぶ詩歌や俳句、歌舞音曲に通じた教養人の客をもてなすかを考えていたかが分かる -
「揚屋」の特徴は庭園があることで、「角屋」には5つの庭園があり、これは「網代の間」から見れる「中坪庭」、他はメインの「座敷庭」「東坪庭」「西坪庭」「玄関庭」
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衝立「布袋図」岸良筆
枠は400年前の琉球王朝で作られた朱漆雲龍紋螺鈿(しゅうるしうんりゅうもんらでん:貝飾り)衝立、どの方角からも正面に見える -
「松の間」
主座敷は43畳の広さの「松の間」で、主庭に龍が天に昇っていくような見事な「臥龍松」(がりょうのまつ)がある、幕末に新選組芹沢鴨がこの部屋で酒宴を催した後、壬生の屯所「八木邸」で暗殺され最後の晩餐となった部屋 -
襖絵「金地桐に鳳凰図」幕末の絵師・岸連山筆
他にも与謝蕪村筆「紅白梅図屏風」や円山応挙の襖絵など重要文化財に指定された美術品が多くある -
庭園は、大正期に植治が大石を入れるなど修復し、戦後13代当主により復元された
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「臥龍の松」は1本の松の木で形づくっているが、大正末に枯れたので1947年に「吉井勇」の八幡「宝青庵」(ほうしょうあん)より新たな松が移植されたが、これも10年ほどで枯れ、3代目が1958年に新たに移植され、現在は3代目の3本の松でつなぎ当時の枝ぶりを復元している *「吉井勇」:当時は俳人たちが集うサロンとなり島原俳壇が形成されるほどで、吉井勇や永井荷風などもよく来ていたらしく、「島原の角屋の塵はなつかしや元禄の塵 享保の塵」を残している
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庭園左側に初代の臥龍の松の幹部分が残されている
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「松の間」の西側に枯山水の「西坪庭」があり、茶室に行く廊下橋「遊仙橋」がある
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揚屋建築の特徴の一つ「茶室」
臥龍の松の向こう側に「曲木亭」(きょくぼくてい)、1700年頃に建てられた表千家宗匠・覚々斎好みの茶室で曲がった木を使用していることからの命名、その背後にある茅葺屋根が1838年移築で藪内竹心門(やぶのうちちくしん)の安富常通清隠斎による「清隠斎茶席」(せいいんさいちゃせき)、そして江戸中期の表千家宗匠・了々斎好みの「囲の間」(かこいのま)という3つの茶室 -
明治維新の歴史の舞台にタイムスリップした気分で庭園を見る
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島原大門を出て「嶋原商店街」を進む
島原花街から大宮通までの600mに、古くから営業を続ける老舗店と町家を改装して新規オープンした店が混在 -
「伊藤軒老舗」
島原の太夫さんをかたどった名物「太夫最中」の看板が目に留まる! -
大衆食堂「みやこ」でランチ
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大衆食堂のチャーハン、ラーメンが美味しそうだったので注文!
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大宮通り「島原口」に到着
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「淳風bizQ」(元京都市立淳風小学校)
昭和6年(1931)建立のレトロな建物は元「淳風(じゅんぷう)小学校」で、2017年閉校し、令和3年(2021)からこの教室や音楽室を新たなビジネスに挑戦するスタートアップ活動を支援するオフィス兼交流スペースとして活用し、現在9社が入居しているという -
「六条本圀寺西門跡題目碑」(ほんこくじにしもんあとだいもくひ)
「本圀寺」は1969年まで六条にあり、18塔頭を擁する大寺院であったが現在山科に移転し、跡地は西本願寺の聞法会館や京都東急ホテル、淳風小学校になっており、この石柱は大宮通から旧仁王門に通じる参道入口の西門にあたる、また塔頭16院は先月歩いた五条通に残っている *「本圀寺」は、日蓮が鎌倉に開いた後、室町時代に京都・六条堀川に移し、比叡山の焼き討ちで堺の成就寺に避難した後、秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)や加藤清正によって再興されたが、1591年に秀吉の命令で西本願寺建設のため一部領地を譲り、江戸時代には水戸光圀公の援助を受け「国」が「圀」になった、その後1788年天明の大火で焼失したが順次再建復興し、昭和46年山科の琵琶湖疎水沿いに移転した *「題目碑」とは日蓮宗で唱える題目「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)の七字を刻んだ石塔で山科の処刑場跡にもあった -
「六條御境内」(ろくじょうごけいだい)
「従是南」(これより南)は六條(西本願寺の)御境内の石柱、駒札は読解不可能だが、後で調べると「六条境内石標 本願寺は豊臣秀吉より寺領の寄進を受け天正十九年(1571)1月京都六条の地に移り翌文禄元年その堂宇を完成した この石標は境内の北端を示すと考えられる 堀川改修工事にあたり発掘 昭和五十九年七月十七日 -
「本願寺聞法会館」(もんぼうかいかん)
京都西本願寺の宿坊で、宿泊施設、研修施設、仏前結婚式、料理教室、法話会、講演会、展示会等に使われ、広い駐車場もある -
西本願寺「太鼓楼」(たいころう)
1789年建立で、江戸時代に周辺に時を告げる大きな太鼓が残る、幕末の1865年~1867年に壬生から屯所を移した新選組の刀傷が残っていることで知られ(もう1か所の「北集会所」は現存しない)、境内で実弾射撃をしたり大砲を撃ったりして嫌がられ、本願寺は出て行ってもらう為色々な苦労をしたという -
西本願寺「阿弥陀堂門」(あみだどうもん)
金ピカの装飾が派手な門 -
西本願寺「御影堂門」(ごえいどうもん)
事実上の正門で、比較的地味な門 -
国宝「唐門」(からもん)
南側の北小路通に面して建っている最派手な「国宝」門で、国宝の唐門は西本願寺・豊国神社・大徳寺の3棟しか存在しないが、そのなかでも最も豪華絢爛で、麒麟や虎、豹、唐獅子、孔雀、鶴など桃山時代の豪華な装飾彫刻が日の暮れるのを忘れることから「日暮らし門」とも呼ばれ、伏見城の遺構といわれる *大徳寺は聚楽第の遺構、豊国神社は秀吉を祭神とし、秀吉の偉大な権力に驚愕 *現在の門は2018年~2021年にかけて3年4ヵ月で修復された -
「龍谷大学」正門
「唐門」の隣にあり、これも重要文化財、西本願寺13代宗主が1639年僧侶の教育機関として設立した学寮を起源とし、本館が出来た明治12年(1879)に建てられた -
「東西本願寺」の発生
「西本願寺」は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人が1262年死後、末娘の覚信尼(かくしんに)が東山大谷に御堂を建てたのが起源で、その後第三世法主覚如(かくにょ)上人が大谷本願寺とし勢力を増すが比叡山延暦寺からの圧迫もあり第八世法主蓮如(れんにょ)上人が山科に移り山科本願寺とし勢力が最高潮に達したので蓮如上人を中興の祖と呼ぶ、その後日蓮宗徒などの圧力を受けて大坂の石山(大阪城の前身)に石山本願寺を作り、この中で信長と和睦する宗主の顕如と三男の准如と、徹底抗戦する長男の教如との確執があり、宗主は和睦を決め信長に明け渡し責任をとって三男に譲った為、長男との対立が始まり、信長が1582年本能寺の変で討たれた後、秀吉から1591年七条堀川に土地を寄進され「西本願寺」を再建したのに対し、長男の教如(きょうにょ)は家康に接近し、家康も浄土真宗の勢力を弱める狙いがあって両派が対立することを画策し1602年七条烏丸に土地の寄進があって「東本願寺」を創建、ここから東西に分かれ、西は浄土真宗本願寺派、東は真宗大谷派と呼ばれ、現在西は10,500寺院、東は8,900寺院 -
「大銀杏」
「御影堂」の建立と同時期に植えられたものと推測され樹齢400年、根っこを天に広げたような形から「逆さ銀杏」と呼ばれ、江戸時代の大火の時に水を吹きだしたので「水吹き銀杏」とも呼ばれる -
国宝「御影堂」(ごえいどう)
親鸞聖人を安置し1636年建立、その後1800年の大修復を含め何回かの修復工事が行われ、直近では10年を費やし2009年に平成の大修復完成、一般的には本尊を祀っている本堂の方が大きいが、親鸞聖人の廟所が起源になっていることから、本堂の「阿弥陀堂」よりも「御影堂」の方が大きく、収容人数は3,000人と1,500人 -
国宝「本堂・阿弥陀堂」(あみだどう)
1618年建立、1760年再建、本尊・阿弥陀如来立像を安置、真宗寺院の阿弥陀堂及び本堂として最大級の規模で、各地の大規模真宗本堂の範となった -
「経蔵」(きょうぞう)
1677年建立、巨大な輪蔵(回転式の書架)を有する -
「手水舎」(ちょうずや)
これも重要文化財、中央に石製の井戸があり、手だけでなく足も洗うという -
国宝「飛雲閣」(ひうんかく)
通常非公開だが、空に浮かぶ雲のような天守閣だけが境内から見える、2017年から2020年までの修復工事で、こけら葺き屋根の葺き替え工事が完了して、2019.5.20、21の2日間だけ特別公開した時に拝観した→https://4travel.jp/travelogue/11496475 -
*2019.5.20撮影:「飛雲閣」は 秀吉の「聚楽第」(じゅらくだい) からの移築で、「金閣寺」「銀閣寺」と並び「京の三閣」と呼ばれ、名勝庭園「滴翠園」(てきすいえん)も素晴らしい
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西本願寺のもう一つの魅力は通常非公開の「書院」と「虎渓の庭」(こけいのにわ)で、長年の願望であったが、偶然にも「西本願寺」のチラシで、毎月親鸞聖人の月命日の16日だけ無料で公開しているということが分かり、3日後に再び拝観した、が全て撮影禁止のため旅行記に載せられず残念! 全体的に「二条城」よりも「知恩院」よりも豪華絢爛な印象で、秀吉の庇護を受けた当時の勢力の大きさを再認識させられる、ちなみに西本願寺は「世界遺産」だが「東本願寺」は入らない
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9月16日9:00「龍虎殿」(りゅうこでん)受付
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西本願寺 Shinran’sDay 「国宝書院特別案内」
親鸞聖人の月命日 9/16に、非公開の施設を無料で公開、案内してくれる、9:00受付で先着40名、10-10:50 法要と法話に続き、(約1時間)書院・鴻の間、雁の間、菊の間、白書院、黒書院、北能舞台、南能舞台、虎渓の庭 を案内 -
西本願寺「総門」(そうもん)
堀川通を隔てて建てられているので見逃しがちだが、これも重要文化財、向こう側の通りは仏壇屋が軒を連ねる門前町で「東本願寺」に通じる -
「本願寺伝道院」(ほんがんじでんどういん)
明治28年(1895)建立、真宗信徒生命保険株式会社の社屋として建築され、その後「浄土真宗本願寺派布教研究所」となり、銀行や診療所などを経て、現在は僧侶の教育施設の場になっている、レンガ造りでイスラム様式のドームや、レンガ壁など英国風の様式、中国風の高欄などアジア大陸の様式などに加え、千鳥破風を石造りした日本建築の意匠も取り入れた独創的なデザインで直ぐに目につく! -
堀川通から「六条通」への入り口
狭くて、特に堀川通側からは分かりにくい! -
「仁丹町名表示板」
入って直ぐに「六條通醒ヶ井東入」の「町名表示板」があったので間違いない! 「仁丹町名表示板」は大正から昭和にかけて「森下仁丹」が広告宣伝を兼ねて全国に取り付けたもので、今ではほぼ京都にしか残ってなくホーロー製の森下仁丹マークはマニアの間で人気が高い -
少し先の「六条郵便局」で「六条通」を確信!
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「魚棚通」(うおのたなどおり)
江戸期に下魚棚通(七条通の一筋南の通)から魚市が移されたため「魚棚通」と呼ばれ、現在も堀川通入って直ぐの油小路通から白山湯のある新町通までの「六条商店街」は、かつての魚市の名残りで道幅も当時から変わらず狭い、この内、郵便局から白山湯まではカラーロードになっていて昔の賑やかな往来が偲ばれる -
大正2年創業の和菓子司さん「梅月」(ばいげつ)
雑貨屋さんや普段遣いの和菓子屋さんなどあり、地元密着型の商店街といった雰囲気 -
古い京都の町家が残るが、最近では町家再生のゲストハウスが多く、インバウンド復活でまた息を吹き返して外国人の往来も多い
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嘉永6年(1853)創業の老舗麩屋さん「麩藤」(ふうとう)
麸まんじゅうや手まり麸、京なまふ等、種類が多い -
左手に昔ながらの手作りの京印章を扱うハンコ屋さん「六條印判」、正面に町のお風呂屋さん「白山湯」
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突き当りの「白山湯」でカラーロードは終わり、「六条通」は新町通で南にずれているが、江戸時代からすでにずれていて、ここを境に東を「下坂」西を「鼠ヶ小路」(ねずみがこうじ)更に魚市が移転してきてからは「魚棚通」と呼ばれた
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新町通を右折して、すぐに左折して「六条通」は続く、この通りは仏具や燈籠細工、山川酒(白酒)、飯鮨(いずし・なれずし)、煎餅などが名物だったという
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いかにも古そうな看板の老舗かまぼこ店「かね太」、看板には「各博覧会金銀銅碑受領」の文字
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何屋さんかと思ったら歯医者さん「日の丸歯科医院」
明治30年創業、祖父の代から京都に根を下ろし約60年続く「日の丸漢方」の精神を受け継ぎ開業致しました、と書いてあった -
安政5年(1858)創業の仕出し屋さん「和泉弥」(いずみや)
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今どきの町家を改装したゲストハウスでなく、昔ながらの古い建物の昭和の旅館「新潟屋旅館」、たまたまクロネコ宅急便の配達自転車に遭遇、日本の宅急便は凄い!
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京扇の老舗「松井扇龍堂」(まついせんりゅうどう)、創業年は分らないが、三代目当主が扇制作をし、主にお寺さん専用の扇を作っており、仁和寺や醍醐寺、六波羅蜜寺などに扇子を納めるという
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烏丸通に到着、京都タワー方面へ右折して「東本願寺」へ向かう
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「東本願寺」前の烏丸通は曲がっている
碁盤の目の京都の町で「烏丸通」は微妙に曲がっているところが2ヵ所あるが、いずれも明治以降も「即位の礼」は京都で行うという規定から京都駅と京都御苑をつなぐ烏丸通は「行幸道」になり、できるだけ早く整備しなければならないという事情が原因で、「東本願寺」前は、当時5メートルしかなかった道幅を広げ寺の前に路面電車の軌道を敷設する時に、東本願寺側から「翌年の親鸞の大遠忌に多くの門信徒が集まるので歩道のすぐ脇を電車が通ると危険」との嘆願があり、迂回のための費用は東本願寺が出すという条件で計画変更したらしい *もう一つは京都御苑南側の烏丸丸太町で、これも道幅を広げるために御苑の石垣と周りの土地のせめぎあいでわずかに2、3mのズレが生じたらしい -
京都タワーを望む「東本願寺・御影堂門」
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東本願寺「御影堂門」(ごえいどうもん)
木造の山門としては世界最大級の高さ27mで、「西本願寺・御影堂門」よりも雄大、知恩院24m、南禅寺22mと並び京都三大門と言われる、重層造りで楼上には釈迦如来・弥勒菩薩・阿難尊者の三尊像が安置されている(通常非公開) *門は重層と単層があり、重層門のうち下層に屋根をもたないものを「楼門」(ろうもん)、上下層に屋根のある門を「二重門」と呼び、二重門は規模の大きなもので格式が高い、又「山門」はお寺にある全ての門を指し「三門」は中央の門と左右の小さな門の三門を連ねて一門としたもの -
「東本願寺」
11代宗主の顕如(けんにょ)が三男の准如(じゅんにょ)を12代宗主に指名し1591年秀吉の寄進を受けて創建した「西本願寺」に対し、これと対立した長男の教如(きょうにょ)が、1602年家康からの寄進で創建されたのが「東本願寺」で、ここから東西に分かれ、西は浄土真宗本願寺派、東は真宗大谷派となる *どちらも浄土真宗だが、念仏は「なもあみだぶつ」と「なむあみだぶつ」、数珠は「房が下にきて親指で上を抑える」と「房を上に持ち左手側に垂らす」、仏壇は「柱が金箔」と「黒塗り」、逆に花立香炉ローソク立ては「黒系」と「金色」など違うらしい -
1602年創建から4度の焼失を乗り越えて再建されてきたが、明治時代の再建から約130年経過し2003年から大規模改修が始まり、2015年までに御影堂、阿弥陀堂、御影堂門が完了し、さらに現竿は2023.8月から2024.9まで「鐘楼」、2024年から2025年にかけて「手水屋形」の大改修の予定 *御影堂と阿弥陀堂の位置関係が西本願寺と東本願寺で左右逆になっている
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「御影堂」(ごえいどう)
親鸞聖人の御真影を安置し、東大寺に次ぐ2番目に大きい木造建築物(高さでは負けるが平面積では日本一)、90本の柱と堂内の畳数927枚、瓦の枚数17万枚、屋根の総重量2755t *通常非公開の「大寝殿」「白書院」と庭園、能舞台、「宮御殿」は後日期待 -
渡り廊下に「毛綱」(けづな)と「大橇」(おおぞり)が展示されている、明治の再建の際に、巨大な木材等を「大橇」に載せ、通常の綱では弱かったので女性信者の黒髪を集めて混ぜて作った「毛綱」を引き綱として運搬したという
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「阿弥陀堂」(あみだどう)
御本尊阿弥陀如来を安置し、内陣は「仏説阿弥陀経」の世界が表現され天井から柱にいたるまで金色で装飾されている -
「手水屋形」(ちょうずやかた)
入母屋造り、本瓦葺きで、石の水盤の上に銅製の竜、明治28年(1895)年に造られ来春2024年改修工事予定 -
立派な大門に見合った巨大な龍は存在感がある
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「鐘楼」(しょうろう)
明治27年(1894)再建され、今年8月1日から改修工事が始まり2024年9月完成予定 -
現在の撞鐘は、平成22年(2010)に400年ぶりに新調されたもの
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「阿弥陀堂門」(あみだどうもん)
切妻造、唐破風付の四脚門形式の門で、唐破風があることから江戸時代には「唐門」と呼ばれ、幕末に焼失後、明治44年(1911)再建され、2022年改修完了 -
東本願寺から150m離れた飛地境内の「渉成園」へ
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「渉成園・枳殻邸」(しょうせいえん・きこくてい)
もともと「六条河原院」跡地で、江戸時代の1641年家光が東本願寺に寄進され飛び地境内となり、「印月池」(いんげつち)を中心とした石川丈山作庭の庭園は、東本願寺門首の隠退所や外賓の接遇所として使われ、庭園は殆ど当時のままだが建物は1864年蛤御門の変以降に再建され、その後明治天皇の休憩所になった -
源融(みなもとのとおる)の「六条河原院」の旧跡と言われ、庭園内に「源融供養塔」や「塩釜の手水鉢」があり、源氏物語ゆかりの庭といわれている *「源融」は、嵯峨天皇の皇子で初代嵯峨源氏を賜り、源氏物語・光源氏のモデルとされている *「塩釜の手水鉢」は、奥州塩釜の風景を模して造った「渉成園」の「縮遠亭」(しゅくえんてい)茶室前にあり浪花津から塩水を運び塩を焼いて海浜の風景を楽しんだ、源融公遺愛のもの
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2009.4.9撮影:過去のブログに掲載→https://4travel.jp/travelogue/10327006
「渉成苑」(しょうせいえん)は、琵琶湖から水をひいたという池を中心に茶室や書院を配した池泉回遊式庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから「枳殻邸」(きこくてい)ともよばれており、京都に4つある「石川丈山庭園」の一つ(詩仙堂、蓮華寺、一休寺) -
「文子天満宮」(あやこてんまんぐう)
菅原道真の乳母の多治比文子(たじひのあやこ)が造った祠(ほこら:小規模な神殿)で、その後朝廷が北野に大規模な神社を造り北野天満宮になったので、ここが天神信仰発祥地になる -
御祭神・菅原道真公が太宰府へ左遷後に亡くなられたが、乳母(うば)の多治比文子に、北野の右近の馬場(現在の北野天満宮)に祀るようお告げされていたので、文子は自分の家の庭に小さな祠 (ほこら)をもうけ、その後947年に北野天満宮が創建された、文子天満宮は菅原道真公を「天神」として、わが国で最初にお祀りをした神社であることから、「天神信仰発祥の神社」と位置づけられ、全国から受験生やその家族が参拝し、あやという文字が入った名前の人から守り神として崇敬されている
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再び「六条通」に戻ると今までの狭い「六条通」から一転、烏丸通から河原町通までは「新六条通」と呼ばれ、2車線の広い道路になる
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創業100年以上の老舗の酒屋さん「タキモト名酒館」で、京都随一の品揃えを誇ることで人気らしい
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「乳房地蔵尊」の石標に惹かれた「福田寺」(ふくでんじ)は、鎌倉時代1264年創建のお寺で、乳の出を良くする、乳の病を治すなど「乳房守護」のご利益があるらしい
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「河原町通」に到着、「六条通」はここまで、正面建物は京都市の「ひと・まち交流館」で、福祉や町づくりなど社会に貢献する市民活動の支援拠点
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左手に「延寿寺」(えんじゅじ)、この辺りは秀吉の洛中改造により寺院を移転した寺町通と寺之内通と同様、五条通より南に集まった「下寺町」(しもでらまち)と呼ばれたところで、約20の寺院が集まっているが観光寺院は殆どない
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「延寿寺」(えんじゅじ)は、1163年後白河上皇の六条殿に建てられた長講堂が一時衰退したとき、その三尊を受け継いで建立したといわれ、江戸時代の歌舞伎役者、初代・尾上菊五郎の墓がある
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すぐ近くに、女性の願いを全て叶えてくれるパワースポット「市比賣神社」(いちひめじんじゃ)がある
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「市比賣神社」(いちひめじんじゃ)
ご祭神全てが女神様で、全国でも珍しい女人厄除けの神社とされ、良縁・子授け・安産等、女性に関するご利益ばかり、平安期795年藤原冬嗣が桓武天皇の命で東市・西市の守護神として創建し、現在も中央市場の守護神、御所守護も担っていることから本殿は御所と向き合い、境内の名水は歴代天皇の産湯に用いられたので歴代皇后の崇敬も篤く格式の高い神社 -
鴨川沿いに流れる高瀬川沿いの木屋町通に到着
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この辺りは、「五条楽園」という遊郭の残骸の町並みが残るが、一方で高瀬川は野鳥など多い「野鳥楽園」とも呼んでいい自然に恵まれたエリアで絶好な散歩道
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「高瀬川船廻し場跡」
1614年角倉了以親子が作った水路が二条から伏見まで開通し、1920年大正時代まで都に米や材木、薪炭などを運んでいて、この辺りは砂浜のようになっていたので高瀬舟が方向転換するための船廻し場になって、伏見や大阪を結ぶ交通の要衝となり、一大花街が発生する要因ともなった -
レトロな銭湯「サウナ梅湯」
明治から続く銭湯を20代の銭湯好き青年が復活させたことで有名 -
少し歩くと高瀬川沿いに雰囲気のある喫茶店「マーマー コーヒー」があったので一休み
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10席くらいの小じんまりした店だが人気店のようで満席状態
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すぐ近くにある、お目当てのホテル「丸福樓」(まるふくろう)
「任天堂」を創業した山内家が、創業地である旧本社社屋跡地に2022年、建築家・安藤忠雄がリノベーションして造ったホテル、「丸福」は旧社名「株式会社丸福」からの命名で山内家の屋号でもあり任天堂の商号でもある、内部は入れなかったが、旧本社社屋で使われていた古い家具などがそのまま残されていて、任天堂ファンの間では「聖地」と呼ばれている建物に新しい息吹を与えたホテルがおよそ100年後に出来たということは京都らしくて素晴らしい! *「任天堂」は、1889年花札・かるた製造・販売会社として「山内房次郎商店」創業、1933年「山内任天堂」現在の旧本社建築、1947年「丸福」になって、1949年3代目・山内溥(ひろし)が52年にわたって社長を務め任天堂を世界的ゲームメーカーに育て「中興の祖」と呼ばれる、1980年「ゲーム&ウオッチ」発売、1983年「ファミリーコンピュータ」発売、1985年「スーパーマリオブラザーズ」発売、1990年「スーパーファミコン」発売、1996年「NINTENDO64」発売、2001年「ニンテンドー ゲームキューブ」発売、2002年4代目社長岩田聡就任(ハル研究所出身)、2006年「Wii」発売、2015年5代目社長君島達己就任(三和銀行出身)、2017年「Nintendo Switch」発売、2018年6代目社長古川俊太郎就任(早稲田政経出身)、2020年創業家のファミリーカンパニー「株式会社山内」設立(故山内溥元社長の遺産約2000億円を長男山内克仁、孫山内万丈を含む4人が相続し運用)、2022年地域貢献として「高瀬川再生プロジェクト」に3億円寄贈 -
建物は昭和初期1933年の旧本社社屋の事務所棟・倉庫棟と創業家の自宅として使われていた住居棟と、安藤忠雄氏による新築棟があり、花札の製造からスタートした任天堂がこの地で作っていたトランプにちなんで「スペード棟」「ダイヤモンド棟」「ハート棟」「クローバー棟」と名付けられた部屋が18室ある *素泊まり6万円~
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宿屋「平岩」
1958年売春防止法後、妓楼から旅館に移行し2016年リニューアルオープン -
路地裏には誰が描いたか落書き、「絵壁」と言えば史蹟
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「五条楽園」
この辺りは江戸中期から高瀬川沿いに五条通から七条通まで広がる遊郭があったところで京都6遊郭(島原、清水、祇園、八坂、北野)の一つ、江戸後期から明治にかけて武士や富裕層相手の高級花街だった島原に対して一般庶民の花街として繁栄し、大正時代には祇園を凌ぐ勢いで150軒ものお茶屋や置屋があったという、昭和33年(1958)売春防止法の後も京都では最後まで存続していたが2010年壊滅、2017年には取り仕切っていた広域暴力団も姿を消し、最近では往時を忍ばすような建物を利用したカフェや宿泊施設が増えてきている -
ゲストハウスにしているところが多いが、まだまだ空き家も多い
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「五条会館」(五條会館歌舞練場)
五条楽園のランドマークと言われる大正6年築の木造3階建て、当時は「五條会館歌舞練場」と呼ばれ、芸妓や舞妓が歌舞音曲を稽古したり発表する演舞場だから娼妓だけの遊郭ではなかった -
大手リノベーション会社が買い取って再生を考えているらしい、競合会社はマンションを建てる計画だったので、歴史が残ってよかったが、近くの最大のお茶屋「旧三友楼」は最近2021年解体されて跡形もなく寂しい!
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近くの路地裏のレトロな建物は「新みかさ」というお茶屋さんで、丸窓のある洋風建築は「カフェ建築」と言って「遊郭建築」とは違う
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こちらは唐破風のある和風の「遊郭建築」お茶屋「梅鉢」
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「五條製作所」
2014年オープンの若手クリエイターたちの工房兼店舗や飲食店が入っている、「格子窓・ステンドガラス・タイル」などを使った洋風建築で、典型的な「カフェー建築」 -
「モミポン」という手作りのポン酢が有名らしい、ポン酢の製造販売とポン酢料理も提供している
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「六条河原院跡」(かわらのいん)「此附近源融河原院址」の石碑
この辺りは、平安時代初期の嵯峨天皇の皇子「源融」(みなもとのとおる)が、摂政藤原基経(ふじわらのもとつね)の台頭により隠棲した邸宅「河原院」(六条河原院)があった所、「源融」は嵯峨源氏の祖で、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルといわれており、「河原院」は、南北は五条通から正面通、東西は鴨川から柳馬場通あたりまで東京ドームよりも広大な敷地で、鴨川の水を引き入れて池を作り陸奥国の塩釜の浦の景観を模した庭園に、難波(今の尼崎)から毎月海水を運ばせて塩焼きをして楽しみ、政界から引退した後も、在原業平など多くの歌人や文人たちを河原院に招き、風雅な暮らしをして、河原院や宇治の平等院で余生を過ごしたという、死後は宇多天皇の仙洞御所「東六条院」になり、江戸時代には家康が跡地に「渉成園」を作った、現在、河原院があった場所には、邸内にあったエノキの木だけが残っている -
この先は「五条大橋」
嵯峨源氏の祖「源融」の死後260年後に、清和源氏の牛若丸「源義経」が弁慶と目と鼻の先で戦っていたのも何かの因縁か
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