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8月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第5回目「五条大路」です。<br />長い歴史の中で「平安京」がほぼそのままの形を残しているのは凄いことですが、明らかに当時とは変わっているところもあって、今回の「五条大路」はその一つにあげられます。「五条通り」にある「五条大橋」袂の駒札を見ると、「平安時代、現在の五条通りは六条坊門小路と呼ばれ、ここには橋が無かったので豊臣秀吉が当時の五条通(現松原通)の橋を現在の場所に移建した」とあり、現在の「松原通」が「五条大路」だったという話なので、今回の散歩は「松原通」を歩くことにしますが、まずは「牛若丸の京の五条の橋の上」は外せないので、「五条大橋」からスタートすることにします。<br />現在の「五条通」は、東大路通・五条坂から桂川西大橋までで、戦後建物疎開で50m幅の広い通りになり、堀川五条以東は国道1号、西は国道9号の幹線道路になっていますが、平安京の「五条大路」は、清水寺から清水坂を下る東大路通・清水道から鴨川に架かる「松原橋」を渡り佐井西通まで約5kmの現在の「松原通」です。<br />見所は、鴨川を挟んで東側の「あの世」と呼ばれた鳥辺野の埋葬地帯で、あの世とこの世の境目となる「六道の辻」や小野篁の「冥土通いの井戸」、美女が白骨化していく「九想図絵」、「地獄絵」など生々しいモノにあふれる通りと、鴨川を超えて西側の「この世」と呼ばれた現世で、宮廷文化を支える職人が暮らし、染色、履物、表装など伝統工芸品を扱う店や商店街が立ち並び、最近まで「松原京極商店街」というアーケード街があり、昭和30年までは祇園祭の山鉾巡行ルートで伏見稲荷の稲荷祭りの神輿まで見れるという通りで、どこをとっても歴史満載の奥が深い通りです。<br /><br />

月一京町散歩(8月)平安京散歩「五条大路」

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2023/08/17 - 2023/08/17

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8月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第5回目「五条大路」です。
長い歴史の中で「平安京」がほぼそのままの形を残しているのは凄いことですが、明らかに当時とは変わっているところもあって、今回の「五条大路」はその一つにあげられます。「五条通り」にある「五条大橋」袂の駒札を見ると、「平安時代、現在の五条通りは六条坊門小路と呼ばれ、ここには橋が無かったので豊臣秀吉が当時の五条通(現松原通)の橋を現在の場所に移建した」とあり、現在の「松原通」が「五条大路」だったという話なので、今回の散歩は「松原通」を歩くことにしますが、まずは「牛若丸の京の五条の橋の上」は外せないので、「五条大橋」からスタートすることにします。
現在の「五条通」は、東大路通・五条坂から桂川西大橋までで、戦後建物疎開で50m幅の広い通りになり、堀川五条以東は国道1号、西は国道9号の幹線道路になっていますが、平安京の「五条大路」は、清水寺から清水坂を下る東大路通・清水道から鴨川に架かる「松原橋」を渡り佐井西通まで約5kmの現在の「松原通」です。
見所は、鴨川を挟んで東側の「あの世」と呼ばれた鳥辺野の埋葬地帯で、あの世とこの世の境目となる「六道の辻」や小野篁の「冥土通いの井戸」、美女が白骨化していく「九想図絵」、「地獄絵」など生々しいモノにあふれる通りと、鴨川を超えて西側の「この世」と呼ばれた現世で、宮廷文化を支える職人が暮らし、染色、履物、表装など伝統工芸品を扱う店や商店街が立ち並び、最近まで「松原京極商店街」というアーケード街があり、昭和30年までは祇園祭の山鉾巡行ルートで伏見稲荷の稲荷祭りの神輿まで見れるという通りで、どこをとっても歴史満載の奥が深い通りです。

  • 「五条大路」は、「一条戻り橋」「二条の生薬(きぐすり)屋」「三条酒屋」「四条の芝居(南座)」に続き「五条の橋弁慶」と言われ、牛若丸と弁慶が出会って決闘した場所です

    「五条大路」は、「一条戻り橋」「二条の生薬(きぐすり)屋」「三条酒屋」「四条の芝居(南座)」に続き「五条の橋弁慶」と言われ、牛若丸と弁慶が出会って決闘した場所です

  • 散歩ルートは、五条大橋~1.0km東大路通・清水坂~0.5km六道珍皇寺~六波羅蜜寺~0.7km松原橋~(河原町通)~1.1km明王院不動寺~1.4km夕顔の墓~鉄輪井戸~1.6km平等寺(因幡薬師)~俊成社~(烏丸通)~1.9km新玉津島神社~2.0km松原道祖神社~光圓寺~2.1km五条天神宮~三善清行邸跡~(堀川通)~近藤すだれ店~(大宮通)~2.8km本圀寺塔頭群まで約4km

    散歩ルートは、五条大橋~1.0km東大路通・清水坂~0.5km六道珍皇寺~六波羅蜜寺~0.7km松原橋~(河原町通)~1.1km明王院不動寺~1.4km夕顔の墓~鉄輪井戸~1.6km平等寺(因幡薬師)~俊成社~(烏丸通)~1.9km新玉津島神社~2.0km松原道祖神社~光圓寺~2.1km五条天神宮~三善清行邸跡~(堀川通)~近藤すだれ店~(大宮通)~2.8km本圀寺塔頭群まで約4km

  • 「五条大橋」(幅36.0m、長さ67.2m)<br />欄干は原型を模した石造り、擬宝珠(ぎぼし)は青銅製の旧橋のものをそのまま活用し江戸時代のものが2基残っている、旧橋と同じ木製にしたい地元の要望と、近代橋を主張する建設省との間で議論があったが、両方の意見を取り入れたという

    「五条大橋」(幅36.0m、長さ67.2m)
    欄干は原型を模した石造り、擬宝珠(ぎぼし)は青銅製の旧橋のものをそのまま活用し江戸時代のものが2基残っている、旧橋と同じ木製にしたい地元の要望と、近代橋を主張する建設省との間で議論があったが、両方の意見を取り入れたという

  • 平安時代、現在の五条通りは六条坊門小路と呼ばれ、ここには橋が無かったので豊臣秀吉が(方広寺大仏殿の造営に際し)1590年に当時の五条通(現松原通)の橋を現在の場所に移建した、明治時代は木製の幅6mの橋だったが、昭和34年(1959)に今の姿になった

    平安時代、現在の五条通りは六条坊門小路と呼ばれ、ここには橋が無かったので豊臣秀吉が(方広寺大仏殿の造営に際し)1590年に当時の五条通(現松原通)の橋を現在の場所に移建した、明治時代は木製の幅6mの橋だったが、昭和34年(1959)に今の姿になった

  • 「牛若丸と弁慶」像<br />源義経(みなもとのよしつね)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の像は、橋の一角にあったが2013年現在の五条通り中央分離帯の中に移転された、「京の五条の橋の上」は鎌倉時代の「御伽草子」の伝えで、室町時代の「義経記」(ぎけいき)では、牛若丸と弁慶の出会いの場所は後程出てくる「五條天神社」(ごじょうてんしんしゃ)で、決着の場は清水寺の舞台となって牛若丸が勝利を納め、それから弁慶は家来になったという<br />

    「牛若丸と弁慶」像
    源義経(みなもとのよしつね)と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の像は、橋の一角にあったが2013年現在の五条通り中央分離帯の中に移転された、「京の五条の橋の上」は鎌倉時代の「御伽草子」の伝えで、室町時代の「義経記」(ぎけいき)では、牛若丸と弁慶の出会いの場所は後程出てくる「五條天神社」(ごじょうてんしんしゃ)で、決着の場は清水寺の舞台となって牛若丸が勝利を納め、それから弁慶は家来になったという

  • 「五条大橋」袂の公園に「3本の石柱」が駒札なしで存在するが、「摂津国御(影)」や「天正17年」と刻まれているのが読み取れるので、豊臣秀吉が造らせた橋脚の遺物らしい *「摂津国」は御影(みかげ)石の産地(御影で採れる花崗岩)

    「五条大橋」袂の公園に「3本の石柱」が駒札なしで存在するが、「摂津国御(影)」や「天正17年」と刻まれているのが読み取れるので、豊臣秀吉が造らせた橋脚の遺物らしい *「摂津国」は御影(みかげ)石の産地(御影で採れる花崗岩)

  • 「扇塚」(おうぎづか)<br />かつて、この地には平安時代創建で扇の発祥地として知られる「御影堂」(みえいどう)というお寺があり、平敦盛の妻が出家し夫の菩提を弔うために尼となって御影堂へ入り扇を折り、「御影堂扇」(みえいどうおうぎ)とよばれ、このエリアに扇職人が多く移り住み長く京扇子の名産地として栄えたという

    「扇塚」(おうぎづか)
    かつて、この地には平安時代創建で扇の発祥地として知られる「御影堂」(みえいどう)というお寺があり、平敦盛の妻が出家し夫の菩提を弔うために尼となって御影堂へ入り扇を折り、「御影堂扇」(みえいどうおうぎ)とよばれ、このエリアに扇職人が多く移り住み長く京扇子の名産地として栄えたという

  • 「松原通」のスタート地点「東大路通・清水道」<br />左方向は清水寺、右方向は六波羅蜜寺、正面は五条通・国道1号

    「松原通」のスタート地点「東大路通・清水道」
    左方向は清水寺、右方向は六波羅蜜寺、正面は五条通・国道1号

  • 「松原通・東大路西入」

    「松原通・東大路西入」

  • 「六道の辻・六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)<br />「六道の辻」は、この世とあの世の境となり「六道」へ通じる道で、一般的に「六道珍皇寺」の門前のことで、「六道珍皇寺」は、奈良時代空海の師にあたる慶俊の創建とされるが、弘法大師説、小野篁説など諸説ある、当初東寺に属していたが室町時代に建仁寺により再興され現在は建仁寺派 *六道は、現世での生き方を審判されて6種類の世界に選別されるという6つの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上<br /><br />

    「六道の辻・六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ)
    「六道の辻」は、この世とあの世の境となり「六道」へ通じる道で、一般的に「六道珍皇寺」の門前のことで、「六道珍皇寺」は、奈良時代空海の師にあたる慶俊の創建とされるが、弘法大師説、小野篁説など諸説ある、当初東寺に属していたが室町時代に建仁寺により再興され現在は建仁寺派 *六道は、現世での生き方を審判されて6種類の世界に選別されるという6つの世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上

  • 「六道まいり」8月7~10日<br />冥界との絆、この綱を引けば鐘の音は 遥か彼方のあの世にまで響くといわれている 京のお盆 都人はこの世に先祖の精霊を迎えるため「迎え鐘」を鳴らす 死者の魂を送る「鳥辺野」(とりべの)への入り口「六道の辻」 今は黄泉(こうせん;あの世)の旅人たちがこの境より 懐かしの家路を急ぐ *鳥辺野(とりべの)は、この辺りにある鳥辺山麓の葬送地で、多くの庶民は墓は建てられず風葬(鳥葬)にされ、お盆に帰る精霊は必ずここを通り、寺の前の松原通りは鳥辺野への幹線道路だった<br />

    「六道まいり」8月7~10日
    冥界との絆、この綱を引けば鐘の音は 遥か彼方のあの世にまで響くといわれている 京のお盆 都人はこの世に先祖の精霊を迎えるため「迎え鐘」を鳴らす 死者の魂を送る「鳥辺野」(とりべの)への入り口「六道の辻」 今は黄泉(こうせん;あの世)の旅人たちがこの境より 懐かしの家路を急ぐ *鳥辺野(とりべの)は、この辺りにある鳥辺山麓の葬送地で、多くの庶民は墓は建てられず風葬(鳥葬)にされ、お盆に帰る精霊は必ずここを通り、寺の前の松原通りは鳥辺野への幹線道路だった

  • 「六道参り・参詣順路」<br />1.境内で高野槇を買う 2.本堂前で故人の戒名を水塔婆(経木)に書いてもらう 3.お迎え鐘をつく 4.本堂の御本尊参り 5.水塔婆を線香で清める 6.地蔵堂前の「賽の河原」で水塔婆を桶に納め高野槇で「水回向」(みずえこう;供養)する 7.高野槇は持ち帰りお盆の期間中仏壇にお飾りする 8.地蔵堂前の桶に納められた水塔婆は群霊塔へ移しお盆の期間中供養され、8月17日の「大施餓鬼法要」(せがきほうよう)のお焚き上げで「五山の送り火」で安らかに冥界へ旅立たれた精霊の無事奇岩がなされる 

    「六道参り・参詣順路」
    1.境内で高野槇を買う 2.本堂前で故人の戒名を水塔婆(経木)に書いてもらう 3.お迎え鐘をつく 4.本堂の御本尊参り 5.水塔婆を線香で清める 6.地蔵堂前の「賽の河原」で水塔婆を桶に納め高野槇で「水回向」(みずえこう;供養)する 7.高野槇は持ち帰りお盆の期間中仏壇にお飾りする 8.地蔵堂前の桶に納められた水塔婆は群霊塔へ移しお盆の期間中供養され、8月17日の「大施餓鬼法要」(せがきほうよう)のお焚き上げで「五山の送り火」で安らかに冥界へ旅立たれた精霊の無事奇岩がなされる 

  • 「薬師堂」<br />最澄作と伝わる本尊の木造薬師如来坐像(重要文化財)、脇侍に毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置

    「薬師堂」
    最澄作と伝わる本尊の木造薬師如来坐像(重要文化財)、脇侍に毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置

  • 「閻魔・篁堂」(えんま・たかむらどう)<br />小野篁作と伝わる閻魔大王像と小野篁像、弘法大師(空海)坐像が祀られている *小野篁は、身長188cmの巨漢であったとされ立像は等身大で造られている

    「閻魔・篁堂」(えんま・たかむらどう)
    小野篁作と伝わる閻魔大王像と小野篁像、弘法大師(空海)坐像が祀られている *小野篁は、身長188cmの巨漢であったとされ立像は等身大で造られている

  • 「小野篁」(おののたかむら)<br />小野妹子の子孫で文武両道に優れた人物であったが、奔放な性格で奇行が多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていて、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったり、裁きの助言をしていたと伝わり、本堂庭内に篁があの世へ向かい閻魔大王に仕えるために使ったという「井戸」がある 

    「小野篁」(おののたかむら)
    小野妹子の子孫で文武両道に優れた人物であったが、奔放な性格で奇行が多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていて、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったり、裁きの助言をしていたと伝わり、本堂庭内に篁があの世へ向かい閻魔大王に仕えるために使ったという「井戸」がある 

  • 「大石地蔵菩薩」<br />六道の辻で、弘法大師(空海)が死者の霊魂の弔いと冥界での往生を願い、一夜にして高さ2m30㎝の石仏を刻まれたと伝わる

    「大石地蔵菩薩」
    六道の辻で、弘法大師(空海)が死者の霊魂の弔いと冥界での往生を願い、一夜にして高さ2m30㎝の石仏を刻まれたと伝わる

  • 「迎え鐘」(鐘楼)<br />お盆の精霊迎えの際に先祖の霊を迎えるために撞くという「迎え鐘」で知られ、音響が冥土にまで届き精霊はその響きに応じてこの世に呼びよせられるといわれる、白壁で囲い外からは鐘が見えず正面中央の小さな穴から出ている綱を手前に引いて鐘をつくという変わったスタイル *「送り鐘」は矢田寺の鐘楼

    「迎え鐘」(鐘楼)
    お盆の精霊迎えの際に先祖の霊を迎えるために撞くという「迎え鐘」で知られ、音響が冥土にまで届き精霊はその響きに応じてこの世に呼びよせられるといわれる、白壁で囲い外からは鐘が見えず正面中央の小さな穴から出ている綱を手前に引いて鐘をつくという変わったスタイル *「送り鐘」は矢田寺の鐘楼

  • 「本堂」<br /> 薬師如来像と日光・月光両菩薩像の薬師三尊像が祀られている、本堂の枯山水石庭、冥途通いの井戸、薬師堂の薬師如来坐像は特別拝観のみ公開で、特別拝観以外は本堂右端の格子窓から見ることが出来る

    「本堂」
    薬師如来像と日光・月光両菩薩像の薬師三尊像が祀られている、本堂の枯山水石庭、冥途通いの井戸、薬師堂の薬師如来坐像は特別拝観のみ公開で、特別拝観以外は本堂右端の格子窓から見ることが出来る

  • 「冥土通いの井戸」と「黄泉がえりの井戸」<br />普段はここから遠めに見れるが本日は法会のため残念ながら見れず、平安時代小野篁が現世と冥界を行き来するために使った井戸と伝わる、地獄へ向かう入り口が「冥土通いの井戸」、さらに奥にこの世へ帰る出口が「黄泉がえりの井戸」で、そばには篁の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある *嵯峨の化野(あだしの)出口説があったが、2011年六道珍皇寺で発見された

    「冥土通いの井戸」と「黄泉がえりの井戸」
    普段はここから遠めに見れるが本日は法会のため残念ながら見れず、平安時代小野篁が現世と冥界を行き来するために使った井戸と伝わる、地獄へ向かう入り口が「冥土通いの井戸」、さらに奥にこの世へ帰る出口が「黄泉がえりの井戸」で、そばには篁の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある *嵯峨の化野(あだしの)出口説があったが、2011年六道珍皇寺で発見された

  • 「日新電機創業の地」2017.11.28 六道珍皇寺境内内に建設<br />日新電機は、明治43年(1910)六道珍皇寺の西側に日新工業社として創業、日新工業社は、京都大学で電気計器の研究をしていた富澤信が電気計器の国産化を目指して起業し、その後日新電機と社名を変え右京区梅津に本社を移し、現在重電機器を中心に幅広い領域でグローバルに事業を展開、「日新」は(日々に新たに)の意

    「日新電機創業の地」2017.11.28 六道珍皇寺境内内に建設
    日新電機は、明治43年(1910)六道珍皇寺の西側に日新工業社として創業、日新工業社は、京都大学で電気計器の研究をしていた富澤信が電気計器の国産化を目指して起業し、その後日新電機と社名を変え右京区梅津に本社を移し、現在重電機器を中心に幅広い領域でグローバルに事業を展開、「日新」は(日々に新たに)の意

  • 「轆轤町」(ろくろちょう)<br />このあたりは「轆轤町」という町名で、江戸時代から清水焼の陶工が多く住み陶器を作る時回転させる台の「轆轤」(ろくろ)に由来するが、豊臣秀吉による町名変更以前は白骨死体の髑髏(どくろ)が散乱していたので「髑髏町」(どくろちょう)と呼ばれ、これが転化して「六道」「六原」「六波羅」と表記されるようになったと言われる

    「轆轤町」(ろくろちょう)
    このあたりは「轆轤町」という町名で、江戸時代から清水焼の陶工が多く住み陶器を作る時回転させる台の「轆轤」(ろくろ)に由来するが、豊臣秀吉による町名変更以前は白骨死体の髑髏(どくろ)が散乱していたので「髑髏町」(どくろちょう)と呼ばれ、これが転化して「六道」「六原」「六波羅」と表記されるようになったと言われる

  • 外国人観光客が並んでいたので注目! 町家をリノベーションしたカフェ「SAGAN」で、おばんざいからハンバーグ、カレー、パン、マフィーなどメニューの幅が広い

    外国人観光客が並んでいたので注目! 町家をリノベーションしたカフェ「SAGAN」で、おばんざいからハンバーグ、カレー、パン、マフィーなどメニューの幅が広い

  • 「SAGAN」と隣の中華「六波羅飯店」を過ぎた交差点に、「六波羅蜜寺」を示す「西国三十三ヶ所第十七番札所」の石碑が立つ

    「SAGAN」と隣の中華「六波羅飯店」を過ぎた交差点に、「六波羅蜜寺」を示す「西国三十三ヶ所第十七番札所」の石碑が立つ

  • 「六波羅蜜寺」(ろくはらみつじ)<br />平安時代には「空也の寺」、その後「平家一門の拠点」、さらに鎌倉時代には幕府の出先機関「六波羅探題」として日本の歴史の中心地となった

    「六波羅蜜寺」(ろくはらみつじ)
    平安時代には「空也の寺」、その後「平家一門の拠点」、さらに鎌倉時代には幕府の出先機関「六波羅探題」として日本の歴史の中心地となった

  • 「六波羅蜜寺」鉄門<br />普段はこの門は閉まっているが、およそ山門とは言えない「鉄門」でまだ真新しそうだが、創建は平安時代の951年、踊り念仏で知られる「念仏の祖」空也上人が疫病退散のために自ら彫った「十一面観音像」を本尊とする道場で、当初は「西光寺」と呼ばれていたが、死後弟子である中信が中興し、六つの修行である六波羅にちなみ「六波羅密寺」と改称した *「波羅蜜」とは、サンスクリット語で「涅槃の地に行く」という意で、「六」は悟りを開くために必要な六つの修行の布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のこと(深くは追及できないが)<br /><br />

    「六波羅蜜寺」鉄門
    普段はこの門は閉まっているが、およそ山門とは言えない「鉄門」でまだ真新しそうだが、創建は平安時代の951年、踊り念仏で知られる「念仏の祖」空也上人が疫病退散のために自ら彫った「十一面観音像」を本尊とする道場で、当初は「西光寺」と呼ばれていたが、死後弟子である中信が中興し、六つの修行である六波羅にちなみ「六波羅密寺」と改称した *「波羅蜜」とは、サンスクリット語で「涅槃の地に行く」という意で、「六」は悟りを開くために必要な六つの修行の布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のこと(深くは追及できないが)

  • 「六波羅探題府石碑」(此附近/平氏六波羅第/六波羅探題府)<br />平忠盛が、六波羅蜜寺の敷地内に平家一門の拠点として「六波羅館」を置いてから最盛期には5200軒もの平家一門の邸宅があり、平氏政権は「六波羅政権」とも呼ばれるほど栄華を極めたが、その後源氏との争いに敗れてからは源頼朝のものとなり、鎌倉幕府によって「六波羅探題」が置かれ京都の警備・監視役として駐留するようになった、その後豊臣秀吉が大仏を建立した際方広寺の余材を利用して本堂の補修を行ったり、徳川家も代々お寺を保護してきたが、明治の廃仏毀釈で領地は縮小され現在の規模となった

    「六波羅探題府石碑」(此附近/平氏六波羅第/六波羅探題府)
    平忠盛が、六波羅蜜寺の敷地内に平家一門の拠点として「六波羅館」を置いてから最盛期には5200軒もの平家一門の邸宅があり、平氏政権は「六波羅政権」とも呼ばれるほど栄華を極めたが、その後源氏との争いに敗れてからは源頼朝のものとなり、鎌倉幕府によって「六波羅探題」が置かれ京都の警備・監視役として駐留するようになった、その後豊臣秀吉が大仏を建立した際方広寺の余材を利用して本堂の補修を行ったり、徳川家も代々お寺を保護してきたが、明治の廃仏毀釈で領地は縮小され現在の規模となった

  • 「平清盛公の塚」(たいらのきよもり)<br />「六波羅政権」と呼ばれた平家の大将・清盛の供養塔、六波羅の地には「六波羅殿」をはじめ一族郎党5,000を超える邸宅があり平氏政権が栄華を極め、この地は日本の中心で、「平家物語」ではこの六波羅蜜寺か六道珍皇寺で荼毘にふしたとあり、有名な平清盛像を所蔵している、隣には「阿古屋塚」(あこやづか)があるが、これは平氏の武士を救ったとされ歌舞伎にもなっている江戸時代の「阿古屋」という遊女の宝塔で、囲いや説明板などは新しく「奉納 五代目・坂東玉三郎 平成二十三年」となっている *「平家物語」祇園精舎の鐘の声/諸行無常の響きあり/沙羅双樹の花の色/盛者必衰の理をあらわす/おごれる人も久しからず/ただ春の夜の夢のごとし/たけき者もついには滅びぬ/偏に風の前の塵に同じ

    「平清盛公の塚」(たいらのきよもり)
    「六波羅政権」と呼ばれた平家の大将・清盛の供養塔、六波羅の地には「六波羅殿」をはじめ一族郎党5,000を超える邸宅があり平氏政権が栄華を極め、この地は日本の中心で、「平家物語」ではこの六波羅蜜寺か六道珍皇寺で荼毘にふしたとあり、有名な平清盛像を所蔵している、隣には「阿古屋塚」(あこやづか)があるが、これは平氏の武士を救ったとされ歌舞伎にもなっている江戸時代の「阿古屋」という遊女の宝塔で、囲いや説明板などは新しく「奉納 五代目・坂東玉三郎 平成二十三年」となっている *「平家物語」祇園精舎の鐘の声/諸行無常の響きあり/沙羅双樹の花の色/盛者必衰の理をあらわす/おごれる人も久しからず/ただ春の夜の夢のごとし/たけき者もついには滅びぬ/偏に風の前の塵に同じ

  • 「六波羅弁才天堂」<br />「弁財天」を祀る「都七福神」の一つで、正月には絵馬や福飾りなどを稲穂に付けて持ち帰る参詣者で賑わう、七福神紅一点の「弁財天」は、水を司り学問・技芸・雄弁を司る智恵の神として信仰され、別れの悲しみや嫌なこと、つらいことも水に流し清めてくれ、六波羅探題がここに設けられた頃から幕府の歴代の将軍がここを祈願所として参拝に訪れていたという *都七福神めぐりは、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人

    「六波羅弁才天堂」
    「弁財天」を祀る「都七福神」の一つで、正月には絵馬や福飾りなどを稲穂に付けて持ち帰る参詣者で賑わう、七福神紅一点の「弁財天」は、水を司り学問・技芸・雄弁を司る智恵の神として信仰され、別れの悲しみや嫌なこと、つらいことも水に流し清めてくれ、六波羅探題がここに設けられた頃から幕府の歴代の将軍がここを祈願所として参拝に訪れていたという *都七福神めぐりは、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人

  • 「十一面観音像」と「一願石」<br />本尊の「十一面観音像」は、国宝指定で12年に一度の「辰年」しか開帳されないので、これのレプリカが立っており、隣に願いを一つだけ叶えてくれると言われている「一願石」がある、石柱上部の回転する円盤状の石の一字だけ金色の文字を正面にして三回手前にまわし願い事を唱える

    「十一面観音像」と「一願石」
    本尊の「十一面観音像」は、国宝指定で12年に一度の「辰年」しか開帳されないので、これのレプリカが立っており、隣に願いを一つだけ叶えてくれると言われている「一願石」がある、石柱上部の回転する円盤状の石の一字だけ金色の文字を正面にして三回手前にまわし願い事を唱える

  • 「お地蔵様と石仏」<br />墓地の入口にあり、本堂が解体修理された際に境内の発掘調査で発見されたもので、この辺りが鳥辺野への入口で葬送の地であったからと思われる<br />

    「お地蔵様と石仏」
    墓地の入口にあり、本堂が解体修理された際に境内の発掘調査で発見されたもので、この辺りが鳥辺野への入口で葬送の地であったからと思われる

  • 「六波羅蜜寺本堂」<br />室町時代の1363年に建てられ、唯一残された貴重な建物で、昭和44年(1969)の解体修理で鮮やかな極採色に修復された

    「六波羅蜜寺本堂」
    室町時代の1363年に建てられ、唯一残された貴重な建物で、昭和44年(1969)の解体修理で鮮やかな極採色に修復された

  • 「本堂」は、 空也上人の後、延暦寺の僧・中信が再興したので比叡山 延暦寺の総本堂「根本中堂」と同じような構造をしている、本堂中央に12年に一度開帳される御本尊の「十一面観音立像」があるが次は2024年に見られる、また後ろの「宝物館」には、空也上人像、平清盛公坐像や地蔵菩薩立像、運慶、湛慶坐像など平安、鎌倉時代の優れた彫刻が多いが、堂内には東京芸大の大学院生が2年かかって作ったという模造品の「空也上人像」が見れる *「空也上人像」の口から出る不思議な物体は、「南、無、阿、弥、陀、仏」のお念仏六字

    「本堂」は、 空也上人の後、延暦寺の僧・中信が再興したので比叡山 延暦寺の総本堂「根本中堂」と同じような構造をしている、本堂中央に12年に一度開帳される御本尊の「十一面観音立像」があるが次は2024年に見られる、また後ろの「宝物館」には、空也上人像、平清盛公坐像や地蔵菩薩立像、運慶、湛慶坐像など平安、鎌倉時代の優れた彫刻が多いが、堂内には東京芸大の大学院生が2年かかって作ったという模造品の「空也上人像」が見れる *「空也上人像」の口から出る不思議な物体は、「南、無、阿、弥、陀、仏」のお念仏六字

  • 手水舎

    手水舎

  • 手水鉢の横に「無事かえる」の石

    手水鉢の横に「無事かえる」の石

  • 「曹洞宗高祖 道元禅師御説法之御遺蹟」とある<br />道元禅師は鎌倉時代の1243年に六波羅蜜寺で「正法眼蔵」の説法をしたと伝えられる、建仁寺にもご生誕800年を記念した顕彰碑があるが、道元禅師は比叡山を下り建仁寺の扉を叩いたという、にわか勉強であるが、最澄が比叡山で天台宗を、空海が高野山で真言宗を開き、鎌倉時代になって浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元などが学び、特に武士に支持されたのが坐禅を主とする禅宗で、臨済宗と曹洞宗と黄檗宗であるが、「臨済宗」の栄西は建仁寺を創建、「曹洞宗」の道元は建仁寺で学び永平寺を創建した

    「曹洞宗高祖 道元禅師御説法之御遺蹟」とある
    道元禅師は鎌倉時代の1243年に六波羅蜜寺で「正法眼蔵」の説法をしたと伝えられる、建仁寺にもご生誕800年を記念した顕彰碑があるが、道元禅師は比叡山を下り建仁寺の扉を叩いたという、にわか勉強であるが、最澄が比叡山で天台宗を、空海が高野山で真言宗を開き、鎌倉時代になって浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元などが学び、特に武士に支持されたのが坐禅を主とする禅宗で、臨済宗と曹洞宗と黄檗宗であるが、「臨済宗」の栄西は建仁寺を創建、「曹洞宗」の道元は建仁寺で学び永平寺を創建した

  • 「なで牛」さん<br />身体の悪い部分を撫でると悪いところが牛に移って治るといわれている、江戸時代から全国の寺社で盛んになったらしいが、特に菅原道真を祭神とする北野天満宮は牛を聖獣とし13頭もいる、ここでは牛の頭を撫でると頭が良くなるというから特別!

    「なで牛」さん
    身体の悪い部分を撫でると悪いところが牛に移って治るといわれている、江戸時代から全国の寺社で盛んになったらしいが、特に菅原道真を祭神とする北野天満宮は牛を聖獣とし13頭もいる、ここでは牛の頭を撫でると頭が良くなるというから特別!

  • 「銭洗い弁財天堂」<br />境内の右手奥に銭洗い弁財天や水掛不動尊、水子地蔵尊などの建物がある祠がある

    「銭洗い弁財天堂」
    境内の右手奥に銭洗い弁財天や水掛不動尊、水子地蔵尊などの建物がある祠がある

  • 「迎え鐘」<br />「六道珍皇寺」と同じにしたのかどうか、白壁で囲っているので鐘は見えず正面の小さな穴から出ている綱を手前に引いて鐘をつくというスタイル 

    「迎え鐘」
    「六道珍皇寺」と同じにしたのかどうか、白壁で囲っているので鐘は見えず正面の小さな穴から出ている綱を手前に引いて鐘をつくというスタイル 

  • 「銭洗い弁財天」:お金を清めると金運が良くなる *弁財天は水を神格化したもので金運、財運を司る神<br />「水掛不動尊」:源義経がこの不動尊の横の松の木に兜をかけて戦いの勝利を祝ったことから、勝運成就の御利益があるとされる<br />「水子地蔵尊」:生まれてまもなく亡くなった水子を成仏へと導く地蔵

    「銭洗い弁財天」:お金を清めると金運が良くなる *弁財天は水を神格化したもので金運、財運を司る神
    「水掛不動尊」:源義経がこの不動尊の横の松の木に兜をかけて戦いの勝利を祝ったことから、勝運成就の御利益があるとされる
    「水子地蔵尊」:生まれてまもなく亡くなった水子を成仏へと導く地蔵

  • 「六道の辻」の碑<br />もう一度「松原通」(旧五条通)に戻ると「西国三十三ヶ所第十七番札所」の碑の傍に「六道の辻」の碑、ここは嵯峨野の「化野」(あだしの)と船岡山の「蓮台野」(れんだいの)と並び平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の葬儀場へ通じる入口で、まさに「あの世とこの世の境目」だったところ

    「六道の辻」の碑
    もう一度「松原通」(旧五条通)に戻ると「西国三十三ヶ所第十七番札所」の碑の傍に「六道の辻」の碑、ここは嵯峨野の「化野」(あだしの)と船岡山の「蓮台野」(れんだいの)と並び平安京の三大葬送地といわれる「鳥辺野(とりべの)」の葬儀場へ通じる入口で、まさに「あの世とこの世の境目」だったところ

  • 「みなとや幽霊子育飴本舗」<br />450年以上続く日本一歴史ある飴屋で、懐かしい麦芽の「幽霊飴」と呼ばれる飴を売る、これには「幽霊子育飴」の伝説があり「髪を長く垂らした一人の女が飴を買いに来て三文をおいて立ち去っていったが、翌日銭箱を見ると木の葉三枚に変わっていた、その後も続いたのであとをつけると女は墓場へ姿を消した、その事を寺の和尚に言うと10日程前に若い女を葬ったと言うのでその墓を確かめに行くと女の死骸の上で水飴をなめながら泣いている赤ん坊がいた、この女は赤ん坊を産んだが乳が出ないので仕方なく幽霊になって飴を買い赤ん坊に与えていたのだという、赤ん坊は墓から取り出されそれ以来女は店に現れなかった、その子は寺で育てられ後に高僧になったという。以来、店の飴は、幽霊子育飴として知られるようになった」

    「みなとや幽霊子育飴本舗」
    450年以上続く日本一歴史ある飴屋で、懐かしい麦芽の「幽霊飴」と呼ばれる飴を売る、これには「幽霊子育飴」の伝説があり「髪を長く垂らした一人の女が飴を買いに来て三文をおいて立ち去っていったが、翌日銭箱を見ると木の葉三枚に変わっていた、その後も続いたのであとをつけると女は墓場へ姿を消した、その事を寺の和尚に言うと10日程前に若い女を葬ったと言うのでその墓を確かめに行くと女の死骸の上で水飴をなめながら泣いている赤ん坊がいた、この女は赤ん坊を産んだが乳が出ないので仕方なく幽霊になって飴を買い赤ん坊に与えていたのだという、赤ん坊は墓から取り出されそれ以来女は店に現れなかった、その子は寺で育てられ後に高僧になったという。以来、店の飴は、幽霊子育飴として知られるようになった」

  • 「西福寺」(さいふくじ)<br />「六道の辻」の周辺には死者の霊を弔うため6つの仏堂があり現在残っているのは「六波羅蜜寺」と「六道珍皇寺」とこの「西福寺」の3つで、「西福寺」はこの辺に捨て置かれたご遺体を空海が悼んで自作の土仏地蔵尊を祀ったのに始まり、この地蔵尊を壇林皇后(嵯峨天皇皇后)が熱心に信仰されたことから次第に大きな寺院になった

    「西福寺」(さいふくじ)
    「六道の辻」の周辺には死者の霊を弔うため6つの仏堂があり現在残っているのは「六波羅蜜寺」と「六道珍皇寺」とこの「西福寺」の3つで、「西福寺」はこの辺に捨て置かれたご遺体を空海が悼んで自作の土仏地蔵尊を祀ったのに始まり、この地蔵尊を壇林皇后(嵯峨天皇皇后)が熱心に信仰されたことから次第に大きな寺院になった

  • 「子育地蔵尊」境内左手前<br />空海が鳥辺野の入口にあたるこの地に地蔵堂を建て自作の土仏地蔵尊を祀ったとされる、嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)はこの地蔵堂にしばしば参詣し、空海に帰依するようになり、ここで病気がちの正良親王(後の仁明天皇)の病気平癒の祈願をしたことから「子育地蔵」と呼ばれるようになった

    「子育地蔵尊」境内左手前
    空海が鳥辺野の入口にあたるこの地に地蔵堂を建て自作の土仏地蔵尊を祀ったとされる、嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)はこの地蔵堂にしばしば参詣し、空海に帰依するようになり、ここで病気がちの正良親王(後の仁明天皇)の病気平癒の祈願をしたことから「子育地蔵」と呼ばれるようになった

  • 「末廣不動尊」子育て地蔵の隣<br />鎌倉時代に後白河法皇が那智熊野の千日修行満願を感謝し、これを勧請して地蔵尊の守護にしたといい、倒産危機のあった社長が祈ると倒産を免れたということから商売繁盛の御利益がある

    「末廣不動尊」子育て地蔵の隣
    鎌倉時代に後白河法皇が那智熊野の千日修行満願を感謝し、これを勧請して地蔵尊の守護にしたといい、倒産危機のあった社長が祈ると倒産を免れたということから商売繁盛の御利益がある

  • 「水子地蔵尊」境内奥<br />生まれてまもなく亡くなった赤子の供養の小さい石仏が並ぶ

    「水子地蔵尊」境内奥
    生まれてまもなく亡くなった赤子の供養の小さい石仏が並ぶ

  • 「西福寺本堂」境内右手<br />壇林皇后を描いたといわれる江戸時代初期の「壇林皇后九想図絵」や室町時代の「地獄絵図」(六道十界図)、江戸時代の「十王図」「布袋図」「洛中洛外屏風」「壇林皇后像」などがある、特に「九想図絵」は風葬された壇林皇后の屍を鳥獣が食らい白骨化する経過を九段階にわけて極彩色で生々しく描かれており、「地獄絵図」は現世で犯した罪から地獄の行き先が決まる様が描かれて生々しい、「壇林皇后と弘法大師」は金谷武雄と書いてある最近の絵画 *「九想図絵」(くそうずえ)は、美女が醜く土に帰っていく場面を見せることで僧侶に女性への情欲を断ち切らせるという目的のために作られたもので、壇林皇后と同じく絶世の美女の「小野小町九相図」もある

    「西福寺本堂」境内右手
    壇林皇后を描いたといわれる江戸時代初期の「壇林皇后九想図絵」や室町時代の「地獄絵図」(六道十界図)、江戸時代の「十王図」「布袋図」「洛中洛外屏風」「壇林皇后像」などがある、特に「九想図絵」は風葬された壇林皇后の屍を鳥獣が食らい白骨化する経過を九段階にわけて極彩色で生々しく描かれており、「地獄絵図」は現世で犯した罪から地獄の行き先が決まる様が描かれて生々しい、「壇林皇后と弘法大師」は金谷武雄と書いてある最近の絵画 *「九想図絵」(くそうずえ)は、美女が醜く土に帰っていく場面を見せることで僧侶に女性への情欲を断ち切らせるという目的のために作られたもので、壇林皇后と同じく絶世の美女の「小野小町九相図」もある

  • 昭和感漂うラーメン店「ポパイ」<br />レモンチャーハンが人気の店だったが、どうやら閉店らしい、残念!

    昭和感漂うラーメン店「ポパイ」
    レモンチャーハンが人気の店だったが、どうやら閉店らしい、残念!

  • 芸妓さんを見かけたが、ここは「宮川町」!

    芸妓さんを見かけたが、ここは「宮川町」!

  • 「宮川町」<br />出雲阿国の江戸時代から祇園甲部の南側に広がった花街で、お茶屋や置屋が並び舞妓さん、芸妓さんが行き交う *「京都五花街」は、祇園甲部、宮川町、先斗町、祇園東、上七軒

    「宮川町」
    出雲阿国の江戸時代から祇園甲部の南側に広がった花街で、お茶屋や置屋が並び舞妓さん、芸妓さんが行き交う *「京都五花街」は、祇園甲部、宮川町、先斗町、祇園東、上七軒

  • 舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上で毎年春には近くの宮川町歌舞練場(現在小学校跡地に再開発中)で「京おどり」が上演される *「宮川町」の由来は、町の西側を流れる鴨川の水を祇園祭の神輿洗で使用することからこの町の付近に限って「宮川」と呼んだことから命名

    舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上で毎年春には近くの宮川町歌舞練場(現在小学校跡地に再開発中)で「京おどり」が上演される *「宮川町」の由来は、町の西側を流れる鴨川の水を祇園祭の神輿洗で使用することからこの町の付近に限って「宮川」と呼んだことから命名

  • 「松原橋」に到着<br />平安時代の五条大路(現在の松原通)に嵯峨天皇の勅命により橋が架けられ、清水寺の参詣道でもあったことから人の往来が多く大変賑わった都の目抜き通りであった、元来この地に架かっていた橋が「五条橋」であり、通りの両側に見事な松並木があったことから「五条松原橋」とも呼ばれていたが、安土桃山時代に豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり、この地に架かっていた橋を平安京の六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え「五条橋」と称したため、この地の橋の名前からは「五条」が外れ「松原橋」と呼ばれるようになった、伝説に謳われる牛若丸と弁慶の決闘「京の五条の橋の上」は当地のことを指す

    「松原橋」に到着
    平安時代の五条大路(現在の松原通)に嵯峨天皇の勅命により橋が架けられ、清水寺の参詣道でもあったことから人の往来が多く大変賑わった都の目抜き通りであった、元来この地に架かっていた橋が「五条橋」であり、通りの両側に見事な松並木があったことから「五条松原橋」とも呼ばれていたが、安土桃山時代に豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり、この地に架かっていた橋を平安京の六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え「五条橋」と称したため、この地の橋の名前からは「五条」が外れ「松原橋」と呼ばれるようになった、伝説に謳われる牛若丸と弁慶の決闘「京の五条の橋の上」は当地のことを指す

  • 「松原橋」は「疎水」(花の回廊)、「鴨川」、「高瀬川」の3つの川に架かる

    「松原橋」は「疎水」(花の回廊)、「鴨川」、「高瀬川」の3つの川に架かる

  • 疎水に架かる「松原橋」<br />清水寺への参詣路であったため「清水橋」とも呼ばれていた

    疎水に架かる「松原橋」
    清水寺への参詣路であったため「清水橋」とも呼ばれていた

  • 「鴨川納涼床」は桃山時代に始まると言われ、二条大橋から五条大橋まで100店以上並ぶ

    「鴨川納涼床」は桃山時代に始まると言われ、二条大橋から五条大橋まで100店以上並ぶ

  • 鴨川に架かる「松原橋」<br />現在架かる橋は、昭和10年(1935)鴨川の大洪水による倒壊流失後に架け替えられたもので、小さなコンクリート橋で、幅が狭いため一方通行になっている

    鴨川に架かる「松原橋」
    現在架かる橋は、昭和10年(1935)鴨川の大洪水による倒壊流失後に架け替えられたもので、小さなコンクリート橋で、幅が狭いため一方通行になっている

  • 高瀬川に架かる「松原橋」

    高瀬川に架かる「松原橋」

  • 松原通は「祇園祭山鉾巡行路」だった!<br />信号交差点の河原町通から一筋手前の「寺町通」が松原通に突き当たる「寺町松原」の交差点は、昭和30年まで「祇園祭の山鉾巡行」が四条通から南下して松原通に曲がる「辻回し」が行われ、そこから烏丸通まで西進していた、「松原通」は八坂神社の氏子と南側の伏見稲荷大社の氏子の境界線で、現在も稲荷祭の五基の神輿は松原を通り、昭和初期までは「祇園祭」の山鉾巡行と「稲荷祭」の還幸祭の両方を見ることが出来た貴重な場所!

    松原通は「祇園祭山鉾巡行路」だった!
    信号交差点の河原町通から一筋手前の「寺町通」が松原通に突き当たる「寺町松原」の交差点は、昭和30年まで「祇園祭の山鉾巡行」が四条通から南下して松原通に曲がる「辻回し」が行われ、そこから烏丸通まで西進していた、「松原通」は八坂神社の氏子と南側の伏見稲荷大社の氏子の境界線で、現在も稲荷祭の五基の神輿は松原を通り、昭和初期までは「祇園祭」の山鉾巡行と「稲荷祭」の還幸祭の両方を見ることが出来た貴重な場所!

  • 「祇園床」(右から左へ、ぎおんどこ)<br />今では廃業していると思われるが、この「散髪屋」は歴史上由緒あるところで、家の奥には牛頭天王が祀ってあり、「祇園祭山鉾巡行」の出発点からちょうど一里の距離にあることから、休憩所として長刀鉾の寄町の役割を果たしお稚児さんが休まれていた町会所だったので「祇園床」の名前がついている、現在でも7月14日には長刀鉾のお稚児さんが訪問するのが慣例となっているという

    「祇園床」(右から左へ、ぎおんどこ)
    今では廃業していると思われるが、この「散髪屋」は歴史上由緒あるところで、家の奥には牛頭天王が祀ってあり、「祇園祭山鉾巡行」の出発点からちょうど一里の距離にあることから、休憩所として長刀鉾の寄町の役割を果たしお稚児さんが休まれていた町会所だったので「祇園床」の名前がついている、現在でも7月14日には長刀鉾のお稚児さんが訪問するのが慣例となっているという

  • 「明王院不動寺」<br />麩屋町・松原のお不動さんで通称「松原不動」と呼ばれ、平安京以前の持統天皇期に道観大徳が開基し、平安京造営時に桓武天皇が王城鎮護のため平安京の東西南北の4つの磐座(岩倉)を定め経巻(きょうかん:経典)を収めたうちの一つで「南岩倉」と称した、のち空海が自作の「石仏不動明王像」を安置し、その後荒廃したが秀吉によって復興した

    「明王院不動寺」
    麩屋町・松原のお不動さんで通称「松原不動」と呼ばれ、平安京以前の持統天皇期に道観大徳が開基し、平安京造営時に桓武天皇が王城鎮護のため平安京の東西南北の4つの磐座(岩倉)を定め経巻(きょうかん:経典)を収めたうちの一つで「南岩倉」と称した、のち空海が自作の「石仏不動明王像」を安置し、その後荒廃したが秀吉によって復興した

  • 「明王院不動寺」<br />桃山時代、豊臣秀吉は聚楽第の造営に際し苔むした本尊不動明王を得て聚楽第に収めたところ夜な夜な不思議な光を放ったので霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し再び奉安したという

    「明王院不動寺」
    桃山時代、豊臣秀吉は聚楽第の造営に際し苔むした本尊不動明王を得て聚楽第に収めたところ夜な夜な不思議な光を放ったので霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し再び奉安したという

  • 源語伝説五条辺「夕顔の墳」(げんごでんせつごじょうのあたり「ゆうがおのふん」)<br />「源氏物語」こ悲運の女性として登場する「夕顔」が暮らした場所で、このお宅の奥にお墓があるという、「夕顔」は、乳母の「五条なる家」付近の荒れ果てた家に住んでいるところを「光源氏」が見い出し通った女性で、他の女性から妬まれその一人であった六条御息所の生霊によって19歳の若さで急逝した、家前に夕顔が咲いていたことからこう呼ばれ、この付近を「夕顔町」という *「源語伝説」は、今はあるかどうかわからないが「京都史蹟会」が昭和4年に建てたもの

    源語伝説五条辺「夕顔の墳」(げんごでんせつごじょうのあたり「ゆうがおのふん」)
    「源氏物語」こ悲運の女性として登場する「夕顔」が暮らした場所で、このお宅の奥にお墓があるという、「夕顔」は、乳母の「五条なる家」付近の荒れ果てた家に住んでいるところを「光源氏」が見い出し通った女性で、他の女性から妬まれその一人であった六条御息所の生霊によって19歳の若さで急逝した、家前に夕顔が咲いていたことからこう呼ばれ、この付近を「夕顔町」という *「源語伝説」は、今はあるかどうかわからないが「京都史蹟会」が昭和4年に建てたもの

  • 謡曲伝示「鉄輪跡」(かなわあと)<br />怨霊を題材とする謡曲「鉄輪」(かなわ)に登場する女が住んでいたとされる地に因んで建てられたという *「謡曲伝示」は、「謡曲史跡保存会」が管理している史跡で140ほどあるらしい

    謡曲伝示「鉄輪跡」(かなわあと)
    怨霊を題材とする謡曲「鉄輪」(かなわ)に登場する女が住んでいたとされる地に因んで建てられたという *「謡曲伝示」は、「謡曲史跡保存会」が管理している史跡で140ほどあるらしい

  • 民家の路地の中にあり、閉まっている扉を開けて入らなければならないので、狙い定めて行かないと見つけるのはマズ無理!

    民家の路地の中にあり、閉まっている扉を開けて入らなければならないので、狙い定めて行かないと見つけるのはマズ無理!

  • 路地突き当たりに鳥居が!<br />「鉄輪の井」(かなわのい)由来:謡曲「鉄輪」は男に捨てられた市井の女(しせいのおんな)が、貴船へ丑の刻参りをして相手の男とその後妻を祈り殺そうとする話が骨子になっていますが、この井戸は「鉄輪の女」が住んでいたところのものだといい、一説には身投げをした井戸ともいわれています、このような伝説から「縁切り井戸」として井水を汲んで相手に飲ませると悪縁が切れるなどの俗説がありました、かつては鉄輪で築かれた塚があったということです(謡曲史跡保存会) <br />

    路地突き当たりに鳥居が!
    「鉄輪の井」(かなわのい)由来:謡曲「鉄輪」は男に捨てられた市井の女(しせいのおんな)が、貴船へ丑の刻参りをして相手の男とその後妻を祈り殺そうとする話が骨子になっていますが、この井戸は「鉄輪の女」が住んでいたところのものだといい、一説には身投げをした井戸ともいわれています、このような伝説から「縁切り井戸」として井水を汲んで相手に飲ませると悪縁が切れるなどの俗説がありました、かつては鉄輪で築かれた塚があったということです(謡曲史跡保存会) 

  • 「命婦稲荷神社」(みょうぶいなりじんじゃ)通称「鉄輪社」(かなわしゃ)<br />昔から「鉄輪塚」と呼ばれる鉄輪女の「塚」と身投げしたと言われる「井戸」があり「縁切り井戸」と呼ばれていたが、江戸時代になって、縁切りではよくないということで、その隣に伏見稲荷大社より「命婦稲荷大明神」を勧請し「命婦稲荷神社」とし、その御利益を「鉄輪の縁切り」は逆に強力な縁結びに通じるということで「縁結び」とした、その後明治になって閉鎖されたが、昭和10年「命婦稲荷神社」を再建する際にご神体が町内の蔵から出現し現在地にお祀りして「鉄輪社」とした

    「命婦稲荷神社」(みょうぶいなりじんじゃ)通称「鉄輪社」(かなわしゃ)
    昔から「鉄輪塚」と呼ばれる鉄輪女の「塚」と身投げしたと言われる「井戸」があり「縁切り井戸」と呼ばれていたが、江戸時代になって、縁切りではよくないということで、その隣に伏見稲荷大社より「命婦稲荷大明神」を勧請し「命婦稲荷神社」とし、その御利益を「鉄輪の縁切り」は逆に強力な縁結びに通じるということで「縁結び」とした、その後明治になって閉鎖されたが、昭和10年「命婦稲荷神社」を再建する際にご神体が町内の蔵から出現し現在地にお祀りして「鉄輪社」とした

  • 「鉄輪塚」(かなわづか)<br />この辺りに住んでいた夫婦の亭主が浮気し女が自分を捨てた亭主を祈り殺そうと、頭に鉄輪(三本の足を持つ鉄の輪)をかぶり口に松明をくわえ貴船へ「丑の刻詣り」をしたが志を遂げず、この辺りで亡くなったのを葬った塚で、隣には身投げをしたという井戸があり、この水を縁切りしたい相手に飲ませると願いが叶う、と言われるが、現在は井戸の水は枯れているからペットボトルの水を井戸に供え祈り持ち帰って相手に飲ませるという *「丑の刻参り」は、丑の刻に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ちつけるという日本古来伝わる呪いの一種

    「鉄輪塚」(かなわづか)
    この辺りに住んでいた夫婦の亭主が浮気し女が自分を捨てた亭主を祈り殺そうと、頭に鉄輪(三本の足を持つ鉄の輪)をかぶり口に松明をくわえ貴船へ「丑の刻詣り」をしたが志を遂げず、この辺りで亡くなったのを葬った塚で、隣には身投げをしたという井戸があり、この水を縁切りしたい相手に飲ませると願いが叶う、と言われるが、現在は井戸の水は枯れているからペットボトルの水を井戸に供え祈り持ち帰って相手に飲ませるという *「丑の刻参り」は、丑の刻に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ちつけるという日本古来伝わる呪いの一種

  • 「鉄輪井戸」(かなわのいど)<br />井戸の水を相手に飲ませると、その人と縁が切れるということから「縁切井戸」(えんぎりいど)とも言われ、「鉄輪女」が満願ならず息途絶え身を投げたという井戸<br />

    「鉄輪井戸」(かなわのいど)
    井戸の水を相手に飲ませると、その人と縁が切れるということから「縁切井戸」(えんぎりいど)とも言われ、「鉄輪女」が満願ならず息途絶え身を投げたという井戸

  • 「謡曲・鉄輪」<br />鎌倉時代になって鉄輪井戸の伝説は平家物語にまとめられ、謡曲「鉄輪」になり演じられている、夫の浮気に嫉妬した女は、呪い殺すために貴船神社へ丑の刻参りを行うと、異変を感じた夫は陰陽師・安倍晴明を頼って逃げ込むと、そこへ鬼と化した女が現れるが、晴明の呪術で退散してしまう、これは源氏物語の「宇治の橋姫伝説」を元にしていると言われ、嫉妬深い娘が貴船神社にこもり「殺したい女がいるので私を鬼神に変えてください」と祈ると「宇治川に21日間浸かりなさい」と告げられ娘は鬼になり「宇治の椿姫」と呼ばれ、妬んでいた女や相手の男だけでなく関係のない人まで殺してしまったので後に鬼退治で知られる渡辺綱(わたなべのつな)により一条戻り橋で退治されたという<br />

    「謡曲・鉄輪」
    鎌倉時代になって鉄輪井戸の伝説は平家物語にまとめられ、謡曲「鉄輪」になり演じられている、夫の浮気に嫉妬した女は、呪い殺すために貴船神社へ丑の刻参りを行うと、異変を感じた夫は陰陽師・安倍晴明を頼って逃げ込むと、そこへ鬼と化した女が現れるが、晴明の呪術で退散してしまう、これは源氏物語の「宇治の橋姫伝説」を元にしていると言われ、嫉妬深い娘が貴船神社にこもり「殺したい女がいるので私を鬼神に変えてください」と祈ると「宇治川に21日間浸かりなさい」と告げられ娘は鬼になり「宇治の椿姫」と呼ばれ、妬んでいた女や相手の男だけでなく関係のない人まで殺してしまったので後に鬼退治で知られる渡辺綱(わたなべのつな)により一条戻り橋で退治されたという

  • 「大西常商店」( おおにしつねしょうてん)<br />築150年の京町家で扇の製造・販売を行っており、町家にはお茶室もあって貸スペースとしても提供している、かつては二階から祇園祭の囃子方の人と話せるようになっていたという *この辺りは宮廷文化を支える職人が暮らし、染色、履物、表装・襖など伝統工芸品を扱う店や商店が立ち並んでいた

    「大西常商店」( おおにしつねしょうてん)
    築150年の京町家で扇の製造・販売を行っており、町家にはお茶室もあって貸スペースとしても提供している、かつては二階から祇園祭の囃子方の人と話せるようになっていたという *この辺りは宮廷文化を支える職人が暮らし、染色、履物、表装・襖など伝統工芸品を扱う店や商店が立ち並んでいた

  • 「因幡薬師」(いなばやくし)<br />通称「因幡堂」と言われるが正式は「平等寺」(びょうどうじ)

    「因幡薬師」(いなばやくし)
    通称「因幡堂」と言われるが正式は「平等寺」(びょうどうじ)

  • 「平等寺」(びょうどうじ)<br />平安時代中納言橘行平(たちばなの ゆきひら)が因幡国(鳥取)に行った時急病になり祈っていたら海中から薬師如来を引き揚げ、これを供養する仮堂を建てたら、帰京した行平を追って薬師如来が飛来したのでこれを祀る「因幡堂」を建てた、その後平安末期に高倉天皇の勅願で「平等寺」となり皇室との結びつきが深い

    「平等寺」(びょうどうじ)
    平安時代中納言橘行平(たちばなの ゆきひら)が因幡国(鳥取)に行った時急病になり祈っていたら海中から薬師如来を引き揚げ、これを供養する仮堂を建てたら、帰京した行平を追って薬師如来が飛来したのでこれを祀る「因幡堂」を建てた、その後平安末期に高倉天皇の勅願で「平等寺」となり皇室との結びつきが深い

  • 本尊の薬師如来像は嵯峨清凉寺、信濃善光寺と共に「日本三如来」の一つで、頭に頭巾を被っているのが特徴、通常非公開だが、病気治癒、特に「ガン封じ」で有名

    本尊の薬師如来像は嵯峨清凉寺、信濃善光寺と共に「日本三如来」の一つで、頭に頭巾を被っているのが特徴、通常非公開だが、病気治癒、特に「ガン封じ」で有名

  • 平安京では東寺、西寺以外は認められなかったが私的な持仏堂や辻堂は認められ六角堂や革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ:御苑南)などと共に貴族が私的に建立する「町堂」の代表格

    平安京では東寺、西寺以外は認められなかったが私的な持仏堂や辻堂は認められ六角堂や革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ:御苑南)などと共に貴族が私的に建立する「町堂」の代表格

  • 「馬頭観音」(ばとうかんのん)<br />力強く速やかに願いが叶う観音様で、六観音(ろっかんのん)の一つ、頭の上に馬頭をいただいていることから、六道(ろくどう)の一つ畜生(ちくしょう)界を救うとされ、馬の守り神として信仰され、観音としては珍しい忿怒(ふんぬ:激しく怒る)の姿をとるが、怒りが強ければ強いほど人を救う力が大きく(馬は大食であることから)人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれる *「六観音」は、六道それぞれの衆生を救う6体の六体の観世音菩薩で、地獄に聖?(しょう)?観音、餓鬼に千手観音、畜生に馬頭観音、修羅に十一面観音、人間に不空羂索?(ふくうけんじゃく)?観音、天に如意輪観音を配する

    「馬頭観音」(ばとうかんのん)
    力強く速やかに願いが叶う観音様で、六観音(ろっかんのん)の一つ、頭の上に馬頭をいただいていることから、六道(ろくどう)の一つ畜生(ちくしょう)界を救うとされ、馬の守り神として信仰され、観音としては珍しい忿怒(ふんぬ:激しく怒る)の姿をとるが、怒りが強ければ強いほど人を救う力が大きく(馬は大食であることから)人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれる *「六観音」は、六道それぞれの衆生を救う6体の六体の観世音菩薩で、地獄に聖?(しょう)?観音、餓鬼に千手観音、畜生に馬頭観音、修羅に十一面観音、人間に不空羂索?(ふくうけんじゃく)?観音、天に如意輪観音を配する

  • 「俊成社」(しゅんぜいしゃ)<br />藤原定家の父で平安時代の歌人・藤原俊成の邸宅の跡地に俊成を祀った神社で、以前は空き地の外にあったが烏丸通り沿いのホテル新築によりビル内に組み込まれているから分かりにくい

    「俊成社」(しゅんぜいしゃ)
    藤原定家の父で平安時代の歌人・藤原俊成の邸宅の跡地に俊成を祀った神社で、以前は空き地の外にあったが烏丸通り沿いのホテル新築によりビル内に組み込まれているから分かりにくい

  • 「新玉津島神社」(にいたまつしまじんじゃ)<br />平安時代~鎌倉時代を代表する歌人・藤原俊成が自らの屋敷に紀伊国の玉津島神社に祀られている和歌の神様の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の分霊を勧請したのが始まりで、この地は江戸時代より明治まで「大丸百貨店」があり新選組の羽織はここで作ったという

    「新玉津島神社」(にいたまつしまじんじゃ)
    平安時代~鎌倉時代を代表する歌人・藤原俊成が自らの屋敷に紀伊国の玉津島神社に祀られている和歌の神様の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の分霊を勧請したのが始まりで、この地は江戸時代より明治まで「大丸百貨店」があり新選組の羽織はここで作ったという

  • 藤原俊成は後白河法皇の院宣によりこの邸宅を和歌所とし、「千載和歌集」を編纂し、江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季吟が、約七年間この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書の編纂をした、これらの由縁から今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れているという

    藤原俊成は後白河法皇の院宣によりこの邸宅を和歌所とし、「千載和歌集」を編纂し、江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季吟が、約七年間この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書の編纂をした、これらの由縁から今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れているという

  • 五条通の名前を秀吉によって奪われた際に、「松原通」としたのはこの神社の参道である現在の松原通に松の木が多く植えられてたからという

    五条通の名前を秀吉によって奪われた際に、「松原通」としたのはこの神社の参道である現在の松原通に松の木が多く植えられてたからという

  • 「亀山稲荷」<br />丹波国亀山藩京都屋敷があった場所で、奥に本殿があり白瀧大明神(しらたきだいみょうじん)と花月大明神(かげつだいみょうじん)を祭神として祀り亀山藩の鎮守社、亀山藩は1748年から幕府の要職に就き、譜代大名として京都監視の重責を果し、その後明治政府が誕生すると京都市中取締を勤めた

    「亀山稲荷」
    丹波国亀山藩京都屋敷があった場所で、奥に本殿があり白瀧大明神(しらたきだいみょうじん)と花月大明神(かげつだいみょうじん)を祭神として祀り亀山藩の鎮守社、亀山藩は1748年から幕府の要職に就き、譜代大名として京都監視の重責を果し、その後明治政府が誕生すると京都市中取締を勤めた

  • 「松原道祖神社」(まつばらどうそじんじゃ)<br />平安京以前から祀られている、道の神、塞の神(さいのかみ:村の境界で外部からの侵入を防ぐ)で、松原通は清水寺への参詣道としてもにぎわったので、道路や旅行の神として信仰を集め「首途の社」とも呼ばれた、「今昔物語集」には「五条の道祖神」、「宇治拾遺物語」には「五条の斎」として記載されている

    「松原道祖神社」(まつばらどうそじんじゃ)
    平安京以前から祀られている、道の神、塞の神(さいのかみ:村の境界で外部からの侵入を防ぐ)で、松原通は清水寺への参詣道としてもにぎわったので、道路や旅行の神として信仰を集め「首途の社」とも呼ばれた、「今昔物語集」には「五条の道祖神」、「宇治拾遺物語」には「五条の斎」として記載されている

  • 現在は、猿田彦命と天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っており、道の神(旅の守護神)、塞の神(厄災を塞ぐ神)、夫婦円満(家内安全)、縁結び(子孫繁栄)、商売繁盛などの神として信仰を集めている

    現在は、猿田彦命と天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っており、道の神(旅の守護神)、塞の神(厄災を塞ぐ神)、夫婦円満(家内安全)、縁結び(子孫繁栄)、商売繁盛などの神として信仰を集めている

  • 「光圓寺・親鸞聖人御入滅之地」<br />諸説ある親鸞聖人の入滅の地のひとつで、90歳の高齢を迎えた親鸞聖人はこの地で晩年をすごし入滅した

    「光圓寺・親鸞聖人御入滅之地」
    諸説ある親鸞聖人の入滅の地のひとつで、90歳の高齢を迎えた親鸞聖人はこの地で晩年をすごし入滅した

  • 「光圓寺」(こうえんじ)は、九条兼実の月輪本庄花園殿があったところで、浄土真宗大谷派の寺院、親鸞聖人の流罪前と帰洛後の住居があったという

    「光圓寺」(こうえんじ)は、九条兼実の月輪本庄花園殿があったところで、浄土真宗大谷派の寺院、親鸞聖人の流罪前と帰洛後の住居があったという

  • 「五條天神宮」(ごじょうてんしんぐう)<br />794年桓武天皇が平安京遷都の際に空海(弘法大師)に命じて、奈良から天神(あまつかみ)を勧請し創建され「天使の宮」又は「天使社」と呼ばれたが、後に後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」と改められた、「天神」は(てんしん)と読み、天つ神(あまつかみ)を意味して菅原道真の天神(てんじん)とは関係ない

    「五條天神宮」(ごじょうてんしんぐう)
    794年桓武天皇が平安京遷都の際に空海(弘法大師)に命じて、奈良から天神(あまつかみ)を勧請し創建され「天使の宮」又は「天使社」と呼ばれたが、後に後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」と改められた、「天神」は(てんしん)と読み、天つ神(あまつかみ)を意味して菅原道真の天神(てんじん)とは関係ない

  • 松原通沿いの「北門」

    松原通沿いの「北門」

  • 正面入り口は西洞院(にしのとういん)通り側の「東門」(表門)<br />

    正面入り口は西洞院(にしのとういん)通り側の「東門」(表門)

  • 「拝殿・本殿」<br />祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと:大国主命)、天照大神(あまてらすおおみかみ)で、古くから農耕、医薬の神として信仰され、毎年の節分日には日本最古の宝船の古図が授与され、厄除け、病除けのご利益を受けることができる

    「拝殿・本殿」
    祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと:大国主命)、天照大神(あまてらすおおみかみ)で、古くから農耕、医薬の神として信仰され、毎年の節分日には日本最古の宝船の古図が授与され、厄除け、病除けのご利益を受けることができる

  • 「皇国医祖神の碑」(こうこくいそじんのひ)<br />「医祖神」(いそじん)は祭神の「少彦名大神」(すくなひこなのみこと)で「日本書紀」などには大巳貴命(おおなむちのみこと)と共に日本に医薬を広めた二柱の神とされ、この石碑は「少彦名大神」を讃える銘文で、「少彦名神は、 広く人を助けとなり、国と人民の安寧を保つ、医薬の根源はこの神に始まり、死者をよみがえらせ老人をも若返らせる、この神の恵みは天下に広まり、この神の仁徳もまた劣らない、神社の祭祀は永久に続き、功徳は日々新たである」と書いているそう

    「皇国医祖神の碑」(こうこくいそじんのひ)
    「医祖神」(いそじん)は祭神の「少彦名大神」(すくなひこなのみこと)で「日本書紀」などには大巳貴命(おおなむちのみこと)と共に日本に医薬を広めた二柱の神とされ、この石碑は「少彦名大神」を讃える銘文で、「少彦名神は、 広く人を助けとなり、国と人民の安寧を保つ、医薬の根源はこの神に始まり、死者をよみがえらせ老人をも若返らせる、この神の恵みは天下に広まり、この神の仁徳もまた劣らない、神社の祭祀は永久に続き、功徳は日々新たである」と書いているそう

  • 摂末社の並ぶ裏側へ<br />正面に「筑紫天満宮」がある、菅原道真とは関係ないというが、昔筑紫から天神様を勧請したことがあったらしい *「摂社」は主祭神と関係の深い神様を祀り、「末社」は主祭神とはあまり関係のない神様を祀っている

    摂末社の並ぶ裏側へ
    正面に「筑紫天満宮」がある、菅原道真とは関係ないというが、昔筑紫から天神様を勧請したことがあったらしい *「摂社」は主祭神と関係の深い神様を祀り、「末社」は主祭神とはあまり関係のない神様を祀っている

  • ご丁寧に、その横には臥牛、間違いなく天神さんの梅星紋がついている

    ご丁寧に、その横には臥牛、間違いなく天神さんの梅星紋がついている

  • 「摂末社」<br />白太夫神社、大国主神社、金刀比良神社、福部神社と、辨財天、猿田彦神社、稲荷大明神<br /><br />

    「摂末社」
    白太夫神社、大国主神社、金刀比良神社、福部神社と、辨財天、猿田彦神社、稲荷大明神

  • 「牛若丸と弁慶の歴史ウオーキングMAP」<br />「義経記」によると、義経牛若丸と弁慶が出会った場所はココ「五條天神宮」となっており、「一条堀川に住む陰陽師・鬼一法眼の謀略で源義経が北白川の印地大将・湛海と闘う場として当社が設定されており、また武蔵坊弁慶出生や義経・弁慶の出会いに深く関わる神社として登場する」とある、鬼一法眼(きいちほうげん)とは文武の達人で持っている兵法の秘書を源義経に盗まれ、その仕返しに娘婿の印地(いんじ)大将・湛海(たんかい)に義経退治を命じたがそれが娘の告げ口で失敗するという浄瑠璃の話で、これからすると湛海が弁慶のように見えるが、一方で乱暴狼藉者の武蔵坊弁慶は1,000の太刀を奪うという祈願を「五條天神」で立て、最後の1本を奪うため通りかかった牛若丸に襲いかかり、その日は決着がつかずその後清水の舞台で返り討ちに遭って負けて弁慶は牛若丸の家来となった、というので少なくとも「五条大橋」で遭ったというのは創作らしい

    「牛若丸と弁慶の歴史ウオーキングMAP」
    「義経記」によると、義経牛若丸と弁慶が出会った場所はココ「五條天神宮」となっており、「一条堀川に住む陰陽師・鬼一法眼の謀略で源義経が北白川の印地大将・湛海と闘う場として当社が設定されており、また武蔵坊弁慶出生や義経・弁慶の出会いに深く関わる神社として登場する」とある、鬼一法眼(きいちほうげん)とは文武の達人で持っている兵法の秘書を源義経に盗まれ、その仕返しに娘婿の印地(いんじ)大将・湛海(たんかい)に義経退治を命じたがそれが娘の告げ口で失敗するという浄瑠璃の話で、これからすると湛海が弁慶のように見えるが、一方で乱暴狼藉者の武蔵坊弁慶は1,000の太刀を奪うという祈願を「五條天神」で立て、最後の1本を奪うため通りかかった牛若丸に襲いかかり、その日は決着がつかずその後清水の舞台で返り討ちに遭って負けて弁慶は牛若丸の家来となった、というので少なくとも「五条大橋」で遭ったというのは創作らしい

  • 「天使突抜」(てんしつきぬけ)<br />五條天神宮は洛中では最も古い神社で広大な敷地を持っていたが、1586年「天正の地割」で豊臣秀吉が京都に通りを新設した際、何百年と鎮座し続けていた「天使社」の神様の敷地を突き抜けたことから一帯の地名が「天使突抜(てんしつきぬけ)」になったとされる、これから京都民は秀吉が大嫌いになったといわれる *京都には他にも上京区・社突抜町、中京区・仁王門突抜町、下京区・突抜町など25以上の「突抜」の地名が残っている

    「天使突抜」(てんしつきぬけ)
    五條天神宮は洛中では最も古い神社で広大な敷地を持っていたが、1586年「天正の地割」で豊臣秀吉が京都に通りを新設した際、何百年と鎮座し続けていた「天使社」の神様の敷地を突き抜けたことから一帯の地名が「天使突抜(てんしつきぬけ)」になったとされる、これから京都民は秀吉が大嫌いになったといわれる *京都には他にも上京区・社突抜町、中京区・仁王門突抜町、下京区・突抜町など25以上の「突抜」の地名が残っている

  • 「三善清行邸跡」(みよしきよゆき、きよつら)<br />平安前期の学者・政治家、漢詩・漢文、算術にすぐれた学者で、「意見封事12箇状」を上奏し当時の政治の欠陥を鋭く指摘した、ライバル菅原道真の左遷にも一役かっているという

    「三善清行邸跡」(みよしきよゆき、きよつら)
    平安前期の学者・政治家、漢詩・漢文、算術にすぐれた学者で、「意見封事12箇状」を上奏し当時の政治の欠陥を鋭く指摘した、ライバル菅原道真の左遷にも一役かっているという

  • 堀川通を横断

    堀川通を横断

  • 創業文化5年4月「近藤老舗・すだれ」<br />1808年創業、神社・仏閣・教会用みす、お茶席用すだれ、お座敷すだれ、軒吊すだれを製造販売、ホテルのロビーや客間、料亭、一般家庭にも利用しているという 

    創業文化5年4月「近藤老舗・すだれ」
    1808年創業、神社・仏閣・教会用みす、お茶席用すだれ、お座敷すだれ、軒吊すだれを製造販売、ホテルのロビーや客間、料亭、一般家庭にも利用しているという 

  • 「大宮通」<br />「大宮通」から松原道祖神社あたりの「新町通」までは、「松原京極商店街」と呼ばれ、義経・弁慶の出会いの場として多くの老舗商店が軒を連ね、昭和の初めにはアーケードがあったというが、今でも40店近い商店が頑張っている模様(HPより)

    「大宮通」
    「大宮通」から松原道祖神社あたりの「新町通」までは、「松原京極商店街」と呼ばれ、義経・弁慶の出会いの場として多くの老舗商店が軒を連ね、昭和の初めにはアーケードがあったというが、今でも40店近い商店が頑張っている模様(HPより)

  • 「本圀寺塔頭群」(ほんこくじたっちゅうぐん)<br />「本圀寺」は1253年日蓮が鎌倉に創建し、室町時代に足利尊氏の支援で1345年京都に移築、その後徳川光圀の生母久昌院の追善供養を行うと1685年光圀は自らの名から一字を本国寺に与え「本圀寺」と改称、1971年には西本願寺の北側の堀川七条から現在の琵琶湖疎水沿いの山科へ移転し「黄金に輝くお寺」となり、西本願寺の北側の旧寺地は現在本願寺聞法会館や本願寺駐車場となっているが、16の塔頭は移転後も旧地に残り「本圀寺塔頭群」として五条通り沿いに存在している

    「本圀寺塔頭群」(ほんこくじたっちゅうぐん)
    「本圀寺」は1253年日蓮が鎌倉に創建し、室町時代に足利尊氏の支援で1345年京都に移築、その後徳川光圀の生母久昌院の追善供養を行うと1685年光圀は自らの名から一字を本国寺に与え「本圀寺」と改称、1971年には西本願寺の北側の堀川七条から現在の琵琶湖疎水沿いの山科へ移転し「黄金に輝くお寺」となり、西本願寺の北側の旧寺地は現在本願寺聞法会館や本願寺駐車場となっているが、16の塔頭は移転後も旧地に残り「本圀寺塔頭群」として五条通り沿いに存在している

  • 今回の〆は、再び「五条橋」に戻って五条大橋袂にある喫茶「KANO」<br />東南アジアのエキゾチックな雰囲気のなかなかおしゃれな喫茶店

    今回の〆は、再び「五条橋」に戻って五条大橋袂にある喫茶「KANO」
    東南アジアのエキゾチックな雰囲気のなかなかおしゃれな喫茶店

  • ミックスサンドとコーヒーを注文

    ミックスサンドとコーヒーを注文

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