東山・祇園・北白川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
毎年恒例の夏の特別公開が9月で終わるので、今まで行く機会がなかった「大雲院・祇園閣」と「長楽館・御成の間」に行ってきました。<br />長楽館の「御成の間」と「長楽庵」は6年ぶりの特別公開で、先日テレビ放映で紹介していて「御成の間」の素晴らさに感銘し、今までカフェだけで利用したことはあったものの、ちゃんとした見学はしてなかったので、急遽行くことにしました。<br />明治大正から残る建物は豪華で見ごたえがありますが、両者の共通点は、幕末から明治にかけてまさに同時期に活躍し、一代で財をなした財閥の創始者であることで、二人が残した建物が隣り合わせにあることは何かの因縁ですが、「長楽館」が出来たのは1909年、その後20年後に「祇園閣」が出来ており、この時大倉喜八郎は既に亡くなってますが、二人の出会いはなかったのか、聞いてみたいものです。<br />そして、この100年以上も経過した建物が、片や歴史ある寺院の施設として、片や子孫によりオーベルジュ(宿泊施設を備えたレストランカフェ)として運営されているのは対照的で、伝統的建物の遺し方にも様々な形態があり、これも京町散歩の楽しみ方の一つですが、現在「長楽館」オーナー土手さんの「実際に触はれて明治の雰囲気を体感していただく”動態保存”をしている」という言葉は、京都人の心意気が伝わって頼もしい限りです。<br />これで暑い夏も終わり、紅葉のシーズンが早く到来するのを待ちたいと思います。<br />*「動態保存」は、本来の目的に沿って運用できる状態で保存されること<br />

月一京町散歩(9月)京の夏の終わり旅「祇園閣」と「長楽館」

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2024/09/19 - 2024/09/19

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旅行記グループ 月一平安京散歩

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Bachさん

毎年恒例の夏の特別公開が9月で終わるので、今まで行く機会がなかった「大雲院・祇園閣」と「長楽館・御成の間」に行ってきました。
長楽館の「御成の間」と「長楽庵」は6年ぶりの特別公開で、先日テレビ放映で紹介していて「御成の間」の素晴らさに感銘し、今までカフェだけで利用したことはあったものの、ちゃんとした見学はしてなかったので、急遽行くことにしました。
明治大正から残る建物は豪華で見ごたえがありますが、両者の共通点は、幕末から明治にかけてまさに同時期に活躍し、一代で財をなした財閥の創始者であることで、二人が残した建物が隣り合わせにあることは何かの因縁ですが、「長楽館」が出来たのは1909年、その後20年後に「祇園閣」が出来ており、この時大倉喜八郎は既に亡くなってますが、二人の出会いはなかったのか、聞いてみたいものです。
そして、この100年以上も経過した建物が、片や歴史ある寺院の施設として、片や子孫によりオーベルジュ(宿泊施設を備えたレストランカフェ)として運営されているのは対照的で、伝統的建物の遺し方にも様々な形態があり、これも京町散歩の楽しみ方の一つですが、現在「長楽館」オーナー土手さんの「実際に触はれて明治の雰囲気を体感していただく”動態保存”をしている」という言葉は、京都人の心意気が伝わって頼もしい限りです。
これで暑い夏も終わり、紅葉のシーズンが早く到来するのを待ちたいと思います。
*「動態保存」は、本来の目的に沿って運用できる状態で保存されること

  • 「京の夏の旅」2024.7.12~9.30<br />7か所を対象にスタンプラリーをやっていたので、「長楽館」と「大雲院」の2ヵ所を拝観、「上賀茂神社」本殿・権殿、「下鴨神社」本殿・大炊殿、「仁和寺」御殿・庭園、「八坂神社」本殿、「智積院」宸殿、「長楽館」御成の間、「大雲院」祇園閣<br />

    「京の夏の旅」2024.7.12~9.30
    7か所を対象にスタンプラリーをやっていたので、「長楽館」と「大雲院」の2ヵ所を拝観、「上賀茂神社」本殿・権殿、「下鴨神社」本殿・大炊殿、「仁和寺」御殿・庭園、「八坂神社」本殿、「智積院」宸殿、「長楽館」御成の間、「大雲院」祇園閣

  • とりあえずランチ「京都 柳馬場・ほん田亭」<br />出汁巻で行列の出来る店で、ランチは11:30~14:30

    とりあえずランチ「京都 柳馬場・ほん田亭」
    出汁巻で行列の出来る店で、ランチは11:30~14:30

  • 「京だし巻き丼」<br />朝採れの卵を4個、出汁をお玉2杯分で約6個分の大きさのだし巻きになります。利尻昆布と鰹節からとった一番出汁をたっぷり使っています。巻き方は「京巻き」という手前から隙間なく締めながら巻くことにより、たっぷりの出汁を閉じ込め、とてもやわらかくジューシーな巻き方で京都の伝統的な巻き方です。

    「京だし巻き丼」
    朝採れの卵を4個、出汁をお玉2杯分で約6個分の大きさのだし巻きになります。利尻昆布と鰹節からとった一番出汁をたっぷり使っています。巻き方は「京巻き」という手前から隙間なく締めながら巻くことにより、たっぷりの出汁を閉じ込め、とてもやわらかくジューシーな巻き方で京都の伝統的な巻き方です。

  • 「鶏そぼろ金あんかけ」1,650円を注文<br />「金あん」とは、京料理の伝統的な会席料理にも使う、生姜の入ったあん

    「鶏そぼろ金あんかけ」1,650円を注文
    「金あん」とは、京料理の伝統的な会席料理にも使う、生姜の入ったあん

  • 相方は「明太子のせ」を注文

    相方は「明太子のせ」を注文

  • 本日の予定は、祇園(東山四条)~(東大谷参道)~(ねねの道)~500m「大雲院」~(ねねの道)~200m「長楽館」

    本日の予定は、祇園(東山四条)~(東大谷参道)~(ねねの道)~500m「大雲院」~(ねねの道)~200m「長楽館」

  • 「祇園」八坂神社前に移動

    「祇園」八坂神社前に移動

  • スマートゴミ箱「SmaGO」(スマゴ)<br />今回の目的の一つでもあるが、最近のニュースで見た「新世代のゴミ箱」を確認、「SmaGO」(スマゴ)というのは、「Smart action on the GO」の略で、ゴミを圧縮し Iot(Internet of things)でゴミの状況を管理してゴミ回収を効率化、動力はソーラーパネルを使い、屋外広告メディアとしても使うので設置コスト・ランニングコストを削減するという代物で、「フォーステック」(本社東京)というスタートアップ企業が提供し、昨年あたりから全国25カ所に200台以上設置しているそうで、最近殆ど見かけなくなったゴミ箱が、観光客の増加で再び問題化し、これを解決する手段として、目の付け所がいい

    スマートゴミ箱「SmaGO」(スマゴ)
    今回の目的の一つでもあるが、最近のニュースで見た「新世代のゴミ箱」を確認、「SmaGO」(スマゴ)というのは、「Smart action on the GO」の略で、ゴミを圧縮し Iot(Internet of things)でゴミの状況を管理してゴミ回収を効率化、動力はソーラーパネルを使い、屋外広告メディアとしても使うので設置コスト・ランニングコストを削減するという代物で、「フォーステック」(本社東京)というスタートアップ企業が提供し、昨年あたりから全国25カ所に200台以上設置しているそうで、最近殆ど見かけなくなったゴミ箱が、観光客の増加で再び問題化し、これを解決する手段として、目の付け所がいい

  • NHK WEBニュース2024.9.6<br />「観光客増のごみ対策で八坂神社前にスマートごみ箱設置」<br />観光地でごみ箱からごみがあふれる事態を防ぎ、まちの景観を維持しようと、ごみを自動で圧縮する機能がついた「スマートごみ箱」が京都市の八坂神社の前に設置されました。6日に開かれた式典には、松井市長も参加してごみを圧縮する様子を確認していました。「スマートごみ箱」は、京都市内ではすでに嵐山など4か所に8基設置されていますが、市によりますと、記録されたごみの量のデータを活用して収集する頻度を変えるなどして、ごみがあふれる事態は防ぐことができているということです。<br /><br />

    NHK WEBニュース2024.9.6
    「観光客増のごみ対策で八坂神社前にスマートごみ箱設置」
    観光地でごみ箱からごみがあふれる事態を防ぎ、まちの景観を維持しようと、ごみを自動で圧縮する機能がついた「スマートごみ箱」が京都市の八坂神社の前に設置されました。6日に開かれた式典には、松井市長も参加してごみを圧縮する様子を確認していました。「スマートごみ箱」は、京都市内ではすでに嵐山など4か所に8基設置されていますが、市によりますと、記録されたごみの量のデータを活用して収集する頻度を変えるなどして、ごみがあふれる事態は防ぐことができているということです。

  • 「東山」に向かって「東大谷参道」を上ると、「祇園閣」の先端が見えてくる

    「東山」に向かって「東大谷参道」を上ると、「祇園閣」の先端が見えてくる

  • 「東大谷参道」の途中で、「ねねの道」と交差

    「東大谷参道」の途中で、「ねねの道」と交差

  • 「ねねの道」<br />直進すると「大谷祖廟」~「長楽寺」、左手「長楽館」~「円山公園」、右手「大雲院」~「高台寺」

    「ねねの道」
    直進すると「大谷祖廟」~「長楽寺」、左手「長楽館」~「円山公園」、右手「大雲院」~「高台寺」

  • 「真葛ヶ原」(まくずがはら)<br />この辺り一帯は、平安時代は真葛(さねかずら)やススキの生い茂る野原で、西に祇園社、東に西行が庵を結んだという西行庵、東山山麓に最澄が開山した天台宗寺院の安養寺、建礼門院が出家した長楽寺や双林寺があって、法然上人が開いた吉水草庵に親鸞も来訪して、鎌倉新仏教発祥の地になり、法然・浄土宗、親鸞・浄土真宗、一遍・時宗、日蓮・日蓮宗、栄西・臨済宗、道元・曹洞宗の新仏教が出そろい、江戸時代になって法然開山の知恩院が徳川の拠点になり、長楽寺の境内地に大谷祖廟が出来ると、参拝客で賑わい、明治初期には官有地となって円山公園となったが、西行、最澄から煙草王の村井吉兵衛、大倉財閥の大倉喜八郎まで、1200年の時空を超えて様々な歴史人が歩いたゆかりのエリアである

    「真葛ヶ原」(まくずがはら)
    この辺り一帯は、平安時代は真葛(さねかずら)やススキの生い茂る野原で、西に祇園社、東に西行が庵を結んだという西行庵、東山山麓に最澄が開山した天台宗寺院の安養寺、建礼門院が出家した長楽寺や双林寺があって、法然上人が開いた吉水草庵に親鸞も来訪して、鎌倉新仏教発祥の地になり、法然・浄土宗、親鸞・浄土真宗、一遍・時宗、日蓮・日蓮宗、栄西・臨済宗、道元・曹洞宗の新仏教が出そろい、江戸時代になって法然開山の知恩院が徳川の拠点になり、長楽寺の境内地に大谷祖廟が出来ると、参拝客で賑わい、明治初期には官有地となって円山公園となったが、西行、最澄から煙草王の村井吉兵衛、大倉財閥の大倉喜八郎まで、1200年の時空を超えて様々な歴史人が歩いたゆかりのエリアである

  • 「大雲院」総門(東門)<br />「大雲院」は、ホテルオークラの創始者・大倉喜八郎が建てた京都別邸「大倉別邸」が、喜八郎の死後ホテルニューオータニ創設者の大谷家に渡った後、四条河原町の高島屋が店舗拡張にあたり、隣接していた「大雲院」の土地が欲しくて、東山の閑静な所にあった「大倉別邸」を買得して土地交換を画策し、「大倉別邸」は「大雲院」の所有となり、現在地に移転した、その際「大倉別邸」はほぼそのまま残し、庭園があった辺りに「大雲院」本堂が造られたという経緯があり、この総門は「大倉別邸」が大谷家に所有が移った時に、大谷家が東京で所有していたホテルニューオオタニの敷地にあった伏見宮家の門を移築したもの<br /><br /><br />

    「大雲院」総門(東門)
    「大雲院」は、ホテルオークラの創始者・大倉喜八郎が建てた京都別邸「大倉別邸」が、喜八郎の死後ホテルニューオータニ創設者の大谷家に渡った後、四条河原町の高島屋が店舗拡張にあたり、隣接していた「大雲院」の土地が欲しくて、東山の閑静な所にあった「大倉別邸」を買得して土地交換を画策し、「大倉別邸」は「大雲院」の所有となり、現在地に移転した、その際「大倉別邸」はほぼそのまま残し、庭園があった辺りに「大雲院」本堂が造られたという経緯があり、この総門は「大倉別邸」が大谷家に所有が移った時に、大谷家が東京で所有していたホテルニューオオタニの敷地にあった伏見宮家の門を移築したもの


  • 「圓山地蔵尊」(まるやまじぞうそん)<br />「大雲院」が四条寺町の高島屋横から昭和48年(1973)移転し、本堂も完成したことを祝って、平成2年(1990)に地元から奉納された、地蔵さんらしく、敷地の一角を切り出して築地塀の外側に安置されている

    「圓山地蔵尊」(まるやまじぞうそん)
    「大雲院」が四条寺町の高島屋横から昭和48年(1973)移転し、本堂も完成したことを祝って、平成2年(1990)に地元から奉納された、地蔵さんらしく、敷地の一角を切り出して築地塀の外側に安置されている

  • 「鐘楼」 <br />もともとは北野天満宮に慶長12年(1607)豊臣秀頼が寄進した鐘楼で、明治の神仏分離で北野天満宮から除かれることになって明治5年(1872)に「大雲院」に移された、また梵鐘は、1490年に造られた八坂神社にあったものを神仏分離で寄進されたもので、両方とも1973年の移転に伴い高島屋横から移築された

    「鐘楼」
    もともとは北野天満宮に慶長12年(1607)豊臣秀頼が寄進した鐘楼で、明治の神仏分離で北野天満宮から除かれることになって明治5年(1872)に「大雲院」に移された、また梵鐘は、1490年に造られた八坂神社にあったものを神仏分離で寄進されたもので、両方とも1973年の移転に伴い高島屋横から移築された

  • 大雲院入り口「南門」<br />1807年に建立された「大雲院」の本来の山門で、1973年の移転に伴い高島屋横から移築された

    大雲院入り口「南門」
    1807年に建立された「大雲院」の本来の山門で、1973年の移転に伴い高島屋横から移築された

  • 「大雲院」(だいうんいん)境内参道<br />「大雲院」は、本能寺の変(1582年)で亡くなった織田信長とその子信忠の菩提を弔うため1587年創建され、当初は信忠が自害した二条新御所の跡地(御池通の龍池小学校跡マンガミュージアムあたり)だったが、1590年秀吉の都市改造で四条寺町(現在の高島屋横「火除天満宮」のある所)に移転、その後1788年天明の大火、1864年禁門の変で焼失し、明治初期には再建されたが、昭和になると周辺は繁華街となり、高島屋の拡張に伴い昭和48年(1973)高島屋が買得した「大倉別邸」と土地交換して現在の地に移転した、もともとは「大倉別邸」の庭園があったところに「本堂」が建てられたので、残念ながら庭園は今はなく、書院の方に一部残っているらしい

    「大雲院」(だいうんいん)境内参道
    「大雲院」は、本能寺の変(1582年)で亡くなった織田信長とその子信忠の菩提を弔うため1587年創建され、当初は信忠が自害した二条新御所の跡地(御池通の龍池小学校跡マンガミュージアムあたり)だったが、1590年秀吉の都市改造で四条寺町(現在の高島屋横「火除天満宮」のある所)に移転、その後1788年天明の大火、1864年禁門の変で焼失し、明治初期には再建されたが、昭和になると周辺は繁華街となり、高島屋の拡張に伴い昭和48年(1973)高島屋が買得した「大倉別邸」と土地交換して現在の地に移転した、もともとは「大倉別邸」の庭園があったところに「本堂」が建てられたので、残念ながら庭園は今はなく、書院の方に一部残っているらしい

  • (2024/02/24撮影:平安京南北散歩寺町通)<br />高島屋横にある「火除天満宮」(ひよけてんまんぐう)は、「大雲院」の鎮守社であったが、1597年秀吉の都市改造で「大雲院」とともに現在地へ移転し、「大雲院」は昭和48年(1973)に移転したが、「火除天満宮」だけはこのビル一角に残った

    (2024/02/24撮影:平安京南北散歩寺町通)
    高島屋横にある「火除天満宮」(ひよけてんまんぐう)は、「大雲院」の鎮守社であったが、1597年秀吉の都市改造で「大雲院」とともに現在地へ移転し、「大雲院」は昭和48年(1973)に移転したが、「火除天満宮」だけはこのビル一角に残った

  • 「本堂」<br />「大倉別邸」の敷地に1973年、鉄筋コンクリート造、2階建ての本堂を建立し、本尊「阿弥陀如来坐像」を寺町四条の旧本堂から移設安置した、江戸時代作で3mあり、像内に創建時の本尊と言われる「阿弥陀如来立像」が納められている、かつての境内地にあった本堂は智積院に移されて「明王殿」(不動堂)とされている

    「本堂」
    「大倉別邸」の敷地に1973年、鉄筋コンクリート造、2階建ての本堂を建立し、本尊「阿弥陀如来坐像」を寺町四条の旧本堂から移設安置した、江戸時代作で3mあり、像内に創建時の本尊と言われる「阿弥陀如来立像」が納められている、かつての境内地にあった本堂は智積院に移されて「明王殿」(不動堂)とされている

  • 「仏足石」(ぶっそくせき)<br />多くの寺院にあるので少し調べると、「仏足石は奈良時代の天武天皇の孫・智努王(ちぬおう)が亡き母の追善のために21首の「仏足石歌」と共に作った」とある、ここにあるのはその内の一つ 「みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさへゆすれ ちゝはゝがために もろひとのために」

    「仏足石」(ぶっそくせき)
    多くの寺院にあるので少し調べると、「仏足石は奈良時代の天武天皇の孫・智努王(ちぬおう)が亡き母の追善のために21首の「仏足石歌」と共に作った」とある、ここにあるのはその内の一つ 「みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさへゆすれ ちゝはゝがために もろひとのために」

  • 「釈迦涅槃像」(しゃかねはんぞう)<br />本堂の階段を上がったところに、大理石のお釈迦様の涅槃像がある、「涅槃」とは全ての煩悩が消え、全ての苦が無くなった状態で、最も悟りを開いている状態、もともと別荘邸宅に寺院をもってきたので、寺院らしくいろいろ置いてある

    「釈迦涅槃像」(しゃかねはんぞう)
    本堂の階段を上がったところに、大理石のお釈迦様の涅槃像がある、「涅槃」とは全ての煩悩が消え、全ての苦が無くなった状態で、最も悟りを開いている状態、もともと別荘邸宅に寺院をもってきたので、寺院らしくいろいろ置いてある

  • 「祇園閣」(ぎおんかく)<br /> 「大雲院」の所有となった「大倉別邸」は、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎が1927年京都別荘「真葛荘」(まくずそう)として造った建物で、移転してからは宗教施設となり、この地にあった「祇園閣」や「書院」も伽藍(がらん)の一部となり、寺院としてはアンバランスな建物として異彩を放っており、一部には金閣、銀閣と並ぶ「銅閣」と呼ばれ、以外とこの歴史ある周辺に溶け込んでいる *「京の三閣」は鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣、西本願寺飛雲閣で、大徳寺芳春院呑湖閣と東福寺開山堂伝衣閣を加えて「五閣」

    「祇園閣」(ぎおんかく)
    「大雲院」の所有となった「大倉別邸」は、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎が1927年京都別荘「真葛荘」(まくずそう)として造った建物で、移転してからは宗教施設となり、この地にあった「祇園閣」や「書院」も伽藍(がらん)の一部となり、寺院としてはアンバランスな建物として異彩を放っており、一部には金閣、銀閣と並ぶ「銅閣」と呼ばれ、以外とこの歴史ある周辺に溶け込んでいる *「京の三閣」は鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣、西本願寺飛雲閣で、大徳寺芳春院呑湖閣と東福寺開山堂伝衣閣を加えて「五閣」

  • 実業家「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう 1837-1928)<br />「祇園閣」は、祇園祭の壮観を常に見たいという思いから、山鉾を模した形にしたもので、「大倉喜八郎」の幼名鶴吉、晩年は鶴翁と呼ばれたことから、鉾頭は鳳凰ではなく羽を広げた金箔の鶴にしている、「大倉喜八郎」とは何者か、案内人の説明によると、一代で巨万の富を築き、大成建設、帝国ホテル、ホテルオークラなど創設した大倉財閥の創始者で、多くの功績を残している実業家であるが、一方で「政商」「死の商人」とかも言われ、鉄砲商で政府御用達になり財を成してから貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品など多くの企業を興し大成功していく過程には、数々の艱難辛苦があったことと想像するが、喜八郎が昭和3年(1928)92歳で亡くなって2か月後に「祇園閣」は完成している *(略歴)新潟新発田に商家の3男として生まれ、14歳で江戸に出て丁稚奉公し、20歳で乾物店開業、横浜で黒船を見て28歳で鉄砲店開業、明治元年31歳で新政府軍御用達となり、その後明治10年西南戦争、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争などで発展、その間渋沢栄一、大久保利通らとも親交を持ち、明治14年鹿鳴館建設、大阪紡績会社、明治15年日本初の電力会社・東京電燈、明治20年日本土木会社、帝国ホテル、明治26年大倉土木組(大成建設)、明治33年大倉商業学校(東京経済大学)、明治38年日本初の再保険社日清火災海上保険(あいおいニッセイ同和損害保険)、明治40年日清豆粕製造(日清オイリオ)、日本皮革(ニッピ)など事業展開し大倉財閥を築く

    実業家「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう 1837-1928)
    「祇園閣」は、祇園祭の壮観を常に見たいという思いから、山鉾を模した形にしたもので、「大倉喜八郎」の幼名鶴吉、晩年は鶴翁と呼ばれたことから、鉾頭は鳳凰ではなく羽を広げた金箔の鶴にしている、「大倉喜八郎」とは何者か、案内人の説明によると、一代で巨万の富を築き、大成建設、帝国ホテル、ホテルオークラなど創設した大倉財閥の創始者で、多くの功績を残している実業家であるが、一方で「政商」「死の商人」とかも言われ、鉄砲商で政府御用達になり財を成してから貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品など多くの企業を興し大成功していく過程には、数々の艱難辛苦があったことと想像するが、喜八郎が昭和3年(1928)92歳で亡くなって2か月後に「祇園閣」は完成している *(略歴)新潟新発田に商家の3男として生まれ、14歳で江戸に出て丁稚奉公し、20歳で乾物店開業、横浜で黒船を見て28歳で鉄砲店開業、明治元年31歳で新政府軍御用達となり、その後明治10年西南戦争、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争などで発展、その間渋沢栄一、大久保利通らとも親交を持ち、明治14年鹿鳴館建設、大阪紡績会社、明治15年日本初の電力会社・東京電燈、明治20年日本土木会社、帝国ホテル、明治26年大倉土木組(大成建設)、明治33年大倉商業学校(東京経済大学)、明治38年日本初の再保険社日清火災海上保険(あいおいニッセイ同和損害保険)、明治40年日清豆粕製造(日清オイリオ)、日本皮革(ニッピ)など事業展開し大倉財閥を築く

  • 「大倉集古館」(おおくらしゅうこかん)<br />「大倉喜八郎」邸宅跡地の東京虎ノ門ホテルオークラに隣接して、喜八郎が長年に亘り収集した貴重な文化財を収蔵・展示する美術館がある、建物は「祇園閣」と同じ「伊東忠太」の作品で、明治35年(1902)自邸内に大倉美術館を開館し、大正6年(1917)「大倉集古館」設立、1923年の関東大震災で建物と陳列中の所蔵品を失ったが、伊東忠太設計による陳列館を建築し昭和3年(1928)再開館、さらに後継者の喜七郎(1882~1963)の蒐集品も追加して充実を図り父の遺志を継いでいる、「大倉喜八郎」は産業の振興、貿易の発展のみならず、教育、慈善事業、文化財の保護などにも功績を残しており、機会があれば是非訪問したい

    「大倉集古館」(おおくらしゅうこかん)
    「大倉喜八郎」邸宅跡地の東京虎ノ門ホテルオークラに隣接して、喜八郎が長年に亘り収集した貴重な文化財を収蔵・展示する美術館がある、建物は「祇園閣」と同じ「伊東忠太」の作品で、明治35年(1902)自邸内に大倉美術館を開館し、大正6年(1917)「大倉集古館」設立、1923年の関東大震災で建物と陳列中の所蔵品を失ったが、伊東忠太設計による陳列館を建築し昭和3年(1928)再開館、さらに後継者の喜七郎(1882~1963)の蒐集品も追加して充実を図り父の遺志を継いでいる、「大倉喜八郎」は産業の振興、貿易の発展のみならず、教育、慈善事業、文化財の保護などにも功績を残しており、機会があれば是非訪問したい

  • 建築家「伊東忠太」(いとうちゅうた 1867-1954)<br />「祇園閣」は、伊東忠太の設計、施工・大倉組によるもので、高さ36mの3階建て、鉄筋・鉄骨コンクリート、欄干・扉は銅製、屋根は銅板葺、祇園祭の鉾をモチーフにした斬新な外観の閣上からは京都市内360度の眺望が素晴らしい、建築家「伊東忠太」は既に橿原神宮、平安神宮、豊国廟、本願寺伝道院を任されており、祇園閣以降も、靖国神社、築地本願寺、湯島聖堂など多くの作品を出し戦後昭和29年、享年87歳で没している

    建築家「伊東忠太」(いとうちゅうた 1867-1954)
    「祇園閣」は、伊東忠太の設計、施工・大倉組によるもので、高さ36mの3階建て、鉄筋・鉄骨コンクリート、欄干・扉は銅製、屋根は銅板葺、祇園祭の鉾をモチーフにした斬新な外観の閣上からは京都市内360度の眺望が素晴らしい、建築家「伊東忠太」は既に橿原神宮、平安神宮、豊国廟、本願寺伝道院を任されており、祇園閣以降も、靖国神社、築地本願寺、湯島聖堂など多くの作品を出し戦後昭和29年、享年87歳で没している

  • 「祇園閣・内部」*内部も最上階からも撮影禁止<br />正面入口の両側には狛犬ならぬ「狛獅子」が建ち、青銅扉には「鶴翁」の鶴の装飾、「祇園閣」の文字は西園寺公望公によるもので、内に入ると、移転してからのものだと思われるが「阿弥陀如来像」が安置され、さらに最上階までの階段の壁には何やらオリエンタルなイメージの絵が描かれているが、これは昭和63年(1988)大雲寺創建400年を記念して、中国人画家によって描かれた仏教遺跡「敦煌莫高窟」(とんこうばっこうくつ)の仏教絵画で、一気に宗教空間を演出している、他にも天井に「十二支動物薄型彫刻」や「釈迦説法図」「千手観音図」もあり、何を意味してるかよく分からないものの、色鮮やかで奇妙な雰囲気を醸し出しているが、残念ながら塔上からも含め写真撮影は出来ないのは厳しい!

    「祇園閣・内部」*内部も最上階からも撮影禁止
    正面入口の両側には狛犬ならぬ「狛獅子」が建ち、青銅扉には「鶴翁」の鶴の装飾、「祇園閣」の文字は西園寺公望公によるもので、内に入ると、移転してからのものだと思われるが「阿弥陀如来像」が安置され、さらに最上階までの階段の壁には何やらオリエンタルなイメージの絵が描かれているが、これは昭和63年(1988)大雲寺創建400年を記念して、中国人画家によって描かれた仏教遺跡「敦煌莫高窟」(とんこうばっこうくつ)の仏教絵画で、一気に宗教空間を演出している、他にも天井に「十二支動物薄型彫刻」や「釈迦説法図」「千手観音図」もあり、何を意味してるかよく分からないものの、色鮮やかで奇妙な雰囲気を醸し出しているが、残念ながら塔上からも含め写真撮影は出来ないのは厳しい!

  • 「墓地」<br />四条寺町から移された「織田信長・信忠父子」の碑と、「石川五右衛門」などの墓がある、「石川五右衛門」の墓は、三条河原で釜茹でにされる前、連れて行かれる途中に四条寺町の大雲院の前を通りがかり、貞安上人に教化を受け改心したため、引き取り手のなかった遺体を葬ったという言い伝えがある

    「墓地」
    四条寺町から移された「織田信長・信忠父子」の碑と、「石川五右衛門」などの墓がある、「石川五右衛門」の墓は、三条河原で釜茹でにされる前、連れて行かれる途中に四条寺町の大雲院の前を通りがかり、貞安上人に教化を受け改心したため、引き取り手のなかった遺体を葬ったという言い伝えがある

  • (2024/02/24撮影:平安京南北散歩寺町通)「織田信長本廟」<br />「信長」の墓は他にも、本能寺(三男信孝が集めた遺骨)、大徳寺総見院(秀吉が信長の後継者を世に示そうと建立)、妙心寺玉鳳院(武田勝頼のご縁で)、建仁寺(信長の弟・有楽斎が十三重石塔を建立)、京都以外にも和歌山・高野山、滋賀・安土城跡、近江八幡・西光寺、堺・南宋寺本源院、静岡・本門寺、富山・瑞龍寺など多い、又墓ではないが関連する寺としては天下を統一した信長の偉勲を称え明治2年明治天皇が創建した「建勲神社」、阿弥陀寺跡地にあった織田稲荷社が「今宮神社」にある

    (2024/02/24撮影:平安京南北散歩寺町通)「織田信長本廟」
    「信長」の墓は他にも、本能寺(三男信孝が集めた遺骨)、大徳寺総見院(秀吉が信長の後継者を世に示そうと建立)、妙心寺玉鳳院(武田勝頼のご縁で)、建仁寺(信長の弟・有楽斎が十三重石塔を建立)、京都以外にも和歌山・高野山、滋賀・安土城跡、近江八幡・西光寺、堺・南宋寺本源院、静岡・本門寺、富山・瑞龍寺など多い、又墓ではないが関連する寺としては天下を統一した信長の偉勲を称え明治2年明治天皇が創建した「建勲神社」、阿弥陀寺跡地にあった織田稲荷社が「今宮神社」にある

  • 「大雲院」から再び「ねねの道」を円山公園方面へ戻ると、角地に「西行庵」がある

    「大雲院」から再び「ねねの道」を円山公園方面へ戻ると、角地に「西行庵」がある

  • 「西行庵」(さいぎょうあん)<br />西行法師終焉の地と言われているところで、西行が晩年修行した「西行堂」、母屋の「浄妙庵」と茶室「皆如庵」を併せた「西行庵」と、隣接して、西行を慕っていた芭蕉を偲んで造られた「芭蕉堂」がある *「西行」(1118-1190)は、平安末期の僧侶で、鳥羽上皇の北面の武士であったが、22歳で出家し東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営み、諸国を行脚して和歌を詠み晩年はこの地で隠棲した、新古今和歌集の歌人の一人 *「芭蕉」(1644-1694)は、江戸前期の俳聖、京都で俳句を学び、江戸へ出て頭角を現し、45歳から弟子の河合曾良を伴い東北から北陸を経て美濃国の大垣まで5ヶ月で約2,400kmの旅を終え、その後京都・嵯峨野の去来の別荘・落柿舎にも滞在したりしたが、江戸に戻り「おくのほそ道」を仕上げた後、大阪南御堂の門前屋敷で没した

    「西行庵」(さいぎょうあん)
    西行法師終焉の地と言われているところで、西行が晩年修行した「西行堂」、母屋の「浄妙庵」と茶室「皆如庵」を併せた「西行庵」と、隣接して、西行を慕っていた芭蕉を偲んで造られた「芭蕉堂」がある *「西行」(1118-1190)は、平安末期の僧侶で、鳥羽上皇の北面の武士であったが、22歳で出家し東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営み、諸国を行脚して和歌を詠み晩年はこの地で隠棲した、新古今和歌集の歌人の一人 *「芭蕉」(1644-1694)は、江戸前期の俳聖、京都で俳句を学び、江戸へ出て頭角を現し、45歳から弟子の河合曾良を伴い東北から北陸を経て美濃国の大垣まで5ヶ月で約2,400kmの旅を終え、その後京都・嵯峨野の去来の別荘・落柿舎にも滞在したりしたが、江戸に戻り「おくのほそ道」を仕上げた後、大阪南御堂の門前屋敷で没した

  • (2010/11/26撮影)「西行堂」(さいぎょうどう)<br />西行が出家した翌年から居住し、晩年修行したところで、近くの「双林寺」の飛地境内となっている

    (2010/11/26撮影)「西行堂」(さいぎょうどう)
    西行が出家した翌年から居住し、晩年修行したところで、近くの「双林寺」の飛地境内となっている

  • (2010/11/26撮影)「浄妙庵」(じょうみょうあん)<br />明治26年(1892)富岡鉄斎の呼びかけで「西行堂」の隣接地に母屋「浄妙庵」と茶室「皆如庵」を「西行庵」として建立した、この茅葺の「浄妙庵」は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移築したもの

    (2010/11/26撮影)「浄妙庵」(じょうみょうあん)
    明治26年(1892)富岡鉄斎の呼びかけで「西行堂」の隣接地に母屋「浄妙庵」と茶室「皆如庵」を「西行庵」として建立した、この茅葺の「浄妙庵」は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移築したもの

  • (2010/11/26撮影)「皆如庵」(かいにょあん)<br />桃山時代の切支丹大名「高山右近」によって金沢に建てられた茶室で、加賀藩前田家から京北野の久我別邸に移り、さらにこの地に移築された、現存する草庵風茶室としては最古のもので、円窓床(えんそうどこ)など茶会の名目で切支丹の集会場としても使われたという形跡が残り、幕末には大久保利通、桂小五郎、西郷隆盛らが集ったともいわれる

    (2010/11/26撮影)「皆如庵」(かいにょあん)
    桃山時代の切支丹大名「高山右近」によって金沢に建てられた茶室で、加賀藩前田家から京北野の久我別邸に移り、さらにこの地に移築された、現存する草庵風茶室としては最古のもので、円窓床(えんそうどこ)など茶会の名目で切支丹の集会場としても使われたという形跡が残り、幕末には大久保利通、桂小五郎、西郷隆盛らが集ったともいわれる

  • 「芭蕉堂」(ばしょうどう)<br />「西行」を慕っていた「芭蕉」を偲んで、江戸中期に加賀の俳人・高桑闌更(たかくわらんこう)が1786年「双林寺」からこの地を借りて建立した、芭蕉の命日には法要のあと句会が開かれているという、現在はいつのまにか「レンタル着物店・岡本」が入っているが、これも伝統を継承する一つの手段か

    「芭蕉堂」(ばしょうどう)
    「西行」を慕っていた「芭蕉」を偲んで、江戸中期に加賀の俳人・高桑闌更(たかくわらんこう)が1786年「双林寺」からこの地を借りて建立した、芭蕉の命日には法要のあと句会が開かれているという、現在はいつのまにか「レンタル着物店・岡本」が入っているが、これも伝統を継承する一つの手段か

  • 「大谷祖廟」参道を過ぎると「長楽館」が見えてくる

    「大谷祖廟」参道を過ぎると「長楽館」が見えてくる

  • 「長楽館」(ちょうらくかん)<br />明治42年(1909)「煙草王」と呼ばれた実業家「村井吉兵衛」により建てられた別荘で、当時国内外の賓客を接遇する迎賓館として使われ、現在はカフェ、レストラン、ギフトショップ、ブライダル、全6室のホテルになっている<br />

    「長楽館」(ちょうらくかん)
    明治42年(1909)「煙草王」と呼ばれた実業家「村井吉兵衛」により建てられた別荘で、当時国内外の賓客を接遇する迎賓館として使われ、現在はカフェ、レストラン、ギフトショップ、ブライダル、全6室のホテルになっている

  • 実業家「村井吉兵衛」(むらいきちべえ 1864-1926)<br />江戸末期、京都の貧しい煙草商の家に生まれ、9歳で叔父の養子になり煙草の行商を始め、これで得たお金を元に煙草の製造に乗り出し、キセル煙草の時代に日本初の紙巻き煙草を明治24年発売し、5年後には年間生産量日本一となる、この頃日本のたばこ産業は一気に拡大し、多くの同業者との激しい競争の中で、自ら渡米して煙草の葉を直輸入し、欧米の最新技術の導入や、ハイカラなパッケージデザイン、女性の写真カードなどオマケを使った斬新な広告宣伝で競争を勝ち抜き、1898年日本初の煙草洋式工場「村井機械館」を東山に建設(2009年解体)、そして明治37年「煙草専売法」により国営化され、国から全賠償額の45%以上にあたる1,200万円以上の大金(現在1,200億円程、当時の京都府の年間予算は65万円、琵琶湖第一疎水の事業費120万円)を得て莫大な財を築き、これを元に村井銀行を育て上げ、手広く銀行や鉱山・石油開発・印刷・倉庫・製糸・製糖・製粉など事業拡張し村井財閥を形成する、そして明治42年関西で成功した実業家の誇りとして、後に「長楽館」となる村井の別邸を建て、時の政治家たちや海外からの賓客も迎える迎賓館としての役割も果たした

    実業家「村井吉兵衛」(むらいきちべえ 1864-1926)
    江戸末期、京都の貧しい煙草商の家に生まれ、9歳で叔父の養子になり煙草の行商を始め、これで得たお金を元に煙草の製造に乗り出し、キセル煙草の時代に日本初の紙巻き煙草を明治24年発売し、5年後には年間生産量日本一となる、この頃日本のたばこ産業は一気に拡大し、多くの同業者との激しい競争の中で、自ら渡米して煙草の葉を直輸入し、欧米の最新技術の導入や、ハイカラなパッケージデザイン、女性の写真カードなどオマケを使った斬新な広告宣伝で競争を勝ち抜き、1898年日本初の煙草洋式工場「村井機械館」を東山に建設(2009年解体)、そして明治37年「煙草専売法」により国営化され、国から全賠償額の45%以上にあたる1,200万円以上の大金(現在1,200億円程、当時の京都府の年間予算は65万円、琵琶湖第一疎水の事業費120万円)を得て莫大な財を築き、これを元に村井銀行を育て上げ、手広く銀行や鉱山・石油開発・印刷・倉庫・製糸・製糖・製粉など事業拡張し村井財閥を形成する、そして明治42年関西で成功した実業家の誇りとして、後に「長楽館」となる村井の別邸を建て、時の政治家たちや海外からの賓客も迎える迎賓館としての役割も果たした

  • 日本初の煙草洋式工場「村井機械館」1898年建設<br />ここから南へ約2km、清水五条近くの馬町通(渋谷通)にあり、当時は2000人以上の労働者が両切りたばこを作っていたという、残念ながら2009年に解体され、現在は特別養護老人ホーム「修道洛東園」になり、石碑のみが残されているというが未確認

    日本初の煙草洋式工場「村井機械館」1898年建設
    ここから南へ約2km、清水五条近くの馬町通(渋谷通)にあり、当時は2000人以上の労働者が両切りたばこを作っていたという、残念ながら2009年に解体され、現在は特別養護老人ホーム「修道洛東園」になり、石碑のみが残されているというが未確認

  • (2023/10/19撮影:平安京散歩七条大路)「村井銀行七条支店」<br />村井吉兵衛創業の「村井銀行」は、1926年吉兵衛死去、1927年金融恐慌により1927年倒産、その後村井銀行祇園支店(1924年築)は菓子店「キャンディショータイム祇園店」、村井銀行七条支店(1914年築)はレストラン「きょうと和み館」(現在不明)として利用され、今でもギリシャ建築のパルテノン神殿風の柱がそのまま並んでいる、また、東京本店は昭和銀行から安田銀行へ吸収され、現在は日本橋御幸ビルになり遺構として村井銀行の玄関が保存され、永田町の邸宅跡地には日比谷高校が建ち遺構として正門が残り、武田五一が手掛けた和館(1919年築)は比叡山延暦寺に移築され大書院として使われ、茶室は南青山の根津美術館になっている

    (2023/10/19撮影:平安京散歩七条大路)「村井銀行七条支店」
    村井吉兵衛創業の「村井銀行」は、1926年吉兵衛死去、1927年金融恐慌により1927年倒産、その後村井銀行祇園支店(1924年築)は菓子店「キャンディショータイム祇園店」、村井銀行七条支店(1914年築)はレストラン「きょうと和み館」(現在不明)として利用され、今でもギリシャ建築のパルテノン神殿風の柱がそのまま並んでいる、また、東京本店は昭和銀行から安田銀行へ吸収され、現在は日本橋御幸ビルになり遺構として村井銀行の玄関が保存され、永田町の邸宅跡地には日比谷高校が建ち遺構として正門が残り、武田五一が手掛けた和館(1919年築)は比叡山延暦寺に移築され大書院として使われ、茶室は南青山の根津美術館になっている

  • 「長楽館」の歴史<br />1909年(明治42年)竣工、伊東博文来泊・扁額に揮毫、井上薫・西園寺公望、住友吉左衛門ら来訪、1910年大隈重信夫妻来泊、1915年大正天皇ご大典にロシア大使・イタリア大使来泊、1916年閑院宮妃殿下他3殿下来泊、1918年英国大使来泊、1925年米国ロックフェラー来泊、1926年吉兵衛が死去、1927年(金融恐慌)、村井銀行倒産、長楽館売却、(戦後一時進駐軍接収)、1954年(昭和29年)土手富三氏(経歴不明)購入、荒れ放題の建物を8年がかりで修復、1965年隣接地にホテル棟建設開業、1968年喫茶店開業、1980年全館修復完了、現オーナーの土手素子氏土手家に嫁ぐ、2008年ホテル棟リニューアル、2016年全館リニューアル<br /><br />

    「長楽館」の歴史
    1909年(明治42年)竣工、伊東博文来泊・扁額に揮毫、井上薫・西園寺公望、住友吉左衛門ら来訪、1910年大隈重信夫妻来泊、1915年大正天皇ご大典にロシア大使・イタリア大使来泊、1916年閑院宮妃殿下他3殿下来泊、1918年英国大使来泊、1925年米国ロックフェラー来泊、1926年吉兵衛が死去、1927年(金融恐慌)、村井銀行倒産、長楽館売却、(戦後一時進駐軍接収)、1954年(昭和29年)土手富三氏(経歴不明)購入、荒れ放題の建物を8年がかりで修復、1965年隣接地にホテル棟建設開業、1968年喫茶店開業、1980年全館修復完了、現オーナーの土手素子氏土手家に嫁ぐ、2008年ホテル棟リニューアル、2016年全館リニューアル

  • 「ルネサンス風外観の和洋折衷洋館」<br />設計は米国人建築家「J・Mガーディナー」、施工は清水建設で、鉄骨4階建ての外観はルネッサンス様式、玄関の門柱はイオニア式、館内はロココ様式、ネオ・クラシック様式など西洋のさまざまな建築様式と和風建築も融合した和洋折衷で、1階は、玄関ホール・迎賓の間・球戯の間・書斎・食堂・サンルーム、2階は、喫煙の間・美術の間・貴婦人の間、鳳凰の間、バルコニー、接遇の間、3階は通常非公開で茶室・長楽庵、和室・御成の間、また、建築当初の家具がたくさん残っているのも注目される点で、それぞれ部屋に合った家具が置かれ、英国王室御用達でもあったMAPLE社製など、大半が高級輸入品で意匠的にも優れる、内部の凝った意匠に見るべきところがあり、規模も大きく、明治後期における和洋折衷の住宅建築の代表例として価値が高いことから、家具30点を含め、昭和61年京都指定有形文化財に指定された(京都市コメント)

    「ルネサンス風外観の和洋折衷洋館」
    設計は米国人建築家「J・Mガーディナー」、施工は清水建設で、鉄骨4階建ての外観はルネッサンス様式、玄関の門柱はイオニア式、館内はロココ様式、ネオ・クラシック様式など西洋のさまざまな建築様式と和風建築も融合した和洋折衷で、1階は、玄関ホール・迎賓の間・球戯の間・書斎・食堂・サンルーム、2階は、喫煙の間・美術の間・貴婦人の間、鳳凰の間、バルコニー、接遇の間、3階は通常非公開で茶室・長楽庵、和室・御成の間、また、建築当初の家具がたくさん残っているのも注目される点で、それぞれ部屋に合った家具が置かれ、英国王室御用達でもあったMAPLE社製など、大半が高級輸入品で意匠的にも優れる、内部の凝った意匠に見るべきところがあり、規模も大きく、明治後期における和洋折衷の住宅建築の代表例として価値が高いことから、家具30点を含め、昭和61年京都指定有形文化財に指定された(京都市コメント)

  • 建築家「ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー」(1857-1925)<br />ガーディナーは米国に生まれ、海外伝道を志願し1880年(明治13年)宣教師として日本に派遣され、立教大学の創生期において、校長、教員の傍ら、独学で建築を学び、大学の校舎群や聖堂など建築士としても活躍し、退任後は本格的に建築家を専業とし、日本各地で設計を行い、京都御所向かいにある聖アグネス教会や京都聖ヨハネ教会(博物館明治村に移設)などの教会建築のほか、外交官の邸宅などの建築も手掛け、1903年(明治36年)に京都東山付近に建築事務所を開設、これが村井家と近かったことから親交が深まり、現在の「長楽館」を手掛けることになった<br />

    建築家「ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー」(1857-1925)
    ガーディナーは米国に生まれ、海外伝道を志願し1880年(明治13年)宣教師として日本に派遣され、立教大学の創生期において、校長、教員の傍ら、独学で建築を学び、大学の校舎群や聖堂など建築士としても活躍し、退任後は本格的に建築家を専業とし、日本各地で設計を行い、京都御所向かいにある聖アグネス教会や京都聖ヨハネ教会(博物館明治村に移設)などの教会建築のほか、外交官の邸宅などの建築も手掛け、1903年(明治36年)に京都東山付近に建築事務所を開設、これが村井家と近かったことから親交が深まり、現在の「長楽館」を手掛けることになった

  • 「玄関扉」<br />扉のアーチ部には古代ギリシャ建築のイオニア式門柱が設置され、玄関照明の下部には金の輪に囲まれた村井家の家紋「三つ柏」(みつかしわ:柏の葉3つ組み合わせ)がある

    「玄関扉」
    扉のアーチ部には古代ギリシャ建築のイオニア式門柱が設置され、玄関照明の下部には金の輪に囲まれた村井家の家紋「三つ柏」(みつかしわ:柏の葉3つ組み合わせ)がある

  • 「玄関ホール」<br />吹き抜けの玄関ホールは、曲線を描いた木材の装飾の階段と、バルコニー風の踊り場が豪華で、見上げると「長楽館」の扁額が見える、受付は2階にあり、中国風の喫茶室「喫煙の間」と「貴婦人の間」「接遇の間」「美術の間」「鳳凰の間」があり、靴を脱いで通常非公開の3階へ上がる

    「玄関ホール」
    吹き抜けの玄関ホールは、曲線を描いた木材の装飾の階段と、バルコニー風の踊り場が豪華で、見上げると「長楽館」の扁額が見える、受付は2階にあり、中国風の喫茶室「喫煙の間」と「貴婦人の間」「接遇の間」「美術の間」「鳳凰の間」があり、靴を脱いで通常非公開の3階へ上がる

  • 扁額「長楽館」<br />完成直後に来泊した「伊藤博文」は、館からの眺めに感動し「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」と詠み、「長楽館」と名付けられた、伊藤博文は長楽館に1泊した4ヶ月後の 1909年(明治42年)10月26日にハルピンで暗殺された

    扁額「長楽館」
    完成直後に来泊した「伊藤博文」は、館からの眺めに感動し「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」と詠み、「長楽館」と名付けられた、伊藤博文は長楽館に1泊した4ヶ月後の 1909年(明治42年)10月26日にハルピンで暗殺された

  • (後で受けたガイドさんの説明)<br />この「館」で遊ばば、その「楽」しさや、けだし「長」(とこし)えなり

    (後で受けたガイドさんの説明)
    この「館」で遊ばば、その「楽」しさや、けだし「長」(とこし)えなり

  • 茶室「長楽庵」<br />最初に案内されたのは階段の踊り場から入る中3階の茶室で、表千家の茶室「残月亭」を模して作られているが、和室でありながら外側は洋風で、半月を表現した正面の窓の左右には、左に桜、右にモミジのステンドグラスがあり、こんな茶室は見たことがない!

    茶室「長楽庵」
    最初に案内されたのは階段の踊り場から入る中3階の茶室で、表千家の茶室「残月亭」を模して作られているが、和室でありながら外側は洋風で、半月を表現した正面の窓の左右には、左に桜、右にモミジのステンドグラスがあり、こんな茶室は見たことがない!

  • 「サクラ」のステンドグラス<br />「茶道」に西洋の要素を取り入れる発想は、多分「村井吉兵衛」の発想!

    「サクラ」のステンドグラス
    「茶道」に西洋の要素を取り入れる発想は、多分「村井吉兵衛」の発想!

  • 「モミジ」のステンドグラス<br />まさにこの建物からまもなく、モミジの光景が見れる!

    「モミジ」のステンドグラス
    まさにこの建物からまもなく、モミジの光景が見れる!

  • 「残月床」(ざんげつどこ)<br />二畳の上段の床の間には、禅語「喫茶去」(きっさこ)の掛け軸、「どうぞ、お茶でも召し上がれ」の意味、下の朱塗りの花器は、1本の木から削られているもので、同じく木製の中にいるアヒルは、水を入れると泳いでいるように見えるという拘り!

    「残月床」(ざんげつどこ)
    二畳の上段の床の間には、禅語「喫茶去」(きっさこ)の掛け軸、「どうぞ、お茶でも召し上がれ」の意味、下の朱塗りの花器は、1本の木から削られているもので、同じく木製の中にいるアヒルは、水を入れると泳いでいるように見えるという拘り!

  • 扁額「和楽」(わらく)<br />茶室出入口前の扁額「和楽」(和やかに楽しむ)は橋本関雪(1883-1945)の書、左手階段を中3階から3階に上がると「御成の間」

    扁額「和楽」(わらく)
    茶室出入口前の扁額「和楽」(和やかに楽しむ)は橋本関雪(1883-1945)の書、左手階段を中3階から3階に上がると「御成の間」

  • 「御成の間」(おなりのま)<br />大正時代に村井の依頼で日本の伝統建築の権威とされる「大島盈株」(おおしまみつもと1842-1925)により改修され、床の間、違い棚、付書院もある「書院造」をベースに、天井は格式高い「折上格天井」、金箔をふんだんに使った「襖絵」、禅寺に多い「華頭窓」など備える一方、照明は「バカラのシャンデリア」を使い、茶室と同様、東洋と西洋の文化が融合した豪華な部屋になっている

    「御成の間」(おなりのま)
    大正時代に村井の依頼で日本の伝統建築の権威とされる「大島盈株」(おおしまみつもと1842-1925)により改修され、床の間、違い棚、付書院もある「書院造」をベースに、天井は格式高い「折上格天井」、金箔をふんだんに使った「襖絵」、禅寺に多い「華頭窓」など備える一方、照明は「バカラのシャンデリア」を使い、茶室と同様、東洋と西洋の文化が融合した豪華な部屋になっている

  • 天井は「折上格天井」(おりあげごうてんじょう)<br />「格天井」は、格子状に仕上げた格式の高い伝統的な天井様式で、これをさらに一部を一段高くした「折上格天井」は賓客を迎えるにふさわしく特に豪華になっている *二条城の二の丸御殿にある「二重折上格天井」は、折上げの中心を更に折上げた天井で最上級の格式を持つ

    天井は「折上格天井」(おりあげごうてんじょう)
    「格天井」は、格子状に仕上げた格式の高い伝統的な天井様式で、これをさらに一部を一段高くした「折上格天井」は賓客を迎えるにふさわしく特に豪華になっている *二条城の二の丸御殿にある「二重折上格天井」は、折上げの中心を更に折上げた天井で最上級の格式を持つ

  • 飾り金具は「村井家の家紋」<br />格子が重なる十字の部分には、村井家の家紋の「三つ柏」(みつかしわ)があり、この紋は長楽館の玄関や各部屋など随所に目につく

    飾り金具は「村井家の家紋」
    格子が重なる十字の部分には、村井家の家紋の「三つ柏」(みつかしわ)があり、この紋は長楽館の玄関や各部屋など随所に目につく

  • 照明は「バカラのシャンデリア」<br />天井のシャンデリアはバカラ製で、金箔で描かれた雲の紋様と見事にマッチしている

    照明は「バカラのシャンデリア」
    天井のシャンデリアはバカラ製で、金箔で描かれた雲の紋様と見事にマッチしている

  • 「襖絵のテーマは列をなして飛ぶ白い水鳥」<br />襖絵は金箔を用いた千鳥、松、海、空が描かれているが、壁も含めて部屋全体が統一されたテーマとなっており、優雅・優美だけでなくお洒落!

    「襖絵のテーマは列をなして飛ぶ白い水鳥」
    襖絵は金箔を用いた千鳥、松、海、空が描かれているが、壁も含めて部屋全体が統一されたテーマとなっており、優雅・優美だけでなくお洒落!

  • 統一されたテーマで仕上げた書院造は、日本の伝統建築の権威とされる「大島盈株」の神髄が見てとれる!

    統一されたテーマで仕上げた書院造は、日本の伝統建築の権威とされる「大島盈株」の神髄が見てとれる!

  • 調度品も豪華「京薩摩」<br />調度品もそれぞれ部屋に合ったものが置かれ、英国王室御用達でもあったMAPLE社製など、大半が高級輸入品で、御成の間には「京薩摩」の輸出用陶磁器が置かれている、「京薩摩」とは本来の薩摩焼が1867年のパリ万博で高評価を受け、京都でも薩摩焼に倣って明治・大正期に粟田口の窯元を中心に、金の彩色絵を特徴とする陶器が作られたもので、輸出用であったため国内では希少

    調度品も豪華「京薩摩」
    調度品もそれぞれ部屋に合ったものが置かれ、英国王室御用達でもあったMAPLE社製など、大半が高級輸入品で、御成の間には「京薩摩」の輸出用陶磁器が置かれている、「京薩摩」とは本来の薩摩焼が1867年のパリ万博で高評価を受け、京都でも薩摩焼に倣って明治・大正期に粟田口の窯元を中心に、金の彩色絵を特徴とする陶器が作られたもので、輸出用であったため国内では希少

  • 窓は禅寺に多い「華頭窓」<br />寺社や城郭に使われ、火炎形(火灯曲線)や花形(花頭曲線)に造った窓からの眺めは素晴らしい、東山の山並みや円山公園、京都市街が一望でき、四季折々の風情をこの窓から楽しめるのは風流そのもの!

    窓は禅寺に多い「華頭窓」
    寺社や城郭に使われ、火炎形(火灯曲線)や花形(花頭曲線)に造った窓からの眺めは素晴らしい、東山の山並みや円山公園、京都市街が一望でき、四季折々の風情をこの窓から楽しめるのは風流そのもの!

  • 東山「知恩院」方面

    東山「知恩院」方面

  • 「白雲去来」(はくうんきょらい)<br />「御成の間」の隣には控えの間として2つの和室があり、床の間には掛け軸「白雲去来」(はくうんきょらい):白雲がわき立ち去来するというのは、吉相が現れる前兆で、やがて空は光り輝く

    「白雲去来」(はくうんきょらい)
    「御成の間」の隣には控えの間として2つの和室があり、床の間には掛け軸「白雲去来」(はくうんきょらい):白雲がわき立ち去来するというのは、吉相が現れる前兆で、やがて空は光り輝く

  • 「長楽未央」(ちょうらくみおう)<br />隣の部屋の掛け軸は「長楽未央」:長い楽しみはまだこれから、営々と続いてきた楽しみは未だ央(つ)きず、「生きている限り人生の楽しみはこれからも長く続く」肝に銘じたい!

    「長楽未央」(ちょうらくみおう)
    隣の部屋の掛け軸は「長楽未央」:長い楽しみはまだこれから、営々と続いてきた楽しみは未だ央(つ)きず、「生きている限り人生の楽しみはこれからも長く続く」肝に銘じたい!

  • 「高級家具調度品」<br />この部屋にも貴重な調度品を多く飾っている、洋式家具は英国王室御用達のMAPLE社製など、大半が高級輸入品だったが、国産品は殆ど、東京「杉田商店」の製品と聞いて納得、先日京都府庁旧本館に訪問した際、知事室の家具には「村井吉兵衛寄付」のプレートがついていた、「杉田商店」は当時の日本の重要な家具の大部分を手がけていて村井とも親交があり、伊藤博文や山縣有朋らと結びついて政商として発展したが、はっきりと杉田製であると分かるものは少ないので、この長楽館の家具は大変貴重だという

    「高級家具調度品」
    この部屋にも貴重な調度品を多く飾っている、洋式家具は英国王室御用達のMAPLE社製など、大半が高級輸入品だったが、国産品は殆ど、東京「杉田商店」の製品と聞いて納得、先日京都府庁旧本館に訪問した際、知事室の家具には「村井吉兵衛寄付」のプレートがついていた、「杉田商店」は当時の日本の重要な家具の大部分を手がけていて村井とも親交があり、伊藤博文や山縣有朋らと結びついて政商として発展したが、はっきりと杉田製であると分かるものは少ないので、この長楽館の家具は大変貴重だという

  • (2024/07/03撮影:京都南北散歩新町通)「京都府庁旧館」<br />知事室の机や家具類は、東京築地の高級家具製造業「杉田商店」のものを、「村井吉兵衛」が府庁建設のために今のお金で1億円くらい寄付したもの、家具「杉田商店」は、明治9年開業した我国最初の本格的な洋家具商で、顧客には政治要人や各宮家、三井、岩崎、住友などの富豪、旧大名家といった当時の日本の上流階級と、全国の地方官庁などの洋家具もほとんど杉田商店が請け負っていた

    (2024/07/03撮影:京都南北散歩新町通)「京都府庁旧館」
    知事室の机や家具類は、東京築地の高級家具製造業「杉田商店」のものを、「村井吉兵衛」が府庁建設のために今のお金で1億円くらい寄付したもの、家具「杉田商店」は、明治9年開業した我国最初の本格的な洋家具商で、顧客には政治要人や各宮家、三井、岩崎、住友などの富豪、旧大名家といった当時の日本の上流階級と、全国の地方官庁などの洋家具もほとんど杉田商店が請け負っていた

  • 「祇園閣」と「八坂の塔」<br />南側廊下からは「祇園閣」と、僅かに法観寺の五重塔「八坂の塔」が見える

    「祇園閣」と「八坂の塔」
    南側廊下からは「祇園閣」と、僅かに法観寺の五重塔「八坂の塔」が見える

  • 「貴婦人の間」<br />2階には「喫煙の間」「美術の間」「貴婦人の間」「鳳凰の間」「接遇の間」など、それぞれ名前にふさわしい家具調度品がしつらえており、現在はカフェスペースなどに使われている

    「貴婦人の間」
    2階には「喫煙の間」「美術の間」「貴婦人の間」「鳳凰の間」「接遇の間」など、それぞれ名前にふさわしい家具調度品がしつらえており、現在はカフェスペースなどに使われている

  • 「迎賓の間」<br />1階は入って直ぐの所に「迎賓の間」と「球戯の間」「書斎の間」「食堂の間」がある、<br />「迎賓の間」は、もともと応接間で、現在はアフタヌーンティー専用スペースらしく、外から覗き込むだけだが、壁にかかる風景画やシャンデリア、テーブルとイスなど全て華やかで優雅な18世紀ヨーロッパのロココ調の雰囲気を漂わせ、明治大正の上流階級はこういう世界を憧れていたのかと想像する

    「迎賓の間」
    1階は入って直ぐの所に「迎賓の間」と「球戯の間」「書斎の間」「食堂の間」がある、
    「迎賓の間」は、もともと応接間で、現在はアフタヌーンティー専用スペースらしく、外から覗き込むだけだが、壁にかかる風景画やシャンデリア、テーブルとイスなど全て華やかで優雅な18世紀ヨーロッパのロココ調の雰囲気を漂わせ、明治大正の上流階級はこういう世界を憧れていたのかと想像する

  • 「サンルーム」<br />元は温室で、現在ブティックスペースとして、お菓子やコースターなどお土産品を売っている、ここでも床はイスラム風タイル、壁はイスラムのモスクなど、凝りに凝った部屋になっている

    「サンルーム」
    元は温室で、現在ブティックスペースとして、お菓子やコースターなどお土産品を売っている、ここでも床はイスラム風タイル、壁はイスラムのモスクなど、凝りに凝った部屋になっている

  • 「球戯の間」<br />最後にカフェ休憩、元はビリヤード部屋だったらしいが、建築当時そのままのステンドグラスがエメラルドグリーンの壁と調和して素晴らしい

    「球戯の間」
    最後にカフェ休憩、元はビリヤード部屋だったらしいが、建築当時そのままのステンドグラスがエメラルドグリーンの壁と調和して素晴らしい

  • 「スコーン・コーヒーセット」を注文 1,700円<br />庶民には贅沢だが、高級ホテルよりも安く、以外と普通の値段でお茶や食事ができるのは有難い!

    「スコーン・コーヒーセット」を注文 1,700円
    庶民には贅沢だが、高級ホテルよりも安く、以外と普通の値段でお茶や食事ができるのは有難い!

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