2024/10/11 - 2024/10/11
1129位(同エリア3590件中)
Bachさん
10月に入りやっと秋日和と思える清々しい季節になったので、少し長めの、これまでの千本通、大宮通に次ぐ長さの「油小路通」を歩くことにします。
現在の「油小路通」(あぶらのこうじどおり)は、上賀茂橋近くから伏見の近鉄鳥羽口駅近くまで約16kmありますが、紫明通から突然「小川通」に名前が変わり中断して、800m程進んでまた「上立売通」から復活し、「八条通」で隣を並行する堀川通と合流して伏見まで南下します。そして平安京では、一条大路から厨町(くりやまち)と呼ばれる役人の宿所や、道長の子・藤原頼道の豪華な邸宅「高陽院」(かやのいん)があり、室町期からは商業街としても発展し、秀吉の時代には聚楽第を核とした町造りの中心になるなど、見どころ満載だと思うので「上立売通」から「八条通」までの中心地約6kmを歩きます。
「油小路」の通り名は当然「油屋」が多かったからと思いますが、確証はないようで、実際歩いても七条あたりに1軒あるだけ、それでも通りには西陣織物、染物、竹材、神具、仏具、和楽器、人形、団扇、薬、和菓子など、古い商家が建ち並び、町家を活用したお洒落なレストランやホテルなども多く、史跡としては、蹴鞠の「白峰神宮」、楽焼の「楽家」、信長が襲われた「本能寺跡」、新選組が襲った「油小路七条の辻」や、先月訪問した「祇園閣」と同じ設計者による「本願寺伝道院」、近代日本建築史の巨匠が造った「顕道会館」などもあり、一つの旅行記では収まりそうもありませんが、無理やり凝縮しました。
次回は、秀吉時代にこの通りに入り込んできたお茶の原点「三千家」が集まる「小川通」と、その延長上にある「天使突抜通」という面白い名前の通りを歩きます。
京都は通りの名前を調べるだけで、日本の歴史が分かるし、楽しい散歩が出来ます。
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「油小路通」は京の通り唄で「あぶら さめがい ほりかわ のみず」と唄われるように、現在の基幹道「堀川通」(平安京では「堀川小路」)と並行して走る通りで、加茂街道から始まり、東海道新幹線ガード下で合流して「堀川通」を吸収して伏見まで南下する。また「秀吉の都市改造」で生まれた通りがここでも現れ、紫明通から突然「小川通」に名前が変わり、また上立売通から復活して小川通と並行して南下するが、この「小川通」も又「錦小路通」で終わり、この延長線上で松原通から六条通まで「天使突抜通」という名前で復活する
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上賀茂橋近くの竹殿南通~0.4km北山通~0.7km今宮通~鞍馬口通~1.1km(2.2km)紫明通~(小川通)~0.8km(3km)上立売通~(6km)八条通~(7km)京都外環状線まで16kmの内、上立売通~八条通まで6kmを歩くコース
11:00(地下鉄今出川)~0.7km上立売通・御三軒湯~0.2km白峰神宮~革堂図子~0.5km一条通~楽美術館~西陣産業創造会館~亀屋博永~四季十楽(町家ホテル)~中信美術館~安藤人形店~1.0km(1.7km)12:40丸太町通~ランチ(丑屋よ平)~0.5km二条通~ミツイホテル~ANAホテル~堀川高校~大老土井利勝屋敷跡~洛陽照円寺~(御池通)~京都絞り工芸館~0.5km三条通~木村庄~蛸薬師通~本能寺跡~堀川高校本能学舎~空也堂~野口家住宅花洛庵~0.6km四条通~仏光寺通~0.5km秦家住宅秦薬舗~山本亡羊読書室跡~0.5km五条通~井筒~0.3km六条通~西本願寺伝道院~0.6km七条通~西川油店~本光寺~塩小路通~道祖神社~0.7km(6.0km)八条通~16:00京都駅 -
11:00地下鉄今出川駅をスタートし、「上立売通」から同志社大学新町キャンパスを経由し「小川通」へ
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「上立売通」(かみだちうりどおり)
寺町通から馬代通(ばだいどおり)まで(途中六軒町通から平野通まで中断)、店舗を構えず商売を行う立売が多かったことに由来 -
「御三軒湯」(ごさんげんゆ)
この辺りの地名「御三軒町」(ごさんげんちよう)は、足利義満花の御所が近くにあったため、将軍を補佐する菅領の斯波(しば)、畠山、細川、ご三家の屋敷があったことに由来、京都は豊富な地下水を使った銭湯が多いが、近くにお茶の三千家もあるこの辺りは地下に岩盤がありその下を通る水は特に良質だという -
「油小路通」再スタート地点
上賀茂橋近くからスタートして紫明通で中断し、この「上立売通」までは「小川通」になり、再びここから再開して、八条通で隣を並行する「堀川通」と合流して、伏見まで南下する -
200m歩くと「白峰神宮」東側入り口
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今出川通側の「白峰神宮」正面入り口
第47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう733-765)と第75代崇徳天皇(すとくてんのう1119-1164)を祀る -
「白峰神宮」(しらみねじんぐう) 神門(しんもん)
明治元年(1868)に明治天皇が、先代・孝明天皇の遺志を継いで、皇室に災禍を起こし、歴史上悲運のうちに亡くなった二人の天皇の霊を慰め、幕末の国難に加護を祈るため、「崇徳天皇」の神霊を讃岐の「白峰」から、後の明治6年(1873)に「淳仁天王」の神霊を淡路島から遷して創建され、皇室鎮護の神とした *過去の権力者も、二人の天皇が怨霊となって度重なる厄災を起こしたので、没後天皇として崇め祀り、祟りを鎮めようとした、同様な事例として、「早良親王」(さわらしんのう)は上御霊、下御霊神社に、「菅原道真」は北野天満宮に祀られている *祟(出るに示す)は「たたり」で、崇(山に宗)は「あがめる」 -
「拝殿」(はいでん)
「崇徳天皇」(1119-1164)は、第75代天皇に即位しすぐに三歳の近衛天皇に譲位したが、同母弟の後白河天皇に帝位を奪われたことに立腹し、1156年保元の乱を起こしたが敗れ、流罪になった讃岐から後白河天皇に謝罪をして都に帰りたいと懇願したが聞き入れられず、天皇家を呪いながら讃岐で憤死し、その後朝廷を脅かす大きな災いや争乱が続き怨霊の祟り(たたり)とささやかれた、また「淳仁天皇」(733-765)も、第47代天皇に即位し6年間の在位の後、皇位をめぐる争いに巻き込まれ、淡路島へ流された、そして江戸幕末になってからも崇徳天皇の祟りを信じる人が多く、第121代孝明天皇(1831-1867)は幕末の国難に対して、この二人の天皇の御霊を京都に遷そうとしたが叶わず、その後明治元年(1868)になって、孝明天皇の遺志を継いだ第122代明治天皇が、現在の「飛鳥井家」(あすかいけ)の邸宅地跡に遷し「白峰神宮」とした -
「飛鳥井家」(あすかいけ)
この地は元々藤原北家の公家「飛鳥井家」の邸宅があった地で、飛鳥井家が「蹴鞠」(けまり)の宗家として天皇に仕え、守護神として「精大明神」(せいだいみょうじん)を祀っていたため、境内の「地主社」を摂社として「蹴鞠」の神である「精大明神」を祀っている、「蹴鞠」は、公家の社交に欠かせないスポーツで、公家の中で蹴鞠を家業とする家がいくつかあったが、飛鳥井流は江戸時代に徳川家康から蹴鞠道家元と認められたことから唯一残り、明治になると天皇とともに東京に移るが、その氏神「精大明神」はこの地に残っている *飛鳥井家の「藤原北家」は、かるたの歌道家元で小倉百人一首の選者・藤原定家(ふじわらのていか)もこの家系で、藤原俊成や藤原定家に歌道を学んだため和歌にも優れ、定家とともに新古今和歌集の撰者にも任じられ、蹴鞠だけでなく和歌にも通じている -
「左近の桜・右近の橘」
日本の季節感、美意識を表す花として第54代天皇「仁明天皇」(にんみょうてんのう810-850)の頃より、御所の紫宸殿前庭に植樹されており、白峰神宮はかつて官幣大社(かんぺいたいしゃ)という最高の社格の待遇を受けており、紫宸殿に倣って境内に「左近の桜・右近の橘」を植えている *平安時代の当初は、早春に花を咲かせ実をつけることから、春を告げるシンボルとして中国から伝わったため、「梅と橘」が植えられていたが、960年の火災で紫宸殿とともに焼失し、再建する際に梅に代えて桜を植えて以来、「桜と橘」になったという -
「蹴鞠の庭」(けまりのにわ)
毎年4月14日の春季例大祭「淳仁天皇祭」と、7月7日の精大明神例祭「七夕祭」に「蹴鞠」の儀式が執り行われ、4月には体験も出来る *「蹴鞠」は、相手が蹴りやすいパスを出して、いかに長く続けるかという極めて平和的で、公家社会では欠かせないスポーツで、外に出られない上流階級の女性たちが庭先で男性たちの蹴鞠を楽しく観戦する場面は源氏物語にも出てきて、清少納言は「上品ではないが面白い」と表現している -
「蹴鞠の庭」と「鬱金之桜」(うこんのさくら)
「蹴鞠」をしている背後に、春の写真を見ると存在感が際立つ「鬱金之桜」がある、淡黄緑の花がウコン色(黄色)に似ているという非常に珍しい桜で、京都市内でも六孫王神社、平野神社。白峯神社の三箇所だけしかないという、似たような桜に千本釈迦堂で見た「御衣黄」(ぎょいこう)という桜があるが、ウコンは淡黄色に見え、ギョイコウは濃い緑色に見える、と言われてもよく分からない -
「本殿」と「含笑花」(がんしょうげ)
崇徳天皇と淳仁天皇を祀っているが、ここに祀られているのは魂だけで、天皇陵は坂出市の白峰山陵と南淡路にある、本殿前左右にある「含笑花」は、5月中旬に花が咲き、バナナのような甘い香気を放つ、名前の由来は、花弁が開ききらないまま落花する様がつつましく微笑んでいるように見えるからで、和名では「唐種招魂」(からたねおがたま)とも呼ばれ、多くの神社にある、英名は「Banana Magnolia」(バナナモクレン)と呼ばれ、バナナのような甘い香りが漂う、花は2、3日で散ってしまうのでなかなか見る事は出来ない -
「鞠の鈴」参拝作法
本殿前の賽銭箱左右には、大きくて重い鈴と小さくて軽い鈴が置かれていて、上からぶら下がっている鈴の紐を揺らして鳴らすのではなく、両方の鈴を持ち上げて鳴らす、両方とも「良く鳴る→良く成る→新願成就の御利益がある」鞠の鈴で、ボールを落とさない・落ちないことから、学力を落とさない・試験に落ちないなど縁起が良い -
「宮司西村尚の歌碑」
「小賀玉」の しじ葉がもとの 「飛鳥井」の井筒 むかしの物語せよ -
「オガタマノキ」(小賀玉の木)
飛鳥井家の邸宅にあった樹齢800年の京都市最大の大木で、招霊(おぎたま)から命名されていることから、神や魂を招く木とされ神社の境内によくある -
「飛鳥井」(手水舎)
霊木「小賀玉」の元に湧き出る名水で、11月23日の献茶祭で奉献される、清少納言の「枕草子」にあげられている9つの名水の中で唯一現存する井戸 -
「地主社」(じしゅしゃ)
蹴鞠で天皇に仕えた飛鳥井家の祖先である「藤原成通」(ふじわらのなりみち)が、1000日の間、鞠を落とさずに蹴るという願をかけた際に現れた神様を、飛鳥井家の守護神「精大明神」(せいだいみょうじん)として祀っている -
「撫で鞠」(なでまり)
「地主社」の参拝は、「二拝二拍手一拝」の後、隣にある「蹴鞠碑」の台の上に乗り、球技に関するお願い事を一つして、石碑にはめ込まれた石鞠を1回まわすと球運が授かる -
「崇徳天皇の歌碑」
「崇徳天皇」は、鳥羽天皇の皇子として誕生し、幼い時より和歌・管絃の道に秀でていて数多くの名歌を詠んだ、小倉百人一首の歌は有名 「瀬をはやみ 岩にせかるる瀧川の われても末に あはむとぞ思ふ」(速い浅瀬の滝川の流れが、岩にせき止められ2つに分かれても、また合流して一つになるように、将来はまた1つに集まる) 含蓄が深い! -
「崇徳天皇欽仰之碑」と「浄心の庭」
崇徳天皇は平安後期の1156年、子の皇位継承を望んで挙兵した「保元の乱」に敗れ、讃岐国に流されて亡くなった(欽仰;きんぎょうとは崇拝し慕うこと)、「浄心の庭」(じょうしんのにわ)は、右背後の立石を瀧に見立て、前面の苔で水の流れを表した枯山水で、庭園のない所に無理やり造った感じ -
「伴緒社」(とものおしゃ)
弓道・武道の神様である源為義(ためよし)、為朝(ためとも)親子が祀られており、共に弓の名手で、源義経の祖父と叔父にあたる -
「潜龍社」(せんりゅうしゃ)
昭和30年、白峯神宮の本殿で御火焚祭(おひたきさい)を行っていた時に、火の中に水の神が現れたことから創建され、水の神様「潜龍大神」をお祀りする、毎年11月23日に潜龍講大祭が斎行される、 -
「潜龍井」(せんりゅうい)
龍の口から天然の湧き水が出ており、悪縁を断ち良縁を成す盗難災難除、病気平癒、事業隆昌に霊験があるとされる *「飛鳥井」とは繋がってないという -
「三葉の松(三鈷の松)」(さんようのまつ/さんこのまつ)
授与所の前にある松の木は、「三葉乃松」と呼ばれ、豊饒(ほうじょう)と平安をもたらす神霊が、松を伝って地上に降臨すると言われる神聖な木として崇められていて、全国でも珍しく落葉が黄金色になるため身につけると「金運」のご利益があるともいわれる、また「三鈷の松」とも言われているのは、弘法大師空海が密教を持ち帰る時、法具の「三鈷」を投げて引っかかった所が高野山の松の枝だったところから道場を開き、この時の松を「三鈷松」と名付けた、松葉は三鈷の先のように三本に分かれており、知恵、慈悲、真心の3つの福があると言われる -
「スポーツの神様」
この神社が有名なのは、スポーツの神様として日本全国から多くのアスリートが訪れる聖地となっていることで、創建された場所が「蹴鞠の宗家」であった飛鳥井家の邸跡であることに由来しており、境内右手の「地主社」には飛鳥井家の守護神で、蹴鞠の神様「精大明神」が祀られており、御祭神である崇徳天皇も和歌とともに「蹴鞠」を好んだという -
きっかけは「1998年ワールドカップ」
スポーツの神様として信仰されるようになったのは、Jリーグ発足の1991年頃からのことで、特に日本が初めてワールドカップに勝ち上がれた1998年に、日本サッカー協会から公式ボールが奉納されたことから、サッカーだけでなくゴルフやバドミントンからけん玉まで全ゆるボール競技のボールが奉納されている -
「蹴鞠とサッカー」
「蹴鞠」(けまり/しゅうきく)はサッカーの起源だという説もあったが、蹴鞠のルールは6人か8人で決められた順番で、一定の高さで鞠を蹴り、落とさずに何回蹴り続けたかを競う競技で、平安時代の貴族も鎌倉時代の武士たちも江戸時代には一般庶民まで普及し、明治からは神社の行事となっている -
「高橋藍(たかはしらん)と大塚達宣(おおつかたつのり)」
パリオリンピックで覚えのある名前があったので調べると、大塚達宣は京都洛南高校で195cm、高橋藍は京都東山高校で188cm、1歳年上の大塚にはなかなか勝てなかったという、また高橋は中学時代は158cmだったらしいから、どうやったら伸びるか教えて欲しい -
(今出川通)
銀閣寺から等持院まで、平安京からは外れるが、現在の京都御苑の北側を通り、平安京時代にあった「今出川」という川の流れが、まるで「今出てきた」ように見えたことに由来 -
「小川小学校跡地」
小川小学校は明治2年(1869)、京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成7年(1995)、現在の新町小学校に統合され閉校し、跡地には2002年京都市小川特別養護老人ホーム、デイサービスセンター、地域包括支援センターが出来た -
「慶長天守堂跡」(けいちょうてんしゅどう)
(駒札より)此の付近に、慶長9年(1604)頃にヤソ会(イエズス会)の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行なわれた。付近には学校も設けられた。しかし慶長17年(1612)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、10年に足りない期間であった。 -
京の呉服屋さん「ヤマキ織物株式会社」
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京の印刷屋さん「幸栄社」
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「革堂図子」(こうどうずし)
この辺りはかつて「革堂」(行願寺)があった所で、秀吉の都市計画で移転した後、広大な寺域の使い道を地域の生活者が利便性を考えた末細い通りが生まれ、小川通と油小路通の間を走る貫通した通りになったもので、袋小路の路地ではない *「行願寺」(ぎょうがんじ)は、寺町荒神口からさらに寺町通の下御霊神社近くに移転している -
京の印刷屋さん「太田弘文堂」
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京の「鍾馗さん」(しょうき)
京の町を歩いていて「お地蔵さん」と並び、よく見かける「鍾馗さん」は、疫病や魔を払い火災除けとしての役割も担い、京を中心に関西に多いが、京都だけで3000体はあるらしい、起源をたどると、中国に伝わる道教の神「鐘馗」が、病に臥せていた唐の玄宗皇帝を夢の中で鬼から救ったということに由来しており、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て、剣を持ち大きな目で何かを睨みつけているのが特徴だが、京都では三条の薬屋が屋根に大きな鬼瓦を置いたら、悪禍が跳ね返り向いの奥さんが病に倒れたため、鬼より強い「鍾馗」さんを造り鬼瓦と対面して屋根に置いたら、たちどころに病が治ったということから、京都では魔除け・厄除けとして鍾馗さんが置かれるようになったという -
京のリボンやさん「宝本商事株式会社」
「リボン」屋さんという面白い名前の商売は、アパレル、ラッピング用リボンやマスクの組紐などを国内外で製造販売している会社で、1947年創業の3代目社長は世界中で人々の心を結び、「リボンが喜びを紡ぐ」という信念を持っている(HPより)ご立派! -
地域密着の「MUカルチャースクール」
子供向け英会話、音楽教室 -
西陣織元さん「京藝」(きょうげい)
明治24年創業の老舗西陣織物工芸 -
「一条通」
正面堀川通手前に「一条戻り橋」が見える *「一条通」は、烏丸通から嵯峨野・清凉寺まで -
「楽焼家元」(らくやきいえもと)
「楽焼」は、京都で450年続く「千家十職」のひとつ、茶道の家元である千家の茶碗を制作する茶碗師で、桃山時代の終わり頃、千利休(1522~91)が陶工の初代・樂吉左衛門に指示して茶碗を焼かせたのが始まり、名前の由来は、樂家が秀吉の「聚樂第」近くに居を構え、聚樂第に屋敷をもつ千利休により世に出されたことから「聚樂焼き茶碗」と呼ばれ、やがて「聚樂第」の一字を取って「樂」とされたといわれる *「千家十職」は、茶道に関わり「三千家」(表、裏、武者小路)に出入りする茶碗師や釜師、塗師、袋師、竹屋、指物師、柄杓師(ひしゃく)、鋳師(いもの)、大工、表具師の10の職家に限定されている -
樂家 「楽吉左衞門宅」
千家十職の一つ「楽家」は,千利休(1522~91)に認められた初代長次郎にはじまり、代々吉左衛門を名乗りこの地に住い、現在16代目 -
「楽美術館」
1978年樂家十四代吉左衞門により、桃山時代から今日まで450年にわたり引き継がれてきた歴代作品を中心に、茶道工芸美術品、関係古文書など樂家に伝わった作品を収蔵、展示する場所として開館 -
「樂家邸宅」
樂焼窯元の「樂家」邸宅は1855年再建され、ここに隣接して1978年「樂美術館」が建てられた -
「長曾我部はま子バレエ学園」
「長曾我部」という名前に惹かれたが、バレエ界でも有名らしい -
「西陣産業創造會舘」
残念ながら工事中で見えないが、この建物は大正10年(1921年)建立の「京都中央電話局西陣分局」、大正時代の天才的な建築家・岩元祿がわずか3点のみ残した内の現存する唯一の建物で、京都市有形文化財、国の重要文化財、2003年からNTT西日本とNPO法人が連携してスタートアップ企業を支援するためのビジネスインキュベーションセンターとして活用している -
京の竹材屋さん「横山竹材店」
大正8年(1919)創業で、「京の竹職人」が受け継いできた伝統の技で京銘竹や数寄屋茶席材など伝統的な竹材、和風建材・庭園用材・竹工芸品などを製造し、重要文化財・茶道家元・神社仏閣・宮内庁管轄施設・京都迎賓館の仕事も手がけている、また、竹工芸品販売の他に竹箸、竹カゴなどの体験教室も開催している -
「京の露地町家」(ろうじ)
この奥に5軒の町家がある、こういう京都らしい町並みでよく見かける「露地」(ろうじ)は、「条坊制」による碁盤の目の町並みでは、通りに面して店を構え、中央には空地ができるので、そこに入る小路をつくって家が建てられ、人々の生活の場所として定着していったが、老朽化や防災面などで多くの課題があり、京都のまちづくりの課題にもなっている -
ポルトガルタイルの店「アズレージョPICO」
新しい店もあって楽しい!「アズレージョ」はポルトガルの町でよく見かける装飾タイル -
カフェギャラリー「好文舎」
明治中期の町家をリノベーションした町家カフェ -
京の祭礼用具屋さん「牧神祭具店」
大正7年(1918)創業、親子三代で御社(おやしろ)や御輿(みこし)など神社における祭礼用具全般を手掛ける木工工房、金釘を使わずに木材同士を接合する「仕口」(しぐち)や、木材を自在に曲げて成型する「曲げ物」などの伝統的な木工技法を今に伝える -
2022年開店の新しいカフェ「Story」
本格エスプレッソコーヒーの店 -
京の美容室屋さん「SALONS 京都亀屋」
町家をリノベーションした美容室 -
(下長者町通)
行列の出来る中華屋さん「中国廣東料理 紫藤花」(しとうか)、「下長者町通」(しもちょうじゃまちどおり)は豪商の邸宅が多くあったという通りで、烏丸通から千本通まで -
京の和菓子屋さん「亀屋博永」
祇園の創業400年の老舗和菓子店・亀屋清水から、定年後に暖簾分けして開業し、 老夫婦で営業しており、わらび餅は注文を受けてから切り分ける本物のわらび餅 -
何屋さんか良く分からんかったが、賑やかな玄関!
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「霞会館京都支所」(かすみかいかん)
宗教法人ではなく、京都でしか見れない「旧華族の親睦団体」、本家は東京「霞が関ビル」内にある「霞会館」で、明治維新で東京へ行った公家たちが一部冷泉家など残った人もいたが、その後京都へ帰る人もいて、京都にも華族たちの社交場が必要になり明治7年設立された、全くご縁のない世界で知らなかったが、この際少し勉強すると、「華族制度」は明治2年(1869)から昭和22年(1947)まであった身分制度で、それまでの公家や大名を華族として優遇し、その代わり天皇を中心とする明治政府への忠誠を引き出すのが狙いで、同時に華族で構成した貴族院を創設した、「華族」は江戸時代からの岩倉家などの公家、徳川慶喜など身分の高い武士、伊東博文など国家に大きな貢献をした人たちで当時3000人ほどいて 「公、侯、伯、子、男」の5段階あり、世襲財産の保護、無選挙で貴族院参加、無条件で学習院入学の3つの特権があったが、戦後の日本国憲法で法の下の平等を定め廃止された -
町家ホテル「四季十楽」(Rinn Hotel Group)
古くて新しそうなホテルに惹かれて見ると、築100年以上の2階建て町家が、露地沿いに10棟10室あって、日本式風呂や庭園もあり町家の雰囲気が楽しめる外国人好みで2人で5万円くらい、我々がカッパドキアで洞窟ホテルに泊まったような興奮を味わえ、ヒルトンなどの高級ホテルに泊まるよりもはるかに思い出に残る、町家を比較的廉価な民宿に活用する事例も多いが、良質な町家は、ぜひこういう活用の仕方を進めて欲しい -
「Rinn Hotel Group」
2013年設立の地元企業「(株)レアル」は、京都市内で町家を居住用やゲストハウス・ホテル用に改築し販売、運営の受託で、好調なインバウンド需要を受けて京町家タイプの「鈴」、ホテルタイプの「Rinn」など78施設まで事業を拡大したが、コロナの業績悪化で倒産し、北海道の札幌国際観光のグループ会社・ミキコーポレーションの系列会社として2022年再スタート、ホテル19、町家35を引き続き運営する -
「京阪電鉄×レアルの共同事業」
「四季十楽」は2022年12月、京阪電鉄との共同事業としてオープンした町家ホテルで、10軒の京町家を改装し、京町家の歴史とホテルの快適さを兼ね備えた宿泊施設にした、「京阪電鉄」は、京町家の保全及び継承を推進し、京都の魅力や誇りを高めるまちづくりに取り組むことを一つの事業とし、「レアル」は、京町家を宿泊施設として蘇らせる手法のリーディングカンパニーとして京都市内でホテルタイプ20棟、町家タイプ42棟を分散型ホテルオペレーションとして確立している強みを発揮する -
和楽器の絃「鳥羽屋」
創業1655年、1849年から絃の製造を開始し150年以上の歴史を誇る、和楽器の絃(弦)の製造・販売会社で、琴、三味線、三線など、あらゆる和楽器の絃を造り、弾き心地に合わせて絃の細さや撚り具合を調整するなど細部までこだわった製造を行う -
「中信美術館」
「京都中央信用金庫」が有する絵画などの美術品等を中心とした展覧会を開催し、京都の芸術文化の振興と継承を目的に平成21年本格的な「中信美術館」を建設した、「京都中央信用金庫」は、これまでも戦前の古い銀行の五条・旧村井銀行、七条・旧不動貯金銀行の建物を保存活用した支店を立ち上げているのを見ているが、地元金融機関として京都の芸術文化の振興と継承を経営方針とし、京都市民として率先して歴史継承を詠っているのは素晴らしい! -
京都最古の豆腐屋さん「入山とうふ店」
文政12年(1829)創業で京都最古の豆腐店らしい、奇麗な地下水を使いお店の中のオクドさんで大豆を炊いた豆腐や油揚げは美味しくないわけがない -
京雛の「安藤人形店」(あんどうにんぎょうてん)
明治36年(1903)から100年以上続く人形店で、初代・安藤桂甫(けいほ)は「有職雛人形」(公家の装束を正しくこしらえた雛人形)を創作し、宝鏡寺を人形寺とした一人で、これを一子相伝で現在に受け継ぎ、京の雛人形の伝統を守りながら、新しい感覚の作品を生み出している *京雛は、頭師・織物師・小道具師・手足師・髪付師・着付師(人形師)などからなる分業制で作るが、安藤さんは一番最後の着付師 -
藤原頼道の邸宅「高陽院」跡
「高陽院」(かやのいん)は、平安時代の桓武天皇の皇子賀陽親王(かやしんのう794-871)の邸宅で、のちに敷地を倍に広げて藤原頼通(992-1074)の邸宅となり、宇治平等院に引退してからは里内裏(仮御所)として5代に亘り使われ、鎌倉時代初期には後鳥羽上皇が院政の拠点とし、1223年焼失のあとは再建されなかった -
12:40(丸太町通)
ランチはすき焼きで人気店の「丑屋よ平」にしようと思って行ったが、予定より遅れて12時前に入れなかったので満席で入れず、仕方なく近くを探すことに -
「チャーミングチャーハン」
手っ取り早く焼きめし屋さんのオムカレヤキメシにしたが、これが間違い!不味過ぎて途中で退散 -
和みの箱庭
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(二条通)
正面に「二条城」が見える、左は「ホテル・ミツイキョウト」 *「二条通」は、白河通から二条城まで、さらに広隆寺まで続く -
「ホテル・ミツイキョウト」
三井家の邸宅跡地にあった「京都国際ホテル」を藤田観光が閉店の後、三井不動産が2020年マリオットと提携して5つ星ホテルとして開業、三井家の1703年創建の「梶井宮門」(かじいみやもん)を入口にし、邸宅を再現した部屋もある *「梶井宮門」は、かつて三井総領家が所有した歴史ある門で、梶井宮御殿(現在の大原三千院)の門として造営されその後移設された *元々は福井藩邸があり、明治期に引き払われた後、三井の所有となり、昭和26年藤田観光が取得し、昭和36年京都国際ホテル開業 -
「ANAホテル」
隣接した「ANAホテル」も元は福井藩邸で三井家の邸宅跡地だが、平安時代は藤原基経(836-891、道長は966-1028)の邸宅「堀河院」で、この跡地に庭園の一部が復元されている、財閥解体の後、昭和38年「二条観光ホテル」を開業し、昭和61年「京都全日空ホテル」開業、そして2013年(平成25年)「ANAクラウンプラザホテル京都」になった -
13:00二度目のランチ
ホテル前にあった蕎麦屋「蕎麦たつ市」が美味しそうだったので、二度目のランチ -
蕎麦屋「蕎麦たつ市」
築100年の元呉服問屋の京町家をリノベーションし、2020年開業、全国から集めた蕎麦猪口を選べるのも楽しみ -
こだわりの「二・八蕎麦」1,180円を注文
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次回食べたい「蕎麦前セット」
江戸時代から庶民の食べ物として親しまれていた蕎麦は、注文が入ってから手打ちをするから時間がかかるので、蕎麦に使用する鴨肉や天ぷら、蕎麦出汁の効いた一品料理を肴にお酒を楽しみながら蕎麦が出てくるのを待つ文化が生まれた。これが「蕎麦前文化」と呼ばれ、蕎麦屋での粋なお酒の飲み方として通に親しまれています。 -
「公開空地」(こうかいくうち)
ANAホテルの押小路通側にあるちょっとした緑地は、 建築基準法に基づく「高さ」の許可条件として付けられたもので、敷地内に公開空地を設けると、容積率の制限や高さの制限が緩和されるという基準があるそうで、この緑地は公共の場所として使える -
(押小路通)
正面堀川通から二条城、「押小路通」(おしこうじどおり)は木屋町通から千本通まで、名前の由来は平安京の小路名としか分からない -
「タベルトマル二条城 okatte」
外国人観光客グループが一斉に出てきたので、見たら町家のゲストハウスに併設された食堂だった -
「京都堀川音楽高等学校」
京都市立の音楽科高校として昭和23年の創設、日本で唯一の音楽科単独の公立高校で、1学年40名、昭和45年京都市立芸術音楽大学分校、平成9年京都市立音楽高等学校として独立、ホリオンとして親しまれ有名人に藤田まこと、佐渡裕、葉加瀬太郎 -
「城巽自治会館」(じょうそんじちかいかん)
二条城の東南(巽:たつみ)に位置することからの命名 -
「大老土井利勝屋敷跡」(どいとしかつ1573-1644)
分かりにくいが、自治会館の中にある、この地は元「城巽(じょうそん)中学校」の敷地で、その前は江戸時代幕府の老中、大老土井大炊頭(おおいのかみ)利勝の屋敷があった、利勝は家康の信任あつく、2代将軍秀忠に仕え老中となり、3代将軍家光にも重用されて1638年大老となり、最後は下総国(しもふさのくに;茨城)藩主、老中としてたびたび上洛して朝廷との交渉にあたり、上洛の時ここを宿所とし、子孫も老中や京都所司代となり幕末までこの屋敷があった -
「洛陽照円寺」(らくようしょうえんじ)
散歩していると目に留まる「お寺の掲示板」はなかなか面白く、住職さんの人柄が良く分る 「お弁当 自分で作る 妻寝てる」
「お寺の掲示板大賞」というのもあるらしいから、興味深いので過去のものも調べると、「やめとくれ ただの寝坊で 脈とられ」「景色より トイレが気になる 観光地」「歩こう会 アルコール会と 聞き間違え」「この動悸 昔は恋で 今病気」「助手席の 妻は昔の 上司並み」「立ち上がり 用事忘れて また座る」「無農薬 こだわりながら 薬づけ」 -
(御池通)
平安京では「三条坊門小路」だが、江戸時代から二条城南側の「神泉苑」(しんせんえん)につながることから「御池通」(おいけどおり)と呼ばれ、戦後になって京都市内幹線道路として整備され地下鉄も走った -
京都栗菓匠「若菜屋」
昭和2年創業、丹波篠山出身の先代が栗を使った和菓子を考案、名物は「栗阿彌」(りつあみ)、栗きんとん、栗水ようかん、抹茶栗かのこ -
「京都絞り工芸館」
2001年開館の絞り染め専門の美術館、体験も出来る、「絞り染め」は麻や木綿に「藍」を用いた庶民的な絞りと、京都で生まれた絹地に絞りを施した「京鹿の子」があり、贅沢品として禁じられてから「友禅染」が台頭し姿を消した時期もあったが、現在まで着実に受け継がれている -
(姉小路通)(三条通)(六角通)を過ぎて「佛現寺」(ぶつげんじ)
京都のお寺もいろんな生き残り策を考えていて、こちらも「人生における「止まり木」のようなお寺でありたい」というコンセプトで、日本酒を楽しむ「てらのみ」や、親子で楽しむ「マルシェ」、「茶道教室」などイベント盛沢山 -
「池山株式会社」
無地染め染色業 -
「染匠勇奏・仁科印染工場」
「しるし染め」と言われる技法でオーダー「のれん」を製作 -
「BARBAR PRIDE・とこや山川」
大阪本社の先鋭的な床屋さんで、2022年京都町家で理容学校を開校(定員10人)し、美容師でなく理容師の育成を展開しているが、おじさんには理解不能 -
(蛸薬師通)を過ぎて「本能寺跡」(ほんのうじ)
1582年「本能寺の変」で、織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は、この地にあったが、豊臣秀吉が現在の寺町御池に再建した -
「本能寺跡地」
跡地は明治6年に本能小学校になったが、平成5年(1993)に児童減少のため廃校となり、現在は堀川高校本能学舎、介護施設、本能自治会館になっている -
「本能ノ辻子」(ほんのうのずし)
旧本能小学校の跡地に造った複数の施設の中を通り、油小路から小川通りまで出入りできる現代版の「辻子」(ずし)を造った *突抜けるのが「図子」(辻子)、袋小路になっているのが「路地」(ろうじ) -
「本能ノ辻子」にある駒札
応永22年(1415)、日隆(にちりゅう)上人が油小路高辻の地に「本応寺」を創立したが、後に破壊されたので、永享5年(1433)に六角大宮に寺地を移して「本能寺」と改称された。1547年ごろ焼失したが、現在の地に再興され広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所となったが、天正10年(1582)6月2日に信長を攻めた明智光秀の兵火にあい、一山の堂塔を失った。後に信孝が父信長の廟を建てたために、本能寺は再びこの地に復興を見ることになったが、豊臣秀吉の区画整理により、天正年間に東京極(今の寺町)の三条坊門(今の御池)南の地に移された。 -
「本能ギャラリー」
本能学区の地域コミュニティーを再生する拠点としてイベントや伝統工芸品などの展示に活用されている -
「本能校跡」
本能校は明治2年(1869)、下京第二番組小学校として現在地よりもやや南の空也町で開校し、明治5年に「本能小学校」と改称、明治6年に現在地に移転し、平成5年(1993)近隣の明倫小学校と統合されたため閉校となった、両側の石柱は小学校にあったもの -
「空也堂」(くうやどう)
空也を本尊とし、正式は「紫雲山光勝寺極楽院」、939年創建当初は三条櫛笥(くしげ)にあったので櫛笥道場と呼ばれたが、応仁の乱で焼亡し現在地に再建された、空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力し、橋を架けたり、道路や井戸を整備したり、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど尽力したので、市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた -
ゲストハウス「翔縁居」(しょうえんきょ)
2019年、築120年の町家をリノベーションして、1日1組限定の民宿「翔縁居」をオープンした、オーナーは台湾出身の林光中(50)さんで、プロ野球の阪神、中日で働き、日本在住25年、こういう町家の利用パターンも増えるかもしれない -
「野口家住宅」(のぐちけじゅうたく)
代々呉服商を営んできた商家で、元治元年(1864)の大火後に再建され、表の店舗棟と奥の居住棟を玄関棟で接続した「表屋造り」の形式となっている、初代は享保18年(1733)呉服商・両替商を創業、三代目に「野口」の名字と帯刀を許され一流の呉服商としての地位を確立し、明治から大正にかけて活躍した六代目が蒐集した桃山時代や江戸時代の小袖、裂(きれ)のコレクションが今に残りデザインの源となっており、七代目が新しい技術や意匠を取り入れて「小紋の野口」として名を馳せている -
野口家住宅「花洛庵」(からくあん)
内部の座敷は明治4年(1871)、伏見奉行・小堀遠州の屋敷を移築したもので、12畳半の主室と次の間から成る数寄屋風書院の構えで、釘隠し金物や天袋の引手金具などの意匠が秀逸で、京町家の典型例の一つとして貴重だが、残念ながら一般公開していない -
とり処季節料理「京富庵」(きょうとみあん)
京町家で掘りごたつもある座敷で、鍋会席が食べられる -
(四条通)
祇園から松尾大社まで、殆ど4車線の主要道路、川端通から烏丸通の繁華街は人通りが混雑して、2014年から車道を1車線に減らし、歩道を2倍に広げる対策をした結果、車両の数は4割ほど減少し、歩道は十分歩きやすくなったと高評価のようだが、インバウンド客が増えた現在、以前よりはマシになったが、バス停や乗り降りの混雑はまだまだ課題が残っている -
「思わずラッキーショット!」
外国人家族4人と隣の日本人1人のバランスが素晴らしい -
京の八百屋さん 「菜珠」(さいじゅ)
「日本一お洒落な八百屋」として、繁華街のど真ん中で頑張っている八百屋さん -
京の床屋さん「美髪館」
80年続く、京のレトロな床屋さん -
(綾小路通)コチラはモダンなヘアサロン「水の音色」
「綾小路通」(あやのこうじどおり)は寺町通から天神川通まで、東へ直進すると「杉本家住宅」があり、西へ行くと「壬生寺」がある -
「お地蔵さん」
京都でよく見かける「お地蔵さん」は町内に1つ以上あり、総計5,000体以上ともいわれているが、大きさはいろいろで殆どは小さな石仏が多く、場所も祠の中や、道端や民家、ビルの敷地、公園、小学校など様々で一つとして同じものはない、又よだれかけや化粧したり、花や水をお供えしたり常に地域の人で守られている様子が見れるが、お地蔵さんは全てが地蔵菩薩でなく、大日如来や釈迦如来の場合もある、いずれにしても京都では平安の昔から明治の廃仏毀釈も乗り越え、地域の人々の安全を守り、子どもの成長を見守っている地蔵信仰が広まり、地域のコミュニケーションの一つとなっている -
「秦家」(はたけ)
秦家は元禄13年(1700)創業の薬屋で、小児薬「奇応丸」(きおうがん)を製造・販売し、現在は営業してないが、明治初期には京都で1、2の薬屋さんだった、「奇応丸」と言えば「樋屋奇応丸」(ひやきおうがん)しか知らないが、そのルーツは鑑真が唐から持ち帰り、16世紀頃に日本各地で「奇応丸」という名前の薬が存在し、江戸時代には30銘柄もあったそうで、その中で「秦家」が出したのは「太子山奇応丸」で、「樋屋奇応丸」は大阪の樋屋製薬の初代が販売したもの、両者を調べると1700年と1622年だから大阪の方が早いが、京都では1700年から先代の12代目が亡くなる前の1984年まで「太子山奇応丸」だけだったらしい *ちなみに「樋屋奇応丸」は、明治30年(1897)樋屋合資会社、昭和18年(1943)樋屋製薬(株)、平成23年(2011)大幸薬品と販売提携、平成28年提携終了、直近の売上高は非公表だが3億円程 -
「秦家住宅」(はたけじゅうたく)
元禄13年(1700)創業の初代から生薬を調合する製法を代々一子相伝で受け継いできたが、幕末の動乱期、1864年禁門の変で消失し、明治2年(1869)に再建された「表屋造り」と呼ばれる京町家で、格子を付けた虫籠窓(むしこまど)のある大屋根に「奇應丸」の屋根看板と軒灯看板(のきとうかんばん)を掲げ、1階にも平格子、出格子、入り口の大戸と並んで貫禄のある看板を2つ架けた外観が、いかにも伝統的商家の趣を漂わせ印象的、「表屋造り」というのは、通りに面して建つ表棟から、玄関棟、住居棟、土蔵と続き、それらの建物を坪庭と座敷庭で繋げる形式で、家族と職人が寝食を共にし家業を行う職住一体の住居で、内部は残念ながら見れないが、多分この近くの「杉本家住宅」をもう少し小ぶりにしたカタチになっていると思われる *前日までに予約、1,000円、内部撮影禁止 -
「奇応丸」(きおうがん)
江戸時代からある「奇応丸」は、麝香(ジャコウ)、牛黄(ゴオウ)、龍脳(リュウノウ)、白朮(ジャクジュツ)、人参(ニンジン)、沈香(ジンコウ)などの生薬を調合し、これを小さく丸めて子供が飲みやすいように一粒ずつ丸剤にしたもので、虚弱体質、ひきつけ、嘔乳(おうと)、夜泣き等に効があるとされ、大人でも「イライラ」からくる「胃腸虚弱」や「食欲不振」などに効果がある -
「川端康成・古都の商家のモデル」
昭和36年(1961)、川端康成自身が秦家を取材で訪れたという *「古都」(こと)は、京都の老舗呉服商の一人娘として育った捨て子の娘が、生き別れになった双子の村娘と祇園祭の夜に偶然出逢い、同じ屋根の下で暮らせない双子の娘が、四季折々の美しい風景や京都の伝統を背景に、切なく可憐に描かれ、京都の名所や史蹟、年中行事が盛り込まれた人気作品で、ノーベル文学賞の授賞対象作にもなり、幾度も映画化、テレビドラマ化されている(主演は岩下志麻、山口百恵、沢口靖子など) -
「祇園祭・太子山」(たいしやま)
この辺りはいちばん西の端に位置している「山鉾町」で、「前祭」(さきまつり)の聖徳太子を本尊とする「太子山」(たいしやま)の会所となっており、7月14日には秦家の前に山が立ち、表に本尊の聖徳太子が祀られ、前掛け、胴掛け、見送りなどの懸想品が飾り付けられ、座敷にも絨毯や屏風、調度品、生け花などが飾られ、屏風祭りも行われる *「太子山」は、聖徳太子が四天王寺の建立にあたり木材を求めて京都を訪れ、如意輪観音からお告げを受けた地に六角堂を建てたという建立伝説に由来する -
和紙制作会社「和玄」(わげん)
2013年創業のオリジナル和紙制作会社、商業施設や公共施設、内装設計など和紙装飾品の企画・制作 -
「格致(かくち)地域交流館」
「格致小学校」跡地に、今年令和6年4月に「北総合支援学校」「格致地域交流館」「格致集いの広場」が創設された、「格致小学校」は明治2年番組小学校として開校、平成4年に近隣5校の統合で閉校し地域交流の拠点として活用されている *「格物到知」(物に格(いた)りて知を致す、物を格(ただ)して知に到る)に由来し、子供たちが立派な人物になってもらいたいという願いが込められている(説明版より) -
(高辻通)を過ぎて「延命地蔵尊」
説明版に、大正6年に壬生寺より石像を迎え延命地蔵尊(お地蔵さん)とした、とある *「高辻通」(たかつじどおり)は、鴨川から梅津街道までで、醒ヶ井通との交差点付近が洛中で一番高い所であったことに由来 -
京の染色屋さん「びん工房」
織物に色や柄をつける織物手加工染色業で、看板に手染め友禅とある -
「露地」奥にも会社
浴衣・着物レンタル店「てくてく京都」 -
「露地」(ろうじ)の風景
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(松原通)
清水寺から桂川手前まで、平安京の「五条大路」だったが、豊臣秀吉が「京の大仏殿」(方広寺)を建立し、五条の大橋を現在の地に移設した後、この通りに松並木があったことから「五条松原通」と呼ばれるようになり、後に「松原通」となった -
「京都市立下京雅(しもぎょうみやび)小学校」
2017年醒泉(せいせん)小学校と淳風(じゅんぷう)小学校が統合し開校、両校とも明治2年(1869)番組小学校として開校した -
「醒泉(せいせん)消防団」
「醒泉」は、名泉「佐女牛井」(さめうじい)の井戸がある醒ヶ井通(さめがい;油小路通の隣)に面したことに由来し、わび茶の創始者・村田珠光(じゅこう)が愛用したといわれ、以降武野紹鷗(じょうおう、千利休をはじめ多くの茶人たちが使った名水で、 「さめうじい」が「さめぐい」「さめがい」(醒ヶ井)に転訛した -
「運動会練習騒音のお知らせとお詫び」
地域に密着した様子が分かってほほえましい -
「金光教 平安教会」
立派な唐破風(からはふ)は、鞍馬通の「船岡温泉」を想起させる -
(万寿寺通)を過ぎて「備前焼ギャラリー」
「万寿寺通」(まんじゅじどおり)は、寺町通と河原町通の交差点から松原通と並行して桂川手前まで、通り名になった「万寿寺」は、白河上皇の里内裏を仏寺とした六条御堂に始まり盛況を誇ったが、その後衰退し現在は東福寺の境内へ移され、この通りには存在しない -
「山本亡羊読書室旧蹟」(やまもとぼうよう)
山本亡羊(1778-1859)は京都の「本草学者」で、薬草園を備えた読書室(学校)を開いて多くの門弟を養成した、この読書室は江戸時代後期に儒医である父封山(ほうさん)が、西本願寺の学問所を下賜されて開いたもので、禁門の変(1864)で焼失したが、その後も子孫が1903年まで経営し、跡地に自宅らしきものが残っており、この学塾の資料は現在「京都府立大学・歴彩館」で公開されているという -
「本草学者」(もくそう)
「本草学」は、中国の薬物学で、平安時代に日本に伝わり、江戸時代に全盛期を迎え、日本の風土や植生(しょくせい)に合致する実用的な学問へと発展した、平賀源内(1728-1780)もその一人 -
(五条通)
平安京の「六条坊門小路」だが、豊臣秀吉が、京の大仏殿(方広寺)参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を六条坊門小路に移設したため、この通りが「五条通」となり、元の五条大路は「松原通」になった、第二次世界大戦の建物疎開の跡に道幅50mの道路が整備され、現在では国道1号、8号、9号なども兼ねる主幹道路となって交通量も多い -
(楊梅通)を過ぎて、和菓子屋さん「橘屋」(たちばなや)
戦後間もない創業で、店先の看板にある「くりもち」「若鮎」は分かるが、「左女牛井(さめがい)」に注目! 近くの源氏の本拠地で、源頼義・義家・義経などが居を構えた六条堀川館にあった「左女牛井」の名水に因む栗の入ったどら焼き *「楊梅通」(ようばいどおり)は、東洞院通から堀川通までわずか750mで、一帯に楊梅(やまもも)の木があったことに由来、平安京では「楊梅小路」(やまももこうじ)、江戸時代には雪駄屋が多かったことから「雪駄屋町通」と呼ばれた -
(六条通)を過ぎて、扇子屋さん「遠藤新兵衛商店」
江戸時代・安永年間(1770~)の創業から八代続く、京扇子・御中啓(僧侶が使う扇子)の製造・販売で、明治以前は御所御用達、現在は西本願寺、知恩院、妙心寺、延暦寺、三井寺、三千院等の御用達 *「六条通」は、河原町通から堀川通まで、平安時代には里内裏や貴族の邸宅が建ち並んだが、江戸時代には魚市が移転し「魚棚通」(うおんたなどおり)とも呼ばれた -
株式会社「井筒企画」(いづつきかく)
宝永2年(1705)、十二単装束、束帯、舞楽衣裳、舞台衣裳や神社仏閣用衣裳、調度品の制作販売、、鴨川をどりの衣裳提供、牛車製作、お祭り・イベントなどで時代装束プロデュース・レンタル、近くの建物に様々な平安時代の生活の場面を1/4の縮尺で立体的に表現して日本の風俗・衣裳を実物展示する「風俗博物館」がある *太秦映画村の小道具など製作している「高津商会」は映画だけでなく「時代まつり」のプロジュースなどもやっており、京都にはこういう古くからあるユニークな会社が多い -
「名声寺」(みようしようじ)
西本願寺の塔頭と思われる浄土真宗本願寺派寺院、駒札もないので詳細不明 -
「名声寺会館・改修工事」
町家のリノベーション現場に出会った -
「顕道会館」(けんどうかいかん)
大正12年(1923)の建物で、現在「浄土真宗本願寺派京都教区教務所」として使われている、もともとこの地には松田甚左衛門(1837-1927)が開設した「顕道学校」という浄土真宗系の私設教育機関があり、その顕道学校を卒業した「同窓生たちの集会所」として、西本願寺から敷地の無償貸与を受け、この建物を造ったが、昭和12年(1937)西本願寺に寄贈され教務所となった、「京都モダン建築」の一つとされ、設計は大阪を中心に多数の鉄筋コンクリート造建築を残した近代日本建築史上の巨人「増田清」(1888-1977)で、1階正面ファザードの三連アーチの窓や、2階の幾何学模様の長方形縦長窓などは、アールデコとアールヌーヴォーが混在し、最上階は和風的にも見れて和洋折衷的雰囲気を持つ大正モダンな美しさの建物になっている、内部には仏壇と仏像も設置されているという、京都には町家だけでなく見るべきものが多い! -
「関西雑穀」(かんさいざっこく)
いかにも古そうな雑穀問屋さん -
「美好園」(びこうえん)
明治5年の創業から、本願寺御用達の御茶司を務めた宇治茶の老舗 -
京のやど「真心」 Shin jin
この辺りは町家民宿も多い -
「増田仏具」(ますだぶつぐ)
当然、古そうな仏具店も多い -
(正面通)山田安心堂(やまだあんしんどう)
宝永年間(1705年頃)創業の仏壇仏具店 *「正面通」(しょうめんどおり)は、秀吉を豊国大明神として祀られる「豊国神社」の正面から千本通まで、途中、渉成園、東本願寺、西本願寺で中断する、阿弥陀が峰から豊国廟、豊国神社、祥雲寺(息子鶴松を祀る)、方広寺大仏殿、西本願寺が一直線に並ぶが、これに対して家康は、豊国廟、豊国神社を壊滅、参道を塞ぐ新日吉神宮(いまひえじんぐう)、祥雲寺は智積院に、方広寺は妙法院に与え、間に東本願寺、渉成園を建てさせ分断した -
(正面通)「本願寺伝道院」
直進「油小路通」京都駅方面、手前左手「正面通」東本願寺方面、右手西本願寺方面 -
「本願寺伝道院」(ほんがんじでんどういん)
赤レンガが特徴的な建物は、明治45年(1912)本願寺を大株主とする真宗信徒生命保険株式会社の新社屋として建築され、大正10年(1921)東京移転で本社機能を停止、以後京都電燈、京福電気鉄道、関西電力などを経て、昭和33年(1958)本願寺布教研究所となり、1階には貧者向けの診療所が設けられ、昭和37年(1962)伝道院が開院、昭和48年(1973)から住職研修の場となり、平成2年(1990)から「本願寺伝道院」という名称になった -
「京都モダン建築」
京都モダン建築の中でも、西洋風とイスラム風と和風の東西文化が融合した、とびぬけてユニークな建物で、設計は東京帝国大学教授の「伊東忠太」の初期の代表作、インドのイスラム様式のタマネギ形ドームと、レンガ壁に花崗岩の白帯を廻らせた英国風の様式を基調とし、中国風の高欄(欄干)などアジア大陸の意匠を取り入れ、さらに柱や窓上の造形など随所に日本建築も入った和洋折衷で、施工は竹中工務店で、100年経った2011年に大改修工事が行われた -
「伊東忠太」(いとうちゅうた1867-1954)
明治から昭和期の建築家で、日本建築史の学問領域を確立し、西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した、作品には、京都だけでも平安神宮、豊国廟、祇園閣があり、他に橿原神宮、明治神宮、靖国神社、築地本願寺、湯島聖堂など錚々たる建物が並ぶ -
「ロイヤルマジック」
ネットでは良く見ているマジックショップだが、こんな所に発見! -
「龍谷ミュージアム」油小路側
龍谷大学創立1639年から370周年を記念して開館した仏教総合博物館で、仏教を中心とした貴重な歴史的文化財や学術資料を所蔵・公開している *「龍谷大学」は1639年に西本願寺に設けられた「学寮」にはじまり、現在の学生数20,000人(立命館35,000人、同志社30,000人、京都大学23,000人、龍谷20,000人) -
「龍谷ミュージアム」正面堀川通側
西本願寺正面に4,000本のセラミックルーバーで造った簾(のれん)が目立つ外観で、地下1階は吹き抜けエントランスホールで景石を配した中庭、1階はカフェ(前田珈琲)と公開講座などの各種イベント、2階はアジアの仏教を紹介する展示室とベゼクリク石窟寺院(10~13世紀のウイグル王国)の大回廊を復元展示、3階は日本の仏教を紹介する展示室とミュージアムシアター -
(北小路通)を過ぎて、レンタサイクル「風音」(ふうね)
京都は自転車が便利、1日24時間自転車1,000円、電動1,800円は有難い *「北小路通」(きたこうじどおり)は、新町通から佐井西通までで、平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)の中央を通り、平安前期は非常に繁栄した -
(七条通)「七条油小路の辻」(油小路事件跡)
新選組の「油小路事件」があった辻(交差点) *「七条通」は、東山七条から桂大橋までで山陰街道につながる、明治大正からは京都駅付近を中心に銀行の支店が軒を連ねる金融街だったところで、昔の華やかだった時代の名残りの近代洋風建築が並び、「三条通」と同様「七条通・近代建築群」と呼ばれ、「京都国立博物館」や「村井銀行」など多くの近代建築がある -
「村瀬本店」(むらせほんてん)
「七条通・近代建築群」に入っている建物で、昭和初期に最初から肉屋の建物として建てたという商店兼住宅建築の精肉店、1階の店舗と2階の住居部分がアンバランスな感じで、1階は煉瓦造り、2階と側面はタイル張り、1階の店舗部分は突き出していて2階のテラスのようになっており、2階の軒下の装飾がお洒落! -
「西川油店」(にしかわあぶらてん)
「油小路通」にやっと「油屋」さんを発見! 創業天保6年(1835)の油屋さん、創業当時は西本願寺などの灯明(とうみょう)や行灯(あんどん)、ランプの油など菜種油の製造販売をして、大正8年から卸と小売りのみになったが、京都にある数少ない油専門店、近松門左衛門の人形浄瑠璃「女殺脂地獄」で使われた道具は、ここの実物を参考にしたという -
「軒灯看板」(のきとうかんばん)と「鍾馗」(しょうき)
京町家の商家で良く見かける「軒灯看板」(外灯看板)と魔除けの「鍾馗」さんが際立つ、この辺りの町名は「油小路町」だが、実際この「油小路通」に油屋が多かったという確証はない -
「本光寺」(ほんこうじ)「伊藤甲子太郎他数名殉難の跡」
幕末にここの門前で新選組に暗殺された「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)と、近くの「油小路七条の辻」で起きた「油小路事件」で殺害された御陵衛士(ごりょうえじ・高台寺党)の位牌が安置されている -
「油小路事件」(あぶらのこうじじけん)
坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」1867.12.10から3日後の慶応3年1867.12.13、新選組を離脱した伊東甲子太郎が、薩摩藩と新選組近藤勇を暗殺しようと企んでいることがバレて暗殺され本光寺前で絶命した後、新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようと画策し、7名が殺害され、さらに4名の遺体は残党をおびき出すための囮として、数日の間放置されたという悲惨な事件、これにより新撰組は分裂して、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ突入する
*(日本近代史)1853ペリー来航、1858日米修好通商条約、1864.7.8池田屋事件(新選組襲撃)、1864.8.20禁門の変(長州征伐)、1866薩長同盟、1867.10.29坂本龍馬・船中八策建白書、11.9大政奉還、12.10近江屋事件(坂本龍馬暗殺)、1868.1.27(明治元年)鳥羽伏見の戦い、1869戊辰戦争(近藤勇処刑)、5.3江戸開城、10.23明治改元 -
「伊東甲子太郎絶命の跡」(1835-1867 いとうかしたろう)
「伊東甲子太郎」は、1864年新選組に入隊、北辰一刀流の使い手で、熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かったことを評価されすぐに参謀に就任したが、倒幕(勤王)を進める考えの伊藤は幕府側の新選組とは相いれず、1867年新選組を離脱、その後、孝明天皇の陵を守るための組織「御陵衛士」(ごりょうえじ)を結成し倒幕運動を進め、薩摩藩と共謀し新選組・近藤勇を暗殺しようと企んでいることを、新選組に悟られ暗殺された、享年33歳 -
(塩小路通)
東大路通から大宮通まで、七条通と東海道本線の間の通りで、現在の「渉成園」に再現されている光源氏のモデルと言われる源融(みなもとのとおる)が築いた六条河原院の庭園の「塩竈」(しおがま)に、尼崎から毎月海水を運んだ路である事に由来する、ただし、平安京では「八条坊門」と呼ばれ、当時の「塩小路」は一筋北側の「木津屋橋通」にあたり、ここも秀吉の都市改造で名前が入れ替わった事例、また江戸時代には「三哲通」(さんてつどおり)とも呼ばれており、塩小路大宮にある「龍岸寺」(りゅうがんじ)を開祖した僧侶・三哲(渋川春海)に由来する -
「道祖神社」(どうそじんじゃ)
平安時代の服装で手を取り合い、寄り添う男女の石像が特徴的な「道祖神」(どうそじん)は、辻や村の境目などにあり、外から入る悪霊を防ぎ、交通の安全を守る、祭神は旅の神である猿田彦命(さるたひこのみこと)と、芸能の神である天鈿女命(あまのうずめのみこと)の2柱を夫婦神として祀っているため、夫婦和合や良縁祈願の神様としても信仰されている -
「不動堂明王院」(ふどんどうみょうおういん)
隣の寺院には「誠」の字の入った白い提灯がぶら下がっているので、見ると「新選組まぼろしの屯所」と書いている、何やら、新選組が屯所を西本願寺から、「油小路事件」の起こった1867年にこの不動堂辺りに移ったという、6か月間ここにいてまた伏見奉行所へ移ったというので、あまり知られてないが新選組ゆかりの寺院になる、寺院は、823年に空海(弘法大師)が東寺を賜った時、東寺の鬼門にあたる地に不動明王像を井底に安置し、応仁の乱の兵火でも残ったという深い歴史をもつ *1863新選組結成・屯所八木邸、1864伊東甲子太郎加入、1865屯所西本願寺、1866薩長同盟、1867屯所不動堂、1868屯所伏見 -
カフェ「KURASU」
京都発祥のコーヒー店、今日も若者や外国人が多い -
「堀川通合流地点」
新幹線とJR京都線、山陰線・嵯峨野線、近鉄奈良線が交差する地点で、「堀川通」と合流する -
(八条通)
「八条通」を左手に行けば「京都駅」、右手は「東寺」、直進すると九条通~十条通~任天堂本社~城南宮~丹波橋通~京都外環状線まで約7km続く -
カフェ「チャオプレッソ京都駅店」
近鉄駅構内のイタリアンなエスプレッソ店 -
「舞妓はんカプチーノ」を注文
「油小路通」全16kmの内、中心部だけの6kmを歩いて、ここで完了
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