2024/06/05 - 2024/06/05
414位(同エリア1762件中)
Bachさん
平安京南北散歩の5回目は「千本通」の後半、朱雀大路を「羅城門」から延長して「鳥羽街道」(とばかいどう)と呼ばれた通りを南下して淀まで歩きます。
平安京からは外れたエリアという認識しかありませんでしたが、全くの不勉強で、日ごろ車でスルーしていたところにたくさんの遺構があって、平安京は京都市街地だけではないことを再認識した南北散歩でした。
「鳥羽街道」(とばかいどう)は、平安京造営と同時に作られた「鳥羽作道」(とばのつくりみち)が始まりで、淀川を経て瀬戸内海へ通じる平安京の外港としての機能を持った水路の要衝であり、また水郷が広がる風光明媚な場所で貴族達の狩猟や遊興の地であったことから、白河上皇から始まる「院政」が行われた広大な「鳥羽離宮」が拡がってからは「鳥羽西大路」とも呼ばれ、その後秀吉が伏見城築城の際、現在の鳥羽街道に整備し、大阪へ向かう大坂街道(京街道)ともつながる陸路でも重要な街道でした。さらに交通の要衝であったがために、日本史上最大の内戦であった「戊辰戦争」が勃発した地でもあり、平安時代から明治維新まで凄い歴史の詰まった街道で、最後には鳥羽離宮のあった巨椋池の跡地に出来た「淀競馬場」まで巡り、お陰で日本の歴史の流れを一気に整理出来た南北散歩でした。
*現在放映中の大河ドラマの「紫式部」(970-1030頃)は、藤原家絶頂期の時代で、「白河上皇」(1053-1129)が院政を始めたのは、藤原道長(966-1028)亡き後、藤原氏の政治介入も弱くなった1086年で、その翌年に「鳥羽離宮」が出来た
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平安京は羅城門までだが、平安京造営と同時にここから南下する「鳥羽作道」(とばのつくりみち)という街道が作られ、朱雀大路の延長線上約3kmの南端に平安京の外港としての機能を持つ「鳥羽」があった、また平安末期の12世紀から14世紀頃までは、代々の上皇による城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる「鳥羽殿」(とばどの)という院政の御所があったところで、武士が力をつけてきた平安末期に新たな離宮を造営することで、仕事が生まれ、人が集まり、天皇家への崇敬の念が高まり、政治や物流の中心地として発展していたが、今ではわずかな遺蹟や天皇陵が残るのみで、その栄華を見ることはできない
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(散歩ルート)10:30竹田駅(6番出口より徒歩~1.4km(20分))~11:00城南宮~京都離宮おだしとだしまき~0.6km20分11:30小枝橋~0.4km鳥羽伏見の戦勃発の地碑~0.5km鳥羽殿跡(鳥羽離宮公園)~0.2km赤池(千本赤池)~0.7km恋塚寺~0.5km増田徳兵衛商店(月の桂)~0.2km(2.5km)12:10(ランチ弁当)鳥羽の大石12:50~0.6km戊辰東軍戦士碑~0.2km鳥羽伏見戦跡~0.2km一念寺~0.5km藤田権十郎邸カフェ~草津みなと鯖街道案内板~0.2km柳谷道船乗場道標、魚市場跡~0.2km草津みなと残念石~2.6km戊辰役東軍戦死者埋骨地、妙教寺(淀古城跡)~0.2km戊辰役戦場址碑~0.1km納所村道路元標~0.1km唐人雁木旧跡~0.1km(7.5km)淀納所交差点~0.1km淀小橋旧跡~0.4km淀の水車の碑~淀競馬場~15:30淀駅
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「鳥羽街道」沿いにある「鳥羽離宮跡」は「鳥羽」エリアでは外せない史跡になるので、今回は平安末期の院政の舞台となった「鳥羽離宮」エリアに拡大して歩くことにした *「鳥羽」(とば)の語源は「湊」(はとば)の「は」が消えて「とば」になった、津(ツ)場(バ)が「トバ」となったなど言われる
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「安楽寿院」(あんらくじゅいん)
竹田駅から鳥羽街道方面を目指して400mほど歩くと今まで気が付かなかった寺院に辿り着く、この辺り一帯は平安末期(11~12世紀)に白河(1053-1129)・鳥羽(1103-1156)・後白河上皇(1127-1192)が三代にわたって「院政」を行った「鳥羽離宮」の跡地であり、「安楽寿院」は離宮内に数多く造営された御所や仏堂の内、唯一残されたもので、鳥羽上皇が建立したのが起源となる、鳥羽伏見の戦いでは官軍の本営となった -
「安楽寿院境内と鳥羽離宮跡」
山門の横に案内板があるが、「鳥羽離宮」の規模は日本史上空前の広大さで、総面積180万平方mというから平安京では東西・東京極大路から朱雀大路まで、南北・一条大路から六条大路までで、「大内裏」の100倍の広さというから、当時の「院政」の強大さが想像できるが、鴨川と桂川に挟まれた風光明媚なところに華麗な御堂が建ち並び、「さながら都遷りがごとし」と遷都が行われたように記されるほどの栄華を極め、「鳥羽の水閣」とも言われたという、「離宮」とは天皇が譲位して上皇になってからの住居であるが、現在残っている江戸時代の桂離宮や修学院離宮は王朝文化を実践して文化人の中心的存在であったのに対し、「鳥羽離宮」は上皇や法皇が朝廷よりも力の強い政治の実権を握った宮殿で、専制的政治が進むと次第に有力寺社や武士の権力が拡大し、武士世界になっていった -
「鳥羽離宮跡」(とばりきゅうあと)
「鳥羽離宮」(鳥羽殿)は、11世紀末に白河上皇により造営され、孫の鳥羽上皇の代にほぼ完成し、南北朝時代の14世紀頃まで代々使用された院御所で、東西は竹田駅から小枝橋まで1.5km、南北は名神高速ICから離宮公園まで1.0kmの広大な敷地に、南殿・北殿・馬場殿・泉殿・東殿・田中殿などの御所と、証金剛院・勝光明院・安楽寿院・成菩提院・金剛心院などの寺院があり、これらの周囲には「巨椋(おぐら)池」という広大な池があり、周辺の河川はこの池に注いでいて、池を中心とした大規模な庭園もあったが、 今は安楽寿院と、白河天皇、孫の鳥羽天皇、その子の近衛天皇の各天皇陵、城南宮、史跡公園の中に秋の山(築山)を残すのみ、巨椋池は1900年代に干拓され消滅している -
「近衞天皇・安楽寿院南陵」(このえてんのう あんらくじゅいんみなみのみささぎ)
東殿に白河上皇の墓所として建立された三重塔と、鳥羽上皇が建立された本御塔(ほんみとう)、新御塔(しんみとう)があり、本御塔は鳥羽上皇が埋葬され、新御塔は鳥羽天皇皇后の美福門院(びふくもんいん)の墓所に予定していたが、女院は高野山に葬るようにと遺言したため、息子の近衛天皇の遺骨が埋葬された -
「近衞天皇・安楽寿院南陵」
日本で唯一多宝塔が残る天皇陵で、現存のものは1606年豊臣秀頼の寄進により再建された、平安後期の第76代・近衛天皇(1139-1155)は、父・鳥羽天皇、母・藤原得子(美福門院)、1142年異母兄の崇徳天皇の後、3歳で即位し、父・鳥羽上皇が院政を行う -
「安楽寿院・阿弥陀堂」(薬師堂)
台風による倒壊後1959年再建、本尊の阿弥陀如来坐像を安置していたが、現在阿弥陀如来像は境内西側の収蔵庫に移されている -
「安楽寿院・太子堂」
1596年伏見の大地震で安楽寿院の新御塔が倒壊した際、その建物の材料を用いてとりあえず御仏を安置するために建てた、現在は弘法大師(空海)像を本尊としている -
「三如来石仏」(さんにょらいせきぶつ)
江戸時代に3面の三尊石仏が出土し、その内2面の「釈迦三尊像」と「薬師三尊像」があり、もう一つの「阿弥陀三尊像」は京都国立博物館に屋外展示されている、平安時代の作で切石、右に「釈迦三尊」の釈迦、弥陀(普賢菩薩)、薬師三尊、左に「薬師三尊」の薬師、日光、月光菩薩が彫られている -
「本坊(書院・庫裏)」
江戸時代後期の1795年、塔頭寺院の前松院(ぜんしょういん)を基に、書院と庫裡を一つの建物として造営、台風で倒壊して本尊の阿弥陀如来像を安置するために阿弥陀堂を1959年に建立したが、現在は戻っている -
「復元庭園」
各御所には庭園が備えられ、鳥羽離宮跡の調査で検出されているが、そこで取り出された庭園の景石を活用し、検出状況に近い形で庭園を復元しており、「景石の大半は高野川から採取され、和歌山県周辺から運ばれてきたと推定される和泉砂岩や緑色片岩も見受けられる」と書いてある -
「白河法皇 鳥羽法皇院政之地石碑」
「白河天皇」(1053-1129)は、1086年白河上皇となり(1096年に出家して法皇となる)、自分の子孫に皇位を継承させる目的で、8歳の子・善仁親王(堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を行い、翌年「鳥羽殿」を建立し、その後1107年、孫の鳥羽天皇、1123年、曾孫の崇徳天皇と3代にわたり43年間の強権的な執政を行い、「鳥羽天皇」(1103-1156)は、白河法皇の死後、崇徳、近衛、後白河の3代にわたり23年間院政を行った。その後は、「後白河天皇」(1127-1192)が1155年から二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の5代34年間にわたり院政を行ったが、この時住んでいたのは三十三間堂前の「法住寺」(ほうじゅうじ)で、寺内に上皇御所を造り1192年に崩御すると、その直後に源頼朝が鎌倉幕府を成立させ、武士による政治が明治維新が始まるまで約700年にわたり続く。 -
「冠石」(かむりいし)
鳥羽天皇が法皇となった際にこの地に冠を埋めた、あるいは鳥羽天皇が境内の園池や中島の整備を進める際、この石の上に冠を置き、これを中心に造営をしたなど様々な伝説がある -
「鳥羽天皇安楽寿院陵」(とばてんのう あんらくじゅいんのみささぎ)
「鳥羽上皇」は自らの墓所として本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔を建立し、1156年崩御すると遺言により火葬には付されず本御塔に葬られた、現在の建物は江戸時代に建立された法華堂で、鳥羽上皇自らの写経法華経が本御塔に納められている -
「鳥羽天皇陵」(とばてんのうのみささぎ)
「鳥羽天皇」(1103-1156)は、1107年5歳で即位し、祖父・白河法皇による院政が敷かれ、1129年白河法皇没後、院政を始め、1141年出家し法皇となり、崇徳天皇(在位:1123-1142)、近衛天皇(在位:1142-1155)、後白河天皇(在位:1155 -1158)の3代28年にわたり院政を行った -
「北向不動尊」(きたむきふどうそん)
平安時代の1130年、鳥羽上皇の勅願により建立され、かつて離宮内に建てられていたが、本尊不動明王が王城鎮護のため北向きに安置されたことから「北向不動尊」と呼ばれた -
「白河天皇成菩提院陵」(しらかわてんのう じょうぼだいいんのみささぎ)
「白河法皇」は自らの墓所として鳥羽離宮の泉殿内に三重塔を建立したが、現在は塔を失って四角形の方墳となっている -
「白河天皇陵」
「白河天皇」(1053-1129)は、1072年即位し、1086年自分の子・堀河天皇に譲位後、白河院として院政を行い、その後1107年、孫の鳥羽天皇、1123年、曾孫の崇徳天皇と3代にわたり43年間院政を行った -
「城南宮」(じょうなんぐう)
平安京遷都の際に、平安京の南にあることから都の安泰と国の守護を願い王城守護のため創建され、「鳥羽離宮」造営からは馬場殿の城南寺の鎮守社となり、その後鳥羽離宮が衰退すると、上鳥羽・下鳥羽・竹田村の産土神(うぶすながみ)として崇敬されるようになり、江戸時代には「城南離宮社」「方除けの城南宮」として親しまれ、幕末に「鳥羽・伏見の戦い」の主戦場となったが、近年では転居、旅行の厄除けから転じて交通安全の神として広く信仰され、毎年7月には自動車の茅の輪くぐりが行われる -
「真幡寸神社」(まはたきじんじゃ)
平安遷都以前から秦氏の氏神であったとされるが、明治になって「城南宮」が「真幡寸神社」と改められ、さらに昭和41年には元の「城南宮」に戻り、「真幡寸神社」は境内摂社として新たに社殿を設けたという経緯がある、「まはたき」は(旗がまはたく)からきており、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅、百済、高句麗「三韓征伐」の際に、船上に立てた旗に神功皇后と大国主神の神霊を添えて祀ったとされる -
「城南宮通」
城南宮一帯は鳥羽離宮の「馬場殿」で、「流鏑馬」(やぶさめ)発祥の地とされ、白河上皇が行った1096年から100年以上続けられ、長らく途絶えていたが2005年に復活され、現在は3年おきに催されており、この通りの石畳に砂を盛って作られた200mの馬場に置かれた60cm角の3つの的を射る(3つの的は天下泰平・五穀豊穣・国家安泰) -
「鳥羽伏見の戦い・錦の御旗」
1867年に始まった「鳥羽伏見の戦い」は、当初は軍勢に勝る幕府軍が優勢であったが、新政府軍が朝廷からのお墨付きである「錦の御旗」をひるがえすと、薩摩・長州の新政府軍は「官軍」、幕府軍は「賊軍」となり、どっちつかずの日和見だった周りの藩は雪崩を打って新政府軍に恭順し、新政府軍の士気は高まり、幕府軍は敗走した -
城南宮庭園「楽水苑」
「東の鳥居」から城南宮通を進むと、途中に神苑「楽水苑」の出口がある(入り口は城南鳥居側)、神苑は昭和の小堀遠州・中根金作の作庭で、紫式部の「源氏物語」に描かれた花や木々が100種類もあることから「源氏物語花の庭」と呼ばれている -
「城南宮境内」
「楽水苑」は5つの庭園からなり、本殿側から「春の山」「平安の庭」、途中で城南宮通を横断し、「室町の庭」「桃山の庭」「城南離宮の庭」を巡るコースで、各時代の日本庭園を楽しむことができる、特に「枝垂れ梅」の美しさは京都一番で城南宮の目玉 -
(2008.3.8撮影)「春の山」の枝垂れ梅
枝垂れ梅の他にも、椿、ツツジが美しい、中根金作は桜の名所は沢山あるが枝垂れ梅の名所は無いので、枝垂れ梅を城南宮の目玉にしようとしたという、白河上皇は「鳥羽離宮」を「源氏物語」に描かれた光源氏の大邸宅「六条院」をモデルにしたといわれ、六条院の四季の庭の「春の山」 に対する「秋の山」は「鳥羽離宮跡公園」内に残っている、「源氏物語」には 「春の御殿の庭は特別で、梅の香りが御簾の中の香の匂いと混じり合って、この世の極楽浄土」と書かれている、「六条院」は源融の河原院と言われ、その一部が「渉成園」 -
(2008.3.8撮影)「平安の庭」
平安時代の貴族の寝殿造りの邸宅から眺める「寝殿造りの庭園」を摸した池泉回遊式庭園で、池泉庭園の奥には曲水の流れが作られ、平安貴族の優雅な行事である「曲水の宴」(杯が自分の前に流れてくるまでに詩歌を作って詠み、盃の酒を飲んで次へ流す遊び)の再現が春と秋に行われる -
「城南離宮の庭」
中根金作が最晩年に作庭した庭で、城南宮一帯が最も華やかであった平安後期の離宮の景観を枯山水で表現している、その隣の「室町の庭」と「桃山の庭」は昭和30年前後に最初に作られた庭園で、「室町の庭」は茶室を配した複雑な曲線を持つ池を中心に蓬莱山や三尊石が組まれた池泉式庭園で、「桃山の庭」はソテツの木と刈り込みを中心とした芝生の枯山水庭園になっている -
「熊野詣 出立の地」
平安時代には、白河上皇や鳥羽上皇を始め歴代法皇・上皇・女院たちは熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を厚く信仰し、熊野御幸を何回も行い、上皇だけでなく貴族たちも熊野詣を行ったが、その際には「方違」(かたたがえ)という陰陽道で目的地の方角が悪いといったん別の方向に出かけ方角をたがえるために、城南離宮に7日ほど泊まって身を清めてから熊野へ向かい、旅の安全を祈願したという -
「芹川天満宮」(せりかわてんまんぐう)
平安後期1111年に菅原家の荘園・芹川荘があったという城南宮南の芹川の地に勧請し、学問や和歌の神様・菅原道真を祀る、鎌倉時代に禅宗の僧侶の間に起った菅原道真が宋に渡り禅を修めたという渡唐(ととう)天神の信仰から社号を「唐渡(からわたり)天満宮」とし、幕末には京都や伏見の人々が鳥居や多数の和歌を奉納した、近年1912年に氏子減少により城南宮に合併され境内摂社になる -
手水舎「菊水若水」
城南宮の「菊水若水」の水は霊験あらたかで、お百度を踏んで祈願して水を持ち帰る習慣が伝わり、伏見の名水10カ所にも選ばれている -
「城南宮鳥居」
赤い鳥居は中央に扁額がないシンプルなタイプだが、笠木が反り上がって派手さもある珍しいもので、笠木下島木の中央に城南宮の神紋の金具が打たれている、神紋は神功皇后旗印の「日・月・星」をデザイン化した「三光の紋」で、昼夜の隔てなくあまねく及ぶ城南宮の神徳を表すもの *「鳥居」は大きく、扁額がなく笠木と島木の下の貫(ぬき)が柱を突き抜けない「神明鳥居」と、貫が柱を突き抜けて笠木と島木の両端に反りがあり屋根を葺いている「明神鳥居」の二つに分類されるが、城南宮鳥居は両方を併せ持っている -
「京都離宮おだしとだしまき」
すぐ隣に最近2022年にオープンした出汁に特化した京都らしい店が出来ていたので、ランチの弁当を買って川原ででも食べることにする、店舗での食事も出来るが常に予約で満杯の人気店、調べると創業47年の和食料理店らしいが、上手にプロデュースしている -
築80年の古民家をリノベーションしており、庭園を見ながらの食事が出来る
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食事は待ち行列が出来ていたが弁当はすぐ買える、10種類以上のだしまき弁当があったが、だしまき鰻弁当1,490円をチョイス
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出汁パックや調味料などオシャレにパッケージ化した商品も数多く並ぶ
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店内の古民家らしい「欄間」、「彫刻欄間」か「透かし彫り欄間」か分からないが、「鳥羽離宮」を表現しているっポイ
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反対側の国道からの入り口
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国道側には昔からある水車の「美ね寅」、創業47年とあるから「京都離宮だしまき」のオーナーかと推測
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国道向かい側には創業50年のラーメン「横綱」 、1977年(昭和52年)創業で70店舗を展開するお気に入りのラーメン店で、同じく屋台から発祥の双璧をなす「天下一品」は1975年創業で220店舗
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その隣には創業400年の「おせき餅」
おせき餅は、私お気に入りの「赤福」に似た餅だが、賞味期限が当日だけのため土産にならないのが残念、白餅・よもぎ餅の上に餡をのせた素朴な餡餅で、江戸時代の鳥羽街道に、せき女(せきじょ)という娘が茶店を開き、旅人に餡餅を編み笠の裏に並べ供して「おせき餅」と呼ぶようになった、1868年の鳥羽・伏見の戦いで戦災に遭ったが、昭和7年(1932)京阪国道(国道1号)の開通によりこの地に店舗を移転した -
「小枝橋」(こえだばし)
平安京南北散歩「千本通」後半は、ここからスタート、鳥羽伏見の戦いが始まった「小枝橋」だが、昔の「小枝橋」はもう少し下流の城南宮道から鴨川に架かっていた橋で、1868年の「鳥羽伏見の戦い」の後、1955年(昭和30年)に架け替えられ、1988年に現在の小枝橋になっている、右手の羅城門から鳥羽街道を南下し、左手に進むと淀に至り、橋を直進すると高瀬川を越えて葛野大路通に突き当たる -
少し歩くと城南宮から続く参道の「城南宮通」
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「鳥羽伏見戦跡」(とばふしみせんせき)石碑
明治元年(1868)正月3日「鳥羽伏見の戦い」が勃発した「小枝橋」のあったところで、徳川慶喜大政奉還の後も幕府軍と新政府軍は対立し、鳥羽街道を大阪から京へ進軍する幕府軍と、城南宮に布陣していた新政府軍が、この「小枝橋」のたもとでにらみ合い、幕府軍が強行突破しようとすると新政府軍の薩摩藩が大砲を発射し、この砲声を合図に「鳥羽の戦い」が始まり、約2年にわたる戊辰戦争の火蓋が切られた -
「鳥羽伏見の戦い」顕彰碑
鳥羽離宮とは関係ないが、すぐ近くの「鳥羽離宮跡公園」に1912年(明治45年)に石碑が造られた、鳥羽殿の築山だった「秋の山」と言われる頂上付近から、薩摩軍の第一砲が小枝橋方面に向けて発せられたという -
「鳥羽離宮跡公園」(史跡 鳥羽殿跡)
1963(昭和38年)~1965年に「鳥羽離宮・南殿」跡の発掘調査が行われ、 公園北側にある土盛りは離宮の庭園に設けられた築山 の遺構である「秋ノ山」とされた、城南宮境内には中根金作により「春ノ山」が造られた -
「鳥羽伏見勃発の地・小枝橋」石碑
1998年(平成10年)、離宮跡「秋の山」に建造された、平安の昔の政争から生まれた「院政」の地から「明治維新」が生まれたのは興味深い (説明版より)「小枝橋は、慶応4年(1868)正月三日に 京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がア-ムストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍15,000人と新政府軍6,000人の激しい戦いが始まります。こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。 贈 京都伏見ライオンズクラブ 平成十年七月建立」 -
「鳥羽殿跡」石碑(とばどの)
鳥羽離宮で最初に造営された「南殿」の跡地で、「城南離宮」とも呼ばれる -
「鳥羽離宮南殿跡」(とばりきゅうみなみどの)
(駒札より)この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、11世紀の末、応徳3年(1086)に造営されたものを、昭和38年から42年にかけて調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は当時の庭園の築山にあたる。元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿等があった。それは淀川につながる大きな池沼の岸辺に配置されていたものである。北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。田中殿は遺跡がみつかっている。馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇が13世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。これらの御所に付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院と成善提院・不動堂があり、田中殿には金剛心院があった。南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中門廊・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。鳥羽離宮について記された文献は多いが「平家物語」巻3に見る「秋の山の春風に白波瀬に折懸 紫鴛白鴎逍遥す」この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。 -
「千本赤池」(せんぼんあかいけ)交差点
鳥羽伏見の戦勃発の地碑から約1kmの地点で、大阪から京を目指し鳥羽街道を北上する幕府軍が、この地で入京を拒まれ、城南宮西参道で大砲を据えて待ち構える薩摩軍と長時間対峙したが、「赤池」からは薩摩軍の大砲は「秋の山」に隠れて見えない状況にあり、幕府軍が強行突破の構えを見せた途端、薩摩軍の大砲が火を噴き「鳥羽の戦い」が始まった -
「赤池」(あかいけ)
平安時代の終わりごろにいた「文覚」(もんがく)という人物は元々は武士だったが、同僚の武士の妻と恋に落ちて、それは決して許されない恋だった。ある日文覚が「同僚の武士を殺すから、あなたは正式に私と結婚してくれ」と申し出ると、その恋人は「東より2つ目の寝室に主人は寝ているから、必ずや仕留めてください」と言った。しかし、いざ寝室に忍び込み斬った相手はその不倫相手で、文覚との間で悩んで自分が死ぬ道を選んだという、そして文覚は自分が斬ってしまった愛する女性の首を近くの池で洗ったところ、その池の水が血で真っ赤に染まってしまったことから、その池があった場所が「赤池」と呼ばれるようになった、実際は池が赤茶けていたのは鉄分が多い地層のためと言われる -
「鳥羽街道」(とばかいどう)
平安時代から都へ物資を運ぶ輸送路として重要な道路であった「鳥羽作道」(とばのつくりみち)は、最初は朱雀大路から真っ直ぐ延びていたが、鴨川と桂川が大きく変化することで次第に蛇行するようになり、豊臣秀吉は伏見城築城で巨椋池に堤を築くと同時に桂川左岸にも堤を築き、現在の「鳥羽街道」を造り、さらに伏見から大坂へ向かう「京街道」と合流するようにしたので、陸路と水路が交わる重要なルートとなった -
「愛宕詣の常夜灯型道標」
街道沿いには江戸時代から明治にかけて建てられた風情溢れる家屋や寺院が建ち並び、京の周りの街道に良く見られる「愛宕詣の常夜灯型道標」もあって、古の賑わいが垣間見れる、この常夜灯は文久3年(1863年)建造らしい -
「京都のお地蔵さん」
京都市内を歩いているととにかくお地蔵さんが多い、これは平安の時代に幼くして亡くなった童などの身代わりになるという地蔵菩薩を白河天皇が手厚く加護されたことから広まったといわれ、江戸初期に京都で空前の地蔵ブームが巻き起こり、旧街道の入り口にある地蔵尊を巡る「六地蔵巡り」から、各町内でも悪いものが入ってこないようにお地蔵さんを祀るようになり、これが近畿圏中心に広がったというから関東圏には少ない、又お地蔵さんに着物を着せたり、よだれかけや毛糸の帽子をかぶせたり、白塗りで赤い口紅のお化粧をしているものが多いのは、石仏を祀ることが多いので、石仏を地蔵に見立てるために始まったもので、子供や赤ちゃんが丈夫に育つようにという願いもこめて、毎年の地蔵盆でお色直しをするのも一つの恒例行事になっている -
「戀塚寺」(こいづかでら)
「赤池」の駒札に出てきた「文覚」(もんがく)上人の続編で、不倫相手を斬ってしまった後、出家して彼女の菩提を弔うために一宇を建立したのが起源 -
(駒札によると)平安時代の末期、北面の武士・遠藤盛遠(えんどうもりとう)が、渡辺佐衛尉 源渡(みなもとのわたる)の妻・袈裟御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して「文覚」(もんがく)と名乗り、彼女の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。境内には宝篋印塔があり、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝えられている。本寺の縁起物語は、古来より人倫の大道を教えるものとして、物語、詩歌、謡曲などで知られている。(古くは「源平盛衰記」、近代では、芥川龍之介の「袈裟と盛遠」、菊池寛「袈裟の良人」などがあり、映画「地獄門」は、本寺の物語を映画化したもの)
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「月の桂」(つきのかつら)増田徳兵衛商店
(HPより)江戸時代の延宝3年1675年創業、鳥羽伏見でも最古の酒蔵のひとつで、江戸時代後期には京から西国へ向かう公家の中宿も務め、「月の桂」の銘は、ご縁のあった公家・綾小路有長(あやのこうじありなが)が「かげ清き月の嘉都良(桂)の川水を夜々汲みて世々に栄えむ」と詠んだ歌に因む -
鳥羽伏見の戦で罹災したが再建し、明治以降は谷崎潤一郎や永井荷風、小津安二郎など名だたる作家や墨客に愛され、歴代当主もまた彼らとの交流を通して芸術文化全般に対する感性を磨き、蔵には酒器や古文書、浮世絵、交流の記録が多数残されているという、近年では1964年(昭和39年)、13代目が「どぶろく」を現代風に復活させた日本で初めての「スパークリングにごり酒」を発明したり、最近注目の低アルコール純米酒もいち早く手掛け国内外に出荷している
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この辺りは「西高瀬川」と合流し、もう少し下流で合流する「桂川」が並行する地点で、太古から洪水地帯でもあるが、今では緩やかなカーブを描く「鴨川」と、サイクリングロードも整備された河川敷に沿って、昔の「鳥羽街道」(千本通)が南下し、今にも江戸時代の町人や武士が現れそうな景観が素晴らしい
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「鳥羽の大石」
(案内板より)この石は、河原を公園化する「京の川」整備事業の際、龍門堰下流数百メートル付近の鴨川の水中から、郷土を愛する人達により引き上げられました。これは一体、何の石か。何時、何処から、誰が、何の為に運び、ここに何百年もの永きにわたり川底に眠っていたんだろう。一説によると、寛文2年(1662年)5月、京都を中心に大地震が発生し、二条城も大被害を受け、建物や石垣の修理を行った記述が古文書に残されています。当時、ここ下鳥羽三町付近の鴨川に「鳥羽の港」があり、京の都へ、人や物資が行き交う交通の要の港として栄えたと伝えられています。この石も二条城の城郭石材として使われる為に、瀬戸内の石切り場から水運で鳥羽の港へ、そしてこの地で陸揚げされ修羅などに乗せて陸路、二条城へ運ばれるものが、途中何らかの原因でこの川底に沈み、現在まで眠っていたと考えられます。二条城の石を調査したところ、城門の飾り石に使用されている物と、石質や寸法、くさび跡「矢穴痕」などが鳥羽の大石と大変良く似ていることが判明しました。その当時の残石だと言う説が有力です。 京の川 下鳥羽整備委員会 京都鳥羽ライオンズクラブ -
「二条城の残念石」
2019年に整備されているので江戸時代の石にしては真新しい感じがする、石の角はところどころに人工的な削り跡が見られるが、これは「矢穴」と言い、石を切り出す際に石の目に沿って楔(くさび)を打ち込むために穿った跡で、二条城の石を調査したところ、城門の飾り石に使用されている石と、石質・寸法・矢穴跡がこの鳥羽の大石と酷似しているという -
「田中神社御旅所」
天気が良すぎてランチを食べる所がなかなかないので、ここらで一休み
この通りを歩いていると御旅所が何か所かあるので調べてみると、「田中神社」は、平安後期に祇園社(八坂神社)から牛頭天王を勧請し、下鳥羽辺りに牛頭天王田中神社として創建されたが、1500年代天正年間の大洪水で上流から流れ着いて現在の地に再建され横大路の産土神となっている、理由は分からないが、勝ち馬の神様として競馬ファンに親しまれている -
「京都離宮おだしとだしまき」で買った「だし巻き鰻弁当」でランチ
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「法傳寺」(ほうでんじ)
聖武天皇が諸病平癒の為の勅願所としたところで、行基により726年開基された、「鳥羽伏見の戦い」で、1868年正月3日から5日にかけて激しい戦闘が繰り広げられ、この境内に死傷者を受け入れて野戦病院のようであったといわれ、その縁から東軍が使用した短銃や砲弾、太刀、槍の穂先、東軍戦死者名簿なども所蔵しており、境内には「戊辰東軍戦士の碑」が建立されている -
「戊辰東軍戦士の碑」
戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」の、東軍(幕府軍)戦死者を供養するため、明治30年(1897)の三十回忌に東軍慰霊祭が営まれた際に建立された、隣は昭和に建立された「支那事変大東亜戦戦没者之碑」 -
中央の高い塔は「精忠碑」明治43年4月建設とある(精忠は強い忠誠心)、左手に「戦死者埋骨東北悲願寺墓地」があり、戦死者は近くの墓地に埋葬されている
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「鳥羽伏見の戦跡」
200m進んだところにも石碑が、昭和51年建立と書いてある -
「一念寺」(いちねんじ)
飛鳥時代の僧・道昭が開創し、鎌倉時代に法然が後鳥羽院に四国讃岐へ配流された時この寺に立ち寄ったという縁があり、室町時代に真阿上人によって再興された、本尊の阿弥陀如来像は丈六224cmの巨像で「鳥羽の大仏」と呼ばれ、再興にあたり東大寺念仏堂から遷された、門前の鴨川畔は真阿上人の遺体が水葬されたところで「真阿ヶ淵(しんあがぶち)」と呼ばれ殺生禁断の地とされてきたという、境内には法然上人御乗船「船繋石」(ふねつなぎいし)があるが、内に入れず -
「権十郎カフェ」(ごんじゅうろうカフェ)
突然、豪華なお屋敷の「町家カフェ」が出現、「美味しいケーキと自家焙煎コーヒー」とあるので是非入りたかったが残念ながら本日定休日、どうしても入って見たかったので後日あらためて訪問した -
「藤田権十郎邸カフェ」(ふじだごんじゅうろうてい)
雰囲気のある町家カフェは、築150年、1876年(明治9年)建築の「藤田家住宅」をリノベーションした古民家で、1998年に伏見区最初の国登録有形文化財になり、2018年には京都市の「重要京町家」に指定され、つい最近の2022年12月オープン
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「藤田権十郎邸跡」
「藤田権十郎家」は、江戸時代中期に本家「藤田四郎右エ門家」から分家し、この地域・横大路村の庄屋を務め、運送業と米問屋を生業(なりわい)とし、この辺りは大阪と京都を結ぶ水運の拠点「草津湊」(くさつみなと)があったので、藤田家の商売も栄えていたという -
藤田家がこの家に住んだのは第13代当主の1990年代後半までで、それ以降は人に貸していたが2010年代からほぼ空き家状態が続き、何とかこの町家を残したいと大規模修繕も行い、活用を模索中に亡くなった父の遺志を受け継いだ32歳の15代目の熱意もあって、2022年やっと借り手が見つかった、それは栃木に本社のある企業で、大手コンビニやスタバなどに冷凍スイーツを製造している会社らしく、新たにカフェ事業を展開するためにこの町家を見つけたらしい(京都新聞より)、町屋の活用が進むのは大賛成だが、地元外の資本が入ってくる事例が多く、しかも大型ホテルや民泊などは外国資本ばかりで、少し不平不満があるが、致し方ないか、、、
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玄関を入ると、町家の土間がそのまま残り、天井には大きな梁(はり)、左手に厨房とカウンター席、右手が靴を脱いで上がるお座敷にテーブル席、正面には自家焙煎が売りの焙煎器とコーヒー豆袋が並んで本格的カフェをアピールしている
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ディスプレーにもなっているお洒落な焙煎器に興味があったので、どこの海外製か調べたら、何と国産品で、しかもすぐ近くの京都伏見にある焙煎器専門メーカー「ダイイチデンシ株式会社」年商6億円の企業であることが分かり拍手! 「ダイイチデンシ」は元々自動制御盤製作のメーカーで半分はロボット、コンベアなどのFA関連が占め、ドイツ製焙煎機のメンテナンス・改造を請け負ってから2012年国産の「直火式焙煎器」を開発した、焙煎機の種類には、焙煎釜の加熱方法で直火式・半熱風式・熱風式があり、熱風式がノーマルだが、「直火式」は高温で焙煎するのでしっかりとした風味と香りが出る半面、焦げたり煎りムラが出やすいから難しい、これを操作しやすくしたのが「NOVO MARKⅡ」という焙煎器で50gから1kgの焙煎が出来て300万円~
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床の間や書院もそのまま残り、畳敷きに低めのテーブル席が30席くらいあって落ち着くが、当日も昼前に行ったら予約で埋まっており、わずかに1席だけしか空いていないほど賑わっている
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透かし彫りの「欄間」も古民家らしい雰囲気を残す
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庭園もそのままだが、もう少しバージョンアップしてくれたら、もっと良い
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主屋の裏には中庭と土蔵があり、豪華なお屋敷の雰囲気を醸し出す
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古民家の雰囲気は抜群だが、肝心の「美味しいケーキと自家焙煎コーヒー」が本物かが問題、コーヒーは土間にあった焙煎器で深煎りの豆をオーダーごとに焙煎し、香りも味も私好みで合格、ケーキも看板メニューのりんごタルト、モンブラン、シフォンケーキなどどれも美味しそうだったが、それも納得、親会社はスタバやコンビニの冷凍ケーキを作っているから当然で、フルーツカレーやパスタ、サンドイッチなどモーニングやランチセットも充実しており、また来たいと思わせる
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本日の注文は、ブレンドコーヒー550円とプリン440円、おまけのケーキ試食付、コーヒーはしっかり表面に泡「クレマ」が覆っていて美味しい、毎日自宅でエスプレッソを淹れて飲んでいる自称コーヒー党としては、コーヒーの美味しさは「クレマ」にありと思っており、「クレマ」が香りを閉じ込め、珈琲の油分やフレーバーが集まり、苦いけど美味しいコーヒーになる、これはコーヒー豆の炭素が焙煎で分離され、酸素に触れて二酸化炭素になりガスとして放出されて泡になっているもので、鮮度が高い焙煎したての豆を使い、高い圧力をかけて抽出するエスプレッソにすると炭酸ガスが逃げずに良質な「クレマ」が出来る、ドリップコーヒーでも出るが殆どフィルターで泡が吸収され 、通り抜けてコーヒー液に混ざるとえぐみや渋みなどが出てしまうので難しい
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「草津湊」(くさつみなと)
「鴨川」と「桂川」が合流する地点の「羽束師橋」(はづかしばし)辺りには、ここから上流は鴨川が浅くなり舟が上げられなかったために出来たと考えられる河川港の「草津湊」があり、明治10年京都神戸間の鉄道開通までは、大阪より百石舟が出入りして大阪・和歌山・四国から生魚・米・雑穀・材木などが陸揚げされ京の都へ運ばれた、また古来より菅原道真が九州太宰府に流された時や、藤原道長が宇治の別荘に出かけた時、崇徳上皇が讃岐国に流された時や高倉上皇が厳島神社参拝した時、平家一門が福原遷都で移った時、法然上人が讃岐国に流された時などは、ここから乗船したと考えられ、御伽草子の一寸法師もお椀の船でここに着いて京の都に上ったという話もある -
「草津みなと 鱧(はも)海道」由来
(案内板より)昔ここ横大路の桂川左岸一帯に 大いに栄えた草津湊(みなと)がありました。平安建都以来 京の都から浪速方面をつなぐ一番近い港として 旅人や米・薪炭など百貨の輸送に利用されました。中でも魚市場は 豊臣秀吉の時代から 明治10年神戸・京都間に鉄道が開通するまで 約300年の間たいへん賑わい海の魚を積んだ大型の曳き舟が瀬戸内・四国・和歌山方面から連日数十隻 夜を徹して淀川・桂川をさかのぼってきたと記録されています。荷揚げされた魚は 陸路を走って京の都に届けられました。魚や野菜の初ものを「走り」と呼ぶ語源だと伝えられています。海から40kmも離れたところに位置する魚市場は当時世界でも他に例を見ないと言えましょう 。中央市場のルーツとなった大きな存在でした。「魚市場遺跡」碑は横大路草津町の羽束師橋下流50mにあり当時の賑わいや移転のいきさつを詳しく記しています。夏でも 生きたまま運ばれた鱧(はも)は 京の料理を代表する魚として珍重されました。私たちは このルートを「鱧(はも)海道」と呼ぶことにしました。2010年(平成22年)5月16日横大路桂川 草津みなとフェスティバル実行委員会
「鱧海道」は、若狭からの「鯖(さば)街道」が生命力が弱い鯖を塩漬けして運んだのに対し、鱧は強いので夏場でも生きたまま京都まで運び、京都人が祇園祭時期に鱧料理を楽しめた重要な水路であった -
「京奈和サイクリングロード」
「羽束師橋」(はづかしばし)の東詰堤防上はサイクリングロードが整備され、「嵐山渡月橋まで13.9km」の道標がある *「羽束師橋」(はづかしばし)という珍しい地名は、この辺りが良質の泥土が採取されたため、土器や瓦の製作の職業集団が住み「泥部」(はつかしべ)と呼ばれたのが「はづかし」と読み代わり、それに漢字が当てられ「羽束師」となったと言われる -
「京奈和自転車道」
京都嵐山から奈良を経て和歌山港までを結ぶ、全長180kmのサイクリングルートで、三府県で連携して整備を行っている、「びわいち」と呼ばれる琵琶湖一周の自転車道200kmに匹敵する -
「柳谷道船乗場の道標」(やなぎだにみちふねのりば)
川側に「舟のり」、北側に「やなぎ谷」とある、舟乗り場で降りてから「柳谷観音」方面への道標(ココから約10km) -
「魚市場跡魚魂碑」(うおいちばあと ぎょこんひ)
江戸時代から明治10年まで約300年にわたり魚市場があったことを伝える石碑で、草津湊(くさつみなと)には江戸幕府の命により公設魚市場が開かれ、多くの問屋が軒を連ね、荷揚げされた生鮮魚介類はここから鳥羽街道を北上し、御所への献上品や京の人々に届けられた、明治10年の鉄道開通後、魚市場は1888年に京都駅付近に移転したが、大正8年(1919)に魚市場があったことを示す記念碑が建設され、その後台風で倒壊したが、昭和60年(1985)に京都水産物小売工業組合の有志により再建された -
「魚市場遺蹟魚魂碑」由来
(案内版より)草津の港(現在の横大路)には桃山時代から多くの鮮魚問屋が軒を連ね、また、江戸時代には幕府から公設の魚市場の建設を命じられるなど水上交通の拠点として大いに栄え、現在の京都中央卸売市場のルートと言われている。当寺は、淀川の三十石船は常に200~300隻が出入りし、瀬戸内などからの引き船が夜を徹して淀川を上がり、卸されたばかりの鮮魚などを「走り」という問屋の仲士が威勢のよい掛け声をかけながら、京都をはじめ近畿各地に運んだとされている。明治十年、京都~神戸間に鉄道が開通されるに至り、物資の集積地は京都駅にと移り、隆盛を誇っていた「草津の港」は徐々に廃れていき、現在の農村地区へと姿を変えていった。大正八年、当時の水産関係者が往時の繁栄を後世に伝えるため石碑を建立したが、昭和九年の室戸台風、また、その後に起きた南海道地震で石碑が割れそのまま放置されてきた。石碑建立から半世紀以上たった昭和58年、当時京都水産物商業協同組合が中心となり、市場水産関係者等から寄付金を集め、昭和61年6月に二代目の石碑を再建した。再建後は「魚魂碑顕彰会」の組織を発足させ、以後今日に至るまで毎年4月の第一日曜日には、京都の水産関係者の方々を招き、盛大に魚魂碑魚供養の式典を行っている。 魚市場遺蹟魚魂碑顕彰会 会長 岡本勲 -
「草津みなと残念石」
上流の「鳥羽の大石」と同様、江戸前期の1662年寛文京都地震(震度7以上)で二条条の石垣が崩れ、修繕のために各地から大石が運ばれた際、何らかの理由で桂川に沈んでいた7つの大石が2015年に引き上げられた *「残念石」は、お城の石垣になれなかった石のことで、「落ちる」というのは縁起が悪いとして回収されなかったもの、全国各地にあり、大阪城になれなかった木津川加茂、大山崎淀川河川公園、小豆島、江戸城になれなかった伊豆などある、又、2025関西万博で木津川の残念石をトイレの柱に使う計画が物議を醸したのは記憶に新しいが、結局使うことになって、終わったら又元に戻すらしい -
「伏見鳥羽(富ノ森)戦跡」(とみのもり)
1868年会津藩領地とある、「富ノ森」は幕府軍の会津の陣地だった所で、1868年鳥羽の戦いで新政府軍の錦の御旗から幕府軍は追い込まれ、赤池から「富ノ森」まで後退したが、この辺りで伏兵をひそませ反撃して一時は陣地を取り返した、が再び新政府軍に押され納所(のうそ)から淀城まで撤退した、隣の「包丁ハサミ研ぎます」「大山流空手」の看板との対比が微妙! -
「戊辰役東軍戦死者埋骨地」(愛宕茶屋碑)
この地に愛宕神社から分祀された祠の傍に愛宕茶屋があったが、鳥羽・伏見の戦いの際「富の森の戦い」と呼ばれる激しい戦闘が繰り広げられ、35名が戦死したと言われ、ここに墓碑が建てられた -
「妙教寺」(みょうきょうじ)淀古城跡
1626年戦国時代からあった「淀古城」の一角を、淀の初代城主松平定綱から寄進を受け、淀城の守りとした創建された寺院で、18世紀初頭に伽藍を焼失したが1840年再建した、1868年「鳥羽伏見の戦い」で、幕府軍が陣地の富ノ森まで押し込まれた際には、妙教寺本堂内陣にも砲弾が飛び込み、本堂の壁や柱を砲弾が貫通し、その砲弾が保存されている -
「戊辰之役東軍戦死者招魂碑」
内には入れないが、鳥羽伏見の戦いの東軍戦死者招魂碑(慰霊碑)がある、明治40年(1907)に徳川家康の命日である4月17日に、徳川家恩顧者の会が東軍戦死者40祭典を挙行し、3基の招魂碑と「埋骨地」と刻んだ12基の碑の合計15基を建立した内の一つで、慰霊碑は全て幕府側であったことに納得 -
「淀古城址・戊辰役砲弾貫通跡」
鐘楼の手前に淀古城と砲弾貫通の石碑がある、「淀古城」は、室町時代「応仁の乱」の頃山城守護のために城築され、「本能寺の変」の頃に明智光秀が改修し秀吉との「山崎の戦い」でも利用され、秀吉の天下となってから1589年、豊臣秀吉の弟秀長が改修し、秀吉が側室茶々に出産のために与え、これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになったが、生まれた鶴松は三歳で病死したため、1594年廃城とし、資材の多くは「伏見城」建築に使用され、さらに1623年現在の「淀城」築城に流用された -
「五番ノ橋」(ごばんのはし)
明治45年(1912)納所(のうそ)川に架けられた石橋で、川は淀古城の堀跡といわれ桂川に流れる、意味ありげな橋名は、この辺りに残っている地名の一番町から九番町という名前に関係し、江戸時代の「朝鮮通信使」(後述の唐人雁木)のための番役(ばんやく:交代警護)の割り振りという -
「戊辰役戦場跡」(ぼしんのえきせんじょうあと)
細い路地を入った「納所会館」内にあるので、なかなか見つけにくい -
「戊辰役戦場跡」
この石標は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の堤防上にあったものを移したもので、「是南従石清水八幡宮一里」「是北従城南離宮一里」の道案内もある、「鳥羽伏見の戦い」は小枝橋付近から次第に納所方面に主戦場を移し、幕府軍の陣地となったこの辺は、新政府軍の総攻撃に応戦して多数の戦死者を出し、幕府軍は納所から敗走していった -
「納所会館」(のうそかいかん)
「さす棹も 及ばずなれば ゆく水に 任せて下す かつら川船」、自然に任せて漂う人生訓で、なかなかの秀作 -
「納所村道路元標」(のうそむらどうろげんぴょう)
(案内板より)かつてこの辺りは、京都と大阪とをつなぐ重要な港であり、付近は「淀津」(津は港)と呼ばれた。「納所」(のうそ)の地名の由来は、皇室に納める穀類の重要な倉庫があったためで、荷揚げで港はにぎわっていた。この地は軍事的にも重要な地であった。そのため、戦国時代から城が築かれ、近世の淀城と区別するため、「淀古城」と呼ばれている。秀吉による伏見城の構築に際しての築堤工事により、巨椋池・宇治川などの流路や街道が整備された。結果、宇治川は納所と淀の間を流れ、桂川へ合流した。また納所には、桂川沿いに続く「大坂街道」と、宇治川の流路跡の「伏見街道」も通り、水陸の分岐点となっていたといえる。宇治川には「淀小橋」が架けられ、朝鮮通信使の上陸地にもなり、近くには桟橋や雁木(がんぎ;上陸用の階段)も設置され、陸路で京都へ向かった。明治時代以降、納所を取り巻く水系が大きく変化し、木津川付け替えに続き、明治時代中期には宇治川も現流路へ変わって行った。 京都市 -
「唐人雁木旧趾」(とうじんがんぎ)
「唐人」とは江戸時代将軍の代替わりや慶事に際して朝鮮王から祝賀のため派遣された「朝鮮通信使」という外交使節団、「雁木」とは船着場のことで、通信使は対馬から瀬戸内海を経て大坂へ着き、大坂から船に乗りかえ淀川をのぼり淀城下で上陸し、休憩または宿泊後、京都へ出発し、さらに東海道を江戸へ向かった、この石標は「唐人雁木」の跡を示す、初めて聞く「朝鮮通信使」とは、朝鮮国からの通信使を国を挙げて歓迎することにより、国民に幕府の権威を強く印象づけるとともに、貿易による物資の交流や朝鮮の進んだ学問や文化を吸収するメリットもあった -
「納所交差点」で「千本通」は終了し、「大坂街道」(京街道)と合流する、「大坂街道」は、昭和8年(1933)に旧京阪国道(京都府道・大阪府道13号京都守口線)になり、京阪国道(国道1号)は枚方バイパスとして昭和41年(1966)に完成している
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「淀小橋旧趾」(よどこばし)
大坂街道を横断して左手に入った住宅地に真新しい石碑がある、1990年建立(駒札より)淀小橋はかつてここを流れていた宇治川に架けられた橋で、紀伊郡納所村と淀の城下町を結んでいた。京都・伏見と大坂を結ぶ街道にあった重要な橋である。慶應4年(1868)正月4日に鳥羽伏見の戦いが始まった。当時の淀藩主であった稲葉正邦は、板倉勝静らと共に幕府の重職にあり、淀城は幕府方の重要拠点だった。ただし藩主正邦は淀におらず、城の留守は家老の田辺権田夫が守っていた。5日、富ノ森・千両松の戦いで官軍に敗れた幕府軍は、態勢を立て直すべく淀城へ入ろうとしたが、権田夫は官軍方の働きかけを受け、幕府軍の入城を拒んだという。そのため幕府軍は、淀小橋・淀大橋を焼き落としたうえで、さらに南の橋本(八幡市)まで退却した。このあと、淀城は官軍に対して開城する。幕府軍にとって淀城を失った打撃は大きく、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決めた要因の一つとも言われている。淀小橋はすぐに再建されたが、淀川改良工事の一環として、明治36年(1903)に宇治川が付け替えられる、現在の流路へ変わると。この地に橋は不要となり撤去された。 -
「淀の水車」の碑
直進すると京阪電車淀駅の前に大きな水車が見えてくる、この水車は戦国時代にはすでに淀城北側の桂川・宇治川の合流地点と、その下流の庭園近くに大小2つ(直径14mと11m)の水車が設置され農業灌漑用などに使われており、江戸時代に淀城が出来てからも規模を大きくして、淀城に水を汲み入れ庭園などに使われ、淀城の象徴として昔から知られていたもので、淀駅の高架化を機に2016年直径4mのモニュメントが完成した -
「淀競馬場」
今では淀の代名詞は「京都競馬場」で、昨年2023年、開設100周年(2025年)記念事業の一環でリニューアルオープンしてから初めての訪問、京都競馬場の歴史は明治40年(1907)現在リサーチパークのある辺りに「島原競馬場」開設、一時丹波に移転し、大正14年(1925)巨椋池の排水路跡や葭島(よしじま)沼地であった現在の地に移転した -
「京都競馬場」は、中央競馬10のうち、東京、中山、阪神と並ぶ4大競馬場で、収容人数は東京競馬場(府中)19万人、中山競馬場(船橋)17万人に次ぎ14万人(阪神9万人、中京7万人) 、6月23日「宝塚記念」を夢見ながら帰路につく
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二条・烏丸・河原町
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夏の京都「川床料理」と「みたらし祭」で暑気払い
2024/07/26~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩(8月)平安京南北散歩「麩屋町通」
2024/08/24~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩(9月)平安京南北散歩「高倉小路」
2024/09/12~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩(9月)京の夏の終わり旅「祇園閣」と「長楽館」
2024/09/19~
東山・祇園・北白川
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月一京町散歩(10月)平安京南北散歩「油小路」(油小路通)
2024/10/11~
今出川・北大路・北野
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月一京町散歩(11月)平安京南北散歩「小川通」と「天使突抜通」(東中筋通)
2024/11/03~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩(11月)紅葉の嵐山を人力車散歩
2024/11/20~
嵐山・嵯峨野・太秦・桂
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月一京町散歩(12月~1月)平安京南北散歩「御前通」で紅葉と初詣
2024/12/05~
今出川・北大路・北野
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新年蛇年の京都「初詣」と初庭園「對龍山荘」に初喰いの「わらじや」
2025/01/16~
東山・祇園・北白川
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「京の冬の旅」特別公開・「西来院」と「祇園甲部歌舞練場」の庭園
2025/02/13~
東山・祇園・北白川
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旅行記グループ 月一平安京散歩
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