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平安京南北散歩の6回目は「新町通」です。7月の京都は「祇園祭」一色になり、中でも「新町通」は隣の「室町通」と共に山鉾町の殆どが集まる通りで、祭の準備も始まり、これからまさに熱くならんとする時期です。<br />現在の「新町通」は、上賀茂の玄以通(げんいどおり)から京都駅を挟んで十条通まで、さらに南下して久世橋通まで続きますが、平安京では一条通から九条通辺りまで「町小路」とか「町尻小路」と呼ばれ、秀吉になって「新町通」と呼ばれるようになり、明治になって南北に延伸されたようです。<br />今回は全コース18kmの内、今出川から九条までの8kmを歩きますが、京都御苑東側の一条通を過ぎた辺りからは「京都守護職上屋敷」があった所で、跡地には京都府庁があり、二条から三条、四条と南下すると、様々な職人が集まって「座」が開かれ商工業の中心地となった歴史があり、中でも京呉服などの卸問屋が多かったこの通りには、紅殻格子(べんがらごうし)や虫籠窓(むしこまど)など伝統的な佇まいを残す京町家が多く残り、普段は気づかないようなところでも、この時期だけは「祇園祭」の「山鉾町」として祭を盛り上げ存在感を示します。そして「山鉾町」を過ぎて東本願寺を通り抜けると一気に近代建築の京都駅ビルに到着し、京都の南北通りを歩くと、平安時代から現代まで、1日で駆け巡ることが出来ます。

月一京町散歩(7月)平安京南北散歩「新町通」

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2024/07/03 - 2024/07/03

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Bachさん

平安京南北散歩の6回目は「新町通」です。7月の京都は「祇園祭」一色になり、中でも「新町通」は隣の「室町通」と共に山鉾町の殆どが集まる通りで、祭の準備も始まり、これからまさに熱くならんとする時期です。
現在の「新町通」は、上賀茂の玄以通(げんいどおり)から京都駅を挟んで十条通まで、さらに南下して久世橋通まで続きますが、平安京では一条通から九条通辺りまで「町小路」とか「町尻小路」と呼ばれ、秀吉になって「新町通」と呼ばれるようになり、明治になって南北に延伸されたようです。
今回は全コース18kmの内、今出川から九条までの8kmを歩きますが、京都御苑東側の一条通を過ぎた辺りからは「京都守護職上屋敷」があった所で、跡地には京都府庁があり、二条から三条、四条と南下すると、様々な職人が集まって「座」が開かれ商工業の中心地となった歴史があり、中でも京呉服などの卸問屋が多かったこの通りには、紅殻格子(べんがらごうし)や虫籠窓(むしこまど)など伝統的な佇まいを残す京町家が多く残り、普段は気づかないようなところでも、この時期だけは「祇園祭」の「山鉾町」として祭を盛り上げ存在感を示します。そして「山鉾町」を過ぎて東本願寺を通り抜けると一気に近代建築の京都駅ビルに到着し、京都の南北通りを歩くと、平安時代から現代まで、1日で駆け巡ることが出来ます。

  • 平安京の「町尻小路」(又は町小路)は、平安京造営の際、宮中の修理を司る職人である「修理職」(しゅりしき)を中心に南北に延びる町が構成され、北を「町口」、南を「町尻」と称したことから、町通りは「町尻小路」と呼ばれ、宮中出入りの職人の他、公家の邸宅や役人の宿舎なども集まった。特に京呉服などの卸問屋が並び、この通りと隣の「室町通」には豪商も多く、町衆たちの自治組織「町組」(ちょうぐみ)を中心とした「山鉾町」が集中し、四条室町は「鉾の辻」、四条新町は「札の辻」と呼ばれた

    平安京の「町尻小路」(又は町小路)は、平安京造営の際、宮中の修理を司る職人である「修理職」(しゅりしき)を中心に南北に延びる町が構成され、北を「町口」、南を「町尻」と称したことから、町通りは「町尻小路」と呼ばれ、宮中出入りの職人の他、公家の邸宅や役人の宿舎なども集まった。特に京呉服などの卸問屋が並び、この通りと隣の「室町通」には豪商も多く、町衆たちの自治組織「町組」(ちょうぐみ)を中心とした「山鉾町」が集中し、四条室町は「鉾の辻」、四条新町は「札の辻」と呼ばれた

  • (散歩ルート)10:00今出川駅0.5km10分~持明院仙洞御所跡~上立売通~同志社大新町キャンパス~0.3km三時知恩寺門跡~(今出川通)~0.4km霊光殿天満宮~0.2kmカトリック西陣聖ヨゼフ教会~(一条通)~0.4km澤井醤油本店~0.4km(2.0km)京都府警本部・文化庁・京都府庁旧本館・京都守護職屋敷址~(下立売通)~京都第二赤十字病院~(丸太町通)~(二条通)~(押小路通)~(御池通)~(姉小路通)1.7km高松神明神社~旧平井産業~0.1km松下装束店~(三条通)~八幡山会所~0.1km川崎家住宅・秀吉旅宿跡~(六角通)~0.1km三井両替店旧址~京都逓信病院(新町病院)~北観音山会所~三井ガーデンホテル京都新町別館~無名舎(吉田家住宅)~藤井紋~(蛸薬師通)~0.1km茶屋四郎次郎屋敷跡~百足屋本店(くろちく百千足館)~南観音山会所~田中源太郎邸跡(ホテルインターゲート)~(錦小路通)~(2.0km)13:00ランチ「京都四条くおん」~0.1km放下鉾会所~(四条通)~郭巨山会所・平岡旗製造~大船鉾会所~池坊短期大学~(綾小路通)~0.3km杉本家住宅・伯牙山会所~0.2km船鉾会所~長江家住宅~(仏光寺通)~(喫茶)「THETERMINALKYOTO」~0.2km岩戸山会所~(高辻通)~(松原通)~0.2km松原道祖神社~(五条通)~0.5km白山湯六条店~(花屋町通)~東本願寺~(七条通)~塩小路通~0.8km京都中央郵便局~京都駅~0.7km都ホテル京都八条~0.2km大正湯~0.4km(4.0km)九条新町16:00~0.3km地下鉄九条駅 (8.0km)<br />

    (散歩ルート)10:00今出川駅0.5km10分~持明院仙洞御所跡~上立売通~同志社大新町キャンパス~0.3km三時知恩寺門跡~(今出川通)~0.4km霊光殿天満宮~0.2kmカトリック西陣聖ヨゼフ教会~(一条通)~0.4km澤井醤油本店~0.4km(2.0km)京都府警本部・文化庁・京都府庁旧本館・京都守護職屋敷址~(下立売通)~京都第二赤十字病院~(丸太町通)~(二条通)~(押小路通)~(御池通)~(姉小路通)1.7km高松神明神社~旧平井産業~0.1km松下装束店~(三条通)~八幡山会所~0.1km川崎家住宅・秀吉旅宿跡~(六角通)~0.1km三井両替店旧址~京都逓信病院(新町病院)~北観音山会所~三井ガーデンホテル京都新町別館~無名舎(吉田家住宅)~藤井紋~(蛸薬師通)~0.1km茶屋四郎次郎屋敷跡~百足屋本店(くろちく百千足館)~南観音山会所~田中源太郎邸跡(ホテルインターゲート)~(錦小路通)~(2.0km)13:00ランチ「京都四条くおん」~0.1km放下鉾会所~(四条通)~郭巨山会所・平岡旗製造~大船鉾会所~池坊短期大学~(綾小路通)~0.3km杉本家住宅・伯牙山会所~0.2km船鉾会所~長江家住宅~(仏光寺通)~(喫茶)「THETERMINALKYOTO」~0.2km岩戸山会所~(高辻通)~(松原通)~0.2km松原道祖神社~(五条通)~0.5km白山湯六条店~(花屋町通)~東本願寺~(七条通)~塩小路通~0.8km京都中央郵便局~京都駅~0.7km都ホテル京都八条~0.2km大正湯~0.4km(4.0km)九条新町16:00~0.3km地下鉄九条駅 (8.0km)

  • 10:00地下鉄今出川駅スタート

    10:00地下鉄今出川駅スタート

  • 「持明院仙洞御所跡」(じみょういんせんとうごしょあと)<br />「持明院」は平安末期の公家・藤原基頼(ふじわらのもとより)が邸内に建てた「安楽光院」(あんらくこういん)という持仏堂が、後に改称され、持明院家の祖になったことに始まる、その後鎌倉時代に孫の基家の娘・陳子(のぶこ;北白河院)が後高倉上皇(1179~1223)の妃になり、後堀河上皇(1212~1234)の母親になると、後の後嵯峨天皇(1220-1272)、後深草天皇(1243-1304)に至るまで御所になり院政を行なったので、「持明院仙洞御所」と呼ばれるようになり、ここを御所とした系統を「持明院統」と称し後の「北朝」となって、後醍醐天皇以降の「南朝」の大覚寺統と皇位を争うことになったという、「南北朝時代」(1336-1392)の拠点になる重要な場所<br /><br />

    「持明院仙洞御所跡」(じみょういんせんとうごしょあと)
    「持明院」は平安末期の公家・藤原基頼(ふじわらのもとより)が邸内に建てた「安楽光院」(あんらくこういん)という持仏堂が、後に改称され、持明院家の祖になったことに始まる、その後鎌倉時代に孫の基家の娘・陳子(のぶこ;北白河院)が後高倉上皇(1179~1223)の妃になり、後堀河上皇(1212~1234)の母親になると、後の後嵯峨天皇(1220-1272)、後深草天皇(1243-1304)に至るまで御所になり院政を行なったので、「持明院仙洞御所」と呼ばれるようになり、ここを御所とした系統を「持明院統」と称し後の「北朝」となって、後醍醐天皇以降の「南朝」の大覚寺統と皇位を争うことになったという、「南北朝時代」(1336-1392)の拠点になる重要な場所

  • 山門の横に鳥居があり、奥に「本堂」「書院」「毘沙門堂」「庫裏」があるが、通常非公開、現在の「本堂」は昭和42年改築で、唐破風付の入母屋造りの内部には梅や菊、ハスなどの花々が80面に描かれた華麗な「花天井」(昭和43年山中次郎氏寄進)があり、京都御苑の旧桂宮御殿の一部を移築した「書院」には、樹齢五百年と伝わる五葉の松を配した枯山水庭園があるので、次の機会にぜひ訪問したい

    山門の横に鳥居があり、奥に「本堂」「書院」「毘沙門堂」「庫裏」があるが、通常非公開、現在の「本堂」は昭和42年改築で、唐破風付の入母屋造りの内部には梅や菊、ハスなどの花々が80面に描かれた華麗な「花天井」(昭和43年山中次郎氏寄進)があり、京都御苑の旧桂宮御殿の一部を移築した「書院」には、樹齢五百年と伝わる五葉の松を配した枯山水庭園があるので、次の機会にぜひ訪問したい

  • 「光照院門跡」(こうしょういんもんぜき)<br />「安楽光院」は、平安から室町時代にかけて栄えていたが、1475年文明の大火で荒廃し、1477年応仁の乱後、後伏見天皇の皇女進子(ますこ)内親王が室町一条にあった「光照院」をこの地に移し、以後代々皇女の尼門跡「光照院門跡」となり、江戸時代の1788年天明の大火から復興してからは「常盤御所」(ときわごしょ)と呼ばれた、また、山門には「恵聖院」(えしょういん)とも書かれており、境内にはもう一つ浄土宗の寺院があるという、これは昭和36年に大慈院(現在宝鏡寺に合併)の末寺であった「恵聖院」が移転して塔頭となったもので、現在は「光照寺」本堂を「恵聖院」の本堂と兼ねて、本堂には中央に「光照寺」の本尊・釈迦如来立像、右に「恵聖院」の本尊・阿弥陀如来坐像(恵心僧都作)、左に開山・自本覚公の像が安置されるという珍しいカタチになっているという

    「光照院門跡」(こうしょういんもんぜき)
    「安楽光院」は、平安から室町時代にかけて栄えていたが、1475年文明の大火で荒廃し、1477年応仁の乱後、後伏見天皇の皇女進子(ますこ)内親王が室町一条にあった「光照院」をこの地に移し、以後代々皇女の尼門跡「光照院門跡」となり、江戸時代の1788年天明の大火から復興してからは「常盤御所」(ときわごしょ)と呼ばれた、また、山門には「恵聖院」(えしょういん)とも書かれており、境内にはもう一つ浄土宗の寺院があるという、これは昭和36年に大慈院(現在宝鏡寺に合併)の末寺であった「恵聖院」が移転して塔頭となったもので、現在は「光照寺」本堂を「恵聖院」の本堂と兼ねて、本堂には中央に「光照寺」の本尊・釈迦如来立像、右に「恵聖院」の本尊・阿弥陀如来坐像(恵心僧都作)、左に開山・自本覚公の像が安置されるという珍しいカタチになっているという

  • 「常磐会館」(ときわかいかん)<br />山門正面の建物は、昭和天皇の即位大典時の大嘗宮朝集所(だいじょうきゅうちょうしゅうじょ)の一部を移築したもので、内部は真紅の絨毯が敷かれ格天井が備えられた大きな広間があり気品に満ちているというが、屋根や外壁など外部を見ると劣化が進んでいるようで、ここに限らずどこのお寺でも歴史を保存していくご苦労が伺われ、御多分に漏れずここも広い境内を駐車場にしている<br /><br />

    「常磐会館」(ときわかいかん)
    山門正面の建物は、昭和天皇の即位大典時の大嘗宮朝集所(だいじょうきゅうちょうしゅうじょ)の一部を移築したもので、内部は真紅の絨毯が敷かれ格天井が備えられた大きな広間があり気品に満ちているというが、屋根や外壁など外部を見ると劣化が進んでいるようで、ここに限らずどこのお寺でも歴史を保存していくご苦労が伺われ、御多分に漏れずここも広い境内を駐車場にしている

  • 「新町通」を8km北方に進むと、寺之内通、上御霊前通、鞍馬口通、紫明通、北大路通、北山通、玄以通を経て上賀茂橋に至る

    「新町通」を8km北方に進むと、寺之内通、上御霊前通、鞍馬口通、紫明通、北大路通、北山通、玄以通を経て上賀茂橋に至る

  • 「新町通」を南方に進むと、上立売通の同志社大新町キャンパスに突き当たり筋違いになっているが、これは寺之内通から下立売通までは、第2次世界大戦で強制疎開により道路拡張が行われたためだという

    「新町通」を南方に進むと、上立売通の同志社大新町キャンパスに突き当たり筋違いになっているが、これは寺之内通から下立売通までは、第2次世界大戦で強制疎開により道路拡張が行われたためだという

  • 「新町通」は、上立売通を同志社大新町キャンパスに沿って左折し、右折する、まっ直ぐ進むと相国寺に突き当たる

    「新町通」は、上立売通を同志社大新町キャンパスに沿って左折し、右折する、まっ直ぐ進むと相国寺に突き当たる

  • 「三時知恩寺門跡」(さんじちおんじもんぜき)<br />南北朝時代(1336-1392)、北朝4代後光厳天皇の皇女見子(けんし)内親王が、北朝3代崇光天皇の御所「入江殿」を賜って、開山に室町時代3代将軍足利義満の娘の覚窓性仙禅尼(がくそうせいざんぜんに)を迎え創建され、「入江御所」とも呼ばれ、以後皇女が相次ぎ入寺して尼門跡寺院となり、1日6回の勤行を行う六時勤行(ろくじごんぎょう)の昼間の3回をこの寺で行うようになったことにより、後柏原天皇の代(1464-1526)に三時知恩寺と称されるようになった

    「三時知恩寺門跡」(さんじちおんじもんぜき)
    南北朝時代(1336-1392)、北朝4代後光厳天皇の皇女見子(けんし)内親王が、北朝3代崇光天皇の御所「入江殿」を賜って、開山に室町時代3代将軍足利義満の娘の覚窓性仙禅尼(がくそうせいざんぜんに)を迎え創建され、「入江御所」とも呼ばれ、以後皇女が相次ぎ入寺して尼門跡寺院となり、1日6回の勤行を行う六時勤行(ろくじごんぎょう)の昼間の3回をこの寺で行うようになったことにより、後柏原天皇の代(1464-1526)に三時知恩寺と称されるようになった

  • 「同志社大新町キャンパス」<br />江戸幕末まで近衛家があり、1959年に旧日本電池本社跡地に設置された *日本電池株式会社は、2004年湯浅と合併しジーエス・ユアサコーポレーションとなった

    「同志社大新町キャンパス」
    江戸幕末まで近衛家があり、1959年に旧日本電池本社跡地に設置された *日本電池株式会社は、2004年湯浅と合併しジーエス・ユアサコーポレーションとなった

  • 「今出川通」を過ぎて、創業60余年の庶民的っぽい「渡辺つけもの」

    「今出川通」を過ぎて、創業60余年の庶民的っぽい「渡辺つけもの」

  • 「霊光殿天満宮」(れいこうでんてんまんぐう)<br />平安時代の1018年菅原道真六世の孫の菅原定義が後一条天皇の勅命により、かつて道真の領地であったとされる河内国若江郡に神殿を建てたのが始まりで、その後、道真が九州左遷の時に天から一条の光が差し込み、天一神と帝釈天が降臨して「菅公、汝に罪はあらず、、、」とのお告げがあったと伝承されている当地に移され「霊光殿」と称するようになり、徳川家康が深く崇敬し、戦国時代の1570年に天下太平の祈願をし、絶えていた若江家の再興に尽力したことから、1636年家光が仙洞御所の家康像を当社に合祀し、ご祭神は「菅原道真」公と「徳川家康」公という珍しい天満宮になっている *「村社」となっているが、明治4年の「郷社定則」制定で「一郷で多く信奉されている神社を郷社とし、次に一村で信奉されている神社を村社、村社に至らない神社を無格社と定めた」とある、現在の社殿はこの時近衛家の鎮守社を移築したからと推測

    「霊光殿天満宮」(れいこうでんてんまんぐう)
    平安時代の1018年菅原道真六世の孫の菅原定義が後一条天皇の勅命により、かつて道真の領地であったとされる河内国若江郡に神殿を建てたのが始まりで、その後、道真が九州左遷の時に天から一条の光が差し込み、天一神と帝釈天が降臨して「菅公、汝に罪はあらず、、、」とのお告げがあったと伝承されている当地に移され「霊光殿」と称するようになり、徳川家康が深く崇敬し、戦国時代の1570年に天下太平の祈願をし、絶えていた若江家の再興に尽力したことから、1636年家光が仙洞御所の家康像を当社に合祀し、ご祭神は「菅原道真」公と「徳川家康」公という珍しい天満宮になっている *「村社」となっているが、明治4年の「郷社定則」制定で「一郷で多く信奉されている神社を郷社とし、次に一村で信奉されている神社を村社、村社に至らない神社を無格社と定めた」とある、現在の社殿はこの時近衛家の鎮守社を移築したからと推測

  • 扁額「天下無敵必勝利運」<br />鳥居に掲げられている扁額は、第91代後宇多天皇(1267-1324)より下賜された御宸筆(自筆)を書き写したものだそうで、鎌倉時代の元寇・蒙古襲来(1274&1281)の時に、後宇多天皇が夷賊退治(いぞくたいじ)の祈祷を行うと「神風」が吹き、元の船が沈んだことから頂戴したという

    扁額「天下無敵必勝利運」
    鳥居に掲げられている扁額は、第91代後宇多天皇(1267-1324)より下賜された御宸筆(自筆)を書き写したものだそうで、鎌倉時代の元寇・蒙古襲来(1274&1281)の時に、後宇多天皇が夷賊退治(いぞくたいじ)の祈祷を行うと「神風」が吹き、元の船が沈んだことから頂戴したという

  • 境内の正面に「拝殿」<br />

    境内の正面に「拝殿」

  • 拝殿の後ろに「本殿」<br />菅原道真公:学問の神、雷神と、徳川家康公:出世の神、天下太平

    拝殿の後ろに「本殿」
    菅原道真公:学問の神、雷神と、徳川家康公:出世の神、天下太平

  • 天満宮のご神体の牛さんと末社の「五所稲荷大明神」

    天満宮のご神体の牛さんと末社の「五所稲荷大明神」

  • 「霊光殿菅公千年祭記念碑」<br />明治35年(1902)菅原道真公の千年忌にあたり記念祭を実行した際に、神主が「富岡鉄斎」に相談し、千年祭に尽力した信徒の名を石碑に彫って残したという

    「霊光殿菅公千年祭記念碑」
    明治35年(1902)菅原道真公の千年忌にあたり記念祭を実行した際に、神主が「富岡鉄斎」に相談し、千年祭に尽力した信徒の名を石碑に彫って残したという

  • 武者小路通と交差するあたりから少し屈曲しているが、右折すると茶道家元・武者小路千家「官休庵」(かんきゅうあん)がある<br />

    武者小路通と交差するあたりから少し屈曲しているが、右折すると茶道家元・武者小路千家「官休庵」(かんきゅうあん)がある

  • 「カトリック西陣聖ヨゼフ教会」<br />明治40年(1907)京都で河原町聖フランシスコザビエル教会に次ぎ2番目のカトリック聖堂を創設、一時閉鎖されたが戦後昭和24年に礼拝堂が建立された

    「カトリック西陣聖ヨゼフ教会」
    明治40年(1907)京都で河原町聖フランシスコザビエル教会に次ぎ2番目のカトリック聖堂を創設、一時閉鎖されたが戦後昭和24年に礼拝堂が建立された

  • 「一条通」を過ぎて「新町小学校」<br />明治2年(1869)に町衆の手によって創設された「番組小学校」の一つで、平成9年(1997)に近辺の小学校と統合された *「番組小学校」は、明治2年(1869)、京都の町衆たちの手によって当時の住民自治組織であった「町組」(ちょうぐみ)が「番組」に再編成され、番組を学区として資金を出し合って創設された64の小学校で、明治5年(1872)の国家による学校制度の創設に先立つ日本で最初の学区制小学校

    「一条通」を過ぎて「新町小学校」
    明治2年(1869)に町衆の手によって創設された「番組小学校」の一つで、平成9年(1997)に近辺の小学校と統合された *「番組小学校」は、明治2年(1869)、京都の町衆たちの手によって当時の住民自治組織であった「町組」(ちょうぐみ)が「番組」に再編成され、番組を学区として資金を出し合って創設された64の小学校で、明治5年(1872)の国家による学校制度の創設に先立つ日本で最初の学区制小学校

  • 「中立小学校・中立幼稚園開校・閉校記念碑」<br />中立(ちゅうりつ)小学校は、明治2年(1869)上京第十六番組小学校としてこの地に開校された。都心地域にあり児童数の減少が進行したため、元滋野学区の中立・小川小学校が統合して、平成9年(1997)新町小学校が開校した。中立幼稚園は、昭和7年(1932)創立された。近年の園児数の減少から中立小学校の閉校に併せ、中立・小川・桃薗幼稚園の三園が統合することになり、みつば幼稚園として開園した。この石標は、中立小学校と中立幼稚園が開校し閉校したことを示す記念碑である。

    「中立小学校・中立幼稚園開校・閉校記念碑」
    中立(ちゅうりつ)小学校は、明治2年(1869)上京第十六番組小学校としてこの地に開校された。都心地域にあり児童数の減少が進行したため、元滋野学区の中立・小川小学校が統合して、平成9年(1997)新町小学校が開校した。中立幼稚園は、昭和7年(1932)創立された。近年の園児数の減少から中立小学校の閉校に併せ、中立・小川・桃薗幼稚園の三園が統合することになり、みつば幼稚園として開園した。この石標は、中立小学校と中立幼稚園が開校し閉校したことを示す記念碑である。

  • 「中立売通」を過ぎて「ブライトンホテル」<br />中立売通から上長者町通(土御門大路)の辺りは、土御門家の「安倍晴明」(あべのせいめい921-1005)の邸宅があったとされ、その跡地に2018年創業した *「安倍晴明」の屋敷跡については、この他晴明神社の境内など複数の説があるが、この土御門エリアが最も有力視されている

    「中立売通」を過ぎて「ブライトンホテル」
    中立売通から上長者町通(土御門大路)の辺りは、土御門家の「安倍晴明」(あべのせいめい921-1005)の邸宅があったとされ、その跡地に2018年創業した *「安倍晴明」の屋敷跡については、この他晴明神社の境内など複数の説があるが、この土御門エリアが最も有力視されている

  • 「上長者町通」を過ぎて「澤井醤油本店」

    「上長者町通」を過ぎて「澤井醤油本店」

  • 「澤井醤油本店」(さわいしょうゆ)<br />明治12年(1879)創業の醤油屋さんで、正面玄関は「中長者町通」に面している *鷹峯の松野醤油は1805年創業

    「澤井醤油本店」(さわいしょうゆ)
    明治12年(1879)創業の醤油屋さんで、正面玄関は「中長者町通」に面している *鷹峯の松野醤油は1805年創業

  • 「下長者町通」を過ぎて「京都府警本部」

    「下長者町通」を過ぎて「京都府警本部」

  • 隣は昨年出来た「文化庁」(文部科学省の外局)<br />2023年(令和5)3月27日から文化庁の13ある部署のうち6つの部署の7割程度となる390人が京都に移転、明治以来初の中央省庁移転になったが、中央官庁約60万人から見れば微々たるもの、どれほどの効果があるのか極めて疑問で、東京一極集中は変わりそうにない

    隣は昨年出来た「文化庁」(文部科学省の外局)
    2023年(令和5)3月27日から文化庁の13ある部署のうち6つの部署の7割程度となる390人が京都に移転、明治以来初の中央省庁移転になったが、中央官庁約60万人から見れば微々たるもの、どれほどの効果があるのか極めて疑問で、東京一極集中は変わりそうにない

  • 「下立売通」に面した「京都府庁旧本館」正面

    「下立売通」に面した「京都府庁旧本館」正面

  • 「京都守護職屋敷址」(正門を入ったところにある)<br />「京都守護職」(しゅごしょく)は、幕末の1862年、当時尊王攘夷思想などによって悪化していた京都市中の治安維持を目的とし、京都所司代・京都町奉行、京都見廻役などの上位に置かれた役職で、会津藩主松平容保(かたもり)が初代守護職に就き、約千人の会津藩兵を率いて上洛し「金戒光明寺」に拠点を設けた後、1864年今の府庁あたりに約3万坪の敷地を買収して「京都守護職屋敷」を新たに造営したが、1867年薩長によるクーデター「王政復古の大号令」により廃止され、その跡地が1868年陸軍局となり、1869年(明治2年)京都府庁となった<br />

    「京都守護職屋敷址」(正門を入ったところにある)
    「京都守護職」(しゅごしょく)は、幕末の1862年、当時尊王攘夷思想などによって悪化していた京都市中の治安維持を目的とし、京都所司代・京都町奉行、京都見廻役などの上位に置かれた役職で、会津藩主松平容保(かたもり)が初代守護職に就き、約千人の会津藩兵を率いて上洛し「金戒光明寺」に拠点を設けた後、1864年今の府庁あたりに約3万坪の敷地を買収して「京都守護職屋敷」を新たに造営したが、1867年薩長によるクーデター「王政復古の大号令」により廃止され、その跡地が1868年陸軍局となり、1869年(明治2年)京都府庁となった

  • 「京都府庁旧本館」<br />京都府庁は1868年(明治元年)京都東町奉行所跡にあった京都裁判所で発足し、1869年京都守護職屋敷跡に移転した後、1871年二条城内に移転し、1885年再び現在地に移転、(1890年琵琶湖疏水竣工、1895年博覧会の後)、1904年に現在の旧本館が完成し、1971年(昭和46)まで京都府庁の本館として使用された

    「京都府庁旧本館」
    京都府庁は1868年(明治元年)京都東町奉行所跡にあった京都裁判所で発足し、1869年京都守護職屋敷跡に移転した後、1871年二条城内に移転し、1885年再び現在地に移転、(1890年琵琶湖疏水竣工、1895年博覧会の後)、1904年に現在の旧本館が完成し、1971年(昭和46)まで京都府庁の本館として使用された

  • 「京都府庁旧本館」玄関<br />創建時の姿を残す現役官公庁建物として日本最古といわれており、現在も会議や催しなどに使用され、常時公開されている(1983年京都府指定文化財第1号、2004年国の重要文化財指定)、竣工以来約100年以上が経過し老朽化が進んでいるので、平成11年総工費7億7千万円をかけて屋根の全面葺替工事を行った、当初の総工費は当時36万6千円と言われるが現在で100億円くらいか?

    「京都府庁旧本館」玄関
    創建時の姿を残す現役官公庁建物として日本最古といわれており、現在も会議や催しなどに使用され、常時公開されている(1983年京都府指定文化財第1号、2004年国の重要文化財指定)、竣工以来約100年以上が経過し老朽化が進んでいるので、平成11年総工費7億7千万円をかけて屋根の全面葺替工事を行った、当初の総工費は当時36万6千円と言われるが現在で100億円くらいか?

  • 「京都府庁旧館」正面入口<br />建物は日本人建築家によるレンガ造りの本格的西洋建築で、後期ルネサンス様式を取り入れ、正面に一段高くなった屋根とバルコニーがあり、左右対称の外観や豪華絢爛な装飾が素晴らしい、正面に政庁、背面に府会議事堂、4つの角に知事室、議長室、参事会室、貴賓応接室など大小55室で構成され、中庭をもつロの字形になっており、庭は平安神宮などの庭を作った七代目小川治兵衞の作

    「京都府庁旧館」正面入口
    建物は日本人建築家によるレンガ造りの本格的西洋建築で、後期ルネサンス様式を取り入れ、正面に一段高くなった屋根とバルコニーがあり、左右対称の外観や豪華絢爛な装飾が素晴らしい、正面に政庁、背面に府会議事堂、4つの角に知事室、議長室、参事会室、貴賓応接室など大小55室で構成され、中庭をもつロの字形になっており、庭は平安神宮などの庭を作った七代目小川治兵衞の作

  • 「旧知事室公開中」

    「旧知事室公開中」

  • 「旧知事室」<br />1904年から1971年まで、10代から40代知事まで24人の知事が67年間にわたり使用した、内装は重厚な格天井(ごうてんじょう)や廻り縁など他の部屋よりも手の込んだ造りとなっている

    「旧知事室」
    1904年から1971年まで、10代から40代知事まで24人の知事が67年間にわたり使用した、内装は重厚な格天井(ごうてんじょう)や廻り縁など他の部屋よりも手の込んだ造りとなっている

  • 「高級な家具類」<br />机や家具類は、当時宮家や富豪らの家具を調達した東京築地の高級家具製造業者・杉田屋のもので、一部には「村井吉兵衛」(むらい きちべえ1864-1926)と書かれたプレートが付いていて、明治時代に紙巻タバコで財を成し、円山公園にある「長楽館」を建てた村井氏が、府庁建設のために今のお金で1億円くらい寄付したらしい

    「高級な家具類」
    机や家具類は、当時宮家や富豪らの家具を調達した東京築地の高級家具製造業者・杉田屋のもので、一部には「村井吉兵衛」(むらい きちべえ1864-1926)と書かれたプレートが付いていて、明治時代に紙巻タバコで財を成し、円山公園にある「長楽館」を建てた村井氏が、府庁建設のために今のお金で1億円くらい寄付したらしい

  • 設計・意匠は「松室重光」(1873-1937)<br />代々松尾大社や月読神社の神官を務めた家系に生まれ、東大で辰野金吾に学び、京都府技師に採用され、社寺建築の修復・保存にあたったが、新しい建築も多く手掛け、京都ハリストス正教会聖堂や琵琶湖疏水水利事務所など設計している。また、左の説明板は「アカンサス」(和名:ハアザミ)という、古代より建築やインテリアなどの装飾モチーフになっているギリシアの国花で、この建物のいたるところで使われていると書かれている

    設計・意匠は「松室重光」(1873-1937)
    代々松尾大社や月読神社の神官を務めた家系に生まれ、東大で辰野金吾に学び、京都府技師に採用され、社寺建築の修復・保存にあたったが、新しい建築も多く手掛け、京都ハリストス正教会聖堂や琵琶湖疏水水利事務所など設計している。また、左の説明板は「アカンサス」(和名:ハアザミ)という、古代より建築やインテリアなどの装飾モチーフになっているギリシアの国花で、この建物のいたるところで使われていると書かれている

  • 「旧食堂」<br />「知事室」から重厚な扉を抜けて隣の「食堂」に入る

    「旧食堂」
    「知事室」から重厚な扉を抜けて隣の「食堂」に入る

  • 「旧正庁」<br />さらに隣は、公式行事や式典を執り行う広間で、更に格式の高い折上小組格天井で仕上げられ、今日まで大正天皇、昭和天皇即位の礼や、人類初の有人宇宙飛行士ガガーリン来日時の歓迎会など行われた

    「旧正庁」
    さらに隣は、公式行事や式典を執り行う広間で、更に格式の高い折上小組格天井で仕上げられ、今日まで大正天皇、昭和天皇即位の礼や、人類初の有人宇宙飛行士ガガーリン来日時の歓迎会など行われた

  • 「旧議事堂」<br />中庭を見ながら回廊を進んだところにあり、当時は庁舎と議事堂が一体化しているスタイルは非常に珍しいらしい、60の議員席が半円形になって階段状に配置され、2階は傍聴席になっている

    「旧議事堂」
    中庭を見ながら回廊を進んだところにあり、当時は庁舎と議事堂が一体化しているスタイルは非常に珍しいらしい、60の議員席が半円形になって階段状に配置され、2階は傍聴席になっている

  • カフェ「salon de 1904 」(サロン・ド・イチキュウゼロヨン)<br />2023年文化庁移転を契機に、昨年7月に「前田珈琲」がオープン、店名は府庁建立の1904年に因む

    カフェ「salon de 1904 」(サロン・ド・イチキュウゼロヨン)
    2023年文化庁移転を契機に、昨年7月に「前田珈琲」がオープン、店名は府庁建立の1904年に因む

  • 府庁正面は「釜座通」(かまんざどおり)<br />府庁前の下立売通から三条通までの通りで、平安京には存在せず秀吉の京都改造で作られた、梵鐘や茶釜の鋳造を行う三条釜座があった場所で、三条通の突き当りに最も古い千家十職の釜師である大西家の工房が残り「大西清右衛門美術館」がある

    府庁正面は「釜座通」(かまんざどおり)
    府庁前の下立売通から三条通までの通りで、平安京には存在せず秀吉の京都改造で作られた、梵鐘や茶釜の鋳造を行う三条釜座があった場所で、三条通の突き当りに最も古い千家十職の釜師である大西家の工房が残り「大西清右衛門美術館」がある

  • 「地球環境京都宣言」<br />1997年の「京都議定書」(先進国だけ)、2015年「パリ協定」(途上国含む)に続き、2017年「地球環境京都会議」(18ヶ国参加)を開催し、「パリ協定」が掲げる「温室効果ガスの実質排出ゼロ」の実現に向けて、取組事例の共有などを図り、「2050年の世界の都市のあるべき姿」を盛り込んだ「持続可能な都市文明の構築を目指す京都宣言」を発表した

    「地球環境京都宣言」
    1997年の「京都議定書」(先進国だけ)、2015年「パリ協定」(途上国含む)に続き、2017年「地球環境京都会議」(18ヶ国参加)を開催し、「パリ協定」が掲げる「温室効果ガスの実質排出ゼロ」の実現に向けて、取組事例の共有などを図り、「2050年の世界の都市のあるべき姿」を盛り込んだ「持続可能な都市文明の構築を目指す京都宣言」を発表した

  • 「京都第2赤十字病院」<br />赤十字病院はスイスの日本支社で、万が一の災害発生に備えて、医師や看護師を中心に救護班が編成されており、第1は東福寺近くにある<br />

    「京都第2赤十字病院」
    赤十字病院はスイスの日本支社で、万が一の災害発生に備えて、医師や看護師を中心に救護班が編成されており、第1は東福寺近くにある

  • 「 紅殻(ベンガラ)の町家」<br />紅殻が際立つ町家は創業八十年の着物店「北出工芸」、この通りは昔の中心地で裕福な商家などが多く、戦災にも遭ってないから町家が多く残る、町家に多い「ベンガラ」は、世界で最も古い塗料と言われ、土からとれる酸化鉄が白色の漆喰に入れるとパッと赤色が広がり、江戸時代からインドのベンガル産のものを輸入していたのでこの名がついた、有田焼や九谷焼、清水焼などでも使われる

    「 紅殻(ベンガラ)の町家」
    紅殻が際立つ町家は創業八十年の着物店「北出工芸」、この通りは昔の中心地で裕福な商家などが多く、戦災にも遭ってないから町家が多く残る、町家に多い「ベンガラ」は、世界で最も古い塗料と言われ、土からとれる酸化鉄が白色の漆喰に入れるとパッと赤色が広がり、江戸時代からインドのベンガル産のものを輸入していたのでこの名がついた、有田焼や九谷焼、清水焼などでも使われる

  • 「丸太町通」を過ぎて「亀屋友永」(かめやともなが)<br />昭和9年(1934)、亀屋久友より別家し現在三代目になる、創業100年近くの和菓子屋さん、餡や羊羹にすり蜜の衣をかけた「松露」(しょうろ)が代表銘菓、京都駅伊勢丹でも買える

    「丸太町通」を過ぎて「亀屋友永」(かめやともなが)
    昭和9年(1934)、亀屋久友より別家し現在三代目になる、創業100年近くの和菓子屋さん、餡や羊羹にすり蜜の衣をかけた「松露」(しょうろ)が代表銘菓、京都駅伊勢丹でも買える

  • この通りには並行する隣の「室町通」と並んで、京呉服など繊維製品卸問屋が並び、「太子織物」は寝具専門、「小川平六」は力士専門の着物、手前の「小田織物」は白生地専門の着物など、伝統を守りながらも生き残りの努力をされているのが良く分る

    この通りには並行する隣の「室町通」と並んで、京呉服など繊維製品卸問屋が並び、「太子織物」は寝具専門、「小川平六」は力士専門の着物、手前の「小田織物」は白生地専門の着物など、伝統を守りながらも生き残りの努力をされているのが良く分る

  • 「御池通」(おいけどおり)<br />「御池」は「神泉苑」(しんせんえん)の苑池に通じていることから江戸時代からの命名で、第二次世界大戦の強制疎開で道幅50mに拡幅され、幹線道路として沿道には高層の商業ビルが建ち並び、昭和30年代には祇園祭の見物客増加に伴い山鉾巡行ルートが御池通に変更され、祇園祭・時代祭の巡行ルートとなり、平成9年には地下鉄東西線が開通した

    「御池通」(おいけどおり)
    「御池」は「神泉苑」(しんせんえん)の苑池に通じていることから江戸時代からの命名で、第二次世界大戦の強制疎開で道幅50mに拡幅され、幹線道路として沿道には高層の商業ビルが建ち並び、昭和30年代には祇園祭の見物客増加に伴い山鉾巡行ルートが御池通に変更され、祇園祭・時代祭の巡行ルートとなり、平成9年には地下鉄東西線が開通した

  • 「新町通」案内板<br />平安京開設時の「町尻小路」に当たる通り、平安時代中頃から官営の東西市が衰退し、この通りと東西通りの交差点を中心地として発展するが、豊臣秀吉の京都大改造後には「新町」と呼ばれるようになった *「町尻小路」は平安京造営で宮中で入りの職人を中心に南北に延びる町が構成され、北を町口、南を町尻と呼んだことから町通りは「町尻小路」と呼ばれた

    「新町通」案内板
    平安京開設時の「町尻小路」に当たる通り、平安時代中頃から官営の東西市が衰退し、この通りと東西通りの交差点を中心地として発展するが、豊臣秀吉の京都大改造後には「新町」と呼ばれるようになった *「町尻小路」は平安京造営で宮中で入りの職人を中心に南北に延びる町が構成され、北を町口、南を町尻と呼んだことから町通りは「町尻小路」と呼ばれた

  • 「御池通から五条通までは北行き一方通行の狭い通り」<br />平安中期以降に、この通り沿いの二条、三条、六角、錦小路、四条、七条の交差点が商工業の中心として「座」を結成し、三条町の釜座(鋳物)、四条町の直垂座(ひたたれ)、六角町の生魚座、七条町の千魚座などの商工業座が生まれ、鎌倉時代初期には朱雀大路に代わる京のメインストリートとなり、今でもかつて栄えた裕福な商家が残され、御池から仏光寺通の間は祇園祭の山鉾町が連なる

    「御池通から五条通までは北行き一方通行の狭い通り」
    平安中期以降に、この通り沿いの二条、三条、六角、錦小路、四条、七条の交差点が商工業の中心として「座」を結成し、三条町の釜座(鋳物)、四条町の直垂座(ひたたれ)、六角町の生魚座、七条町の千魚座などの商工業座が生まれ、鎌倉時代初期には朱雀大路に代わる京のメインストリートとなり、今でもかつて栄えた裕福な商家が残され、御池から仏光寺通の間は祇園祭の山鉾町が連なる

  • 「姉小路通」を右折すると「高松神明神社」<br />「光る君へ」の藤原道長の側室・源明子(正室は源倫子)の住まいであった「高松殿」を起源とする神社

    「姉小路通」を右折すると「高松神明神社」
    「光る君へ」の藤原道長の側室・源明子(正室は源倫子)の住まいであった「高松殿」を起源とする神社

  • 「高松神明神社」(たかまつしんめいじんじゃ)<br />醍醐天皇の皇子で、道長の側室明子の父親である、源高明(みなもとのたかあきら)の邸宅「高松殿」に伊勢から天照大神を勧請し、鎮守社としたのが始まりで、その後1155年後白河天皇が御所として使い、翌年の保元の乱では一時天皇方の本拠地となり、1159年平治の乱で高松殿は焼失し当社のみが残った

    「高松神明神社」(たかまつしんめいじんじゃ)
    醍醐天皇の皇子で、道長の側室明子の父親である、源高明(みなもとのたかあきら)の邸宅「高松殿」に伊勢から天照大神を勧請し、鎮守社としたのが始まりで、その後1155年後白河天皇が御所として使い、翌年の保元の乱では一時天皇方の本拠地となり、1159年平治の乱で高松殿は焼失し当社のみが残った

  • 「幸村の知恵の地蔵尊」<br />境内にお地蔵さまが祀られている珍しい神社で、1794年に紀州九度山から拝領してきた「幸村の知恵の地蔵尊」と呼ばれる真田幸村の念持仏があり、地蔵堂の台座の石をさすって子達の頭を撫でると知恵を授かると信仰されている

    「幸村の知恵の地蔵尊」
    境内にお地蔵さまが祀られている珍しい神社で、1794年に紀州九度山から拝領してきた「幸村の知恵の地蔵尊」と呼ばれる真田幸村の念持仏があり、地蔵堂の台座の石をさすって子達の頭を撫でると知恵を授かると信仰されている

  • 「二宮尊徳像」<br />これも会社の地蔵堂のつもりか? 1953年創立の紳士服・婦人服(株)「マツダ」となっている

    「二宮尊徳像」
    これも会社の地蔵堂のつもりか? 1953年創立の紳士服・婦人服(株)「マツダ」となっている

  • 「旧平井産業」<br />歴史的意匠建造物に指定された、紅殻(ベンガラ)の壁とステンドガラスが特徴的な町家のカフェ建築があると聞いていたので、この辺りを探したが見つからない! 後で調べると、2021年に売却され、白壁の建物に改装され、赤い郵便ポストを残すのみで昔の面影は全く無くなってしまっている、残念! *「歴史的意匠建造物」には上限600万円の補助があり、外観の変更を行う場合は許可を受ける必要があるが、この判断は難しそう

    「旧平井産業」
    歴史的意匠建造物に指定された、紅殻(ベンガラ)の壁とステンドガラスが特徴的な町家のカフェ建築があると聞いていたので、この辺りを探したが見つからない! 後で調べると、2021年に売却され、白壁の建物に改装され、赤い郵便ポストを残すのみで昔の面影は全く無くなってしまっている、残念! *「歴史的意匠建造物」には上限600万円の補助があり、外観の変更を行う場合は許可を受ける必要があるが、この判断は難しそう

  • 「新町1888」<br />元々は「平井産業」という呉服商の建物で、京都ホテルオークラの別邸としてカフェバー「新町1888」にリノベーションしたが、2016年に閉店、2022年に現在の「泰生織物」(江戸時代創業の帯屋さん)になったらしい、昔の写真では、紅殻(ベンガラ)の壁に出格子、1階に「クジャク」と「フルーツ」のステンドガラス、2階に女性のステンドガラスもある、大正ロマン風の町家カフェ

    「新町1888」
    元々は「平井産業」という呉服商の建物で、京都ホテルオークラの別邸としてカフェバー「新町1888」にリノベーションしたが、2016年に閉店、2022年に現在の「泰生織物」(江戸時代創業の帯屋さん)になったらしい、昔の写真では、紅殻(ベンガラ)の壁に出格子、1階に「クジャク」と「フルーツ」のステンドガラス、2階に女性のステンドガラスもある、大正ロマン風の町家カフェ

  • 「町家居酒屋」も多い<br />「京町家パウゼ」(洋風居酒屋)、「つきとかげ」(てんぷら居酒屋)

    「町家居酒屋」も多い
    「京町家パウゼ」(洋風居酒屋)、「つきとかげ」(てんぷら居酒屋)

  • 「新旧建物が混在するストリート」<br />その隣には近代建築のレストラン「手鞠鮨と日本茶 宗田」(モダン和風料理)

    「新旧建物が混在するストリート」
    その隣には近代建築のレストラン「手鞠鮨と日本茶 宗田」(モダン和風料理)

  • その隣は「マルサンカクシカク」という名前に惹かれる会社

    その隣は「マルサンカクシカク」という名前に惹かれる会社

  • 「松下装束店」(まつしたそうぞくてん)<br />町家と近代建築が合体したような建物で、江戸時代から続く神官装束や舞楽装束などの装束の販売や調製、修理および復元などを手掛ける会社

    「松下装束店」(まつしたそうぞくてん)
    町家と近代建築が合体したような建物で、江戸時代から続く神官装束や舞楽装束などの装束の販売や調製、修理および復元などを手掛ける会社

  • 「三条通」<br />左手が烏丸三条から東山方面、右手が堀川三条方面で、釜座通の三条釜座に「大西清右衛門美術館」がある

    「三条通」
    左手が烏丸三条から東山方面、右手が堀川三条方面で、釜座通の三条釜座に「大西清右衛門美術館」がある

  • 「篠田商事」(しのだしょうじ)<br />昭和5年創業の着物メーカーで、「八幡山保存会」として屏風祭では、隣の古い町家をリノベーションした「祥雲邸」で、八幡山が保有している屏風などを展示している

    「篠田商事」(しのだしょうじ)
    昭和5年創業の着物メーカーで、「八幡山保存会」として屏風祭では、隣の古い町家をリノベーションした「祥雲邸」で、八幡山が保有している屏風などを展示している

  • 「祥雲邸」(しょううんてい)<br />篠田商事が80周年を記念し平成26年建立、改装は無理だったので、以前からあった土蔵はそのまま残し、伝統的な京町家に新築した、着物のショウルームやお茶会などに使っている

    「祥雲邸」(しょううんてい)
    篠田商事が80周年を記念し平成26年建立、改装は無理だったので、以前からあった土蔵はそのまま残し、伝統的な京町家に新築した、着物のショウルームやお茶会などに使っている

  • 「八竹庵」(はちくあん)「旧川崎家住宅」<br />大正期の綿布商を営む豪商「四代目井上利助」が、1926年(大正15年)当時の贅を尽くした和洋融合の邸宅を建立し、1965年(昭和40)に白生地商を営む「川崎家」が住宅兼迎賓館「紫織庵」とし、一時取り壊しの危機にあったが、最近2022年に「京文化の継承」として町家再生など手掛けている「(株)くろちく」が所有し、八幡山(はちまんやま)の「八」にくろちく(黒竹)の「竹」から「八竹庵」として一般公開も始めている

    「八竹庵」(はちくあん)「旧川崎家住宅」
    大正期の綿布商を営む豪商「四代目井上利助」が、1926年(大正15年)当時の贅を尽くした和洋融合の邸宅を建立し、1965年(昭和40)に白生地商を営む「川崎家」が住宅兼迎賓館「紫織庵」とし、一時取り壊しの危機にあったが、最近2022年に「京文化の継承」として町家再生など手掛けている「(株)くろちく」が所有し、八幡山(はちまんやま)の「八」にくろちく(黒竹)の「竹」から「八竹庵」として一般公開も始めている

  • 「京文化の継承」<br />いつものことながら、古い建物を守っていくのは容易なことではないと思うが、この建物も2019年に東京の不動産会社に買われ一時解体の危機になったものの、京都市から条例違反の警告文が出され、空き家状態になっていたところを、2021年に何とイタリアの「Gucciグッチ」が創立100周年のイベントをやることになり建物を再生させた、そして翌2022年地場企業の「くろちく」が引き継いで、「京都国際写真祭」の拠点にしたり、展示会や舞妓さんのお点前によるお茶会など新たな活用を始めた、という経緯を聞いて、これをいい事例として何とか踏ん張って欲しいと思った、ということで、入館料1,700円はちょっと高いが、思い切って入場した

    「京文化の継承」
    いつものことながら、古い建物を守っていくのは容易なことではないと思うが、この建物も2019年に東京の不動産会社に買われ一時解体の危機になったものの、京都市から条例違反の警告文が出され、空き家状態になっていたところを、2021年に何とイタリアの「Gucciグッチ」が創立100周年のイベントをやることになり建物を再生させた、そして翌2022年地場企業の「くろちく」が引き継いで、「京都国際写真祭」の拠点にしたり、展示会や舞妓さんのお点前によるお茶会など新たな活用を始めた、という経緯を聞いて、これをいい事例として何とか踏ん張って欲しいと思った、ということで、入館料1,700円はちょっと高いが、思い切って入場した

  • 「和洋折衷の大邸宅」<br />敷地248坪に茶室、サロン、洋館、玄関棟、2階建ての主屋、便所、浴室、2棟の蔵、3つの庭園からなる和洋折衷の建物で、洋館部分は関西近代建築の父「武田吾一」(たけだごいち)、茶室や和室部分は数寄屋建築の名工「上坂浅次郎」(こうさかあさじろう)の設計

    「和洋折衷の大邸宅」
    敷地248坪に茶室、サロン、洋館、玄関棟、2階建ての主屋、便所、浴室、2棟の蔵、3つの庭園からなる和洋折衷の建物で、洋館部分は関西近代建築の父「武田吾一」(たけだごいち)、茶室や和室部分は数寄屋建築の名工「上坂浅次郎」(こうさかあさじろう)の設計

  • 「入口アプローチ」<br />入口から既に和洋折衷の雰囲気で、八竹庵が完成した2年前の大正12年(1923)に開業した帝国ホテルを設計した世界的建築家フランク・ロイド・ライトの影響で、当時流行した帝国ホテルと同じスクラッチタイル(表面に引っ掻いた模様を付けたレンガ)と大谷石を用いたライト風の壁になっている

    「入口アプローチ」
    入口から既に和洋折衷の雰囲気で、八竹庵が完成した2年前の大正12年(1923)に開業した帝国ホテルを設計した世界的建築家フランク・ロイド・ライトの影響で、当時流行した帝国ホテルと同じスクラッチタイル(表面に引っ掻いた模様を付けたレンガ)と大谷石を用いたライト風の壁になっている

  • 「1階の洋間」<br />玄関は「客人」用と「家人」「使用人」用の3ヶ所あり、土間と四畳半の部屋がある「客人」用の玄関を上がると、すぐ右手に和風の玄関とはまるで違う洋間の応接室がある

    「1階の洋間」
    玄関は「客人」用と「家人」「使用人」用の3ヶ所あり、土間と四畳半の部屋がある「客人」用の玄関を上がると、すぐ右手に和風の玄関とはまるで違う洋間の応接室がある

  • 「格式の高い折上格天井」(おりあげごうてんじょう)<br />応接室は、格天井に寄木貼りの床、電熱式暖炉があり、内部は全てチーク材が使用されて贅をこらした洋間になっており、特に正方形に組み込まれた「格天井」は、更に格式の高い「折上格天井」になっている *二条城二の丸御殿の天井は、中心を更に折上げた「二重折上格天井」という最上級の格式

    「格式の高い折上格天井」(おりあげごうてんじょう)
    応接室は、格天井に寄木貼りの床、電熱式暖炉があり、内部は全てチーク材が使用されて贅をこらした洋間になっており、特に正方形に組み込まれた「格天井」は、更に格式の高い「折上格天井」になっている *二条城二の丸御殿の天井は、中心を更に折上げた「二重折上格天井」という最上級の格式

  • 「波打ちガラス」<br />広縁のガラスは建築当初から一枚も割れず現存しているもので、日本でもやっとガラスが製造できるようになった明治末期から大正時代には、気泡が入るため表面が波を打ったようになっていて「波打ちガラス」と呼ばれ、当時かなり高価なもので財力のある家しか買えなかったもので非常に貴重、「旧三井家下鴨別邸」で、1枚だけ割れて普通のガラスにしたと聞いたことがある→https://4travel.jp/travelogue/11749974

    「波打ちガラス」
    広縁のガラスは建築当初から一枚も割れず現存しているもので、日本でもやっとガラスが製造できるようになった明治末期から大正時代には、気泡が入るため表面が波を打ったようになっていて「波打ちガラス」と呼ばれ、当時かなり高価なもので財力のある家しか買えなかったもので非常に貴重、「旧三井家下鴨別邸」で、1枚だけ割れて普通のガラスにしたと聞いたことがある→https://4travel.jp/travelogue/11749974

  • 「一階和室」<br />15畳客間と12畳半の仏間の続き間で、15畳の客間は付書院(つけしょいん)、床の間、床脇(天袋・地袋)を備えた正客を迎える最も格式の高い部屋、12畳半の仏間も床の間、平書院(ひらしょいん)がつき、仏壇も収められる和室

    「一階和室」
    15畳客間と12畳半の仏間の続き間で、15畳の客間は付書院(つけしょいん)、床の間、床脇(天袋・地袋)を備えた正客を迎える最も格式の高い部屋、12畳半の仏間も床の間、平書院(ひらしょいん)がつき、仏壇も収められる和室

  • 「日本画家・竹内栖鳳作の東山三十六峰を表現した欄間」<br />客間と仏間の境の欄間は、近代京都画壇の巨匠・竹内栖鳳(たけうち せいほう1864-1942〉の作で「東山三十六峰」の大らかな山の風景をモチーフに桐正目の一枚板で彫刻されている *「竹内栖鳳」は、近代日本画の先駆者で横山大観と画壇の双璧をなし「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ、上村松園や橋本関雪ら京都画壇の大半を育てた

    「日本画家・竹内栖鳳作の東山三十六峰を表現した欄間」
    客間と仏間の境の欄間は、近代京都画壇の巨匠・竹内栖鳳(たけうち せいほう1864-1942〉の作で「東山三十六峰」の大らかな山の風景をモチーフに桐正目の一枚板で彫刻されている *「竹内栖鳳」は、近代日本画の先駆者で横山大観と画壇の双璧をなし「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ、上村松園や橋本関雪ら京都画壇の大半を育てた

  • 「床の間と付書院」<br />「付書院」(つけしょいん)は床の間の横に縁側に張り出すように設けた出窓タイプの床飾りで正式な座敷に使い、明り取りの障子だけがついたタイプの「平書院」(ひらしょいん)はやや略式の座敷に使われる

    「床の間と付書院」
    「付書院」(つけしょいん)は床の間の横に縁側に張り出すように設けた出窓タイプの床飾りで正式な座敷に使い、明り取りの障子だけがついたタイプの「平書院」(ひらしょいん)はやや略式の座敷に使われる

  • 1階和室・客間から「中庭」(主庭)

    1階和室・客間から「中庭」(主庭)

  • 1階和室・仏間から「前庭」

    1階和室・仏間から「前庭」

  • 「長刀鉾(なぎなたほこ)ミニチュア」<br />三井家旧蔵の精巧なミニチュアが置かれている、祇園祭の「屏風祭」では八幡山所蔵の屏風も特別展示される、実際の長刀の先端までは21.7mある

    「長刀鉾(なぎなたほこ)ミニチュア」
    三井家旧蔵の精巧なミニチュアが置かれている、祇園祭の「屏風祭」では八幡山所蔵の屏風も特別展示される、実際の長刀の先端までは21.7mある

  • 三井家旧蔵「長刀鉾」<br />(説明文では)「数ある鉾の内、三井家特別注文製作による最高の鉾です、天上には松村景文(1778-1843)の百鳥の繪が画いてあります」とある、屋根裏の百鳥図まで描いた精巧なもの

    三井家旧蔵「長刀鉾」
    (説明文では)「数ある鉾の内、三井家特別注文製作による最高の鉾です、天上には松村景文(1778-1843)の百鳥の繪が画いてあります」とある、屋根裏の百鳥図まで描いた精巧なもの

  • 「二階洋間サロン」(鎌倉彫の間)<br />(説明文では)20帖の洋間に、電熱式暖炉、外開き扉、ステンドグラスの窓、シャンデリア、寄木細工の床、鎌倉彫の壁など大正時代の贅を尽くした造りで、暖炉やシャンデリアなどに武田吾一の特徴的意匠を見ることが出来る、昭和初期には来客のサロンとして、グランドピアノが置かれ、パーティーが開かれていた

    「二階洋間サロン」(鎌倉彫の間)
    (説明文では)20帖の洋間に、電熱式暖炉、外開き扉、ステンドグラスの窓、シャンデリア、寄木細工の床、鎌倉彫の壁など大正時代の贅を尽くした造りで、暖炉やシャンデリアなどに武田吾一の特徴的意匠を見ることが出来る、昭和初期には来客のサロンとして、グランドピアノが置かれ、パーティーが開かれていた

  • 「ステンドグラス」<br />洋風照明と障子風の窓と外の暖簾のコントラストが絶妙

    「ステンドグラス」
    洋風照明と障子風の窓と外の暖簾のコントラストが絶妙

  • 「和室と洋室の間の小窓」<br />和と洋をお互いに共有し全く違和感のないアクセサリーになっていて、手前の中庭側の和室から前庭側の洋室への風の通り道としても機能的

    「和室と洋室の間の小窓」
    和と洋をお互いに共有し全く違和感のないアクセサリーになっていて、手前の中庭側の和室から前庭側の洋室への風の通り道としても機能的

  • 「二階和室」<br />2階にも洋室の隣に書院造の客間と、3つの和室があり、この客間も床の間と書院と、黒漆塗りの地板に地袋があり、高価そうな「御所人形」が飾ってある

    「二階和室」
    2階にも洋室の隣に書院造の客間と、3つの和室があり、この客間も床の間と書院と、黒漆塗りの地板に地袋があり、高価そうな「御所人形」が飾ってある

  • 「書院欄間の透かし彫り」<br />ここにも続きの和室との境に、シンプルな意匠の欄間がある

    「書院欄間の透かし彫り」
    ここにも続きの和室との境に、シンプルな意匠の欄間がある

  • 「夏障子の和室」<br />南側から東側の和室に廻ると、夏仕様の障子になって清々しい、これは簾(すだれ)をはめ込んだ建具で「簾戸」(すど)とか、「葦戸」(よしど)、「御簾戸」(みすど)とも呼ばれるが、光を遮り、風を通し、内からは見えるが外からは見えない、素晴らしい日本の伝統文化で、昔の日本人は偉い!

    「夏障子の和室」
    南側から東側の和室に廻ると、夏仕様の障子になって清々しい、これは簾(すだれ)をはめ込んだ建具で「簾戸」(すど)とか、「葦戸」(よしど)、「御簾戸」(みすど)とも呼ばれるが、光を遮り、風を通し、内からは見えるが外からは見えない、素晴らしい日本の伝統文化で、昔の日本人は偉い!

  • 「鉾見台」(ほこみだい)<br />この建物のハイライトで、東側廊下に出ると京都鉾町ならではの「鉾見台」がある、この辺りは祇園祭の鉾町で「八幡山」の町衆になっており、目の前に八幡山の駒形提灯と山が見える *「鉾見台」は例年貸し切りになっているが、今年は事前にキャンセルになって5,000円で一般公開するらしいので今年限りのチャンスかもしれない

    「鉾見台」(ほこみだい)
    この建物のハイライトで、東側廊下に出ると京都鉾町ならではの「鉾見台」がある、この辺りは祇園祭の鉾町で「八幡山」の町衆になっており、目の前に八幡山の駒形提灯と山が見える *「鉾見台」は例年貸し切りになっているが、今年は事前にキャンセルになって5,000円で一般公開するらしいので今年限りのチャンスかもしれない

  • 「鉾見台」(ほこみだい)の説明文<br />「7月17日の祇園祭巡行日(前祭)には、全ての鉾が戻囃子にのって当家の前の新町通を通りました。当時は投げられる粽(ちまき)を受け取るための当家専用の観賞席でした」 祇園祭前半の「前祭」では、四条烏丸を出発した山鉾巡行が烏丸御池で終えてから、御池新町の交差点で新町通りに方向転換し、放下鉾・月鉾・船鉾・岩戸山など殆どの山鉾がこの前を通り、7月24日の「後祭」では、烏丸御池の出発点まで、八幡山・北観音山・南観音山・大船鉾などが出発前にこの前を通っていく

    「鉾見台」(ほこみだい)の説明文
    「7月17日の祇園祭巡行日(前祭)には、全ての鉾が戻囃子にのって当家の前の新町通を通りました。当時は投げられる粽(ちまき)を受け取るための当家専用の観賞席でした」 祇園祭前半の「前祭」では、四条烏丸を出発した山鉾巡行が烏丸御池で終えてから、御池新町の交差点で新町通りに方向転換し、放下鉾・月鉾・船鉾・岩戸山など殆どの山鉾がこの前を通り、7月24日の「後祭」では、烏丸御池の出発点まで、八幡山・北観音山・南観音山・大船鉾などが出発前にこの前を通っていく

  • 「2つの土蔵」<br />敷地西側に大小2つの蔵があり、北側28畳は道具類や建具保存、南側2畳は祭や行事に使う衣装など保存していた

    「2つの土蔵」
    敷地西側に大小2つの蔵があり、北側28畳は道具類や建具保存、南側2畳は祭や行事に使う衣装など保存していた

  • 「畳の蔵」<br />元は呉服商の蔵だったので、着物や反物なども保管するために、最初から畳仕様だという、当日は「舞妓さん写真展」を開催していた

    「畳の蔵」
    元は呉服商の蔵だったので、着物や反物なども保管するために、最初から畳仕様だという、当日は「舞妓さん写真展」を開催していた

  • 「蔵の内戸」<br />敷居に木製の車が埋め込まれていて、頑丈な重量のある内戸を軽く開閉できるようにしている

    「蔵の内戸」
    敷居に木製の車が埋め込まれていて、頑丈な重量のある内戸を軽く開閉できるようにしている

  • 「照明器具スイッチ」<br />説明を聞いて分かったが、当時でも珍しい照明スイッチらしい

    「照明器具スイッチ」
    説明を聞いて分かったが、当時でも珍しい照明スイッチらしい

  • 「鳥のエサ遣り窓」<br />説明がないと分からないが、鳥が入らないようにした網戸の一部を切り抜いて開閉するようにしているらしい

    「鳥のエサ遣り窓」
    説明がないと分からないが、鳥が入らないようにした網戸の一部を切り抜いて開閉するようにしているらしい

  • 2階から「中庭」<br />もみじの大木が素晴らしい

    2階から「中庭」
    もみじの大木が素晴らしい

  • 「3つの庭園」<br />庭園は、主屋と蔵の間に「主庭」となる「中庭」(奥庭)と、入り口東側に「前庭」と茶室に入る「露地庭」があり、建物と違って文化財指定されていないが、小川治兵衛が関わっているとも言われるくらいで、素晴らしく手入れも行き届いている

    「3つの庭園」
    庭園は、主屋と蔵の間に「主庭」となる「中庭」(奥庭)と、入り口東側に「前庭」と茶室に入る「露地庭」があり、建物と違って文化財指定されていないが、小川治兵衛が関わっているとも言われるくらいで、素晴らしく手入れも行き届いている

  • 「庭師用出入りトンネル」<br />たまたま庭師さんの手入れ真っ最中で、初めて発見したのは「庭師さん用のトンネル」、玄関から庭師や大工が土足のまま出入りできるようになっている、ここまで行き届いている町家は初めて見た!

    「庭師用出入りトンネル」
    たまたま庭師さんの手入れ真っ最中で、初めて発見したのは「庭師さん用のトンネル」、玄関から庭師や大工が土足のまま出入りできるようになっている、ここまで行き届いている町家は初めて見た!

  • 「中庭」(主庭)<br />軒端近くにある山もみじの大木の枝越しに庭を見せ、正面に大きな六角燈籠があり、中央の伽藍石(がらんいし)と思える丸い大きな石を中心に、黒光りする景石や白石などと飛石を並べ、四季折々楽しめる植栽を配していて、寺院とは又一味違う町家なりの趣を出している

    「中庭」(主庭)
    軒端近くにある山もみじの大木の枝越しに庭を見せ、正面に大きな六角燈籠があり、中央の伽藍石(がらんいし)と思える丸い大きな石を中心に、黒光りする景石や白石などと飛石を並べ、四季折々楽しめる植栽を配していて、寺院とは又一味違う町家なりの趣を出している

  • 2階から「前庭」<br />「茶室」が見える

    2階から「前庭」
    「茶室」が見える

  • 「前庭」<br />入ってすぐの広縁前に広がり、大きな春日灯籠と、「沓脱石」から丸い「伽藍石」や微妙に色調の違う大小の石が絶妙に並べられたシンプルな庭で、「波打ちガラス」越しに見ると又違う雰囲気の庭になって面白い<br /><br />

    「前庭」
    入ってすぐの広縁前に広がり、大きな春日灯籠と、「沓脱石」から丸い「伽藍石」や微妙に色調の違う大小の石が絶妙に並べられたシンプルな庭で、「波打ちガラス」越しに見ると又違う雰囲気の庭になって面白い

  • 「露地庭」<br />広縁から庭に降りて、飛び石伝いに進むと、「露地庭」を通って「茶室」に向かう、ここにも大きな灯篭があるが、木戸入り口の手水鉢のところの黒い奇妙な石が面白い

    「露地庭」
    広縁から庭に降りて、飛び石伝いに進むと、「露地庭」を通って「茶室」に向かう、ここにも大きな灯篭があるが、木戸入り口の手水鉢のところの黒い奇妙な石が面白い

  • 「茶室」<br />茶室は、数寄屋建築の名工「上坂浅次郎」(こうさかあさじろう)が手がけたもので、(説明文では)「前庭見える長4畳の小間、北山杉の中柱が立ち雲雀棚が特徴、炉は台目切りで入口は2枚障子の貴人口」とあるが、ちょうど「舞妓さんとお茶会」の準備で入れなかった

    「茶室」
    茶室は、数寄屋建築の名工「上坂浅次郎」(こうさかあさじろう)が手がけたもので、(説明文では)「前庭見える長4畳の小間、北山杉の中柱が立ち雲雀棚が特徴、炉は台目切りで入口は2枚障子の貴人口」とあるが、ちょうど「舞妓さんとお茶会」の準備で入れなかった

  • 入館料にはドリンクサービスが付くので、「波打ちガラス」越しに庭を眺めながらアイスコーヒーと銘菓を頂く

    入館料にはドリンクサービスが付くので、「波打ちガラス」越しに庭を眺めながらアイスコーヒーと銘菓を頂く

  • 「クロチク」(黒竹)<br />帰りには新しいシンボルツリーならぬ「クロチク」が印象的だった

    「クロチク」(黒竹)
    帰りには新しいシンボルツリーならぬ「クロチク」が印象的だった

  • 「羽柴秀吉旅宿跡」石碑<br />「織田信長時代 此附近 羽柴秀吉 旅宿跡」、側面に「室町時代 祇園社領 三条町」、「片桐且元終焉地 松田行邸跡」(説明文では)室町時代以前、三条町は祇園社領となり、同社を本所とする綿座(真綿を商う者の同業者組)などに所属する商人はこの付近に居住した。そのため地域は商業の中心地として発展した。織田信長の時代、京都の政務に関わった羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)は、当町内の伊藤与左衛門(道光)方を旅宿にした。本能寺の変後もひきつづき使用され、妙顕寺跡に築いた二条城、ついで聚楽城に居所を移す。徳川後期の京町絵図には「八幡町」とある。これは祇園祭の際、当町から八幡山を出したためである。(後略)

    「羽柴秀吉旅宿跡」石碑
    「織田信長時代 此附近 羽柴秀吉 旅宿跡」、側面に「室町時代 祇園社領 三条町」、「片桐且元終焉地 松田行邸跡」(説明文では)室町時代以前、三条町は祇園社領となり、同社を本所とする綿座(真綿を商う者の同業者組)などに所属する商人はこの付近に居住した。そのため地域は商業の中心地として発展した。織田信長の時代、京都の政務に関わった羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)は、当町内の伊藤与左衛門(道光)方を旅宿にした。本能寺の変後もひきつづき使用され、妙顕寺跡に築いた二条城、ついで聚楽城に居所を移す。徳川後期の京町絵図には「八幡町」とある。これは祇園祭の際、当町から八幡山を出したためである。(後略)

  • (2022/07/21撮影)「八幡山」(はちまんやま)会所<br />露地を入ると「八幡山会所」があり、石清水八幡宮を勧請(かんじょう)した「八幡宮」が祀られていて、普段はこちらにご神体が祀られ、山鉾巡行の時だけ山の上にお祀りする

    (2022/07/21撮影)「八幡山」(はちまんやま)会所
    露地を入ると「八幡山会所」があり、石清水八幡宮を勧請(かんじょう)した「八幡宮」が祀られていて、普段はこちらにご神体が祀られ、山鉾巡行の時だけ山の上にお祀りする

  • (2022/07/21撮影)「八幡山」(はちまんやま)後祭山鉾建て<br />町内に祀られている「八幡宮」を山の上にお祀りして巡行する、シンボルの鳥居の上の2羽の鳩は、石清水八幡宮の彫り物と同じ、左甚五郎の作と伝えられる

    (2022/07/21撮影)「八幡山」(はちまんやま)後祭山鉾建て
    町内に祀られている「八幡宮」を山の上にお祀りして巡行する、シンボルの鳥居の上の2羽の鳩は、石清水八幡宮の彫り物と同じ、左甚五郎の作と伝えられる

  • (2022/07/21撮影)「奥井商店」屏風祭・八幡山<br />「奥井商店」は、織物繊維製品の卸販売で「洛中洛外図」の屏風など展示

    (2022/07/21撮影)「奥井商店」屏風祭・八幡山
    「奥井商店」は、織物繊維製品の卸販売で「洛中洛外図」の屏風など展示

  • 「六角通」を過ぎて「三井両替店旧址」<br />かつてこの地に、三井家家祖・三井財閥の創業者の「三井高利」が、1686年両替店を開き、晩年を過ごした、「三井高利」(みつい たかとし1622-1694)は、伊勢松坂の酒、味噌、質商を営む商家に生まれ、米売買や金融業で蓄財し、1673年兄の没後、江戸に「三井越後屋呉服店(三越前身)」を開業、京都でも呉服業の仕入店(しいれだな)を始め、1686年京都に両替店も開き、幕府御用達にもなった、生産者からの直買による商品低価格化、薄利多売現金正札販売、呉服の小切販売、即座仕立て、期間限定安売り、店内での分業制、店員への賞与制・給金の運用預りなど採用し、大名、武士、庶民など幅広い商売で繁盛し、幕府より公儀呉服御用達、金銀御為替御用達を命じられた、三井家の菩提寺は「真如堂」

    「六角通」を過ぎて「三井両替店旧址」
    かつてこの地に、三井家家祖・三井財閥の創業者の「三井高利」が、1686年両替店を開き、晩年を過ごした、「三井高利」(みつい たかとし1622-1694)は、伊勢松坂の酒、味噌、質商を営む商家に生まれ、米売買や金融業で蓄財し、1673年兄の没後、江戸に「三井越後屋呉服店(三越前身)」を開業、京都でも呉服業の仕入店(しいれだな)を始め、1686年京都に両替店も開き、幕府御用達にもなった、生産者からの直買による商品低価格化、薄利多売現金正札販売、呉服の小切販売、即座仕立て、期間限定安売り、店内での分業制、店員への賞与制・給金の運用預りなど採用し、大名、武士、庶民など幅広い商売で繁盛し、幕府より公儀呉服御用達、金銀御為替御用達を命じられた、三井家の菩提寺は「真如堂」

  • 「京都新町病院」(京都逓信病院)<br />1923年逓信省の職域病院として開設され、2007年郵政民営化にともない日本郵政株式会社の「京都逓信病院」となり、2022年から医療法人知音会「京都新町病院」

    「京都新町病院」(京都逓信病院)
    1923年逓信省の職域病院として開設され、2007年郵政民営化にともない日本郵政株式会社の「京都逓信病院」となり、2022年から医療法人知音会「京都新町病院」

  • 「北観音山」(きたかんのんやま)会所<br />「京都上上(ええ)もん屋」着物店の奥にある、この辺りの「六角町」(ろっかくちょう)は京都に入ってくる海産物を扱う最大の生魚市場で、古くから有数の富豪がいた

    「北観音山」(きたかんのんやま)会所
    「京都上上(ええ)もん屋」着物店の奥にある、この辺りの「六角町」(ろっかくちょう)は京都に入ってくる海産物を扱う最大の生魚市場で、古くから有数の富豪がいた

  • (2022/07/21撮影)「北観音山」(きたかんのんやま)後祭山鉾建て<br />「上り観音山」ともいわれ、「下り観音」の南観音山と一対になっており、当初は隣町の「南観音山」と1年交代で出していたが、明治になってから後祭の先頭となり、平成24年(2012)から後祭2番目、昨年令和5年(2023)からは「南観音山」と共にくじ取らずで、隔年交代で後祭の2番目と6番目になっている<br />

    (2022/07/21撮影)「北観音山」(きたかんのんやま)後祭山鉾建て
    「上り観音山」ともいわれ、「下り観音」の南観音山と一対になっており、当初は隣町の「南観音山」と1年交代で出していたが、明治になってから後祭の先頭となり、平成24年(2012)から後祭2番目、昨年令和5年(2023)からは「南観音山」と共にくじ取らずで、隔年交代で後祭の2番目と6番目になっている

  • 「三井ガーデンホテル」京都新町別邸<br />「松坂屋・京都仕入部」だった築120年の町家をリノベーションし2014年ホテルにした、2階の虫籠窓(むしこまど)から祇園祭の山鉾が見れるのが売り

    「三井ガーデンホテル」京都新町別邸
    「松坂屋・京都仕入部」だった築120年の町家をリノベーションし2014年ホテルにした、2階の虫籠窓(むしこまど)から祇園祭の山鉾が見れるのが売り

  • 「吉田家」(京都生活工藝館 無名舎)<br />生糸の白生地屋の次男・吉田孝次郎氏は、実家の京町家を自らの手で復元改修し、1980年「京都生活工藝館 無名舎」を開設し、京町家の生活文化の発信源となっている

    「吉田家」(京都生活工藝館 無名舎)
    生糸の白生地屋の次男・吉田孝次郎氏は、実家の京町家を自らの手で復元改修し、1980年「京都生活工藝館 無名舎」を開設し、京町家の生活文化の発信源となっている

  • (2022/07/21撮影)「吉田家」屏風祭・北観音山

    (2022/07/21撮影)「吉田家」屏風祭・北観音山

  • 「藤井絞」(ふじいしぼり)<br />創業100年の京鹿の子絞りを中心とした絞り染め屋さん

    「藤井絞」(ふじいしぼり)
    創業100年の京鹿の子絞りを中心とした絞り染め屋さん

  • (2022/07/21撮影)「藤井絞」屏風祭・北観音山<br />もっとも古い屏風は江戸初期のもの

    (2022/07/21撮影)「藤井絞」屏風祭・北観音山
    もっとも古い屏風は江戸初期のもの

  • 「蛸薬師通」を過ぎて「茶屋四郎次郎屋敷跡」<br />江戸時代初期「京都三長者」の一人と称された「茶屋四郎次郎」の屋敷があった、瑞蓮寺脇に「茶屋四郎次郎・新四郎屋敷跡」の駒札がある *「京都三長者」は、大堰川、高瀬川の舟運を行った「角倉了以」、大判の鋳造を行った「後藤四郎兵衛」

    「蛸薬師通」を過ぎて「茶屋四郎次郎屋敷跡」
    江戸時代初期「京都三長者」の一人と称された「茶屋四郎次郎」の屋敷があった、瑞蓮寺脇に「茶屋四郎次郎・新四郎屋敷跡」の駒札がある *「京都三長者」は、大堰川、高瀬川の舟運を行った「角倉了以」、大判の鋳造を行った「後藤四郎兵衛」

  • 「茶屋四郎次郎・新四郎屋敷跡」(ちゃやしろうじろう・しんしろう)<br />茶屋家初代・清延(1545-1596)は、徳川家康の御用達として側近になり、戦にも従い、情報提供、軍需品調達など務め、1582年本能寺の変では家康の大阪脱出を助け、後に家康の呉服御用達として仕え、子孫は代々呉服師を継承し、2代・清忠は、1600年関ケ原の戦い以後、過書船(かしょぶね;淀川の貨客船)の支配や上方町人の支配で総町頭役になり以後京都町人頭を世襲し、3代・清次は、糸割符(いとわっぷ;生糸輸入) の特権を得、1612年朱印船「茶屋船」を派遣し、以降5代まで海外貿易を成功させ巨万の富を得たが、鎖国政策により特権は失われ、明治維新で町人頭を罷免された。新四郎は清延の三男で、1614年家康の命で尾州茶屋家を創立し、尾張藩主の召服御用を勤め、名古屋茶屋町に大邸宅を構える<br />

    「茶屋四郎次郎・新四郎屋敷跡」(ちゃやしろうじろう・しんしろう)
    茶屋家初代・清延(1545-1596)は、徳川家康の御用達として側近になり、戦にも従い、情報提供、軍需品調達など務め、1582年本能寺の変では家康の大阪脱出を助け、後に家康の呉服御用達として仕え、子孫は代々呉服師を継承し、2代・清忠は、1600年関ケ原の戦い以後、過書船(かしょぶね;淀川の貨客船)の支配や上方町人の支配で総町頭役になり以後京都町人頭を世襲し、3代・清次は、糸割符(いとわっぷ;生糸輸入) の特権を得、1612年朱印船「茶屋船」を派遣し、以降5代まで海外貿易を成功させ巨万の富を得たが、鎖国政策により特権は失われ、明治維新で町人頭を罷免された。新四郎は清延の三男で、1614年家康の命で尾州茶屋家を創立し、尾張藩主の召服御用を勤め、名古屋茶屋町に大邸宅を構える

  • 「㈱くろちく」本社<br />「㈱くろちく」は、黒竹節人会長(1947年生)が昭和49年(1974)嵯峨野で京土産の和雑貨を製造販売する「クラフトくろちく」を展開したのが始まりで、「京に伝わる日本の伝統を継承する」ことを企業理念とし事業を広げていき、1989年取り壊し予定の京町家を京のおばんざい店「百足屋」(むかでや)にしたのを皮切りに、京町家活用保存事業が本格化し、1994年に現社名に変更

    「㈱くろちく」本社
    「㈱くろちく」は、黒竹節人会長(1947年生)が昭和49年(1974)嵯峨野で京土産の和雑貨を製造販売する「クラフトくろちく」を展開したのが始まりで、「京に伝わる日本の伝統を継承する」ことを企業理念とし事業を広げていき、1989年取り壊し予定の京町家を京のおばんざい店「百足屋」(むかでや)にしたのを皮切りに、京町家活用保存事業が本格化し、1994年に現社名に変更

  • 「百足屋」(むかでや)本店<br /> 平成元年(1989)同社の10周年記念事業として、取り壊し予定だった築160年の呉服問屋を京のおばんざいを出す店「百足屋」にし、テレビなどで紹介され「町家で商売すると繁盛する」と評判になり、京町家の街並みを保存する京町家活用保存事業が本格化する先駆けとなった店で、「元の町家の良さを取り戻し、残すための“維持費用”を生み出し、町家を味わえる飲食店にし、博物館とは違う、文化財の生きた伝承をしようと思った」と言っている、思わず納得!

    「百足屋」(むかでや)本店
     平成元年(1989)同社の10周年記念事業として、取り壊し予定だった築160年の呉服問屋を京のおばんざいを出す店「百足屋」にし、テレビなどで紹介され「町家で商売すると繁盛する」と評判になり、京町家の街並みを保存する京町家活用保存事業が本格化する先駆けとなった店で、「元の町家の良さを取り戻し、残すための“維持費用”を生み出し、町家を味わえる飲食店にし、博物館とは違う、文化財の生きた伝承をしようと思った」と言っている、思わず納得!

  • 「百千足館」(ももちたるかん)<br />現在は伝統工芸品、和雑貨、観光土産品、飲食事業だけでなく、和装小物から京町家にいたる空間まで様々な角度から京都の保存・伝承を進め、ブライダル事業、ホテル事業、観光開発事業、設計デザイン不動産事業など多角的に事業展開し、2022年には「旧川崎家住宅」を「八竹庵」として再生するなど、京都の文化を世界に発信するため「くろちく京都文化伝承」を進めている

    「百千足館」(ももちたるかん)
    現在は伝統工芸品、和雑貨、観光土産品、飲食事業だけでなく、和装小物から京町家にいたる空間まで様々な角度から京都の保存・伝承を進め、ブライダル事業、ホテル事業、観光開発事業、設計デザイン不動産事業など多角的に事業展開し、2022年には「旧川崎家住宅」を「八竹庵」として再生するなど、京都の文化を世界に発信するため「くろちく京都文化伝承」を進めている

  • 「百足屋町」(むかでやちょう)<br />新町通の蛸薬師通から錦小路通は「百足屋町」と呼ばれ、江戸時代に「百足屋」という屋号の豪商があったことに由来する、お金のことを「足」とし、ムカデは足がたくさんあることから、お金がたくさん集まる、客足がつくという商売繁盛につながる屋号とされた

    「百足屋町」(むかでやちょう)
    新町通の蛸薬師通から錦小路通は「百足屋町」と呼ばれ、江戸時代に「百足屋」という屋号の豪商があったことに由来する、お金のことを「足」とし、ムカデは足がたくさんあることから、お金がたくさん集まる、客足がつくという商売繁盛につながる屋号とされた

  • 「南観音山」(みなみかんのんやま)会所<br />新しいビルの一角にこの山鉾町の会所がある<br />

    「南観音山」(みなみかんのんやま)会所
    新しいビルの一角にこの山鉾町の会所がある

  • 「南観音山」会所収納庫<br />露地を奥に入った所に、「南観音山」の部材や懸装品を収納する藏がある

    「南観音山」会所収納庫
    露地を奥に入った所に、「南観音山」の部材や懸装品を収納する藏がある

  • (2022/07/21撮影)「南観音山」後祭山鉾建て<br />「北観音山」と「南観音山」の御神体は同じ「楊柳観音」(ようりゅうかんのん)だが、北観音山は男性、南観音山は女性で、男性観音への恋心を冷ますため巡行の前夜に暴れさせる「あばれ観音」というイベントがあり、後祭の宵山に夜11時頃、楊柳観音像を神輿に乗せて南観音山から北観音山まで、錦小路通と蛸薬師通の間を3往復激しく練り歩き、終わると楊柳観音と善財童子(ぜんざいどうじ)を山に飾って明日の山鉾巡行に備える、祇園祭山鉾では唯一のイベントで面白い!

    (2022/07/21撮影)「南観音山」後祭山鉾建て
    「北観音山」と「南観音山」の御神体は同じ「楊柳観音」(ようりゅうかんのん)だが、北観音山は男性、南観音山は女性で、男性観音への恋心を冷ますため巡行の前夜に暴れさせる「あばれ観音」というイベントがあり、後祭の宵山に夜11時頃、楊柳観音像を神輿に乗せて南観音山から北観音山まで、錦小路通と蛸薬師通の間を3往復激しく練り歩き、終わると楊柳観音と善財童子(ぜんざいどうじ)を山に飾って明日の山鉾巡行に備える、祇園祭山鉾では唯一のイベントで面白い!

  • 「田中源太郎邸跡」(たなか げんたろう)<br />関西政財界のトップとして君臨した「田中源太郎」(1853-1922)の京都市内の邸宅跡で現在ホテルになっている、生家は亀岡の「楽々荘」で、現在「がんこ料亭」として営業している、「田中源太郎」は、京都銀行の前身「亀岡銀行」や「京都株式取引所」「京都電燈株式会社」「京都鉄道株式会社」など創立し、衆議院議員・貴族院議員も務めた人物

    「田中源太郎邸跡」(たなか げんたろう)
    関西政財界のトップとして君臨した「田中源太郎」(1853-1922)の京都市内の邸宅跡で現在ホテルになっている、生家は亀岡の「楽々荘」で、現在「がんこ料亭」として営業している、「田中源太郎」は、京都銀行の前身「亀岡銀行」や「京都株式取引所」「京都電燈株式会社」「京都鉄道株式会社」など創立し、衆議院議員・貴族院議員も務めた人物

  • 「ホテル・インターゲート」<br />2018年「田中源太郎邸」跡地にホテルとして開業、ホテルのファザードとして残している町家が素晴らしい!

    「ホテル・インターゲート」
    2018年「田中源太郎邸」跡地にホテルとして開業、ホテルのファザードとして残している町家が素晴らしい!

  • (2022/07/21撮影)「ホテルインターゲート」屏風祭・南観音山<br />ホテルのファザードは、祇園祭・屏風祭に雰囲気が一変する!

    (2022/07/21撮影)「ホテルインターゲート」屏風祭・南観音山
    ホテルのファザードは、祇園祭・屏風祭に雰囲気が一変する!

  • 「錦小路通」を過ぎて「京都四条くおん」<br />「錦小路通」は、新京極通の「錦天満宮」正面から高倉通までアーケード街の京の台所と呼ばれる「錦市場」を通って、烏丸通、新町通を貫けて壬生川通まで

    「錦小路通」を過ぎて「京都四条くおん」
    「錦小路通」は、新京極通の「錦天満宮」正面から高倉通までアーケード街の京の台所と呼ばれる「錦市場」を通って、烏丸通、新町通を貫けて壬生川通まで

  • 13:00「京都四条くおん」でランチ<br />かしわキーマカレーうどん専門店で、最近テレビで話題になっていたので訪問

    13:00「京都四条くおん」でランチ
    かしわキーマカレーうどん専門店で、最近テレビで話題になっていたので訪問

  • 「かしわキーマつけうどん」と串天(かぼちゃ、ごぼう、なす)と杏仁豆腐のデザートセットを注文

    「かしわキーマつけうどん」と串天(かぼちゃ、ごぼう、なす)と杏仁豆腐のデザートセットを注文

  • 中庭もあり、町家を飲食店にした感が強いが、どちらかというと観光客向け

    中庭もあり、町家を飲食店にした感が強いが、どちらかというと観光客向け

  • 「放下鉾」(ほうかほこ)会所<br />会所は1867年、奥の土蔵は1849年に作られたもので、昭和54年(1981)に大修理しているが、1階天井に2階から直接「鉾」に渡るための廊下が収納され、祭りの時はこれを引き出して、土蔵の2階から会所の2階にかけて、長大な渡り廊下が架けられ、町会所の典型例として価値が高い、又会所は「小結棚町(こゆいだなちょう)会所」と呼ばれ、この辺りは烏帽子を着用する時に結び付ける組紐の「こゆい」を扱う店が多くあったことからつけられた「小結棚町」の町名を使っていて、鉾名がつかないのは珍しい

    「放下鉾」(ほうかほこ)会所
    会所は1867年、奥の土蔵は1849年に作られたもので、昭和54年(1981)に大修理しているが、1階天井に2階から直接「鉾」に渡るための廊下が収納され、祭りの時はこれを引き出して、土蔵の2階から会所の2階にかけて、長大な渡り廊下が架けられ、町会所の典型例として価値が高い、又会所は「小結棚町(こゆいだなちょう)会所」と呼ばれ、この辺りは烏帽子を着用する時に結び付ける組紐の「こゆい」を扱う店が多くあったことからつけられた「小結棚町」の町名を使っていて、鉾名がつかないのは珍しい

  • (2008/07/15 撮影)「放下鉾」前祭宵山<br />「放下」(ほうか)とは、禅語で執着や煩悩などの一切を捨て去ることで、街道で歌や曲芸を演じながら仏法を説いた「放下僧」(ほうかそう)を祀っている、

    (2008/07/15 撮影)「放下鉾」前祭宵山
    「放下」(ほうか)とは、禅語で執着や煩悩などの一切を捨て去ることで、街道で歌や曲芸を演じながら仏法を説いた「放下僧」(ほうかそう)を祀っている、

  • 「四条新町」<br />平安の昔から商工業の町として発展した「四条新町」は、室町幕府の高札場(こうさつば)が置かれ「札の辻」と言われた中心街で(隣の四条室町は「鉾の辻」)、祇園祭を支えた山鉾町が固まってあり、歩いてきた北方向を振り返ると、道路を横切る電線がなく、この時期だけに見られる光景で、電柱に黄色い覆いがかけられ、祇園祭の山鉾巡行に備え、電柱を保護し、感電しないようにしている

    「四条新町」
    平安の昔から商工業の町として発展した「四条新町」は、室町幕府の高札場(こうさつば)が置かれ「札の辻」と言われた中心街で(隣の四条室町は「鉾の辻」)、祇園祭を支えた山鉾町が固まってあり、歩いてきた北方向を振り返ると、道路を横切る電線がなく、この時期だけに見られる光景で、電柱に黄色い覆いがかけられ、祇園祭の山鉾巡行に備え、電柱を保護し、感電しないようにしている

  • 「新町通の電柱」四条から南方向<br />「山鉾巡行」は、四条通、河原町通、御池通は広い路を通るが、新町通だけは道幅4m、電柱の高さ10~15mに対し、山鉾の幅は4m弱、高さは25mで、山鉾は電柱を押しのけながらスレスレに巡行する

    「新町通の電柱」四条から南方向
    「山鉾巡行」は、四条通、河原町通、御池通は広い路を通るが、新町通だけは道幅4m、電柱の高さ10~15mに対し、山鉾の幅は4m弱、高さは25mで、山鉾は電柱を押しのけながらスレスレに巡行する

  • 「郭巨山」(かっきょやま)会所<br />「四条新町」の交差点にある<br />

    「郭巨山」(かっきょやま)会所
    「四条新町」の交差点にある

  • 「郭巨山会所」日本建築学会賞<br />幕末の1864年「禁門の変」で焼けた後、明治40年(1907)に再建されるも、耐火耐震を確保するために増築も含めた改修工事が2022年完成し、伝統建築を残したまま木造と鉄骨のハイブリッドで改修されたことが認められ、2023年の日本建築学会賞に選ばれた、工事費は3,000万円でクラウドファンディングで400万円集まったという

    「郭巨山会所」日本建築学会賞
    幕末の1864年「禁門の変」で焼けた後、明治40年(1907)に再建されるも、耐火耐震を確保するために増築も含めた改修工事が2022年完成し、伝統建築を残したまま木造と鉄骨のハイブリッドで改修されたことが認められ、2023年の日本建築学会賞に選ばれた、工事費は3,000万円でクラウドファンディングで400万円集まったという

  • 「郭巨山」(かっきょやま)<br />中国元代の「中国二十四孝」の一人である「郭巨」(かくきょ)が、貧乏でやせ細る老母に食べさせるため、我が子を土に埋めようと穴を掘っていると、米の入った黄金の釜が地下より現れたという親孝行の逸話を表現したもの

    「郭巨山」(かっきょやま)
    中国元代の「中国二十四孝」の一人である「郭巨」(かくきょ)が、貧乏でやせ細る老母に食べさせるため、我が子を土に埋めようと穴を掘っていると、米の入った黄金の釜が地下より現れたという親孝行の逸話を表現したもの

  • 「平岡旗製造」(ひらおかはたせいぞう)<br />明治20年(1887)創業の旗屋さん、山鉾の名前を染めた「先導旗」はすべてここで作られ、屏風祭では屏風を公開する

    「平岡旗製造」(ひらおかはたせいぞう)
    明治20年(1887)創業の旗屋さん、山鉾の名前を染めた「先導旗」はすべてここで作られ、屏風祭では屏風を公開する

  • 「膏薬図子」(こうやくのずし)<br />「平岡旗製造」横にある図子(路地)は、「郭巨山」(かっきょやま)と綾小路通の「杉本家」を会所にしている「伯牙山」(はくがやま)を結ぶ近道となる細い通りで、平将門の首が晒された場所で災厄が起こったため、空也上人を呼んで鎮めてもらった「空也供養の道場」が訛って「膏薬」になったことからの命名

    「膏薬図子」(こうやくのずし)
    「平岡旗製造」横にある図子(路地)は、「郭巨山」(かっきょやま)と綾小路通の「杉本家」を会所にしている「伯牙山」(はくがやま)を結ぶ近道となる細い通りで、平将門の首が晒された場所で災厄が起こったため、空也上人を呼んで鎮めてもらった「空也供養の道場」が訛って「膏薬」になったことからの命名

  • 「池坊短期大学」(いけのぼうたんきだいがく)<br />池坊家元を母体にして1952年創設され、学生数1,000人ほどいたが最近では減少し、2025年には廃校するらしい、鶏鉾町にあり「鶏鉾」(にわとりぼこ)の収蔵庫が大学内にある(卒業生に本上まなみ、松岡きっこ)

    「池坊短期大学」(いけのぼうたんきだいがく)
    池坊家元を母体にして1952年創設され、学生数1,000人ほどいたが最近では減少し、2025年には廃校するらしい、鶏鉾町にあり「鶏鉾」(にわとりぼこ)の収蔵庫が大学内にある(卒業生に本上まなみ、松岡きっこ)

  • 「大船鉾」(おおふねほこ)会所

    「大船鉾」(おおふねほこ)会所

  • (2022/07/21撮影)「大船鉾」(おおふねほこ)後祭山鉾建て<br />「日本書紀」の「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)の新羅出船に由来し、前祭の「船鉾」(ふねほこ)が「出陣」を表すのに対し、後祭の「大船鉾」は戦を終えて戻る「凱旋」を表し、毎年後祭では「くじとらず」で、最後を巡行して締める

    (2022/07/21撮影)「大船鉾」(おおふねほこ)後祭山鉾建て
    「日本書紀」の「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)の新羅出船に由来し、前祭の「船鉾」(ふねほこ)が「出陣」を表すのに対し、後祭の「大船鉾」は戦を終えて戻る「凱旋」を表し、毎年後祭では「くじとらず」で、最後を巡行して締める

  • 「杉本家住宅」(すぎもとけじゅうたく)<br />江戸時代1743年創業の「奈良屋」(ならや)という屋号を持つ呉服商で、1767年に現在地に移転し、1864年幕末の「禁門の変」の大火の後、明治3年(1870)に現在の姿に再建されたが、築150年は流石に修復工事が必要で、初の大規模修理を2021年から3年がかりで行い、最近2024年3月に完工した、京都の町家としては最大規模の建物で、江戸時代の大店(おおだな)の構えと、職住一体の「表屋造り」(おもてやづくり)の、昔ながらの典型的な京町家のたたずまいで、江戸時代の京大工の技量が詰まった建物として高い評価を受け、建物は2010年「重要文化財」、庭園は2011年「名勝」に指定されている

    「杉本家住宅」(すぎもとけじゅうたく)
    江戸時代1743年創業の「奈良屋」(ならや)という屋号を持つ呉服商で、1767年に現在地に移転し、1864年幕末の「禁門の変」の大火の後、明治3年(1870)に現在の姿に再建されたが、築150年は流石に修復工事が必要で、初の大規模修理を2021年から3年がかりで行い、最近2024年3月に完工した、京都の町家としては最大規模の建物で、江戸時代の大店(おおだな)の構えと、職住一体の「表屋造り」(おもてやづくり)の、昔ながらの典型的な京町家のたたずまいで、江戸時代の京大工の技量が詰まった建物として高い評価を受け、建物は2010年「重要文化財」、庭園は2011年「名勝」に指定されている

  • 重要文化財「杉本家住宅」<br />敷地360坪に家屋130坪の建物は、京町家に一般的な鰻の寝床でなく、間口が広い大規模な町家で、主屋は、表通に面した店舗部と裏手の居室部を玄関で結び、東側には黒レンガ造りの「おくどさん」の竈(かまど)が並び、後方には大蔵、隅蔵、中蔵が建ち並び、表構えの外観は、京格子に出格子、大戸(おおど)、犬矢来(いぬやらい)、2階の虫籠窓(むしこまど)など、見た目の美しさだけでなく、機能的な暮らしの工夫を随所に凝らし、屋敷の周囲は高塀で囲んで、屋敷の格式を高めている

    重要文化財「杉本家住宅」
    敷地360坪に家屋130坪の建物は、京町家に一般的な鰻の寝床でなく、間口が広い大規模な町家で、主屋は、表通に面した店舗部と裏手の居室部を玄関で結び、東側には黒レンガ造りの「おくどさん」の竈(かまど)が並び、後方には大蔵、隅蔵、中蔵が建ち並び、表構えの外観は、京格子に出格子、大戸(おおど)、犬矢来(いぬやらい)、2階の虫籠窓(むしこまど)など、見た目の美しさだけでなく、機能的な暮らしの工夫を随所に凝らし、屋敷の周囲は高塀で囲んで、屋敷の格式を高めている

  • 名勝「杉本氏庭園」<br />「庭園」は名勝指定されているが、「京町家の庭」として町家内の13の庭園がセットで指定されているという、珍しいパターンで、玄関庭や路地庭、座敷庭だけでなく、植栽がない屋内通路の走り庭(台所)や通り庭まで含めた「庭」が名勝指定されたのは初めてで、他にも見たことがない、これは庭は単なる観賞用だけでなく、日常の生活の中で日光や風を取り入れ、光や湿度・温度の調整などしながら、四季折々の風情を感じさせるものだという解釈で、今までの庭園観賞とは又違う見方だったので、もう一度じっくり見てみたいし、庭だけの解説をしてくれるガイドさんが欲しいと思った!

    名勝「杉本氏庭園」
    「庭園」は名勝指定されているが、「京町家の庭」として町家内の13の庭園がセットで指定されているという、珍しいパターンで、玄関庭や路地庭、座敷庭だけでなく、植栽がない屋内通路の走り庭(台所)や通り庭まで含めた「庭」が名勝指定されたのは初めてで、他にも見たことがない、これは庭は単なる観賞用だけでなく、日常の生活の中で日光や風を取り入れ、光や湿度・温度の調整などしながら、四季折々の風情を感じさせるものだという解釈で、今までの庭園観賞とは又違う見方だったので、もう一度じっくり見てみたいし、庭だけの解説をしてくれるガイドさんが欲しいと思った!

  • 「奈良屋」の看板<br />杉本家の初代は伊勢松坂の出身で、14歳で上京し西本願寺を通じて門徒の呉服商「奈良屋」に奉公し、1743年別家独立を許され烏丸通四条に呉服商「奈良屋」を屋号とし創業、京都を拠点として京呉服を仕入れ、千葉県佐原に店を持ち販売するという「他国店持京商人」(たこくだなもちきょうあきんど)で繁盛し、後に千葉店は昭和46年に三越と提携し千葉三越となるまで同地を代表する地方老舗百貨店として存続した、「他国店持京商人」は、現代と同じように一極集中が進んだ江戸時代に、染織品だけは京都に集中し、京都から関東はじめ全国にに向けて商売することで豪商になった人が増えたという、現代でも見習いたい!<br />

    「奈良屋」の看板
    杉本家の初代は伊勢松坂の出身で、14歳で上京し西本願寺を通じて門徒の呉服商「奈良屋」に奉公し、1743年別家独立を許され烏丸通四条に呉服商「奈良屋」を屋号とし創業、京都を拠点として京呉服を仕入れ、千葉県佐原に店を持ち販売するという「他国店持京商人」(たこくだなもちきょうあきんど)で繁盛し、後に千葉店は昭和46年に三越と提携し千葉三越となるまで同地を代表する地方老舗百貨店として存続した、「他国店持京商人」は、現代と同じように一極集中が進んだ江戸時代に、染織品だけは京都に集中し、京都から関東はじめ全国にに向けて商売することで豪商になった人が増えたという、現代でも見習いたい!

  • 「総工費2億円の大改修」<br />明治3年再建以来150年ぶりの改修で、15,000枚の瓦屋根の葺き替え、壁面・板塀などの修理、耐震補強工事を実施、3年がかりで総工費2億500万円で、国庫補助8割の残りはクラウドファンディングで募集したら650万円目標で何と1700人から4,500万円集まったというから驚く!

    「総工費2億円の大改修」
    明治3年再建以来150年ぶりの改修で、15,000枚の瓦屋根の葺き替え、壁面・板塀などの修理、耐震補強工事を実施、3年がかりで総工費2億500万円で、国庫補助8割の残りはクラウドファンディングで募集したら650万円目標で何と1700人から4,500万円集まったというから驚く!

  • 「公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」<br />京都の町家がどのようにして継承され、保存されているのか、毎度のことながら興味深いところだが、1990年杉本家住宅が京都市有形文化財に登録されると、1992年財団法人を設立、2010年国の重要文化財に指定されると、2011年公益財団法人に移行し、現在の十代目当主の杉本節子さんが中心になって、実際に住みながらの町家保存を実施、ここでのポイントは、先代の父親がフランス文学者で、この家を継がずに、財団を設立して残すことにしたところ、これまでお付き合いのあった沢山の有識者の支援を頂き、特に過去からご縁の深い西本願寺からは財団の基金づくりに多額の寄付があったこと、そして父の亡き後、三姉妹の次女で料理研究家を目指していた現在の当主が、「京のおばんざい」を絡めてこの建物を残すというビジネスモデルを作ったのが良かった、是非次の世代にも繋げていって欲しいと思う!

    「公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会」
    京都の町家がどのようにして継承され、保存されているのか、毎度のことながら興味深いところだが、1990年杉本家住宅が京都市有形文化財に登録されると、1992年財団法人を設立、2010年国の重要文化財に指定されると、2011年公益財団法人に移行し、現在の十代目当主の杉本節子さんが中心になって、実際に住みながらの町家保存を実施、ここでのポイントは、先代の父親がフランス文学者で、この家を継がずに、財団を設立して残すことにしたところ、これまでお付き合いのあった沢山の有識者の支援を頂き、特に過去からご縁の深い西本願寺からは財団の基金づくりに多額の寄付があったこと、そして父の亡き後、三姉妹の次女で料理研究家を目指していた現在の当主が、「京のおばんざい」を絡めてこの建物を残すというビジネスモデルを作ったのが良かった、是非次の世代にも繋げていって欲しいと思う!

  • 「西本願寺の直門徒」<br />杉本家には立派な「仏間」があり、商家によくある神棚や恵方棚がない、これは「奈良屋」が西本願寺のご縁で創業し、その後も代々西本願寺の直門徒として「勘定役」を務めるほど深い関係にあり、門徒としての帰依も厚いことから神は混在させないことを表し、「仏間」は祇園祭の期間中、屏風で隠して見えないが、四畳半の奥に一畳半ほどの内陣を設け、さらにその奥に三畳分の広さの板敷の内々陣がある豪華さで、杉本家がいかに浄土真宗を信仰してきたかが分かる、又(資料によると)ここでしか見れないもので、仏間の地下に過去の大火の経験から、仏壇を守るための石積みの穴蔵があり、さらに西本願寺の北能舞台の白州を模した「仏間庭」もある

    「西本願寺の直門徒」
    杉本家には立派な「仏間」があり、商家によくある神棚や恵方棚がない、これは「奈良屋」が西本願寺のご縁で創業し、その後も代々西本願寺の直門徒として「勘定役」を務めるほど深い関係にあり、門徒としての帰依も厚いことから神は混在させないことを表し、「仏間」は祇園祭の期間中、屏風で隠して見えないが、四畳半の奥に一畳半ほどの内陣を設け、さらにその奥に三畳分の広さの板敷の内々陣がある豪華さで、杉本家がいかに浄土真宗を信仰してきたかが分かる、又(資料によると)ここでしか見れないもので、仏間の地下に過去の大火の経験から、仏壇を守るための石積みの穴蔵があり、さらに西本願寺の北能舞台の白州を模した「仏間庭」もある

  • 「仏間」と「仏間庭」(パンフレットより)<br />「仏間」の脇には「仏間庭」があり、西本願寺の北能舞台と同じ黒い滑石(なめりいし)が敷き詰められ、銅の水盤は親鸞上人の教えに基づいた信仰の鏡を意味する *写真撮影は前回訪問時は禁止だったが、今回はスマートフォンでのみokになった

    「仏間」と「仏間庭」(パンフレットより)
    「仏間」の脇には「仏間庭」があり、西本願寺の北能舞台と同じ黒い滑石(なめりいし)が敷き詰められ、銅の水盤は親鸞上人の教えに基づいた信仰の鏡を意味する *写真撮影は前回訪問時は禁止だったが、今回はスマートフォンでのみokになった

  • 「茶室」<br />「茶道」も西本願寺と同じ「薮内流」で、昭和10年に薮内流9代次男により改装されたもの、「藪内流」は武野紹鷗(たけのじょうおう)の最晩年の弟子で、兄弟子利休や織部と共に茶の湯の基盤を形成し、二代目の時に西本願寺の茶道師家に迎えられ現在14代 *利休の系列の三千家・表千家、裏千家、武者小路千家に並ぶ藪内家は利休の兄弟弟子の系列、他に小堀遠州の遠州流など数百あるといわれる

    「茶室」
    「茶道」も西本願寺と同じ「薮内流」で、昭和10年に薮内流9代次男により改装されたもの、「藪内流」は武野紹鷗(たけのじょうおう)の最晩年の弟子で、兄弟子利休や織部と共に茶の湯の基盤を形成し、二代目の時に西本願寺の茶道師家に迎えられ現在14代 *利休の系列の三千家・表千家、裏千家、武者小路千家に並ぶ藪内家は利休の兄弟弟子の系列、他に小堀遠州の遠州流など数百あるといわれる

  • 「露地庭」<br />飾り井戸や、蹲踞(つくばい)に、ちょうどいい大きさの燈篭が据えられ、飛び石が打たれたシンプルな茶室の露地庭になっている

    「露地庭」
    飾り井戸や、蹲踞(つくばい)に、ちょうどいい大きさの燈篭が据えられ、飛び石が打たれたシンプルな茶室の露地庭になっている

  • 「露地庭の石うさぎ」<br />「八畳の間」から「露地庭」を見ると「ウサギ」の夫婦が、子孫繁栄・商売繁盛を祈る

    「露地庭の石うさぎ」
    「八畳の間」から「露地庭」を見ると「ウサギ」の夫婦が、子孫繁栄・商売繁盛を祈る

  • 「八畳の間」<br />「八畳の間」の前が露地庭で、塀の向こうが「膏薬図子」(こうやくのずし)、隣が綾小路通に面した笹目格子の「格子の間」で、内から外の様子は見れるが、外からは電気をつけていても見えない<br />

    「八畳の間」
    「八畳の間」の前が露地庭で、塀の向こうが「膏薬図子」(こうやくのずし)、隣が綾小路通に面した笹目格子の「格子の間」で、内から外の様子は見れるが、外からは電気をつけていても見えない

  • 「祇園会の屏風祭」<br />昔から家に伝わるしきたりを守り、雛飾りや端午の節句など一年を通じて様々な年中行事をおこなっているが、この季節の祇園祭では、「伯牙山」(はくがやま)山鉾町保存会によって守られている山のお飾り場として、7月14日からは写真の狩野元信作と言われる「蘆雁図屏風」(ろがんずびょうぶ)など公開展示している

    「祇園会の屏風祭」
    昔から家に伝わるしきたりを守り、雛飾りや端午の節句など一年を通じて様々な年中行事をおこなっているが、この季節の祇園祭では、「伯牙山」(はくがやま)山鉾町保存会によって守られている山のお飾り場として、7月14日からは写真の狩野元信作と言われる「蘆雁図屏風」(ろがんずびょうぶ)など公開展示している

  • 「祇園祭の山鉾町」<br />杉本家は、「伯牙山」の山鉾町に属し、祇園祭を支えてきた八坂神社の氏子地域にある34の山鉾町の内の1つとして、祇園祭に使う山や鉾を保存、運営しているが、杉本家は西本願寺との関りが深いので、信仰ではなく、ご近所付き合いとして関わっているという *太平洋戦争で町会所が無くなったため、杉本家住宅を会所として使っている

    「祇園祭の山鉾町」
    杉本家は、「伯牙山」の山鉾町に属し、祇園祭を支えてきた八坂神社の氏子地域にある34の山鉾町の内の1つとして、祇園祭に使う山や鉾を保存、運営しているが、杉本家は西本願寺との関りが深いので、信仰ではなく、ご近所付き合いとして関わっているという *太平洋戦争で町会所が無くなったため、杉本家住宅を会所として使っている

  • 「主座敷」<br />玄関から入って六畳の間、中の間に続き、極めて簡素で格調高い一番広い10畳の部屋で、当主の客だけをもてなし、四季折々のハレの年中行事「桃の節句」「端午の節句」「屏風祭」などは今も続け、6月には冬仕様の障子や襖をはずして、夏仕様の簀戸(すど)や御簾(みす)、籐むしろ(とむしろ)などに入れ替える「建具替え」を行い、蔵にしまう

    「主座敷」
    玄関から入って六畳の間、中の間に続き、極めて簡素で格調高い一番広い10畳の部屋で、当主の客だけをもてなし、四季折々のハレの年中行事「桃の節句」「端午の節句」「屏風祭」などは今も続け、6月には冬仕様の障子や襖をはずして、夏仕様の簀戸(すど)や御簾(みす)、籐むしろ(とむしろ)などに入れ替える「建具替え」を行い、蔵にしまう

  • 「座敷庭」<br />中央の「伽藍石」( がらんいし;廃寺の礎石などを流用した丸い石)が印象的な庭で、大きすぎない春日燈籠や飛石と、背後のクロモジの柴垣(黒文字はクスノキ科の落葉低木)が素晴らしい!

    「座敷庭」
    中央の「伽藍石」( がらんいし;廃寺の礎石などを流用した丸い石)が印象的な庭で、大きすぎない春日燈籠や飛石と、背後のクロモジの柴垣(黒文字はクスノキ科の落葉低木)が素晴らしい!

  • 「五条大橋礎石の手水鉢」<br />石燈籠と反対側の手水鉢は五条大橋に使われていた礎石を利用したもので、何気ないこだわりがお洒落!

    「五条大橋礎石の手水鉢」
    石燈籠と反対側の手水鉢は五条大橋に使われていた礎石を利用したもので、何気ないこだわりがお洒落!

  • 「土蔵」<br />北側には3つの蔵があり、大蔵・隅蔵・中蔵ともに、幕末の「禁門の変」の大火に焼け残ったもので、非常に貴重!<br /><br /><br /><br /><br />

    「土蔵」
    北側には3つの蔵があり、大蔵・隅蔵・中蔵ともに、幕末の「禁門の変」の大火に焼け残ったもので、非常に貴重!




  • 「おくどさん」(台所)<br />台所には4つの「おくどさん」(竈;かまど)があり、昔は七ツ口で数十名いた住み込みの店員たちの食事を賄っていたが、今はガス管を通して四ツ口で使っているらしい、天井は火袋という吹き抜けがあり、熱気を逃し、高窓には明り取りの障子があり、ロープで開け閉めが出来るなど、いたるところに工夫がある

    「おくどさん」(台所)
    台所には4つの「おくどさん」(竈;かまど)があり、昔は七ツ口で数十名いた住み込みの店員たちの食事を賄っていたが、今はガス管を通して四ツ口で使っているらしい、天井は火袋という吹き抜けがあり、熱気を逃し、高窓には明り取りの障子があり、ロープで開け閉めが出来るなど、いたるところに工夫がある

  • 「走り庭」<br />玄関から奥まで続く土間を「通り庭」と言い、台所にあたる所を「走り庭」(台所庭)と呼び、杉本家の庭園は座敷庭、路地庭だけでなく、植栽のない通路や作業場となる土間までを含めて「名勝庭園」に指定されており、通り庭も含め「庭と建物の調和」がとれて、快適な生活が出来るかが、重要な意味を持っている

    「走り庭」
    玄関から奥まで続く土間を「通り庭」と言い、台所にあたる所を「走り庭」(台所庭)と呼び、杉本家の庭園は座敷庭、路地庭だけでなく、植栽のない通路や作業場となる土間までを含めて「名勝庭園」に指定されており、通り庭も含め「庭と建物の調和」がとれて、快適な生活が出来るかが、重要な意味を持っている

  • (2008/07/15撮影)「伯牙山」(はくがやま)前祭山鉾建て<br />杉本家は「伯牙山」の会所になっており、玄関前に山が建つ *「伯牙山」は、琴の名人・伯牙(はくが)が友人・鐘子期(しょうしき)の死を聞いて「もう自分の琴を聞いてくれる人はいなくなってしまった」と嘆き悲しみ、琴を斧で割ってしまおうとしている様を表す

    (2008/07/15撮影)「伯牙山」(はくがやま)前祭山鉾建て
    杉本家は「伯牙山」の会所になっており、玄関前に山が建つ *「伯牙山」は、琴の名人・伯牙(はくが)が友人・鐘子期(しょうしき)の死を聞いて「もう自分の琴を聞いてくれる人はいなくなってしまった」と嘆き悲しみ、琴を斧で割ってしまおうとしている様を表す

  • 「祇園祭の鉾と山」<br />「鉾」(ほこ)と「山」(やま)は山車の形状により呼び方が違う、「鉾」は比較的大きく先端に刀や月がついたり(長刀鉾・月鉾)、船や傘の形をしている(船鉾)があり、お囃子などの大人数が乗れて重さ12トンの巨体で、「山」は先端に松の木がついて、人はあまり乗れず、1.5トンくらい、また「山」には曳山(ひきやま)と舁山(かきやま)があり、「曳山」は「鉾」にそっくりでお囃子も乗るが先端は松で、「舁山」は少し小ぶりで「山」のテーマに合わせた人形をのせ、昔は人が担いでいたが現在は全て車輪がついている、全34基で、「前祭」23基は鉾6基、船鉾1基、傘鉾2基、曳山1基、舁山13基、「後祭」11基は曳山3基、船鉾1基、舁山7基、そして「動く美術館」と言われる豪華な装飾品の「値段」は、長刀鉾3億円、船鉾2億円など、昔の京都人は凄かったが、今の人も凄い!

    「祇園祭の鉾と山」
    「鉾」(ほこ)と「山」(やま)は山車の形状により呼び方が違う、「鉾」は比較的大きく先端に刀や月がついたり(長刀鉾・月鉾)、船や傘の形をしている(船鉾)があり、お囃子などの大人数が乗れて重さ12トンの巨体で、「山」は先端に松の木がついて、人はあまり乗れず、1.5トンくらい、また「山」には曳山(ひきやま)と舁山(かきやま)があり、「曳山」は「鉾」にそっくりでお囃子も乗るが先端は松で、「舁山」は少し小ぶりで「山」のテーマに合わせた人形をのせ、昔は人が担いでいたが現在は全て車輪がついている、全34基で、「前祭」23基は鉾6基、船鉾1基、傘鉾2基、曳山1基、舁山13基、「後祭」11基は曳山3基、船鉾1基、舁山7基、そして「動く美術館」と言われる豪華な装飾品の「値段」は、長刀鉾3億円、船鉾2億円など、昔の京都人は凄かったが、今の人も凄い!

  • 「長江家住宅」(ながえけじゅうたく)<br />杉本家住宅と同様、職住一体の京町家で(創業は杉本家1743年に対して江戸時代後期の1822年、敷地の大きさは360坪と200坪の違いはあるが)、代々「大坂屋」という屋号で呉服卸商を営んできて、3代目が現在の袋屋町(現船鉾町)に店を構え、5代目の1864年禁門の変で焼失、その後1868年に再建し、1907年6代目が拡張し現在の表屋造の屋敷に新築した、以後住居兼店舗として利用されてきたが、2015年8代目より東京の不動産会社(株)フージャースコーポレーションが土地家屋を、立命館大学が所蔵品を所有し、長江家住宅の維持、管理、継承をするという「産学連携」の町家保全モデルが出来上がって、企業の迎賓館としての利用や、大学の教育研究の場として利用しており、また新しい町家保全のモデルを知って心強い!

    「長江家住宅」(ながえけじゅうたく)
    杉本家住宅と同様、職住一体の京町家で(創業は杉本家1743年に対して江戸時代後期の1822年、敷地の大きさは360坪と200坪の違いはあるが)、代々「大坂屋」という屋号で呉服卸商を営んできて、3代目が現在の袋屋町(現船鉾町)に店を構え、5代目の1864年禁門の変で焼失、その後1868年に再建し、1907年6代目が拡張し現在の表屋造の屋敷に新築した、以後住居兼店舗として利用されてきたが、2015年8代目より東京の不動産会社(株)フージャースコーポレーションが土地家屋を、立命館大学が所蔵品を所有し、長江家住宅の維持、管理、継承をするという「産学連携」の町家保全モデルが出来上がって、企業の迎賓館としての利用や、大学の教育研究の場として利用しており、また新しい町家保全のモデルを知って心強い!

  • 「長江家の屏風祭」<br />普段は非公開だが、祇園祭の「屏風祭」でのみ一般公開し、立命館大学が所有する長江家旧蔵品の屏風や掛け軸、置物、生活道具、趣向品など飾る

    「長江家の屏風祭」
    普段は非公開だが、祇園祭の「屏風祭」でのみ一般公開し、立命館大学が所有する長江家旧蔵品の屏風や掛け軸、置物、生活道具、趣向品など飾る

  • 「船鉾」(ふねほこ)会所<br />長江家の真向かいに「船鉾」会所がある

    「船鉾」(ふねほこ)会所
    長江家の真向かいに「船鉾」会所がある

  • 「船鉾」(ふねほこ)は、神功皇后(じんぐうこうごう)の「三韓征伐」で戦いに向かう船出の「出陣」を表し、前祭(さきまつり)のラストを巡行して、神功皇后の神像に岩田帯をたくさん巻き、巡行後、妊婦に授けると安産のお守りになる、また対となる「大船鉾」は、戦を終えて戻る凱旋の場面を表し、後祭(あとまつり)のラストを巡行する

    「船鉾」(ふねほこ)は、神功皇后(じんぐうこうごう)の「三韓征伐」で戦いに向かう船出の「出陣」を表し、前祭(さきまつり)のラストを巡行して、神功皇后の神像に岩田帯をたくさん巻き、巡行後、妊婦に授けると安産のお守りになる、また対となる「大船鉾」は、戦を終えて戻る凱旋の場面を表し、後祭(あとまつり)のラストを巡行する

  • 「木乃婦」(きのぶ)<br />仏光寺通を過ぎたところに、呉服商がひしめく室町界隈の旦那衆に愛されてきたミシュラン一つ星の老舗料亭がある、御所御用達の料理旅館であった「木藤」の暖簾分けで昭和10年創業、現在3代目で、料亭「吉兆」の創業者・湯木貞一氏の最後の付き人だったという、昼会席6,500円~夜会席35,000円

    「木乃婦」(きのぶ)
    仏光寺通を過ぎたところに、呉服商がひしめく室町界隈の旦那衆に愛されてきたミシュラン一つ星の老舗料亭がある、御所御用達の料理旅館であった「木藤」の暖簾分けで昭和10年創業、現在3代目で、料亭「吉兆」の創業者・湯木貞一氏の最後の付き人だったという、昼会席6,500円~夜会席35,000円

  • 「岩戸山」(いわとやま)会所手前の町家<br />「祇園祭岩戸山町二階囃子」の案内があったので入って見る、「岩戸山」は、「古事記」「日本書紀」に記される「天の岩戸」(あまのいわと)を開いて天照大神(あまてらすおおみかみ)が出現する神話に因む曳き山で、伊弉諾尊(いざなみのみこと)、天照大神、手力男命(あめのたぢからおのかみ)の3体の人形が飾られている

    「岩戸山」(いわとやま)会所手前の町家
    「祇園祭岩戸山町二階囃子」の案内があったので入って見る、「岩戸山」は、「古事記」「日本書紀」に記される「天の岩戸」(あまのいわと)を開いて天照大神(あまてらすおおみかみ)が出現する神話に因む曳き山で、伊弉諾尊(いざなみのみこと)、天照大神、手力男命(あめのたぢからおのかみ)の3体の人形が飾られている

  • 「The Terminal KYOTO」(町家カフェ、ギャラリー)<br />入り口は「喫茶アリmasu」だけで、店看板がないので分かりにくいが、昭和7年(1932)建築の呉服問屋「木崎呉服店」の職住一体の町屋で、呉服商で培った財力と教養で敷地140坪を改装し、平成26年(2014)オープンした<br /><br />

    「The Terminal KYOTO」(町家カフェ、ギャラリー)
    入り口は「喫茶アリmasu」だけで、店看板がないので分かりにくいが、昭和7年(1932)建築の呉服問屋「木崎呉服店」の職住一体の町屋で、呉服商で培った財力と教養で敷地140坪を改装し、平成26年(2014)オープンした

  • 「町家の活用」<br />玄関土間から「見せの間」を通り、奥に進むと8畳間が2間続きの広い喫茶スペースがあり、その奥に庭園と、生け垣の向こうには茶室、2階にも広い座敷があり、イベントやギャラリーなどに活用している

    「町家の活用」
    玄関土間から「見せの間」を通り、奥に進むと8畳間が2間続きの広い喫茶スペースがあり、その奥に庭園と、生け垣の向こうには茶室、2階にも広い座敷があり、イベントやギャラリーなどに活用している

  • 「ツカキ再生モデル」<br />庭園は、大きな鞍馬石の沓脱石や飛石、昔の橋脚を使った蹲(つくばい)などもある本格的な作庭で、ここでも町家が立派に再生されているのは何故か、興味が湧いてくるので後で調べてみた! この再生を担当したのは「ツカキ」こと「塚本喜左衛門」(つかもときざえもん1948~ )で、着物卸と西陣織や宝石など幅広く事業展開しながら、社長が力を入れているのが「歴史ある建物の保存・再生事業」で、この建屋の主人から頼まれてここまで再生したという、ここで思い出すのは吉田山麓にある「重森三玲庭園」も、親交のあった「塚本喜左衛門」が築300年の建物を引き受け、全面改修していることで、今回いくつかの町家再生モデルを見たが、また新たなモデルを見て嬉しい

    「ツカキ再生モデル」
    庭園は、大きな鞍馬石の沓脱石や飛石、昔の橋脚を使った蹲(つくばい)などもある本格的な作庭で、ここでも町家が立派に再生されているのは何故か、興味が湧いてくるので後で調べてみた! この再生を担当したのは「ツカキ」こと「塚本喜左衛門」(つかもときざえもん1948~ )で、着物卸と西陣織や宝石など幅広く事業展開しながら、社長が力を入れているのが「歴史ある建物の保存・再生事業」で、この建屋の主人から頼まれてここまで再生したという、ここで思い出すのは吉田山麓にある「重森三玲庭園」も、親交のあった「塚本喜左衛門」が築300年の建物を引き受け、全面改修していることで、今回いくつかの町家再生モデルを見たが、また新たなモデルを見て嬉しい

  • 「こだわりのカップとコーヒーとチーズケーキ」<br />カップとソーサーは展示されてあった有名作家の陶器で、チーズケーキも一押しの逸品だったが、セットで2,000円とお高め

    「こだわりのカップとコーヒーとチーズケーキ」
    カップとソーサーは展示されてあった有名作家の陶器で、チーズケーキも一押しの逸品だったが、セットで2,000円とお高め

  • 「松原道祖神社」(まつばらどうそじんじゃ)<br />「高辻通」を越えて、平安時代には五条大路と呼ばれた「松原通」を過ぎた所にあり、平安京以前より道の神・塞(さい)の神(厄災を塞ぐ神)として祀られ、平安時代には清水寺への参詣道として賑わい、道路や旅行の神として信仰を集めた

    「松原道祖神社」(まつばらどうそじんじゃ)
    「高辻通」を越えて、平安時代には五条大路と呼ばれた「松原通」を過ぎた所にあり、平安京以前より道の神・塞(さい)の神(厄災を塞ぐ神)として祀られ、平安時代には清水寺への参詣道として賑わい、道路や旅行の神として信仰を集めた

  • 「五条の道祖神と道命」の逸話(宇治拾遺物語)<br />「道命」(どうみょう)阿闍梨という僧は、美声の持主で読経の声に優れ、毎夜、歌人・和泉式部のもとに通っていたが、ある夜、和泉式部邸の寝室で経を読み終えて床に就こうとしたら、一人の老人が居り、尋ねると「五条の道祖神」という。道祖神は法華経は清浄な人が読むと神々が聴聞するが、道命は身も清めずに経を読んだため神々は近づかなかった、と道命を戒めたという

    「五条の道祖神と道命」の逸話(宇治拾遺物語)
    「道命」(どうみょう)阿闍梨という僧は、美声の持主で読経の声に優れ、毎夜、歌人・和泉式部のもとに通っていたが、ある夜、和泉式部邸の寝室で経を読み終えて床に就こうとしたら、一人の老人が居り、尋ねると「五条の道祖神」という。道祖神は法華経は清浄な人が読むと神々が聴聞するが、道命は身も清めずに経を読んだため神々は近づかなかった、と道命を戒めたという

  • 「五条通」<br />豊臣秀吉が方広寺大仏殿参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を現在の松原通から架け替えてから、この通りが五条通となり、元の五条大路は松原通となった、堀川通までは国道1号で、以西は国道9号、国道8号、国道162号となっている

    「五条通」
    豊臣秀吉が方広寺大仏殿参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を現在の松原通から架け替えてから、この通りが五条通となり、元の五条大路は松原通となった、堀川通までは国道1号で、以西は国道9号、国道8号、国道162号となっている

  • 「白山湯六条店」<br />サウナ好きに人気の「白山湯」は、高辻店に続いて平成14年にできた比較的新しい銭湯で、人気の秘密は豊富な地下水を利用していることだという

    「白山湯六条店」
    サウナ好きに人気の「白山湯」は、高辻店に続いて平成14年にできた比較的新しい銭湯で、人気の秘密は豊富な地下水を利用していることだという

  • 「六条通」<br />西本願寺前の堀川通から鴨川手前の河原町通までの通りで、写真のカラー通りは新町通から油小路通まで続く「六条商店街」で、昔の魚屋が集まった「魚の棚通」の名残り

    「六条通」
    西本願寺前の堀川通から鴨川手前の河原町通までの通りで、写真のカラー通りは新町通から油小路通まで続く「六条商店街」で、昔の魚屋が集まった「魚の棚通」の名残り

  • 「鵜の鳳翔堂」(うのほうしょうどう)<br />昭和6年創業の和ろうそくの老舗

    「鵜の鳳翔堂」(うのほうしょうどう)
    昭和6年創業の和ろうそくの老舗

  • 「東本願寺」の石垣

    「東本願寺」の石垣

  • 「東本願寺」左右へ500m、「西本願寺」後へ300m、「京都駅」右へ500m

    「東本願寺」左右へ500m、「西本願寺」後へ300m、「京都駅」右へ500m

  • 「七条通」の近代建築「富士ラビット館」<br />「七条通」は、東福寺前の東大路通・東山七条から桂川に架かる桂大橋までで、山陰街道へ続く、「富士ラビット館」は大正時代の有形文化財だが、ラビットつながりで牛丼の「なか卯」が店舗を開いたことで話題になった

    「七条通」の近代建築「富士ラビット館」
    「七条通」は、東福寺前の東大路通・東山七条から桂川に架かる桂大橋までで、山陰街道へ続く、「富士ラビット館」は大正時代の有形文化財だが、ラビットつながりで牛丼の「なか卯」が店舗を開いたことで話題になった

  • 「塩小路通」「京都中央郵便局」前<br />「塩小路通」は、七条通と東海道本線の間を走り、三哲と呼ばれた渋川春海の邸宅があったことから「三哲通」(さんてつどおり)と唄われる、赤い目立つオブジェは京都駅や平安神宮など京都市内何ヶ所かにある「清水六兵衞」彫刻家の作品、「京都中央郵便局」は、明治13年(1880)創業で、現在の建物は昭和36年(1961)建立だが、老朽化で京都駅ビルの立体駐車場と一体で複合ビルへの建替えを2029年に予定している

    「塩小路通」「京都中央郵便局」前
    「塩小路通」は、七条通と東海道本線の間を走り、三哲と呼ばれた渋川春海の邸宅があったことから「三哲通」(さんてつどおり)と唄われる、赤い目立つオブジェは京都駅や平安神宮など京都市内何ヶ所かにある「清水六兵衞」彫刻家の作品、「京都中央郵便局」は、明治13年(1880)創業で、現在の建物は昭和36年(1961)建立だが、老朽化で京都駅ビルの立体駐車場と一体で複合ビルへの建替えを2029年に予定している

  • 「京都駅」到着<br />「京都駅ビル」は、初代1877年(明治10)から現在は4代目で1997年(平成9)の建立、梅田スカイビルや 札幌ドームなど手掛けた「原 広司」の設計

    「京都駅」到着
    「京都駅ビル」は、初代1877年(明治10)から現在は4代目で1997年(平成9)の建立、梅田スカイビルや 札幌ドームなど手掛けた「原 広司」の設計

  • 「京都タワー」(東寺の五重塔と共に京都市のランドマーク)<br />1964年(昭和39年)東京オリンピック開催年に、京都中央郵便局跡地に建立、海のない京都の街を照らす「灯台」をモチーフに建てられた、というが「ローソク」と言う人が多い、高さは東寺の五重塔54.8m以上はダメという不文律があり、一応規制は31mだったため、31mのビルの上に100mの「工作物」を置くことでクリアした、設計は日本武道館も手掛けた「山田守」

    「京都タワー」(東寺の五重塔と共に京都市のランドマーク)
    1964年(昭和39年)東京オリンピック開催年に、京都中央郵便局跡地に建立、海のない京都の街を照らす「灯台」をモチーフに建てられた、というが「ローソク」と言う人が多い、高さは東寺の五重塔54.8m以上はダメという不文律があり、一応規制は31mだったため、31mのビルの上に100mの「工作物」を置くことでクリアした、設計は日本武道館も手掛けた「山田守」

  • 「八条西口」<br />「七条通」から駅を通り抜けて新幹線側の「八条通」へ

    「八条西口」
    「七条通」から駅を通り抜けて新幹線側の「八条通」へ

  • 「都ホテル」東側の狭い小路から「新町通」再開

    「都ホテル」東側の狭い小路から「新町通」再開

  • 「大正湯」<br />京都は銭湯が多いのかどうか、分からないが、平安京散歩していると、よくレトロな銭湯に出会うがココは古くはない、京都駅に近く夜行バスの人がよく利用するらしい

    「大正湯」
    京都は銭湯が多いのかどうか、分からないが、平安京散歩していると、よくレトロな銭湯に出会うがココは古くはない、京都駅に近く夜行バスの人がよく利用するらしい

  • 「九条新町」今回はココまで

    「九条新町」今回はココまで

  • 「新町通」は、まだまだ久世橋通まで続く

    「新町通」は、まだまだ久世橋通まで続く

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