2024/01/18 - 2024/01/18
1767位(同エリア6667件中)
Bachさん
「龍年」の初詣で開運アップしようと思い、今年人気の「瀧尾神社」目指して行くことにしましたが、ランチを以前から行きたいと思っていた東山三条にある「マルシン飯店」にしたら、結局「東大路通」を三条から東福寺まで歩くことになり、京都の南北通り4kmの京町散歩になりました。
「東大路通」は三条以南は「東山通」とも呼ばれ、東山沿いに神社仏閣や博物館などがつらなり観光客も多い通りで、車ではよく走りますが、今回徒歩で散策してみると、多種多様な店舗が新旧混在してあって非常に楽しく、有名な歴史遺産も多いですが今まで見逃していた穴場的な史蹟もあって、たった半日で沢山の収穫がありました。
ポイントは、①通り沿いに並ぶ江戸時代からの老舗や町家を利用した多種多様な新店舗、②「大谷本廟」の歴史、③「新熊野神社」の歴史 ④「瀧尾神社」の歴史で、老舗の相続争いや、東西本願寺の争い、平安時代に遡る神仏習合の経緯、新熊野と大丸の経緯など、歴史が深いだけに存在する問題は、調べれば調べるほど面白くなり、この散歩の冥利に尽きるところです。
今年も昨年の「平安京・東西大路」散歩に続き、「平安京・南北大路」の散歩を楽しみたいと思っています。
PR
-
(行程)11:50京阪三条駅~12:00東山三条~ランチ「マルシン飯店」13:20~13:30知恩院前~14:00八坂神社前~14:20安井金毘羅宮~14:40東山五条~14:50妙法院前~お茶休憩「一芳園」~15:20新熊野神社~15:50瀧尾神社~16:30京阪東福寺駅
-
京阪三条駅直ぐの「東山三条」からスタート
-
12:10既に行列の出来ている「マルシン飯店」に並んでランチ
-
創業50年近くの庶民的な中華のお店で、いろんな情報誌で紹介されているから観光客にも人気でいつも行列が出来ている
-
辰年に相応しいキャラクターの「餃・ザ・ドラゴンの龍シロー」(店主の名前)、創業からの「生餃子」が有名
-
定番の八宝菜、チャーハン、餃子で満腹!
-
東大路通沿いには古い店舗が並んで楽しい!
「風来居」(ふうらいきょ):骨董品、雑貨、リサイクル品など(風来居は俳人・種田山頭火が住んでいた庵の名前) -
京呉服「ヤマモト」
-
本職左官鏝(さかんごて)「坪田商店」
-
古美術「田沢古美術店」
-
七宝工芸・象嵌工芸・七宝焼材料「丹羽製作所」
-
「一澤信三郎帆布」の製造部門「東山工房」
職人の作業風景を窓ガラス越しに公開している -
帆布かばん店「一澤信三郎帆布」(いちざわしんさぶろうはんぷ)
牛乳配達袋や酒袋、大工袋など職人用の道具袋から始まり1905年創業で、帆布と呼ばれる厚布で作られ、素朴でシンプルなデザイン、豊富な色ぞろえ、堅牢なつくりで、帆布の素材感や使うほどに増す風合いが人気 *2006年相続トラブルにより、裁判に負けた三男の信三郎が職人と従業員を引き連れ独立、長男の信太郎は新たな職人と素材で社長を引き継いだが、2009年に三男が逆転勝訴し社長に復帰し「一澤信三郎帆布」の営業を再開、長男側は休業となったが、2010年職人肌の四男が「帆布カバン喜一澤」(きいちざわ)をすぐ近くに開店し、2011年信三郎も現在の地に「一澤信三郎帆布」を再開した -
店舗入り口の「布包」(かばん)のデザインは、永六輔の書らしい
ドラマのような骨肉の相続争いは当時話題になって興味深い、3代目には3人の息子がおり(次男は死亡)三男は9年間勤めていた朝日新聞を辞め父を手伝い、長男は東海銀行に勤め、四男は職人として父を手伝っていたが、2001年3代目が死去すると、遺言書により三男・信三郎が社長を引き継ぐ、ところが銀行員の長男が別の遺言書があると言い出し、どちらが有効かで提訴、結果、長男の方が直近のものとして勝訴し、2005年当時社長の三男を解任し長男が社長となり技術に長けた四男も取締役に就任、三男は別会社を設立し職人65人全員が社長を務めた長男を支持し転籍し、店舗と工場を賃借する形で継続していたが、長男から明け渡しを求められ営業を休止、しかし2006年「一澤信三郎さんを応援する会」が発足し京都政財界の有力者たちが三男を支持し、三男は四男と共に営業を再開、その後も訴訟合戦は継続し、長男の遺言書は父が脳梗塞で要介護状態の時のもので無効ということで2009年逆転勝訴となり、三男が社長復帰して元の店舗で「一澤信三郎帆布」の営業を再開、長男側は休業となったが、解任された四男は「帆布カバン喜一澤(きいちざわ)」を新たに設立し、2010年一澤信三郎帆布のそばに開店した -
京都の米屋「トミヤ米穀店」
-
材木店「村万材木店」
-
「京都祇園ボロニヤ」
1979年創業の元祖 デニッシュ食パンの店 *デニッシュは、「デンマークの」という意味 -
通りの向かい側に最近出店した「京都祇園ボロニヤ」喫茶店
「今井酒店」、アンティーク&創作ブティック「うたかた」、カフェ「六花ROKKA」の並びが京都らしい -
普通の民家もある、特製の行灯風ポストがお洒落!
-
精肉「ヒラタ」、隣は「いそだ内科医院」
-
「大西法衣佛具店」慶応元年(1865年) 創業
-
知恩院前
華頂通を進むと知恩院「古門」から裏玄関にあたる「黒門」に突き当たり、右折すると「三門」の表玄関 -
「知恩院古門」(総門)
安土桃山時代に建てられ、当時は唯一の参道だった時の知恩院の総門、知恩院通り側にあるのは「新門」 -
「一本橋」岡崎疎水から鴨川へ続く「白川」に架かる「古門前橋」より
ロケに良く使われるレトロな石橋は明治40年の架橋で、比叡山の千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)修行後に京の町に入洛するとき最初に渡ることから行者橋、阿闍梨橋(あじゃりばし)ともいわれる。地元の子供達は、「この幅67cm、橋長12mの石橋を自転車で渡れるようになったら一人前」といわれているという -
レンタル着物店「游風」
-
お洒落なチーズケーキ専門店「花HANA」
食用花を使ったスイーツが売りで花を食べるがコンセプトらしい -
「渡辺法衣佛具店」
-
石標「門前白川の道・右きく屋ばし」(裏側に)左たぬき橋
白川沿いに進むと「たぬき橋」から花見小路へと続き、「たぬき橋」を境に静かな通りから華やかな通りになる、ちなみにすぐ近くの「巽橋」に狸がいて橋を渡る人を化かしたことからこの狸を「辰巳神社」に祀り鎮めたことから「辰巳神社」の御祭神は狸になったという -
「菊屋橋」大正元年竣工
白川は東大路通に架かる「菊屋橋」をくぐり祇園白川へと流れる -
白川沿いの白川北通は「なすありの径」と呼ばれる
白川を工事する時に川底から「なすあり地蔵」というお地蔵さんが出て来たので、祠を建ててお祀りしたことに由来、「なすあり」は近くの小学校の名前「有済」(必ず報われる)に因むといわれる -
「白川」は、比叡山と如意ヶ嶽の山麓から京都に入り、吉田山から銀閣寺前で琵琶湖疏水分線の上を交差し、南禅寺で琵琶湖疏水に合流し、平安神宮前で琵琶湖疏水と分かれ、知恩院前で祇園方向へ向きを変え、巽橋から四条通の北側で鴨川に合流する
-
円山公園辺りにもあったお洒落な公衆トイレ
-
喫茶店「ヤマモト」
自家焙煎のコーヒーにたまごサンドが美味しそう -
「新門前通」
昔から知恩院の参拝道で、京都で最も情緒豊かな祇園と隣り合わせの通りに、古美術や近現代美術を扱う店が軒を連ねる -
美術品の古物市場「京都美術倶楽部」
明治中期以降、美術品の市場が活況を呈し京都は全国の入札事業の中心地となって、当初料亭、寺院などで行われていたが、明治41年美術業者が発起人となって美術品の専用市場を設立したという、毎年開催される「京都正札市」では茶道具、骨董、書画などの美術品が数千点出品され、一般人でも購入出来るらしい -
古美術「梶アンティークショップ」
-
古美術「ギャラリー奏美庵」
-
古美術「木村」
-
古美術「泉IZUMI」
-
宝石店「Wayu(わゆう)パワーストーンサロン」
-
古美術「堂上」
-
東大路通りの向かい側を見ると、古美術店「日月」と天丼専門店が並んでいる
-
「帆布カバン喜一澤」(きいちざわ)
相続争いの末に、2010年四男が出店した店、徒歩で20分の距離 -
「ようこそおこしやす・祇園の入り口・新橋通り」の白い案内板
新橋通と白川に面する辺りは祇園白川と呼ばれ、祇園東の芸妓、舞妓さんが通うお茶屋が立ち並ぶ古風で美しく情緒のある街並みで祇園新橋として伝統的建造物群保存地区に指定される、もともとは八坂神社の門前町として発展し、参拝客や芝居客相手の茶屋町が作られ、江戸時代になると幕府から正式な茶屋営業の許可が下りさらに発展し、江戸末期には500軒もの茶屋が祇園にひしめいていたが、戦後歓楽街として乱開発が進み多くのビルが出来たものの、祇園新橋の人々はお茶屋の町並みを守り続けている -
「知恩院新門」前
知恩院通を進むと「山門」にぶつかる -
「祇園東お茶屋組合」
祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の五花街の一つで、毎年秋になると「祇園をどり」が開催される -
祇園会館「よしもと祇園花月」
-
外壁は1958年(昭和33年)の開館当時から残されているタイル壁画で、映画上映をしていたが、2011年新京極・京都花月から移転、毎年11月には祇園をどりの開催地となる
-
富永町通
飲食店が立ち並ぶ -
京漬物「ぎおん川勝」創業1930年
川勝總本家だと思っていたが別会社らしい、川勝總本家が大正6年(1917)にこの地で創業し、昭和初期に現在の大宮五条に移転しているから、かつての店舗を引き継いだのが「ぎおん川勝」だと思われる -
京の米料亭「八代目儀兵衛」
「究極の銀シャリ」を味わえる店として行列が絶えないが、今日は定休日で行列無し
江戸時代初代儀兵衛が創業した京都の老舗米屋だったが、お米の価値観を変えようと、2006年に八代目が「八代目儀兵衛」を設立し、米を絶妙なバランスでブレンドした米ギフト事業を始め、オリジナルの土鍋炊飯釜を使った炊飯技術を確立した弟と共に2009年「米料亭」を立ち上げ、現在祇園と銀座、成田国際空港の3店舗を展開している -
「八坂神社」西門前
祇園祭の「神幸祭」では、三基の神輿が八坂神社正門より出発し、この西門石段下で一斉に差し上げを行い、四条御旅所に向かう -
本来なら「東山四条」とか「東大路四条」となるが、ココは八坂神社の旧称「祇園社」から「祇園」
-
「味味香」(みみこう)
1969年創業の京カレーうどん発祥店、出汁にこだわる和風カレーうどんが美味い! -
隣にも行列の出来る店「牛カツ・勝牛」、「鰻匠・土井活鰻」
-
札幌本店の「かに家」
-
ネイルサロン「沙羅」
-
着物レンタル「漢和」
-
お好み焼き「祇園ネギ焼き・かな」
-
通りの向かい側に面白い看板「ヘアポートホリバ」、「クマちゃんの家」
-
「ヘアポートホリバ」は、お洒落な散髪屋
-
「クマちゃんの家」は、認可外保育園
-
ちりめん山椒「ひさ伍」
-
ラーメン「勝鞍」
-
安井北門通を進むと「建仁寺」へ
-
京菓子「柏家光貞」(かしわやみつさだ)
全然目立たないのでスルーしてしまったが、1806年江戸時代創業の老舗和菓子屋さん、年に2回だけ、祇園祭の宵山と節分の日に限り販売される名物の「行者餅」と「法螺貝餅」(ほらがいもち)があり人だかりが出来る、「行者餅」は疫病が流行った1806年「柏屋」の4代目が山伏として修行中に夢枕に現れた役行者のお告げに従って行者の衣を模した菓子を作り祇園祭に供えたのが始まりで、求肥餅(ぎゅうひもち)と白味噌餡をクレープ状の皮で包んだお菓子、7月1日~10日に予約し販売は7月16日のみ、「法螺貝餅」は9代目が作った聖護院ゆかりの厄除けのお菓子で、甘く炊いたゴボウを挿した味噌餡にクレープ状の皮を巻きつけたお菓子、年明け~1月中旬の間に予約し販売は節分の日のみ -
寿司「彦八」
ランチの海鮮丼1,200円、上にぎり2,800円は狙い目! -
京の漬物「東山八百伊」(やおい)
創業80年の老舗漬物店、ご主人は京都の「現代の名工」に選ばれた漬物の職人さん -
憩いの広場「アイボリー」
喫茶店だが、楽器を持ち込んで自由に演奏も出来、悩みや相談を資格を持つキャリアコンサルタントが対応してくれるという -
京料理「ぎおん奥岡」
京都で修業を積んだ料理人の本格的京料理がリーズナブルに味わえる、おすすめは京風牛すき鍋御膳3,680円、うどんそばや天丼などもあり入りやすい -
「バスの駅・東山安井」
全国にあるかどうか分からないが、京都市が進めている快適なバス待ち環境を整備するために増やしている事業で、バス停周辺の民間等の土地を無償で借りてベンチや屋根などバス待ちをしやすい環境を作っており現在50か所以上ある、ここには水飲み場やWiFiもあり、他にも地産の北山丸太などを使用したり、コンビニと連携して店内のイートインスペースで飲食しながらバスを待つなど色々工夫している -
通りの向かい側にはレンタル着物店、写真スタジオ、豆腐料理「豆水楼」など京都らしい町家の店舗が並ぶ
-
隣には京七宝教室、弁当お総菜屋さん、「GDM」という英語教室まで、町家の使い方も色々
-
こんな所に「祇園変電所」
京都市内にいくつあるか分からないが、発電所で作られた電気は50万ボルトくらいの高い電圧で送られ、高圧変電所や一次変電所、中間変電所などの「変電所」を通って100、200ボルトに下げて一般家庭や工場などに配電される -
悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所「安井金毘羅宮」、通称「縁切り神社」
-
「安井金比羅宮」(やすいこんぴらぐう)
男女の縁はもちろん、病気や災難などの悪縁、酒や煙草など辞めたくても辞められないものを断つことを祈願して「縁切り縁結び 碑(いし)」という穴が空いた石をくぐる、主祭神の崇徳(すとく)天皇が流刑された際、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから断ち物・縁切りの祈願所 として信仰されており、また戦のために寵妃と別れざるを得なかったことから幸せな男女の縁を妨げる全ての悪縁 を絶つだけではなく、自分が断ち切りたいと思っている全ての悪縁も断ち切ってくれる、また祭神の大物主神(おおものぬしのかみ) は道開きの神様で、悪縁を切るだけでなく良縁を結ぶ神社でもある -
鴨川の方に向かうと「六道珍皇寺」「建仁寺」、東山の方に向かうと「高台寺」
-
「高台寺南門通」を上ると「高台寺」、さらに上ると「維新の道」に変わり、「霊山歴史館」や、坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎など幕末の志士たちの墓のある「霊山護国神社」がある
-
京都らしい深い路地奥の紅茶専門店「Tea stand T」
-
海産物問屋「ウエダ」食品
-
「八坂通」
「八坂通」を上がると「八坂の塔」の「法観寺」に行きつく、飛鳥時代八坂氏の氏寺として創建され、高さ46mの五重塔は、1440年足利義教の再建 -
通り向かい側に「本家八ツ橋」と和菓子店「十文堂」
京都は老舗が多いだけに相続問題も多い、「八ツ橋」の会社は14社もあり、代表的なものは「本家西尾(あんなま)」(創業1689年)「聖護院八ツ橋(ひじり)」(1689年)「井筒(夕子)」(1805年)「美十(おたべ)」(1957年)など、もともとの起源は江戸の1689年筝曲の開祖「八橋検校」(やつはしけんぎょう)が黒谷金戒光明寺に葬られ墓参に訪れる人が多かったので黒谷参道にあたる聖護院の森の茶店で「琴」の形にした「八ツ橋」を販売したことに始まり、昭和になって当時専務に引き継がれた「聖護院八ツ橋総本店」を追われた創業家の息子が「本家西尾八ッ橋」を設立、他にも次男の「八ッ橋西尾為忠商店」、三男の「本家八ッ橋」があり、その発祥に関して訴訟合戦が続いている
「十文堂」は、名前自体は「十文銭」というお金が作られた時代の1708年頃創業と言われるが、神社の巫女さんが振る神楽鈴を模した「鈴なり団子」が人気 -
隣にはインド料理店、ヘアメイク・レンタル着物店
-
京都には多い「すだれ店」
「伊吹すだれ店」HPによると、「昭和初期にこの地に先代が築いたすだれ屋です。祇園界隈や他府県のお店はもちろん一般のご自宅にも幅広く使って頂いております。2代目の父が京の名工に選ばれ、この賞を糧として3代目も日々精進していきたいと思います」とある -
「清水通」
ここを上がると「清水坂」が続き「三年坂」から「清水寺」へと続く、豊臣秀吉が「五条大橋」を現在の五条通に移すまではこの通りが「五条通」で、清水坂を含む清水寺参道は「松原通」と呼ばれ、右折すると「六道珍皇寺」「六波羅蜜寺」から「松原橋」へと続く -
レンタル着物「岡本」
今では観光用のレンタル着物店は多いが、江戸後期創業の岡本織物店が2000年頃に舞妓体験にヒントを得て始めたのが最初で、今では7店を構え多い日は1店で180人の利用があるという、ヘアセットも含めて4,000円くらい -
通り向かい側に行列があったので有名か? 元祖油そば「Nekomata」ネーミングが面白い
-
京都東山図書館
-
東山消防署
-
「六波羅蜜寺」に向かう「ろくはら裏門通り」へ続く坂道、結構高低差がある
-
真新しい「宝福寺・地蔵堂」
元々は金蓮寺(こんれんじ)という時宗の寺で鳥辺野道場と称され、最近長楽寺の前住職が再建した、本尊は親恋地蔵さんと呼ばれる由緒あるお地蔵様という -
ハンバーガー店
-
美容院
-
アンティーク骨董店
-
新人イラストレーターの作品展示会を開催しているイラスト専門ギャラリー「TOLALA」
-
「京都陶磁器会館」
入ったことはないが、1953年設立の一般財団法人「京都陶磁器協会」が、清水焼を中心とした陶磁器文化の啓発・育成のための活動拠点として伝統工芸品の展示、セミナーなど行うために最近再建した建物 -
「東山五条」
「東大路通」は直進、左折すると清水坂にぶつかるところまでが「五条通」、1号線としての「五条通」は陸橋を超えて大津方面へ -
「遊行前町」(ゆぎょうまえまち)が気になった!
この辺りは「時宗・歓喜光」(かんぎこう)という寺の門前にあたっていたことに由来するようで、「一遍」を開祖とする「時宗」の指導者を、布教や修行のために各地を巡り歩いていたことから「遊行上人」(ゆぎょうしょうにん)と呼び、総本山を「遊行寺」と呼ぶ -
「五条坂」(駒札)
このあたりは、清水坂と供に清水焼の陶工の家が多く、上品で風雅な清水焼が造り出されたところである。清水焼は、室町時代中頃に始まり野々村清兵衛(ののむらせいべい)が出てその名声を高めた。その後、青木木米(あおきもくべい)、高橋道八(たかはしどうはち)、尾形周平(おがたしゅうへい)、清水六兵衛(きよみずろくべい)、清風与平(せいふうよへい)、真清水蔵六(ましみずぞうろく)、三浦竹泉(みうらちくせん)など多くの名工が輩出して、製法と意匠の研究が進められ、西陣織、京友禅と並ぶ京都の代表的伝統産業となった。その独自の芸術性は海外にまで高く評価され、輸出商品としても好評を博している。 -
「大谷本廟」(おおたにほんびょう)
親鸞は1262年入滅し、1272年親鸞の娘・覚信尼により墓所を吉水の北の辺に改葬し「大谷廟堂」を建立、その後東西本願寺に分かれたが、「大谷廟堂」は浄土真宗本願寺派の「西本願寺」が所有する「西大谷墓地」となり、東本願寺は長楽寺の境内地に「大谷祖廟」を造営し真宗大谷派の東本願寺が所有する「東大谷墓地」となった -
「大谷本廟」参道
-
正面は「総門」
親鸞聖人の墓所である祖壇の後方に「西大谷墓地」があり、13,000基の墓地と納骨堂に32,000基の納骨壇がある -
「円通橋」(えんつうきょう)
(駒札)この石橋は「円通橋」と称し、池を「皓月池」(こうげついけ)と称しています。長さ40m。幅6m、橋脚、敷石板、欄干など全て花崗岩の切り石を用いています。橋脚によって作られた二つのアーチが池水に映る姿は、あたかも眼鏡のようにみえるところから、通称「めがね橋」として、親しまれています。安政3年(1856年)12月に竣工し、当時は「奇巧をつくした石橋」として珍重され「花洛名勝図絵」にも紹介されています。 -
「円通橋」は、京都市内に残る唯一の江戸時代の石造アーチ橋として貴重らしいが、全然気づかなかった!
二つの全円型アーチの直径は3.2m、通常の眼鏡橋は半円アーチが川に映って眼鏡型になるのに対し、ココは全円形アーチ二つで眼鏡型になり、極めて珍しい石造のアーチ橋 -
「皓月池」(こうげついけ)は蓮池なので、ネギ坊主に似た擬宝珠(ぎぼし)の柱は、ハスを逆さにした逆蓮(さかばす、ぎゃくれん)と言われる
-
上の丸い棒・鉾木(ほこぎ)を支える石もハスを意匠化した握蓮(にぎりばす)と言われる
-
「五条通・国道1号線東山バイパス橋」
ここから名神京都東IC辺りまでが五条バイパス、当初は一般国道8号だったが、1975年から一般国道1号となった -
「馬町」(うままち)
京都の地名は面白い、必ず歴史がつきまとう
「馬町」は、1221年の「承久の乱」後、朝廷監視のために六波羅探題が設置され、この辺りに鎌倉に行く馬の駐留場所が置かれたことからの由来 *「一条通」を歩いた時に妙心寺近くに「馬代一条」(ばだいいちじょう)という交差点があったが、馬代通(ばだいどおり)は平安時代からあり、馬の治療や馬の売買が行われていたという -
「フォーシーズンズホテル京都」
平清盛の長男・平重盛邸跡で、「小松殿」の平安末期の数少ない名庭「積翠園」(しゃくすいえん)がある、江戸時代に妙法院の境内となり、昭和29年(1954)日本専売公社がこの地を買収し「京都専売病院」の所有になり、平成17年(2005)「武田病院」を経て平成28年(2016)に「フォーシーズンホテル」に売却された -
「妙法院」(みょうほういん)
平安末期1160年後白河法皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守として創建した「新熊野神社」(いまくまのじんじゃ)、「新日吉神宮」(いまひえじんぐう)の守護のために開創された、三十三間堂、新日吉神宮、後白河法皇御影堂、大仏殿は妙法院が管理下におく -
「豊国廟」参道、「新日吉神社」参道
この先に京都女子学園があるので、この坂道は「女坂」呼ばれている
「豊国廟」(ほうこくびょう)は、豊臣秀吉の死後作られ「豊国社」と共に参道の途中の太閤坦(たいこうだいら)にあったが家康によって破却され、明治8年に再興され巨大な石造五輪塔に秀吉が納められている
「新日吉神宮」(いまひえじんぐう)は、1160年後白河上皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守として「新熊野神社」と共に「日吉大社」より勧請し新日吉社として創建され、「豊国廟」再興の際に現在地に移転された -
右へ行くと「七条通」スタート
-
この辺りも「妙法院」「智積院」「三十三間堂」「養源院」「国立博物館」など史蹟名所が多く観光客で賑わう
-
「智積院」(ちしゃくいん)
豊臣秀吉が53歳にして初めて「茶々」(淀君)の間に誕生し3歳で亡くなった「鶴松」の菩提寺として建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、家康が1600年紀州の根来寺(ねごろじ)僧正に与え「智積院」としたことに始まり、その後学僧が仏教を学ぶ教学道場として繁栄し、全国3000余の末寺を有する真言宗智山派の総本山となった -
途中で美味しそうな抹茶カフェがあったので小休憩
-
「一芳園」(いっぽうえん)カフェ
1945年創業の茶専門問屋「茶匠清水一芳園」さん直営のカフェ、宇治ほうじ茶を使ったスイーツが味わえる、暖簾にあるロゴは「丸に一文字に水」がデザインされ、丸は調和・平和、一文字は本物・一期一会、水は清らか・無常を意味し、一期一会の出会いに感謝し伝統を大切にする中にも時代に沿った革新を成し遂げていくという、ご立派! -
抹茶「大仏餅」付
「大仏餅」は近くの「方広寺・大仏殿」建立のときに始まったという「甘春堂」製の名物 -
「今熊野橋」
-
橋の下は、JR東海道本線
-
「新熊野神社」(いまくまのじんじゃ)
「妙法院」のところであったように、後白河上皇が「法住寺殿」を設けて院政を始めたとき平清盛・重盛父子に命じ、御所の鎮守寺として「三十三間堂」を、鎮守社として日吉大社より勧請した「新日吉神社」と共に、紀州熊野の神霊をこの地に勧請し、同時に「熊野若王子神社」も創建し「熊野神社」(下御霊神社)を整備して、京の都に「熊野三山」を具現化した、ここまで熱心なのは今では考えられないことだが、現在でも同様、栄華を極めた権力者は将来への不安が強く、現世と来世の安穏と極楽往生を人一倍強く祈願したかったのだろうと思われる *「いまくまの」と読むのは、紀州の古い昔の熊野に対する京の新しい今の熊野という当時の都人のこだわりからといわれる -
「京の熊野三山」(くまのさんざん)
浄土があるとされる紀州熊野を詣でると「来世の安泰」が得られるという信仰があって、平安中期から「熊野詣で」が盛んになり皇族や貴族もこぞって参詣し、後白河上皇も何回も熊野に参詣されたが、紀州まで行くのは大変だったので、「熊野三山」(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)を京の都に勧請し、「本宮」を新熊野神社、「那智」を熊野若王子神社、「速玉」を熊野神社とし「京都三熊野」(みくまの)とした、「速玉」(薬師如来)が過去の救済、「那智」(千手観音)が現世の利益、「本宮」(阿弥陀如来)が来世の救済を司り、熊野三山を巡れば、過去、現在、未来の安寧を得るという、又紀州熊野の「熊野三山」とそれらを結んだ「熊野古道」は、高野山と吉野大峯と共に、自然崇拝、仏教、修験道という異なる宗教が同じエリアで共存・共栄している世界でも珍しい地域で、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産になっている -
「影向の大樟」(ようごうのおおくすのき)
神社創建時に紀州熊野から土やクスノキを持ってこさせた「上皇手植えの樟」と伝えられており、樹齢900年と推定される -
「影向」(ようごう)とは神仏が現われるという意味で、熊野の神の化身「樟大権現」(くすのきだいごんげん)、弁財天の化身「樟龍弁財天」(しょうりゅうべんざいてん)として信仰されている、「弁財天」は七福神の一つで財宝をもたらす神として信仰を集めているが、元々はヒンドゥー教の川の神で、我が国でも水と縁の深いところに龍神として祀られていることが多く、伸びた樟の枝が、龍が空を飛んでいるように見えることから、龍に乗った弁財天「樟龍弁財天」として信仰されてきた(駒札より)
-
樹齢900年の老木でありながら現在でも成長し続けている姿を見て、「健康長寿」「病魔退散」、特に(後白河上皇が患っていたお腹の病がよくなったことから)「お腹の神様」として御利益を求める人が後をたたない(駒札より)
-
大樟の「さすり木」
「樟大権現・樟龍辧財天」の拝殿の脇にあり、これをさすり、次に自分の体の悪い所をさすれば良くなるという -
「本殿」
応仁の乱で荒廃した後、江戸初期の1673年に再建されたもので、「熊野造り」と呼ばれる熊野関係の神社に見られる様式は本家の熊野本宮証誠殿(しょうじょうでん)よりも古いことから大変貴重 *神社には「神明(伊勢)造り」「出雲造り」「熊野造り」がある -
「本殿」には主祭神・熊野那智大社の「熊野牟須美大神」(くまのむすびのおおかみ)=伊弉冉尊(イザナミ)=千手観音が祀られており、後方の「上之社」(かみのやしろ)に、熊野速玉大社の「速玉之男大神」(はやたまのをのおおかみ)=伊弉諾尊(イザナギ)=薬師如来と熊野本宮大社の「熊野家津御子大神」(くまのけつみこのおおかみ)=素盞嗚尊(スサノオ)=阿弥陀如来の二柱、隣の「中之社」(なかのやしろ)に、天照大神から神武天皇に至る4代の神々である天忍穂耳尊(アメノホシホミミ)・瓊々杵尊(ニニギ)・彦穂々出見尊(ヒコホホデミ)・鵜茅草葺不合尊(ウカヤフキアエズ)の四柱、入り口側の「若宮社」に皇祖天照大神(アマテラス)、その隣の「下之社」(しものやしろ)に、主祭神「熊野牟須美大神」から分身し自然の恵みを象徴する神々の「稚産霊命」(ワクムスビ)、「軻遇突智命」(カグツチ)、「埴山姫命」(ハニヤマヒメ)、「彌都波能売命」(ミヅハメ)の四柱が祀られている
*「神仏習合」が熊野信仰の基本で、熊野は山岳修験の信仰の上に、天孫神話に関連する信仰が重なり、さらに神道と仏教の入り混じった信仰体系が形成され、日本の神は民衆を救うために現れたインドの仏で、神は仮の姿であるという考えでこれを「権現」(ごんげん)といい、熊野三山は「熊野権現」ともいわれて、那智の熊野牟須美大神は「千手観音」、新宮の速玉之男大神は「薬師如来」、本宮の熊野家津御子大神は「阿弥陀如来」となり、那智は千手観音の南方・補陀落浄土、新宮は薬師如来の東方・浄瑠璃浄土、本宮は阿弥陀如来の西方・妙喜浄土の入り口であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった -
御神鳥は「八咫烏」(やたがらす)
よく見ないと分からないが、本殿の屋根の上には「八咫烏」がいて、しかも向かって左はくちばしを閉じ、右はくちばしが開いてる「阿吽の八咫烏」になっている、「八咫烏」は、日本神話に登場する三本足カラスで、神武天皇が日本国建国の際に熊野国から大和国(橿原)まで道案内をしたとされ、熊野では神様のお使いとされ、導きの神様・交通安全の神様として崇敬を集めている、又、日本サッカー協会のエンブレムとしても有名で「勝利の神様」としても御利益があり、これは「天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくした」とか、「蹴鞠の名人だった藤原成通が熊野詣でをして蹴鞠上達を祈願した」とか、「近代サッカーを紹介した中村覚之助が和歌山出身であった」とかに由来する -
ご神木は「椥」(なぎ)
紀州熊野には樹齢千年の梛の神木があるが、新熊野神社も古来から「椥の宮」とも言われるほどの椥林があって、立札には「昭和55年3月17日、成人式を挙げられた今上天皇が新熊野神社を参拝され、樹齢20年のこの梛の木を植樹された」と記されている、梛の木は、葉を引っ張っても切れないから縁が切れない、実が二つ並んでいるから縁結びや夫婦円満のご利益があり、災いをなぎ払うから道中安全のお守りとして熊野詣の時には椥の葉を忍ばせていたという -
「上之社」(かみのやしろ)は二柱
右・速玉之男大神(はやたまのをのおおかみ)=日本神話で伊弉諾尊(イザナギ)=薬師如来、左・熊野家津御子大神(くまのけつみこのおおかみ)=素盞嗚尊(スサノオ)=阿弥陀如来 *主祭神は「イザナミ」になっているが、神社のHPでは、熊野信仰は自然神信仰の原点とされるイザナミを中心とする信仰で、この世に存在するあらゆる生命の根源を司る神がイザナミであるとしている、一方の男神「イザナギ」は神武天皇につながる祖先信仰の原点で、アマテラスを祭神とする伊勢信仰に辿り着く、と解説している、イザナミ・イザナギは国生みの神、その子がスサノオ、アマテラス、ツクヨミ、オオクニヌシはスサノオの子孫で、遅まきながら神話の勉強をするとキリがない -
「中之社」(なかのやしろ)は四柱
天忍穂耳尊(アメノオシホミミ・天照大神の子神)、瓊々杵尊(ニニギ・天孫降臨の神)、彦穂穂出見命(ヒコホホデミ)、鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズ)で、 皇祖天照大神から第一代神武天皇につながる4代の神々であり同時に私どもの遠いご先祖様 *彦穂穂出見命(ヒコホホデミ)はニニギの子で、兄のホデリと共にそれぞれ山の猟、海の猟を得意としたので海幸彦・山幸彦と呼ばれた -
「下之社」(しものしゃ)は四柱
稚産霊命(ワクムスビ)穀物と養蚕の神、軻遇突智命(カグツチ)火の神、埴山姫命(ハニヤマヒメ)土の神、彌都波能売命(ミヅハメ)水の神で、主祭神・熊野牟須美大神(=イザナミ)から分身した自然の恵みを象徴する神々 -
「若宮社」(わかみやしゃ)
皇祖天照大神(アマテラス)で、皇室の祖とされる -
「熊野三山御利益巡り」
裏側には「熊野九十九王子」と呼ばれるたくさんの神々が祀られていて、10分で熊野詣した気分になれる! *「熊野九十九王子」とは、上皇や貴族の熊野詣の道中の守護を祈るために地元民が立てた社で100ヶ所以上と言われている -
右「熊野本宮八葉曼荼羅」(くまのほんぐうはちようまんだら)と、左「梵字曼荼羅」(ぼんじまんだら)
八葉は「蓮の花」で、千手観音を中心に八つの蓮弁に熊野の神々を「仏の姿」で描き、その上に修験道の世界の役行者と八大童子を、下に五体王子を始めとする王子達が描かれており、これを元にした世界を境内全体を使って作っていて、境内を散策すると熊野詣と同様の御利益が得られる、左の「梵字曼荼羅」は仏を梵字で表したもの -
「熊野曼荼羅」(くまのまんだら)
「熊野本宮八葉曼荼羅」を基に、神が時空を超えた存在であることを表現したオリジナル版で、四角の外枠がここから内は「神の世界」と云う意味の結界(けっかい)で、その「神の世界」を九のブロックに分け、空中に浮かせているのは神が空間を超えて存在していることを示し、ブロック間に隙間を設けているのは、前から覗けば永遠の過去が、後ろから覗けば永久の未来が見通せる、との解説があるが難解すぎる! -
左「稲葉根王子」(いなばねおうじ)と右「茶枳尼天」(たきにてん)
「稲葉根王子」は稲荷神のことで伏見稲荷大社の祭神として知られており、五穀豊穣、商売繁盛の神様、「柁枳尼天」は延命長寿の神様 -
左「滝尻王子」(たきじりおうじ)、右「発心門王子」(はっしんもんおうじ)
「滝尻王子」は熊野の入り口に鎮座する神様で、「発心門王子」は熊野信仰の世界に導く案内人 -
「八咫烏」(やたがらす)
熊野では神様のお使いとされ御神鳥となっている -
「後白河法皇坐像」(ごしらかわほうおうざぞう)
この「新熊野神社」は後白河上皇が平清盛・重盛父子に命じて造らせた -
左「制多迦童子」(せいたかどうじ)、中「弥都波能売神」(みずはのめのかみ)、右「矜羯羅童子」(こんがらどうじ)
後白河法皇の時代に神護寺を再興した文覚(もんがく)が、那智の滝での荒行で息絶えた際、不動明王の弥都波能売神の命で助けたのが、矜羯羅童子と制多迦童子だと伝えられる -
左「那智の滝」(なちのたき)、中「大斎ケ原」(おゆみがはら)、右「神倉山・ことびき岩」(かみくらやま)
「那智の滝」は、自然神信仰の聖地である那智山に大小60余ある滝の内、滝修行の場として使われている48滝(那智四十八滝)の内の一の滝で落差133m、「大斎ケ原」は、元々熊野本宮大社があった熊野川と音無川が合流する中州、「神倉山・ごとびき岩」は、元々熊野速玉大社があった山で、「ごとびき岩」は神倉山の斜面にヒキガエルの姿で鎮座する巨岩 -
「花の窟」(はなのいわや)
イザナミ命が葬られた場所で、熊野信仰の原点ともいえる場所 -
右「豊斟水渟神」(とよくむぬのみこと)、中「面足神」(おもだる の みこと)、左「国狭鎚神」(くにのさたちのみこと)
いづれも熊野速玉大社の祭神 -
「能楽発祥の地」
1374年、観阿弥・世阿弥父子が「新熊野神事猿楽」を演じた際、見物に来ていた、足利三代将軍義満が感激し、二人を観阿弥・世阿弥と名乗らせ、その後世阿弥は父の志を継ぎ「猿楽」の芸術性を高め今日の「能楽」に大成させたという、これが「能楽」の礎となって、「狂言」や「歌舞伎」なども全て「新熊野猿楽」から始まっており、芸能上達の御利益がある -
「今熊野猿楽図」(いまくまのさるがく)
奈良時代宮廷の余興や寺社の祭礼に興行されていた「猿楽」を見て足利義満が感激したのを契機に能楽に発展したという内容を再現するために、子孫繁栄や長寿祈願を込めた「翁」(おきな)や 刀などを使う曲芸的な「呪師」(のろんじ)、鬼の面で舞う「追儺」(ついな)などを描いた「今熊野猿楽復元図」を境内に完成させたという *ここは「今熊野」になっており、現地でも混同している -
「京都十六社朱印めぐり」
1月1日~2月15日の間に、16社を巡拝し朱印を授かり、すべての神社を参拝すると一年間あらゆるご利益が得られ、干支の置物がもらえる(朱印料1社300円) -
「いまくまの商店街」
神社は「新熊野」だが、地名は「今熊野」 -
「泉涌寺道」
皇室の菩提寺である「泉涌寺」と塔頭の「今熊野観音寺」に続く、「今熊野観音寺」は、泉涌寺山内にあり、807年空海が創建したが、1160年「新熊野神社」が造営された際、観音寺に改め、鳥辺野の地の葬地になり貴族の葬儀や法要の多くを行っている、後白河上皇が持病の頭痛を観音菩薩に治してもらったことから「頭痛封じの観音様」として尊崇されるようになった -
「瀧尾神社」(たきおじんじゃ)
創建は不明だが平安時代から存在し、東大路の五条あたりから応仁の乱などで場所を転々とし、1586年豊臣秀吉の方広寺創建の際に現在地へと移され、江戸時代に幕命により社殿を修理し神社名を「瀧尾神社」とした、藤森神社の末社で毎年5月5日の藤森祭では神輿が瀧尾神社まで巡行する -
「大丸」の提灯が多いと思ったら、「大丸」との関係が深いことが判明!
江戸時代に社殿を修理したのは、大丸創業者の「下村彦右衛門」で、「大丸の宮」「大丸稲荷」とも言われる、下村は19歳から伏見で古着の行商を始め、毎日まだ暗いうちに伏見を出発して京都に向かい暗くなってたくさんの仕入れ品を背負って伏見へ戻る道中で、この神社に毎日欠かさず参拝し商売繁盛と家運隆盛を祈っていたら大繁盛し、伏見に「大丸」のルーツとなる大文字屋という呉服屋を開き、やがて名古屋、大坂、京都、江戸へも次々と進出し事業に成功した、その後も代々下村家から崇敬されてきて、江戸幕府命で修理しなければならなくなった際に、現在の5億円相当の大金を寄進し1836年に現在の本殿が完成したという -
大丸の寄進で、本殿、拝殿、絵馬舎、手水舎が整備された
-
「本殿」
水を司る龍神「高龗神」(たかおかみのかみ)を祀った貴船神社奥院旧殿を移築したもので、辨財天、大黒天、毘沙門天の三神が祀られており、「大丸」のおかげで商売繁盛のパワースポットになっているが、今年の「龍みくじ」は完売で買えず -
本殿や拝殿、手水舎などには見事な動物や鳥などの彫物があるが、これは全て江戸末期の京の彫物師「九山新太郎」(くやましんたろう)の作品で、歴代の手掛けた作品は西本願寺阿弥陀堂や東本願寺大師堂、善光寺本堂などにも残る
-
「拝殿・天井の龍」
中でも拝殿天井の木彫りの龍は素晴らしく、全長8mもの巨大な龍が天井に据えられており、外からも見えるが、拝観料500円を払って、拝殿に上がって真近に見るとその迫力に圧倒される -
水を司る龍は火災除けの意味があり、建仁寺や妙心寺など天井に龍を描いたのはよくあるが、絵ではなく彫刻は他に聞いたことがない、しかも全長8mの巨大な龍をどうやって天井に張り付いた形で彫ったのか、昔の人は凄い!
-
昔の人も、あまりの迫力に「夜な夜な拝殿を抜け出してすぐ近くを流れる今熊野川へ水を飲みに行っている、恐ろしく眠れない」と恐れられ、神社は拝殿の天井に金網を付けて龍を閉じ込めたというが、今は網は無いので近くから見ることができる
-
よく見ると、龍の爪や髭なども見事で、うろこの質感までも表現しており、龍がのたうつような躍動感あふれる姿を、木目を計算しながら何十本もの木を組み合わせて作っているのは、感嘆・驚愕でしかない! *12支の中で龍だけが架空の生き物で、角は鹿、頭はラクダ、目はウサギ、胴体はヘビ、ウロコは鯉、爪は鷹、耳は牛、爪は権威の象徴で中国が5本で皇帝、日本は属国で3本だという
-
さらによく見ると、白木造りの中に一ヶ所だけ金箔があり、龍が金色の宝珠を持っている、正式な名前は「如意宝珠」といい、あらゆる願いをかなえる力を持っているとされている
-
この作家「九山新太郎」一派は祇園祭に登場する「大船鉾の龍頭」も手がけたそうで、禁門の変で消失した大船鉾を2016年復元した時に「瀧尾神社の龍」を参考にして造ったという、又最初の「大船鉾の龍頭」が製作された1804年頃「大丸」は「大船鉾」の寄町にあったというご縁があるらしい
-
(参考)2016後祭・山鉾巡行撮影
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
東山・祇園・北白川(京都) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
161