二条・烏丸・河原町旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今月は太閤秀吉の洛中改造で、前回の「油小路通」と隣の「西洞院通」の間に出来た通りを歩きます。<br />今回初めて秀吉が造った通りを歩きますが、今までの平安京大路とは又一味違う、平安、安土桃山、江戸、明治が混在した歴史の痕跡があり、情報量満載の平安京以降の京町散歩となりました。<br />平安京は応仁の乱で壊滅し、これを立て直したのが秀吉の洛中改造ですが、聚楽第建設、寺院街造成、御土居構築、などありますが、最も住民に影響が大きいのは「天正の地割」で、これにより正方形の「条坊制」が長方形の「短冊形」にガラッと変わったのは、良くも悪くも秀吉の力が今の時代にも影響しているということです。これにより新しく出来た通りは寺町通と烏丸通の間だけでも、 御幸町通、富小路通、堺町通、間之町通、車屋町通とあり、全部で12あるそうで、その内の2つを今回歩きます。<br />ポイントになるのは、①秀吉の拝領地を起源とする「三千家家元通り」と「本願寺学林町」、②秀吉の地割で出来た「天使突抜通」、③信長、秀吉もゆかりのある日蓮宗寺院群、④廃寺を復活させた「尊陽院」の天井画で、それぞれの生まれた経緯を探って見れば、三千家の系図や、小川通が四条通を境に途切れているのは地割でも四条烏丸一帯の中心部は賑やかだったため通りが作られなかった、信長の定宿は本能寺でなく妙覚寺だった、秀吉は信長、家康を意識して二条城に近い所の妙顕寺を居城にして妙顕寺は移転させられた、等々どんどん新しい発見が出て来て、これまでの京都だけでなく日本の歴史の知識が断片的でなく連続的な情報として入ってきて、「平安京散歩」がますます楽しくなります。<br />今回は、北大路でランチしてから、四条通を挟んで中断している0.6kmも含め、京都駅まで全7.2kmを歩きますが、「妙覚寺」の「法姿園」や洛北鷹峯釈迦谷にある「太閤山荘」の「紅葉谷庭園」などは、紅葉見ごろの時期には行って見たいお勧めのところです。<br />

月一京町散歩(11月)平安京南北散歩「小川通」と「天使突抜通」(東中筋通)

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2024/11/03 - 2024/11/03

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旅行記グループ 月一平安京散歩

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Bachさん

今月は太閤秀吉の洛中改造で、前回の「油小路通」と隣の「西洞院通」の間に出来た通りを歩きます。
今回初めて秀吉が造った通りを歩きますが、今までの平安京大路とは又一味違う、平安、安土桃山、江戸、明治が混在した歴史の痕跡があり、情報量満載の平安京以降の京町散歩となりました。
平安京は応仁の乱で壊滅し、これを立て直したのが秀吉の洛中改造ですが、聚楽第建設、寺院街造成、御土居構築、などありますが、最も住民に影響が大きいのは「天正の地割」で、これにより正方形の「条坊制」が長方形の「短冊形」にガラッと変わったのは、良くも悪くも秀吉の力が今の時代にも影響しているということです。これにより新しく出来た通りは寺町通と烏丸通の間だけでも、 御幸町通、富小路通、堺町通、間之町通、車屋町通とあり、全部で12あるそうで、その内の2つを今回歩きます。
ポイントになるのは、①秀吉の拝領地を起源とする「三千家家元通り」と「本願寺学林町」、②秀吉の地割で出来た「天使突抜通」、③信長、秀吉もゆかりのある日蓮宗寺院群、④廃寺を復活させた「尊陽院」の天井画で、それぞれの生まれた経緯を探って見れば、三千家の系図や、小川通が四条通を境に途切れているのは地割でも四条烏丸一帯の中心部は賑やかだったため通りが作られなかった、信長の定宿は本能寺でなく妙覚寺だった、秀吉は信長、家康を意識して二条城に近い所の妙顕寺を居城にして妙顕寺は移転させられた、等々どんどん新しい発見が出て来て、これまでの京都だけでなく日本の歴史の知識が断片的でなく連続的な情報として入ってきて、「平安京散歩」がますます楽しくなります。
今回は、北大路でランチしてから、四条通を挟んで中断している0.6kmも含め、京都駅まで全7.2kmを歩きますが、「妙覚寺」の「法姿園」や洛北鷹峯釈迦谷にある「太閤山荘」の「紅葉谷庭園」などは、紅葉見ごろの時期には行って見たいお勧めのところです。

  • 「小川通」は、天正18年(1590)太閤秀吉の洛中改造で、「油小路」と「西洞院大路」の間に出来た通りで、「紫明通」から「七条通」手前の「木津屋橋通」まで南下し、「紫明通」から「上立売通」までは「油小路」に被さったかたちになって、通りを「小川」(こかわ)という川が流れていたことから「小川通」と呼ぶが、「錦小路通」に来ると中断して、「四条通」を過ぎた「仏光寺通」から再開し、「木津屋橋通」までは「東中筋通」となるが、「天使の宮」と言われた「五条天神宮」のある「松原通」から「六条通」までは、「天使さん」の境内を突き抜けたことから「天使突抜通」(てんしつきぬけどおり)と呼ばれ、「六条通」からは又「木津屋橋通」となる、「小川」は現在「おがわ」と読むが古くは「こかわ」という川が流れていて、一条小川には革堂行願寺の中心地があり、南側には第9代将軍・足利義尚(よしひさ)邸の「小川御所」があって賑わい、埋め立てられてからも地下には良質の水脈が流れていて、千家一族による茶道の発展の拠点になり、さらにこれも秀吉に与えられた土地に出来た本願寺周辺の「学林町」も寺院や僧侶の教育機関、講堂、寮が建てられ、お寺関係の店舗が集まり賑わった

    「小川通」は、天正18年(1590)太閤秀吉の洛中改造で、「油小路」と「西洞院大路」の間に出来た通りで、「紫明通」から「七条通」手前の「木津屋橋通」まで南下し、「紫明通」から「上立売通」までは「油小路」に被さったかたちになって、通りを「小川」(こかわ)という川が流れていたことから「小川通」と呼ぶが、「錦小路通」に来ると中断して、「四条通」を過ぎた「仏光寺通」から再開し、「木津屋橋通」までは「東中筋通」となるが、「天使の宮」と言われた「五条天神宮」のある「松原通」から「六条通」までは、「天使さん」の境内を突き抜けたことから「天使突抜通」(てんしつきぬけどおり)と呼ばれ、「六条通」からは又「木津屋橋通」となる、「小川」は現在「おがわ」と読むが古くは「こかわ」という川が流れていて、一条小川には革堂行願寺の中心地があり、南側には第9代将軍・足利義尚(よしひさ)邸の「小川御所」があって賑わい、埋め立てられてからも地下には良質の水脈が流れていて、千家一族による茶道の発展の拠点になり、さらにこれも秀吉に与えられた土地に出来た本願寺周辺の「学林町」も寺院や僧侶の教育機関、講堂、寮が建てられ、お寺関係の店舗が集まり賑わった

  • 11:00北大路グリルはせがわ~1.3km(20分)12:00(紫明通)~茶道具北山~妙覚寺~宮帯美術(三石席)~扇町児童公園~0.2km(上御霊前通)~裏千家学園~尊陽院~本法寺仁王門~裏千家利休堂、今日庵、不審庵~清昌堂やました~0.2km百々橋ひろば~俵屋吉富小川店~(寺之内通)~報恩寺~御三軒湯~0.4km小川児童公園~(今出川通)~(元誓願寺通)~0.5km武者小路千家官休庵~革堂図子~(一条通)~山本家住宅~(中立売通)~(上長者町通)~(下長者町通)茶屋四郎次郎邸址~(出水通)~1.0km(下立売通)京の飴いしざき~(丸太町通)~0.6km(夷川通)二条院候補地(陽成院跡)~0.7km(押小路通)閑院跡、豊臣秀吉妙顕寺城跡~(御池通)~京友禅体験工房西村屋~幾世稲荷大明神~(三条通)~(六角通)本能公園~0.5km(蛸薬師通)本能寺址の碑~0.1km(4.3km)(錦小路通)15:00~(中食休憩)河道屋支店蕎麦屋)~(西洞院通経由・四条通)~0.6km(仏光寺通)>(天使突抜通スタート)木賊山町(とくさやまちょう)会所鈴木内科医院~0.2km(高辻通)白山湯高辻店~0.1km(松原通)五条天神宮(天使の宮)~(万寿寺通)~0.3km(五条通)~(六条通)~本願寺国際センター~0.5km(花屋町通)~(正面通)植柳小学校碑、植松児童公園~(北小路通)~(七条通)村井銀行七条支店~(下魚棚通)~野一色法衣店~0.8km(1.8km)木津屋橋通~16:30カフェ休憩 合計6.1km+1.1km=7.2km<br /><br />

    11:00北大路グリルはせがわ~1.3km(20分)12:00(紫明通)~茶道具北山~妙覚寺~宮帯美術(三石席)~扇町児童公園~0.2km(上御霊前通)~裏千家学園~尊陽院~本法寺仁王門~裏千家利休堂、今日庵、不審庵~清昌堂やました~0.2km百々橋ひろば~俵屋吉富小川店~(寺之内通)~報恩寺~御三軒湯~0.4km小川児童公園~(今出川通)~(元誓願寺通)~0.5km武者小路千家官休庵~革堂図子~(一条通)~山本家住宅~(中立売通)~(上長者町通)~(下長者町通)茶屋四郎次郎邸址~(出水通)~1.0km(下立売通)京の飴いしざき~(丸太町通)~0.6km(夷川通)二条院候補地(陽成院跡)~0.7km(押小路通)閑院跡、豊臣秀吉妙顕寺城跡~(御池通)~京友禅体験工房西村屋~幾世稲荷大明神~(三条通)~(六角通)本能公園~0.5km(蛸薬師通)本能寺址の碑~0.1km(4.3km)(錦小路通)15:00~(中食休憩)河道屋支店蕎麦屋)~(西洞院通経由・四条通)~0.6km(仏光寺通)>(天使突抜通スタート)木賊山町(とくさやまちょう)会所鈴木内科医院~0.2km(高辻通)白山湯高辻店~0.1km(松原通)五条天神宮(天使の宮)~(万寿寺通)~0.3km(五条通)~(六条通)~本願寺国際センター~0.5km(花屋町通)~(正面通)植柳小学校碑、植松児童公園~(北小路通)~(七条通)村井銀行七条支店~(下魚棚通)~野一色法衣店~0.8km(1.8km)木津屋橋通~16:30カフェ休憩 合計6.1km+1.1km=7.2km

  • 11:00 まずランチからスタート、北大路通植物園近く「グリルはせがわ」<br />以前から行きたいと思っていた創業60年以上の「昔ながらの洋食屋」さんで、行列が出来るほどの人気ぶり、11:00前に行ったら既に並んでいた

    11:00 まずランチからスタート、北大路通植物園近く「グリルはせがわ」
    以前から行きたいと思っていた創業60年以上の「昔ながらの洋食屋」さんで、行列が出来るほどの人気ぶり、11:00前に行ったら既に並んでいた

  • ハンバーグスパゲッティ・トマトソースとミートソース各1,500円を注文、少し味が濃い目だが、ハンバーグは種類も多く、この店自慢の逸品

    ハンバーグスパゲッティ・トマトソースとミートソース各1,500円を注文、少し味が濃い目だが、ハンバーグは種類も多く、この店自慢の逸品

  • (紫明通)「北大路通」から「油小路通」を南下<br />東側に「比叡山」を見ながら約20分歩く、「紫明通」(しめいどおり)は、加茂街道から堀川通までで、頼山陽が自宅の書斎を鴨川と東山の眺望が素晴らしく「山紫水明」と称したことからの命名

    (紫明通)「北大路通」から「油小路通」を南下
    東側に「比叡山」を見ながら約20分歩く、「紫明通」(しめいどおり)は、加茂街道から堀川通までで、頼山陽が自宅の書斎を鴨川と東山の眺望が素晴らしく「山紫水明」と称したことからの命名

  • 「油小路通」は、「鞍馬口通」との合流地点で中断し、ここからは「小川通」と名前が変わって南下する、平安京の「油小路通」に太閤秀吉の洛中改造の道が一部被さったかたち、「鞍馬口通」(くらまぐちどおり)は、下鴨神社から金閣寺までで、鞍馬街道(丹波街道)の京都入口にあたることからの命名

    「油小路通」は、「鞍馬口通」との合流地点で中断し、ここからは「小川通」と名前が変わって南下する、平安京の「油小路通」に太閤秀吉の洛中改造の道が一部被さったかたち、「鞍馬口通」(くらまぐちどおり)は、下鴨神社から金閣寺までで、鞍馬街道(丹波街道)の京都入口にあたることからの命名

  • 茶道具「北山」<br />「小川通」は、秀吉が千利休の子に千家再興を許可して土地を与え、やがて三千家が生まれたことから「茶の湯通り」と呼ばれ、お茶関係の店も多い

    茶道具「北山」
    「小川通」は、秀吉が千利休の子に千家再興を許可して土地を与え、やがて三千家が生まれたことから「茶の湯通り」と呼ばれ、お茶関係の店も多い

  • 「妙覚寺」(みょうかくじ)<br />この辺り一帯は、日蓮宗本山の「妙覚寺」の広大な寺域で、上御領前通から南は同じく日蓮宗本山の「妙顕寺」(みょうけんじ) の寺域が拡がる

    「妙覚寺」(みょうかくじ)
    この辺り一帯は、日蓮宗本山の「妙覚寺」の広大な寺域で、上御領前通から南は同じく日蓮宗本山の「妙顕寺」(みょうけんじ) の寺域が拡がる

  • 「日蓮宗」京都八本山<br />「妙覚寺」も「妙顕寺」も日蓮宗本山で、この辺りのお寺は殆ど「日蓮宗」で、日蓮宗京都八本山の内、3寺院が集まっている *「日蓮宗」は、全国に5300のお寺があり、総本山は山梨身延山久遠寺、特に関りのある大本山が、誕生寺(千葉)を含め7寺で、これを含め本山が57寺あり、内京都にある大本山・妙顕寺、本圀寺と本山・頂妙寺、本満寺、本法寺、立本寺、妙伝寺、妙覚寺の 8寺を「京都八本山」と呼び、他に日蓮宗系の8寺を含めて「京都十六本山」と呼ぶ

    「日蓮宗」京都八本山
    「妙覚寺」も「妙顕寺」も日蓮宗本山で、この辺りのお寺は殆ど「日蓮宗」で、日蓮宗京都八本山の内、3寺院が集まっている *「日蓮宗」は、全国に5300のお寺があり、総本山は山梨身延山久遠寺、特に関りのある大本山が、誕生寺(千葉)を含め7寺で、これを含め本山が57寺あり、内京都にある大本山・妙顕寺、本圀寺と本山・頂妙寺、本満寺、本法寺、立本寺、妙伝寺、妙覚寺の 8寺を「京都八本山」と呼び、他に日蓮宗系の8寺を含めて「京都十六本山」と呼ぶ

  • 「實成院」(じつじょういん)<br />「妙覚寺」にある3つの塔頭の内の一つ、近くに善明院、玉泉院がある *「日蓮宗」は鎌倉時代に「日蓮」によって開かれ、法華経を根本経典とし、お題目を唱え善行を積めばどんな人でも救われると説き、創価学会もこの系列、日本における寺院数のランキングでは、曹洞宗(道元)14,600寺、浄土真宗西本願寺(親鸞)10,300、東本願寺8,600、浄土宗(法然)7,000に次ぎ5,100寺

    「實成院」(じつじょういん)
    「妙覚寺」にある3つの塔頭の内の一つ、近くに善明院、玉泉院がある *「日蓮宗」は鎌倉時代に「日蓮」によって開かれ、法華経を根本経典とし、お題目を唱え善行を積めばどんな人でも救われると説き、創価学会もこの系列、日本における寺院数のランキングでは、曹洞宗(道元)14,600寺、浄土真宗西本願寺(親鸞)10,300、東本願寺8,600、浄土宗(法然)7,000に次ぎ5,100寺

  • 「妙覚寺」(みょうかくじ)<br />「妙覚寺」は、南北朝時代の1378年、「妙顕寺」にいた日実上人が、弟日成とともに教義や後継問題をめぐる対立があって、信徒で豪商の小野妙覚の援護を受け四条大宮の邸に創建、その後室町幕府9代将軍足利義尚の命で二条衣棚(ころものたな)の地に移転したが、1583年豊臣秀吉の洛中改造で現在地に移転、1788年天明の大火で焼失して以降に再建された現在残る伽藍は、本堂・祖師堂・華芳宝塔などで、唯一この「大門」だけが残る

    「妙覚寺」(みょうかくじ)
    「妙覚寺」は、南北朝時代の1378年、「妙顕寺」にいた日実上人が、弟日成とともに教義や後継問題をめぐる対立があって、信徒で豪商の小野妙覚の援護を受け四条大宮の邸に創建、その後室町幕府9代将軍足利義尚の命で二条衣棚(ころものたな)の地に移転したが、1583年豊臣秀吉の洛中改造で現在地に移転、1788年天明の大火で焼失して以降に再建された現在残る伽藍は、本堂・祖師堂・華芳宝塔などで、唯一この「大門」だけが残る

  • 「大門」(だいもん)<br />豊臣秀吉の「聚楽第」の裏門として1590年に造営された桃山時代のものを、江戸時代初期1663年にこの地に移築されたもので、西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である、城門特有の両潜(りょうくぐり)扉がつけられ、また梁の上には伏兵のできるように空虚が造られており、建築史上興味ある建物

    「大門」(だいもん)
    豊臣秀吉の「聚楽第」の裏門として1590年に造営された桃山時代のものを、江戸時代初期1663年にこの地に移築されたもので、西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である、城門特有の両潜(りょうくぐり)扉がつけられ、また梁の上には伏兵のできるように空虚が造られており、建築史上興味ある建物

  • 「祖師堂」(そしどう)<br />国の重要文化財に指定されている「日蓮聖人像」と、右に日朗上人、左に日像上人の三菩薩をお祀りしており、日蓮宗特有の読経と太鼓が堂内に響きわたるという *日朗上人は京都に初めて日蓮宗を広め、弟・日像上人は京都に初めての道場として妙顕寺を創建、この日像上人を開山として日実上人が妙覚寺を創建

    「祖師堂」(そしどう)
    国の重要文化財に指定されている「日蓮聖人像」と、右に日朗上人、左に日像上人の三菩薩をお祀りしており、日蓮宗特有の読経と太鼓が堂内に響きわたるという *日朗上人は京都に初めて日蓮宗を広め、弟・日像上人は京都に初めての道場として妙顕寺を創建、この日像上人を開山として日実上人が妙覚寺を創建

  • 「庫裏」と「本堂玄関」<br />「本堂」には本尊の「十界曼荼羅」(じっかいまんだら)が安置され、斎藤道三(さいとうどうさん)自筆の遺言状も残されており、奥の「華芳塔」(かほうとう)には日蓮上人自筆の経を納め、狩野派による襖絵がある、また「妙覚寺」は、信長の定宿として知られているが、戦国時代には13代将軍足利義輝、織田信長、伊達政宗など様々な人物の宿所になっており、千利休による茶会も開かれていた、中でも信長は京都に来た20数回のうち18回ここに宿泊し、「本能寺」には3回しか宿泊しておらず、その3回目に「本能寺の変」が起こったが、この時、妙覚寺には信長の長男・信忠が宿泊していて、本能寺に駆け付けようとしたが信長の自刃を知って二条新御所に向かい、擁立していた誠仁親王(さねひとしんのう)を脱出させ篭城したが、明智軍の攻めにより自害したという

    「庫裏」と「本堂玄関」
    「本堂」には本尊の「十界曼荼羅」(じっかいまんだら)が安置され、斎藤道三(さいとうどうさん)自筆の遺言状も残されており、奥の「華芳塔」(かほうとう)には日蓮上人自筆の経を納め、狩野派による襖絵がある、また「妙覚寺」は、信長の定宿として知られているが、戦国時代には13代将軍足利義輝、織田信長、伊達政宗など様々な人物の宿所になっており、千利休による茶会も開かれていた、中でも信長は京都に来た20数回のうち18回ここに宿泊し、「本能寺」には3回しか宿泊しておらず、その3回目に「本能寺の変」が起こったが、この時、妙覚寺には信長の長男・信忠が宿泊していて、本能寺に駆け付けようとしたが信長の自刃を知って二条新御所に向かい、擁立していた誠仁親王(さねひとしんのう)を脱出させ篭城したが、明智軍の攻めにより自害したという

  • 「庫裏前庭園」<br />本堂には「法姿園」(ほうしえん)という苔庭に多くの紅葉が鮮やかに映える庭園があり、新緑の季節と秋のみに特別公開されるが、まだ少し早いので紅葉の時期にあらためて訪れたい *日蓮宗の庭園は、他の庭園に比べて、シンプルな自然庭園で、こだわりがないのが特徴で、法華経の教えの「あるがままで素晴らしい」が基本

    「庫裏前庭園」
    本堂には「法姿園」(ほうしえん)という苔庭に多くの紅葉が鮮やかに映える庭園があり、新緑の季節と秋のみに特別公開されるが、まだ少し早いので紅葉の時期にあらためて訪れたい *日蓮宗の庭園は、他の庭園に比べて、シンプルな自然庭園で、こだわりがないのが特徴で、法華経の教えの「あるがままで素晴らしい」が基本

  • 「唐門」<br />勅使門になるのだろうか、入ると「法姿園」を抜けて本堂に入る、手前の石標は「狩野元信之墓」とある、「狩野元信」(1476-1559)は室町幕府の御用絵師で狩野派の祖・狩野正信の子として、この近くで生まれ、狩野派2代目として狩野派を確立した、「妙覚寺」は狩野派の菩提寺として歴代のお墓がある

    「唐門」
    勅使門になるのだろうか、入ると「法姿園」を抜けて本堂に入る、手前の石標は「狩野元信之墓」とある、「狩野元信」(1476-1559)は室町幕府の御用絵師で狩野派の祖・狩野正信の子として、この近くで生まれ、狩野派2代目として狩野派を確立した、「妙覚寺」は狩野派の菩提寺として歴代のお墓がある

  • 「織田信長(1534-1582)と斎藤道三(1494~1556)」のご縁  <br />「妙覚寺」は、斎藤道三の父が僧侶をし、道三も幼少期に得度を受けたところで、道三の息子二人も出家して、4男は妙覚寺19世日饒(にちにょう)となり、道三の娘・帰蝶(濃姫)と結婚した信長にとっては義弟になることから、京都に城や屋敷を持たない信長が上洛する際には、道三の子が住持を務める妙覚寺に陣を張り、京都での定宿となったという *「斎藤道三」は、11歳で「妙覚寺」で出家した後、兄弟弟子が美濃国の寺に住職として赴いたのを機に還俗し、油問屋の娘と結婚し油商人となったが、その後商売をやめ武士になり土岐氏の家臣となり美濃国守護代にまで出世したが、1548年娘の帰蝶と織田信長が結婚した6年後にまた出家し、1554年家督を息子に譲るが、跡目争いで「長良川の戦い」により敗死したが、その戦い前日に、道三は「妙覚寺」住持になっていた息子・日饒に「美濃を信長に譲る」という「遺言状」を送っていた<br />

    「織田信長(1534-1582)と斎藤道三(1494~1556)」のご縁 
    「妙覚寺」は、斎藤道三の父が僧侶をし、道三も幼少期に得度を受けたところで、道三の息子二人も出家して、4男は妙覚寺19世日饒(にちにょう)となり、道三の娘・帰蝶(濃姫)と結婚した信長にとっては義弟になることから、京都に城や屋敷を持たない信長が上洛する際には、道三の子が住持を務める妙覚寺に陣を張り、京都での定宿となったという *「斎藤道三」は、11歳で「妙覚寺」で出家した後、兄弟弟子が美濃国の寺に住職として赴いたのを機に還俗し、油問屋の娘と結婚し油商人となったが、その後商売をやめ武士になり土岐氏の家臣となり美濃国守護代にまで出世したが、1548年娘の帰蝶と織田信長が結婚した6年後にまた出家し、1554年家督を息子に譲るが、跡目争いで「長良川の戦い」により敗死したが、その戦い前日に、道三は「妙覚寺」住持になっていた息子・日饒に「美濃を信長に譲る」という「遺言状」を送っていた

  • (上御領前通)「是より洛中碑」(これよりらくちゅうひ)<br />手前角に江戸時代中期に建てられた「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」の石碑がある、商が盛んだった京の町では事故も多く、交通安全の為にお土居内を洛中、外を洛外として周囲の30箇所に木杭で建てたのが始まりで、1695年に設置し1717年に石に作り替えたとあり、現在復元も含め10本余り見ることが出来る、「上御霊前通」(かみごりょうまえどおり)は、賀茂川から智恵光院通までで、応仁の乱勃発の地である上御霊神社の門前を通ることからの命名

    (上御領前通)「是より洛中碑」(これよりらくちゅうひ)
    手前角に江戸時代中期に建てられた「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」の石碑がある、商が盛んだった京の町では事故も多く、交通安全の為にお土居内を洛中、外を洛外として周囲の30箇所に木杭で建てたのが始まりで、1695年に設置し1717年に石に作り替えたとあり、現在復元も含め10本余り見ることが出来る、「上御霊前通」(かみごりょうまえどおり)は、賀茂川から智恵光院通までで、応仁の乱勃発の地である上御霊神社の門前を通ることからの命名

  • 宮帯美術(みやおびびじゅつ)「三石席」(みついしせき)<br />(株)宮帯が展開する「茶道具みやした」の4店の内の一つで、「三石席」とは大徳寺塔頭大光院にある黒田長政・加藤清正・福島正則の三人が露地に捨石を寄進したという伝えられる黒田如水好みの茶室という、(株)宮帯の社長・宮下玄覇(みやしたはるまさ)を調べると、なかなかの人物で、古美術鑑定家、古田織部研究家、時代考証家、茶道指導・小道具監修、古田織部美術館館長、樂焼玉水美術館館長、小堀遠州作茶室「擁翠亭」亭主、宮帯文庫長 等々や、映画プロデューサーもして2018年公開の「嘘八百」(中井貴一、佐々木蔵之介主演)で古美術監修・茶道指導をしている、また私邸は洛北鷹峯釈迦谷にある「太閤山荘」(たいこうさんそう)で、生糸で財をなした川村湖峯の豪壮な邸宅と庭園、小堀遠州好みの茶室「擁翠亭」(ようすいてい)があり、これからの紅葉の時期には是非見てみたい「紅葉谷庭園」もある、一般公開もしているらしい

    宮帯美術(みやおびびじゅつ)「三石席」(みついしせき)
    (株)宮帯が展開する「茶道具みやした」の4店の内の一つで、「三石席」とは大徳寺塔頭大光院にある黒田長政・加藤清正・福島正則の三人が露地に捨石を寄進したという伝えられる黒田如水好みの茶室という、(株)宮帯の社長・宮下玄覇(みやしたはるまさ)を調べると、なかなかの人物で、古美術鑑定家、古田織部研究家、時代考証家、茶道指導・小道具監修、古田織部美術館館長、樂焼玉水美術館館長、小堀遠州作茶室「擁翠亭」亭主、宮帯文庫長 等々や、映画プロデューサーもして2018年公開の「嘘八百」(中井貴一、佐々木蔵之介主演)で古美術監修・茶道指導をしている、また私邸は洛北鷹峯釈迦谷にある「太閤山荘」(たいこうさんそう)で、生糸で財をなした川村湖峯の豪壮な邸宅と庭園、小堀遠州好みの茶室「擁翠亭」(ようすいてい)があり、これからの紅葉の時期には是非見てみたい「紅葉谷庭園」もある、一般公開もしているらしい

  • 「扇町児童公園」(おうぎちょう)<br />かつてこの辺りを流れていた「小川」(こかわ)に架かっていた「扇橋」があったところで、すぐ隣の堀川通側は、水難火難避けの神「水火天満宮」(すいかてんまんぐう)と敷地が一体になっていることから、「天神公園」とも呼ばれる

    「扇町児童公園」(おうぎちょう)
    かつてこの辺りを流れていた「小川」(こかわ)に架かっていた「扇橋」があったところで、すぐ隣の堀川通側は、水難火難避けの神「水火天満宮」(すいかてんまんぐう)と敷地が一体になっていることから、「天神公園」とも呼ばれる

  • 「無電柱化」<br />「小川通」の「上御料前通」から「寺之内通」の間250mは「無電柱」通りになっており、平成24年から29年(2017)まで5年がかりで電柱を取り除いている *「京都市の無電柱化」は、平成30年まで1.6%でこれを10年で7.6%にする計画をたてていて、 清水通茶わん坂、銀閣寺道、八坂通、花見小路、三条通、寺町通など対象地区を選定している、また「世界の無電柱化」は、ロンドンやパリなど欧州の主要都市は100%で、アジアでも台北96%、ソウル49%となっているが、日本は最も高い東京23区でも8%、大阪6%、名古屋5%だから、京都はもっと観光税でも取って頑張ってもらいたい

    「無電柱化」
    「小川通」の「上御料前通」から「寺之内通」の間250mは「無電柱」通りになっており、平成24年から29年(2017)まで5年がかりで電柱を取り除いている *「京都市の無電柱化」は、平成30年まで1.6%でこれを10年で7.6%にする計画をたてていて、 清水通茶わん坂、銀閣寺道、八坂通、花見小路、三条通、寺町通など対象地区を選定している、また「世界の無電柱化」は、ロンドンやパリなど欧州の主要都市は100%で、アジアでも台北96%、ソウル49%となっているが、日本は最も高い東京23区でも8%、大阪6%、名古屋5%だから、京都はもっと観光税でも取って頑張ってもらいたい

  • 「無電柱化の小川通」<br />電柱をなくす工事は、水道やガス管の移設を行い、電線を地中に埋めて上空の電線から地中の電線に切替えてから電柱・電線の撤去を行い、道路も石畳風のアスファルト舗装にしたので秀吉の時代に近い雰囲気が戻っている

    「無電柱化の小川通」
    電柱をなくす工事は、水道やガス管の移設を行い、電線を地中に埋めて上空の電線から地中の電線に切替えてから電柱・電線の撤去を行い、道路も石畳風のアスファルト舗装にしたので秀吉の時代に近い雰囲気が戻っている

  • 「裏千家学園 茶道専門学校」 <br />茶道教授者として必要な知識や技能の修得を目指す3年コースの「茶道科」40名と、「1年コース」「研究科」「外国人研修コース」各10名があるという

    「裏千家学園 茶道専門学校」 
    茶道教授者として必要な知識や技能の修得を目指す3年コースの「茶道科」40名と、「1年コース」「研究科」「外国人研修コース」各10名があるという

  • 「裏千家学園 小川和心寮」<br />環境抜群で、寮もあって絶好の場所にある<br />

    「裏千家学園 小川和心寮」
    環境抜群で、寮もあって絶好の場所にある

  • 「尊陽院」(そんよういん)入り口案内板<br />今まで気づかなかった看板があったので、行って見る

    「尊陽院」(そんよういん)入り口案内板
    今まで気づかなかった看板があったので、行って見る

  • 「本法寺」(ほんぽうじ)仁王門<br />「本法寺」は、日蓮宗京都八本山の一つで、室町時代の1436年、日親上人(1407-1488)が開創、1587年秀吉の命により現在の地に移転し、江戸時代に徳川家の保護を受け、現在残る建物は江戸後期に再建されたもので、本阿弥光悦、長谷川等伯ゆかりの寺としても有名、仁王門前にはかっての「小川」(こかわ)が流れていた

    「本法寺」(ほんぽうじ)仁王門
    「本法寺」は、日蓮宗京都八本山の一つで、室町時代の1436年、日親上人(1407-1488)が開創、1587年秀吉の命により現在の地に移転し、江戸時代に徳川家の保護を受け、現在残る建物は江戸後期に再建されたもので、本阿弥光悦、長谷川等伯ゆかりの寺としても有名、仁王門前にはかっての「小川」(こかわ)が流れていた

  • 「本法寺」本堂<br />本尊は仏(釈迦如来)・法(法華経)・僧(日蓮)の三宝尊(さんぽうそん)、開創の「日親上人」(1407-1488)は、1436年本法寺を開いた後、乱れた世の中を危惧し、時の将軍足利義教に日蓮宗への改宗を直訴したが、怒らせてしまい投獄されて、頭から灼熱の鍋を被せられるなどの拷問を受けても屈することなく信念を貫いて「なべかむり日親」といわれたが、このとき獄中で出会ったのが、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の曾祖父にあたる本阿弥清信で、以降、清信は日親上人に深く帰依し、本阿弥家は本法寺の檀家になった、その後何度か場所を移って、1587年、豊臣秀吉の洛中改造で現在地に移転した時も、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂宇を整備し、以降本法寺は京都の町で栄華を誇るまでになった

    「本法寺」本堂
    本尊は仏(釈迦如来)・法(法華経)・僧(日蓮)の三宝尊(さんぽうそん)、開創の「日親上人」(1407-1488)は、1436年本法寺を開いた後、乱れた世の中を危惧し、時の将軍足利義教に日蓮宗への改宗を直訴したが、怒らせてしまい投獄されて、頭から灼熱の鍋を被せられるなどの拷問を受けても屈することなく信念を貫いて「なべかむり日親」といわれたが、このとき獄中で出会ったのが、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の曾祖父にあたる本阿弥清信で、以降、清信は日親上人に深く帰依し、本阿弥家は本法寺の檀家になった、その後何度か場所を移って、1587年、豊臣秀吉の洛中改造で現在地に移転した時も、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂宇を整備し、以降本法寺は京都の町で栄華を誇るまでになった

  • 「光悦翁手植之松と長谷川等伯像」<br />「本阿弥家」とのご縁は、元来刀剣の鑑定や研磨を生業として足利幕府に仕えていた本阿弥家の清信が、刀剣の使い勝手で六代将軍義教の怒りに触れ投獄され、たまたま獄中にいた日親上人と出会ったことが始まりで、その後秀吉の命で現在地へ移転した時も、光悦と光二親子が堂宇の整備に力を尽くし、これにあわせて光悦によって造られた「巴の庭」は、安土桃山時代の名庭として有名で、他にも多くの書画や什器をよせている<br />また「長谷川等伯」とのご縁は、能登の国で生まれた等伯が33歳で拠点を京都へ移し、生家の菩提寺の本山である本法寺の塔頭・教行院を宿舎として制作活動をしていたためで、等伯の作品やゆかりの品が多数存在し、特に等伯が61歳の時息子の追善供養のために描いた長さ10m幅6mの日本最大級の「佛涅槃図」は有名

    「光悦翁手植之松と長谷川等伯像」
    「本阿弥家」とのご縁は、元来刀剣の鑑定や研磨を生業として足利幕府に仕えていた本阿弥家の清信が、刀剣の使い勝手で六代将軍義教の怒りに触れ投獄され、たまたま獄中にいた日親上人と出会ったことが始まりで、その後秀吉の命で現在地へ移転した時も、光悦と光二親子が堂宇の整備に力を尽くし、これにあわせて光悦によって造られた「巴の庭」は、安土桃山時代の名庭として有名で、他にも多くの書画や什器をよせている
    また「長谷川等伯」とのご縁は、能登の国で生まれた等伯が33歳で拠点を京都へ移し、生家の菩提寺の本山である本法寺の塔頭・教行院を宿舎として制作活動をしていたためで、等伯の作品やゆかりの品が多数存在し、特に等伯が61歳の時息子の追善供養のために描いた長さ10m幅6mの日本最大級の「佛涅槃図」は有名

  • (2009/11/20 撮影)「三っ巴の庭」<br />庭園は、本阿弥光悦が作庭した唯一の庭園で、3つの築山を「巴の形」をして「過去」「現在」「未来」が途切れることなく続くことを表現し、中央には円形の板石で「日」を作り、切り石で囲んだ蓮池の「蓮」とで「日蓮」を表したり、芸術家ならではの光悦の遊び心もあって、その意味の解説を受ければなかなかに面白い

    (2009/11/20 撮影)「三っ巴の庭」
    庭園は、本阿弥光悦が作庭した唯一の庭園で、3つの築山を「巴の形」をして「過去」「現在」「未来」が途切れることなく続くことを表現し、中央には円形の板石で「日」を作り、切り石で囲んだ蓮池の「蓮」とで「日蓮」を表したり、芸術家ならではの光悦の遊び心もあって、その意味の解説を受ければなかなかに面白い

  • 「尊陽院」は手前の「多宝塔」「摩利支天堂」を通り抜けた所にある<br />「多宝塔」(たほうとう)<br />江戸時代の寛政年間(1700年代末)の建立で、洛中では唯一の多宝塔で高さ15m、塔の内部には釈迦如来、多宝如来が祀られている

    「尊陽院」は手前の「多宝塔」「摩利支天堂」を通り抜けた所にある
    「多宝塔」(たほうとう)
    江戸時代の寛政年間(1700年代末)の建立で、洛中では唯一の多宝塔で高さ15m、塔の内部には釈迦如来、多宝如来が祀られている

  • 「大摩利支尊天堂」( だいまりしそんてんどう)<br />(駒札)当山安置の大摩利支天は、力(気力・体力・財力)の守護神として諸天善神中、最も霊験顕著なり、依って古来より崇敬絶えず、現前の清衆歩みを進め参詣せられんことを。又、諸の御祈願、御開帳等は、本山本法寺 方丈事務所までお申し出下さい。<br />狛犬は「狛猪」になっており、猪が摩利支天のお使いとされ、亥歳生まれの人の守護神として崇敬されている

    「大摩利支尊天堂」( だいまりしそんてんどう)
    (駒札)当山安置の大摩利支天は、力(気力・体力・財力)の守護神として諸天善神中、最も霊験顕著なり、依って古来より崇敬絶えず、現前の清衆歩みを進め参詣せられんことを。又、諸の御祈願、御開帳等は、本山本法寺 方丈事務所までお申し出下さい。
    狛犬は「狛猪」になっており、猪が摩利支天のお使いとされ、亥歳生まれの人の守護神として崇敬されている

  • 「尊陽院」(そんよういん)<br />日蓮宗本山「本法寺」に3つある塔頭寺院の一つで、1575年創立、本堂・書院(客殿)は江戸時代後期に再建されたものであるが、長い間無住の空き寺になっていたのを、平成19年(2007)に現在のご住職が入寺して再生されたので、初めての訪問

    「尊陽院」(そんよういん)
    日蓮宗本山「本法寺」に3つある塔頭寺院の一つで、1575年創立、本堂・書院(客殿)は江戸時代後期に再建されたものであるが、長い間無住の空き寺になっていたのを、平成19年(2007)に現在のご住職が入寺して再生されたので、初めての訪問

  • 「受付」はお寺の雰囲気ではない、近代風のしつらえ

    「受付」はお寺の雰囲気ではない、近代風のしつらえ

  • 「本堂」<br />既に先客が仰向けになって、何やら「天井」を見ている

    「本堂」
    既に先客が仰向けになって、何やら「天井」を見ている

  • 「本堂内陣の天井画」<br />内陣の「雲龍図」は再建当初からあったもので、つい近年までは知られていなかったが、本年(2024年)作者が判明し、「京都御所」に出入りした御用絵師・鶴澤探泉(つるさわ たんせん 1755-1816 狩野派の流れを汲む画家)による作と報じられ、この人の天井画は殆ど見られないため、近く保存修理をするので、今しか見れない貴重なもの

    「本堂内陣の天井画」
    内陣の「雲龍図」は再建当初からあったもので、つい近年までは知られていなかったが、本年(2024年)作者が判明し、「京都御所」に出入りした御用絵師・鶴澤探泉(つるさわ たんせん 1755-1816 狩野派の流れを汲む画家)による作と報じられ、この人の天井画は殆ど見られないため、近く保存修理をするので、今しか見れない貴重なもの

  • 隣の天井を見ると、「雲龍図」とはまるで対照的な天井画が並んでいる

    隣の天井を見ると、「雲龍図」とはまるで対照的な天井画が並んでいる

  • 「祈りの天井画」<br />本堂の改修工事を実施する際に、ひとりの美術家と出会い、尊陽院のこれからに必要な彩を期待して天井画を依頼し、幻の蝶と言われる「アサギマダラ」をモチーフとした天井画を制作することにして2022年に完成した、住職ご夫婦は、「訪れる人の痛みや苦しみを優しく舞いながら救い上げ、花々と共に昇華へと導きます。祈る思いは時に力強く、時に優しく、大きな羽で浄化の風を生み出します。これから永く永く、尊陽院にてたくさんの人を迎え、癒し、守ることでしょう。」と説明している

    「祈りの天井画」
    本堂の改修工事を実施する際に、ひとりの美術家と出会い、尊陽院のこれからに必要な彩を期待して天井画を依頼し、幻の蝶と言われる「アサギマダラ」をモチーフとした天井画を制作することにして2022年に完成した、住職ご夫婦は、「訪れる人の痛みや苦しみを優しく舞いながら救い上げ、花々と共に昇華へと導きます。祈る思いは時に力強く、時に優しく、大きな羽で浄化の風を生み出します。これから永く永く、尊陽院にてたくさんの人を迎え、癒し、守ることでしょう。」と説明している

  • 「アサギマダラ」<br />秋に南西諸島や台湾から長距離を移動して日本にやってくる、アゲハチョウ科の渡り蝶で、日本でも特にフジバカマの周りに寄ってきて、また晩秋になると南方へ帰っていく、非常に珍しい蝶だが、昨年「七条通散歩」の際に梅小路公園で見たことがある

    「アサギマダラ」
    秋に南西諸島や台湾から長距離を移動して日本にやってくる、アゲハチョウ科の渡り蝶で、日本でも特にフジバカマの周りに寄ってきて、また晩秋になると南方へ帰っていく、非常に珍しい蝶だが、昨年「七条通散歩」の際に梅小路公園で見たことがある

  • (2023/10/19撮影)「フジバカマ」<br />梅小路公園「朱雀の庭」で、「アサギマダラ」を発見! 「フジバカマ」は秋の七草の一つで、夏の終わりから秋の初め湿った草原などに花を咲かせるが、現在は絶滅危惧種となっている、花に含まれる成分は蝶が集まることで知られ、特に「アサギマダラ」は何千キロも海を渡って集まる

    (2023/10/19撮影)「フジバカマ」
    梅小路公園「朱雀の庭」で、「アサギマダラ」を発見! 「フジバカマ」は秋の七草の一つで、夏の終わりから秋の初め湿った草原などに花を咲かせるが、現在は絶滅危惧種となっている、花に含まれる成分は蝶が集まることで知られ、特に「アサギマダラ」は何千キロも海を渡って集まる

  • 美術家の名前は「mais」(マイス)<br />1982年生まれの琵琶湖畔で活動している美術家で、企業用のイラスト画家を経て2007年から独立、「祈りの彩」をテーマに、様々な日本の古き良きモチーフ、特に花や神々を描き、寺院の天井画や掛け軸、襖絵など日本の奥深い「伝え」を、よりモダンに、よりカラフルに描き、インテリアやアパレル、 空間デザインなど、多様な形で彩を表現し、アパレルブランドとのコラボレーションや 店舗等の壁画、商業施設等に様々な形で彩を作る

    美術家の名前は「mais」(マイス)
    1982年生まれの琵琶湖畔で活動している美術家で、企業用のイラスト画家を経て2007年から独立、「祈りの彩」をテーマに、様々な日本の古き良きモチーフ、特に花や神々を描き、寺院の天井画や掛け軸、襖絵など日本の奥深い「伝え」を、よりモダンに、よりカラフルに描き、インテリアやアパレル、 空間デザインなど、多様な形で彩を表現し、アパレルブランドとのコラボレーションや 店舗等の壁画、商業施設等に様々な形で彩を作る

  • 隣の書院に面した所には庭園もあり、紅葉も始まっている

    隣の書院に面した所には庭園もあり、紅葉も始まっている

  • 「枯山水庭園」<br />2007年に入寺された後に新しくされた枯山水庭園で、白砂の中に苔の中島が二つ、奥に枯滝石組があり、秋には紅葉、夏には百日紅の花で彩られる

    「枯山水庭園」
    2007年に入寺された後に新しくされた枯山水庭園で、白砂の中に苔の中島が二つ、奥に枯滝石組があり、秋には紅葉、夏には百日紅の花で彩られる

  • 「摩利の庭」(まりのにわ)<br />尊陽院さんの受付から眺められる枯山水庭園は、「摩利の庭」という本山・本法寺の「大摩利支尊天堂」の庭園、令和に作庭された現代の枯山水庭園で「植司」の若手庭師作庭だという

    「摩利の庭」(まりのにわ)
    尊陽院さんの受付から眺められる枯山水庭園は、「摩利の庭」という本山・本法寺の「大摩利支尊天堂」の庭園、令和に作庭された現代の枯山水庭園で「植司」の若手庭師作庭だという

  • 中央の立石と周りの七石は、イノシシに乗る摩利支尊天とそれに仕えるイノシシ7匹を見立て、その周囲に立てられた六方石(ろっぽうせき;溶岩が冷えて固まった柱状の石)は摩利支尊天の発する光を表現したもの、という説明

    中央の立石と周りの七石は、イノシシに乗る摩利支尊天とそれに仕えるイノシシ7匹を見立て、その周囲に立てられた六方石(ろっぽうせき;溶岩が冷えて固まった柱状の石)は摩利支尊天の発する光を表現したもの、という説明

  • 重森美玲にも通じる作風で、さらに超現代的なイメージがするが、これがいいのかどうかは良く分らない

    重森美玲にも通じる作風で、さらに超現代的なイメージがするが、これがいいのかどうかは良く分らない

  • 帰りの参道には「フジバカマ」の花があって、右手にはお寺には似つかわしい、緩やかな曲線のコンクリートの白い壁がある

    帰りの参道には「フジバカマ」の花があって、右手にはお寺には似つかわしい、緩やかな曲線のコンクリートの白い壁がある

  • 中に入るとスクリーンに隠された「水子地蔵」さんが鎮座する

    中に入るとスクリーンに隠された「水子地蔵」さんが鎮座する

  • 「水子供養」<br />住職の奥様はこの寺を再生するとき、自分にできる「救いのかたち」とは何かを考え、母でもある自身の経験から、人の痛みへの救いと祈りに心を向ける「水子供養」を主とするお寺にしようと、尼僧になることを決心して、これを新たに作ったという

    「水子供養」
    住職の奥様はこの寺を再生するとき、自分にできる「救いのかたち」とは何かを考え、母でもある自身の経験から、人の痛みへの救いと祈りに心を向ける「水子供養」を主とするお寺にしようと、尼僧になることを決心して、これを新たに作ったという

  • 「本法寺」仁王門前「小川通」<br />外国人の修行僧?(修道者)が打ち水をしていた、かってここを流れていた「小川」(こかわ)は、北山を源とし西賀茂の正伝寺辺りから一条辺りで堀川に合流する細い川で、埋め立てられてからも地下には良質の水脈が流れていて、名水が湧き出たといわれ、千家一族が小川通に茶室を営んだのは、必然の賜物だった

    「本法寺」仁王門前「小川通」
    外国人の修行僧?(修道者)が打ち水をしていた、かってここを流れていた「小川」(こかわ)は、北山を源とし西賀茂の正伝寺辺りから一条辺りで堀川に合流する細い川で、埋め立てられてからも地下には良質の水脈が流れていて、名水が湧き出たといわれ、千家一族が小川通に茶室を営んだのは、必然の賜物だった

  • 「茶の湯通り」<br />「小川通」は、天正19年(1591)千利休(1522-91)の自刃した後、1594年その子少庵(1546-1614)が豊臣秀吉(1536-98)より千家再興を許され、当地を拝領し、利休ゆかりの「不審庵」と「残月亭」を復興した地で、その後1600年利休の孫にあたる宗旦(1578-1658)から、3男宗左(1613-72)が継ぎ、宗旦は4男宗室(1622-1697)を連れて北裏に「今日庵」を建て隠居し、裏干家として宗室が継いだ、また宗旦の2男宗守(1605-1676)は1667年武者小路通に「官休庵」を結び武者小路千家の祖となり、この時代に「三千家」が成立している *「不審庵」「今日庵」の名は、大徳寺117世禅師の漢詩「不審花開今日春」に因み、「官休」は(讃岐高松藩の)仕官を辞したことからの命名 *千利休は1585年頃堺から上洛し、翌年聚楽第が竣工するとその近くに屋敷を構え、同年には北野天満宮で北野大茶湯の茶頭を務め、1589年大徳寺山門金毛閣が完成すると、1591年秀吉の逆鱗に触れ自刃享年70

    「茶の湯通り」
    「小川通」は、天正19年(1591)千利休(1522-91)の自刃した後、1594年その子少庵(1546-1614)が豊臣秀吉(1536-98)より千家再興を許され、当地を拝領し、利休ゆかりの「不審庵」と「残月亭」を復興した地で、その後1600年利休の孫にあたる宗旦(1578-1658)から、3男宗左(1613-72)が継ぎ、宗旦は4男宗室(1622-1697)を連れて北裏に「今日庵」を建て隠居し、裏干家として宗室が継いだ、また宗旦の2男宗守(1605-1676)は1667年武者小路通に「官休庵」を結び武者小路千家の祖となり、この時代に「三千家」が成立している *「不審庵」「今日庵」の名は、大徳寺117世禅師の漢詩「不審花開今日春」に因み、「官休」は(讃岐高松藩の)仕官を辞したことからの命名 *千利休は1585年頃堺から上洛し、翌年聚楽第が竣工するとその近くに屋敷を構え、同年には北野天満宮で北野大茶湯の茶頭を務め、1589年大徳寺山門金毛閣が完成すると、1591年秀吉の逆鱗に触れ自刃享年70

  • 「裏千家住宅 兜門」(かぶともん)<br />裏千家家元の茶室「今日庵」への入り口門、当初今日庵には門がなく、「不審庵」の門から入っていたが、天保年間に11代千宗室・玄々斎(1810-1877)が大徳寺龍光院の兜門を模して建て、軒端中央を半円形に切り込んだ槍返し(槍を倒して通る)が兜に似ていることからの命名で、表千家の紀州徳川家の格式高い武家屋敷門とは対照的に、檜皮葺の侘びた数寄屋造りの門

    「裏千家住宅 兜門」(かぶともん)
    裏千家家元の茶室「今日庵」への入り口門、当初今日庵には門がなく、「不審庵」の門から入っていたが、天保年間に11代千宗室・玄々斎(1810-1877)が大徳寺龍光院の兜門を模して建て、軒端中央を半円形に切り込んだ槍返し(槍を倒して通る)が兜に似ていることからの命名で、表千家の紀州徳川家の格式高い武家屋敷門とは対照的に、檜皮葺の侘びた数寄屋造りの門

  • 「千宗旦居士遺跡 今日庵」(せんのそうたんこじいせき こんにちあん)<br />「今日庵」は、1648年利休の孫である宗旦が不審庵の後庭に建てた隠居所を継いだ、4男・宗室を祖とする裏千家流家元の茶室で、現在の家元は16代目、邸内には又隠(ゆういん)、寒雲亭(かんうんてい)など複数の茶室があり、国名勝の庭園もあるが非公開<br /><br />

    「千宗旦居士遺跡 今日庵」(せんのそうたんこじいせき こんにちあん)
    「今日庵」は、1648年利休の孫である宗旦が不審庵の後庭に建てた隠居所を継いだ、4男・宗室を祖とする裏千家流家元の茶室で、現在の家元は16代目、邸内には又隠(ゆういん)、寒雲亭(かんうんてい)など複数の茶室があり、国名勝の庭園もあるが非公開

  • 「裏千家の御祖堂」(利休堂)<br />三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)にはそれぞれ「御祖堂祖」があり、裏千家でも祖である利休木像とその孫にあたる宗旦の小座像を祀る、1690年利休100年忌に建立し、1788年天明の大火の後、1790年利休200年忌に、今日庵・又隠の奥にある宗旦銀杏の下に再建され、現在の建物は1838年利休250年忌に増改築したもの

    「裏千家の御祖堂」(利休堂)
    三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)にはそれぞれ「御祖堂祖」があり、裏千家でも祖である利休木像とその孫にあたる宗旦の小座像を祀る、1690年利休100年忌に建立し、1788年天明の大火の後、1790年利休200年忌に、今日庵・又隠の奥にある宗旦銀杏の下に再建され、現在の建物は1838年利休250年忌に増改築したもの

  • 「表千家 不審庵」(ふしんあん)<br />千利休の子・少庵が秀吉より千家再興を許され、1594年大徳寺門前から利休の「不審庵」と「残月亭」を復興し、利休の孫・宗旦から受継いだ3男宗左を祖とする表千家流家元の茶室で、現在の家元は15代目、代々の家元は紀州徳川家と強いつながりがあり、表門は1822年紀州徳川家の京都屋敷より拝領した武家風の門で檜皮葺の裏千家とは対照的

    「表千家 不審庵」(ふしんあん)
    千利休の子・少庵が秀吉より千家再興を許され、1594年大徳寺門前から利休の「不審庵」と「残月亭」を復興し、利休の孫・宗旦から受継いだ3男宗左を祖とする表千家流家元の茶室で、現在の家元は15代目、代々の家元は紀州徳川家と強いつながりがあり、表門は1822年紀州徳川家の京都屋敷より拝領した武家風の門で檜皮葺の裏千家とは対照的

  • 「千利休居士遺蹟 不審菴」(せんのりきゅうこじいせき ふしんあん)<br />現在の「不審庵」は1594年建立後、表門・祖堂・土蔵等を残して焼失し、不審庵は大正2年(1913)、残月亭は明治42年(1909)の再建、利休像を安置する祖堂は江戸時代1788年の建立で、隣接する茶室「点雪堂」は1789年の建立で邸内最古の建物

    「千利休居士遺蹟 不審菴」(せんのりきゅうこじいせき ふしんあん)
    現在の「不審庵」は1594年建立後、表門・祖堂・土蔵等を残して焼失し、不審庵は大正2年(1913)、残月亭は明治42年(1909)の再建、利休像を安置する祖堂は江戸時代1788年の建立で、隣接する茶室「点雪堂」は1789年の建立で邸内最古の建物

  • 「露地庭園」<br />不審庵露地、残月亭露地、点雪堂露地の3つの「露地庭園」は、度々の火災にもかかわらず、桃山末期の様式を残す貴重な遺構で、国の名勝に指定されており、興味深い

    「露地庭園」
    不審庵露地、残月亭露地、点雪堂露地の3つの「露地庭園」は、度々の火災にもかかわらず、桃山末期の様式を残す貴重な遺構で、国の名勝に指定されており、興味深い

  • 「清昌堂やました」<br />1847年創業の茶道具店老舗、表・裏千家の家元歴代宗匠の御書付品を中心に新古茶道美術品を扱い、東京・札幌にも直営店を持つ

    「清昌堂やました」
    1847年創業の茶道具店老舗、表・裏千家の家元歴代宗匠の御書付品を中心に新古茶道美術品を扱い、東京・札幌にも直営店を持つ

  • 「山春」<br />京呉服の老舗

    「山春」
    京呉服の老舗

  • 「百々(どど)橋ひろば」<br />「無電柱化」の通りが終わる「寺之内通」との交差点は、昔から「百々の 辻」と呼ばれ、この辻を南北に流れる「小川」(こかわ)には「百々橋」(どどばし)が架かっていたが、小川が昭和40年(1965)に埋め立てられたため橋も解体され、その礎石が展示されている、「百々」は百々氏という豪族が住んでいたことに由来し近くの宝鏡寺は「百々御所」といわれる、又この橋は「応仁の乱」(1467-1477)で、東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)が、この橋を隔てて戦ったことでも有名で、以後織物を主要産業として町が復興し、千利休の子孫が茶道文化の殿堂を築き発展した

    「百々(どど)橋ひろば」
    「無電柱化」の通りが終わる「寺之内通」との交差点は、昔から「百々の 辻」と呼ばれ、この辻を南北に流れる「小川」(こかわ)には「百々橋」(どどばし)が架かっていたが、小川が昭和40年(1965)に埋め立てられたため橋も解体され、その礎石が展示されている、「百々」は百々氏という豪族が住んでいたことに由来し近くの宝鏡寺は「百々御所」といわれる、又この橋は「応仁の乱」(1467-1477)で、東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)が、この橋を隔てて戦ったことでも有名で、以後織物を主要産業として町が復興し、千利休の子孫が茶道文化の殿堂を築き発展した

  • 「小川と百々橋の礎石」案内板<br />かつてこの場所には、本法寺や報恩寺の東にその痕跡を残す小川が南北に流れていた。 百々橋の名は、「百百ノ辻」に由来すると伝えられ、法鏡寺殿(宝鏡寺)の東を流れる小川に木橋が描かれている。この橋が知られるようになったのは、戦国時代にこの地を中心として有名な合戦がおこなわれたことによる。とくに「応仁・文明の乱」(1467~1477)では、この橋から一丈戻橋までの一帯が、西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となった。小川は昭和40年(1965)には埋め立てられ、江戸時代に石橋にかわった百々橋も解体されたが、橋材は一時、室町小学校で保管され、その後、洛西ニュータウンの竹林公園内に移築された。この礎石は百々橋の橋脚を支える4基のうちの1基であり、百々橋をしのぶ貴重な遺産としてこの地に戻された。なお、竹林公園と室町小学校にも礎石が残されている。京都市

    「小川と百々橋の礎石」案内板
    かつてこの場所には、本法寺や報恩寺の東にその痕跡を残す小川が南北に流れていた。 百々橋の名は、「百百ノ辻」に由来すると伝えられ、法鏡寺殿(宝鏡寺)の東を流れる小川に木橋が描かれている。この橋が知られるようになったのは、戦国時代にこの地を中心として有名な合戦がおこなわれたことによる。とくに「応仁・文明の乱」(1467~1477)では、この橋から一丈戻橋までの一帯が、西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となった。小川は昭和40年(1965)には埋め立てられ、江戸時代に石橋にかわった百々橋も解体されたが、橋材は一時、室町小学校で保管され、その後、洛西ニュータウンの竹林公園内に移築された。この礎石は百々橋の橋脚を支える4基のうちの1基であり、百々橋をしのぶ貴重な遺産としてこの地に戻された。なお、竹林公園と室町小学校にも礎石が残されている。京都市

  • 「小川通」突き当りに町家の2店舗が並ぶ<br />右「茶道具 小西康商店」は創業六十余年の茶道具屋さん、左「俵屋吉富 小川店」は1745年創業の老舗和菓子屋さん(本店は室町通)

    「小川通」突き当りに町家の2店舗が並ぶ
    右「茶道具 小西康商店」は創業六十余年の茶道具屋さん、左「俵屋吉富 小川店」は1745年創業の老舗和菓子屋さん(本店は室町通)

  • 俵屋吉富の「茶ろんたわらや」<br />「茶の湯通り」を歩いてきたので、せっかくだから「お茶」を頂く

    俵屋吉富の「茶ろんたわらや」
    「茶の湯通り」を歩いてきたので、せっかくだから「お茶」を頂く

  • 庭園好きには嬉しい「露地飛び石」<br />「飛び石」は、露地庭園によくあるが、着物や草履が汚れなくし、露地口から茶室までの間を歩幅に合せて歩きやすくし、道順を誘導する役割があるだけでなく、様々な石を様々な配列で周りに合わせた意匠にするか、極めて奥の深いもので、ここでも飛石に導かれて茶席に入る

    庭園好きには嬉しい「露地飛び石」
    「飛び石」は、露地庭園によくあるが、着物や草履が汚れなくし、露地口から茶室までの間を歩幅に合せて歩きやすくし、道順を誘導する役割があるだけでなく、様々な石を様々な配列で周りに合わせた意匠にするか、極めて奥の深いもので、ここでも飛石に導かれて茶席に入る

  • 町家の「中庭」<br />入口は狭いが、中庭を見ながらお茶を頂ける

    町家の「中庭」
    入口は狭いが、中庭を見ながらお茶を頂ける

  • 抹茶セット(季節の生菓子付き) 1<br />中が白あん、外が外郎の「まさり草」(菊)

    抹茶セット(季節の生菓子付き) 1
    中が白あん、外が外郎の「まさり草」(菊)

  • 抹茶セット(季節の生菓子付き) 2<br />餅の中に粒あんと栗が入った「栗餅」

    抹茶セット(季節の生菓子付き) 2
    餅の中に粒あんと栗が入った「栗餅」

  • (寺之内通)<br />「千」さんのご自宅らしい、「寺之内通」(てらのうちどおり)は、烏丸通から廬山寺通までで、秀吉の洛中改造で寺院を集めて出来た通り

    (寺之内通)
    「千」さんのご自宅らしい、「寺之内通」(てらのうちどおり)は、烏丸通から廬山寺通までで、秀吉の洛中改造で寺院を集めて出来た通り

  • 「西村金糸」(きんし)<br />大正13年(1924)創業の金銀糸・引箔の製造販売、和装だけでなく衝立などインテリア分野にも拡大している *引箔(ひきばく)は、和紙に色を塗り、金銀箔などを重ねて模様を作り、糸のようにスリットして織り込む西陣織の伝統技法<br />

    「西村金糸」(きんし)
    大正13年(1924)創業の金銀糸・引箔の製造販売、和装だけでなく衝立などインテリア分野にも拡大している *引箔(ひきばく)は、和紙に色を塗り、金銀箔などを重ねて模様を作り、糸のようにスリットして織り込む西陣織の伝統技法

  • 「報恩寺」(ほうおんじ)<br />室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院として創建され、1501年に後柏原天皇の命により浄土宗寺院として再興され、この時、天皇から拝領された「虎の図」を、秀吉が気に入り聚楽第に持ち帰ったら夜中に虎の鳴き声が聞こえて安眠できず、すぐに寺へ戻されたことから「鳴虎」として有名となったが、通常非公開、ここで最期を迎えた黒田長政ゆかりの寺で、門前にある石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり昔の「小川」の痕跡が残る

    「報恩寺」(ほうおんじ)
    室町時代に一条高倉に天台浄土兼学の寺院として創建され、1501年に後柏原天皇の命により浄土宗寺院として再興され、この時、天皇から拝領された「虎の図」を、秀吉が気に入り聚楽第に持ち帰ったら夜中に虎の鳴き声が聞こえて安眠できず、すぐに寺へ戻されたことから「鳴虎」として有名となったが、通常非公開、ここで最期を迎えた黒田長政ゆかりの寺で、門前にある石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり昔の「小川」の痕跡が残る

  • (上立売通)「御三軒湯」(ごさんげんゆ)<br />「小川通」は「上立売通」に突き当たり左折するが、右折すると中断していた前回の「油小路通」が再スタートする、「御三軒湯」は、この辺りの地名「御三軒町」からきており、近くにあった「花の御所」の足利義満将軍を補佐する菅領の、斯波(しば)、畠山、細川、ご三家の屋敷があったことに由来、銭湯は三千家もあるこの辺りの水は、地下にある岩盤の下を通るので特に良質というのが売り物、「上立売通」(かみだちうりどおり)は、寺町通から馬代通(ばだいどおり)までで、店舗を構えず商売を行う立売が多かったことに由来

    (上立売通)「御三軒湯」(ごさんげんゆ)
    「小川通」は「上立売通」に突き当たり左折するが、右折すると中断していた前回の「油小路通」が再スタートする、「御三軒湯」は、この辺りの地名「御三軒町」からきており、近くにあった「花の御所」の足利義満将軍を補佐する菅領の、斯波(しば)、畠山、細川、ご三家の屋敷があったことに由来、銭湯は三千家もあるこの辺りの水は、地下にある岩盤の下を通るので特に良質というのが売り物、「上立売通」(かみだちうりどおり)は、寺町通から馬代通(ばだいどおり)までで、店舗を構えず商売を行う立売が多かったことに由来

  • 「小川児童公園」<br />「小川通」はこの「公園」を右折して南下する、「小川児童公園」辺りは、応仁元年(1467)から11年に亘り続いた「応仁の乱」の東軍の陣地になった所で、室町幕府8代将軍・足利義政の後継者争いをきっかけに、山名宗全を大将とする西軍と細川勝元を大将とする東軍とが「小川」を挟んで激しい戦いを繰り広げた、西軍の拠点であった山名宗全の邸宅周辺は「西陣」として現在に名を残しているが、この辺りには東軍の細川勝元の「細川殿」と呼ばれた広大な邸宅があった

    「小川児童公園」
    「小川通」はこの「公園」を右折して南下する、「小川児童公園」辺りは、応仁元年(1467)から11年に亘り続いた「応仁の乱」の東軍の陣地になった所で、室町幕府8代将軍・足利義政の後継者争いをきっかけに、山名宗全を大将とする西軍と細川勝元を大将とする東軍とが「小川」を挟んで激しい戦いを繰り広げた、西軍の拠点であった山名宗全の邸宅周辺は「西陣」として現在に名を残しているが、この辺りには東軍の細川勝元の「細川殿」と呼ばれた広大な邸宅があった

  • 「小川通道路拡張」<br />この公園から今出川通までの270mの通りは、2019年(平成31年~令和元年)道路拡幅が行われた、

    「小川通道路拡張」
    この公園から今出川通までの270mの通りは、2019年(平成31年~令和元年)道路拡幅が行われた、

  • 「小川通事業延長」(京都市建設局広報)<br />小川通と並行して流れていた普通河川「小川(こかわ)」が廃川されたことにより、小川通と小川の廃川敷を一体として市街地における土地の有効活用を図りつつ、地域交通の安全を確保するため、歩道の設置などによる道路整備を行いました

    「小川通事業延長」(京都市建設局広報)
    小川通と並行して流れていた普通河川「小川(こかわ)」が廃川されたことにより、小川通と小川の廃川敷を一体として市街地における土地の有効活用を図りつつ、地域交通の安全を確保するため、歩道の設置などによる道路整備を行いました

  • (今出川通)<br />銀閣寺前から等持院前まで、賀茂川から分流して「今出てきた」という「今出川」が流れていたことに由来

    (今出川通)
    銀閣寺前から等持院前まで、賀茂川から分流して「今出てきた」という「今出川」が流れていたことに由来

  • 京都市立「みつば幼稚園」<br />明治2年(1869)開校した番組小学校・小川中立小学校の跡地に平成7年(1995)開園した私立幼稚園

    京都市立「みつば幼稚園」
    明治2年(1869)開校した番組小学校・小川中立小学校の跡地に平成7年(1995)開園した私立幼稚園

  • 「百々眼科」<br />百々由加利先生とあったから、「百々氏」豪族の末裔か?

    「百々眼科」
    百々由加利先生とあったから、「百々氏」豪族の末裔か?

  • 「元誓願寺通」(もとせいがんじどおり)<br />新町通から千本通を越えて七本松通まで、秀吉の洛中改造で寺町通に移転するまで存在した「誓願寺」があった *「誓願寺」は、清少納言、和泉式部たちから信仰を集めた女人往生の寺と言われる(現在、新京極通六角)

    「元誓願寺通」(もとせいがんじどおり)
    新町通から千本通を越えて七本松通まで、秀吉の洛中改造で寺町通に移転するまで存在した「誓願寺」があった *「誓願寺」は、清少納言、和泉式部たちから信仰を集めた女人往生の寺と言われる(現在、新京極通六角)

  • 「小川なかよし広場」<br />かつてこの地は上京の町堂(集会所)として、有事の際には住民たちが寄り合う自治の結集点として機能していた

    「小川なかよし広場」
    かつてこの地は上京の町堂(集会所)として、有事の際には住民たちが寄り合う自治の結集点として機能していた

  • 「戦国時代上京の結集点・革堂(行願寺)」(こうどう/ぎょうがんじ)<br />かつて小川通には、道路に沿って「小川(こかわ)」と呼ばれた川筋が南流していた。この広場も小川を埋め立てた位置にあたる。戦国時代には、小川通の西側に面して北小路(現在の今出川通)から一条通の間に、北から誓願寺・革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)の3つの大寺院が甍(いらか)を誇って建ち並び、人々の厚い信仰を受けていた。中でも革堂は、上京の町堂(集会所)として利用され、有事の際には早鐘が打ち鳴らされて住民たちが寄り合う、上京の自治の結集点として機能していた。また。『上杉本洛中洛外図屏風』では、革堂の本堂南側に風呂があり、下帯姿で入浴する人物や裏手の「はねつるべ(井戸水を効率よく汲み上げるための装置)」が、小川通を行き交う人々の賑やかな様子とともに描かれている。現在、3つの寺院はそれぞれ他所へと移転したが、元誓願寺通、革堂町、元百万遍など、今も残る地名に在りし日の景観を偲ぶことができるだろう。

    「戦国時代上京の結集点・革堂(行願寺)」(こうどう/ぎょうがんじ)
    かつて小川通には、道路に沿って「小川(こかわ)」と呼ばれた川筋が南流していた。この広場も小川を埋め立てた位置にあたる。戦国時代には、小川通の西側に面して北小路(現在の今出川通)から一条通の間に、北から誓願寺・革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)の3つの大寺院が甍(いらか)を誇って建ち並び、人々の厚い信仰を受けていた。中でも革堂は、上京の町堂(集会所)として利用され、有事の際には早鐘が打ち鳴らされて住民たちが寄り合う、上京の自治の結集点として機能していた。また。『上杉本洛中洛外図屏風』では、革堂の本堂南側に風呂があり、下帯姿で入浴する人物や裏手の「はねつるべ(井戸水を効率よく汲み上げるための装置)」が、小川通を行き交う人々の賑やかな様子とともに描かれている。現在、3つの寺院はそれぞれ他所へと移転したが、元誓願寺通、革堂町、元百万遍など、今も残る地名に在りし日の景観を偲ぶことができるだろう。

  • 「革堂町」(こうどうちょう)<br />秀吉の洛中改造で寺町通に移転するまで「革堂」(行願寺)があったところで、「行願寺」は「人々の成仏を願い行(ぎょう)じる」の意、「革堂」は開山の行円が狩猟で射た雌鹿のお腹に子鹿がいたことから仏門に入り、それ以来鹿の皮を身につけて「皮聖人」と呼ばれていたことに由来 *「行願寺」は、寺町荒神口からさらに寺町通の下御霊神社近くに移転している

    「革堂町」(こうどうちょう)
    秀吉の洛中改造で寺町通に移転するまで「革堂」(行願寺)があったところで、「行願寺」は「人々の成仏を願い行(ぎょう)じる」の意、「革堂」は開山の行円が狩猟で射た雌鹿のお腹に子鹿がいたことから仏門に入り、それ以来鹿の皮を身につけて「皮聖人」と呼ばれていたことに由来 *「行願寺」は、寺町荒神口からさらに寺町通の下御霊神社近くに移転している

  • 「武者小路通」(むしゃのこうじどおり)<br />室町時代初期の1331年に京都御所が現在の地に移され、京都御所警護にあたる侍たちが多く住んでいたことから命名され、御所前の烏丸通から小川通までわずか500mほどの細い道で「無車小路通」とも書かれる *「武者小路実篤」(むしゃこうじさねあつ)は、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿・武者小路家の生まれ

    「武者小路通」(むしゃのこうじどおり)
    室町時代初期の1331年に京都御所が現在の地に移され、京都御所警護にあたる侍たちが多く住んでいたことから命名され、御所前の烏丸通から小川通までわずか500mほどの細い道で「無車小路通」とも書かれる *「武者小路実篤」(むしゃこうじさねあつ)は、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿・武者小路家の生まれ

  • 「千宗守居士遺蹟 官休庵」(せんのそうしゅこじ かんきゅうあん)<br />千利休の孫にあたる千宗旦の2男宗守(1605-1676)が、讃岐高松藩の仕官から千家の茶の世界に戻り、1667年武者小路通に「官休庵」を結び「武者小路千家」の祖となった、また宗守が一時塗師として入った家は、千家十職の中村宗哲家に引き継がれ、この家の隣にある *宗旦の子供は、長男は家を継がず、2、3、4男がそれぞれ武者小路千家(1667)、表千家(1646年)、裏千家(1658年)当主となった、「官休庵」は(讃岐高松藩の)仕官を辞したことからの命名

    「千宗守居士遺蹟 官休庵」(せんのそうしゅこじ かんきゅうあん)
    千利休の孫にあたる千宗旦の2男宗守(1605-1676)が、讃岐高松藩の仕官から千家の茶の世界に戻り、1667年武者小路通に「官休庵」を結び「武者小路千家」の祖となった、また宗守が一時塗師として入った家は、千家十職の中村宗哲家に引き継がれ、この家の隣にある *宗旦の子供は、長男は家を継がず、2、3、4男がそれぞれ武者小路千家(1667)、表千家(1646年)、裏千家(1658年)当主となった、「官休庵」は(讃岐高松藩の)仕官を辞したことからの命名

  • 「官休庵庭園」<br />現在の「官休庵」は1881年の再建で、官休庵の他、茶室半宝庵・環翠園、弘道庵、利休を祀る祖堂などを飛石でつなぎ、編笠門や石灯籠などを含めた露地庭園は素晴らしく、国の重要文化財になっているが、非公開

    「官休庵庭園」
    現在の「官休庵」は1881年の再建で、官休庵の他、茶室半宝庵・環翠園、弘道庵、利休を祀る祖堂などを飛石でつなぎ、編笠門や石灯籠などを含めた露地庭園は素晴らしく、国の重要文化財になっているが、非公開

  • 「革堂図子」(こうどうずし)<br />この辺りはかつて「革堂」(行願寺)があり、秀吉の都市計画で移転した後に広大な寺域が残ったので、これの使い道を地域の生活者が利便性を考えた結果、小川通と油小路通の間を貫通する細い通りが出来たもので、袋小路の路地ではない

    「革堂図子」(こうどうずし)
    この辺りはかつて「革堂」(行願寺)があり、秀吉の都市計画で移転した後に広大な寺域が残ったので、これの使い道を地域の生活者が利便性を考えた結果、小川通と油小路通の間を貫通する細い通りが出来たもので、袋小路の路地ではない

  • 西陣織「西陣 岡本」<br />1909年創業の西陣織物卸業者、西陣織のなかでも「金襴」という、寺社仏閣で扱われる絹織物を作ってきた職人さんの会社で、4世代100年以上にわたり、全国の神社仏閣に金襴の織物を納めている

    西陣織「西陣 岡本」
    1909年創業の西陣織物卸業者、西陣織のなかでも「金襴」という、寺社仏閣で扱われる絹織物を作ってきた職人さんの会社で、4世代100年以上にわたり、全国の神社仏閣に金襴の織物を納めている

  • 「山本家住宅・仁風庵」<br />昭和初期1940年頃の建築で、京都市も迎賓館として利用したという近代和風住宅、露地庭と枯山水庭園の2つの庭園も素晴らしい、「山本家」は、江戸時代中期の享保年間創業の白生地問屋で、大正9年(1920)に京都室町通りに本店を構える「山本仁商店」、現在も現役の住宅で通常非公開

    「山本家住宅・仁風庵」
    昭和初期1940年頃の建築で、京都市も迎賓館として利用したという近代和風住宅、露地庭と枯山水庭園の2つの庭園も素晴らしい、「山本家」は、江戸時代中期の享保年間創業の白生地問屋で、大正9年(1920)に京都室町通りに本店を構える「山本仁商店」、現在も現役の住宅で通常非公開

  • 「初代上京区役所跡」<br />上京区役所は京都市制誕生前の明治16年(1883)にこの地に開庁し、昭和13年まで執行した、上京区130周年を記念して、日本の地方自治の魁であるこの地を顕彰する(碑文より)

    「初代上京区役所跡」
    上京区役所は京都市制誕生前の明治16年(1883)にこの地に開庁し、昭和13年まで執行した、上京区130周年を記念して、日本の地方自治の魁であるこの地を顕彰する(碑文より)

  • 「下長者町通」(しもちょうじゃまちどおり)<br />烏丸通から千本通まで、貨幣の両替や穀物などを用達していたお金持ちが住んでいたことに由来

    「下長者町通」(しもちょうじゃまちどおり)
    烏丸通から千本通まで、貨幣の両替や穀物などを用達していたお金持ちが住んでいたことに由来

  • 「茶屋四郎次郎邸址」(ちゃやしろうじろう)<br />茶屋四郎次郎は、角倉了以や後藤庄三郎とともに「京の三長者」と言われる京都の豪商、初代は「本能寺の変」で大阪にいた徳川家康にいち早く報せ大阪脱出を助けて、徳川家の呉服御用を引き受け、三代は朱印船貿易などで巨万の富を得た

    「茶屋四郎次郎邸址」(ちゃやしろうじろう)
    茶屋四郎次郎は、角倉了以や後藤庄三郎とともに「京の三長者」と言われる京都の豪商、初代は「本能寺の変」で大阪にいた徳川家康にいち早く報せ大阪脱出を助けて、徳川家の呉服御用を引き受け、三代は朱印船貿易などで巨万の富を得た

  • 「きょうと留学生オリエンテーションセンター」<br />京都の遊休資産を活用し、来日間もない留学生をサポートする留学生宿舎で、日本人学生によるフォローや寮生同士の交流や地元行事等への参加などを通じて多様な文化や習慣等を学ぶ、入居期間1年まで

    「きょうと留学生オリエンテーションセンター」
    京都の遊休資産を活用し、来日間もない留学生をサポートする留学生宿舎で、日本人学生によるフォローや寮生同士の交流や地元行事等への参加などを通じて多様な文化や習慣等を学ぶ、入居期間1年まで

  • (下立売通)「京の飴いしざき 御所乃石本舗」<br />明治30年(1897)創業の高級あめ屋さん、「下立売通」(しもだちうりどおり)は、京都御所前烏丸通から京都府庁前を通って花園までで、立ち売り商人が多かったことに由来

    (下立売通)「京の飴いしざき 御所乃石本舗」
    明治30年(1897)創業の高級あめ屋さん、「下立売通」(しもだちうりどおり)は、京都御所前烏丸通から京都府庁前を通って花園までで、立ち売り商人が多かったことに由来

  • 「京都まなびの街 生き方探究館」<br />京都市の小・中学校の児童・生徒が学校教育活動の一環として、職業体験や生活設計体験を通じて社会の働きや経済の仕組み等を学び、将来自分らしい生き方を実現する力を育成する目的で、建物は元滋野中学校跡地を使い、運営は産学公連携で市民も含め全てボランティアで、初代館長を堀場製作所創業者が務め、現在は堀場厚会長が務めている、平成19年開設され、学校の授業の一環として利用し、全国でも注目を浴びている施設で、さすが教育熱心な京都市民の伝統を受け継いでいる施設に感服!

    「京都まなびの街 生き方探究館」
    京都市の小・中学校の児童・生徒が学校教育活動の一環として、職業体験や生活設計体験を通じて社会の働きや経済の仕組み等を学び、将来自分らしい生き方を実現する力を育成する目的で、建物は元滋野中学校跡地を使い、運営は産学公連携で市民も含め全てボランティアで、初代館長を堀場製作所創業者が務め、現在は堀場厚会長が務めている、平成19年開設され、学校の授業の一環として利用し、全国でも注目を浴びている施設で、さすが教育熱心な京都市民の伝統を受け継いでいる施設に感服!

  • 「京都まなびの街 生き方探究館」活動内容(HPより)<br />京都の企業を中心に30社の企業が出店し、主に3つの体験活動を行うことができる、① モノづくり(主に小学校4年生):京都の企業17社のブースで、モノづくりの体験を行う ② 職業体験(主に小学校5年生):銀行・商店・新聞社・区役所等12ブースで、お金とは何か、働くとは何かについて学ぶ ③ ファイナンス体験(主に中学校1年生):19業種もブースで、割り当てられた年収に応じてどのようにお金を使っていけばよいかを体験して学ぶ

    「京都まなびの街 生き方探究館」活動内容(HPより)
    京都の企業を中心に30社の企業が出店し、主に3つの体験活動を行うことができる、① モノづくり(主に小学校4年生):京都の企業17社のブースで、モノづくりの体験を行う ② 職業体験(主に小学校5年生):銀行・商店・新聞社・区役所等12ブースで、お金とは何か、働くとは何かについて学ぶ ③ ファイナンス体験(主に中学校1年生):19業種もブースで、割り当てられた年収に応じてどのようにお金を使っていけばよいかを体験して学ぶ

  • 普通の民家だと思うが、素晴らしい私好みの庭園玄関!<br />内の庭園が透けて見えるのも、思わず見てしまう!

    普通の民家だと思うが、素晴らしい私好みの庭園玄関!
    内の庭園が透けて見えるのも、思わず見てしまう!

  • 「正覚寺」<br />とげとげしい 言葉の正体は さみしさ

    「正覚寺」
    とげとげしい 言葉の正体は さみしさ

  • 「椹木町通」(さわらぎちょうどおり)<br />烏丸通から千本通まで、「椹木」を取り扱う商人が多く店を構えていたことに由来、「椹木」はヒノキに似ているが障子の格子など建具や柄杓や桶などに使われる柔らかい材質の建材

    「椹木町通」(さわらぎちょうどおり)
    烏丸通から千本通まで、「椹木」を取り扱う商人が多く店を構えていたことに由来、「椹木」はヒノキに似ているが障子の格子など建具や柄杓や桶などに使われる柔らかい材質の建材

  • 「ふじやま歯科医院」<br />町家の並びにお洒落な店構えが目を惹く<br />

    「ふじやま歯科医院」
    町家の並びにお洒落な店構えが目を惹く

  • 「京都府警・自転車取締小隊」<br />観光客の自転車かと思ったが、よく見ると警察官、後で調べると、京都府警は今年から、自転車事故防止のためマナーの啓発や取締りを専門に行う「自転車取締小隊」を組織したという、青色のスポーツタイプの専用の自転車で11人の部隊だというから、市内を歩いていると思わぬ発見に遭遇する

    「京都府警・自転車取締小隊」
    観光客の自転車かと思ったが、よく見ると警察官、後で調べると、京都府警は今年から、自転車事故防止のためマナーの啓発や取締りを専門に行う「自転車取締小隊」を組織したという、青色のスポーツタイプの専用の自転車で11人の部隊だというから、市内を歩いていると思わぬ発見に遭遇する

  • 「高陽庵」(かやのいおり)<br />興味深い名前の表札があったので調べると、「株式会社ITP」という印刷、Webデザイン制作会社の保養所らしい、この辺りに平安時代「高陽院」(かやのいん)の邸宅があった

    「高陽庵」(かやのいおり)
    興味深い名前の表札があったので調べると、「株式会社ITP」という印刷、Webデザイン制作会社の保養所らしい、この辺りに平安時代「高陽院」(かやのいん)の邸宅があった

  • (丸太町通)藤原頼道の邸宅「高陽院」跡<br />「高陽院」(かやのいん)は、平安時代・藤原頼通(992-1074)が、桓武天皇の皇子賀陽親王(かやしんのう794-871)の邸宅を倍に広げて邸宅とし、宇治平等院に引退してからは里内裏(仮御所)として5代に亘り使われ、鎌倉時代初期には後鳥羽上皇が院政の拠点となった所

    (丸太町通)藤原頼道の邸宅「高陽院」跡
    「高陽院」(かやのいん)は、平安時代・藤原頼通(992-1074)が、桓武天皇の皇子賀陽親王(かやしんのう794-871)の邸宅を倍に広げて邸宅とし、宇治平等院に引退してからは里内裏(仮御所)として5代に亘り使われ、鎌倉時代初期には後鳥羽上皇が院政の拠点となった所

  • 町家のカフェ「common」<br />お客さんは外国人ばかり、京都の喫茶店は英会話が必須になっている

    町家のカフェ「common」
    お客さんは外国人ばかり、京都の喫茶店は英会話が必須になっている

  • 町家の「床屋さん」

    町家の「床屋さん」

  • 「田畑染織研究所」(たばたせんしょくびじゅつけんきゅうしょ)<br />文化年間(1804~)創業、人間国宝3代目田畑喜八の孫(5代目)が友禅作品を制作し、手描京友禅染の和装品や室内装飾品の製造および販売を手掛ける

    「田畑染織研究所」(たばたせんしょくびじゅつけんきゅうしょ)
    文化年間(1804~)創業、人間国宝3代目田畑喜八の孫(5代目)が友禅作品を制作し、手描京友禅染の和装品や室内装飾品の製造および販売を手掛ける

  • 「瀞山吟詩道和親館 理事長・八田瀞翁」<br />詩吟の流派は2000~3000もあるらしい<br />

    「瀞山吟詩道和親館 理事長・八田瀞翁」
    詩吟の流派は2000~3000もあるらしい

  • (夷川通)「夷川児童公園」<br />この辺りは光源氏が前半生を過ごした邸宅があった所、「夷川通」(えびすがわどおり)は、鴨川から堀川通まで、夷川があったことからの命名

    (夷川通)「夷川児童公園」
    この辺りは光源氏が前半生を過ごした邸宅があった所、「夷川通」(えびすがわどおり)は、鴨川から堀川通まで、夷川があったことからの命名

  • 「二条院候補地(陽成院跡)」(ようぜいいん)<br />公園の中に案内板があり、「陽成院」は陽成上皇(869-949)の御所で、上皇の崩御後「源氏物語」では光源氏の二条院の場所として想定されているという、(説明文では)この夷川公園一帯には、南北二町に及ぶ陽成院と呼ぶ邸宅があった。元慶8年(884)2月、譲位した陽成上皇は内裏からこの邸に遷幸して御所とし、母の皇太后藤原高子も渡ってきた。上皇の崩御後は二分割されて北町は一般の住宅に、南町は荒廃に任せた。この荒れ屋敷を、紫式部は『源氏物語』で光源氏の二条院に想定している。そもそもこの邸は光源氏の母、桐壷更衣の実家であり、源氏はこの屋敷を改築して藤壺の姪にあたる紫上を迎え入れている。北町の敷地の東南部における発掘調査では、陽成上皇時代に使用されたと思われる井戸跡が見つかっている。

    「二条院候補地(陽成院跡)」(ようぜいいん)
    公園の中に案内板があり、「陽成院」は陽成上皇(869-949)の御所で、上皇の崩御後「源氏物語」では光源氏の二条院の場所として想定されているという、(説明文では)この夷川公園一帯には、南北二町に及ぶ陽成院と呼ぶ邸宅があった。元慶8年(884)2月、譲位した陽成上皇は内裏からこの邸に遷幸して御所とし、母の皇太后藤原高子も渡ってきた。上皇の崩御後は二分割されて北町は一般の住宅に、南町は荒廃に任せた。この荒れ屋敷を、紫式部は『源氏物語』で光源氏の二条院に想定している。そもそもこの邸は光源氏の母、桐壷更衣の実家であり、源氏はこの屋敷を改築して藤壺の姪にあたる紫上を迎え入れている。北町の敷地の東南部における発掘調査では、陽成上皇時代に使用されたと思われる井戸跡が見つかっている。

  • (二条通)「森自転車店」<br />大正14年創業の自転車屋さん、「二条通」は白川通から二条城正面まで、平安時代には貴族達がこの通りに家を構えることがステイタスであった

    (二条通)「森自転車店」
    大正14年創業の自転車屋さん、「二条通」は白川通から二条城正面まで、平安時代には貴族達がこの通りに家を構えることがステイタスであった

  • 「二条若狭屋」<br />江戸時代創業の総本家若狭屋から暖簾分けし、大正6年に創業した京菓子の老舗、「若狭屋」は本家はないが、二条、三条、七条の分家がある、「家喜芋」(やきいも)は創業当初からの代表銘菓

    「二条若狭屋」
    江戸時代創業の総本家若狭屋から暖簾分けし、大正6年に創業した京菓子の老舗、「若狭屋」は本家はないが、二条、三条、七条の分家がある、「家喜芋」(やきいも)は創業当初からの代表銘菓

  • 「法律の館・知原法律事務所」(ちはらほうりつじむしょ)<br />町家の中に突然異様な建物が出現、「法の女神・テミス像」(高さ3.5m)が立っている

    「法律の館・知原法律事務所」(ちはらほうりつじむしょ)
    町家の中に突然異様な建物が出現、「法の女神・テミス像」(高さ3.5m)が立っている

  • 「テミス」は法の女神で、左手に掲げるハカリは公平を象徴するとともに、悪の重さをはかり、右手の剣は力による貫徹を象徴し、目隠しは無欲をあらわす、本物は衣を纏っているが、体を張って仕事するという意味で、あえて裸にしているとして、一時話題にもなったという

    「テミス」は法の女神で、左手に掲げるハカリは公平を象徴するとともに、悪の重さをはかり、右手の剣は力による貫徹を象徴し、目隠しは無欲をあらわす、本物は衣を纏っているが、体を張って仕事するという意味で、あえて裸にしているとして、一時話題にもなったという

  • (押小路通)「閑院跡」(かんいん)<br />この辺りは、平安時代から鎌倉時代初期にかけて、藤原冬嗣(795~826 ふゆつぐ)の邸があった所で、庭内に泉が湧きその閑雅な風情から「閑院」と呼ばれた、「押小路通」(おしこうじどおり)は、木屋町通から千本通までで、二条大路の一筋隣の小路だったことに由来かどうかは不明

    (押小路通)「閑院跡」(かんいん)
    この辺りは、平安時代から鎌倉時代初期にかけて、藤原冬嗣(795~826 ふゆつぐ)の邸があった所で、庭内に泉が湧きその閑雅な風情から「閑院」と呼ばれた、「押小路通」(おしこうじどおり)は、木屋町通から千本通までで、二条大路の一筋隣の小路だったことに由来かどうかは不明

  • すぐ近くに「閑院跡」の駒札と「豊臣秀吉妙顕寺城跡」<br />「閑院」は、平安時代前半は藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の「里内裏」となり、鎌倉初期まで存続した

    すぐ近くに「閑院跡」の駒札と「豊臣秀吉妙顕寺城跡」
    「閑院」は、平安時代前半は藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の「里内裏」となり、鎌倉初期まで存続した

  • 「豊臣秀吉妙顕寺城跡」(みょうけんじじょう)(隣は「閑院跡」駒札)<br />この付近は豊臣秀吉の「妙顕寺城」があった所で、秀吉は織田信長が「妙覚寺」を宿所にし、「二条新御新」(二条殿)まで構えていたのを意識して、「本能寺の変」後の翌年(1583)から近くの「妙顕寺」を京都の宿所とし、泊まるだけでなく城郭に改造し「二条城」と呼んで秀吉が天下を握ってゆく間の重要な政治的拠点とし、1586年聚楽第が完成した後は京都所司代の邸宅として利用させた、またこれに伴い「妙顕寺」は寺之内通の現在地へ移転させられた

    「豊臣秀吉妙顕寺城跡」(みょうけんじじょう)(隣は「閑院跡」駒札)
    この付近は豊臣秀吉の「妙顕寺城」があった所で、秀吉は織田信長が「妙覚寺」を宿所にし、「二条新御新」(二条殿)まで構えていたのを意識して、「本能寺の変」後の翌年(1583)から近くの「妙顕寺」を京都の宿所とし、泊まるだけでなく城郭に改造し「二条城」と呼んで秀吉が天下を握ってゆく間の重要な政治的拠点とし、1586年聚楽第が完成した後は京都所司代の邸宅として利用させた、またこれに伴い「妙顕寺」は寺之内通の現在地へ移転させられた

  • 「数珠製造所・中邨」<br />明治18年創業の珠数製造・卸販売会社、各宗派の念珠やブレスレット、ストラップ、ふくさ等販売<br />

    「数珠製造所・中邨」
    明治18年創業の珠数製造・卸販売会社、各宗派の念珠やブレスレット、ストラップ、ふくさ等販売

  • (御池通)<br />平安京の三条坊門小路という狭い小路が、第二次世界大戦の空襲疎開後に道幅50mの広い道路となって、ビジネス高層ビルが建ち並び、昭和30年代には、祇園祭・時代祭の巡行ルートとなり、京都の幹線道路となった

    (御池通)
    平安京の三条坊門小路という狭い小路が、第二次世界大戦の空襲疎開後に道幅50mの広い道路となって、ビジネス高層ビルが建ち並び、昭和30年代には、祇園祭・時代祭の巡行ルートとなり、京都の幹線道路となった

  • 「京友禅体験工房 丸益西村屋」<br />明治38年創業の京友禅の老舗・丸益西村屋の古い町家で、ベテラン職人に教えてもらって京友禅に触れることが出来る体験工房

    「京友禅体験工房 丸益西村屋」
    明治38年創業の京友禅の老舗・丸益西村屋の古い町家で、ベテラン職人に教えてもらって京友禅に触れることが出来る体験工房

  • 「Mayu Grace Hotel Kyoto」<br />京都の株式会社レジステイという会社が運営しているホテルで、京町家を改装して1泊6千円~15万円ほどで泊まれるアパートメントホテル(滞在型)を22棟運営する、不動産オーナーから委託を受けて開発から運営サービスまで手掛ける最近流行りのビジネスで、インバウンド90%で好調な業績を展開しているらしい

    「Mayu Grace Hotel Kyoto」
    京都の株式会社レジステイという会社が運営しているホテルで、京町家を改装して1泊6千円~15万円ほどで泊まれるアパートメントホテル(滞在型)を22棟運営する、不動産オーナーから委託を受けて開発から運営サービスまで手掛ける最近流行りのビジネスで、インバウンド90%で好調な業績を展開しているらしい

  • 「ゲストハウスひつじ庵」<br />こちらは築80年以上の町家をリノベーションして2023年オープンした、個人経営のゲストハウス

    「ゲストハウスひつじ庵」
    こちらは築80年以上の町家をリノベーションして2023年オープンした、個人経営のゲストハウス

  • 「日本料理と日本酒 惠史(さとし)」<br />「落語と楽しむ日本料理」のポスターに惹かれた日本料理店、「和久傳」で17年働いた料理人が、古民家を改装して2023年オープンした隠れ家和食店、おすすめは伊勢海老や鰻、京野菜など旬の食材の炭焼料理で、昼会席で11,000円~はインバウンドではリーズナブルか?

    「日本料理と日本酒 惠史(さとし)」
    「落語と楽しむ日本料理」のポスターに惹かれた日本料理店、「和久傳」で17年働いた料理人が、古民家を改装して2023年オープンした隠れ家和食店、おすすめは伊勢海老や鰻、京野菜など旬の食材の炭焼料理で、昼会席で11,000円~はインバウンドではリーズナブルか?

  • 「幾世稲荷社」(いくよいなりじんじゃ)<br />小川通道端に現れた神社は、応仁年間(1467~)から鎮座していたという「稲荷社」で、扁額には「正一位幾世稲荷大明神」とある、「神社」と「大明神」に引っ掛かったので調べてみると、そもそも秦氏が祀った「伏見稲荷大社」の「稲荷神」は、神仏習合により仏教の神「荼枳尼天」(だきにてん)と習合され、特に江戸時代になって「伏見稲荷」から勧請された神社が広まった時に、さほど大きくなかった小さな祠のようなものは、神道系の「神社」と、仏教系の呼称である「明神」とに分かれたという(にわか勉強で理解不足ですが)

    「幾世稲荷社」(いくよいなりじんじゃ)
    小川通道端に現れた神社は、応仁年間(1467~)から鎮座していたという「稲荷社」で、扁額には「正一位幾世稲荷大明神」とある、「神社」と「大明神」に引っ掛かったので調べてみると、そもそも秦氏が祀った「伏見稲荷大社」の「稲荷神」は、神仏習合により仏教の神「荼枳尼天」(だきにてん)と習合され、特に江戸時代になって「伏見稲荷」から勧請された神社が広まった時に、さほど大きくなかった小さな祠のようなものは、神道系の「神社」と、仏教系の呼称である「明神」とに分かれたという(にわか勉強で理解不足ですが)

  • (三条通)<br />「小川通」は三条通に突き当たると、筋違いになって左折して直ぐに右折して直進する、「三条通」は三条大橋からさらに東の山科から嵐山渡月橋まで

    (三条通)
    「小川通」は三条通に突き当たると、筋違いになって左折して直ぐに右折して直進する、「三条通」は三条大橋からさらに東の山科から嵐山渡月橋まで

  • 「オフィス108スペース」<br />町家を現代版「長屋オフィス」として活用している事例も増えているらしい<br />

    「オフィス108スペース」
    町家を現代版「長屋オフィス」として活用している事例も増えているらしい

  • 「櫻井仏像彫刻工房」<br />仏像の製作、修復、教室等をしている工房<br />

    「櫻井仏像彫刻工房」
    仏像の製作、修復、教室等をしている工房

  • (六角通)「本能公園」<br />この辺りは「本能寺の変」があった地域で「本能寺町」と呼ばれる、「六角通」(ろっかくどうり)は、木屋町通から佐井通まで、途中六角の本堂がある「六角堂」があることからの命名

    (六角通)「本能公園」
    この辺りは「本能寺の変」があった地域で「本能寺町」と呼ばれる、「六角通」(ろっかくどうり)は、木屋町通から佐井通まで、途中六角の本堂がある「六角堂」があることからの命名

  • (蛸薬師通)「本能寺址の碑」<br />織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺があった地で、現在の本能小学校跡地が寺の中心だった、「蛸薬師通」(たこやくしどおり)は、木屋町通から佐井通まで、新京極通にある「蛸薬師堂 永福寺」があることからの命名

    (蛸薬師通)「本能寺址の碑」
    織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺があった地で、現在の本能小学校跡地が寺の中心だった、「蛸薬師通」(たこやくしどおり)は、木屋町通から佐井通まで、新京極通にある「蛸薬師堂 永福寺」があることからの命名

  • 「本能の辻子・小川門」<br />前回の「油小路通」側から新たに造られた現代版「辻子」(図子)を通り抜けた「小川通」側の出入り口<br />

    「本能の辻子・小川門」
    前回の「油小路通」側から新たに造られた現代版「辻子」(図子)を通り抜けた「小川通」側の出入り口

  • (錦小路通)「河道屋支店 河久」<br />「小川通」は「錦小路通」で終了、近くに「河道屋」の暖簾があったので、思わずイン

    (錦小路通)「河道屋支店 河久」
    「小川通」は「錦小路通」で終了、近くに「河道屋」の暖簾があったので、思わずイン

  • 「河道屋支店 河久」は、大正14年創業で高齢のご夫婦だけでやっているうどんそば屋さんで、以前入りたかった麩屋町通の「河道屋本店」が閉店で入れなかったので、思わず飛び込んだ、どういう経緯か「河道屋支店」になっているが、昔ながらの食堂の味という感じ *「河道屋」は江戸時代から続くそばと蕎麦ほうるの老舗

    「河道屋支店 河久」は、大正14年創業で高齢のご夫婦だけでやっているうどんそば屋さんで、以前入りたかった麩屋町通の「河道屋本店」が閉店で入れなかったので、思わず飛び込んだ、どういう経緯か「河道屋支店」になっているが、昔ながらの食堂の味という感じ *「河道屋」は江戸時代から続くそばと蕎麦ほうるの老舗

  • (四条通)<br />「小川通・錦小路通」から隣の「西洞院通」に廻り、「四条通」を渡り、「小川通」の延長上にある「東中筋通」へ向かう、「西洞院通」(にしのとういん)は、「武者小路通」から「小川通」と並行して南下している

    (四条通)
    「小川通・錦小路通」から隣の「西洞院通」に廻り、「四条通」を渡り、「小川通」の延長上にある「東中筋通」へ向かう、「西洞院通」(にしのとういん)は、「武者小路通」から「小川通」と並行して南下している

  • (仏光寺通)「木賊山」(とくさやま)保存会<br />この辺りは「祇園祭」には「木賊山」(とくさやま)が建つ地域で、近くに山を絶やさないよう守っている歴史ある町家が建ち並ぶ、「木賊山」は前祭りを巡行する舁山(かきやま;人が担ぐ)で、謡曲「木賊」(とくさ)に由来し、老翁が生き別れになった我が子を思い木賊を刈りながら息子の無事を祈る父親を表現している、「木賊」(砥草)は砥石になる草に由来し、別名「歯磨草」ともいわれるシダ類の植物、「仏光寺通」(ぶっこうじ)は、鴨川から佐井通までで、「仏光寺」があることに由来

    (仏光寺通)「木賊山」(とくさやま)保存会
    この辺りは「祇園祭」には「木賊山」(とくさやま)が建つ地域で、近くに山を絶やさないよう守っている歴史ある町家が建ち並ぶ、「木賊山」は前祭りを巡行する舁山(かきやま;人が担ぐ)で、謡曲「木賊」(とくさ)に由来し、老翁が生き別れになった我が子を思い木賊を刈りながら息子の無事を祈る父親を表現している、「木賊」(砥草)は砥石になる草に由来し、別名「歯磨草」ともいわれるシダ類の植物、「仏光寺通」(ぶっこうじ)は、鴨川から佐井通までで、「仏光寺」があることに由来

  • 「尾池工業株式会社」<br />1876年(明治9年9月)刺繍用金銀糸の製造・販売として創業し、昭和22年からプラスチックフィルムの表面加工製品の製造販売(食品・医療・建材など様々な分野で利用)で発展した、この本社建物は昭和6年リニューアルしたもの

    「尾池工業株式会社」
    1876年(明治9年9月)刺繍用金銀糸の製造・販売として創業し、昭和22年からプラスチックフィルムの表面加工製品の製造販売(食品・医療・建材など様々な分野で利用)で発展した、この本社建物は昭和6年リニューアルしたもの

  • 「旅館・花屋」<br />築約100年の元呉服商明治屋の町家を利用し昭和24年(1949)に創業した和風旅館<br />

    「旅館・花屋」
    築約100年の元呉服商明治屋の町家を利用し昭和24年(1949)に創業した和風旅館

  • 「京染呉服商・明治屋本店」

    「京染呉服商・明治屋本店」

  • 間口は狭いが、奥は豪華そうな近代的な建物もある

    間口は狭いが、奥は豪華そうな近代的な建物もある

  • どれだけ豪奢な邸宅か、想像できない

    どれだけ豪奢な邸宅か、想像できない

  • 「鈴木内科医院」<br />「木賊山」(とくさやま)の会所は、この病院の待合室にあるらしい、そもそもこの会所の先代が西陣織の職人さんだったという経緯があるらしい

    「鈴木内科医院」
    「木賊山」(とくさやま)の会所は、この病院の待合室にあるらしい、そもそもこの会所の先代が西陣織の職人さんだったという経緯があるらしい

  • 「東中筋通」(ひがしなかすじどおり)<br />「小川通」が途切れてその延長上にある、「仏光寺通」の「西洞院通」と「油小路通」の中間から、「東中筋通」が始まる<br />

    「東中筋通」(ひがしなかすじどおり)
    「小川通」が途切れてその延長上にある、「仏光寺通」の「西洞院通」と「油小路通」の中間から、「東中筋通」が始まる

  • 「天使突抜通」(てんしつきぬけ)<br />「小川通」から続く「東中筋通」は秀吉の洛中改造で出来た通りだが、仏光寺通から高辻通の間は細い石畳の図子(ずし)になっており、その先松原通から六条通までは「天使突抜1丁目」から4丁目という町名が続き、ここを縦貫することから「天使突抜通」と呼ばれる(松原通から万寿寺通まで天使突抜1丁目、五条通まで2丁目、楊梅通まで3丁目、六条通まで4丁目、旧花屋敷通までは学林町)

    「天使突抜通」(てんしつきぬけ)
    「小川通」から続く「東中筋通」は秀吉の洛中改造で出来た通りだが、仏光寺通から高辻通の間は細い石畳の図子(ずし)になっており、その先松原通から六条通までは「天使突抜1丁目」から4丁目という町名が続き、ここを縦貫することから「天使突抜通」と呼ばれる(松原通から万寿寺通まで天使突抜1丁目、五条通まで2丁目、楊梅通まで3丁目、六条通まで4丁目、旧花屋敷通までは学林町)

  • (高辻通)<br />鴨川から梅津街道までで、洛中で一番高い所であったことに由来

    (高辻通)
    鴨川から梅津街道までで、洛中で一番高い所であったことに由来

  • 「道元禅師示寂の地」(どうげんぜんし しじゃく)<br />曹洞宗の開祖道元(1200-1253)は、越前国に永平寺を開いた後、療養のため上洛したが、弟子覚念の邸宅に滞在中この地で没した *「示寂」は菩薩や高僧などが死ぬこと

    「道元禅師示寂の地」(どうげんぜんし しじゃく)
    曹洞宗の開祖道元(1200-1253)は、越前国に永平寺を開いた後、療養のため上洛したが、弟子覚念の邸宅に滞在中この地で没した *「示寂」は菩薩や高僧などが死ぬこと

  • 「白山湯・高辻店」<br />六条店もあり、サウナ込みで490円が人気

    「白山湯・高辻店」
    六条店もあり、サウナ込みで490円が人気

  • 町家レストラン「クッキングサン」<br />日本料理の家庭料理や、焼き鳥・餃子などの居酒屋メニューなどの料理教室

    町家レストラン「クッキングサン」
    日本料理の家庭料理や、焼き鳥・餃子などの居酒屋メニューなどの料理教室

  • (松原通)天神前町<br />平安京の「五条大路」で、東山清水寺から佐井通まで、松並木が綺麗だったことからの命名で、秀吉が五条の橋を現在の地に架けたことから「五条通」の名前が移ったので、牛若丸と弁慶が出会った「五条の橋」は、松原通に架かる「松原橋」のこと

    (松原通)天神前町
    平安京の「五条大路」で、東山清水寺から佐井通まで、松並木が綺麗だったことからの命名で、秀吉が五条の橋を現在の地に架けたことから「五条通」の名前が移ったので、牛若丸と弁慶が出会った「五条の橋」は、松原通に架かる「松原橋」のこと

  • 4つ角にあるタイムズ「天使突抜」、ここから「天使突抜通」が始まる

    4つ角にあるタイムズ「天使突抜」、ここから「天使突抜通」が始まる

  • 「松原通」を少し東へ進むと「天使突抜」の由来になった「五條天神宮」がある

    「松原通」を少し東へ進むと「天使突抜」の由来になった「五條天神宮」がある

  • 「五條天神宮」北鳥居<br />「松原通」側の入り口、境内には広大な森があったが、秀吉の洛中改造で敷地内を貫通する道が通されたため、京都人は「天使さん」の敷地を突き抜けて道が通されたことを皮肉って「天使突抜通」と名付け、この辺り一帯の町名として残っている<br />

    「五條天神宮」北鳥居
    「松原通」側の入り口、境内には広大な森があったが、秀吉の洛中改造で敷地内を貫通する道が通されたため、京都人は「天使さん」の敷地を突き抜けて道が通されたことを皮肉って「天使突抜通」と名付け、この辺り一帯の町名として残っている

  • 「五條天神宮」東鳥居<br />「西洞院通」側の入り口、「義経記」では源義経が弁慶と出会った場所で、その日には決着がつかず、最終決戦は清水の舞台とされている

    「五條天神宮」東鳥居
    「西洞院通」側の入り口、「義経記」では源義経が弁慶と出会った場所で、その日には決着がつかず、最終決戦は清水の舞台とされている

  • 「五條天神宮」(ごじょうてんしんぐう)<br />平安遷都794年に、桓武天皇の命により空海(弘法大師)が大和国から天神(あまつかみ)を勧請した、洛中最古の神社で、通称は「天使社」(天使さん)だが、「天神」は天つ神(あまつかみ)を意味する「てんしん」で、菅原道真を祀る「てんじん」ではない

    「五條天神宮」(ごじょうてんしんぐう)
    平安遷都794年に、桓武天皇の命により空海(弘法大師)が大和国から天神(あまつかみ)を勧請した、洛中最古の神社で、通称は「天使社」(天使さん)だが、「天神」は天つ神(あまつかみ)を意味する「てんしん」で、菅原道真を祀る「てんじん」ではない

  • 「五條天神宮」拝殿・本殿<br />祭神は「少彦名命」(すくなひこなのみこと)、「大巳貴命」(おおなむちのみこと;大国主命)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)で、病気退散・厄除け・農耕・医薬の神として信仰されている

    「五條天神宮」拝殿・本殿
    祭神は「少彦名命」(すくなひこなのみこと)、「大巳貴命」(おおなむちのみこと;大国主命)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)で、病気退散・厄除け・農耕・医薬の神として信仰されている

  • 大野弘さんという方の「洛中洛外虫の眼探訪」というブログには、「京都の辻子=突抜」についての考察が書かれており、非常に参考になる、これによると、秀吉の洛中改造で出来た「突抜」は 27もあるらしい、これを全部調査するとなると大変だ

    大野弘さんという方の「洛中洛外虫の眼探訪」というブログには、「京都の辻子=突抜」についての考察が書かれており、非常に参考になる、これによると、秀吉の洛中改造で出来た「突抜」は 27もあるらしい、これを全部調査するとなると大変だ

  • 「彩藤」斉藤商店<br />子供用和装用品を専門に取り扱う着物販売店

    「彩藤」斉藤商店
    子供用和装用品を専門に取り扱う着物販売店

  • 「天使突抜一丁目」住宅案内図<br />「松原通」から「万寿寺通」まで天使突抜1丁目

    「天使突抜一丁目」住宅案内図
    「松原通」から「万寿寺通」まで天使突抜1丁目

  • マンション名にも「プレザンス京都五条天使突抜」

    マンション名にも「プレザンス京都五条天使突抜」

  • (万寿寺通)「天使突抜二丁目」森下仁丹のホーロー町名看板<br />「万寿寺通」から「五条通」まで2丁目、「万寿寺通」(まんじゅじどおり)は寺町通と河原町通の交差点から佐井通までで、この通りに万寿寺があったことからの命名だが、現在は存在しない

    (万寿寺通)「天使突抜二丁目」森下仁丹のホーロー町名看板
    「万寿寺通」から「五条通」まで2丁目、「万寿寺通」(まんじゅじどおり)は寺町通と河原町通の交差点から佐井通までで、この通りに万寿寺があったことからの命名だが、現在は存在しない

  • 「島田瓦店」<br />大正3年創業の屋根屋さん

    「島田瓦店」
    大正3年創業の屋根屋さん

  • (五条通)<br />平安京の「六条坊門小路」にあたり、秀吉が「方広寺大仏殿」(京の大仏)参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を六条坊門小路に移設したため、この通りが五条通となったが、今では国道1号、国道8号、国道9号、国道162号として兼用される京都市のメイン通り

    (五条通)
    平安京の「六条坊門小路」にあたり、秀吉が「方広寺大仏殿」(京の大仏)参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を六条坊門小路に移設したため、この通りが五条通となったが、今では国道1号、国道8号、国道9号、国道162号として兼用される京都市のメイン通り

  • (楊梅通)「天使突抜三丁目」町内掲示板<br />「五条通」から「楊梅通」まで3丁目、「楊梅通」(ようばいどおり)は、東洞院通から堀川通までで、通りに楊梅(やまもも)の木が植えられていたことからの命名

    (楊梅通)「天使突抜三丁目」町内掲示板
    「五条通」から「楊梅通」まで3丁目、「楊梅通」(ようばいどおり)は、東洞院通から堀川通までで、通りに楊梅(やまもも)の木が植えられていたことからの命名

  • (六条通り)「天使突抜四丁目」食堂「朝日亭」<br />「楊梅通」から「六条通」まで4丁目、「六条通」は河原町通から堀川通までで、平安京の「六条大路」にあたり、江戸期に魚市が出来たため「魚棚通」(うおのたなどおり)と呼ばれ、この辺りから白山湯のある新町通まではカラーロードになっていて、今でも「六条商店街」が続いている

    (六条通り)「天使突抜四丁目」食堂「朝日亭」
    「楊梅通」から「六条通」まで4丁目、「六条通」は河原町通から堀川通までで、平安京の「六条大路」にあたり、江戸期に魚市が出来たため「魚棚通」(うおのたなどおり)と呼ばれ、この辺りから白山湯のある新町通まではカラーロードになっていて、今でも「六条商店街」が続いている

  • 「学林町」(がくりんちょう)「聞光寺」(もんこうじ)<br />「六条通」から「旧花屋敷通」までは「学林町」という町名で寺院が多い、「学林町」は、江戸時代に本願寺が移転した時に移住してきた「寺内町」(じないちょう)にあり、本願寺僧侶の教育機関である「学林」があったことに由来する町で、仏具、法衣等宗教関連用品を扱う店や寺院が多い *「学林」は、龍谷大学の前身となる本願寺の教育機関として1639年境内に開設されたが、1695年境外のこの辺りに移転し「学林」という名称となり、明治4年(1871)再び本願寺境内に移転した

    「学林町」(がくりんちょう)「聞光寺」(もんこうじ)
    「六条通」から「旧花屋敷通」までは「学林町」という町名で寺院が多い、「学林町」は、江戸時代に本願寺が移転した時に移住してきた「寺内町」(じないちょう)にあり、本願寺僧侶の教育機関である「学林」があったことに由来する町で、仏具、法衣等宗教関連用品を扱う店や寺院が多い *「学林」は、龍谷大学の前身となる本願寺の教育機関として1639年境内に開設されたが、1695年境外のこの辺りに移転し「学林」という名称となり、明治4年(1871)再び本願寺境内に移転した

  • 「遍照寺」(へんしょうじ)<br />広沢の池に平安期に創立された有名なお寺があるが、これとは関係ない浄土真宗のお寺

    「遍照寺」(へんしょうじ)
    広沢の池に平安期に創立された有名なお寺があるが、これとは関係ない浄土真宗のお寺

  • 「光照寺」(こうしょうじ)<br />親鸞聖人の時代から建立された古刹

    「光照寺」(こうしょうじ)
    親鸞聖人の時代から建立された古刹

  • 「親鸞聖人像」(本願寺国際センター)<br />本願寺の国際伝道活動を推進するための施設で、正面に親鸞聖人立像がある、元々は昭和17年(1942)龍谷や大谷、京都大学の学生寮として創立し、1953年寺院に改め海外開教区からの留学生寮にし、1973年「本願寺国際センター」にして寺院は「本願寺至心教堂」として2階に移した、この辺りには油小路通に「本願寺伝道院」(住職研修の場)、「顕道会館」(京都教区教務所)、東本願寺側に「親鸞交流館」(真宗大谷派の教化施設)などある

    「親鸞聖人像」(本願寺国際センター)
    本願寺の国際伝道活動を推進するための施設で、正面に親鸞聖人立像がある、元々は昭和17年(1942)龍谷や大谷、京都大学の学生寮として創立し、1953年寺院に改め海外開教区からの留学生寮にし、1973年「本願寺国際センター」にして寺院は「本願寺至心教堂」として2階に移した、この辺りには油小路通に「本願寺伝道院」(住職研修の場)、「顕道会館」(京都教区教務所)、東本願寺側に「親鸞交流館」(真宗大谷派の教化施設)などある

  • (花屋町通)「蓮光寺」(れんこうじ)<br />「花屋町通」(はなやちょうどおり)は、富小路通から天神川通までで、寺内町の中で花を売る店が多かったことからの命名

    (花屋町通)「蓮光寺」(れんこうじ)
    「花屋町通」(はなやちょうどおり)は、富小路通から天神川通までで、寺内町の中で花を売る店が多かったことからの命名

  • 「常楽寺」(じょうらくじ)<br />親鸞の玄孫(やしゃご)の存覚(ぞんかく)が開基したお寺、「常楽臺(台)」ともいう

    「常楽寺」(じょうらくじ)
    親鸞の玄孫(やしゃご)の存覚(ぞんかく)が開基したお寺、「常楽臺(台)」ともいう

  • 「川勝法衣店」(かわかつほういてん)<br />明治8年(1875)創業、本山御用達の法衣店

    「川勝法衣店」(かわかつほういてん)
    明治8年(1875)創業、本山御用達の法衣店

  • 「法輪寺」(ほうりんじ)<br />十三まいりで有名な嵐山・法輪寺とは無関係

    「法輪寺」(ほうりんじ)
    十三まいりで有名な嵐山・法輪寺とは無関係

  • (正面通)「植松児童公園」<br />京都タワーが見えるこの辺り一帯は、「植柳小学校」の跡地で、跡地活用事業者になった安田不動産株式会社が、ホテルを建設すると共に、自動公園を再整備し、2024年6月に完成したばかりで、新しくて綺麗、「正面通」(しょうめんどおり)は、方広寺から千本通までで、方広寺大仏殿の正面につながることからの命名

    (正面通)「植松児童公園」
    京都タワーが見えるこの辺り一帯は、「植柳小学校」の跡地で、跡地活用事業者になった安田不動産株式会社が、ホテルを建設すると共に、自動公園を再整備し、2024年6月に完成したばかりで、新しくて綺麗、「正面通」(しょうめんどおり)は、方広寺から千本通までで、方広寺大仏殿の正面につながることからの命名

  • 「植柳小学校の碑」<br />「植柳小学校」は、明治2年(1869)下京十九番組小学校として開設され、地元の分担金や本願寺からの多額の援助を受けて開設し、平成22年(2010)廃校した、この「二宮金次郎像」は、小学校の正門に設置されていたもの

    「植柳小学校の碑」
    「植柳小学校」は、明治2年(1869)下京十九番組小学校として開設され、地元の分担金や本願寺からの多額の援助を受けて開設し、平成22年(2010)廃校した、この「二宮金次郎像」は、小学校の正門に設置されていたもの

  • ホテル「デュシタニ京都」<br />植柳小学校の跡地活用で、安田不動産株式会社が建設したホテルで、タイのホテル会社「デュシット・インターナショナル」が運営、2020年から2080年まで60年間の賃貸料で京都市は年間8000万円くらいの賃貸料が入ってくるらしいから、廃校小学校の活用方法も様々 *「デュシット・インターナショナル」は世界19カ国に300以上のホテルを運営しており、日本には2023年6月初上陸し、現在四条とここと2軒、「デュシット」は天国の街という意

    ホテル「デュシタニ京都」
    植柳小学校の跡地活用で、安田不動産株式会社が建設したホテルで、タイのホテル会社「デュシット・インターナショナル」が運営、2020年から2080年まで60年間の賃貸料で京都市は年間8000万円くらいの賃貸料が入ってくるらしいから、廃校小学校の活用方法も様々 *「デュシット・インターナショナル」は世界19カ国に300以上のホテルを運営しており、日本には2023年6月初上陸し、現在四条とここと2軒、「デュシット」は天国の街という意

  • 「文覚町」(もんがくちよう)<br />北小路通から七条通までで、高雄の文覚上人が神護寺再興のための寄付を後白河法皇に強訴したら、捕われて入れられたという牢屋がこの地にあったことに由来、この近くには「高雄町」「紅葉町」などの町名もあるから面白い

    「文覚町」(もんがくちよう)
    北小路通から七条通までで、高雄の文覚上人が神護寺再興のための寄付を後白河法皇に強訴したら、捕われて入れられたという牢屋がこの地にあったことに由来、この近くには「高雄町」「紅葉町」などの町名もあるから面白い

  • 「京都武家屋敷」(Kyoto Samurai House)<br />築300年の武家屋敷の建物で、茶道、着物、書道、お琴、日本舞踊などの体験が出来る

    「京都武家屋敷」(Kyoto Samurai House)
    築300年の武家屋敷の建物で、茶道、着物、書道、お琴、日本舞踊などの体験が出来る

  • 「豆富本舗」(マメトミホンポ)<br />明治41年創業の京の豆菓子屋さんで、代表商品「小町五色豆」は、八ツ橋と並び京の代表的な土産の二大銘菓となった

    「豆富本舗」(マメトミホンポ)
    明治41年創業の京の豆菓子屋さんで、代表商品「小町五色豆」は、八ツ橋と並び京の代表的な土産の二大銘菓となった

  • (七条通)「旧村井銀行七条支店」<br />何度も出てきている「七条通近代建築群」の一つで、煙草王の村井財閥が興した「村井銀行」の七条支店、「七条通」は、東山七条から桂大橋までで、ここから山陰街道につながる

    (七条通)「旧村井銀行七条支店」
    何度も出てきている「七条通近代建築群」の一つで、煙草王の村井財閥が興した「村井銀行」の七条支店、「七条通」は、東山七条から桂大橋までで、ここから山陰街道につながる

  • 大正3年(1914)の建築で、その後昭和銀行、安田銀行、保険会社などに引き継がれ、又いくつか民間企業の店舗として使われ、昨年2023.11から横浜国際オークションとなっている

    大正3年(1914)の建築で、その後昭和銀行、安田銀行、保険会社などに引き継がれ、又いくつか民間企業の店舗として使われ、昨年2023.11から横浜国際オークションとなっている

  • (下魚棚通)「漢方竹内健心堂」<br />「下魚棚通」(しもうおのたなどおり)は、西洞院通から大宮通までで、江戸時代に六条通の「魚棚通」に移転するまで魚市場があったことからの命名

    (下魚棚通)「漢方竹内健心堂」
    「下魚棚通」(しもうおのたなどおり)は、西洞院通から大宮通までで、江戸時代に六条通の「魚棚通」に移転するまで魚市場があったことからの命名

  • さらに「木津屋橋通」へ<br />

    さらに「木津屋橋通」へ

  • 「野一色法衣店」(のいしきほういてん)<br />寛政2年(1790)創業、真言宗専門の法衣・袈裟・仏具など寺院用品の店

    「野一色法衣店」(のいしきほういてん)
    寛政2年(1790)創業、真言宗専門の法衣・袈裟・仏具など寺院用品の店

  • 「木津屋橋通」(きづやばしどおり)<br />「東中筋通」はここで終了、「木津屋橋通」は東洞院通から御前通までで、平安京では「塩小路」にあたり、現在の「塩小路通」は「八条坊門小路」と呼ばれていたが、この先堀川通との交差点に「生酢屋橋」(木津屋橋)が架かっていることから江戸時代には既に「木津屋橋通」となっており、これも秀吉の洛中改造で通り名が代わった事例だと思われる

    「木津屋橋通」(きづやばしどおり)
    「東中筋通」はここで終了、「木津屋橋通」は東洞院通から御前通までで、平安京では「塩小路」にあたり、現在の「塩小路通」は「八条坊門小路」と呼ばれていたが、この先堀川通との交差点に「生酢屋橋」(木津屋橋)が架かっていることから江戸時代には既に「木津屋橋通」となっており、これも秀吉の洛中改造で通り名が代わった事例だと思われる

  • 洋菓子喫茶「バイカル」<br />京都駅に向かう途中、時々利用しているケーキ屋さん「バイカル」が新しく始めたカフェがあったのでイン、「バイカル」は1955年創業で下鴨本店を含め8店舗を展開

    洋菓子喫茶「バイカル」
    京都駅に向かう途中、時々利用しているケーキ屋さん「バイカル」が新しく始めたカフェがあったのでイン、「バイカル」は1955年創業で下鴨本店を含め8店舗を展開

  • 「ポムミュール」という赤いリンゴのケーキで疲れを癒す *フランス語でポムはリンゴ、ミュールは熟した

    「ポムミュール」という赤いリンゴのケーキで疲れを癒す *フランス語でポムはリンゴ、ミュールは熟した

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