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平安京南北散歩の3回目は「大宮通」(おおみやどおり)です。平安京の大内裏(だいだいり)を挟む「東大宮大路」にあたり、歴史的にも重要な位置づけになります。<br />毎回、平安京散歩の楽しみは、四季の移ろいを感じながら、日本の歴史の流れを、現物を見ながら確認できることですが、今回も、少し満開過ぎのサクラの零れ桜(こぼれざくら)、桜吹雪、花筏(はないかだ)を通りの公園や花見発祥の「神泉苑」で楽しみ、<br />平安京以前から住みつき、平安京建設に尽力した「賀茂氏」の祖を祀り「賀茂社」の原点となる「久我神社」に始まり、今年脚光を浴びている紫式部の生誕地で晩年を過ごしたと言われる北大路の「雲林院」、そしてこの辺りから南下した「一条大宮」までは「賀茂祭」(葵祭)のコースで、葵上(あおいのうえ)と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が「車争い」をした場所も確認、また室町時代になって「応仁の乱」で西の陣総大将の「山名宗全邸宅」があることから生まれた「西陣」で、一日に千両もの商があった糸屋が立ち並ぶ「千両ヶ辻」(せんりょうがつじ)では、代々家業を継承してきた旦那衆や職人さん達が一生懸命伝統を守るために頑張る様子を見て、秀吉の数少ない「聚楽第濠址」「梅雨の井跡」に続き、家康が強引に建てた二条城、秀吉が誘致した「西本願寺」、そして最後は平安京とともに建立された「東寺」、さらに明治になって出来た市電や小学校などの遺構が今も残り、一部は活用されているのを見て、あらためて1200年以上の歴史を辿り、新たな発見がいくつもあった「大宮通」でした。

月一京町散歩(4月)平安京南北散歩「大宮通」

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2024/04/12 - 2024/04/12

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平安京南北散歩の3回目は「大宮通」(おおみやどおり)です。平安京の大内裏(だいだいり)を挟む「東大宮大路」にあたり、歴史的にも重要な位置づけになります。
毎回、平安京散歩の楽しみは、四季の移ろいを感じながら、日本の歴史の流れを、現物を見ながら確認できることですが、今回も、少し満開過ぎのサクラの零れ桜(こぼれざくら)、桜吹雪、花筏(はないかだ)を通りの公園や花見発祥の「神泉苑」で楽しみ、
平安京以前から住みつき、平安京建設に尽力した「賀茂氏」の祖を祀り「賀茂社」の原点となる「久我神社」に始まり、今年脚光を浴びている紫式部の生誕地で晩年を過ごしたと言われる北大路の「雲林院」、そしてこの辺りから南下した「一条大宮」までは「賀茂祭」(葵祭)のコースで、葵上(あおいのうえ)と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が「車争い」をした場所も確認、また室町時代になって「応仁の乱」で西の陣総大将の「山名宗全邸宅」があることから生まれた「西陣」で、一日に千両もの商があった糸屋が立ち並ぶ「千両ヶ辻」(せんりょうがつじ)では、代々家業を継承してきた旦那衆や職人さん達が一生懸命伝統を守るために頑張る様子を見て、秀吉の数少ない「聚楽第濠址」「梅雨の井跡」に続き、家康が強引に建てた二条城、秀吉が誘致した「西本願寺」、そして最後は平安京とともに建立された「東寺」、さらに明治になって出来た市電や小学校などの遺構が今も残り、一部は活用されているのを見て、あらためて1200年以上の歴史を辿り、新たな発見がいくつもあった「大宮通」でした。

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  • 平安京の大内裏東側を走る大宮大路(東大宮大路)にあたり、北は上賀茂神社近くの鹿ノ下公園から、南は竹田駅付近の油小路通まで11.5キロの道のりで、途中、二条城手前の江戸時代所司代屋敷があった所は道が極端に狭くなって二条城に突き当たり、大宮通は分断されるが、迂回して神泉苑を通り抜け、三条、四条、五条、六条、七条、八条通を横断し、さらに九条通りから狭い一方通行の路になり、十条通からは又広い路になって久世橋通から伏見まで南下する

    平安京の大内裏東側を走る大宮大路(東大宮大路)にあたり、北は上賀茂神社近くの鹿ノ下公園から、南は竹田駅付近の油小路通まで11.5キロの道のりで、途中、二条城手前の江戸時代所司代屋敷があった所は道が極端に狭くなって二条城に突き当たり、大宮通は分断されるが、迂回して神泉苑を通り抜け、三条、四条、五条、六条、七条、八条通を横断し、さらに九条通りから狭い一方通行の路になり、十条通からは又広い路になって久世橋通から伏見まで南下する

  • (散歩ルート)10:30(バス停)大宮総門口前~御園橋801商店街~御園橋通大宮~久我神社~北山通~今宮通~新大宮商店街~北大路通~雲林院~2.5km11:30(ランチ卯凪)~今宮神社御旅所~たんきり飴本舗~京料理萬重本店~紋屋図子~観世稲荷社駒札~西陣千両ヶ辻~冨田屋~平安京一条大路跡~一条院跡~名和長年公殉節所~聚楽第東濠址~梅雨の井跡~二条城~6.0km14:00神泉苑~二条陣屋~川勝総本家本店~西本願寺~梅小路公園~東寺(東大門)~10.0km15:30九条大宮~1.2km16:00カフェkurasu~0.5km京都駅<br />

    (散歩ルート)10:30(バス停)大宮総門口前~御園橋801商店街~御園橋通大宮~久我神社~北山通~今宮通~新大宮商店街~北大路通~雲林院~2.5km11:30(ランチ卯凪)~今宮神社御旅所~たんきり飴本舗~京料理萬重本店~紋屋図子~観世稲荷社駒札~西陣千両ヶ辻~冨田屋~平安京一条大路跡~一条院跡~名和長年公殉節所~聚楽第東濠址~梅雨の井跡~二条城~6.0km14:00神泉苑~二条陣屋~川勝総本家本店~西本願寺~梅小路公園~東寺(東大門)~10.0km15:30九条大宮~1.2km16:00カフェkurasu~0.5km京都駅

  • (バス停)大宮総門口前から御園橋通船岡東へ100m

    (バス停)大宮総門口前から御園橋通船岡東へ100m

  • 「御園橋通大宮」(みそのばしおおみや)<br />大宮通はここから400mほど北の「鹿の下公園」が起点となる、「御園橋通」は、上賀茂神社から直ぐの賀茂川に架かる「御園橋」から西へ続く通りで、葵祭の巡行経路の最後を飾る「神聖な橋」として鴨川に架かる橋の中でも歴史的な意味合いが強く、もともとは葵祭の勅使を通すため臨時に架けられた橋で祭礼が終わるとその都度撤去していたそうで、右岸一帯が大宮郷だったことから「大宮の渡し」とも呼ばれていた、常設されたのは江戸末期で、「御薗」とは、供物のための畑を意味し、この周辺は見渡すかぎりの田園風景が広がっていたが、最近では住宅が立ち並んで人口が急激に増加し商店街も出来た

    「御園橋通大宮」(みそのばしおおみや)
    大宮通はここから400mほど北の「鹿の下公園」が起点となる、「御園橋通」は、上賀茂神社から直ぐの賀茂川に架かる「御園橋」から西へ続く通りで、葵祭の巡行経路の最後を飾る「神聖な橋」として鴨川に架かる橋の中でも歴史的な意味合いが強く、もともとは葵祭の勅使を通すため臨時に架けられた橋で祭礼が終わるとその都度撤去していたそうで、右岸一帯が大宮郷だったことから「大宮の渡し」とも呼ばれていた、常設されたのは江戸末期で、「御薗」とは、供物のための畑を意味し、この周辺は見渡すかぎりの田園風景が広がっていたが、最近では住宅が立ち並んで人口が急激に増加し商店街も出来た

  • 「御園橋801商店街」(みそのばし やおい しょうてんがい )<br />御薗橋西詰から御薗橋通沿いに西へ800m続く京都市最北の商店街で、「801」(やおい)は商店街の全長距離800mに未来への発展を願って1を加えた、マスコットキャラクターの「801ちゃん」は賀茂なすをモチーフにしている

    「御園橋801商店街」(みそのばし やおい しょうてんがい )
    御薗橋西詰から御薗橋通沿いに西へ800m続く京都市最北の商店街で、「801」(やおい)は商店街の全長距離800mに未来への発展を願って1を加えた、マスコットキャラクターの「801ちゃん」は賀茂なすをモチーフにしている

  • 「久我神社」(くがじんじゃ) <br />上賀茂神社祭神の「賀茂別雷命」(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたる賀茂氏の祖神「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が、5世紀半ばに大和から木津川市加茂の岡田鴨神社、伏見の久我神社(こがじんじゃ)の順に移った際に祀った社の1つで、平安時代から「賀茂社」の末社となり、鎌倉時代以降は「氏神社」(うじがみしゃ)や「大宮」と称されていたが、明治時代に「久我神社」に改め、上賀茂神社の境外摂社となっており、祭神の「賀茂建角身命」が「八咫烏」(やたがらす)となって初代・神武天皇を熊野から大和(奈良)へ道案内したことから、航空安全、交通安全の神として信仰を集めている

    「久我神社」(くがじんじゃ)
    上賀茂神社祭神の「賀茂別雷命」(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたる賀茂氏の祖神「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が、5世紀半ばに大和から木津川市加茂の岡田鴨神社、伏見の久我神社(こがじんじゃ)の順に移った際に祀った社の1つで、平安時代から「賀茂社」の末社となり、鎌倉時代以降は「氏神社」(うじがみしゃ)や「大宮」と称されていたが、明治時代に「久我神社」に改め、上賀茂神社の境外摂社となっており、祭神の「賀茂建角身命」が「八咫烏」(やたがらす)となって初代・神武天皇を熊野から大和(奈良)へ道案内したことから、航空安全、交通安全の神として信仰を集めている

  • 「久我神社」は、以外にも平安京以前の京都の歴史上極めて重要な神社!<br />紀元前660年、祭神の「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)は、最初の天皇である神武天皇の先導役として日向に降臨し、熊野から大和国・葛木山にとどまった後、南山城へ入り、さらに木津川を北上して伏見の「久我神社」(こがじんじゃ)から大宮の地「久我神社」(くがじんじゃ)に入って、最終的に「賀茂社」(上賀茂神社・下鴨神社)に落ち着くが、賀茂建角身命の娘・玉依媛命(たまよりひめのみこと)の子供・別雷神(わけいかづちのかみ)を祀ったのが「上賀茂神社」、母親・玉依媛命と祖父・賀茂建角身命を祀ったのが「下鴨神社」で、賀茂氏の氏神を祀る両社は奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、平安遷都後は鎮護社として平安京形成に深く関わり一層の崇敬を受けるようになり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕し、明治以降も伊勢神宮に次いで官幣大社(かんぺいたいしゃ)の筆頭とされ賀茂祭(葵祭)は勅祭とされた

    「久我神社」は、以外にも平安京以前の京都の歴史上極めて重要な神社!
    紀元前660年、祭神の「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)は、最初の天皇である神武天皇の先導役として日向に降臨し、熊野から大和国・葛木山にとどまった後、南山城へ入り、さらに木津川を北上して伏見の「久我神社」(こがじんじゃ)から大宮の地「久我神社」(くがじんじゃ)に入って、最終的に「賀茂社」(上賀茂神社・下鴨神社)に落ち着くが、賀茂建角身命の娘・玉依媛命(たまよりひめのみこと)の子供・別雷神(わけいかづちのかみ)を祀ったのが「上賀茂神社」、母親・玉依媛命と祖父・賀茂建角身命を祀ったのが「下鴨神社」で、賀茂氏の氏神を祀る両社は奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、平安遷都後は鎮護社として平安京形成に深く関わり一層の崇敬を受けるようになり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕し、明治以降も伊勢神宮に次いで官幣大社(かんぺいたいしゃ)の筆頭とされ賀茂祭(葵祭)は勅祭とされた

  • 「賀茂氏」(かもうじ)の存在は極めて重要!<br />「賀茂氏」は「秦氏」(はたうじ)と共に、5世紀ごろに栄えた大和の豪族の葛城氏(かつらぎうじ)を支えていた渡来系技術集団で、葛城氏滅亡後の5世紀半ばに、山城の現加茂町へ行き、さらに木津川を上がって桂川へ行き、「秦氏」が深草と嵯峨方面に入ったのに対し、「賀茂氏」は賀茂川をさかのぼり久我国の大宮郷と呼ばれていた地に住みつき、遷都以前に財力を蓄えた「秦氏」が平安京建設に経済面で尽力し、「賀茂社」の神官だった「賀茂氏」が精神的支柱として平安京の鎮護を担ったとされる

    「賀茂氏」(かもうじ)の存在は極めて重要!
    「賀茂氏」は「秦氏」(はたうじ)と共に、5世紀ごろに栄えた大和の豪族の葛城氏(かつらぎうじ)を支えていた渡来系技術集団で、葛城氏滅亡後の5世紀半ばに、山城の現加茂町へ行き、さらに木津川を上がって桂川へ行き、「秦氏」が深草と嵯峨方面に入ったのに対し、「賀茂氏」は賀茂川をさかのぼり久我国の大宮郷と呼ばれていた地に住みつき、遷都以前に財力を蓄えた「秦氏」が平安京建設に経済面で尽力し、「賀茂社」の神官だった「賀茂氏」が精神的支柱として平安京の鎮護を担ったとされる

  • 「久我神社・西の鳥居」<br />「久我神社」は東西に鳥居があり、東側の大宮通、西側の大徳寺通に挟まれているが、地元では大徳寺通を「旧大宮通」と呼んでいる、 この辺りは賀茂氏が京都に最初に居を定めた大宮郷と呼ばれていた場所で久我神社は「大宮」と呼ばれ、一帯の地域名を「大宮」、門前の通り名を「大宮通」とされ、平安京の建設前から存在しており、平安京でも「大宮」は皇居を示し「大内裏」の東側を「大宮大路」、西側を「西大宮大路」とした

    「久我神社・西の鳥居」
    「久我神社」は東西に鳥居があり、東側の大宮通、西側の大徳寺通に挟まれているが、地元では大徳寺通を「旧大宮通」と呼んでいる、 この辺りは賀茂氏が京都に最初に居を定めた大宮郷と呼ばれていた場所で久我神社は「大宮」と呼ばれ、一帯の地域名を「大宮」、門前の通り名を「大宮通」とされ、平安京の建設前から存在しており、平安京でも「大宮」は皇居を示し「大内裏」の東側を「大宮大路」、西側を「西大宮大路」とした

  • 「本殿」(ほんでん)と「拝殿」(はいでん)<br />江戸時代に再建されたもので、「拝殿」は左右に庇(ひさし)がついた切妻造りで、妻側を正面とする特異なもの、「本殿」は檜皮葺屋根の一間社流造りで、上賀茂神社の他摂社と同じ造り

    「本殿」(ほんでん)と「拝殿」(はいでん)
    江戸時代に再建されたもので、「拝殿」は左右に庇(ひさし)がついた切妻造りで、妻側を正面とする特異なもの、「本殿」は檜皮葺屋根の一間社流造りで、上賀茂神社の他摂社と同じ造り

  • 「牽馬の儀(ひきうまのぎ)<br />4月1日と11月1日の春秋の例祭で、上賀茂神社の神馬「神山号」が本殿を3周する神事が行われ、11月3日の「神幸祭」では3基の神輿が紫竹(しちく)・大宮地域を巡行する

    「牽馬の儀(ひきうまのぎ)
    4月1日と11月1日の春秋の例祭で、上賀茂神社の神馬「神山号」が本殿を3周する神事が行われ、11月3日の「神幸祭」では3基の神輿が紫竹(しちく)・大宮地域を巡行する

  • 「北山大宮」(きたやまおおみや)<br />北山通は、京都市街最北に位置する幹線道路で、白川通から道なりに南に曲がり今宮通まで、1985年に全線開通した比較的新しい通りで、宝ヶ池公園やコンサートホール、植物園、飲食店やファッショナブルな商店が入る現代建築などが並び、上品な郊外通りという感じ

    「北山大宮」(きたやまおおみや)
    北山通は、京都市街最北に位置する幹線道路で、白川通から道なりに南に曲がり今宮通まで、1985年に全線開通した比較的新しい通りで、宝ヶ池公園やコンサートホール、植物園、飲食店やファッショナブルな商店が入る現代建築などが並び、上品な郊外通りという感じ

  • 「新大宮商店街」(しんおおみやしょうてんがい)組合事務所<br />大宮通を北山通から今宮通、北大路通まで約1kmにわたって100店舗ほどの商店街が続く、昭和初期からの歴史を持ち、西陣の北側で昔から西陣織の職人がたくさん暮らしていて、1930年に北大路通に市電が開通すると多くの人が利用するようになり「北の台所」と呼ばれるようになった、「新大宮商店街振興組合」が誕生したのは、昭和38年(1963)で、その頃は毎日がお祭りのような人出で200以上の店があったが、今では70店舗ほどというから寂しい限り

    「新大宮商店街」(しんおおみやしょうてんがい)組合事務所
    大宮通を北山通から今宮通、北大路通まで約1kmにわたって100店舗ほどの商店街が続く、昭和初期からの歴史を持ち、西陣の北側で昔から西陣織の職人がたくさん暮らしていて、1930年に北大路通に市電が開通すると多くの人が利用するようになり「北の台所」と呼ばれるようになった、「新大宮商店街振興組合」が誕生したのは、昭和38年(1963)で、その頃は毎日がお祭りのような人出で200以上の店があったが、今では70店舗ほどというから寂しい限り

  • 「葵家やきもち総本舗」大宮店<br />上賀茂名物「葵餅」(あおいもち)で有名な「やきもち」の店で、上賀茂神社前の「葵家やきもち総本舗」の支店、こんな所にあるのにビックリしたが、調べると「やきもち」の店は2軒あって、今まで買っていたのは「神馬堂」(じんばどう)で、隣り合わせに「葵家やきもち総本舗」がある、「神馬堂」は明治5年(1872年)創業で、店頭で出来立てを販売するので日持ちは1日だけに対して、創業は昭和25年(1950年)、日持ちは3~4日で京都駅やデパートでも販売し通販もあり、よもぎの焼き餅やおはぎ、赤飯、夏にはアイス最中などもあって、お餅の味よりも甘さ控えめなあんこが特徴 *昔からの京都銘菓はこの他、今宮神社の「あぶり餅」、出町ふたばの「豆大福」、下鴨神社の「みたらし団子」、比叡山高僧の「阿闍梨餅」(あじゃりもち)、聖護院の「八ッ橋」が有名

    「葵家やきもち総本舗」大宮店
    上賀茂名物「葵餅」(あおいもち)で有名な「やきもち」の店で、上賀茂神社前の「葵家やきもち総本舗」の支店、こんな所にあるのにビックリしたが、調べると「やきもち」の店は2軒あって、今まで買っていたのは「神馬堂」(じんばどう)で、隣り合わせに「葵家やきもち総本舗」がある、「神馬堂」は明治5年(1872年)創業で、店頭で出来立てを販売するので日持ちは1日だけに対して、創業は昭和25年(1950年)、日持ちは3~4日で京都駅やデパートでも販売し通販もあり、よもぎの焼き餅やおはぎ、赤飯、夏にはアイス最中などもあって、お餅の味よりも甘さ控えめなあんこが特徴 *昔からの京都銘菓はこの他、今宮神社の「あぶり餅」、出町ふたばの「豆大福」、下鴨神社の「みたらし団子」、比叡山高僧の「阿闍梨餅」(あじゃりもち)、聖護院の「八ッ橋」が有名

  • 大徳寺「さいき家」(才木)<br />創業昭和8年(1933)の京都仕出し料理専門店、京風だし巻き玉子や鯖寿司で有名で、京都駅や全国の百貨店でも販売

    大徳寺「さいき家」(才木)
    創業昭和8年(1933)の京都仕出し料理専門店、京風だし巻き玉子や鯖寿司で有名で、京都駅や全国の百貨店でも販売

  • 中華の「サカイ」本店<br />昭和14年創業の冷麺で有名な中華料理店、一度行ったことがあるが、焼豚、胡瓜、海苔だけのシンプルな冷麺で、具材の多い方が好みの者にとっては物足りない

    中華の「サカイ」本店
    昭和14年創業の冷麺で有名な中華料理店、一度行ったことがあるが、焼豚、胡瓜、海苔だけのシンプルな冷麺で、具材の多い方が好みの者にとっては物足りない

  • 「井六園」(茶匠六兵衛)<br />看板は創業1818年の日本茶専門店の老舗で、当代八代目が「井六園」という屋号で九条で日本茶を販売していたが、最近の2020年にお茶のメッカ大徳寺門前の大宮商店街に移転してきた、見かけだけでは分からないが、アメリカ、ヨーロッパ、ドバイなど海外向けの卸販売で売上げの9割を超えるそうで、2022年から一般向けにも抹茶、煎茶、ほうじ茶や本格的な茶道具、緑茶スイーツなどを販売している

    「井六園」(茶匠六兵衛)
    看板は創業1818年の日本茶専門店の老舗で、当代八代目が「井六園」という屋号で九条で日本茶を販売していたが、最近の2020年にお茶のメッカ大徳寺門前の大宮商店街に移転してきた、見かけだけでは分からないが、アメリカ、ヨーロッパ、ドバイなど海外向けの卸販売で売上げの9割を超えるそうで、2022年から一般向けにも抹茶、煎茶、ほうじ茶や本格的な茶道具、緑茶スイーツなどを販売している

  • 「北大路大宮」<br />商店街の南端の北大路通に到着、北大路通は白川通から西大路通につながる、洛北をつらぬく全線4車線の幹線道路

    「北大路大宮」
    商店街の南端の北大路通に到着、北大路通は白川通から西大路通につながる、洛北をつらぬく全線4車線の幹線道路

  • 「雲林院」(うんりんいん) <br />(駒札によると)「雲林院は、平安時代の紫野の史跡である。この付近一帯は広大な荒野で、狩猟も行われていた。淳和天皇(在位823-833)は、ここに広大な離宮紫野院を造られ、度々行幸された。桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われた。後に、仁明天皇皇子常康親王(じょうこうしんのう)に伝えられる。貞観11年(869)に僧正遍昭(そうじょうへんじょう)を招き雲林院と呼ばれ、官寺となった。寺としての雲林院は菩提講(極楽浄土に導く法華経説教会)が名高い。歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開する。「源氏物語」「伊勢物語」にも雲林院の名は現れ、「古今集」以下歌枕としても有名で、謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。<br />これやきく 雲の林の寺ならん  花を尋ねるこころやすめん 西行」<br />大徳寺創建は1324年、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)創建で、雲林院も復興したが応仁の乱で廃絶し、江戸時代になって1707年大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)により再興され現在の観音堂が再建された<br />

    「雲林院」(うんりんいん)
    (駒札によると)「雲林院は、平安時代の紫野の史跡である。この付近一帯は広大な荒野で、狩猟も行われていた。淳和天皇(在位823-833)は、ここに広大な離宮紫野院を造られ、度々行幸された。桜や紅葉の名所として知られ、文人を交えての歌舞の宴も行われた。後に、仁明天皇皇子常康親王(じょうこうしんのう)に伝えられる。貞観11年(869)に僧正遍昭(そうじょうへんじょう)を招き雲林院と呼ばれ、官寺となった。寺としての雲林院は菩提講(極楽浄土に導く法華経説教会)が名高い。歴史物語「大鏡」は、この菩提講で落ち合った老人の昔物語という趣向で展開する。「源氏物語」「伊勢物語」にも雲林院の名は現れ、「古今集」以下歌枕としても有名で、謡曲「雲林院」はそうした昔をしのんで作られている。鎌倉時代には、雲林院の敷地に大徳寺が建立された。
    これやきく 雲の林の寺ならん  花を尋ねるこころやすめん 西行」
    大徳寺創建は1324年、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)創建で、雲林院も復興したが応仁の乱で廃絶し、江戸時代になって1707年大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)により再興され現在の観音堂が再建された

  • 「雲林院は紫式部誕生の地」<br />紫式部(973-1031頃)は、この「雲林院」周辺で生まれたと言われており、かつて「雲林院」の境内にあった大徳寺塔頭の真珠庵に「紫式部産湯」と呼ばれる井戸が残されていて、紫式部の名前の由来はこの辺りの「紫野」(むらさきの)という地名から名付けられた、その後は曽祖父の藤原兼輔(かねすけ)から伝えられた「旧い家」(蘆山寺)で一生の大部分を過ごし、幼少期から文学に目覚め、家にある歌集や書物はすべて読み尽くしたと言われ、26歳で父の同僚であった藤原宣孝(のぶたか)46歳と結婚したが3年で病死別、その悲しみを晴らすため「源氏物語」を書き始め、これがあまりにも素晴らしいと評判になり右大臣の藤原道長が聞きつけ、娘の一条天皇中宮・彰子に、女房(宮仕え)兼家庭教師として仕えさせ、天皇の目を娘に向けるため当時話題になっていた紫式部を仕えさせるという道長の思惑もあって、その間藤原道長という強大な庇護のもとで、「紫式部日記」と世界最古の長編恋愛小説「源氏物語」を書き上げ、晩年は雲林院で過ごした、また今回は訪問してないが、近くの堀川北大路南側の島津製作所紫野工場の一角に紫式部の墓所があり、入り口にムラサキシキブという名前の木(秋に紫色の綺麗な実がなる)があるが、何故か小野篁(802-853)のお墓と並んでいる、紫式部と小野篁は200年近い時の隔たりがあり関係なさそうだが、理由には諸説あり、この辺りはかつて小野氏の領地で小野氏の語り部集団が住んでいて、後に藤原氏の所有となり、彼女の夫藤原保昌の邸宅地だったところに、紫式部が晩年を過ごしていた、さらに「源氏物語」という色恋の作り話で人心を惑わしたため地獄に堕とされたのを小野篁が閻魔大王と紫式部の間をとりなし地獄から救ったという話から「源氏物語」の愛読者たちが二人の墓を築いたというが、真相は分からない<br /><br />

    「雲林院は紫式部誕生の地」
    紫式部(973-1031頃)は、この「雲林院」周辺で生まれたと言われており、かつて「雲林院」の境内にあった大徳寺塔頭の真珠庵に「紫式部産湯」と呼ばれる井戸が残されていて、紫式部の名前の由来はこの辺りの「紫野」(むらさきの)という地名から名付けられた、その後は曽祖父の藤原兼輔(かねすけ)から伝えられた「旧い家」(蘆山寺)で一生の大部分を過ごし、幼少期から文学に目覚め、家にある歌集や書物はすべて読み尽くしたと言われ、26歳で父の同僚であった藤原宣孝(のぶたか)46歳と結婚したが3年で病死別、その悲しみを晴らすため「源氏物語」を書き始め、これがあまりにも素晴らしいと評判になり右大臣の藤原道長が聞きつけ、娘の一条天皇中宮・彰子に、女房(宮仕え)兼家庭教師として仕えさせ、天皇の目を娘に向けるため当時話題になっていた紫式部を仕えさせるという道長の思惑もあって、その間藤原道長という強大な庇護のもとで、「紫式部日記」と世界最古の長編恋愛小説「源氏物語」を書き上げ、晩年は雲林院で過ごした、また今回は訪問してないが、近くの堀川北大路南側の島津製作所紫野工場の一角に紫式部の墓所があり、入り口にムラサキシキブという名前の木(秋に紫色の綺麗な実がなる)があるが、何故か小野篁(802-853)のお墓と並んでいる、紫式部と小野篁は200年近い時の隔たりがあり関係なさそうだが、理由には諸説あり、この辺りはかつて小野氏の領地で小野氏の語り部集団が住んでいて、後に藤原氏の所有となり、彼女の夫藤原保昌の邸宅地だったところに、紫式部が晩年を過ごしていた、さらに「源氏物語」という色恋の作り話で人心を惑わしたため地獄に堕とされたのを小野篁が閻魔大王と紫式部の間をとりなし地獄から救ったという話から「源氏物語」の愛読者たちが二人の墓を築いたというが、真相は分からない

  • 「源氏物語ゆかりの地」<br />雲林院は「源氏物語」を始め、「枕草子」「伊勢物語」「古今和歌集」「大鏡」など、平安時代のさまざまな文学に登場する事から、平安時代にもその名が広く知られていた大寺院で、(案内板によると)「賀茂祭(葵祭)の還立を見物するために朝早くから雲林院あたりに物見車が立ち並ぶ描写が「枕草子」に見える。雲林院での菩提講(極楽浄土に導く法華経説教会)は有名で「大鏡」の語り場ともなった。「源氏物語・賢木(さかき)」に光源氏が、逢ってくれない藤壺の態度が辛くて出家しようと、叔父にあたる桐壷更衣(きりつぼのこうい)の兄律師(りっし)のいる雲林院に籠る話がある。」

    「源氏物語ゆかりの地」
    雲林院は「源氏物語」を始め、「枕草子」「伊勢物語」「古今和歌集」「大鏡」など、平安時代のさまざまな文学に登場する事から、平安時代にもその名が広く知られていた大寺院で、(案内板によると)「賀茂祭(葵祭)の還立を見物するために朝早くから雲林院あたりに物見車が立ち並ぶ描写が「枕草子」に見える。雲林院での菩提講(極楽浄土に導く法華経説教会)は有名で「大鏡」の語り場ともなった。「源氏物語・賢木(さかき)」に光源氏が、逢ってくれない藤壺の態度が辛くて出家しようと、叔父にあたる桐壷更衣(きりつぼのこうい)の兄律師(りっし)のいる雲林院に籠る話がある。」

  • 今年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で「源氏物語」巡りは一大ブーム<br />主人公は天皇・桐壺(きりつぼ)帝の皇子として生まれ、その身分を離れて源氏の姓を与えられた光源氏で、女性たちの恋愛を軸に、貴族社会に生きる人々の栄華や挫折が描かれたフィクションであるが、実際の宮廷の様子や貴族の生活、行事などを織り交ぜ、主人公の光源氏も実在の人物をモデルにし(源融が有力)、貴族が別荘を構えた嵐山や宇治も舞台となったり、京都三大祭の葵祭の様子も書かれていて、現地に行くと身近に感じられる<br />①雲林院(生誕の地で晩年を過ごした)、②廬山寺(紫式部屋敷跡)、③京都御所(光源氏誕生の地)、④上賀茂神社(紫式部が参拝しに訪れた)、⑤清水寺(光源氏と夕顔がこの地で愛し合っていた間に夕顔が亡くなった)、⑥野宮神社(光源氏と六条御息所の別れの場面)<br />⑦大覚寺(光源氏が出家した後2~3年間過ごした)、⑧渉成園(光源氏のモデルになった源融の別荘・六条河原院)、⑨清涼寺(光源氏のモデルになった源融の山荘跡)、⑩六道皇寺(母桐壺更衣と紫上の葬儀が行われた)、⑪平等院(光源氏のモデル源融の別荘)、橋姫神社、三室戸寺、⑫石山寺(平安時代の貴族らが盛んに「石山詣」を行っていたお寺で、中宮彰子から新たな物語の執筆を命じられた紫式部は、執筆祈願のため石山寺に7日間籠ったとされる)<br /><br />

    今年はNHK大河ドラマ「光る君へ」で「源氏物語」巡りは一大ブーム
    主人公は天皇・桐壺(きりつぼ)帝の皇子として生まれ、その身分を離れて源氏の姓を与えられた光源氏で、女性たちの恋愛を軸に、貴族社会に生きる人々の栄華や挫折が描かれたフィクションであるが、実際の宮廷の様子や貴族の生活、行事などを織り交ぜ、主人公の光源氏も実在の人物をモデルにし(源融が有力)、貴族が別荘を構えた嵐山や宇治も舞台となったり、京都三大祭の葵祭の様子も書かれていて、現地に行くと身近に感じられる
    ①雲林院(生誕の地で晩年を過ごした)、②廬山寺(紫式部屋敷跡)、③京都御所(光源氏誕生の地)、④上賀茂神社(紫式部が参拝しに訪れた)、⑤清水寺(光源氏と夕顔がこの地で愛し合っていた間に夕顔が亡くなった)、⑥野宮神社(光源氏と六条御息所の別れの場面)
    ⑦大覚寺(光源氏が出家した後2~3年間過ごした)、⑧渉成園(光源氏のモデルになった源融の別荘・六条河原院)、⑨清涼寺(光源氏のモデルになった源融の山荘跡)、⑩六道皇寺(母桐壺更衣と紫上の葬儀が行われた)、⑪平等院(光源氏のモデル源融の別荘)、橋姫神社、三室戸寺、⑫石山寺(平安時代の貴族らが盛んに「石山詣」を行っていたお寺で、中宮彰子から新たな物語の執筆を命じられた紫式部は、執筆祈願のため石山寺に7日間籠ったとされる)

  • 「観音堂」(かんのんどう)本堂になる<br />現在の観音堂は江戸期の1707年再建、本尊十一面千手観音菩薩と大徳寺を開山した大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、中興の大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)の木像を祀る

    「観音堂」(かんのんどう)本堂になる
    現在の観音堂は江戸期の1707年再建、本尊十一面千手観音菩薩と大徳寺を開山した大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、中興の大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)の木像を祀る

  • 「賓頭盧(びんづる)尊者」<br />お釈迦様の第一弟子の卓越した神通力の持ち主で、「なで仏」と呼ばれ、撫でたところの悩み・苦しみを和らげて下さる

    「賓頭盧(びんづる)尊者」
    お釈迦様の第一弟子の卓越した神通力の持ち主で、「なで仏」と呼ばれ、撫でたところの悩み・苦しみを和らげて下さる

  • 「紫雲弁財天」(しうんべんざいてん)<br />七福神の中の紅一点で、元々は水の神、音楽の神、言語の神、財宝の神で、金運アップや商売繁盛のご利益があるといわれる

    「紫雲弁財天」(しうんべんざいてん)
    七福神の中の紅一点で、元々は水の神、音楽の神、言語の神、財宝の神で、金運アップや商売繁盛のご利益があるといわれる

  • 僧正遍昭の歌碑 「天つ風  雲のかよひ路  吹きとぢよ  をとめの姿  しばしとどめむ」(古今和歌集・百人一首) 僧正遍上は、初代住職で六歌仙の1人(天女のようなその姿をもっと見ていたいので、天に帰る通路を閉じてほしい)

    僧正遍昭の歌碑 「天つ風  雲のかよひ路  吹きとぢよ  をとめの姿  しばしとどめむ」(古今和歌集・百人一首) 僧正遍上は、初代住職で六歌仙の1人(天女のようなその姿をもっと見ていたいので、天に帰る通路を閉じてほしい)

  • 句碑「はじめ なか をはり 一切大文字」<br />京都では有名な京都出身の俳人・岩城久治の句(大文字の初めの揺らめく炎、途中の激しく燃え上がる炎、終りの静かに消えてゆく炎の経過を詠んでいるという)

    句碑「はじめ なか をはり 一切大文字」
    京都では有名な京都出身の俳人・岩城久治の句(大文字の初めの揺らめく炎、途中の激しく燃え上がる炎、終りの静かに消えてゆく炎の経過を詠んでいるという)

  • 11:30ランチ休憩:うなぎの「卯凪」<br />行列の出来る人気店なので早めに入る、3回目の入店

    11:30ランチ休憩:うなぎの「卯凪」
    行列の出来る人気店なので早めに入る、3回目の入店

  • 一番安い「う巻き丼」でも、昨年より3割程度値上がりしていたが、他店に比べればリーズナブルで美味しい

    一番安い「う巻き丼」でも、昨年より3割程度値上がりしていたが、他店に比べればリーズナブルで美味しい

  • 「若宮神社」(八幡宮)<br />鰻屋の向かい側にある「若宮神社」、基本的に本宮の摂・末社とし主祭神の御子を祀る神社で、石清水八幡宮を本宮とし、源頼光の邸内にあった鎮守社が起源だという

    「若宮神社」(八幡宮)
    鰻屋の向かい側にある「若宮神社」、基本的に本宮の摂・末社とし主祭神の御子を祀る神社で、石清水八幡宮を本宮とし、源頼光の邸内にあった鎮守社が起源だという

  • 「若宮神社」のすぐ前に「今宮御旅所」を発見

    「若宮神社」のすぐ前に「今宮御旅所」を発見

  • 「今宮神社御旅所」(いまみやじんじゃおたびしょ)<br />古びた建物でもう少し奇麗にしてもらいたいが、「今宮祭」の神幸祭と還幸祭の間10日間神様が鎮座される、祇園祭の四条河原町御旅所と同じ由緒あるところで、994年の紫野御霊会(一条天皇の御代疫病退治のため疫神を二基の神輿にのせて船岡山に安置し悪疫退散を祈った)で今宮神社が創建され「今宮祭」も同時に行われるようになったが、応仁の乱で廃絶し江戸時代に桂昌院の尽力で復興し、現在の御旅所が整備された *「祇園祭」は祇園社(八坂神社)の祭礼で863年神泉苑で行われた祇園御霊会が始まり

    「今宮神社御旅所」(いまみやじんじゃおたびしょ)
    古びた建物でもう少し奇麗にしてもらいたいが、「今宮祭」の神幸祭と還幸祭の間10日間神様が鎮座される、祇園祭の四条河原町御旅所と同じ由緒あるところで、994年の紫野御霊会(一条天皇の御代疫病退治のため疫神を二基の神輿にのせて船岡山に安置し悪疫退散を祈った)で今宮神社が創建され「今宮祭」も同時に行われるようになったが、応仁の乱で廃絶し江戸時代に桂昌院の尽力で復興し、現在の御旅所が整備された *「祇園祭」は祇園社(八坂神社)の祭礼で863年神泉苑で行われた祇園御霊会が始まり

  • 御旅所の境内には、神輿奉安殿の他、権殿社、能舞台、鏡の間(社務所)が並ぶが、1年に1回しか使われないので、普段は駐車場になっている

    御旅所の境内には、神輿奉安殿の他、権殿社、能舞台、鏡の間(社務所)が並ぶが、1年に1回しか使われないので、普段は駐車場になっている

  • 「一時閉鎖のお知らせ」<br />4月24日~5月23日「今宮祭」と準備のため閉鎖します

    「一時閉鎖のお知らせ」
    4月24日~5月23日「今宮祭」と準備のため閉鎖します

  • 今年の「今宮祭」は、5月5日「神幸祭」、5月12日「還幸祭」<br />京都の三大奇祭の「やすらい祭」は4月14日で、994年から始まった「今宮祭」の後の平安末期1154年頃、花傘に疫病神を集め無病息災を祈願する(他は太秦の牛祭と鞍馬の火祭)、また「あぶり餅」は疫病退散の御霊会の際神社に供えられたお餅が起源とされる<br />

    今年の「今宮祭」は、5月5日「神幸祭」、5月12日「還幸祭」
    京都の三大奇祭の「やすらい祭」は4月14日で、994年から始まった「今宮祭」の後の平安末期1154年頃、花傘に疫病神を集め無病息災を祈願する(他は太秦の牛祭と鞍馬の火祭)、また「あぶり餅」は疫病退散の御霊会の際神社に供えられたお餅が起源とされる

  • 古びた御旅所の背後に立派な寺社が目立つので行って見た

    古びた御旅所の背後に立派な寺社が目立つので行って見た

  • 「玄武神社」(げんぶじんじゃ)猪熊通り<br />平安初期の878年、先ほどの「若宮神社」を創建したこの辺の郷士・星野茂光の創建で、不運な生涯を送っていた惟喬(これたか)親王の怨霊を鎮め、平安京北方の守護のために親王寵愛の剣をこの地に祀った、玄武は青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)とともに王城を守る四神の一つ、ご祭神の惟喬親王(844 -897)は、平安期55代文徳天皇の第一皇子で、皇太子になる予定が政争にまきこまれ悲運な生涯を歩まれ、この時9歳で即位した清和天皇の、後見として藤原良房が摂政に就任し藤原氏の摂関政治が始まった

    「玄武神社」(げんぶじんじゃ)猪熊通り
    平安初期の878年、先ほどの「若宮神社」を創建したこの辺の郷士・星野茂光の創建で、不運な生涯を送っていた惟喬(これたか)親王の怨霊を鎮め、平安京北方の守護のために親王寵愛の剣をこの地に祀った、玄武は青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)とともに王城を守る四神の一つ、ご祭神の惟喬親王(844 -897)は、平安期55代文徳天皇の第一皇子で、皇太子になる予定が政争にまきこまれ悲運な生涯を歩まれ、この時9歳で即位した清和天皇の、後見として藤原良房が摂政に就任し藤原氏の摂関政治が始まった

  • 背後にマンション(パークシティ北大路)があるが、この建設前の2000年に発掘調査が行われ園池と建物跡や井戸の他、土師器・緑釉陶器・灰釉陶器・白磁・瓦など9世紀前半の遺物が発掘され、広大な雲林院の遺跡が初めて確認された

    背後にマンション(パークシティ北大路)があるが、この建設前の2000年に発掘調査が行われ園池と建物跡や井戸の他、土師器・緑釉陶器・灰釉陶器・白磁・瓦など9世紀前半の遺物が発掘され、広大な雲林院の遺跡が初めて確認された

  • 本殿の左に「三輪明神社」と「玄武稲荷神社」の二つの摂社があり、稲荷神社は五穀豊穣商売繁盛の玄武稲荷大神を祀るが、「三輪明神社」は奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)から三輪明神を勧請し、ここから「やすらい祭」が伝わったそうで、「やすらい祭」は、今宮神社の祭礼だと思っていたが、実はこの玄武神社が発祥で、966年疫病退散の鎮花祭が初めて行われ、その後1154年頃今宮神社でも始まっている

    本殿の左に「三輪明神社」と「玄武稲荷神社」の二つの摂社があり、稲荷神社は五穀豊穣商売繁盛の玄武稲荷大神を祀るが、「三輪明神社」は奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)から三輪明神を勧請し、ここから「やすらい祭」が伝わったそうで、「やすらい祭」は、今宮神社の祭礼だと思っていたが、実はこの玄武神社が発祥で、966年疫病退散の鎮花祭が初めて行われ、その後1154年頃今宮神社でも始まっている

  • コーヒー店「KURASU」(クラス)<br />評判のコーヒー店と聞いていたが、意識しないと見過ごしそうな町家で、ここ西陣店は焙煎だけらしい、「日本のコーヒー文化を京都から世界に発信する」というコンセプトで展開して、2016年に京都に初店舗をオープンし、シンガポール、バンコクにも出店、京都には京都駅と夷川、新京極とココ西陣

    コーヒー店「KURASU」(クラス)
    評判のコーヒー店と聞いていたが、意識しないと見過ごしそうな町家で、ここ西陣店は焙煎だけらしい、「日本のコーヒー文化を京都から世界に発信する」というコンセプトで展開して、2016年に京都に初店舗をオープンし、シンガポール、バンコクにも出店、京都には京都駅と夷川、新京極とココ西陣

  • 「KURASU・西陣」は焙煎とコーヒーに合うお菓子を製造<br />HPによると、最初は日本の便利な家庭用品をネット通販しているうちに、日本製のコーヒー器具が6割の売り上げを占めていたことから、コーヒー器具と日本で行われているコーヒーの淹れ方や日本のコーヒー文化、そしてコーヒーの素晴らしさを伝える事業へシフトし、現在では毎月数百点の商品を100以上の国へ発送しているという

    「KURASU・西陣」は焙煎とコーヒーに合うお菓子を製造
    HPによると、最初は日本の便利な家庭用品をネット通販しているうちに、日本製のコーヒー器具が6割の売り上げを占めていたことから、コーヒー器具と日本で行われているコーヒーの淹れ方や日本のコーヒー文化、そしてコーヒーの素晴らしさを伝える事業へシフトし、現在では毎月数百点の商品を100以上の国へ発送しているという

  • ここでは飲めないが、コーヒー豆やペーパーフィルターなど24時間365日買える自販機がある、100g1,130円~

    ここでは飲めないが、コーヒー豆やペーパーフィルターなど24時間365日買える自販機がある、100g1,130円~

  • 「たんきり飴本舗」(たんきりあめほんぽ) <br />明治8年(1875)創業で、屋号になっている「たんきり飴」は、古くから織物て栄え多くの織物職人さんが集まる西陣で、糸くずやほこりが舞う作業場で働く職人さんの喉を守ってきた

    「たんきり飴本舗」(たんきりあめほんぽ)
    明治8年(1875)創業で、屋号になっている「たんきり飴」は、古くから織物て栄え多くの織物職人さんが集まる西陣で、糸くずやほこりが舞う作業場で働く職人さんの喉を守ってきた

  • 「たんきり飴」は、香料はいっさい使わず、ショウガ汁だけを加えたもので、甘口と辛口の 2 種類が用意されていて、甘口を購入

    「たんきり飴」は、香料はいっさい使わず、ショウガ汁だけを加えたもので、甘口と辛口の 2 種類が用意されていて、甘口を購入

  • 他にもニッキやハッカ、シソ、挽茶など20種ほどの飴を販売

    他にもニッキやハッカ、シソ、挽茶など20種ほどの飴を販売

  • 「西陣児童公園」<br />西陣のど真ん中にある公園で桜を見かけてホッと一息!

    「西陣児童公園」
    西陣のど真ん中にある公園で桜を見かけてホッと一息!

  • 八重は真っ盛り!

    八重は真っ盛り!

  • 枝垂れは散りかけ!

    枝垂れは散りかけ!

  • 歴史的な遺構はないが、右側に西洋甲冑を着た騎士像、左側にお地蔵様があった

    歴史的な遺構はないが、右側に西洋甲冑を着た騎士像、左側にお地蔵様があった

  • 両腕がない不思議な騎士像だが、しっかり西陣のシンボルとなっている、ご近所の方が寄付してくださったもののようだが、台座には「建昭和54年3月」としか刻まれてない

    両腕がない不思議な騎士像だが、しっかり西陣のシンボルとなっている、ご近所の方が寄付してくださったもののようだが、台座には「建昭和54年3月」としか刻まれてない

  • お地蔵様には「由来書」がついている<br />本地蔵尊はこの公園の地中にて永年修業され、此の度花壇造成の際出土されたものであり、南無延命地蔵尊と称し町内有志相寄り、此の所に安置し公園で遊ぶ児童達及び附近住民の安全を祈念するものであります。昭和50年4月 西陣樋ノ口町有志一同<br />

    お地蔵様には「由来書」がついている
    本地蔵尊はこの公園の地中にて永年修業され、此の度花壇造成の際出土されたものであり、南無延命地蔵尊と称し町内有志相寄り、此の所に安置し公園で遊ぶ児童達及び附近住民の安全を祈念するものであります。昭和50年4月 西陣樋ノ口町有志一同

  • さらにこの横の植え込みのところに、これも近所の人が寄付したものか、宝篋印塔のようなものがあり、京都らしさを出している

    さらにこの横の植え込みのところに、これも近所の人が寄付したものか、宝篋印塔のようなものがあり、京都らしさを出している

  • 「京料理 萬重」(まんしげ) <br />昭和12年(1937)創業、仕出からスタートした町家づくりの老舗料亭、建物は奥に広く、数寄屋造りや、民芸造りのお部屋など大小15の部屋があり、美しい庭園を眺めながら食事が出来る(昼6,000円~、夜10,000円~)、仕出しの配達もしている

    「京料理 萬重」(まんしげ)
    昭和12年(1937)創業、仕出からスタートした町家づくりの老舗料亭、建物は奥に広く、数寄屋造りや、民芸造りのお部屋など大小15の部屋があり、美しい庭園を眺めながら食事が出来る(昼6,000円~、夜10,000円~)、仕出しの配達もしている

  • 近くの「西陣ゑびや」は以前入ったことのある、行列の出来る蕎麦屋さんで、特にかき揚げ丼と蕎麦のセットがお勧め

    近くの「西陣ゑびや」は以前入ったことのある、行列の出来る蕎麦屋さんで、特にかき揚げ丼と蕎麦のセットがお勧め

  • 「紋屋図子」(もんやずし)「大宮通五辻上ル西入紋屋町」<br /> この辺りは上立売通と五辻通の間を智恵光院通から大宮通へ抜ける東西150mほどの路地(京都では袋小路でなく通り抜けているのは「図子」という)で、室町時代から宮中に有職織物(絹織物)を納めてきた御寮織物司(ごりょうおりものつかさ)の「紋屋」と呼ばれる人々が集まり、江戸時代にはその6家の内5家までがここに住んで西陣の拠点のひとつとして栄えた為に「紋屋図子」と呼ばれる

    「紋屋図子」(もんやずし)「大宮通五辻上ル西入紋屋町」
    この辺りは上立売通と五辻通の間を智恵光院通から大宮通へ抜ける東西150mほどの路地(京都では袋小路でなく通り抜けているのは「図子」という)で、室町時代から宮中に有職織物(絹織物)を納めてきた御寮織物司(ごりょうおりものつかさ)の「紋屋」と呼ばれる人々が集まり、江戸時代にはその6家の内5家までがここに住んで西陣の拠点のひとつとして栄えた為に「紋屋図子」と呼ばれる

  • この図子は当初は大宮通に抜けない袋小路だったが、御寮織物司6家の筆頭株である井関七右衛門が私財を投げ打って、突き当たりの家を買い取り路地を大宮通まで貫通させたそうで、途中には最後の一軒となっていた「三上家」の町家があり往時の面影を残す

    この図子は当初は大宮通に抜けない袋小路だったが、御寮織物司6家の筆頭株である井関七右衛門が私財を投げ打って、突き当たりの家を買い取り路地を大宮通まで貫通させたそうで、途中には最後の一軒となっていた「三上家」の町家があり往時の面影を残す

  • 京都の通りは、平安京の「条坊制度」で元々は正方形が基本であったが、1586年の豊臣秀吉の都市改造により「聚楽第」「御土居」「寺院の集約」と同時に平安京の町を短冊形に改め、道路に面して出来るだけ多くの民家や店舗を集めることで税収も増やし、現在のような形になって路地や図子も生まれたという<br />

    京都の通りは、平安京の「条坊制度」で元々は正方形が基本であったが、1586年の豊臣秀吉の都市改造により「聚楽第」「御土居」「寺院の集約」と同時に平安京の町を短冊形に改め、道路に面して出来るだけ多くの民家や店舗を集めることで税収も増やし、現在のような形になって路地や図子も生まれたという

  • 「三上家」の町家には、陶芸家や写真家らが住み、蜂蜜専門店など入っている

    「三上家」の町家には、陶芸家や写真家らが住み、蜂蜜専門店など入っている

  • その一角にあった「南久美子ユーモア工房」に惹かれたので、調べてみると、南久美子は「笑いで人を癒すユーモアセラピストとして各地で作品展、講演会を開催」とある、元々漫画家で、和紙と墨字による独自の画風で人間や社会を風刺しているというが、残念ながら一般公開はしていない

    その一角にあった「南久美子ユーモア工房」に惹かれたので、調べてみると、南久美子は「笑いで人を癒すユーモアセラピストとして各地で作品展、講演会を開催」とある、元々漫画家で、和紙と墨字による独自の画風で人間や社会を風刺しているというが、残念ながら一般公開はしていない

  • 大宮通から東側は行き止まりの路地になっているが、その先は「山名町」といって応仁の乱で西の陣総大将であった「山名宗全邸宅跡」があり、戦が始まり大阪堺へ難を逃れていた織り職人たちがこの地へ戻り機織りを再開し「西陣織」が生まれたという

    大宮通から東側は行き止まりの路地になっているが、その先は「山名町」といって応仁の乱で西の陣総大将であった「山名宗全邸宅跡」があり、戦が始まり大阪堺へ難を逃れていた織り職人たちがこの地へ戻り機織りを再開し「西陣織」が生まれたという

  • 「大宮通五辻」<br />平安期にはすでにあった通りで、鳥羽天皇の皇女の五辻第斎院(五辻殿)があったからとか、町内に5つの井戸があったともいわれ、江戸期には5軒の糸屋が集まっていたといい、現在も織物や機業の町家が点在している

    「大宮通五辻」
    平安期にはすでにあった通りで、鳥羽天皇の皇女の五辻第斎院(五辻殿)があったからとか、町内に5つの井戸があったともいわれ、江戸期には5軒の糸屋が集まっていたといい、現在も織物や機業の町家が点在している

  • 「観世稲荷社」( かんぜいなりしゃ)西陣中央小学校内  <br />観世家の屋敷跡で、室町幕府の三代将軍足利義満から大和猿楽の観世座を率いた観阿弥が拝領し、九世観世大夫黒雪まで住んでいたとされ、この辺りは観世町という、「観世稲荷社」はその屋敷の鎮守社で、近くに謡本の龍が降りてきてこの井戸に入って出来たという水巻模様の「観世井」と呼ばれる井戸がある

    「観世稲荷社」( かんぜいなりしゃ)西陣中央小学校内
    観世家の屋敷跡で、室町幕府の三代将軍足利義満から大和猿楽の観世座を率いた観阿弥が拝領し、九世観世大夫黒雪まで住んでいたとされ、この辺りは観世町という、「観世稲荷社」はその屋敷の鎮守社で、近くに謡本の龍が降りてきてこの井戸に入って出来たという水巻模様の「観世井」と呼ばれる井戸がある

  • 隣には「祇園小学校」の校歌と、もう懐かしい言葉になっている「タイムカプセル」があった(20年後の2017年開封と書いてある)

    隣には「祇園小学校」の校歌と、もう懐かしい言葉になっている「タイムカプセル」があった(20年後の2017年開封と書いてある)

  • 「今出川大宮」<br />「今出川通」は、銀閣寺から等持院まで、京都御所の北側を通り、昔は通り沿いに鴨川分流の今出川が流れていた、大正時代には京都市電の今出川線が走り、この交差点付近に「今出川大宮駅」があった

    「今出川大宮」
    「今出川通」は、銀閣寺から等持院まで、京都御所の北側を通り、昔は通り沿いに鴨川分流の今出川が流れていた、大正時代には京都市電の今出川線が走り、この交差点付近に「今出川大宮駅」があった

  • 「千両ヶ辻」(せんりょうがつじ) <br />今出川大宮の交差点辺りは 、江戸中期より西陣織機業で一日に千両もの商があったことから「千両ヶ辻」と呼ばれており、この周辺で糸屋が立ち並ぶ8つの町(観世町・五辻町・薬師町など)で形成される「糸屋八町」には、江戸幕府の糸割符制度(いとわっぷせいど)により特権を得た糸割符商人が何軒も並び、明治になると金融機関も出店し銀行街のような経済の中心地だった

    「千両ヶ辻」(せんりょうがつじ)
    今出川大宮の交差点辺りは 、江戸中期より西陣織機業で一日に千両もの商があったことから「千両ヶ辻」と呼ばれており、この周辺で糸屋が立ち並ぶ8つの町(観世町・五辻町・薬師町など)で形成される「糸屋八町」には、江戸幕府の糸割符制度(いとわっぷせいど)により特権を得た糸割符商人が何軒も並び、明治になると金融機関も出店し銀行街のような経済の中心地だった

  • 「千両ヶ辻」で、代々家業を継承してきた旦那衆や、モノづくりの技術を伝えてきた職人さん達の伝統産業を守るために、五辻通から中立売通までの商店や施設などが参加する「西陣・伝統文化祭・千両ヶ辻」を、毎年、秋分の日(9月23日)に開催している

    「千両ヶ辻」で、代々家業を継承してきた旦那衆や、モノづくりの技術を伝えてきた職人さん達の伝統産業を守るために、五辻通から中立売通までの商店や施設などが参加する「西陣・伝統文化祭・千両ヶ辻」を、毎年、秋分の日(9月23日)に開催している

  • 「西陣麦酒」(にしじんばくしゅ)<br />2017年に築140年の京町家をリノベーションしたクラフトビール醸造所で、工場見学と西陣麦酒の出来立ての生ビールを飲める(金・土のみ)、障がい福祉事業を行う社会福祉法人菊鉾会ヒーローズが運営

    「西陣麦酒」(にしじんばくしゅ)
    2017年に築140年の京町家をリノベーションしたクラフトビール醸造所で、工場見学と西陣麦酒の出来立ての生ビールを飲める(金・土のみ)、障がい福祉事業を行う社会福祉法人菊鉾会ヒーローズが運営

  • 「京だんらん・千両ヶ辻」<br />築90年の京町家を リノベーションしたシェアハウス

    「京だんらん・千両ヶ辻」
    築90年の京町家を リノベーションしたシェアハウス

  • 「中村忠三郎商店」<br />明治30年創業の糸商で、絹糸(シルク)と麻糸(ラミー)の製造販売と、手袋・腹巻・肌着・靴下・ストール・スカーフなどのシルク製品を製造販売<br />

    「中村忠三郎商店」
    明治30年創業の糸商で、絹糸(シルク)と麻糸(ラミー)の製造販売と、手袋・腹巻・肌着・靴下・ストール・スカーフなどのシルク製品を製造販売

  • デイサービスセンター「カサ 六瓢」(むびょう)<br />1704年築の糸割符商人で大正時代中頃まで生糸問屋を営んでいた「渤海家」(ぼっかいけ)の屋敷で、奥には立派な庭園も残る介護施設にリノベーション

    デイサービスセンター「カサ 六瓢」(むびょう)
    1704年築の糸割符商人で大正時代中頃まで生糸問屋を営んでいた「渤海家」(ぼっかいけ)の屋敷で、奥には立派な庭園も残る介護施設にリノベーション

  • 「木村卯兵衛株式会社」<br />1738年創業で、先祖から受け継いだ織物を参考に着物やその他西陣織製品の企画・製造・販売、している

    「木村卯兵衛株式会社」
    1738年創業で、先祖から受け継いだ織物を参考に着物やその他西陣織製品の企画・製造・販売、している

  • 「南進一郎創作着物アトリエ」<br />築150年の町家で、手描き京友禅の工房兼アトリエを営む、「京染め塾」で観光客などが手描き友禅を体験する教室も始めた

    「南進一郎創作着物アトリエ」
    築150年の町家で、手描き京友禅の工房兼アトリエを営む、「京染め塾」で観光客などが手描き友禅を体験する教室も始めた

  • 「吉村塾」<br />築100年の糸問屋の町家をリノベーションして寺小屋方式(個別対話方式)の学習塾を営む<br />

    「吉村塾」
    築100年の糸問屋の町家をリノベーションして寺小屋方式(個別対話方式)の学習塾を営む

  • 「水野克比古・町家写真館」(みずのかつひこ)<br />京都の風景・庭園・建築などを取り続ける写真家で、明治初期に建てられた町家をリノベーションして、奥には坪庭があり座敷やオクドさんもある屋敷で、親子2代にわたる写真を常設展示し販売もしている、予約制で西陣伝統文化祭の日は常時公開

    「水野克比古・町家写真館」(みずのかつひこ)
    京都の風景・庭園・建築などを取り続ける写真家で、明治初期に建てられた町家をリノベーションして、奥には坪庭があり座敷やオクドさんもある屋敷で、親子2代にわたる写真を常設展示し販売もしている、予約制で西陣伝統文化祭の日は常時公開

  • 「町家紅茶館・卯晴」(うはる)<br />築100年の町家をリノベーションして、約40種類の紅茶の飲食と通販をしている

    「町家紅茶館・卯晴」(うはる)
    築100年の町家をリノベーションして、約40種類の紅茶の飲食と通販をしている

  • 「北原家・大宮庵」(きたはらけ おおみやあん)<br />「冨田屋」の手前並びにあり、明治時代から4代目まで続く生糸問屋、友禅商で、細長い町屋の奥に苔が美しい庭園があり、春日燈籠、手水鉢、鞍馬石の飛び石などが美しいというが、通常非公開、西陣伝統文化祭の日は公開してるらしいから是非訪問したい

    「北原家・大宮庵」(きたはらけ おおみやあん)
    「冨田屋」の手前並びにあり、明治時代から4代目まで続く生糸問屋、友禅商で、細長い町屋の奥に苔が美しい庭園があり、春日燈籠、手水鉢、鞍馬石の飛び石などが美しいというが、通常非公開、西陣伝統文化祭の日は公開してるらしいから是非訪問したい

  • 「冨田屋」(とんだや)<br />明治以降に建てられた京都・西陣の老舗呉服商で、「西陣くらしの美術館」として京町家の見学だけでなく、しつらえや書画、西陣の文化・風習などについての解説を事前予約制で公開する、当初は伏見の両替商として創業し、「鳥羽伏見の戦い」の戦災に遭い西陣に移り織物問屋をはじめ、明治18年(1885)豪商に相応しい現在の商家を建てた、6つの坪庭や茶室、掛け軸、絵画など見ごたえがあるらしいから、あらためて行ってみたい

    「冨田屋」(とんだや)
    明治以降に建てられた京都・西陣の老舗呉服商で、「西陣くらしの美術館」として京町家の見学だけでなく、しつらえや書画、西陣の文化・風習などについての解説を事前予約制で公開する、当初は伏見の両替商として創業し、「鳥羽伏見の戦い」の戦災に遭い西陣に移り織物問屋をはじめ、明治18年(1885)豪商に相応しい現在の商家を建てた、6つの坪庭や茶室、掛け軸、絵画など見ごたえがあるらしいから、あらためて行ってみたい

  • 貴重な町家が残る一方、新しいマンションやホテルなどもどんどん建って共存しているのも面白い!

    貴重な町家が残る一方、新しいマンションやホテルなどもどんどん建って共存しているのも面白い!

  • 大宮通一条通り手前が広くなっている謎!<br />いきなり一条通り手前の横神明通から一条通りまでの道路幅が広くなっているので、調べると、大宮通は聚楽第にぶつからないよう、現在の旧大宮通へ段ズレしていたが、明治になって市電・北野線の開通を機に道路拡幅整備事業の一環として立ち退きにより大宮通を真っ直ぐにした「新大宮通」が出現し、大正になって下長者町通までつながった名残が現在の姿になっているという経緯がある、歴史を調べると面白い!

    大宮通一条通り手前が広くなっている謎!
    いきなり一条通り手前の横神明通から一条通りまでの道路幅が広くなっているので、調べると、大宮通は聚楽第にぶつからないよう、現在の旧大宮通へ段ズレしていたが、明治になって市電・北野線の開通を機に道路拡幅整備事業の一環として立ち退きにより大宮通を真っ直ぐにした「新大宮通」が出現し、大正になって下長者町通までつながった名残が現在の姿になっているという経緯がある、歴史を調べると面白い!

  • 「平安京一条大路跡」(一条大宮)<br />賀茂祭(葵祭)の祭列は斎王の御所・賀茂斎院(上御霊前通辺り)から大宮通を南下し、北上してきた勅使の行列とココ一条大宮で合流し、下鴨・上賀茂神社に向かったので、両側には皇族・貴族の桟敷が並び、地べたには民衆が座り込むなど、その喧騒ぶりは「栄華物語」や「枕草子」でも描写されており、源氏物語では、祭列に参加する「光源氏」を一目見ようと葵上(あおいのうえ:妻)と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ:未亡人の愛人)の御車が物見所を巡って「車争い」をする有名なエピソードがある

    「平安京一条大路跡」(一条大宮)
    賀茂祭(葵祭)の祭列は斎王の御所・賀茂斎院(上御霊前通辺り)から大宮通を南下し、北上してきた勅使の行列とココ一条大宮で合流し、下鴨・上賀茂神社に向かったので、両側には皇族・貴族の桟敷が並び、地べたには民衆が座り込むなど、その喧騒ぶりは「栄華物語」や「枕草子」でも描写されており、源氏物語では、祭列に参加する「光源氏」を一目見ようと葵上(あおいのうえ:妻)と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ:未亡人の愛人)の御車が物見所を巡って「車争い」をする有名なエピソードがある

  • 「一条院跡」(いちじょういんあと) <br />一条天皇の生母である藤原詮子が、もともと藤原師輔の屋敷を御所として修復し、一条天皇の里内裏(さとだいり)として使用された、藤原道長と一条天皇の中宮彰子父娘の宿泊所も設けられ、中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏はこの一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった

    「一条院跡」(いちじょういんあと)
    一条天皇の生母である藤原詮子が、もともと藤原師輔の屋敷を御所として修復し、一条天皇の里内裏(さとだいり)として使用された、藤原道長と一条天皇の中宮彰子父娘の宿泊所も設けられ、中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏はこの一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった

  • 「名和長年公殉節所」(なわながとしこうじゅんせつのところ)<br />この地には南北朝時代、元弘の変で隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇(1288-1339)に従い鎌倉幕府の倒幕に貢献し建武政権で要職についた「名和長年」が、九州から京都へ攻め入った足利尊氏(1305-58)軍との戦いで敗れ1336年戦死した終焉の地と伝えられ、現在は名和児童公園となって石碑が建っている

    「名和長年公殉節所」(なわながとしこうじゅんせつのところ)
    この地には南北朝時代、元弘の変で隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇(1288-1339)に従い鎌倉幕府の倒幕に貢献し建武政権で要職についた「名和長年」が、九州から京都へ攻め入った足利尊氏(1305-58)軍との戦いで敗れ1336年戦死した終焉の地と伝えられ、現在は名和児童公園となって石碑が建っている

  • 鎧の一部が発見されたという井戸

    鎧の一部が発見されたという井戸

  • 「帆掛け船」は、鳥取で海運業で栄え豪族だった名和家家紋<br />幕府軍勝利の功績で伯耆国(ほうきのくに)守に任ぜられ「帆掛け船」の家紋を与えられた

    「帆掛け船」は、鳥取で海運業で栄え豪族だった名和家家紋
    幕府軍勝利の功績で伯耆国(ほうきのくに)守に任ぜられ「帆掛け船」の家紋を与えられた

  • 「聚楽第東濠址」(じゅらくだいひがしほりあと) 大宮中立売角<br />「聚楽第」は豊臣秀吉が1587年大内裏跡地に築城し、関白を譲った秀次に引き継いだが、わずか8年で破却されたため幻の城となっていたが、平成4年(1992)この向かい側のハローワークの工事で、巨大な濠跡のほか数百点の金箔瓦を発見され、それらは聚楽第の遺構であることが確認された、 ここから西300mのところにある「聚楽第西濠址」までが本丸の東西の範囲と考えられる

    「聚楽第東濠址」(じゅらくだいひがしほりあと) 大宮中立売角
    「聚楽第」は豊臣秀吉が1587年大内裏跡地に築城し、関白を譲った秀次に引き継いだが、わずか8年で破却されたため幻の城となっていたが、平成4年(1992)この向かい側のハローワークの工事で、巨大な濠跡のほか数百点の金箔瓦を発見され、それらは聚楽第の遺構であることが確認された、 ここから西300mのところにある「聚楽第西濠址」までが本丸の東西の範囲と考えられる

  • 中立売のハローワークからは又道幅が狭くなり、京都では良く見かけるクロネコ配達便の自転車に出会った!

    中立売のハローワークからは又道幅が狭くなり、京都では良く見かけるクロネコ配達便の自転車に出会った!

  • 「リヤカー付き電動自転車」<br />よく見かけるので調べてみると、電気自動車も導入して環境保護を標榜するクロネコヤマトは、2002年頃から小回りの利く「スリーター」と呼ばれる電動リヤカーを住宅密集地や市街地で導入しており、150kgの荷物を積載可能で、クーラーボックスまで乗せて、道交法上駐車違反にもならない、半径400メートル前後の限られたエリア内であれば、車両よりも効率がよく1台で100個以上の荷物を集配するという、流石!日本ならではのgood ideaである

    「リヤカー付き電動自転車」
    よく見かけるので調べてみると、電気自動車も導入して環境保護を標榜するクロネコヤマトは、2002年頃から小回りの利く「スリーター」と呼ばれる電動リヤカーを住宅密集地や市街地で導入しており、150kgの荷物を積載可能で、クーラーボックスまで乗せて、道交法上駐車違反にもならない、半径400メートル前後の限られたエリア内であれば、車両よりも効率がよく1台で100個以上の荷物を集配するという、流石!日本ならではのgood ideaである

  • 「梅雨の井跡」(つゆのいあと) <br />事前知識がないと見過ごしてしまいそうな、住宅地の露地奥にある廃墟の中にポツンと駒札があるタダの荒れ地だが、秀吉が聚楽第を築いた頃から、聚楽第内の東南隅にあったという井戸があり、梅雨明け7日前から水が溢れ出し、梅雨明けと共に戻るところから命名されている

    「梅雨の井跡」(つゆのいあと)
    事前知識がないと見過ごしてしまいそうな、住宅地の露地奥にある廃墟の中にポツンと駒札があるタダの荒れ地だが、秀吉が聚楽第を築いた頃から、聚楽第内の東南隅にあったという井戸があり、梅雨明け7日前から水が溢れ出し、梅雨明けと共に戻るところから命名されている

  • 明治時代には近くに八雲神社が創建され、ご神木として秀吉が愛したとされるモチノキも植えられていたが、台風の被害や井戸の枯渇などがあり、神社やモチノキも撤去され、井戸跡だけが残されたが、聚楽第の数少ない内の一つとされる貴重な遺構

    明治時代には近くに八雲神社が創建され、ご神木として秀吉が愛したとされるモチノキも植えられていたが、台風の被害や井戸の枯渇などがあり、神社やモチノキも撤去され、井戸跡だけが残されたが、聚楽第の数少ない内の一つとされる貴重な遺構

  • それでもカラフルなお地蔵さんに真新しい花が供えられているのに救われる!

    それでもカラフルなお地蔵さんに真新しい花が供えられているのに救われる!

  • もう少し進むと正面の「下長者町通」で突き当り、大宮通は段ズレして、左折して右折すると又大宮通の狭い路が続く

    もう少し進むと正面の「下長者町通」で突き当り、大宮通は段ズレして、左折して右折すると又大宮通の狭い路が続く

  • 「大宮通下長者町下ル清元町」<br />「下長者町通」「上長者町通」は、裕福な両替商人の邸宅が建ち並んでいたことに由来

    「大宮通下長者町下ル清元町」
    「下長者町通」「上長者町通」は、裕福な両替商人の邸宅が建ち並んでいたことに由来

  • 怪しげな建物のライブ喫茶「拾得」(じっとく)音楽や落語などのライブ

    怪しげな建物のライブ喫茶「拾得」(じっとく)音楽や落語などのライブ

  • 可愛い町家の本屋さん

    可愛い町家の本屋さん

  • 「丸太町通」を横断し、狭い通りを少し行くと二条城に突き当たる<br />「丸太町通」は岡崎から嵯峨釈迦堂までで、通り沿いの西堀川に材木商が多かったための命名

    「丸太町通」を横断し、狭い通りを少し行くと二条城に突き当たる
    「丸太町通」は岡崎から嵯峨釈迦堂までで、通り沿いの西堀川に材木商が多かったための命名

  • 正面に「二条城」、左側工事中の場所は「京都所司代屋敷」跡地で、この拡築で丸太町通と竹屋町通間が狭くなっている *「所司代」は、皇室・公家の監視、役人の統率、町方の取締り、近畿8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国大名の監視など強い権限をもち老中につぐ最重要役職であった

    正面に「二条城」、左側工事中の場所は「京都所司代屋敷」跡地で、この拡築で丸太町通と竹屋町通間が狭くなっている *「所司代」は、皇室・公家の監視、役人の統率、町方の取締り、近畿8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国大名の監視など強い権限をもち老中につぐ最重要役職であった

  • 工事中は「シャングリラホテル二条城」という2024年12月に開業予定のラグジュアリーホテル(本社シンガポール)

    工事中は「シャングリラホテル二条城」という2024年12月に開業予定のラグジュアリーホテル(本社シンガポール)

  • 大宮通は分断されるので、北大手門から東大手門周りで迂回

    大宮通は分断されるので、北大手門から東大手門周りで迂回

  • 北大手門からの桜が美しい!<br />確かこの北大手門近くに、京都の開花を知らせる標本木のソメイヨシノがある、今年の開花宣言は例年より3日遅い3月29日

    北大手門からの桜が美しい!
    確かこの北大手門近くに、京都の開花を知らせる標本木のソメイヨシノがある、今年の開花宣言は例年より3日遅い3月29日

  • 二条城「清流園」隣りの「緑の園」が満開を過ぎた頃

    二条城「清流園」隣りの「緑の園」が満開を過ぎた頃

  • 「二条城」東大手門をスルー<br />徳川の遺構「二条城」は、1603年家康の将軍上洛時の宿所として、また西国大名や朝廷の監視を目的に築城、その後1611年、豊臣秀頼を二条城に招いて「 遠侍の間 」(とおざむらいのま:身分の低い者が使用する部屋 )で会見し、天下に徳川家の威信を示した、1626年には3代将軍家光が大軍を率いて上洛し、以降幕末まで将軍が上洛して二条城に入城することはなかったが、幕末の1867年、二条城大広間において15代将軍慶喜が大政奉還を行い、260年続いた江戸時代に幕を降ろし、明治になると京都府庁として一時使用され、その後、宮内省管轄の二条離宮、昭和14年に京都市の管轄となった

    「二条城」東大手門をスルー
    徳川の遺構「二条城」は、1603年家康の将軍上洛時の宿所として、また西国大名や朝廷の監視を目的に築城、その後1611年、豊臣秀頼を二条城に招いて「 遠侍の間 」(とおざむらいのま:身分の低い者が使用する部屋 )で会見し、天下に徳川家の威信を示した、1626年には3代将軍家光が大軍を率いて上洛し、以降幕末まで将軍が上洛して二条城に入城することはなかったが、幕末の1867年、二条城大広間において15代将軍慶喜が大政奉還を行い、260年続いた江戸時代に幕を降ろし、明治になると京都府庁として一時使用され、その後、宮内省管轄の二条離宮、昭和14年に京都市の管轄となった

  • (2009.4.9撮影)の「二の丸庭園」<br />「二条城」は天守閣こそないものの、国宝の「二の丸御殿」など豪華な遺構が多く残り、中でも江戸時代の小堀遠州作「二の丸庭園」、明治天皇が作らせた「本丸庭園」、昭和時代の中根金作の「清流園」の3つの庭園は、それぞれの時代の趣が感じられて見ごたえがある、改修工事中であった「本丸御殿」は、本年9月から17年ぶりに一般公開を始めるというので又行ってみたい

    (2009.4.9撮影)の「二の丸庭園」
    「二条城」は天守閣こそないものの、国宝の「二の丸御殿」など豪華な遺構が多く残り、中でも江戸時代の小堀遠州作「二の丸庭園」、明治天皇が作らせた「本丸庭園」、昭和時代の中根金作の「清流園」の3つの庭園は、それぞれの時代の趣が感じられて見ごたえがある、改修工事中であった「本丸御殿」は、本年9月から17年ぶりに一般公開を始めるというので又行ってみたい

  • 押小路通りから「神泉苑」へ、「押小路通」(おしこうじどおり)は木屋町の押小路橋から始まり、二条城南側を通り、千本通で御池通りとつながる

    押小路通りから「神泉苑」へ、「押小路通」(おしこうじどおり)は木屋町の押小路橋から始まり、二条城南側を通り、千本通で御池通りとつながる

  • 「神泉苑」(しんせんえん) 北門入り口<br />794年桓武天皇が平安京造営時に、中国の禁苑(きんえん:天皇のための遊苑)を模倣して造られた京都最古の庭園で、常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名づけられた、天皇が使うことから「御池」と呼ばれ、歴代天皇がしばしば訪れ、花見や、納涼、船遊び、詩歌管弦、狩りなどの遊びにふけったとされる

    「神泉苑」(しんせんえん) 北門入り口
    794年桓武天皇が平安京造営時に、中国の禁苑(きんえん:天皇のための遊苑)を模倣して造られた京都最古の庭園で、常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名づけられた、天皇が使うことから「御池」と呼ばれ、歴代天皇がしばしば訪れ、花見や、納涼、船遊び、詩歌管弦、狩りなどの遊びにふけったとされる

  • 「二条城築城」で十二分の一に縮小<br />当初は二条通から三条通まで、南北500m、東西240mに及ぶ広大な敷地に池のある大庭園だったが、江戸時代の1603年に家康が「二条城」を築城する際、城の内濠、外濠に「神泉苑」の湧水を取り込み、敷地の大部分が城内に取り込まれ、1/12ほどの規模に縮小した、その後これを悲しんだ筑紫の僧・快我上人(かいがしょうにん)が板倉勝重や片桐且元の協力を得て、1607年から1624年に掛けて境内を整備し、神泉苑はその後、東寺管轄の寺院として再興された

    「二条城築城」で十二分の一に縮小
    当初は二条通から三条通まで、南北500m、東西240mに及ぶ広大な敷地に池のある大庭園だったが、江戸時代の1603年に家康が「二条城」を築城する際、城の内濠、外濠に「神泉苑」の湧水を取り込み、敷地の大部分が城内に取り込まれ、1/12ほどの規模に縮小した、その後これを悲しんだ筑紫の僧・快我上人(かいがしょうにん)が板倉勝重や片桐且元の協力を得て、1607年から1624年に掛けて境内を整備し、神泉苑はその後、東寺管轄の寺院として再興された

  • 神泉苑は「祇園祭」の起源<br />平安前期の863年、疫病が流行し多くの人が亡くなり、朝廷は神泉苑で初めて国家的な「御霊会」を行った、これは思いがけない死を迎えた者の御霊が天災や疫病をもたらすとして、その霊を鎮め災厄を祓う祭事で、神泉苑では早良親王や伊予親王など「六柱の御霊」の霊座を設け、 経典の演述や雅楽の演奏、稚児の舞などが奉納された、その後も疫病の流行や富士山の大噴火など続き、869年に起こった陸奥の国の大地震と津波(奇しくも現代2011年の東北大地震と同じ)で社会不安が深刻化したため、全国の国の数66本の鉾を立て、祇園社(八坂神社)から神泉苑に御輿を送り厄払いをした、これが「祇園祭」の起源となる

    神泉苑は「祇園祭」の起源
    平安前期の863年、疫病が流行し多くの人が亡くなり、朝廷は神泉苑で初めて国家的な「御霊会」を行った、これは思いがけない死を迎えた者の御霊が天災や疫病をもたらすとして、その霊を鎮め災厄を祓う祭事で、神泉苑では早良親王や伊予親王など「六柱の御霊」の霊座を設け、 経典の演述や雅楽の演奏、稚児の舞などが奉納された、その後も疫病の流行や富士山の大噴火など続き、869年に起こった陸奥の国の大地震と津波(奇しくも現代2011年の東北大地震と同じ)で社会不安が深刻化したため、全国の国の数66本の鉾を立て、祇園社(八坂神社)から神泉苑に御輿を送り厄払いをした、これが「祇園祭」の起源となる

  • 神泉苑は「花見」の起源<br />嵯峨天皇が日本で最初に花見をしたことから花見発祥の地ともいわれ、「御池」を取り囲んで咲き誇る桜が水面に映る姿は上品な気品を醸し出す

    神泉苑は「花見」の起源
    嵯峨天皇が日本で最初に花見をしたことから花見発祥の地ともいわれ、「御池」を取り囲んで咲き誇る桜が水面に映る姿は上品な気品を醸し出す

  • 神泉苑は「雨乞い」の起源 (弘法大師と守敏僧都の「雨乞い対決」)<br />平安時代は雨乞いの祈祷が度々行われ、824年ひどい干ばつに見舞われた際、淳和天皇の勅命により東寺の空海(弘法大師)と西寺の守敏(しゅびん)僧都が雨乞い対決をすることになり、先に守敏が祈祷し雨を降らせ、次に空海が祈祷するが雨が降らない、怪しんだ空海が調べると、守敏が雨の神・龍神を水瓶に閉じ込め邪魔をしていたことが分かり、空海は考えた末、唯一天竺(インド)の善女龍王(ぜんにょりゅうおう)のみが守敏の呪法を免れていたのを知り、祈ったところ善女龍王は金色の龍となって天に昇りたちまち雨を降らせ、守敏の雨は都にしか降らなかったのに対し、空海の雨は国中に雨を降らせ国土を潤した、以来、神泉苑は東寺の僧侶たちの道場として雨乞い修行の中心地となっている

    神泉苑は「雨乞い」の起源 (弘法大師と守敏僧都の「雨乞い対決」)
    平安時代は雨乞いの祈祷が度々行われ、824年ひどい干ばつに見舞われた際、淳和天皇の勅命により東寺の空海(弘法大師)と西寺の守敏(しゅびん)僧都が雨乞い対決をすることになり、先に守敏が祈祷し雨を降らせ、次に空海が祈祷するが雨が降らない、怪しんだ空海が調べると、守敏が雨の神・龍神を水瓶に閉じ込め邪魔をしていたことが分かり、空海は考えた末、唯一天竺(インド)の善女龍王(ぜんにょりゅうおう)のみが守敏の呪法を免れていたのを知り、祈ったところ善女龍王は金色の龍となって天に昇りたちまち雨を降らせ、守敏の雨は都にしか降らなかったのに対し、空海の雨は国中に雨を降らせ国土を潤した、以来、神泉苑は東寺の僧侶たちの道場として雨乞い修行の中心地となっている

  • 「源義経と静御前の出会いの場所」<br />平安末期の1182年、後白河法皇が白拍子(しらびょうし:男装の舞妓)100人に「雨乞いの舞」を舞わせ、99人までが舞っても雨が降らなかったが、100人目の「静御前」が舞うと3日間雨が降り続いた、またこの時に源義経に気に入られて妾となったと伝えられるから、面白い!

    「源義経と静御前の出会いの場所」
    平安末期の1182年、後白河法皇が白拍子(しらびょうし:男装の舞妓)100人に「雨乞いの舞」を舞わせ、99人までが舞っても雨が降らなかったが、100人目の「静御前」が舞うと3日間雨が降り続いた、またこの時に源義経に気に入られて妾となったと伝えられるから、面白い!

  • 「本堂・利生殿」(りしょうでん)<br />江戸時代の1847年、東寺の大元帥堂を移築したもので、ご本尊は中央に「聖観世音菩薩」、右手に「不動明王」、左手に「弘法大師」と中興の祖である「快我上人」(かいがしょうにん)が祀られている

    「本堂・利生殿」(りしょうでん)
    江戸時代の1847年、東寺の大元帥堂を移築したもので、ご本尊は中央に「聖観世音菩薩」、右手に「不動明王」、左手に「弘法大師」と中興の祖である「快我上人」(かいがしょうにん)が祀られている

  • 「法成就池」(ほうじょうじゅいけ)<br />空海が824年祈雨の際に勧請した「善女竜王」が池に住むと言われ、法力を成就させたことから命名され、淳和天皇(在位823-833)は釣台で釣りをされ、仁明天皇(にんみょうてんのう在位833-850)は隼(はやぶさ)を放ち池の水鳥を捕らえ、京の人家の井戸が枯渇した際には、神泉苑の池の堰を開け下流の田畑を潤し、白河上皇(在位1158-1192)が鵜飼をご覧の際に、優れた鵜が池から咥えあげた太刀が、天皇や源氏平家に伝わったという霊剣鵜丸(うのまる)伝説も残る

    「法成就池」(ほうじょうじゅいけ)
    空海が824年祈雨の際に勧請した「善女竜王」が池に住むと言われ、法力を成就させたことから命名され、淳和天皇(在位823-833)は釣台で釣りをされ、仁明天皇(にんみょうてんのう在位833-850)は隼(はやぶさ)を放ち池の水鳥を捕らえ、京の人家の井戸が枯渇した際には、神泉苑の池の堰を開け下流の田畑を潤し、白河上皇(在位1158-1192)が鵜飼をご覧の際に、優れた鵜が池から咥えあげた太刀が、天皇や源氏平家に伝わったという霊剣鵜丸(うのまる)伝説も残る

  • 「鯉塚(こいづか)亀塚(かめづか)生き物を大切に」碑<br />法成就池では、大きな鯉が飛び跳ねている様がよく見られ、鯉や亀や水鳥がたくさんいるが、捕らえた魚類などを放してやる放生池(ほうじょうち)として、あらゆる生き物への感謝と供養のため建立された

    「鯉塚(こいづか)亀塚(かめづか)生き物を大切に」碑
    法成就池では、大きな鯉が飛び跳ねている様がよく見られ、鯉や亀や水鳥がたくさんいるが、捕らえた魚類などを放してやる放生池(ほうじょうち)として、あらゆる生き物への感謝と供養のため建立された

  • 癒しのアイドル「アヒル」<br />神泉苑の「アヒル」は、HPにアヒルの部屋というページを設けるくらい人気の存在で、以前3羽いたのが現在2羽になっていて、しかも足を怪我しているようで、もう1羽が守っているように見えてほほえましい! また中島には「ゴイサギ」が生息しているそうで、その名前の由来となった謡曲「鷺」の話が以下のように伝えられている、「醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれるようになった」

    癒しのアイドル「アヒル」
    神泉苑の「アヒル」は、HPにアヒルの部屋というページを設けるくらい人気の存在で、以前3羽いたのが現在2羽になっていて、しかも足を怪我しているようで、もう1羽が守っているように見えてほほえましい! また中島には「ゴイサギ」が生息しているそうで、その名前の由来となった謡曲「鷺」の話が以下のように伝えられている、「醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれるようになった」

  • 橋の袂にはコイのえさと、「アヒルさんは怪我をしています。あたたかく見守って下さい」の張り紙がある

    橋の袂にはコイのえさと、「アヒルさんは怪我をしています。あたたかく見守って下さい」の張り紙がある

  • 「法成橋」(ほうじょうばし)<br />朱塗りの太鼓橋は、「法成就池」と同様に雨乞い合戦で法力を成就させたことからの命名で、静御前が雨乞いの儀式で白拍子の舞を舞った際に、源義経がこの橋で聞いていて、ここで初めて出会ったといわれ、毎年5月の神泉苑祭では法成橋で「静御前の舞」が奉納される

    「法成橋」(ほうじょうばし)
    朱塗りの太鼓橋は、「法成就池」と同様に雨乞い合戦で法力を成就させたことからの命名で、静御前が雨乞いの儀式で白拍子の舞を舞った際に、源義経がこの橋で聞いていて、ここで初めて出会ったといわれ、毎年5月の神泉苑祭では法成橋で「静御前の舞」が奉納される

  • 「願いが叶う法城橋」<br />この橋を渡ると「善女龍王社」があり、空海が善女龍王を勧請して雨乞いの願いを成就したことから、願い事をしながらこの橋を渡り、善女龍王に詣でると願いが叶うといわれる、但し「一願成就」の橋で、欲張った願いは聞き入れられない

    「願いが叶う法城橋」
    この橋を渡ると「善女龍王社」があり、空海が善女龍王を勧請して雨乞いの願いを成就したことから、願い事をしながらこの橋を渡り、善女龍王に詣でると願いが叶うといわれる、但し「一願成就」の橋で、欲張った願いは聞き入れられない

  • 「小野小町の雨乞い歌」<br />雨乞いの祈祷しても効き目がなかった頃、朝廷は当時第一の歌人であった小野小町(825-900)にも「雨乞いの歌」を奉納するよう命じたという 「ことはりや ひのもとならば てりもせめ さしとてはまた あまかしたとは」(理屈からいって、この国が日の本だから、日照りになっても仕方ない、しかし、世界を天とも言うのだから、雨を降らせてくれないだろうか)

    「小野小町の雨乞い歌」
    雨乞いの祈祷しても効き目がなかった頃、朝廷は当時第一の歌人であった小野小町(825-900)にも「雨乞いの歌」を奉納するよう命じたという 「ことはりや ひのもとならば てりもせめ さしとてはまた あまかしたとは」(理屈からいって、この国が日の本だから、日照りになっても仕方ない、しかし、世界を天とも言うのだから、雨を降らせてくれないだろうか)

  • 「善女龍王社」(ぜんにょりゅうおうしゃ)<br />「善女龍王」は、雨を降らすとして伝わる神様で、弘法大師 (空海)が、雨乞いのためにインドから呼び寄せて 日本国中大雨を降らせ、それ以来、神泉苑の池に棲み付いたという伝説から、この竜神様(善女竜王)を祀っている

    「善女龍王社」(ぜんにょりゅうおうしゃ)
    「善女龍王」は、雨を降らすとして伝わる神様で、弘法大師 (空海)が、雨乞いのためにインドから呼び寄せて 日本国中大雨を降らせ、それ以来、神泉苑の池に棲み付いたという伝説から、この竜神様(善女竜王)を祀っている

  • 「神泉苑祭」(しんせんえんまつり)<br />毎年5月(2~4日)に弘法大師ご勧請の善女龍王をお祀りする江戸時代より続いているお祭りで、龍王社拝殿に本神輿を安置し、境内に三本の剣鉾を建て、法成就池に浮かばせた船上で雅楽を演奏して王朝の雅を再現したり、野点茶会、子供みこし、稚児行列、静御前の舞などが行われ、今年は「弘法大師御請雨1200年」を記念し、増運弁財天、毘沙門天の特別ご開帳も行われる、また、例年行われていた神泉苑狂言は今年より11月7~9日に公演されるという

    「神泉苑祭」(しんせんえんまつり)
    毎年5月(2~4日)に弘法大師ご勧請の善女龍王をお祀りする江戸時代より続いているお祭りで、龍王社拝殿に本神輿を安置し、境内に三本の剣鉾を建て、法成就池に浮かばせた船上で雅楽を演奏して王朝の雅を再現したり、野点茶会、子供みこし、稚児行列、静御前の舞などが行われ、今年は「弘法大師御請雨1200年」を記念し、増運弁財天、毘沙門天の特別ご開帳も行われる、また、例年行われていた神泉苑狂言は今年より11月7~9日に公演されるという

  • 「恵方社」(えほうしゃ)<br />その年の福徳を司る神「歳徳神」(としとくじん)を祀る、台座に社殿が建てられ、上の社殿部分が回転できるようになっており、毎年大晦日の晩に氏子によりその年の恵方(吉方)に社殿が向けられる、毎年向きを変える「歳徳神」は全国でも唯一だという、2024年は東北東が恵方になるため、参拝者がそちらを向いてお参りをすると開運を招くとされる

    「恵方社」(えほうしゃ)
    その年の福徳を司る神「歳徳神」(としとくじん)を祀る、台座に社殿が建てられ、上の社殿部分が回転できるようになっており、毎年大晦日の晩に氏子によりその年の恵方(吉方)に社殿が向けられる、毎年向きを変える「歳徳神」は全国でも唯一だという、2024年は東北東が恵方になるため、参拝者がそちらを向いてお参りをすると開運を招くとされる

  • 「洛中天満宮」<br />元は本殿、拝殿もある龍王社に匹敵するものだったが、焼失後規模を小さくして現在の場所に移転した、「学業成就」の御利益がある

    「洛中天満宮」
    元は本殿、拝殿もある龍王社に匹敵するものだったが、焼失後規模を小さくして現在の場所に移転した、「学業成就」の御利益がある

  • 「弁天堂」(べんてんどう)<br />弁財天を祀り 財宝を授けてくださる、弁天堂の正面と四隅には弁天様の神の使いとされるナマズの瓦がある

    「弁天堂」(べんてんどう)
    弁財天を祀り 財宝を授けてくださる、弁天堂の正面と四隅には弁天様の神の使いとされるナマズの瓦がある

  • 「鎮守稲荷社」(ちんじゅいなりしゃ)<br />「矢劔大明神」(やつるぎだいみょうじん)を祀り、手に持った矢と剣で人々を守護される神様と言われている、手前の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、一切如来守護の集まりで、少しの礼拝でも亡くなられた方が現世で犯した罪を消し極楽浄土へ往生できるとされる

    「鎮守稲荷社」(ちんじゅいなりしゃ)
    「矢劔大明神」(やつるぎだいみょうじん)を祀り、手に持った矢と剣で人々を守護される神様と言われている、手前の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、一切如来守護の集まりで、少しの礼拝でも亡くなられた方が現世で犯した罪を消し極楽浄土へ往生できるとされる

  • 今年のサクラはあっという間だったが、満開から「零れ桜」(こぼれざくら)、「桜吹雪」、「花筏」(はないかだ)へ移ろう

    今年のサクラはあっという間だったが、満開から「零れ桜」(こぼれざくら)、「桜吹雪」、「花筏」(はないかだ)へ移ろう

  • 「御池通」(おいけどおり)を横断<br />「御池通」は、「神泉苑」の広大な苑地の中にある「御池」に通じていることから,江戸時代中頃から呼ばれており、平安京造営以来の三条坊門小路という道幅の狭い小路だったが、第二次大戦時に鴨川から堀川通まで,空襲疎開で空いたところを昭和22年に幅50mの高層ビルなどが建ち並ぶ幹線道路になり、昭和30年代には祇園祭と時代祭の巡行ルートにもなり、京都のシンボルートになった

    「御池通」(おいけどおり)を横断
    「御池通」は、「神泉苑」の広大な苑地の中にある「御池」に通じていることから,江戸時代中頃から呼ばれており、平安京造営以来の三条坊門小路という道幅の狭い小路だったが、第二次大戦時に鴨川から堀川通まで,空襲疎開で空いたところを昭和22年に幅50mの高層ビルなどが建ち並ぶ幹線道路になり、昭和30年代には祇園祭と時代祭の巡行ルートにもなり、京都のシンボルートになった

  • 「二条陣屋」(にじょうじんや) <br />江戸時代から続く豪商の屋敷で、小川家住宅として重要文化財に指定されており、豊臣秀吉に仕えて伊予今治7万石の城主小川土佐守祐忠の長男千橘(せんきつ)が、萬屋(よろづや)平右衛門と名乗って米、両替を商い、二条城や京都所司代に近い立地から宿泊所として使用されることが多かったので「二条陣屋」となった、屋敷は風雅な部屋がいくつもあり、襲撃に備えた武者隠しの天井や吊り階段、落し階段などさながら忍者屋敷のようなからくりもあり、予約制で公開しているが未だ行かず

    「二条陣屋」(にじょうじんや)
    江戸時代から続く豪商の屋敷で、小川家住宅として重要文化財に指定されており、豊臣秀吉に仕えて伊予今治7万石の城主小川土佐守祐忠の長男千橘(せんきつ)が、萬屋(よろづや)平右衛門と名乗って米、両替を商い、二条城や京都所司代に近い立地から宿泊所として使用されることが多かったので「二条陣屋」となった、屋敷は風雅な部屋がいくつもあり、襲撃に備えた武者隠しの天井や吊り階段、落し階段などさながら忍者屋敷のようなからくりもあり、予約制で公開しているが未だ行かず

  • そば処「更科」(さらしな)<br />赤壁に黒格子に真っ白い暖簾がいかにも老舗っぽい蕎麦屋さんで、創業80年余りらしいが、外国人観光客も多いらしい

    そば処「更科」(さらしな)
    赤壁に黒格子に真っ白い暖簾がいかにも老舗っぽい蕎麦屋さんで、創業80年余りらしいが、外国人観光客も多いらしい

  • 「三条通」のアーケード街に到着!<br />

    「三条通」のアーケード街に到着!

  • アーケード街は「京都三条会商店街」で、堀川通から千本通まで全長800mに180店が並び、今でも結構活気がある

    アーケード街は「京都三条会商店街」で、堀川通から千本通まで全長800mに180店が並び、今でも結構活気がある

  • 「三条大宮公園」<br />買い物をしながら公園で一休み出来るから有難い

    「三条大宮公園」
    買い物をしながら公園で一休み出来るから有難い

  • 一般の古民家のようだが、京都にはこういう民家が普通にあって楽しい<br />「京町家」は京都の魅力の一つだが、残念ながら減少傾向にもあり、何とかして残すよう官民協力で頑張って欲しいが、「町家」と「町屋」は使い分けているそうで、「町家」は30坪程度の民家、「町屋」は商人や職人の住居や店舗、仕事場など職住兼用の敷地100~200坪程度の建物らしい

    一般の古民家のようだが、京都にはこういう民家が普通にあって楽しい
    「京町家」は京都の魅力の一つだが、残念ながら減少傾向にもあり、何とかして残すよう官民協力で頑張って欲しいが、「町家」と「町屋」は使い分けているそうで、「町家」は30坪程度の民家、「町屋」は商人や職人の住居や店舗、仕事場など職住兼用の敷地100~200坪程度の建物らしい

  • 「四条大宮」交差点の不思議!<br />狭い「大宮通」と広い「四条通」と更に斜めからくる「後院通」が交わる「五差路」になっている、碁盤の目の京都では非常に珍しい交差点で、これが出来た理由は、明治末に市電を敷設する際に、千本通をまっすぐ四条通まで通す計画が、当時勢力の強かった材木屋業界の立退き反対にあって、千本三条から四条大宮へ斜めの「後院通」という新しい道が作られたという、今では市電は廃止されたが、阪急大宮駅と嵐電四条大宮駅のターミナルになり、賑やかな活気のある交差点になっている(阪急京都線は昭和38年河原町延長までは大宮駅がターミナルだった)<br /><br />

    「四条大宮」交差点の不思議!
    狭い「大宮通」と広い「四条通」と更に斜めからくる「後院通」が交わる「五差路」になっている、碁盤の目の京都では非常に珍しい交差点で、これが出来た理由は、明治末に市電を敷設する際に、千本通をまっすぐ四条通まで通す計画が、当時勢力の強かった材木屋業界の立退き反対にあって、千本三条から四条大宮へ斜めの「後院通」という新しい道が作られたという、今では市電は廃止されたが、阪急大宮駅と嵐電四条大宮駅のターミナルになり、賑やかな活気のある交差点になっている(阪急京都線は昭和38年河原町延長までは大宮駅がターミナルだった)

  • 「京都市立洛友中学校・夜間部」(らくゆうちゅうがっこう)<br />全国で9都府県33校しかない夜間中学の一つで、昼間部と夜間部があり、夜間部は戦後十分な中学教育を受けられなかった年配者や外国人が対象で、昼間部は不登校などで義務教育を終えたことになっている若者の学び直しの場になっているが、注目は歴史のありそうな立派な建物で、調べると、これは2007年に廃校になった郁文(いくぶん)中学を引き継いでいるもので、明治2年(1869)に出来た「番組小学校」(ばんぐみ)の一つだという、「番組」とは当時の住民自治組織の「町組」(ちょうぐみ)で、京都市は明治の大事業の一つに小学校の建設に着手し、町組ごとに町組会所を兼ねた小学校を64校造りその経費の一切は町組が負担したという、これが先駆けになってこの後明治5年に政府は学制を発布している、そしてこれが今の学区制になっているが、多くが少子化により統廃合され、建物は公共施設や介護施設、老人ホーム、ホテルなどに利用されている(民間の場合は敷地貸付、建物譲渡が原則)

    「京都市立洛友中学校・夜間部」(らくゆうちゅうがっこう)
    全国で9都府県33校しかない夜間中学の一つで、昼間部と夜間部があり、夜間部は戦後十分な中学教育を受けられなかった年配者や外国人が対象で、昼間部は不登校などで義務教育を終えたことになっている若者の学び直しの場になっているが、注目は歴史のありそうな立派な建物で、調べると、これは2007年に廃校になった郁文(いくぶん)中学を引き継いでいるもので、明治2年(1869)に出来た「番組小学校」(ばんぐみ)の一つだという、「番組」とは当時の住民自治組織の「町組」(ちょうぐみ)で、京都市は明治の大事業の一つに小学校の建設に着手し、町組ごとに町組会所を兼ねた小学校を64校造りその経費の一切は町組が負担したという、これが先駆けになってこの後明治5年に政府は学制を発布している、そしてこれが今の学区制になっているが、多くが少子化により統廃合され、建物は公共施設や介護施設、老人ホーム、ホテルなどに利用されている(民間の場合は敷地貸付、建物譲渡が原則)

  • 「川勝総本家本店」(かわかつそうほんけ) <br />大正6年(1917)創業の老舗漬物店、祇園四条に「ぎおん川勝」(創業1930年)があるが、総本家はココ、大正6年(1917)に祇園で創業し、昭和初期に大宮五条のこの地に移転しているから、かつての店舗を引き継いだのが「ぎおん川勝」だと思われる

    「川勝総本家本店」(かわかつそうほんけ)
    大正6年(1917)創業の老舗漬物店、祇園四条に「ぎおん川勝」(創業1930年)があるが、総本家はココ、大正6年(1917)に祇園で創業し、昭和初期に大宮五条のこの地に移転しているから、かつての店舗を引き継いだのが「ぎおん川勝」だと思われる

  • 「五条大宮」<br />交通量の多い基幹道路で、交通事故もワースト5だという、大きな看板の「ラーメン横綱」は、昭和47年吉祥院の屋台から生まれ全国50店舗を展開する、京都では「天下一品」と並ぶ?ラーメン店で、「京都一周トレイル」の西山天王山コースを歩いた時に「桂坂ニュータウン」の高級住宅地で見つけた社長宅が、3万灯のイルミネーションで有名だった

    「五条大宮」
    交通量の多い基幹道路で、交通事故もワースト5だという、大きな看板の「ラーメン横綱」は、昭和47年吉祥院の屋台から生まれ全国50店舗を展開する、京都では「天下一品」と並ぶ?ラーメン店で、「京都一周トレイル」の西山天王山コースを歩いた時に「桂坂ニュータウン」の高級住宅地で見つけた社長宅が、3万灯のイルミネーションで有名だった

  • 「住吉神社」<br />平安初期に摂津国の住吉大社より住吉大明神を勧請し、住吉三神と神社を創建したとされる神巧皇后が祀られ、厄除、病除、旅行、夫婦円満などの信仰がある、近くの島原、醒ヶ井にも同名の神社があるので「中堂寺住吉神社」と呼ばれる

    「住吉神社」
    平安初期に摂津国の住吉大社より住吉大明神を勧請し、住吉三神と神社を創建したとされる神巧皇后が祀られ、厄除、病除、旅行、夫婦円満などの信仰がある、近くの島原、醒ヶ井にも同名の神社があるので「中堂寺住吉神社」と呼ばれる

  • 鳥居と拝殿と裏に本殿

    鳥居と拝殿と裏に本殿

  • 境内社に、貫之神社、道祖神社、天満宮神社、神明神社、稲荷神社が並び、それぞれ紀貫之大神、猿田彦大神、菅原道真、天照皇大神、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ:お稲荷さん)が祀られ、隣に金毘羅宮もある

    境内社に、貫之神社、道祖神社、天満宮神社、神明神社、稲荷神社が並び、それぞれ紀貫之大神、猿田彦大神、菅原道真、天照皇大神、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ:お稲荷さん)が祀られ、隣に金毘羅宮もある

  • 「六条本圀寺西門跡題目碑」(ほんこくじにしもんあとだいもくひ)<br />現在は山科の琵琶湖疎水沿いにある「本圀寺」は、室町時代に鎌倉からこの地に移転し、秀吉の命令で西本願寺に一部領地を譲ったものの、1969年までは東西大宮通から堀川通まで、南北は松原通から花屋町までの広大な敷地を有する大寺院であったが、跡地は西本願寺の聞法会館や京都東急ホテル、淳風小学校になっており、この石柱は大宮通から旧仁王門に通じる参道入口の西門にあたる

    「六条本圀寺西門跡題目碑」(ほんこくじにしもんあとだいもくひ)
    現在は山科の琵琶湖疎水沿いにある「本圀寺」は、室町時代に鎌倉からこの地に移転し、秀吉の命令で西本願寺に一部領地を譲ったものの、1969年までは東西大宮通から堀川通まで、南北は松原通から花屋町までの広大な敷地を有する大寺院であったが、跡地は西本願寺の聞法会館や京都東急ホテル、淳風小学校になっており、この石柱は大宮通から旧仁王門に通じる参道入口の西門にあたる

  • 「京都市立淳風小学校」跡<br />「淳風(じゅんぷう)小学校」は、明治2年に出来た64校の「番組小学校」(ばんぐみ)の一つで、昭和6年に木造校舎から近代的な鉄筋コンクリート校舎への更新が行われ、ロマネスク様式を基調としたレトロな建物になっているが、平成29年(2017)に閉校し、令和3年(2021)から民間事業者が活用している

    「京都市立淳風小学校」跡
    「淳風(じゅんぷう)小学校」は、明治2年に出来た64校の「番組小学校」(ばんぐみ)の一つで、昭和6年に木造校舎から近代的な鉄筋コンクリート校舎への更新が行われ、ロマネスク様式を基調としたレトロな建物になっているが、平成29年(2017)に閉校し、令和3年(2021)から民間事業者が活用している

  • 「淳風bizQ」((じゅんぷうびずく)<br />「淳風小学校」跡と隣接の「下京図書館」跡を利用して、京都市創業・イノベーション拠点として、かつての教室や音楽室を新たなビジネスに挑戦するスタートアップ活動を支援するオフィス兼交流スペースとして利用し、現在9社が入居しているという

    「淳風bizQ」((じゅんぷうびずく)
    「淳風小学校」跡と隣接の「下京図書館」跡を利用して、京都市創業・イノベーション拠点として、かつての教室や音楽室を新たなビジネスに挑戦するスタートアップ活動を支援するオフィス兼交流スペースとして利用し、現在9社が入居しているという

  • 「島原商店街」入り口<br />この先は「島原口」になり、この商店街を真っ直ぐ行くと旧花街の「島原大門」に続く<br />

    「島原商店街」入り口
    この先は「島原口」になり、この商店街を真っ直ぐ行くと旧花街の「島原大門」に続く

  • 大宮通の左手は「西本願寺」境内地の塀が続く

    大宮通の左手は「西本願寺」境内地の塀が続く

  • 「龍谷大学図書館」<br />昭和11年(1936)建築の建物

    「龍谷大学図書館」
    昭和11年(1936)建築の建物

  • 「大宮七条」<br />この辺りは、秀吉の都市改造から、丹波・山陰方面への出入口として栄え、丹波口(たんばぐち)と言われた、交差点角に「龍谷大学・清風館」(食堂やコンビニ、本屋など)がある

    「大宮七条」
    この辺りは、秀吉の都市改造から、丹波・山陰方面への出入口として栄え、丹波口(たんばぐち)と言われた、交差点角に「龍谷大学・清風館」(食堂やコンビニ、本屋など)がある

  • 「大宮陸橋」(大宮跨線橋)<br />大宮通にあるJR東海道本線、山陰本線、嵯峨野線を跨ぐ橋梁で、昭和10年に市電大宮線を七条から九条に延線するために架けられ、橋の上には市電の停留所まで作られたものの利用する人がなくわずか1ヵ月で廃止されたといういわくつきの話もあるが、昭和47年(1972)に廃止されてから50年近くたった今も架線設備が残っている、車専用で人も自転車も陸橋の下をくぐるので、梅小路公園の横を通り、八条通から東寺へと進む<br />

    「大宮陸橋」(大宮跨線橋)
    大宮通にあるJR東海道本線、山陰本線、嵯峨野線を跨ぐ橋梁で、昭和10年に市電大宮線を七条から九条に延線するために架けられ、橋の上には市電の停留所まで作られたものの利用する人がなくわずか1ヵ月で廃止されたといういわくつきの話もあるが、昭和47年(1972)に廃止されてから50年近くたった今も架線設備が残っている、車専用で人も自転車も陸橋の下をくぐるので、梅小路公園の横を通り、八条通から東寺へと進む

  • 「梅小路公園」<br />平成7年(1995)に梅小路駅貨物跡地に京都市営総合公園として開園した

    「梅小路公園」
    平成7年(1995)に梅小路駅貨物跡地に京都市営総合公園として開園した

  • 平成24年(2012)には「水族館」、平成27年には鉄道博物館も開業した

    平成24年(2012)には「水族館」、平成27年には鉄道博物館も開業した

  • 「東寺・慶賀門」(けいがもん)<br />鎌倉時代の国重要文化財、北東側の入口で、今でもまだ「夜桜ライトアップ」の行列が出来ていた、東寺はこの門以外に、九条通りに面する東寺の正門「南大門」、「北大門」「東大門」、壬生通側の「蓮花門」などがある<br />

    「東寺・慶賀門」(けいがもん)
    鎌倉時代の国重要文化財、北東側の入口で、今でもまだ「夜桜ライトアップ」の行列が出来ていた、東寺はこの門以外に、九条通りに面する東寺の正門「南大門」、「北大門」「東大門」、壬生通側の「蓮花門」などがある

  • 「九条大宮」で九条通・国道1号線に突き当たり、右手は大阪、左手は奈良方面、真っ直ぐは大宮通が続く

    「九条大宮」で九条通・国道1号線に突き当たり、右手は大阪、左手は奈良方面、真っ直ぐは大宮通が続く

  • 「大宮通」は、この先九条通から十条通までは狭い一方通行の道になり、伏見の「竹田・油小路通」まで続くが、今回はここで終了し、京都駅へ戻る

    「大宮通」は、この先九条通から十条通までは狭い一方通行の道になり、伏見の「竹田・油小路通」まで続くが、今回はここで終了し、京都駅へ戻る

  • 京都駅手前のアパホテル隣にあるコーヒーショップ「KURASU」に入る<br />

    京都駅手前のアパホテル隣にあるコーヒーショップ「KURASU」に入る

  • 大宮通・西陣にあった「KURASU・西陣」は、焙煎所だけだったので、帰りの休憩に立ち寄ると、狭い店内に外国人と日本人の観光客で満員状態!「日本のコーヒー文化を京都から世界に発信する」というコンセプトが広まっているよう

    大宮通・西陣にあった「KURASU・西陣」は、焙煎所だけだったので、帰りの休憩に立ち寄ると、狭い店内に外国人と日本人の観光客で満員状態!「日本のコーヒー文化を京都から世界に発信する」というコンセプトが広まっているよう

  • こだわりのハンドドリップで1杯ずつ煎れてくれる

    こだわりのハンドドリップで1杯ずつ煎れてくれる

  • ラテと自家製ケーキを注文し、甘いもので疲れを癒す!

    ラテと自家製ケーキを注文し、甘いもので疲れを癒す!

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