2024/09/12 - 2024/09/12
1250位(同エリア4353件中)
Bachさん
9月は残暑でまだまだ暑い日が続くので、今回も短い通りを歩くことにし、前回の「麩屋町小路」の隣り「高倉小路」を歩きます。
丸太町通から十条通まで約7kmの内、渉成園のある七条通まで、約5kmを歩きますが、今回も内容の濃い通りで、通り名になった「高倉殿」の痕跡はありませんが、代わりに京都御苑内の「拾翠亭」に「高倉橋」があり、また平安京の三条坊門小路にあたる御池通り付近には、以外にも室町幕府発祥の「足利尊氏邸跡」や村上源氏が興して尊氏が再興した「御所八幡宮」があり、ここから三条通の間には平安末期の後白河天皇の皇子・以仁王の広大な邸宅「高倉宮」があって、その跡地には近代建築ストリートの一角になる「京都文化博物館」や「中央郵便局」などがあり、そこでは京都の「町家露地」も再現されており、さらに親鸞聖人が草庵を開いたことにはじまる「仏光寺」を経由して、親鸞から続く「本願寺」が秀吉と家康のお陰で東西に分かれ、その結果生まれた「東本願寺・渉成園」に入ると、今流行りの「光源氏」のモデル「源融」の痕跡や、明治の琵琶湖疎水の水が繋がっているなど、再訪問にも拘わらず新発見がどんどん出て来て、まだまだ勉強することが多く残っていることを痛感しましたが、今回も平安時代から戦国時代、江戸時代、明治維新とつながる京都の歴史の跡が満載の京町散歩でした。
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「高倉通」は、平安京の「高倉小路」にあたり、丸太町通から十条通まで約7.0kmで、途中「渉成園」により中断し、竹田街道に接続している。平安京では絶頂期にあった藤原氏の別邸「高倉殿」があったことからの命名で、当時は貴族の邸宅が並び、高陽院(かやいん)、花山院(かざんいん)、大炊内裏(おおいだいり)、六条内裏などが並ぶ「内裏通」で、平安末期には三条高倉に似仁王の「高倉宮」があり、南北朝時代には二条辺りに足利尊氏の邸宅があり室町幕府発祥の地となり、高倉錦小路には牛や馬を売買する伯楽座(ばくろうざ)があり、酒屋、土倉(金融業)、油屋など「倉」に縁の深い業者も軒を連ねて賑わったが、応仁の乱後荒廃し、戦国時代にはこの通りから鴨川まで田園地帯になったが、秀吉の都市改造で再開発され、江戸時代には七条通まで、竹屋・扇骨・籠細工・つづらなど竹製品を扱う店や錦小路通付近には青物問屋もあり、現在は京都の中心部を走る生活道路になっている
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11:00(地下鉄丸太町駅)~0.3km堺町御門~藤野家住宅~(竹屋町通)~(夷川通)~宮崎家具~わくわく館~0.8km浄光寺~(押小路通)初音湯~0.1km本龍寺~足利尊氏邸・等持寺跡~(御池通)~0.3km御所八幡宮・初音稲荷社~(姉小路通)~旧初音中~0.3km京都文化博物館~(三条通)~12:00ランチ的矢かき~千切屋~(六角通)~高倉小(日彰小学校記念碑)~亀廣永~池澤法衣佛具店~(蛸薬師通)~寺小屋本舗~(錦小路通)~0.6km大丸~(四条通)~0.1km島津総本店~(綾小路通)~(仏光寺通)~0.4km仏光寺~(高辻通)~0.3km長香寺~(万寿寺通)~(五条通)~0.5km宗仙寺、六条院公園~高倉会館~(六条通)~0.5km渉成園~0.5km14:30カフェ~0.5km(5km)(京阪七条駅)
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11:00地下鉄丸太町駅スタート
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「車屋町通」(くるまやちょうどおり)
隣の東洞院通が、一方通行の狭い道だったため、隣の通りに車鍛冶(車輪製造)や輸送業など車関連の業者が集中したことからの命名 -
「東洞院通」(ひがしのとういんどおり)
平安時代に多くの上皇・法皇の居所である洞院があったことからの命名 -
「間ノ町口」(あいのまちぐち)
京都御苑の9ヶ所の御門と6ヶ所の切り通し(門のない開きっ放しの入り口)の内の一つで、ここから「間ノ町通」が南下する、 「間ノ町通」はその名のとおり、高倉通と東洞院通の間に挟まれた道 -
「間ノ町口」のサルスベリが満開
右手にある「拾翠亭」と共に、サルスベリの名所 -
(2009.8撮影)「拾翠亭」(しゅうすいてい)
「光る君へ」の藤原道長から続く五摂家の一つである「九条家」(近衛家、一条家、二条家、鷹司家)の屋敷内に設けられた庭園の遺構で、羽根の色が「翠」(みどり)のカワセミが数多く飛来したことから名づけられたこの二階建ての建物は、現存する貴族の茶室としては貴重なものだという -
(2009.8撮影)「高倉橋」(たかくらばし)
「拾翠亭」に入り、二階からサルスベリ越しに「九条池」に架かる橋は「高倉橋」と呼ばれ、ここから「高倉通」が南下する *「拾翠亭」は、春から秋にかけての毎週金曜日と土曜日に一般公開されている -
「高倉通」(たかくらどおり)
平安時代には天皇の御殿や貴族の邸宅が並ぶ超高級住宅街で、藤原道長の嫡男・藤原頼道の「高倉殿」や二条高倉第、高倉宮などがあったことからの命名 -
「高倉通」は一方通行の狭い通りで、五条通以北は北向き、以南は南向き
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「藤野家住宅」(ふじのけじゅうたく)
大正15年(1926)建築で、大塀造町家の秀作として国登録有形文化財指定、外観しか分からないが、HPによると、茶室を兼ねた平屋建四畳半の玄関と中庭を挟み二階建居室棟が繋がる数寄屋風建築で、三代目が「一般財団法人藤野家住宅保存会」を設立して、お茶会や地域の文化活動の会場として活用推進している模様 -
(竹屋町通)
竹細工を扱う竹屋が多かったことからの命名 -
「日月荘」(ワーク&カフェ)
町家の庭園を見ながらお茶を頂ける隠れ家カフェ -
(夷川通)
明治8年(1875)創業の「万市」という古美術店があったと聞いていたが、残念ながら古民家は解体されて跡形もなく駐車場に、2018年紫野へ移転したらしい -
「家具の川上」
夷川通の寺町通から烏丸通までは「家具の街」と言われ、幕末の1864年御所周辺が焼野原になった「禁門の変」の後、この辺りに多くの木工職人が集まり京都の復興を支えたそうで、その後明治から大正にかけ家具屋が集まり、今でも数は減ったが多くの家具屋が残っている -
カフェ「KURASU」
京都から世界へ向けてコーヒー文化を発信する、というコンセプトで展開している京都で起業したコーヒーショップ、京都駅近くと西陣、シンガポール、バンコクに店がある -
「わくわく館」Wakwak-kan
外国人向けの茶道、華道、日本舞踊など、日本文化の体験と、町家の活用の両方狙いで1997年に設立された「有限会社ワックジャパン」が運営する施設で、この建物は1910年建築の酒屋さんの住居として、中流上クラスの商人が住んでいた町家だという、東山七条の国立博物館近くにある「和心館」と2ヵ所で運営しており、ここでも民間の力で伝統が守られているのを見て心強い! -
(二条通)鉄板焼「嘉茂弥」(よしや)
高級そうな店でランチ8,000円のメニューはスルー -
「浄光寺」(じょうこうじ)
1582年「本能寺の変」で、明智家の残人が追手から逃れるために光秀の位牌を預けたというお寺で、天皇家の堀川六条から御所間の休憩所だったともいわれる -
「高倉邸 彩紙 SAISHI」
上鳥羽にある「和紙来歩(ライフ)」が、創業の地である高倉の京町家をショウルームにしたもので、日本各地の和紙を取揃える専門商社として、伝統的な襖紙や壁紙、モダンなアートパネルなど、現代のライフスタイルに合わせた使い方を提案している -
(押小路通)「初音湯」(はつねゆ)
御所の地下を流れてきた地下水を使っているので、泉質が良いというのがアピールポイント -
「本龍寺」(ほんりゅうじ)
3階建ての民家のようなお寺 -
「足利尊氏邸・等持寺跡」(とうじじ)
足利尊氏(1305-1358)が政務を執った「室町幕府」発祥の地となる「三条坊門第」があり、のちに「等持寺」という寺院に改められ、足利氏の菩提寺となった、尊氏は「等持寺」の2年後に夢窓疎石を開山として衣笠に別院「北等持寺」を建立し、尊氏の死後ここに葬られると「等持院」に改められ、応仁の乱で「等持寺」が焼失して「等持院」に合併された、また邸宅敷地内には「三条坊門第」の鎮守として八幡宮が造営され「御所八幡宮」として残っている -
「三条坊門第」(さんじょうぼうもんてい)は、「三条殿」「三条高倉殿」とも呼ばれ、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれたエリアで、尊氏の息子2代・義詮(よしあきら)の後、3代・義光は「室町殿」(花の御所)を造営し、出家後は北山殿(金閣寺)を新たに造営して移り住んだが、4代・義持(よしもち)は再び「三条殿」へ、さらに6代・義教は室町殿を再興して移り住み、室町殿を「上御所」、三条坊門殿を「下御所」と呼んだが、8代・義政は室町殿から東山殿(銀閣寺)へと移り住み、「三条坊門第」は用いられることなく荒廃していった
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(御池通り)
この辺まで「三条坊門第」があった、平安京の「三条坊門小路」という小路だったが,第二次世界大戦末期に鴨川から堀川通まで空襲疎開が実施され、そして戦後になって幅員50mの都市計画道路として市内幹線道路になり、昭和30年代には祇園祭の山鉾巡行ルートが松原通から御池通に変更され、祇園祭・時代祭の巡行ルートとなった -
「御所八幡宮」(ごしょはちまんぐう)
足利尊氏が勧請したとされ、尊氏の戒名から等持院八幡宮と呼ばれる他、高倉八幡宮、三条坊門八幡宮、御池の八幡さんなどと呼ばれる -
正面は境内社で本殿は左手西向きに建つ、「御所八幡宮」は、もともとは鎌倉時代に後宇多天皇(1267-1324)が、公卿・中院通成(なかのいんみちなり)の三條坊門万里小路邸「高倉殿」を一時内裏にした際、御所内(中院通成邸宅)に村上源氏中院の氏神、石清水八幡宮の若宮を勧請し「御所八幡宮」を建立したのが始まりで、その後室町幕府の初代将軍・足利尊氏が「三条坊門殿」の跡地に八幡神を勧請して「御所八幡宮」を再興し、太平洋戦争中の御池通の強制疎開によって御池通向かい側の御池堺町御所八幡町からこの地に移転した
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足利尊氏公の頃は壮麗な社殿があったが、疎開で境内が小さくなり、灯籠と狛犬だけが残っている、また「御所八幡宮」は「三宅八幡」とともに「むし八幡」とも呼ばれ、安産・幼児の守り神として子供の夜泣き、疳の虫退治に御利益があるとされる
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鳥居の奥は境内社の高良社、初音稲荷神社、三社(猿田彦社・大宮比賣社・金毘羅社)、天満宮社
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右は「初音稲荷神社」:宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、左は「三社」の「猿田彦社」:猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)・「金毘羅社」:琴比良神(ことひらのかみ)・「大宮比賣社」:大宮比売命(おおみやひめのみこと)
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菅原道真天満宮の前には御神牛(ごしんぎゅう)
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「細野福蔵商店」(ほそのふくぞう)
京町家の法衣・仏具店 -
「亀甲屋」(きっこうや)
京町家の京料理店で、名物は京番茶ダシのもち豚しゃぶしゃぶ鍋2,000円 -
「カフェ松之助」
パンケーキとアップルパイが人気の行列の出来る店 -
「福井畳店」
住職一体の町家の店先で、親子二代で作業する昔ながらの畳屋さんで、職人技を畳の専門学校や京都の小学生にも教えているという -
「梅しん」
からあげグランプリで10年連続金賞という唐揚げと国産牛すじコロッケが美味しそうな和食店 -
(姉小路通)あねやこうじどおり
この一角の姉小路と三条大路、高倉小路と東洞院小路に囲まれたエリアは、後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)の邸宅で、「高倉宮」と呼ばれた御所があった所で、その跡地に京都文化博物館や中央郵便局、教育相談センターなどがあり、東洞院通側に「高倉宮跡」石碑が建っている *「高倉天皇」は平清盛の策略で誕生した第4皇子で、第3皇子・以仁王は不遇と言われた -
「高倉宮跡」(たかくらのみやあと)石碑
博物館の裏側に廻ると、「高倉宮」御所があった地に石碑が建っている、この辺りは「初音の森」と呼ばれた境内で、明治2年開校した番組小学校の「初音小学校」が明治26年に移転してきて、戦後1947年に「初音中学校」となり、1993年(平成5年)統合閉校すると、跡地に「こども相談センター・パトナ」が建てられた *その間、明治39年(1906)「日本銀行京都支店」が竣工し、1965年に移転すると、1968年「平安博物館」が開館している -
「翔びたとう初音」記念碑
この地にあった「初音中学校」が平成5年に閉校した際の記念事業として建てた記念碑 -
「初音の庭」
「初音中学校」の跡地に、2003年中学校の御影石や古瓦を使って造られた -
「まちなかの庭ー心の庭」
地のいのち、緑のいのち、水のいのちが共に響きあう庭として造られた、水琴窟もある -
「万華鏡ミュージアム」
「初音中学校」の跡地に2004年オープン、世界各国の万華鏡400点を所蔵し、常時50点を展示しており、手作り体験などもある、入場料500円 -
「洛風中学校」
「初音中学校」の跡地に2004年、不登校特殊学校として開校した、定員40名 -
「京都文化博物館」
平安建都1200年記念事業として、1988年(昭和63年)京都の歴史・文化を総合的に紹介する施設を建設し、隣接する「旧日本銀行京都支店」を活用して1968年に作られた「平安博物館」を別館として開館した、地上7階地下1階の内、1階はミュージアムショップ、ろうじ店舗、2~4階は平安から昭和までの京都の歴史の流れを紹介する展示室、5~6階は貸展示室、別館は演奏会などイベントホール -
別館「旧日本銀行京都支店」
三条通・近代建築ストリートの重要文化財の建物の一つ -
「平安京高倉小路西側側溝跡」
気を付けないと見過ごしてしまうが、京都文化博物館の入り口前歩道に「高倉小路」の西側側溝の遺蹟がある -
「平安京高倉小路西側側溝跡」表示板
よく見ると表示板がある -
「平安貴族の屋敷」
建物内に入ると、この辺りの発掘調査で平安時代の貴族邸宅のものとみられる築地塀の一部と思われる遺構が見つかり、平安貴族の屋敷の構えを具体的にうかがわせる貴重な資料として再現モデルが展示されている -
(駒札)
当館の所在地は、平安時代末、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)の御所高倉宮(たかくらのみや)があった所で、その後この地には尼寺の曇華院(どんげいん)が営まれ、明治時代には郵便局や日本銀行京都支店ができました。平安時代以来の歴史の厚みを示すのが土の堆積(たいせき)です。平安時代の人々が暮らした地面は、およそこの庭の深さあたりでした。 -
「平安京の遺跡」
発掘調査では平安時代の地上面と、貴族邸宅の周囲にあった築地塀と溝が見つかり、平安時代の人々が暮らした地面は、およそこの深さあたりだったと推定される -
「平安末期の中級貴族邸宅」
以仁王(もちひとおう1151-1180)の御所「高倉宮」があった時代は、藤原家の全盛期の後、白河上皇が院政を始め、平清盛が太政大臣になり源氏に移る頃だが、まだ貴族の邸宅が数多く残り、これが良好な状態で見つかったのは珍しいという -
「京町家の再現」
館内1階には、江戸時代末期の京町家の表構えを再現した飲食店やお土産品店、酒店、和紙店など多彩な店舗が軒を連ねるショップエリアがあり、町家ごとに7種類の「格子」を並べているのは面白い! -
「ろうじ(露地)店舗」
京都には西陣や五条坂のように織物や陶芸など産業と生活が調和し発達してきた町があります。そしてそこに生きる人々は町衆と呼ばれ、京ことばや今に伝わる数々の習慣などの豊かな生活文化を、暮らしの中で育んできました。一方、京都は鷹ヶ峯につくられた光悦村のように色々な作家の交流の中から新たな文化が創造されたという土地柄でもあります。こうした京都の優れた特性を生かしながら、来館された方々に、気軽に京の姿にふれていただこうとするものが「露地店舗」です。生活と産業が調和した場として、二筋の「ろうじ」を設け、商家や住居とともに発達した「格子」を建てて、幕末から明治初期の京の町構えを再現。ここでは、京の伝統産品や料理などの京都の老舗が軒を並べ、実際、京ことばを使い商いが行われています。 -
「格子」(こうし)
住宅や商家で、出入口や開口部に「格子」を使う手法は古い歴史をもち、また現在もその実用性や意匠の良さから盛んに用いられています。「格子」は、窓などの開口部に細い木や竹を組んだり打ち付けたりしたものをいい、古くは外界と屋内を隔てるところから「隔子」とも書きました。その特性は、外敵の侵入にそなえることはもちろん、視覚的に内から外がよく見え、反面、外からは内部が見えにくい点にあります。さらに採光や通風の調節にも大きな役割を果たしています。また、格子は構造や用途、技法により重厚な荒格子から数寄屋風の繊細なものまで意匠的に工夫され、各地の風土の中で積み重ねられ磨きぬかれてきました。当博物館では、「京都文化」を紹介する一つとして、幕末の頃の商家や住居の表構えを復元するとともに、「京格子」と呼ばれる格子の数々を忠実に再現しました。 -
「堺戸格子」(さかいどこうし)
江戸時代初期に泉州堺から京に伝来し、鉄砲屋格子とも呼ばれる、夜間は板戸をして二重戸になり防犯に役立つ -
「糸屋格子」(いとやこうし)
織物に使う色糸を扱う糸屋の格子構えで、色糸の厳しい選別作業のために採光のよいよう欄間をはぶき、畳上から梁まで荒めの「親通し切子格子」といわれる格子の中の、親1本に子3本(切子3本)になっている -
「麩屋格子」(ふやこうし)
麩屋、湯葉屋、豆腐屋の格子構えで、内側に水場、七輪場、揚場などの作業台が仕付けられ、鎧張(よろいばり)と呼ばれる下見板張になって、濡れても大丈夫なように障子には油紙が使われている -
「仕舞屋格子」(しもたやこうし)
商いの店を持たない住居構えで、はめ込み式の最も一般的なもの、良くされているのは、出格子で、上と下が分かれて、下は細かく上は欄間 のような感じで縦桟が粗い格子が入っている -
「米屋格子」(こめやこうし)
米屋の格子構えで、質素で頑丈な木地のままのものが多く、米俵を積み上げるので土台の貫を二重にしている -
「炭屋格子」(すみやこうし)
炭や薪を扱う店の格子構えで、格子の間隔を小さくして炭粉の飛散を防ぐ工夫がある -
「京都文化博物館別館」旧日本銀行京都支店
「高倉宮」跡地の一角に、明治39年(1906)「日本銀行京都支店」建立、1965年二条河原町に移転、1968年跡地に「平安博物館」開館、1986年京都府に寄贈、1988年(昭和63年)「京都文化博物館」を建立し「平安博物館」を別館として開館 -
「旧日本銀行京都支店」正面入り口
「日本近代建築の父」といわれた「辰野金吾」と弟子の長野宇平治(日本銀行技師長)による設計で、赤レンガに白い縞模様の洋風建築、銀行時代の面影が残る館内は、展覧会やコンサートなどのイベント会場として使用されている *「辰野金吾」(たつのきんご1854-1919)は、日本人で最初に洋風建築技術を学び、日本近代建築を主導、赤煉瓦に白い花崗岩の石材を帯状に配し、細部は古典主義、骨格はゴシック要素の様式は辰野式と呼ばれ、工科大学本館 、日本銀行本店、両国国技館、東京駅など残した -
館内は、抜き抜けで天井・柱・手摺などは茶色、壁面は白色の荘厳な配色に、カウンターもそのままあり、営業室はホール、文書課室は店舗、所長室・応接室はギャラリーとして使われ、中庭背後の金庫棟は喫茶店(前田珈琲)になっている
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12:00ランチ「的矢かき志摩半島」
京都市内で生ガキが食べれる店をマークしていたので、ランチで入店 -
的矢かきランチ+牡蠣ご飯 2,950円を注文
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生ガキ、牡蠣フライ、牡蠣の佃煮、小鉢、あおさの赤だし、牡蠣ご飯、タルタルソースも美味!
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次回は食べたい!カンカン焼き
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「和光舎」(わこうしゃ)
1994年創業の法衣のクリーニング専門店、汚れ・傷みのある法衣・袈裟などのクリーニングやシミ抜き、傷んだ部分の修繕、刺繍の修復 -
「みつはし陶舗」(みつはしとうほ)
1921年創業の陶器食器専門店 -
「千切屋」(ちきりや)
1725年創業の着物屋さん、 -
「IKARIYA BEIKA KYOTO」(イカリヤベイカ京都)
米粉を使ったバームクーヘンが美味しい -
「太田和」
1958年創業の織物卸売業者(紬を中心とした織物の全国呉服店への卸売) -
(六角通)
「キッチンゴン」京都名物ピネライスが美味しい!(チャーハンにカツのせカレーがけ) -
「日彰小学校記念碑」
明治2年(1869)番組小学校としてこの地に開校し、平成5年(1993)閉校、跡地に5校(立誠・隼祥・日彰・明倫・本能・初音・城巽)が統合して高倉小学校が開校した -
「高倉小学校開校記念碑」
我々の先人が、自らの力で番組小学校として創設して以来、120余年にわたり幾多の優れた人材を輩出するとともに地域のシンボルとして愛されてきたが、都心部における児童数減少の中、子供達により良い教育環境を与えたいとの思いの上に、21世紀の人づくりをめざした五校の統合を決意、ここに高倉小学校として開校することとなった -
「亀廣永」(かめひろなが)
昭和初期に「亀末広」から独立した老舗和菓子店で、祇園祭の菊水鉾(きくすいぼこ)の茶会のために考案された「したたり」で有名な和菓子店、菊水鉾が、菊の露のしたたりを飲んで700歳まで生きたという中国の故事「菊慈童」を題材にしていることからの命名 -
京町家の居酒屋露地
「炭炉まん」「神聖酒場」「立ち呑みツキノコグマ」「空想」 -
「カフェRUFF」「美容室くによ」「食堂円屋」「イタリア料理ダニエルソーレ」
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「チョコレートボールドイタリック」
今年春オープンのチョコレートカフェスタンド -
(錦小路通)
「寺小屋本舗」ぬれおかき煎餅屋さん -
「大丸」(ダイマル)
1717年(享保2年)、下村彦右衛門正啓が29歳の時に呉服店「大文字屋」を京都伏見に開いたのが創業で、その後1726年心斎橋へ出店、1728年名古屋へ出店、1743年江戸へ出店、京都は1736年に東洞院船屋町に本店を開業し、1912年に現在地大丸京都店が開店 *今年の辰年に初詣した天井龍で有名な、東福寺近くの「瀧尾神社」(たきおじんじゃ)は、「大丸の宮」ともいわれ、創業者の下村彦右衛門が、19歳から伏見で古着の行商を始め、毎日まだ暗いうちから京都に向かい、暗くなってたくさんの仕入れ品を背負って伏見へ戻る道中で、この神社に毎日欠かさず参拝し商売繁盛を祈っていたら、大繁盛し「大文字屋」という呉服屋を開き、やがて事業に大成功したという逸話があった -
(四条通)
「アップルストア京都店」 -
(四条通)
「ルイビトン大丸京都店」 -
人形の「島津総本店」
天保4年(1833)創業で、禁裏御用達、宮内庁御用達を司り、ひな人形、五月人形、正月飾りなど販売 *人形の「島津」が何故マルに十字なのか、分からないが、同じ京都の「島津製作所」は、創業者が薩摩の島津義弘公から「島津の姓と家紋」を貰ったといわれているから、多分同じような理由からと推測 -
(仏光寺通)
「高倉通」は正面「仏光寺」で筋違いになり、左折して仏光寺沿いに進み、更に「高辻通」を右折して又左折して「松原通」へ直進する -
「仏光寺宗務所」入り口
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「大光寺」(だいぎょうじ:仏光寺の山外塔頭)
1821年、豊臣秀吉が月を賞した仏光寺高倉の「月見御殿」の跡地に創建され、現在の本堂は1929年再建された、本尊の阿弥陀如来立像は快慶作で重要文化財(駒札より) -
「玄関門」
「仏光寺」は、1212年親鸞聖人が越後への流罪を赦免されて京都に戻り、山科に草庵を開いたことにはじまる -
「勅使門」(ちょくしもん)
「仏光寺」は、当初「興正寺」という寺号だったが、足利尊氏や後醍醐天皇の庇護を得、後醍醐天皇が夢枕に一筋の光が差し込み、この寺で盗まれた阿弥陀如来の仏像が出てきたことから1320年「阿弥陀佛光寺」の寺号を賜ったと伝えられる -
「御影堂門」(みえいどうもん)隣に本堂門の「阿弥陀堂門」がある
「仏光寺」は、1320年後醍醐天皇から寺号を賜ってからは益々隆盛し、同じ浄土真宗の本願寺を遥かにしのぐ勢力があったが、応仁の乱の戦火に遭った後、1481年第14世が本願寺の蓮如に帰依してしまうという大事件が起きて急激に衰え、代わって本願寺が台頭することになり、1586年には豊臣秀吉により方広寺大仏殿造立のため現在地に移された -
「阿弥陀堂」(本堂)
「仏光寺」は、真宗仏光寺派の本山で、明治37年再建の本堂「阿弥陀堂」には、本尊・阿弥陀如来立像(快慶作)、両脇壇に聖徳太子像と法然上人坐像を安置する -
「大師堂」(御影堂)
明治17年再建で、中央に親鸞聖人坐像、両脇壇に中興了源上人坐像と前住上人の絵像を安置する、右手が宗務所 -
「お茶所」
元は檀家の集会所だったが、現在食堂として営業し、右手の「和合所」も元は僧たちの寝泊まり場所だったが、現在はデザインショップになっており、寺院とコラボレーションした「D&DEPARTMENT(株)」が運営している -
「高辻通」から「仏光寺」方面
「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」は、仏光寺の基本理念、HPによると、「私たちの生活は、AIをはじめとするテクノロジーの発展により、想像もつかないほど便利になりました。ところが、思い通りに動くはずのモノに囲まれながらも、口から出るのは不平に不満、愚痴ばかり。生きていることを見失い、生かされていることを忘れ、傷つけ合っていることさえも気づきません。世の中が移り変わり、どのような境遇になろうとも、仏さまの教えに生きられた親鸞さま。そのおすがたに流れるお心を、自らの願いとして生き抜かれたのがご先祖であり、今の私に届いている南無阿弥陀仏の歴史です。それは、思いを超えたはかり知れないいのちとの出遇いであり、苦悩の中を生きる力となるのです。時空を超えて人から人へと伝わるともしびを、「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」と掲げ、このたびの法要をご縁に歩んでまいりましょう。」 -
(松原通)
平安京の「五条大路」で、左へ直進すると、昔の「五条大橋」(松原橋)を経て、清水坂に至る -
「長香寺」(ちょうこうじ)
徳川家康の側室おこちゃ(お万の方)の本願により創建、建立に大工頭中井家の初代正清が参画したことから「京都大工頭・中井家菩提寺」となっている *中井正清は、知恩院、二条城、江戸城、名古屋城、日光東照宮など徳川関連の重要建築を担当している -
「五条長兵衛」
1652年呉服商として創業、1994年16代目が京漬物、京佃煮の製造販売業を開始 -
(五条通)
国道1号(大阪から東京日本橋)、国道8号(滋賀から北陸、新潟)、国道9号(丹波から山陰、下関)、国道162号(福井小浜から若狭、敦賀)を兼ねる基幹道路 -
「西念寺」(さいねんじ)
源融(みなもとのとおる)の邸宅・河原院跡地に創建され、その後豊臣秀吉の西本願寺領地移譲のため現在地に移転し、広大な境内であったが戦時中の五条通拡幅のため大半が接収され現在の広さとなった、寺内に「千喜万悦天満宮」(せんきまんえつてんまんぐう)が鎮座し、菅原道真公が宇多天皇から右大臣に任命された喜びを描かせ、「千の喜び万の悦び」という名前の由来となっている「菅家繁盛の絵図」が祀られている -
「宗仙寺」(そうせんじ)
源融の六条河原院の跡地に、鎌倉時代の曹洞宗開祖「道元」(どうげん)が創建した三か寺(他に慈眼寺、天寧寺)の一つといわれ、境内にはかつての源融の守り本尊であった?枳尼尊天(だきにそんてん:強い魔女)と大辨財尊天(だいべんざいそんてん:水の神)が祀られている -
「六条院公園」(ろくじょういん)
この地は「源融」(みなもとのとおる)の邸宅「六条河原院」(ろくじょうかわらのいん)があった所で、「源融」は嵯峨天皇の皇子で左大臣まで昇り、光源氏のモデルの一人とされる、「河原院」は寺町通から東洞院通、五条通から六条通に囲まれる広大な邸宅で、邸宅内に陸奥国塩釜(しおがま)の風景を再現し、毎月海水を運ばせて池に注ぎ塩を焼いたと伝わる -
公園カフェ「そのうちcafe SNC」
公園の入り口によく分からない名前のカフェがあるので、気になっていたがなんとなく入りにくい -
公園の前で目についた、面白いオブジェ!
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「東本願寺・高倉会館」
江戸から明治にかけて東本願寺の学場「高倉学寮」があった中の「講堂」が、後に真宗大学(現大谷大学)の講堂となり、大正になって「高倉会館」として浄土真宗の教えを公開するために使われ、昭和5年には「高倉幼稚園」を併設した -
(上数珠屋町通)かみじゅずやまちどおり
「高倉通」はここで「渉成園」にぶつかり分断され、右折して「間之町通」(あいのまちどおり)から「下数珠屋町通」を又左折して「高倉通」が再開する、「数珠屋町」は東本願寺の門前町で、数珠など売る仏具屋や法衣屋が立ち並ぶことからの命名 -
「六条道場」石碑(ろくじょうどうじょう)
六条河原の源融の旧邸跡に建立された「歓喜光寺」の跡地で、時宗の道場として栄え、応仁の乱の後移転し現在山科にあるが、江戸時代になると「渉成園」が造園された *「歓喜光寺」(かんきこうじ)は、1291年一遍の弟・聖戒が石清水八幡宮近くに創建し、1299年九条関白忠教の庇護を得て源融邸跡に移り「六条道場河原院歓喜光寺」とし、既に菅原道真亡き後の邸宅「菅原院」を移築して道真を祀っていた「天満宮」を鎮守としたが、その後秀吉の都市改造で1587年に四条京極に移転し、さらに明治の神仏分離で「天満宮」は現在の「錦天満宮」として残り、「歓喜光寺」は東山五条から後に山科の現在地へ移転した -
(正面通)しょうめんどおり
方広寺大仏殿の正面から千本通までの通りだが、渉成園と東本願寺、西本願寺で中断する、ココから東本願寺まで200m -
「渉成園」(しょうせいえん)
「東本願寺」の飛地境内に、別邸として造営された池泉回遊式庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから「枳殻邸」(きこくてい)と呼ばれているが、幕末の安政の大火、蛤御門の変の2度の大火で当初の建築は全て失われ、現在の建物は明治時代以降再建されたもの -
「渉成園の3つのポイント」
2回目の訪問になるが、四季折々に異なる風情を楽しめる庭園で、ポイントは3点、①「東本願寺」の別邸であること、②「石川丈山の庭園」であること、③平安時代には光源氏のモデルと言われる「源融の六条河原院」があったこと *庭園管理は南禅寺、無鄰菴なども担当している「植彌加藤造園」 -
ポイント①「東本願寺」(ひがしほんがんじ)
豊臣秀吉が寄進した「西本願寺」に対し、1602年徳川家康が寄進した寺地に「東本願寺」が建てられ、本願寺は西の本願寺派と、東の大谷派に分立した、その後1641年、徳川家光により東本願寺の東側の土地1万坪を寄進され、東本願寺の別邸として1653年西本願寺に負けない庭園として「渉成園」が造られ、門首の隠居所や外賓の接遇所として、また明治天皇の休憩所にも用いられた *当時の寺院は、朝廷と関係があるのが普通で、武家や公家との交流の場の一つとして庭園が多く用いられ、広い庭園で「ここだけの話」をするのに格好の場所で、単なる隠居の住まいではなく、迎賓・もてなしの場として利用していた -
ポイント②「石川丈山の庭園」(いしかわじょうざん)
京都に4つある石川丈山庭園(詩仙堂、蓮華寺、一休寺)の一つで、「寺社仏閣の庭園」というよりは「大名庭園」のような広大な「池泉回遊式庭園」だが、正確には「池泉舟遊式庭園」で、平安時代の貴族の「寝殿造庭園」になっており、中国詩人の「帰去来」の一節「園日渉而成趣」(日々趣が増す庭)から「渉成園」と名付けられた -
ポイント③「源融の六条河原院」(ろくじょうかわらのいん)
このエリアは平安時代には、光源氏のモデルと言われる嵯峨天皇の第12皇子で、嵯峨源氏融流初代となった左大臣「源融」(みなもとのとおる 822-895)の「六条河原院」が存在した所で、赴任先の陸奥国から都に戻ると塩釜の風景を偲んで、難波(尼崎)から毎月海水を運んで造ったと伝わる庭園の趣向を取り入れ、池に浮かぶ中島には「源融の供養塔」や「塩釜の手水鉢」と「塩釜」がある *「源氏物語」には21帖に、光源氏が35歳の時に造営したことが記されている -
「源融ゆかりの塔」(みなもとのとおる)
印月池の小島に建つ九重の石塔は源融の供養塔とされ、鎌倉時代のもので渉成園よりもかなり古いもので、1657年に渉成園が造営された時にこの場所にあったのではないかと推測されており、九重目の笠は失われて、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠が代用されているのは面白い -
「塩釜の手水鉢」(しおがまのちょうずばち)
全国の庭園にある「塩釜の手水鉢」の手本となるもので、石造宝塔の塔身を手水鉢に転用し鎌倉時代の作とみられる -
「塩釜」(しおがま)
木橋の「回棹廊」近くにある石組の横穴は、奥に井戸があり、形が塩を製造する塩釜とそれを屋根で囲う塩屋に似ていることから「塩釜」と言われている、源融は貴族の風流な野遊びであった「塩焼き」(塩作り)をし、「塩釜」の煙で心を癒していたと推測、在原業平も晩年を過ごした「十輪寺」で「塩焼き」を楽しんだと思われる跡がある -
「渉成園十三景」
渉成園の見所を、江戸時代の儒学者・頼山陽 (らいさんよう)が1827年渉成園に来遊した時に記した「渉成園記」に「渉成園十三景」として紹介している *(十三景の9)「偶仙楼」(ぐうせんろう)は焼失後現在存在せず -
(十三景の1)「滴翠軒」(てきすいけん)
手前の「臨池亭」(りんちてい)と共に、東本願寺を訪れた客人のための茶会や接待に使われてきたた建物で、「臨池亭」は池に面する縁側から池を臨み、「滴翠軒」は裏の築山から池に流れ込む小川のほとりの軒という意味 -
(十三景の2)「傍花閣」(ぼうかかく)
「園林堂」に対する楼門の形でつくられた寺院の山門のような、あまり類のない個性的な建物で、春には桜が広がり名前通りの光景になる -
(2009.4 撮影)
前回訪問した時の、春の「傍花閣」 -
「園林堂」(おんりんどう)前の庭園
ご本尊の阿弥陀如来立像をお祀りする持仏堂で、堂前の庭園には蓮の花や「ムラサキシキブ」(夏に淡紫の花が咲き、秋に紫色の実がなることからの命名)があった -
(十三景の3)「印月池」(いんげつち)
渉成園の6分の1を占める大きな池で、東山から上る月影が水面に美しく映ることからこの名が付けられた -
「獅子吼」(ししく)
「印月池」の水を取り入れる注水口で、「丹楓渓」手前の築山の石組みにある、当初は高瀬川から水が引かれていたが、明治に入り琵琶湖疏水開通で東本願寺の防火用に蹴上から引かれた水が渉成園にも引き込まれた、琵琶湖疎水の庭園がココにもあるのに驚愕! -
(十三景の4)「臥龍堂」(がりゅうどう)
「印月池」に浮かぶ南大島に建てられていた小さな鐘楼堂で、安政の大火で焼失し今は礎石だけが残されている、かつては「漱枕居」に集まった茶会の客人が「縮遠亭」へ船で向かうことを告げる鐘を鳴らしていたというから、平安貴族の風流に感服! が、後ろのビルで減滅! -
(十三景の5)「五松塢」(ごしょうう)
5本の松が植えられていたことから名づけられた、「塢」(う)は小さい土手という意味 -
(十三景の6)「侵雪橋」(しんせつきょう)
「縮遠亭」のある北大島へ渡る木造の反り橋 -
(十三景の7)「縮遠亭」(しゅくえんてい)
北大島にある茶室で、茶室上段の間から東山三十六峰の一つ阿弥陀ケ峰が見晴らせたことから名づけられた -
(十三景の8)「紫藤岸」(しとうがん)
「回棹廊」奥の池中に、藤棚がある(写真では確認しづらいが) -
(十三景の10)「双梅檐」(そうばいえん)
「閬風亭」と「漱枕居」の間にあり、紅梅・白梅が20株ほど植えられた梅林、「檐」(えん)とは「庇」(ひさし)の意味で、以前は隣接する「閬風亭」の庇がこのあたりまでかかっていた -
「閬風亭 」(ろうふうてい)
東本願寺迎賓館として、渉成園の中で最も大きな客殿で、京都の東山・阿弥陀ヶ峰を背景に印月池を眺める景色は絶景で、明治天皇もご訪問の際にこの部屋で休息された、「ロウフウ」とは中国の崑崙(こんろん)山脈にある仙人が住むとされる山のこと -
(十三景の11)「漱枕居」(そうちんきょ)
南側に池上に乗り出すように立つ丈山好みの茶室で、「漱枕居」は旅路を意味し、当時の賓客は「閬風亭 」に通されて挨拶を受け、印月池に面した「漱枕居」でお茶をもてなされてから、舟で「縮遠亭」に渡った後、園内の「渉成園十三景」をめぐり、最後は「偶仙楼」に上がって晩餐をいただいたという -
(修正写真)京都タワーのない「漱枕居」(そうちんきょ)
東山の借景が現在はマンションやビルになってしまい、京都タワーも又新たな現代の借景になっているが、やはり江戸時代に戻り、平安時代を偲ぶ景色の方がしっくりくる! -
(十三景の12)「回棹廊」(かいとうろう)
明治17年(1884)頃に再建された檜皮葺の屋根をもつ木橋で、焼失する以前は朱塗りの欄干をもつ反橋だったと伝えられているから、今の方が良い! -
(十三景の13)「丹楓渓」(たんぷうけい)
「丹」とは朱色を表す語で、「回棹廊」から「印月池」北岸沿いに楓が植えられ、紅葉の渓谷を模している -
14:30カフェ休憩「エイトブラック バーズ カフェ」
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人気のカヌレが売り切れだったので、コーヒーのみで休憩、今日も暑かった!
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