2023/11/05 - 2023/11/05
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Bachさん
現在の「八条通」は鴨川手前の「須原通」から桂川に架かる「桂大橋」まで4.8kmですが、平安京は西京極大路(葛野大路通)までの4.4kmで、途中御前通から千本通が東海道本線で分断されて、昔の名残が消されているところもありますが、平安時代には都の中心から離れているにもかかわらず平家の邸宅や八条院の御所などの痕跡があって都の中心的大路であったことが伺われます。
今回も初めて知る京都の史実がいくつも発見されましたが、ポイントは、
①平安京の「八条大路」が「清盛通」と言われる由縁、さらに平家だけでなく「源氏の聖地」と言われる神社もあることと「源平の関係」、そもそも「源平」とは何か
②「桂離宮」がこんなところにある理由
③「伏見稲荷御旅所」がこんなところにある理由
④殆どの人が寄り付かない「崇仁地区」がここにある理由と、京都駅周辺の再開発状況
など、平安京の端っこにある羅城門にも近い都大路の「八条通」にも歴史は盛沢山で話は尽きません。
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「七条」越えれば「 八九条」、「十条」東寺で とどめさす、となるが、「八条」は、「八条村」という農村だったので、お百姓とか竹の子堀とか唄われている
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(散歩ルート)京都駅~(バス)桂離宮~桂地蔵~0.5km桂大橋~1.2km九重橋(西高瀬川)~0.4km平清盛「西八条邸」跡、若一神社~0.5km梅林寺~0.1km円光寺~0.1km(ランチ)~(西七条架道橋)~(梅小路貨物駅)~0.7km(3.5km)蓮華寺、狐塚墓地~0.4km六孫王神社~0.3km東寺北門~(大宮跨線橋)~0.6km西福寺~0.2km(5.0km)伏見稲荷御旅所~0.2km平重衡受戒之地~0.2kmPHP本部~0.7km京都駅八条口~(河原町八条~須原通)~0.6km平清盛終焉推定地・高倉天皇誕生地碑~0.4km柳原銀行資料館、銭座場跡~京都市芸大~うるおい館~(須原通)~崇仁地区環境協議会~0.5km京阪七条駅まで 10km
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京都駅から桂離宮前までバスで移動
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「桂離宮」2009/12/22撮影→https://4travel.jp/travelogue/10411412
江戸時代に八条宮智仁(としひと)親王、智忠(としただ)親王の別邸として1620年から親子2代にわたって創設、智仁親王は豊臣秀吉の猶子(ゆうし=ハクをつけたい為家督相続を前提としない親子関係)となったが、秀吉に実子が生まれて「八条宮家」(桂宮家)を創設、その後家康になって冷遇され皇位を継ぐことが出来なかったので、徳川幕府に対抗する王朝文化の再興を目指して、江戸時代初期の1616年「日本的な美しさで最高の水準」と言われる「桂離宮」を造り、1629年死後一時荒廃するも八条家二代目の智忠親王によって1662年頃までにこれを引き継ぎ後世に伝わる名園へと発展させた、「泣きたくなるほど美しい」庭園は、京都を代表する景勝地「天橋立」を表現した広大な池泉回遊式庭園で江戸時代を代表する作庭家・小堀遠州に師事した僧・玉淵坊(ぎょくえんぼう) *「桂」の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘である「桂殿」や、光源氏の「桂殿」があり、八条宮の所領でもあった -
「桂地蔵」(地蔵寺)
この辺りは丹波山陰街道から京の都への入り口で、後白河法皇の命を受け平清盛が都の出入り口となる6カ所に六角形のお堂を建てさせ、そこに小野篁が彫った地蔵菩薩を祀った内の一つで、元々は桂大納言と呼ばれた源経信(みなもとのつねのぶ)の別邸だった、桂地蔵は地蔵盆の行われる8月22日・23日に公開されるが、高さ約2.65mで一番大きな地蔵という *「小野篁」(おののたかむら)は平安時代初期、熱病を患い仮死状態となった時、地獄に落ちて苦しむ人々を六道を巡って救済している地蔵菩薩に出会い、地獄の苦しみと私のことを人々に伝えてほしいと告げられその後生き返ったので、1本の桜の木から六道にちなんで6体の地蔵を彫り木幡の里(現在の六地蔵付近)に収めたが、その後地蔵信仰が高まり都を病魔や魔物から守るため地蔵菩薩を京の出入り口の6つの寺院に分祀し、ここから「六地蔵めぐり」がはじまったという -
「六地蔵めぐり」
伏見六地蔵・大善寺(奈良街道)、山科・徳林庵(東海道)、上鳥羽・上善寺(西国街道)、鞍馬口・上善寺(鞍馬若狭街道)、桂・地蔵寺(丹波山陰街道)、常盤院・源光寺(周山街道)、地蔵盆の行われる8月22日・23日に巡って無病息災を祈願し、お幡(はた)と呼ばれるお札を授かる -
「中村軒」(なかむらけん)
創業明治16年の老舗和菓子屋で、丹波、 丹後路への往来のお土産として珍重された「かつら饅頭」は、西京極長福寺を通じ久邇宮家御用を拝命し年忌には必ずご利用戴き、昭和天皇皇后両陛下が関西方面へ行幸啓の節にも御所へ「かつら饅頭」を献上、名物「麦代餅」(むぎてもち)は田植えどきの間食として食べられていたもので、これを農作業の各田畑まで直接届け農繁期も終わった半夏生の頃、その代金として餅二個につき麦五合の割で物々交換したことからの命名 -
「桂大橋」
1905年(明治38年)近代的な桂大橋が架設され、1928年(昭和3年)現在の橋が開通、1982年(昭和56年)拡幅工事が完成 -
桂大橋から阪急京都線、嵐山方面
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「堀場製作所」(ほりばせいさくしょ)本社
1945年(昭和20年)堀場雅夫(ほりば まさお)1924-2015(90才)が1953年「堀場無線研究所」を創業、京大卒で学生ベンチャーの草分け的存在とされ、年商2,200億円、従業員8,000人、自動車や半導体産業をはじめ新素材、エネルギー、鉄鋼、食品、バイオ、化学、地球温暖化ガス分析装置や酸性雨測定装置など環境保全に貢献する製品など多岐に及び、エンジン排ガス測定・分析装置分野では80%の世界トップシェア *京都の企業売上高ランキングでは、1.日本電産 2.京セラ 3.村田製作所 4.任天堂 5.佐川急便 6.マルハン 7.オムロン 8.島津製作所、、、14.堀場製作所 -
「西高瀬川」にかかる「九重橋」
「西高瀬川」は、丹波と京都嵐山間の水運が開通してさらに市中心部に引き込むための運河として、江戸時代1863年に渡月橋~千本三条まで、さらに明治になって1870年伏見下鳥羽で鴨川に合流している、運河以外にも、京友禅など染物の工場から出る排水を流すための下水路としても使われたが、その後利用価値は次第に薄れ、嵯峨から天神川まではある程度の水量があるが、昭和10年の京都大水害を機に西高瀬川の水は全てが天神川に注がれているので殆ど水量はない -
「右 西国街道」(さいごくかいどう)の石標
江戸時代の「西国街道」は現在の「山陽道」で、京都の羅城門(東寺口)から下関に至る道 -
平清盛公「西八条殿」跡(にしはちじょうどの)
この辺り一帯に、平安末期平清盛(1118-1181)とその一門の広大な邸宅群があり「清盛通」とも言われた、六波羅と並ぶ平家の一大拠点で、周囲には清盛の兄弟の頼盛(1131-1186)、子供の重盛(1138-1179)、宗盛(1149-1185)などの邸宅もあった -
平安時代の八条大路には、鳥羽上皇の娘・八条院の御所「八条院」が現在の京都駅一帯にあり、その西側隣の梅小路一帯に「西八条殿」があり「八条院」にも勤仕していたという、平家の拠点は「六波羅殿」と「西八条殿」と神戸「福原殿」の三ヶ所あるが、これはいずれも交通の要衝で、六波羅は山科に抜け東国や伊勢・伊賀への玄関口、西八条は山陰道の出入り口、福原は山陽道と海路を抑え貿易港を見下ろし遷都を夢見た福原京である、清盛の妻・時子は六波羅で過ごしその後西八条殿に住み、清盛は福原と西八条を行き来し、その間寵愛した白拍子(しらびょうし)の祇王(ぎおう)や仏御前(ほとけごぜん)が西八条殿に住んだ *白拍子というのは、男性に扮して踊る宝塚歌劇の元祖のような歌舞の一種で、源義経の静御前(しずかごぜん)も同じ、清盛は祇王を捨て仏御前に乗り換えたので祇王は出家して今の祇王寺に隠棲した、祇王寺には本尊を中心に、清盛、祇王、妹祇女、母刀自と仏御前も並んだ木造が安置されている
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「若一神社」(にゃくいちじんじゃ)
平安末期の1166年、平清盛が別邸「西八条殿」に一族の安寧を祈るために紀州熊野の若一王子(熊野大社に祀られている十二柱の一柱)の御霊を祀り創建、以後清盛が開運出世を祈ったら翌年に太政大臣になったので、開運出世の神として崇められる、境内には清盛像が祀られ、白拍子(しらびょうし)、祇王(ぎおう)の歌碑もあり、現在も湧き出している神供水(じんぐすい)という名水は開運出世の水として新生児誕生に際しての産湯として有名 -
境内外に樹齢800年とされる清盛公御手植えの楠があるが、昭和14年京都市電を通すとき、この楠を撤去する計画が立てられ工事関係者が相次いで事故にあった、とか邪魔な枝を切り落とした人が落ちて死んだ、とか清盛の祟りがあるという話があって、これを避けたルートにし、1978年市電が廃止された今でも西大路通は蛇行している
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「梅林寺」(ばいりんじ)
安倍晴明の子孫である「土御門家」の菩提寺で歴代の土御門の墓、位牌が残る、境内には暦を作成する際に使った日時計を乗せる台座がある *「土御門家」は安倍晴明が平安中期に陰陽頭となって以来代々陰陽頭を務め、陰陽道、天文道、暦道で朝廷に仕えた -
「円光寺」(えんこうじ)
土御門家の邸宅があったとされる寺院、境内には星の経度を調べる渾天儀(こんてんぎ)の台石部分が置かれている(非公開) -
「寺子屋」という面白い名前の食堂があったのでランチ休憩
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何でもある大衆食堂で値段も量もリーズナブル
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フェンシングの太田雄貴とマラソンの福士加代子のサイン色紙があったので、ある程度有名か
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お年寄りの御夫婦と息子さんみたいな方の3人でやってるらしく、御夫婦の名前が入った色紙は自慢の色紙のようで、説明を聞いてホッコリ!
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暑かったので「ざるそば」と「だし巻き」を注文、だし巻きが美味しかった!
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「西七条架道橋」
「八条通」は北野天満宮から続く「御前通」(おんまえとおり)とぶつかるところで突然変則交差点になっている、左手に行きそうだがこれは「梅小路通」で梅小路公園から「新千本通」に続く、「八条通」は右手のトンネルを抜けて、上を走る東海道線沿いに京都駅方面へ続く、これは明治9年(1876)東海道本線の一部として開通した時に分断されたらしい -
このトンネルは御前通にあるので「御前架道橋」とも書かれており、東海道本線の下をくぐる140mの一車線トンネルで信号制御で一方通行になって、歩道橋もついているが、狭い低い長い、暗いトンネルで車の往来が激しいので怖い!
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トンネルを抜けて左折し、東海道本線に沿って歩くがこれも「八条通」
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「京都貨物駅」
1877年(明治10年)京都駅が開業するまでの間、暫定的に大宮通仮停車場が設けられた
1911年(明治44年)梅小路仮停車場として西本願寺、知恩院の大法会参拝団体旅行客専用駅として利用
1918年(大正7年)丹波口駅までの貨物支線開業
1987年(昭和62年)国鉄民営化によりJR貨物駅となる
2011年(平成23年)京都貨物駅に改称 -
「蓮華寺」(れんげじ)
京都市内には同名の寺院が3つあり、よく知られているのは大原の帰り道にある「洛北・蓮華寺」で紅葉が素晴らしい、もう一つは仁和寺駐車場近くの「五智山・蓮華寺」で1057年 創建、そしてこの「蓮華寺」は創建は分らないが元々「西来院」という時宗寺院で応仁の乱(1477年)で焼失してその跡に建ったもので現在は浄土宗西山派の寺院となっており、焼失した寺院は江戸時代(1662年)になって、加賀前田藩の家臣により今の「洛北・蓮華寺」として再建され、この地が「蓮華寺」という廃寺の跡地であったことからの命名、が元々の八条通の寺名も「蓮華寺」になっている経緯は良く分らない -
*2008.11.08撮影の「洛北・蓮華寺」→https://4travel.jp/travelogue/10287212
「蓮華寺」の再建に際しては、加賀前田家の家老・今枝近義が、親交のあった石川丈山や狩野探幽、儒学者・木下順庵、黄檗の隠元禅師等、当時の著名文化人が協力したといわれ、黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式庭園をもつ寺院となっおり、石川丈山作庭と言われる池泉回遊式庭園は、紅葉時期には必見! -
「蓮華寺」の内に入ると、お寺の境内という雰囲気はなく、鉄道線路が目立つが、このお寺が有名な理由は、現在の住職が鉄道愛好家の間ではかなり有名な鉄道マニアで、京福電鉄に 勤めていたという話もあり、境内一面に長い「鉄道模型線路」が敷いてある
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ご住職は鉄道好きが集まって作られた「好軌会」の会員で、鉄道模型を持ち寄って走らせる数少ない会場として開放しているらしい
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近所の子供も乗せて走るという
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お寺のお勤めもしてるのかどうか、かなりお金も時間もかけていそう
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「狐塚墓地」(きつねづかぼち)
この辺りは「四ツ塚」といわれ、その内の「狐塚」だけが現存しており、当然「蓮華寺」の管理と思ったがそうではないらしく自治会墓地となっている、有名なのは入り口石標にある「都城六勇士殉難記念碑」で、幕末維新の薩摩藩都城の藩兵が伏見の警備をしていて、新選組とのトラブルに巻き込まれ自決したのでここに埋葬され、後に戊辰戦争を戦った同志たちがこの碑を建てて6名の勇士の霊を慰めたもの -
少し行くと「源町」(みなもとちょう)の表示
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その先に見えたのは「六孫王神社」(ろくそんのおうじんじゃ)で、八条通は「平氏」だけでなく、「源氏」ゆかりの地でもあった
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「六孫王神社」(ろくそんのおうじんじゃ)
平安中期、清和天皇から「源」姓を賜った孫の「経基王」(つねもとおう)の屋敷「八条亭」(八条御所)があったところに、経基の嫡子で「清和源氏」軍団を形成した「源満仲」(みつなか)が「経基王」を祭神として963年創建、「経基王」は清和天皇第6皇子の子「六孫王」と呼ばれたため「六孫王神社」と命名され、本殿後方に「経基王」の廟があり、「清和源氏発祥の宮」と呼ばれる源氏の聖地となっている、この地は平安末期には一時「西八条殿」の一部となったが、平家の没落後源頼朝に与えられた所で、奇しくも源平隣り合わせの場所となっている -
「源氏」の歴史
清和天皇の孫にあたる「経基」(つねもと)894-961は皇族を離れて「源」姓を賜り、平将門の鎮圧に功を立て武将としての名声を得、その子「満仲」(みつなか)912-997の3人の子は「頼光」(よりみつ)944-1021が摂津国、「頼親」(よりちか)966-1057は大和国、「頼信」(よりのぶ)968-1048は河内国をそれぞれ拠点として繁栄、特に「頼信」の孫「義家」(よしいえ)1039-1106は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれ 武勇に優れ東国における源氏勢らと力の基盤をつくり、「清和源氏」の地位を確立した、その後「平家」勢力に押されたが、1180年の源平合戦で「源頼朝」(よりとも)1147-1199は、弟で9男の牛若丸「義経」(よしつね)1159-1189(父・義朝の死後鞍馬寺に預けられ平泉に行ったが一ノ谷、屋島、壇ノ浦合戦で活躍し後に仲たがいして平泉で自刃した)らと共に平氏を滅ぼし、1192年鎌倉幕府を開いた、その後も「清和源氏」からは「足利尊氏」、「徳川家康」?なども輩出している -
二の鳥居からの参道
「六孫王神社」は室町時代の1398年焼失したが、3代将軍・足利義満(1358-1408)により再建され、さらに応仁の乱(1467-1477)で焼失して以後荒廃し、その後清和源氏の末裔を自認する徳川将軍家の援助によって再建された、明治になって境内の大部分は接収され、大正元年には境内に国鉄線路が敷設され、昭和39年(1964)には新幹線の敷設でさらに縮小され、新幹線に押された形で存在している -
「鯉魚塚」(りぎょづか)
ニの鳥居の横にある「鯉魚塚」、「神龍池」の鯉を神使として祀っている -
「六孫王神社」本殿・拝殿・唐門・回廊(ニ棟)は京都市指定有形文化財の駒札
六孫王神社は、応和元(961)年に清和源氏の祖源経基(つねもと)の嫡男満仲(みつなか)が経基邸宅跡に霊廟を建てたことに始まると伝えられます。中世には衰退しましたが、元禄14(1701)年に江戸幕府により再興されたのが現在の社殿です。
建物は切妻造で平入りの本殿と、その前方に建つ入母屋造、平入の拝殿が造合で連結された複合社殿です。連結部分の屋根には棟をつくらず、本殿と拝殿の軒がそのまま接しています。
唐門は、入母屋造の屋根の前後に唐破風をつけた四脚門で、両脇に回廊が接続しています。なお、屋根は当初本殿が桧皮葺(ひわだぶき)、拝殿、唐門、回廊は挧葺(とちぶき)でした。
当社の本殿は例の少ない切妻造本殿で、拝殿と接続した複合社殿である点に特色があります。また唐門、回廊も同時期の造営になり、これら一連の社殿は江戸時代中期の中規模神社の形態を知るうえで貴重であり、昭和61(1986)年6月2日、京都市指定有形文化財に指定されました。 -
「誕生水弁財天」(たんじょうすいべんざいてん)
清和源氏の祖「源経基」の長男「源満仲」が誕生した時、健康、知恵などを祈って琵琶湖の竹生島より「弁財天」を勧請して祈ったことがはじまり、後ろの高架は「東海道新幹線」 -
弁天堂内には経基の子・満仲の産湯に使われたという誕生水があり、「都七名水」といわれるが、初代の井戸は「東海道新幹線」の高架下になってしまい、現在は2代目の井戸だという *「都七名水」は、中川井(妙満寺)、滋野井(滋野貞主邸宅)、音羽の瀧(清水寺)、左女牛井((醒ヶ井・源氏堀川館)、古醒井(西本願寺・滴翠園)、芹根水(せりねのみず・堀川沿い)、六孫王誕生水
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弁財天社から見た本殿側
境内中央の池は「龍神池」(りゅうじんいけ)と呼ばれ、ここにかかる太鼓橋は「恋(鯉)の架け橋」と呼ばれ良縁祈願のご利益がある -
「伝説の神龍池」(りゅうじんいけ)
経基王が死後、龍神になって棲む池として祀られている -
「唐門」
入母屋造の屋根の前後に立派な唐破風をつけた四脚門、両脇には回廊 -
唐門から先は「拝殿」、更にその奥に「本殿」と「相殿」
「本殿」には祭神・源経基、「相殿」には天照大神と八幡大神が祀られており、「本殿」は切妻造でその前に建つ入母屋造の「拝殿」がそのまま接した複合社殿は珍しい *「相殿」(あいでん)は同じところに2柱以上の神を合わせて祀る社殿 -
「六孫王権現常夜灯」
江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かったので、境内には諸大名が寄進した「石燈篭」がたくさんある -
「六孫王の歌碑」(2017年設置)
武人のイメージが強い「経基王」は恋の歌にも秀でていた(拾遺和歌集より)
雲井なる 人をはるかに 思ふには わが心さへ 空にこそなれ
哀れとも 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに -
「東寺の北総門」(重要文化財)
鎌倉時代後期に建立された四脚門 -
「北総門」から「北大門」まで続く200mの参道を「櫛笥小路」(くしげこうじ)と呼び、参道沿いに観智院、地蔵院などの塔頭や洛南高校があり、弘法市のときは露店であふれる
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「大宮跨線橋」(こせんきょう)又は大宮陸橋
昭和10年(1935)に建設され昭和47年までこの上を市電が走っていた *京都市電は明治28年(1895)日本最初の路面電車として開業、昭和30年代からバスや自動車が増え始め、昭和53(1978)年すべてが廃止された -
西福寺・「綜芸種智院」跡(しゅげいしゅちいん)
828年弘法大師空海が庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に創建した、日本最初の私立学校があったところで「西福寺」の前に出来碑がある *「綜芸」(しゅげい)とは各種の学芸を綜合するという意味 -
「伏見稲荷御旅所」(ふしみいなりおたびしょ)
普段は堀川通りをスルーするだけで気になっていたが、初めて訪問! かつては油小路七条と八条坊門猪熊の2ヶ所にあったのを豊臣秀吉が一つにして現在地に移したという -
「伏見稲荷御旅所」は、伏見稲荷大社の「稲荷祭」(いなりさい)で稲荷大神(いなりのおおかみ)が氏子区域を巡幸する際に、「神幸祭」から「還幸祭」まで5基の神輿が滞在するところで、普段は全く静かな所だが、4月から5月にかけての「稲荷祭」の期間には大変賑わう、四条通にある「祇園祭の御旅所」と比べ鳥居も広さも殆ど立派な神社! 京都三大祭といえば、「祇園祭」「葵祭」「時代祭」だが、かつては「祇園祭」「葵祭」「稲荷祭」で、平安初期に生まれ室町時代には山鉾も登場する祇園祭に匹敵する盛大な祭りだったが、戦後は規模を縮小しあまりメディアにも取り上げられないので目にすることは少ない
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伏見稲荷大社「稲荷祭」(いなりさい)
「祇園祭」と同様、稲荷の祭神・五神(祇園祭は素戔嗚尊をはじめとした三神)の御霊を神輿(みこし)に移し、「神幸祭」(しんこうさい)で御旅所に移動し滞在、「氏子祭」(うじこさい)で巡行し、「還幸祭」(かんこうさい)で本殿にお帰りする、特徴は、祇園祭のように派手な山鉾などの山車はないが、人が担ぐ神輿が中心で2.7トンもの豪華な神輿を担いで練り歩く、そして全国的にも多分ここでしか見れないのは、神輿がトラックで移動するという風景で、これは伏見稲荷の氏子区域が伏見から遠く離れた京都駅周辺であるため、昔は人が担いでいたが交通事情も考慮し昭和37年からは御旅所までの往復は神輿も神職も雅楽も10数台のトラックに乗って移動し、これは一見の価値あり! 2023年の場合は、4月23日「神幸祭」、1週間後の日曜日4月30日「氏子祭」で御旅所から5基の神輿を担いでそれぞれの氏子地域を巡行、5月3日「還幸祭」で御旅所を出発し東寺に立ち寄って「神供」(じんく)を受け氏子区域を巡行してから本社に到着し、神輿からご神霊が本殿へ奉遷、翌日4日「後宮祭」(あとみやさい)で修了 *「東寺との関係」は、東寺の五重塔(826年弘法大師創建)の材料を伏見の稲荷山から伐りだしたら淳和天皇が病気になったので、これまで秦氏の私社だった稲荷大神に従五位(じゅごい)下の神階を授け、以後伏見稲荷大社と東寺は深く結びついてきたという -
境内の東側には4つの小さな社殿が並んでいる、稲荷社(稲荷大神)、大神宮(天照皇大神・豊受皇大神)、上命婦社(上命婦かみのみょうぶ)、下命婦社(下命婦しものみょうぶ) *「5基の神輿」は稲荷の五神で、宇迦之御魂大神(うかのみたまのかみ・稲の神)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ・猿田彦と同じで導きの神)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ・接客の神)、田中大神(たなかのおおかみ・田の神)、四大神(しのおおかみ・土着の神)
*「氏子区域が離れている理由」は、稲荷山上にあった稲荷社をふもとに遷す際に「藤森神社」の境内地を借りたため、周辺は殆ど藤森神社の氏子で稲荷社の氏子は京都駅周辺に集まっている、今でも「藤森祭」の御旅所は伏見稲荷社の境内にある「藤尾社」にあり祭りのときは稲荷社の鳥居をくぐる、昭和初期までは祭で「土地返せ」と言いながら境内に入り稲荷側は「今お留守」と返すやりとりがあったというから面白い -
「平重衡受戒の地」(たいらのしげひら)
平清盛の五男・平重衡は、平氏に従わない東大寺興福寺を焼き払うという大罪を犯し、一の谷の合戦(平安末期1184)で源氏に捕らえられ、六条大路を引廻された後、八条堀川堂に移され、法然との面会を求め十戒を授けられたとされる、現在はコンビニの地 -
堀川通りを超えると「ワコール」と「PHP研究所」がある、「ワコール」は京都を代表する企業で1946年塚本 幸一(1920-1998)創業、世界有数の女性下着メーカーとして知られる、年商1,500億円、従業員2万人
「PHP研究所」は松下幸之助が1946年設立、「Peace and Happiness through Prosperity 」(繁栄によって平和と幸福を)を実現を目指した活動をしている -
「都ホテル・京都八条」にあった「LUUP」
最近増えてきているので調べてみると、「電動マイクロモビリティのシェアリング事業」の会社で電動キックボードが主体、免許が必要な一般原付と免許不要の特定小型原付があり、原付で最高時速50km、フル充電60km、価格30万円、小型で最高時速20km、フル充電30km、価格15万円程度、いずれもナンバープレートを申請すれば公道を走れる -
「京都駅八条口」
「京都駅」の初代は明治10年(1877)明治天皇が行幸され赤煉瓦のモダンな建物が開業、明治22年(1889)東海道線全線開通、2代目は大正3年(1914)京都での大正天皇即位式に合わせルネサンス様式の総檜作り2階建て、昭和20年高倉通~堀川間で建物強制疎開が行われ戦後跡地を利用して八条通が36mに拡幅された、昭和25年火災で焼失し昭和27年(1952)3代目鉄筋コンクリート2階建て、昭和39年(1964)新幹線開通で「八条口」誕生、平成9年(1997)4代目条坊制の碁盤の目を取り入れた京都駅誕生、京都駅構内は秀吉の御土居が通っており、この辺りは洛外で田園地帯が広がっていた -
「変なホテル」
途中で気になったので調べると、これはエイチ・アイ・エス (H.I.S.)が展開するホテルで、平成27年(2015)長崎ハウステンボスに1号店オープン以来国内20軒展開、世界初のロボットが働くホテルとしてフロント業務や荷物運びなどほとんどをロボットに任せており、ロボットは女性姿や恐竜など館内に80台配備し、人間はベッドメークや監視カメラ要員など十数人のみで、徹底して人件費を抑えて宿泊費も1万円以内くらいに抑えているが、あまり泊まりたいとは思わない -
「河原町八条」交差点、後ろは東海道新幹線
河原町通を渡って、須原通とぶつかる交差点「八条須原」まで直進して左折 -
「平清盛終焉推定地」・「高倉天皇誕生地」碑
この地は清盛の側近「平盛国」の邸宅があった地で、平家の二つの邸宅群、六波羅と西八条の両方に便利な位置にあり、清盛は晩年の1181年(64歳)病に倒れてここで亡くなった、この間の経過を整理すると、清盛の父「忠盛」(1096-1153)は白河院政、鳥羽院政の北面武士として武力的支柱を果たし日宋貿易で莫大な富を蓄え平氏政権の礎となる、「清盛」(1118-1181)は1147年祇園社神輿事件、1156-59年保元平治の乱を経て揺るぎない地位を獲得し1167年太政大臣まで上り詰めたが、1180年源頼朝が挙兵し鎌倉に本拠を構え、富士川の戦いで平家大敗、1181年1月高倉上皇崩御、後白河院政復活、2月源氏追討の東国出陣の日に清盛の病状悪化、死去、その後三男「宗盛」(1147-1185)が後を継いだが1185年壇ノ浦の戦いに敗れて平氏滅亡となる、そして清盛が権力を掌中に収める要因(策略?)になったのは、清盛の妻の妹「建春門院滋子」が「後白河院」に寵愛され、1161年この邸内で「高倉天皇」を出産し、この後娘の「建礼門院徳子」を高倉天皇に嫁がせ、徳子が「安徳天皇」を産んで天皇の親戚となったこで、ここは清盛の出世のきっかけとなった地でもある -
「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)
日本で代表的な源氏・平氏・藤原氏・橘氏の「4つの氏」のことで、奈良時代以降に天皇から臣下に対して与えられた「氏姓」(うじかばね)がルーツとなっており、
最も古い「藤原氏」(ふじわら)は、669年天智天皇により中臣鎌足の大化改新の功績を讃え奈良橿原の藤原京に因んだ氏姓を与えられ、国家の改革を引き継ぎ朝廷における藤原氏の立場を確立し、平安時代以降天皇家との関係を深め「藤原四家」として平安中期には摂政・関白・太政大臣を多く輩出し藤原道長・頼通の頃に全盛期を迎えたが、平安末期になると院政がはじまり源氏と平氏が台頭したことから影響力は衰退、さらに鎌倉時代になると政治の主導権は武士へと移り、以後は朝廷で政治を支え、明治後は「五摂家」は公爵や華族になった
「橘氏」(たちばな)は、708年元明天皇により女帝に仕えた県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の貢献を讃え一年中葉が緑で永遠であることに因んだ氏姓を与えられ、歌人や学者を多く輩出し奈良時代に最も栄えたが次第に衰退
「平氏」(たいら)は、825年桓武天皇の皇子葛原親王の子高棟王らが臣籍に下って平安京に因んだ氏姓を名乗ったことに始まり、4つの流派があったが「桓武平氏」だけが残り、平安中期に平将門や平貞盛らが出て勢力を増し、平正盛・忠盛の父子が上皇の警護にあたる「北面の武士」となり台頭の契機となり、1167年平清盛が太政大臣となって平氏政権を樹立し清盛一門の「平家」が誕生、しかし清盛が亡くなると凋落の一途を辿り1185年滅亡したが、今でも平氏の末裔は多く残っている
「源氏」(みなもと)は、814年嵯峨天皇がたくさんいた皇子に源を同じくすることに因んだ氏姓を与えたことに始まり、歴代の皇子孫も含め21流があったが、中でも第6皇子の子・源経基の子孫が「清和源氏」として最も繁栄し、とくに源義家(八幡太郎)の流れは鎌倉幕府を開いた源頼朝や 室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康?など江戸時代まで武士の中心となった -
河原町通と鴨川の間を走る「須原通」(すはらどおり)を七条通方面へ進んで、東海道新幹線、東海道線のガード下をくぐる
-
まもなく「高瀬川」に突き当たり、左折すると「崇仁地区」一帯に入る
「崇仁」(すうじん)地区は、八条通が始まる「八条須原」辺り一帯で、南側の東九条と共に在日コリアンや特殊な職業の人達が住んだ全国でも最大規模の同和地区(被差別部落)として長い間避けられてきた地域だったが、京都駅に近い好立地な位置にあり、京都市立芸術大学の移転を中心とした再開発が進められ、先月2023.10月に開校し、周囲の整備も現在進行中 -
「柳原橋」(やなぎはらばし)
「崇仁(すうじん)地区」は京都市に編入される前は「柳原町」と呼ばれ、高瀬川に架かる橋は「柳原橋」、左手に見えるのは旧「柳原銀行」だが、どういう経緯で「同和地区」になったのか、気になるので調べてみた *室町時代に処刑場だった六条河原から、江戸時代になってこれに纏わる非人が六条村として集まり、死んだ牛馬の処理や皮革業の他、刑警吏役、二条城掃除役、牢屋敷外番役、京中見回り役、犯罪人の逮捕などの仕事を与えられ人口も増加し、当時空いていた銭座場跡に新しい村を開発し移転、これが今日の柳原町の起源となった、明治に入り「柳原町」になったが、インフラ整備が遅れ住環境は劣悪で鴨川沿いにはずらっと不法占拠のバラック小屋が並び長くスラム状態だった、1956年に京都市は改良住宅を建設しピーク時には人口9000人以上に上ったが高齢化が進み2020年の人口は1380人、そして2017年に京都市立芸術大学の移転が決まると、改良住宅を取り壊し住人は近隣に造られた風呂付き新築の団地に移り、崇仁小学校のあった場所には京都市立美術工芸高等学校も移転し、最近の地価は四条烏丸河原町の「田の字地区」に匹敵するほどの高騰を見せている *又、隣の「東九条」が在日コリアンタウンとなったのは、明治に入り柳原町の人口が増加したため畑地であった東九条に進出したところに、その後を追って韓国併合を背景に朝鮮半島から渡日した人々が集まったためで、ピーク時には9000人になり、映画パッチギの舞台ともなった、当初柳原町の日本人と在日コリアンの関係は良好ではなかったが近年になって交流の場が持たれるようになったという、又、宇治市ウトロ地区の場合は、1940年から日本政府が推進した「京都飛行場建設」に集められた在日朝鮮人労働者たちの飯場跡に形成された集落 -
「桜田儀兵衛翁の顕彰碑」(さくらだぎへえ)
「桜田儀兵衛」(1832-93)は、銭座跡村にて生まれ、41歳にして村長となり、私財を投じて貧民救済を行い、小学校建設のために土地を提供、明治19年(1886)に流行したコレラの防疫活動にも尽力し、村長に在職すること二十年、世に被差別部落の自治の心意気、すばらしさを示した、この石標と石碑はその業績を顕彰するもので、「柳原町は戸数千戸以上であるが貧困な人が半数以上を占め、これに加えて悪習に染まり治めるのが困難な地域であった。翁はいろいろ考え、学校を設け、入学を勧誘することを始めた。学資の出せないものには衣服や道具を給付し、そのかたわら父兄に地道な生活の必要を教えた。数年間こういう努力をしたところ風俗がおおいに良くなった。翁はまた柳原町の予算がいつも不足することを心配し、別に歳入を見つけて町民の負担にならないようにした。あるいは道路や溝を修理・新設し町内の水はけを改良した。また、天災や伝染病の害があれば、すぐに被害を受けた人を救っていた。およそ、柳原町に関係したことであれば、財産をなげうってでも率先して実行したが、自分は常に倹約を旨とし、一生絹物を着ることがなかった。」とある -
「柳原銀行記念資料館」(やなぎはらぎんこう)
「柳原銀行」は、柳原町長の明石民蔵(あかしたみぞう1856-1920)により、明治32年(1899)既存の銀行を使うことが出来ない人のために独自に作った銀行で、地元産業の振興や教育の向上に多大な貢献をしたが、昭和2年(1927)破産、その後平成9年(1997)柳原銀行記念資料館が開館し、崇仁地区の差別の歴史や文化の展示、紹介として使われている *「明石民蔵」は、銭座跡村に生まれ、土地測量関連に従事した後1893~1915年柳原町長として、教育、衛生普及、風俗改善、町内の産業育成、改良事業に努め、部落差別改善活動にも奔走した -
「銭座場跡」(ぜにざばあと)
江戸時代1698年に設置され、当初は寛永通宝を製造し、1705年からは宝永通宝を鋳造したが、1709年に廃止、その後「銭座跡村」(銭座村)となり、柳原町となった -
敷地内に、高瀬川に架かる「塩小路通」の「塩小路橋」の親柱
「昭和3年12月」とあるが、何故ここにあるのか不明 -
「崇仁橋」の親柱もあったが、説明がないのでよく分からない
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「崇仁テラス」(すうじんてらす)
京都市立芸術大学が、移転に当たり地元崇仁地区の皆様方へ感謝し、地域との交流を行う広場を「崇仁テラス」と命名したという -
「京都市立芸術大学」
日本最古の芸術系大学として、明治13年(1880)京都府画学校、昭和25年(1950)京都市立美術大学、昭和44年(1969)音楽短大を統合して「京都市立芸術大学」創立、西京区沓掛から今年2023年10月1日崇仁地区に移転、移転事業費270億円 -
新キャンパスは、3つの地区に10の建物があり、音楽学部と美術学部で学ぶ約1000人の大学生と大学院生が学び、一般の人も利用できるギャラリーや図書館、800席のコンサートホールもある
美術学部:美術科(日本画、油画、版画、構想設計、彫刻)、デザイン科(ビジュアルデザイン、環境デザイン、プロダクトデザイン)、工芸科(陶磁器、漆工、染織)、総合芸術学科(総合芸術学)
音楽学部:音楽学科(作曲、指揮、ピアノ、弦楽、管・打楽、声楽、音楽学) -
高瀬川沿いを歩く
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塩小路通まで歩くと高瀬川に架かる「塩小路橋」、さっきの親柱はここのものか?
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「うるおい館」
京都市下京いきいき市民活動センター、地域包括支援センター、デイサービスセンター、交流ロビー、崇仁診療所、消防団 を併設
HPより:社会的困難を抱えた地域のみなさまへ寄り添い、当事者性を大切にしながら「支え手から担い手へ」シフトしていくことを支えることや、これまでまちづくりにあまり関わってこなかった事業者や若者層を意識した取り組みなど、まちの多様な担い手づくりを模索していきます。 -
須原通に沿って、立ち退きが完了して空き地になったところを七条通へ進む、背後には京都タワー
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「崇仁地区環境協議会」
崇仁地区は日本3大部落の1つに数えられているにもかかわらず、部落解放同盟には加わらず、独自の差別撤廃を訴える団体を昭和60年(1985)に結成した、HPによると、「崇仁同和地区のうち、京都市下京区 の8町の区域住民(総人口2700名、うち1763名)で構成されています。現在私たちは、地域 の自立的再開発構想として、伝統と斬新さが交差した誰もが住みたくなるような活気あふれる街づくりを計画しています。
崇仁協議会の目指す新しい街が、国境や国籍、民族を飛び越えたインターネッ トのように、快適な住環境とともに世界の皆さまが第二の故郷として親しんでくれるような触れ合いと出会いの場になることを願っています。」とある -
須原通沿い一角にあるお好み焼き屋さん「あいこちゃん」
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「三ッ梅稲荷大神・荒熊大神・御剣大神」三神の鳥居
背後は「崇仁市営住宅33棟」 -
須原通から七条通にかかるところにある「カモガワアーツ& キッチン」で休憩
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吹き抜けのある落ち着いた雰囲気で、一人で入るにはちょうどいい
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ランチもあり、夜はお酒もあるが、今日はこれで終了!
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