2024/02/24 - 2024/02/24
920位(同エリア3571件中)
Bachさん
昨年3月から平安京の「東西」に走る「一条大路」から「九条大路」までを歩いて、今までの観光では気づかなかったウォーキングならではの新しい発見がたくさんあったので、今年は「南北」の通りを歩いて見ることにしましたが、平安京の大路は「東西」はほぼ現在も基幹道路として残っているのに対し、「南北」は通り名が朱雀大路が千本通、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)が寺町通などと名称が変わり、基幹の通りも河原町通や烏丸通、堀川通など明治以降に整備されているので、どこから歩けばいいか迷います。そこで、出来るだけ平安京の史跡が多く残る通りから始めることにして、まず最も京都らしい「寺町通」を歩くことにします。
「寺町通」は平安京の最東端にあたり、当時は「東京極大路」という名前でしたが、豊臣秀吉の洛中改造により東の防衛線として御土居が設けられ、これに沿って京都中の寺院を強制的に集めたことから「寺町通」と呼ばれるようになりました。
お寺の数は最も多い時期で100を超え、仏具や筆など寺院に関連する商店が集まり、通りはどんどん繁栄しましたが、現在の寺町通は、鞍馬口通から丸太町通は、途中の御所の東側も含め閑静な住宅街にお寺が連なり、丸太町通から御池通になると次第に個性的な商店が現れてきて、御池通りから四条通は京都一のアーケード街、そして四条から五条まではかつて電気街で賑わっていた通りですが、今はお寺しかありません。
結局、現在80ほどの寺院が残る寺町通の内、半分の40の寺院を訪問して、今年話題の紫式部や藤原道長から織田信長、大石内蔵助、直近では森光子まで脈々とつながる日本の歴史の痕跡を辿ることが出来て、今回も頭にも体にも大変有意義な「京町散歩」でした。
-
「南北」の通りは中央を通る「朱雀大路」を中心に、東に16本、西に16本の合計33本あり、最東端の「東京極大路」が秀吉の都市改造で寺院がこの通りに集められたため「寺町通」になったもので、北は鞍馬口通から南は五条通まで4.6km、平安時代は洛中と鴨川の境界とされ、秀吉の御土居はこの通りに沿って築かれ、江戸になってこれが破壊されると、河原町通と土手町通が造られ、鴨川以東も賑やかになっていった
-
(散歩ルート)10:00鞍馬口駅~上善寺~天寧寺~西園寺~阿弥陀寺~大黒屋鎌餅本舗~十念寺~本満寺~11:15出町柳枡形商店街~大原口道標~大久保利通邸跡~本禅寺~清浄華院~11:40廬山寺~梨木神社~法成寺跡石碑~鴨沂高等学校~新島襄旧邸~横井小楠殉難の地~下御霊神社~行願寺(革堂)~戎川通・家具屋街~一保堂~村上開新堂~寺町二条の交差点~12:15ランチ「出石庵」~本能寺~天性寺~矢田寺~誓願寺~誠心院~蛸薬師堂(永福寺)~錦天満宮~錦市場~火除天満宮~京都大神宮~寺町松原~14:30五条大橋「半兵衛麩」
-
地下鉄「鞍馬口駅」からスタート
-
「上善寺」(じょうぜんじ)
平安時代の863年、円仁(えんにん)が天台密教の道場として創建、その後復興し1594年秀吉の都市改造で現在地へ移転し浄土宗に改められた -
「地蔵堂」
鞍馬口地蔵と呼ばれる「六地蔵めぐり」の一つで、小野篁作と言われる「深泥地蔵」(みぞろが)を祀る、「六地蔵めぐり」は、1157年に都を病魔から守るため後白河法皇の命で平清盛が都の出入り口6カ所に六角形のお堂を建て、小野篁が彫った地蔵菩薩を祀ったのが始まりで、毎年8月22日・23日に六ヵ所のお地蔵さんを巡拝して、家内安全、無病息災を祈願する、他5ヵ所は大善寺(伏見地蔵)、徳林庵(山科地蔵)、浄禅寺(鳥羽地蔵)、 桂地蔵寺(桂地蔵)、源光寺(常磐地蔵) *「小野篁」は、地獄に落ちて苦しむ人々を六道を巡って救済している地蔵菩薩から「地獄の苦しみと私のことを人々に伝えてほしい」と告げられ、仮死状態から生き返ったため、1本の桜の木から6体の地蔵を彫り六地蔵付近に収めたという -
境内には今出川家(藤原氏北家西園寺家系)歴代の墓や、越前松平藩の菩提寺で歴代大名のお墓がある
-
現在の境内は、明治時代後期に長州藩士により整備され、幕末の禁門の変で亡くなった入江九一らの「長州人首塚」が祀られている
-
「天寧寺」(てんねいじ)
会津城下に楠木正成の孫とされる禅僧・傑堂能勝(けつどうのうしょう)が建立、秀吉時代にこの地に移転され、天明の大火後直江兼続らの援助により復興し再建された、境内には正成の紋「菊水の紋」が見受けられる -
門前に「松陰坊遺跡」と「金森宗和」の碑
「松陰坊」は、延暦寺末寺で1571年信長の比叡山焼き討ちで焼失し廃寺となり、この地に伊達政宗の会津攻めにより会津城下にあった天寧寺が移転してきた
「金森宗和」(かなもり そうわ)は、大徳寺で禅を学び、茶道・宗和流を開いて3代将軍家光に招かれたこともあった、本堂には金森宗和像や、宗和が宇治の茶の木で刻んだと伝わる千利休像が安置されている -
山門は、比叡山を望む光景から「額縁門」と言われる
-
「観音堂」には後水尾天皇夫妻の念持仏である観音像を祀る
-
正面の「表門」「本堂」「書院」は、御所から移築された、本堂前の「カヤの木」は、市内有数のカヤの木として市の天然記念物で、天明の大火による傷跡と落雷の跡が歴史を伝える、その先の石灯籠「諫鼓鶏(かんこどり)」は、人々が君主に諫言(かんげん:欠点や過失を指摘して忠告する)ために鼓を置いたが、君主は善政を行ったため使われることなく鼓は苔むしたので、「諫鼓苔深くして鳥驚かず」という天下泰平のたとえに由来
-
「諫鼓鶏」が比叡山を眺めている構図が「天下泰平」を表して素晴らしい
-
「まんじ稲荷社」
伏見稲荷大社より分霊された「稲荷大神」を祀る、境内墓地には、江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ)や、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚(ぜんきつおしょう)らの墓がある -
九重石塔「明智光秀公報恩塔」
1999年本堂修理の際に須弥壇の天井裏から光秀の位牌が発見されたことに由来、会津からの移転に光秀が関わったので位牌があると推察、比叡山焼き討ちを行った光秀の位牌が元比叡山末寺にあるという因縁が興味深い -
「わらべじぞう」
これも本堂修理の際に天井裏から発見された会津の時の御本尊で、台座に「天寧寺は山城守・直江兼続が力を貸して復興された」とある -
「西園寺」(さいおんじ)
1224年藤原公経(きんつね)が衣笠山の麓に別荘を造り、その池畔に本堂、寝殿などを建てて「西園寺」と称したのが起りで、以来その子孫である西園寺家が代々領有してきたが、1397年足利義満が北山殿(金閣寺)をこの別荘地に建てたので(河内国と交換)、室町通に移転し、さらに1590年秀吉の都市改造によりこの地に移転した
*西園寺公望(さいおんじ きんもち1849-1940)は、西園寺家の養子となり家督を継ぎ、学習院から御所に出仕し岩倉具視と親しくなり、その推挙により明治政府の要職につき、22歳で10年間のフランス留学、帰国後伊藤博文の腹心となり初入閣し、外相・文相・蔵相などを歴任し、内閣総理大臣を2度務め、明治天皇、大正天皇を輔弼(ほひつ)し実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与え、最後はただ一人の元老となったが90歳で亡くなった、「立命館大学」は、西園寺が1869年京都御所内の私邸に作った「私塾立命館」礎となり、後に側近の中川小十郎が創設した、立命館大学に寄贈した扁額には「藤原公望」と西園寺家の本姓になっており、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた -
鐘楼の梵鐘は戦時中に供出され溶解直前に終戦を迎えたので寺へ戻されたが、その際銅の質を検査するために開けた4つの穴が残っているという
-
「本堂」
天明の大後の再建で、正面には明治・大正・昭和の時代に政界で活躍した西園寺公望の筆による寺号の額を掲げる、堂内には北山第から遷された、鎌倉時代の恵心僧都作の本尊阿弥陀如来像を祀る、 -
本堂前の庭園と、浄土宗の宗祖・法然上人像
-
「地蔵堂」
北山にあった功徳蔵院(くどくぞういん)の地蔵菩薩像地蔵菩薩像を安置、周りの地獄・極楽図は、悪事を討ち止め、善事を励ますとの意味があるという -
「弁天堂」
西園寺家は代々天皇や上皇に琵琶曲を伝授した宗家の家柄であり、藤原公経が北山第に
西園寺を造営された際、妙音堂を建立して妙音天(弁才天)を祀っていた -
稲荷大明神も祀られている
-
「上御霊前通」を西へ行くと「御霊神社」(通称・上御霊神社)
「囀市」(さえずりいち)毎月18日、出店者とお客さんが話す様子が小鳥のさえずりのように聞こえることに由来しているらしい -
光明寺(こうみょうじ)、近くに長休寺(ちょうきゅうじ)、慈福寺(じふくじ)、大歓喜寺(だいかんきじ)帰白院 ( きはくいん ).など、この辺はお寺だらけ
-
「阿弥陀寺」(あみだじ)
1550年ごろ、織田信長と家族同然で実の弟のように育てられた「清玉上人」(せいぎょくしょうにん)が近江の坂本で開創し、織田信長の帰依を得て現在の今出川通大宮に移り、塔頭11寺院をもつ大寺院として隆盛し、 1585年豊臣秀吉の都市改造により現在地に移転、門前に「織田信長本廟」の碑があり、織田信長・信忠親子や家臣の墓がある、信長の墓と伝えられるものは全国に15ヵ所以上あるが、大正6年に行われた宮内庁の調査で織田信長の廟所であると認められ、ここが最も信ぴょう性が高い -
信長の墓と伝えられる京都の寺院は、「本能寺」(三男信孝が集めた遺骨)「大徳寺総見院」(秀吉が建立)「大雲院」(二条殿に籠って戦い自刃した嫡男信忠を弔い跡地に建てられた)「妙心寺玉鳳院」(武田勝頼のご縁で)「建仁寺」(信長の弟・有楽斎が十三重石塔を建立)、京都以外では和歌山・高野山、滋賀・安土城跡、近江八幡・西光寺、堺・南宋寺本源院、静岡・本門寺、富山・瑞龍寺など、又墓ではないが関連する寺としては天下を統一した信長の偉勲を称え明治2年明治天皇が創建した「建勲神社」(けんくんじんじゃ)、阿弥陀寺跡地にあった織田稲荷社が「今宮神社」にある
-
「本堂」
織田信長・信忠親子の木像が安置され、本能寺の変6月2日の信長の命日に「信長忌」が営まれる *信長(1534‐1582)は、尾張那古野城の城主・織田信秀の子、26歳でわずか2,000の兵で今川義元の大軍2万5,000を桶狭間で撃破し武名をあげ、浅井、朝倉を姉川で破って上洛し、15代将軍足利義昭を追放し室町幕府滅亡、長篠で武田勢を壊滅させ安土城を築き全国支配に乗り出す、その間課税を免除した楽市・楽座、関所の廃止で商業を発展させ、外国文化も積極的に取り入れ、北陸方面を柴田勝家、中国方面を羽柴秀吉、関東方面を滝川一益に攻略させ、天下統一目前で明智光秀の裏切りに合い自刃した、享年47歳 -
芭蕉の句碑「春立つや 新年ふるき 米五升」
(新しい春が来たとみんなが言うが、我が家には新年の餅などはなく、古い米が五升ほどあるばかり)草庵に住まいする質素な正月を詠んだ句で、阿弥陀寺の住職であった「幻阿蝶夢」(げんあちょうむ1732-95)は芭蕉復興運動の中核を担い、住職を辞した後、岡崎の白河門院前に「五升庵」という草庵を結び「芭蕉翁発句集」などをまとめた -
本堂と方丈をつなぐ渡り廊下をくぐると墓地に行く
-
「織田信長本廟」
信長の遺体は、この寺院を開いた「清玉上人」が、本能寺の変が起こった時に駆け付け既に亡くなっていた信長をその場で火葬し遺骨を持ち帰ったとされており、しばらく所在不明だったが、これを知った秀吉は「信長の後継者」を世に示そうと、阿弥陀寺で信長の葬儀を営もうとするが、清玉は「既に葬儀は営んでいる」と断ったため、秀吉は大徳寺で盛大な葬儀を執り行い信長の墓所「総見院」を創建したと言われ、このために秀吉の都市改造1591年よりも前の1585年にお寺の規模も縮小され今の場所に移転したとされ、この時信長をはじめとする家臣120余名の墓も移し、本能寺の変の戦死者を弔う供養塔や、信長の息子・信貞の墓と、本能寺の変で信長と共に命を落とした森蘭丸らの墓もある -
「清玉上人」(せいぎょくしょうにん)墓
清玉上人は母親の死後織田家によって育てられ出家して僧侶になったので、織田家とは家族同然の間柄で、当時弥陀寺から4kmほどの本能寺が騒がしいと知ると急ぎ駆けつけ、既に自害して焼けていた信長の亡骸を持って本能寺を出て供養したと言われている、これには諸説あり、清玉が焼け跡から拾ったのは誰のものか不明で、戦死者の骨や燃え残りの中から信長が着用していた衣服の一部を見つけただけとも言われる
「森光子の墓」
事前知識がなかったので気づかなかったが、2012年93歳で亡くなった「森光子」さんの墓もあるという、実家は京都のお茶屋さんで、阿弥陀寺と同じ寺町通の京都第一高等女学校(現・鴨沂高等学校)を中退し、嵐寛寿郎さんの従妹というご縁で映画界に入ったという -
「十念寺」(じゅうねんじ)
1431年、後亀山天皇の皇子であった真阿(しんあ)上人のために室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり1394-1441:足利義満の子)が誓願寺に建てた住房「宝樹院」(ほうじゅいん)が起源で、その後1591年秀吉の都市改造で現在地に移転 *真阿上人が足利義教に十念を授けたことに由来 -
寺内には、足利義教をはじめ、後陽成天皇の皇子高雲院宮(こううんいんのみや)、医者の「曲直瀬道三」(まなせ どうさん)、「曲直瀬道策」(まなせどうさく)、施薬院全宗(せやくいんぜんそう)、鋳造師金座後藤家、銀座後藤家などの墓がある
「曲直瀬道三」(まなせどうさん1507-1594)石碑:明智光秀のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、堺正章さん演じる医師・東庵のモデルになった戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した儒医で、豊臣秀吉、毛利元就、三好長慶など多くの戦国大名の治療に当たり、日本最初の医学校を聚楽第近くに建て多くの医者を養成、徳川の時代になってからは世襲の侍医に指定され曲直瀬一門は日本最大の漢方流派となった
「曲直瀬道策」(まなせどうさく1838-1867)墓:曲直瀬道三の流れを汲む江戸時代後期の医師で、やがて上洛運動を展開し小松帯刀らと勤王同志の活動資金を得ようとし新撰組により殺され、初代・曲直瀬 道三とともに墓が並ぶ
「施薬院全宗」(せやくいんぜんそう1526-1600)墓:秀吉に仕えた戦国医師 -
「本堂」
ひときわ目立つ本堂は、建築家としても知られる大阪天王寺・一心寺の「高口恭行住職」が設計し平成5年(1993)竣工した近代的な寺院建築で、イスラム教のモスクのようなビザンティン様式の集中式ドームの仏教寺院、堂内は三方の高窓から採光し本尊の阿弥陀像を浮かび上らせるというから一度見てみたい、本尊は平安時代の作で、他にも開基真阿像(しんあ)、室町時代の説話絵の仏鬼軍絵巻1巻などある -
「高口恭行住職」 (たかぐちやすゆき1940-)
大学教授、建築家、住職の3足のわらじを履くという人物に興味があったので、調べてみた、京都大学建築学科卒、奈良女子大教授、1980年設計事務所、造家建築研究所を主宰、関西建築家大賞を受賞、父親は商社勤務だが何故か住職になっているのは、京大生のとき寺の一人娘の家庭教師をした縁で結ばれ、京大助手時代に僧侶の資格を取得、現在は引退し長男に引き継いでいるがこれも元獣医というから面白い(次男早稲田助教授、三男俳優)、大阪天王寺の「一心寺」も奇抜で、ギリシャ彫刻のような仁王が立ち並び全面ガラス張りの山門に、信者の骨で作られたお骨仏を安置し、講堂はいす席で教会風、地下には観客席280の演劇や伝統芸能などを公演する一心寺シアターや一心寺喫茶など、イスラム教やキリスト教の寺院のように都市寺院の現代的役割として「開かれた寺」「広場としての寺」「歴史・文化の維持装置としての寺」を目指しているという -
屋根は日本瓦葺の八角堂で、鳳凰(ほうおう)が載る
-
庭園は普通
-
鐘楼も普通
-
「佛陀寺」(ぶっだじ)
平安時代952年、朱雀・村上両天皇が開基し、1591年秀吉の都市改造で現在の地に移された、本尊の阿弥陀如来座像(重文)は定朝様式の寄木造 -
「玉城地祭地蔵尊」は、朱雀天皇の守護佛
-
「本満寺」(ほんまんじ)
日蓮宗の大本山の一つで、関白近衛道嗣(みちつぐ)の嫡子・日秀上人(にっしゅうしょうにん)が本圀寺から分立する形で創建、1539年近衛殿近所に移り後奈良天皇の勅願所となり、1590年秀吉の都市改造で現在の地に移転した、1751年には35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り将軍家の祈願所にもなった -
「出町妙見宮」
「妙見さん」と呼ばれる妙見大菩薩を祀り、京都市内の丑(北北東)の方角にあたることから「洛陽十二支妙見めぐり」では開運・厄除・招福を祈願する多くの人々が訪れる *「妙見大菩薩」は、北極星、北斗七星を神格化した菩薩で、宇宙万物の運気を司どる -
「本満寺」は桜の名所としても人気で、境内にシダレザクラ、ベニシダレザクラ、ヤエザクラなど10本の桜がある、特に方丈前の枝垂桜はシンボル的存在で、円山公園の祇園枝垂桜の姉妹樹といわれる樹齢90年の大木
-
「本堂」
「本堂」は、1927年に再建されたもの、本尊の十界大曼陀羅と日蓮自作と伝わる日蓮上人像が安置されている、また本堂脇に、徳川家康の2男結城秀康正室・蓮乗院(鶴姫)の石廟(京都に現存する数少ない木造でなく石を材料とした廟建築) -
「七面大明神」
14世・日遠が七面山(見延山)で千日修行した際に手に入れたという日蓮宗総本山身延山久遠寺の守護神「七面天女」が祀られている -
「墓地」には鶴姫の墓や戦国武将で「山陰の麒麟児」と呼ばれた山中鹿之助の墓もある、江戸時代に尼子氏の家臣山中氏の子孫により立てられたという、また墓地には「御土居」があった
-
「出町柳桝形商店街」(でまちやなぎますがた)
寺町通と河原町通を繋ぐ「枡形通」にある、全長164mのアーケード街に食料品店や衣料品店を中心に地域密着型の店舗44店舗が並ぶ、賀茂川に架かる出町橋付近はかつて京都から八瀬大原を経て福井県の小浜へと通じる「若狭街道」(鯖街道)の終点だった場所で、江戸時代から京都の北のターミナルとして栄えてきて、枡形通の商店街は大正時代から発展し出町地区の商業の中心となり、八瀬や大原、遠くは滋賀県からも買い物客が訪れるようになり昭和52年桝形協同組合が設立されアーケード街が出来た -
「桝形通」は以前は「出町通」と呼ばれ、周辺には公家や学者が多く暮らし、江戸時代から明治にかけては醸造業者や砂糖問屋などが存在したが、大正になってこの地に市場が開設されると周辺に食料品店が集まった、また「桝形」とは、秀吉が築いた御土居の桝形の形がそのまま残っていたから命名された、今は駐車場になっている
-
「出町」とは、江戸時代に洛北から京都に出てくる所、あるいは外に出てゆくところの意味で、河原町今出川一帯を指し、大正時代に洛北から出町に出かける人のために叡山電車ができた時に、元々「柳の辻」と言われたこの地と「出町」を合体して駅名を「出町柳」としたら、駅周辺一帯も「出町柳」と呼ぶようになった(叡山電車1925年、京阪電車1989年)
-
「寺町通」「今出川通」交差点
-
「大原口道標」(おはらぐちどうひょう)
大原口は、京の出入口「京の七口」の一つで、東西南北4面に22か所もの目的地名が距離とともに表示されている、北は大原から若狭への街道、東は鴨川を越えて白川越(山中越)、南は六角堂、祇園など、西は金閣寺、御室など京の市街地 -
「グランドバーガー」という1,000円くらいの高級ハンバーガー店があるところから通りが狭くなる
-
「大久保利通邸宅跡」(おおくぼとしみちていたくあと)
薩摩藩士の大久保利通が、倒幕の動きが活発であった頃の1866年~1868年にかけて京都御所近くのこの場所を拠点に、朝廷や他藩など反幕府勢力との調整を行っていた -
「藤原定家一条京極第跡」
藤原定家(1162-1241)は、鎌倉時代の公家・歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人、京極邸に住んでいたので「京極中納言」と呼ばれ、当初寺町通二条に住んでいたが、その後息子の為家に引き継ぎ、晩年は一条京極に移った -
「京極小学校」
明治2年(1869年)開校、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の母校 -
「本禅寺」(ほんぜんじ)
法華宗陣門流の本山で、日蓮宗京都16本山の一つ、室町時代1406年に法華宗陣門流の門祖・日陣が本圀寺から分立し四条堀川に創建、その後日覚が西陣に再建し、1590年秀吉都市改造で現在地に移転 -
「本堂」「釈迦堂」「鐘楼」などあるが、境内は殆ど駐車場になっている
-
「清浄華院」(しょうじょうけいん) 縮めて浄華院(じょうけいん)
浄土宗七大本山の一つで、知恩院、百万遍知恩寺、金戒光明寺と並び京都四ヶ本山の一つで、平安時代に清和天皇の勅願で慈覚大師円仁が開基し、後に法然上人に下賜されて浄土宗寺院になり、その後室町時代には皇室や公家、幕府、武家の帰依を受け特に足利義教より篤い帰依を受けたが、秀吉都市改造で現在地に移転 -
「勅使門」
皇族参詣などに限り開かれた、唐門様式で扉には菊の紋、唐破風屋根、銅板葺、1934年再建 -
「総門」
1788年天明の大火後に再建、高麗門様式で両脇に番小屋があったが、現在は「不動堂」、「地蔵堂」として改築 -
境内から総門右の「不動堂」と左の「地蔵堂」は、平成23年の大遠忌にあわせ再建された、それぞれ江戸時代にあった「泣不動」ゆかりの「身代わり不動」として名高い不動明王坐像、「染殿地蔵」ゆかりの「染殿地蔵尊」を祀る
-
手前「手水舎堂」「鐘楼堂」、後ろ「阿弥陀堂」、その横に「小方丈」(生活空間)、正面「大方丈」、「鐘楼堂」の建物は平成22年再建だが梵鐘は江戸時代1610年に鋳造のもの、「阿弥陀堂」は貴族たちが帰依した「旧松林院」の本堂で現在の建物は大正天皇御大典式典の際の二条城の接待所である饗応所を宮内省より下賜され、その部材を使って建てられている、松林院は公家の檀家が多く、篤姫の曾祖母や岩倉具視の謀臣玉松操、尊皇攘夷の急先鋒として活躍した公家の姉小路公知、織田家と親交があった山科言継のお墓など多くの皇室・貴族関係者が眠っていおり、京都御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、幕末には御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩、薩摩藩、会津藩などの藩士の宿所となった、現在松林院の旧境内地には浄山学寮が建てられ法務実習に使用されている
-
「大方丈」(おおほうじょう)
旧阿弥陀堂の本尊・木造阿弥陀三尊像を安置する、中央の阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信作とされ、両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩像は正座のように足を曲げる「大和座り」と呼ばれる珍しい座り方をしているという -
「藤原道長建立法成寺跡出土礎石」大方丈前
2021年に「法成寺」(ほうじょうじ)の東端部にあたる巨大な礎石と大日如来の石仏、焼かれて赤茶色になった石造物が出土した、平安時代後期1019年に藤原道長(966-1028)は出家し阿弥陀堂を建立、さらに金堂、五大堂などが建立され摂関時代の最大の寺院として豪壮を極め、1022年に「法成寺」に改められた、晩年を法成寺で暮らしていた道長は1028年生涯を終えた、 *道長の子頼通が建立した宇治の「平等院鳳凰堂」は、法成寺を参考にしたのだという -
「篤姫・曽祖母智満方」(ちまのかた)の墓
宝篋印塔は天璋院篤姫の曾祖母に当たる「智満方」(春光院)の供養塔で、薩摩25代藩主島津重豪(しげひで)の側室となった「智満方」が、公家の堤代長(つつみとしなが)の長女で、松林院が堤家の菩提寺であるところから、島津藩によって建立されたという、「智満方」と島津重豪の孫の内、斉興(なりおき)が27代藩主になり弟の忠剛(ただたけ)は今泉島津家の養子となって家督を継ぎ、一族の娘 幸(ゆき)と結婚して生まれたのが「篤姫」になる -
「本堂」御影堂(みえいどう)、大殿(だいでん)とも呼ばれる
法然上人の御影(みえい)をお祀りしており、本尊は法然上人像で上人が後白河法皇より当院を賜った42歳の時のお姿を自ら刻まれたもので壮年期のものは珍しいという、現在の建物は1911年(明治44年)の法然上人七百年大遠忌に落成したもの、内陣にはゆかりある天皇・皇族の方々のお位牌を安置し、建物西側には勅使や皇族の方々をお迎えするための玄関があり、建物の各所に皇室ゆかりの菊花紋があしらわれて、皇室ゆかりの寺院としての格式を残している、また西壇には「泣不動尊」が祀られ、4m四方の「大涅槃図」もある -
「法然上人御骨塔」
平成30年にこの石塔の中から、1689年清浄華院の45世雲龍上人が「浄華院開山元祖法然源空上人御骨」を納めたと記した木札と御骨、陶製仏像、銅製容器などが発見され、令和元年に設置したとある、法然上人の舎利と御廟は奥の墓地の方にある(京都の浄土宗四箇本山:知恩院、百万遍知恩寺、金戒光明寺にはみな法然上人の御廟が存在している) -
「天明大火供養塔」
天明の大火による犠牲者を弔う供養塔で、周囲に六地蔵の石仏と二体の地蔵尊が安置され、正面に「焼亡横死百五十人之墓」と刻されている、「天明8年(1788)正月29日夜、洛東宮川町の団栗辻子より出火した火は、折からの強風にあおられ。鴨川を越えて京都市中の大半を焼きつくし、多くの被害者を出した」京都市街の大半を焼き尽くし二条城や御所も類焼するほどの大火災だった -
「法成寺跡」(ほうじょうじあと)
蘆山寺を過ぎて丸太町通寄りに進むと荒神口通に「清浄華院」にあった礎石も残る広大な「従是東北法成寺跡」の石碑がある、宇治平等院のモデルにもなった摂関期最大級の寺院で、道長の主邸土御門殿(つちみかどどの)の東に建てられ、京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなった、藤原氏が衰退すると荒廃し鎌倉末期には姿を消し、現在残るのは石碑のみ -
「蘆山寺」(ろざんじ)
「紫式部の邸宅跡」で現在NHK大河「光る君へ」で人気のスポット、もともと比叡山の中興の祖である天台座主・良源(元三大師、慈恵大師)が938年創建し、北山から船岡山付近を経て秀吉の都市改造で現在地に移ってきた、建物は閑院宮家の援助を受けて再建され、現在の本堂は1794年に仙洞御所の一部を移築して作られたもので、1965年(昭和40年)に紫式部邸跡と認定され顕彰碑と桔梗の花が可憐な「源氏庭」が築かれ、「源氏物語」の世界を表現している -
「源氏物語執筆地」
紫式部はこの邸宅で育ち、20代半ばすぎに結婚し一人娘を産み3年ほどで夫が死去し、その後「源氏物語」を書き始め、その後藤原道長に召し出され、娘の一条天皇中宮彰子に仕える間に道長の支援のもと「源氏物語」を完成させ、59歳ほどで死去したといわれる、紫式部の作品はほとんどこの地で執筆されたので、世界文学史上屈指の「世界文学発祥の地」とも言われている *紫式部は、弟がなかなか覚えられない「史記」を脇で聴いていてすらすらと覚えてしまうので、「この娘が男でないのが残念だ」と歎いたという逸話がある -
「元三大師堂」(がんざんだいしどう)
本尊は、元三大師(良源)の自作とも伝わる元三大師像で、その御前立の鬼大師像(鬼面坐像)は、口が耳まで裂け両目を開き手に独鈷(どっこ)を持って邪念降伏へと導く元三大師の姿、如意輪観音像、毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像の他、比叡山焼打ちの際明智光秀に焼打ちしないように願い焼打ちをのがれたご縁で明智光秀の念持仏と伝わる地蔵菩薩坐像も安置している -
「源氏庭」(2007年10月撮影)
白砂と苔で絵巻物の雲がかたどられ、紫にちなんで一千株の桔梗が植えられている、源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のこと(6月~9月開花) -
手水舎堂
-
鐘楼堂
-
「筆塚」
「日本画家・池田遙邨先生筆塚」(いけだようそん)とある、何故ここにあるのか分からないが、紫式部にあやかって学問や書などの上達を願い、古くなった筆を供養するということか -
黒い勅使門の横に紫式部と娘・大弐三位の「歌碑」がある
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影
有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする -
「節分会 追儺式鬼法楽」通称「鬼おどり」
既に2月3日に済んでしまったが、節分の護摩法要を行う僧侶を赤鬼、青鬼、黒鬼が大きく足をあげながら踊るように練り歩き邪魔しに来るというユーモラスな「節分会」がある、赤鬼は貪欲(どんよく)、青鬼は怒りや憎しみ、黒鬼は無知を意味する「愚痴」(ぐち)を表し、僧侶が法力によって鬼を退治することで3つの貪欲を消し去るという意味がある -
「御土居」(おどい)
右側奥の墓地の一角に、京都市で史蹟に指定された9ヶ所の内の一つで、南北方向で唯一現存する約50m長さの御土居がある
「御土居」は1591年、豊臣秀吉が長い戦乱で荒れ果てた京都の街を「聚楽第」(じゅらくだい)を中心とした巨大な城塞都市にする都市改造に着手し、洛中を取り囲む土塁の構築と街区の再編成をわずか5ヶ月で行ったもので、土塁は外敵侵入を阻止し、鴨川の氾濫から市街地を守り、街区は条坊制に基づく平安京の町を短冊形にしてほぼ現在の道幅に変更し家を密集することで税収を増やし、同時に寺院を強制移転させ市街地の東側に「寺町」、北部に「寺之内」を形成し、寺社の影響力を弱めることに成功した、「寺町」は鴨川沿いに築かれた御土居に沿い、江戸時代に天下太平の世になると「御土居薮」となり、各寺に払い下げられ墓地に変わっていった、明治までは清浄華院と隣接する廬山寺の間にはこの御土居薮が続く「廬山寺切通」といわれる道があったという -
「京都府立医科大学付属図書館」
事前知識がなかったのでスルーしたが、ここに最近復元された「御土居」があるという -
「梨木神社」(なしのきじんじゃ)二の鳥居
御所の東にあった旧三条家邸宅跡に明治18年(1885)に創建された、祭神は明治維新の原動力となった三条実万(さねつむ)・実美(さねとみ)親子で、知と行を兼ね備えた学問の神様として信仰を集める -
「梨木神社」(なしのきじんじゃ)一の鳥居
境内は「萩の名所」として知られ、京都三名水の一つで唯一飲むことができる「染井」(そめのい)が有名、他の堀川通五条東急ホテル横の「左女牛井」(さめがい)、京都御苑の「縣井」(あがたい)は今は存在しない -
「清和院御門」(せいわいんごもん)
平安時代に藤原良房の屋敷「染殿第」があった所で、後に良房の娘で清和天皇の生母・文徳天皇の后の藤原明子(あきらけこ)の御所となり、清和天皇の譲位後ここに住み「清和院」としたところから、「清和院門」と呼ばれる、この門からは、大宮御所や京都迎賓館などが近くにある -
「鴨沂高等学校」(おうきこうとうがっこう)
明治5年(1872)設立の府立高校で、正門は九条家の屋敷から移したもの、日本で最初の公立女学校を前身とし、ヘレンケラーが講義に来たことでも知られている、卒業生に森光子、田宮二郎、沢田研二など -
「寺町御門」
入って右側は「大宮御所・仙洞御所」の南塀、左側は「富小路広場」「ゲートボール場」「トンボ池」「テニスコート」、京都御苑には東西700m、南北1300m、1周4kmの広大な敷地に9ヶ所の御門と6ヶ所の切通し(開きっ放し)があり、寺町通には3つの門がある -
「京都歴史資料館」
京都の歴史に関する調査・研究と歴史資料の収集・保存・活用を目的とし、歴史資料約13万点、図書約5万6千冊などを収蔵し、テーマ展、特別展を開催しているほか、古文書(複写版)や京都の歴史に関する図書の閲覧もできる、1982年開館 -
「新島襄旧邸」(にいじまじょうきゅうてい)
同支社大学の創立者である新島襄の私邸で、明治11年(1878)建立、外観に洋風を取り入れた和洋折衷の住宅となっており、同志社大学が社史資料センターとして公開 -
プロテスタント「洛陽教会」
明治23年(1890)創設の歴史ある教会 -
「丸太町通」を渡る
-
まるたけえびすに、おしおいけ<丸(太町)竹(屋町)夷(川)二(条)押(小路)御池>までの、丸太町通から二条通までの商店街は「寺町会」、二条通から御池通までは「京・寺町会」、(御池通から三条通までは「寺町専門店会」)となり、古くから商いを営む店や専門店としてのこだわりをもった店がそれぞれ80店舗、40店舗ほど並ぶ
-
「横井小楠殉難の地」(よこいしょうなんじゅんなんのち)
横井小楠(1809-1869)は、幕末の儒学者で熊本藩士、福井藩に招かれ、開国貿易・殖産興業など富国強兵策による藩政改革を指導し、幕府の公武合体運動を推進、維新後に新政府に参画したが、進歩的な思想が一部保守派に狙われ、明治2年にこの辺りで暗殺された、西郷・大久保・木戸と並ぶ「維新十傑」の1人に選ばれ、坂本龍馬も尊敬し教えを請い大きな影響を与えた -
「下御霊神社」(しもごりょうじんじゃ)
桓武天皇の839年、疫病を鎮めるための「御霊会」(ごりょうえ)が神泉苑で催され、この祭神6座を出雲氏の氏寺「下出雲寺」(寺町今出川辺り)に祀り、御所の鎮守として創建され、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになった、その後秀吉の都市改造で現在地に移転 *平安時代には現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、上御霊神社を上出雲寺御霊堂と称し、朝廷の篤い崇敬を受けていた -
「正門」
1788年天明の大火後に造営された仮皇居(御所)の建礼門を下賜(かし)され移築したもの、大きい梁の中央に龍が飾られ、表側の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、また裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られている -
表側の大きい梁の中央に龍、左には玄武(神亀)に乗った仙人、右には朱雀(神獣)に乗った仙人
-
裏側には麒麟と鳳凰
-
「手水舎」(ちょうずしゃ)下御霊神社では「手洗舎」
龍の代わりに「蛇口」があり、大きなペットボトルでこの水をいただいて行く人が絶えない、江戸時代に旱魃(かんばつ)に見舞われたとき、神主が夢のお告げで境内の1か所を掘ったら清らかな水が湧き出て、万人に汲ませることが出来「感応水」と名付けられた、今は「御霊水」(ごりょうすい)と名付けている -
「本殿」
奈良時代から平安初期にかけての政争の中で無実の罪で憤死した桓武天皇の弟、早良(さわら)親王の死後、疫病の流行など災いが続いたため、親王の祟りを恐れた桓武天皇は鎮魂のため他の5人と共に祀り「御霊会」(ごりょうえ)の祭神6座を「下出雲寺」に祀った、古来より京都御所の産土神として崇敬され、本殿は1791年仮皇居の内侍所(ないしどころ)を移建した、「祭神」は後に2神加えられた「八所御霊」(平安時代から疫病や天災をもたらすとして恐れられている8柱の神様)で、吉備聖霊(きびのしょうりょう):吉備真備?、崇道天皇(早良さわら親王):光仁天皇皇子、伊豫親王(いよしんのう):桓武天皇皇子、藤原吉子:伊豫親王の母、藤原廣嗣:貴族、橘逸勢:貴族、文室宮田麻呂:貴族、火雷天神(からいてんじん) -
「拝殿」
江戸時代後期1798年に建立、当初檜皮葺だったが明治期に瓦葺になった
*「上御霊神社」は、鞍馬口通の鴨川に架かる出雲路橋から寺町通寄りのところにあり、ともに「八所御霊神」をお祀りしているが、元々この地区一帯は、平安遷都以前から山陰より移動してきた出雲地方出身者達が住みついた出雲氏一族の居住地で、その氏寺としてあった「上出雲寺」と「下出雲寺」に桓武天皇が弟の早良親王の神霊を祀り、平安京の守護神としたことにより「御霊神社」となったもので、「上御霊神社」は古代から現在に至るまで同じ場所にあるが、「下御霊神社」は秀吉の都市改造で現在地にある -
「下御霊祭」(しもごりょうさい)
863年悪疫退散の「神泉苑御霊会」を起源とし、祇園祭869年よりも古い京都最古のお祭りとされ、江戸時代まで続いてきたが、明治になって天皇が東京へ行くと御所への神輿渡御はなくなり、祭りの規模も縮小された、 しかし令和に改元される2019年5月1日に御所への神輿渡御が150年ぶりに、神幸祭の巡行も70年ぶりに復活、今年も5月1日神幸祭(おいで)、5月19日還幸祭(おかえり)が行われる、祭りでは天皇より下賜された全国でも最大級の重量を誇る「大宮神輿」をはじめ3基の御神輿と牛車など総勢600人の渡御行列が京都御苑に入苑し、疫病の退散、皇室の繁栄、ご安寧を祈願し、当日と前日の宵宮は寺町通の丸太町通から二条通まで夜店で大いに賑わう -
末社の「垂加社」(すいかしゃ)
江戸初期に「垂加神道」(すいかしんとう)を唱えた江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家である山崎闇斎(やまざき あんさい1619-1682)を祀る、自宅の祠に祀った「垂加霊社」を後に下御霊神社の境内に遷座し、猿田彦神社に合祀された、「垂加神道」は、天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらし、水戸学の尊王論や国粋主義思想に大きな影響を与えた -
末社の天満宮社、他にも八幡社、春日社、猿田彦社、柿本社(柿本人麻呂)、稲荷社、宗像社、大国主社など多数
-
「行願寺」(ぎょうがんじ)通称「革堂」(こうどう)
平安時代中期の1005年、一条天皇の勅願により行円上人(ぎょうえんしょうにん)が一条の地に創建し、「下京の六角堂」に対して「上京の革堂」といわれたが、1590年秀吉の都市改造で寺町荒神口に移転し、1708年の宝永の大火後現在地に移転 -
「本堂」は、江戸時代後期1815年に再建の天台宗本堂の建築様式
「本尊」は、行円が賀茂の霊木(槻の木:ケヤキの古名)により千h彫った千手観音像、行円が願人になったことから「行願寺」と呼ばれたが、行円が皮の衣を着て行脚しながら布教に努めたことから革聖(かわひじり)と尊ばれたことに因み「革堂」(こうどう)と呼ばれた -
境内には都七福神巡りの一つになっている「寿老人神堂」をはじめ「愛染堂」「鎮宅霊符神堂」「加茂大明神五輪塔 」などがある、また宝物館の若い女性の幽霊が描かれている「幽霊絵馬」も有名で毎年8月に公開される
-
七福神の石像が並ぶ
-
「愛染堂」(あいぜんどう)
恋愛のほか縁結びや夫婦円満などのご利益があるとされる「愛染明王」(あいぜんみょうおう)を祀り、毎月15日と30日に愛染明王縁日が行われる、また愛染(あいぜん)を藍染(あいぞめ)にかけて、染物や織物関係者の信仰も集めている -
「囲碁本因坊発祥の地」
「安土桃山時代、この地に「寂光寺」というお寺があり、その塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海上人(にっかいじょうにん1559-1623)は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂と改名して幕府の「碁所」(ごどころ)を任され、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)に改め、碁道本因坊の開祖となった、以降、本因坊の名は世襲で受け継がれ、二十一世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和11年(1936)「本因坊戦」が誕生した」、平成21年(2009)に駒札と碁盤が設置された際、今村九段と滝口九段による打ち初め式が行われた、また、宝永の大火(1708)で羅災した「寂光寺」は現在、地下鉄東西線東山駅近くにあり、歴代本因坊の墓所があり、開祖「算砂」愛用の盤石や直筆の囲碁狂歌など貴重な史料を蔵し「囲碁本因坊の寺」とよばれる *「囲碁」の発祥は中国で、東アジアを中心に親しまれてきて、日本でも平安時代から広く親しまれ枕草子や源氏物語にも登場し、戦国期には武将のたしなみとして、また庶民にも広く普及し、江戸時代には「家元四家」(本因坊、井上、安井、林)が生まれた、現在世界80か国以上で世界選手権も行われている -
「戎川通・家具屋街」(えびすがわどおり)
夷川通は、東西2kmに家具屋や建具屋が多く集まり家具の街と呼ばれる、江戸末期の禁門の変で御所周辺は焼け野原になった際、多くの木工職人が集まり京都の復興を支えたといい、大正時代には家具や室内装飾の需要が高まり夷川通は発展した、現在は洒落たレストランやカフェなどある -
「一保堂」(いっぽどう)
江戸時代の1717年創業の日本茶専門店、1846年に山階宮(やましなのみや)より「一保堂」の屋号を賜って改名、明治時代にはアメリカに茶を輸出する輸出問屋で、大正以降は茶の小売を主とし、茶器の販売、淹れ方教室なども開催している -
「藤原定家京極邸跡」
この石標は定家の京極邸跡を示すものであるが、正しくは同じ寺町通の京極小学校辺りにある「石碑」らしい -
「村上開新堂」(むらかみかいしんどう )
明治4年(1872)に皇居内にて産まれた初代村上清太郎が、後に伯父の村上光保(東京開新堂の初代)に西洋菓子の製造を教わり、村上家の発祥の地である京都に戻り、明治40年(1907)に現在地に西洋菓子舗として開業 -
「寺町二条交差点」 にあった「井原西鶴の句碑」
寺町通と二条通の交差点で、二条通を通っていた市電がここで90度曲がっていた軌道の名残で緩やかなカーブになっているおり、一角に「井原西鶴の句碑」があった「通い路は二条寺町 夕詠(ゆうながめ)」、この句は1677年の句だそうで、二条寺町で夕詠(ゆうながめ)風情のある二条河原町を四条河原町の涼み床に向かう粋人たちが駆け抜ける様子を詠っている、と解説にある -
12:15ランチ「出石庵」
「出石の皿そば」を発見して、本日の最大の収穫! -
京都市では多分ココだけ、出石に行かなくても、何年ぶりかに食べれて良かった、2皿追加!
-
「京都市役所」から御池通を渡る
「御池」は,現在の二条城隣の神泉苑(しんせんえん)にある池に通じる道であることから、江戸時代中頃に「御池通」と呼ばれ、平安京では三条坊門小路という道幅の狭い小路だったが、第二次世界大戦末中に空襲疎開が実施され、昭和22年に幅員50mにして幹線道路になり高層建築が建ち並ぶビジネス街になった -
「寺町」
「まるたけえびすにおしおいけ」(丸・竹・夷・二・押・御池)の「寺町会」「京・寺町会」から、「あねさんろっかくたこにしき」(姉・三・六角・蛸・錦)の「寺町専門店会」(御池通から三条通まで)に入る -
「本能寺」(ほんのうじ)
室町時代の1415年に日隆(にちりゅう)上人が創建した「本応寺」が前身で、1433年から「本能寺」に改名、当初高辻通りにあったが、移転を重ねた末、1582年本能寺の変で焼失後1592年秀吉の命にて現在地に移転した、「本能寺の変」の舞台として有名だが、実際は移転前の焼失したお寺で、堀川高校付近に「本能寺跡の石碑」がある所、「表門」は明治13年(1880)に妙心寺塔頭・恭明院の門を移築したもの -
境内には「本堂」と、信長をはじめ本能寺の変で亡くなった人々の供養塔があり、本能寺の貴重な宝物が展示された「宝物館」もある、特に本能寺の変の前夜に突如鳴き出し異変を知らせたという「カエル香炉」は有名、現在「本能寺の変で焼失した信長の愛刀復元」の特別展をやっていたが、急襲を受けた信長が応戦し、焼け残った刀身に18ヵ所にも及ぶ切れ込みができていたとも言われる「実休光忠」(じっきゅうみつただ)と「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)という日本刀が有名らしい
-
「本堂」
昭和 3年(1928)再建の新しい建物で、室町時代の建物を再現しているが、扉を開けると内はガラス障子、欄間もガラスにして、内陣を明るくしているという近代的建築 *「日蓮宗」は、鎌倉時代に出現した法華経の行者日蓮聖人の教えを信奉する教団で、差別なく万人を平等に成仏できるという「法華経」を根本聖典とし、総本山は日蓮が晩年を過ごした身延山久遠寺 -
「臥牛石」(がぎゅうせき)
肥後熊本藩初代藩主・加藤清正(かとうきよまさ)が、朝鮮出兵の際に持ち帰ったものを寄進したとも言われる -
「信長公御廟所拝殿」(ごびょうしょはいでん)
1582年6月2日の本能寺の変の直後、信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)は遺骨収集を行ない、1ヶ月後に本能寺跡地を信長の墓所と定めて建立し、昭和3年(1928)に再建 *「本能寺の変」は、1582年信長が豊臣秀吉に毛利攻めを命じ、手勢わずか数十名を従えて本能寺に宿泊し、明智光秀に秀吉への援軍を命じたが、光秀は亀岡城を出て「わが敵は正に本能寺にあり」と告げ京都に向かい本能寺に攻め入り、光秀1万の軍勢に攻め込まれた信長は「是非に及ばず」の言葉と共に自ら本堂に火を放ち自刃した、享年47歳 *信長の墓は多数あるが、最も信ぴょう性が高いのは信長・信忠親子や家臣の墓がある寺町通の「阿弥陀寺」(あみだじ)で、 実の弟同然の「清玉上人」が一番にかけつけて持ち帰った遺骨が納められて、大正6年に行われた宮内庁の調査で織田信長の廟所であると認められた -
「本能寺の変戦死者供養塔」
信長公墓の隣に、徳川家重(とくがわいえしげ)夫人の供養塔、島津義久(しまづよしひさ)夫人の石塔、菅中納言局庸子(かんちゅうなごんのつぼねようこ)の石塔、日甫上人(にちほしょうにん)顕彰碑などがある -
「火伏せのイチョウ」
「天明の大火」(1788年)で、火の海の中、本能寺の境内に逃げ込んできた人たちがイチョウの木の下に身を寄せ合っていたところ、イチョウから勢いよく水が噴き出し、その水によって本堂やほかの建物は延焼を免れたという、樹齢400年の巨木 *西本願寺にも「逆さイチョウ」「水吹きイチョウ」と言われる樹齢400年の大木があるが、イチョウは厚い葉に多くの水分を含むことから防火性の高い樹木であることは確からしい -
「7つの塔頭」(たっちゅう)
祖師や高僧の弟子が創建した小さな寺院 -
「天性寺」(てんしょうじ)
知恩院の末寺として、室町後期の1577年に大和当麻寺の眼誉道三(がんよどうさん)が、一夜で当麻曼荼羅を織ったという悲劇の中将姫(ちゅうじょうひめ)の遺徳を偲んで創建し、1587年秀吉の都市改造で現在地に移転 -
「本堂」
明治13年(1880)再建、本尊は阿弥陀如来で、中将姫の化身とされる十一面観音像(織姫観音) 、境内に鎮守神として弁財天を分祠する -
「寺町専門店会」
「あねさんろっかくたこにしき」(姉・三・六角・蛸・錦)の「あねさん」まで(御池通から姉小路通、三条通まで)の80店舗ほどの商店街で、昭和47年アーケード完成、「とり市老舗」は創業130年以上の老舗漬物店 -
「矢田寺」(やたじ、やたでら)
平安初期の700年、天武天皇の勅願所として創建された大和の矢田寺(アジサイ寺で有名)の別院として五条坊門に創建され、秀吉の都市改造で1579年現在地に移転、本尊の地蔵菩薩は地獄の焔の中に立つ高さ2mの立像で、開山の満慶(まんけい)上人が冥土へ行って出会った生身の地蔵尊を再現し、人々の苦しみを代わりにうけてくれる「代受苦地蔵尊」(だいじゅくじぞうそん)として信仰を集めている、また、12月23日冬至の日に行われる「かぼちゃ供養」で振舞われる栗かぼちゃを食べると、風邪をひかない、中風除けになるといわれる -
「送り鐘」
本堂前の梵鐘は、六道珍皇寺の先祖を迎える「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として信仰を集めており、8月16日にこの鐘をついてご先祖様を冥土へお送りし、夜は大文字の送り火でご精霊をお送りする *「地獄信仰」の寺院は、六道珍皇寺、西福寺、引接寺(千本ゑんま堂)など -
「しあわせ大日如来」
大宇宙の数え切れない仏の中の最高の仏とされ、開運・厄除けにご利益がある、また下の方には、お地蔵さんの姿をした「ぬいぐるみ守り」があり、安産祈願・無病息災などのご利益で人気がある -
「べんつるさん」賓頭盧尊者(びんつるそんじゃ)(撫で仏)
お釈迦様の弟子の中でも特に優れた16人・十六羅漢のの第一尊者で、万病を治す法力があると云われ、自身の悪いところを「べんつるさん」の像で撫でて祈念すると治ると言われる -
「石地蔵」
「矢田地蔵尊」らしく、「代受苦地蔵」をはじめとした「地獄」に囲まれると、あらゆる苦悩から解放されそう -
「寺町通と三条通の交差点」
「あねさんろっかくたこにしき」(姉・三・六角・蛸・錦)の「あねさん」までの「寺町専門店商店街」のアーケードが途切れて、「ろっかくたこにしき」の三条から六角通、蛸薬師通、錦小路通、四条通までの「寺町京極商店街」のアーケードが始まる -
「寺町通の歴史と由来」(案内板)
ここ寺町通三条は、東海道を延長した三条通と寺町通の交差点で、桃山時代以来殷賑(いんしん)を極めた(活気があって賑やか)、三条通は古くから東国、西国に通ずる道路として重視されてきた、寺町通は平安京の東京極大路に当たり、南北を通貫していた、中世には戦乱によって衰退していたが、1590年から始まる秀吉の京都大改造によって、道路が修復・再生された、主として洛中に散在していた諸寺院が、この通りの東側に強制的に移転させられたので、「寺町」の名が付けられたが、西側には多くの商店が軒を連ねた、数珠屋、位牌屋、石塔屋、仏師、書店、筆屋、楽器屋、人形屋、紙表具屋、扇屋、白粉屋など、宗教・文具・装飾関係の店があり、多くの人々を誘った -
「寺町京極商店街」(てらまちきょうごくしょうてんがい)
三条寺町から四条寺町の間800mに180余の店舗が並らんでいる、明治の文明開化で西洋菓子屋や写真館などハイカラな店が出現し、昭和49年(1974)にアーケードが完成、その後1985年にカラー舗装がなされ、1996年と2006年にアーケードの大改修が行われた -
すき焼き発祥の「三嶋亭」と「浮世絵・西春」
「西春」は創業明治6年(1873)の浮世絵古版画の専門店、「三嶋亭」は明治6年創業で、HPによると、「明治初頭寺町通の三条から四条にかけての界隈は京の文明開化の中心地となり、繁華街としてにぎわうようになり、西洋菓子店や写真館、見世物小屋などが建ち並んだ、創業者の三嶋夫妻は、御所勤めをしていて御法度を破るかたちで相愛の仲になり、本来なら手討ちになるべきところを放免されて長崎に移り、西洋文明の波が押し寄せそれまでタブ-だった牛肉の調理法を学び、明治維新後京に戻って牛鍋屋を創業した」とある -
「寺町通」と最初に交差する「六角堂」(頂法寺)につながる「六角通」
左折すると「六角公園」があり、「寺町京極商店街」と並走する「新京極商店街」とブリッジする、公共オープンスペースとして、休憩や待ち合わせ、イベント等に使われる -
「新京極商店街」
「寺町通」に人が多く集まり過ぎたため、各寺院の境内を整理し、明治に入って明治5年(1872)に寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが始まりで、明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、「寺町京極商店街」とほぼ同時期の昭和51年(1976)にアーケードが完成し、三条通から四条通までの500mに140店舗が建ち並ぶ、また松竹発祥地で、明治28年創業者の大谷松次郎が新京極の阪井座で歌舞伎の興行主となり劇場経営を始めた、昭和9年映画館になり、平成30年(2018)ホテルと商業施設が入った複合ビル「京都松竹阪井座ビル」になる、さらに明治28年夷谷座、明治33年の常盤座、大正2年京都座は京都ピカデリーや京都ロキシーなどの名前で映画館やボーリング場で賑わったが今はマルチプレックスシアターズ「MOVIX京都」やホテルもある「京都松竹阪井座ビル」などになっている、なお、いくつかあった歌舞伎は明治39年の「京都四條南座」だけが歌舞伎発祥の現在地に残っている -
「新京極」駒札(四条通入り口にある)
北は三条通から南は四条通に至る約500mのこの通りは、平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町通)の東側に新しく造られた通りであることに由来する。秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。明治5年(1872)このことに注目した京都府参事槇村正直(まきむらまさなお)は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。新京極通の誕生である。明治10年(1877)頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本の三大盛り場として知られるようになった。現在も修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買い物客でにぎわう、京都を代表する繁華街である。上方落語の始祖・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院という由緒ある7つの寺院と1つの神社が通りの歴史を今に伝えている。
*元々この地は「金蓮寺」(こんれんじ・1311年創建)の境内で、18世紀末から寺域の切り売りをはじめ、跡地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建ち並び、明治以降には繁華街と化してしまい、旧地には塔頭の「染殿院」のみが残り、「金蓮寺」は鷹峯に移転している -
「誓願寺」(せいがんじ)
飛鳥時代の667年、天智天皇の勅願により奈良に創建され、法然上人、西山国師、立信上人と続く浄土門の聖地として信仰されてきたが、1591年に秀吉の命で現在の新京極へ移転し、秀吉の側室・京極竜子(きょうごくたつこ)から広い敷地を与えられ、塔頭18ヵ寺の他三重塔まであり境内には芝居小屋や見せ物小屋が立ち並んでいたが、明治以降は新京極通の整備で境内の大部分を失ったがその後再建された、また山門前に「迷子みちしるべ」の石柱があり、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、江戸時代に落し物、迷子など捜すためにこの石に張り出したという -
平安時代には清少納言や和泉式部が帰依し女人往生の寺として知られ、上方落語の祖とも言われる安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が住職を務めたことから落語発祥の寺としても信仰を集めており、また世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」で、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語り和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され江戸時代から誓願寺へ参詣する舞踊家が多く現在まで伝承している
-
「扇塚」
誓願寺には芸道上達の寺として、また落語発祥の寺として、芸道上達を祈願して「扇子」を奉納する「扇塚」がある -
「新京極商店街」は、新旧混在の商店、娯楽施設と飛鳥時代・平安時代に遡る由緒あるの8つの寺社が混在し、「新京極御朱印めぐり」をするのも楽しい! 誓願寺、誠心院、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院
-
「誠心院」(せいしんいん) 通称「和泉式部寺」、
平安時代の1025年、和泉式部が娘の菩提を弔いつつ自らの往生を乞い、誓願寺に入って本尊の阿弥陀如来に帰依して出家し、その後1027年長年仕えてきた上東門院(藤原彰子)の父・藤原道長が法成寺の塔頭の一角に小御堂を建立して「東北院誠心院(じょうしんいん)」とし和泉式部を初代住職とさせた、その後誓願寺の近くに移転し泉涌寺の末寺となり、1591年秀吉の命により現在地に移転し、新京極通の整備で寺地を没収され通りを隔てて境内地は二分された -
「本堂」は小御堂(こみどう)ともいい、1919年(大正8年)再建、本尊・阿弥陀如来坐像、和泉式部像、藤原道長像を祀る、、境内には和泉式部の供養塔が安置される
-
「西光寺」(さいこうじ)通称「寅薬師」(とらやくし)
鎌倉時代の1278~1288年頃、後宇多天皇から宮中にあった寅薬師如来像を下賜し御倉堂として開基した、薬師如来は弘法大師空海の作で、寅の日の寅の刻に完成した事から命名され、元来は宮中の持仏であることから歴代の天皇の信仰を集めた、お堂は焼失再建を繰り返し、大正2年に再建され仮建築のまま現在に至る
四条寺町南東にある小さな神社。九州の大宰府から運ばれた菅原道真の像を祀っている。もとは信長父子の菩提を弔うために創建された大雲院(烏丸二条)にあったが、秀吉の京都再編に伴い大雲院とともにこの地に移った。維新前夜の元治元年(1864)の「蛤御門の変」の戦火にもこの付近一体は類焼を免れたことから、学問成就とともに火除の神として信仰を集めている。現在、大雲院は東山に移され石碑だけが残っている。 -
露地を進み中門を入ると「本堂」で、本尊の阿弥陀如来像と腹帯地蔵尊像、寅薬師の薬師如来像、脇侍の日光月光菩薩、十二神将を祀る、寅薬師は寅年生まれの守護佛としてだけでなく、開運繁栄、無病息災などの御利益があり、腹帯地蔵尊像は行基菩薩の作で安産守護のお地蔵さまとして信仰を集め、腹帯を授かる女性や子授け祈願の夫婦が参拝している
-
「蛸薬師通」(たこやくしどおり)
通りの名前は「永福寺」の本尊「蛸薬師如来」に由来する -
「永福寺」(えいふくじ) 通称「蛸薬師堂」(たこやくしどう)
平安時代末期の1181年、比叡山延暦寺の本尊・薬師如来を長年信仰していた僧・林秀が老年になって月参りが出来なくなったが、夢枕に薬師如来があらわれて「最澄(伝教大師)が彫った石仏が比叡山にあるので掘り起こすように」とのお告げがあり、その場所から立派な薬師如来の石仏が現れて、これを本尊とする堂を建立し「永福寺」と名付け、鎌倉時代になって、善光という僧が病気の母に好物の蛸を買いこっそり持ち帰ると近所の人々から咎められたので、母の病気のために飼ったものだからお助けくださいと本尊の薬師如来に祈ると、蛸の足が経巻に姿を変え霊光を放ち母の病気はたちまち良くなったということから、本尊は「蛸薬師如来」と称されるようになった、その後1590年秀吉の命で二条室町から現在地に移転し、明治になって1872年新京極通の新設で寺地が狭まり現在に至る -
薬壺(やっこ)を持った「なで薬師」
なで仏の「賓頭盧尊者」(びんずるそんじゃ)ならず、ここでは「賓頭盧蛸」(びんずるだこ)を撫でると全ての病が癒される、右手にある「多幸(たこ)」と書かれた蛸は手をかざすだけで苦悪を吸い取り、下にある「摩尼車」(まにぐらま)は回すと回した分のお経を唱えたことと同じ功徳を得て不幸災難から逃れられる *本物の石仏の薬師如来は8年に一度開帳され、本堂にあるのは木彫りのもの -
「蛸薬師」の御利益は、タコ・イボ取り、諸病回復、心身健全、厄難滅除、子授け、縮れ毛治しなどいろいろあるが、特に有名なのは「がん封じ」で、入り口には「がん封じのろうそく」が並ぶ
-
「善長寺」(ぜんちょうじ)
室町時代に忍想上人により綾小路室町善長寺町に創建され、1591年に秀吉の命で現在地に移転、境内に鎮守社として福知山の大原神社が勧請されたため、「くさ」(瘡、湿疹)の平癒にご利益があるとされ「瘡神さん」(くさがみ)として信仰され、子どもの痘瘡(とうそう、天然痘)平癒の信仰を集めた、山門の石標には、左面に「くさがみ善長寺」と、正面には「くさよけ立江地蔵大菩薩」とあるが、地蔵菩薩は江戸時代に四国八十八ヶ所霊場のひとつ第19番札所の徳島「立江寺」(たつえじ)の本尊「立江地蔵菩薩像」の分身として安置され、瘡神といわれる大原大明神の直作であるところから「くさよけ立江地蔵菩薩」といわれるようになったと思われる -
本堂の本尊「立江地蔵菩薩」(たちえじぞうぼさつ)」は「枕反地蔵」(まくらがえし-じそう)とも呼ばれ、立江寺(たつえじ)と同じ鎮護国家、無病息災、延命の守護仏として深く信仰される *「枕反地蔵」と呼ばれる意味が分からないが、お地蔵様に足を向けて寝るといつの間にか枕が反対向きになっていると言われるように、人間の肉体と魂が切り離されてしまう異常な状態という意味と推測
-
「錦小路通」(にしきこうじどおり)
錦天満宮正面から壬生川通までの通りで、寺町通から高倉通までの「錦市場」は京の台所とよばれ、400mの間に130軒余の店が並ぶ -
「錦天満宮」(にしきてんまんぐう)
平安中期の903年に菅原道真が大宰府へ左遷されたまま亡くなり、御所の近くにあった道真の邸宅「菅原院」は道真を祀る「歓喜寺」に改められ、その後1003年、嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の旧邸・六条河原院の跡地に移築して天満天神を祀った天満宮としたのが創建で、秀吉の都市改造で1587年に移転し、錦小路の東端だったので「錦天満宮」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離政策によって歓喜寺は東山五条へ(後に山科へ)移転したが「錦天満宮」だけはこの地に残り、1872年新京極通の新設で境内も狭くなり社殿も質素になった -
「錦天満宮」の鳥居
錦小路通の寺町通と新京極通の間にある鳥居は、1935年(昭和10年)に建てられたが、その後に鳥居上部の両端を考慮せずに柱の位置だけで参道の幅を決めた設計ミスで、これを元に両側にビルが建てられたため、ビルの中に鳥居がめり込んでいる -
「拝殿、本殿」
現在の社殿は明治時代の再建で、祭神は学問の神様で有名な菅原道真の御霊「天満大神」(てんまんおおかみ)で、学業に加え商売繁盛の御利益もある -
「臥牛」(がぎゅう)
本殿前には天満宮の象徴である牛と梅があり、天神さまにあやかって頭が良くなるように撫でる人が絶えず、「撫で牛」はピカピカになっている *牛は菅原道真のお使いとされており、稲荷神社の「狐」、春日大社の「鹿」と同様「神の使い」とされ、その理由としては、道真が丑年に生まれた、丑の日に亡くなった、牛を可愛がった、牛に命を救われた、牛が座り込んだ場所を墓所にした、等々諸説ある -
京の名水「錦の水」
京都は三方を山に囲まれ地下には琵琶湖に匹敵するほどの豊富な水瓶があり、豆腐や湯葉、麸、漬物、地酒などの京名物や、この地下水の軟水と昆布ダシからとる繊細な味わいのダシが京料理を生み出したが、この通りの「錦市場」が誕生したのも「錦の水」と呼ばれる地下水があったからで、平安時代の頃から地下水に恵まれ、魚・鳥などを保存するのに適していると魚店が自然発生的に集まるようになったということで、今では観光客が溢れる名所となっているのは、全てこの「錦の水」が原点! -
「からくりみくじ」
お金を入れて英文、恋みくじ、子どもみくじなど6種類のボタンを選ぶと、獅子が舞いながらおみくじをくわえて届ける、道真の生涯を説明した「紙芝居ロボット」もあり、これらは全て宮司さんの開発だそうで、宮司は元ロボットの設計技術者というのも面白い -
「大願梅の樹」(たいがんうめのき)
梅の実の形をした木製の絵馬で、紙に願い事を書いて中に入れ蓋をして「大願梅の樹」に奉納する、通常の絵馬と違い、願い事が見えないようになっている -
「塩竈神社」(しおがまじんじゃ)
鎌倉時代の1299年、六条河原院の歓喜寺が「塩竃宮」を鎮守とする歓喜光寺に改められたとき、源融をお祀りして創建され、1587年秀吉の都市改造で現在地に移転し、当時の境内には河原院にあった千鳥ケ池があってその中之島に塩竃神社があったという、「塩竈」は、源融が陸奥国塩竈の風景を忘れられず、六条河原院に広大な塩竈の浦を模した庭を造り、毎月難波(大阪湾)から海水を運び込んで塩を焼く雅を楽しんだと言われる -
「白太夫神社」(しらだゆうじんじゃ)
道真が生まれる前に父親が伊勢神宮に祈願した時の神官で、その後道真の守役として忠誠を尽くした「白太夫」(頭髪が白かったための命名)を祀る -
「染殿院」(そめどのいん)
平安時代の808年、弘法大師「空海」により創建され、850年頃文徳天皇の后「染殿皇后」がこの地蔵菩薩に祈願したところ清和天皇が生まれたことから、安産にご利益があるとされ「染殿院」と呼ばれるようになり、鎌倉時代の1284年、時宗開祖・一遍上人が釈迦堂(染殿院)に滞在し、念仏腑算(お札配り)、念仏踊りをしたという、室町時代の1388年からは足利家の祈願時になった「金蓮寺」(こんれんじ)の塔頭とされたが、18世紀末から寺域の切り売りをはじめ、本寺は鷹峯に移転して「染殿院」だけになり、門前に「時宗開祖一遍上人念仏賦算遺跡」の石碑だけが残る -
「苔寺」庭園とのご縁
南北朝時代の1339年、夢窓疎石が「西芳寺」(苔寺)に庭を造る際、地蔵菩薩の化身が助けたという、築山の際に大石が重くて動かなかった際に一人の僧が現れて大石を動かしてくれた、夢窓疎石は歓喜し自ら着ていた袈裟を贈ると、僧は袈裟を受け取り代わりに錫杖(しゃくじょう)を地に立てたまま消えた、後日染殿地蔵堂に詣でると、この僧に送った袈裟が地蔵菩薩の肩にかかり、手に持っているはずの錫杖なく、夢窓疎石は僧がこの地蔵の化身であると知り涙を流したという -
「老舗和菓子店内の参道」
四条通側の甘栗和菓子老舗「林万昌堂」(はやし-まんしょう-どう)の店舗内にも「染殿院」入り口があり、店舗を抜ける形で参道がある、店は1874年創業だが、1995年に現在の本店ビルが完成したところ、四条通の方角を向いている染殿院の地蔵が建物の壁で視界を遮るのは忍びないということで、住職と社長が話し合い、店舗の一部を割いて南側にも参道を付けるという粋な計らいをしたという -
「八坂神社御旅所」(やさかじんじゃおたびしょ)と「冠者殿社」(かんじゃでんしゃ)
「御旅所」は、祇園祭で八坂神社の三柱の神輿三基が、7月17日の神幸祭から24日の還幸祭までの1週間ここに留まる
「冠者殿社」は、八坂神社の境外末社で祭神は素戔嗚尊、天照大神に会うため高天原へ上ったら弟が攻めてきたと思い身構えたので、素戔嗚尊は誓約して身の潔白を証明したということから「誓文払いの神」とされており、江戸時代から商売上の駆け引きで契約を破ったり安い物を高く売って利益を得るという罪を払う意味で多くの商人が参詣し、罪滅ぼしとして客に利益を還元するという意味で大安売りを行い、これが「歳末大安売り」につながったという -
「火除天満宮」(ひよけてんまんぐう)
戦国時代末期の1579年、九州大宰府から兵乱を避けるためにひとりの老神官が道真の像を背負って入洛し六条通周辺に祀り、1587年織田信長・信忠の菩提を弔うために創建された「大雲院」の鎮守社として迎えられ、1597年秀吉の都市改造で「大雲院」とともに現在地へ移転し、「大雲院」は昭和48年(1973)に円山公園に移転したがこの地に残った -
幕末の蛤御門の変で、この神社の周りだけが奇跡的に焼けなかったことから、学問成就とともに「火除けの神」として信仰を集めている
-
「京都大神宮」(きょうとだいじんぐう) 「京のお伊勢さん」
明治維新後の明治6年(1873)、全国都道府県に「伊勢神宮」を遥拝(ようはい)出来る設備を設けるよう要請があり、天照皇大神、豊受大神と夫婦神の伊弉諾尊(イザナギ)、弉冊尊(イザナミ)、子供たちの八柱大神、大地主神(オオトコヌシ)、倭比売命(ヤマトヒメ)を勧請し、1875年社殿を建立した、当初は「伊勢神宮」の布教、神宮教の京都教会所として創建されたが、戦後1946年「京都大神宮」と改めた、また1900年大正天皇の神前結婚が執り行われてから神前結婚式の要請が高まり東京大神宮と当宮で考案し、以来神前結婚の様式が普及したという -
無理やり造った感の「鳥居」だが、「本殿」は立派な唐破風の建物で、一条家の玄関と書院を移築したもの
-
「手水舎」も立派で、豊臣秀吉の伏見城から移築したもの
-
「伊勢神宮の遥拝所」(ようはいしょ)遠く離れた所から拝む場所
*京都には蹴上にも 「京のお伊勢さん」と呼ばれる「日向大神宮」(ひむかいだいじんぐう)がある、ここは日向の高千穂の峯から勧請した神社で、伊勢神宮の外宮・内宮と天の岩戸まであり、江戸時代には東海道中の安全祈願と、お伊勢参りの代わりとして賑わったという -
「巫女さんのイラスト」は京都大神宮の名物となっている
-
「ガチャポンおみくじ」も珍しい
ハート形恋守り付と、御鏡付の2種類300円 -
「聖光寺」(しょうこうじ)
鎌倉時代の1204年、天台宗僧・聖光房弁長(鎮西上人)が、この地に住んでいた仏師康慶に造像を依頼した際、この肖像を草庵に安置し聖光庵と名付けたことに始まり、安土桃山時代1578年に「聖光寺」と改めた、赤穂義士を陰で支えた綿屋善右衛門好時(わたやぜんえもんよしとき)、大石内蔵助の母、嵐寛寿郎(あらし-かんじゅうろう1902-1980)の墓がある -
「天野屋利兵衛(あまのやりへい)は男でござる」
「天野屋」は江戸時代の廻船問屋の大坂商人で、早い時期から赤穂義士を支援し、赤穂浪士の討ち入りに必要な槍20本を秘かに江戸に運び込んだのを奉行に見つかり拷問を受けるが、仇討ちの本懐を遂げるまでは拷問に耐え一切赤穂浪士のことは話さず、成功させた事を知ると全て白状し男の意地を通したことから、商人でありながら武士にひけをとらぬ義侠心をあらわしたとして、歌舞伎を代表する演目の1つになり「男でござる」の台詞とともに英雄視され、このモデルにされたと言われる、その生涯を終えたと言われる一条通大将軍近くの「地蔵院」(椿寺)に言ったことがあるが、「天野屋利兵衛」の墓や石碑は東京・泉岳寺や山科・大石神社、大坂・若宮稲荷神社などあるから調べていくと奥が深い -
「空也寺」(くうやじ)
平安時代の972年、空也の開基で1591年秀吉の都市改造で現在地に移転し、空也上人像が祀られる -
京都の電気街「寺町電気街」
秋葉原、日本橋と並ぶ電気街で賑ぎわったが、2021年唯一残った大型店エディオンが閉店して今では殆どない、はじめはガラス店など小売店が集中する地域だったが、次第に無線ラジオなどマニアックな電子部品を扱う店が増えはじめ、バブル期になって地元のタニヤマムセンの他、ニノミヤ、中川ムセン、上新電機など大阪発祥の電器店も出店、パソコン系ショップも増え、その後ファミコンが発売されゲームショップが続々と立ちならび、アニメ・マンガなどのオタクが集まり、1990年代半ばにWindows95の発売とインターネットの爆発的普及でこの頃が最も賑わった、2000年代に入るとビッグカメラやヨドバシなど大型量販店が進出し、ネット通販が広がるとネット上で簡単に価格比較が出来るようになり小売店も家電量販店も経営が苦しくなり衰退していき、現在ではスーパーやスイーツ、カフェなどが置き換わり、電気街としての色はなくなった -
「乗願寺」(じょうがんじ)
安土桃山時代の1576年、僧・信窮の開創で、1591年秀吉の命により現在地に移転、明治になって境内の3分の1を政府に献上した、最近1993年に加藤清正の重臣として有名な森本儀太夫親子の位牌が発見された、息子はカンボジア・アンコール・ワットに落書があるとして知られる -
「永養寺」(えいようじ)
平安時代800年頃、円仁が平安京で流行していた疱瘡(天然痘)を鎮めるために本尊の阿弥陀如来像を造立したという、1585年秀吉の命により現在地に移転 -
「浄國寺」(じょうこくじ)
室町時代の1560年、信誉暁把により五条東洞院に浄国寺は創建、1585年秀吉の命により移転、当時京都の罪人は旧12月20日に市中引き回しの後、浄国寺で受戒し、六条河原で処刑されたことから「果(は)ての二十日寺」と呼ばれたという -
「松原通」に到着
すぐ隣は「河原町通」で、明治元年創業の「幸福堂」本店がある、五条大橋の擬宝珠(ぎぼし)を模した「ごじょうぎぼし最中」が有名 -
「河原町通」と合流するところで「寺町通」は終了
寺町通は明治になってから、五条通から南へも延伸され「新寺町通」と呼ばれていたが、河原町通の拡張延伸で取り込まれてしまい無くなり、五条通の南側の「河原院跡地」辺りの寺院が集まるところは「下寺町」(しもでらまち)と呼ばれる -
締めくくりは五条大橋の袂にある「半兵衛麩」に新しく出来たカフェに入る
「半兵衛麩」は1689年創業の麸、ゆば専門店で、2022年本店半兵衛ビル3階にカフェをオープン -
「麩まんじゅうとお抹茶」1,000円
鴨川五条の角地に、ガラス張りになったカウンター席があり、鴨川と五条大橋の眺望が素晴らしい、ランチは1,600円
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
月一平安京散歩
-
前の旅行記
月一京町散歩(1月)は龍年初詣で開運アップ・東大路通「瀧尾神社」
2024/01/18~
東山・祇園・北白川
-
次の旅行記
月一京町散歩(3月)平安京南北散歩「室町通」
2024/03/16~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(1月)~岡崎神社(うさぎ神社)と琵琶湖疎水
2023/01/19~
下鴨・宝ヶ池・平安神宮
-
月一京町散歩(2月)~知恩院から円山公園
2023/02/16~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(3月)平安京散歩「一条大路」
2023/03/09~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(4月)平安京散歩「二条大路」
2023/04/20~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(5月)平安京散歩「三条大路」
2023/05/18~
東山・祇園・北白川
-
月一京都散歩(6月)旬の甘茶と沙羅双樹を特別公開「霊源院」~「東林院」
2023/06/15~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(7月)平安京散歩「四条大路」
2023/07/12~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(8月)平安京散歩「五条大路」
2023/08/17~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(9月)平安京散歩「六条大路」
2023/09/13~
東山・祇園・北白川
-
月一京都散歩(9月)ウェスティン都ホテル「葵殿庭園・佳水園庭園」~東寺「弘法市」
2023/09/21~
下鴨・宝ヶ池・平安神宮
-
月一京町散歩(10月)平安京散歩「七条大路」
2023/10/19~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(11月)平安京散歩「八条大路」
2023/11/05~
京都駅周辺
-
月一京町散歩(12月)平安京散歩「九条大路」
2023/12/02~
京都駅周辺
-
月一京町散歩(1月)は龍年初詣で開運アップ・東大路通「瀧尾神社」
2024/01/18~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(2月)平安京南北散歩「寺町通」
2024/02/24~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(3月)平安京南北散歩「室町通」
2024/03/16~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(4月)平安京南北散歩「大宮通」
2024/04/12~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(5月)平安京南北散歩「千本通」前半
2024/05/04~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(6月)平安京南北散歩「千本通」後半・鳥羽街道
2024/06/05~
伏見
-
月一京町散歩(7月)平安京南北散歩「新町通」
2024/07/03~
二条・烏丸・河原町
-
夏の京都「川床料理」と「みたらし祭」で暑気払い
2024/07/26~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(8月)平安京南北散歩「麩屋町通」
2024/08/24~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(9月)平安京南北散歩「高倉小路」
2024/09/12~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(9月)京の夏の終わり旅「祇園閣」と「長楽館」
2024/09/19~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(10月)平安京南北散歩「油小路」(油小路通)
2024/10/11~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(11月)平安京南北散歩「小川通」と「天使突抜通」(東中筋通)
2024/11/03~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(11月)紅葉の嵐山を人力車散歩
2024/11/20~
嵐山・嵯峨野・太秦・桂
-
月一京町散歩(12月~1月)平安京南北散歩「御前通」で紅葉と初詣
2024/12/05~
今出川・北大路・北野
-
新年蛇年の京都「初詣」と初庭園「對龍山荘」に初喰いの「わらじや」
2025/01/16~
東山・祇園・北白川
-
「京の冬の旅」特別公開・「西来院」と「祇園甲部歌舞練場」の庭園
2025/02/13~
東山・祇園・北白川
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
今出川・北大路・北野(京都) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 月一平安京散歩
0
187