2023/07/12 - 2023/07/12
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Bachさん
7月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第4回目「四条大路」です。
平安京の「四条大路」は寺町通から天神川の西京極大路まででしたが、平安後期に四条橋が架けられてから祇園社への参詣路になって賑わってからは、四条橋は「祇園橋」と呼ばれ鴨川東は八坂神社の門前町として発展し、南北朝時代に始まった祇園会の山鉾巡行は「四条大路」を中心に展開され、江戸時代には祇園社から大宮通にかけて様々な商家が軒を連ねる繁華街で、大宮通から以西も壬生、西院から梅津、桂へ道が延び、丹波街道と並んで中心的道路となりました。明治になって1911年市電を通すため道路拡張してからは交通の中心として発展し、デパート、銀行、商店などが集中する繁華街を形成、大正になり東大路通から大宮通まで、その後西大路通まで電車が走りましたが1972年廃止、最近2015年には観光客が溢れ歩道を拡張しました。
八坂神社前から松尾大社前までは直線距離で8kmですが、今回は桓武天皇の子・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮があり、御所から見て西の方角に位置することから「西の院」と呼ばれ地名にもなっている「西院駅」からスタートし「祇園祭」真っただ中の八坂神社まで直線6kmを歩きます。
祇園祭は7月1日から1か月にわたり開催されますが、17日の「前祭」23基と24日の「後祭」11基の「山鉾巡行」は大混雑するので、その前の「山鉾曳き初め」は比較的余裕で見れる穴場、本日7/12~13は「前祭鉾曳き初め」で14:00から函谷鉾(かんこ)、鶏鉾(にわとり)、月鉾、菊水鉾、長刀鉾(なぎなた)の順に行われるので、昔の「四条大路」の光景を想像しながら歩きます。
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「四条大路」は、「二条の生薬(きぐすり)屋」、「三条酒屋」に続き、「四条の芝居(南座)」と言われ、平安時代から祇園社(八坂神社)への参詣路になって昔も今も変わらない賑わい通りです
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散歩ルートは、西院駅~0.4km西院春日神社~0.5km高山寺~1.2km壬生寺、八木家・鶴屋鶴壽庵、前川邸、新徳禅寺~0.5km元祇園椥神社~0.5km四条大宮駅~小野小町化粧水~0.7km膏薬厨子~0.7km四条烏丸(4.5km)~0.8km八坂神社御旅所、染殿地蔵~0.5km四条大橋~0.3km祇園・花見小路通~0.2km八坂神社、合計6.4km
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まず「西院駅」近くで見つけた「ウナギ屋」でランチ
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通常3,000円がランチで1,500円だったので
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とりあえず「う」のつくウナギで暑気払い!
ウドンや梅干しでもいいが、 -
スタート地点は「西院春日神社」(さいいんかすがじんじゃ)
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淳和天皇(じゅんなてんのう)が退位し「淳和院離宮」(西院)に移ったとき鎮守社として奈良春日大社から分霊を祀られた、以来皇室の御信仰がある
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「一願蛙」(蛙の背中に2匹の小さな蛙が乗っている)
三蛙は見かえるにつながり縁起の良い蛙です、水をかけて御祈祷ください -
「淳和院礎石」
この辺りは広大な「淳和院」の敷地であった -
「舞殿」
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「拝殿」
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「還来神社」(もどろきじんじゃ)
「還来」(もどろき)は旅から無事に戻ってくるという意味で、神話上の建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)が白鹿に乗り鹿島からの長い旅路をつつがなく終え春日の宮居に鎮まられたことから、旅行の安全にご利益があるとされ、太平洋戦争中に出征兵士の無事帰還を願う家族が多数訪れたという -
わらじに名前、旅行期間など書いて奉納すれば安全に旅行できるという、初穂料 3,000円は高い?
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「梛石」(なぎいし)
幸福と健康を祈って撫でると幸福、健康回復、また旅行する行き帰りに撫でると無事息災、環来成就のご利益がある、後ろはご神木の梛の木(なぎのき) -
「西院宮」(さいいんぐう)
御祭神・淳和天皇(西院天皇) -
「仁孝天皇御胞衣塚」(にんこうてんのうおえなづか)
仁孝天皇の御胞衣(おえな)を埋納した地を示す、胞衣(えな)は出産の時に新生児を包んでいる胎盤のこと *皇族のご誕生の際に御胞衣を皇室と関係の深い神社寺院に埋蔵し健やかなご成育を祈願される習慣があり、寛政12年(1800)仁孝天皇の御誕生の折この地に御胞衣を埋蔵された、高貴な方の御胞衣塚(おえなつか)は、安産や子守のご利益があるとされ、当社では御塚に「子安石」(安産の石)を奉納する風習がある、天皇の御胞衣塚は大変貴重で珍しい史蹟です。とある -
「本殿」
豪華な中門の奥に、春日神社と同じ4つの本殿建物に4柱の神様が祀られている、建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわひぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)、総称して春日神と呼ばれ藤原氏の氏神 -
霊石「疱瘡石」(ほうそういし)
淳和天皇の皇女・崇子(たかこ)内親王の疱瘡(天然痘)が神前の石が身代わりとなって快復したことから病気平癒や災難厄除けの守護の神と崇められ、現在毎月1、11、15日にのみ公開される -
「お百度石」
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社務所前に、大正天皇の皇后・貞明皇后が植えられた「恩賜之藤」
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西大路四条「阪急西院駅」
阪急西院駅は「さいいん」、嵐電西院駅は「さい」と読む
*「にしいん」と呼ばずに「さいいん」と呼ぶのは、この辺りの佐比大路(さいおおじ=佐井通り・別名春日通り)説と、淳和院を建てた淳和天皇が西院と呼ばれた説、賽の河原(さいのかわら:あの世とこの世の境界線)があったからという説がある -
「淳和院跡」(じゅんないんあと)
桓武天皇の第七皇子・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮で、東西230m、南北250mの広大な広さで、東南の角が現在の高山寺 *御所から見て西の方角に位置する事から西の院「西院」と呼ばれ地名としても残った -
「西院・高山寺」(こうざんじ)
石標に「西院(さい)の河原 旧跡 高山寺」と書かれていることから通称「賽の河原」で知られ、門前に「淳和院跡」石碑がある、高尾の高山寺とは関係ない -
平安時代879年に仏道修行の道場を寺院に改められたのが起源といわれる
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本尊は地蔵菩薩(子授地蔵)十一面観音で、安産地蔵として信仰を集め、足利義政夫人日野富子もここで祈願したという、また地名の西院(さい)が賽の河原の賽に通じるため子供を救う地蔵として信仰は厚い *昔この辺りは桂川と鴨川が合流する地点で「佐比河原」(さいのかわら)と呼ばれる河原に周辺の農民が埋葬されていて、親より早く死んだ子が三途の川のほとりの賽の河原で親のために小石を積んでいると鬼がそれを壊すので地蔵菩薩があらわれて子どもたちを救ったという
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本堂前には大きな石仏と、周辺には数多くの小さい石仏群がある、大きな石仏は「くろだに(金戒光明寺)」にあったものを供養のため明治時代に移転したもので、小さい石仏は昔この辺りが埋葬地だったため工事の際出土した室町時代-江戸時代のもの
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本堂に掲げられた額(お寺の御詠歌)
「くろだにを はやたちいでて こうさんじ さいのかはらを みまもるみほとけ」 -
「嵐電」(らんでん)
京福電鉄が明治43年四条大宮から嵐山間を開通、四条大宮の次の駅が「西院」(さい)駅 *「京福電鉄」の名前から「福」に違和感があるが、前身の京都電燈の時代に京都と福井で電力を融通するために「京福送電線」を建設したことに由来している、現在は京阪電車傘下 -
「NISSHA」(日写)
印刷業の日本写真印刷株式会社からスタートし電子部品、医療機器、自動車内装などグローバルに展開し売上高1,800億円、従業員5,400人まで拡大、タッチセンサー、タッチパネルが強み -
「元祇園椥神社」(もとぎおんなぎじんじゃ)
八坂神社祭神の素戔嗚尊を祀る前に一旦この地に仮祭祀し、後に八坂神社に遷祀したため「元祇園」と呼ばれる、祇園の傘鉾の起こりもこの社の祭祀に由来 -
869年疫病流行により牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して神泉苑で鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀で、その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったということから祇園会傘鉾の起源であるとしている *現在も「綾傘鉾」の囃子方として奉仕している
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「御供石」(ごくいし)
祇園祭の山鉾巡行のとき、この石の上に神饌(しんせん)を置き神にそなえたもので、元は下京区御供石町にあったが昭和7年にココに移した -
「梛神社」(なぎじんじゃ)
ご祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、昔この地には数万本の「梛の森」が広がっていたと言われる、梛の木の葉は切れにくく丈夫であることから「縁が切れない」「ご縁をむすぶ」縁起の良い木といわれている -
「隼神社」(はやぶさじんじゃ)
ご祭神は建甕槌神(たけみかづちのかみ)、境内に本殿が二つ存在する珍しい神社、天下安穏・五穀豊穣を護る神として朝廷より篤く尊崇され、朱雀院(すざくいん)内に鎮守社として祀られ、大正9年にココに移転、 -
梛神社の摂社「上川稲荷社」(かみかわいなり)
商売繁盛や芸能上達の御利益がある -
梛神社の摂社「田中神社」
厄除けの御利益 -
「壬生寺」(みぶでら)
平安時代991年、園城寺(三井寺)の快賢(かいけん)が母の供養のために創建したのが始まりで、鎌倉時代に融通念仏の円覚が中興、本尊は延命地蔵菩薩、京都の裏鬼門に当たる場所に位置し、厄除け開運を祈願する節分会は950年余の歴史があり、新選組ゆかりの寺で壬生塚に新選組隊士11名を祀っている、「表門」(正門)は江戸時代1799年に再建 -
「阿弥陀堂」(あみだどう)
鎌倉時代1213年創建、その後1843年新選組屯所の前川家により復興され、本尊の阿弥陀如来三尊像(阿弥陀、観音、勢至)を安置、この奥に「壬生塚」がある -
「壬生塚」(みぶづか)
神秘的な「龍神像」のある放生池の中の島に「壬生塚」があり、幕末の新選組局長・近藤勇の胸像や遺髪塔、屯所で暗殺された芹澤鴨の墓など11名の新選組隊士が眠っている *幕末に壬生村に八木邸や前川邸など新選組の屯所が置かれ、壬生寺境内は兵法調練場として使用された -
「一夜天神堂」
天神・菅原道真が流罪になった時に壬生の地を訪れ一夜をあかしたという故事に由来し、一夜にして知恵を授かる、中央に一夜天神、右に金毘羅大権現、左に壬生寺の鎮守・六所明神が祀られている、右手の「撫牛」をなでれば、病気平癒、諸願成就の幸運に恵まれる -
「夜泣き地蔵」
病気平癒や 幼児の夜泣き止めにご利益がある、もとは塔頭の中院に祀られていた -
「水掛地蔵堂」
水を掛けて祈ると願いが叶う、別名「一言地蔵」と言われ、願い事は一つだけしか叶わない、江戸時代中期の作 -
「本堂」
昭和37年(1962)放火により本堂を全焼し本尊地蔵菩薩像も焼失したが、本尊は本山の唐招提寺から移され昭和42年本堂も復興した、江戸時代1788年にも焼失しこれまで本堂で行われていた壬生大念仏狂言は新たに建立された大念仏堂で行われるようになり、本堂は1811年に再建された -
「千体仏塔」
平成元年(1988)に創建1,000年記念して建立、明治時代に京都市の区画整理の際に各地から集められた室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など3,000体以上の石仏があるが、その内の1,000体をミャンマー(ビルマ)のパゴダに似た円錐形に安置されている -
パゴダにしているのは、当時の貫主が留学僧としてビルマに滞在していてビルマとのつながりがあったからという
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右手奥に「大念仏堂」がある
江戸時代1788年本堂を焼失してこれまで本堂で行われていた「壬生大念仏狂言」を続けるために新たに建立し、さらに1856年再建、「狂言堂」とも呼ばれ本舞台、橋掛かり以外に能舞台には見られない「飛び込み」や「獣台」などの特異な構造をもつ *「壬生大念仏狂言」は、鎌倉時代、中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のために行った法要が起源で、仏の教えを庶民に分かり易く説くために「壬生さんのカンデンデン」というリズムと共に、身ぶり手ぶりのパントマイム(無言劇)に仕組んだ念仏で、一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせすべての演者が仮面をつけ一切「せりふ」を用いず無言で演じられ、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を持つ、現在上演されるものは30曲、年間3回、節分(2月初旬の節分の前日と当日の2日間)、春(4月29日~5月5日)、秋(10月の体育の日を含む3日間)の定期公演 *円覺は、嵯峨清凉寺、双ヶ岡の法金剛院など洛中48か所の道場で融通念仏を広めたと伝えら、壬生・嵯峨・千本を「三大念仏狂言」という -
「前川邸」
掛屋(江戸時代の金融業者)として御所や幕府の資金運用の仕事など色々な公職を兼ねていたため奉行所や所司代との密接なつながりがあり、上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり市中情勢にも詳しく役人の信頼も厚かったことから宿舎選定を任され、壬生の地が京の町はずれにあり二条城に近いことから「前川邸」を中心に「八木邸」「新徳禅寺」等に分宿した -
「新徳禅寺(しんとくぜんじ)」(新徳寺)
将軍家茂警護のために集まった「浪士組」から「新選組」が分離した因縁の場所 *尊皇攘夷の志をもつ山形鶴岡出身の清河八郎は将軍家茂上洛の警護のため「浪士組」230名余を率いて京都にのぼり、新徳禅寺に集合した面々に対し「我々が真に為すべきは(将軍の警護ではなく)江戸に戻って攘夷運動に身を投ずることである」と熱弁し200名はこれに賛同したが、これに反発した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らは京都に残留し24名が新たに壬生浪士組を結成しのちの新選組となった -
「八木家」
14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に近藤勇をはじめとする13名は「八木邸」を屯所(宿舎)とした、隊士の数が増えると、新選組は本願寺(西本願寺)に屯所を移し、その後、不動堂村屯所へ移転し、この間大政奉還があり、さらに伏見奉行所へ移っている -
「八木家」は、江戸時代には村の経営や壬生狂言に携わり代々村の行司役も勤め、壬生村と京都守護職や所司代とも大変深い関わりがあった、現在は和菓子屋「京都鶴屋 鶴壽庵」(かくじゅあん)を経営
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「八木家」は拝観受付場所になっている、「屯所餅」と抹茶、ガイド付きで拝観料 1,100円
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「壬生」は、古来より湧水に恵まれ壬生菜、菜種、藍などの産地でもあり、その藍で染めた水色は「壬生の色」と言われ、「壬生狂言」に使用する手拭いの色に古くから使用されており、新選組の羽織の段だら模様にも使われている
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ココから先は撮影禁止、奥座敷は芹澤鴨暗殺の場で、文久3年(1863)芹澤鴨、平山五郎ら4人が暗殺された刀傷がある *芹澤は剣は立つが酒癖が悪くさまざまな騒動を起こしており、これを野放しにしておけば新選組そのものが無頼漢の集まりだと思われてしまうと思い、近藤勇と土方は芹沢暗殺を決意し、島原で宴会をした後八木家に帰り更に酒を勧めぐでんぐでんに酩酊した芹沢らを床につかせ、深夜熟睡しているところを襲った
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八木家が手がける和菓子屋「京都鶴屋 鶴壽庵」の「屯所餅」と抹茶 *「屯所餅」の中には壬生菜がはいっている
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「四条大宮駅」
明治末期から大正にかけての京都市三大事業によって東大路通(八坂神社前)から大宮通まで、その後昭和初期に西大路通(西院)まで道路拡張され、1912年京都市電・四条線が敷設されたが、1972年(昭和47年)廃止、京福電鉄嵐電は1910年開業で、阪急京都本線は1931年西院ー大宮間が関西初の地下線となり1963年河原町まで延長された *「京都市三大事業」は、第二琵琶湖疏水、上水道整備、道路拡築と市電敷設 -
「雨庭」(あめにわ)
歩いていると良く見かけるので気になっていたが、これは京都市が進める「雨庭」というもので、ゲリラ豪雨対策として道路に降った雨水を一時的に貯め時間をかけて地中に浸透させる仕組みで京都に古くからある寺社や庭園にも見られる、都市防災や水質浄化、ヒートアイランド現象の緩和のほか住民が管理を担うことで地域コミュニティー活性化の効果も期待されており、2017年からスタートし現在10か所以上あるらしい、京都らしく貴船石なども使って庭園風に仕上げているので見た目にも暑い夏には特に清々しく、観光対策にも効果ありと思う -
「小野小町・化粧水」(けしょうのみず)西洞院四条南
小野小町が実際にお化粧に使っていた井戸があった小野小町の別荘跡らしい、本宅の山科「随心院」にも「化粧井戸」があった、また一条戻り橋近くの「小町通」には大伴黒主との歌合せ逸話がある「小野小町草紙洗水遺跡」という石碑もあり、小町足跡をたどるルートも面白い -
「膏薬辻子」(こうやくのずし)
平将門が関東で兵乱を起こし抹殺されその首を京都に晒されてから、全国に天変地異が相次いだので「空也」が全国の道場の一角に霊を鎮めるための首塚を建てて供養したことから「空也供養の道場」と呼び、「クウヤクヨウ」がいつしか「コウヤク」に転じて「膏薬辻子」と呼ばれるようになったという *「辻子」(図子)とは、通り抜けのできる小路で、通り抜けが出来ないのは「路地」 -
「神田明神」(かんだみょうじん)
京都でも道場の一角に塚を建て供養したという「神田明神」 -
町家が並ぶ「路地」ではなく「辻子」(ずし)を抜ける
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「杉本家住宅」辻子(ずし)を抜けたところにある
江戸期の京大工の技量が遺憾なく発揮された市内最大規模の町家、再建から築150年で初めて大屋根の葺替え工事と高塀の修理、耐震工事中(2021年秋から2023年秋まで) -
「祇園祭・山鉾町」(やまぼこちょう)
四条通は八坂神社の氏子エリアであったことから祇園祭の山鉾巡行に奉仕する町が多く、祇園祭の鉾や山の保存会を維持管理している町のことを「山鉾町」と呼ぶが、現在34の町があり町名や地名は月鉾町とか長刀鉾町(なぐなたぼこ)、函谷鉾町(かんこぼこ)、郭巨山町(かっきょやま)など山鉾に由来するものが多い *「田の字地区」(たのじちく):四条烏丸交差点を中心とし、南北を御池通から五条通り、東西を河原町通から堀川通に囲まれた地区を「田の字地区」といい、平安時代には公家の邸宅が立ち並び、現代でも老舗の多い歴史ある繁華街で、資産価値も高く超一等地 -
「鉾の辻」(ほこのつじ)
新町通から室町通へ歩くと「山鉾」が見えてくる、室町通と交わる室町四条付近は室町時代から繁栄しこの地区を中心とする町衆の自治組織「両側町」(りょうがわちょう)が出来て町ごとに趣向を凝らした山鉾を作るようになり、山鉾巡行の通りとなる四条室町は「鉾の辻」と呼ばれ、室町中期には現在の山鉾巡行が成立した -
祇園祭「前祭・鉾曳き初め」
祇園祭は7月1日から1か月にわたり開催されるが、ハイライトになる17日の「前祭」23基と24日の「後祭」11基の「山鉾巡行」は大混雑するので、その前の「山鉾曳き初め」は比較的余裕で見れる穴場、本日7/12~13は「前祭・鉾曳き初め」で14:00から函谷鉾(かんこ)、鶏鉾(にわとり)、月鉾、菊水鉾、長刀鉾(なぎなた)の順に行われる -
最初に見えたのは「月鉾」(つきほこ)
全山鉾34基の中で一番重く約12トンで背も高い大型鉾であるが、「山鉾」は全5種類あり、祇園祭で最初に誕生したのは10トン前後の大きい「鉾」(ほこ)で前祭のみ6基、その後に見せ物として登場したのが山で、「曳山」(ひきやま)が4基、鉾と山の違いは先端に真木というシンボルがあるか松の枝か、乗っているのが稚児人形か御神体人形かの違い、そして船の形をした船鉾(ふねほこ)が2基、一番多いのは人が担ぐ「舁山」(かきやま)で20基、鉾でも一番小さいのは傘鉾(かさほこ)2基、また、「山車」(だし)は山鉾、曳山などの総称で、京都では「山鉾」、岸和田では「だんじり」など、「神輿」(みこし)は人が担いで神様を乗せる乗り物 -
「前祭・鉾曳き初め」は6基ある「鉾」の内の5基で、(13日に放下鉾、船鉾、岩戸山、蟷螂山)トップランナーは「函谷鉾」(かんこぼこ)
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「函谷鉾」会所をスタート
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「函谷鉾」(かんこぼこ)
稚児人形を採用した最初の鉾で、稚児人形は明治天皇后の実兄をモデルにした「嘉多丸」(かたまる)、「くじ取らず」で5番に巡行する、紀元前の中国戦国時代・斉の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷関(かんこくかん)で家来に鶏の鳴き声を真似させて関門を開けさせ難を逃れた故事に因む -
「函谷鉾」の鉾頭
月と山型は函谷関の山中の闇をあらわし、真木の中央部の「天王座」に孟嘗君(もうしょうくん)、その下に雌雄の鶏 -
「函谷鉾」の前掛「モン・サン・ミッシェル」
仏ノルマンディーの海岸に浮かぶ世界遺産の聖堂をメインに飛行船と気球を描いたもの、祇園祭の魅力は「動く美術館」といわれる山鉾を彩る豪華な懸装(けそう)品で、総金地インド刺繍、円山応震下絵、李朝時代の朝鮮段通、17~18世紀製のラホール絨毯、ベルギーのフランドル地方で400年前に製作されたゴブラン織りなど京の豪商たちが競って作ったものが満載で多くは国の重要文化財に指定される *懸装品の種類は、前掛(まえかけ)、側面の胴掛(どうかけ)、後掛(うしろかけ)、背面の見送(みおくり)、水引(前掛や胴掛、後掛の上部にある掛け物) -
「函谷鉾」烏丸交差点で引き返す
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本番では全面交通ストップになるが、試し曳きでは交通整理に奔走する、京都市の警察は大変だが、三大祭や全国駅伝など行事が多いので手慣れている!
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7月17日河原町から烏丸まで通行禁止
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たまたま来た消防車は規制外!
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次は室町通りの「鶏鉾」(にわとりほこ)
中国神話上の皇帝「堯」(ぎょう)の時代に平和過ぎて諌鼓(かんこ)という訴訟用の太鼓も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事に因む、鉾頭に諌鼓(太鼓)の中に鶏卵がある、真木の中央「天王座」には航海の神といわれる住吉明神を祀る、見送のホメロスの叙事詩「イリアス」トロイア戦争の場面「トロイア王子ヘクトールと妻子の別れ」を描いた16世紀ベルギー製のタペストリーは有名 *江戸時代初期に輸入されてから分割されてその一部が「鶏鉾」に使われ、他の部分は、錦小路通の「霰天神山」(あられてんじんやま)と滋賀県・長浜曳山祭「鳳凰」に分割された (cf.)https://4travel.jp/travelogue/11784600「大津祭」でもあったが、「トロイの木馬」を描いたベルギー製のタペストリーは、徳川時代オランダから日本に入り徳川家から三井本店を通じて入ってきて3分割され祇園祭の「白楽天山」と大津祭の「月宮殿山」「龍門滝山」に使われている -
本番の山鉾巡行では町内や事前募集のボランティアの男性しか曳けないが、曳き初めの時は山鉾によっては観光客や男女誰でも曳くことができる
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「池坊短大」横から室町通を四条通まで往復する
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胴懸は「御朱印住吉船図」、反対側は「御朱印角倉船図」
住吉明神に因み、清水寺の重要文化財の絵馬「朱印船」を綴錦(つづれにしき)で昭和55年に新調したもの *「朱印船貿易」は、室町時代から江戸時代鎖国まで政府が許可した貿易船で、これで利益を上げた貿易商に摂津の末吉孫左衛門や京都の角倉了以、堺の納屋助左衛門(黄金の日々の呂宋ルソン)などいる -
「縄がらみ」が美しい
釘を使わずに縄で部材を固定する手法で、「雄蝶・雌蝶結び」「鶴・亀結び」「海老結び」など日本独自の伝統技法 -
「菊水鉾」(きくすいほこ)
町内に古くからあった千利休の師・武野紹鷗(たけの じょうおう)の大黒庵邸内の井戸「菊水の井戸」に因んで名づけられた、山鉾の中では唯一の唐破風の豪華な屋根で、鉾頭には金色の菊の花、真木の中央「天王座」には老子と並ぶ長寿者として有名な彭祖像(ほうそぞう)を祀る、稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童(まくらじどう)の能装束の舞姿、幕末に焼失して88年間休み鉾になり1952年に再建された比較的新しい鉾のため、友禅に絵画的手法を応用した染彩で知られる昭和の染色家・皆川月華が寄進した「孔雀草花図」が目を惹く、菊水の井戸が茶人に使われたことから会所ではお茶席が開催されるのが特徴 -
「菊水鉾」の胴掛「唐獅子図」、前懸「飛鶴図」、見送「孔雀図」、後懸「昇鯉の図」は全て皆川月華の作品
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「菊水鉾の車輪」の大きさは直径約2mで、中央の「菊の紋」と「菊水鉾」と彫られた金文字が目立つ、10トンもの重量を支えるので消耗も激しくかなり頑丈に作られているが、頑丈な木を調達するのは難しく、自然乾燥だけでも10~20年かかるらしい *山鉾の車幅はどれも約3mになっているが、これは当初は三条通りを巡行していたためその道幅にあわせたものと云われている、車輪の大きさと車幅は皆同じだが、前輪と後輪の間隔は台車に載せる屋台の大きさによって異なる
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「月鉾」(つきほこ)
鉾頭に「新月」(みかづき)をつけ、真木中央の天王座に「月読尊」(つきよみのみこと)を祀っていることからこの名で呼ばれる、稚児人形は最高の美男子と言われる「於菟麿」(おとまろ)、「月読尊」は月と水の神様であることから月や水に関連する装飾品が多く、見どころは屋根裏の円山応挙作「金地彩色草花図」、天井裏の岩城清右衛門作「源氏物語五十四帖扇面散図」、破風蟇股(はふかえるまた)の左甚五郎作「白い兎」でまさに「動く美術館」 -
幼稚園の子供たちがいい経験をして将来を担ってくれることを期待!
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「月鉾」は、円山応挙一門や左甚五郎の作品など「動く美術館」と言われる山鉾の中でも特に豪華絢爛で、当時京都で一番の売れっ子絵師集団の円山派でそのトップの円山応挙に直々に注文するほど当時の町衆たちの気概と財力は凄かった!
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「長刀鉾」(なぎなたぼこ)
「くじ取らず」の鉾として常に山鉾巡行の先頭を進み、鉾先きに疫病邪悪をはらう大長刀(おおなぎなた)をつけて、山鉾の中で唯一「生稚児」(いきちご)が乗り、「注連縄(しめなわ)切り」の儀式で巡行がスタートする、平安時代の刀工・三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したという大長刀が名前の由来、真木の中央「天王座」にはかつて鉾先の長刀を愛用したといわれる源氏の武将・和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)の人形が祀られている -
「長刀」(なぎなた)は 1.1m、地上から櫓まで約8m、長刀の上までは約25m(8階建てくらい)で、本物は町内の宝物として秘蔵されており、漆とプラチナ箔を施した竹製の模造品を用いているという
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「生稚児」(いきちご)が、本番さながらに「太平の舞い」(稚児舞)を披露し山鉾巡行のコースを清め祓い疫病の退散を祈願し「注連縄切り」でスタートする、「注連縄切り」は竹光で試したり本番で使用する日本刀と模擬の縄を使って練習し、「太平の舞」は足を父親が支え稚児係が後ろからサポートし二人羽織のように行うという
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「生稚児」は、10歳前後の男子が家来役の「禿」(かむろ)の男子2名とともに選ばれ、山鉾巡行に先立ち「長刀鉾稚児社参」を行ってからは神の使いとされ、俗世間とは隔離され、地面に足をつけることが許されず肩に担がれて移動し、食事は母親が用意することは許されず父親が他の人とは別の火を使って用意し食事中も女性と同席はできない
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「真木の網隠し」(あみかくし)は真木(しんぎ)を固定するために櫓の上部四隅に渡される柱や縄を隠すための三角帽子のようなもので、ここには前面に祇園社の木瓜(もっこう)紋、後方に巴紋が付いているが、「長刀鉾」だけは前後とも木瓜(もっこう)紋が付いている *因みに、八坂神社の御神紋は「巴」(ともえ)、社紋が「木瓜」(マクワウリ)の二つあり、これがキュウリの断面に似ていることから祇園祭の期間はキュウリを食べないというが、徳川家の「葵紋」に似ているからとの説もある、徳川家の「葵紋」は賀茂神社の御神紋であるが、八坂神社の御神紋の「木瓜」は別名織田木瓜(おだもっこう)とも呼ばれ、織田家の家紋でもあり、牛頭天王を厚く信心した信長が神輿を新しく寄進した際織田家の家紋である木瓜を神輿に付けたことから祇園の神紋になったという説もある
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「長刀鉾」の前懸(まえかけ)はペルシャ花文様(かもんよう)絨毯、胴懸(どうかけ)は中国玉取獅子図(たまとりじしず)絨毯など十六世紀の希少な絨毯や十七世紀のペルシャ絹絨毯などどれをとっても豪華だが、注目は会所に近い錦市場出身の伊藤若冲生誕300年を記念して最近(平成28年)新調した伊藤若冲原画の見送「旭日鳳凰図」(きょくじつほうおうず)のつづれ織り
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「長刀鉾」が動きだすと急にゲリラ豪雨で、やってる人はズブ濡れ!
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「八坂神社御旅所」(おたびしょ)は準備中
祇園祭の7.17「神幸祭」から7.24「還幸祭」迄1週間、八坂神社の神輿3基、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)が奉安される -
「西御殿」(烏丸側)
素戔嗚尊と櫛稲田姫命、ご夫婦が遷座され、随身が弓を携えて護衛の役割を果たす -
「東御殿」(河原町側)
八柱御子神(やつはしらのみこがみ)、子供たちが遷座される -
四条通向かい側の新京極通側に「染殿地蔵」(そめどのじぞう)
入り口は分りにくく、明治7年創業の甘栗専門店「林万昌堂」の奥にあるので入りにくい -
「染殿地蔵」(そめどのじぞう)
平安中期、文徳天皇の后「染殿皇后」はなかなか子宝に恵まれず「四条の寺院にご利益のある地蔵菩薩が安置されている」という噂を聞きつけ17日間願掛けをおこなうと懐妊の兆候があり、後の清和天皇を出産したことから、寺院を「染殿院」、地蔵菩薩を「染殿地蔵」と広く名が知れ渡るようになり、安産を守る寺院として今も信仰を集めている -
中に入って分かったが、正式な入り口は新京極通側
平安前期808年弘法大師空海が創建し十住心院と呼ばれたが、平安中期文徳天皇の后「染殿后」がここにお参りし清和天皇を授かったことから「染殿院」と呼ばれ、鎌倉時代にはこの地で時宗の開祖で踊念仏で民衆に勧めた「一遍上人」が念仏賦算(ふさん:念仏札を配ること)をし、室町時代には足利義満により時宗の金蓮寺の塔頭とされた -
「先斗町」(ぽんとちょう)
江戸時代初期に鴨川の護岸工事で埋立てられ高瀬川の船頭や旅客目当ての旅籠屋が遊女を置き花街として栄え、京都の出入り口・三条大橋に繋がっているので幕末には藩邸が多く度々動乱の歴史の舞台となり、明治になって京都博覧会の観光客誘致に「鴨川をどり」が初演されてから祇園と並ぶ花街として有名になり、三条通りから四条通までの木屋町通沿いの石畳通りに花街特有の雰囲気のする飲食店街が74店舗続く、名前はポルトガル語のponta(先)、ponte(橋)、ponto(点)の説や、鴨川と高瀬川の川(皮)にはさまれた堤(鼓)のポンと鳴る音という説があり、和田弘とマヒナスターズの「お座敷小唄」で日本全国に知られるようになった -
「四条大橋」
平安後期1142年に八坂神社への参詣路として造営され、鎌倉時代には武家町として六波羅が発達したことから重視されたが、三条大橋や五条大橋に比べて公儀橋としての役割はなくあくまで私的な橋としての位置づけで、幕末に石造りとなり、大正時代には市電が走ることで拡張が行われアーチ型デザインの橋となり、水害により1942年に現在の鋼板桁橋に架け替えられ、1965年には高欄部分が新設され、1972年現在の姿になった -
「東華菜館」(とうかさいかん)旧矢尾政レストラン
大正15年ヴォーリズの設計で、スパニッシュバロックの5階建て建物は西洋料理店を前身とし戦後1945年北京料理店に変わった、日本に現存する最古のエレベータは今でも現役稼働 -
「レストラン菊水」
大正5年創業の洋食レストラン、アールデコスパニッシュの5階建て建物は国の登録有形文化財、京都初の屋上ビアガーデンがあり、1階のカフェでは月5回の弦楽四重奏の演奏が30年以上続いている -
「南座」(みなみざ)
江戸初期からの伝統を持つ日本最古の劇場で、明治の四条通拡張工事で幕府公認の七座の中で最後に残った貴重な建物、近代建築に桃山風の意匠を取り込んだ建物は国の登録有形文化財、毎年年末に顔見世興行が行われ正面に掲げられる「まねき」とともに師走の風物詩 -
「松葉」(まつば)
江戸時代1861年創業の蕎麦屋、明治になって2代目が南座の一角に移り「にしんそば」を発案して元祖となり京都を代表する郷土料理として愛される -
「出雲阿国像」
江戸初期1603年に歌舞伎の元祖となった「出雲阿国」がこの地で踊ったのを記念して1994年像が完成、「阿国」の踊りは熱狂的な評判を呼び次々とその真似をする女性が続出し「遊女歌舞伎」と呼ばれたが、幕府から禁止令が出され「若衆歌舞伎」になり、これも禁止されて現在の「野郎歌舞伎」になった -
「繩手通」(なわてどおり)
三条通から泉涌寺通まで南北に走る3kmの通りは「大和大路通」で奈良にまで続く大和街道の一部だが、三条通南側の若松通から四条通までは「繩手通」と呼ぶ、「繩手」は鴨川の土手の意味で昔は髷(まげ)を束ねる糸(こより)をつくる「元結屋」(もとゆいや)が集中していたという、現在は老舗グルメや庶民派グルメに大人の雰囲気のバーや祇園界隈の華やかさもあり、少し行くと白川通りがあって今と昔が混在していて楽しい! -
「壹銭洋食」(いっせんようしょく)
大正から昭和の初め頃、駄菓子屋でダシ入の水で溶いた小麦粉を鉄板で焼きネギなど乗せてソースをかけて「お好み焼きの原型」とも呼べるものが一銭で買える「いっせんようしょく」として親しまれていたが、昭和の後半になるとお好み焼きが主流になりどんどん姿を消していったので、懐かしの味をもう一度復活させ京風の上品さを保って独自の味にして完成させたのが、昭和の懐かしさあふれる庶民派グルメとして大人気となった! -
「仲源寺」(ちゅうげんじ)
平安後期に活躍した仏師・定朝(じょうちょう)が四条橋袂に地蔵尊を祀ったのに始まり、鎌倉時代に鴨川が氾濫した時この地蔵菩薩のお告げで洪水を防ぐことができたため「雨止み地蔵」として安置した、そしてその後、信仰深い老夫婦の眼病を自らの右目に移し苦しみを救ったという逸話から「目疾地蔵」(めやみじぞう)と呼ばれ眼病治療に御利益があるとして広く信仰を集めている -
扁額の「雨奇晴好」(うきせいこう)
人生の激しい風雨に遭いこの地蔵尊の下に額づけば人生は「雨奇晴好」、「降るもよし、晴るゝもよし」悲運、逆境にとらわれず、人生を生き技く地蔵菩薩の尊いお力を頂き、自由自在の活躍をすべく、元気よく門を出て行こうではありませんか、その通り! -
「切通し 進々堂」(きりどおし・しんしんどう)
「切通し」は四条通りから巽橋を渡って三条通手前の古門前通りまで約300mの風情ある通りで、縄手通、花見小路通と共に祇園の中心となる通り、富永町、末吉町など花街を縦に突っ切っている通りだからの命名
「切通し進々堂」は、1960年創業の舞子さんや役者さんから親しまれている老舗喫茶店で、色鮮やかなゼリーと卵トーストが名物、有名なパン屋さんとは無関係、ベーカリー進々堂は1913年(大正2)創業 -
「花見小路通」
元々建仁寺の境内が明治以降に整備されたエリアで、電線を地中化し美しい石畳と紅殻(べんがら)格子戸や犬矢来(いぬやらい)の柵が並ぶ美観を構成しており「歴史的景観保全修景地区」(京都市指定)、四条通を挟んだ北側は古くからの祇園の中心で往時の祇園の風情を伝え、戦後拡張された飲み屋街ビルも並ぶ新しい通りと混在している -
「一力亭」(いちりきてい)
四条花見小路の創業300年の祇園で一番古い茶屋、大ヒットした「仮名手本忠臣蔵」で「一力亭」と記され、幕末には西郷隆盛や近藤勇なども訪れ、現在も「一見さんお断り」の祇園を代表するお茶屋 -
「祇園祭ぎゃらりぃ」
1年中祇園祭が体験できる体感型施設で、実物大の鉾が再現されており、山鉾のミニチュアや、祇園祭の見どころを上映する大型モニター、京都に関する書籍や雑貨も購入できる、毎年「今年の漢字」を発表している「日本漢字能力検定協会」開設の「漢字ミュージアム」に併設されている -
祇園祭時期だけでなく1年を通じて、高さ約7メール、重さ約6トンの原寸大の鉾が設置されており、釘を一切使わない縄がらみなど鉾建ての伝統技法を間近で見学することができる、入場無料
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雨予報だったが最後の一瞬だけ豪雨に見舞われただけのラッキーな「祇園祭曳き初め」だったが、京都の夏はとにかく暑い! 山鉾巡行を始め実際運営する方々のご苦労ははかり知れないが、ぜひ4年ぶりの「祇園祭」を成功裏に終わらせて、1,000年以上も続く伝統を未来永劫続けて欲しい!
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