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10月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第7回目「七条大路」です。<br />現在の「七条通」は東大路通・東山七条から葛野大路通を超えて天神川通まで5.4kmですが、平安京の「七条大路」は西大路通までの4.0kmで、そこから西進して山陰街道が続いており、平安時代はこの大路に面して官設市場であった東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)があり商工業の中心として栄え、松尾大社の「松尾祭」や稲荷大社の「稲荷祭」では御旅所へ渡る神輿の巡行路となり賑わい、平安末期には鍛冶屋、銀金細工屋、銅細工屋、金融業者などが集まり大繁盛し、仏像の工房・仏所が設けられ、さらに鎌倉時代には「七条仏所」が開かれ運慶・快慶・湛慶など優れた仏師を輩出、最近では明治から昭和にかけて東山七条から西大路七条まで京都市電が開通し、我が国初めての中央卸売市場も開設、さらに貨物駅跡の再開発で梅小路公園が開設されて賑やかな通りとなりました。<br />「七条大橋」を挟んで東側は、平安末期の後白河上皇の御所「法住寺殿」と、戦国末期の豊臣秀吉の方広寺大仏殿の痕跡が多く、西側は今は梅小路公園や中央卸売市場になった辺りに「東市」「西市」や「東鴻臚館」「西鴻臚館」などの痕跡があって、「七条大路」もなかなか1日で完歩するのは難しいコースですが、今回も盛沢山の歴史満載で新発見連続の1日でした。

月一京町散歩(10月)平安京散歩「七条大路」

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2023/10/19 - 2023/10/19

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Bach

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10月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第7回目「七条大路」です。
現在の「七条通」は東大路通・東山七条から葛野大路通を超えて天神川通まで5.4kmですが、平安京の「七条大路」は西大路通までの4.0kmで、そこから西進して山陰街道が続いており、平安時代はこの大路に面して官設市場であった東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)があり商工業の中心として栄え、松尾大社の「松尾祭」や稲荷大社の「稲荷祭」では御旅所へ渡る神輿の巡行路となり賑わい、平安末期には鍛冶屋、銀金細工屋、銅細工屋、金融業者などが集まり大繁盛し、仏像の工房・仏所が設けられ、さらに鎌倉時代には「七条仏所」が開かれ運慶・快慶・湛慶など優れた仏師を輩出、最近では明治から昭和にかけて東山七条から西大路七条まで京都市電が開通し、我が国初めての中央卸売市場も開設、さらに貨物駅跡の再開発で梅小路公園が開設されて賑やかな通りとなりました。
「七条大橋」を挟んで東側は、平安末期の後白河上皇の御所「法住寺殿」と、戦国末期の豊臣秀吉の方広寺大仏殿の痕跡が多く、西側は今は梅小路公園や中央卸売市場になった辺りに「東市」「西市」や「東鴻臚館」「西鴻臚館」などの痕跡があって、「七条大路」もなかなか1日で完歩するのは難しいコースですが、今回も盛沢山の歴史満載で新発見連続の1日でした。

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  • 「六条」の本願寺(数珠や町)の次は、「七条」の米相場(米市)に「八条」のお百姓と続き、七条越えれば 八九条、十条東寺で とどめさす、となるが、米市の米売買会所は六条新地にあったらしい、「七条」は他にも「七条お芋ほり」とか「七条そば屋」などとも歌われており、様々な職業の人が混ざった雑多な地域だったのかもしれない

    「六条」の本願寺(数珠や町)の次は、「七条」の米相場(米市)に「八条」のお百姓と続き、七条越えれば 八九条、十条東寺で とどめさす、となるが、米市の米売買会所は六条新地にあったらしい、「七条」は他にも「七条お芋ほり」とか「七条そば屋」などとも歌われており、様々な職業の人が混ざった雑多な地域だったのかもしれない

  • (散歩ルート)七条大橋~0.2kmわらじや~京都国立博物館~0.3km豊国神社~0.1km方広寺~0.5km妙法院~0.3km智積院~0.4km法住寺~後白河天皇陵~養源院~0.1km三十三間堂~0.5km(2.5km)七条大橋~0.1km松明殿稲荷神社~0.4m七条仏所跡~0.4km旧不動貯金銀行七条支店~0.3km富士ラビットスクーター~0.1km旧鴻池銀行七条支店~0.2km旧村井銀行七条支店~0.1km村瀬本店~0.1km(1.7km)亀屋陸奥~(堀川通)~0.1km興正寺~0.2km平安京東西市跡~0.5km龍谷大学~0.2km笹谷伊織~京都中央卸売市場~0.9km権現寺~0.7km(4.0km)西大路七条~0.9km笹谷伊織別邸~0.1km(5.0km)梅小路公園・朱雀の庭<br />

    (散歩ルート)七条大橋~0.2kmわらじや~京都国立博物館~0.3km豊国神社~0.1km方広寺~0.5km妙法院~0.3km智積院~0.4km法住寺~後白河天皇陵~養源院~0.1km三十三間堂~0.5km(2.5km)七条大橋~0.1km松明殿稲荷神社~0.4m七条仏所跡~0.4km旧不動貯金銀行七条支店~0.3km富士ラビットスクーター~0.1km旧鴻池銀行七条支店~0.2km旧村井銀行七条支店~0.1km村瀬本店~0.1km(1.7km)亀屋陸奥~(堀川通)~0.1km興正寺~0.2km平安京東西市跡~0.5km龍谷大学~0.2km笹谷伊織~京都中央卸売市場~0.9km権現寺~0.7km(4.0km)西大路七条~0.9km笹谷伊織別邸~0.1km(5.0km)梅小路公園・朱雀の庭

  • 「七条大橋」(しちじょうおおはし)<br />平安末期には「七条石橋」が架けられたといわれ、最近では大正2年(1913)に架けられた鴨川最古の橋、「欄干」は金属が戦時中に取り外されてしまったので、昭和61年(1987)リニューアルされた、「京都市三大事業」による橋梁のなかで唯一残っているという貴重な存在で、5連アーチのモダンなデザインは鴨川に架かる橋では珍しい洋風建築で、桂川の渡月橋、宇治川の宇治橋とならび「京都三大名橋」に数えられている

    「七条大橋」(しちじょうおおはし)
    平安末期には「七条石橋」が架けられたといわれ、最近では大正2年(1913)に架けられた鴨川最古の橋、「欄干」は金属が戦時中に取り外されてしまったので、昭和61年(1987)リニューアルされた、「京都市三大事業」による橋梁のなかで唯一残っているという貴重な存在で、5連アーチのモダンなデザインは鴨川に架かる橋では珍しい洋風建築で、桂川の渡月橋、宇治川の宇治橋とならび「京都三大名橋」に数えられている

  • 角度が悪く見にくいが、三十三間堂の「通し矢」のデザインは、円形の的に10本の矢があり、毎年1月に開かれる「大的(おおまと)大会」で新成人が晴れ着姿で弓を射るので、新成人の20歳に因んで欄干の柱と柱の間にふたつ並べて20本でワンセットになっているという

    角度が悪く見にくいが、三十三間堂の「通し矢」のデザインは、円形の的に10本の矢があり、毎年1月に開かれる「大的(おおまと)大会」で新成人が晴れ着姿で弓を射るので、新成人の20歳に因んで欄干の柱と柱の間にふたつ並べて20本でワンセットになっているという

  • 「わらじや」(老舗うなぎ屋専門店)<br />江戸初期1624年創業、太閤秀吉が方広寺の大仏殿建立の様子を見に来るごとに、いつもこの家で草履を履き替えたことからの命名

    「わらじや」(老舗うなぎ屋専門店)
    江戸初期1624年創業、太閤秀吉が方広寺の大仏殿建立の様子を見に来るごとに、いつもこの家で草履を履き替えたことからの命名

  • 茶懐石や旅籠など業態を変えながら時代の変遷を切り抜け、古きものと新しきものを結び、今日まで伝えられている真髄を守り抜いてきた、とHPに書かれている

    茶懐石や旅籠など業態を変えながら時代の変遷を切り抜け、古きものと新しきものを結び、今日まで伝えられている真髄を守り抜いてきた、とHPに書かれている

  • 谷崎潤一郎も訪れたという老舗中の老舗で、小説にも登場する部屋が今も現存し、京都らしく玄関は狭いが奥には20名入る大部屋の他テーブル席など50名くらいは入る広さ

    谷崎潤一郎も訪れたという老舗中の老舗で、小説にも登場する部屋が今も現存し、京都らしく玄関は狭いが奥には20名入る大部屋の他テーブル席など50名くらいは入る広さ

  • うぞふすい7,500円のみと聞いていたが、まむし御前5,800円、ランチ限定うぞうすい3,900円もあった、又今度!

    うぞふすい7,500円のみと聞いていたが、まむし御前5,800円、ランチ限定うぞうすい3,900円もあった、又今度!

  • 七條甘春堂(しちじょうかんしゅんどう)<br />幕末期1865年創業の老舗和菓子店、方広寺大仏造営の頃に豊臣秀吉が庭前の古藤を鑑賞されたと伝えられる旧家で、「豊国神社」や「旧六条御所」等の御用達でもあったという、伝統を引き継いでいる名物は天の川、通し矢饅頭など *近くの正面通りにも「甘春堂」があるので調べると、現在8代目の父親7代目の時に兄弟喧嘩があり分裂したらしい、よくある話だが伝統を引き継ぐのは難しい!

    七條甘春堂(しちじょうかんしゅんどう)
    幕末期1865年創業の老舗和菓子店、方広寺大仏造営の頃に豊臣秀吉が庭前の古藤を鑑賞されたと伝えられる旧家で、「豊国神社」や「旧六条御所」等の御用達でもあったという、伝統を引き継いでいる名物は天の川、通し矢饅頭など *近くの正面通りにも「甘春堂」があるので調べると、現在8代目の父親7代目の時に兄弟喧嘩があり分裂したらしい、よくある話だが伝統を引き継ぐのは難しい!

  • 七条通と大和大路通の交差点、左手に「京都国立博物館」、右手に「三十三間堂」左方向に曲がると「豊国神社」と「方広寺」、この辺りは豊臣秀吉が建立した「方広寺」の広大な境内があった所で、大和大路の先は伏見城のある伏見街道<br />

    七条通と大和大路通の交差点、左手に「京都国立博物館」、右手に「三十三間堂」左方向に曲がると「豊国神社」と「方広寺」、この辺りは豊臣秀吉が建立した「方広寺」の広大な境内があった所で、大和大路の先は伏見城のある伏見街道

  • 「京都国立博物館」(西側旧正門)<br />明治30年(1897)皇室の宝物を公開する帝国博物館として開館 *この地は明治維新の神仏分離令により、天皇や皇族の位牌や念持仏など所持できないものを保管する施設と、東京遷都で京都に残った宮中女官の住居として造られた恭明宮(きょうめいぐう)の跡地<br />

    「京都国立博物館」(西側旧正門)
    明治30年(1897)皇室の宝物を公開する帝国博物館として開館 *この地は明治維新の神仏分離令により、天皇や皇族の位牌や念持仏など所持できないものを保管する施設と、東京遷都で京都に残った宮中女官の住居として造られた恭明宮(きょうめいぐう)の跡地

  • 考古遺物や陶磁器、仏像など彫刻作品、絵画、書跡、工芸(染織、漆工、金工)など国宝27件、重要文化財181件所蔵

    考古遺物や陶磁器、仏像など彫刻作品、絵画、書跡、工芸(染織、漆工、金工)など国宝27件、重要文化財181件所蔵

  • 「考える人」ブロンズ像<br />現在世界中にロダンの「考える人」は21体で、そのうち4体が我が国にある(上野、静岡、名古屋、京都)

    「考える人」ブロンズ像
    現在世界中にロダンの「考える人」は21体で、そのうち4体が我が国にある(上野、静岡、名古屋、京都)

  • 現在の正門は七条通側<br />

    現在の正門は七条通側

  • 「太閤石垣」(たいこういしがき)<br />博物館から方広寺、豊国神社への通り沿いには現在は跡形もない「大仏殿」の大きな石垣だけが残されている、大仏造営するにあたり諸大名が競い合って自慢の石を持ち寄ったという

    「太閤石垣」(たいこういしがき)
    博物館から方広寺、豊国神社への通り沿いには現在は跡形もない「大仏殿」の大きな石垣だけが残されている、大仏造営するにあたり諸大名が競い合って自慢の石を持ち寄ったという

  • 「豊国神社」(とよくにじんじゃ:通称ほうこくじんじゃ)<br />1598年亡くなった太閤秀吉の鎮守社として建立、その後徳川幕府により没収され明治になって天下を統一しながら幕府は作らなかったと評価され1880年再興、秀吉に縁のある各地にあるがその総本社で、名古屋、大阪、長浜を含め豊国四社と称される *秀吉が亡くなった翌年1599年に創建されたが、2度目の朝鮮出兵中で秀吉の死は伏せられていたため当初は大仏の鎮守社と呼ばれ、死が明らかになって「新八幡社」と呼ばれ、朝廷から豊国大明神の神号が与えられ「豊国神社」となったが、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し徳川家康により取り壊されてしまい、明治元年(1868)に全国統一を成し遂げたにも関わらず幕府を開かなかった秀吉の「尊王の精神」が認められ再興された 現在の社殿は1880年建立

    「豊国神社」(とよくにじんじゃ:通称ほうこくじんじゃ)
    1598年亡くなった太閤秀吉の鎮守社として建立、その後徳川幕府により没収され明治になって天下を統一しながら幕府は作らなかったと評価され1880年再興、秀吉に縁のある各地にあるがその総本社で、名古屋、大阪、長浜を含め豊国四社と称される *秀吉が亡くなった翌年1599年に創建されたが、2度目の朝鮮出兵中で秀吉の死は伏せられていたため当初は大仏の鎮守社と呼ばれ、死が明らかになって「新八幡社」と呼ばれ、朝廷から豊国大明神の神号が与えられ「豊国神社」となったが、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し徳川家康により取り壊されてしまい、明治元年(1868)に全国統一を成し遂げたにも関わらず幕府を開かなかった秀吉の「尊王の精神」が認められ再興された 現在の社殿は1880年建立

  • 大和大路通に沿って建つ鳥居の前から西へ真っ直ぐ伸びているのが「正面通」で、これは「方広寺大仏殿」の正面に通じる道ということから「大仏正面通」とも呼ばれるようになったというが、同時期に建てられた西本願寺の阿弥陀堂・御影堂も鴨川を挟み東西方向にほぼ一直線上になっている、しかし、秀吉の神格化を徹底的に妨害した徳川家康は、1602年に東本願寺を建てさせ東西に分裂し、江戸前期の1614年に方広寺、1615年に祥雲寺(後の智積院)、1619年に豊国廟・豊国神社を次々と破却し、1641年には家光が渉成苑を建てさせ、1655年には豊国廟の参道を塞ぐ形で新日吉神宮を創祀させ、現在の「正面通」は渉成園、東本願寺、西本願寺の広大な境内で寸断されている、という歴史を知ると面白い!

    大和大路通に沿って建つ鳥居の前から西へ真っ直ぐ伸びているのが「正面通」で、これは「方広寺大仏殿」の正面に通じる道ということから「大仏正面通」とも呼ばれるようになったというが、同時期に建てられた西本願寺の阿弥陀堂・御影堂も鴨川を挟み東西方向にほぼ一直線上になっている、しかし、秀吉の神格化を徹底的に妨害した徳川家康は、1602年に東本願寺を建てさせ東西に分裂し、江戸前期の1614年に方広寺、1615年に祥雲寺(後の智積院)、1619年に豊国廟・豊国神社を次々と破却し、1641年には家光が渉成苑を建てさせ、1655年には豊国廟の参道を塞ぐ形で新日吉神宮を創祀させ、現在の「正面通」は渉成園、東本願寺、西本願寺の広大な境内で寸断されている、という歴史を知ると面白い!

  • 現在NHK大河に出ている「豊臣秀吉」(1536-1598)は、1582年大徳寺で織田信長の葬儀を行ってから、1583年大阪城築城、1585年関白就任、1586年「方広寺大仏殿」創建、1587年聚楽第構築、1591年太閤宣言、西本願寺移転、1592年鶴松追悼の祥雲寺(後の智積院の地)創建、1594年伏見城築城、1596年聚楽第破壊、1597年二度目の朝鮮出兵、1598年亡くなって翌1599年「豊国廟、豊国神社」創建となるが、京都の変遷にも大きく関わった痕跡が至る所にあり、応仁の乱以来荒れ果てた都を再生した「洛中大改造」で、まず平安京内裏跡地に「聚楽第」を造営し、それまでの碁盤の目の南北にもう1本道を通し正方形のブロックを長方形にする「天正地割」(てんしょうじわり)で空き地を減らし住む人を増やして税収を増やし、外部からの侵入を防ぐ要塞となる「御土居」(おどい)を造営、そして公家、武士、町人など居住地を分ける「京中屋敷替え」で行政管理をやり易くし、寺院を集中移転して宗派別に固めることで対立をなくし寺院と商人との関係を弱めた、京都住民には賛否両論あるが、これだけ歴史に残る実行力は凄い!とあらためて思う

    現在NHK大河に出ている「豊臣秀吉」(1536-1598)は、1582年大徳寺で織田信長の葬儀を行ってから、1583年大阪城築城、1585年関白就任、1586年「方広寺大仏殿」創建、1587年聚楽第構築、1591年太閤宣言、西本願寺移転、1592年鶴松追悼の祥雲寺(後の智積院の地)創建、1594年伏見城築城、1596年聚楽第破壊、1597年二度目の朝鮮出兵、1598年亡くなって翌1599年「豊国廟、豊国神社」創建となるが、京都の変遷にも大きく関わった痕跡が至る所にあり、応仁の乱以来荒れ果てた都を再生した「洛中大改造」で、まず平安京内裏跡地に「聚楽第」を造営し、それまでの碁盤の目の南北にもう1本道を通し正方形のブロックを長方形にする「天正地割」(てんしょうじわり)で空き地を減らし住む人を増やして税収を増やし、外部からの侵入を防ぐ要塞となる「御土居」(おどい)を造営、そして公家、武士、町人など居住地を分ける「京中屋敷替え」で行政管理をやり易くし、寺院を集中移転して宗派別に固めることで対立をなくし寺院と商人との関係を弱めた、京都住民には賛否両論あるが、これだけ歴史に残る実行力は凄い!とあらためて思う

  • 「唐門」(からもん)国宝<br />「豊国神社」の社殿は家康により取り壊され明治元年(1868)に再興され明治13年に建立されたものだが、唯一「唐門」だけは、1619年伏見城が廃城になってから二条城に移築され、さらに金地院に移築されていたものを移築した伏見城の遺構で、西本願寺、大徳寺の唐門とともに「国宝三唐門」の一つ

    「唐門」(からもん)国宝
    「豊国神社」の社殿は家康により取り壊され明治元年(1868)に再興され明治13年に建立されたものだが、唯一「唐門」だけは、1619年伏見城が廃城になってから二条城に移築され、さらに金地院に移築されていたものを移築した伏見城の遺構で、西本願寺、大徳寺の唐門とともに「国宝三唐門」の一つ

  • 創建時は金箔を施した桃山時代らしい豪華な建築物で、欄間や扉などには豪華な装飾が施されており、「甚五郎」作と伝えらえる扉の「鯉の滝登り」は立身出世の象徴で、屋根下欄間の鶴は実物そっくり過ぎて目を入れると飛んで行きそうということから「左甚五郎の目なし鶴」と言われている、また正面の「豊国大名神」の扁額は後陽成(ごようぜい)天皇から賜り秀吉が神となった証となる旧豊国社伝来の後陽成天皇直筆の勅額

    創建時は金箔を施した桃山時代らしい豪華な建築物で、欄間や扉などには豪華な装飾が施されており、「甚五郎」作と伝えらえる扉の「鯉の滝登り」は立身出世の象徴で、屋根下欄間の鶴は実物そっくり過ぎて目を入れると飛んで行きそうということから「左甚五郎の目なし鶴」と言われている、また正面の「豊国大名神」の扁額は後陽成(ごようぜい)天皇から賜り秀吉が神となった証となる旧豊国社伝来の後陽成天皇直筆の勅額

  • 唐門から眺める拝殿と本殿、境内奥には太閤ゆかりの遺品などが展示されている「宝物館」や秀吉夫人の北政所を祀る摂社「貞照神社」もある

    唐門から眺める拝殿と本殿、境内奥には太閤ゆかりの遺品などが展示されている「宝物館」や秀吉夫人の北政所を祀る摂社「貞照神社」もある

  • 「千成瓢箪」(せんなりひょうたん)絵馬<br />瓢箪は信長の美濃攻めの時に秀吉が敵味方の区別をつけるために腰に付けていた瓢箪を高く掲げて勝利し、信長に瓢箪の馬印を使うことを許され、その後も戦に勝つたびに瓢箪の数を増やしていったことから、立身出世や勝利のシンボルともなっている、又もう一つのシンボルの「太閤桐」の家紋は、皇室の副紋として功績のあった豪族や武将等に下賜された格式の高い紋で、最初に許された足利尊氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に桐の家紋を譲り渡したとされ、花の数が5-7-5の五七桐(ごしちのきり)のうち秀吉が使っていた五七、五三の桐を「太閤桐」という

    「千成瓢箪」(せんなりひょうたん)絵馬
    瓢箪は信長の美濃攻めの時に秀吉が敵味方の区別をつけるために腰に付けていた瓢箪を高く掲げて勝利し、信長に瓢箪の馬印を使うことを許され、その後も戦に勝つたびに瓢箪の数を増やしていったことから、立身出世や勝利のシンボルともなっている、又もう一つのシンボルの「太閤桐」の家紋は、皇室の副紋として功績のあった豪族や武将等に下賜された格式の高い紋で、最初に許された足利尊氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に桐の家紋を譲り渡したとされ、花の数が5-7-5の五七桐(ごしちのきり)のうち秀吉が使っていた五七、五三の桐を「太閤桐」という

  • 「ひょうたん棚」<br />「豊国神社」と「方広寺」の境内では毎年このシーズンに出現する、日本では「瓢箪には神霊が宿る」とされ邪気を吸い込み空気を浄化すると言われ、そのくびれた形から一旦吸い込んだ邪気を封じ込めるとされ、除災招福のお守りや魔除けとして使われる、また中国では、ツルが伸びて果実が鈴なりになることから子孫繁栄のシンボルともいわれる

    「ひょうたん棚」
    「豊国神社」と「方広寺」の境内では毎年このシーズンに出現する、日本では「瓢箪には神霊が宿る」とされ邪気を吸い込み空気を浄化すると言われ、そのくびれた形から一旦吸い込んだ邪気を封じ込めるとされ、除災招福のお守りや魔除けとして使われる、また中国では、ツルが伸びて果実が鈴なりになることから子孫繁栄のシンボルともいわれる

  • 「方広寺」(ほうこうじ)鐘楼<br />豊臣秀吉が東大寺の大仏に代わる大仏を安置するために1595年創建した寺で、「豊国神社」はこの寺の大仏殿跡に再興された、桃山時代には多大な寺域を有していたが現在は小ぢんまりとした境内に本堂や鐘楼などが残るのみ<br />

    「方広寺」(ほうこうじ)鐘楼
    豊臣秀吉が東大寺の大仏に代わる大仏を安置するために1595年創建した寺で、「豊国神社」はこの寺の大仏殿跡に再興された、桃山時代には多大な寺域を有していたが現在は小ぢんまりとした境内に本堂や鐘楼などが残るのみ

  • 右手が「方広寺」本堂、通称は「大仏」、「大仏殿」、「大仏殿方広寺」<br />京の大仏は奈良の大仏、鎌倉の大仏と並んで日本三大大仏とされていたというが、奈良の15m、鎌倉の11mに対して19mの大きさ

    右手が「方広寺」本堂、通称は「大仏」、「大仏殿」、「大仏殿方広寺」
    京の大仏は奈良の大仏、鎌倉の大仏と並んで日本三大大仏とされていたというが、奈良の15m、鎌倉の11mに対して19mの大きさ

  • 「方広寺梵鐘」の「国家安康・君臣豊楽」(こっかあんこう くんしんほうらく)<br />「国家が安康となり、君臣が豊楽となりますように」という文を、「家康」の2文字を分断したことが徳川家の滅亡を表し、「豊臣」を「君」(君主)とすれば「楽」しいという意味にとり、豊臣家を滅ぼしたかった家康は、これをきっかけに大坂の陣を起こしたと言われる *家康はこれを許す代わりに豊臣家が徳川家に臣従するよう、秀頼を江戸に参勤させるか、淀殿(茶々)を人質にするか、秀頼が大坂城を退去するかのどれかを選ぶよう提案したが、これを拒絶し1614年大坂冬の陣が勃発し1615年徳川幕府が豊臣家を滅ぼす、その翌年1616年家康は安心して76歳で亡くなった

    「方広寺梵鐘」の「国家安康・君臣豊楽」(こっかあんこう くんしんほうらく)
    「国家が安康となり、君臣が豊楽となりますように」という文を、「家康」の2文字を分断したことが徳川家の滅亡を表し、「豊臣」を「君」(君主)とすれば「楽」しいという意味にとり、豊臣家を滅ぼしたかった家康は、これをきっかけに大坂の陣を起こしたと言われる *家康はこれを許す代わりに豊臣家が徳川家に臣従するよう、秀頼を江戸に参勤させるか、淀殿(茶々)を人質にするか、秀頼が大坂城を退去するかのどれかを選ぶよう提案したが、これを拒絶し1614年大坂冬の陣が勃発し1615年徳川幕府が豊臣家を滅ぼす、その翌年1616年家康は安心して76歳で亡くなった

  • 「大仏殿跡緑地公園」(だいぶつでんあとりょくちこうえん)<br />平成12年(2000)の発掘調査で「大仏殿」の正確な位置が判明し、台座や柱跡などの遺構が見つかった、大仏殿跡の遺構は地下に保存されここは緑地公園となっている

    「大仏殿跡緑地公園」(だいぶつでんあとりょくちこうえん)
    平成12年(2000)の発掘調査で「大仏殿」の正確な位置が判明し、台座や柱跡などの遺構が見つかった、大仏殿跡の遺構は地下に保存されここは緑地公園となっている

  • 駒札によると「1585年関白に就任した秀吉は奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東福寺の近くで工事を始めたが途中で六波羅のこの地に変更し1595年完成したが、翌年の大地震で大破し1598年には秀吉死亡、その後秀頼が木製から金銅に変えて大仏の復興を行い1612年完成、しかしその後梵鐘の銘文が徳川家を呪詛(じゅそ)するものとして家康が怒り大坂の陣が起こり豊臣家が滅亡したが、その後の徳川家でも大仏殿は維持され1798年落雷で炎上するまで「京の大仏つぁん」として親しまれた」

    駒札によると「1585年関白に就任した秀吉は奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東福寺の近くで工事を始めたが途中で六波羅のこの地に変更し1595年完成したが、翌年の大地震で大破し1598年には秀吉死亡、その後秀頼が木製から金銅に変えて大仏の復興を行い1612年完成、しかしその後梵鐘の銘文が徳川家を呪詛(じゅそ)するものとして家康が怒り大坂の陣が起こり豊臣家が滅亡したが、その後の徳川家でも大仏殿は維持され1798年落雷で炎上するまで「京の大仏つぁん」として親しまれた」

  • 「妙法院」(みょうほういん)<br />平安末期1160年後白河法皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守として創建した新熊野神社(いまくまのじんじゃ)、新日吉神宮(いまひえじんぐう)の守護のために開創され、鎌倉時代には青蓮院、三千院と共に天台三門跡(皇族が歴代住持)になり、秀吉が方広寺を建立した際に経堂となり大仏殿の千僧供養の時千人分の食事を作ったとされる国宝の庫裏は桃山時代を代表する建築物、1586年現在地に移り、豊臣家滅亡後、蓮華王院(れんげおういん・三十三間堂)、新日吉社(いまひえしゃ)、後白河法皇御影堂、大仏殿が妙法院の管理下に置かれた(当日入れず)<br />

    「妙法院」(みょうほういん)
    平安末期1160年後白河法皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守として創建した新熊野神社(いまくまのじんじゃ)、新日吉神宮(いまひえじんぐう)の守護のために開創され、鎌倉時代には青蓮院、三千院と共に天台三門跡(皇族が歴代住持)になり、秀吉が方広寺を建立した際に経堂となり大仏殿の千僧供養の時千人分の食事を作ったとされる国宝の庫裏は桃山時代を代表する建築物、1586年現在地に移り、豊臣家滅亡後、蓮華王院(れんげおういん・三十三間堂)、新日吉社(いまひえしゃ)、後白河法皇御影堂、大仏殿が妙法院の管理下に置かれた(当日入れず)

  • 「妙法院の庭園」は平安末期の数少ない名庭「積翠園」(しゃくすいえんん)で、平重盛別邸「小松殿」の庭園を移築し、平成17年武田病院から平成28年(2016)隣の「フォーシーズンホテル」に移されたので、見学には先日行った都ホテルよりもハードルが高そう

    「妙法院の庭園」は平安末期の数少ない名庭「積翠園」(しゃくすいえんん)で、平重盛別邸「小松殿」の庭園を移築し、平成17年武田病院から平成28年(2016)隣の「フォーシーズンホテル」に移されたので、見学には先日行った都ホテルよりもハードルが高そう

  • 「豊国廟」(ほうこくびょう)参道<br />豊臣秀吉の死後作られた「豊国廟」は、「豊国社」と共に参道の途中にある太閤坦(たいこうだいら)といわれるところにあったが、家康によって破却された後、明治8年(1898)再興され巨大な石造五輪塔が建てられ秀吉の棺が納められている

    「豊国廟」(ほうこくびょう)参道
    豊臣秀吉の死後作られた「豊国廟」は、「豊国社」と共に参道の途中にある太閤坦(たいこうだいら)といわれるところにあったが、家康によって破却された後、明治8年(1898)再興され巨大な石造五輪塔が建てられ秀吉の棺が納められている

  • 「新日吉神宮」(いまひえじんぐう)<br />1160年後白河上皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守として新熊野神社と共に日吉大社より勧請し新日吉社として創建され、1640年豊国社と豊国廟の参道上に再建、その後1897年「豊国廟」再興の際に参道上にあったため現在地に移転した

    「新日吉神宮」(いまひえじんぐう)
    1160年後白河上皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守として新熊野神社と共に日吉大社より勧請し新日吉社として創建され、1640年豊国社と豊国廟の参道上に再建、その後1897年「豊国廟」再興の際に参道上にあったため現在地に移転した

  • 「七条通」の東スタート地点となる「東大路通・東山七条」

    「七条通」の東スタート地点となる「東大路通・東山七条」

  • 「智積院」(ちしゃくいん)<br />豊臣秀吉が53歳にして初めて「茶々」(淀君)の間に誕生した「鶴松」が3歳で亡くなり菩提寺として建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、家康が1600年、高野山とともに真言宗のメッカだった紀州の根来寺(ねごろじ)僧正に与え「智積院」としたことに始まり、その後学僧が仏教を学ぶ教学道場として繁栄し、全国3000余の末寺を有する真言宗智山派の総本山

    「智積院」(ちしゃくいん)
    豊臣秀吉が53歳にして初めて「茶々」(淀君)の間に誕生した「鶴松」が3歳で亡くなり菩提寺として建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、家康が1600年、高野山とともに真言宗のメッカだった紀州の根来寺(ねごろじ)僧正に与え「智積院」としたことに始まり、その後学僧が仏教を学ぶ教学道場として繁栄し、全国3000余の末寺を有する真言宗智山派の総本山

  • 「智積院庭園」2008.5.6撮影、メナードCMの岩下志麻さんで有名になり注目!→https://4travel.jp/travelogue/10238747

    「智積院庭園」2008.5.6撮影、メナードCMの岩下志麻さんで有名になり注目!→https://4travel.jp/travelogue/10238747

  • 「方広寺・旧境内南限」<br />智積院のさらに南側まで「方広寺」の広大さが分かる、ついでに、坂本龍馬など「土佐志士寓居跡」も、龍馬の妻・お龍さんと母、妹がここで賄いをしていたらしい

    「方広寺・旧境内南限」
    智積院のさらに南側まで「方広寺」の広大さが分かる、ついでに、坂本龍馬など「土佐志士寓居跡」も、龍馬の妻・お龍さんと母、妹がここで賄いをしていたらしい

  • 工事中だが「三十三間堂・南大門」から入る

    工事中だが「三十三間堂・南大門」から入る

  • 「三十三間堂」の東側の塀壁<br />方広寺の土塀の一部が三十三間堂の築地塀(ついじべい)・「太閤塀」(たいこうべい)として残っている

    「三十三間堂」の東側の塀壁
    方広寺の土塀の一部が三十三間堂の築地塀(ついじべい)・「太閤塀」(たいこうべい)として残っている

  • 「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)跡・「旧御陵正門」<br />「法住寺」は988年藤原為光によって創建された寺院で、その後1161年から後白河法皇が出家してここを院御所として住い「法住寺殿」と呼ばれ、1192年後白河法皇も崩御すると法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として江戸時代まで存続し、明治時代に御陵と寺が分離された *竜宮城の門のような珍しい山門は後白河天皇陵の正門として作られたものという

    「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)跡・「旧御陵正門」
    「法住寺」は988年藤原為光によって創建された寺院で、その後1161年から後白河法皇が出家してここを院御所として住い「法住寺殿」と呼ばれ、1192年後白河法皇も崩御すると法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として江戸時代まで存続し、明治時代に御陵と寺が分離された *竜宮城の門のような珍しい山門は後白河天皇陵の正門として作られたものという

  • 「法住寺」は藤原為光が夫人と娘の菩提をともらうために創建し、後白河法皇が崩御してからは御陵をまもる寺となり、隣接する法華堂にある後白河法皇の御陵は宮内庁が管理しているが、後白河法皇ゆかりのお寺として今もお勤めをしている、本尊は「身代わり不動」と呼ばれ、後白河法皇を守ってくれたお不動様で、赤穂浪士の大石内蔵助が討ち入り前に参拝したと伝わることから四十七士の像が安置されているという

    「法住寺」は藤原為光が夫人と娘の菩提をともらうために創建し、後白河法皇が崩御してからは御陵をまもる寺となり、隣接する法華堂にある後白河法皇の御陵は宮内庁が管理しているが、後白河法皇ゆかりのお寺として今もお勤めをしている、本尊は「身代わり不動」と呼ばれ、後白河法皇を守ってくれたお不動様で、赤穂浪士の大石内蔵助が討ち入り前に参拝したと伝わることから四十七士の像が安置されているという

  • 「後白河天皇・法住寺陵」入り口

    「後白河天皇・法住寺陵」入り口

  • 「後白河法皇」(1127-1192)は、1155年(29歳)に第77代天皇に即位したが、わずか3年の在位で二条天皇に譲位し、以後、二条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代、30余年にわたり院政を行い政治の実権を握った

    「後白河法皇」(1127-1192)は、1155年(29歳)に第77代天皇に即位したが、わずか3年の在位で二条天皇に譲位し、以後、二条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代、30余年にわたり院政を行い政治の実権を握った

  • 「後白河法皇」は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で演じている西田敏行のイメージどうり、源平の争いの中で頼朝に「日本第一の大天狗」と言わしめたほどのつかみどころのない巧みな老獪さで王朝権力を維持し続けた人で、1158年院政を始めた翌年「平治の乱」で源氏が失脚し、平清盛の勢力が強大になると対立し、1179年清盛のクーデターで幽閉され院政が終わったが1年後再び復活し、1185年壇ノ浦で平氏が滅亡すると頼朝を信任し、鎌倉幕府が成立した1192年63歳で没する<br />

    「後白河法皇」は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で演じている西田敏行のイメージどうり、源平の争いの中で頼朝に「日本第一の大天狗」と言わしめたほどのつかみどころのない巧みな老獪さで王朝権力を維持し続けた人で、1158年院政を始めた翌年「平治の乱」で源氏が失脚し、平清盛の勢力が強大になると対立し、1179年清盛のクーデターで幽閉され院政が終わったが1年後再び復活し、1185年壇ノ浦で平氏が滅亡すると頼朝を信任し、鎌倉幕府が成立した1192年63歳で没する

  • 「養源院」(ようげんいん)<br />1594年秀吉の側室・淀殿が父浅井長政の21回忌に秀吉に願い、菩提を弔うために建立、その後焼失したが1621年妹の江が夫の徳川2代将軍・秀忠に願い伏見城の遺構を移して再建、寺名は浅井長政の法名からとられた

    「養源院」(ようげんいん)
    1594年秀吉の側室・淀殿が父浅井長政の21回忌に秀吉に願い、菩提を弔うために建立、その後焼失したが1621年妹の江が夫の徳川2代将軍・秀忠に願い伏見城の遺構を移して再建、寺名は浅井長政の法名からとられた

  • 「浅井三姉妹」(あざいさんしまい)<br />北近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹お市との間に生まれた3人の娘で、茶々(ちゃちゃ)秀吉の側室・淀殿、初(はつ) 京極高次の正室・常高院(じょうこういん)、江(ごう)2代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(すうげんいん)の3姉妹で、1567年長政とお市結婚、1570年信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めたため浅井・織田家は断絶し1573年小谷城の戦いで敗北し自害、お市と3人の娘は織田家に引き取られ、信長が1582年本能寺の変で死亡すると、お市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚したが、勝家は1583年賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れお市と共に自害、三姉妹は秀吉に保護され、それぞれ秀吉の側室、京極高次の正室、徳川秀忠の正室となる、徳川秀忠が亡くなってから2代将軍秀忠から14代将軍家茂まで歴代将軍の位牌が祀られており、創建者の淀殿と再建者のお江の肖像画、そして秀吉と淀殿の嫡男・豊臣秀頼の肖像画もある

    「浅井三姉妹」(あざいさんしまい)
    北近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹お市との間に生まれた3人の娘で、茶々(ちゃちゃ)秀吉の側室・淀殿、初(はつ) 京極高次の正室・常高院(じょうこういん)、江(ごう)2代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(すうげんいん)の3姉妹で、1567年長政とお市結婚、1570年信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めたため浅井・織田家は断絶し1573年小谷城の戦いで敗北し自害、お市と3人の娘は織田家に引き取られ、信長が1582年本能寺の変で死亡すると、お市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚したが、勝家は1583年賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れお市と共に自害、三姉妹は秀吉に保護され、それぞれ秀吉の側室、京極高次の正室、徳川秀忠の正室となる、徳川秀忠が亡くなってから2代将軍秀忠から14代将軍家茂まで歴代将軍の位牌が祀られており、創建者の淀殿と再建者のお江の肖像画、そして秀吉と淀殿の嫡男・豊臣秀頼の肖像画もある

  • 「徳川家の三つ葉葵の紋」<br />織田家に嫁いで(市)生まれた娘(茶々)が豊臣家の側室になり父親の菩提寺として創建し、その妹(江)が徳川家に嫁いで再建するという、織田家・豊臣家・徳川家の血縁が合流した奇妙に複雑な寺院で、途中から徳川家歴代の位牌所ともなり、特にお江と秀忠の位牌には天皇家の「菊」と徳川家の「葵」と豊臣家の「桐」の3つの紋があり、ここだけでしか見れないという、徳川家と豊臣家は分るが、天皇家は秀忠とお江の五女・和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁いだことで天皇家とも深い関係があるかららしい、500年昔のことがよく分かるもんだと感心する!

    「徳川家の三つ葉葵の紋」
    織田家に嫁いで(市)生まれた娘(茶々)が豊臣家の側室になり父親の菩提寺として創建し、その妹(江)が徳川家に嫁いで再建するという、織田家・豊臣家・徳川家の血縁が合流した奇妙に複雑な寺院で、途中から徳川家歴代の位牌所ともなり、特にお江と秀忠の位牌には天皇家の「菊」と徳川家の「葵」と豊臣家の「桐」の3つの紋があり、ここだけでしか見れないという、徳川家と豊臣家は分るが、天皇家は秀忠とお江の五女・和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁いだことで天皇家とも深い関係があるかららしい、500年昔のことがよく分かるもんだと感心する!

  • 「俵屋宗達」の杉戸絵、襖絵<br />「風神雷神図屏風」で知られる俵屋宗達だが、襖絵と杉戸絵は希少で養源院でしか見られないという、有名な杉戸の「白象図」「唐獅子図」「麒麟図」は、説明してもらって初めて分かったが、まず入り口正面にある「唐獅子図」はどの方向から見ても正面を向いており、右の戸を開けると獅子の顔が左側の獅子のお腹にスーッと入っていって、正面には「白象図」の右側の白象が頭を下げて挨拶しているのが見える、奥に進んで「白象図」全体を見ると右の母象が左の子象を見守る構図、そして帰りは「唐獅子図」の杉戸裏側にキリンビールのラベルにもなっているオスの「麒」とメスの「麟」に左右対称の波が描かれている「波に麒麟図」があり、その右の戸から出て振り返ると「白象図」左側の白象がにこやかにおじぎをしているように見える、というこの3つの絵がセットになって来客をもてなすという、「俵屋宗達」のセンスに脱帽! 他にも伏見城の秀吉謁見の間を移したという客殿「松の間」には現存する宗達唯一の襖絵だという「松図」(襖8面、戸襖4面)と浅井氏の家臣出身だったという「狩野山楽」の襖絵3面「唐獅子図」(仏壇羽目板壁貼付)、そして秀吉の学問所だったという「牡丹の間」にはこの時代には珍しい油絵タッチの襖絵2面「牡丹図」があり25の牡丹は25菩薩の化身として描かれているという *「俵屋宗達」は、当時全くの無名の扇絵職人から大抜擢されこの杉戸絵で一躍有名になったが、これは浅井家と関係のあった当時の実力者「本阿弥光悦」に活躍の場を与えられたからといわれ、これで認められて建仁寺の「風神雷神図屏風」が生まれた

    「俵屋宗達」の杉戸絵、襖絵
    「風神雷神図屏風」で知られる俵屋宗達だが、襖絵と杉戸絵は希少で養源院でしか見られないという、有名な杉戸の「白象図」「唐獅子図」「麒麟図」は、説明してもらって初めて分かったが、まず入り口正面にある「唐獅子図」はどの方向から見ても正面を向いており、右の戸を開けると獅子の顔が左側の獅子のお腹にスーッと入っていって、正面には「白象図」の右側の白象が頭を下げて挨拶しているのが見える、奥に進んで「白象図」全体を見ると右の母象が左の子象を見守る構図、そして帰りは「唐獅子図」の杉戸裏側にキリンビールのラベルにもなっているオスの「麒」とメスの「麟」に左右対称の波が描かれている「波に麒麟図」があり、その右の戸から出て振り返ると「白象図」左側の白象がにこやかにおじぎをしているように見える、というこの3つの絵がセットになって来客をもてなすという、「俵屋宗達」のセンスに脱帽! 他にも伏見城の秀吉謁見の間を移したという客殿「松の間」には現存する宗達唯一の襖絵だという「松図」(襖8面、戸襖4面)と浅井氏の家臣出身だったという「狩野山楽」の襖絵3面「唐獅子図」(仏壇羽目板壁貼付)、そして秀吉の学問所だったという「牡丹の間」にはこの時代には珍しい油絵タッチの襖絵2面「牡丹図」があり25の牡丹は25菩薩の化身として描かれているという *「俵屋宗達」は、当時全くの無名の扇絵職人から大抜擢されこの杉戸絵で一躍有名になったが、これは浅井家と関係のあった当時の実力者「本阿弥光悦」に活躍の場を与えられたからといわれ、これで認められて建仁寺の「風神雷神図屏風」が生まれた

  • 養源院の「血天井」<br />伏見桃山城の遺構の「血天井」は、1600年関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで徳川家康の忠臣・鳥居元忠公以下徳川の軍勢1800人が4万人の三成軍勢と戦い380余人が自刃したときの血糊のついた廊下の板を天井にしたもので、養源院の他にも正伝寺,宝泉院、源光庵、宇治の興聖寺などにもあるが、案内人の説明では自害した場所といわれる鳥居元忠の手や首、足などが最も鮮明に生々しく残っているという、また、その下の鴬張りの廊下は左甚五郎の作品 *鳥居元忠公らが自刃した後、遺体は関ケ原の戦いが終わるまで血糊が染み込んだまま1ヵ月以上放置されていたが、その後1619年伏見城の廃城が決まり、天守は二条城、唐門は大徳寺などさまざまな場所に移築されたので、火災で焼失し再建を願っていた2代将軍徳川秀忠の正室崇源院(お江)は、徳川方に忠義を尽くした家臣の血糊が残る床板を寺院の天井にして供養すれば、豊臣にまつわる寺院再建の大義名分になると考え、1621年崇源院の私的事業という名目と血天井を用いるという条件付きで伏見城の遺構を移築して養源院が再建された<br />

    養源院の「血天井」
    伏見桃山城の遺構の「血天井」は、1600年関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで徳川家康の忠臣・鳥居元忠公以下徳川の軍勢1800人が4万人の三成軍勢と戦い380余人が自刃したときの血糊のついた廊下の板を天井にしたもので、養源院の他にも正伝寺,宝泉院、源光庵、宇治の興聖寺などにもあるが、案内人の説明では自害した場所といわれる鳥居元忠の手や首、足などが最も鮮明に生々しく残っているという、また、その下の鴬張りの廊下は左甚五郎の作品 *鳥居元忠公らが自刃した後、遺体は関ケ原の戦いが終わるまで血糊が染み込んだまま1ヵ月以上放置されていたが、その後1619年伏見城の廃城が決まり、天守は二条城、唐門は大徳寺などさまざまな場所に移築されたので、火災で焼失し再建を願っていた2代将軍徳川秀忠の正室崇源院(お江)は、徳川方に忠義を尽くした家臣の血糊が残る床板を寺院の天井にして供養すれば、豊臣にまつわる寺院再建の大義名分になると考え、1621年崇源院の私的事業という名目と血天井を用いるという条件付きで伏見城の遺構を移築して養源院が再建された

  • 護摩堂、鐘楼、中門も重要文化財指定

    護摩堂、鐘楼、中門も重要文化財指定

  • 本堂東に「小堀遠州」作庭の池泉回遊式庭園があるので、これが目的で入ったのだが残念ながら見れず、庭園は秀吉を祀る豊国廟がある阿弥陀ケ峯を借景としており、「小堀遠州」は父親が浅井家・豊臣家に仕え徳川家の茶道指南役でもあったというご縁

    本堂東に「小堀遠州」作庭の池泉回遊式庭園があるので、これが目的で入ったのだが残念ながら見れず、庭園は秀吉を祀る豊国廟がある阿弥陀ケ峯を借景としており、「小堀遠州」は父親が浅井家・豊臣家に仕え徳川家の茶道指南役でもあったというご縁

  • 「三十三間堂」<br />1164年、後白河上皇が院御所の「法住寺殿」の一画に平清盛に造進させた「蓮華王院」(れんげおういん)の本堂で、80年後に焼失したが後嵯峨上皇によって再建され、足利義教により本格的な修復がおこなわれた、その後豊臣秀吉は交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかりその権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の隣に造営し、お堂や後白河院の御陵をもその境内に取り込んで土塀を築き、お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに行われた、1586年大仏殿創建からは方広寺の山内寺院(千手堂)となり、妙法院の管理下になった

    「三十三間堂」
    1164年、後白河上皇が院御所の「法住寺殿」の一画に平清盛に造進させた「蓮華王院」(れんげおういん)の本堂で、80年後に焼失したが後嵯峨上皇によって再建され、足利義教により本格的な修復がおこなわれた、その後豊臣秀吉は交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかりその権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の隣に造営し、お堂や後白河院の御陵をもその境内に取り込んで土塀を築き、お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに行われた、1586年大仏殿創建からは方広寺の山内寺院(千手堂)となり、妙法院の管理下になった

  • 「三十三間堂」は、堂の柱間が三十三あることに由来し本堂の長さは日本一の120m、堂内にはすべて国宝の、本尊・千手観音坐像を中心に後ろに1000体の千手観音立像、前に風神・雷神像と二十八部衆立像が安置されている、1000体の千手観音立像は創建当時のものは124体で、残りは16年かけて造り直されたもの

    「三十三間堂」は、堂の柱間が三十三あることに由来し本堂の長さは日本一の120m、堂内にはすべて国宝の、本尊・千手観音坐像を中心に後ろに1000体の千手観音立像、前に風神・雷神像と二十八部衆立像が安置されている、1000体の千手観音立像は創建当時のものは124体で、残りは16年かけて造り直されたもの

  • 桃山時代には120mの距離からお堂にある窓の隙間を通す「百射・千射」が、江戸時代には一日かけて弓矢が何本お堂の軒下を通ったかを競う「通し矢」という競技が盛んだったそうで、現在も毎年1月に新成人が着物姿で射程60mを使って行う「大的全国大会」が続いている

    桃山時代には120mの距離からお堂にある窓の隙間を通す「百射・千射」が、江戸時代には一日かけて弓矢が何本お堂の軒下を通ったかを競う「通し矢」という競技が盛んだったそうで、現在も毎年1月に新成人が着物姿で射程60mを使って行う「大的全国大会」が続いている

  • 後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑<br />当時は東西は東山から鴨川まで、南北は八条坊門小路から六条大路まで広大な地域に東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍を並べた、上皇は1161年から20年間ここに住んだが1183年木曽義仲の夜襲に遭い焼失した

    後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑
    当時は東西は東山から鴨川まで、南北は八条坊門小路から六条大路まで広大な地域に東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍を並べた、上皇は1161年から20年間ここに住んだが1183年木曽義仲の夜襲に遭い焼失した

  • 堂内は観光客で溢れていたが東側庭園に出ると静まり返ってホッとする

    堂内は観光客で溢れていたが東側庭園に出ると静まり返ってホッとする

  • 昭和36年(1961)後白河法皇770回忌記念事業で「昭和の小堀遠州」と言われる作庭家・中根金作(1917-1995)によって作庭され、その後孫の中根行宏、直紀さん兄弟が整備をすすめ、最近の令和3年(2020)に完了したので初めて見る *「中根金作」作品は、足立美術館庭園、退蔵院余香苑、城南宮・楽水苑、ボストン美術館・天心園など国内外で約300

    昭和36年(1961)後白河法皇770回忌記念事業で「昭和の小堀遠州」と言われる作庭家・中根金作(1917-1995)によって作庭され、その後孫の中根行宏、直紀さん兄弟が整備をすすめ、最近の令和3年(2020)に完了したので初めて見る *「中根金作」作品は、足立美術館庭園、退蔵院余香苑、城南宮・楽水苑、ボストン美術館・天心園など国内外で約300

  • 南北に2つの池泉がある池泉式回遊庭園の北側池と中島

    南北に2つの池泉がある池泉式回遊庭園の北側池と中島

  • 礼拝石と思われる場所から左手に中島と右手に出島のような長石

    礼拝石と思われる場所から左手に中島と右手に出島のような長石

  • 南側から右手は北門

    南側から右手は北門

  • 「法然塔」(名号石:みょうごうせき)と「宝篋印塔」(写経奉納塔)<br />1204年土御門天皇が後白河法皇の13回忌を行った際の法然上人「六時礼讃」(ろくじらいさん)という法要の遺蹟で、「法然上人霊場」のひとつに数えられ多くの方が参拝に訪れる *「六時礼讃」とは、昼夜六時(朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)に礼讃嘆の仏行に曲調を付して法要に使うこと

    「法然塔」(名号石:みょうごうせき)と「宝篋印塔」(写経奉納塔)
    1204年土御門天皇が後白河法皇の13回忌を行った際の法然上人「六時礼讃」(ろくじらいさん)という法要の遺蹟で、「法然上人霊場」のひとつに数えられ多くの方が参拝に訪れる *「六時礼讃」とは、昼夜六時(朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)に礼讃嘆の仏行に曲調を付して法要に使うこと

  • 手水舎「夜泣き泉」<br />三十三間堂が創建された翌年に一人の堂僧がお告げによって発見したという霊泉で、水の湧きだす音が「人がすすり泣く」声に似てることから「夜泣き泉」と言われるようになり、そこから幼児の「夜泣き封じ」に御利益がある

    手水舎「夜泣き泉」
    三十三間堂が創建された翌年に一人の堂僧がお告げによって発見したという霊泉で、水の湧きだす音が「人がすすり泣く」声に似てることから「夜泣き泉」と言われるようになり、そこから幼児の「夜泣き封じ」に御利益がある

  • 鐘楼は昭和63年(1988)再建

    鐘楼は昭和63年(1988)再建

  • 北側の池には中島があるが、南側の池は岩島が配置されている

    北側の池には中島があるが、南側の池は岩島が配置されている

  • 回廊側から亀島のように見える中島と本堂

    回廊側から亀島のように見える中島と本堂

  • 三十三間堂から七条通を七条橋方面へ移動

    三十三間堂から七条通を七条橋方面へ移動

  • 「七条大橋」西詰<br />「七条大橋」と「四条大橋」は日本で初めての鉄筋コンクリート造りで、これは橋の上に路面電車を走らせるため

    「七条大橋」西詰
    「七条大橋」と「四条大橋」は日本で初めての鉄筋コンクリート造りで、これは橋の上に路面電車を走らせるため

  • 「松明殿稲荷神社」(たいまつでんいなりじんじゃ)<br />948年創建、伏見稲荷神社の境外末社で、田中社ともいわれ、稲荷祭の時松明を灯して神輿を迎えていたことからの命名

    「松明殿稲荷神社」(たいまつでんいなりじんじゃ)
    948年創建、伏見稲荷神社の境外末社で、田中社ともいわれ、稲荷祭の時松明を灯して神輿を迎えていたことからの命名

  • 高瀬川に架かる「七条橋」

    高瀬川に架かる「七条橋」

  • 「七条仏所址」(しちじょうぶっしょあと)<br />平安中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)が住んでいた場所で、鎌倉時代には運慶、快慶、湛慶らが活躍したが室町時代には移転し幕末にはなくなった

    「七条仏所址」(しちじょうぶっしょあと)
    平安中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)が住んでいた場所で、鎌倉時代には運慶、快慶、湛慶らが活躍したが室町時代には移転し幕末にはなくなった

  • 「駒札」:定朝(じょうちょう)を始めその一族、子弟、子孫が長く居住して彫刻に励んだ、定朝は平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、卓越した技術で法橋(ほっきょう)の位を与えられ仏師の協同組織として仏所の制度を整えるなど仏師の社会的地位の向上に努めた、これらのことから我が国の仏師の祖と仰がれている。鎌倉時代に入ってこの仏所から運慶、湛慶、快慶らが現れ、剛健なまた写実的な多くの名作を世に送った。しかし、室町時代には彫刻はふるわずこの仏所も21代康正(こうしょう)のとき四条烏丸に移転し、その後、幕末の兵乱に火災にあい仏所の遺構は完全に失われた

    「駒札」:定朝(じょうちょう)を始めその一族、子弟、子孫が長く居住して彫刻に励んだ、定朝は平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、卓越した技術で法橋(ほっきょう)の位を与えられ仏師の協同組織として仏所の制度を整えるなど仏師の社会的地位の向上に努めた、これらのことから我が国の仏師の祖と仰がれている。鎌倉時代に入ってこの仏所から運慶、湛慶、快慶らが現れ、剛健なまた写実的な多くの名作を世に送った。しかし、室町時代には彫刻はふるわずこの仏所も21代康正(こうしょう)のとき四条烏丸に移転し、その後、幕末の兵乱に火災にあい仏所の遺構は完全に失われた

  • 「七条通・近代建築群」<br />京都市は、平安時代からの古い神社仏閣や江戸時代からの町家だけでなく、明治から昭和初期に建てられた近代洋風建築も多く、「三条通」にも近代建築群があったが、以外にも「七条通」でも「京都国立博物館」をはじめ多くの近代建築があり、これは京都駅付近を中心に銀行の支店が軒を連ねる金融街だった昔の華やかだった時代の名残りで、神社仏閣だけでない京都の魅力ははかりしれない!

    「七条通・近代建築群」
    京都市は、平安時代からの古い神社仏閣や江戸時代からの町家だけでなく、明治から昭和初期に建てられた近代洋風建築も多く、「三条通」にも近代建築群があったが、以外にも「七条通」でも「京都国立博物館」をはじめ多くの近代建築があり、これは京都駅付近を中心に銀行の支店が軒を連ねる金融街だった昔の華やかだった時代の名残りで、神社仏閣だけでない京都の魅力ははかりしれない!

  • 「旧・不動貯金銀行七条支店」(現・京都中央信用金庫本部別館)<br />昭和5年(1930)築、現りそな銀行の母体になる協和銀行七条支店から京都中央信用金庫本部別館となり現在は中信コンピュータなど関連会社が入居、非対称のファサードに、アーチ窓と右上の幾何学模様の二つの小窓が特徴

    「旧・不動貯金銀行七条支店」(現・京都中央信用金庫本部別館)
    昭和5年(1930)築、現りそな銀行の母体になる協和銀行七条支店から京都中央信用金庫本部別館となり現在は中信コンピュータなど関連会社が入居、非対称のファサードに、アーチ窓と右上の幾何学模様の二つの小窓が特徴

  • 側面

    側面

  • 「旧・富士ラビットスクーター」(現・なか卯七条新町店)<br />大正14年(1925)築、七条通で最も古い建物で、京都タクシー「ヤサカグループ」の創設者・粂田幸次郎が大正5年(1916)伏見でバス事業開始、大正6年京都初のハイヤー事業開始、大正7年「日光社」を創業し自動車、部品、フォード輸入販売を開始、戦後はフォード代理店から富士ラビットスクーターの代理店、さらに京都スバルの代理店になり、現在は、1階が「なか卯」、2階が会員制カフェ、3階は住居スペースになっており、正面ファサードは社名の「日光」を象ったアーチ型ドームで、幾何学模様の壁や古典的な柱、ステンドグラスの窓など様々な要素が混じり合った大正モダン建築

    「旧・富士ラビットスクーター」(現・なか卯七条新町店)
    大正14年(1925)築、七条通で最も古い建物で、京都タクシー「ヤサカグループ」の創設者・粂田幸次郎が大正5年(1916)伏見でバス事業開始、大正6年京都初のハイヤー事業開始、大正7年「日光社」を創業し自動車、部品、フォード輸入販売を開始、戦後はフォード代理店から富士ラビットスクーターの代理店、さらに京都スバルの代理店になり、現在は、1階が「なか卯」、2階が会員制カフェ、3階は住居スペースになっており、正面ファサードは社名の「日光」を象ったアーチ型ドームで、幾何学模様の壁や古典的な柱、ステンドグラスの窓など様々な要素が混じり合った大正モダン建築

  • 「粂田幸一郎」(くめた こういちろう)は、多分創業者の子か孫で、現在このビルを管理している「富士ラビット株式会社」という不動産会社オーナー、隣にも同じような「粂田幸太郎」の銘板があるが多分、創業者「粂田幸次郎」の親族で、「粂田幸次郎」(くめた こうじろう)は「三つ葉のクローバー」で有名な京都タクシー「ヤサカグループ」の創設者 *ヤサカグループは、京都府の彌榮自動車(株)(やさかじどうしゃ)を中心に、東京、埼玉、神奈川、大阪、滋賀、兵庫などでタクシー、バス、旅行会社、トヨタ自動車のディーラーなどを経営する企業グループで4,200名を超える社員を抱える、人気の「四つ葉クローバー」は、1,400台中4台のみしかなく、全て流し専門で予約出来ず運よく乗れたら「記念乗車証」をもらえるという

    「粂田幸一郎」(くめた こういちろう)は、多分創業者の子か孫で、現在このビルを管理している「富士ラビット株式会社」という不動産会社オーナー、隣にも同じような「粂田幸太郎」の銘板があるが多分、創業者「粂田幸次郎」の親族で、「粂田幸次郎」(くめた こうじろう)は「三つ葉のクローバー」で有名な京都タクシー「ヤサカグループ」の創設者 *ヤサカグループは、京都府の彌榮自動車(株)(やさかじどうしゃ)を中心に、東京、埼玉、神奈川、大阪、滋賀、兵庫などでタクシー、バス、旅行会社、トヨタ自動車のディーラーなどを経営する企業グループで4,200名を超える社員を抱える、人気の「四つ葉クローバー」は、1,400台中4台のみしかなく、全て流し専門で予約出来ず運よく乗れたら「記念乗車証」をもらえるという

  • 中央「富士ラビット」文字の上にあるレリーフは、天使や騎馬戦車や乙女の持ったプロペラなどが描かれているようだが、これは「富士ラビットスクーター」を作った富士産業株式会社が現富士重工スバルで、昔戦闘機を製造していた中島飛行機だったことから、飛行機のルーツを表していると思われる

    中央「富士ラビット」文字の上にあるレリーフは、天使や騎馬戦車や乙女の持ったプロペラなどが描かれているようだが、これは「富士ラビットスクーター」を作った富士産業株式会社が現富士重工スバルで、昔戦闘機を製造していた中島飛行機だったことから、飛行機のルーツを表していると思われる

  • 1階は牛丼屋「なか卯」、「ラビット」つながりで面白い!<br />株式会社「なか卯」(なかう)は、創業者の中野の「なか」とうどんの「う」からの命名らしく大阪茨木市で創業、丼とうどんをメイン商品とし461店舗を展開

    1階は牛丼屋「なか卯」、「ラビット」つながりで面白い!
    株式会社「なか卯」(なかう)は、創業者の中野の「なか」とうどんの「う」からの命名らしく大阪茨木市で創業、丼とうどんをメイン商品とし461店舗を展開

  • 最近の記事に、登録有形文化財の中の牛丼屋「レトロ洋館なか卯」と紹介されていた

    最近の記事に、登録有形文化財の中の牛丼屋「レトロ洋館なか卯」と紹介されていた

  • 店舗ウインドウにはラビットマーク、「なか卯」は牛丼のイメージだったが、ゼンショーの連結会社になってから同グループの「すき家」と区別するためにうどんや親子丼をメインにしたらしい<br />

    店舗ウインドウにはラビットマーク、「なか卯」は牛丼のイメージだったが、ゼンショーの連結会社になってから同グループの「すき家」と区別するためにうどんや親子丼をメインにしたらしい

  • ステンドグラスが分かりにくかったので、店内に入って確認

    ステンドグラスが分かりにくかったので、店内に入って確認

  • タイヤの意匠のステンドグラス

    タイヤの意匠のステンドグラス

  • 車の意匠のステンドグラス

    車の意匠のステンドグラス

  • 町家を使った飲食店は多いが、こういう建物の活用は珍しい、どんどん増やして欲しい!

    町家を使った飲食店は多いが、こういう建物の活用は珍しい、どんどん増やして欲しい!

  • ついでに「かつ丼」ランチ

    ついでに「かつ丼」ランチ

  • 現在2階は会員制の「カフェラビット」、3階は住居スペース

    現在2階は会員制の「カフェラビット」、3階は住居スペース

  • 「旧・鴻池銀行七条支店」(現・グランヴェルジュ京都七条倶楽部)<br />昭和2年(1927)築、江戸初期に酒販、海運、両替商で成功した鴻池家が明治に設立した鴻池銀行建物で、三和銀行から三菱東京UFJ銀行に統合、若林仏具製作所から現在フレンチウエディングレストラン結婚式会場として使用

    「旧・鴻池銀行七条支店」(現・グランヴェルジュ京都七条倶楽部)
    昭和2年(1927)築、江戸初期に酒販、海運、両替商で成功した鴻池家が明治に設立した鴻池銀行建物で、三和銀行から三菱東京UFJ銀行に統合、若林仏具製作所から現在フレンチウエディングレストラン結婚式会場として使用

  • 石張り風の外観に2階正面の縦長アーチ窓と最上部の装飾が目立つ 

    石張り風の外観に2階正面の縦長アーチ窓と最上部の装飾が目立つ 

  • 側面

    側面

  • 「旧・村井銀行七条支店」(現在・不明)<br />大正3年(1914)築、京都のたばこ王と言われた「村井吉兵衛」創業の「村井銀行支店」、煙草の生産をしていた村井吉兵衛は明治29年(1896)煙草の専売制移行で事業を国に譲渡して莫大な補償金を得、これをもとに村井銀行はじめ多くの企業を設立し村井財閥を形成したが、昭和恐慌により昭和2年(1927)に破産、その後も種々の金融機関の営業所として使われてきて、最近は土産物店やレストランカフェなどに使われてきたらしいが、今回行ったら何の店か確認できず<br />

    「旧・村井銀行七条支店」(現在・不明)
    大正3年(1914)築、京都のたばこ王と言われた「村井吉兵衛」創業の「村井銀行支店」、煙草の生産をしていた村井吉兵衛は明治29年(1896)煙草の専売制移行で事業を国に譲渡して莫大な補償金を得、これをもとに村井銀行はじめ多くの企業を設立し村井財閥を形成したが、昭和恐慌により昭和2年(1927)に破産、その後も種々の金融機関の営業所として使われてきて、最近は土産物店やレストランカフェなどに使われてきたらしいが、今回行ったら何の店か確認できず

  • 正面はギリシャ建築のパルテノン神殿風に4本の柱が並び、直線的でシンプルな幾何学図形を表現した装飾がいかにも大正モダンな感じで素晴らしい

    正面はギリシャ建築のパルテノン神殿風に4本の柱が並び、直線的でシンプルな幾何学図形を表現した装飾がいかにも大正モダンな感じで素晴らしい

  • 円山公園の「長楽館」は、「村井吉兵衛」の邸宅

    円山公園の「長楽館」は、「村井吉兵衛」の邸宅

  • 「村瀬本店」<br />昭和初期からある精肉店で、商店兼住宅建築、最初から肉屋の建物として建てられたというから当時の店主はお洒落で、これを今でも受け継いでいる今の店主も立派! 表通りにあるがよく見ていないと見落としそう

    「村瀬本店」
    昭和初期からある精肉店で、商店兼住宅建築、最初から肉屋の建物として建てられたというから当時の店主はお洒落で、これを今でも受け継いでいる今の店主も立派! 表通りにあるがよく見ていないと見落としそう

  • 一見、1階の店舗と2階の住居部分がアンバランスな感じで、1階は煉瓦造り、2階と側面はタイル張り、1階の店舗部分は突き出していて2階のテラスのようになっており、2階の軒下の装飾がお洒落!

    一見、1階の店舗と2階の住居部分がアンバランスな感じで、1階は煉瓦造り、2階と側面はタイル張り、1階の店舗部分は突き出していて2階のテラスのようになっており、2階の軒下の装飾がお洒落!

  • 「亀屋陸奥」(かめやむつ)<br />室町時代1421年創業、本願寺ゆかりの代表銘菓「松風」が名物

    「亀屋陸奥」(かめやむつ)
    室町時代1421年創業、本願寺ゆかりの代表銘菓「松風」が名物

  • 堀川通沿いの「西本願寺」と「興正寺」

    堀川通沿いの「西本願寺」と「興正寺」

  • 「興正寺」(こうしょうじ)<br />親鸞が鎌倉時代の1212年、山科に創建したことに始まり、室町時代本願寺の蓮如上人と歩みを共にし再び山科の地に興正寺を再建し、その後は本願寺と歩調を合わせ度重なる移転をして、現在の西本願寺隣になった、

    「興正寺」(こうしょうじ)
    親鸞が鎌倉時代の1212年、山科に創建したことに始まり、室町時代本願寺の蓮如上人と歩みを共にし再び山科の地に興正寺を再建し、その後は本願寺と歩調を合わせ度重なる移転をして、現在の西本願寺隣になった、

  • 「龍谷大学大宮学舎」<br />明治 12 年建築の洋風建築群がほぼ完全な形で数多くあり、本館をはじめ正門、旧守衛所、北棟、南棟、渡り廊下は国の重要文化財

    「龍谷大学大宮学舎」
    明治 12 年建築の洋風建築群がほぼ完全な形で数多くあり、本館をはじめ正門、旧守衛所、北棟、南棟、渡り廊下は国の重要文化財

  • 龍谷大学大宮学舎向かいの東棟に、2016年の発掘調査で「平安京東市跡」が見つかった

    龍谷大学大宮学舎向かいの東棟に、2016年の発掘調査で「平安京東市跡」が見つかった

  • 「平安京東市跡」<br />平安京の東西の市は、794年平安遷都の4ヶ月前に長岡京から移転されたというから、都市の造営にとって市場は重要な存在で、市司(いちのつかさ)によって管理運営された官営の市、月の前半と後半で交代しながら市が開かれ、この2ヵ所以外での市は禁じられ、扱われる商品も決められていた、平安中期には東市のある左京は発展したが西市の右京は衰退していった

    「平安京東市跡」
    平安京の東西の市は、794年平安遷都の4ヶ月前に長岡京から移転されたというから、都市の造営にとって市場は重要な存在で、市司(いちのつかさ)によって管理運営された官営の市、月の前半と後半で交代しながら市が開かれ、この2ヵ所以外での市は禁じられ、扱われる商品も決められていた、平安中期には東市のある左京は発展したが西市の右京は衰退していった

  • 「七条ふたば」<br />昭和6年開業、先代が出町ふたばで修行をして腕を認められ暖簾分けという形で七条に店を出した、本家と同様「豆餅」が人気 *本家「出町ふたば」は明治32年創業

    「七条ふたば」
    昭和6年開業、先代が出町ふたばで修行をして腕を認められ暖簾分けという形で七条に店を出した、本家と同様「豆餅」が人気 *本家「出町ふたば」は明治32年創業

  • 「笹谷伊織」本店<br />江戸時代の1716年創業、当時の京都には248店の和菓子店があり、内28店が御所御用達でそのの中の一つ、名物は弘法さんの前後3日間限定のどら焼き *徳川吉宗が徳川幕府八代目将軍に就任した年、伊勢で和菓子職人をしていた初代笹屋伊兵衛が腕を認められ御所の御用を仰せつかり、京へ呼び寄せられて以来、京都御所や神社仏閣、茶道家元の御用を勤めてきたという

    「笹谷伊織」本店
    江戸時代の1716年創業、当時の京都には248店の和菓子店があり、内28店が御所御用達でそのの中の一つ、名物は弘法さんの前後3日間限定のどら焼き *徳川吉宗が徳川幕府八代目将軍に就任した年、伊勢で和菓子職人をしていた初代笹屋伊兵衛が腕を認められ御所の御用を仰せつかり、京へ呼び寄せられて以来、京都御所や神社仏閣、茶道家元の御用を勤めてきたという

  • 途中で面白い「文房具屋」さんを発見!

    途中で面白い「文房具屋」さんを発見!

  • 「やさいも売ってる文具店」<br />野菜以外も駄菓子や日用品など何でもありのまるでコンビニ店

    「やさいも売ってる文具店」
    野菜以外も駄菓子や日用品など何でもありのまるでコンビニ店

  • 「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」<br />東海道線、山陰線、貨物線が集まるところにあり、明治10年(1877)に京都駅が開業するまで暫定的に大宮通仮停車場が設けられ、大正2年(1913)梅小路駅、昭和51年(1976)貨物駅分離、平成2年(1990)貨物駅移転、平成7年(1995)跡地に平安遷都1200年を記念して梅小路公園開園、2012年京都水族館オープン、2016年京都鉄道博物館、令和元年(2019)梅小路京都西駅オープン *京都駅→(3分)梅小路京都西駅→(1分)丹波口駅→(2分)二条駅→(2分)円町駅→(2分)花園駅→(2分)太秦駅→(2分)嵐山駅

    「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」
    東海道線、山陰線、貨物線が集まるところにあり、明治10年(1877)に京都駅が開業するまで暫定的に大宮通仮停車場が設けられ、大正2年(1913)梅小路駅、昭和51年(1976)貨物駅分離、平成2年(1990)貨物駅移転、平成7年(1995)跡地に平安遷都1200年を記念して梅小路公園開園、2012年京都水族館オープン、2016年京都鉄道博物館、令和元年(2019)梅小路京都西駅オープン *京都駅→(3分)梅小路京都西駅→(1分)丹波口駅→(2分)二条駅→(2分)円町駅→(2分)花園駅→(2分)太秦駅→(2分)嵐山駅

  • 令和元年梅小路京都西駅オープンと同時に出来た「ホテル エミオン 京都」土産物店やレストランがあり、地元「笹屋伊織」の別邸もある

    令和元年梅小路京都西駅オープンと同時に出来た「ホテル エミオン 京都」土産物店やレストランがあり、地元「笹屋伊織」の別邸もある

  • 石標「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」<br />気になる石標があったので調べると、「馬に乗ったままで洛中へ入ってはならない」という意味で、この辺りは江戸時代の「京の七口」のひとつ丹波口で、丹波街道(七条通)の京都の西の出入り口に当たるため旅籠や茶店などが多く人馬の往来も激しいところで、1695年に京都市街地を取り囲む御土居の出入り口30ヵ所に木杭を設置した、すなわちここから東が「京の都」だった印で、現在これを復元した石標が京都市内に10本余りあるという

    石標「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」
    気になる石標があったので調べると、「馬に乗ったままで洛中へ入ってはならない」という意味で、この辺りは江戸時代の「京の七口」のひとつ丹波口で、丹波街道(七条通)の京都の西の出入り口に当たるため旅籠や茶店などが多く人馬の往来も激しいところで、1695年に京都市街地を取り囲む御土居の出入り口30ヵ所に木杭を設置した、すなわちここから東が「京の都」だった印で、現在これを復元した石標が京都市内に10本余りあるという

  • 「京都中央卸売市場」<br />平安京の東市、西市に始まり、昭和2年全国初の中央卸売市場として誕生した

    「京都中央卸売市場」
    平安京の東市、西市に始まり、昭和2年全国初の中央卸売市場として誕生した

  • 「松尾大社・朱雀御旅所」(まつのおたいしゃ・すざくおたびしょ)<br />松尾大社の祭礼である松尾祭の神幸祭から還幸祭まで21日間、6基の神輿が他の3か所の御旅所に分散して安置され、6基とも還幸祭(お帰り)の途中にここに立ち寄り、七条通りを西に進み梅津の旧街道を経て松尾橋を渡り、松尾大社に戻る、正式名称は朱雀松尾總神社<br />

    「松尾大社・朱雀御旅所」(まつのおたいしゃ・すざくおたびしょ)
    松尾大社の祭礼である松尾祭の神幸祭から還幸祭まで21日間、6基の神輿が他の3か所の御旅所に分散して安置され、6基とも還幸祭(お帰り)の途中にここに立ち寄り、七条通りを西に進み梅津の旧街道を経て松尾橋を渡り、松尾大社に戻る、正式名称は朱雀松尾總神社

  • 分かりにくいが、フードショップの脇に「権現寺」入り口がある

    分かりにくいが、フードショップの脇に「権現寺」入り口がある

  • 「権現寺」(ごんげんじ)<br />平安時代創建で、阿弥陀仏を本尊とした本堂以外に二体の地蔵尊を安置した権現堂があり、一つは権現寺に伝わる愛宕権現の勝軍地蔵を祀った「朱雀権現堂」と、もう一つは厨子王の身代わりとなった地蔵尊を祀った「朱雀地蔵堂」で、中央卸売市場の南側にあったが京都停車場(京都駅)の拡張に伴って現在地へ移転、1156年保元の乱で敗れた「源為義」の供養塔もある、「源為義」は源義朝の父親、源頼朝の祖父で「六条判官」と呼ばれていたが、後白河天皇と崇徳上皇の争いに巻き込まれ敗北し処刑された

    「権現寺」(ごんげんじ)
    平安時代創建で、阿弥陀仏を本尊とした本堂以外に二体の地蔵尊を安置した権現堂があり、一つは権現寺に伝わる愛宕権現の勝軍地蔵を祀った「朱雀権現堂」と、もう一つは厨子王の身代わりとなった地蔵尊を祀った「朱雀地蔵堂」で、中央卸売市場の南側にあったが京都停車場(京都駅)の拡張に伴って現在地へ移転、1156年保元の乱で敗れた「源為義」の供養塔もある、「源為義」は源義朝の父親、源頼朝の祖父で「六条判官」と呼ばれていたが、後白河天皇と崇徳上皇の争いに巻き込まれ敗北し処刑された

  • 「朱雀地蔵堂」<br />地蔵堂には「厨子王」をかくまったというツヅラが保存され、災難除けの御利益がある、「厨子王」とは伝説上の人物で、姉の安寿と母とともに筑紫に流された父を訪ねて旅に出て、途中で人買いに騙され「山椒大夫」のもとで過酷な目にあったが脱出し、この辺りまでたどりついて地蔵堂へ逃げ込んだら寺僧がつづらに入れかくまい、追っ手が訪ねて来てつづらを開けたら厨子王の代わりに一体の地蔵尊が入っていたという話で、これを「身代わり地蔵」と呼び毎年8月の2日間だけ公開されるという、又この話を小説にしたのが森鴎外の「山椒大夫」

    「朱雀地蔵堂」
    地蔵堂には「厨子王」をかくまったというツヅラが保存され、災難除けの御利益がある、「厨子王」とは伝説上の人物で、姉の安寿と母とともに筑紫に流された父を訪ねて旅に出て、途中で人買いに騙され「山椒大夫」のもとで過酷な目にあったが脱出し、この辺りまでたどりついて地蔵堂へ逃げ込んだら寺僧がつづらに入れかくまい、追っ手が訪ねて来てつづらを開けたら厨子王の代わりに一体の地蔵尊が入っていたという話で、これを「身代わり地蔵」と呼び毎年8月の2日間だけ公開されるという、又この話を小説にしたのが森鴎外の「山椒大夫」

  • 「七条えんま堂」<br />大原野にある「正法寺」の「七条別院」で、創建は不明だが江戸中期から「十王堂」として知られ、室町・鎌倉時代の「十王像」すべてが揃っていて極めて貴重、「十王」とは地獄で死者の罪を裁く十人の王のことで特に閻魔さまが有名なので十王を祀るお堂を「えんま堂」と呼び、地域のこミュニケーションの場として根付いてきた

    「七条えんま堂」
    大原野にある「正法寺」の「七条別院」で、創建は不明だが江戸中期から「十王堂」として知られ、室町・鎌倉時代の「十王像」すべてが揃っていて極めて貴重、「十王」とは地獄で死者の罪を裁く十人の王のことで特に閻魔さまが有名なので十王を祀るお堂を「えんま堂」と呼び、地域のこミュニケーションの場として根付いてきた

  • 「西大路七条」に到着<br />現在の七条通は東大路通「東山七条」から「天神川通」までの5.4kmだが、平安京の七条大路は西大路通までの4.0kmで、そこから西進して丹波街道から山陰街道へ続く

    「西大路七条」に到着
    現在の七条通は東大路通「東山七条」から「天神川通」までの5.4kmだが、平安京の七条大路は西大路通までの4.0kmで、そこから西進して丹波街道から山陰街道へ続く

  • 帰りに新しく出来た「笹屋伊織・別邸」で休憩

    帰りに新しく出来た「笹屋伊織・別邸」で休憩

  • 本格的な茶室もある

    本格的な茶室もある

  • ちょうど外国人観光客が10人ほど体験中

    ちょうど外国人観光客が10人ほど体験中

  • 暑かったので、クリームあんみつをオーダー

    暑かったので、クリームあんみつをオーダー

  • 時間があったので、向かいの「梅小路公園」にも立ち寄る<br />「梅小路公園」は、平安遷都1200年を記念して1995年(平成7年)JR貨物駅跡地に開園され、市民の「憩いの空間」と「広域避難場所」として利用され、園内には交通公園、水族館などもあって、修学旅行など観光客も多く見かける

    時間があったので、向かいの「梅小路公園」にも立ち寄る
    「梅小路公園」は、平安遷都1200年を記念して1995年(平成7年)JR貨物駅跡地に開園され、市民の「憩いの空間」と「広域避難場所」として利用され、園内には交通公園、水族館などもあって、修学旅行など観光客も多く見かける

  • 「梅小路」は、平安京の小路で、朱雀大路を挟み、東西を大宮大路と西坊城小路、南北を八条大路と塩小路に囲まれる一帯の地名で、平安京では官営の寺「東寺」「西寺」や、官営の市「東市」「西市」、外国使節を接待する「東鴻臚館」「西鴻臚館」などがあり、その後、公園の平安末期には平清盛の広大な別邸「西八条第」(にしはちじょうてい)があったが焼失した

    「梅小路」は、平安京の小路で、朱雀大路を挟み、東西を大宮大路と西坊城小路、南北を八条大路と塩小路に囲まれる一帯の地名で、平安京では官営の寺「東寺」「西寺」や、官営の市「東市」「西市」、外国使節を接待する「東鴻臚館」「西鴻臚館」などがあり、その後、公園の平安末期には平清盛の広大な別邸「西八条第」(にしはちじょうてい)があったが焼失した

  • 目的は、前から行きたいと思っていた「朱雀の庭」入場料200円<br />「朱雀の庭」は公園開園の前年に、「植芳造園」により作庭された平成の日本庭園で、長年培ってきた京都の作庭技術・技法の粋を結集し、造園業に携わる人々が伝統技法を学ぶ研修場としての役割も果たしているという<br />

    目的は、前から行きたいと思っていた「朱雀の庭」入場料200円
    「朱雀の庭」は公園開園の前年に、「植芳造園」により作庭された平成の日本庭園で、長年培ってきた京都の作庭技術・技法の粋を結集し、造園業に携わる人々が伝統技法を学ぶ研修場としての役割も果たしているという

  • 庭園は、池を中心に築山(つきやま)や滝に岩場と渓流、渓谷もあり、入り口は高台になって東屋(あずまや)から全景を見下ろし、左手に滝を見ながら散策路を進み、滝の最上部から滝の水が落ちていくのを見ながら池まで降りて全周囲を回遊する「池泉回遊式庭園」になっており、見どころは、中央の池の「水鏡」(みずかがみ)、築山の「野筋」(のすじ)、京都最大の「人工滝」と、周囲の紅葉谷や池の周りに配置された花床など季節折々に変わる風景

    庭園は、池を中心に築山(つきやま)や滝に岩場と渓流、渓谷もあり、入り口は高台になって東屋(あずまや)から全景を見下ろし、左手に滝を見ながら散策路を進み、滝の最上部から滝の水が落ちていくのを見ながら池まで降りて全周囲を回遊する「池泉回遊式庭園」になっており、見どころは、中央の池の「水鏡」(みずかがみ)、築山の「野筋」(のすじ)、京都最大の「人工滝」と、周囲の紅葉谷や池の周りに配置された花床など季節折々に変わる風景

  • まずは「東屋」(あずまや)から見下ろす全景で感動!

    まずは「東屋」(あずまや)から見下ろす全景で感動!

  • アカマツも多く、深山の情景を醸し出す

    アカマツも多く、深山の情景を醸し出す

  • 入ってきた入り口のレストラン等の建物

    入ってきた入り口のレストラン等の建物

  • 「滝」が見えてきた!

    「滝」が見えてきた!

  • 人工「滝」<br />6メートルの落差で京都では最大の人工滝で、大滝と小さい段差の滝で構成されており、流れ落ちた水は小川から池に流れ込み、また戻ってきて循環しているという、ダイナミックな勢いのある滝の水が緩やかな小川に流れ、池の水になるという姿が、日本の庭園技術で見事に再現されており素晴らしい!

    人工「滝」
    6メートルの落差で京都では最大の人工滝で、大滝と小さい段差の滝で構成されており、流れ落ちた水は小川から池に流れ込み、また戻ってきて循環しているという、ダイナミックな勢いのある滝の水が緩やかな小川に流れ、池の水になるという姿が、日本の庭園技術で見事に再現されており素晴らしい!

  • 「滝」の周りは大きな岩石とアカマツや紅葉など多様な樹木で囲まれて夏は青もみじ、秋は紅葉になって見事な「渓谷」観を漂わせる、庭園的には、滝口や滝の中ほどにあって滝をチラ見させる「飛泉障り」(ひせんさわり)の木や、滝の流れに枝を伸ばす「流枝松」(なげしのまつ)など、流石に造園業に携わる人々の研修場にもなるんだろうと思った

    「滝」の周りは大きな岩石とアカマツや紅葉など多様な樹木で囲まれて夏は青もみじ、秋は紅葉になって見事な「渓谷」観を漂わせる、庭園的には、滝口や滝の中ほどにあって滝をチラ見させる「飛泉障り」(ひせんさわり)の木や、滝の流れに枝を伸ばす「流枝松」(なげしのまつ)など、流石に造園業に携わる人々の研修場にもなるんだろうと思った

  • 「滝」の上部から中心の池に向かって降りていくと、滝から始まった大きな流れが小さな流れに分かれて、芝生の起伏の間を幾筋にも流れて行って池に流れ込み、まるで棚田のような風景になっている、庭園としては広大な規模でないとあまり見られない光景に感嘆!

    「滝」の上部から中心の池に向かって降りていくと、滝から始まった大きな流れが小さな流れに分かれて、芝生の起伏の間を幾筋にも流れて行って池に流れ込み、まるで棚田のような風景になっている、庭園としては広大な規模でないとあまり見られない光景に感嘆!

  • 「野筋」(のすじ)<br />低い盛土でゆるやかな起伏をつけた小丘のことを「野筋」(のすじ)と呼び、平安時代から続く庭園技法の一つで、野辺のなごやかな景色を庭に写そうとした王朝貴族好みの意匠で桔梗(ききよう)や女郎花(おみなえし)、野菊のような野の草花を植え、野筋の谷には水を流し「曲水庭園」のような風情を醸し出している *「曲水庭園」とは、平安時代の貴族が杯が自分の目の前までに流れてくるまでに詩歌を作って詠み、盃の酒を飲んで次へ流すという遊びをする庭

    「野筋」(のすじ)
    低い盛土でゆるやかな起伏をつけた小丘のことを「野筋」(のすじ)と呼び、平安時代から続く庭園技法の一つで、野辺のなごやかな景色を庭に写そうとした王朝貴族好みの意匠で桔梗(ききよう)や女郎花(おみなえし)、野菊のような野の草花を植え、野筋の谷には水を流し「曲水庭園」のような風情を醸し出している *「曲水庭園」とは、平安時代の貴族が杯が自分の目の前までに流れてくるまでに詩歌を作って詠み、盃の酒を飲んで次へ流すという遊びをする庭

  • 滝は6メートルの落差から落差の小さい滝石組の小滝が何段もあり、緩やかなカーブが特徴的な堤に区切られた大きな池に流れ込む

    滝は6メートルの落差から落差の小さい滝石組の小滝が何段もあり、緩やかなカーブが特徴的な堤に区切られた大きな池に流れ込む

  • たまたま居合わせた「アオサギ」に癒される *「アオサギ」は国内で繁殖するので鴨川でも良く見られるが、ツルは首を伸ばして飛ぶのに対し、サギは首をS字状に折り曲げて飛び、水の中をゆっくり歩いたりじっと立ち止まって待ち伏せしながら魚を捕らえるという

    たまたま居合わせた「アオサギ」に癒される *「アオサギ」は国内で繁殖するので鴨川でも良く見られるが、ツルは首を伸ばして飛ぶのに対し、サギは首をS字状に折り曲げて飛び、水の中をゆっくり歩いたりじっと立ち止まって待ち伏せしながら魚を捕らえるという

  • 堤防の手前の水面は、周りの四季折々の風景が水面に映って良く見えるように、浅い水底に黒御影石を使っており、「水鏡」(みずかがみ)という庭園技術的にも非常に斬新な手法らしい

    堤防の手前の水面は、周りの四季折々の風景が水面に映って良く見えるように、浅い水底に黒御影石を使っており、「水鏡」(みずかがみ)という庭園技術的にも非常に斬新な手法らしい

  • 「水鏡」(みずかがみ)<br />黒御影石の上に1cmだけ水を張り水面を鏡のように見せた池、水底を黒くしているのは映った風景が良く見えるためで、四季折々の花や景色が水面に映りこむ昼は勿論、夜も月やライトアップされた紅葉などが美しい

    「水鏡」(みずかがみ)
    黒御影石の上に1cmだけ水を張り水面を鏡のように見せた池、水底を黒くしているのは映った風景が良く見えるためで、四季折々の花や景色が水面に映りこむ昼は勿論、夜も月やライトアップされた紅葉などが美しい

  • ちょうど「フジバカマ」が盛りを過ぎた頃 *「フジバカマ」は秋の七草の一つで、万葉の時代から親しまれ、夏の終わりから秋の初め湿った草原などに多数花を咲かせるが、現在は絶滅危惧種となっている、桜餅の葉の香りがあり芳香剤としても利用される

    ちょうど「フジバカマ」が盛りを過ぎた頃 *「フジバカマ」は秋の七草の一つで、万葉の時代から親しまれ、夏の終わりから秋の初め湿った草原などに多数花を咲かせるが、現在は絶滅危惧種となっている、桜餅の葉の香りがあり芳香剤としても利用される

  • 「フジバカマ」に蝶々を発見! 後で調べると、フジバカマの花に含まれる成分は蝶が集まることで知られ、特に「アサギマダラ」という渡り蝶は何千キロも海を渡って集まるという

    「フジバカマ」に蝶々を発見! 後で調べると、フジバカマの花に含まれる成分は蝶が集まることで知られ、特に「アサギマダラ」という渡り蝶は何千キロも海を渡って集まるという

  • ススキのコラボも見れた! もう少しすると「紅葉」のコラボが期待される

    ススキのコラボも見れた! もう少しすると「紅葉」のコラボが期待される

  • 奥の方に小鳥や昆虫が好む樹木を植えて、多種多様な生き物が育つ自然な森を作った「いのちの森」がある

    奥の方に小鳥や昆虫が好む樹木を植えて、多種多様な生き物が育つ自然な森を作った「いのちの森」がある

  • 入り口に平安末期の平清盛の邸宅「西八条第」(にしはちじょうてい)跡石碑がある *「西八条第」は、平清盛が六波羅邸とは別に構えた別邸で広大な敷地があり、他の平家一門ももこの地に邸宅を構えた

    入り口に平安末期の平清盛の邸宅「西八条第」(にしはちじょうてい)跡石碑がある *「西八条第」は、平清盛が六波羅邸とは別に構えた別邸で広大な敷地があり、他の平家一門ももこの地に邸宅を構えた

  • 「いのちの森」<br />草も木も無い都心の貨物駅だった場所に、植物やチョウ、トンボ、セミ、小鳥等のいきものの自然な生息空間を目指して造られた、「都市空間に京都の太古の森を復元する」をテーマに、下鴨神社の糺の森など市内に残る原生林を調査し各地から樹木を集め、今のような森が出来上がったという、人間の知恵と技術で造られた「朱雀の庭」と、自然の力で出来た「いのちの森」の対比が面白い!

    「いのちの森」
    草も木も無い都心の貨物駅だった場所に、植物やチョウ、トンボ、セミ、小鳥等のいきものの自然な生息空間を目指して造られた、「都市空間に京都の太古の森を復元する」をテーマに、下鴨神社の糺の森など市内に残る原生林を調査し各地から樹木を集め、今のような森が出来上がったという、人間の知恵と技術で造られた「朱雀の庭」と、自然の力で出来た「いのちの森」の対比が面白い!

  • 既に黄昏時!

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