2023/12/02 - 2023/12/02
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Bachさん
12月の月一京町散歩は1200年昔の「平安京」を辿る第9回目「九条大路」で、今回で今年3月から始めた「平安京散歩(東西大路)」終了です。
「九条大路」は、平安京の最も南に位置し、中央に平安京の正門である「羅城門」があり、左右に官寺の「東寺」「西寺」がありましたが、現在の「九条通」は鴨川の東福寺側交差点から九条跨線橋を渡って、東寺、羅城門、西寺から葛野大路通まで直進で5kmで、今回は東福寺周辺を周って九条西大路まで約7kmを歩きます。
「九条通」は、平安後期以降、公家や皇族の御堂が多く建てられ、崇徳天皇皇后の御所や藤原兼実に始まる九条家の領地がありましたが、南北朝時代には足利尊氏が東寺に陣を構えたことからしばしば戦場となり、次第に田園化していき「九条村」という田園集落となり、豊臣秀吉の「御土居」が築かれると完全に洛外の通りとなり、江戸時代には「九条葱」をはじめとした野菜の名産地になり、大正になって通りは拡幅・整備され、昭和になって東福寺~西大路九条までの京都市電が開業し昭和53年に廃止されるなどの経緯を経るも、現在ではその痕跡は多く残っていませんが、九条家の菩提寺として建てられた「東福寺」と平安京の官寺として建てられた「東寺」はしっかり残っており、九条家とゆかりの深い寺院や羅城門、西寺跡などもあって、この通りを歩くと平安京から始まる歴史の変遷がよく分かります。
おりしも紅葉真っ盛りの東福寺は見ごろの時期で、「臥雲橋」からだけでも絶景でしたが、かねてから行きたいと思っていた塔頭「一華院」の特別拝観に間に合って、最近完成した重森千青の庭園は、歴史を引き継いだ現代の枯山水庭園として素晴らしく、「一華院」に由来する達磨大師の教えの「一華五葉を開き結果自然に成る」は、一輪の花が五弁の花びらを開くように、清浄無垢な心に立ちかえり、やるだけのことをやれば結果は自然についてくる、という言葉は、いつもピュアな気持ちでいることが大事!勉強になりました。*表紙写真は「西寺跡」
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♪♪しちじょうこえればはちくじょう♪♪ 七条越えれば 八九条
♪♪じゅうじょうとうじでとどめさす♪♪ 十条東寺で とどめさす(東寺は九条) -
(散歩ルート)東福寺駅~0.2km東福寺・北大門~0.2km万寿寺~0.6km一華院~東福寺・臥雲橋~0.9km(ランチ)お好みチエ~0.6km九条跨線橋~0.6km新宮神社~0.4km九品寺~0.4km城興寺~1.1km東寺南大門~0.6km九条御土居~0.1km羅城門跡~0.7km西寺跡~0.4km九条御前~0.4km(7.2km)九条西大路~0.6km(7.8km)葛野大路九条 ~(市営バス)東福寺駅
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京阪・JR「東福寺駅」
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「伏水(伏見)街道第二橋の親柱」
駅前の通りはかつての「伏見街道」で、豊臣秀吉が京と伏見を結ぶ道として開き、江戸時代から通運、観光の道として賑わったが、五条通から鴨川沿いを伏見まで続く途中に4本の橋が架けられ、それぞれ一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋といわれた土橋だったが、明治6年に石橋に建て替えられ、河川の暗渠化により撤去されたので、橋の親柱は永久保存するためにそれぞれの場所に移築され、この九条通の高架橋の下には「第二橋の親柱」がある、又この先の「東福寺中大門」手前には「第三橋の親柱」があり、東福寺の「臥雲橋」(がうんきょう)が架かる渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)を通って鴨川に合流する「三ノ橋川」と呼ばれる川に架かっている -
東福寺「北大門(北門)」(ほくだいもん)
伏見街道を進むと左手に見えるのが「東福寺北門」で、「東福寺」の入り口は伏見街道沿いに北門、中門、南門があるが、元々この地域は藤原氏の氏寺として栄えた「法性寺」(ほっしょうじ)という寺があったところで、現在の東福寺と泉涌寺までの広大な境内を持ち、鎌倉期になって衰退した跡地に九条道家が九条家の菩提寺を造って、東大寺と興福寺から一文字ずつとって「東福寺」と命名し「九条家」の氏寺とした経緯があり、その「法性寺」が、もう少し中門側に進んだところにある -
東福寺「仁王門(二王門)」(におうもん)
北門を入ってすぐ左手に仁王門があるが、北門に対して直角に、とってつけたような形で立っているので、調べると、仁王門はかつて東福寺内にあった「三聖寺」(さんしょうじ)に1597年建立されたが、六条内裏にあった「万寿寺」(まんじゅじ)が焼失したため「三聖寺」隣に移転し、明治になって合寺し東福寺の塔頭になり、この仁王門も東福寺内の現在の場所に移されたという、一般的に仁王門には寺院を守護する金剛力士(こんごうりきし)像があるが、ここには安置されてない、ちなみに「万寿寺」には金剛力士立像が2体ある -
「名勝 通天橋」石標
仁王門の先を左折すると「通天橋」の石標があり、道路を挟んだ九条跨線橋袂に「万寿寺」がある *万寿寺と東福寺が東大路通りを挟んで分かれているのは、京都市電と東大路通と九条通の開通で分断されたという -
「万寿寺(万寿禅寺)」(まんじゅじ)
平安後期1096年、白河上皇が皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)の菩提に六条内裏(ろくじょうだいり)に創建した六条御堂(ろくじょうみどう)が起源で、鎌倉時代に「万寿寺」と改め、室町時代の1434年に焼失し、東福寺北側にあった「三聖寺」の隣に移転、明治になって「三聖寺」と合併し明治19年(1886)東福寺の塔頭となった -
「東福寺鐘楼」
東福寺の鐘楼は3箇所あり、あと2つは開山堂と五社成就宮で分かるが、何故ココにあるか疑問、調べると、これも「仁王門」と同様、元々万寿寺の前身「三聖寺」にあった鐘楼で室町時代に建立されたもの、面白いのは山門と鐘楼を兼ねていることで、他に見たことがない、「万寿寺鐘楼」とも「万寿寺総門」(山門)とも言われる -
「退耕庵」(たいこうあん)
東福寺の方へ戻ると、古くは53もあり今でも25あるという塔頭が並ぶ、最初にあったのが「退耕庵」で、創建は室町時代の1346年、「戊辰役殉難士菩提所」の碑があり、幕末の鳥羽・伏見の戦いの際、東福寺に長州藩の陣が置かれ、戦死者の菩提寺となっている、また「小野小町ゆかり」の寺で、小町宛ての恋文を体内に納めている「玉章(たまずさ)地蔵」や「小野小町100歳像」と、老いた小野小町が井戸に映った自分の顔を見て嘆いたと言われる「100歳井戸」があり、庭園もツツジが美しい苔庭の「真隠庭」(しんにんてい)が有名だが、予約制でなかなかいけない *塔頭の一番多いのは「妙心寺」で46、「大徳寺」は24 -
「霊源院」(れいげんいん)
建仁寺の「霊源院」は甘茶で有名だが、東福寺の「霊源院」は室町時代の1350年、後醍醐天皇皇子の龍泉和尚により創建 -
お地蔵様が各所に配置されており、お地蔵さまの庭「翠陰庭」(すいいんてい)は、東福寺や天龍寺庭園の御用達庭師・曽根造園が2020年に作庭した「こもれ陽の庭」や「鶴亀の庭」などが魅力だが、又次の機会とする
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「東福寺」石標を右折
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「明暗寺」(みょうあんじ)・「善慧院」(ぜんねいん)
元々明暗寺と善慧院は別々のお寺で、「明暗寺」は南北朝時代の1335年、天外明普(てんがいめいふ)により創建、「虚無僧発祥のお寺」として知られ、「善慧院」は室町時代の1521年、臨済宗の僧・彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)の退隠所として創建された東福寺の塔頭寺院で、その後明治になって1871年に明暗寺を合寺し、尺八明暗流の根本道場になり、さらに昭和の1950年に「宗教法人普化正宗明暗寺」として再興され、毎年11月には全国の尺八演奏家が集まるという *虚無僧が持つ偈箱(げばこ)と言われる袋にある「明暗」の文字は「私は明暗寺の所属である」という意味だという -
「同聚院」(どうじゅいん)
「藤原道長の不動明王」と「モルガンお雪」の寺で、元々この地に藤原氏の氏寺の「法性寺」(ほっしょうじ)があったところに、藤原道長が1006年、定朝の父に作らせた不動明王を中心とした「五大明王」を祀った五大堂を建立したが、鎌倉時代になり焼失し不動明王だけが残り、その後1236年に九条道家が法性寺に代わって新たに東福寺を建立したため「不動明王」は東福寺の所有となり五大堂は再建され、1444年に東福寺第160世・文渓元作禅師が「同聚院」を創建するとその本堂とされ、不動明王坐像を本尊として五大堂に祀り、「五大堂同聚院」とも呼ばれる -
不動明王は高さ265cmの一木造りで、木造不動明王坐像としては日本一の大きさで、「十万不動」と呼ばれ、「十」の下に「万」を書いて「じゅうまん」と読み、「十万の従者を率いて衆生を守護し悪事災難を除く」ことを意味し、「五大明王」のうち唯一焼失を避けたため火除け像として信仰をあつめ また「十万」を土と力に分けて土地を守護する 産土神ともされて災除けのご利益があるとされる
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「モルガンお雪の墓」があり、入り口には白バラ「ユキサン」が咲き誇っている
「モルガンお雪」は、明治から昭和にかけて祇園の芸妓からアメリカの大富豪J.P.モルガンの甥と結婚し「近代史上最高の玉の輿」「日本のシンデレラ」と呼ばれた女性で、菩提寺であったこの寺にたびたび訪れ、古くから「働く女性の守り本尊」として御利益のあった不動明王を信仰したことにより多くの女性から信仰され、1963年81歳で生涯を閉じるが、親族の希望で同聚院に分骨され、三回忌にはパリ市から京都市へ白バラ「ユキサン」の献花が行われた *「モルガンお雪」の墓は、晩年カトリック教に改宗し衣笠教会の聖堂建立に寄付したことから金閣寺の裏にあるカトリックの墓地にも分骨されており、先日訪問したウェスティン都ホテルの「佳水園庭園」の前にもたびたび滞在した記念として頂いたという「モルガンお雪ゆかりの灯篭」があった -
「ユキサン」モルガンお雪の名を冠した白バラ
立札には「上品な芳香とシルクのような美しい花弁を持つモルガンお雪をイメージしてフランスのメイアン氏によって作出され、モルガンお雪の功績とご縁を今につなぐため、同聚院ではこのユキサンを育て続けることを住職の大切な仕事としています」とある -
「ユキサン」は、5月、7月、9月、11月に花を咲かせる四季咲きの大輪花
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手水舎の所に水掛不動さんがあり、その前の幟旗には「働く女性の守り本尊」と書かれている
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「大根焚き法要」11/12~12/2
京の師走の風物詩となっており、千本釈迦堂や妙満寺、鈴虫寺、蛸薬師堂、三千院などいくつかの寺院で行われている、「大根焚き法要」は、鎌倉時代、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて諸病退散を祈願したことに始まり、現在も大根を加持祈祷し輪切りにしてお揚げとともに焚き込んだものがふるまわれ、中風除け、諸病除けのご利益がある -
「霊雲院」(れいうんいん)
室町期の1390年東福寺第八十世の高僧が開いたとされ、重森三玲修復の「九山八海の庭」(くせんはっかいのにわ)と「臥雲の庭」という二つの庭園が素晴らしく、幕末に西郷隆盛と月照がここで維新へ向けて密議を交わしたという話や、日露戦争時にロシア人捕虜収容所となりその写真や故郷を想って作った弦楽器が展示されていて、その影響から任天堂がトランプを作ったという話もあり、東福寺の塔頭の中でも大好きなお寺 -
2009年07月09日撮影
「九山八海の庭」と「臥雲の庭」は、見ただけで重森三玲と分かるような石と砂をダイナミックに組み合わせ、特に鞍馬砂という赤い砂の雲紋と白砂の砂紋は、独特の大自然を表現していて他に例がない *「九山八海」とは、中心にそびえ立つ巨大な須弥山を囲む九つの山と八つの海を表現した石で、仏が住する清らかな世界・浄土をあらわしている→http://shokyoto-kyoto.seesaa.net/article/125263929.html -
今回のお目当ては、東福寺「臥雲橋」手前にある塔頭「一華院」
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「一華院」(いっかいん)
東福寺には重森三玲が手掛けた庭園が多い中で、ここには三玲さんの孫にあたる重森千青(ちさを)さんが2018年に作庭した庭があるので、かねてから見たいと思っていたが通常非公開で、やっと実現できた! -
「一華院」は、南北朝時代の1382年、南禅寺や東福寺第67世の住持をつとめた東漸(とうぜん)禅師により創建、その後江戸時代の1821年に霊雲院の僧・天瑞(てんずい)により再興、「一華院」の名は禅宗開祖の達磨大師の教えの「一華五葉を開き結果自然に成る」(一つの華が五枚の花弁を開き、やがて自ら実を結ぶように自分の心の華を開く)に由来し、五枚の花弁は「ありのままを受け入れる心、純粋な心、分け隔てのない心、人を想う心、すべてはおかげさまといただける心」というから、勉強になる!
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庭園は「四神の庭」と言い、東西南北に四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)を配した4つの枯山水庭園があり、書院前の南庭「依稀松庭」(いきまつのにわ)、西庭の「虎靠山の庭」(ここうざんのにわ)、北庭の「彷彿石の庭」(ほうふつせきのにわ)、東庭は特に名前はないが「青龍の庭」
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「四神」とは、東西南北の四方を守る神獣の事で、東は「青龍」、西は「白虎」、南は「朱雀」、北は「玄武」を司り、東は川、西は道、南は池、北は丘があれば四神相応の地に適しておりその地は長く繁栄すると言われる、京都も、東は鴨川、西は山陰道、南は巨椋池(現在は地名のみ)、北は船岡山があり、四神に守られた地とされている
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南庭「依稀松庭」(いきまつのにわ)
1981年(昭和56年)前住職の作庭で、禅語の「依稀たり松の屈曲、彷彿たり石の爛班」からの命名、松の曲がった幹や枝ぶり、石の斑紋が様々な姿に現れているという意味で、大きく伸ばした黒松を「朱雀」が大きく羽ばたいている姿に見立て、背後のサツキの刈込を山々に見立てて、その前方を朱雀が飛んでいる様を表している -
まず、庭一面の苔と、写真に収まらないほど長く伸びた松の枝が目に飛び込む、1981年作庭と比較的新しく、「善峯寺」の樹齢600年の「遊龍(ゆうりゅう)の松」ほどではないが、小ぶりの五葉松は姿かたちが整って素晴らしく、背後の山並を表現しているツツジのまるで雲のようにふっくらとした刈り込みとうまくつながっていて、背後の紅葉ともマッチングして素晴らしい景観を演出している
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次に目につくのが、庭の真ん中にある「蹲踞」(つくばい)、これは非常に珍しいようで、調べると、この「四神の庭」の特徴は4つの庭にそれぞれ特徴的な「蹲踞」が配置されていることで、これは主に茶室で使う「身を浄めるための蹲踞を実用的でなく精神的な意味合いで置いているというので、各庭を蹲踞とのセットで見ると面白い!
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もう一つ目につくのが、刈り込みに埋もれるように配置されている小ぶりの「石橋」と「石灯籠」、気を付けて見ないと見逃しそうだが、よく見ると絶妙な位置にキラリと光る存在感がある
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右手端っこには奇妙な「蛙」が!
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南庭から続く苔庭の一角に、坪庭のような西庭「虎靠山の庭」がある
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西庭「虎靠山の庭」(ここうざんのにわ)
最近2018年(平成30年)になって重森三玲の孫・重森千青(正しくは青の月の部分が円でちさお)さんにより作庭されたばかりの新しい庭で、石組みで四神の一つ「白虎」を表現し、禅語の「龍の水を得るが如く虎の山に某る(はかる)に似たり」から命名された -
苔の上に、大小の白い石と肌色の石で白虎の親がいて、右側の手水鉢に隠れたところに白1個と肌色の2個の石で表した子供がいて、親子の白虎を表現している
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特徴的な手水鉢もセットになっている
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書院広間から北庭に廻る
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途中に御本尊の入った部屋があるが撮影禁止、本尊は「白衣観音坐像」、脇仏は「達磨坐像」と「阿弥陀如来坐像」
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北庭に行く手前には「一間堂美術館」、古美術品の展示をやっていたが、内容不明
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その奥に北庭「彷彿石庭」が見える
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北庭「彷彿石庭」(ほうふつせきてい)
西庭の2年前の2016年、重森千青により作庭された平成の庭園で、四神の一つ「玄武」を表現し、白砂の中に3つの異なる色の島が浮かぶ開放的な、明るい感じの枯山水庭園、先日見た真如堂「随縁の庭」と同じような、重森三玲流の石をふんだんに使った「重森千青流」現代枯山水庭園になっている *奥には重森三玲さんの庭園がある「霊雲院」が見える -
白砂の中の3つの島は、手前の島が四神の一つ「玄武・亀島」を表し、真ん中が「鶴亀島」、一番奥が「蓬莱島」で、その合計の石数は七五三の十五石となっている
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手前の「玄武・亀島」は黒っぽい三石による石組の亀が左方向へ泳ぐ様を表現、真ん中の「鶴亀島」は七石で鶴と亀を表し、中央の三石が鶴の首と両側に羽で鶴、両側の二石ずつが亀を表現、奥の「蓬莱島」は白っぽい五石で不老不死の仙人が住むとされる蓬莱島を表現している、興味深かったのはそれぞれの島が、手前は「三和土」という土と消石灰とにがりの3種類を混ぜて固めたタタキ、真ん中は苔、奥はフッキソウという常緑の低木を使い分けていること
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ココにも特徴的な手水鉢がある
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あらためて見ると手前の白い砂に描かれた「砂紋」(さもん)が効いている!
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一人独占鑑賞していたが、入れ替わりに女性一人の観光客がいたので思わずシャッターを切る!
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東庭「青龍」は、玄関前の庭
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入口右手の黒松を「青龍」に見立てている
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「一華院」を出るとすぐ隣は東福寺「臥雲橋」、紅葉が見ごろだったのでついでに立ち寄る
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東福寺「臥雲橋」(がうんきょう)
東福寺の渓谷に架けられた3つの橋で「東福寺三名橋」と呼ばれる橋の内の一つで、東福寺境内と一般道を分ける境界になっていて、ここまでは拝観料無しで見られる *「東福寺三名橋」は上流から偃月橋(えんげつきょう)、通天橋(つうてんきょう)、臥雲橋(がうんきょう) -
扁額「臥雲」(がうん)は、雲の中に横たわり隠居して仙人になる意で、江戸期1847年に架けられ、屋根付きの木橋で橋廊(はしろう)になっており、秋のこの季節には東福寺の境内を流れる渓谷の「洗玉澗」(せんぎょくかん)に溢れる紅葉で観光客も溢れかえる
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「臥雲橋」(がうんきょう)からは「洗玉澗」(せんぎょくかん)渓谷の紅葉を一番間近で見る事ができるので、紅葉時期は絶好の撮影ポイント!
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「臥雲橋」(がうんきょう)の下は、東福寺境内に稲荷山から流れる三ノ橋川沿いに「洗玉澗」(せんぎょくかん)と呼ばれる渓谷が広がる
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「臥雲橋」からは紅葉越しに「通天橋」を望む、当然向こうからも見えるが、紅葉の眺めは「臥雲橋」から「通天橋」の中央にある張り出し舞台を見る景色の方が素晴らしい!
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「東福寺」は鎌倉時代の1236年に九条家の菩提寺として創建され、奈良の東大寺と興福寺から1文字ずつとって名づけられ、「洗玉潤」と呼ばれる渓谷に2000本のモミジやカエデがあり、京都一の紅葉名所として名高いが、これが出来たのには理由があり、室町初期の東福寺の画僧・明兆(みょうちょう)が「大涅槃図」を描いて将軍足利義持に褒美をもらうことになり、境内に桜があると人がたくさん来て修行の妨げになるので桜の木の伐採を願い出たので、将軍の命令で桜が切られ、跡に楓の木が植えられたという、これは殆ど宋から持ち帰った「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓で、葉先が3つに分かれて黄金色になるから他にはない美しさがある
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出口側からの紅葉
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「臥雲橋」から「日下門」を経て、東福寺拝観受付方面への出口
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近くの東大路通沿いにある「お好み焼き屋」でランチ
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2023年5月にオープンしたばかりで真新しいが、京都でなかなか食べられない「広島焼」の店をテレビ番組で紹介されていたので、チェック!「おこのみチエ」
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鉄板焼きのメニューが豊富で、居酒屋風にもなっていて、近所にあったら通いそうなところ
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今日は本命の「広島焼・肉玉うどん」と、「たまベー」という珍品を注文980円也
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「たまベー」は卵とベーコンを生地で巻いた、「とん平」のベーコン版
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珍味だが、「とん平」の方がいい
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ソースはオタフクソースではなく自家ソースっぽい
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広島焼は鉄板の前で食べるのが美味しい!
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東大路通の東福寺交差点から駅前の通り「伏見街道」(本町通)まで戻って「九条跨線橋」沿いに「九条通」スタート
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右手が京阪・JR「東福寺駅」
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京阪・JRの踏切を渡ると、「三洋化成工業」本社工場
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「三洋化成工業」は年商1,700億円、従業員2,000名の京都の企業、紙おむつ・ナプキン・ペットシートなど高吸水性樹脂を主力製品とする化学メーカーで、自動車の塗料・シートクッション、医療の検査剤・止血材・抗菌剤、住宅の外壁材・断熱材など多岐にわたる
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工場沿いに流れるのは「琵琶湖疎水」
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「九条跨線橋」(くじょうこせんきょう)
昭和8年(1933)建設、東大路通東福寺交差点から本町通(鳥羽街道)、京阪、JR、琵琶湖疎水、師団街道(鴨川東岸線)、鴨川、高瀬川、須原通を跨いで九条河原町交差点まで続く418mの長大な陸橋、 *線がついているのは京阪本線、JR奈良線を跨ぐから -
2つの鉄道、3つの川、3つの通りを跨ぎ、さらに1937年から1978年までは市電が走っていたというから、相当頑丈な堂々たるアーチ型の橋になっている
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鴨川を渡る
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「須原通」沿いに流れる「高瀬川」に架かる「九条北小橋」
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「九条河原町」交差点
「九条跨線橋」の始終地点で、南北は国道1号線から烏丸五条で分岐して国道24号線となり奈良・和歌山へ行く、真っ直ぐは「九条通」で、名神京都東インターチェンジ・山科四ノ宮から京阪国道口・四ッ塚までの「府道143号線」(四ノ宮四ツ塚線) -
九条河原町から路地を入ったところに「新宮神社」がある
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「新宮神社」(しんぐうじんじゃ)
藤原鎌足を祖とする平安末期の藤原兼実が九条家を立ち上げ、九条兼実(くじょう かねざね1149-1207)と名乗り、現在の九条河原町辺りに広大な「新宮の森」(しのもり)という屋敷があり、その森に当時流行した熊野信仰にともなって九条家が勧請した堂宇(どうう)を建立し、地域の守護神としたが、その後移転や廃社などの時期を経て、明治 13年(1880)に現在地に創建された、御利益は「商売繁盛」の神として、また「家出人の行方」を知り家に帰らせることが出来る足止めの神として崇められている -
「九品寺」(くほんじ)
平安時代の1131年、鳥羽上皇が鳥羽殿(鳥羽離宮)に建てた白河法皇陵に付属する成菩提院に始まり、その後衰えたが鎌倉時代になって復興し、江戸時代に中興された -
「九条烏丸」交差点、地下鉄「九条駅」
平安後期から九条通には公家や皇族の御堂が多く建てられ、この辺りの「東九条村」には、御霊の「新宮神社」、烏丸の「薬院社」、札辻の「宇賀神社」の3社があったが、 明治になって一村一社寺令が出され、東九条村には「宇賀神社」だけが残り、「新宮神社」は九条第のあった現在地に移り、「薬院社」は「城興寺」に遷座した -
「城興寺」(じょうこうじ)
平安後期、この辺りに藤原道長の孫・藤原信長(1023-1094)の邸宅「九条殿」があり、邸内に「九条堂」(九条院)を建て「城興院」と名づけ、その後1113年に藤原忠実がこの地を相続し、ここに寺院を建立して「城興寺」とし、創建当初は広大な寺域をほこったが徐々に衰え、現在では円仁(えんにん)の作と伝えられる本尊千手観音像を安置する本堂のみが残っている -
江戸時代には、庶民の間に信仰と遊山の目的で「洛陽三十三ヶ所観音霊場めぐり」が盛んになり、「城興寺」の本尊千手観音は第二十二番札所として大いに賑わった *「洛陽三十三ヶ所観音霊場めぐり」は、「四国八十八ヶ所霊場」や「西国三十三所観音霊場」に代わり手っ取り早く周れる霊場巡りとして、京都市内の33の霊場を巡り、「人々の様々な苦しみや悲しみを取り除き幸せに導いてくれる」観音様を巡る巡礼路で、平安時代から始まったとされ、明治になって中断されるが、最近になって平成17年(2005)に再び復活したらしい、1番は六角堂、2番誓願寺、3番護浄院(御所の守護院)、4番革堂、5番真如堂、6番金戒光明寺、7番長楽寺と続き、清水寺、東寺、泉涌寺、廬山寺など33寺院
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境内には寺内社として「薬院社」がある
平安初期にこの付近にあった平安京の「施薬院」(せやくいん)に由来し、奈良時代の医療と施薬の役所に倣って平安初期に藤原冬嗣が開設し、鎌倉初期には「施薬院稲荷」(せやくいんいなり)の祠だけが残り、以来東九条の人々が村の鎮守として崇敬されてきたが、明治になって地元の熱意により「城興寺」の「陀枳尼天堂」(だきにてんどう)に合祀された -
右手が「城興寺」の本堂・観音堂と庫裏、左手が「陀枳尼天堂」(だきにてんどう)で、「施薬院稲荷」(せやくいんいなり)が女稲荷の「陀枳尼天堂」に婿入りされ、仲睦まじく鎮座して夫婦円満を示現され(じげん:この世に現れ)、医療・施薬を通して健康で稔り豊かな明日を願いつつ見守っておられる、夫婦は仲良くしてください、それが幸福の根本であります(住職)
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京都タワーがある「塩小路通」、京都駅の「八条通」を挟んで「九条通」からの景色
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「九条新町」交差点
「新町通」は、上賀茂大橋から途中京都駅で分断され久世橋通まで、昔から京都の中心街路として栄え、祇園祭の山鉾が7つ立ち並ぶ(八幡山、北観音山、南観音山、放下鉾、大船鉾、船鉾、岩戸山) -
「九条西洞院」交差点
「西洞院通」は、京都御所近くの武者小路通から途中京都駅で分断され十条通までで、平安時代には通りに沿って西洞院川が流れていて、川の水を利用した染色業や紙漉きが発展した -
「九条油小路」交差点
「油小路通」は、上賀茂橋近くから伏見上鳥羽口までで、南北の通りで一番長く、堀川通と並行に走っていて京都駅手前からは堀川通の拡幅に吸収されて八条からは又油小路となる、平安時代は北部には官庁街が広がり、仏具商・染物商や社寺、商家が軒を連ね、秀吉の洛中改造では洛中・洛外を分ける「御土居」を造る時、この道を中心軸にしたとされ、江戸時代には伏見への道として賑わい多くの武家屋敷が並んだ -
「九条油小路」陸橋から京都駅、京都タワー方面、手前はイオンモール
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「近鉄・東寺駅」
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手をつないだカップルに遭遇し「東寺」まで追尾?
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「九条大宮」交差点
「大宮通」は、御園橋通北の鹿ノ下公園から二条城で分断され、久世橋通南の竹田駅付近までで、大内裏の西側を通ることから「大宮」と呼ばれ、宮中に納める「大宮絹」の職人が住み、応仁の乱で西軍の陣地となった「西陣」の地を中心に織物が再興され、二条城が造営されると商家や旅館が集中して繁華街へ発展した -
「東寺五重塔」国宝
高さ54.8mで、木造の塔としては日本一、826年弘法大師(空海)が金堂に続いて創建に着手した建物だが、1055年落雷で焼失しその後も3度焼失し、現在の五重塔は1644年に徳川家光再建のもの、内部には心柱を大日如来に見立て金剛界四仏像と八大菩薩像が安置され、壁や柱には金剛界曼荼羅や八大龍王、真言八祖像が描かれているが特別公開でないと見れない *前回「八条通」の「伏見稲荷御旅所」で分かったことだが、この「五重塔」の用材を伏見の稲荷山から伐りだしたら淳和天皇が病気になったので、これまで秦氏の私社だった稲荷大神に従五位(じゅごい)下の神階を授け、以後伏見稲荷大社と東寺は深く結びつき、今でも伏見稲荷大社の「還幸祭」では御旅所から東寺に立ち寄り神供が行われている -
真言宗総本山「東寺」(教王護国寺)世界遺産
平安京遷都後まもない796年、桓武天皇が平安京鎮護のため国の官寺として建立し、その後823年に嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜(かし)され真言密教の根本道場として栄えた *平安京の正門にあたる羅城門の東西に、平安京の左京と右京を守り、東国と西国をも守る官立寺院として「東寺」と「西寺」が建立された、平安京にこの二つの寺しか認められなかったのは、奈良平城宮のように増大した寺院勢力の台頭を排除するためだったという -
「東寺南大門」(なんだいもん)重要文化財
東寺の門の中で最も大きく、幅18m、高さ13m、切妻造本瓦葺の八脚門(やつあしもん)と呼ばれる格式の高い門で、運慶湛慶作の金剛力士2像を安置していたので「二王門」とも呼ばれたが、明治元年に門と共に焼失し、明治28年(1895)に三十三間堂(蓮花王院)の西門として建てられたもの(1601年建立)を移築した *明治28年は平安京遷都1100年にあたり第四回内国勧業博覧会が開催され、平安神宮が創建された年で、それまでに京都国立博物館(1897年創建)を造るのに「蓮花王院の西門」が邪魔になって譲りたいという話があったので、移築が決定したという経緯があったという -
南大門から北へ真直ぐに金堂、講堂、食堂(じきどう)、東に五重塔、西に権頂院(かんじょういん)、御影堂(みえいどう)が建っており、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている
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「五重塔」(国宝)は江戸時代1644年再建、「南大門」(重文)は江戸時代1601年のものを移築、「金堂」(国宝)は豊臣豊臣秀頼により1603年再建、「講堂」(重文)は室町時代1491年の再築、「御影堂」(国宝)は南北朝時代に再建、「権頂院」(重文)は江戸時代1634に再建、「食堂」は江戸時代1800年に再建、「宝蔵」(重文)は平安後期に建立
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「南大門」両脇にとまるアオサギ
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「九条壬生」(京阪国道口)交差点
「壬生通」(みぶどおり)は、四条大宮近くの後院通(こういんどおり)から梅小路公園で分断され九条通りまでで、沿線には壬生寺、島原遊郭、六孫王神社などある -
「九条御土居」(くじょうおどい)
「御土居」(おどい)は天正19年(1591)豊臣秀吉が京都の町を土塁で囲み、外敵の侵入、河川氾濫への備えとした城郭で、その痕跡は次第に減っていって失われてしまうので京都市が昭和5年に良好に残されていた9地点を国指定史跡としたが、その一つがこの近くにあり、これを境に洛中、洛外と呼ばれている -
「羅城門」のバス停があるが、どこか分からない!
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「矢取地蔵尊」のところに、小さい「羅城門跡」石柱があるが、これだけ?
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「矢取地蔵尊」(やとりじぞうそん)
明治18年(1885年)に八条村の人々により建立された地蔵堂 -
駒札では、「東寺」の弘法大師(空海)と「西寺」の守敏僧都(しゅびんそうず)がいろいろ対立していて、守敏僧都が帝の前で術を見せたが空海に邪魔されたので、恥をかかされた守敏僧都は羅城門で空海を待ち伏せし矢を射かけたところ、黒衣の僧が身代わりとなって矢はその僧の肩口を貫いた、この僧は地蔵菩薩で地蔵堂の「矢取地蔵」の右肩には矢傷のあとが残っているという
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この辺りに刑場があり、昭和初期、お堂の前の九条通りの拡幅工事の際、打ち首になった人の供養として祀られたお地蔵さんが発掘されたのが置かれている
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小さい石柱の裏側、公園に滑り台と一緒に石碑があり肩透かし! ミニチュアでいいから「羅城門」をイメージするモノを造って欲しいと思う!
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「羅城門跡碑」(らじょうもん)
駒札では、「794年平安京のメインストリートである「朱雀大路」の南端に設けられた都の玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた、816年台風で倒壊、980年にも倒壊しその後再建されなかった」とある -
左手が歩いてきた「東寺」方面0.7km、右手が「西寺跡」0.7km
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「九条旧千本」交差点
「旧千本通」(きゅうせんぼんどおり)は、鷹峯から淀競馬場辺りまでの長い通りだが、平安京の「朱雀門」があった辺りの二条通から「羅城門」があった九条通までは「朱雀大路」があった場所で、現在五条通北側の仏光寺通からは「新千本通」が並行しているため、鷹峯から五条通までは「千本通」と呼び、五条通から南は「旧千本通」と名前が変わり、久世橋通で又「千本通」と変わって淀競馬場辺りまで続く、七条通から八条通までは梅小路公園で分断され、九条通から南はかつての鳥羽街道になる *「千本」という名前は、「朱雀大路」は船岡山が正面になっており、その船岡山麓が葬送地だったため通りに千本の卒塔婆(そとうば:縦長の木板)を建てて供養したことから命名されたという -
その隣が「九条新千本」交差点
「新千本通」(しんせんぼんどおり)は、壬生寺近くの仏光寺通から旧千本通と並行に走る通りで、途中梅小路公園で分断され、久世橋通まで続く -
「九条七本松」を八条通方面へ右折し「西院跡」へ進む
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「唐橋西寺公園」(からはしさいじこうえん)
この辺りの「唐橋西寺町」の「唐橋」は、羅城門南側の堀を跨いで架けられた唐風の橋があったことに由来 -
公園の真ん中に盛土があり、ここに石碑が立つ
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「西寺」(さいじ)
駒札では、「平安京遷都から間もない796年から、平安京の入り口にあたる羅城門の西側に、東側の東寺と対称に造営された官寺(かんじ)である。金堂、講堂を中心として南大門、中門、五重塔、僧坊、食堂(じきどう)などの建物が建ち並び、国家の寺として隆盛を誇っていたが、西寺は東寺に比べて早くから衰え、1233年には塔も焼失し、以後は再興されることなく地中に埋もれてしまった。昭和34(1959)年以来、数多くの発掘調査が実施されて、建物跡やその屋根に葺かれた瓦、使われていた土器なとが次々と発見され、この周辺の地下に平安時代の伽藍がほぼそのまま眠っていることが明らかになった。かつての寺域は、(東寺とほぼ同じ規模で)東西ニ町(約250m)南北四町(約510m)に及び、僧坊・講堂・金堂・中門などの主要伽藍跡は、現在この説明板の建つ唐橋西寺公園(講堂跡が公園中央に土壇(どだん)として残る)から、南の唐橋小学校にかけて見つかり、今も地下に保存されている」とある -
「西寺」は平安中期以降に火災などで伽藍が失われ廃寺となってしまったが、「東寺」は空海に下賜(かし)され教王護国寺となって真言密教の根本道場として繁栄するが、この差は何故か?調べるとこの地は水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなり環境が悪化したことが原因らしいが、結局、守敏僧都(しゅびんそうず)とは何者か、がポイントで、「矢取地蔵」にもあったように、空海と守敏とは何事にも対立し、「神泉苑」でも雨乞いの儀式で法力を競い空海に敗れたなど、ことごとく空海に敗れて評判を落とし、朝廷の支援を受けられなくなり、そのまま表舞台から居なくなったのではないかと推測する
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「西寺跡」にはかつての「講堂」の礎石もあり、地元では「コンド山」(講堂山or金堂山)と呼ばれている、高く盛り上がって小山になっているのは、大正時代に「松尾大社」の「松尾祭」(まつのおまつり)の御旅所として、「還幸祭」(かんこうさい)の際に神輿を練り上げるために盛土されたからだという、 *年中行事として「コンド山の山焼き」があって、毎年3回程度草刈りと山焼きが行われるが、これはココ「西寺公園」が「松尾祭」の還幸祭の出発点となっており、その準備として山を奇麗にしているからで、毎年5月に行われる「松尾祭」の「還幸祭」は、三ヶ所の御旅所に安置されている7つの神輿が「西寺跡」に集合し、ここで祭典をした後、「七条通」でお参りした「朱雀御旅所」から西京極、梅津の旧街道を経て松尾橋を渡り本社に戻る
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「九条御前」交差点
「御前通」(おんまえどおり)は、寺之内通から北野天満宮東側を通り、九条通をさらに南下した札辻通まで、北野天満宮を中心とした辺りは商業の中心地として繁栄し上七軒遊郭なども現れ、北野天満宮の門前を通ることから「御前」と命名された -
「九条西大路」交差点
「西大路通」(にしおおじどおり)は、北大路通から南は十条通まで、明治から大正にかけて行われた京都三大事業の道路拡張と、京都市電の敷設とともに昭和初期(昭和14年)に開通した比較的新しい通りで、西大路五条に西京極陸上競技場があるので、ここを起点に五条通から北大路通までマラソン、駅伝のコースとしてよく利用される -
最期はいつものスタバで休憩して帰宅
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