今出川・北大路・北野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今月は平安京では大内裏西側を通るので「西大宮大路」(にしのおおみやおおじ)、菅原道真を祀った「北野天満宮」が出来てからは名前が変わった「御前通」(おんまえどおり)を歩きます。<br />今年の紅葉は平年より10日以上も遅れ、なかなか行けなかったところにテレビで「北野天満宮」の「御土居もみじ苑」が公開延長になったというニュースを見て、今まで行けてなかったので即刻行くことにし、ついでに「御前通」を歩くことになりましたが、「北野天満宮」しかないと甘く見ていたのが大間違い、他の京町通りと同様、歴史の痕跡がいっぱい詰まった見ごたえのある通りで、「もみじ苑」だけでも写真を選ぶのに苦労しましたが、全体をまとめるのに一苦労した京町散歩になりました。<br />そして、散歩の途中で、「北野天満宮」ができる以前は、この場所には「右近の馬場」という馬場があり、道真の居住地であった「吉祥院」を行き来する「道真ロード」だったことが判明し、これは「吉祥院」まで行かないと意味ないと思い、当初の予定は平安京南限の「西寺跡」まででしたが、これを延長し、せっかく行くなら、新年の「初詣」も兼ねることにし、鷹峯御土居から「西寺跡」まで7.5km、さらに「吉祥院天満宮」まで1.0kmの、月またがりの散歩になりましたが、<br />最後に「吉祥院天満宮」で思いがけず突き当たったのが、「弁天さん」に鎮座していた今年の干支「狛蛇」で、今年は元日から誠に縁起が良い! 「金運」アップ、「不老長寿」がさらに高まること間違いなし! と思わせてくれた京町散歩でした。

月一京町散歩(12月~1月)平安京南北散歩「御前通」で紅葉と初詣

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2024/12/05 - 2024/12/05

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旅行記グループ 月一平安京散歩

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今月は平安京では大内裏西側を通るので「西大宮大路」(にしのおおみやおおじ)、菅原道真を祀った「北野天満宮」が出来てからは名前が変わった「御前通」(おんまえどおり)を歩きます。
今年の紅葉は平年より10日以上も遅れ、なかなか行けなかったところにテレビで「北野天満宮」の「御土居もみじ苑」が公開延長になったというニュースを見て、今まで行けてなかったので即刻行くことにし、ついでに「御前通」を歩くことになりましたが、「北野天満宮」しかないと甘く見ていたのが大間違い、他の京町通りと同様、歴史の痕跡がいっぱい詰まった見ごたえのある通りで、「もみじ苑」だけでも写真を選ぶのに苦労しましたが、全体をまとめるのに一苦労した京町散歩になりました。
そして、散歩の途中で、「北野天満宮」ができる以前は、この場所には「右近の馬場」という馬場があり、道真の居住地であった「吉祥院」を行き来する「道真ロード」だったことが判明し、これは「吉祥院」まで行かないと意味ないと思い、当初の予定は平安京南限の「西寺跡」まででしたが、これを延長し、せっかく行くなら、新年の「初詣」も兼ねることにし、鷹峯御土居から「西寺跡」まで7.5km、さらに「吉祥院天満宮」まで1.0kmの、月またがりの散歩になりましたが、
最後に「吉祥院天満宮」で思いがけず突き当たったのが、「弁天さん」に鎮座していた今年の干支「狛蛇」で、今年は元日から誠に縁起が良い! 「金運」アップ、「不老長寿」がさらに高まること間違いなし! と思わせてくれた京町散歩でした。

  • 「大宮」は皇居という意味で、大内裏の西側を通ることから「西大宮大路」と呼ばれ、一条通~九条通までが平安京の通りで、中央を西大宮川がつい30年前まで流れていた、大内裏に近いので官庁街の官衛町(かんが)が並び、右兵衛府、右近衛府、左馬寮、右馬寮や政府直営の「右近馬場」などあり、平安京の治安を預かる軍人、警察官や馬、牛のイメージが強い通りで、北野天満宮の町名は「馬喰町」(ばくろちょう)という、平安中期からは衰退し「北野天満宮」が出来る迄は「北野の森」と称され、大きな牧場で多数の馬牛が飼育されたというが、秀吉が御土居を造り、権威をひけらかすために「北野大茶湯」(きたのおおちゃのゆ)を開いてからは、立派な社殿も出来て江戸時代からは通り名も「北野天満宮」の前を通ることから「御前通」と呼ばれるようになり、現在は御土居北限の鷹峯から九条通を越えて吉祥院を経由し上鳥羽まで南下している

    「大宮」は皇居という意味で、大内裏の西側を通ることから「西大宮大路」と呼ばれ、一条通~九条通までが平安京の通りで、中央を西大宮川がつい30年前まで流れていた、大内裏に近いので官庁街の官衛町(かんが)が並び、右兵衛府、右近衛府、左馬寮、右馬寮や政府直営の「右近馬場」などあり、平安京の治安を預かる軍人、警察官や馬、牛のイメージが強い通りで、北野天満宮の町名は「馬喰町」(ばくろちょう)という、平安中期からは衰退し「北野天満宮」が出来る迄は「北野の森」と称され、大きな牧場で多数の馬牛が飼育されたというが、秀吉が御土居を造り、権威をひけらかすために「北野大茶湯」(きたのおおちゃのゆ)を開いてからは、立派な社殿も出来て江戸時代からは通り名も「北野天満宮」の前を通ることから「御前通」と呼ばれるようになり、現在は御土居北限の鷹峯から九条通を越えて吉祥院を経由し上鳥羽まで南下している

  • (2024.12.5 の行程)<br />(鷹峯御土居~0.7km)10:00 千本北大路御前通~1.1km上七軒通~10:30お茶カステラドパウロ~北野天満宮(もみじ苑)~13:00ランチとようけ茶屋~西陣警察署~0.2km新建石鳥居碑~0.4km一条通(大将軍八神社)~0.3km仏立教育専門学校~仁和寺街道~下立売通~0.7km丸太町通~0.1km藻壁門跡(そうへきもん)~山陰線~上押小路通~0.6km朱雀公園、京都地方気象台観測風柱アメダス~御池通~三条通~1.1km平安京跡発掘調査記念碑~四条通~0.7km京都市立病院~五条通~0.8km綱敷行衛天満宮~七条通~0.2km松尾大社西七条御旅所~八条通~山陰線~0.9km唐橋西寺公園・西寺跡~0.4km(7.5km)16:00九条御前バス停<br />(2025.1.1 の行程)<br />13:00 九条御前バス停~0.2km札ノ辻通~0.6km吉祥院天満宮(~鳥羽水環境保全センター付近まで)<br />

    (2024.12.5 の行程)
    (鷹峯御土居~0.7km)10:00 千本北大路御前通~1.1km上七軒通~10:30お茶カステラドパウロ~北野天満宮(もみじ苑)~13:00ランチとようけ茶屋~西陣警察署~0.2km新建石鳥居碑~0.4km一条通(大将軍八神社)~0.3km仏立教育専門学校~仁和寺街道~下立売通~0.7km丸太町通~0.1km藻壁門跡(そうへきもん)~山陰線~上押小路通~0.6km朱雀公園、京都地方気象台観測風柱アメダス~御池通~三条通~1.1km平安京跡発掘調査記念碑~四条通~0.7km京都市立病院~五条通~0.8km綱敷行衛天満宮~七条通~0.2km松尾大社西七条御旅所~八条通~山陰線~0.9km唐橋西寺公園・西寺跡~0.4km(7.5km)16:00九条御前バス停
    (2025.1.1 の行程)
    13:00 九条御前バス停~0.2km札ノ辻通~0.6km吉祥院天満宮(~鳥羽水環境保全センター付近まで)

  • 10:00 千本北大路御前通(仏教大学オープンラーニングセンター前)からスタート

    10:00 千本北大路御前通(仏教大学オープンラーニングセンター前)からスタート

  • 鞍馬口通で筋違いになって「京都市立柏野小学校」沿いに進む

    鞍馬口通で筋違いになって「京都市立柏野小学校」沿いに進む

  • 「柏野学童保育所」を右折

    「柏野学童保育所」を右折

  • 暫く歩くと「紫野・御土居」<br />「御前通」は鷹ケ峯から「御土居」に沿って南下している

    暫く歩くと「紫野・御土居」
    「御前通」は鷹ケ峯から「御土居」に沿って南下している

  • 「御土居MAP」(京都市考古資料館資料)<br />「御土居」は天正19年(1591)、豊臣秀吉が戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、外敵防御と、鴨川堤防の目的で、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川(天神川)、南は九条あたりの周囲22.5kmに築いた土塁で、内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口を設け、洛外との出入口としたが、江戸時代になると天下太平になり外敵の脅威もなく次第に無用の存在となって、次々と取り壊され北辺を中心に僅かに名残をとどめており、現在鷹峯や紫野、北野天満宮、蘆山寺など9箇所が史跡として残されている

    「御土居MAP」(京都市考古資料館資料)
    「御土居」は天正19年(1591)、豊臣秀吉が戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、外敵防御と、鴨川堤防の目的で、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川(天神川)、南は九条あたりの周囲22.5kmに築いた土塁で、内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口を設け、洛外との出入口としたが、江戸時代になると天下太平になり外敵の脅威もなく次第に無用の存在となって、次々と取り壊され北辺を中心に僅かに名残をとどめており、現在鷹峯や紫野、北野天満宮、蘆山寺など9箇所が史跡として残されている

  • 近くのマンション「御土居マンション」から、蘆山寺通、寺之内通を進む

    近くのマンション「御土居マンション」から、蘆山寺通、寺之内通を進む

  • 北野天満宮東参道「上七軒」(かみしちけん)<br />京都花街の祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒の「五花街」の内、最も歴史の古い茶屋町として、門前町の賑わいと芸能文化の発展に寄与し、戦前まではお茶屋50軒ほどあったが現在は数件しかない、通りは平成25年(2013)電柱・電線のない石畳舗装の歩きやいすっきりとした景観になっている

    北野天満宮東参道「上七軒」(かみしちけん)
    京都花街の祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒の「五花街」の内、最も歴史の古い茶屋町として、門前町の賑わいと芸能文化の発展に寄与し、戦前まではお茶屋50軒ほどあったが現在は数件しかない、通りは平成25年(2013)電柱・電線のない石畳舗装の歩きやいすっきりとした景観になっている

  • 「上七軒歌舞練場」<br />室町時代の1444年、北野天満宮の社殿の修築時に残った資材を使い、お参りする人の休憩所として東門前に造った7軒の茶店が始まりで、これが名前の由来にもなっており、1587年秀吉が催した「北野大茶会」で、上七軒のお茶屋が献上したみたらし団子を秀吉が絶賛し、茶屋株(営業権)を与えられたのが茶屋街の始まりと云われる、毎年3月末には「北野をどり」が開催され、夏には芸妓さん舞妓さんとも会えるビアガーデンもオープンする

    「上七軒歌舞練場」
    室町時代の1444年、北野天満宮の社殿の修築時に残った資材を使い、お参りする人の休憩所として東門前に造った7軒の茶店が始まりで、これが名前の由来にもなっており、1587年秀吉が催した「北野大茶会」で、上七軒のお茶屋が献上したみたらし団子を秀吉が絶賛し、茶屋株(営業権)を与えられたのが茶屋街の始まりと云われる、毎年3月末には「北野をどり」が開催され、夏には芸妓さん舞妓さんとも会えるビアガーデンもオープンする

  • 10:30 お茶「カステラ・ド・パウロ」<br />テレビで紹介されていたので以前から目星をつけていた、ポルトガル人の御主人と京都生まれの奥様御夫婦で経営されている「ポルトガルお菓子屋」さんで、元酒屋の酒蔵の白壁とポルトガルの青いタイル「アズレージョ」との調和が面白い

    10:30 お茶「カステラ・ド・パウロ」
    テレビで紹介されていたので以前から目星をつけていた、ポルトガル人の御主人と京都生まれの奥様御夫婦で経営されている「ポルトガルお菓子屋」さんで、元酒屋の酒蔵の白壁とポルトガルの青いタイル「アズレージョ」との調和が面白い

  • 「カステラとエッグタルト」の想い出<br />「カステラ」は鉄砲伝来の後1550年、フランシスコ・ザビエルが平戸に来た時にキリスト教と共に伝わり日本人好みにしたものだが、岐阜県岩村で見つけたのが創業寛政8年(1796)の「松浦軒」で、岩村藩の蘭学医が長崎から持ち帰りそのままの製法を受け継いで当時に近いカステラを製造販売していて、通常のカステラとは又一味違う、また「エッグタルト」は、マカオ旅行で初めて食べて好きになり、リスボン旅行で元祖店を探して食べたことがある想い出のあるお菓子で、ポルトガルでも一番人気のおやつ、パイ生地に卵黄たっぷりのクリームを流し込んで焼くのに対し、カステラはパイ生地と玉子クリームに小麦粉を加え釜で焼いたもの *「カステラ」は明治になって、水飴とザラメ糖を用いる製法が考案され、それまでのパサパサからしっとり食感になったといわれ、岩村では使っていない

    「カステラとエッグタルト」の想い出
    「カステラ」は鉄砲伝来の後1550年、フランシスコ・ザビエルが平戸に来た時にキリスト教と共に伝わり日本人好みにしたものだが、岐阜県岩村で見つけたのが創業寛政8年(1796)の「松浦軒」で、岩村藩の蘭学医が長崎から持ち帰りそのままの製法を受け継いで当時に近いカステラを製造販売していて、通常のカステラとは又一味違う、また「エッグタルト」は、マカオ旅行で初めて食べて好きになり、リスボン旅行で元祖店を探して食べたことがある想い出のあるお菓子で、ポルトガルでも一番人気のおやつ、パイ生地に卵黄たっぷりのクリームを流し込んで焼くのに対し、カステラはパイ生地と玉子クリームに小麦粉を加え釜で焼いたもの *「カステラ」は明治になって、水飴とザラメ糖を用いる製法が考案され、それまでのパサパサからしっとり食感になったといわれ、岩村では使っていない

  • 「カステラ・ド・パウロ」の誕生<br />京都生まれの奥様は、学生時代からカステラのルーツを知るためにリスボンに行き、ポルトガル人の今の御主人に出会ったが、御主人は逆に長崎のカステラを知って感銘し、日本に渡り老舗の「松翁軒」で修行した後、日本で進化を遂げた「カステラ」を、ポルトガルの人にも紹介しようと、リスボンで日本のカステラとポルトガルのお菓子を販売する店を開業し、18年の営業を経て2015年、今度はポルトガルの伝統菓子を日本人に食べてもらいたいと思い、奥様の故郷京都に店を構え、双方の菓子文化を広めることに情熱を注いでいるという、ポルトガルと日本の素晴らしい融合物語に感銘!

    「カステラ・ド・パウロ」の誕生
    京都生まれの奥様は、学生時代からカステラのルーツを知るためにリスボンに行き、ポルトガル人の今の御主人に出会ったが、御主人は逆に長崎のカステラを知って感銘し、日本に渡り老舗の「松翁軒」で修行した後、日本で進化を遂げた「カステラ」を、ポルトガルの人にも紹介しようと、リスボンで日本のカステラとポルトガルのお菓子を販売する店を開業し、18年の営業を経て2015年、今度はポルトガルの伝統菓子を日本人に食べてもらいたいと思い、奥様の故郷京都に店を構え、双方の菓子文化を広めることに情熱を注いでいるという、ポルトガルと日本の素晴らしい融合物語に感銘!

  • 「ポルトガルの伝統菓子」<br />ポルトガルのお菓子の多くは修道院に起源があり、修道院で卵白をワイン製造や僧服の糊付けに使用していたので、その残りを砂糖と組み合わせ菓子作りが発達したと言われ、その代表は、教会へのお供え物として作られてた「パォン・デ・ロー」(カステラの原型)、「パステル・デ・ナタ」(エッグタルト)、「ドース・デ・オヴォシュ」(卵黄飴)、「コンフェイト」(金平糖)など

    「ポルトガルの伝統菓子」
    ポルトガルのお菓子の多くは修道院に起源があり、修道院で卵白をワイン製造や僧服の糊付けに使用していたので、その残りを砂糖と組み合わせ菓子作りが発達したと言われ、その代表は、教会へのお供え物として作られてた「パォン・デ・ロー」(カステラの原型)、「パステル・デ・ナタ」(エッグタルト)、「ドース・デ・オヴォシュ」(卵黄飴)、「コンフェイト」(金平糖)など

  • 店内は、吹き抜けの梁の出た元酒蔵の雰囲気に、ポルトガルの民芸品を並べ、BGMにはファド(ポルトガルの民族歌謡)を流して、ポルトガルの雰囲気を醸し出しており、過去にリスボンで2泊3日した旅行の想い出が蘇る

    店内は、吹き抜けの梁の出た元酒蔵の雰囲気に、ポルトガルの民芸品を並べ、BGMにはファド(ポルトガルの民族歌謡)を流して、ポルトガルの雰囲気を醸し出しており、過去にリスボンで2泊3日した旅行の想い出が蘇る

  • 「ポルトガル料理」<br />ポルトガルは日本と同じ海洋国家で魚介料理が多いが、やはり代表はタラの身を塩漬けした「バカリャウ(干しダラ)料理」で、11:00から食べられる

    「ポルトガル料理」
    ポルトガルは日本と同じ海洋国家で魚介料理が多いが、やはり代表はタラの身を塩漬けした「バカリャウ(干しダラ)料理」で、11:00から食べられる

  • 「食文化比較プレート」<br />日本カステラの「パウロのカステラ」と、地方別に異なるカステラの原型「パォンデロー」3種、北から ①ミーニョ地方、②ベイラリトラル地方、③エストレマドゥーラ地方で、北はしっかり焼きあがり、南へいくほどとろりとした半熟でプリンのような口あたり

    「食文化比較プレート」
    日本カステラの「パウロのカステラ」と、地方別に異なるカステラの原型「パォンデロー」3種、北から ①ミーニョ地方、②ベイラリトラル地方、③エストレマドゥーラ地方で、北はしっかり焼きあがり、南へいくほどとろりとした半熟でプリンのような口あたり

  • 「カステラ4種」を注文<br />手前中央は、店主が長崎で修行して長崎カステラを更に昇華(飛躍)させたもの、手前左はミーニョ地方で、大きな素焼きの型でフタをしてしっかり焼き上げてしっとりと弾力がある、右下はエストレマドゥーラ地方で、銅製の鍋で半熟に焼きポルトガル産の塩が少し入った軽い口あたりの食感、中央後ろはベイラリトラル地方で、小ぶりの素焼きの型でさらに半熟に焼いたとろりと濃厚なシナモンの香り漂う味

    「カステラ4種」を注文
    手前中央は、店主が長崎で修行して長崎カステラを更に昇華(飛躍)させたもの、手前左はミーニョ地方で、大きな素焼きの型でフタをしてしっかり焼き上げてしっとりと弾力がある、右下はエストレマドゥーラ地方で、銅製の鍋で半熟に焼きポルトガル産の塩が少し入った軽い口あたりの食感、中央後ろはベイラリトラル地方で、小ぶりの素焼きの型でさらに半熟に焼いたとろりと濃厚なシナモンの香り漂う味

  • 「オブリガード」!

    「オブリガード」!

  • 「今出川通」に到着

    「今出川通」に到着

  • 「北野天満宮」(きたのてんまんぐう)「一の鳥居」<br />今出川通りに面して存在感のある「一の鳥居」は、さすが全国の菅原道真公を祀る1万2000社の総本社に相応しい、高さ11.4mの大鳥居は大正10年(1921)に建立され、扁額だけでも高さ2.7m・幅2.4m・重量563kgあり、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王の直筆、今の時期「史蹟御土居・もみじ苑公開」の幟旗が目立つ

    「北野天満宮」(きたのてんまんぐう)「一の鳥居」
    今出川通りに面して存在感のある「一の鳥居」は、さすが全国の菅原道真公を祀る1万2000社の総本社に相応しい、高さ11.4mの大鳥居は大正10年(1921)に建立され、扁額だけでも高さ2.7m・幅2.4m・重量563kgあり、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王の直筆、今の時期「史蹟御土居・もみじ苑公開」の幟旗が目立つ

  • 「天満宮」には北野と大宰府の2つの総本社がある<br />「北野天満宮」は道真公の出生から太宰府に流されるまで居たところで、「太宰府天満宮」は道真公が晩年を過ごし墓所を祀るところ *845年学者の家に生まれた道真公は、学識を高め政治家としても卓越し899年右大臣として左大臣藤原時平と並んで活躍したが、901年突如藤原氏の策謀により大宰府に左遷され、そのわずか2年後に亡くなり、905年に廟が作られ、919年に「太宰府天満宮」が創建された、その後、都では天変地異が続き左遷に関わった者達が次々に亡くなったのでこれは道真公の怨霊の仕業に違いないと畏れ、御霊魂をお慰めするため947年「北野天満宮」が創建され、987年一條天皇の時代に「北野天満大自在天神」の神号を受け、天神様として神格化された道真を祀る神社となった<br />

    「天満宮」には北野と大宰府の2つの総本社がある
    「北野天満宮」は道真公の出生から太宰府に流されるまで居たところで、「太宰府天満宮」は道真公が晩年を過ごし墓所を祀るところ *845年学者の家に生まれた道真公は、学識を高め政治家としても卓越し899年右大臣として左大臣藤原時平と並んで活躍したが、901年突如藤原氏の策謀により大宰府に左遷され、そのわずか2年後に亡くなり、905年に廟が作られ、919年に「太宰府天満宮」が創建された、その後、都では天変地異が続き左遷に関わった者達が次々に亡くなったのでこれは道真公の怨霊の仕業に違いないと畏れ、御霊魂をお慰めするため947年「北野天満宮」が創建され、987年一條天皇の時代に「北野天満大自在天神」の神号を受け、天神様として神格化された道真を祀る神社となった

  • 「天満宮」のシンボルは「梅」と「牛」<br />「梅」は、菅原道真公が生涯に亘り愛し、左遷される際、自邸の梅の木に「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と別れを告げられ、御本殿前には御神木として守り受け継いできた紅梅がある、大宰府には道真公を慕って飛んできたといわれる「飛梅」(とびうめ)があり、毎年境内の梅に先駆けて開花する、大宰府では還暦を迎えて梅を献木すると厄払いし福を招くと言われ年々増えて、現在大宰府には200種6000本、北野には50種約1500本の梅が咲き誇る、また「牛」は、菅公が大宰府でお亡くなりになった際、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言に従い、御遺体を牛車で運ぶ途中で車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、この地に埋葬された所が太宰府天満宮となったという由来から、牛は天神さまのお使いとされている

    「天満宮」のシンボルは「梅」と「牛」
    「梅」は、菅原道真公が生涯に亘り愛し、左遷される際、自邸の梅の木に「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と別れを告げられ、御本殿前には御神木として守り受け継いできた紅梅がある、大宰府には道真公を慕って飛んできたといわれる「飛梅」(とびうめ)があり、毎年境内の梅に先駆けて開花する、大宰府では還暦を迎えて梅を献木すると厄払いし福を招くと言われ年々増えて、現在大宰府には200種6000本、北野には50種約1500本の梅が咲き誇る、また「牛」は、菅公が大宰府でお亡くなりになった際、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言に従い、御遺体を牛車で運ぶ途中で車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、この地に埋葬された所が太宰府天満宮となったという由来から、牛は天神さまのお使いとされている

  • 「楼門」(ろうもん)<br />楼門の扁額「文道大祖 風月本主」(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)は、学問・文学の祖、漢詩・和歌に長じた人という意味で、平安時代の学者が菅公を讃えた言葉

    「楼門」(ろうもん)
    楼門の扁額「文道大祖 風月本主」(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)は、学問・文学の祖、漢詩・和歌に長じた人という意味で、平安時代の学者が菅公を讃えた言葉

  • 楼門入り口に「史跡御土居もみじ苑」公開延長<br />11月9日(土)~12月8日(日)までの予定だったが、今年の紅葉は平年より10日遅れになっているので、12月15日(日)まで1週間延長の発表があった

    楼門入り口に「史跡御土居もみじ苑」公開延長
    11月9日(土)~12月8日(日)までの予定だったが、今年の紅葉は平年より10日遅れになっているので、12月15日(日)まで1週間延長の発表があった

  • 「楼門」から入って左手は「絵馬所」<br />江戸中期の1699年に建てられ、現存する中では最も古い絵馬堂で規模も最大級で、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)、在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(古今和歌集)などの織物三十六歌仙奉額や長谷川等伯などの絵馬が掛けられている、「猿まわし」の幟旗は、天満宮では昔から牛や馬を疫病から守るため猿回しをして厄災をサルことを祈っていたのが残っているのだという

    「楼門」から入って左手は「絵馬所」
    江戸中期の1699年に建てられ、現存する中では最も古い絵馬堂で規模も最大級で、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)、在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」(古今和歌集)などの織物三十六歌仙奉額や長谷川等伯などの絵馬が掛けられている、「猿まわし」の幟旗は、天満宮では昔から牛や馬を疫病から守るため猿回しをして厄災をサルことを祈っていたのが残っているのだという

  • 前の庭園は「船出の庭」<br />北野天満宮にもかつては庭園があって、江戸初期に俳諧の祖・松永貞徳によって妙満寺、清水寺それぞれの塔頭「成就院」に造営された「雪の庭」「月の庭」「花の庭」という「成就院・雪月花の三名園」と呼ばれた中の一つで、明治時代に成就院が廃寺となると壊されてしまっていたが、平成28年(2014)に道真の屋敷跡「紅梅殿」を再現し、翌年にその前に曲水庭園として「船出の庭」が作庭された

    前の庭園は「船出の庭」
    北野天満宮にもかつては庭園があって、江戸初期に俳諧の祖・松永貞徳によって妙満寺、清水寺それぞれの塔頭「成就院」に造営された「雪の庭」「月の庭」「花の庭」という「成就院・雪月花の三名園」と呼ばれた中の一つで、明治時代に成就院が廃寺となると壊されてしまっていたが、平成28年(2014)に道真の屋敷跡「紅梅殿」を再現し、翌年にその前に曲水庭園として「船出の庭」が作庭された

  • 「史跡御土居のもみじ苑」受付<br />毎年2~3月に公開される「梅苑」の受付もここになる、左手が「梅苑」で「もみじ苑」は直進

    「史跡御土居のもみじ苑」受付
    毎年2~3月に公開される「梅苑」の受付もここになる、左手が「梅苑」で「もみじ苑」は直進

  • (2022/03/17撮影)「梅苑」<br />菅原道真公ゆかりの梅50種約1,500本が咲き誇り、見ごたえがある

    (2022/03/17撮影)「梅苑」
    菅原道真公ゆかりの梅50種約1,500本が咲き誇り、見ごたえがある

  • 入苑料お菓子付き 1,200円

    入苑料お菓子付き 1,200円

  • 「もみじ苑のエントランス」<br />北野天満宮は菅原道真公がこよなく愛した「梅」のイメージしかなかったが、北野大茶会でご縁のある秀吉公が築いた「御土居」の跡に、このような立派な「紅葉」があるのを知ったのは、つい最近のこと!

    「もみじ苑のエントランス」
    北野天満宮は菅原道真公がこよなく愛した「梅」のイメージしかなかったが、北野大茶会でご縁のある秀吉公が築いた「御土居」の跡に、このような立派な「紅葉」があるのを知ったのは、つい最近のこと!

  • 「御土居」の上にある通路を進むと、眼下に「紙屋川」が流れて、高台から見下ろすように一面の紅葉が拡がり、下から見上げる紅葉とは又一味違う

    「御土居」の上にある通路を進むと、眼下に「紙屋川」が流れて、高台から見下ろすように一面の紅葉が拡がり、下から見上げる紅葉とは又一味違う

  • 「史跡御土居もみじ苑マップ」<br />絶景ポイントは、① 舞台から見下ろす紙屋川ともみじ ② 樹齢600年の大欅(けやき)③ 展望所から望む国宝ご本殿 ④ 鶯橋から眺める川面に映るもみじ ⑤ 樹齢400年の三叉のもみじ ⑥ 竹林ともみじの競演<br />

    「史跡御土居もみじ苑マップ」
    絶景ポイントは、① 舞台から見下ろす紙屋川ともみじ ② 樹齢600年の大欅(けやき)③ 展望所から望む国宝ご本殿 ④ 鶯橋から眺める川面に映るもみじ ⑤ 樹齢400年の三叉のもみじ ⑥ 竹林ともみじの競演

  • 「紙屋川」(天神川)<br />鷹峯から北野天満宮の西方を南流し吉祥院辺りで桂川に注ぐ、平安時代にはこの川のほとりで朝廷御用の紙を漉く紙座があったことに由来し、江戸時代からは北野天満宮の西側を流れていることから、中流から「天神川」と呼ばれる

    「紙屋川」(天神川)
    鷹峯から北野天満宮の西方を南流し吉祥院辺りで桂川に注ぐ、平安時代にはこの川のほとりで朝廷御用の紙を漉く紙座があったことに由来し、江戸時代からは北野天満宮の西側を流れていることから、中流から「天神川」と呼ばれる

  • 暫く進むと紅葉の合間に「茶室」が現れてくる

    暫く進むと紅葉の合間に「茶室」が現れてくる

  • 茶室「梅交軒」(ばいこうけん)<br />秀吉が催した「北野大茶会」で有名な「北野天満宮」には3軒の茶室があり、こちらは最近2012年に「老松」(おいまつ)さんの肝いりで再建された「梅交軒」で、紅葉を見ながらのお茶会も催される、他の茶室は、大鳥居を入ってすぐの「影向(ようごう)の松」向かいにある「松向軒」(しょうこうけん)と、東門を入って右手の「明月舎」(めいげつしゃ)

    茶室「梅交軒」(ばいこうけん)
    秀吉が催した「北野大茶会」で有名な「北野天満宮」には3軒の茶室があり、こちらは最近2012年に「老松」(おいまつ)さんの肝いりで再建された「梅交軒」で、紅葉を見ながらのお茶会も催される、他の茶室は、大鳥居を入ってすぐの「影向(ようごう)の松」向かいにある「松向軒」(しょうこうけん)と、東門を入って右手の「明月舎」(めいげつしゃ)

  • 「舞台」<br />「梅交軒」の周囲には、朱の欄干が美しい「舞台」があり、「舞台」の朱色と真っ赤な紅葉のコントラストが素晴らしい

    「舞台」
    「梅交軒」の周囲には、朱の欄干が美しい「舞台」があり、「舞台」の朱色と真っ赤な紅葉のコントラストが素晴らしい

  • 絶景ポイント①「舞台から見下ろす紙屋川ともみじ」<br />「御土居」の上に建つ舞台と「紙屋川」の間の高低差から見下ろす紅葉が眼下に拡がる

    絶景ポイント①「舞台から見下ろす紙屋川ともみじ」
    「御土居」の上に建つ舞台と「紙屋川」の間の高低差から見下ろす紅葉が眼下に拡がる

  • 「木の種類」で様々な色が混在して美しい<br />木によって色が違うのは葉の持っている成分が違うからで、赤色の色素が多いモミジやサクラなどは「紅葉」(こうよう)と呼ばれ赤くなり、黄色の色素が多いイチョウやポプラなどは「黄葉」(おうよう)と呼ばれ黄色になり、褐色の色素が多いケヤキやブナなどは「褐葉」(かつよう)と呼ばれ褐色になる

    「木の種類」で様々な色が混在して美しい
    木によって色が違うのは葉の持っている成分が違うからで、赤色の色素が多いモミジやサクラなどは「紅葉」(こうよう)と呼ばれ赤くなり、黄色の色素が多いイチョウやポプラなどは「黄葉」(おうよう)と呼ばれ黄色になり、褐色の色素が多いケヤキやブナなどは「褐葉」(かつよう)と呼ばれ褐色になる

  • 「同じ木でも」様々な色が混在して美しい<br />光があたる場所によって、強い光があたると色素が多く合成され赤くなり、光が弱かったりあたらないと色素は少ないので緑が残る、また老化が進んだ木は、早く色素が分解されて黄葉となるが、老化が遅れた木は緑が残り、1本の木でも若い葉と老化の葉が混在するので、全部が同時に紅葉することはなく、グラデュエーションが生まれる<br />

    「同じ木でも」様々な色が混在して美しい
    光があたる場所によって、強い光があたると色素が多く合成され赤くなり、光が弱かったりあたらないと色素は少ないので緑が残る、また老化が進んだ木は、早く色素が分解されて黄葉となるが、老化が遅れた木は緑が残り、1本の木でも若い葉と老化の葉が混在するので、全部が同時に紅葉することはなく、グラデュエーションが生まれる

  • 「紅葉」と「モミジ」と「カエデ」<br />「紅葉」と書いて「モミジ」と読む「モミジ」は、「紅葉」する木の代表としての総称、そのなかでも特に目立って紅葉する「カエデ」も「モミジ」と呼ばれ、ほぼ同じものだが、植物学的に見ると「モミジ」は「カエデ」の一種で「カエデ科」になり、「モミジ科」はない、「モミジ」は反物(たんもの)を植物の色素で染める「もみづ」に由来し、「カエデ」は蛙の手の形をしていることからの命名

    「紅葉」と「モミジ」と「カエデ」
    「紅葉」と書いて「モミジ」と読む「モミジ」は、「紅葉」する木の代表としての総称、そのなかでも特に目立って紅葉する「カエデ」も「モミジ」と呼ばれ、ほぼ同じものだが、植物学的に見ると「モミジ」は「カエデ」の一種で「カエデ科」になり、「モミジ科」はない、「モミジ」は反物(たんもの)を植物の色素で染める「もみづ」に由来し、「カエデ」は蛙の手の形をしていることからの命名

  • 日本の「紅葉」は素晴らしい<br />これほど真っ赤になる「紅葉」は日本以外では見られないが、その理由は、欧米の紅葉は殆ど黄色が多いのに対し、日本は紅葉の中でも特に真っ赤に色づく「イロハモミジ」と「ヤマモミジ」と「オオモミジ」の3種が国内のほぼすべての場所にあり、他にも紅葉する木の種類が多いので、多彩な色のコントラストが楽しめる、また日本の好適な気候条件だけでなく、平安の昔から紅葉狩りという紅葉を愛でる風習があり、 全国名所や神社などでは日本人ならではの手入れが行き届いているのも重要なこと

    日本の「紅葉」は素晴らしい
    これほど真っ赤になる「紅葉」は日本以外では見られないが、その理由は、欧米の紅葉は殆ど黄色が多いのに対し、日本は紅葉の中でも特に真っ赤に色づく「イロハモミジ」と「ヤマモミジ」と「オオモミジ」の3種が国内のほぼすべての場所にあり、他にも紅葉する木の種類が多いので、多彩な色のコントラストが楽しめる、また日本の好適な気候条件だけでなく、平安の昔から紅葉狩りという紅葉を愛でる風習があり、 全国名所や神社などでは日本人ならではの手入れが行き届いているのも重要なこと

  • すぐ隣には、「欅」(けやき)の大木もある

    すぐ隣には、「欅」(けやき)の大木もある

  • 「褐葉」(かつよう)の褐色と真っ赤な「紅葉」の対比が素晴らしい

    「褐葉」(かつよう)の褐色と真っ赤な「紅葉」の対比が素晴らしい

  • 御土居の大欅(けやき)「東風」(こち)<br />「秀吉公が御土居を築いた1591年からあり樹齢600年、京の地より天高く大宰府へ「東風」を吹かせ続けています」(駒札)道真が太宰府に左遷される前に梅の木を前に詠んだ和歌「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花  あるじなしとて 春を忘るな」(拾遺和歌集)に結び付けた感じ

    御土居の大欅(けやき)「東風」(こち)
    「秀吉公が御土居を築いた1591年からあり樹齢600年、京の地より天高く大宰府へ「東風」を吹かせ続けています」(駒札)道真が太宰府に左遷される前に梅の木を前に詠んだ和歌「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花  あるじなしとて 春を忘るな」(拾遺和歌集)に結び付けた感じ

  • 絶景ポイント②「樹齢600年の大欅(けやき)」<br />「欅」のこれだけ奇麗な褐色は初めて見た、素晴らしい! 語源の「けやけき」は目立つ・ひときわ優れているという意で、最良の木材として活用されコストも高い

    絶景ポイント②「樹齢600年の大欅(けやき)」
    「欅」のこれだけ奇麗な褐色は初めて見た、素晴らしい! 語源の「けやけき」は目立つ・ひときわ優れているという意で、最良の木材として活用されコストも高い

  • この辺りは「御土居」の頂点<br />「御土居 」(おどい)」は、秀吉公が1591年、京の都市改造の一環として、外敵防御と鴨川堤防の目的で、洛外・洛中の境界となる市内四囲23kmにわたって築いた土塁で、史跡指定されている9ヶ所の内、特に北野天満宮の御土居は平安京の北西 (乾) にあたり最も重要な箇所とされている

    この辺りは「御土居」の頂点
    「御土居 」(おどい)」は、秀吉公が1591年、京の都市改造の一環として、外敵防御と鴨川堤防の目的で、洛外・洛中の境界となる市内四囲23kmにわたって築いた土塁で、史跡指定されている9ヶ所の内、特に北野天満宮の御土居は平安京の北西 (乾) にあたり最も重要な箇所とされている

  • 秀吉公ゆかりの歴史的遺構である「御土居」が残る境内の西側一帯は、長らく自然林のままだったが、自生のものと後に植林されたものを含め現在350本の紅葉がある

    秀吉公ゆかりの歴史的遺構である「御土居」が残る境内の西側一帯は、長らく自然林のままだったが、自生のものと後に植林されたものを含め現在350本の紅葉がある

  • 「史跡御土居のもみじ」菅公御歌歌碑<br />「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」 これは道真を重用した朱雀院 (宇多上皇) が大和地方に旅した折に随行した道真が詠んだ歌で古今集と小倉百人一首に撰された、「たび」は度と旅、「ぬさ」は道中の道祖神に捧げ旅の無事を祈った神への捧(ささ)げ物、「手向山」は手向 け(供えること)をする山で固有名詞ではない「手向山八幡宮への突然の参拝に、お供物を準備することもできませんが、手向山の美しい錦のような紅葉をお手向けしますので、神のお心のままにお受け取りください」という意味(説明板)

    「史跡御土居のもみじ」菅公御歌歌碑
    「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」 これは道真を重用した朱雀院 (宇多上皇) が大和地方に旅した折に随行した道真が詠んだ歌で古今集と小倉百人一首に撰された、「たび」は度と旅、「ぬさ」は道中の道祖神に捧げ旅の無事を祈った神への捧(ささ)げ物、「手向山」は手向 け(供えること)をする山で固有名詞ではない「手向山八幡宮への突然の参拝に、お供物を準備することもできませんが、手向山の美しい錦のような紅葉をお手向けしますので、神のお心のままにお受け取りください」という意味(説明板)

  • 眼下には「紙屋川」と朱の橋が見える

    眼下には「紙屋川」と朱の橋が見える

  • 「展望所」<br />展望所から紅葉越しに「北野天満宮」社殿を望むことができる

    「展望所」
    展望所から紅葉越しに「北野天満宮」社殿を望むことができる

  • 絶景ポイント③「展望所から望む国宝ご本殿」<br />国宝に指定されている絢爛豪華な御本殿や三光門など、寺社建築と紅葉とのコラボレーションはこの時期にしか味わえない *「本殿」は、秀吉公の遺命により1607年豊臣秀頼により造営され、東西と西に配した拝殿と脇殿の間を石の間で連絡した「八棟造」という神社建築の主流である「権現造」の原型となった桃山建築の代表的遺構で、建築造営当時の規模そのままに保存されている

    絶景ポイント③「展望所から望む国宝ご本殿」
    国宝に指定されている絢爛豪華な御本殿や三光門など、寺社建築と紅葉とのコラボレーションはこの時期にしか味わえない *「本殿」は、秀吉公の遺命により1607年豊臣秀頼により造営され、東西と西に配した拝殿と脇殿の間を石の間で連絡した「八棟造」という神社建築の主流である「権現造」の原型となった桃山建築の代表的遺構で、建築造営当時の規模そのままに保存されている

  • 「イチョウ」と紅葉のコラボ<br />ここでは「黄葉」(おうよう)と呼ばれる、「イチョウ」や「ポプラ」の黄色が鮮やか!

    「イチョウ」と紅葉のコラボ
    ここでは「黄葉」(おうよう)と呼ばれる、「イチョウ」や「ポプラ」の黄色が鮮やか!

  • 左手「イチョウ」の下は北側「摂末社」(せつまっしゃ)<br />「イチョウ」や「ポプラ」が黄色くなるのは、葉に含まれる緑色の色素が秋になって気温が下がると弱まり、それまで隠れていた黄色の色素が目立つようになるためで、日がよく当たる木の上部や外側の葉は早く「黄葉」し、日陰になると遅くなる

    左手「イチョウ」の下は北側「摂末社」(せつまっしゃ)
    「イチョウ」や「ポプラ」が黄色くなるのは、葉に含まれる緑色の色素が秋になって気温が下がると弱まり、それまで隠れていた黄色の色素が目立つようになるためで、日がよく当たる木の上部や外側の葉は早く「黄葉」し、日陰になると遅くなる

  • 「本殿」に続く右手が「西回廊」で、その奥の屋根が「三光門」

    「本殿」に続く右手が「西回廊」で、その奥の屋根が「三光門」

  • 何色あるのか、分からないカラフルな光景は、今しか見れない光景で素晴らしい!

    何色あるのか、分からないカラフルな光景は、今しか見れない光景で素晴らしい!

  • 「御土居」の高台から下の「紙屋川」に降りる

    「御土居」の高台から下の「紙屋川」に降りる

  • 「紙屋川」に出る突き当りの「紫色」が真っ赤な「紅葉」に溶け込んで、神聖な雰囲気を醸し出す

    「紙屋川」に出る突き当りの「紫色」が真っ赤な「紅葉」に溶け込んで、神聖な雰囲気を醸し出す

  • この「紫と白」の仮設幕は、「朽木幕」(くちきまく)と言うそうで、仏教でよく見る白黒の幕に対して神道でよく用いられ、朽ちた木のような模様になって、草木が枯れて土に還り、やがて新たな生命の芽生えとなる自然の循環を表しているという、奥深い!

    この「紫と白」の仮設幕は、「朽木幕」(くちきまく)と言うそうで、仏教でよく見る白黒の幕に対して神道でよく用いられ、朽ちた木のような模様になって、草木が枯れて土に還り、やがて新たな生命の芽生えとなる自然の循環を表しているという、奥深い!

  • 「和魂漢才の碑」(わこんかんさいのひ)<br />(説明板)この碑は明治維新前の1856年、菅原道真が唱えたという公家で守るべきことをまとめた「菅家遺誡」(カンケイカイ;遺訓)にある「和魂漢才」の語が当時国学者の間で流行語になっていたことから、これを使い、勤王の志士たちを支援する学者や志士によって、漢学に精通しつつも日本精神を失わないようにという意味で建立されたもので、この言葉が道真公の学識と教学を的確に表していることから全国各地の天満宮で建てられていることが多い

    「和魂漢才の碑」(わこんかんさいのひ)
    (説明板)この碑は明治維新前の1856年、菅原道真が唱えたという公家で守るべきことをまとめた「菅家遺誡」(カンケイカイ;遺訓)にある「和魂漢才」の語が当時国学者の間で流行語になっていたことから、これを使い、勤王の志士たちを支援する学者や志士によって、漢学に精通しつつも日本精神を失わないようにという意味で建立されたもので、この言葉が道真公の学識と教学を的確に表していることから全国各地の天満宮で建てられていることが多い

  • 「御土居」は「紙屋川」の土手にもなっていて、川沿いに散策路が続く

    「御土居」は「紙屋川」の土手にもなっていて、川沿いに散策路が続く

  • 「椿」もひっそりと存在感を示す

    「椿」もひっそりと存在感を示す

  • 散策路沿いも紅葉だらけで、「御土居」沿いも紅葉を見上げながら歩くと、又雰囲気が異なる

    散策路沿いも紅葉だらけで、「御土居」沿いも紅葉を見上げながら歩くと、又雰囲気が異なる

  • 「悪水抜き」(あくすいぬき)<br />途中に説明版が2つあり、「悪水抜き」は、「御土居」の内側から外側への排水を遮って雨水などが境内を浸さないよう、御土居の下に全長19.3mの切石暗渠(地下の導水路)を設けているもので、その跡が発見されている

    「悪水抜き」(あくすいぬき)
    途中に説明版が2つあり、「悪水抜き」は、「御土居」の内側から外側への排水を遮って雨水などが境内を浸さないよう、御土居の下に全長19.3mの切石暗渠(地下の導水路)を設けているもので、その跡が発見されている

  • 「版築工法」(はんちくこうほう)<br />長年の風雨で浸食された紙屋川の河岸段丘部分を復旧するために、板で枠を造り土を入れて何度も叩き上げ、層を積み重ねていく特に浸食に強い工法で、古代から堅牢な土塁や城壁、寺院、墳墓等に広く用いられる

    「版築工法」(はんちくこうほう)
    長年の風雨で浸食された紙屋川の河岸段丘部分を復旧するために、板で枠を造り土を入れて何度も叩き上げ、層を積み重ねていく特に浸食に強い工法で、古代から堅牢な土塁や城壁、寺院、墳墓等に広く用いられる

  • 「紙屋川」に架かる朱塗りの橋が見えてくる

    「紙屋川」に架かる朱塗りの橋が見えてくる

  • 「紙屋川」に架かる朱塗りの太鼓橋周辺は、橋の上の紅葉と、散策路に落ちた紅葉と、川に落ちた紅葉が鮮やかに映る

    「紙屋川」に架かる朱塗りの太鼓橋周辺は、橋の上の紅葉と、散策路に落ちた紅葉と、川に落ちた紅葉が鮮やかに映る

  • 絶景ポイント④「鶯橋から眺める川面に映るもみじ」<br />紙屋川にかかる朱塗りの太鼓橋は「鶯橋」と呼ばれ、「紙屋川」にかかる多様な色の紅葉と、川に落ちた紅葉を一望できる

    絶景ポイント④「鶯橋から眺める川面に映るもみじ」
    紙屋川にかかる朱塗りの太鼓橋は「鶯橋」と呼ばれ、「紙屋川」にかかる多様な色の紅葉と、川に落ちた紅葉を一望できる

  • 「鶯橋」(うぐいすばし)<br />(駒札)文字通りこの辺りを鶯が囀(さえず)ることに由来し、昭和8年に少し上流に架けられたが、昭和10年の豪雨で流失し、その親柱のみが現在の場所辺りに流れ着いていて、平成19年「史蹟御土居の紅葉苑」開苑に際し、木製太鼓橋として再建したものである

    「鶯橋」(うぐいすばし)
    (駒札)文字通りこの辺りを鶯が囀(さえず)ることに由来し、昭和8年に少し上流に架けられたが、昭和10年の豪雨で流失し、その親柱のみが現在の場所辺りに流れ着いていて、平成19年「史蹟御土居の紅葉苑」開苑に際し、木製太鼓橋として再建したものである

  • 順番待ちになるほどの撮影スポット

    順番待ちになるほどの撮影スポット

  • 絶景なるかな、「紅葉筏」(もみじいかだ)<br />桜の「花筏」(はないかだ)は良く聞くが、秋の「紅葉筏」はあまり聞かない、琵琶湖疎水の「紅葉筏」はよく流れる

    絶景なるかな、「紅葉筏」(もみじいかだ)
    桜の「花筏」(はないかだ)は良く聞くが、秋の「紅葉筏」はあまり聞かない、琵琶湖疎水の「紅葉筏」はよく流れる

  • 絶景なるかな、「散り紅葉」(ちりもみじ)<br />桜の「散り桜」はあまり聞かないが、紅葉の「散りもみじ」は風流がある、桜は「零れ桜」(こぼれざくら)、「桜吹雪」(さくらふぶき)、「花散らし」など、梅は「こぼれる」、牡丹は「崩れる」、椿は「落ちる」、朝顔は「しぼむ」、菊は「舞う」など日本語は面白い

    絶景なるかな、「散り紅葉」(ちりもみじ)
    桜の「散り桜」はあまり聞かないが、紅葉の「散りもみじ」は風流がある、桜は「零れ桜」(こぼれざくら)、「桜吹雪」(さくらふぶき)、「花散らし」など、梅は「こぼれる」、牡丹は「崩れる」、椿は「落ちる」、朝顔は「しぼむ」、菊は「舞う」など日本語は面白い

  • 橋を渡り、対岸からの角度になると、また趣きが変わる

    橋を渡り、対岸からの角度になると、また趣きが変わる

  • ベンチのところに樹齢400年のもみじ

    ベンチのところに樹齢400年のもみじ

  • 絶景ポイント⑤「樹齢400年の三叉のもみじ」<br />(駒札)この紅葉は、1591年に秀吉公が御土居を築造する以前より自生していたと伝わり、幹が根元から3つに分かれていることから「三叉の紅葉」と呼ばれ、この神苑の中でも一際大きい、度々氾濫を起こしても耐え抜いてきたが、令和5年8月の台風7号により倒木の被害を受け、現在では1本の幹を残すのみとなった

    絶景ポイント⑤「樹齢400年の三叉のもみじ」
    (駒札)この紅葉は、1591年に秀吉公が御土居を築造する以前より自生していたと伝わり、幹が根元から3つに分かれていることから「三叉の紅葉」と呼ばれ、この神苑の中でも一際大きい、度々氾濫を起こしても耐え抜いてきたが、令和5年8月の台風7号により倒木の被害を受け、現在では1本の幹を残すのみとなった

  • 京都の「紅葉」が鮮やかなのは盆地特有の寒暖差が大きいから<br />紅葉は最低気温が 8℃を下回ると始まり、5~6℃で急速に進み、一気に気温が下がるほど紅葉は鮮やかになる、気温が高いとなかなか紅葉が始まらないので、温暖化になると紅葉は遅くなり、ピ-クが20年前の11月10日頃が最近では11月23日頃になり、今年はさらに10日遅れとなっているので、温暖化の影響は至る所で深刻

    京都の「紅葉」が鮮やかなのは盆地特有の寒暖差が大きいから
    紅葉は最低気温が 8℃を下回ると始まり、5~6℃で急速に進み、一気に気温が下がるほど紅葉は鮮やかになる、気温が高いとなかなか紅葉が始まらないので、温暖化になると紅葉は遅くなり、ピ-クが20年前の11月10日頃が最近では11月23日頃になり、今年はさらに10日遅れとなっているので、温暖化の影響は至る所で深刻

  • 手入れはしていると思うが、手入れの行き届いた寺院の庭園と、山紅葉(やまもみじ)の多い自然のままの嵐山などの両方の魅力があり、素晴らしい!

    手入れはしていると思うが、手入れの行き届いた寺院の庭園と、山紅葉(やまもみじ)の多い自然のままの嵐山などの両方の魅力があり、素晴らしい!

  • 夜のライトアップも素晴らしいと思うが、太陽に照らされた紅葉は自然のままで美しい!

    夜のライトアップも素晴らしいと思うが、太陽に照らされた紅葉は自然のままで美しい!

  • 絶景ポイント⑥「竹林ともみじの競演」<br />竹林に紅葉は合う

    絶景ポイント⑥「竹林ともみじの競演」
    竹林に紅葉は合う

  • 竹は「若竹色」(黄緑)とか「青竹色」(青)、「老竹色」(黄)と、成長に応じて色が変わるが、秋の時期が一番美しいらしい

    竹は「若竹色」(黄緑)とか「青竹色」(青)、「老竹色」(黄)と、成長に応じて色が変わるが、秋の時期が一番美しいらしい

  • 散策路は奥の木橋でユーターンして対岸に戻る

    散策路は奥の木橋でユーターンして対岸に戻る

  • 対岸は途中まで通行禁止にしているから、「散り紅葉」が美しい!

    対岸は途中まで通行禁止にしているから、「散り紅葉」が美しい!

  • ここには「梅林」もある

    ここには「梅林」もある

  • 再び「御土居」に上がると、眼下に見下ろした紅葉が拡がる

    再び「御土居」に上がると、眼下に見下ろした紅葉が拡がる

  • 「まっかな秋」を満喫!<br />まっかだな まっかだな つたのはっぱが まっかだな もみじのはっぱも まっかだな

    「まっかな秋」を満喫!
    まっかだな まっかだな つたのはっぱが まっかだな もみじのはっぱも まっかだな

  • 「もみじ苑お茶処」<br />京都の老舗「老松」(おいまつ)の和菓子とお茶がいただける

    「もみじ苑お茶処」
    京都の老舗「老松」(おいまつ)の和菓子とお茶がいただける

  • お茶菓子「北野大茶湯」(きたのおおちゃのゆ)<br />利休が考案したと伝わる「麩の焼」を再現したお菓子で、白味噌ベースのあんに山椒風味の餅をほうじ茶と一緒に食べると美味しい!「老松」は、明治41年(1908)上七軒で創業した和菓子屋で、平安時代から朝廷の茶道に用いる菓子を手がけた流れを汲み、北野天満宮の第一摂社「老松社」に由来する

    お茶菓子「北野大茶湯」(きたのおおちゃのゆ)
    利休が考案したと伝わる「麩の焼」を再現したお菓子で、白味噌ベースのあんに山椒風味の餅をほうじ茶と一緒に食べると美味しい!「老松」は、明治41年(1908)上七軒で創業した和菓子屋で、平安時代から朝廷の茶道に用いる菓子を手がけた流れを汲み、北野天満宮の第一摂社「老松社」に由来する

  • せっかくだから「本殿」にも参拝する

    せっかくだから「本殿」にも参拝する

  • 「三光門」(さんこうもん)(国宝)<br />1607年豊臣秀頼公により本殿と同時に造営された中門で、後西天皇(ごさいてんのう1637-1685)直筆の勅額「天満宮」を掲げる、日・月・星の彫刻があることから「三光門」と呼ばれ、実際には星はないので「星欠けの三光門」とも呼ばれるが、真上に北極星が輝いていたのが理由らしい

    「三光門」(さんこうもん)(国宝)
    1607年豊臣秀頼公により本殿と同時に造営された中門で、後西天皇(ごさいてんのう1637-1685)直筆の勅額「天満宮」を掲げる、日・月・星の彫刻があることから「三光門」と呼ばれ、実際には星はないので「星欠けの三光門」とも呼ばれるが、真上に北極星が輝いていたのが理由らしい

  • 「本殿」(国宝)<br />御祭神菅公をお祀りする御本殿、1607年豊臣秀頼により建立され、本殿、拝殿、石の間、楽の間を連結した日本最古の八棟造で、桃山文化の色濃い装飾が豪華

    「本殿」(国宝)
    御祭神菅公をお祀りする御本殿、1607年豊臣秀頼により建立され、本殿、拝殿、石の間、楽の間を連結した日本最古の八棟造で、桃山文化の色濃い装飾が豪華

  • 「地主社」(じぬししゃ)<br />「北野天満宮」第一の摂社で、摂社の中でも朱塗りの社殿が一際際立つが、管公ご生誕以前よりあった最も古い神社で、この場所を借りて「北野天満宮」を建てたという *「清水寺」では「じしゅじんじゃ」

    「地主社」(じぬししゃ)
    「北野天満宮」第一の摂社で、摂社の中でも朱塗りの社殿が一際際立つが、管公ご生誕以前よりあった最も古い神社で、この場所を借りて「北野天満宮」を建てたという *「清水寺」では「じしゅじんじゃ」

  • 「今出川通・北野天満宮前」交差点に出る

    「今出川通・北野天満宮前」交差点に出る

  • 正面「上京警察署」の右側が「御前通」で、その右手が「とようけ茶屋」

    正面「上京警察署」の右側が「御前通」で、その右手が「とようけ茶屋」

  • 13:00 ランチ「とようけ茶屋」<br />明治30年(1897)に北野天満宮の門前町で創業した老舗豆腐店[とようけ屋山本]が、平成4年(1992)にオープンした豆腐料理店、伊勢神宮の食物を司る「豊宇気昆売神」(とようけびめのかみ)に由来

    13:00 ランチ「とようけ茶屋」
    明治30年(1897)に北野天満宮の門前町で創業した老舗豆腐店[とようけ屋山本]が、平成4年(1992)にオープンした豆腐料理店、伊勢神宮の食物を司る「豊宇気昆売神」(とようけびめのかみ)に由来

  • 行列必至の人気店だが、10分待ちくらいで入店<br />豆腐には「木綿豆腐」と「絹豆腐」があり、一般的に木綿が固く、絹は柔らかいが、「とようけ茶屋」の御主人は、ニガリでコクのある柔らかい食感の「ニガリ絹豆腐」を作って、これを食べてもらいたいと思って「湯豆腐ご膳」を作ったという *「木綿豆腐」は、豆乳にニガリを加えて固め一度崩してから押し固めたもの、「絹豆腐」は、豆乳にニガリを加えてそのまま固めたもの

    行列必至の人気店だが、10分待ちくらいで入店
    豆腐には「木綿豆腐」と「絹豆腐」があり、一般的に木綿が固く、絹は柔らかいが、「とようけ茶屋」の御主人は、ニガリでコクのある柔らかい食感の「ニガリ絹豆腐」を作って、これを食べてもらいたいと思って「湯豆腐ご膳」を作ったという *「木綿豆腐」は、豆乳にニガリを加えて固め一度崩してから押し固めたもの、「絹豆腐」は、豆乳にニガリを加えてそのまま固めたもの

  • 定番の「湯豆腐膳」を注文<br />銀杏・百合根・きくらげ・人参の入った「ひろうす」が美味しかった<br />湯豆腐、がんもどき(ひろうす)、黒豆湯葉、甘湯葉、おぼろ豆腐、きゅうりと油揚げとみょうがの酢の物、香の物、ごはん

    定番の「湯豆腐膳」を注文
    銀杏・百合根・きくらげ・人参の入った「ひろうす」が美味しかった
    湯豆腐、がんもどき(ひろうす)、黒豆湯葉、甘湯葉、おぼろ豆腐、きゅうりと油揚げとみょうがの酢の物、香の物、ごはん

  • サービスで「冷奴」と「プリンみたいな豆腐」に黒蜜のかかったデザートが出て、豆腐を満喫

    サービスで「冷奴」と「プリンみたいな豆腐」に黒蜜のかかったデザートが出て、豆腐を満喫

  • 「北野天満宮」正面(南側)の「今出川通」対面から「御前通」再開<br />「御前通」の名前は、「北野天満宮」の前(東側)を通ることに由来

    「北野天満宮」正面(南側)の「今出川通」対面から「御前通」再開
    「御前通」の名前は、「北野天満宮」の前(東側)を通ることに由来

  • この辺りの住所は、「馬喰町」(ばくろちょう)<br />北野天満宮東側(現在の駐車場辺り)は、菅原道真公の馬場があった所で、「馬喰」(ばくろ)という、馬のよしあしを見たり、馬の病を治療する人、あるいは牛馬の売買、仲介をする人が多く住んでいたという

    この辺りの住所は、「馬喰町」(ばくろちょう)
    北野天満宮東側(現在の駐車場辺り)は、菅原道真公の馬場があった所で、「馬喰」(ばくろ)という、馬のよしあしを見たり、馬の病を治療する人、あるいは牛馬の売買、仲介をする人が多く住んでいたという

  • 「京都佛立ミュージアム」(ぶつりゅうみゅーじあむ)<br />日蓮を宗祖とする法華系仏教の「本門佛立宗」(ほんもんぶつりゅうしゅう)が運営している施設で、御前通向かいの空き地の先に見える「宥清寺」(ゆうせいじ)を本山とする、昭和21年(1946)法華宗から独立し、平成24年(2012)仏教の教えやメッセージを伝え、地域の交流の場として開館した

    「京都佛立ミュージアム」(ぶつりゅうみゅーじあむ)
    日蓮を宗祖とする法華系仏教の「本門佛立宗」(ほんもんぶつりゅうしゅう)が運営している施設で、御前通向かいの空き地の先に見える「宥清寺」(ゆうせいじ)を本山とする、昭和21年(1946)法華宗から独立し、平成24年(2012)仏教の教えやメッセージを伝え、地域の交流の場として開館した

  • 「新建石鳥居碑」 (しんけんいしとりいのひ)<br />北野天満宮「一の鳥居」は、大正10年(1921)この地域の有志でこの地に寄進され、この碑もこれを記念して鳥居の横に建てられたが、鳥居は1966年西陣警察署(現上京警察署)が移転してきた時、現在の場所に移設されたので、この碑だけが残っているのだという、碑には「わたしたちは先祖からこの地に住み、神の徳に報いたいという気持ちが非常に強い、そこで鳥居を建てて奉納することを計画し、みごとな石材を木曽の山中で見つけ、鉄道や車で運びこみ、一年をかけて完成した。その有志の名を列挙し後世の人に伝えたい」と書いてあるらしいが、当時の京都人の心意気には驚愕するばかりである

    「新建石鳥居碑」 (しんけんいしとりいのひ)
    北野天満宮「一の鳥居」は、大正10年(1921)この地域の有志でこの地に寄進され、この碑もこれを記念して鳥居の横に建てられたが、鳥居は1966年西陣警察署(現上京警察署)が移転してきた時、現在の場所に移設されたので、この碑だけが残っているのだという、碑には「わたしたちは先祖からこの地に住み、神の徳に報いたいという気持ちが非常に強い、そこで鳥居を建てて奉納することを計画し、みごとな石材を木曽の山中で見つけ、鉄道や車で運びこみ、一年をかけて完成した。その有志の名を列挙し後世の人に伝えたい」と書いてあるらしいが、当時の京都人の心意気には驚愕するばかりである

  • (一条通)<br />烏丸通から、 妙心寺の裏を通り、花園付近から嵯峨野の清凉寺までで、「平安京」ではここから南が「洛中」

    (一条通)
    烏丸通から、 妙心寺の裏を通り、花園付近から嵯峨野の清凉寺までで、「平安京」ではここから南が「洛中」

  • この先に「大将軍八神社」があり、「大将軍商店街」になっている

    この先に「大将軍八神社」があり、「大将軍商店街」になっている

  • 「大将軍商店街」は愛称「妖怪ストリート」と呼ばれる

    「大将軍商店街」は愛称「妖怪ストリート」と呼ばれる

  • 「妖怪ストリート」<br />この辺りは、正月に不要になり捨てられたものが妖怪となって歩き周ったと言う「百鬼夜行」(ひゃっきやぎょう)の伝承が残っていることから、商店街の活性化の一環として「妖怪ストリート」と名付けた様々なイベントを行っている

    「妖怪ストリート」
    この辺りは、正月に不要になり捨てられたものが妖怪となって歩き周ったと言う「百鬼夜行」(ひゃっきやぎょう)の伝承が残っていることから、商店街の活性化の一環として「妖怪ストリート」と名付けた様々なイベントを行っている

  • 「一条百鬼夜行」<br />毎年10月、大将軍八神社の例祭前夜に、妖怪たちがよみがえり「妖怪仮装行列」を開催する、当日は全国から様々な作家が集まって妖怪グッズを販売する、妖怪アートフリーマーケット「モノノケ市」が開催され、妖怪で溢れる

    「一条百鬼夜行」
    毎年10月、大将軍八神社の例祭前夜に、妖怪たちがよみがえり「妖怪仮装行列」を開催する、当日は全国から様々な作家が集まって妖怪グッズを販売する、妖怪アートフリーマーケット「モノノケ市」が開催され、妖怪で溢れる

  • 「大将軍八神社」(だいしょうぐんはち)<br />794年平安遷都の際、桓武天皇が王城鎮護のために都の方位守護神として北西の角の地に置かれたのが始まりで洛中の北の要所となり、大将軍を祀る神社の中でも最も大きい「大将軍社」といわれる、「大将軍」とは方位を司る陰陽道の星神天大将軍で、大将軍八神社の「八」は、江戸中期に暦に関わる八柱の神様(暦神八神)と、スサノオノミコトとその御子八神が合祀されてから「八」の字が付け加えられた

    「大将軍八神社」(だいしょうぐんはち)
    794年平安遷都の際、桓武天皇が王城鎮護のために都の方位守護神として北西の角の地に置かれたのが始まりで洛中の北の要所となり、大将軍を祀る神社の中でも最も大きい「大将軍社」といわれる、「大将軍」とは方位を司る陰陽道の星神天大将軍で、大将軍八神社の「八」は、江戸中期に暦に関わる八柱の神様(暦神八神)と、スサノオノミコトとその御子八神が合祀されてから「八」の字が付け加えられた

  • 「大将軍八神社」本殿<br />本殿前に星の台座になっている八角形の八文字が刻まれた石のモニュメントがあるが、これは中国の易や風水で用いられる「八卦」(はっけ)を表し、これによると「大将軍」は北西の方角を守護する神様で、北東の「鬼門」に対して北西の「天門」は怨霊や災いが入ってくる方位になり、これを犯すと厳しい咎めや災いを受けるといわれたため、古くから非常に恐れられ、天皇家や貴族達は何かにつけ天文学の専門家である陰陽師に頼んで、「大将軍」のいる方位にあたらないかどうかを調べてもらっていた、その為京都にある神社の多くは、創建当初とは別の場所に移されているが、「大将軍八神社」だけは神社の位置が大切であることから場所を変えていない

    「大将軍八神社」本殿
    本殿前に星の台座になっている八角形の八文字が刻まれた石のモニュメントがあるが、これは中国の易や風水で用いられる「八卦」(はっけ)を表し、これによると「大将軍」は北西の方角を守護する神様で、北東の「鬼門」に対して北西の「天門」は怨霊や災いが入ってくる方位になり、これを犯すと厳しい咎めや災いを受けるといわれたため、古くから非常に恐れられ、天皇家や貴族達は何かにつけ天文学の専門家である陰陽師に頼んで、「大将軍」のいる方位にあたらないかどうかを調べてもらっていた、その為京都にある神社の多くは、創建当初とは別の場所に移されているが、「大将軍八神社」だけは神社の位置が大切であることから場所を変えていない

  • 「京都市立仁和小学校」(にんなしょうがっこう)<br />明治2年(1869)京都で開校した64の番組小学校のうち、2つの小学校を統合して設立された、校名は現在の小学校地が仁和寺新堂の跡地であったことに由来し、この前の通りの「仁和寺街道」の由来でもある

    「京都市立仁和小学校」(にんなしょうがっこう)
    明治2年(1869)京都で開校した64の番組小学校のうち、2つの小学校を統合して設立された、校名は現在の小学校地が仁和寺新堂の跡地であったことに由来し、この前の通りの「仁和寺街道」の由来でもある

  • 「仏立教育専門学校」(ぶつりゅうきょういくせんもんがっこう)<br />北野天満宮近くにあった、日蓮を宗祖とする「本門佛立宗」(ほんもんぶつりゅうしゅう)の僧侶を育成する全寮制の学校で、宗門の要職として指導力を発揮している

    「仏立教育専門学校」(ぶつりゅうきょういくせんもんがっこう)
    北野天満宮近くにあった、日蓮を宗祖とする「本門佛立宗」(ほんもんぶつりゅうしゅう)の僧侶を育成する全寮制の学校で、宗門の要職として指導力を発揮している

  • (仁和寺街道)<br />千本通から一筋東の浄福寺通から妙心寺手前の馬代通まで、名前の由来は、現在仁和小学校のある場所が仁和寺門跡2世の仁和寺新堂の跡地であったから<br />

    (仁和寺街道)
    千本通から一筋東の浄福寺通から妙心寺手前の馬代通まで、名前の由来は、現在仁和小学校のある場所が仁和寺門跡2世の仁和寺新堂の跡地であったから

  • 「京やさい佐伯・旬野菜直売所」<br />露地栽培と有機農業にこだわる農家の直売所で、聖護院かぶ、だいこん、九条ねぎなど新鮮!

    「京やさい佐伯・旬野菜直売所」
    露地栽培と有機農業にこだわる農家の直売所で、聖護院かぶ、だいこん、九条ねぎなど新鮮!

  • 「導故寺」(どうこじ)<br />ユニークな名前なので由来を調べたが、江戸時代創建の曹洞宗のお寺という以外は不明

    「導故寺」(どうこじ)
    ユニークな名前なので由来を調べたが、江戸時代創建の曹洞宗のお寺という以外は不明

  • 「おんまえどおり」ケアセンター

    「おんまえどおり」ケアセンター

  • みたらし本舗「茶月」<br />京都市内を中心に全国にみたらし団子を冷凍して卸している「みたらし団子専門店」で、店舗も松尾大社と嵯峨野にある<br />

    みたらし本舗「茶月」
    京都市内を中心に全国にみたらし団子を冷凍して卸している「みたらし団子専門店」で、店舗も松尾大社と嵯峨野にある

  • 七味とうがらし「六兵衛」<br />130有余年の歴史をもつ唐辛子やさんで、現在3代目の店主が一子相伝で、7つの素材をすり鉢で手作りで七味唐辛子の調合を継承している、この建物も130年余りの歴史を持ち歴史的建造物に指定され、建物内には古井戸やおくどさんがあって、今でも日常生活で使っている

    七味とうがらし「六兵衛」
    130有余年の歴史をもつ唐辛子やさんで、現在3代目の店主が一子相伝で、7つの素材をすり鉢で手作りで七味唐辛子の調合を継承している、この建物も130年余りの歴史を持ち歴史的建造物に指定され、建物内には古井戸やおくどさんがあって、今でも日常生活で使っている

  • (丸太町通)「京都市立朱雀第2小学校」(すざくだいにしょうがっこう)<br />明治45年(1912)朱雀野第二尋常小学校として創立し、昭和22年(1947)京都市立朱雀第二小学校に改称、「丸太町通」は、東山銀閣寺近くの鹿ヶ谷通から嵯峨嵐山まで、西堀川界隈に丸太の材木屋が多かったことに由来

    (丸太町通)「京都市立朱雀第2小学校」(すざくだいにしょうがっこう)
    明治45年(1912)朱雀野第二尋常小学校として創立し、昭和22年(1947)京都市立朱雀第二小学校に改称、「丸太町通」は、東山銀閣寺近くの鹿ヶ谷通から嵯峨嵐山まで、西堀川界隈に丸太の材木屋が多かったことに由来

  • 「藻壁門跡」(そうへきもんあと)<br />平安京十二門の一つで、平安宮大内裏西端の南から二番目の門、大内裏は天皇の住まいで儀式や執務などを行う宮殿

    「藻壁門跡」(そうへきもんあと)
    平安京十二門の一つで、平安宮大内裏西端の南から二番目の門、大内裏は天皇の住まいで儀式や執務などを行う宮殿

  • 「平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡」(源氏物語ゆかりの地)<br />藻壁門を入ってすぐの東南に「左馬寮」(さまりょう)があり、さらに東へ進むと「豊楽院」「朝堂院」の北端に至る(「豊楽院」(ぶらくいん)は朝廷の饗宴に使う施設、「朝堂院」(ちょうどういん)は早朝の朝政や朝拝、饗宴などの国儀大礼を行う施設)。「左馬寮」は、南にある右馬寮とともに宮中の馬の飼育・調教や馬具、及び諸国の牧(まき)を管理する役所で、その長官を左馬頭(さまのかみ)と呼んだ。「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)では「雨夜の品定め」の場面に、光源氏や頭中将とともに女性談議に興じる左馬頭なる人物が登場する。<br /><br /><br />

    「平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡」(源氏物語ゆかりの地)
    藻壁門を入ってすぐの東南に「左馬寮」(さまりょう)があり、さらに東へ進むと「豊楽院」「朝堂院」の北端に至る(「豊楽院」(ぶらくいん)は朝廷の饗宴に使う施設、「朝堂院」(ちょうどういん)は早朝の朝政や朝拝、饗宴などの国儀大礼を行う施設)。「左馬寮」は、南にある右馬寮とともに宮中の馬の飼育・調教や馬具、及び諸国の牧(まき)を管理する役所で、その長官を左馬頭(さまのかみ)と呼んだ。「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)では「雨夜の品定め」の場面に、光源氏や頭中将とともに女性談議に興じる左馬頭なる人物が登場する。


  • 「JR山陰線」(嵯峨野線)<br />「JR山陰線」の内、京都駅から園部駅までを「嵯峨野線」という、「トロッコ列車」は保津川沿いの山陰本線旧線を活用したトロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの観光路線

    「JR山陰線」(嵯峨野線)
    「JR山陰線」の内、京都駅から園部駅までを「嵯峨野線」という、「トロッコ列車」は保津川沿いの山陰本線旧線を活用したトロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの観光路線

  • 牡蠣好きには誘われる!「ふれあい町家蓮Ren」

    牡蠣好きには誘われる!「ふれあい町家蓮Ren」

  • 「朱雀公園」内「京都地方気象台測風柱」(アメダス)<br />「アメダス」(AMeDAS)は、「Automated Meteorological Data Acquisition System」の略で「地域気象観測システム」、全国に約1,300か所(約17km間隔)あり、京都市内には2ヶ所

    「朱雀公園」内「京都地方気象台測風柱」(アメダス)
    「アメダス」(AMeDAS)は、「Automated Meteorological Data Acquisition System」の略で「地域気象観測システム」、全国に約1,300か所(約17km間隔)あり、京都市内には2ヶ所

  • (御池通)

    (御池通)

  • (三条通)

    (三条通)

  • (四条通)

    (四条通)

  • 「ラボール京都」(京都労働者会館)前に「平安京跡発掘調査記念碑」がある

    「ラボール京都」(京都労働者会館)前に「平安京跡発掘調査記念碑」がある

  • 「平安京跡発掘調査記念碑」<br />この地は、醍醐天皇の皇子で左・右大臣を歴任した源高明の西宮領跡と推定されており、昭和50年の発掘調査で平安京を南北にはしる西大宮大路と推定される道路跡の一部と堀立柱建物跡が発見された。と記載されている

    「平安京跡発掘調査記念碑」
    この地は、醍醐天皇の皇子で左・右大臣を歴任した源高明の西宮領跡と推定されており、昭和50年の発掘調査で平安京を南北にはしる西大宮大路と推定される道路跡の一部と堀立柱建物跡が発見された。と記載されている

  • 「京福嵐山本線」<br />嵐山から四条大宮までの路面電車で、嵐山から北野天満宮までの北野線とともに「嵐電」(らんでん)と呼ばれる

    「京福嵐山本線」
    嵐山から四条大宮までの路面電車で、嵐山から北野天満宮までの北野線とともに「嵐電」(らんでん)と呼ばれる

  • 「京都市立朱雀第7小学校」<br />昭和8年(1933)朱雀第七尋常小学校として開校し、昭和22年(1947)より朱雀第七小学校と改称

    「京都市立朱雀第7小学校」
    昭和8年(1933)朱雀第七尋常小学校として開校し、昭和22年(1947)より朱雀第七小学校と改称

  • 交通安全協議会による「無事故で明るい朱七学区」

    交通安全協議会による「無事故で明るい朱七学区」

  • 朱雀第7消防分団による募集中「あなたも一緒に町を守っておくれやす」

    朱雀第7消防分団による募集中「あなたも一緒に町を守っておくれやす」

  • (高辻通)四条通と五条通の間を通り、鴨川畔河原町通から七本松通を経て松尾橋手前の梅津街道まで

    (高辻通)四条通と五条通の間を通り、鴨川畔河原町通から七本松通を経て松尾橋手前の梅津街道まで

  • 「高辻橋」<br />橋の欄干の銘板を見ると「堀子川」(ほりこがわ)と書いてある、これは昔は堀川から分流して四条あたりから流れていた川で、今は西高瀬川になっている模様<br />

    「高辻橋」
    橋の欄干の銘板を見ると「堀子川」(ほりこがわ)と書いてある、これは昔は堀川から分流して四条あたりから流れていた川で、今は西高瀬川になっている模様

  • 「御前松原交番」<br />「京都市の交番マーク」はカッコイイ! 馬に乗った警官が子供を乗せている、京都府警には「葵祭」や「時代祭」で先導警備しいている「平安騎馬隊」と言うお巡りさんがいて、お祭りだけでなく、学童安全対策や観光地対策、水難事故対策などで騎馬パトロールをやっているという、平安遷都1200年を記念し平成6年に創設され、現在6頭の馬がいるという

    「御前松原交番」
    「京都市の交番マーク」はカッコイイ! 馬に乗った警官が子供を乗せている、京都府警には「葵祭」や「時代祭」で先導警備しいている「平安騎馬隊」と言うお巡りさんがいて、お祭りだけでなく、学童安全対策や観光地対策、水難事故対策などで騎馬パトロールをやっているという、平安遷都1200年を記念し平成6年に創設され、現在6頭の馬がいるという

  • 「京都市立病院」<br />1965年京都中央市民病院と市立京都病院を統合して設立、病床数548、京都市の病院では、京大病院1,100、京都府大病院1,060、京都第2赤十字病院670、第1赤十字病院660、京都医療センター600に次ぐ

    「京都市立病院」
    1965年京都中央市民病院と市立京都病院を統合して設立、病床数548、京都市の病院では、京大病院1,100、京都府大病院1,060、京都第2赤十字病院670、第1赤十字病院660、京都医療センター600に次ぐ

  • (五条御前)

    (五条御前)

  • 「京都リサーチパーク」<br />1989年日本初の純民間資本による開業で、大阪ガスグループが運営し、ベンチャービジネス支援を目的としている *「この地域の歴史」1907年京都競馬場(島原競馬場)開設、1910年島原遊廓の隣に京都ガス島原工場竣工、1913年競馬場移転、1928年競馬場跡地に京都ガス朱雀工場竣工、1945年大阪ガスが京都ガス合併、1978年京都ガス工場操業終了、1981年島原工場跡地に京都市中央卸売市場第一市場の青果1号棟・2号棟竣工、1987年大阪ガス100%出資で「京都リサーチパーク株式会社」設立、1989年朱雀工場跡地に東地区オープン、1992年 西地区オープン、1999年「京都リサーチパーク」設立<br />

    「京都リサーチパーク」
    1989年日本初の純民間資本による開業で、大阪ガスグループが運営し、ベンチャービジネス支援を目的としている *「この地域の歴史」1907年京都競馬場(島原競馬場)開設、1910年島原遊廓の隣に京都ガス島原工場竣工、1913年競馬場移転、1928年競馬場跡地に京都ガス朱雀工場竣工、1945年大阪ガスが京都ガス合併、1978年京都ガス工場操業終了、1981年島原工場跡地に京都市中央卸売市場第一市場の青果1号棟・2号棟竣工、1987年大阪ガス100%出資で「京都リサーチパーク株式会社」設立、1989年朱雀工場跡地に東地区オープン、1992年 西地区オープン、1999年「京都リサーチパーク」設立

  • 「行衛橋」(ゆくえばし)<br />御前通沿いに南流してきた「西高瀬川」が直角に西へ向きを変える地点にあり、「行衛」(ゆくえ)というのは、宮中の役所の一つで、ここに仕える下級貴族などが住んでいた町「行衛町」があったらしい

    「行衛橋」(ゆくえばし)
    御前通沿いに南流してきた「西高瀬川」が直角に西へ向きを変える地点にあり、「行衛」(ゆくえ)というのは、宮中の役所の一つで、ここに仕える下級貴族などが住んでいた町「行衛町」があったらしい

  • 「西高瀬川」<br />江戸時代初期に角倉了以により開削された大堰川の渡月橋から、千本三条までの運河が開削され、さらに明治になって伏見の鴨川まで西高瀬川が開通した、現在四条辺りからは堀川から分流した「堀子川」と合流し南下し、五条通を過ぎた「行衛橋」から直角に西へ流れ、佐井西通りに沿って南流し、伏見で鴨川に合流する

    「西高瀬川」
    江戸時代初期に角倉了以により開削された大堰川の渡月橋から、千本三条までの運河が開削され、さらに明治になって伏見の鴨川まで西高瀬川が開通した、現在四条辺りからは堀川から分流した「堀子川」と合流し南下し、五条通を過ぎた「行衛橋」から直角に西へ流れ、佐井西通りに沿って南流し、伏見で鴨川に合流する

  • (花屋町通)<br />五条通と七条通の中間を通り、河原町通西側の富小路通から、東本願寺、西本願寺の北側を抜けて 遊郭島原を抜けて、京都中央卸売市場で中断し、天神川通まで

    (花屋町通)
    五条通と七条通の中間を通り、河原町通西側の富小路通から、東本願寺、西本願寺の北側を抜けて 遊郭島原を抜けて、京都中央卸売市場で中断し、天神川通まで

  • 「綱敷行衛天満宮」(つなしきゆきえてんまんぐう)<br />昭和9年に、もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と西にあった「行衛天満宮」を合祀して今の名前になったもので、「北野天満宮」から唐橋(西寺)を経て「吉祥院天満宮」(道真公御誕生の地)へ通じる道で、道真も良く通ったとされているが、現在は松尾大社の境外末社の一つになっている

    「綱敷行衛天満宮」(つなしきゆきえてんまんぐう)
    昭和9年に、もともとこのあたりにあった「綱敷天満宮」と西にあった「行衛天満宮」を合祀して今の名前になったもので、「北野天満宮」から唐橋(西寺)を経て「吉祥院天満宮」(道真公御誕生の地)へ通じる道で、道真も良く通ったとされているが、現在は松尾大社の境外末社の一つになっている

  • 「綱敷天満宮」(つなしきてんまんぐう)は、左遷された道真公が大宰府に赴任する途中、嵐に遭遇し須磨の浦に立ち寄り、漁師が造った綱を敷いて休憩したことから、この地に創建されたという、「行衛天満宮」(ゆきえてんまんぐう)は、道真公の乳母である「多治比文子」(たじひのあやこ)が道真公の死後に託宣を受けたが、貧しく社殿を建立することができなかったので、「西靱負小路」(にしゆきえ;現在の猪隈通)にあった自宅に小さな祠を建てて、道真公を祀ったことに由来、この「小祠」が「文子天満宮」の起こりになっている

    「綱敷天満宮」(つなしきてんまんぐう)は、左遷された道真公が大宰府に赴任する途中、嵐に遭遇し須磨の浦に立ち寄り、漁師が造った綱を敷いて休憩したことから、この地に創建されたという、「行衛天満宮」(ゆきえてんまんぐう)は、道真公の乳母である「多治比文子」(たじひのあやこ)が道真公の死後に託宣を受けたが、貧しく社殿を建立することができなかったので、「西靱負小路」(にしゆきえ;現在の猪隈通)にあった自宅に小さな祠を建てて、道真公を祀ったことに由来、この「小祠」が「文子天満宮」の起こりになっている

  • (七条御前)

    (七条御前)

  • 時宗松尾山「西漣寺」(さいれんじ)<br />939年、空也上人が、平安京の西の市で布教し、松尾大社との関係が生じたことから、大社の御旅所の社頭に建立し、歴代住職は供僧を務めた、道路を挟んだ境内の南に御旅所が隣接している

    時宗松尾山「西漣寺」(さいれんじ)
    939年、空也上人が、平安京の西の市で布教し、松尾大社との関係が生じたことから、大社の御旅所の社頭に建立し、歴代住職は供僧を務めた、道路を挟んだ境内の南に御旅所が隣接している

  • 「武御前社」(たけのごぜんしゃ)<br />広大な敷地の「西七条御旅所」に対し、その片隅の狭い敷地にあるが、元々は「武御前社」の境内だった所に「松尾大社御旅所」が後から創建されたという、ご祭神は武甕槌神(タケミカヅチ)で、神話では天照大御神の命令により 出雲の国に行き、大国主命の国譲りを見届けて報告した武道の神で、松尾大社の祭りにも関わっている関係からこの場所にあり、この西七条エリアの氏神様にあたる、以前行われていた祭礼では、「おかえり」と呼ばれる松尾大社の還幸祭で、白木のお神輿を子ども達が「桂川」まで行き、川に捨てるフリをして神輿を壊し、その木片を持ち帰りトイレに挿して疫病封じのお呪いにしたという奇妙な風習があったが、現在は、神輿が御旅所にある間に、奉納された金柑を子ども達に撒き延命息災を祈願し西七条一帯を神輿巡行するという

    「武御前社」(たけのごぜんしゃ)
    広大な敷地の「西七条御旅所」に対し、その片隅の狭い敷地にあるが、元々は「武御前社」の境内だった所に「松尾大社御旅所」が後から創建されたという、ご祭神は武甕槌神(タケミカヅチ)で、神話では天照大御神の命令により 出雲の国に行き、大国主命の国譲りを見届けて報告した武道の神で、松尾大社の祭りにも関わっている関係からこの場所にあり、この西七条エリアの氏神様にあたる、以前行われていた祭礼では、「おかえり」と呼ばれる松尾大社の還幸祭で、白木のお神輿を子ども達が「桂川」まで行き、川に捨てるフリをして神輿を壊し、その木片を持ち帰りトイレに挿して疫病封じのお呪いにしたという奇妙な風習があったが、現在は、神輿が御旅所にある間に、奉納された金柑を子ども達に撒き延命息災を祈願し西七条一帯を神輿巡行するという

  • [西七条御旅所](にししちじょうおたびしょ)<br />ご祭神は松尾大神で、松尾祭の神輿の御旅所となっている、元々はこの地区に3ヶ所の御旅所があったが、明治になってから現在の地に定められた、松尾祭の「神幸祭」では、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿がご本殿のご分霊を受けて出発し、松尾・桂の里から桂離宮を周って桂川を船で渡り、4基は西七条御旅所に、2基は西京極に滞在する

    [西七条御旅所](にししちじょうおたびしょ)
    ご祭神は松尾大神で、松尾祭の神輿の御旅所となっている、元々はこの地区に3ヶ所の御旅所があったが、明治になってから現在の地に定められた、松尾祭の「神幸祭」では、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿がご本殿のご分霊を受けて出発し、松尾・桂の里から桂離宮を周って桂川を船で渡り、4基は西七条御旅所に、2基は西京極に滞在する

  • 「松尾祭」(まつおさい)の際には、こちらの建物に御神輿が鎮座し、境内には出店も設けられ賑わう、例年4月20日以後の最初の日曜日と21日目の日曜日

    「松尾祭」(まつおさい)の際には、こちらの建物に御神輿が鎮座し、境内には出店も設けられ賑わう、例年4月20日以後の最初の日曜日と21日目の日曜日

  • 鳥居脇の「手水舎」は、松尾大社の霊泉「亀の井」と同じモデル、松尾大社の神使は、「亀」と「鯉」で、松尾神が丹波地方を開拓する際に大堰川を上る際に、急流では鯉に、緩流では亀に乗ったという伝承があるという

    鳥居脇の「手水舎」は、松尾大社の霊泉「亀の井」と同じモデル、松尾大社の神使は、「亀」と「鯉」で、松尾神が丹波地方を開拓する際に大堰川を上る際に、急流では鯉に、緩流では亀に乗ったという伝承があるという

  • 「京都市立七条小学校」<br />明治5年(1872)西七条小学校として開校し、昭和22年(1947)京都市立七条小学校と改称

    「京都市立七条小学校」
    明治5年(1872)西七条小学校として開校し、昭和22年(1947)京都市立七条小学校と改称

  • 「梅林寺」(ばいりんじ)「土御門殿御菩提所」<br />平安時代の陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明の直系子孫「土御門家」(つちみかどけ)の屋敷で菩提寺となっており、庭に暦作成のための日時計を差し込む台石があるという

    「梅林寺」(ばいりんじ)「土御門殿御菩提所」
    平安時代の陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明の直系子孫「土御門家」(つちみかどけ)の屋敷で菩提寺となっており、庭に暦作成のための日時計を差し込む台石があるという

  • 「円光寺」<br />「梅林寺」と同じく「土御門家」の屋敷跡で、どちらの境内にも土御門家が使用した天球儀や渾天儀(こてんぎ)が置かれた台石が残っている、心に響く「お寺の掲示板」昨日は昨日 明日は明日 再びもどる 今日はない 今日が本番 今が本番

    「円光寺」
    「梅林寺」と同じく「土御門家」の屋敷跡で、どちらの境内にも土御門家が使用した天球儀や渾天儀(こてんぎ)が置かれた台石が残っている、心に響く「お寺の掲示板」昨日は昨日 明日は明日 再びもどる 今日はない 今日が本番 今が本番

  • 「土御門家」(つちみかどけ)<br />安倍晴明の子孫は、江戸時代に再び全国の陰陽師を統括する権限を得て、名前を「安倍」から「土御門」へ改名し、この付近に広大な土地を与えられて邸宅を構え、ここで天文観測や暦の管理を行った、その屋敷跡に「円光寺」が創建され、向かい側に菩提寺として「梅林寺」が建てられ、近くには、屋敷の鎮守社であった「鎌達(けんたつ)稲荷神社」もあり、土御門家の資料は「大将軍八神社」に保管されている

    「土御門家」(つちみかどけ)
    安倍晴明の子孫は、江戸時代に再び全国の陰陽師を統括する権限を得て、名前を「安倍」から「土御門」へ改名し、この付近に広大な土地を与えられて邸宅を構え、ここで天文観測や暦の管理を行った、その屋敷跡に「円光寺」が創建され、向かい側に菩提寺として「梅林寺」が建てられ、近くには、屋敷の鎮守社であった「鎌達(けんたつ)稲荷神社」もあり、土御門家の資料は「大将軍八神社」に保管されている

  • 「JR東海道線・新幹線」<br />「御前通」はJRのガード下を潜り抜ける、ガード手前の信号は、「八条通」が右手西方向の桂川から鴨川まで通るが、ここで左手東方向からの「梅小路通」とぶつかり、ガードを潜って出口から左折して再び線路沿いに「八条通」が始まる、「御前通」は直進

    「JR東海道線・新幹線」
    「御前通」はJRのガード下を潜り抜ける、ガード手前の信号は、「八条通」が右手西方向の桂川から鴨川まで通るが、ここで左手東方向からの「梅小路通」とぶつかり、ガードを潜って出口から左折して再び線路沿いに「八条通」が始まる、「御前通」は直進

  • 「西七条架道橋」 (御前架道橋)<br />狭いので信号片道一方通行になっている、

    「西七条架道橋」 (御前架道橋)
    狭いので信号片道一方通行になっている、

  • 「西七条架道橋」を出てすぐ手前を左折すると「八条通」、直進すると「御前通」

    「西七条架道橋」を出てすぐ手前を左折すると「八条通」、直進すると「御前通」

  • 「興國山 西寺」(こうこくさん さいじ)<br />山門の横に「西寺旧跡」の石碑がある、「西寺」は「東寺」と対をなす官寺だったが、火災などで衰微し、「東寺」とは対照的に再建されず、今では幻のお寺になっており、一時「西方寺」と改称しこの地にあったが、明治になって現在の「興國山西寺」となり後継寺院となっている、平成28年竣工となっているからまだ新しい

    イチオシ

    「興國山 西寺」(こうこくさん さいじ)
    山門の横に「西寺旧跡」の石碑がある、「西寺」は「東寺」と対をなす官寺だったが、火災などで衰微し、「東寺」とは対照的に再建されず、今では幻のお寺になっており、一時「西方寺」と改称しこの地にあったが、明治になって現在の「興國山西寺」となり後継寺院となっている、平成28年竣工となっているからまだ新しい

  • 「西寺児童公園」(さいじじどうこうえん)<br />平安京ができるときに国家王城鎮護を目的として、平安京への入口である「羅城門」を挟んで東西に「東寺」と「西寺」が創建されたが、今でも残る「東寺」に対して「西寺」は今は無く、講堂跡の3つの疎石があるのみで、主な伽藍があった場所は現在公園となり「西寺跡の石碑」が建っている

    「西寺児童公園」(さいじじどうこうえん)
    平安京ができるときに国家王城鎮護を目的として、平安京への入口である「羅城門」を挟んで東西に「東寺」と「西寺」が創建されたが、今でも残る「東寺」に対して「西寺」は今は無く、講堂跡の3つの疎石があるのみで、主な伽藍があった場所は現在公園となり「西寺跡の石碑」が建っている

  • 「西寺」(さいじ)<br />「東寺」と共に平安京遷都2年後の796年に創立され、823年嵯峨天皇のときに「東寺」の管理を「空海」(弘法大師)に、「西寺」の管理を「守敏」(しゅびん)に委ね、「東寺」は真言密教の根本道場として発展し、「西寺」も全国の寺院や僧尼を統括する施設「僧綱所」(そうごうしょ)が置かれ発展したが、その後、平安末期から両方とも衰退の一途をたどるが、「空海」への信仰心から歴代天皇や、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などが「東寺」を庇護したたため今でも現存しているのに対し、「西寺」は殆ど庇護されず、鎌倉時代に塔が焼失すると以後は再建されなかった、その理由の一つとして言われるのは、西寺の「守敏」と東寺の「空海」は何事にも対立していたとされ、824年「神泉苑」で行われた淳和天皇の勅命による「祈雨の法力競い合い」で、空海は北印度の善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し日本国中に雨を降らせたが、守敏は都にしか降らせなかった、そして敗れた守敏は、空海に矢を放ったが、羅城門の傍らにある「矢取地蔵」に阻まれたという

    「西寺」(さいじ)
    「東寺」と共に平安京遷都2年後の796年に創立され、823年嵯峨天皇のときに「東寺」の管理を「空海」(弘法大師)に、「西寺」の管理を「守敏」(しゅびん)に委ね、「東寺」は真言密教の根本道場として発展し、「西寺」も全国の寺院や僧尼を統括する施設「僧綱所」(そうごうしょ)が置かれ発展したが、その後、平安末期から両方とも衰退の一途をたどるが、「空海」への信仰心から歴代天皇や、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などが「東寺」を庇護したたため今でも現存しているのに対し、「西寺」は殆ど庇護されず、鎌倉時代に塔が焼失すると以後は再建されなかった、その理由の一つとして言われるのは、西寺の「守敏」と東寺の「空海」は何事にも対立していたとされ、824年「神泉苑」で行われた淳和天皇の勅命による「祈雨の法力競い合い」で、空海は北印度の善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し日本国中に雨を降らせたが、守敏は都にしか降らせなかった、そして敗れた守敏は、空海に矢を放ったが、羅城門の傍らにある「矢取地蔵」に阻まれたという

  • 「史跡西寺址」石碑<br />公園の中央に盛り上がった土塁は「コンド山」(正式には講堂山)と言われ、西寺の荒廃後の瓦礫が積み上げられた所に、松尾大社の氏子区域(大宮社)である住民たちにより松尾大社の御旅所として戦前に造られたもので、大正時代に「西寺」の遺構が確認されて大正10年(1921)に史跡の石碑が立ち、昭和12年(1937)の「西寺公園」開園時に現在の姿に整備された、そして昭和34年(1959)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂・南大門等の遺構が発見され、この土壇は講堂跡と判明し、東寺より一回り小さいことも分かった

    「史跡西寺址」石碑
    公園の中央に盛り上がった土塁は「コンド山」(正式には講堂山)と言われ、西寺の荒廃後の瓦礫が積み上げられた所に、松尾大社の氏子区域(大宮社)である住民たちにより松尾大社の御旅所として戦前に造られたもので、大正時代に「西寺」の遺構が確認されて大正10年(1921)に史跡の石碑が立ち、昭和12年(1937)の「西寺公園」開園時に現在の姿に整備された、そして昭和34年(1959)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂・南大門等の遺構が発見され、この土壇は講堂跡と判明し、東寺より一回り小さいことも分かった

  • (九条御前)<br />「九条通」を横断して、直進すれば「御前通」、斜め右手に進むと大宰府まで通じる「西国街道」が始まる

    (九条御前)
    「九条通」を横断して、直進すれば「御前通」、斜め右手に進むと大宰府まで通じる「西国街道」が始まる

  • 16:00 ここで「御前通」散歩は終了するが、「御前通」は更に南下し、札ノ辻通から十条通を経由して「鳥羽水環境保全センター」付近まで続く

    16:00 ここで「御前通」散歩は終了するが、「御前通」は更に南下し、札ノ辻通から十条通を経由して「鳥羽水環境保全センター」付近まで続く

  • (ここからは 2025.1.1撮影)<br />「御前通」は「北野天満宮」の門前を通ることに由来するが、途中で立ち寄った「綱敷行衛天満宮」で分かった情報では、「北野天満宮」創立前に現在の駐車場辺りに「右近の馬場」という馬場があり、ここから「綱敷行衛天満宮」から「唐橋西寺」を経て、菅原道真の居住地であった「吉祥院天満宮」へ通じる道があり、道真も良く通っていた、これが現在の「御前通」であるということなので、「吉祥院天満宮」まで行かないと「御前通」は完結しない、と認識し、年明けの元旦に改めて訪問することにした

    (ここからは 2025.1.1撮影)
    「御前通」は「北野天満宮」の門前を通ることに由来するが、途中で立ち寄った「綱敷行衛天満宮」で分かった情報では、「北野天満宮」創立前に現在の駐車場辺りに「右近の馬場」という馬場があり、ここから「綱敷行衛天満宮」から「唐橋西寺」を経て、菅原道真の居住地であった「吉祥院天満宮」へ通じる道があり、道真も良く通っていた、これが現在の「御前通」であるということなので、「吉祥院天満宮」まで行かないと「御前通」は完結しない、と認識し、年明けの元旦に改めて訪問することにした

  • 「吉祥院天満宮」(きっしょういんてんまんぐう)<br />道真公の死後、北野天満宮より13年早い31年目の934年に朱雀天皇の勅命により、道真生誕の地に創建された「最初の天満宮」であると言われており、境内には「産湯の井戸」や道真公のへその緒を埋めた「胞衣(えな)塚」、少年時代に習字に使用した「硯の水」などがある

    「吉祥院天満宮」(きっしょういんてんまんぐう)
    道真公の死後、北野天満宮より13年早い31年目の934年に朱雀天皇の勅命により、道真生誕の地に創建された「最初の天満宮」であると言われており、境内には「産湯の井戸」や道真公のへその緒を埋めた「胞衣(えな)塚」、少年時代に習字に使用した「硯の水」などがある

  • 菅公ゆかりの「産湯の井」(うぶゆのい)<br />「産湯の井」は境内に入る鳥居の手前にあり、社伝に基き復元されたもの、井戸の奥には「菅公御誕生之地」と書かれた石碑がある、この地は平安遷都の際、桓武天皇からの厚い信頼を得ていた道真公の曽祖父と祖父がお供して都に入った際に領地として賜り邸宅を構えた所で、後に氏を「菅原」と変えて、845年道真公が生まれ、862年に18才で文章生(もんじょうしょう)に合格するまでここに住み、その後、御所仕えのため大内裏近くの「宣風坊」(菅大臣神社付近)に移り、祖父・清公卿、父・是善卿につづき33才の若さで文章博士になった

    菅公ゆかりの「産湯の井」(うぶゆのい)
    「産湯の井」は境内に入る鳥居の手前にあり、社伝に基き復元されたもの、井戸の奥には「菅公御誕生之地」と書かれた石碑がある、この地は平安遷都の際、桓武天皇からの厚い信頼を得ていた道真公の曽祖父と祖父がお供して都に入った際に領地として賜り邸宅を構えた所で、後に氏を「菅原」と変えて、845年道真公が生まれ、862年に18才で文章生(もんじょうしょう)に合格するまでここに住み、その後、御所仕えのため大内裏近くの「宣風坊」(菅大臣神社付近)に移り、祖父・清公卿、父・是善卿につづき33才の若さで文章博士になった

  • 「吉祥天女社」(きっしょうてんにょしゃ)<br />「吉祥院天満宮」の934年よりも120年以上古い、808年に創建され「吉祥院」(きっしょういん)とも呼ばれる境内社で、菅原家守護の本尊として「吉祥天女」と、道真の祖父「菅原清公卿」(すがわらのきよきみ)、道真の父「菅原是善卿」(すがわらのこれよし)と「伝教大師」(最澄)を祀っている、「吉祥天女」は、「清公卿」が804年遣唐使として唐へ向かう途中、船が転覆しかけた時、同船していた「最澄」と共に「吉祥天女」に祈ったら、天女が現れて風雨を静めてくれたので、帰国後「吉祥天女」の像を刻み、808年自邸にお堂を建てて本尊としたもので、最澄が開眼供養を行った、現在の建物は1850年に再建されたが、元々はお寺の本堂で現在は神社となっている神仏習合の名残ある仏堂建築

    「吉祥天女社」(きっしょうてんにょしゃ)
    「吉祥院天満宮」の934年よりも120年以上古い、808年に創建され「吉祥院」(きっしょういん)とも呼ばれる境内社で、菅原家守護の本尊として「吉祥天女」と、道真の祖父「菅原清公卿」(すがわらのきよきみ)、道真の父「菅原是善卿」(すがわらのこれよし)と「伝教大師」(最澄)を祀っている、「吉祥天女」は、「清公卿」が804年遣唐使として唐へ向かう途中、船が転覆しかけた時、同船していた「最澄」と共に「吉祥天女」に祈ったら、天女が現れて風雨を静めてくれたので、帰国後「吉祥天女」の像を刻み、808年自邸にお堂を建てて本尊としたもので、最澄が開眼供養を行った、現在の建物は1850年に再建されたが、元々はお寺の本堂で現在は神社となっている神仏習合の名残ある仏堂建築

  • 御祭神は他にも「観世音菩薩」「薬師如来」 <br />吉祥天は仏教界の「天」におられる仏さまで、仏教を守護し幸福をもたらす女神として知られ、薬師如来や観世音菩薩と並ぶ寺院は薬師寺や浄瑠璃寺など多少あり、母親の鬼子母神、夫の毘沙門天と並ぶお寺もあり、顔かたちが美しく五穀豊穣・国家安泰の功徳があるとされ、奈良時代から平安時代にかけては特に広く信仰された

    御祭神は他にも「観世音菩薩」「薬師如来」 
    吉祥天は仏教界の「天」におられる仏さまで、仏教を守護し幸福をもたらす女神として知られ、薬師如来や観世音菩薩と並ぶ寺院は薬師寺や浄瑠璃寺など多少あり、母親の鬼子母神、夫の毘沙門天と並ぶお寺もあり、顔かたちが美しく五穀豊穣・国家安泰の功徳があるとされ、奈良時代から平安時代にかけては特に広く信仰された

  • 御祭神は他にも「孔子」<br />南側鳥居の左手に「文章院」(もんじょういん)という建物があり手前に「文章院聖堂御跡」の石碑がある、ここは、遣唐使として唐に渡った道真公の祖父「清公」(きよきみ)が、唐の施設を参考にして、834年に漢詩や儒教を教える施設を作り、孔子堂や聖堂とも呼ばれ「孔子」が祀られていたが、焼失した後は「孔子」は「吉祥院」に祀られている

    御祭神は他にも「孔子」
    南側鳥居の左手に「文章院」(もんじょういん)という建物があり手前に「文章院聖堂御跡」の石碑がある、ここは、遣唐使として唐に渡った道真公の祖父「清公」(きよきみ)が、唐の施設を参考にして、834年に漢詩や儒教を教える施設を作り、孔子堂や聖堂とも呼ばれ「孔子」が祀られていたが、焼失した後は「孔子」は「吉祥院」に祀られている

  • 境内には13.30現在、初参りの行列が出来ていた<br />新春恒例の「葉ぼたん展」も始まっている(2月15日まで)

    境内には13.30現在、初参りの行列が出来ていた
    新春恒例の「葉ぼたん展」も始まっている(2月15日まで)

  • 「ヘビ」年の開運<br />四柱推命による「乙巳」(きのとみ)の今年は、「乙」(きのと)の横に広がる草花と、「巳」(み)の脱皮し再生していくヘビが掛け合わさり、「行動し、繫栄していく年」<br />

    「ヘビ」年の開運
    四柱推命による「乙巳」(きのとみ)の今年は、「乙」(きのと)の横に広がる草花と、「巳」(み)の脱皮し再生していくヘビが掛け合わさり、「行動し、繫栄していく年」

  • 「ペアのヘビ」<br />ヘビはあまり好きではないが、「生命力と不死」の象徴、今年だけは力をお借りして、元気に長生き出来ますように祈る!

    「ペアのヘビ」
    ヘビはあまり好きではないが、「生命力と不死」の象徴、今年だけは力をお借りして、元気に長生き出来ますように祈る!

  • 「おたべちゃん」ではなく巫女さんも<br />葉牡丹(ハボタン)の花言葉は、「祝福」「愛を包む」、葉が幾重にも重なって白や紫に色づき花のような姿をして、花が少ない冬にも美しく彩ってくれることから、牡丹の代わりにお祝いごとに使われる、「大きな葉ぼたんは 8~9年ものです」と書かれている

    「おたべちゃん」ではなく巫女さんも
    葉牡丹(ハボタン)の花言葉は、「祝福」「愛を包む」、葉が幾重にも重なって白や紫に色づき花のような姿をして、花が少ない冬にも美しく彩ってくれることから、牡丹の代わりにお祝いごとに使われる、「大きな葉ぼたんは 8~9年ものです」と書かれている

  • 拝殿前には「神馬とキティちゃん」<br />神馬の前にも葉ボタンがあって、この神社には何故か「キティちゃん」がいる

    拝殿前には「神馬とキティちゃん」
    神馬の前にも葉ボタンがあって、この神社には何故か「キティちゃん」がいる

  • 「吉祥院天満宮」拝殿・本殿<br />菅原道真903年死後、北野天満宮の947年よりも早い934年に朱雀天皇の勅命により創建された「最初の天満宮」で、808年に創建された菅原家の氏寺「吉祥院」があった地に建てられたことから「吉祥院天満宮」と呼ばれた、987年道真が天神になってからは大いに栄え、鳥羽天皇をはじめとする歴代天皇による勅祭が行われていたが、秀吉により神領を没収され、江戸以降は勅祭も廃止され規模も縮小したものの、明治に廃仏毀釈が行われる中でも吉祥天像と吉祥院は守られ、明治35年(1902)の菅公千年祭以来、氏子らの篤い支援を得て復興し、昭和3年(1928)吉祥天女社大修理、昭和28年本殿改築、平成14年拝殿改築など行われた

    「吉祥院天満宮」拝殿・本殿
    菅原道真903年死後、北野天満宮の947年よりも早い934年に朱雀天皇の勅命により創建された「最初の天満宮」で、808年に創建された菅原家の氏寺「吉祥院」があった地に建てられたことから「吉祥院天満宮」と呼ばれた、987年道真が天神になってからは大いに栄え、鳥羽天皇をはじめとする歴代天皇による勅祭が行われていたが、秀吉により神領を没収され、江戸以降は勅祭も廃止され規模も縮小したものの、明治に廃仏毀釈が行われる中でも吉祥天像と吉祥院は守られ、明治35年(1902)の菅公千年祭以来、氏子らの篤い支援を得て復興し、昭和3年(1928)吉祥天女社大修理、昭和28年本殿改築、平成14年拝殿改築など行われた

  • 拝殿前には道真公の幼名「吉祥丸」と「狛犬」<br />「菅原道真誕生の地」は、日本各地にいくつもあるので、何を信じていいか、分からないところだが、京都だけでも3か所あり、いずれにも産湯の井戸がある、この内の仏光寺新町にある「菅大臣神社」(かんだいじん)は、道真が18才で文章生に合格した後、御所仕えのため大内裏近くに引っ越した「宣風坊」(せんぷうぼう)があったところで、紅梅が多く咲いて「紅梅殿」と呼ばれ、大宰府まで飛んだとされる「飛梅」の地とも言われているので、納得できるが、もう一つの京都御苑近く烏丸通沿いにある「菅原院天満宮神社」(すがわらいん)については、この地に道真の祖父から三代が居住した邸宅「菅原院」があって、その跡地に、道真の死後「歓喜光寺」が建立され、その後、源融の旧邸六条河原院の跡地に移転し、更に移転して新京極の「錦天満宮」になるが、この「菅原院」の跡地に、移転した「歓喜光寺」の殿舎を利用して新たに造営されたのが「菅原院天満宮神社」であり、道真と相殿神として父、祖父も祀るようになったという、が、これは全く「吉祥院」とは違う話で、その真偽は謎のまま

    拝殿前には道真公の幼名「吉祥丸」と「狛犬」
    「菅原道真誕生の地」は、日本各地にいくつもあるので、何を信じていいか、分からないところだが、京都だけでも3か所あり、いずれにも産湯の井戸がある、この内の仏光寺新町にある「菅大臣神社」(かんだいじん)は、道真が18才で文章生に合格した後、御所仕えのため大内裏近くに引っ越した「宣風坊」(せんぷうぼう)があったところで、紅梅が多く咲いて「紅梅殿」と呼ばれ、大宰府まで飛んだとされる「飛梅」の地とも言われているので、納得できるが、もう一つの京都御苑近く烏丸通沿いにある「菅原院天満宮神社」(すがわらいん)については、この地に道真の祖父から三代が居住した邸宅「菅原院」があって、その跡地に、道真の死後「歓喜光寺」が建立され、その後、源融の旧邸六条河原院の跡地に移転し、更に移転して新京極の「錦天満宮」になるが、この「菅原院」の跡地に、移転した「歓喜光寺」の殿舎を利用して新たに造営されたのが「菅原院天満宮神社」であり、道真と相殿神として父、祖父も祀るようになったという、が、これは全く「吉祥院」とは違う話で、その真偽は謎のまま

  • 拝殿前の「狛牛」右<br />「菅公聖蹟二十五拝」(かんこうせいせき)では、京都から太宰府まで道真の遺蹟伝承地を拝礼するが、スタートは「菅原院天満宮」で、「錦天満宮」「菅大臣神社」「吉祥院天満宮」「長岡天満宮」から23番目「太宰府天満宮」で折り返し、大阪「上宮天満宮」、最後に「北野天満宮」になる、京都だけでも「洛陽天満宮二十五社」があって、こちらは1番「菅大臣神社」、5番「吉祥院天満宮」、7番「菅原院天満宮」から24番「錦天満宮」、25番「北野天満宮」までだが、時代によって選定は変っている<br /><br />

    拝殿前の「狛牛」右
    「菅公聖蹟二十五拝」(かんこうせいせき)では、京都から太宰府まで道真の遺蹟伝承地を拝礼するが、スタートは「菅原院天満宮」で、「錦天満宮」「菅大臣神社」「吉祥院天満宮」「長岡天満宮」から23番目「太宰府天満宮」で折り返し、大阪「上宮天満宮」、最後に「北野天満宮」になる、京都だけでも「洛陽天満宮二十五社」があって、こちらは1番「菅大臣神社」、5番「吉祥院天満宮」、7番「菅原院天満宮」から24番「錦天満宮」、25番「北野天満宮」までだが、時代によって選定は変っている

  • 拝殿前の「狛牛」左<br />左右に雌雄一対で、「阿吽」の姿をしているかどうかは未確認<br />

    拝殿前の「狛牛」左
    左右に雌雄一対で、「阿吽」の姿をしているかどうかは未確認

  • 「金のなで牛・くぐり牛」<br />天満宮には欠かせない「牛」だが、ここでは巨大な「金の牛」を撫でて、くぐる、と大願成就・健康長寿のご利益も百倍! 拝殿前の2体の牛は、古くなりひびが入るなどしたため、2020年に巨大な金の牛のオブジェを造ったという

    「金のなで牛・くぐり牛」
    天満宮には欠かせない「牛」だが、ここでは巨大な「金の牛」を撫でて、くぐる、と大願成就・健康長寿のご利益も百倍! 拝殿前の2体の牛は、古くなりひびが入るなどしたため、2020年に巨大な金の牛のオブジェを造ったという

  • 「硯之水」(すずりのみず)<br />道真公が幼少の頃に勉強や習字に使った水で、学業成就や書道上達のご利益がある

    「硯之水」(すずりのみず)
    道真公が幼少の頃に勉強や習字に使った水で、学業成就や書道上達のご利益がある

  • 「末社」<br />奥から白太夫社、松梅社、吉野社、琴比羅社、秋葉山

    「末社」
    奥から白太夫社、松梅社、吉野社、琴比羅社、秋葉山

  • 稲荷社「春房稲荷大明神社」御祭神は、正一位 春房稲荷大明神<br />この稲荷社について非常に面白い、説得力のある記事を見つけた(音川伊奈利」さんという人の京都歴史裏のコラムより)<br />道真の曽祖父「古人」(ふると)は、平安京造成の設計技師に任命され、都の入口の「羅城門」と洛外の農地設計担当として九条大路から南に屋敷兼設計事務所を構え、ある日帰宅途中の西国街道で道に迷いっていると、白い着物姿の女が現れて「この地は代々私たち狐の一族が棲んでおり、子供の「春房」の病気が治るまで猶予をお願いします」と言われたので、古人はこの森一帯を自分の家族の住む屋敷の土地として使わして欲しいと天皇に直訴し、この森を手に入れ、狐たちも助かった、これに対して狐一族は「この菅原家の子孫繁栄と家内安全をお守りします」とお礼を言ったが、その後、古人の子「菅原清公」が遣唐使として唐へ向かい遭遇した時に、その船に潜んでいた狐が「吉祥天女」に化けて助け、それを聞いた父の古人は屋敷内に「春房稲荷大明神」を建立して菅原家の守り神としたという

    稲荷社「春房稲荷大明神社」御祭神は、正一位 春房稲荷大明神
    この稲荷社について非常に面白い、説得力のある記事を見つけた(音川伊奈利」さんという人の京都歴史裏のコラムより)
    道真の曽祖父「古人」(ふると)は、平安京造成の設計技師に任命され、都の入口の「羅城門」と洛外の農地設計担当として九条大路から南に屋敷兼設計事務所を構え、ある日帰宅途中の西国街道で道に迷いっていると、白い着物姿の女が現れて「この地は代々私たち狐の一族が棲んでおり、子供の「春房」の病気が治るまで猶予をお願いします」と言われたので、古人はこの森一帯を自分の家族の住む屋敷の土地として使わして欲しいと天皇に直訴し、この森を手に入れ、狐たちも助かった、これに対して狐一族は「この菅原家の子孫繁栄と家内安全をお守りします」とお礼を言ったが、その後、古人の子「菅原清公」が遣唐使として唐へ向かい遭遇した時に、その船に潜んでいた狐が「吉祥天女」に化けて助け、それを聞いた父の古人は屋敷内に「春房稲荷大明神」を建立して菅原家の守り神としたという

  • 「吉祥院天満宮のお守り・おみくじ」<br />学問の神様と言われる菅原道真に因み、学業成就のご利益があると言われるが、ハローキティのお守りやおみくじがあって、数ある天満宮の中でも特色を出そうとする商品戦略は商魂たくましい

    「吉祥院天満宮のお守り・おみくじ」
    学問の神様と言われる菅原道真に因み、学業成就のご利益があると言われるが、ハローキティのお守りやおみくじがあって、数ある天満宮の中でも特色を出そうとする商品戦略は商魂たくましい

  • 「菅公胞衣塚」(えなづか)<br />道真公生誕の地の証明として、「産湯の井」だけでなく、「へその緒」が埋められている「胞衣塚」がある、真偽は定かでないが、お宮参りで赤ちゃんの鼻をつまみ元気な声を上げさせて子供の無事成長を祈る

    「菅公胞衣塚」(えなづか)
    道真公生誕の地の証明として、「産湯の井」だけでなく、「へその緒」が埋められている「胞衣塚」がある、真偽は定かでないが、お宮参りで赤ちゃんの鼻をつまみ元気な声を上げさせて子供の無事成長を祈る

  • 「菅公胞衣塚の玉石」<br />へそを象徴する丸い石があり、「お宮参り」で、お食い初め石として玉石が授与され、「お食い初め」の時に軽く口につけると丈夫な歯が生えてくるとされる

    「菅公胞衣塚の玉石」
    へそを象徴する丸い石があり、「お宮参り」で、お食い初め石として玉石が授与され、「お食い初め」の時に軽く口につけると丈夫な歯が生えてくるとされる

  • 「鑑の井」(かがみのい)<br />出入口の鳥居の前にあり、道真公が出勤前にこの井戸の水に姿を映し、身だしなみを整えていたとされる

    「鑑の井」(かがみのい)
    出入口の鳥居の前にあり、道真公が出勤前にこの井戸の水に姿を映し、身だしなみを整えていたとされる

  • 「弁財天社」(べんざいてんしゃ)<br />「鑑の井」の隣に「弁財天社」がある、境内の中の「吉祥院」の「吉祥天」と同じような姿をした「弁財天」が祀られている神社は、あまりないと思うのでどういう理由でここにあるのか、興味のあるところだが、これが境外社として境内の外にある、というのも微妙な関係で面白い

    「弁財天社」(べんざいてんしゃ)
    「鑑の井」の隣に「弁財天社」がある、境内の中の「吉祥院」の「吉祥天」と同じような姿をした「弁財天」が祀られている神社は、あまりないと思うのでどういう理由でここにあるのか、興味のあるところだが、これが境外社として境内の外にある、というのも微妙な関係で面白い

  • 「弁財天」(べんざいてん)<br />「吉祥天」と同じく、インドヒンドウー教の神様で、どちらも天女の姿をして 「福徳財運の神」として、「弁財天」は楽器を持ち金運上昇と音楽上達、「吉祥天」は幸福・豊穣の御利益があるとされ、非常に似ているが、奈良時代までは弁財天と吉祥天は二大美人女神とされ、両方とも美しい女性の仏として混同されていたようで、鎌倉以降の神仏習合の時代を経て「弁財天」が日本の神様とうまく習合したのに対し、「吉祥天」は徐々に薄れていき、「弁財天」が七福神の中に加わるようになり、ここから「弁財天」も天女の姿になったらしい

    「弁財天」(べんざいてん)
    「吉祥天」と同じく、インドヒンドウー教の神様で、どちらも天女の姿をして 「福徳財運の神」として、「弁財天」は楽器を持ち金運上昇と音楽上達、「吉祥天」は幸福・豊穣の御利益があるとされ、非常に似ているが、奈良時代までは弁財天と吉祥天は二大美人女神とされ、両方とも美しい女性の仏として混同されていたようで、鎌倉以降の神仏習合の時代を経て「弁財天」が日本の神様とうまく習合したのに対し、「吉祥天」は徐々に薄れていき、「弁財天」が七福神の中に加わるようになり、ここから「弁財天」も天女の姿になったらしい

  • 「七福神」<br />「七福神」の女神は、元々は「弁財天」ではなく、はじめは「吉祥天」で、今でも両方入れて「八福神」とする場合もあるという、その理由は、神仏習合により「弁財天」は神道の水の神様「市杵島姫」(いちきしまひめ)と習合し全国に広まっていったが、「吉祥天」は、「北野天満宮」の祭神になっている道真公の正室「島田宣来子」(しまだののぶきこ)が「吉祥天」と習合したために、「七福神」は「弁財天」に変わっていったのではないかと言われている、そういう背景で、「弁財天」がここに鎮座するのは理解しがたいが、商売繁盛や金運上昇の神様として、幅広く人心をつかみたいのだろうと想像する

    「七福神」
    「七福神」の女神は、元々は「弁財天」ではなく、はじめは「吉祥天」で、今でも両方入れて「八福神」とする場合もあるという、その理由は、神仏習合により「弁財天」は神道の水の神様「市杵島姫」(いちきしまひめ)と習合し全国に広まっていったが、「吉祥天」は、「北野天満宮」の祭神になっている道真公の正室「島田宣来子」(しまだののぶきこ)が「吉祥天」と習合したために、「七福神」は「弁財天」に変わっていったのではないかと言われている、そういう背景で、「弁財天」がここに鎮座するのは理解しがたいが、商売繁盛や金運上昇の神様として、幅広く人心をつかみたいのだろうと想像する

  • 「狛蛇」又は「狛巳」(こまみ)<br />「北野天満宮」から道真の生誕地「吉祥院」まで来たら、最後に突き当たったのが、今年の干支(えと)の「ヘビ」で、誠に縁起が良い! 「弁財天」の社殿の中にあるので気づきにくいが、ちゃんと左右に鎮座している

    「狛蛇」又は「狛巳」(こまみ)
    「北野天満宮」から道真の生誕地「吉祥院」まで来たら、最後に突き当たったのが、今年の干支(えと)の「ヘビ」で、誠に縁起が良い! 「弁財天」の社殿の中にあるので気づきにくいが、ちゃんと左右に鎮座している

  • 「白蛇は弁財天の化身」<br />ヘビは「弁財天の使い」とされており、特に白いヘビは幸運の象徴とされ、「金運」「幸運」「成長運」を上げ、「不老長寿」や「子孫繁栄」「家族の平和」をもたらすとされる *「神様のお使い」は、神の命令を伝える使いとしていろいろな動物があてられる、近くでは伏見稲荷の狐、石清水八幡の鳩、岡崎神社の兎、護王神社の猪、貴船神社の馬、鞍馬寺の虎、蛸薬師の蛸、法輪寺の羊、松尾大社の亀、泉涌寺即成院の犬、他にも日吉の猿、春日大社の鹿、伊勢の鶏、熊野の烏などあるが、京都哲学の道にある「大豊神社」には狛犬を始め、鼠、狐、蛇、猿、鳶(とび)が揃っているので手っ取り早い

    「白蛇は弁財天の化身」
    ヘビは「弁財天の使い」とされており、特に白いヘビは幸運の象徴とされ、「金運」「幸運」「成長運」を上げ、「不老長寿」や「子孫繁栄」「家族の平和」をもたらすとされる *「神様のお使い」は、神の命令を伝える使いとしていろいろな動物があてられる、近くでは伏見稲荷の狐、石清水八幡の鳩、岡崎神社の兎、護王神社の猪、貴船神社の馬、鞍馬寺の虎、蛸薬師の蛸、法輪寺の羊、松尾大社の亀、泉涌寺即成院の犬、他にも日吉の猿、春日大社の鹿、伊勢の鶏、熊野の烏などあるが、京都哲学の道にある「大豊神社」には狛犬を始め、鼠、狐、蛇、猿、鳶(とび)が揃っているので手っ取り早い

  • 「今年のヘビ年の初詣」<br />元旦早々の初詣は「吉祥院・弁財天」になったが、あと2、3ヶ所廻って、「金運」アップ、「不老長寿」をさらに高めたい *京都でヘビゆかりの神社は、三室戸寺(宇治)、大豊神社(哲学の道)、出町妙音堂弁財天(出町柳)、「日體寺」(清水坂)、「玄武神社」(紫野)、天龍白蛇弁財天(哲学の道)、妙満寺(岩倉)、他にも弁天様を祀る神社で、九頭竜大社(八瀬)、金福寺(一乗寺)、神泉苑(御池通)、厳島神社、白雲神社(京都御苑)等々

    「今年のヘビ年の初詣」
    元旦早々の初詣は「吉祥院・弁財天」になったが、あと2、3ヶ所廻って、「金運」アップ、「不老長寿」をさらに高めたい *京都でヘビゆかりの神社は、三室戸寺(宇治)、大豊神社(哲学の道)、出町妙音堂弁財天(出町柳)、「日體寺」(清水坂)、「玄武神社」(紫野)、天龍白蛇弁財天(哲学の道)、妙満寺(岩倉)、他にも弁天様を祀る神社で、九頭竜大社(八瀬)、金福寺(一乗寺)、神泉苑(御池通)、厳島神社、白雲神社(京都御苑)等々

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