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アンタルヤの旧市街の観光の後に昼食を食べて、午後はペルゲ遺跡の見学になります。ここも17年前に一度来たことがありましたが、入り口からしてかなり変わっていて、有名なヘレニズム時代の2つの円塔の門とローマ浴場以外は記憶と合致しないほど修復が進んでいました。それは遺跡内に設置された案内看板の写真でも分かりました。ほとんど始めてくるような気持ちで見学できましたが、古(いにしえ)の町の様子が伺い知れるほど変わっていました。途中からガイドさんの説明を聞いているグループから離れて1人で遺跡の中を歩いたのも良かったです。思い出すのは前回の1日ツアーではガイド兼ドライバーのおじさんとフランス人の看護師と幼稚園の先生の女性2人と乗用車で観光した事でした。何しろ3人しかいないのでずっと話をしていた記憶があります。モスクでショールを被った姿に笑ったり、お昼も川沿いのテラスレストランでマスを食べたり…。彼女たちは1週間の予定でアンタルヤを旅していましたが、こちらは1か月の旅だったことと、毎年7週間ほどの休暇が2回あるというと「日本の労働環境はいいわね。」なんて羨ましがられたものです。翌日のミュラとケコヴァの遺跡巡りは大型バスだったのであまり話せませんでしたが楽しい思い出です。<br />ペルゲ遺跡はじっくり見学しましたがこの日の観光はこれで終わりで、見学後はホテルに戻って自由時間になります。午後3時過ぎにはホテルに戻れるので、その後はタクシーに乗ってアンタルヤ考古学博物館へ行く予定にしていました。ここも以前行っていますがどうしても妻にペルゲから発掘された大理石の像や石棺を見せたいと思っていたからです。<br />

トラピックス「トルコ大周遊15日間」(20)アンタルヤ考古学博物館へ行く前にペルゲを見学し、17年前に遺跡を歩いたフランス人女性を思い出す。

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2019/11/01 - 2019/11/01

30位(同エリア110件中)

旅行記グループ 2019 トルコ周遊の旅

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kojikoji

kojikojiさん

アンタルヤの旧市街の観光の後に昼食を食べて、午後はペルゲ遺跡の見学になります。ここも17年前に一度来たことがありましたが、入り口からしてかなり変わっていて、有名なヘレニズム時代の2つの円塔の門とローマ浴場以外は記憶と合致しないほど修復が進んでいました。それは遺跡内に設置された案内看板の写真でも分かりました。ほとんど始めてくるような気持ちで見学できましたが、古(いにしえ)の町の様子が伺い知れるほど変わっていました。途中からガイドさんの説明を聞いているグループから離れて1人で遺跡の中を歩いたのも良かったです。思い出すのは前回の1日ツアーではガイド兼ドライバーのおじさんとフランス人の看護師と幼稚園の先生の女性2人と乗用車で観光した事でした。何しろ3人しかいないのでずっと話をしていた記憶があります。モスクでショールを被った姿に笑ったり、お昼も川沿いのテラスレストランでマスを食べたり…。彼女たちは1週間の予定でアンタルヤを旅していましたが、こちらは1か月の旅だったことと、毎年7週間ほどの休暇が2回あるというと「日本の労働環境はいいわね。」なんて羨ましがられたものです。翌日のミュラとケコヴァの遺跡巡りは大型バスだったのであまり話せませんでしたが楽しい思い出です。
ペルゲ遺跡はじっくり見学しましたがこの日の観光はこれで終わりで、見学後はホテルに戻って自由時間になります。午後3時過ぎにはホテルに戻れるので、その後はタクシーに乗ってアンタルヤ考古学博物館へ行く予定にしていました。ここも以前行っていますがどうしても妻にペルゲから発掘された大理石の像や石棺を見せたいと思っていたからです。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
鉄道 観光バス タクシー 徒歩
航空会社
エミレーツ航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • アンタルヤを出た後に渓流の眺めの美しいレストランでマスを食べ、食事の後は近くにあるペルゲ遺跡の観光に向かいます。

    アンタルヤを出た後に渓流の眺めの美しいレストランでマスを食べ、食事の後は近くにあるペルゲ遺跡の観光に向かいます。

  • 最初に劇場の遺跡が見えてきてバスは駐車場に停まります。他に停まっているバスも無く、広大な遺跡は我々のツアーだけで貸し切りのようです。

    最初に劇場の遺跡が見えてきてバスは駐車場に停まります。他に停まっているバスも無く、広大な遺跡は我々のツアーだけで貸し切りのようです。

  • 以前は無かった入り口のゲートまで完備されていて驚くほどの変わりようです。入口の手前のジオラマ模型の前でガイドさんの説明がありました。

    以前は無かった入り口のゲートまで完備されていて驚くほどの変わりようです。入口の手前のジオラマ模型の前でガイドさんの説明がありました。

  • ギリシャ神話によればペルゲの伝説的な起源は紀元前13世紀に遡り、ギリシャ移民がパンフィリアに到着しトロイ戦争の後になって小アジアを横断しました。この移民の指導者はモプソスとカルチャスとアンフィロカスの3人の先見者であるとされていました。モプソスとカルチャスの2人はペルゲの創設者として認められていました。ペルゲ地域の最初の集落は遺跡の一番奥のアクロポリスの丘の上にあり、下の平野には最も保存状態の良い遺跡が広がります。

    ギリシャ神話によればペルゲの伝説的な起源は紀元前13世紀に遡り、ギリシャ移民がパンフィリアに到着しトロイ戦争の後になって小アジアを横断しました。この移民の指導者はモプソスとカルチャスとアンフィロカスの3人の先見者であるとされていました。モプソスとカルチャスの2人はペルゲの創設者として認められていました。ペルゲ地域の最初の集落は遺跡の一番奥のアクロポリスの丘の上にあり、下の平野には最も保存状態の良い遺跡が広がります。

  • 劇場の奥には逆U字型の競技場が続き、その右側には遺跡全体の模型が見えます。巨大な城壁で囲まれた中に円筒形の城門があるのが分かります。ここで全体像を見ておくと遺跡の中に入ってもイメージがしやすいと思います。

    劇場の奥には逆U字型の競技場が続き、その右側には遺跡全体の模型が見えます。巨大な城壁で囲まれた中に円筒形の城門があるのが分かります。ここで全体像を見ておくと遺跡の中に入ってもイメージがしやすいと思います。

  • 遺跡の中に入って最初に見えてくるのはローマ時代のクレーン車です。なんて訳はないので何だろうと思っているとちゃんと案内看板がありました。

    遺跡の中に入って最初に見えてくるのはローマ時代のクレーン車です。なんて訳はないので何だろうと思っているとちゃんと案内看板がありました。

  • 左側の錆びてしまった方は1973年から1995年までの遺跡の発掘でイスタンブール大学のチームが使った「ペリヴァン」と名付けられたクレーンで、名前の意味は「レスラー」だそうです。オレンジ色のクレーンはシデ遺跡の発掘と調査で使用され、アポロ神殿を修復したものだそうです。また1986年からアランヤのマラガット遺跡のオイマピナル・ダムの修復にも使われ「セリ・キズ」と名付けられたそうです。意味が「ブロンド娘」って?

    左側の錆びてしまった方は1973年から1995年までの遺跡の発掘でイスタンブール大学のチームが使った「ペリヴァン」と名付けられたクレーンで、名前の意味は「レスラー」だそうです。オレンジ色のクレーンはシデ遺跡の発掘と調査で使用され、アポロ神殿を修復したものだそうです。また1986年からアランヤのマラガット遺跡のオイマピナル・ダムの修復にも使われ「セリ・キズ」と名付けられたそうです。意味が「ブロンド娘」って?

  • 17年前にこの遺跡へ来たのはアンタルヤのカレイチの中の小さな旅行会社のツアーでした。1日ツアーはバスで行くのかと思ったら1台の乗用車がやってきて、ドライバー兼ガイドのおじいさんと若い女性2人の4人でアスペンドス遺跡とデュバンバシュ自然公園などを周りました。2人はフランスのリヨンから1週間程の休暇でやってきた製薬会社に勤める人と幼稚園の先生でした。お昼も3人でマス料理を食べながらいろいろなことを話しました。そんな夢のような1日はアンタルヤとギリシャのメテオラで1回あったくらいでしょうか。

    17年前にこの遺跡へ来たのはアンタルヤのカレイチの中の小さな旅行会社のツアーでした。1日ツアーはバスで行くのかと思ったら1台の乗用車がやってきて、ドライバー兼ガイドのおじいさんと若い女性2人の4人でアスペンドス遺跡とデュバンバシュ自然公園などを周りました。2人はフランスのリヨンから1週間程の休暇でやってきた製薬会社に勤める人と幼稚園の先生でした。お昼も3人でマス料理を食べながらいろいろなことを話しました。そんな夢のような1日はアンタルヤとギリシャのメテオラで1回あったくらいでしょうか。

  • ペルゲのアクロポリスの地域からの考古学的発見は紀元前5千年まで遡ります。連続的な定住の最古の痕跡は紀元前3千年に始まり、都市はビザンチン時代まで存在したことが分かっています。ヒッタイトの首都ハトッウシャシュで発見された粘土板に基づいて、一部の学者はペルゲをヒッタイトの都市パーハという説を持っているそうです。

    ペルゲのアクロポリスの地域からの考古学的発見は紀元前5千年まで遡ります。連続的な定住の最古の痕跡は紀元前3千年に始まり、都市はビザンチン時代まで存在したことが分かっています。ヒッタイトの首都ハトッウシャシュで発見された粘土板に基づいて、一部の学者はペルゲをヒッタイトの都市パーハという説を持っているそうです。

  • ギリシャとヘレニズム時代の紀元前4世紀にペルゲはペリプルス(Periplus)の著者によって歴史上に再び登場します。海辺から10キロ以上離れながら海運から利益を得ている川沿いの都市についても記述があり、この都市の豊かさはこの時期にカイストロス川が航行可能であったという事実に基づきます。ペルゲは現在ララと呼ばれるアンタルヤの地区にあるマギドゥス港に通じる道路で繋がっていたそうです。

    ギリシャとヘレニズム時代の紀元前4世紀にペルゲはペリプルス(Periplus)の著者によって歴史上に再び登場します。海辺から10キロ以上離れながら海運から利益を得ている川沿いの都市についても記述があり、この都市の豊かさはこの時期にカイストロス川が航行可能であったという事実に基づきます。ペルゲは現在ララと呼ばれるアンタルヤの地区にあるマギドゥス港に通じる道路で繋がっていたそうです。

  • 紀元前334年までパンフィリアの他のすべての都市と同様にペルゲはペルシャの影響を受けていました。アレキサンダー大王が率いるマケドニア軍がこの地域に到着すると、ペルゲはすぐに降伏してマケドニア人に門を開きました。ペルゲの住民はパンフィリアの案内者としてアレクサンダー大王の一行に取り入りました。

    紀元前334年までパンフィリアの他のすべての都市と同様にペルゲはペルシャの影響を受けていました。アレキサンダー大王が率いるマケドニア軍がこの地域に到着すると、ペルゲはすぐに降伏してマケドニア人に門を開きました。ペルゲの住民はパンフィリアの案内者としてアレクサンダー大王の一行に取り入りました。

  • 紀元前300年頃にペルゲはペルガモン王国の都市として典型的なヘレニズム文明を取り入れます。紀元前2世紀にペルゲは最初の繁栄期を経験しアルテミス神を描いたコインを鋳造し始めます。

    紀元前300年頃にペルゲはペルガモン王国の都市として典型的なヘレニズム文明を取り入れます。紀元前2世紀にペルゲは最初の繁栄期を経験しアルテミス神を描いたコインを鋳造し始めます。

  • ペルゲで生まれた最も有名なのは、傑出した数学者で天文学者でもあるアポロニウスでした。 彼はアルキメデスと並ぶギリシャの最も偉大な数学者の1人と考えられています。 アポロニウスはアレクサンドリアの思想派に属し、彼の最も重要な作品は断片のみで保存されていたコニックスで分析幾何学の発展に寄与しています。

    ペルゲで生まれた最も有名なのは、傑出した数学者で天文学者でもあるアポロニウスでした。 彼はアルキメデスと並ぶギリシャの最も偉大な数学者の1人と考えられています。 アポロニウスはアレクサンドリアの思想派に属し、彼の最も重要な作品は断片のみで保存されていたコニックスで分析幾何学の発展に寄与しています。

  • 彼は双曲線や放物線や楕円を定義して幾何学の基礎を構築しました。天文学の分野の問題に対処し、惑星の見かけの運動と月の変化する速度を説明するために偏心軌道の仮説も作成しました。 月面にある火口のアポロニウスは彼の名誉にちなんで命名されたものです。

    彼は双曲線や放物線や楕円を定義して幾何学の基礎を構築しました。天文学の分野の問題に対処し、惑星の見かけの運動と月の変化する速度を説明するために偏心軌道の仮説も作成しました。 月面にある火口のアポロニウスは彼の名誉にちなんで命名されたものです。

  • 紀元前188年にペルゲはローマの支配下にあり、紀元前129年に正式にアジアの州に編入されました。紀元前25年に中央アナトリア地方を統括する新しいローマ州ガラティアが設立されるとローマ人は地中海沿岸を繋ぐ街道の整備に入ります。すぐに新しい道「セバステ街道」が建設され、ガラティアのピシディアン・アンティオキアとパンフィリアのペルゲが結ばれます。

    紀元前188年にペルゲはローマの支配下にあり、紀元前129年に正式にアジアの州に編入されました。紀元前25年に中央アナトリア地方を統括する新しいローマ州ガラティアが設立されるとローマ人は地中海沿岸を繋ぐ街道の整備に入ります。すぐに新しい道「セバステ街道」が建設され、ガラティアのピシディアン・アンティオキアとパンフィリアのペルゲが結ばれます。

  • キリスト教の布教は1世紀になるとペルゲに到達し、聖パウロによって住民に紹介されました。彼は聖バルナバと聖ヨハネとの最初の宣教旅行で海路からペルゲに到着しましたがすぐにピシディアン・アンティオキアに移動します。聖パウロは港に戻る途中で説教と教えを続けたためペルゲに長く滞在し、ペルゲに最初の教会が建てられました。

    キリスト教の布教は1世紀になるとペルゲに到達し、聖パウロによって住民に紹介されました。彼は聖バルナバと聖ヨハネとの最初の宣教旅行で海路からペルゲに到着しましたがすぐにピシディアン・アンティオキアに移動します。聖パウロは港に戻る途中で説教と教えを続けたためペルゲに長く滞在し、ペルゲに最初の教会が建てられました。

  • トルコを旅していると十二使徒の足跡に出会うことが多くあります。シリア国境近くにアンタクヤ(ハタイ)という町があり、諸説ありますが聖ペテロが生まれたとされキリスト教最初の教会もあります。ペテロの洞窟の南にある鉄の門は聖書に出てくるアンティオキアに実在した入り口の1つでした。この後に行くエフェソスには聖母マリアが晩年住んだと言われる家があり、ここにも聖ヨハネが同行しています。

    トルコを旅していると十二使徒の足跡に出会うことが多くあります。シリア国境近くにアンタクヤ(ハタイ)という町があり、諸説ありますが聖ペテロが生まれたとされキリスト教最初の教会もあります。ペテロの洞窟の南にある鉄の門は聖書に出てくるアンティオキアに実在した入り口の1つでした。この後に行くエフェソスには聖母マリアが晩年住んだと言われる家があり、ここにも聖ヨハネが同行しています。

  • 1世紀から2世紀にかけてペルゲは小アジア最大の都市の1つであり、パンフィリアの首都の役割についてシデと競い合っていました。 市内で最も保存状態の良い建物のほとんどはこの時代のものです。ペルゲの発展の責任者はカッパドキア王の家族とヘロデ大王につながるローマ上院議員の妻であるプランシア・マグナでした。 ペルゲのヘレニズム時代の門の近くで見つかった彼女の像は、現在アンタルヤの考古学博物館に収蔵されています。

    1世紀から2世紀にかけてペルゲは小アジア最大の都市の1つであり、パンフィリアの首都の役割についてシデと競い合っていました。 市内で最も保存状態の良い建物のほとんどはこの時代のものです。ペルゲの発展の責任者はカッパドキア王の家族とヘロデ大王につながるローマ上院議員の妻であるプランシア・マグナでした。 ペルゲのヘレニズム時代の門の近くで見つかった彼女の像は、現在アンタルヤの考古学博物館に収蔵されています。

  • ペルゲの3番目の繁栄と終焉の時期は都市が司教座を持っていた5~6世紀に始まりました。8世紀には小アジアへのアラブの侵攻中に都市は破壊され、再建されたことがなかったためにペルゲの終わりは非常に早かったようです。

    ペルゲの3番目の繁栄と終焉の時期は都市が司教座を持っていた5~6世紀に始まりました。8世紀には小アジアへのアラブの侵攻中に都市は破壊され、再建されたことがなかったためにペルゲの終わりは非常に早かったようです。

  • 列柱が残ったプロピオンは城壁の前に建てられるもので、以前来たときはこんなに柱が多かったと思うほど修復が進んでいるようでした。

    列柱が残ったプロピオンは城壁の前に建てられるもので、以前来たときはこんなに柱が多かったと思うほど修復が進んでいるようでした。

  • 数日後に行った3度目のエフェソス遺跡では図書館の横の石材置き場が完全に修復されている姿を見て、1度や2度来ただけではダメなんだなと思ったほどです。

    数日後に行った3度目のエフェソス遺跡では図書館の横の石材置き場が完全に修復されている姿を見て、1度や2度来ただけではダメなんだなと思ったほどです。

  • ペルゲの城壁にあるヘレニズムの門はこの街の最も象徴的な建物です。 円形の基礎を持つ2つの塔で構成され、切石で造られた市の門の両側にあります。この門はヘレニズム時代に建てられましたが後に再建されました。120年から122年にプラニカマグナは馬蹄形の中庭の再建に対し資金を提供しました。

    ペルゲの城壁にあるヘレニズムの門はこの街の最も象徴的な建物です。 円形の基礎を持つ2つの塔で構成され、切石で造られた市の門の両側にあります。この門はヘレニズム時代に建てられましたが後に再建されました。120年から122年にプラニカマグナは馬蹄形の中庭の再建に対し資金を提供しました。

  •  円柱の内側の曲線の壁は大理石で覆われ、コリント式の2階建ての吹き抜けが追加されました。上層階の柱の間の隙間にはペルゲの伝説的な創設者であるモプソスとカルチャスの像がありました。下の階レベルにはヘルメスやアフロディーテや牧神のパンなどのギリシャ神の像が置かれました。 2013年以降は門の修復が始まり門の構造内や通過することも出来なくなったようです。

    円柱の内側の曲線の壁は大理石で覆われ、コリント式の2階建ての吹き抜けが追加されました。上層階の柱の間の隙間にはペルゲの伝説的な創設者であるモプソスとカルチャスの像がありました。下の階レベルにはヘルメスやアフロディーテや牧神のパンなどのギリシャ神の像が置かれました。 2013年以降は門の修復が始まり門の構造内や通過することも出来なくなったようです。

  • 以前の1日ツアーではアゴラ側に座ってこの門をスケッチしたことも思い出しました。

    以前の1日ツアーではアゴラ側に座ってこの門をスケッチしたことも思い出しました。

  • ヘレニズム時代の門の東側にはペルゲの広場があります。 各辺が65メートルのこの正方形のエリアは4世紀に建てられました。アゴラはコロネードに囲まれており、かつてはここに並んだ商店が街の住民にさまざまな商品を提供していました。 アゴラの中央にある円形の構造はシデのアゴラの構造に似ています。

    ヘレニズム時代の門の東側にはペルゲの広場があります。 各辺が65メートルのこの正方形のエリアは4世紀に建てられました。アゴラはコロネードに囲まれており、かつてはここに並んだ商店が街の住民にさまざまな商品を提供していました。 アゴラの中央にある円形の構造はシデのアゴラの構造に似ています。

  • シデのアゴラは女神タイチェの神殿ですがペルゲの建物は噴水として機能したと考えられています。南東側のアゴラのすぐ下には公共ペルゲの上水道の跡があり、下水道につながっていました。

    シデのアゴラは女神タイチェの神殿ですがペルゲの建物は噴水として機能したと考えられています。南東側のアゴラのすぐ下には公共ペルゲの上水道の跡があり、下水道につながっていました。

  • 巨大な商店街を維持できるだけの人々がここに住んでいたのだと思うと夢が広がります。ここの列柱も以前に比べて増えているような気がします。

    巨大な商店街を維持できるだけの人々がここに住んでいたのだと思うと夢が広がります。ここの列柱も以前に比べて増えているような気がします。

  • イルカの彫刻がきれいに残っていました。それ以外の出土品はみなアンタルヤ考古学博物館に収蔵されています。

    イルカの彫刻がきれいに残っていました。それ以外の出土品はみなアンタルヤ考古学博物館に収蔵されています。

  • 以前は通れた門は工事囲いで覆われてしまっています。

    以前は通れた門は工事囲いで覆われてしまっています。

  • 中庭の北側には3つのアーチを持つ2階建ての門が建てられました。 午前中に行ったアンタルヤのハドリアヌスの門にも似ています。 建物のニッチ(壁龕)にはネルヴァの治世からハドリアヌスの時代のローマ皇帝やその配偶者の像で飾られていました。

    中庭の北側には3つのアーチを持つ2階建ての門が建てられました。 午前中に行ったアンタルヤのハドリアヌスの門にも似ています。 建物のニッチ(壁龕)にはネルヴァの治世からハドリアヌスの時代のローマ皇帝やその配偶者の像で飾られていました。

  • これらのモニュメントのほとんどはペルゲの最初の発掘の時に発見され、現在はアンタルヤ考古学博物館を飾っています。次の旅行記では考古学博物館の彫刻についての記述になりますが、その多くがここに並んでいたものです。

    これらのモニュメントのほとんどはペルゲの最初の発掘の時に発見され、現在はアンタルヤ考古学博物館を飾っています。次の旅行記では考古学博物館の彫刻についての記述になりますが、その多くがここに並んでいたものです。

  • ペルゲは街の中心で交差する2つの主要な列柱通りによって4つの地区に分かれています。これらの道路の1つは市の門からヘレニズム時代のアクロポリスの丘のふもとまで続き、その長さは300メートルにもなります。

    ペルゲは街の中心で交差する2つの主要な列柱通りによって4つの地区に分かれています。これらの道路の1つは市の門からヘレニズム時代のアクロポリスの丘のふもとまで続き、その長さは300メートルにもなります。

  • この通りに沿って保存された列柱が続き、レリーフで飾られた3つの柱に注意する価値があります。彼女たちはペルチェのアルテミスと運命の女神タイチと街の神話上の創始者の1人であるカルチャスを表しています。

    この通りに沿って保存された列柱が続き、レリーフで飾られた3つの柱に注意する価値があります。彼女たちはペルチェのアルテミスと運命の女神タイチと街の神話上の創始者の1人であるカルチャスを表しています。

  • かつては通りの両側に商店が並んでいたであろうことは想像できます。アクロポリスに向かって歩いているとその遺構を見ることができます。

    かつては通りの両側に商店が並んでいたであろうことは想像できます。アクロポリスに向かって歩いているとその遺構を見ることができます。

  • 振り返ると古代の都市計画の精度の高さを感じざるを得ません。機械的な進化はあっても現代のインフラに近いものはこの時代に完成されていたと思います。

    振り返ると古代の都市計画の精度の高さを感じざるを得ません。機械的な進化はあっても現代のインフラに近いものはこの時代に完成されていたと思います。

  • 遺跡の中には現在地を表す地図とその遺構を説明するパネルがあります。この辺りが下の町の一番北側で、この先の丘陵地がアクロポリスになります。

    遺跡の中には現在地を表す地図とその遺構を説明するパネルがあります。この辺りが下の町の一番北側で、この先の丘陵地がアクロポリスになります。

  • アクロポリスの丘の地域ではここに住んだ人間の定住の最も古い痕跡が発見されましたが、発掘された建物のほとんどはビザンチン時代にさかのぼります。

    アクロポリスの丘の地域ではここに住んだ人間の定住の最も古い痕跡が発見されましたが、発掘された建物のほとんどはビザンチン時代にさかのぼります。

  • 列柱のある通りの北端にはハドリアヌスの噴水と呼ばれる美しいニンファエウムがあります。この名前はこの噴水をペルゲ南部に位置する他の噴水と区別するのです。このニンファエウムはアクロポリスの丘の南斜面に設けられ、市内のさまざまな地区に水を分配する運河の出発点となっています。<br />

    列柱のある通りの北端にはハドリアヌスの噴水と呼ばれる美しいニンファエウムがあります。この名前はこの噴水をペルゲ南部に位置する他の噴水と区別するのです。このニンファエウムはアクロポリスの丘の南斜面に設けられ、市内のさまざまな地区に水を分配する運河の出発点となっています。

  • ハドリアヌスのニンファエウムはU字型の計画で建てられ、その基部の寸法は21メートル x 9メートルです。 この2階建ての建物はかつてアクロポリスへの入口としても使用されていました。 構造物には2つの入り口があり、その間にはカイストロスの神であるセストロス(Cestros)の像が飾られた装飾的なファサードがありました。ニンファウムは部分的に崩壊しましたが、この像はその場所に残されましたが ハドリアヌス帝と他の2つの像はアンタルヤ考古学博物館に運ばれました。

    ハドリアヌスのニンファエウムはU字型の計画で建てられ、その基部の寸法は21メートル x 9メートルです。 この2階建ての建物はかつてアクロポリスへの入口としても使用されていました。 構造物には2つの入り口があり、その間にはカイストロスの神であるセストロス(Cestros)の像が飾られた装飾的なファサードがありました。ニンファウムは部分的に崩壊しましたが、この像はその場所に残されましたが ハドリアヌス帝と他の2つの像はアンタルヤ考古学博物館に運ばれました。

  • 地中海沿岸を旅しているとハドリアヌス帝の足跡に出会う事が多くあります。最初にハドリアヌスを意識したのはローマ近郊のティヴォリにある別荘ヴィラ・ハドリアヌスを見に行った時だと思います。その広大で美しい遺跡に驚かされました。

    地中海沿岸を旅しているとハドリアヌス帝の足跡に出会う事が多くあります。最初にハドリアヌスを意識したのはローマ近郊のティヴォリにある別荘ヴィラ・ハドリアヌスを見に行った時だと思います。その広大で美しい遺跡に驚かされました。

  • ヴィラ・ハドリアヌスの造営と同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、ローマに今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手し、ローマのウェヌスとローマ神殿など属州各地においても多くの建設事業を行っています。

    ヴィラ・ハドリアヌスの造営と同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、ローマに今日まで残るパンテオン神殿の再建に着手し、ローマのウェヌスとローマ神殿など属州各地においても多くの建設事業を行っています。

  • ハドリアヌスのニンファエウムの竣工時の想像図も案内看板を見るとイメージしやすいです。

    ハドリアヌスのニンファエウムの竣工時の想像図も案内看板を見るとイメージしやすいです。

  • ここからは歩いて来た道を戻ることになります。他のツアーのメンバーも妻も先に行ってしまいましたが、古代に思いを馳せて見学するには1人の方が都合よいです。

    ここからは歩いて来た道を戻ることになります。他のツアーのメンバーも妻も先に行ってしまいましたが、古代に思いを馳せて見学するには1人の方が都合よいです。

  • この水路に水が流れていたことも安易に想像が出来るまでに修復されています。中央にはマイルストンのような形をした円柱が立っています。

    この水路に水が流れていたことも安易に想像が出来るまでに修復されています。中央にはマイルストンのような形をした円柱が立っています。

  • 以前来たときはこんな列柱は無かったと思っていると、その理由がすぐに分かりました。

    以前来たときはこんな列柱は無かったと思っていると、その理由がすぐに分かりました。

  • 案内看板には航空写真があり十字型になったメインストリートが見てとれます。

    案内看板には航空写真があり十字型になったメインストリートが見てとれます。

  • その横には2012年から2014年にかけて修復された写真がありました。以前来たのは2002年ですからさらに前になります。上の写真では通リのイメージなど感じる事が出来ませんが、下の写真からは生活感までもが感じられます。

    その横には2012年から2014年にかけて修復された写真がありました。以前来たのは2002年ですからさらに前になります。上の写真では通リのイメージなど感じる事が出来ませんが、下の写真からは生活感までもが感じられます。

  • ペルゲの2番目のメインストリートは東から西に続いています。この通りの両端には、城壁とそれに続く門がありました。噴水と風呂に水を供給する運河は両方の道の真ん中にあり、ペルゲの町を散歩する住民に憩いを与えていたと思われます。その下には下水道が埋められているそうです。大通りの交差点には紀元前80年頃にデメトリオスとアポロニウスの凱旋門が建てられましたが、現在ではその遺構はほとんど見る事が出来ません。発見された建築素材を用いて元の外観の再建計画が進められているそうです。

    ペルゲの2番目のメインストリートは東から西に続いています。この通りの両端には、城壁とそれに続く門がありました。噴水と風呂に水を供給する運河は両方の道の真ん中にあり、ペルゲの町を散歩する住民に憩いを与えていたと思われます。その下には下水道が埋められているそうです。大通りの交差点には紀元前80年頃にデメトリオスとアポロニウスの凱旋門が建てられましたが、現在ではその遺構はほとんど見る事が出来ません。発見された建築素材を用いて元の外観の再建計画が進められているそうです。

  • かなりの大きさで残った石積みの建物はローマ時代の風呂の遺構です。ペルゲにはもう1つ北側の風呂が残されていますが、ここまで体系的な発掘は行われていません。トラバーチンの壁といくつかのアーチが残っていますが、パンフィリア地方の記念碑的な浴場の最高の例の1つとされます。

    かなりの大きさで残った石積みの建物はローマ時代の風呂の遺構です。ペルゲにはもう1つ北側の風呂が残されていますが、ここまで体系的な発掘は行われていません。トラバーチンの壁といくつかのアーチが残っていますが、パンフィリア地方の記念碑的な浴場の最高の例の1つとされます。

  • ペルゲの2番目の浴場はヘレニズム時代の門の西側にあります。これらの風呂は南に向かって開く窓のある一連の部屋で構成されています。「温水とカルダリウム(床暖房と高温高湿度の部屋)がある部屋」「温水プールのある冷水室」「テピダリウム(床暖房のある微温浴室)と湯がある部屋」を見ることができます。

    ペルゲの2番目の浴場はヘレニズム時代の門の西側にあります。これらの風呂は南に向かって開く窓のある一連の部屋で構成されています。「温水とカルダリウム(床暖房と高温高湿度の部屋)がある部屋」「温水プールのある冷水室」「テピダリウム(床暖房のある微温浴室)と湯がある部屋」を見ることができます。

  •  かつてレンガの壁に並んでいた薄い大理石の床スラブの破片はまだ残っています。2つの部屋では露出した暖房システムを見ることができます。床はレンガの柱で支えられ、ボイラー室で加熱された空気は床下を循環していました。

    かつてレンガの壁に並んでいた薄い大理石の床スラブの破片はまだ残っています。2つの部屋では露出した暖房システムを見ることができます。床はレンガの柱で支えられ、ボイラー室で加熱された空気は床下を循環していました。

  • 陶器の配管が金属の配管に変わっただけで現在の設備と変わりないものが数千年前に完成されていたと思うと言葉もありません。配管を固定しているのもローマ時代のセメントです。2000年で進化したのは鉄筋を使うようになったくらいでしょうか。

    陶器の配管が金属の配管に変わっただけで現在の設備と変わりないものが数千年前に完成されていたと思うと言葉もありません。配管を固定しているのもローマ時代のセメントです。2000年で進化したのは鉄筋を使うようになったくらいでしょうか。

  • 簡単ですがこれで遺跡をグルリと1周歩いてきたことになります。集合時間まで多少時間があるのでスタジアムにも足を延ばしてみます。

    簡単ですがこれで遺跡をグルリと1周歩いてきたことになります。集合時間まで多少時間があるのでスタジアムにも足を延ばしてみます。

  • ペルゲにはトルコにある2番目に保存状態の良い古代スタジアムが残っています。アフロディシアスのスタジアムのみがここより良い状態で残されています。 ペルゲのスタジアムは2世紀に建てられ12,000人の観客を収容できました。

    ペルゲにはトルコにある2番目に保存状態の良い古代スタジアムが残っています。アフロディシアスのスタジアムのみがここより良い状態で残されています。 ペルゲのスタジアムは2世紀に建てられ12,000人の観客を収容できました。

  • スタジアムは長さ234メートル幅34メートルあり、これらの寸法によりスタジアムとしての規模は最大とされます。周囲は12段の観客席で構成されてアーチ構造で支えられていました。 スタジアムの長辺に30個と北端に9個のボールト(かまぼこ型の屋根構造)があります。

    スタジアムは長さ234メートル幅34メートルあり、これらの寸法によりスタジアムとしての規模は最大とされます。周囲は12段の観客席で構成されてアーチ構造で支えられていました。 スタジアムの長辺に30個と北端に9個のボールト(かまぼこ型の屋根構造)があります。

  • ボールドは競技場に直接つながっていて発見された碑文からそれらが店として機能したことを示しています。さらにスタジアムの北側からは剣闘士の戦闘のアリーナが見つかりました。 最下列の席には見学者を保護するために低い壁が設けられ、ステージと分離されていました。

    ボールドは競技場に直接つながっていて発見された碑文からそれらが店として機能したことを示しています。さらにスタジアムの北側からは剣闘士の戦闘のアリーナが見つかりました。 最下列の席には見学者を保護するために低い壁が設けられ、ステージと分離されていました。

  • 観客席は見事なほどに原型を残していました。少し手を入れれば元通りになりそうです。

    観客席は見事なほどに原型を残していました。少し手を入れれば元通りになりそうです。

  • ここが15,000人の観客で埋め尽くされた状態を想像することは簡単です。しかし今回のツアーの後半ではアンタルヤ周辺のアスペンドスとペルゲ遺跡、パムッカレのヒエロポリスとアフロディシアスとエフェソスとトロイとトルコに残るローマ遺跡の主だったところは全て周ることになります。

    ここが15,000人の観客で埋め尽くされた状態を想像することは簡単です。しかし今回のツアーの後半ではアンタルヤ周辺のアスペンドスとペルゲ遺跡、パムッカレのヒエロポリスとアフロディシアスとエフェソスとトロイとトルコに残るローマ遺跡の主だったところは全て周ることになります。

  • 見事なアーチの連続が完璧な姿で残っています。単純な連続ですがシンプルな美しさを感じます。

    見事なアーチの連続が完璧な姿で残っています。単純な連続ですがシンプルな美しさを感じます。

  • 競技場の地下にも前の時代の遺跡が埋まっているようです。多分その下にもう待っているのでしょう。最後に行ったトロイの遺跡では9層にもわたる遺構に驚きました。

    競技場の地下にも前の時代の遺跡が埋まっているようです。多分その下にもう待っているのでしょう。最後に行ったトロイの遺跡では9層にもわたる遺構に驚きました。

  • 古代劇場の印象的な建物はペルゲの西側を走る道の脇に建っています。この建物はギリシャとローマの特徴を兼ね備えており、おそらく西暦120年頃に建てられました。観客席は丘の斜面にあり、その形状は半円を超えています。

    古代劇場の印象的な建物はペルゲの西側を走る道の脇に建っています。この建物はギリシャとローマの特徴を兼ね備えており、おそらく西暦120年頃に建てられました。観客席は丘の斜面にあり、その形状は半円を超えています。

  • 観客席の上部にある列柱廊と舞台の構造はローマ劇場の特徴で、劇場は約15,000人の観客を収容できます。2世紀の後半に建てられたカエナエ・フロンスと呼ぶ舞台の建物は2階建てで豪華に装飾されていました。それはディオニュソスの生涯のエピソードを含む神話のシーンを描いたレリーフで飾られていました。

    観客席の上部にある列柱廊と舞台の構造はローマ劇場の特徴で、劇場は約15,000人の観客を収容できます。2世紀の後半に建てられたカエナエ・フロンスと呼ぶ舞台の建物は2階建てで豪華に装飾されていました。それはディオニュソスの生涯のエピソードを含む神話のシーンを描いたレリーフで飾られていました。

  • これらのレリーフと劇場で見つかった多くの彫刻は、現在アンタルヤの考古学博物館のコレクションになっています。残念ながら進行中の修復工事のために劇場は長年にわたって閉鎖されています。

    これらのレリーフと劇場で見つかった多くの彫刻は、現在アンタルヤの考古学博物館のコレクションになっています。残念ながら進行中の修復工事のために劇場は長年にわたって閉鎖されています。

  • 時間ギリギリまで見学してからトイレも済ませ、絵葉書を買うと見学は終わりです。これでこの日の観光はすべて終わりで、このままホテルまでバスで戻ります。まだ午後3時過ぎなので、久しぶりの長時間の自由行動が待っています。

    時間ギリギリまで見学してからトイレも済ませ、絵葉書を買うと見学は終わりです。これでこの日の観光はすべて終わりで、このままホテルまでバスで戻ります。まだ午後3時過ぎなので、久しぶりの長時間の自由行動が待っています。

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2019 トルコ周遊の旅

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