2011/04/06 - 2011/04/11
4031位(同エリア6434件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1760冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,462,323アクセス
- フォロワー169人
王宮周辺には沢山見所があるので、全部見たらここだけで数日かかりそうです。2日程の時間は取ってありましたが、優先順位を付けて見学しました。もちろん王宮の「シシィ博物館」は外せませんが、ハプスブルグ家の宝物は一体どんなものだろうという興味から「王宮博物館」世界一と形容された「オーストリア国立図書館(プルンクザール)」も興味があったので見学しました。プラハで「ストラホフ修道院」の図書室を見たので比較してみたかったのかもしれません。時間が無くてエフェス博物館に行けなかったのは残念でしたが、ほぼ思い通りに見学出来たのではないかと思います。ただ入り口があまりに多すぎて、巨大な王宮を何度もぐるぐる廻らなければならないのには閉口しました。そしてハプスブルグ家の人々への関心も高まり、予定になかった「カプツィーナー納骨堂」へにも立ち寄り、マリア・テレジアやフランツ1世とエリザベートの棺にも参拝することが出来ました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ヘラクレスの偉業の彫像に囲まれたミヒャエル門から「シシィ博物館」に向かいます。カッカッと蹄の音を響かせてフィアカーがやってきました。博物館はこの門の中の右側に入り口があります。
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「シシィ博物館」はエリザベートが生活した空間がそのまま博物館になっています。展示はエリザベートの私生活に焦点を当てて、宮廷の儀式に対する反発や狂気的な美貌への執着、高度なスポーツ能力や数々の旅についてや自作の感傷的な詩など彼女の多彩な側面についても紹介されています。
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バイエルン王国での屈託のない少女時代は姉ヘレーネの見合い相手だった母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げます。シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられましたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたそうです。
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母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、さまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けます。その一つがギリシャのコルフ島で、彼女の別荘であるアヒリオン・パレスへは行ったことがあります。名前の通りギリシャ神話の戦士アキレスに捧げられた、浮世離れした別荘でした。
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エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺で、さらに夫フランツ・ヨーゼフ1世の死後はマリア・テレジアに倣い、死ぬまで喪服を脱ぐことはなかったそうです。
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1898年9月に旅行中のジュネーヴに近いレマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害されてその生涯を閉じました。そのヤスリもこの博物館いは納められ、彼女のデスマスクも飾ってありました。
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エリザベートが刺された三角ヤスリがリアルでした。
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「謁見の間」通常の場合皇帝の謁見は数分だったようですが、1日に100人を超えるので謁見の日は大変だったようです。
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「会議室」ミニスター・コンセイユと呼ばれる大臣会議が行われた部屋です。
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「皇帝の執務室」フランツヨーゼフはこの部屋で午前4時から仕事を始めたそうです。通常の朝食は紅茶かコーヒーにクッキーかプチパンで、1日の締めくくりは1本の葉巻だったそうです。部屋には家族の肖像画が飾られていますが、皇妃の有名な肖像画が飾られています。
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画家のフランツ・クサヴァー・ウィンターハルターの作品で、楕円形の胸元で髪の毛を結んだものが皇帝のお気に入りだったそうです。この作品はエリザベート28歳の頃の肖像画です。
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「皇帝の寝室」皇帝夫婦が別々の寝室を使うようになると、この部屋がフランツ・ヨーゼフの寝室になりました。鉄製の運搬可能なベットは皇帝の移動に伴って運ばれたそうです。この部屋で午前3時30分に起床して、折り畳み式のゴム製の浴槽が運び込まれて入浴したそうです。
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「エリザベートの居間兼寝室」この部屋は1870年ころまでは夫婦の寝室でしたが、その後エリザベートの部屋になりました。赤い衝立の手前には折り畳み式の簡易ベットが置かれてあります左奥の隣の部屋への扉枠の上部には吊り輪が見えます。
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エリザベートは美貌を保つために部屋に肋木や健康器具を置きましたが、その中でも有名なのがこの吊り輪です。
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「エリザベートの大サロン」
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「エリザベートの小サロン」中央の壁には23歳のフランツ・ヨーゼフの肖像画が飾られています。
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「大きな控えの間」の壁にはマリア・テレジア時代の絵画が掛かっています。夫妻には16人子供に恵まれ(成人したのは10人)、子供たちは誕生日や婚礼など家族の祝い事ではダンスや演劇を披露することになっていたそうです。
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「ディナールーム」この部屋の後にもガラスケースに入った銀器が並ぶ部屋がありました。
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「シシィ博物館」の見学を終えて「ホーフブルグ王宮」の中庭に出ました。ここには皇帝フランツ1世の像が置かれてあります。フランツ1世とマリア・テレジアは当時の王室としては異例の恋愛結婚で結ばれていますが、その結婚のためにロレーヌの放棄など数々の屈辱や非難を受けます。
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1765年にフランツは3男レオポルトの結婚祝いのために出向いたインスブルックで、ゴルドーニの喜劇とバレエを鑑賞して帰還した後の夕方に突如没しまいます。 フランツの死後、大勢の人々がその寛大で温かな人柄を惜しみ、褒め称えて敬意を表しました。マリア・テレジアが死を悼み、レリーフを据え付けたインスブルクの凱旋門にも数年後訪ねる事が出来ました。
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中庭の一角にあるスイス門を潜ると「王宮礼拝堂」と「王宮宝物館」があります。礼拝堂には2回行ってみましたが、タイミングが合わず見学できませんでした。王宮の最も古い建物であるこのスイス宮は四つの角櫓を持ち、回りを堀で囲まれて跳ね橋のかかった城塞の中心部分でした。この門の正面に立ち、左右を見てみると当時の堀が今でも見られます。
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スイス門は1552年から宮廷建築家のピエトロ・フェラボスコによって造られたとされ、門の上部にはフェルディナント1世の名前がラテン語で銘打たれています。門を潜った内側の天井にはオーストリアの紋章がフレスコ画で描かれています。
この建物と門のスイスという名前は、マリア・テレジアの夫フランツ1世が短期間ではあったが18世紀半ばにスイス近衛兵の一員であり、さらにスイス近衛兵が王宮の警備につくためここに宿営していたことに由来します。 -
「王宮宝物館」に入るとプロローグ的なものは一切なく、本物の宝物ばかりが並んでいるという印象を受けます。この上着も金糸の刺繍が見るからに重そうに見えます。サンマルコの刺繍には「汝に平和(安らぎ)を、マルコよ、我が使徒」とラテン語で書かれてあります。左側のエンブレムはヴィスコンティ家の紋章で、4世紀に王冠をかぶった大蛇の怪物を退治したといわれるミラノの守護聖人聖アンブローズの伝説のビッシオーネ(大蛇)のようです。ミラノが本拠地のアルファ・ロメオのエンブレムにもこの蛇が描かれています。
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中国の貴州省の苗族などの少数民族の刺繍に魅せられて集めるようになってからこのような刺繍も気になるようになりました。ライオンは「百獣の王」であり、勇気や権力や王権の象徴として古代から紋章の図柄によく使われますが、これはハプルブルク家の祖先が使っていた「金色の上に浮かび上がる、青い王冠をかぶった赤いライオン」と思われます。
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古代ローマ皇帝はその力の象徴として鷲を選びました。鷲は「強さ、勇気、遠眼、不死などの象徴」として使われ、空の王者や最高神の使者とも考えられていたからです。神話の世界ではギリシャ神話ではゼウス、ローマ神話ではユーピテル、キリスト教芸術では福音記者ヨハネなどに関連して使われてきました。ルドルフ1世がローマ皇帝に推挙されたところから頭角を表し始めたハプスブルク家は安定するまでに150年かかったものの、16世紀から「ローマ皇帝」の座はほぼ継続的にハプスブルク王朝のなかで世襲されていきます。2つの王冠と紋章からオーストリア=ハンガリ2重帝国時代の物だと思います。
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「皇帝ルドルフ2世の王冠(後にオーストリア帝国の王冠)」
この王冠はヨーロッパの金細工の最高峰とされます。1576年にローマ-ドイツ皇帝として統治したルドルフ2世皇帝の私冠としてプラハで造られました。アントワープ出身の金細工職人ヤン・ヴェルミエンはこの仕事のために皇居プラハに呼ばれました。世界で最も完璧で、最も美しく、最も貴重な王冠の1つとされ、1612年のルドルフ2世の死後にも壊されませんでした。統治に対する皇帝の主張は意味が異なる3つの主要部分、王冠(ルドルフ2世はボヘミアとハンガリーの王)の形をしたユリの花輪のあるコロネット、王冠から派生した高いブラケット、および黄金の留め釘に象徴されています。これは地上におけるキリスト教の総督として君臨する皇帝の恵みを象徴しています。貴重な真珠の列がすべての輪郭に並べられます。皇帝の王冠やその他のすべての神聖ローマ帝国の記章はニュルンベルクに保管され、戴冠式にのみ使用されたため、皇帝は他のすべての機会のために専用の冠を造らなければなりませんでした。ルドルフ2世のために作成されたこの王冠は崇高な帝国思想と洗練された芸術の趣を表現しています。 -
黄金の留め継ぎの4つは左側の正面にはトルコ人(大将軍)の勝者、右側にはレーゲンスブルクのローマ皇帝(アウグストゥス)への戴冠式、左側にはハンガリーの王としての戴冠式の後の行列が描かれています。使用される宝石の種類と数は寓話的で神秘的な意味を持っていて、 8つのダイヤモンドは八角形の王冠を指す神聖な数です。中央のユリの紋章をかたどった真珠の中央には聖霊降臨祭を示す赤い色のルビーが配され、王の叡智を示して冠のアーチ部分に施されたダイヤモンドは王の統治を保証するキリストを表しています。冠の上部の青いサファイアは天国を示しています。
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「王笏(セプター)」
古い情報によると王笏は「アイクフールン(ユニコーンの角)」(実際は一角の角)から作られたと言われます。伝説によるとユニコーンをとらえるには処女の女性のひざに頭を置いたところを女性自身で捕まえなければなりませんでした。ユニコーンの角はキリストを表し、神の力の象徴となりキリストから王権を与えられた世俗の支配者の印になります。マティアス帝が付け加えたこれらは帝冠に合わせてアンドレアス・オセンブルックによって1615年頃製作されました。
1619年よりこれらはフェルディナント2世の新しい表章となり、フランツ2世はオーストリア皇帝としてこれを使用しています。 -
「宝珠(オーブ)」
宝珠はルドルフ2世の王冠のデザインコンセプトを継承しています。使われている宝石はダイヤモンドとルビー、パールに加えて大きな青いサファイアから構成されています。皇帝の戴冠式には正式な装束とこれらの帝冠と宝珠と王笏が必要不可欠でした。 -
「オーストリア帝国の先駆けとなるタバード」
タバードは中世の騎士が鎧の上に着たり,修道僧が戸外で着たの上着の一種です。
前面と背面にはハンガリーとボヘミアの王冠付きの双頭のワシが、インペリアルクラウンを被り、立体刺繍で表されています。ワシは足に宝剣と宝珠をつかんでいます。ワシの胸には帝国の紋章が掲げられ、ハプスブルクとオーストリアとロレーヌの紋章があります。周囲には新旧ハンガリー、ボヘミア、ガリツィエン、イリリエン、オーストリア、エンス、トランシルヴァニア、ザルツブルク、モラビアシレジア、スティリア、ケルンシアケリン、チロルの紋章が囲んでいます。 -
「王のゆりかご」
このゆりかごはパリ市からナポレオンと2人目の妻のマリー・ルイーズへの贈り物でした。1811年3月20日に息子のナポレオン・フランツカールが誕生しました。神聖ローマ帝国の伝統を引き継ぐために、父親は新生児に「ローマの皇帝」になることを望み、ゆりかごが王座のように壮大でなければなりませんでした。儀式用の家具として、チュイルリーの天蓋の下の台座の上に置かれました。約280キロの銀が贅沢に使用されました。ナポレオンはエンブレムとしてブルボン王朝のユリの代わりにミツバチ(メロヴィング朝のチルデリッチ王の墓で発見された黄金のセミを基にしている)を採用していました。ベットの足元に小さなワシが座っており、ナポレオンのモノグラムが付いている星の花輪から伸びる星に向かって飛ぼうとしています。この星の形をしたリースは月桂樹のリースの上にあります。ミツバチの刺繍が施されたオリジナルのチュールブランケットは、今でも断片的に保存されています。 -
「洗礼缶と洗礼ボウル」
約10.5キロの金が使用された貴重な飾りは10,000ギルダーと一緒にケルンテン州の田園地帯(ケルンテンの紋章が水差しの本体と洗面器の中心に表示されます)から、内側オーストリアの大公カールとバイエルンのマリアに贈られました。その後マリアの所有物から皇帝フェルディナンド2世に伝わりました。皇室は少なくとも洗面器を聖洗礼に使用したため鋳溶かされることはありませんでした。この当時の金細工や銀細工は戦争などの有事の時には溶かされていました。細工の様式からこのセットがスペインの金細工師の作品であることを示していますが、スペインで製造されたものか、ウィーンで製造されたものかはは不明ですが、スペインの金細工師が皇帝マクシミリアン2世の時代にウィーンで働いていました。 -
「教会の財宝」
この収蔵品はハプスブルク家のカトリック教から反宗教改革の時代までの中世の遺物がウォールナットの陳列台に納められています。 -
素晴らしい貴石の象嵌で造られた祭壇です。これも途方も無い時間と費用がかかったのでしょう。
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「聖母マリアの記念柱のレプリカ」
18世紀にヨーロッパに蔓延したペストの流行が終わったことを感謝して各地で聖母マリアの記念柱が建てられました。その制作に先立ってこのような作品が作られて教会に納められました。 -
ヒヤシンス「ラベラ」
416カラットの石の裏の銘には皇帝レオポルド1世が1687年にハンガリーの貴族から「VNschatzbare Kleynodt so HIACENT LABELLA」を取得したと記されています。15世紀初頭に白いエナメルで覆われた金色の小枝で構成された石にエナメルを施した双頭のワシが追加されました。足にはハンガリーの紋章付きの宝剣とボヘミアの紋章付きの宝笏を持っています。この宝石はすでに1619年にマティアス皇帝の財産目録にあり、未知の理由で帝国の宝物から外されていたようです。492カラットのファセット・アクアマリンは1800年頃に石を回転させることができる繊細な設定が施されました。 -
他にもハプスブルグ家の逸品とされる世界最大のエメラルドの容器や「ロンギヌスの剣」とされる宝物などが並んでいました。
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これは宝石で作られた花のブーケは悪趣味としか思えませんが、心惹かれるものでもありました。
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「ステファン・ボッチカイの冠」
この王冠には歴史的なエピソードが残されています。ルドルフ2世による対宗教改革策により、ハンガリーのルター派の山間の町が抵抗するようになりました。ステファン・ボッカカイが反乱軍の指揮を執り、1605年に彼はトランシルヴァニアの王子に選ばれ、バスタ将軍のもとで帝国軍に勝利した後にはハンガリーの王子にもなりました。彼の要請により皇帝と戦っていたスルタン・アフメドは彼をハンガリーの王であると認め、1605年にペスト近くのラーコスフィールドでこの王冠を持つララメフメド・パシャを戴冠させました。その後ボッチカイは皇帝を考慮して、王冠を王室の品格の印と見なすべきではなく、トルコの贈り物と見なすべきだと宣言しました。 1606年6月のウィーンとハンガリーの間の平和協定を結びますがボチカイは12月下旬に亡くなりました。 1608年にマティアス大公がハンガリーの王に戴冠し、1609年11月にハンガリーのランドタグが王冠を彼に渡すことを決定しました。パラティーノのゲオルクトゥルソが1610年にウィーンに持ってきて以来国庫に保管されています。王冠はユリの付いたクラウンフープと閉じたボンネットで構成され、2つの部分は金線で縫い合わされています。三角のエメラルドで強調された額のユリは、ギリシャの十字架を負っています。トルコ人は冠をかぶる伝統がありませんでしたので、王冠の形状はビザンチンから派生した東方教会の司教のフードに基づいています。 -
薄暗い部屋を幾つも通りますが、どの部屋も現在では造れないような(誰も注文しないのでしょうが。)気の遠くなるような時間とお金をかけた物が並んでいます。
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「戴冠式コート(フリードリヒ2世の戴冠式のマント)」
金、と真珠とエナメルプレートで刺繍されたサミット(シルク)で作られた貴重な戴冠式のコートは、神聖ローマ帝国の王や皇帝の戴冠式に使用されたものです。これらの衣服は12世紀と13世紀にシチリアのノルマン王のためにアラブの芸術家によって作られ、ホーエンシュタウファーを通じてドイツにやって来ました。濃い赤い絹で作られたユニークな戴冠式のコートは、金の糸と何千もの真珠で豊かに刺繍されています。それは半円形でエナメルと貴石で飾られた胸の上の留め金で閉じられました。マントの下部にあるアラビア語の銘は528年のイスラム時代にパレルモの王宮の工房で作成されたと書かれてあります。もともと古代のオリエンタルモチーフもアラビア美術からモチーフが選ばれ、対称的に配置されたライオンがラクダに襲い掛かっています。その間には生命の木のように様式化されたヤシの木が立っています。ライオンは敵を倒す支配者を象徴しています。マントの信じられないほどの貴重さのために、13世紀以来はを王やローマ帝国の皇帝の戴冠式のマントとして使用しました。 -
「インペリアルクロス」
ライヒス・クロイツは中世の金細工の最高峰であり、コンラッド2世の治世中に作成されました。前面には宝石と真珠が密集しており、背面には12人の使徒と黙示録の子羊、伝道者の4つのシンボルのニエロの絵が描かれています。インペリアルクラウンと同様に、インペリアルクロスには深い象徴的な意味があります。キリストは復活によって十字架での彼の死を克服したので、キリスト教の勝利の象徴とされます。皇帝コンスタンティヌスは十字架の保護下でミルビアン橋で勝利を収めたので、十字架はローマ帝国の紋章でもありました。 -
セオドシウス2世が450年にゴルゴタの丘の上に築いた宝石で飾られた凱旋十字架があります。ライヒスクロイツは、勝利の要となる宝石であるだけでなく聖遺物箱でもあります。正面の一部のプレートで取り外し、内部のケースを出すことができます。
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「皇冠」
ヒンジで接続された8つのプレートが王冠を八角形を形成します。 4つの小さな中間プレートにはエナメルで描かれた旧約聖書の場面が読み取れます。サイズの異なる4つのメインプレートには高価な宝石や真珠のトリミングが施されています。全体の石の装飾の配置は旧約聖書についての考えに基づきます。額と首のプレートにある12個の大きな石は使徒とイスラエルの部族、およびヤコブの息子たちの数を象徴しています。内容に関してはエナメルプレートと相互に関連しています。旧約聖書の人物の名前を示す3つの碑文では、それらの預言者も、意図された意味を明らかにする独自の言葉の引用符が付いたバナーが描かれています。 -
この冠は962年に神聖ローマ皇帝に即位したオットー1世の戴冠式で使用されたものと伝えられているそうです。
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こうやって戴冠の姿を見るとリアルに本物の王冠だと感じます。
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「戴冠式の福音書」
ウィーンの戴冠式の福音書は中世の最も美しい写本の1つであり、シャルルマーニュの時代の宮廷芸術の主要な作品です。それは金と銀で記述されている236枚の羊皮紙で構成されています。4つの福音書はそれぞれ伝道者の描かれた肖像画が描かれ、額装されたパネルの絵のような錯覚を与えます。未来の皇帝がこの本に誓い、ヨハネの福音書の冒頭を指で触れたため、この聖書は戴冠式の福音書と呼ばれています。 1500年頃に福音書には金メッキされた銀で作られた新しいカバーが付けられました。後期ゴシック様式の玉座の豊かな輪郭の天蓋建築に囲まれています。 -
「黄金の羊毛騎士団の布告者のための紋章」
紋章は騎士のコランと26の細長いわずかに台形のプレートで構成される首輪で構成されています。2つの紋章の盾が主権者のために確保されているため、合計51の騎士で構成されます。これは1516年の総会で皇帝チャールズ5世によって決定されたメンバーの数です。2つのラベルは彼のモットーの上下にチャールズ5世の紋章を示しています。カールのモットーはセウタとジブラルタルの岩で、スペインを象徴するヘラクレスの2本の柱を示しています。 -
「金羊毛騎士団」の衣装が並べて展示してありました。このマークを見るとどうしてもブルックス・ブラザースというアメリカのトラッドブランドを思い出してしまいます。
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「金羊毛騎士団」
金羊毛騎士団はブルゴーニュのフィリップ善良公によって設立され、皇帝マクシミリアンがブルゴーニュ公国のマリア公女と結婚したことによって、領土はハプスブルク家に引き継がれ、以後ハプスブルク家の皇帝が騎士団長をつとめるようになります。 -
「黄金の羊毛勲章のコラーヌ」
黄金の羊毛騎士団の初期の頃から、このコラーヌ(チェーン)は唯一の例として保存されています。コラーヌは2つの要素が並んで構成されています。フリント(鉄で打たれると火花が出るため、火をつけるために使用される石と)、黒いエナメルを塗った半球と側面の火の光線です。騎士団の名称はギリシャ神話のイアソンの物語「アルゴ船伝説の金羊毛」と、旧約聖書の士師記のギデオンの物語に由来しています。モットーは「我らの働きに報償に値しないものはない」で、スペイン国王フェリペ6世やイギリス女王のエリザベス2世に日本の天皇陛下もメンバーです。 -
2日にわたってこの王宮周辺を観光していますが、公開されている博物館の半分くらいしか見る事が出来ません。
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こちらはナポレオンとの戦争などで活躍し、ハプスブルク帝国の皇族にして軍人であったカール大公の騎馬像です。アントン・ドミニク・フォン・フェルンコルンという彫刻家の作品で、世界でただ一人騎馬像彫刻を馬の後足のみで支えて立たせることに成功した人物とされています。
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新王宮の「エフェソス博物館」に行きたかったのですが、時間が無いので優先順位から外れてしまいました。後にトルコの旅をすることになり、3度目のエフェソスへ行った際に後悔することになりました。
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オイゲン公騎馬像です。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世に仕えてヨーロッパを転戦し、多くの戦いに勝利してハプスブルク朝に貢献したオーストリアの英雄オイゲン・フォン・ザヴィエン公です。爵位とは異なりますが、活躍を称えて公子の称号を授与されたのでプリンツ・オイゲン(オイゲン公)と呼ばれています。
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1687年にハンガリーの平原を舞台にした、オスマン帝国軍との「モチーハの戦い」で、騎馬隊を指揮して最前線でハンガリーを守って大勝利に導きます。ブダペストのブダの王宮にも銅像があるほどなのでハプスブルグ家にとって重要な人物だったと分かります。
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フィアカーの生きている馬はお客を待っています。この辺りには大きな箱が道路に並んでいるので何かなと思ったらベビーカーを収納する箱でした。フィアカーには載せられないようです。
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馬もただ立っているいるだけかと思ったら、ちゃんと休めのポーズがありました。
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ハプスブルグの方々に敬意を表して「カプツィーナー納骨堂」を参拝しました。ハプスブルグ家の有名な伝統的な遺体埋葬方法があり、心臓と内臓と骨と大きく3つに分けて、それぞれウィーン中心部にある3つの教会に安置しています。ただハプスブルグ家全ての人々がこのスタイルで眠っているわけでは無く、17世紀前半の1619年に亡くなった皇帝マティアスから19世紀後半の1878年に亡くなった
フランツ・ヨーゼフ1世の父フランツ・カールまでの人々です。 -
「カプツィーナー納骨堂」の建物はシンプルで広く感じませんが、内部にはこの通りの納骨堂があり、数多くの棺が並んでいます。
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マリア・テレジアの棺はその3つの教会のひとつであるカプツィーナ教会の地下納骨所に あります。カイザーグルフトとかカプツィーナーグルフトとも呼ばれています。 この墓所には1633年以来、皇帝家の人々149人の棺が納められています。そのうち12人が皇帝で19人が皇妃および王妃です。
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ひときわ豪華な棺はマリア・テレジアと夫君の皇帝フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンのためのもので、彫刻家バルタザール・フェルディナント・モルの代表作です。柩は8つの足に支えられ、豪華な赤大理石の上に置かれ、側面には「マリア・テレジアのプラハでの戴冠」「プレスブルク(ブラティスラヴァ)戴冠での乗馬」「シュテファンのフランクフルトでの戴冠」「シュテファンのフィレンツェでのトスカーナ大公としての入城」といったマリア・テレジアとフランツ・シュテファンの人生での4シーンがレリーフとして施されています。
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棺の四隅には悲しみを表す精霊が置かれ、ボヘミアとハンガリー、エルサレムと神聖ローマ帝国のそれぞれの王冠とワッペンを持っています。
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周囲には子供たちの棺が置かれてあります。足元には髑髏が置かれていたりグロテスクですが、頭部側では生前の姿のレリーフを持った天使の姿があり、気分的に救われます。このような彫刻の施された棺をサルコガファスと呼びます。古代エジプトではミイラの棺の1番外側の棺を呼び、チェルノブイリの原子力発電所のコンクリートの覆いもサルコガファスと呼びます。
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フランツェンス納骨堂の中央に置かれるのはフランツ1世の棺です。神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝で、最初のオーストリア皇帝でもあります。
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フェルディナンド納骨堂の中央に置かれたフェルディナンド1世の棺です。最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世とその皇后で両シチリア国王フェルディナンド1世の長女であるマリア・テレジアの長男として誕生しました。姉にはフランス皇帝ナポレオン1世の皇后となったマリア・ルイーザがいます。
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贅沢な空間に棺が置かれてある姿は、ナポレオン1世の棺が安置されたパリのアンヴァリッドを思い出させます。
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歴代の皇帝たちの棺と著しいコントラストを示すのは、フランツ・ヨーゼフ1世の極めて質素な棺です。ここに納棺された最後の皇帝は1916年に亡くなったフランツ・ヨーゼフ1世です。エリザベート皇妃とルドルフ皇太子の棺も、ここに納められています。
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墓所の管理をするのはカプチン会修道士12人の幾人かで、聖職者の仕事と並行して地下納骨堂の保護と管理という慣例的な役割を続けています。中央に皇帝の棺を配し、左側には妻のエリザート、右側には自殺したとされる皇太子のルドルフの棺です。
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皇帝墓所への納棺は現代まで続いていて、1989年にはオーストリア最後の皇后ツィタ皇妃の棺が納められました。更に2011年7月16日にはかつての皇太子であり政治家として活動したオットー・ハプスブルクがレギーナ夫人とともにここに永眠の地を得ています。
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「オーストリア国立図書館(プルンクザール)」
オーストリア国立図書館は世界で最も美しいヨーロッパ最大のバロック様式の図書館として知られています。 -
ミヒャエル広場からアルベルティーナ美術館へ向かう通りを歩くと、右手にヨーゼフ2世像の立つ広場が見えてきます。この通りは何度も歩いていましたが、この奥が図書館だとは気が付きませんでした。
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窓口でチケットを購入して階段を上りますが、図書館へ向かうというよりは宮殿の中へ入っていくような気になります。
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この階段ホールだけを見ているとこの先にバロックの洪水の様な図書館があるとは思えません。
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シンプルな白漆喰の階段を登りきると世界が一変します。
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18世紀に神聖ローマ皇帝カール6世(女帝マリア・テレジアの父)の命令により、宮廷建築家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハが設計し、その息子が建築を手がけた宮廷図書館です。1920年には現在のオーストリア国立図書館となり、ウィーンの一般市民にも公開されるようになりました。
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図書館内の豪華なプルンクザールは長さ80メートルにおよび、高さは20メートル、中央の丸天井は宮廷画家ダニエル・グランの華麗なフレスコ画で飾られています。
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図書館の一番の見どころは天井のクーポラに描かれた美しいフレスコ画で、ハプスブルク家歴代の皇帝の偉業をそれぞれ描いたものです。よく見るとトロンプ・ルイユ(騙し絵)になっており、今にも人が飛び出してきそうなほど立体的に見えます。
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図書館ホールの中央部に立っているのがマントを翻して堂々としている姿がとても勇ましい神聖ローマ皇帝カール6世の像です。図書館を見上げるような姿がドヤ顔のように見えます。
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1階から吹き抜けになった2階まで本棚がずらりと並んでおり、オスマントルコとの戦争で活躍したプリンツ・オイゲン公の蔵書が約15,000冊で、宗教改革者で知られるマルティン・ルターの膨大な蔵書も収められています。
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オイゲン公は非常に本が好きな人物だったそうです。良く見ると書棚には隠し扉があり奥の棚にも蔵書が見えます。
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この書架にどれだけの情報が詰まっているのでしょう。
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プラハのストラホフ修道院の2つの図書室も見事でしたが、この図書館の空間の前には太刀打ちできないでしょう。
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ドーム天井を中心に十字の形に書架が広がり、その間に大理石彫刻が並んでいます。
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典型的なバロック様式の内装は豪華の極みです。2階へ上がる螺旋階段までもが色大理石で覆われています。
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こんな空間を2人で占有して良いのだろうかと思います。今回の旅ではそんなシチュエーションに数多く出合いました。ウィーンでさえこの調子ですからプラハやブダペストは推して知るべしです。
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ドームの丸窓から午後の陽射しが書棚に当たります。何百年も同じ時間が流れているのでしょう。
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皇帝カール6世を中心に会議でもしているようです。まさに映画「会議は踊る」のようですね。ナポレオン・ボナパルト失脚後のヨーロッパを議した1814年のウィーン会議を時代背景にしたドイツ映画の題名ですが、オーストリアのリーニュ侯爵シャルル・ジョセフの言葉といわれる「会議は踊る、されど進まず」からの引用です。
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図書館に地球儀と天球儀は付き物なのでしょうか。良く見ると日本も確認出来ました。古い地図を読んでいて、今回の旅で古地図を探していない事に気が付きました。まあチェコとオーストリアとハンガリーの地図では部屋に飾っても見栄えがしないのであまり積極的になりませんでした。
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天球儀は地球儀と違って夢がありますが、あまり星座に興味が無いので詳しく見たことがありません。そもそも見方が良く分かりません。
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ルネサンス期の科学者の肖像ではしばしば天球儀を片手に持った姿が描かれているほど知恵と知識の象徴だったようです。現在のポルトガルの国旗にも天球儀が描かれ、マヌエル1世の治世下には国家のシンボルでした。
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2階のかなり高い場所に本を探している方が見えました。上から見たらすごい高さだと思います。そしてこの図書館大きさを改めて感じました。
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