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しにあの旅人さんへのコメント一覧(22ページ)全508件

しにあの旅人さんの掲示板にコメントを書く

  • 連理の枝と、鍵穴説♪

    夏から一気に冬?すがすがしい秋を飛び越えて、朝夕めっきり冷える季節となりました。サイクリングには最適な気候ですが、しにあさんby妻さんは真夏の久々サイクリングだったのですね。

    連理の枝、例によってgoogle りました。玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の夕べに愛を誓い合った言葉だとか?『天にありては願わくば比翼の鳥(2羽で一体で飛ぶ)、地にありては連理の枝(2本の枝がくっついた)とならん』確かに「連理の枝」墜落の心配はありませんが、ぽきっと折れちゃう事も?←コレは我が家の場合です(-。-; 可能性、という意味で?!

    古事記朗読に伴奏がついていた説♪ 朗読劇とコーラス付きの一大スペクタクルミュージカル、舞台は古墳の上、後円が舞台で前方が貴賓席、みたいなお話でした。
    墳墓で祭祀がおこなわれ、墳丘を飾って葬礼葬儀の舞台としていたという事実が裏付けられ、by妻さん古代人直系説、さもありなん^ ^

    一体何の為に、こんな大きなお墓を作った?ピラミッドの様にそびえたち人民、敵への威信誇示しているワケではなく「ただず~っと続くだけ、まだ仁徳陵、まだ仁徳陵…」
    人類宇宙発生説、はともかく、地球の扉を開く鍵穴説、そうかもしれません^o^
    地球外知的生命体への招待、目印的な、鍵穴♪
    きっと、天文学的宗教的意味で天に向かって作られた!
    (卑弥呼さまについては無知なのでコメント控えさせて頂きますm(_ _)m)

    古墳を覆う石が磨かれているのも、太陽の光を反射して輝かせる効果を狙った。
    卑弥呼さま登場と共に、出ました、オーケストラ♪
    その光景が脳内でBGM付き映像化しています。
    2021年10月24日12時21分返信する 関連旅行記

    Re: 連理の枝と、鍵穴説♪

    By妻の脳の一部が古代から進化していない説は、本人が「失礼しちゃうわね」とは言いましたが、否定しないので、ありかと。
    でもこういうヒラメキって、女性の方が男より優れていると思いませんか。

    仁徳陵って、本当に延々と続くのです。象の体を這うアリンコとしては、見えるのは、あまりキレイではない細長い池の向こうの林だけですから、面白くもなんともない。

    奈良、飛鳥よかったなあ、とつくづく思います。平城京跡みたいなのを期待していたので、かなりがっかり。せめてお堀に沿って一周できればいいのですが、高級住宅地がお堀端まで占拠しておりました。
    高度成長期に潰されて、なんとかハイツとかにならなかっただけよかったか。
    本当に宅地に変わり果てた古墳もあるようです。

    仁徳、履中陵は、最初は1本だったのですが、写真が多すぎるので分割しました。連続してUPしましたので、続けて読んでください。
    2021年10月24日20時17分 返信する
  • 仁徳天皇陵

    しにあの旅人さん

    おはようございます。
    炎天下のもと、決行されました仁徳天皇陵を巡るサイクリング旅行記
    拝見しました。
    当日は、歩行者も少ない様子の好天でしたし、一周終わった頃には
    私でしたら熱中症にでもなりかねないような。
    現代にあっては夏草が茂り、周囲のお堀はプランクトンのせいか水も澱み
    かつての姿、威容を誇った?綾を思い描くこと、難しくなっているんですね。

    それにしましても、前方後円墳の墳丘上で行われた祭祀の様子にはびっくり!
    改めまして、by妻さんがかねてから提唱されておられたという祭祀について書かれた
    「酒折宮」の旅行記を復習してまいりました。
    ずっと祭祀の様子、イメージを抱かれていたby妻さんのご発想、もしかしたら
    古代ともダイレクトに無意識レベルで、いえいえ意識レベルでも繋がっておられるやも、
    直観的に観るお力があるのかも、など想いました。
    by夫さんには、沢山の事を見破られたご経験がおありではないでしょうか(笑)

    ピカピカに磨かれた墳丘の上で執り行われる祭禮
    銅鐸はやはり楽器として用いられ
    そして雅な楽曲が流れてきたら
    普通の人ならトランス状態になって、宇宙人ではなく、
    アマテラス大御神が降臨される。。。
    素晴らしい舞台設定となりそうですね。

    天皇陵のイメージが一新された旅行記でした。

    mistral

    2021年10月24日09時25分返信する 関連旅行記

    Re: 仁徳天皇陵

    水は変な緑に染まっていました。プランクトンですか。古代はどうだったんでしょう。現代と同じプランクトンですかね。これ研究したら修論くらいになるかも。
    同じなら、仁徳天皇は、「何これ、汚いねえ」くらい言ったかも。

    古墳が葬祭場だったというのは、By妻が言い出した時は驚きましたね。前もって知っていた様子はない。そのとき思いついたらしい。古代からの潜在記憶、だったりして。でもこういう、前後脈絡のないユニークな発想というのは、女性の方が圧倒的に優れていると思うのですが、いかが。
    日本の女は多かれ少なかれ卑弥呼の末裔なのです。
    ピッカピカの古墳の上で執り行われる祭礼、みてみたいですね。

    ゴーランドの写真、まだまだ博物館に何点も展示されています。
    明治20年くらいまで木が植っていないということは、古代からそれまで誰かが古墳全体をメンテナしていたのです。日本だと、30年ほっておいたら林になってしまいます。

    ところで葺石の間から出てくる雑草はどうしていたのか。涼しくなって、やっと庭の雑草の猛威から解放されつつある身としては、そういうつまらんことを考えております。
    春秋のお彼岸あたり、作った時と同じくらいの人数で、横一線で雑草をむしったのかな。夏は葺石の照り返しで勘弁。我が家のお墓とは違うかな、などなど。
    2021年10月24日11時11分 返信する
  • 1974年シベリア横断パリ行き

    しにあの旅人さま

    こんにちは。
    ご無沙汰しています。

    「むかーしムカシ、青春があったとさ-1 1974年シベリア横断パリ行き」の旅行記にお邪魔しています。
    1974年当時、個人で外国に行くってすごい決断のいる時期ですよね。
    費用もかかるし、・・・
    外国に行くということは、憧れでした。
    「80日間世界1周」のテーマ曲、「Around the World」も夢があって好きでした。

    5000トンの船で、横浜から2月の日本海を横切ってナホトカまで、さぞかし大変な航海だったでしょうね・・・
    まだ海外旅行が一般的ではなかった頃、鹿児島から5000トンの船で奄美諸島を旅しました。
    奄美、徳之島、沖永良部などの離島も当時はマイナーでした。(今も?)
    外海に出ると波は高くなり、船酔いも大変で、食事にも行けませんでした。
    でも、離島に魅せられ2年連続で行ってしまいました。
    若かったなぁ。

    >片道切符でヘルシンキまで来たけれど、その後の予定なし。お金もあまり持っていない。なんの目的でここに来たか、

    なんのために、ヘルシンキまで行ったのでしょうね・・・
    目的もなく、お金もあまり持っていないって、信じられません。

    フィルム時代の写真をここまで再生し、旅行記を作り上げたのはご立派。
    私はネガは袋に入ったまま、どこかにしまいこんであります。
    続きも楽しみにしています。

    hot chocolate
    2021年10月18日13時28分返信する 関連旅行記

    Re: 1974年シベリア横断パリ行き

    外国に行く決断も何も、とにかく出てしまいました。若さというのは恐ろしいもので、先のこと何も考えずに実行でした。今やれといわれたら、やりません。このシリーズは全部そういう無鉄砲な若さと馬鹿さの旅の記録です。

    旅そのもは、楽しいだけで、つらいとか大変とか思ったことはありません。とにかく無謀な若さなのです。初めての外国ですから、見るもの全部面白いのです。いってみれば、子供のような真っ白な感受性、でしょうか。
    今はもう、ああいう新鮮な驚きはありませんね。

    片道切符でヘルシンキまで来た人、その後の消息はないのですが、彼も若かったし、なんとかなったと思います。
    ツアーの皆さん、確固たる目的があったのかな、強いていえば、外国に出ることそのもが目的だったのではないでしょうか。目的は走りながら考える。

    古い写真、ネガは、By妻が整理しておいてくれたので、なんとか今まで持っていました。
    By妻はこのシリーズのもう少し先で出てきます。

    古い写真を使った旅行記も面白いものです。4トラの皆さん、旅行に出られないので、古い旅行記をバンバンupしています。
    ネガの入った袋を探し出して、センチメンタル・ジャーニーをやってみませんか。
    2021年10月18日16時54分 返信する
  • もしやこうだったんじゃ?

    たぶんこうだったんじゃ?→もしやこうだったんじゃ?→ぜひこうであってほしい!の願いもむなしく、せいぜい見つかったのは、讃良椿と書かれた石碑…。
    そこらに転がってる石ころで、一千年の歴史を語るしにあさんご夫妻の面目躍如?

    薬師寺の龍王社、若宮社が大津皇子を祀る神社、と関連付けるいくつかのブログをもとに、ここを訪れられたと。ただし、文献上の根拠のないブログ。しにあさんでも、こういう怪しげなモノに心くすぐられる事が?

    例外としてあげられている、奈良6大寺大観 薬師寺を調べての続報に期待したい♪
    大津皇子鎮魂のお社と言われている龍王社の近く、直線距離10mにある石碑に、「讃良椿」、の文字?って事は、たとえ現時点では「ただの通説」でも、何かこの場所と「悲劇の大津皇子」を関連付けたい!という強い意志が感じられませんか? 通説を信じてここを訪れ、この石碑の「讃良」という文字を見たら、誰だって「やっぱりね~、こんな処まで讃良、持統天皇は大津を見張っているのね!」と思うはず…。そんな名前の椿をわざわざココに植えたのはだあれ?

    『奈良大がナイトレッスン古代ミステリー 薬師寺建立の謎と悲劇の皇子』url 飛んで、ざっと(あくまでも、ざっと、です)みましたが、これが、面白い!『懐風藻』に大津皇子評して、「すこぶる放蕩にして法度に拘らない」→勝手気まま、自分の思うままに振舞って、規則に縛られない、とあり、天武天皇は、「創業は易く、守勢は難し」と、王権を確立したら安泰にして行こう、と考え、ならばトップには英雄型より体制維持型、勝手気ままに振る舞い規則なんてお構いなしの大津より、平凡な草壁が周りの補佐を受けて行う方が適している。草壁君の立太子と共に、律令制定、法令発布の命令を出している事を鑑みても、法によってきちんと秩序を守って行こう!と志したのでは?
    と、書いてありました。私にとって、大津皇子のキャラ、イメージが変わる説(笑)
    皇位継承順位は持統天皇1人で変えられるものではない、とも。

    フィールドノートで、これまでにどれだけの現地リサーチをなさって来たのか、の一端を垣間見させて頂き、改めて、頭の下がる思いでございますm(_ _)m
    2021年10月14日09時02分返信する 関連旅行記

    Re: もしやこうだったんじゃ?

    「讃良椿」の石碑はビックリぽんでした。行ってみるとこういう面白いものにぶつかります。
    この石碑を建てた方のブログへのリンクが切れていたのは残念。なんで建てかのかな。
    龍王社を大津皇子と結びつけるブログでは、龍王社は元々もっと東の現観音池があった所にあって、鎌倉時代に現在地に移ってきたというのがありました。というと東院堂と同じなんです。東院堂も同じように鎌倉時代に移ってきたのです。
    東院堂は長屋王の妃で、長屋王の変で自殺に追い込まれた吉備内親王が発願したものです。怨念ですよ~。それと大津龍王社、讃良椿、ぞくっとしませんか。
    石碑を建てた人は、私がよからぬシナリオを描いたのと同じようなことを考えたのかもしれませんね。
    「何かこの場所と「悲劇の大津皇子」を関連付けたい!という強い意志が感じられませんか?」kummingさんに激しく同意。
    遣隋使云々は世を忍ぶ仮のお話。

    東院堂をここに移設したときは今と違って南面していました。つまり大津龍王社を見下ろしているわけ。吉備内親王は持統天皇のお孫さん、ばあちゃんを守らねば! という意思を感じるという筋書き。
    当初、何かこじつける材料があれば、こういうシナリオを考えていたのであります。
    全部、ぱあ。残念でした。
    潔く尻尾を巻いて退散でした。
    2021年10月14日17時07分 返信する
  • 薬師寺に。。。(O_O)

    こんばんは、しにあさん。
    薬師寺の南門、入ってすぐの場所に「龍王社」があったのですねぇ。
    これは気づきませんでした!
    しかも、そこから十メートルほどの所に「讃良椿」と書かれた石碑!
    ぬぬっ!と思いますよね!
    大津もシツコイ(*_*)と思ったかも。
    いい加減にしてくれ、持統=鵜野讃良よ、我を抹殺しただけでは気が済まず、死後もずっとつきまとう気か(^^;)
    どうせならこの椿に「大来椿」と名付けてくれればいいのに。

    薬師寺の西に「龍王山」があるとのことですが、私は数年前の「山辺の道歩き」で、途中夏草に隠れた標識を見そこない、この龍王山に迷い込んでしまったのです!
    時間にすると一時間ぐらいのロスで、真夏の暑さで熱中症寸前となりました(~_~;)
    その時の旅行記は、以下です。

    https://4travel.jp/travelogue/10809488#bbs

    考えようによっては、大津に呼ばれたのかも(^◇^;)
    それにしても薬師寺では、大津に結びつく痕跡は見られませんでしたか。
    好きな寺なので、大津と関連があれば、なおうれしいのですが。

    しにあさんご夫妻の調査徘徊旅、たまには空振りの時もおありのようで。^^;
    でも今までの調査妄想等々、論文として出版できるのではないかと。
    けっこう期待しております(^_^)v


    前日光
    2021年10月13日23時42分返信する 関連旅行記

    Re: 薬師寺に。。。(O_O)

    龍王山遭難寸前記、しばらく前と、今回の大和寺社参りの参考の2回、読んでおります。
    ご苦労様でした。
    龍王山には龍王神社らしきものがいくつかあるようです。こっちの方が本場みたい。

    この山辺の路を見下ろす龍王山は立派なお山ですが、薬師寺西には山なんてないですよね。もし現在の西波天神社のあたりとすると、こんもりした丘程度。
    大池のほとりにあります。この大池は万葉集にも「勝間田池」とかいう名前で出てくるそうで、古いため池らしい。16世紀に雨乞いの龍神様を祀るお宮を作ったんじゃないでしょうか。
    それを明治維新後に現在地に移したというのが、事実のようです。
    なんとも散文的でロマンがない。
    事実は必ずしも面白くないのです。

    薬師寺再訪(再々○訪?)の際は、龍王社、若宮社と一緒にお参りください。龍王社となりの東院堂はそこそこ参拝者もありましたが、こちらには誰もきませんでした。

    讃良椿はびっくりしました。偶然の発見でした。「ウッソー!」という感じでしたね。
    当初、元薬師寺に大津さんの鎮魂の何かがあって、それが薬師寺に移ったというシナリオでしたから、「讃良椿」の石碑を見つけたときは色めき立ちましたが、詳しく調べたら、石碑は新しいし、全部パアー。
    歴史の旅というのは、事前に何かシナリオがないと成立しませんが、今回ほど当てが外れたことはありません。
    それも、また、おもしろい。

    東院堂は吉備内親王の建立、根拠はなくても大津由来の龍王社、讃良椿、とくれば、因縁話が山ほどできそうです。
    新しい奈良観光の目玉、にはなりません。
    2021年10月14日07時01分 返信する
  • 礎石が民家に隣接!

    こんばんは、しにあさん。
    「本薬師寺跡」とは、またシブイ所に向かわれたようで。
    自分の家を造ろうと思って工事していると、ザックザクと遺跡が。。。(^^;)
    奈良のあるある話ですね。
    すると、長屋王の屋敷跡は今スーパー(でしたっけ?)の入り口近くに、石碑だけがありますが、あれなんてどうだったのでしょう?
    掘っていたらどうもそうじゃね?となって、でも長屋王だから、反逆者だし。。。ま、いっかってなったのでしょうか?

    それにしても、あの天武天皇が持統天皇の病平癒のために建立した本薬師寺でしょ?
    民家隣接の状態で礎石が転がってていいんでしょうか!
    一つ一つ保護していたらキリがないわい!とウヤムヤにして、オウチを建てちゃったの?
    うーーん( ̄∇ ̄)、なんてこった!

    ところで本日は10月3日、大津皇子が刑死した日ですね。
    でも新暦ですから、実際の10月3日って、今の10月25日くらい?
    こうして大津くんのことを話題にしている日が、10月3日(新暦だけど)ってことに因縁を感じます。

    コロナでなければ、この辺りにはホテイアオイが咲いているのだとか、あれ、きれいですよね!せめてあの薄紫の花が咲いていてほしかったな、なんて思ったりして。

    せっかく訪れたのに、この本薬師寺跡に大津皇子の痕跡を探し出すことはできませんでしたか。
    しにあさんにしては珍しく、妄想発揮の機会も、なんとか大津と結びつけることもできませんでしたか。
    残念ですが、調査にはそういうこともままあるのですねぇ。


    前日光
    2021年10月03日23時58分返信する 関連旅行記

    Re: 礎石が民家に隣接!

    そうでした、持統元年10月3日、運命の日でしたね。前日光さんの計算間違いなく、西暦では686年10月25日です。
    10月3日、この日に大津の皇子の話をするなんて、本当に因縁ですね。気がつきませんでした。

    本薬師寺はシブかったですね。シブすぎた感じです。橿原市も、本薬師寺まんじゅうを売れとは言いませんが、もうちょっとなんとかしてほしかった。
    歴史ロマンの塊みたいな石ですが、ごろごろ。
    荒城の月ではなくて、詩情もない。でもこういうところが、奈良旅のいいところかもしれません。そっちの想像力で勝手に旅をしろ、と言われているのでしょう。

    長屋王の屋敷跡はナラ・ミナーレとかいう複合商業施設です。遺跡が出てきたのに、かいつまんで建物を建ててしまった。それでそのあと、中に入ったデパートだかなんだかがふたつも潰れたという話です。
    私なら、日本三大怨霊の跡地なんかに絶対に建物を建てません。
    私たちは中に入らなかった。前日光さんもいらっしゃるなら、お浄めの塩を忘れずに。

    今回は空振りでした。大谷くんじゃないので、毎回ホームランというわけにはいきません。
    それも、また、旅。
    2021年10月04日06時03分 返信する

    Re: 礎石が民家に隣接!

    大手町に将門の首塚があります。あのあたりは外資系企業の巣ですが、首塚に背を向けて座ることはしないそうです。
    2021年10月05日12時15分 返信する
  • フィールドノート♪

    しにあさん、by妻さん、こんにちは♪

    遺跡巡りの面白い処は、あるいは困った事は、行ってみると何もない事。田んぼ、道路、ただの原っぱ♪ とはしにあさんのお言葉ですが、私たちはその“何もない処”から語られる、正史にない歴史を楽しませて頂くという、特権を享受しております。

    歴史の影に埋もれた悲運の人々を浮かび上がらせる凄技についてはもちろん、もう一つ忘れてはならないのが、場所を比定(というのですか?)する、推理してご自分たちの脚で特定する、その過程、熱意には、毎度恐れ入るばかり(°_°)

    振り返って、昌福寺=夏見廃寺(このシリーズを象徴する?)、大宇陀の阿紀神社(手水舎の小川端にかけられた真っ白な手拭きから、朝晩心を砕いて下さる方がいらっしゃる)、天武チルドレンを追って文弥麻呂の宇陀市史跡整備(お墓への道しるべと手書きの案内)、壬申の乱の激戦地、藤古川、不破関、村国連男依を祀る村上神社、草壁皇子所縁の東明神古墳と嶋の宮、文武天皇陵墓中尾山古墳、などなど…。

    遡ればもっと以前から、しにあさんby妻さんのこの現地ルポシリーズは始まっていますが、大体、駐車場が狭い、とか、近くになくてたくさん歩いた、とか車が通れる?道なき道を進んだり、目的地に辿り着けるのか?という処から帆走して、その先に開けた光景を、共に清い心で迎える、という展開を堪能♪

    そんな中で、このフィールドノートは、比較的“たぶんこうだったんじゃない”劇場から漏れてしまいそうな、どぜうがいなかった編?

    本薬師寺跡も奈良という掘れば遺跡にぶつかる!という遺跡群でなければきっと、もっと大切に指定保存公開、されるのかもしれませんが、そうなって観光地化して失われるものもある、と思うと、このまま“好きもの、マニアの聖地”的な在り方があってもよろしいのでは。

    ブログ毎に丁寧な地図で訪れた場所を教えて頂き、地図音痴ながら懸命に確認させてもらっていますm(_ _)m この全体像、しにあさんby妻さんのフィールドワークを網羅するような地図、見てみたい♪(←独り言です、気にしないでね!)
    2021年10月03日10時49分返信する 関連旅行記

    Re: フィールドノート♪

    私たちの縦の旅の目的をしっかり読み取っていただいて、嬉しい限りです。これからもリキを入れて、旅を続けます。

    フィールドノートは、おっしゃるとおり、どぜうがいなかったシリーズです。いたらもう、舞上がって、えらい騒ぎになっております。いなければいないで、淡々とそれをレポートするのもまた面白いかな。

    これは実は、コロナで中止したFD2の旅で、イエジからフォーリニョへの、コンラッド夫人と幼いFD 2の旅を辿ろうと思った時の手法です。山頂の古城、教会などを順番にあたって行って、 2人の旅の足跡が何かあればよし、何もなくてもそれを淡々と記録する。うまくいってもいかなくても、その過程を書けばいいんじゃないか。旅って、こういうものですよね。だからフィールドノート。
    旅の記録って、まとまらなくてもいいんです。
    その過程で、阿紀神社の禊の白い手拭いや、文弥麻呂のみちしるべみたいなもの出会えれば、ラッキー!

    縦の旅つまり歴史の旅は、あるシナリオがなくてはできません。そのシナリオを書くのが私の受け持ちで、その場の感想を書くのがBy妻、という役割分担ができつつあります。

    kummingさんの最新ブログも同じ方針ですね。凹んだやかん(きゅうす?)が印象的でした。そういう書き手の印象を並べていく。でも、これって、当たり前。
    要は、印象をどんなふうに切り取ってくるかですね。
    2021年10月04日05時26分 返信する

    Re: フィールドノート♪

    前日光さんからのご指摘がありました。10月3日って、大津の皇子の命日でした。持統元年686年10月3日です。
    2021年10月04日05時43分 返信する

    あの世とのご縁かも?

    おはようございます♪
    まじですか? 前日光さんのご指摘、すごいっ(°_°)
    (新旧暦はおいといて)これって何か因縁、縁を感じてしまいませんか?
    「何か知らんけど、地上でおれっちの事で、わいわい騒いでるみたいやで~」と、あっちの世界(あの世、黄泉の世界)で話題になってて、持統、天武、大津、大来、草壁君などなど、このシリーズ登場の方々から注目されているのかもしれません!あの世との縁を繋ぎ、寝た子を起こす、しにあさんby妻さんの熱意、効果は絶大です♪
    出来る事ならもう一度、乞う、FDIIの蘇りを^o^

    ご指摘頂いた、急須→やかん、は後ほど訂正しておきます~
    2021年10月04日08時42分 返信する
  • まるはの赤だし

    しにあの旅人さま

    こんばんは。
    お若いお二人のモロッコ旅行の旅行記にお邪魔しています。

    ひょんなことから近江商人のモロッコ旅に同行することになったお二人、
    45年前のモロッコならばさぞかし大変だったのではないかと思います。
    その分、思い出に残る旅になった事でしょう。

    >食堂で御飯も食べられませんでした。注文して持ってこられた皿は、まっ黒に蝿がたかっています。私たちは、コーラで命をつなぎました。

    ☆私が最初に行った2006年の時でも、それはなかったですが、さすがに私も食べられないでしょうね。
    私は、ハエではありませんが、20年前に行ったエジプトの暑さにやられ、食欲もなくなって、毎日スプライトで生きながらえました。

    トルコ語で「メルハバ(こんにちは)」と言うのがありますが、アラビア語で「マルハバ」も「こんにちは」ですよね。
    多分、「まるはの赤だし」は、「こんにちは、ようこそ」のような気がします。
    「まるはの赤だし」を知っていれば、旅先でいっぱい使ったのに!
    コロナが収束したら(するのかな?)、またアラブ圏に行く予定なので「まるはの赤だし」使ってみよう!

    >皿をポリバケツの水で洗います。水?元水です。
    それを布で拭きます。布?日本ではあれは雑巾という。

    2016年のモロッコ(アルジャディーダ)で、街でザクロのジュースを売っていました。
    美味しそうだったので1杯頼んだのですが、前の人が飲んだコップをバケツの水でさらっとゆすいでいました。
    バケツの水は元水でもなく、雑巾で拭いてもいませんでしたが、半分残しました。
    マイコップか紙コップを持って行こうと思いました。(でもきっと忘れて持って行かない)

    モロッコの旅行記を、楽しませていただきました。
    第1話から読ませていただきます。

    hot chocolate
    2021年09月25日02時56分返信する 関連旅行記

    Re: まるはの赤だし

    若いということは、恐ろしいものです。何も怖くない。正面攻撃あるのみでした。今は、誰の話? という感じです。

    私たちはフランスからモロッコに行ったので、衛生観念は鍛えられていました。パン屋にバゲットを裸で渡されても、動ぜずそのまま小脇に抱えて帰ってくるところでした。
    日本から直接だと、モロッコはちょっと厳しいかも。

    メルハバとマルハバは同じですね。赤だしも多分「ようこそ」で当たらずとも遠からず。
    効果抜群でしたから、次回のアラブ旅行でお試しください。

    アラブ圏がお好きだとか。中近東の旅行を書かれていますね。読ませていただきます。
    私たちは今のところ、海外はヨーロッパ専門です。今回のコロナ騒ぎで来年、その次も旅行は無理でしょう。3年位ロスするので、その後エジプト、トルコも行きたいのですが、体が動くうちに行けるかな、と思っています。
    2021年09月25日08時19分 返信する
  • 調査発掘の旅!

    しにあさん&by妻さん、こんばんは。
    今回は、特にby妻さんの琴線に触れる発見が多々あったようですね。
    加守廃寺が掃守寺と同一と分かったときの興奮は、たとえ前もってそうじゃないのかな?と思っていたとしても、この上ないものだったことでしょう!

    それにしても「四天王堂」の近くの池(@_@)
    あのどよんと濁った池の感じは、東出雲にある「黄泉比良坂」の脇の池と同じようですよ。
    あの世とこの世の境目に、濁った禍々しい感じの池がありました!
    何かいるに違いないというby妻さんと同じ感想を、私も出雲の地で持ちました。
    出雲の場合は、やっぱり大蛇が連想されますが、その池は小さかったので、せいぜい蛇くらいのレベルでしたが。
    でもよどんだ空気が辺りに立ちこめていて、最初に行った2006年(だったような?)頃は、本当に誰一人いなくて不気味でした。
    なぜかそこに私は三度も行っていますが、だんだんと整備されて観光客さえ来るようになり。。。今や普通の、神話を巡る聖地になってしまいました。

    この加守廃寺の池も、もっと分かりやすくした方がいいですね。
    こういったおどろな雰囲気が漂う所は、大津皇子事件にさらなる陰影を与えるでしょうから。

    ところで私は今まで、二上山上にあるお墓が大津皇子の墓であると信じて疑いませんでしたが、しにあさんのこの一連の古代史シリーズによって、宮内庁の言うところの天皇家のお墓はあまり信用できないのだなと思うようになりました。
    で、そういう調査系のことは、私はどうも向いてないようなので、そちらはしにあさんやby妻さんにお任せして、もっぱら妄想に走ることを専門としたいと思います(^^;)

    そうなると気になるのが、金銅製骨蔵器 です。
    昭和20年に、地下10センチメートルから発見されたとか。
    これが古代の物だと言うことは、証明されているのですよね?
    だとしたら、その中の火葬骨はいったい誰なのか?
    二上山、しかも加守廃寺の近くで発見されたというのであれば、すぐに短絡的に大津か?と思ってしまいそうです。
    古代人は、火葬というものに対して拒否感が強かったことでしょう。
    人間は元来大地と繋がった存在だから、死後は大地に戻るという発想は自然だと思います。
    しかし持統天皇でしたら、新しい考えを取り入れて、私が死んだら存在のすべてを消してしまって!未練たらしく時間をかけて大地に吸い込まれて行くよりは、焼かれて煙となって天上に昇る方がいいわと言ったかも。
    大津はどうだったでしょう?
    もし火葬という風習が一般化していれば、彼も積極的にその方向に従ったと思うのですが、火葬がいつ頃から始まったのかというのは、なかなか難しいところですね?

    という風に言い出すとキリがありませんので、この辺にしたいと思います。
    しにあ流「種々の文献や現地調査から出来事を類推し、ホントはこうだったんじゃないかという事実を導き出す手法」は、毎度感心させられっぱなしです。
    今後も多くの「こうだったんじゃないか劇場」に期待しております(^_^)v


    前日光
    2021年09月23日00時04分返信する 関連旅行記

    Re: 調査発掘の旅!

    このシリーズはフィールドノートとしたくらいで、さらっと現場調査記録にしようと思ったのですが、小笠原氏の本やら、葛城市博物館の金銅壺などが出てきて、そうもいかなくなりました。

    骨蔵器は、詳しいことはわかりません。しかし東博が重文として保管し、複製まで作られているので、古代のものではあるでしょう。
    加守寺が廃寺となるは、早くて9世紀前半だそうです。したがって、この骨蔵器も下限そのくらいのものだということです。
    長六角堂の北、北遺跡には薬師寺の塔に匹敵する立派な塔があったそうです。8世紀半ばに作られて9世紀初めまではあったらしい。
    加守寺は掃守氏の氏寺と考えられているそうです。この一族は古代ではあまり有名な一族ではなくて、そんなマイナーな一族が大きなお寺を長く維持できたとは思えません。
    なんかで、一時期バブっていたのかな。

    結局詳しいことはわからないのです。ただ小笠原説とこの壺を結びつけて考えた学者は、まだいないみたい。誰かやってくれませんかね。証明できれば、博士論文クラスだと思うのですが。
    出てきたところがわずか10センチの土の下で、周りに土盛りなどがなかったといのが、なんか作為っぽい。
    このへんが、学者が研究しない原因かもしれません。

    二上山てっぺんの土盛りが大津皇子陵ではないのは確実と思います。あそこに山城があったのは間違いなく、もし仮に陵があったとしても、蹴散らされて今は何も残っていないでしょう。砦の見張り台の土台というのが、合理的。
    ロマンのかけらもありません。

    大津くんが祟ったという話が当時あってもおかしくない。祟る霊を焼いて祟りを断つ、という発想が当時あったとしたら、大津皇子を火葬する理由になるのですが。
    ただ持統さんという人はものすごく合理的な人で、祟りなど恐れていなかったと思うのですが。
    自分の遺体だって、火葬して、キレイさっぱりパーよ、っていう人ですからね。
    唐舶来の白粉を愛用していたくらいで、新しいもの好きみたいだし。

    あの沼は本当に不気味ったらしい。好きではありません。どこかでみた感じだなと思いましたが、黄泉比良坂か、そんな感じでした。気色悪い沼でした。
    あそこが今や、神女が出没する神話の聖地になったのですか。おどろおどろしいところがいいので、「意味ないじゃん」という感じです。
    神女は私の造語で、歴女からの類推。「しんじょ」「かみじょ」読み方はまだ決まっていません。神話が大好きなキャピキャピの娘さん。出雲には特に多い。縁結びの本場だから。
    2021年09月23日12時35分 返信する
  • スクープ⁈

    しにあさん、by 妻さん、こんばんは。(あ、by夫さんby妻さん、と言うべき?)
    もしかしたら、特大スクープになりかねない新説♪

    地図上に見つけた加守廃寺が掃守寺と見切り、現地では大津皇子の鎮魂の寺であった目に見える証拠はなかった、にもかかわらず、そこに小笠原氏著「奈良の古代仏教遺跡」という救世主が現れた⁉
    何だか出来過ぎ?な気がしないでもない、ですが、ココ、と見定め二匹目のどじょうを狙ったしにあさんの熱意が呼び寄せた、ご縁、かと存じます。

    加守廃寺で検出された長六角形基壇も、二上山に埋葬された大津皇子を弔う為に、新たに構築した可能性が少なくない。薬師寺縁起に記された掃守寺=加守寺、だった。

    ここまでは、しにあさんの推理、どんぴしゃり!

    あとは、寺の向きと、大津皇子のお墓とみなされる方向が、合致しない、という事ですか?
    金銅製骨蔵器、(今の骨壺みたいなもの?)復元されたものを見る限り、相当高貴な方のものではないか、と見受けられますが。

    問題は、持統天皇が日本初の火葬だった、という説をひっくり返せる新たな証拠、どこかに眠っているかもしれません⁉

    私の理解力不足ですが、六角形の建物基壇場に建っていた六角形の平面形を持つ建物のその平面形が、當麻曼荼羅を納めた厨子の形を想起させる、ってどういう事⁇

    ドローン撮も堂に入って、BGMも素敵ですねぇ(^^♪
    2021年09月21日22時33分返信する 関連旅行記

    Re: スクープ⁈

    火葬の起源について、本文骨蔵器の写真の後に、解説を入れました。この件、一応調べてああったのですが、煩雑になるので省いておりました。しかし持統天皇の火葬は有名な話ですから、元に戻しました。

    當麻寺の當麻曼荼羅を納めた厨子と長六角堂が似ている件ですが、この話をここですべきか、このずーと後の大和国寺社参り當麻寺でやるべきか迷ったのですが、當麻寺でやります。當麻寺はあんまり書くことないし。どっちかがどっちかに影響を受けた、のではないかという筋書き。

    今回は2匹目のドジョウを逃して残念。夏目廃寺みたいなのがあると思ったのです。その代わり骨壷が出てきたので、まあいいか、という感じです。
    本来はこのブログ、骨壷の話はなかったのです。さア、これでアップしようかと思って、なんとなく葛城歴史博物館のカタログを見ていたら、見つけちゃったのです。で、全文書き直し。
    飛鳥の次は葛木もありかな、と思って、博物館で資料を買い漁ってきました。先の話なので、読んでいなかったのです。
    最近、関連する博物館には必ず行くようにしています。損したことない。いつもびっくりするような掘り出し物がいっぱいです。
    2021年09月22日10時57分 返信する

しにあの旅人さん

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うーん、何か気の利いたこと言わなければと、思うのですがね。

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